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2050年の日本 森嶋通夫の予言 2 戦後教育と経済  軍拡の根拠?

2023-01-29 11:50:56 | 日記
A.人口史観の特殊性
 森嶋通夫『日本は没落するか』は、20世紀の終りに書かれているのだが、そのときはまだ日本は経済力において中国を上回っており、欧州で共通通貨ユーロが発足、当時の小渕内閣は国旗国歌法を成立させるなか、北朝鮮工作船が日本海で領海侵犯が始まったなど、今につながる出来事が記録されていた。一般の日本国民は、バブル崩壊以後ずっと長引く不況に将来に不安は抱いていたものの、この国が経済的あるいは政治的に没落する、と言われて、そんなひどいことにはならないと希望は持っていたと思う。日本の企業社会と自民党政治がだらだら続く以上、新しい21世紀がやってくる、といっても何かががらっと変わるのではなく、過去の経済大国時代の残り香でそのうち良くなってくるのではないか、と考えた人も多い。でも、それから20年以上が経過して、現在の日本の経済も政治も惨憺たる状況になっていて、森嶋先生の言っていたことはかなり当たっていたといわざるをえない。そして、そのことの原因は、偶然的ではなく必然的、しかもある程度は予測可能なことだった、というわけだ。最長政権を誇った安倍晋三自民党政権は、「日本を取り戻す」として登場し、有権者(の一部だが)の期待を集めて日本の再生を謳っていたが、終わってみれば経済活性化にも少子化にも財政悪化にも有効な手を打てず、この「没落」に対してなにもできずに、亡霊のような過去に回顧し対米従属と軍拡に邁進している。それは、安倍氏の政策が悪かったというよりも、もっと決定的な日本という国の人的資本、あるいは戦後改革の基盤をなした教育の矛盾にある、というのが森嶋先生の説明である。ぼくは、これに半分以上納得するが、同時にかなり事実認識において疑問も抱いた。

「もちろんこの方法によっても、将来の土台の質のある部分は、今後の教育効果の推定に依存しており、完全に予想作業から解放されているわけではない。10歳で神童、20歳過ぎれば只の人ということもあるが、栴檀は双葉より芳しいとも言われる。現に10歳になっている人が50年後にどんな人になっているかを予想することは、ベトナム戦争でアメリカが敗北することを、その五〇年前、すなわちソビエト連邦が成立した1922年に予見するよりもはるかに容易であると言わねばならない。
 このような社会の動きを、人口という土台の動きから導き出す思考は、人口史観と呼んで差し支えないであろう。人口史観で一番重要な役割を演じるのは、経済学ではなく教育学である。そして人口の量的、質的構成が決定されるならば、そのような人口でどのような経済を営み得るかを考えることが出来る。土台の質が悪ければ、経済の効率も悪く、日本が没落するであろうことは言うまでもない。私はこういう方法にのっとって、没落を予言したのである。
  人口の長期予測
 国立社会保障・人口問題研究所が編集した『日本の将来推計人口』(1997年)によると1995年の総人口は1億2557万人で、2050年の予想人口は1億5万人である。予測には高位(楽観的なもの)、中位、低位(悲観的なもの)の三種類があり、上記は中位の推計結果である。悲観的な推計結果だと2050年の人口は9231万人にしか過ぎない。
 中位推計でも人口は二割減るのだから、大過疎状態が発生する。日本人が過去に経験した過疎は田舎に起こり、都会では過密が生じた。田舎では閑古鳥が鳴いていたが、都会では渋谷がそうであるように人間が満ちあふれていたのである。
 しかし次世紀での人口現象は社会移動によるものではなく、主として出生率の減少によるものである。そしてそれは都市、田舎をかまわずに国全体に生じる。過疎が都市部で生じるならば空き家の住宅が生じるだけでなく、事務所や店舗が空になってしまうだろう。治安が悪くなり、浮浪者の溜り場になる。都会の建築物の資産価値が減り、すべてが不良資産化する。不良資産の問題は一時的な問題でなくなり、恒久的に定着するだろう。
 さらにその上に人口成長の不安定性の問題がある。1997年1月に、1996年から2050年に至る人口成長の予測が公表されたが、それを見た国民は、「こんなに人口が減るのでは、生まれてくる子供は可哀想だ。彼らが背負わねばならない負担はあまりにも大きい」と考えるだろう。人々は一層産児制限をするようになり、予想人口曲線は下方にずれ落ちる。数年後の新しい調査では、前の調査での中位推計は楽観的にすぎ、より低位の推計が新しい中位推計として発表されるだろう。
 これに対して国民はまた反応する。こうして推定人口曲線はさらに下方に移行する。だから実際に2050年になって現実に日本に生存している総人口は、一億人をかなり下回っている筈である。過疎はより深刻なものになり、東京のビルのネオン・サインは「空室、空事務所あります」という広告を夜空に照らしだしているだろう。
 その上、このような人口曲線の下方移動は、出生時の数の減少によるものであり、それに応じて高齢者が自殺してくれるならよいが、そういうことはまず起こらない以上、人口中に占める高齢者の率は高くなる。そうするとさらに少子化が進行するとともに高齢化もまた昂進する。
 現在の調査では、総人口のうち65歳以上の年代が占める率は、1980年には日本は、主要18カ国中最低のレベルだったが、2010年以降はトップに躍り出るものと予想されている。さらに、旧世代の新世代による補充は、十分というには程遠いというべきであろう。実際、15歳以下の人口に対する65歳以上の人口の比率を示す人口指標数値は、来世紀半ばまで急激に上昇する。この指標は、1996年には96.6パーセントだったが、2000年には118、2020年には196、2050年には247まで上昇すると見られている。このことは日本のような豊かな国では、結婚したカップルが正確な避妊によって子供の数を最小限に抑えようとするからなのだが、今後産児制限が一層なされるならば、これらの数字はさらに悪化する。全くの悪循環なのだ。
  戦後の教育改革の影響  
 動物の場合は、死んで往くものと生れて来るものに殆ど差はないから、集団の質はほぼ一定である。しかし文化を身につけている人間は、死んで往くものが身につけていた文化と異なった文化を身につける子供が生れてくるから、集団の質は変わってくる。
 しかし欧米諸国では分化の変化はそれほど大きくない。自国内での自発的な変化が大部分であり、よそから文化を移入するとしても、その「よそ」もまた欧米文化の伝統の中にあるから、移入による文化の変化は大きくはない。(ただし旧植民地帝国では大きい変化があった。)
 だが日本の場合、死んで往く老人が、伝統的な日本文化を身につけており、生れて来たものは欧米文化をより多く身につけるとするならば、出生と死亡がもたらす文化交替は集団の質を激変させることになる。特に敗戦後、戦前、戦中の国粋的な文化が、戦後のアメリカ文化によって置き換えられることによって、日本の人口の質に画期的な変化を引き起こす筈だと考えられていた。戦前は忠君愛国、挙国一致を促進させるような教育が行われた。国民道徳の規範は政府によって一方的に定められ、学校は産業側の労働需要に応じ得るように、多様化されており、高等教育も高級職に将来就く人を供給するだけに制限されていた。だから大学はエリートを育成するためのものだった。
 こういう教育体制は、占領軍によって破壊された。中等教育は複線路線でなく、特殊な職業に適した専門化された学校を最小限にしか許さない単線路線のものにさせられた。その上高等教育機関はエリート養成のための専門教育ではなく、市民のため国民のための高い水準の教育をつける所と考えられるようになった。国家が必要とする高い知識を生徒や学生に教え込むという姿勢は教育の場から一掃され、自由主義、個人主義が教育の根幹となった。
 こうして国家主義的教育を受けた年長者と、自由主義的教育を受けた若年者が、戦後日本に共存するようになったが、彼らの中間には戦前教育を幼い時に受け、後に戦後教育に切り替えられた過渡期の人が介在した。これらの人の中には、殆どが戦前教育で、その後僅かに戦後教育を受けた人からはじまって、初め僅かに戦前教育を受け、その後一貫して戦後教育を受けたというような、種々の年齢層の人が混在した。戦後教育は1946年に始まり(完全な戦後教育を受けたのは1939年に生まれた人からである)、戦前教育(旧制大学教育)は1953年に終了した(1930年生まれの学生が最後の卒業生である)から、過渡期は八年ということになる。
 切り替えは円滑でなかった。戦後の思想教育――自由主義と個人主義――は、それまでの全体主義、国家主義の教育をしていた教師によって教えられたからである。自由主義や民主主義が履き違えられることが多く、誤解されたこれらの主義は、好ましくない影響を被教育者に及ぼす。だから欧米の学校では自由主義、個人主義とは何であって、何でないかについて徹底的な議論が教室で生徒相互間、生徒と教師の間で行われるのに、日本ではそういうことは殆ど行われなかったと言える。教師自身がそれらについて無知に近かったからである。小学一年から大学を卒業するまで16年の間、戦後教育のみを受けた純粋戦後派の場合でも、しっかりした思想的核心を持ちえなかったと言ってよい。
 戦後の第一年は純粋戦後期に属する一年分の人がいた他は、全員がそれまでの戦前教育に一年分の戦後教育を付加した過渡期の人であった。戦後17年目に純粋戦後教育を完全に受けた人が初めて現れた。(大学に進学せず高等学校限りで就職する人は13年目に純粋戦後派が出現した。)いま64歳までを労働人口とすると、純粋戦前派が労働人口から消滅してしまうのは、戦後49年経った時――いまから4年前――である。そのうえ過渡期の人々が労働人口から消え去るのは、今から更に4年経った後である。教育改革は日本国民を洗脳したのであるが、それは極めて徐々の洗脳であっただけに、完了するのに非常に長い時間を要したのである。
 日本のいわゆる高度成長期(1950―70年)の労働人口(ただし全員が大学を卒業したと仮定して22歳から64歳までの人)のうち、戦前派、過渡期、戦後派の階層への割り振りは次のようになっている。1950年には全員が戦前の教育を受けた人である。1960年には35年分の高年者層が戦前派、七年分の若年者層が過渡期、純粋戦後派はゼロである。高度成長最後の年には、25年分の高年者層が戦前派、八年分の中間層が過渡期の教育を受けた人達で、九年分の若年者層が戦後派の教育を受けた人だといえる。
 これに反してバブルの絶頂期の1990年は、60歳から64歳までの人は戦前に教育を受けている。続いて八年分が過渡期の人で占められ、29年分の若年者は戦後に教育を受けている。このように日本の労働人口が受けている教育の内容は、時間とともに変化してきた。教育改革は占領軍司令部(GHQ)の命令で一挙に行われたから、教育内容は即座に替えられたが、戦前のイデオロギーは教育を受けた人の頭脳の中に体化された形で、長い期間にわたって効力を保った。このような形で、旧体制は新体制の世界の中で抵抗しつづけたのである。革新は急進的であっても、体制には、効果を弱め保守化してしまう緩衝装置が備わっていたのである。
  教育の役割――デュルケームの規定 
 デュルケームによれば、教育は次のような役割を演じる。教育――成人ないし社会人教育でなく、青少年に対する教育――は青少年が大人の社会に参入するのを円滑にするという役割を持っている。このことは大人の社会がどういう社会であるかに応じて、青少年の教育のされ方が決まることを意味する。逆に言えば、青少年の教育のされ方を決めれば、大人の社会もそれに応じたものでなければならないことを意味する。
 それ故、日本のように学校教育が占領軍の命令によって、自由主義、個人主義を根幹とするように決められると、大人の社会も自由主義、個人主義を基軸とするものに改革されるべきだということを意味する。しかし大人の社会に関しては、占領軍はそのような命令を出さなかった。また占領が終了して、日本政府が教育の自主権を獲得した後も、政府は学校教育を再改革することはなかった。
 その上、戦後の日本人は大人の社会をできるだけ戦前のままに保つよう努力した。後の章で見るように、戦後の日本経済は戦争中の体制の平時版と見てよいほど、戦時体制に酷似していた。同時に日本の政治体制も政治勢力も、戦前回帰的であった。さらに重要なことには、このような組織を動かしていくイーソス(精神、ethos)は、極めて日本土着的であった。
 言うまでもなく、この事実は大人の社会(保守的、日本土着的)と、青少年の社会(進歩的、西欧的)の間に大きい断層があることを意味する。だから学校教育を終えた青年は、大人の社会の入口で戸惑い、失望した。
 新入社員を受け入れた会社は、「社員教育」という名の道徳教育を行ない大人社会の掟を新入社員に強制した。それは彼らが学校教育で善とし是としたものを全く裏返しにした像を映し出した鏡の中の世界であり、鏡の中では現実の左右は、右左に、前後は後前に映し出されていた。学校で習った道徳律に、若者たちは180度の変換をほどこして、行動しなければならなかった。変換の術に長けないものは、衝突し、衝突した者は、採用内定を取り消され正式社員となりえなかった。
 戦後大人の社会入りをした純粋戦後派は、まずこの新入社員訓練という踏絵の煉獄に耐えなければならなかった。子供たちをそういう戦後派に教育し、教育結果に責任を持つべきはずの文部省は、「社員教育」はやめろとの声を上げなかった。改めるべきは大人社会であるはずだのに、「新入社員教育」は二つの道徳――日本式の大人社会への通過儀礼として定着した。
」森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』岩波書店、2010年、pp.7-17. 

