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「日本近代美術史論」を読む 3 高橋由一「花魁」は凄い  タンザニアの作家

2024-04-13 21:19:54 | 日記
A.由一「花魁」をみた!
 いま、上野の東京芸術大学大学美術館で「大吉原展」が開催中(5/19まで)で、ぼくも先日そこへ行って展示中の高橋由一の「花魁」1972(明治5)年の現物を見てきた。吉原を描いた浮世絵などの展示が中心なので、その中にほぼ唯一の油絵で描かれた「花魁」はたしかに別格の異彩を放っていた。鼈甲の簪と笄を頭にたくさんさして斜め横向きの顔を見せ、豪華な衣装を着た花魁の迫力は凄い。これは浮世絵や伝統日本画とは明らかに違う絵だが、いわゆる西洋の油絵の絵具で描かれているものの、「洋画」といえるだろうか?
 高階秀爾『日本近代美術史論』の冒頭、欧州での留学を終えて日本に戻った高階氏が、鎌倉の近代美術館でこの絵に出合った時の衝撃と違和感について語った文章を読んだところだったので、なるほど、これは日本人が描いた「洋画」のはじまりという見方もできるが、洋画の技法で描いた「日本画」ともいえるのかもしれないと思った。写実の迫真力でもあるが、陰影や奥行きはほぼない。由一は、いわゆる西洋のルネサンス以後の名作といわれる絵画の現物を見ていないし、海外とくに欧州に一度も行っていない。そのことがどういう意味を持っているか、由一が西洋画を学びたいと思ったきっかけが、「洋製石版画」を見たことになって、それがいつのことだったか(嘉永年間か文久年間か)について、えんえん討究した後で、この「花魁」と「鮭」連作が特別な意味を持っていることを、高階氏は論証した。その結果、今回の展示でも「花魁」は明治五年の作品だと書かれていた。

「由一は明治十年以前においてもかなりの数の風景画を残しているが、「鮭」「豆腐」図等において写実主義の極致に達した後、晩年十数年間の作品は、ほとんどすべて風景画ばかりである。そしてこれら晩年の風景画は、有名な「不忍池」にしても「浅草遠望」にしても、さらには土方定一氏が「ルソーを思わせる」と称讃する「宮城県庁門前之図」でさえ、巧みな画面構成で破綻なく画面を纏め上げてはいるものの、「花魁」や「鮭」連作に見られるあの厳しい造形力はもはやそこには見られない。五十の坂を超えてから、由一は急速に文字通りの「アカデミズム画家」に変質して行ったように見える。目の前のものに対するかつてのあの恐ろしいまでの執念や、その表現における激しい気魄は、いったいどこに行ってしまったのだろうか。
 端的にいって、私は、由一のこの変化こそ、「西洋画」との接触が彼にもたらした唯一の明白な結果であると思う。
 もちろん、私は、好んで奇異の論を説こうとするのではない。また、画学局に入る前に由一が体験したあの「洋製石版画」との出会いを忘れたわけでもない。たしかに「花魁」や「鮭」の作者の修行時代には、オランダ渡りの石版画との出会いがあり、それが彼の生涯に決定的な重みを持ったように見える。しかし、その石版画は、土方氏も指摘する通り、オランダ渡りとはいってもレンブラントの版画のようなものではなく、いずれ通俗的な三流作品であったに違いない。そのような安物の版画が、なぜ由一にとってあれほどまで重要な意味を持ったのだろうか。もちろん由一がその石版画に接する以前から、あるいは自ら意識はしなかったにせよ、そのような現実描写の世界を求めていたからである。芳賀徹氏が先に触れた論文の中で喝破しているように、「由一は日ごろこの迫真の美」を「わが画境のうちに実現したいと願っていた」からこそ、通俗的なオランダ渡りの石版画にも雀躍したのである。
