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「日本近代美術史論」を読む 1 高橋由一  海外への留学生が減っている?

2024-04-07 17:39:33 | 日記
A.近代洋画の黎明
 明治の西洋をモデルと見た近代化は、さまざまな分野で急速に浸透していったが、それが可能となったのは、すでに19世紀半ばの幕末期に、西洋の文物・技術・書物などが入っていて、とくに横浜と神戸開港によって一気に輸入文化の学習が進んでいった。経済や科学技術はいうに及ばず、法律や芸術についても、欧米から教師を読んで学ぶと同時に留学生を送り出し、西洋列強に追いつけ追い越せの熱が高まった。しかし、短期間で学習できる技術ならともかく、西洋近代の文化的基盤とはまったく異なる日本で、たとえば美術のようなものがどのような受容と展開をしていったのか、はその後の日本の近代化を見る上で、重要な問題を提起する。それは端的に、伝統的技法で描く「日本画の再構築」と西洋油絵や銅版画などの技法を摂取して描く「洋画の創造」が並行していたという事実を見ていく必要がある。
 そこで、この問題を具体的に画家に即して分析し論じたものが、高階秀爾の力作評論『日本近代美術史論』1980年、講談社文庫であるが、この原著が出たのはさらに前の1972年1月であり、そのあとがきによれば、1967年から69年の期間に執筆されたものだという。その初めの部分が高橋由一論であり、講談社の『季刊藝術』に掲載されたものである。『季刊藝術』は、遠山一行、江藤淳、古山高麗雄と高階秀爾の四人を同人として発行されていたもので、音楽、美術、文学を中心に当時新進から中堅の実力派の論者の論考を載せていたので、ぼくはまだ学生だったが、毎号買って読んでいた。高階氏はいうまでもなく、五年間のパリを中心とする欧州留学から帰って、精力的に欧州近代美術を中心とする評論を発表することで注目されていた。今、改めてこれを読もうと思ったのは、ぼくたちが美術といった時、オーソドックスな知識はまず印象派から始まってピカソやマチスの20世紀西欧絵画を常識的に考える。そしてそれ以降の現代美術へと見ていくわけだが、日本では「洋画」と一括される油絵や彫刻と「日本画」と呼ばれる絵画が併存するのが当たり前のように思われている。美大で洋画科、日本画科があるように、その違いは主に使う絵具や素材の違いが頭にある。でもこれは、明治以降にいくつかの契機でできあがってきたものと考えられる。
 そのへんを改めて、考えるにはこの『日本近代美術史論』ほど、多面的に教えてくれる本はないと思う。まずは冒頭の高橋由一論から読んでみる。

 「私が高橋由一の「花魁」(東京芸術大学所蔵)を初めてじかに見ることができたのは、五年間にわたる欧州滞在から日本に戻って何年か経った後のことであった。むろんそれまでにも、日本近代洋画史の冒頭に登場するこの作品のことを知らなかったわけではないし、上出来とは言えないまでも色刷りの複製で自分なりに作品の概念を形作ってもいた。しかし、鎌倉の近代美術館の展示室で現実に作品に接したとき、私は自分のそれまで持っていたどこか漠然とした作品のイメージが、急に透明なものとなって音もなく崩壊していくのをはっきりと感じた。私の前にあったのは、まったく見も知らぬ他人のように冷たく強烈で、不気味でさえもある別のものであった。それは、ほとんど驚愕に近い新鮮な衝撃であったといってよい。そして、むろんその衝撃は私にとって不快なものではなかった。私はいつかこの作品の前で快い昂奮にひたっている自分を幸福に感じていた。
 もちろん、現実に作品に接してみてそれまで自分がひそかに作り上げていたそのイメージがすっかり別のものになってしまうという体験は、私にとってかくべつ珍しいものではなかった。それどころか、ヨーロッパ滞在中は、そのような体験の連続であったとさえ言える。しかし日本に帰ってから、それも明治以降の洋画についてそのような体験を味わうのは、きわめて稀であった。しかも、由一の「花魁」の前で感じた新鮮な感動のなかには、例えばロマネスクの教会堂やルネッサンス期の名作に接したときに受ける感動とは、どこか微妙な点で食い違うものがあるように思われた。少なくともヨーロッパにおいては、「花魁」を前にして私が覚えたような苛立たしさに似た感じ、一種の異和館ともいうべきものをほとんど感じたことはなかった。