 戦前の学校教育で育った世代、途中でGHQによる戦後教育に切り替わった世代、純粋に戦後教育だけを受けて育った世代、この三世代が社会の中心になったのが、戦後の高度成長から80年代までの日本だったとすると、森嶋氏は、戦後学校教育の自由主義的・個人主義的理念と、会社など社会に浸透していた「日本的・共同体的」エートスの葛藤・矛盾を方法として整理しながら、それが完全に戦後教育に置き換わるのが1980年代末だとみる。しかし、それは理論的な単純化であって、そこから日本の没落を導き出すほど有力な要因だろうか、というのが社会学をやったぼくからの一つの疑問。でももう少し読んでみよう。


B.財源問題と軍拡の必要性
 日本は大幅な軍拡、しかも敵基地攻撃というこれまでの「専守防衛」を捨てた軍事力を持つために、大きな予算を投じることを内閣で決めてしまっている。しかし、そのための予算はどこかから無理をしてひねりださなくてはならない。そこで増税も必要だと首相は言いだした。だが、先に防衛予算総額の増大を決めておいて、だから増税もやむなし、というのは強引過ぎるし、第一この件に関し、国会にも国民にも説明と理解を求める姿勢も手続きもおろそかにしている。そもそも軍備がどのくらい、どうして必要なのか、という問題は、結局完全に計算不可能な、恐怖と憶測の心理学的問題であり、国民を安心させる防衛予算などいくらでも膨らましてしまうものだから、それが将来の国家の破綻を招いたのでは、元も子もないのである。

 「軍拡の財源は何処から? 恒久的増税 国民が負担 :池内 了      
 去年の十一月二十二日、安全保障関連の三文書作成のため、「国力としての防衛力を総合的に考える有識者会議」の報告書が提出された。ここには実際の金額は書かれていなかったが、二十八日に岸田文雄首相が「『中期防衛力整備計画』の最終年度に当たる令和九(2027)年度予算に、GDP(国内総生産)比2%を必要な水準」とした。そのために「各年度予算において、これらの取り組みに関する経費を総合的な防衛体制の強化に資する経費として計上・把握する」として、来年度から五年間で四十三兆円(過去五年間の予算の約1.6倍)を財務省に指示した。
 では、五年間で防衛費を倍増するための財源は、一体どこから調達するつもりなのだろうか。この報告書では殊勝にも国債に頼らないとは謳っている。その理由は、現在既に一千兆円を超える巨大な借金があること、コロナ対策で累計九十一兆円もの国債を発行していること、なにより軍事強化のためには臨時財源である国債でなく恒久的な財源でなければならないためであろう。軍事拡張のために赤字国債を乱発した戦前の愚は繰り返さないというわけだ。
 そこで財源確保策として、まず歳出改革を行い、「なお不足する財源については税制上の措置を含めて多角的に検討」としている。つまり増税である。緊急かつ大きな歳出が必要とされた場合、このように歳出削減と増税を組み合わせて財源確保をした例は過去にいくつかある。
 例えば、東日本大震災のとき、国立大学に勤務していた私は、歳出削減として給与の一部カットを呑まされたことを覚えている。さまざまな項目の予算の節減・削減・組み換え・返上などで浮かして融通するもので、今は決算剰余金の活用等が言われている。むろんそれだけでは乗り切れない。東日本大震災では「税制措置」、つまり「最大二十五年間の時限措置」の増税として①復興特別法人税(通常の税率に10%付加)②復興特別所得税(通常の税率に2.1%付加)③個人住民税均等割りの引き上げ―の三つが施行された。もっとも、①の特別法人税は二年で打ち切りとなり、累計で2.2兆円ほど拠出したにすぎない。復興予算が三十二兆円であったことを思えば一割にも達していない。企業優遇の姿勢が露わである。それに対し②の特別所得税は、国民全体に広く薄く課している。一年で〇・四兆円だが、こちらはきっちり37年まで二十五年間継続し、累計で十兆円負担することになっている。我々国民の懐からはばっちり取り立てるのだ。
 さて、それでは今回防衛費の大幅増額のために、いかなる増税が講じられるのだろうか。財務省は、「防衛力強化の受益が広く国民全体に及ぶ」そして「国を守るのは国全体の課題である」ので、その費用も国民全体で広く負担すべき」だと述べている。「国民全体」とか「国全体」を強調しているように、国民に責任を押しつけてさまざまな形で幅広く増税を行なおうとしているのである。注意すべきは、この増税は時限でなく恒久的に続き、さらに軍拡競争が激しくなるとさらに増税されていく可能性が高いことだ。そして極めつきは消費税の税率アップであろう。
 さて、国民からの収奪を強めて軍事費を大幅に増加させ、人々に病弊をもたらす、そんな政治を許したままにすると、日本はいったいどうなるのだろうか。やはり私は、一切の軍事を持たない日本でありたいと思っている。 (いけうち・さとる=総合研究大学院大名誉教授)」東京新聞2023年1月27日夕刊3面。
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森嶋通夫の予言 1 2050年の日本   岸田首相の笑い

2023-01-26 21:52:41 | 日記
A.日本は没落する…50年後の予測
 今回とりあげる森嶋通夫の『なぜ日本は没落するのか』岩波書店は、もとは1999年3月、岩波書店から刊行され、その後はしがき、第一章~第六章、付記は森嶋通夫著作集第14巻(2005年4月、岩波書店)に若干の訂正を加えて収録されたものと、単行本版の第七章と第八章をもとに文庫本化されたものである。森嶋通夫(もりしま みちお、1923年7月 - 2004年7月)は、日本の経済学者。大阪府出身でロンドン・スクール・オブ・エコノミクス名誉教授、同校サー・ジョン・ヒックス教授、大阪大学名誉教授。イギリス学士院会員。その略歴をみると1942年10月に京都帝国大学経済学部に進学、在学中の1943年、学徒出陣により、20歳で徴兵され帝国海軍に入隊し、通信学校を出た後、長崎の大村航空隊へ配属。暗号解読を担当する通信将校として、数多くの特攻隊との通信、沖縄に向かった戦艦大和との通信、沖縄戦の通信などを担当。海軍中尉で敗戦を迎えた後、京大に戻り高田保馬・青山秀夫について経済学・社会学を学び、1946年に京都大学を卒業する。
その後は経済学部の助手を経て、1950年27歳の若さで、京都大学経済学部の助教授となるが、1年後の1951年大阪大学法経学部助教授に転出。1954年3月、大阪大学経済学部付属社会経済研究室の創設とともに、助教授として併任する。1963年に、40歳で大阪大学教授となる。1966年4月、大阪大学社会経済研究所に改組され、安井琢磨とともに日本における近代経済学研究の中心として広く世界に名を轟かせる存在となったといわれる。その後、研究所内部での意見対立もあって(依田高典は森嶋が日本を飛び出した理由を同僚との喧嘩別れとする)、1968年に渡英しエセックス大学客員教授、1970年からロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSE) の教授として、1988年の定年まで在籍した。数理経済学が専門だが、晩年は経済学のみならず、広い視野と独自の理論で多くの著作を残した。これはその晩年の日本を巡る刺激的なタイトルをもつ3部作のひとつ。まずは「はしがき」から。
 
 「はしがき 
 日本はいま危険な状態にある。次の世紀で日本はどうなるかと誰もがいぶかっているのでなかろうか。私も本書で、照準を次の世紀の中央時点――2050年――に合わせて、そのときに没落しているかどうかを考えることにした。そのためには、まずなぜこんな国になったのかが明らかにされねばならない。それと予測が本書の問題である。
 通常没落とは、経済的に落ちぶれることを意味することが多いが、没落と貧困が一致して同時に起きるとは限らないことは、明治維新を見ればわかる。当時徳川体制は行き詰っていたが、経済的には国民全体が塗炭の苦しみにあえいでいたわけではない。危機感は政治の貧困に対して生じたのであり、経済に対してではない。
 没落は政治から起こることもあるし、経済から起こることもある。日本はかつて政治は三流、経済は一流と言われたが、経済が破綻した現在でも、海外が日本に期待しているのは依然として経済であって、政治ではない。経済と政治の結びつきは種々であり得る。日本が没落するのは、今度の場合も明治維新の時と同様、政治からである。それは日本の伝統なのだろうか。
 経済からであろうと、政治からであろうと、あるいは両方からであろうと、没落した国民は、発言力が弱くなり、世界史はその国民を無視ないし置き去りにして前進して行く。歴史への貢献度は非常に低くなってしまうから、そんな国民は、一流国民と見られることはない。今は日本はG7のメンバーであり、一流国の仲間入りをしているつもりでいるが、もはやその中の重要メンバーではない。政治が駄目だのに、いまのところ経済でもっているだけである。
 次の世紀の日本は、昭和時代の日本――悪役であったとしても世界をかき回した――とは違って、幕末の時のように国際政治的には無視しうる端役になっているだろう。もちろん20世紀での活躍の記憶があるから、幕末の時のように全くの無名国ではない。しかし残念ながら日本が発信源となってニューズが世界を走ることは殆どないだろう。
 けれどもこのことは必ずしも日本が経済的にも没落していることを意味しない。幕末の時も、ヨーロッパから見れば、日本は時代遅れの中世的な国であったのに、経済的には中進国とみなせる国であった。庶民の教育程度や、文化水準は驚くほど高かった。
 このように政府(幕府)に力がなく、国民が時勢に目覚めていなくても、国が経済的に貧困でないことは十分あり得る。こういう状況の場合には、一群の政治的アイディアを持った人々が現われて主導権を握れば、明治維新がそうであったように、社会の歯車が一転して勢いよく回転しだすことがあり得る。しかしそういう人が現れず、政治的停滞が続けば、その国はせいぜいよくて、人々が過分の物質的生活を享楽して時を潰すだけの国に終わってしまう。
 幸か不幸か、徳川時代は階級差が激しく、地方差も激しい時代であった。だから住民の大部分が危機意識を持っていなくても、一部に「世を憂える志士」が現れることがあり得たし、事実彼らの奮起が日本を支えた。しかし2050年の場合には、都会でも田舎でも人々は同じ教育を受け、しかも日本は階級差の少ない社会になっている。その上その時の日本の住民の資質は良くないと予想される。(この予想が本書の焦点である。)エリートも牽引車ももはや存在しない。だから人々は経済的に恵まれていればいるほど、安逸を打ち破ろうとはしないであろう。彼らはむしろ何もしないで安楽死を願望するとすら考えられる。
 それでは2050年の経済状態はどうであろうか。残念ながら今の経済学には50年後の経済予測をするほどの力はない。従って私は次のようなケースごとの答で満足しなければならない。(一)幸いにしてその時江戸時代末のように経済的に恵まれておれば、上に述べたように政治的没落に対して国民は「無為」という反応をするだろう。(二)もしその時の経済状態が悪ければ、事態はもちろん最悪で、失業者は巷にあふれている。
 古典的な景気観察によれば、不強は七年から十年に一回来るから、今の不況を含めて2050年までに六回から八回の不況が来る勘定になる。それらをうまく切り抜けると(一)の事態を期待しうる。しかしその時でも政治的沈滞は避けがたい。だから「政治的没落」の罠からどうして脱出するかが、日本の中心的問題でなければならない。私はそのためにはアジア共同体の形成以外に有効な案はないと考えている。しかし日本人はそのような案を好まないようである。現在の日本人ですらアジアの中でお高くとまりたがっているからである。
 私たちは二者択一を迫られている。アジア共同体案を拒否し没落を甘受するか。それとも案を受諾し前向きに進むのか。もし日本を除く他のアジア諸国が共同体を形成すれば、案を拒否した日本はアジアの中で孤立してしまうであろう。そうなれば事態は絶望的に深刻である。  1999年1月6日      著者」」森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』岩波書店、2010年、pp.iii-vi. 