 この間の事情は、ちょうど同じ頃、日本の「通俗的」浮世絵版画がフランスの印象派に影響を与えたのと似ている。由一が安物の「洋製石版画」に驚喜したというエピソードは、ヴァン・ゴッホが安物の浮世絵版画に感激したというあのエピソードを思い出させる。ゴッホも由一と同じように、通俗的な日本版画について熱狂的に語り、おそらくは「忽チ習学ノ念ヲ起シ」て実際に浮世絵の模写を試みたりしている。しかし、それにもかかわらっず――というよりも当然のことながら――ゴッホの生み出したものは浮世絵の世界ではなく、西洋絵画の歴史のなかにこそその場所を持つべきゴッホ自身の世界であった。動揺に由一も、「洋製石版画」の世界を追い求めながら、実は自分自身の世界を作り上げていたのである。少なくとも「花魁」や「鮭」まではそうであった。「花魁」の画面を支えているおよそ非西欧的な感受性の存在が、はっきりとそのことを物語っている。
 印象派のグループの中心人物であったカミーユ・ピサロは、息子リュシアンに宛てた手紙のなかで、日本の浮世絵版画は、印象主義時代に自分たちが求めていたものを「確認」させてくれたと述べている。つまり浮世絵の影響は、すでに彼らが自分たちだけで求めていたものの裏付けを与えてくれたというのである。事実そうでもなければ、浮世絵版画があれほど短い期間に、あれほど大きな影響を与えることはできなかったであろう。
 由一と「洋製石版画」との関係も、ほぼ似たようなものと言ってよい。オランダ渡りの石版画は、そうでなくても由一の内部において次第に明確なかたちを取りつつあったものを、いっきょに結晶させる刺戟となった。あるいは、すでにほとんどいっぱいになっていた容器を溢れさせる最後の一滴のやくわりをはたしたとも言える。というのは、目の前の現実を正確に観察し、そして観察したものを精密に表現するということは、すでに十八世紀以来、わが国の絵画が、少なくとも一部の先覚者たちにおいて、一貫して求め続けて来たものだったからである。
 明治二十六年、すなわち由一の死の一年前、彼は天絵学舎の旧門人一同とともに、東京築地において「油絵沿革展覧会」を催したが、その際彼は、自分の若い時からの作品とともに、油絵表現における先覚者として、司馬江漢、亜欧堂田善、北斎、文晁、杏所、川上冬崖、ワーグマン、フォンタネージ、国沢新九郎、横山松三郎等の作品をもあわせて陳列されたという。当時の新聞の伝えるところによると、なかでも「場の正面に肖像を掲げ清酒を供えて祀れる者三、司馬江漢、川上冬崖、及びホンタ子ヂー」であったという。(芳賀徹氏前掲論文参照)
 由一晩年のこのエピソードは、江戸末期から明治にかけての洋風画の発展の歴史のなかで、由一自身自分の役割をどのように考えていたかをはっきりと示していて興味深い。特に、同時代人であった冬崖、フォンタネージは別として、由一自身が生まれるより十年も前に世を去っている司馬江漢に対し、「正面に肖像を掲げ清酒を供えて祀」ったということは、彼が自分自身を、十八世紀後半以来何人かの先覚者たちのうちに目覚めはじめていた近代的実証主義の精神の後継者と認めていたことを物語っている。かつて江漢においてそうであったように、由一においても、洋画の修業は、現実世界のいわば「解体新書」にほかならなかったのである。
 良く知られているように、由一は自分のこのよううな精神的祖先ともいうべき司馬江漢の肖像を残している。といっても、もちろん江漢と面識のあるはずはないので、岐阜の司馬家に伝えられていた江漢自身の自画像に依拠してこれを描いたのであるが、それほどまでしてこの先人にオマージュを捧げようとする由一の熱意は、彼の江漢に対する尊敬の念と江漢への負債に対する自覚とを明瞭に示している。事実、由一が画学局に入学後まもなく(慶応元年冬)「画局ノ隆盛ヲ計ラント欲シ」て画学局の壁に掲げた有名な次の「的言」のなかには、江漢の思想の明白な反映が見てとれる。

