A.確率論について
ものごとには白か黒か、正解か不正解か、YesかNoか、という二者択一的な考え方では対処できないことが多い。試験問題などでは正解はただ一つが望ましく、別解や、いろんな答えがあるのでは採点ができない。合格か不合格かははっきり示せなくてはいけない。しかし、たとえば明日の天気は必ず雨と予報できる場合は少なく、予報は降雨確率30%などという形で発表されている。それを聞いて人は「ちょっと雨も降るかもしれないが、たいしたことはなく、降らないかもしれない」と思う。これが確率論的な表現である。それはどうやって導かれるかといえば、天候に関する過去の経験値を総合して、起こると予想される可能性の程度、蓋然性を数値化しているわけだ。
ちなみに『広辞苑』で「確率」という項目を引いてみた。
「確率」[probability]いくつかの事象の生ずる可能性がある時、特定のひとつの事象が起こる可能性の程度を事前に予想して、これをその事象の起こる確率という。公算。蓋然律。蓋然量。蓋然性。確からしさ。-確率誤差[probable error]ある変量(たとえば測定値)が平均値からずれる誤差を著わす量。この誤差の範囲内に入る確率は二分の一である。-[確率抽出]無作為抽出に同じ。[確率予測]天気予報の一種。将来の天気の状態を断定せず、その状態が実現する確率を予報する。1980年より東京地方、82年7月より各府県の降水予報に試験的に実施。-確率論:事象生起の確立の理論および応用を研究する数学の一部門。
ついでに次の項目は「楽律」楽音の音律。また、楽音を音律の高低に従い整頓した体系。十二律、平均律の類。
確率のことを思い出したのは、ぼくのやっている調査の授業で毎度初歩的な統計の説明をしているからでもあるが、先日来漫画「美味しんぼ」での「鼻血」騒ぎをめぐって、福島原発の放射能への不安が話題になったからだ。放射性物質の飛散がいまの福島で、どうなっているのかは、皆が気になる所だが、放射能がどのくらい「危ないか」という問題は、白か黒か、ここまではよくてここから危ないという線が今すぐはっきり引けるものではない。つまり天気予報のような確率的な話だと考えてもよいかと思う。もう大丈夫安全です、というのもきわめて疑わしいが、むやみに危険だと怯えるのも根拠はさほど明確ではない。責任ある科学者なら確率的に言うしかない。セシウムの半減期だけでも長い時間が必要なうえに、原発事故で拡散された放射性物質にはセシウム以外にも人体に影響を与える物質がいろいろ含まれている。天気のように長い観測データが蓄積されていても、予報ははずれるのだから、原発事故の放射能汚染については、まだ分かっていないことが多い以上、今後数十年ていねいに見ていかないと予測はできないと思う。人間のもつ心理的効果や、対処行動の集積にも結果を左右する要素が含まれている。だから、ぼくは今のところ、福島浜通りについて安全とも危険ともいえない、判断保留にしようと考えている。
片隅の社会学者としての関心から言えば、放射能の危険性ではなく、別の問題がむしろ気になる。
2011年3月11日大震災の直後、福島第一原発の原子炉のいくつかが制御不可能になったとき、そこに勤務していた東電職員の9割が会社上司の構内待機命令に従わずに、南方の福島第二原発方面に逃げたという事実が、最近当時の所長、亡くなった吉田昌郎氏の聴き取り調書報告の中にあることが明るみに出た。深刻な危機的状況の中にあって、自分の命も省みず原子炉の爆発に対処した人々、「FUKUSIMA50」が世界から称賛を浴びた裏に、そこからさっさと逃げ出した人々がいた。でもそれを、非難できる人がいるだろうか?東京電力の社員として、職務命令に従うのは当然とはいえ、それはたんに私企業内の問題に過ぎない。今ここで、自分の命を危険にさらしてまで会社の命令に従って放射能を浴びるか、自分の命と家族のために現場を離れて逃げるのか、の選択を彼らは迫られた。それをぼくたちは「おまえらはヒドい」と非難できるだろうか。
