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音の記憶Ⅶ 三波春夫2  無辜の民が戦争で殺されたことの責任  

2017-05-28 23:11:32 | 日記
A.音の記憶Ⅶ 三波春夫2
 三波春夫の歌った曲は山のようにあるが、ほかの演歌歌手には真似のできない特別の芸、といえば、「長編歌謡浪曲」と名付けた歌謡・浪曲・芝居の混然一体一人ミュージカルである。すでに1960年頃から国定忠治や沓掛時次郎、あるいは南部坂雪の別れ、などこの線の曲は出していたのだが、本格的に「長編歌謡浪曲」と銘打ったのは1964年の「元禄名槍譜 俵星玄蕃/権八忍び笠」からである。1966年に豪商一代 紀伊國屋文左衛門、続いて「赤垣源蔵」、以後続々と「信長」「奥州の風雲児 伊達政宗」「頼朝旗揚げ」「壇ノ浦決戦」「天竜二俣城」「勝海舟」「真田軍記 沼田城物語」「忠臣蔵外伝」「花咲く墓標/小野先生とその父」「瞼の母」「高田屋嘉兵衛」などと自作の長編歌謡浪曲は、シリーズ化して全集版にもなっている。
 もう生の国民歌手三波春夫を見たこともない世代からすれば、彼の全盛期は、日本中が手を叩いて歌った「東京オリンピック音頭」や大阪万博ソング「世界の国からこんにちは」の1970年あたりと思われるだろうが、実は70年代を通じてこの人はものすごい勢いで毎月新曲を出し、長編歌謡浪曲新作を創作して、走り続けた。この頃登場したシンガーソングライターといえば、ギターを抱えて私的な思いをこめたラブソングをぶつぶつ歌うというイメージが支配的だったときに、三波春夫こそ、日本の大衆の心に歴史的記憶と人間関係の美意識をヴィジュアルに訴えかけた最大のシンガーソングプレイヤーだったといったら、異論はあるだろうか?
 源平合戦から戦国の風雲、忠臣蔵から幕末まで歴史上の人物伝を色鮮やかに描く浪曲講談に材をとりながら、旧時代の忠君愛国路線は抑え目にして、人物同士の友愛と大義への献身を三波春夫はドラマチックに演じ、歌った。その「長編歌謡浪曲」が実現したものは、兵士として負けた戦争に傷つき戻った祖国の現実、アメリカナイズされた「平和日本」への違和感を、いかに中和し慰藉するか、だったと思う。シベリア抑留でソ連に思想教育を受け、日本兵たちに思想浪曲で共産主義を宣伝したという北詰文司さんの青春戦争体験は、それを祖国の現実の中で再生させる余地はなかった。和服を着て化粧をした歌手三波春夫となった彼には、浪曲の世界をまったく新しい表現として、そして日本の歴史に自らの美意識を投影する形で「歌謡浪曲」は完成する道が残された。

「元禄名槍譜 俵星玄蕃」はこういう歌詞になっている。
作詞:北村桃児(三波春夫のペンネーム) 作曲:長津義司

槍は錆びても この名は錆びぬ
男玄蕃の 心意気 赤穂浪士の かげとなり
尽す誠は 槍一筋に 香る誉れの 元禄桜

姿そば屋に やつしてまでも
忍ぶ杉野よ せつなかろう 今宵名残りに
見ておけよ 俵崩しの 極意の一手
これが餞(はなむ)け 男の心

涙をためて振り返る そば屋の姿を呼びとめて
せめて名前を聞かせろよと
口まで出たがそうじゃない
云わぬが花よ人生は 逢うて別れる運命とか
思い直して俵星 独りしみじみ吞みながら
 ( 中 略 )
 ここまでイントロの歌を一節歌って、ここからは立て板に水の語りが入る。

「時に元禄十五年十二月十四日、江戸の夜風をふるわせて、響くは山鹿流儀の陣太鼓、しかも一打ち二打ち三流れ、思わずハッと立ち上がり、耳を澄ませて太鼓を数え、おう、正しく赤穂浪士の討ち入りじゃ、助太刀するは此の時ぞ、もしやその中にひるま別れたそのそば屋が居りはせぬか、名前はなんといま一度、逢うて別れが告げたいものと、けいこ襦袢に身を固めて、段小倉の袴、股立ち高く取り上げし、白綾たたんで後ろ鉢巻き眼のつる如く、なげしにかかるは先祖伝来、俵弾正鍛えたる九尺の手槍を右の手に、切戸を開けて一足表に踏み出せば、天は幽暗地は凱凱たる白雪を蹴立てて行く手は松坂町…」
 
吉良の屋敷に来て見れば、今、討ち入りは真最中、総大将の内蔵之助。見つけて駆け寄る俵星が、天下無双のこの槍で、お助太刀をば致そうぞ、云われた時に大石は 深きご恩はこの通り、厚く御礼を申します。 されども此処は此のままに、槍を納めて御引上げ下さるならば有難し、かかる折しも一人の浪士が雪をけたてて
サク、サク、サク、サク、
サク、サク、サク、~、
『先生』 『おうッ、そば屋か』
いや、いや、いや、いや、 
襟に書かれた名前こそ、まことは杉野の十平次殿、わしが教えたあの極意、命惜しむな名をこそ惜しめ、立派な働き祈りますぞよ、さらばさらばと右左。赤穂浪士に邪魔する奴は何人たりとも通さんぞ、橋のたもとで石突き突いて、槍の玄蕃は仁王立ち。」(歌詞はここにリンク)http://www.uta-net.com/movie/87208/

 七五調の張りのある地の文は、「けいこ襦袢に身を固めて、段小倉の袴、股立ち高く取り上げし、白綾たたんで後ろ鉢巻き眼のつる如く」といったいで立ちの描写、サク、サク、サク、といった擬声語擬態語の効果、これに踊りのような振りと歌にセリフが組み合わされて、ドラマは終わる。この「俵星玄蕃」が表象する思想的内容はどうか?世を忍んで主君の仇討という目的のために、そば屋に身を変えて吉良邸を探る浪士杉野十平次に、槍の達人俵星玄蕃は密かにこれを察し、討ち入りの夜加勢しようと槍を掴んで吉良邸に駆けつけ、大石から加勢無用とやんわり拒否され、杉野に会ってひと言激励してその場を去り、表で邪魔の入らぬよう立ちはだかる、という物語。

 日本の文芸の歴史のなかでは、平家物語から太平記、信長記や太閤記、源平盛衰記や忠臣蔵といった「語りの文化」は、琵琶や三味線といった楽器音楽とも深く関わっていた。そのことを考えれば、20世紀の三波春夫という人がやっていたことは、そうした歴史の断片的なイメージに具象的なイメージを吹き込みながら、権力とは無縁の日本人たちが、歴史というものを捉えるときに、基本的にとった態度に寄り添うことだった。そういう表現は、いわゆる演歌歌謡曲の拠って立つ水源なのだが、その多くがただ古い共同体の側から保守的に反近代の心情を屈折して歌うか、ただ恋愛や家族を暗く美化して称揚するか、明るい「人生の応援歌」に走るかという安易な馴れ合いに落ちていたのに、三波春夫の「歌謡浪曲」はシュールに屹立していた。崇高なものの意思を「忖度」して、身を捨てて奔走すること、これが維新の志士の精神だった、ということを明治100年にも三波春夫は歌っていたのである。
 それはある意味できわめて政治的に、日本史の中の頼朝や秀吉や家康のような表の主役ではなく、俵星玄蕃のように片隅で消えていったような脇の人物に焦点を当て、そこに三波さんは人としての崇高な精神を貼りつけた。ひとつ間違えば、国定忠治的反体制ヤクザに傾く可能性を保持しながら、司馬遼太郎にも一種通じるこの三波春夫という人の、矜持でもあるだろうし、救い出されるべきナショナリズムの具象化でもあったと思う。おそらく、あの戦争を知っている高齢者より下の世代には、三波春夫の時代劇世界を理解する糸口自体、説明されてわかる水準にはもうない。
 でも、歴史という現実は日々そういうものの堆積した残骸なのだと思う。



B.国の責任というもの
 1945年8月の敗戦までの約半年間に、日本の主要な都市は米軍の空爆を受け、民間の非戦闘員多数が死亡し、傷つき、家を焼かれて路頭に迷った。人的被害だけでなく、寺院や城郭遺構など文化的遺産も灰燼に帰した。これは自然災害ではなく、日本が国家として米英に宣戦布告して始めた戦争の結果であることは言うまでもない。もし、日本の指導者が半年前に戦争をやめる決断をしていたら、もし3か月前の沖縄戦で日本が敗北を認めていたら、多くの無辜の女子供老人の命がどれほど救われたか、というIFをいっても仕方がない。けれども、国家の存在意義は侵略的な対外戦争をすることではなく、国民の命と財産を守ることにあると、日本の軍も政府も考えていなかった結果であると思うしかない。
 そしてもっとはっきりしていることは、戦後の政治指導者も、軍人の死者へはいち早く手厚い恩給で報い、靖国神社で頭を下げることには積極的でも、民間の空襲犠牲者に対しては、いろんな理屈をつけて何もしてこなかった。この事実を認めれば、この国は、国のためには命を捨てろといいながら、国の行為によって命を奪われたり、家を焼かれたり、難民となって逃亡するなかで亡くなったりした民衆にたいしては、責任も補償もする気はないということになる。
 共謀罪で揺れる今国会で「空襲等民間戦災障害者に対する特別給付金の支給等に関する法律」を超党派で法案成立を図るという。素案のポイントは、長期間の労苦への慰藉(1941年12月8日から沖縄線が公式に終わった45年9月7日までの空襲、船舶からの砲撃などが原因の身体障害者または外見に著しい醜状を残す者(外国籍を含む))とあり、特別給付金は1人につき50万円。孤児らの労苦、空襲被害者の心理的外傷など被害の実態調査をする。追悼施設を設ける、となっている。