 20世紀の最後に50年後を予測して「日本は没落する」と断言しているわけだが、それから20年以上経過して、森嶋先生はとうに亡くなっているのだが、この予測は外れるどころか今読んで腹に響くほどリアルだと思う。それは、通俗的評論家やエコノミストとは違って、あくまで数理的思考と独自の方法論を立てているからだ。

「1998年の現時点で2050年の日本の状態を予測するということは、時期的には1929年――ニューヨーク株式が大暴落して世界大恐慌が始まった年――に1981年を予測するのと同じことである。誰が曲がりなりにも的中したといえるような、予測をすることが出来ようか。その間、小さい事件は全部消してしまっても、世界大戦が起こり、さらに朝鮮戦争、ベトナム戦争、ブレトンウッズ体制の崩壊、第一次、第二次の石油危機が起こっている。これらのことがすべて見通せなかったならば、1981年の状態は予測できないのである。
 なるほど1929年に、第二次世界大戦を予測した人はいたであろう。そういう人ですら、大戦を一つのシナリオとして予想していたにすぎず、その他にも幾つかのシナリオを考えていた。彼はシナリオAが起こればこう、Bが起こればこう、Cが起こればこうという形で将来を考えていたのであり――世界大戦が起こるというシナリオはA、B、C,……のうちの一つである――どのシナリオが起こるのかは、彼にはわからず、起こる主観的確率が高々わかっているだけであるから、1929年の時点では、これらの確率で加重したA、B、Cの総合シナリオを予測したにすぎないであろう。
 歴史が展開されるにつれ、可能と考えられていた多くのシナリオは消されてしまい、大戦というシナリオだけが現実のものとして残る。その間に予想される未来の姿はどんどん変わってゆく。こうして終戦の年、1945年の年初には、私――当時大村の海軍航空隊で軍務に服していた――は「日本にはこの戦争に勝つ可能性は全くない。日本とドイツは世界チャンピオン戦の準決勝戦で敗れたのだ。決勝戦はアメリカとソ連の間で行われる」と考え、気を許した友人たちとそういう話をしていた。その時予備学生出身の私たち若手士官を含め多くの日本人は、朝鮮戦争を予感し始めていたといえる。
 もちろん朝鮮戦争はシナリオの一つにすぎず、他にもいくつかのシナリオがあったであろう。その当時の日本人は、最初これらの各シナリオが生起する確率を考慮した総合シナリオを意識し、時が経つとともに朝鮮戦争以外のシナリオは消されてしまい、1950年に朝鮮戦争に突入するのである。
 歴史はこのように進行する。将来像は最初確率的なものとして与えられ、どのような像も、その将来時点に達するまでは危険を含んだものであるが、現実にその時点に達してしまうと、すべての危険は消え去り、現実は動かしがたい確定したものとして、われわれに対して佇立している。
 しかし1929年の時点で、1981年の時点で、1981年までの次々の出来事を見通すことはまったく不可能である。遠い将来は漠然として渾沌としている。わからないというのが、正解であり、それでお尚、2050年を予測するとすれば、どういうふうにやればよいのであるか、それには予想の方法論がいる。
 問題は将来の日本社会についての予想をすることだから、まず私が社会をどう考えているかを述べる必要がある。社会は一つの構築物であり、それには土台と、土台の上に建てられた上部構造がある。こういう社会感はおそらくマルクスのものであろうが、、そこから一歩進めば私の考えは、彼とは全く異なる。
 マルクスは経済が社会の土台であると考えるが、私は人間が土台だと考える。経済は人間という土台の上に建てられた上部構造にすぎない。それ故、将来の社会を予測する場合、まず土台の人間が予想時点までのあいだにどのように量的、質的に変化するかを考え、予想時点での人口を土台としてどのような上部構造――私の考えでは経済も上部構造の一つである――が構築できるかを考えるべきである。
 このような観点から現在の人口を見ると、現在三歳、十三歳、十八歳の人は52年後の2050年に、それぞれ五五歳、六五歳、七〇歳になっている。その年の官僚のトップ(各省の事務次官)、各会社の社長、政界の重鎮がそれぞれこれらの年齢の人であるとすれば、2050年の政官財界のトップはすでに現在の社会の一員をなしており、とくに政界と財界のトップはかなりの年齢に達している。現在の一三歳と一八歳の人を見て、彼らが五〇年後にどんな人間になっているかを推定すれば、2050年の日本社会の土台の主要メンバーを推し測ることが出来るのである。
 五二年後の経済や政治がどうであるかを直接推定すれば、摑みどころがなくて茫漠としているが、まず2050年の社会の土台はどのような人で構成され、そのような土台の上にどんな上部構造が築かれ得るかという間接的な推定法をとるならば、見通しははるかに開けてくる。2050年の土台の高年齢層の人は、現在すでに生存中で、かつかなりの程度教育を受けている。もちろん今後彼らがどのような人物に成長していくかは、今後の学校や社会での教育に依存する。しかし近い将来、たとえば今後10年間で彼らの高等教育はほぼ完結するから、彼らがどんな高等教育を受けた人として世の中に出ていくかを推定することは困難でない。2050年の社会上層部の能力は現在の若者を見れば推定できるのである。
 それだけではない。同じ論法により、現在の二八歳、二三歳、一三歳の人達を観察すれば、2040年の政官財界のトップがどんな人達で構成されているかがわかる。これらの人達は、前の2050年にトップになる人達より10年成熟しているから、彼らの42年後は一層確実に推定することが出来る。
 同様に2030年の社会の土台を推定することが出来る。こうして2050年に至るまでの社会の土台の時系列がえられる。こうして社会の土台がどのように動いていくかを、純粋な予想の問題としてではなく、現在の人口を観察、分析し、そのような現存の人達が、今後の教育によってどのように変化するかも考慮に入れて、2050年までの土台の移動の姿を描き出すことが出来る。」森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』岩波書店、2010年、pp.3-7.  

 まあ、しばらく森嶋先生の議論を追ってみたい。


B.対米追随・従属は「国体」と化している?
 バイデン大統領と会談している岸田首相の表情をみれば、お殿様にお土産を差し上げて「ウイやつ」と褒められて満面の笑いを浮かべる臣下にしか見えない。太平洋の戦争はアメリカに負かされたと思い込み、天皇制を存続させるのと占領終了と引き換えに日米安保条約で米軍の駐留を認め、以来ずっとアメリカの意向を第一に尊重し、自民党の総裁が日本国総理大臣になり続けた結果、このような卑屈な態度をおかしいと思う感覚を失っているのが日本国民なのか。

 「米への依存と追随 いつまで:「専守防衛」捨てた岸田外交  中島岳志
 岸田文雄首相がアメリカを訪問し、バイデン大統領と会談を行った。ここで防衛費を北大西洋条約機構(NATO)加盟諸国並みの国内総生産(GDP)非2%に大幅増額する方針を伝え、アメリカ側から歓迎された。
 この方針は昨年5月のバイデン大統領の訪日時に、日米間で既に確認済みだったとされる。しかし、秋の臨時国会では議論がなされず、臨時国会終了後に唐突に閣議決定を行い、通常国会が始まる前の訪米でバイデン大統領に伝えられた。
 戦後日本の防衛体制を大きく変更する重要事項が国会審議なしに決定され、アメリカに伝達される。日本国民よりもアメリカに仕えているかのような岸田首相の振る舞いに批判が上がっている。なぜそのようなことがまかり通るのか。
 政治学者の白井聡は「安倍晋三の腹話術人形による独裁 戦後日本の堕落の総決算が迫ってきた」(1月17日、日刊ゲンダイDEGITAL)の中で、「問題となっている防衛費の倍増、防衛3文書の改訂」の本質を、「アメリカの意思、それだけだ」と喝破している。
 白井が注目するのは、この国における「国体」の存在である。戦前の日本は天皇統治を正当化する「国体」が支配し、戦後になって解放されたと考えられてきた。しかし、白井は著書『国体論―菊と星条旗』(2018年、集英社新書」の中で、国体は戦後に連続しているという。
 「戦後の国体」とは何か?それは「菊と星条旗の結合」、つまり天皇とアメリカが結びついたものである。アメリカは天皇制から軍国主義を除去し、象徴天皇制に置き換えることで「平和と民主主義」を注入した。これによって、戦後の天皇制は対米追随構造の一部となり、国民に浸透していった。日本の政治家たちは、アメリカを天皇のように慈悲深い存在として演出し、従順な姿を見せることで、安心感を与えてきた。
 しかし、この路線は日本国民を守ることにつながるのか。
 白井の見方は厳しい。「日本人が天皇と仰ぐアメリカと中国との覇権争いにおいて、米の覇権を守るために焼野原になる」ことを覚悟しなければならないという。
 現在、アメリカと中国が覇権争いを繰り広げている。アメリカは、この状況下で日本をどう戦略的に利用するかを考えている。岸田首相は防衛費増大と共に、敵基地攻撃能力の配備を打ち出した。これによって、日本はアメリカから巡航ミサイル「トマホーク」などを購入することになる。これはアメリカの軍事オペレーションの選択肢を広げる。
 白井は、ウクライナの戦争が一つのモデルを与えているという。アメリカは自らの犠牲を最小限に抑えながら、ロシアの力を大きく削ぐことに成功しつつある。これはまさに「自軍から犠牲者を出すことなく、従属国に血を流させて敵対的な大国を弱体化させる戦略」である。これを東アジアに応用し、中国に対する覇権争いを展開しようというのがアメリカのもくろみだと、白井は見る。
 こうなると、日本は「大軍拡=米軍産複合体への献納のための増税」と「アメリカの覇権を持続させるための戦争への血による貢献」を引き受けなければならない。戦前の日本人が天皇のために命を捨てたように、「天皇陛下ならぬアメリカ陛下のために命を捨て」、そこに義務と喜びを見出すことになるのかと白井は問いかける。
 今回の岸田外交は、専守防衛というあり方をかなぐり捨てるという点で戦後体制の大転換のようにみえるがメリカへの依存と追随を加速させるという点で援護体制の強化にほかならない。アメリカの軍事作戦に対して、それを拒否するよりどころが「専守防衛」というテーゼだったが、これを手放すということは、日本の主権の一部を事実上手放すということにつながる。
 アメリカという戦後の「国体」を、日本はいつまで抱きしめるのか。
日本のあり方そのものが問われている。 なかじま・たけし=東京工業大学教授」東京新聞2023年1月25日夕刊、5面「論壇時評」

2020年代の世界は、今までならありえないはずの戦争が起こる可能性が高い。ウクライナ戦争だけが特殊な条件ではない。問題はそれに対し、必死で賢明に冷静に最適解を探すこと、結果的に最適解ではなくても、初めからアメリカの御意向に従うほかない、という無条件の先入観に立つことは再び国の大失敗につながってしまうと思う。
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読書と人生・清水幾太郎  7 インドへの誘惑  村山談話!