仕事のうえの義務など、しょせんは雇用契約上の問題である以上、それに反したからといって罰則はせいぜい懲戒減給などの処罰、最悪でもクビ解雇であって、命と天秤にかける価値はない。そんなことのために、愛する妻子の未来を損なう決断はできない。ぼくがその場にいたとしても、逃げる方を選ぶかもしれないと思う。ほんとうに信頼できる上司が残ってくれと言われたら残るだろうとは思うが・・。東電の社員であれば、原子炉から強濃度の放射能が飛び散ればどういうことが起るかは一般人よりは知っている。自分の身を守り人権を守ることが許されている社会を前提とすれば、事故を起こした原発から一目散に逃げるのは正当な権利ですらある。
そこで、問題は「想定外」のパニック的事態に遭遇してしまった時、人はふだん冷静な合理的判断をしている人でも、とりあえず「逃げる」道を選択し、その結果さらに「不測の事態」を惹起してしまう、ということだ。福島第一原発事故の場合、幸いにもと言うべきだろうが、最悪の事態を予測して現場できわどい判断をし、職員の多くが逃げ去った後も原子炉の冷却などに必死で対処した(吉田所長をはじめ)人がいたことは忘れてはならないだろう。この人たちも最善の行動ができたとはいえず、混乱の中でかろうじて踏みこたえた。地震にしても津波にしても、そこで人々がどのような行動を取ったかは、これからの記録と分析の課題である。だが、人間の能力には限界があり、間違いを100%避けることができるなどと思う人間は、確率論を認めていないわけで、そういう人が政治家や経営者にいるのは、それこそきわめて危ない。原発放射能に関する専門家という人にも、確率という考え方に立たない人がいて、その楽観的な見解は、ものごとを最悪の事態から考えるのではなく、いちばん予想通りうまくいった場合から考えている。「日本人は優秀だから」などという無根拠なファンタジー、これは救いがたい愚かさと紙一重だと思う。
B.「宮本武蔵」の世界
恐縮ながらまた「宮本武蔵」について、だが、内田吐夢版の「宮本武蔵」でひときわユニークな個性を発揮しているのが、武蔵の故郷作州宮本村の郷士の名家、本位田家の女性主「刀自」、浪花千恵子演じる「本位田のオババ」である。彼女は、武蔵(たけぞう)が後継ぎの一人息子又八をそそのかして関ヶ原の合戦に誘い、息子が行方不明になってしまったことで武蔵を深く恨み、仇をとると執念に燃えてこの長い物語の最後まで武蔵につきまとい、老女でありながら物凄いパワーで刀を振り回したり、吹き針を駆使して活躍する。社会学的にみたとき、この「本位田のオババ」は、日本的「イエ社会」の権化のような人物に描かれている。ぼくは昔この映画をはじめて見た時から、名女優浪花千恵子さんのオババに強い印象を受けていた。
刀自についても『広辞苑』にはこうある。
とじ「刀自」(トヌシ(戸主)の約。「刀自」は万葉仮名)①家事をつかさどる婦人。主婦。とうじ。万二〇「いませ母-面変りせず」②年老いた女。老女。宇治拾遺「女は耄いて雀かはるる」③貴婦人の尊敬語。欽明紀「青海婦人(おおとじ)」④禁中の御厨子所(みずしどころ)・台盤所・内侍所(ないしどころ)に奉仕した女房。下臈(げろう)の女官。⑤他人に仕えて家事をつかさどる婦人。いえとうじ。栄華「宮々の-専女(おさめ)にても」
日本の中世を貫く「イエ社会」は、家産の長子相続と家長がイエの主宰者として大きな権力を振るう家父長制の社会システムと考えられるが、もとは土地に結びついた開発(かいほつ)領主から形成された武士階級のイデオロギーである。自分の土地を維持する地縁的秩序と、それを誰が継承し子孫に伝えるかという血縁的倫理が基本になっている。血縁的といっても、中国や朝鮮半島のような血縁者の厳格な系譜原理とは少し違って、イエの存続のためなら養子縁組や廃嫡を頻繁に行うような、実利的な要素をもっていた。それが強固な制度になるのは、江戸幕府が成立してからで、「イエ社会」は武家から上層農家や商家などに拡大していった。たとえば家産のある上層階級の結婚は、イエとイエが結びつく契機であり、親族制度から地域社会に及んで日本的共同体の基礎となっていった。他家から嫁いできた「嫁」は、そのイエの家長の嫡子と結婚した以上、後継ぎを生むことを要請され、「3年子なきは去れ」という言葉があったように、男の子を産んで初めて嫁としての存在を認められ、やがては家長の妻として「主婦」の地位を約束された。