「耕論:空襲被害者の救済
 欧州、軍民分け隔てなく:元国立国会図書館調査員 宍戸 伴久さん
 戦争は国家が行うものです。第2次世界大戦以降、その被害の救済は「国の責任で保証する」「軍人と民間人、国籍の違いをできる限り区別しない」が西欧諸国の共通原則になっていました。
 ドイツでは一貫して「戦争行為で受けた人身の被害の補償責任は国にある」という考え方です。一般市民も外国籍であっても。とりわけ「戦争の直接的影響」という理由で空襲被害を保障しています。
 22年前にドイツに調査に行きました。被害の認定は、住んでいた場所に空襲があったことが新聞記事などで証明できればOK。認定を受けやすい要因が関係の証明は簡素化されていました。
 ドイツの戦争被害補償の受給者は2015年に約15万人。1952年の430万人あまりの4%に満たず、今や役割を終えつつあります。
 フランスには軍人、一般市民を問わず、すべての戦争被害者に敬意を表し、国が保証する制度があります。戦争孤児は上乗せした金銭的援助も受けられる。今ではテロ被害者にも適用されています。
 このように欧米諸国では、軍人だけでなく民間人も救済する仕組みがあります。
 一方、日本はというと、戦争被害者は「軍人・軍属に限り損害を補償する」という原則が貫かれています。第1次世界大戦以前ともいうべき考え方。欧米と比べると遅れていると言わざるを得ません。
 戦時中、戦時災害保護法があり、戦争被害者とその遺族、家族には生活扶助費などが給付されていました。
 戦後、GHQの「非軍国主義化政策」の一環で、この保護法は廃止され、軍人恩給は停止。戦争被害の救済は生活保護など社会保障制度によるものになりました。
 軍人恩給に代わるものとして、52年に戦傷病者戦没者遺族等援護法が施行されました。翌年に軍人恩給が復活した後は、恩給をもらえない軍属らに援護法が適用、拡大されていったのです。
 大きな運動や裁判があった原爆被爆者、シベリア抑留者にも道が開かれました。ただ補償ではなく、あくまで例外的な救済や慰藉。民間の空襲被害者は置き去りにされたままです。空襲の死者は原爆を含め50万人とも言われます。
 日本では「戦争被害は国民が等しく耐え忍ぶべきもの」という受忍論で、多くの補償要求が拒まれてきた。国の財政負担が大きいからともされてきたが、フランスやドイツは財政難であっても補償措置を断念していません。
 今回の素案は対象を生存障害者に限るなど不十分ですが、被害者の声に初めて応えた意義は大きい。この通りの法案が可決されれば、今後行われる被害の実態調査を受け、国や国会がどのように対応するのかが問われることになります。 (聞き手・黒川和久)」朝日新聞2017年5月26日朝刊15面オピニオン欄。

 大衆的な原水爆禁止運動の結果、原爆の被爆者援護法ができたことで、被爆者の実態が政府の手で調査されることになった。それまでは、被爆の実態も被爆者への差別も闇に埋もれていた。シベリア抑留についても、政府が非を認め戦争のもたらした個人の生への被害を、広く明らかにする効果があった。空襲被害者への補償・援護は、これまで後回しにされてきたが、生存者が少なくなる今、せめてその事実をその後の人生を含め、なんらかの措置をとることは、共謀罪や憲法改正より重要な課題ではないか。 
 同じ紙面で提案者の自民党衆院議員、空襲被害者国会議連会長の河村健夫氏は、こういう発言をしている。

「旧社会党などが1973~89年に14回、戦時災害援護法案を出しましたが、成立しませんでした。当時は戦没者の慰霊や遺族対策など、ほかにすべきことが多く、空襲被害まで補償したら財政的に大変だという懸念もありました。
 とはいえ、東京大空襲は一夜で広島、長崎の原爆死者に匹敵する10万人が亡くなっています。被爆者には援護法をつくりました。いまは自然災害の被害者も支援する時代です。国の起こした戦争の被害者にこのまま、何もしなくていいのでしょうか。
 (中略)
 最近、戦時下の庶民の暮らしを描いた映画「この世界の片隅に」がヒットしました。あの主人公こそ、今回の法案で慰藉しようとしている戦争の被害者です。若い議員も映画を見て考えてほしい。
 素案発表後、政府、与党からいろんな投げかけがあった。シベリア抑留者対策などに取り組んだ2005年の政府・与党合意に「戦後処理は終了した」という一文があり、整合性はあるのか、数ある戦争被害の中で支給対象を身体障碍者に限る根拠は何か、という具合です。
 でも、安倍首相も15年に衆院予算委員会で対応を問われ、「国会で十分なご議論をいただきたい」と答弁しています。戦争による精神障害を差別しないし、今後調査しますが、身体障害の方が戦争との関係を認定しやすいという現実的な判断があります。
 いま、安全保障の議論が盛んです。再び戦争が起こらないようにするための議論です。その時、前の戦争の積み残しがあっちゃいかんでしょう。戦闘機1機より少ない予算でできることです。 (聞き手・編集委員 伊藤智章)」朝日新聞2017年5月26日朝刊、15面オピニオン欄。

 空襲被害者に補償をしなくていいとは言わないが、予算がない、と言っているうちに、もはや当時0歳児でも、72歳になっている。戦争の被害者は、日本国民だけではないし、戦死者だけでもない。むしろ戦争の傷跡を背負ってその後の人生を生きて死んでいった人たちの数は数百万を超えるだろう。その霊に対して、「あの戦争は間違っていなかった」「正義の戦争だった」などと本気で言うとしたら、歴史と人間の冒涜としか思えない。誤りを認めて責任を取るのが「美しい国」だろう。
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音の記憶Ⅶ 三波春夫1  演劇のキモ

2017-05-26 01:46:50 | 日記
A.音の記憶Ⅶ 三波春夫1 
 あれはいつのことだったか。ぼくの家の裏のアパートに、30歳くらいの男性が越してきて、いつも演歌のレコードかCDを大きな音でかけていた。見た眼はごくありふれたサラリーマン風の人だったが、とにかく「~酒場」とか「~港」とか、おもに北島三郎とか村田英雄とかといった男性歌手の演歌以外は聞こえないコアな演歌ファンらしかった。演歌しか聴こうとしない人は、何か強固な人生観・世界観を持っているように見えて、ぼくにはちょっと脅威だった。どうしてそんなふうに思っていたかというと、ぼくの伯父のひとりに、ある意味でユニークな性格というしかない人がいて、趣味が極端に偏向していて、人に表向きでも合わせようという気づかいがない。
 小学生の頃、伯父の家に行って夕食になった時、酒を飲んだ伯父は、ぼくが茶碗をもったまま肘をついたといきなり怒鳴りだし、それを制した伯母を張り倒そうとした。そんなことをする人を見たことがなかったので、ぼくは心臓がどきどき怯えてしまった。伯父はものすごい巨人ファンで、巨人戦の野球中継をテレビで見ていて、巨人が相手チームに逆転されると、テレビを切って足で蹴飛ばして、怒り狂って布団をかぶって寝てしまう。その伯父が、演歌が好きで、カラオケセットが家にあって、酔いながら演歌を歌って飽きることがない。今から思えば、あの戦争の時代、この人は兵隊として中国大陸に転戦して、生きて帰ってきた。
 大正末から昭和初年代に生まれた男は、まずほとんどが日本軍に徴兵されて末端の兵士としてあの戦争を戦った。同世代の兄弟や友人の多くは、戦争で命を落としている。自分が戦後の平穏な時代を生きているということに、一種の複雑な感情を抱いて、ときに感情が爆発することもあったのかな、と今は思う。中国大陸に行っていた伯父は、どんな体験をしたのだろう?もしかしたら、人を殺しているかもしれない。そういう世代にとって、心に響く音楽とは、いわゆる濃厚な演歌以外にはなかった。
 そこでちょっと参考までに、村田 英雄さん(公称1929(昭和4)年- 2002(平成14)年)の経歴をみた。出身は佐賀県東松浦郡相知町(現・唐津市)。5歳のときに酒井雲門下に弟子入りし、師匠のいる大阪に行き修行を開始。師匠から酒井雲坊の名前をもらい、13歳で真打昇進、14歳で座長となり、その後も九州にて地方公演を続ける。1945年、16歳で海軍に志願し、佐世保鎮守府相浦海兵団輸送班に配属される。6月19日、福岡大空襲に遭遇。翌日、十五銀行ビル地下室の遺体搬送作業に従事した。1949年、浪曲界に顔の利いた西川芸能社前社長・西川幸男に手紙を書き、マネージメントを依頼。「日本一の浪曲師」を夢見て、妻子を九州に置いて上京し、25歳で村田英雄に改名。少しずつ名前が売れ出し、若手浪曲師として注目を集めるようになる。
1958年、たまたまラジオで村田の口演を聴いた古賀政男に見出され、すでに映画や演劇で知られていた十八番の芸題(演目)であった浪曲『無法松の一生』を古賀が歌謡曲化、同曲で歌手デビューを果たした。(データはおもにWikipedia)