「泰西諸州ノ画法ハ元来写真ヲ貴ヘリ眼前の森羅万象既ニ皆造化主ノ図画ナレハ写照スル所ノ像ハ則人功中筆端ノ小造物ナリ夫図画ハ文字ト用ヲ同フスト雖モ文字ハ只事ヲ誌スノミ其形状ノ細微ニ至テハ画ニ非サレバ之ヲ弁シ難シ‥‥‥(中略)‥‥‥和漢ノ画法ハ筆意ニ起リテ物意ニ終リ西洋画法ハ物意ニ起リテ筆意ニ終ル筆意ハ物ヲ害シ物意ハ筆意ヲ扶ク筆意ハ輪郭ノ経ニ起リ物意ハ濃淡ノ陰ニ発ス是ニヨリテ洋画ノ奇巧ヲ述ルトキハ宇宙の瞑々暗々タルモ日月ノ光輝ヲ受ルニ当レハ直ニ凸凹遠近深浅ノ形状瞭然タリ是ニ着目シテ人為ノ画法ヲ悟明セリ故ニ画ニ三面ノ法アリ又之ヲ望観スルニ大図小図ニ依リテ遠近距離ノ別アリ然ル所以ノ者ハ固ヨリ理ヲ究メ致スコトナレハ真ニ逼リ妙ニ至リ活潑生動セント欲スルハ是レ写真ノ貴キ所タリ‥‥‥(後略)」

 すでにしばしば指摘された通り、この由一の「的言」のなかには、江漢の『西洋画談』の思想が――時にはその文章までが――ほとんどそのまま生き続けている。ここで由一の言いたかったことはひとつには絵画とは決して単なる遊びではなくて「治術ノ一助」となる実用的なものだということであり、もうひとつは、そのためには明暗や遠近を的確に表現することのできる「洋画の奇巧」を学ばねばならぬということである。このような実用主義的、功利主義的絵画観は、江戸末期から明治初年にかけての画家たちに共通のもので、そのことはそのまま、当時の西欧文明輸入の一般的傾向の反映でもあった。そして江漢以来受け継がれてきたこの思想は、明治初期の日本洋画に少なくともひとつの際立った特色を与えた。それは「洋画」の導入が、必ずしも従来の伝統的画法を維持することを妨げなかったということである。おそらくそこに、由一の「花魁」や「鮭」の緊密な画面の生まれてくる基礎があり、同時にまた、晩年の彼の変質謎を解き明かしてくれるひとつの鍵があるのである。
 明治初期の洋画の輸入について語る時、われわれはまず由一の先輩の川上冬崖から始めるのが普通である。事実冬崖は、安政四年、蕃書調所のなかに絵図調方が置かれた時その絵図調所出役となり、次いで文久元年、画学局が設置された時、画学局出役となっている。由一が文久二年に画学局に入学した時、彼の指導にあたったのがこの川上冬崖である。
 しかしながら、冬崖は厳密な意味では「洋画家」ではなかった。むろん、蕃書調所にはいったということは、正式に西洋絵画の研究と指導の役割を与えられたことであり、事実冬崖は、油絵具の材料もないような時代に、西欧の絵画入門書を頼りに苦心惨憺しながら少しずつその技術を開拓して行くのであるが、しかし、彼の弟子であった松岡寿が後年、「一体川上先生は文人画では有名な人であったが、洋画は蘭書を見て教えるので実地の技法はあまり達者ではなかった」と回想しているように、もともとは洋画家というよりは南画家であった。彼は大西椿年、小田蒲川等について南画を学び、蕃書調所にはいってからも、ずっと南画を描き続けた。多くの苦労を重ねた洋画の研究は、彼の南画にはほとんど何の影響も及ぼしていないように見える。冬崖においては、純粋に実用的な技術としての洋画と、自己の趣味としての南画とが見事に截然と区別されていたのである。
 事実、冬崖は、徳川慶喜大政奉還後、暫くのあいだ沼津兵学校に招かれ、また明治五年には陸軍省兵学寮、明治九年には陸軍省参謀局、同十一年には参謀本部地図課という具合に、陸軍関係の仕事を転々としているが、彼のこの経歴は「洋画研究」なるものが当時どのような目的に支えられていたかを端的に物語っている。