「ヨメ」という言葉が、最近ではお笑い芸人などから自分の妻の呼称として、若い男が使うようになっているが、「嫁」をめぐるこのような歴史的経緯を知っていれば、現代にはふさわしくないアナクロ用語だとぼくは思う。おそらく、これまでの自分の妻への呼称、「家内」「細君」「奥さん」「カミさん」「かあちゃん」などが、古臭くなったと感じて、「ヨメ」という言い方がなにか新しそうに思えたのだろうが、それは却ってもっと古い「イエ制度」を呼びおこすものだと彼らは無知だから気がついていない。
それはともかく、「宮本武蔵」に戻れば、「本位田のオババ」というキャラクターは、既に家長である夫を失っていて、唯一「イエ」を継承するはずの一人息子に、すべての夢・未来・希望を託していたのに、農村共同体を飛び出して武士としての成功を夢見た武蔵にそそのかされて、息子が失踪したことにイエの権威そのものを否定されたと怒っている。しかも、息子の許嫁、つまり嫁予定者のお通が、自分の後継者であるはずなのに、武蔵に惚れて逐電してしまったことにも怒る。まだ結婚したわけでもないお通にも、「ヨメ」役割を強要する。武蔵を仇と狙うのも、又八は生きていて他の女と同棲していたりするので、名義上も仇打ちは成立しないのだが、「イエ社会」の論理からすれば、すべてを破壊した武蔵の責任だという「イエ的秩序」を頑なに信じている。
さて、今の日本ではもうこのような「イエ社会的秩序」は、ほとんど崩壊している。今の若い世代にこの「本位田のオババ」の考えている理路は、理解を超えているだろうと思う。でも、この映画で「本位田のオババ」が、異彩を放つのは、「イエ社会」の権化がオヤジ的な上から目線の威圧的男性、パトリオティズムの中年男ではなく、カリカチュアのような老女であることだろう。オババは武蔵から憐みと親しみをもって敬遠される。
「宮本武蔵」がなぜ戦後の日本人、あの激動の戦争時代を生き伸びた人々に、いろんな意味で愛好されたかの謎を解くカギがここにあるように思う。戦争に負けて、米軍の進駐軍に占領され、日本国憲法を始めとする戦後改革を受け容れた日本で、マッカーサーの一連の政治的・経済的・法律的な激変は一般大衆にとって、アメリカという異文化に制圧された悔しさをかみしめた半面、実はずいぶんと有難いものでもあった。そのひとつが農村共同体を核とする「イエ社会」の秩序の負の側面を、あっけらかんと否定したことだったと思う。
戦前の日本では、女が結婚という制度の外で生きていくことは難しく、親のすすめる見合い結婚で「嫁」役割を引き受けてイエのために子を生み、姑に仕えて家事育児を担う人生が当たり前とされていた。これに対して疑問を抱く女性は日本中にいたはずだが、他の選択肢は限られていた。それが、戦後の家族制度でまず法的な解除を行い、やがてロマンチック・ラブをモデルとする社会意識が徐々に浸透していき、自分が愛する男を「選べる」と思うことで、旧来の「イエ社会」がじわじわと壊れていった。その過程で「宮本武蔵」の世界は、二重の変容を遂げたのではないか、というのがぼくの仮説である。
つまり、二重の変容というのは、男にとっての武蔵の意味と、女にとってのお通の意味である。「本位田のオババ」が体現する「イエ社会」の論理に対抗する価値が、具体的にどのようなものであるかを示している物語として「宮本武蔵」を読み込む、ということになる。武蔵は、いったん「イエ社会」から飛び出して、剣の実力で成功を目指したが結果はみじめに敗北してしまう。しかし、お通のお蔭でこの失敗はリセットされ、彼は剣術修行に生きることで個人のメリトクラシーを求道者として追及する道にまい進する。これは、自分の生まれた共同体の重圧から解き放たれて、自分の実力一つで世間に認められるという戦後的個人主義を、戦前の文化的エリートの教養主義の衣をまとって塗り替え肯定することを意味する。俺もこれからは頑張って武蔵になれるかもしれず、勉強して大学に行けば新しい未来が開けるという希望が沸く。宮本武蔵が次々と敵を倒して栄光を獲得する物語として、これを読んだのは男のモデルである。しかも、剣の道に生きる武蔵は、すがりよるお通を愛しながら、恋は修行の邪魔だと拒否しながら、こうやって頑張っていれば美女が追いかけてくるはずだという、虫のよい期待が潜んでいた。成功した男には、綺麗な女がいくらでもすり寄ってくる、という妄想は、それ自体これから世の中に出てゆく若い男の子たち精神的に満足させる。