  節をつけて物語を歌う浪曲という芸能は、昭和の初めからブームになり、浪曲師になろうという若者がたくさん出てきた。村田英雄さんも三波春夫さんも、その一人だった。村田さんは九州からだったが、三波さんは新潟から東京に出てきた人である。
 三波 春夫(1923年- 2001年、本名・北詰 文司)は、新潟県三島郡越路町(現・長岡市)出身の浪曲師、演歌歌手。紫綬褒章受章、勲四等旭日小綬章受章、新潟県民栄誉賞受賞。自身の長編歌謡浪曲などの作詞・構成時のペンネームとして「北村 桃児」を用いた。昭和を代表する歌手の一人である。元浪曲師・南篠文若としての経歴を活かし、浪曲を題材に自ら創作した歌謡浪曲を得意とした。特に「元禄名槍譜 俵星玄蕃」に代表される長編歌謡浪曲は、三波ならではの芸とも評される。
 いつも絶やさぬ朗らかな笑顔と浪曲で鍛えた美声で知られ、歌謡曲の衣装に初めて和服を使用した男性歌手でもある。自らの芸と観客に対する真摯な姿勢は、あまりに有名な「お客様は神様です」のフレーズを生む基盤ともなった。三波デビューの翌年、1958年のデビューで同じ浪曲師出身の村田英雄とは長年ライバル同士とも位置付けられ、両者の間には様々なエピソードが生まれた。1994年に前立腺がんの診断・病名告知を受けているが、死去までの7年間、家族や近しい関係者以外にはその事実を隠し通し、闘病を続けながら最晩年まで精力的に音楽活動を続けた。

 村田さんは海軍で、外地には行かなかったようだが、三波さんは、陸軍に徴兵されて満州に行き、敗戦時ソ連軍に捕虜になって4年間シベリアに抑留され、1949年9月に帰国する。収容所内でも浪曲を披露していたが、ソ連側による徹底した思想教育の中で、演目にも検閲が入るようになり、自らも強い影響を受け、オリジナルの「思想浪曲」や芝居を創作しソ連各地の収容所で披露するなど、捕虜教育係のような役割を担っていたという。シベリア帰りは「共産主義に洗脳されていた」人間として、複雑な立場に置かれた。後に三波さんは、当時のソ連の捕虜の扱いについては「国際法を無視し、捕虜の人権を蹂躙した国家的犯罪。更にソ連は謝罪も賠償も全くしていない」と非難し、後に1986年の「天皇陛下御在位60年大奉祝祭」に奉祝委員としてテープカットに参加したり、日本を守る国民会議(現・日本会議)の代表委員となるなど、右翼系政治活動に参加するようになった。
 あの戦争について、歴史の真実を知らずただ気分や流行でものを言う軽薄な人々は問題外だが、人生のある部分を過酷な戦争の体験を生きた三波さんのような人について、ぼくは右翼的だと批判する気がない。ただ、この人が国民歌手として歌い続けたもの、とくに歌謡浪曲の一人ミュージカルの世界には、あの戦争が底流で刻印されていたと思うし、それに感応した戦中派の男たちが抱いていた想いがいかなるものなのか、想像力を働かせて考えてみたいと思う。戦後、この国がまったくリニューアルされて、屈折した演歌的オヤジ世界を、古臭くばかげたものだと端から思っていたぼくたちの、それこそ軽薄な誤謬をちゃんと反省しなかったことが、今の日本会議的なものが公然と表舞台に出てきてしまった原因だった、と情けないが後悔する。
 そして、村田英雄はそれを実直に、ただ剛毅な男の姿を歌って時間のなかで消えていったのに対し、三波春夫はもっと作為的に、軍事を捨てて経済復興から飽食に向かう日本に対し、国民統合の象徴としての過去と未来を、いかにも明るくにこにこと歌い上げていた。その原点には、田舎から丁稚奉公に出てきて爪に火を点すような民衆の心情に寄り添いつつ、伝統的な古風な美意識でドラマチックな感興を実現する道を、追求したとはいえる。



B.演劇の歴史のこと
 文化社会論という名前で4月からぼくがやっている講義。舞踊の話は終わって、今度は演劇なのだが、これも調べてみると一筋縄ではいかない。とりあえずギリシャ悲劇から中世の聖史劇、そして1630年代のフランスまできた。アラン・ヴィアラ『演劇の歴史』白水社・文庫クセジュより。

「宗教戦争の終わり、王政は国を治めるための幹部たちを必要とし、そこで学校教育の整備が大幅に拡大する。当時の演劇では観客が三種類に分かれていた。宮廷と特権階級がバレエとパストラルを成功させる。この種の観客は――いくつかの言い伝えに反して――無知ではないが、学識ある文化の信奉者というわけでもない。この観客は派手なものや象徴的なもののほうを好む。数はそれほど多くなく、せいぜい数千人である。そのうえ、彼らに用意されたスペクタクルは一日かぎりのもので、原則として一回だけ仮設舞台で上演される。ところで、この観客は作品に対して影響力と権限を持っていた。つまり、国王や有力なエリートたちが出資者と文芸庇護者の役割を務め、作品と劇作家の評判に貢献したのである。その一方、〈知識階級〉の社会的グループ(教師、翻訳家、法律家)のなかに、「ぺダンティックな」層が形成された。その中心に文献学者や批評家がまとめられる。彼らはせいぜい数百人程度だが、ほかの観客たちの判断に影響を与えることができた。彼らは最も文学的な古代から模倣した形式、つまり、喜劇と悲劇にこだわっていたのだ。最後に、「都会ラ・ヴィル」の観客が存在する(当時はパリのことをそう呼んでいた)。これは中間に位置する社会的グループで構成される。つまり、下級貴族、ブルジョワ、職人や商人、そして学生である。パリにはこの種の観客が非常に多く、数万人にのぼる。彼らには「商業的な」客としての素質があり、見世物小屋の入り口で支払いができる観客なのである。教養はあるが、厳密には学者ではない――その主たるモデルは「礼節の人オネットム」〔当時の社交界で教養やマナーに秀でた紳士〕で、さらに十七世紀後半では「信義(ギャラ)を(ン)重んじる(トム)人」である――この観客は、せりふ劇に熱心に耳を傾けられるし、詩や小説の本を買うように戯曲の校訂本も買える観客兼読者なのだ。しかし、気晴らしを求める観客でもあるこの連中は、派手でにぎやかなだけの作品も好意的に受け入れる傾向があった。
 ここで述べているのかパリのことである。実際、この時代から、首都は地方に強い影響力を発揮しはじめる。同じような観客の構成は地方でも見られるが、規模は小さい。つまり、当時の演劇制度が決定されるのはパリなのである。
 演劇制度はプロ化によって出現する。俳優たちは、リーダーとなるスター俳優を中心に、多少とも安定した劇団に結集する。劇団にはふつう10人くらいいて、戯曲の一般的な「役柄」の数と同じくらいである。これらの劇団は、一六四〇年代のモリエールの最初の劇団〈盛名座〉のように巡業する。劇団は縁日の小屋や宿屋の広間、ジュ・ド・ポム〔テニスの原型とされる球戯の室内球戯場〕などの臨時の場所で上演する。何人かの俳優軽業師は、吹きさらしのなか、陳列台の上や店先で――とりわけパリのポン=ヌフ〔新橋〕の上で、才能を発揮する。当時そこにはいくつもの店が開かれていた。巡業劇団は、潜在的な観客がたくさんいるパリでの上演を望むなら、充分な広さがあり、芝居上演が何回でも連続してできるような劇場を必要とした。ところで、聖史劇の禁止以降、責任母体である〈受難劇組合〉は、首都での演劇上演の独占権を保持していた。彼らは、オテル・ド・ブルゴーニュ座〔一五四八年創設〕という劇場を持っていて、十七世紀初頭には、そこからパリの常設劇場が始まるのである。
 観客が増えることで、常勤のプロ劇団を伴った新しい劇場がわりと早くに造られる。たとえば、マレー座(一六二九~三〇年)、それから、モリエールがイタリア人たちと共有した劇場(一六五九年〔パレ・ロワイヤル劇場〕)である。このように、数十年のあいだに、不安的な組織を余儀なくされた劇場から安定したプロ意識をもつ劇場へと移り変わり、ひとつだった常設劇場は三つになった。そのうえ、これらの劇場は次第に設備を整える。観客を受け入れる方法としてギャラリー席やボックス席が設けられ、制作の可能性を高めようとして劇場の床がかさ上げされる(マレー座は「機械仕掛けの芝居」を専門とする)。座席料金は、そこでは比較的高くなり、平土間の立見席は一六三〇年で5ソル、ギャラリー席や桟敷席、それに十七世紀なかばから舞台上に設置された席は1フランから3フラン〔当時は複数の通貨が混在〕であった。めったにない創作劇では、これらの値段は二倍――ときには三倍――になる。これは、少しは熟練した工員の給料が都市部で日に12から20ソルだったのだから、下層民が閉めだされることを意味している。同時期に、舞台の形状が変えられる。つまり、幻想の方法が進歩するのである。一六三〇年でもまだ主流を占めていた複数の仕切りがあるセットは、「イタリア風」と呼ばれる舞台に変えられる。理想としては、サロンや玉座の間、つまり閉じられた部屋を舞台が表現し、観客側の壁がいわば「透明」になることである。そうすることで、観客たちは、登場人物たちのふだんの生活をのぞき見しているという気になる。舞台の幻想はより信憑性があるように表現されるが、その代償として、歌やダンスを介入させる可能性が制限されることになる。
 一六八〇年には、モリエール一座とその競争相手であったオテル・ド・ブルゴーニュ座をひとつにまとめ、コメディ=フランセーズを設立するという政治的な公式決定が下される。つまり、制度が確認されたのである。
 だからといって、それが直線的で首尾一貫した現象だと考えてはならない。個別にみれば、イエズス会が教育目的で演劇を利用するときでさえ、教会は普通、演劇を断罪する。俳優たちは破廉恥な言動を浴びせられ、長いあいだすべての秘跡から除外されたままになる。さらに、ボシュエのような正統な信者である作家や、パスカルやニコルのような一徹な作家たちも、演劇を断罪する。その理由は、演劇が心をかき立て、興奮するようにしむけるし、教会が取り締まることを求めているからである。ときとして激しい論争と検閲が演劇界を脅かしたのである。」アラン・ヴィアラ『演劇の歴史』高橋信良訳、文庫クセジュ、白水社、2008. pp.62-65.