 由一の歴史的意義は、河北倫明氏が「近代洋画の展望」(『近代の洋画人』中央公論美術出版 昭和34年刊に所収)のなかで正当に指摘しているように、冬崖においては「まだよくこなれあわぬ二すじ道の出来事であった」美術と技術とをひとつのものとして受けとめたところにあった。しかしその由一にしても、美術と技術とがひとつになっている西欧のオーソドックスな油彩画を正面から受けとめたわけではなく、通俗的な三流石版画やあるいは西欧の絵画入門書を通じて学んだ洋画の表現技法を、伝統的な感受性によって受けとめたのである。その伝統的な感受性というのは、ひとつには狩野派に代表されるような綿密な現実観察であり、ひとつには浮世絵版画に見られるような「平坦な色面」であり、そしてさらに、平賀源内や司馬江漢から受け継いだ実証的精神、いわば実学の伝統であった。洋画の技法を技法として受け入れる前に、これだけの基礎があったからこそ、由一の洋画は「花魁」や「鮭」において、西欧本来の油絵表現からややはずれたところで――まさにその「破格」の表現の故に――驚くべき高さにまで達することができたのである。
 したがって私は、「花魁」はもちろんのこと「鮭」や「豆腐」においてさえ、その「迫真的」な写実表現を支えたものは、西欧絵画の持っている写実主義の伝統ではなく、幕末から維新にかけての多くの知識人のなかにその同類を見出すことのできる実学の精神――合理的で実証的な思考法、先入主に捉われない即物的な認識態度――であったと考える。その意味でこれらの傑作は、まさに同時代の福沢諭吉の『文明論の概略』(明治八年)や、田口卯吉の『日本開化小史』(明治十年)や、久米邦武の『米欧回覧実記』(明治十一年)のなかにこそその精神的共鳴を見出すという芳賀氏の指摘は、きわめて適切なものであると私には思われる。
 江戸時代以来受け継がれてきた実学の伝統の上に西洋画の技法にもとづく写実表現を打ち建てるということは、その技法がまさに純粋の技法として――すなわち感受性の伝統から切り離されたものとして――受け入れられた時にはじめて可能となる。とすれば、由一が文久年間に始めて接したという西洋画が、三流の通俗的版画であってレンブラントではなかったということは、むしろ由一にとって幸運であったかもしれない。
 由一のように鋭い感受性に恵まれた作家にとって、レンブラントを見てそれを純粋に技法の世界だけのものとして受けとめることは困難であったに相違ないからである。もしそうであったとすれば、黒田清輝のように西欧の感受性そのものを移植しようと試みるか、あるいは劉生のように、西洋の感受性と日本の感受性との相克に悩むか、いずれかの道しかなかったであろう。その点由一が、(慶応三年の短期間の上海外旅行は別として)一度も海外に渡ったことがなく、実際に西欧の油絵の作例に接することがほとんどなかったということは注目すべきことのように思われる。あれほどまで洋画の技法を完全に自己のものにしたように見える由一が実際に見ることのできた西洋画と言えば、オランダの通俗的な石版画か、せいぜいのところワーグマンのような素人画家の作品に過ぎなかったのである。そしておそらくは、その事実こそが「花魁」や「鮭」の迫真的な表現を可能ならしめたのである。
 この間の事情を解明してくれるひとつの興味深いエピソードがある。木村毅氏の「ラグーザ玉伝」のなかに語られているお玉さんの言葉によると、由一があの「鮭」図を洋画の常識から言うと型破りの縦に細長い変形の画面に描いたのは、「油絵が横では、床の間に掛けるわけにも参りません、そこで柱に掛けるように、あの頃は、よく細長い板に描いたものです」という理由からだという(佐々木静一「高橋由一の鮭図について」早稲田大学美術史学会『美術史研究』第三号所収による)。おそらく黒田清輝なら、このような考え方はしなかったであろう。清輝にとっては、柱にかけるために細長い油絵を描くということは、油絵というものに対する冒瀆のように思われたに相違ない。それだけ由一は西欧の伝統に対して自由であり、清輝は西欧の伝統にとらわれていたということになる。」高階秀爾『日本近代美術史論』講談社文庫、1980.pp.27-35.