一方、女にとって自己同一の対象はお通である。孤児であったお通は、「本位田のオババ」が期待している「イエ社会」の秩序を運命として受け容れていたが、それが婚約者のだらしのない背信によって裏切られてしまったゆえに、女としての生き方を捉え直す。彼女の希望は、西洋流のロマンチック・ラブとはいえないが、自分を解放してくれそうな武蔵という変な男への恋愛に賭けてみるという決断にある。これはつねに拒否されるのだが、お通は武蔵を追いかけることをやめないことによって、自分の女としてのアイデンティティを一貫させる。これも、戦後日本社会を生きた多くの女性にとって、自分の結婚を「イエ的秩序」ではなく、唯一排他的な愛の成就を追求することで今までの女の生き方ではない新しさを示唆していると考えた、かもしれない。自分の好きになった男によって、自分は特権的に愛され解放されるという夢の追及。
しかし、それは結局報われたのだろうか?戦後日本の経済的成功は、多くの武蔵を成功に駆りたて、企業戦士たちは愛する妻を獲得して満足し、いつのまにか「イエ社会」の郷愁の中に沈んでいった。でも、その武蔵と結婚した女たちは、やがて自分はお通ではなく、ただの「ヨメ」としてイエと共同体に奉仕して家事育児で一生を終るだけでは満足できなくなった。そのとき、「宮本武蔵」の使命は終わって、男たちは武蔵の禁欲倫理を棄てて、無邪気に女と遊ぶ「坂本龍馬」に目を移していった。だが、女たちはもう男にすがりつき依存的なお通にも、龍馬の楽しい遊び相手のお龍にも魅力を感じなくなっていた。21世紀、男のロールモデルはどのような男なのか?今のところロクなモデルは出ていない。そして、女のロールモデルもいまのところ、?
ものごとには白か黒か、正解か不正解か、YesかNoか、という二者択一的な考え方では対処できないことが多い。試験問題などでは正解はただ一つが望ましく、別解や、いろんな答えがあるのでは採点ができない。合格か不合格かははっきり示せなくてはいけない。しかし、たとえば明日の天気は必ず雨と予報できる場合は少なく、予報は降雨確率30%などという形で発表されている。それを聞いて人は「ちょっと雨も降るかもしれないが、たいしたことはなく、降らないかもしれない」と思う。これが確率論的な表現である。それはどうやって導かれるかといえば、天候に関する過去の経験値を総合して、起こると予想される可能性の程度、蓋然性を数値化しているわけだ。
ちなみに『広辞苑』で「確率」という項目を引いてみた。
「確率」[probability]いくつかの事象の生ずる可能性がある時、特定のひとつの事象が起こる可能性の程度を事前に予想して、これをその事象の起こる確率という。公算。蓋然律。蓋然量。蓋然性。確からしさ。-確率誤差[probable error]ある変量(たとえば測定値)が平均値からずれる誤差を著わす量。この誤差の範囲内に入る確率は二分の一である。-[確率抽出]無作為抽出に同じ。[確率予測]天気予報の一種。将来の天気の状態を断定せず、その状態が実現する確率を予報する。1980年より東京地方、82年7月より各府県の降水予報に試験的に実施。-確率論:事象生起の確立の理論および応用を研究する数学の一部門。
ついでに次の項目は「楽律」楽音の音律。また、楽音を音律の高低に従い整頓した体系。十二律、平均律の類。