  ヴィアラの本は示唆に富むとはいえ、とにかくフランスの動向にしか視野を置かないので、フランス革命後の演劇についても、19世紀の西洋演劇についても、あくまでフランス中心であるのがちょっと気になる。

「もうひとつの新しいジャンルはより文学的で、充分に理論的な正統性に達し、古典劇のライバルを自任するまでになる。これがドラムである。ドラムはヨーロッパ中に流布する手本に組み込まれる。ドラムの発想の一部は、とりわけシェイクスピアの影響のおかげである。フランスでは、シェイクスピアは長いあいだ知られていなかったか、少なくとも上演も翻訳もされていなかったが、とりわけヴォルテールのイギリス滞在のおかげで十八世紀には見出されていた。しかし、単一性への無関心とまぜこぜにされたスタイルが原因でよくは思われていなかった。十九世紀、古典劇の手本から解放されたい、そして今度は自分なりに現代的でありたいという願いから、何人かの若い作家たちはシェイクスピアをより細かく注視することになる。ギゾーの『シェイクスピアの生涯』(1821年)とこの『生涯』が掲載された『作品集』の出版が注視されるきっかけとなり、一八二二年のイギリス人俳優たちによる初のパリ訪問がそのヴィジョンを与えてくれ、そして、スタンダールが『ラシーヌとシェイクスピア』(1823年)によって、その重要性を強く主張することになる。たとえ、シェイクスピアが自身の深刻な作品を「悲劇」と銘打ったとしても、そこにあるのはドラムである。それに、作品の大半は歴史的主題に向けられているのであって、遠い過去に向けられてはいない。その結果、作品はひとつの文化の独自性を感知することでもっと強い共感を持ちうるのである。
 同様に、シェイクスピアの影響はドイツ経由でも入ってきた。ドイツは、文化の主体性を作りあげようと努力して、十八世紀のなかばからフランスの模範に逆らっていた。レッシングは『ハンブルク演劇論』(1767~8年)のなかで自由奔放な想像力のために論陣を張り、シェイクスピアとカルデロンを褒めちぎる。次の世代では、シュレーゲルが理論面で、そして、ゲーテやシラーが作品からこの発想に寄与する。同じ時期にスペイン〈黄金世紀〉の劇作家たちの翻訳が刊行され、イタリアではマンゾーニが単一性に異を唱える。つまり、これは充分にヨーロッパ全体の動きなのだ。〔三単一の〕規則が拒否され、現実を尊重するという名目で、ひとつの戯曲の中にさまざまな色あいを混ぜあわせる能力が絶賛される。メロドラムの実践に刻み込まれた柔軟さは、ここに正統なよりどころを見出そうとしたのである。
 ロマン派のドラム 
 ドラムの理論については、ユゴーが『クロムウェル』(1827年)の序文で述べている。歴史が三つの時代に分かれると考えた彼は、それぞれの時代に文学を構想する方法を結びつける。原始の時代には牧歌的生活や神との近親性が抒情性を呼び起こし、国家というものが初めて形成されることで、戦争が勃発した時代は叙事詩と悲劇性の飛躍を引き起こし、そして、現代は人間が朽ちはてる肉の部分と不朽の部分の分裂を自覚する時代である。具体的には、この二つの力のせめぎあいから劇的なものの優越性が生じるが、それは理想と低俗、崇高さと珍妙さといった共存に基づいている。この劇的なスタイルは、その演劇形態であるドラム同様、詩や小説でも真価を示すことができる。このように定義されたドラムは、前世紀にディドロが企てたような「中間的」ジャンルではないし、メロドラムが重視した単なるお涙頂戴の場でもなく、それ自体総合的であろうとする。ドラムは歴史に基づき、自由でなくてはならない。歴史に基づくとは、人をその時代のなかで語るということであって、あたかもその人がいかなる時代であろうとも変わらないかのように語ることではない。自由とは、矛盾がそこで描かれるために自由なのである。したがって、ドラムはまぜこぜになったスタイルを受け入れなければならない。同様に、時と場所の単一性から自由にならなければならない。ほかのロマン派作家たちもこの見解に従った。たとえば、ヴィニーは、シュエイクスピアの「オセロー」の翻案である『ヴェニスのモール人』を一八二九年に上演し、作品に関する『書簡』を刊行して、彼が「現代悲劇」と呼ぶものを同じ趣旨のなかに定義づける。」アラン・ヴィアラ『演劇の歴史』高橋信良訳、文庫クセジュ、白水社、2008. pp.96-99.

 「十九世紀も残り三分の一になると、ひとつの技術革新が起り、演劇生活に大きな影響を与える。それが電気による照明である。この革新は、芝居の創作活動においては、新たな役割分担に影響し、演出家という中心的働きが現われるきっかけとなる。おまけに、ほかのいくつかの革新によって、今日のような演劇のしくみを構成する大部分ができあがってきた。たとえば、劇場や劇団の新たなネットワーク、美的でイデオロギー的な新たな潮流、活動家による民衆演劇の出現などである。これらはまとまってひとつの政治体制が継続した期間と一致する。これが第三共和政で、一八七〇年から一九四〇年までかなり長い期間安定する。ところで、フランスは、この期間は就学率が上昇する時期に相当し、世界では発展期であると同時に紛争期でもある。」アラン・ヴィアラ『演劇の歴史』高橋信良訳、文庫クセジュ、白水社、2008. p.106.
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森鴎外の「史伝」について・・「近代の意味」へのヒント

2017-05-24 23:31:42 | 日記
A.休憩
 「音の記憶シリーズは、今出張中なのでお休みさせていただきます。」



B.鷗外の「史伝」について
 「近代とは何であったのか?」というかなり大かがりな問いを、ぼくは大学の卒業論文を書くころからずっと、マックス・ヴェーバーの本を手がかりに断続的に考えてきたのだが、それは西欧の16世紀以後の歴史を多様な領域、複眼的な視点で見渡して比較考察することで、ある程度ひとつの同方向の流れとして把握することができるだろうと思っていた。それは21世紀の現在に対しても、中長期的な展望を与えてくれるはずだ。とするのだが、岩波新書の新刊で政治外交史家、三谷太一郎氏の『日本の近代とは何であったのか』はまさにタイトル通り、日本にとって課題としての近代、あるいは「近代化」という問題はあまりに自明のことのように思われながら、実は自明でも当然でもない、まだ未解明の問題なのだと改めて思う。三谷氏の見解には多少疑問を感じる個所もあるのだが、これを読んでおや、と気がつかされた論点があった。
 第1章なぜ日本に政党政治が成立したのか、のなかのある場所で、三谷氏はハーバーマスの『公共性の構造転換』にある「市民的公共性」の議論の中の「文芸的公共性」ということばを引いて森鷗外の「史伝」をもってきている。