その違和感というのは、単に自分にとって馴染みが薄いという感じとは違うものである。西欧の芸術作品のなかにも、自分にとってきわめて身近なものという共感を与えてくれるものもあれば、どうしても自分には馴染みのないという縁遠い存在もある。しかしいずれの場合にせよ、作品に強い印象を受けた時、その印象がいかに思いがけないものであっても、私はほとんどつねに納得させられた。ヴェズレーの教会堂においても、システィナの礼拝堂においても、私があらかじめ自分のなかに作り上げていたイメージは見事に崩壊させられてしまったが、しかし私は、その驚きを自分で受け入れることができた。だが由一の「花魁」の場合はそうではなかった。私は納得させられなかったのである。ヴェズレーやローマにおいて私の感じた感動が、「なるほど、そうだったのか」という驚きをともなっていたとすれば、「花魁」から受けた感動のなかには「いや、そんなはずはない」という違和感が、拭い去り難くつきまとっていたのである。
 そのような違和感は、もしかしたら、私が無意識のうちに、「花魁」の作者のなかにさえ、ナルキッソスに憧れながら自分の言葉では語ることのできなかったあの神話の世界のニンフのように、西欧流の絵画表現に憧れながらただそのこだまだけを空しく繰り返していた多くの日本近代画家たちと同じ運命を予期していたことに由来するものであるかもしれない。わが国の近代洋画史が、西欧絵画の技法と様式をたえず追いかけ続けながらそれを何とかしてとり入れようとした模倣と移植の歴史であったということは、今やほとんど常識となったかのように見える。もしそうであるとするなら、由一の場合にしても、西欧の油絵の持つ写実的表現を輸入しようとして、かなりの程度までそれに成功した画家というもっぱら技術的な次元に問題は還元されてしまうであろう。事実、これまでの由一に対する見方は、その「成功」の度合いをどの程度まで評価するかによって意見は分かれるとしても、問題の所在を写実的技法の次元で捉えようとするものが多かったことは否めない。例えば、土方定一氏は、かつて『日本近代洋画史』(昭森社 昭和十六年刊)のなかで、高橋由一も含めて明治初期の日本の洋画の課題は、写真のような写実性を追求した技術的問題であり、「美意識以下の問題」だと規定したし、最近では匠秀夫氏が『近代日本洋画の展開』(昭森社 昭和三十九年刊)において、由一の意義を、「素朴な写真主義による写実主義の基礎づけ」という点にあると断定している。(ただし、土方氏は、近著『日本の近代美術』においては、由一に対してかなり違った評価を与えている。この点については、後に触れることになるであろう)
 もちろん、私が「花魁」を前にした時、西欧絵画の歴史のなかで作られてきた油絵というものの概念をどこか頭の片隅に置いていて、それとの対比において由一の作品を眺めたということは、大いにあり得ることである。しかし、その結果そこに「美意識以下」の技法の問題だけしか見なかったとしたら――つまり「花魁」の画面は西欧の油絵の技法をかなりうまく消化してはいるが、まだ至らぬ点もあるというように感じたものとすれば――私はこの作品にある程度の不満、あるいは逆に(といっても結局は同じことであるが)ある程度の満足を覚えたとしても、あのような違和感は感じなかったであろう。私がこの画面の前で「いや、そんなはずはない」と感じたというのは、単に西欧の油絵の技法一般とのずれを感じたからだけではなく、西欧の油絵という技法の奥にある感受性とは明らかに異質の感受性がそこにあり、しかもその異質の感受性が、本来それにふさわしい乗物ではない油絵という技法に乗って見る者に伝えられて来るというそのことに由来するように思われる。つまり、由一の作品が、少なくとも「花魁」が、われわれに投げかける問題は、決して単に技法の習得の程度の問題ではなく、異質の感受性のぶつかりあいの問題なのである。