確率のことを思い出したのは、ぼくのやっている調査の授業で毎度初歩的な統計の説明をしているからでもあるが、先日来漫画「美味しんぼ」での「鼻血」騒ぎをめぐって、福島原発の放射能への不安が話題になったからだ。放射性物質の飛散がいまの福島で、どうなっているのかは、皆が気になる所だが、放射能がどのくらい「危ないか」という問題は、白か黒か、ここまではよくてここから危ないという線が今すぐはっきり引けるものではない。つまり天気予報のような確率的な話だと考えてもよいかと思う。もう大丈夫安全です、というのもきわめて疑わしいが、むやみに危険だと怯えるのも根拠はさほど明確ではない。責任ある科学者なら確率的に言うしかない。セシウムの半減期だけでも長い時間が必要なうえに、原発事故で拡散された放射性物質にはセシウム以外にも人体に影響を与える物質がいろいろ含まれている。天気のように長い観測データが蓄積されていても、予報ははずれるのだから、原発事故の放射能汚染については、まだ分かっていないことが多い以上、今後数十年ていねいに見ていかないと予測はできないと思う。人間のもつ心理的効果や、対処行動の集積にも結果を左右する要素が含まれている。だから、ぼくは今のところ、福島浜通りについて安全とも危険ともいえない、判断保留にしようと考えている。
片隅の社会学者としての関心から言えば、放射能の危険性ではなく、別の問題がむしろ気になる。
2011年3月11日大震災の直後、福島第一原発の原子炉のいくつかが制御不可能になったとき、そこに勤務していた東電職員の9割が会社上司の構内待機命令に従わずに、南方の福島第二原発方面に逃げたという事実が、最近当時の所長、亡くなった吉田昌郎氏の聴き取り調書報告の中にあることが明るみに出た。深刻な危機的状況の中にあって、自分の命も省みず原子炉の爆発に対処した人々、「FUKUSIMA50」が世界から称賛を浴びた裏に、そこからさっさと逃げ出した人々がいた。でもそれを、非難できる人がいるだろうか?東京電力の社員として、職務命令に従うのは当然とはいえ、それはたんに私企業内の問題に過ぎない。今ここで、自分の命を危険にさらしてまで会社の命令に従って放射能を浴びるか、自分の命と家族のために現場を離れて逃げるのか、の選択を彼らは迫られた。それをぼくたちは「おまえらはヒドい」と非難できるだろうか。
仕事のうえの義務など、しょせんは雇用契約上の問題である以上、それに反したからといって罰則はせいぜい懲戒減給などの処罰、最悪でもクビ解雇であって、命と天秤にかける価値はない。そんなことのために、愛する妻子の未来を損なう決断はできない。ぼくがその場にいたとしても、逃げる方を選ぶかもしれないと思う。ほんとうに信頼できる上司が残ってくれと言われたら残るだろうとは思うが・・。東電の社員であれば、原子炉から強濃度の放射能が飛び散ればどういうことが起るかは一般人よりは知っている。自分の身を守り人権を守ることが許されている社会を前提とすれば、事故を起こした原発から一目散に逃げるのは正当な権利ですらある。
そこで、問題は「想定外」のパニック的事態に遭遇してしまった時、人はふだん冷静な合理的判断をしている人でも、とりあえず「逃げる」道を選択し、その結果さらに「不測の事態」を惹起してしまう、ということだ。福島第一原発事故の場合、幸いにもと言うべきだろうが、最悪の事態を予測して現場できわどい判断をし、職員の多くが逃げ去った後も原子炉の冷却などに必死で対処した(吉田所長をはじめ)人がいたことは忘れてはならないだろう。この人たちも最善の行動ができたとはいえず、混乱の中でかろうじて踏みこたえた。地震にしても津波にしても、そこで人々がどのような行動を取ったかは、これからの記録と分析の課題である。だが、人間の能力には限界があり、間違いを100%避けることができるなどと思う人間は、確率論を認めていないわけで、そういう人が政治家や経営者にいるのは、それこそきわめて危ない。原発放射能に関する専門家という人にも、確率という考え方に立たない人がいて、その楽観的な見解は、ものごとを最悪の事態から考えるのではなく、いちばん予想通りうまくいった場合から考えている。「日本人は優秀だから」などという無根拠なファンタジー、これは救いがたい愚かさと紙一重だと思う。
B.「宮本武蔵」の世界