2023-01-23 20:20:32 | 日記
A.ビルマでの日々
 日本では、明治以来の近代化とは即西洋化を意味し、ヨーロッパ起源の文明に追いつくことを目指したために、西洋の言語に通じて原書を読める「知識人」インテリゲンチャが、文化的なリーダーと見られる時代が続いた。いまでこそ、英語やフランス語が読めて話せるからといって、それがインテリの証しにはならないが、かつては西洋の書物を読んでいることが「知識人」として一目置かれるのが日本だった。そもそも外国の知識をもつ「知識人」が社会的に尊敬を集める状況は、明治の日本のように外来の急激な文化的変動が起こった場合に伴った現象である。だが、いまだに日本人が欧米で高い評価を得ることが、国内での評価より大きく報道され、「世界の○○」が誉め言葉である状況は変わっていない。
 戦前に学問や芸術の世界で、大きな評価を得るには、まず「洋行」すること、そして海外で賞を取ることが、国内でも大きな意味を持っていた。それは簡単にはできない壮挙だと思われた。清水幾太郎は、西洋の学問に通じた「知識人」ではあったが、「洋行」の経験はなかった。行きたかっただろうヨーロッパに一度も行かれなかった。戦前にドイツに留学した三木清や尾高邦雄や新明正道といった人たちを知るにつけ、ドイツ語を得意とした彼は羨ましかったに違いない。その彼が皮肉なことに、日本が始めた戦争のお蔭で、海外に派遣されることになった。ただし行先は西洋ではなく、日本軍が占領していた東南アジア、ビルマ(現在のミャンマー)であった。当時、読売新聞で論説委員などをしていた清水は、陸軍報道班の仕事としてはじめて海を越える。

 「十一 東洋の涯 ビルマへの旅 
 昭和十六年の忘年会は湯島に近い鳥屋で行われ、三木清、中島健蔵、粟田健三などが集った。何れも数年間の風に吹き寄せられた人々である。戦争は開始されていたし、また数名の小説家は、徴用令によって何処かへ連れて行かれていた。忘年会の席上、これが話題になり、私が「僕らも引っぱられるかもしれない」と言ったところ、三木清は反対して、「そんな馬鹿なことはない。僕等を引っぱったら、あちらが困る」と言った。しかし私が1月14日に徴用令書を受取り、16日に日本赤十字社東京支部に出頭した時、私はそこで三木清と中島健蔵とに会った。三人とも何処かへ連れて行かれることになっていたのである。三木がフィリッピンへ、中島がマレーへ、そして私がビルマへ連れて行かれることは後に判った。私は1月20日に大阪の中部軍司令部に入り、2月18日に宇品出帆、サイゴンまで中島と一緒である。船は緑丸と呼び、5,600トンのボロ船。船員は、私たちを首尾よく南方へ運べば、スクラップにするばかりだ、と言う。私たちはスクラップに乗っていた訳である。当時の日記の一部が焼け残っているので、その中から書物に関係のある個所だけを抜いて、これに若干の註釈を施すことにする。
 「三月二日(月) 仏印の山々見ゆ。暗い思い。誰も喜びの声を上げない。恐らく変化への恐怖に囚われているのであろう。
  三月三日(火) 船はサン・ジャック沖にとまったまま動かぬ。恐るべき退屈と焦燥。今日は節句。陸を見ながら溜息を吐く。
  三月四日(水) 船は今日も動かぬ。伝統がつかぬ。
  三月五日(木) 何時になったら船が動くのか。Verzweiflung!」
 ビルマへ行くはずの私たちは、サイゴンで上陸することになっていた。サン・ジャックから川を少し遡れば、そこがサイゴン。しかし船は沖にとまって動かない。眼の前には、一面の緑に蔽われた仏印の丘、白い聖堂が一つの緑の中に浮き出している。船が動かぬ数日間、私は船艙に座って、永井荷風の『下谷叢話』を読んでいた。富山房百科文庫の一冊である。私は何のつもりでこの本を持って来たのか判らない。荷物の中には、大阪に着いてから、行き先がビルマらしいということになって慌てて買い込んだビルマ関係の本が二三冊、大阪の丸善で求めた回教に関するフランス書、東京から持参したドイツ訳の『コーラン』、それからハルナックの『キリスト教の本質』(岩波文庫)などがある。しかし私はサン・ジャック沖で荷風を読んでいた。一体に私は車中や船中では何を読んでもあまり頭に入らぬ性質であるが、この時は全く閉口した。同じ個所を再度読み直しても、ただ眼が文字を追うだけで、一向に理解出来ぬ。この本の内容とその時の私の境遇とが極端に異なっているせいであろうか。それでも私は頑固にこの本に取りついていた。途中でやめたら、何か大変なことが起るような気がした。船は、五日の夕方、フランス人の水先案内が来てから動き出し、その夜、私たちはサイゴンに上陸、マレーへ行く中島たちと別れた。
 「四月二十三日(木)……昨日よりJ.B.S.Haldane, The Marxist Philosophy and the Sciences を本部の炊事場より借りて読む。……時々花の甘い香が漂って来る。如何なる樹かを知らず。……」
 私たちはサイゴン、プノンペンを経て、バンコックに着き、ここに二十日間近くいた後、国境の山を越えてビルマへ入った。ラングーンに着いたのは、四月七日の午後十一時。私は都会に着く毎に書店を探そうとした。しかし、そういう行動の自由はなかった。正直のところ、一方では、私の気持はかなり悲壮なものになっていたが、他方では、以前から幾度か実現しかけて途中で消えてしまった洋行の夢をこの危険な旅行の間も見続けていた。サイゴン、ラングーン、シンガポールというような都会の名は、完全にハイカラなものを思わせていた。洋行は勉強のためである。勉強には本を読まねばならぬ。徴用令書を受取ってから、本屋を歩くこともなく、落ち着いて本を読むこともなしに、もう三カ月以上経っている。我儘な話であるが、私の生活としては全く異常な、殆ど耐えられぬ限界へ来ている思いである。
 日記のうちの「本部」とはビルマ派遣軍報道部の事務所のこと。その日、私は水を飲みに炊事場へ行った。一人の兵隊が大きな釜の前に座っている。彼の横には洋書の山があり、頭の上の棚にも洋書が積み上げてある。驚いて「この本は」と問うと、「薪さ」と答える。なるほど彼が釜の下に投げ込んでいるのは書物である。私は、思わず口まで出かかった言葉を吞み込んだ。出かかった言葉は、悲しみと憤りとを表現するものであったろうが、これを表現してみても、何の効果もないことは判っていた。どんな種類の本かと調べているうちに、眼にとまったのが、このホルデーンであった。私は「これをくれ」と言ったが、「薪を持って行かれては困る」と言う。「私はこの薪を借りることにした。
 「五月五日(火)午後、City Book Club etc.へ行く。既にowner帰り来り、「店内の整理に従う。悲惨なり。……」
 シティ・ブック・クラブというのは大きな書店であった。私が行った時、避難していた店主のインド人が帰って来て、滅茶苦茶に破壊された書棚、床に投げ出された書物の中にぼんやり立っているところであった。彼は足下に転がっている書物の一冊を取って、埃を払い、頁をめくり、悲しげな表情で、またこれを床に投げ出す、という動作を繰り返している。私が何か尋ねても、殆ど返事をせぬ。「お前の仲間がこういうことをしたのだ」と彼は言いたかったのである。私は黙って店を出た。」清水幾太郎『私の読書と人生』講談社学術文庫、1977年、pp.126-129.

 大戦争が始まって日本軍が東南アジアに進軍し、英軍を押し出してシンガポールを占領し、さらにマレー半島からビルマを侵攻していった緒戦の勝利に、日本軍の占領政策を報道宣伝するのがラングーン(現在のヤンゴン)にいる清水に与えられた仕事だっただろう。つまり彼は占領軍の一員である。ただ、この『読書と人生』のなかでは、書物の話にだけ絞って、軍の仕事のことには触れていない。与えられた仕事をこなしながら、彼はこの異国での生活を、英語やドイツ語の書物を拾いながら読んで、この自分から望んだわけでもない海外生活を留学しているかのように、勉強に閉じこもる。それは、ビルマという国からさらに隣のインドとインド人の活動に、興味を移していく。