 例えばこの「花魁」の豪奢な衣装の表現を見てみるがよい。毛皮のついた裲襠(うちかけ)の紫がかった黒と赤、それに胸許の白い襟や茶褐色の毛皮などの鮮やかな色の対比、または漆黒の髪に無残なほど差し込まれた鼈甲の櫛と多数の笄、簪、そして兵庫下髪と呼ばれるこの髷を結ぶ白い水玉模様のはいった青い手がら等々に見られる色彩配合は、ルネッサンス期から現代までの西欧のどのような感受性ともおよそ無縁のもののように見える。まして、毛皮の部分の表現などに、かなり筆跡の濃い厚塗りの部分があるにもかかわらず、この画面が全体としていちじるしく平板な――ほとんそ不自然なほど平板な――印象を与えるのも絵画特有の「迫真的な写実性」を追求したはずの明治期の洋画家というイメージにそぐわない何かを感じさせる。
 四かも重要なことは、「花魁」の画面の持つそのような「平板さ」や、西欧的なヴァルールの調和を無視したような色彩の並列が、決してただ油絵技法の習得の未熟さによるものではなく、逆に油絵本来の感受性とは異質の感受性によって強く支えられていることである。それというのも、「おいらん」のはいごにあるその異質な感受性の存在を、私自身、自分のなかにはっきりと認めるからである。さもなければ、私は「花魁」の画面にあれほどまで強烈な衝撃を受けることなど、あり得なかったに相違ない。それは単純に下手な油絵か、せいぜいのところエキゾティックな興味をかき立てるほどのものでしかなかったはずである。だが、西欧的な意味からすれば「破格な」その画面に、私は紛れもない自分自身の感受性に呼びかける何かを感じ取った。私が「花魁」の前で味わった新鮮な感動は、「迫真的な写実性」以上に、私の内部に眠っていた「歴史」に対するその呼びかけの強烈さに由来するものであった。明らかに私は、「花魁」のなかに自分の同胞を見出していた。いや自分自身のなかに「花魁」の世界の存在を感じ取っていたのである。
 もちろん、「花魁」の画面にそのような強い共感を覚えるということは、その画面の持つ「破格な」表現が解消されてしまったということにはならない。それどころか、「花魁」の持つ「破格な」特性は、そのまま増幅されて私自身のなかに再生させられた。もはや明治初年のある絵画作品のなかにではなく、私自身の内部において、歴史が大きな裂け目を見せはじめていたのである。私が「花魁」の画面に感じた違和感の正体は、おそらく自分の内部の歴史のその亀裂の深さであったに相違ない。
 したがって、私は「花魁」の画面に感動して、それにもかかわらず違和感を覚えたのではない。私の感動そのものが、違和感によって支えられていたのである。似たような体験は、例えば岸田劉生の「麗子像」のある種のものに対しても私は味わった。より少ない程度においてではあるが、小出楢重の裸婦のあるものが私に与えてくれた感動も。それに近い。もしかしたら、そのような違和感は、多かれ少なかれ近代日本のかいがしにつねにつきまとっているものかもしれない。だが差し当たり今のところはその問題は問わない。この小論の主題は高橋由一である。そして、私の由一との出会いは、「花魁」の画面に感じたあの違和感にはじまるのである。
 高橋由一が、川上冬崖と並んで日本における近代洋画の開拓者であることは、あらためて言うまでもない。そして冬崖も由一も、西欧の油絵の持つ「迫真的」な表現力に惹かれて、洋画の研究に志したということも、多くの研究者の指摘する通りであろう。事実、由一自身、晩年になって息子の源吉に筆記させた『高橋由一履歴』(明治二十五年刊)のなかで、「嘉永年間或ル友人ヨリ洋製石版画ヲ借観セシニ悉皆真ニ逼リタルカ上ニ一ノ趣味アルコトヲ発見シ忽チ習学ノ念ヲ起シ」たと、自から洋画の映像世界にはじめて触れた時の驚きを懐古している。