恐縮ながらまた「宮本武蔵」について、だが、内田吐夢版の「宮本武蔵」でひときわユニークな個性を発揮しているのが、武蔵の故郷作州宮本村の郷士の名家、本位田家の女性主「刀自」、浪花千恵子演じる「本位田のオババ」である。彼女は、武蔵(たけぞう)が後継ぎの一人息子又八をそそのかして関ヶ原の合戦に誘い、息子が行方不明になってしまったことで武蔵を深く恨み、仇をとると執念に燃えてこの長い物語の最後まで武蔵につきまとい、老女でありながら物凄いパワーで刀を振り回したり、吹き針を駆使して活躍する。社会学的にみたとき、この「本位田のオババ」は、日本的「イエ社会」の権化のような人物に描かれている。ぼくは昔この映画をはじめて見た時から、名女優浪花千恵子さんのオババに強い印象を受けていた。
刀自についても『広辞苑』にはこうある。
とじ「刀自」(トヌシ(戸主)の約。「刀自」は万葉仮名)①家事をつかさどる婦人。主婦。とうじ。万二〇「いませ母-面変りせず」②年老いた女。老女。宇治拾遺「女は耄いて雀かはるる」③貴婦人の尊敬語。欽明紀「青海婦人(おおとじ)」④禁中の御厨子所(みずしどころ)・台盤所・内侍所(ないしどころ)に奉仕した女房。下臈(げろう)の女官。⑤他人に仕えて家事をつかさどる婦人。いえとうじ。栄華「宮々の-専女(おさめ)にても」
日本の中世を貫く「イエ社会」は、家産の長子相続と家長がイエの主宰者として大きな権力を振るう家父長制の社会システムと考えられるが、もとは土地に結びついた開発(かいほつ)領主から形成された武士階級のイデオロギーである。自分の土地を維持する地縁的秩序と、それを誰が継承し子孫に伝えるかという血縁的倫理が基本になっている。血縁的といっても、中国や朝鮮半島のような血縁者の厳格な系譜原理とは少し違って、イエの存続のためなら養子縁組や廃嫡を頻繁に行うような、実利的な要素をもっていた。それが強固な制度になるのは、江戸幕府が成立してからで、「イエ社会」は武家から上層農家や商家などに拡大していった。たとえば家産のある上層階級の結婚は、イエとイエが結びつく契機であり、親族制度から地域社会に及んで日本的共同体の基礎となっていった。他家から嫁いできた「嫁」は、そのイエの家長の嫡子と結婚した以上、後継ぎを生むことを要請され、「3年子なきは去れ」という言葉があったように、男の子を産んで初めて嫁としての存在を認められ、やがては家長の妻として「主婦」の地位を約束された。
「ヨメ」という言葉が、最近ではお笑い芸人などから自分の妻の呼称として、若い男が使うようになっているが、「嫁」をめぐるこのような歴史的経緯を知っていれば、現代にはふさわしくないアナクロ用語だとぼくは思う。おそらく、これまでの自分の妻への呼称、「家内」「細君」「奥さん」「カミさん」「かあちゃん」などが、古臭くなったと感じて、「ヨメ」という言い方がなにか新しそうに思えたのだろうが、それは却ってもっと古い「イエ制度」を呼びおこすものだと彼らは無知だから気がついていない。
それはともかく、「宮本武蔵」に戻れば、「本位田のオババ」というキャラクターは、既に家長である夫を失っていて、唯一「イエ」を継承するはずの一人息子に、すべての夢・未来・希望を託していたのに、農村共同体を飛び出して武士としての成功を夢見た武蔵にそそのかされて、息子が失踪したことにイエの権威そのものを否定されたと怒っている。しかも、息子の許嫁、つまり嫁予定者のお通が、自分の後継者であるはずなのに、武蔵に惚れて逐電してしまったことにも怒る。まだ結婚したわけでもないお通にも、「ヨメ」役割を強要する。武蔵を仇と狙うのも、又八は生きていて他の女と同棲していたりするので、名義上も仇打ちは成立しないのだが、「イエ社会」の論理からすれば、すべてを破壊した武蔵の責任だという「イエ的秩序」を頑なに信じている。
さて、今の日本ではもうこのような「イエ社会的秩序」は、ほとんど崩壊している。今の若い世代にこの「本位田のオババ」の考えている理路は、理解を超えているだろうと思う。でも、この映画で「本位田のオババ」が、異彩を放つのは、「イエ社会」の権化がオヤジ的な上から目線の威圧的男性、パトリオティズムの中年男ではなく、カリカチュアのような老女であることだろう。オババは武蔵から憐みと親しみをもって敬遠される。