 由一が幕末にオランダの三流石版画を見て、自分の絵画観の方向性に大きなヒントを得たように、ゴッホや印象派の画家たちが日本の浮世絵版画を見て、その絵画観に影響を受けたことがちょうど鏡の裏返しのようにみることができる、という高階流の考察もなかなか鋭い。


B.タンザニアってどこ?
 アフリカ大陸には、いろいろな国があるが、タンザニアってどこにあるのかぼくらはよく知らない。真ん中のあたりにサハラ砂漠があって、地図を見るとその下を赤道が通っていて、東側のインド洋岸にケニアのナイロビという首都がだいたい赤道直下。タンザニアはそのケニアの南にキリマンジャロ山(5895m)とヴィクトリア湖で国境を接する大きな国(日本の面積の約2.5倍)だ。旧英国植民地でイギリス連邦加盟国なので、スワヒリ語と英語が公用語。首都は、1996年に議会が新首都ドドマに移されたが、実質的な首都はまだもとのダルエスサラームで、ザンジバルという港もある。しかし、これだけではどんな国なのか想像も湧かない。そこからノーベル賞作家グルナさんが出たということも、ぼくは知らなかった。作品は英語で書かれていて、日本では初めてその翻訳が出るという。
 スワヒリ世界、という言い方は、アフリカ東岸部で国を越えて広く使われている言語のスワヒリ語を使う地帯を意味する。ケニア、タンザニア、ウガンダ、ルワンダでは公用語となっている。スワヒリ語は東アフリカ沿岸地域の多くの民族の母語となっているバントゥー諸語の一つで、数世紀にわたるアラブ系商人とバントゥー系諸民族の交易の中で、現地のバントゥー諸語にアラビア語の影響が加わって形成された言語であり、語彙の約50%はアラビア語に由来する。

「少年の受難と成長 スワヒリ世界を映す :ノーベル賞作家グルナさん「楽園」初邦訳
 2021年にノーベル賞を受賞したタンザニア出身の作家、アブドゥルラザク・グルナさんの代表作「楽園」(白水社)が邦訳された。グルナさんの作品が日本語に訳されるのは本作が初めて。訳者で法政大教授(アフリカ文学)の粟飯原文子さんに、作家と作品の魅力を聞いた。
  訳者にきく 
 グルナさんは1948年に英保護領だった東アフリカのザンジバル(現タンザニア)で生まれ、革命の混乱を受けて、67年にイギリスへ渡った。大学で文学を教えながら英語で執筆を続け、植民地化がもたらした影響と、自国を離れて生きることをテーマに多くの小説を手が空けてきた。
 「楽園」は、94年に発表された長編小説。20世紀初頭の東アフリカ沿岸地域を舞台に、父親の借金の形として大商人に引き渡される主人公、少年ユスフの受難と成長を描く。日本で紹介する1作目に本作を選んだ理由について、粟飯原さんは「彼の作品には、いわゆるスワヒリ世界の文化や社会、歴史が濃厚に映し出されている。『楽園』は、それが凝縮されたかたちで表された作品だ」と話す。
 また、欧米やロシアの文学を中心に親しんできた日本の読者にとっては「遠い世界」という印象を持たれるアフリカ文学にあって、「シンプルな文体で、なじみやすく、しかも、背景を知らなくても少年の成長物語や冒険物語としても読める」と太鼓判。 「分化や社会はまったく見知らぬものであっても、人物の心情や経験を身近に感じ取れる。そういう読書のすばらしさを本当によく伝えてくれる作品だと思います」
 一方で、深く読もうとすればするほど「テクストの向こう側に広がる豊饒な世界が垣間見られる」作品でもある。「スワヒリ世界はインド洋を介して、アラブやペルシャ、マレーシア、中国までつながる非常に長い歴史と人々の往来によって形成されてきた」。その上で、「いまタンザニアと呼ばれている地域がいかに複雑で、多言語で、いろんな文化が混ざり合っているかが非常によくわかる作品ではないか」と語った。
 『楽園』は「グルナ・コレクション」の一冊として刊行され、今後も続刊が予定されているという。 (山崎聡)」朝日新聞2024年4月10日夕刊2面。
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