この『高橋由一履歴』は、最初は刊行の意図なく、ただ家族のためにのみ語られたもので、由一自身、「我家ノ子孫コレニヨリテ予カ一生ノ梗概ヲ知ルヲ得ハ足レリ必ス此ノ稿ヲ門外ニ出シテ我愧ヲ重フスルコト勿レ」といましめているくらいで、いわば身内のメモのようなものに過ぎないが、しかしそれだけに、由一が何の飾りも衒いもなく自分の生活を淡々と述べたものとして、貴重な文献である。まして由一の経歴については、全体でわずか三十頁ほどのこの小冊子以外拠るべきものはほとんどないということになれば、なおのことそうであろう。したがって、明治初期洋画について語る研究者たちが、ほとんど申し合わせたようにこの「嘉永年間云々」の一節を引用しているのも、あえて異とするにはあたらない。ただ、この有名な一節を引用する者は、いずれもその内容を文字通り事実として受け取っているが、しかし私には、その内容は、歴史的にいささか修正を要するもののように思われる。この一節から彼が蕃所調所の画学局にはいるまでの経過を述べた部分は、次のようなものである。
 「嘉永年間或ル友人ヨリ洋製石版画ヲ借観セシニ悉皆真ニ逼リタルカ上ニ一ノ趣味アルコトヲ発見シ忽チ習学ノ念ヲ起シタレドモ其伝習ノ道ヲ得ルコト難キニヨリ日夜苦心焦慮シケル中官ニ請フテ海外人ニ随フノ外アルヘカラストノ考ヘツキシカ其手続を得事能ハサレハ空シク日ヲ送リシニ又其前創設ノ蕃所調所ニハ万一用画法ヲ見聞スルノ一端ヲ得ルコトモアルヘシト思ヒ当リヌヨリテ種々他人ニ要路ヲ試問セシモ便利ヲ得サリシカ幸ヒニ甲州産ノ道具屋利兵衛トイフ者麹町ニ居リ入魂ナリシカハ同人ニ尋問セシニ同人ノ曰ク親戚ナル同国人真下専之丞氏目下蕃所調所ノ組頭ヲ奉職セリ速ニ同人ニ委託セハ良結果アルヘシト由一コレヲ聞キ雀躍ノ余リ厚ク紹介ヲ委託セシニ日ヲ置キテ真下氏ノ答ニ本人ノ志願嘉スヘシ調所内ニハ夙ニ画図局アリ先輩ノ教官アリテ学生ヲ教導セリ早ク入学願書ヲ出スヘシトアリシ由通セラレシカハ天ニモ昇ル心持シテ文久二年九月五日免許ヲ得入学ヲ終ワリ画局教官川上万之丞ノ指示ヲ受ケ通学勉学セリ…」
 
 この一文を読んで私が疑問に思うところというのは、由一が「或ル友人ヨリ洋製石版画ヲ借観」したのが「嘉永年間」だというのは、いささか年代的に早過ぎるのではないか、それは実は嘉永年間ではなくて、もう十年ほど後の文久年間ではなかったろうかということである。
 といって私は、嘉永年間に「洋製石版画」があったはずはないなどと言っているのではない。土方氏が『日本の近代美術』(岩波新書 昭和四十一年刊)において指摘しているように、ここで由一の言う「洋製石版画」とは、「オランダわたりの通俗的な風景、風俗画であって、現在ならば、好事家の興味をひく程度の版画」とみて誤りないであろう。その程度のものなら、銅版画も含めれば、嘉永年間はおろか十八世紀以前においても、長崎を通じてかなりわが国に招来されている。むろん、「通俗的」なものと言っても、透視画法や明暗法を駆使したその表現は、充分に由一を驚かずに足るだけのものを持っていたに相違ない。
 私が由一の「洋製石版画体験」を嘉永年間から文久年間まで引き下げようというのは、先に引いた文章自体、そうでなければ解釈のつかぬものを持っているからである。事実彼自身語るところによれば、洋製石版画を見て「忽チ習学ノ念ヲ起シ」てから蕃所調所に入るまで、かなり短時日のあいだに事が運んだように思われる。由一にしてみれば、何とかして洋画を学びたいと「日夜苦心焦慮」して八方手を尽くしたであろうから、習学を決心してから画学局入学まで、早ければ数か月、どんなに長くかかったとしてもせいぜい一年か二年の期間だったと考えるのが妥当であろう。ところで、もし由一の「洋製石版画体験」がほんとうに嘉永年間、すなわち1848年から1854年までのあいだに起ったものとすれば、その時から画学局に入学する文久二年(1962年)まで、最も短くて八年、長ければ十数年という歳月が経過している計算になる。これが文久二年だったということははっきりしているのであるから、「洋製石版画体験」もその直前、すなわち文久元年か二年のことであったと考えるのが適当であろう。」高階秀爾『日本近代美術史論』講談社文庫、1980.pp.8-15.