「宮本武蔵」がなぜ戦後の日本人、あの激動の戦争時代を生き伸びた人々に、いろんな意味で愛好されたかの謎を解くカギがここにあるように思う。戦争に負けて、米軍の進駐軍に占領され、日本国憲法を始めとする戦後改革を受け容れた日本で、マッカーサーの一連の政治的・経済的・法律的な激変は一般大衆にとって、アメリカという異文化に制圧された悔しさをかみしめた半面、実はずいぶんと有難いものでもあった。そのひとつが農村共同体を核とする「イエ社会」の秩序の負の側面を、あっけらかんと否定したことだったと思う。
戦前の日本では、女が結婚という制度の外で生きていくことは難しく、親のすすめる見合い結婚で「嫁」役割を引き受けてイエのために子を生み、姑に仕えて家事育児を担う人生が当たり前とされていた。これに対して疑問を抱く女性は日本中にいたはずだが、他の選択肢は限られていた。それが、戦後の家族制度でまず法的な解除を行い、やがてロマンチック・ラブをモデルとする社会意識が徐々に浸透していき、自分が愛する男を「選べる」と思うことで、旧来の「イエ社会」がじわじわと壊れていった。その過程で「宮本武蔵」の世界は、二重の変容を遂げたのではないか、というのがぼくの仮説である。
つまり、二重の変容というのは、男にとっての武蔵の意味と、女にとってのお通の意味である。「本位田のオババ」が体現する「イエ社会」の論理に対抗する価値が、具体的にどのようなものであるかを示している物語として「宮本武蔵」を読み込む、ということになる。武蔵は、いったん「イエ社会」から飛び出して、剣の実力で成功を目指したが結果はみじめに敗北してしまう。しかし、お通のお蔭でこの失敗はリセットされ、彼は剣術修行に生きることで個人のメリトクラシーを求道者として追及する道にまい進する。これは、自分の生まれた共同体の重圧から解き放たれて、自分の実力一つで世間に認められるという戦後的個人主義を、戦前の文化的エリートの教養主義の衣をまとって塗り替え肯定することを意味する。俺もこれからは頑張って武蔵になれるかもしれず、勉強して大学に行けば新しい未来が開けるという希望が沸く。宮本武蔵が次々と敵を倒して栄光を獲得する物語として、これを読んだのは男のモデルである。しかも、剣の道に生きる武蔵は、すがりよるお通を愛しながら、恋は修行の邪魔だと拒否しながら、こうやって頑張っていれば美女が追いかけてくるはずだという、虫のよい期待が潜んでいた。成功した男には、綺麗な女がいくらでもすり寄ってくる、という妄想は、それ自体これから世の中に出てゆく若い男の子たち精神的に満足させる。
一方、女にとって自己同一の対象はお通である。孤児であったお通は、「本位田のオババ」が期待している「イエ社会」の秩序を運命として受け容れていたが、それが婚約者のだらしのない背信によって裏切られてしまったゆえに、女としての生き方を捉え直す。彼女の希望は、西洋流のロマンチック・ラブとはいえないが、自分を解放してくれそうな武蔵という変な男への恋愛に賭けてみるという決断にある。これはつねに拒否されるのだが、お通は武蔵を追いかけることをやめないことによって、自分の女としてのアイデンティティを一貫させる。これも、戦後日本社会を生きた多くの女性にとって、自分の結婚を「イエ的秩序」ではなく、唯一排他的な愛の成就を追求することで今までの女の生き方ではない新しさを示唆していると考えた、かもしれない。自分の好きになった男によって、自分は特権的に愛され解放されるという夢の追及。
しかし、それは結局報われたのだろうか?戦後日本の経済的成功は、多くの武蔵を成功に駆りたて、企業戦士たちは愛する妻を獲得して満足し、いつのまにか「イエ社会」の郷愁の中に沈んでいった。でも、その武蔵と結婚した女たちは、やがて自分はお通ではなく、ただの「ヨメ」としてイエと共同体に奉仕して家事育児で一生を終るだけでは満足できなくなった。そのとき、「宮本武蔵」の使命は終わって、男たちは武蔵の禁欲倫理を棄てて、無邪気に女と遊ぶ「坂本龍馬」に目を移していった。だが、女たちはもう男にすがりつき依存的なお通にも、龍馬の楽しい遊び相手のお龍にも魅力を感じなくなっていた。21世紀、男のロールモデルはどのような男なのか?今のところロクなモデルは出ていない。そして、女のロールモデルもいまのところ、?