 「スコット・マーケットでハーヴェイの『ビルマ史』を手に入れてから、私はノートを取り、ビルマ史の簡単な年表を作り始めた。愚かな私は本当に留学したような気持になっていた。大学の研究室にいた時も、私はこんな素直な態度で勉強したことはない。勉強の効用や意味を考えなかった点では、これこそ純粋な勉強というものかも知れない。確かに効用も意味も考えなかった。仮に考えても判らなかったであろう。ラングーンの人口は約五十万。しかしその半分以上は隣のインドからの移民で、この国の経済の実権の大半はこのインド人が握っている。よく研究したら最後に握っているのは案外イギリス人であろうが、少くとも、直接に握っているのはインド人、品物を買いに行っても、役に立つのはビルマ語でなく、インド語である。私は、ビルマにいるインド人に、さらにインドの本国に興味を持つようになった。メイヨー女史の『母なるインド』を買ったのもそのためである。この本はインドにおける宗教的迷信を激しく非難している。私は、この非難を反駁しているアンドリュスの本(C.F.Andrews, The True India, 1937)も読んだ。メイヨー女史がヒンズー教の中に発見して驚いた野蛮な迷信は、南ヨーロッパや南アメリカのカトリック教の中に幾らでも発見出来る、というのがアンドリュスの意見である。これに似たことはハックスリの著書にも見えている。
 「六月二十九日(月)……Hannah Asch, Birmanische Tage und Nächte, 1932を豊田三郎より借用。Hans Carossa, Die Schksale Doktor Bürgers は一昨日読了。本日返却。『七十歳位になると、ある人間の選んだ道を邪道とは言わぬように気をつける。』(五三頁)」
 七月一日(水) 豊田三郎から借りたhomas Mann, Tonio Krögerを読む。『或る人がどうしても道に迷ってしまうのは、彼にとって一般に正しい道というものがないからである。』この言葉が二度(三八頁及び一一二頁)出て来る。」
 高見順と同室の豊田三郎の許には、ドイツ語の本が集っていた。何れも、彼が何処かの薪の中から拾い集めて来たものであろう。カロッサは、日本にいた時、三笠書房が邦訳を寄贈してくれたが、何故か気が進まず、終に読まなかった。それを、ビルマへ来て、電気が点かぬので、暗い石油ランプの下で読んだのである。マンは絵入りの美しい本であった。岩波文庫の翻訳では以前に二回ばかり読んだことはあるが、カロッサの余勢で一気に読んだ。ビルマにおける私の読書以外の生活、それについて今は書こうとは思わぬ。ただ私がその生活から書物の中へ逃れていたことは確かである。逃げ込んだ場所で自分ひとりの動揺や懐疑や決意に身を曝してはいたものの、そういう自分をそっくり包んで、全体はある方向へ黙々と進んでいた。ハックスリもビルマの歴史も、凡て私がそこへ逃げ込んだ場所であることに変わりはないが、しかしマンとカロッサとは、これまた特別の意味で私が逃げ込み、そこで自分を慰め且つ甘やかした場所である。日記によると、私は両者からそれぞれの一節を抜いて、日本語に訳している。訳されている文章は二つとも、人間の選んだ道、しかもその道が誤っていることに関係している。私はまだ頽廃の季節を、少くとも、その記憶を引きずってビルマへ来ている。
  インドの誘惑 
 日記はこの辺で終わる。他の部分は焼失したからである。この日記が終わってまもなく、半年間降り続いたビルマの雨季が終わって、高い青空が現われる。赤蜻蛉が窓から入って来て、私の読んでいる本にとまる。私は、雨季が終わる頃、ラングーンの寺院を歩き廻る計画を樹てた。しかし私の興味は、ビルマ人の仏教ではなく、インド人のヒンズー教及び回教に注がれていた。インドが抗しがたい魅力を以て私を誘うのである。ビルマの経済に食い込んでいるインドの移民の問題、これに対するビルマ人の不満から生じた暴動(一九三八年七月二六日ラングーンに勃発)の問題、これ等については、かつてビルマ政府が発表した公式の報告書(J.Baxter, Indian Immigration, Interin and Final Report of the Riot Inquiry Committee)を読んでいた。これは他の南方諸国における華僑の問題と非常に似ている。深夜、ドサニ劇場(Dussani Talkies)でインド人の少女の舞踊の甘い暗さに接しては、与し易いと思っていた。ところがインド映画を見るに到って、私は、インドに対する今までの態度を変更する必要を感じた。映画の持つ深い暗さ、しかし、それは恐ろしい厚みと重みとを備えている。昔の話とばかり思っていた宗教的なもの或は形而上学的なものが強く全篇を支配しているのである。何か異様な近寄り難いものであった。改めて私は私の身辺にいる沢山のインド人を見直す。私自身が使用しているコックやスウィーパー、彼らは、私が重苦しくて見ていられないような映画を受け容れるだけの器官を心の何処かに持っている。映画のうちに流れているものと、身辺のインド人の生活の底に澱んでいるものとは、恐らく根本的に同一なのであろう。手の届かぬ思い、気がついたら深い谷が眼前にあったという気持であった。思い出したように私は寺院巡りを始めた。
 怪奇な彫刻に充たされたヒンズー教の寺院を訪れ、その暗闇の中で、言語の通じない行者と向い合った。また回教のモスクへ行き、ミナレットの上に立った。現在、私の手許にあるヒンズー教の辞典(John Dawson, A Classical Dictionary of Hindu Mythology and Religion, Geography, History, and Literature, 1891)は、全くこの見当のつかぬ世界へ入り込もうとした時に買い求めて、せめてもの手引きにしようとしたものである。扉には、「九月二十六日、オリエンタル・ブック・クラブにて求む。」と書いてある。ヒンズー教の寺院へ行く折、私は必ずこの本を携帯した。
 ビルマは東洋の涯ではないか。隣のインドは、吾々が気安く且つ手軽に東洋と考えているものとは別のものではないか。その頃であろう。私はもう一度ラオの書物(P. Kodanda Rao, East versus West, A Denial of Contrast, 1939)を開いて見た。サブ・タイトルが示しているように、ラオは東洋と西洋との対立を否認している。「文明は一つで、これを東西に分つことは出来ぬ。文明の諸要素は常に時間の函数である。かつては空間の函数であったこともあるが、断じて人種の函数ではない。」著者はインド人。有名なラダクリシュナン(S.Radhakrishnan)が序文を書いている。
 十一月の上旬、私たちは各自の荷物を軍司令部の庭へ運んで、副官の検査を受けた。私たちは近く内地へ帰ることになったからである。副官は、書物を収めた私のバスケットの前へ来た。彼は暫く眺めてから、「お前は一体何処でこんなに本をかっぱらったのか」と言う。思わず、私は、炊事場の薪の中から拾ったリヴィングストンや『ローマの遺産』のことを考えた。「みな買ったものであります。」副官は、「本などを買う馬鹿がいるものか」と言い捨てて、次の荷物の方へ去って行った。
 私たちはラングーン港から乗船、ベンガル湾で暴風雨に遭い、十一月十三日の金曜にマラッカ海峡を通ってシンガポールに着き、ここで他の船に乗換えて、十二月上旬、日本へ帰った。途中の危険は、同じ海を南下した時と比べものにならぬくらいに深刻であった。この自分が次の瞬間にどうなっているか判らぬという、捕らえどころのない緊張と焦燥。私は、少しでもこれを免れることが出来ればと考えて、船にある間は読書に没頭しようと決心した。それよりさき、十月一日、私はラングーンの露店で珍しくドイツ語の本を見つけた。ハウプトマンの『情熱の書』(G.Hauptmann, Das Buch der Leidenschaft)である。一ルピー八アンナであった。日本に辿りつくまでに、何とかしてこの大部な書物を読み切ってやろう、と私は自分に誓った。それは努力の要る忙しい仕事であった。読み進んで行くうちに、日本中を探しても見当たらぬような根強い執拗な人間の姿に忽ち圧倒されてしまった。軽率な私は、これが西洋というものではないか、と考え始めていた。薄靄に包まれた九州の山々が見える頃、私は漸くハウプトマンを読み終った。上陸するとき、海中に投じた。」清水幾太郎『私の読書と人生』講談社学術文庫、1977年、pp.134-139. 

 1942(昭和17)年の2月から12月までの約10カ月、清水幾太郎は日本軍占領下の東南アジアに徴用され、ビルマ・ラングーンで陸軍の仕事をした。それは彼が望んだ西欧ではなく、なんの知識もないビルマだったが、この「洋行」が後の彼の仕事にどういう影響をもったか、この『私の読書と人生』では語られない。ビルマは東洋の涯であって、その向こうには西洋ではなくインドという世界がある。2年後、日本軍はビルマからそのインドに攻め込んでイギリスからの解放、東洋の解放を名目に悪名高い「インパール作戦」を開始する。もちろんその頃は清水は日本で空襲から書物をどう守るかじたばたしていたから、インパール作戦とは無縁だったが。


B.村山談話のころ
 日本社会党という政党の党首が内閣総理大臣となったのは、片山哲内閣(1947年5月~1948年3月)と村山富市内閣の二度ある。戦後の混乱期の片山内閣も社会・民主・国民共同の連立だったが、1994年6月から翌1995年8月まで続いた村山内閣は、自民・社会・さきがけの三党連立内閣だった。ちょうどこの時、1945年8月の戦争終結から50年という節目に当ったので、諸外国へのメッセージを出すということで「村山談話」ができた。日本政府から先の大戦への真摯な反省として発信された「村山談話」は、今も生きていることになっているが、事態はどうやら変わってしまったかもしれない。

 「中国と対話継続大事 「不幸な歴史に向き合い、未来に過ちなきよう」 村山談話作成の谷野作太郎氏
 台湾や尖閣諸島での有事を念頭にした日米防衛協力の強化が進む一方で、日中間の対話はなかなか進まない。かつて「村山談話」を作成し、中国大使も務めた谷野作太郎氏(86)は現状をどう見ているのだろうか。村山談話を振り返るとともに、日中関係についても聞いた。(大杉はるか)

 「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」。戦後五十年の節目となる一九九五年八月十五日、自社さ連立政権の村山富市内閣は、談話を閣議決定した。日本の戦争責任を内外に示すとともに、その後の政権にも引き継がれた。
 これを手がけたのが、当時、内閣外政審議室長だった谷野氏だ。「侵略戦争というのは間違っている」「アジアを解放するための戦争だった」といった歴史を直視しない閣僚らの発言が相次いでいたこともあり、「こんなものばかりが日本からの発信ではいけない」との思いがあった。
 閣議決定によって「相当重みのあるものになったが、保守色の強い閣僚もいたため、大変なことになったとも思った」と振り返る。力点を置いたのは「国策を誤り」の言葉。「自然と出てきた」と明かす。一方で後段にある「うたがうべくもないこのれきしのじじつをうけおめ、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持を表明する」の「お詫び」は原案には入れなかった。「お詫びは何回もやっていた。『謝ったからいいじゃないか』と安易になる。それよりも歴史に向き合う方がよほど大切で勇気がいる」
 二〇一五年には戦後七十年の安倍談話も閣議決定された。「歴代内閣の立場は、今後も揺るぎない」としたが、村山談話の三倍近い長さ。谷野氏は「談話というより大演説。国内のいろいろな向きに配慮した結果なのだろう」と指摘し「要はあの時代の不幸な歴史に向き合い、未来に過ちなきよう教訓をくみ取っていくということに尽きる」。
 村山談話では、世界の平和のために、近隣諸国との理解と信頼に基づいた関係を培うことが「不可欠」としたが、谷野氏は「全然そこに至っていない」と見る。日本での近現代史教育を充実することや、独仏両国の活発な交流や協力を内容とするエリゼ条約(一九六三年)の「東アジア版」締結を提唱する。
 昨今叫ばれている台湾危機につては「安直な予想屋とは距離を置きたい」としつつ「起こしてはいけない」とひと言。
 岸田文雄首相は十三日、米国での講演で中国との関係について「対話を重ね、建設的かつ安定的な関係の構築を双方の努力で進めたい」と語ったが、谷野氏は「米中対話の狭間で多くの東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国が当惑している」とし、中国だけでなく、米国にもアジアの代表として発言する重要性を強調。「国際供給網から中国を排除すれば失うものの方が大きい。岸田首相はしっかり主張できているか」と疑問を投げ掛ける。
 谷野氏が最後に語ったのは、やはり「対話を続ける外交が大事」だということだ。「不況になり国内が不安げになると、中国は対外的に強く出る」と懸念を示した上で、こう話した。「コロナの影響は大きいが、経済を含め、対話の窓を閉ざさないこと。日本の心配を、気後れせずに中国に伝えていくことだ。」東京新聞2023年1月22日朝刊20面特報欄。

