A.長期的視点によれば…
19世紀には、音楽というものは生演奏のコンサートに行くか、自分で歌ったり楽器を演奏する以外に音楽に触れる機会はなかった。レコードによる録音再生という発明がなければ、それが当然だった。しかし、20世紀になると、音楽はレコードを買って家で独りで聴くのも普通になった。それは人類の幸福が一つ増えたと、みんな思ったのだ。そしてレコード産業が、流行曲を作り出し人々の音楽の感性を左右した時代が続き、レコードからCD、ミュージック・ヴィデオ、そして今はオンデマンド配信サービスの時代になった。
音楽に限らず、20世紀は人間の生活の中でこういった新しい科学技術の成果が、具体的な日常生活に浸透し、人類の幸福は大規模に増大したように思われた。しかし、ほんとうに19世紀の人たち(少なくともヨーロッパやアメリカの平均的な人々の生活水準)と比べて、ぼくたちの現在味わっている生活は、かなり幸福になったと思えるだろうか?と、アメリカの経済学者クルーグマンはコラムで述べている。
「科学技術140年の進歩 なぜ社会はもっと良くならない ポール・クルーグマン
19世紀のベストセラー小説のひとつにエドワード・ベラミーの「顧みれば」がある。ベラミーは科学技術の急速な進歩が、現代社会の特徴であることに最初に気づいた著名人の一人だ。彼はその進歩が人間に大きな幸せをもたらすと考えていた。
小説の中にこんな場面がある。1880年代から2000年にタイムスリップした主人公が音楽を聴かないかと誘われ、オーケストラの生演奏を今でいうスピーカーフォンで聴いて驚く。簡単に娯楽を楽しめる状況に、主人公はそれが「人間の幸せの極み」ではないかと考えるのだ。
ここ数日、私はスマートテレビでいくつか番組を見て、音楽の生演奏も視聴した。ストリーミング(配信)を使ってエンタメを楽しむことは、大きな楽しみの一つである。でも、それが幸せの極みかと問われれば、それほどのものではない。
ロシアとウクライナの戦争で、双方が互いに前線の奥深くの目標を攻撃するために、音楽配信を可能にしているのとほぼ同じ技術を使った長距離の精密誘導ミサイルをいかに使用しているかについて最近読んだ。ウクライナ側が弾薬庫を攻撃していると思われる一方で、ロシア側がショッピングモールを攻撃しているのは留意しておくべきだろう。だが、もっと重要なのは化学技術が多くの満足をもたらす一方で、新しい形の破壊も可能にすることだ。そして人類は悲しいことに、その新しい能力を大々的に利用してきたのである。
私がエドワード・ベラミーに言及したのは、近々出版される米カリフォルニア大学バークリー校の経済学教授ブラッド・デロング氏の新著を読んだためだ。デロング氏が指摘し、多くの人が知っているように人類の歴史の大部分、具体的には古代メソポタミアに最初の都市が出現したからの約97%の時間は、イギリスの経済学者マルサスの言う通りだった。多くの技術革新があったが、その恩恵は常に人口増加に飲み込まれ、ほとんどの人々の生活は最低限の水準まで引き戻された。
デロング氏が「マルサスの悪魔」と呼ぶものを一時的に上回る急速な経済成長がみられる時期もあった。ローマ帝国初期に一人当たりの所得が大幅に上昇したという研究もある。しかし、これらの現象は常に一時的なものだった。1860年代に至っても多くの有識者は産業革命による成長も同様に一過性のものだろうと考えていた。
しかし1870年ごろ、世界はそれまでとは全く異なる急速な技術の発展が続く時代に入った。世代が変わるごとに、親が生まれた世界とは全く異なる、新しい世界に生きていることを実感するようになった。