 この日本洋画の出発点ともいうべき高橋由一の、「洋製石版画体験」がいつのことだったか、をめぐってまるでミステリーの謎解きのような論考が続くことになる。高階美術評論の神髄のような箇所である。

B.留学生の未来
 世界には文明の中心として知識と情報が集積して栄えている場所があり、そこへ行けば、最新の知識と技術を学ぶことができる、と信じて遥かかなたの辺境から苦労してやってきた留学生たちによって、文明は伝播するということは、歴史上いくらでもあるが、日本にとってはその中心は永らく中国の王朝のある場所だった。文字も宗教も技術も、中華文化圏からの輸入で発展してきた東アジアの島国が、方向を変えて西欧近代文明のほうに中心があると信じ、いっせいに欧米に学ぶべく留学生を送り出したのは19世紀後半だった。その結果、日本はいちおう近代化を達成したと思ったけれど、もう欧米に学ぶことはない、「近代の超克」は日本から始まる、と一瞬考えたりしたのだが、どうもそうはいかなかった。今の日本はいろいろな面で行き詰っている。それを打開するには、若者を留学させて新進の知識や技術を学ばせる必要があると考えて、政府は留学生倍増計画を作ったのだろうが、これが成功するとはとてもいえない。

「海を越えて学ぶ意義:週の初めに考える
 「日本」の国号を公式に使い始めたばかりの717年、吉備真備や阿倍仲麻呂ら557人が4隻の帆船で、難波の港(現・大阪市)から旅立ちました。その半数は舟の漕ぎ手。目指すは最大の国際都市、長安(中国西安)でした。
 玄宗皇帝が治めた唐の都はシルクロード交易で繁栄。中央アジアのソグド人、ペルシャ人、ムスリム商人のほか、日本、朝鮮半島、ベトナムなどアジア各地から多様な人々が集まっていました。
 ほぼ20年に一度、海を渡った留学生の目的は最新の学問と技術、語学を学び、仏教や儒教の経典などを手に入れることでした。
 真備は入唐から18年後、儒教全般にわたる典籍や史書を日本に持ち帰ります。さらに天文暦書、楽器、武器などを伝え、朝廷で異例の出世を果たしました。
 一方、仲麻呂は勉学に励んで科挙の最難関の進士に合格し、皇帝側近として位階を上ります。盛唐の詩人、李白や王維とも親しく交流しました。しかし、帰国船が難破し、奈良の「御蓋の山」を再び見ることなく、半世紀余りを過ごした唐で亡くなりました。
 804年には空海と最澄がともに留学僧として唐に入り、帰国後それぞれ真言宗、天台宗の開祖となったのはご存じの通りです。
 国を挙げての留学ブームは日本の歴史上3度あったとされます。遣隋使・遣唐使の後は、江戸の幕末から明治期にかけて欧米に使節・留学生が盛んに派遣されます。第2次大戦後はフルブライト交流をはじめ米国留学が主流になり、日本の復興と科学技術の発展に有為の人材を多数輩出しました。
 いずれも日本社会の大きな変革期に当たり、新たな政治・社会制度や先端技術を学ぶ必要に迫られてのことでした。
  4度目の留学熱なるか
 政府は今、4度目の留学熱を盛り上げようと躍起です。2033年までに年間50万人の留学生を送り出す目標を掲げました。新型コロナ禍前の19年の実績が22万2千人ですから、それを倍増させる野心的な計画といえます。
 内訳は学位取得などを目的とする大学生・大学院生らの長期留学が15万人(コロナ禍前は6万2千人)、中・短期の留学23万人(同11万3千人)、高校生の留学・研修12万人(同4万⑦選任)。
 しかし、大きな壁が立ちはだかっています。まずは経済的な問題です。1ドルが152円に迫る34年ぶりの円安は、海外での勉学と生活には大打撃です。奨学金制度の拡充が急務になります。
 大学に進学した若者が留学を志そうとするのは3~4年次が中心ですが日本ではインターンシップ(就業体験)や就職活動の時期に当たります。留学生を増やすには企業が採用制度を抜本的に見直す必要があるのかもしれません。
 人類は至急温暖化や、エネルギーと食糧・水資源の不足など共通の危機に直面しています。こういう激動の時代だからこそ海外で学ぶ意義があるのではないか。
 さまざまな人々と文化、多様な社会、価値観に触れることで相互理解が深まれば、単独では不可能でも、国際社会の協調により解決できる問題があることも気付くでしょう。平和の尊さを再認識する機会にもなります。
  絶えぬ紛争防ぐために
 コロナ禍は想像以上に海外との往来を妨げました。日本学生支援機構の最新の調査によると、22年度の大学生らの留学は、18年度のピーク時(約11万5千人)の半数余りにとどまります。
 米中対立など国際情勢の緊張も暗い影を落としています。
 北京大の賈慶国教授は3月、米国からの留学生が、10年前の訳1万5千人から昨年は約350人に激減したと明らかにしました。中国の「反スパイ法」も一因です。日本から中国への留学も18年度は8千人に迫りましたが、22年度は200人余りとみられます。
 米中対立の余波で日中関係も改善が進まない中、北京の日本大使館で3月、日本人留学生と中国人大学生の「合同成人式」が開かれました。14回目の式典には約150人が参加し、振袖や漢服姿で談笑しました。
 ウクライナやパレスチナ自治区ガザなど世界各地で紛争が絶えませんが、主義主張が違うからこそ留学などを通じてお互いの立場を知り、存在を認め合うことが重要です。相互理解こそが無益な衝突を防ぐのです。
 日本は居心地がよく、外に目が向かないかもしれません。でも未知の世界に飛び込む選択肢があることも忘れないでください」東京新聞2024年4月7日朝刊、5面社説。
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