 戦後50年の1995年の日本には、まだ戦争を体験し、世界との真剣な向き合い方を考える政治家や外交官やジャーナリストが活躍していた。「村山談話」はその象徴だったかもしれない。それから四半世紀後のいま、権力の座にある政治家・外交官・ジャーナリストたちの多くは、戦争とその反省から遠いところで、別のことを考えているようだ。どうしてこんな場所に来てしまったんだろう。
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読書と人生・清水幾太郎  6 社会学者の道  ドローン戦争

2023-01-20 17:59:42 | 日記
A.戦争の潜り抜け方
 いつどういう国に生まれるかは、誰も自分では選べない運命というしかない。のちに社会学者になる清水幾太郎は、1907(明治40)年東京日本橋に生まれた。日露戦争に勝利した日本が、近代化した一等国になったと威張り始める時代に、首都の下町で没落士族の長男として成長し、独協中学ではドイツ語を学ぶ。ドイツ語で難しい本を読むことに自負心をたぎらせた少年。そこから「社会学」への一本道を歩むことになるのだが、前にも書いたように昭和の初年に大学生だった世代は、いやでもロシア革命の波及を受けたマルクス主義と共産党の影響をもろに蒙る。そこで、左翼運動に身を投じた者たちはまもなく治安当局の大弾圧で検挙され、「転向」を迫られた。
 当時の共産党はソ連が作ったコミンテルン(国際共産党・第3インターナショナル)の指導下に各国で革命を起こす組織だったが、マルクス主義や革命路線の理解は教条的で、当初流行の新思想として左翼運動に飛び込んだ若者たちも、弾圧のなかで次々「転向」して共産党は壊滅する。清水はそういう時代を帝国大学の優秀な学生として、まさに生きていたわけだが、共産党や左翼運動とは距離を置いて、ただひたすらジンメルやコントという横文字を読むことに日々を過ごしていた(らしい)。彼が社会学を専門としたことは、ある意味でマルクス主義や共産党への同調を阻む鍵になったかもしれない。ただマルクスにはかなり影響を受けて、卒業論文のコント論も、マルクス主義的視点からコントの社会学を批判する、というものだったという。そして左翼とみられることを慎重に回避しながらも、帝大社会学科での研究生活を打ち切られて、学者への道を断たれた彼は、生活のため雑誌や新聞に文章を書く「内職」で稼ぎ、ジャーナリズムの世界で生きることになる。この『読書と人生』で語っている彼の青春時代が、西洋の文献を読み解く堅実な学者としてより、もっと山っ気の多い気質に満ち、その文章も学術論文よりは、読者の感情や興味を刺激する要素をもっている。

 「九 私の聖書 ジョン・デューウィ 
 いろいろな努力の末に漸く獲得した内職の一つは、児童の問題について原稿を書くという仕事であった。それも、育児上の諸問題、例えば、何歳の子供にはどんな玩具を与えたらよいか、幼児がひきつけた時はどうすればよいか、というようなことで、もし卑俗と言いたければ、申し分なく卑俗な問題である。私はこういう問題について実にたくさんの原稿を書いた。私は別に名前を隠す必要を感じなかったが、他の理由によって或る人の名前で、または匿名で発表した。
 この内職を始めるや否や、何事にも興味を抱くという私の性質が忽ち頭を擡げて来た。私は直ぐ夢中になった。私を子供の問題に結びつけたものが経済上の必要という単純な外的な理由であることは忘れられ、世の中にこれほど重大な、これほど興味のある問題はないと感ぜられたのである。自分が子供を持ってもいないのに、と友人は笑った。しかし私は、自分は与えられる安い原稿料のことも考えずに、この問題に関係ある書物を買い込んだ。私は行きずりの偶然の手に自分の形式を委ねていたと言える。今から思えば、私は無意識の裡に自分に対して強制を加え、経済的理由を忘れるようにしていたのかも知れぬ。また、もしこれを忘れなかったら、仕事が余りにも辛いものになったかも知れぬ。けれども当時の私は一日一日をこの卑俗な問題に打ち込んで行った。敢えて一つの解釈を下すならば、玩具の与え方、ひきつけた時の処置、そういう問題の底から何者かが私を招いていたのである。それが何であるかは知らなかったが、やがて明らかになった。漠然たる予感であったものが、後に回避を許さぬ事実として私の眼前に踊り出した。末梢的みえる問題の根本に一般的基礎的なものが横たわっていると気づき、それと同時に、私の仕事にとって無関係と思われていたものが、退引ならぬ自分自身の問題と見えて来た。玩具の与え方、ひきつけた時の処置、しかしこれらは凡て人間の成長の過程に働いている内外の諸力から離れて考えられるものではない。身体的側面における発育、精神的側面における発達、これと相結んで、社会的側面における変化、そこには様々の要素の協力があり、この協力を通して現実の人間の性格が形作られて行く。私の周囲にいる多くの人間、いや、私自身も、こういう過程を経て、現にこのような人間として生きているのに相違ない。これ等の人間が社会の内容であり、将来の社会を作る力の大部分もこの人間活動のうちに見出される。私は、知らぬ間に大きな秘密の傍らに立っていると信じていた。
 この時に、私は初めて英語というものを本気で向き合うことになった。アメリカを措いて、児童の生活が科学的に研究されている国はない。この方面でアメリカが生み出した文献は、既に莫大な遺産となっている。アメリカの文献を無視してこの問題を処理することは不可能だと判った。私はそれを読まねばならずまた翻訳せねばならなかった。実際に、私はこれを行った。私がこの冒険に成功したのには、当時毎日のように会っていた堀秀彦の助力が大きな役割を果たしている。彼は教育の問題に対する知識と英語の力とによって、私に欠けていた諸点を補ってくれた。私は実に多くのものを彼に負っている。児童の問題の不思議な魅力に導かれながら、怪しい手つきで英語の文献を読み進んで行くうちに、今まで霧の中に隠れていた風景が俄かに明瞭な輪郭を示し始めた。喘ぎ喘ぎ登っているうちに、広大な展望を与える新しい高所へ這い上がったと言ってもよい。何れにせよ、見えなかったものが一挙に見えて来たのだ。本当は日を追って展望が開けて来たのかも知れないが、十五年を経た今日から回顧すると、昭和九年の或る日に突如として思いもよらぬ展望が開けたとしか考えられぬ。その日まで私が老い廻していた児童の諸問題は、その背後に、アメリカにおける生物学、心理学、社会心理学、社会学、文化人類学の著しい発展を忍ばせていたのである。背後に隠れていたものが、玩具や小児科の諸問題を押しのけて,それらを突き破って、私の眼前に飛び出す。生物としての人間に与えられた性質と可能性、社会生活がこれに加える選択的作用、社会的に形成された諸個人が逆に社会を形成して行く事実。これ等は私にとって限りなく新鮮なものであった。私にとってそれは神の啓示であった。
 私を揺り動かした文脈の一部を挙げれば、どうしても最初に来るのは、キンボール・ヤングである。初めはバーンズ編の『社会科学の歴史と展望』(The History and Prospects of the Social Sciences, ed, by H. E. Varhes, 1925)に収められた「社会心理学」という短い論文、次いで単行本の『社会心理学』(Kimball Young, Social Psychology1931)を読んだ。誰の場合でもそうであろうが、私はこういう書物から一々の事実や知識を得たのではない。全体を貫く原理や態度によって驚き且つ救われたのである。しかし原理や態度というならば、私はジョン・デューウィの『人間性と行為』(John Dewey, Human Nature and Conduct, 1922)を指摘せねばならぬ。最初、私はこれをモダン・ライブラリの一冊として買った。私は何度これを読んだであろう。或る人間にとっては救済の書であるという意味で「聖書」という言葉を使うことが許されるなら、疑いもなく、それは私の聖書であった。それは、社会学成立の問題のために読んだ何十冊の書物のように、ただ私の外に横たわっていて、私の自由になる材料というのでなく、却って私自身に衝撃を与え、私自身に食い入り、私自身を作り直し、私自身に化するところの書物であった。
  ジャーナリズムへ 
 私をそこへ連れて行ったのは外的且つ偶然的な事情である。何事にも夢中になる私の性質は、外的なものを内的なものに、偶然的なものを本質的なものに転じた。私は軽々に自分の不幸な性質を云々すべきではないだろう。そのような評価は別として、私が新しい地点に立ったことは疑いを容れぬ。私にとって、この地点の意味はおそらく次の三つであった。
 第一に、私は、個人と社会との間の関係をやや詳細に辿れるようになったと思った。かつてオーギュスト・コントの学説を社会的条件との関係において摑もうとした時、個人の活動と社会的条件とはある距離を間に挟んで向かい合っていた。私の眼から見て、双方におけるそれぞれの特質を関係づけることが出来れば、私はそれ名で十分満足した。私の満足にも拘らず、何も両者の間のインティメートな関連を辿っているわけではないから、結局は一種の牽強付会というほかはない。コントという個人が問題になりながら、ロピネ(Bobinet, Notice sur l’oeuvre et la vie Auguste Comte 1891)などによって彼の伝記を調べてはいたが、何処までも、コントは一個のサンプル。コントに影響を与えたと信ぜられる環境の真中に、コントでなく、他の任意の思想家を立たせても、毫も差し支えはない。コントの環境、と口では言いながら、実は、同じ時代の誰にでも当て嵌まるレディ・メードの洋服に過ぎなかった。私には、コントの身になるという余裕ある態度が全く欠けていた。遠くの方から大声で勝手なことを喚いていたのである。アメリカの文献を潜った後の私にとっては、コントのような特定の個人でなく、人間一般が問題であった。一方からすれば、それだけ個性から遠く離れたと言えるが、他方からすれば、その人間一般を、もっと近くから、その身になって観察するという態度へ進んだ訳である。思想を含めて、人間の行動というものを取り出し、その生物学的基礎、社会的背景を明らかにしようとした訳である。コントの場合には視野に入らなかった微細な諸要素の一つ一つが、今はそれに固有の重量を以て出現する。人間の社会的形成の問題がある。私はこれを通して粗雑なイデオロギー論を次第に脱却していった。
 第二の意味は、他人の学説を追いかけて、これに文句をつけるという仕事から私が解放されたところにある。コントに勝手な批評を加えている時も、折々私の上に襲い掛かった淋しさ、それを私はようやく免れることが出来るようになった。古今の学説を紹介しては、これに封建的とか、ブルジョア的とかいうレッテルを張って歩くという仕事でなく、とにかく、自分の積極的な見解を主張し得ることになった。アメリカにおける諸研究を頼りにしたとはいえ、また固より自分の独走を誇ることが出来なかったとはいえ、私は自分の立つべき場所を発見し、そしてこれを占拠したのであった。だがもし多くの人々が同じ方向へ進んでいたとしたら、私はこういう方向を選ばなかったかも知れぬ。しかし、当時は、誰も私のような狙いでアメリカの文献に近づこうとするものはなかった。何処かの大学の薄暗いところで、こういう文献に触れていた人はいたに相違ないが、それは私にとって縁のないことであった。嘗てコントを自分だけが研究していると思っていたように、今はデューウィやヤングを自分だけが読んでいるように思い込んでいた。無理にもそう思い込まねば、張り合いがなかったのであろう。
 第三の意味は、私自身よりも、寧ろその時代との間に深い関係を持っている。満州事変は、私が大学を卒業した年に勃発した。私がアメリカの文献に熱中していた時期は、昭和十二年に開始される日本の進出が着々と用意されている段階であり、個人の価値と自由とは日を逐って空しくなると同時に、このことを弁護する言論が次第に支配的地位に上りつつある期間に相当する。昭和六年に大学を卒業したという単純な事実は、私の一生にとって致命的な意義を有している。私が日本の選んだ進路に恐怖を感じ、これに犬の遠吠えのような抵抗を試みたにしても、現実の力は私を一つの軌道の上へ追い込んで行く。 
 ファッシズムの漸次的支配に対して、私は専ら個人の意味や機能を主張するという方法で向かうよりほかはなかった。私がコントの代わりに持ち出した人間一般への接近という行き方は、このような社会的事情の下では、自らアメリカの学者たちの夢にも思わぬ含みを帯びて来る。社会のうちに生まれた人間が社会によって形成されていく過程、彼がそこで遍歴する諸集団、遍歴の途上に嘗める諸諸の苦悩、苦悩を通して新しい知的能力が獲得されて行く経緯、更にこの能力を基礎として新しい社会が形作られるという予想、私はこういう諸点を粗い筆で描き出しながら、しかも日本の現実に対して微弱な抗議を試みていたのだ。私はしばしば「クレアタ・エト・クレアンス」というラテン語を用いた。固よりペダンティックな趣味に違いない。しかし私にして見れば、このラテン語を通して、人間が、一方では作られるものでありながら、他方では作るものであることを叫んでいたのだ。昭和十二年三月に出た『人間の世界』に収められている幾つかの文章は、最初「思想」その他の雑誌に掲載されたものであるが、何れも右のような意図をもって貫かれていた。私は人間、悪、歴史、制度、慣習、文化、言語などについて語りながら、何れの部面においても個人の意味と価値とを救い出そうと努力した。しかし『人間の世界』よりも、同じ年の秋に出版された『青年の世界』の方が重要である。前者が評論集であるのに反し、後者は同文館の大石芳三氏の声援に励まされながら、その夏の暑い幾日間かを費やして市谷田町の家の二階で一気に書いたものである。前者ではまだ社会心理学に関するアメリカの書物は十分に利用されていなかったが、後者では積極的にこれを用いた。そればかりではない。『青年の世界』は、私が児童の問題との結合から得た、そして私の名前で発表された最初の作品であった。人間の成長に働く諸力、そこに生ずる苦悩、苦悩と結びついてのみ現れる知恵、それに支持され統制される将来、そういう諸点について、敢えて言うなら、私は自在にかつ縦横に書いた。書きながら、私は昂奮していた。私自身も一個の青年であった。何一つ権威や地位を持たず、ただひとり東京の街頭に立つ青年であった。解かれぬままに私の内部に横たわっていた私自身の青年期の諸問題、私はそれをぶちまけながら、しかも社会の暗い流れに向って一種の抵抗を試み、その抵抗の底でひたすら自分を確かめていたのだ。しかし何故に私は青年という問題を取り上げたのであろう。また何故に大石氏はこれを私に勧めたのであろう。一口に言えば、青年論が当時の流行であったに尽きる。高名な評論家たちもこの問題について著書や論文を発表してはいた。だが、その殆ど凡ては青年を戦争に駆り立てる趣旨のものであった。青年よ、遅疑することなく、この新しい時代の戦いの先頭に立て、と人々は叫ぶ。私は、『青年の世界』によって、こうした青年論に攻撃を加えようとしたのであった。しかし私にとって、この本の意味はこれだけでない。最後に、私はこれによって生活の自信を獲得した。私の意図が広く承認されたためか否かは、明らかではないが、『青年の世界』は幾度か版を重ねた。時代の流行、大石氏の着実な努力、結局は、この両者が物を言ったと見るべきであろう。何れにしても、私はこれによって若干の収入を得た。私は自信をもって自己をジャーナリズムに結びつけることになった。そして、同年の秋に書き、年末に日本評論社から出版された『流言飛語』は、私とジャーナリズムとの関係をますます決定的なものにして行った。」清水幾太郎『私の読書と人生』講談社学術文庫、1977年、pp.104-112. 