デロング氏が主張するように、この変革には二つの大きな謎がある。いずれも私たちが現在おかれている状況にも大いに関係している。
第一は、なぜ変化が起こったのかということだ。デロング氏は、三つの大きな「メタ変革」(これはデロング氏でなく私の造語だ)、つまり革新そのものを可能にした革新があったと論じている。それは、大企業の台頭、産業界による研究開発の進展、そしてグローバル化である。ここでその詳細を議論することも可能だが、大事なのはデロング氏を始め多くの研究者が、技術の進歩の速度が弱まっているのではないかと指摘していることだ。
もう一つは、これだけ技術が進歩しても、なぜ社会がもっと良くなっていないのかという点だ。私が彼の新著を読むまで十分に理解していなかったことの一つは、技術進歩がいかに人々に幸せをもたらしていないかということである。デロング氏が調査した140年の間に、西側社会が状況について楽観的だった時代は二つしかない(他地域は全く話が異なる)。
1度目は、1914年までの40年ほどの時期だ。人々は急速な発展を実感し、それを当然と思い始めるようになった。残念ながら、この楽観主義の時代は、戦火と血と暴虐の中で滅び、科学技術は恐怖を和らげるどころか、むしろ強めた。
2度目は、第2次世界大戦後にあった「栄光の20年」だ。社会民主主義のもとで市場経済の不備が労働組合と強力な社会保障制度によって補われ、ユートピアとは言わないまでも、人類が知る限り最もまともな社会がつくり出されたと思われる時代だ。しかし、この時代も終わりを迎えた。経済が後退したためだが、それ以上に激しさを増した政治問題によるところが大きい、極右の台頭もその一つで、民主主義自体を危険にさらしている。
1870年以降の驚異的な技術の進歩が、物事の改善に何も寄与していないと言い切るのは愚かなことだ。現在の米国の週間層は多くの点で、19世紀後半の「金ぴか時代」の大金持ちよりも、はるかに良い生活をしている。だが、オンデマンドのストリーミング音楽をもたらしたような進歩は、私たちを満足させたり、楽観的にさせたりするものではなかった。デロング氏はこの隔たりについて説明をしており、それは興味深いものではあるが、十分な説得力があるとは言えない。ただ、彼の本は間違いなく正しい問いを投げかけており、その過程で重要な歴史を確実に教えてくれる。
(NYタイムズ、6月28日付電子版 抄訳)」朝日新聞2022年7月22日朝刊15面オピニオン欄。
そういわれてみれば、ぼくたちは第二次大戦後の世界に生きてきて、特に日本では高度経済成長があって、生活がどんどん豊かになっていくように感じていた。しかし、19世紀末のベル・エポックから第1次大戦の破壊までの幸福増大の一回目、そして第二次大戦後の豊かなアメリカに象徴される「栄光の20年」の二回目は、ずっと階段を上るような右肩あがりの経済成長が続いていく道ではなく、たまたまいろんな条件がうまく働いて、科学技術がおおきな成果を生み出した奇跡的な時代だったにすぎなかったのかもしれない。そして、そういう幸福な幻想はすでに地球資源の枯渇と温暖化のように根拠を失いつつあり、この先はグローバルな世界協調ではなく、資源や覇権の奪い合い、混迷と対立の時代になっているのではないか。だったら、今までの科学技術がすべての課題を解決するというような技術万能の楽天主義は、むしろ災いをもたらす可能性が高い。
B.自民党でだいじょうぶか?