「ヨーロッパにおける「政治的公共性」の前駆としての「文芸的公共性」は、日本では、一八世紀末の寛政期以降、幕府の漢学昌平黌が幕臣のみならず、諸藩の陪臣や庶民にも開放されるとともに、全国の藩に採用された昌平黌出身者を中心として横断的な知識人層が形成されました。彼ら相互間に儒教のみならず、文学、医学等を含めた広い意味の学芸を媒介とする自由なコミュニケーションのネットワークが成立したのです。それは非政治的な、ある種の公共性の概念を共有するコミュニケーションのネットワークでした。それは当時「社中」と呼ばれた、さまざまの地域的な知的共同体を結実させ、それら相互のコミュニケーションを発展させていったのです。
 そのような知的共同体の、あるいはそれら共同体相互間のコミュニケーションの実態を、驚くべき綿密さをもって、主として書簡によるコミュニケーションの追跡を通じて実証的に再現したのが、森鴎外晩年の「史伝」といわれる作品群です。
 鷗外の「史伝」には、澁江抽斎、伊澤蘭軒、北條霞亭などの個人が題名として冠されていますが、「史伝」の実質は、それら個人というよりも、それら個人によって象徴される知的共同体そのものなのです。これら学者個人に対する鷗外の評価は別として、彼らの知名度が同時代の、同一分野の学者・文人のなかでは必ずしも高くなかったことは、「史伝」が事実上対象としたものが何であったかを考えれば、偶然とはいえません。
 「史伝」の核心を偉大な個人に求めようとする者は、しばしば失望します。「史伝」の読者たらんとする者の多くが味わう失望感(あるいは退屈感)がそれです。ショウペンハウエルは、著作がもたらす退屈を「客観的」と「主観的」との二種類に分け、前者を著者に原因するもの、後者を読者に原因するものと説明しています。そして「主観的退屈」は「読者がその主題に対して関心を欠くために生まれて来る。しかし関心を持てないのは読者の関心に何か制限があるためである」(「著作と文体」)と言います。たとえば、和辻哲郎の『澁江抽斎』批判にはそれが表れています。『澁江抽斎』が発表された当時、気鋭の学者として才筆を振るっていた和辻は、「私は部分的にしか読まなかった」と断った上で、「私は『澁江抽斎』にあれだけの力を注いだ先生〔鷗外〕の意を解し兼ねる。私の憶測し得る唯一の理由は、「掘り出し物の興味」である」と断じているのである。
「彼の個人としての偉大さも文化の象徴としての意義も、先生のあれだけの労作に値するとは思へない」というのが、『澁江抽斎』に対する当時の和辻の評価でした。それはおそらく終生変わらなかったでしょう。しかもこうした否定的評価は、和辻に限られませんでした。当時の多くの学者・知識人ら(おそらく永井荷風のような例外を除いて、文人をも含めて)は、「史伝」の価値に疑問を持ったのです。また後年の石川淳のように、「史伝」の文学的評価を高く評価する者も、個々の作品の優劣を、題名として掲げられた個人の優劣に帰着させる傾向がありました。『澁江抽斎』と『北條霞亭』とを対比した石川は、「人がこれを何と評そうと、『霞亭』が依然として大文章だということには変りがない」と評価しながらも、霞亭個人を「俗情満満たる小人物」と断じ、「最後に霞亭という人物に邂逅したのは鷗外晩年の悲劇である。かかる悲劇がかつて『抽斎』に於て演じられなかったのは、抽斎と霞亭との人間の出来具合の際に因る」という結論に達しています。
このように石川淳の場合でさえ、「史伝」の各作品の文学的価値が各作品の題名となった各個人の人格的価値(さらに学者的価値)に還元されているのです。たとえば石川は、北條霞亭と比べて、学者的価値において、はるかに優った同時代の松崎慊堂や狩谷棭斎が、鷗外の「史伝」の対象とならなかったことを慨嘆しています。」三谷太一郎『日本の近代とは何であったか ――問題視的考察』岩波新書、2017.pp.51-54.

これに続けて三谷氏は、1941年ゾルゲ事件に連座して死刑になったジャーナリスト尾崎秀實が獄中で鷗外の「史伝」を読んだ感想を引用したあとこう書いている。

「敗戦後『北條霞亭』に言及した尾崎の獄中書簡が公表され、それを読んだ作家宇野浩二は「鷗外の小説――最高級の小説」(『鷗外全集』岩波書店、第四巻、月報二、一九五一年七月)という一文の中で次のように書いています。「尾崎秀實といふ人が極刑に処せられて獄中にゐる時、その家族に注文した本のなかに……『北條霞亭』があったので、私は、正宗白鳥とその事について語り合った時、『北條霞亭』を読むといふことだけで、この人は文学の観照の奥の院にはひったといふべきですね」と、いつた事である。さうして白鳥先生も私の言葉にうなづいたことであつた」。宇野浩二は鷗外の三つの「史伝」をいずれも高く評価しながら、「しひていへば、私は、『北條霞亭』をとる」と断言しているのです。それゆえに死刑の執行を遠からぬ将来に予期していた尾崎秀實が獄中で読んだ「北條霞亭」に深く感銘を受けた事実に共感したのです。(宇野浩二の一文のコピーは政治しか今井清一氏から供与されました。)
たとえ各個人の人格的価値(また学者的価値)の間に優劣があろうとも、それぞれが属する知的共同体そのものの間には必ずしも優劣があるとはいえません。それらはいずれも、身分や所属を超えた「文芸的公共性」を共有する成員間の平等性の強い知的共同体でした。そこでは身分制に基づく縦の形式的コミュニケーションではなく、学芸を媒介とする横の実質的コミュニケーションが行われていたのです。
蘭軒や霞亭が、著名な詩人で創立者である菅茶山を通して、直接・間接に深く関わった備後神辺の廉塾等はその典型です。鷗外の『伊澤蘭軒』や『北條霞亭』は、廉塾という山陽道の一宿駅を拠点とする、ささやかな知的共同体が及ぼした全国的なコミュニケーションのネットワークを、飛躍を伴わない徹底した考証学的方法――これは鷗外が敬愛して止まなかった澁江抽斎の学問的方法ですが――によって描破したのです。北條霞亭の専任者として、一時期菅茶山の委嘱を受け、廉塾塾頭を務めた頼山陽の『日本外史』その他の著作は、「文芸的公共性」の一つの結実です。それが幕末の政治的コミュニケーションを促進する媒体の役割を果たしたことはいうまでもありません。
幕末の開国時の外交を担った奉行川路聖謨は、対露外交交渉のため、長崎へ赴く途次、気づかずに山陽道に面した廉塾を通過し、そのことを後で知り、日記中に廉塾を看過したことに対する深い悔恨の記事を遺しています。廉塾がもたらした「文芸的公共性」のネットワークが幕府官僚の中枢にまで及んでいたと見ることができるでしょう。日本の場合もまた、ヨーロッパの場合と同じように「政治的公共性」は「文芸的公共性」に胚胎したのです。
また北條霞亭の出身母体である伊勢の山田詩社も単なるローカルな文芸結社ではなく、そのコミュニケーションのネットワークには当時の卓抜した先進的な外科医である華岡青洲を含んでいました。青年期に医を学んだ霞亭は、華岡青洲を「古今の神医」として尊敬し、実弟碧山をはじめ若い医師たちに対し、紀伊在住の華岡の下で研修することを勧めます。実弟碧山は実際に紀伊の華岡を訪ねています。また逆に華岡青洲の子雲平は茶山が創立し、霞亭が塾頭として主宰していた廉塾に学びました。青洲六一歳の寿の祝に際しては、茶山も霞亭も共に青洲のために寿詩をおくっています。鷗外は霞亭の子孫の許に残されていた書簡を通して、華岡青洲を点描し、当時の知的共同体がいかに豊かなものであったかを深く印象づけているのです。そこにはまぎれもなく、「政治的公共性」の前段階としての「文芸的公共性」が機能していました」三谷太一郎『日本の近代とは何であったか ――問題視的考察』岩波新書、2017.pp.56-58.

 なるほど、ぼくも30歳ごろ、鷗外の「史伝」を読んでみようと思って『澁江抽斎』と『北條霞亭』を買って、読みかけたことがあったが、歯応えがありすぎて途中でやめてしまった。この江戸時代のある学者とその周辺を、細密に描いていく文章は、小説や文学というものを読む愉しみ、娯楽という興味で考える限り、この「史伝」には、ほかの作家の歴史小説のような面白味はほとんどないと思って、読むのをやめたのだと思う。たとえば同時期の知識人を扱った小説でも、『渡辺崋山』なんかであれば、そもそもその人の名前と生涯はすでに多くが確固たるイメージで知られており、ぼくらもそれに沿って興味深く異同を確かめればいい。しかし、鷗外の「史伝」の主人公についてぼくらは日本史の知識として皆無に等しく、その仕事もどこに意味があるのか定かでない。
 鷗外ともあろう人が、どうしてこんな人物に強い興味をもって作品化したのか、その文脈がわからない。三谷氏によれば、ほとんどの日本人、とくに文学者や評論家は、みなそのように思ったようだ。だが、これを社会科学の視点で読むと、江戸後期の読書階級の間に幅広い「文芸的公共性」が成立しており、その知的世界のありようを、明治以降の「近代化」過程を身をもって生きた晩期の鷗外が、大きな問題意識で眺めてこれを書いた、という視点で読んでみると、まったく別の読み方ができるのかもしれない。
 つまり、丸山眞男の「日本政治思想史研究」の流れで、江戸後期の知識人ネットワークの創造性を、断絶した過去としてではなく、ひとつの連続性、つまりどうして西洋世界とはまったく別の知的伝統をもっていた日本が、近代化に成功できたのか、という問いへのひとつのヒントになる、というわけだ。鷗外の「史伝」をもう一度読み直す必要があるな。
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音の記憶Ⅵ カール・ベーム2  ドイツと日本の歌