B.戦争の革新が起きている?
 戦争といえば今までの映画やドラマで描かれるように、銃を持った兵士が戦車や徒歩で駆け回り、戦闘機が飛び戦艦が大砲を撃って敵軍と戦うイメージだったが、現代戦はどうやら生身の人間が武器を持ってぶつかり合うようなものではないらしい。なによりも無人のドローンが高性能になって、ウクライナの戦争はゲームのようなハイテクの勝負なのかもしれない。

 「インタビュー:ドローンの戦争  見せて戦う情報戦 民生品も民間人も 軍事との距離近く 慶応大学総合政策学部教授 古谷 知之 さん
 上空から俯瞰する美しい映像、陸路の移動が難しい地域への物資運搬―-。低コストで身軽に飛ぶドローンは、私たちの目と手をかゆいところへ届けてくれる。それが今、ウクライナの戦場を、偵察や情報戦、攻撃の手段として飛び交っている。「ドローンの戦争」をどう考えるのか。研究の第一人者、古谷知之さんに聞いた。
 ――手にしているこのドローンは、どんなタイプのものですか?
 「こちらはウクライナ軍が今、最前線で偵察用として使っているラトビア製ドローンです。すぐに組み立てて飛ばすことが出来、戦場で多用されています。従来は偵察兵が森林などの陰から偵察していましたが、ドローンは相手の兵士が持つ電子機器などを発見し、至近距離まで近づく。そして正確な位置情報を把握します」
 「ドローンが今飛んでいる緯度・経度と時間は、手元のコントローラーに表示される。そのデータを『戦場のウーバー』と呼ばれるソフトウェアに入力すれば、火砲がその地点をピンポイントで攻撃します。結果はドローンからの映像で確認でき、外していれば情報修正して再び攻撃する。攻撃の精度が格段に上がりました」
 ――ロシアの侵攻で始まったウクライナの戦争では、武器としてのドローンが注目されています。
 「『空飛ぶスマホ』のように、ドローンはセンサーやバッテリーなどの性能があがり、この10年で急速に進化した。民生技術の低廉化や高度化と相まって、戦場に投入されるようになったのです」
 「2020年のナゴルノ・カラバフ紛争でアゼルバイジャンがドローンを投入し、注目されました。今回はウクライナとロシアという大国同士がドローンを前提とした戦い方をしています。その意味で、史上初の『ドローン戦争』と言えそうです」
 ――ドローンはそれほど戦場で「便利」なのでしょうか。
 「兵士や戦車を植物で覆うなどして擬装しても、ドローンは見破ります。カメラとセンサー、人工知能(AI)によって、水分含有量や体温を検知し、夜間でも『ここに人がいる』と判断できる。ドローンから隠れることは困難です」
 「ロボットによる遠隔攻撃なら味方の人的犠牲を負わずに済む。目の前で人が殺される様子を見ずに殺害できてしまう、という側面もあるでしょう。小さく、低い高度を飛ぶため、レーダーに映らず迎撃もされづらい。さらに、入手しやすい民生用ドローンを使ったり、プロペラを3Dプリンターで作ることもできたりして、コスト面の利点もあります」
 ――ドローンで撮られた戦場の映像は日本でもよく目にします。
 「ウクライナの映像は、テレビやSNSで多く流されています。ネットで世界が同時につながる時代となり、戦争は「見せて戦う」情報戦が前提になりました。ウクライナは、自らの惨状を映像にして国際世論を味方につける戦術をとっています。そこにもドローンは最大限利用されているのです」
 「一方で私は、ロシア軍兵士が前線で休んでいるところをドローンがとらえ、それに気づいて兵士が逃げていく様子を追いかける映像も強く印象に残っています。彼は味方のところに戻った後、位置情報を特定されて攻撃され、亡くなった。別のロシア軍兵士が真上にドローンが現れた瞬間、観念して十字を切り、命乞いするような映像もありました。SNSに投稿されたこうした映像は、ロシア軍の苦戦も印象づけています」
 ――悲惨ですね。戦い方が変わった印象があります。
 「ドローンの戦争には、機体だけでなく、民生用の最先端デジタル技術も必要になります。通信で動くドローンはサイバー攻撃を受けます。それをかいくぐるため、周波数帯を細かく変え続けるプログラムが必要となる。こうした技術を提供するために、多くの民間人が協力しています」
「開戦直後、ウクライナ軍はIT軍をたちあげ、世界中からエンジニアやハッカーを募集しました。また、戦場で使われるドローンの多くは民生用ドローンを改造したものです。搭載されるカメラやバッテリー、半導体も民生品で、日本製も多い。少し前までの戦争では軍人や伝統的な兵器が中核を担っていましたが、ドローンの戦いになり、民生品や民間人、民間企業の関与が不可欠となりました。つまり、『民間』と『戦争』との距離が近くなっている」
 ――デジタル化が進むにつれ、民間人が戦争に関わる比重が増えている、ということですね。
 「参戦のハードルも下がっています。ウクライナでは中学3年生ぐらいの15歳の少年が、昼間は学校に通い、夜間はドローンのパイロットとして戦争に加わっているそうです。民間人と兵士の区別がつきにくくなっており、そのこと自体、悲惨なことと言わねばなりません。日本の一般学生ですら、ウクライナ軍がサイバー対処に使うプログラムにアクセスできる状態です。本人が知らないうちに、技術的な知見が戦争に利用されることがあり得ます」
 ――戦場に行かなくても戦争に加担できてしまう、と。
 「その通りです。オープンソースのプラットフォームには、攻撃に使うプログラムも公開されています。誰でも見られるので、敵味方の境すらない。こうしたデジタル技術のありようが戦争でどんな意味を持つのか、これから検証されねばなりません」 (以下略)」朝日新聞2023年1月19日朝刊、13面オピニオン欄。
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私の読書と人生・清水幾太郎 5  コント  三方一両損?

2023-01-17 15:21:29 | 日記
A.社会学の父?
 大学というものがヨーロッパにできたのは中世で、キリスト教の教義と古代ギリシアやローマの学芸を総合する神学の研究と教育がその中心だった。近代科学が形を成してくると、規範の学としての法学や自然科学や社会科学はずっと遅れて、18世紀ぐらいから大学のなかにほそぼそ登場し、やがて19世紀はじめになると、医学や薬学や物理化学が実用性のある技術学として大学のなかに席を与えられた。そしてついにフランス革命とナポレオン戦争が終わった頃、経済学は大学で教えられるようになるが、社会学はまだ明確な学問とは考えられていなかった。そこに登場するのが、フランスのオーギュスト・コントである。「実証哲学講義」というその著書の名前でも、まだこれは実証主義に立つ哲学であって、社会現象に関する科学という主張も人々にはなんのことだか判らなかった。でも、コントは「社会学の父」創始者としてその名を歴史に刻んでいる。しかし、昭和の初めの日本でも、コントの名はまったく知られずに、ドイツの哲学者カントと混同されていた。それを知らしめようと張り切ったのが、帝国大学社会学科の学生、清水幾太郎だった。