安倍元首相銃撃事件は、自民党の少なからぬ政治家たちが、旧統一教会と結びついていて、党の政治家がそのことに無自覚であったことを暴露した。トップの安倍さんがやっているのだから、オレたちも恩恵にあずかって選挙に勝てれば御の字だ、と思っていたわけだ。その程度の認識と、じつは冷戦時代の「反共」イデオロギーをよく考えもせずに信じて、左翼攻撃をするのが当たり前と考える若手の政治家が、自民党に限らずうようよいる。これが、日本の政治に及ぼす害悪は深刻なところにきていた、ということを今急に出てきたように思う人がいる。でも、これは単なるオウム真理教のようなカルト教団の問題とは少し違うのだ。
「安倍元首相銃撃事件:浮かぶ保守派の裏面史 田原 牧
約二十年前のことだ。いまでこそ「ジェンダー」は日常用語だが、この概念を覆す企てが激しく演じられた。バックラッシュ(揺り戻し)」と呼ばれる右派の運動だ。東京都日野市の都立七生養護学校(現七生特別支援学校)事件などで知られる。
旗振り役の一人は自民党の山谷えり子参院議員だった。取材を申し込むと、応対した秘書が「フランクフルト学派を知っていますか。私たちの勉強会に参加しませんか」と誘ってきた。内心『やっぱり』と思った。
バックラッシュでは旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)がうごめいていた。
なぜ、旧統一教会はジェンダー概念に反対なのか。一つは教義だ。彼らは人類の始祖は淫行で堕落し、神から贈られた「真の父母様(今日その文鮮明、妻の韓鶴子両氏)」の血統こそが人類を救済すると考える。その血統拡大に合同結婚式もある。ジェンダー概念に基づく個人の自由な生き方などとんでもないのだ。
もう一つは政治思想だ。彼らは反共を掲げてきたが、冷戦崩壊で新たな敵が必要になった。それが1960年代の急進的な学生運動に影響を与えた思想家集団のフランクフルト学派だった。彼らはその思想を「特別な共産主義」と定め、人権やジェンダー概念をその産物と批判した。
『やっぱり』の理由は後者の部分と重なったからだ。秘書が統一教会のメンバーだったかは分からない。だが、影響下にあると確信した。
この一群は、自民党内で「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」を創設する。事務局長は山谷氏、座長に就いたのは安倍晋三氏だった。
安倍氏が旧統一教会に肩入れした理由の一つに、祖父の岸信介元首相と同教会の縁があったことは疑いない。
岸氏は旧統一教会系の舞踊団「リトルエンジェルス」の日本の後援会長で、関連団体の国際勝共連合が推進団体となった「世界反共連盟日本大会(1970、東京)」では大会推進委員長を務めた。
では、岸氏はなぜ、旧統一教会と懇意になったのか。
旧統一教会は韓国の朴正煕軍事政権の庇護下で伸び、見返りに「反共突撃隊」役を担った。朴政権時代の65年に日韓基本条約が結ばれるが、裏では岸氏とともに右翼の児玉誉志夫氏らが暗躍。児玉氏と朴氏を在日韓国人系の裏社会がつなぐなど、岸氏と同教会の関係もそうした右派人脈図の一片に位置付けられる。
冷戦下ゆえ、米中央情報局(CIA)の思惑も絡んでいたろう。70年代の金大中氏拉致事件やソウル地下鉄疑惑など、日韓現代史の暗部も同じ人脈図に浮かんでくる。
安倍氏の命を奪った教団は、こうした保守派の裏面史と切り離せない。
ちなみに山谷氏は取材を拒んだ。記事内容が不満だったのか、勉強会の誘いも途絶えた。(論説委員兼編集委員)」東京新聞2022年7月27日朝刊6面、視点・私はこう見る。
この記事によれば、旧統一教会の思想戦に敵として、「フランクフルト学派」が名指されていたという。「彼らは反共を掲げてきたが、冷戦崩壊で新たな敵が必要になった。それが1960年代の急進的な学生運動に影響を与えた思想家集団のフランクフルト学派だった。彼らはその思想を「特別な共産主義」と定め、人権やジェンダー概念をその産物と批判した」
社会学を学んだ人なら、ドイツのフランクフルト社会研究所に集まったホルクハイマー、アドルノ、ハーバーマスといった人たちの仕事を知っているはずだ。フランクフルト学派の理論的背景は、マルクス主義(ロシア・スターリニズムとは別の)だけでなく、カントに由来する批判哲学、それにフロイトからマルクーゼにつながる精神分析の流れで、20世紀的な実証主義的モダニズム批判を展開した。旧統一教会がこれを新たな敵として反共をリニューアルしようとしたのは、かなり誤読だ。けれど、そこからフェミニズムや人権概念に立つ思想を、家父長家族の秩序(ある意味天皇制に類似した)を破壊するものとして、単純な「サヨク」にかぶせて攻撃した、ということか。あからさまな反知性主義だな。