2017-05-22 01:42:32 | 日記
A.音の記憶Ⅵ カール・ベーム2
 ドイツという国は、日本のように海の中に孤立した島国ではない。陸続きのヨーロッパの真中で、隣国フランス、オランダ、デンマーク、イタリア、スイス、ポーランド、チェコなどと地面がつながり、国境はしばしば変更された。20世紀の終わりに東西ドイツが統一されるまで、国家としてのドイツがひとつの統一国家になったことは、あの悪夢のようなヒトラー第3帝国の一瞬だけだった。19世紀後半、ドイツ帝国らしきものができあがった時でも、北のプロイセン、南のエステライヒは別の国で、あちこちに王様や貴族がいたのだった。「独逸」という観念が成立できる根拠は、結局ドイツ語という言葉を話す人々がいることと、J・S・バッハとヘンデルから始まり、ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、リスト、そしてブラームスにいたる輝かしい音楽があるだけである。
 首都ベルリンに君臨するベルリン・フィルハーモニー・オルケストラ、そしてもうひとつ、「音楽の都」ウィーン・フィルハーモニー・オルケストラこそ、ドイツ的なるものを体現しているといって間違いないだろう。でも、そのドイツ語とドイツ音楽が、すでに北ドイツとエステライヒに分裂しているということをぼくが実感したのは、1989年の春、まだ肌寒いヴェストファーレン州の工業都市に幼い赤ん坊を抱いて降り立った時からだった。
  ドイツと日本は第2次世界大戦で手を組んで、共に首都を占領されるまで戦って敗れた。もっと前、19世紀の半ばまで国内に割拠していた中小領主の共同体を解消して、近代国家に脱皮したのもほぼ同時期だった。そういう意味では共通点もあるが、西洋と東洋という以上に、あらゆる点で似ていないのだ。たとえば、都市。
  日本では、東京、大阪などの巨大都市が圧倒的な存在で、しかも東京と横浜・千葉・埼玉、大阪と京都・神戸は切れ目なく繋がっている。あとは10~30万人程度の地方都市があるだけだが、ドイツは、最大都市がベルリンで340万人、次のハンブルクで177万人、3位のミュンヘンは130万人、ぼくが住んでいたドルトムントは第7位で58万人である。これらの都市はまったく地理的に繋がっていない。都市間には田園がある。日本は東京23区で940万人、横浜370万人、大阪270万人。ドルトムントの58万人に匹敵するのは、27位の鹿児島市59万人と、埼玉県川口市58万人で、東京都杉並区だけで57万人もいる。人間が密集している日本の都市は、当然ながら空間の余裕がない。
  こぢんまりしたドイツの都市には、どこにも必ず市民の劇場かオペラハウスがある。10万人程度の都市ならそこには専属のオーケストラや合唱団があり、定期的にコンサートやオペラが上演されている。ドルトムントには、立派なコンサートホールがあって、専属のオーケストラと劇団があり、そこの正規メンバーは市から給与をもらう公務員だった。市民はいつでも比較的安い料金で、コンサートやオペラを楽しむことができた。北ドイツの夏は短く、秋になると昼間がどんどん早く終わる。晩秋は午後4時にはもう暗い。人々は仕事を終えると15分で家に帰り、夕食を食べてから市民ホールにでかけて、音楽を味わう。外国人のぼくも、この優雅な恩恵にあずかった。アウトバーンを自動車で飛ばせば、隣の町でやっている音楽会やオペラも30分で見に行かれた。
 ドイツだから音楽は、ドイツ系のクラシック音楽ばかりやるわけでもない。春秋のシーズンにはいろんなオペラ(ぼくはビゼーの「カルメン」やレハールの「ルスティゲ・ヴィトヴェ(メリー・ウィドゥ)」などを見たし、「後宮からの逃走」、「ボツェック」なども見た)があり、ピナ・バウシュのブッパータール舞踊団のダンスも見た。こういう環境のうえに、ドイツの音楽文化があるのだなあと感心したが、カール・ベームという名前はその頂点にあったわけだ。ただし、一般のドイツ市民がみなクラシック音楽のファンかといえば、そんなわけではない。むしろ、若い世代はアメリカやイギリスのロック・ミュージックや、そのドイツ版ハード・ロックを喜んで聴いていたし、田舎の広場ではドイツ版カントリー・ミュージック(ポルカとかヨーデルとか)が鳴ってみんな踊っていた。ちゃんとデータを取ったわけではないが、クラシック音楽のコアなファンは、市民の30%程度ではなかろうかと思う。それでも日本よりは多いだろうが、社会階層的には中の上、オペラ公演にはやはり背広にネクタイして、休憩にワインを飲むという人たちのようだ。今はもっと減っているかもしれない。世界的にクラシック音楽の市場は細っているだろうし、かつて世界に名を轟かしたカラヤン、ベーム、ショルイティといった名指揮者の時代ははるかに遠くなった。
 それでも、日本のように舶来崇拝から手あたりしだいにクラシック音楽を輸入してきた国とは違って、なにしろバッハ以来、偉大な作曲家を輩出した国であるから、蓄積は比較にならない。しかし、ヒトラーがゲルマン民族の優秀性を音楽にも求めて、ベートーヴェンやヴァグナーを持ち上げながら、ユダヤ人は劣等民族でユダヤ人作曲家の作品は堕落した音楽と見なして、迫害し演奏を禁じたという歴史もある。マーラーやシェーンベルクはその故にアメリカに亡命した。民族性というものを序列づける論理はどのみち自分勝手なものだが、優れた音楽家にユダヤ系の人が多いというのは知られた事実だ。
 カラヤンやベームはユダヤ系ではなく、戦争中にナチに協力した疑いもあって、戦後すぐは活動を制限されたという。有能な若手指揮者は、どこかの町のオーケストラやオペラハウスの音楽監督や文化政策に関与する立場にあったから、ユダヤ系が首になったり迫害された時代は、どんどん仕事と地位を与えられた。それがナチスとの関係も深まる契機ではあっただろう。音楽と政治の関係は、平和な時代はあまり問題にならないが、国際関係が緊張する時代には、音楽家も一つ間違えば表現活動で微妙な立場に追い込まれもする。
 ロックやパンクや、ジャズやヒップホップはそもそもの出自が、権力者や上流階級とは無縁な世界から来ているから、だんだん世間に認められてお上品になったり、金持ち向けになったりするとしても、本質的に国家に奉仕することを喜ぶようになったら、音楽としてもダメになる。しかし、古典派からロマン派のクラシック音楽は、作曲家たちはどう思ったかは別として、もともと王侯貴族や国家に保護されその栄光を讃美する道具にされてきた面がある。イタリアにおけるヴェルディのオペラ、フランスやロシアにおけるクラシック・バレエ、そしてドイツはヴァグナーの楽劇が、ナショナリズムの文化的シンボルとして活用されたのは事実だろう。それはあんまり褒められたことではないが、それだけの力のある音楽を自前でもっていたとも言える。
 そう考えると、日本はそういう自前の音楽文化をもったことがあるのだろうか?あの戦争の時代、国家は戦争遂行のため国民を鼓舞する音楽を必要としていた。しかし、日本の伝統音楽は、能狂言はゆったりしすぎだし、三味線や太鼓や歌舞音曲は花街花柳界の軟弱な音楽で、どうみても戦争には役立たない。民謡だって農村のお祭りでのんびりローカルな世界だから無理だ。結局、西洋音楽をマスターした作曲家たちに元気の出る音楽を作ってもらうしかないと考えた。それで「軍艦マーチ」とか「若鷲の歌(予科練の歌)」とか景気のよさそうな歌を作らせたが、どうも日本人はカラ元気が苦手で、気がつけば「戦友」とか「海ゆかば」みたいな陰々滅滅の短調の抒情歌になってしまった。ベートーヴェンやヴァグナーの迫力と拡張にはとても及ぶはずもない。
 でも、日本の和楽器の音楽って、基本的に平和の世界だよな。幽玄とか静謐とかって、およそ戦争や闘争とはなじまない。「君が代」の果たした歴史的役割をぼくは天皇制の負の側面として、否定的な考えをもつが、あれがドイツ国歌のような歌詞と歌だったら、もっとヤバかったと思う。
ドイツ国歌Deutschlandliedはハイドンの作曲だが、19世紀半ばになってファラースレーベンによって歌詞がつけられ国歌になった。いい歌だと思うが、歌詞は自己中心的だ。
Deutschland über alles, なによりも超えたドイツよ!
Über alles in der Welt, 世界で一番のドイツよ!
Wenn es stets zu Schutz und Trutze 変わらぬ神の加護と防衛のために
Brüderlich zusammenhält, 兄弟団結して
Von der Maas bis an die Memel, マース川からメーメル川まで
Von der Etsch bis an den Belt エッチュからベルトまで
Deutschland, Deutschland über alles, ドイツよ、なによりも超えたドイツよ!
Über alles in der Welt, 世界で一番のドイツよ!
Deutschland, Deutschland über alles, Über alles in der Welt,
 これをカール・ベームは1975年3月NHKホールのウィーンフィルとの最初の演奏会冒頭、「君が代」に続けて演奏した。「君が代」は日本人が知っているよりずっとゆっくりゆったりしたテンポで演奏しようとしたので、NHKが困って少し早めにしたという話が残っている。どうせチケットも買えなかったぼくだが、ベームのゆったり「君が代」を聴いてみたい気はする。



B.改憲する気の首相は、とにかく憲法のどこかを変えたいのだな
 現行憲法の改正手続きは、国会議員の3分の2以上で国民投票の発議、国民投票は過半数で改憲が実現となっていることは周知だが、形だけでみれば、改憲OKと言っている政党の数は国会の3分の2を超えているので、発議は可能。そして国民投票はやってみなければわからないが、安倍政権の支持率は60%くらいあるとすれば、国民投票もOKと首相が見込んでも不思議ではない。しかし、ことはそう簡単にはいかない。そもそも国会議員を選出した衆参両院の選挙で、憲法のどこを変えてどういう国家を作るのかを、国民に明示し選挙の争点にして勝ったわけではない。国民は、選挙のときのいろいろある政策や公約のどれか、あるいはたんに安倍晋三の顔を信じて投票したに過ぎないかもしれず、選挙自体の投票率も低く、自民党への支持率も有権者全体から見れば、とても過半数になど達してはいない。
 だとすればもし国民投票をやっても、よほど改憲の具体的な案と論点を整理して、国民の納得を得なければ、そうすんなり改憲などできるわけがない。それはさすがに安倍氏も考えているはずで、だから公明党や中間でためらっている勢力にもOKが出るような線でなんとかイケる、ただ時間はもう待てないと焦りも抱いている、といったところだろうか。