 「オーギュスト・コント
 大学の一年生の終り頃、私はコントの著作を読み始めた。その後は来る日も来る日もコントを読み、終にこれを卒業論文の題目に選んだ。恐らくコントは、私が最も多くの時間と熱意とを献げたものである。私はどうしてコントを読み始めたのか。今日これに答えようとすると、どうしても、当時の私を唆していた真実の動機と、この動機によって営んだ行動に後から与えた弁解と、この二つのものが混合してしまう。それをハッキリ区別することは、もう今となっては不可能である。それでも出来るだけ真実の動機を探りながら話を進めるとすれば、第一に問題となるのは、私が冒険を欲していたことである。ドイツ社会学はすでに通い慣れた道である。不遜にも私はそう思った。それは平坦な道で、大した危険はないであろう。私はそう信じた。これに反して、コントはどうしてもフランス語で読まねばならぬ。若干の独訳はあるが、結局はフランス語に頼らねばならぬ。フランス語は鈴木信太郎先生の講義を少し聞いただけで、固より自信などはない。しかし、この貧弱な武器で戦ってこそ本当の冒険ではないか。私は進んで危険の中に身を投じたかった。自分を試みたかった。けれども私の気持ちはそれだけではない。ただフランス語であるのなら、タルドでもブーグレでもよかったに違いない。それ故、第二に、コントが古典であること、大物であることが大切であったと言わねばならぬ。コントと心中する、というような言葉を私は友人に向って語ったことがある。相手がコントなら、これと心中しても損はない、と私は計算した。ブーグレと心中したら、自分としても諦め切れないし、また物笑いの種になるであろうが、コントなら、どっちへ転んでも損はない。私はこのように信じた。寄らば大樹の蔭、犬になっても大どころ、正直な気持ちはそういうものであった。しかし考えてみると、もしもコントが広く尊重され研究されていたら、つまり、哲学におけるカントやヘーゲルに似た取り扱いを受けていたら、私はこれを捨てて顧みなかったであろう。人々の尾についてコントを研究するなどというのは、私の自尊心が許さない。私にとって幸せなことは、日本では誰も真面目にコントを研究してはいないという事実であった。コントの評価はもう決まっていた。それも誰かが決めたのであって、吾々がこれを決める必要はなくなっていた。コントの著作にしても、前記の『実証哲学講義』が六巻、『実証政治学体系』(Systeme de politique politique positive, 1851-1854)が四巻、何れも大冊である。それに初期の諸論文、『実証精神論』(Discours sur l’esprit positif, 1844)などを合わせると大変なものである。これらのものは研究室にもあるが、厚い塵が積っている。私がコントを研究するとすれば、それは私だけが研究するのだ。誰も知らない。誰も読んでいない。それが私には嬉しいのだ。
 私をコントへ向かわせた真実の動機は、概ね以上のようなものであった。それは醜いものであり、真理の探究などとあまり関係のないものである。冒険への欲求、事大主義、自尊心などが私を動かしてコントを選ばせたのである。確かに右のような動機によって読み始めることは出来る。けれども、この動機だけでは、私が若干の困難と闘いながら何年間かをコントに献げる力にはならぬ。動機が私を唆すと同時に、コントが私を惹きつけるということがなければならない。双方が結合して初めて、私とコントとの永続的関係が生れたのである。この点に到ると、私が後から与えた弁明、少くとも、これに似たものが現れて来る。そういう意味で第一に重要な点は、コントの判り易さである。フランス語の自信はなかったし、最初は綿々と続くコントの長い文章に閉口したが、慣れて来ると、語彙は案外に貧弱で、名詞の前後にfondamentalとかessenntielとかいう形容詞をふんだんに附ける遣り方にも驚かなくなった。いや、それよりも、ドイツ社会学の文献のように、こちらが無理に想像や感情を働かせて、強いて判ろうとせねばならぬ、あるいは判ったと思おうと努力せねばならぬ必要がない。誰が読んでも判ることしか書いてない。デカルト風の合理主義というのであろうか。全体を支配する透明な空気は、化物屋敷に住みついた私にとって蘇生の思いをさせるものであった。第二は、それが包括的な体系を形作っている点である。周知のように実証哲学は、数学、天文学、物理学、化学、生物学、社会学を総括する。社会学は他の諸科学と連続の関係に立ち、これ等によって支えられながら、翻ってまたこれ等を統制する。コントの社会学は、形式社会学と異なり、一切の社会現象を残りなく包括する。このことは、それが人間の生活の全体に訴え、彼に行動の原理を提供することを意味する。正に大時代である。それは、古典的体系が持つ魅力を完全に備えている。第三は、コントの全生涯である。私はジェイン・スタイルの『コント伝』(Jane M. Style, Auguste Comte :Thinker and Lover, 1928)にも眼を通した。コントは人間としての弱点を欠けるところなく有していた。売笑婦カロリーヌ・マッサンとの恋愛、セーヌ河に投身したコント、晩年におけるクロティルド・ド・ヴォーへの狂気に近い愛情と尊敬。コントの生涯は、伝統、権威、地位に倚りかかって物を言うドイツの社会学の教授たちとは著しい対照をなしている。私はコントが好きで堪らなくなった。
  ビジネスとしての読書
 私の卒業論文は、「オーギュスト・コントにおける三段階の法則」という物々しい題のもので、四百字詰め原稿用紙で二百枚位。更に「知識社会学的一研究」という副題が附せられている。訳も判らずに気負っていたのだ。この副題が示しているように、私は、コントの学説をイデオロギーという資格で取扱った。換言すれば、私はただコントに傾倒したのみでなく、ブハーリンを読んでから、また三木清を読んでから私のうちに沈殿している一種のマルクス主義に頼って、逆にコントを処理しようと考えていたのである。コントを批判しようとしたのだ。その学説の成立、本質、機能を、当時の社会的状況の函数として摑もうと企てたのである。そういう眼で見れば、確かにコントは幾つかの手懸りを与えてくれる。彼における秩序と進歩との二観念の結合、彼にとって唯一の絶対的なものである人類の観念、銀行家と学者とにそれぞれ現世的及び精神的権力を認める理想社会の姿、こういう諸点に関する限り、私が加えた紋切り型の批判もある程度は意味を持つことが出来た。卒業論文の一部分は、谷川徹三氏の勧めに従って、卒業直後、岩波書店発行の雑誌「思想」に二回に分けて掲載され、また、若干の訂正を施して、『社会学批判序説』(昭和八年)という書物に収められている。しかしこれ等の文章を読み直して見ると、私は本当にコントに組みつくだけの自信を欠いていたことがよく判る。息を切らせて彼の叙述を追っているに過ぎない。昂奮が醒めて気がつくと、自分がコントのために組み伏せられている始末だ。そこで、思い直してコントを批判しようとすると、彼から離れて、遠くから悪口を投げつけるよりほかはない。遠くからの悪口を私は「知識社会学的一研究」と名づけた。学説を社会学的文脈のうちに捕える、と言えば如何にも体裁はよいが、私に出来たことは、一方に彼の学説の諸特徴を置き、他方に当時のフランスおよびヨーロッパの経済的、政治的、社会的諸事情を置いて、両者の間に何らかの関係或いは関係と覚しきものを作り上げるというに過ぎぬ。ここに一人の人間が殺されている。あすこに強そうな男が歩いている。下手人はあの男に相違ない、という程度のことである。当時は、私ばかりが幼稚なのではなく、多くの人々が幼稚であった。時として幼稚の域を脱し、極めて精密な手法を用いる人もいたが、精密というのは、ただ社会の経済的機構という方向へ深入りすることであって、学説と社会との間を一部の隙もなく連続させるという意味のものではなかった。何れにせよ、私のコント批判は犬の遠吠えであった。
 卒業論文を書くために、私は実に沢山の書物を読んだ。コントに関する文献は次から次へと読んでいった。無理をして買いもし、また借りもした。そうするうちに、書物に対する私の態度は全く一変してしまった。読書はビジネスになった。私は書物を愛撫するのでなく、これを道具として或る限られた目的のために使うことになった。心を開いて、その影響を受けるという態度でなく、こちらが利用するという態度になった。何冊読んでも、それが私に変化を加えるということはなくなった。読めば読むほど、既に出来上がった思想の枠が堅固になり不動になるだけのことであった。これは淋しいことである。私はアマチュアでなくなったのかも知れないが、アマチュアの方が幸福であるとも言える。
 しかし考えてみると、読書の態度における右のような変化は、卒業論文の以前から生じつつあったものらしい。大学の二年生の夏、二十日間ばかり、私は上野の図書館へ通いつめた。『心理学概論』を書くためである。社会学科の先輩に下地寛令という人がいて、当時内務省の警察講習所で警官相手に心理学を教えていた。下地さんは講義用の教科書の作成を私に依頼した。それまでの私は心理学に対して何の興味も持っていなかった。だが約束された経済的条件は、私にとって大きな魅力であったし、少し始めて見ると、忽ち面白くなってしまった。何でも直ぐに面白くなって、これに食いついてしまうというのは、私の癖である。『心理学概論』の執筆を承知した日から今日まで、私は如何に多くのものに直ぐ興味を感じ、自分をこれに結びつけて来たことであろう。とにかく、私は、あの陰気な上野の図書館へ通って、滅茶苦茶に内外の文献を読み、それから得た知識に整理を施して、到頭一冊の本を作った。昭和四年十月発行で、菊判161頁、別に13頁の文献目録、沢山の図版が入っている。全体は三部に分れ、第一部は「心理学の歴史」、第二部は「心理学の諸分科」、第三部は「精神機能一般」と題せられている。巡査のうちには、私の作った教科書で心理学を勉強した人間がかなりいるであろう。私は完成の後に百円の謝礼を貰うことになっていた。私はこれに誘惑されて書いたのである。しかし、結局、私は一文も貰えなかった。これによって私が得たものがあったとすれば、それは書物を道具として使うという淋しい態度だけであった。」清水幾太郎『私の読書と人生』講談社学術文庫、1977、pp.85-91. 


B.徴用工問題の解決策
 戦争中に徴兵などで労働者が不足した日本企業が、朝鮮半島からなかば強制的に労働者を徴用して働かせた事実がある。過酷な労働と低賃金もあって、戦後韓国から徴用工への賠償を関係した日本企業に命じる最高裁判決が出たことで、慰安婦問題と並んで日本の戦争責任の一端として追及され、日本はすでに日韓条約で解決済みの問題と拒否した。これが日韓関係の悪化を招いたまま、こじれてきたことは周知のことだ。これに何とかひとつの解決策として、韓国側から出てきた提案が以下のようなものである。

 「三両のお金を拾った男が落とし主に届ける。この落し主が頑固な江戸っ子で受け取りを拒否する。いったん俺の懐から離れたのだから、俺のカネじゃない。届けた男も江戸っ子で、そんな道理はねえとつっかえし、取っ組み合いとなる▼落語の「三方一両損」。南町奉行の大岡様がどう裁いたかはご存知だろう。二人のまっすぐさに越前守は一両を加え、四両のほうびを出し、これを二人で二両ずつ受け取らせる。元は三両。大岡様を含め三人とも一両ずつ損をすることでまるく収めた。奉行が一両を出す理屈はなかろうが、これも知恵か▼複雑な解決策に大岡裁きを思った。戦争中、日本の企業が朝鮮半島の人々を働かせた徴用工の訴訟問題である。韓国側から解決に向けた知恵が出てきた▼元徴用工は日本企業に賠償を請求し、韓国最高裁が支払いを命じている。日本側は徴用工問題は1965年の日韓請求権協定で解決済みという立場。今回の解決策はこの賠償金を韓国の財団が肩代わりするという内容である▼肩代わりとはいえ、見方によっては日本側は賠償に応じたことになる。日本企業のお金で償ってほしい元徴用工も納得しにくい▼韓国の財団が肩代わりするというのも分かりにくいが、それぞれが「損」をがまんしても日韓関係に深く刺さったトゲを抜こうということなのだろう。「これにて一件落着」となるか。」東京新聞2023年1月17日朝刊1面、筆洗。
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