「草の根の憲法論議 息づく国で:日曜に想う 編集委員 曽我 豪
 明治前期、自由民権と憲法制定の運動が全国を席巻し、草の根から幾多の私擬憲法が生まれた。中でも、西多摩の教師や地主、農民らが練り上げた五日市憲法草案は「民衆憲法」として名高い。
 204条からなるその草案を読んだ。時ならぬ改憲論議で大騒ぎの永田町に強い違和感を覚えたからだ。
 初めてこの国で、国民が直接選ぶ形で改正憲法を生み出すことになるかもしれない。それなのに、言い出しっぺの安倍晋三首相はじめ与野党の政治家たちは、発議に必要な国会議員の3分の2の数字にばかり目が向く。過半数で決まる投票の主人公である国民を巻き込もうとするダイナミズムが感じられない。
 翻って、20~30代の若者らが手作りした草案には息をのむ。基本的人権の尊重や言論・信教の自由、行政に対する立法の優位など、時代に先んじた規定は多いが、。改憲の仕組みも興味深い。
 まず民撰議員と元老院の議員の3分の2の議決で特別会議の設置を決める。そこで、改憲のために選挙で選ばれた「人民ノ代民議員」と元老院議員のそれぞれ3分の2以上の議決で改憲を決める。
 国民投票制は採っていないが、できる限り国民の意思を反映させたいと考えて特別の選挙を経た方式を編み出したのだろう。新しい国家は自分たちで作るのだという民衆の熱気が伝わってくる。
   *      *            * 
 ところで、そもそもなぜ今回、安倍首相は改憲で勝負に出たのだろう。
 1回目の政権は失敗だった。教育基本法改正や国民投票法をしゃにむに成立させたが、十分な国民の支持は得られなかった。参院選で惨敗し、退陣した。
 再登板以来の首相は慎重になった。常に株価と支持率に気を配る。政権がダメージを受ける特定秘密保護法や集団的自衛権の行使容認などは、時間を置き、あるいは選挙での勝利を挟んで、ひとつづつこなした。戦後70年談話で大方の予想に反して「侵略」の2文字を入れ込んだように、極端な右旋回は自制した。
 だが「戦後レジームからの脱却」は首相の悲願だ。現実にある自衛隊の存在をめぐってさえ、戦後の保守と革新は不毛な神学論争を続けた。その歴史に最終的で不可逆的な終止符を打つ。環境を整えて次の首相に発議を促すのではなく、3期9年の任期延長がなった自分の手で2020年には改憲を実現できるかもしれない。首相はそう考えたのだろう。
 しかしそれは、この間の慎重路線から逸脱しかねないやり方だ。だから70年談話と同様、妥協が必要になる。。焦点の9条改正で自衛隊の存在を明記する追加案を突然提起したのは、公明党を巻き込むのと同時に、右派色が濃厚な自民党の憲法草案事実上取り下げるものだ。
 とはいえ、それで永田町の多数派工作には弾みをつけられたとしても、肝心要の国民投票への影響はどうか。短兵急だと国民が感じたらどうなるか。
   *      *          *
 その点で、評論家の宮崎哲弥さんが唱える憲法96条の改正案が興味深い。改正手続きで、発議に必要な国会議員の条件を3分の2から過半数にし、代わりに国民投票は過半数から3分の2にするのだという。現実に手続きの先行改正が出来るかどうかはさておき、この「国会と国民を逆にする」宮崎私擬改正草案が傾聴に値すると思うのは、極めて今日的で現実的な危機感に基づくものだからだ。
 「英国のEU(欧州連合)離脱の国民投票で明らかなように、過半数ぎりぎりの賛成では、国論二分でしかなく、国民統合の成果が得られない」
 確かに、首相が真の終止符を願うのならば、国会議員の比率と同等かそれ以上の国民の賛同がないと心もとない。民進党もまた、3分の2阻止だけ唱えても限界があることは、昨夏の参院選で知ったはずだ。首相の作法が覇道だと十全に説得したいのならば、明確な憲法・国家観を早く国民に示さなければなるまい。
 相手の土俵に乗るかどうかといった目先の戦術よりも、草の根の憲法論議の伝統を持つこの国の国民・有権者の良識を信頼して、反論を恐れぬ堂々の論争を挑むべき局面ではあるまいか。」朝日新聞2017年5月21日朝刊、3面総合3欄。

 朝日新聞らしい見解だと思う。新たな国家観・世界観を示して堂々の論争を挑め、ともっぱら野党、とくに民進党に奮起を促しているのだろうが、民進党の現状をみればとてもそんな気概も力量も期待できない。ただ、安倍晋三への国民の信頼がまだこの先も続くと思うのは目がくらみ過ぎていないか。安倍政権の最大の応援団が北朝鮮金正恩になってしまっているが、それもミサイル騒ぎで極右世論を煽っているだけで、次に何が起こるか誰もわからない。政府が対応を誤れば、予期せぬ事態がはじまり、改憲など議論している余裕はなくなるかもしれない。
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音の記憶Ⅵ カール・ベーム1 ・・嘘をホントと信じる人々

2017-05-20 20:53:22 | 日記
A.音の記憶Ⅵ カール・ベーム1
 指揮者は、一本の棒だけを持って指揮台に立ち、オーケストラという楽器を鳴らして演奏する。各パートの演奏者は曲のごく一部を弾く演奏能力を問われるが、指揮者は曲の全体、すべての楽器の特性と役割を把握して作曲者の意図や解釈を明確に、オーケストラで実現しなければならない。自分独りで頑張ればいいのではなく、楽器を演奏する人間に指示を与え、ひとつのアンサンブルをまとめなければならない。18世紀のハイドン、モーツアルトの時代までは、作曲者やリードヴァイオリニスト(後のコンマス)が指揮するのが当たり前だったのを、ロマン派以降、大規模な交響曲や管弦楽曲、あるいはグランド・オペラが作られた19世紀後半には、専門家としての指揮者が出てくる。しばらく前に「のだめカンタービレ」という漫画がヒットしたが、主人公は音大に学ぶ若い指揮者と彼に憧れるピアニストだった。彼はやがてフランスに留学してプロの指揮者の道を歩む、という話で、指揮者がいかに颯爽とカッコいい仕事かが描かれていた。
  実際、日本から戦後欧州に留学して指揮者になった人もいて、小澤征爾を筆頭に世界で成功する人が次々出てきた。ただピアニスト以上に指揮者は男性ばかりの世界であった。これにはある時期までのベルリンフィルのように、女性を入れないような保守的なオーケストラも多い世界で、女性の指揮者に素直に従わない楽員も多かったせいもあるだろう。とにかくレコードが普及していった20世紀後半には、ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、パリ管、ニューヨーク・フィルといった名門オケの常任指揮者や音楽監督を務める指揮者は、巨匠とか名匠とかいわれ世界に名を知られるスターであった。ぼくが高校生の頃、よく行くレコード店には新盤レコードのポスターが貼ってあって、カラヤンとカール・ベーム、それにバーンスタインは常連だった。今の若者には想像もできないだろうが、CDが出る前の30㎝LPの時代だから棚ではなく横に並ぶ箱にレコードが縦に入っていて、お目当てのレコードを探すにはぺらぺらとめくっていく。ロックが人気になりはじめていたが、店内は3分の1が洋楽ロック、3分の1が歌謡曲や日本のポップ流行歌、残り3分の1近くはクラシックだったと思う。レコードは、針を落とすまで傷がつかないように大事に大事に扱うものだった。
  今はクラシック音楽自体が、市場の中できわめてマイナーなものになっていることは、レンタルCDの棚面積でもわかる。J-Popが約40%近く、洋楽Rock/HipHopが30%くらいで、Jazzは10%もなく、クラシックは5%くらいだろう。これは日本に限らず、欧米でもそんなものらしい。それでも、オーケストラはなんとか存続しているし、コンサートやオペラは相変わらず開催されているし、期待の若手演奏家は次々出てきている。しかし、クラシックにかつての熱気はあまり感じられない。それは一部のマニアックなファン以外には、話題にもならない世界である。
  ここで、ぼくがヘルベルト・フォン・カラヤンではなくカール・ベームをあえてとりあげるのは、個人的な体験が忘れられないからだ。その体験とは、ベームの演奏を聴いた感動の体験などではなく、ベームの演奏がついに聴けなかった悔しい体験なのである。ベームはもう晩年と言える時期に日本に3回やってきて演奏会を行った。1975年、1977年、1980年だが、最初のベームとウィーン・フィル日本公演が1975年だった。実は1963年のベルリン・ドイツオペラ引っ越し公演で日本に来ていて、ベートーヴェンのオペラ「フィデリオ」を指揮していた。その後のベームは、ベルリンフィルとのモーツァルトやシューベルトの交響曲全集、ウィーンフィルとのベートーヴェン交響曲全集やブルックナーの交響曲、さらにはモーツァルトのオペラをはじめとする多くのオペラのレコードが発売されており、ほとんどフルトヴェングラー以降最大のドイツ音楽の権化と見られていた。しかし、日本での交響曲の演奏会はなく、しょっちゅうやってきたカラヤンに比べ、ベームという名は日本で伝説化していた。そこで1975年ベーム来日、ウィーンフィルを指揮というニュースは、クラシックファンでなくても一種の事件として世間で騒がれたのである。
  ちょうどぼくは大学院を受験する時だった。ぜひ生でベームを聴きたいと思い、いくら高くてもチケットを手に入れようと思ったのだ。ところが、招聘したNHKでは、チケットは二年前のカラヤン&ベルリンフィルのNHKホールのこけら落としと同じく、葉書による抽選で当選した者のみ購入できるという方式だという。NHKは徹夜などの騒動が起きぬような配慮だというが、とにかく葉書を出さないといけない。ぼくは10枚葉書を買った。初日3/16はベートーヴェンの4番と7番、それにヨハン・シュトラウス「美しく青きドナウ」という大看板だが「君が代」があるというので避け、3/17の「レオノーレ」とストラヴィンスキー「火の鳥」組曲、ブラームス1番(これが一番聴きたかった)、3/19のシューベルト7番「未完成」と8番「グレイト」にワーグナーの「マイスタージンガー」に4枚づつ、3/20のベートーヴェン4番と7番、3/22のレオノーレと火の鳥とブラームス1番は2回目と3回目の同一メニューだから避け、3/25の最終回はヨハン・シュトラウスのワルツ集と「マイスターシンガー」の前奏曲にも念のため2枚出した。10枚も出すのだからどれかひとつは当たるだろうと期待していた。
 それは完全に甘かった。すべての公演に100枚以上の葉書を出すファンがいっぱいいたようだ。ベームが来日してNHKホールで公演が始まる頃、大学院の受験結果が出て、ぼくは合格していた。しかし、NHKからの連絡はなかった。大学院合格よりNHKに蹴られたことの方が10倍は悔しかった。抽選だから仕方がないとはいうものの、せっかくお金ならいくらでも払うと言っているのにチケットを買うことすらできない、なんだか理不尽なものを感じて、テレビで流された映像を見ながら、おのれの不運を嘆いていた。人間は合格の喜びより不合格の悔しさの方を忘れない。ハッピーな恋より失恋の記憶の方がいつまでも残る。手が届く商品よりとても買えない高値の高級品に執着する。
 このような消費者心理に翻弄されるのは愚かなのだが、とにかくあの時は、カール・ベームの音楽そのものより、チケットを買えたことに歓喜している少数の人間と、ぼくのように買えなくて涙を呑んだ数万人のカス人間がいたわけである。冷静になってみると、あれはいったい何だったのだろう?ぼくらはNHKに煽動され翻弄されてしまった。たぶん、今でも似たようなことはいっぱいあるようで、さっきもNHKのニュースで、乃木坂46のコンサートに入場するのに必要な偽造で手に入れた学生証を出した学校教師が違反で捕まったというのがあった。人気のコンサートのチケットは、手に入りにくければにくいほど高価な宝物に見えてくるのだろう。もはやクラシックのコンサートでそんな過熱状態が起ることはありえないが、いずれにせよ、音楽の中身とはたぶん関係がない。
 ちなみにこの年の1月~6月期に来日した海外有名オーケストラを調べてみたら、かなりの大物ばかりで、フェドセーエフ指揮モスクワ放送、ムラヴィンスキー指揮レニングラードフィル、ブーレーズ&グローヴス指揮BBC交響楽団、クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団、小澤征爾指揮サンフランシスコ交響楽団と目白押しだったが、ベームとウィーンフィルの人気は群を抜いていた。
 カール・ベームは1980年の3回目に来た時はもうよれよれで、指揮台に立つのが苦しく椅子に座ってリハをした。もともとカラヤンみたいに派手にかっこつけた指揮ぶりではなく、TVで見てもあまり動かず淡々として見栄えはよくない人だったが、ベートーヴェンやブラームス、ワーグナーの演奏はとりわけ格調高く悠然としたものだった。それが最後のときはなんだかよろめいていて、翌年には亡くなってしまった。ぼくは、あの挫折感から立ち直るために、ベームの「ブラームス交響曲全集」を買って、瞑想しながら聴いた。



B.何が真実なのかわからないのに、自分は真実を知っていると思う人
 芥川賞作家の多和田葉子さんは、日本人小説家だが、もうずっとドイツで暮らしていて、ドイツ語でも小説や文章を書いている。ひとつの言語で書く小説家と、複数の言語で書く小説家のどちらが生産的な仕事をするかは、人により場合によりなんともいえないが、少なくとも日本にいて日本語で暮らしているだけでは見えないものというのは確かにある。それはただ旅行やビジネスで海外と日本を行ったり来たりすればいい、というわけではなく、観光旅行に典型的なように、あちこち見て回っても何も見ていないに等しい人は多い。とりあえずその場所でそこに生きている人と接触し話してみることでいくらでも発見はあるのだ。

「歴史の輪郭ぼやける怖さ:多和田葉子のベルリン通信
 先日、東京からベルリンに戻り、空港でタクシーに乗ると、運転手が金髪のドイツ人だった。若い運転手は移民がほとんどなので、めずらしいなと思っていると、「フライト、どちらからですか?」と話しかけてきた。 「日本からです」と答えると、「福島は今どんな感じですか?」と訊くので、ドイツにはやっぱり世界情勢に関心を持っている若者が多いんだと思って嬉しくなり、今の残る問題の話をすると、青年運転手はぽつっと、「でも福島の原発事故って本当は起らなかったんですよね」と言った。わたしが驚いて、「え、それどういうことですか」と訊き返すと、「あれは事故に見せかけてイスラエルが秘密兵器の実験を行ったんですよね」と言う。「どこでそんな話、読んだんですか?」「インターネットです。」  「インターネットに書いてあることは何でも信じるんですか。」「信用できるサイトですよ。あ、それから一九四五年、広島に落ちたのも本当は原爆じゃなくて普通の爆弾だったんですよね。」タクシーがうちの前に到着すると運転手は携帯を取り出して、「原子爆弾は存在しない」という見出しのついたサイトを見せてくれた。方程式や図面などを取り入れた膨大な英語のサイトだった。ドイツでは史実を歪めることは法律違反になっていて例えば「ホロコーストはなかった」で検索すると「ホロコーストはなかったという嘘」というサイトしか出てこない。わたしはタクシーを降りる時、「ところで地球が本当は四角いってご存知でしたか?インターネットに書いてありましたよ」と言ってみると、運転手は狐につままれたような顔をしていた。
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 今ドイツ社会が揺らいでいるのは、難民を受け入れたからでもテロ事件が起こったからでもない。保守も革新も同意していた歴史の輪郭が次の世代に伝わりにくくなってきたからだ。ナチス政権が人種、思想、宗教を理由に差別、迫害、殺人を行ったこと、言論の自由を侵害したこと、ナショナリズムを煽って侵略戦争をしたことは、どんなに政治的立場が違っていても一応みんな認めてきたはずなのに、それを平気で否定するような演説が現われ、支持者を得るようになってきた。
  わたしは五月最初の週末をベルリン郊外の田舎で過ごした。フランスの選挙結果が心配であまりのんびりもできず、時々ニュース速報をチェックしていると、「今日は少なくとも一つ、いいニュースがあったね。マリーヌ・ルペンが負けた。」「よかった!ヨーロッパは崩壊しない!」というようなメールが友達から次々届いた。翌朝のテレビのニュースでは、アナウンサーが口を開いた瞬間、言葉が出る前に微笑が漏れた。ドイツの国内選挙の結果を報道する時にはどの党が勝ってもアナウンサーは無表情で、個人的には何党を支持しているのかなど視聴者には絶対に分からないのに、この時はフランスの大統領選挙の結果がよほど嬉しかったのだろう。
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 マクロンが選挙戦の最後に声をからして強調していたのは、ヨーロッパが連帯することがいかに大切かという一点だった。フランスはマクロンを選んだというより、EUを選んだのではないかと思う。今のEUには改善すべき点もあるが、今の世界を見渡すと民主主義の砦として頼りになるものが他に見あたらない。ウクライナ問題に関してプーチンを支持するマリーヌ・ルペンがヨーロッパへの期待を裏切る存在として見られても仕方がない。
 EUを選ぶことはナショナリズムにノーを唱えることであり、第二次世界大戦のような惨事を二度と繰り返さない、という決意の表れでもある。そのためには、第二次世界大戦がどういう戦争だったかという認識を共有する必要がある。もしも、わたしを乗せたタクシーの運転手のように、広島に原爆が落ちたという事実さえ認めない人間が増えていくようなことがあれば、わたしたちは携帯を見ながら運転するドライバーの車に乗せられた客と同じで、大変危険な未来に突入することになるだろう。」朝日新聞2017年5月19日朝刊、31面文化・文芸欄。

 これはベルリンだけの話ではない。今の世界に以前よりずっと広がっている傾向だと思う。それは日本でもぼくらの身近に、このような非常識を真実だと思って吹聴する人がうようよしていることを見る機会が増えたからだ。いわく、新聞やテレビは肝心な真実を隠しているか、偽情報を振りまいている、あの事件は実はこういう陰謀の結果で、それは一部では知られているのだが、世間の人は騙されているから気がついていない。ネットには怪しげな真実なるものがいくらでも見つかる。それを信じるかどうかは、自分の好み次第になってしまう。自分だけがこの陰謀を知っている、と思うことで知的な愉悦や優越感すら感じているようだ。それは反知性主義というより、もはやアカデミックな権威が失われ、確実な知識というものが危機に瀕している状況があるからだ。
 「近代の知」にある種の偏向や歪みがあるということは、ぼくも論文にして書いてきたが、逆に人類が長い時間をかけて築いてきた確実な知というものは、こんなあやしげな噂にすぎない陰謀説や検証不可能な臆説を断固否定しなければいけない。妄念が、多くの人をとらえる状況は、小和田さんの言うように大変危険な未来に突入する恐れを感じる。
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