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仏像を考える 4 大日如来  寂聴さんの希求したもの

2021-11-29 02:15:53 | 日記
A.真言密教の世界
 ぼくはお寺で生まれた。それは父が真言宗寺院の僧侶だったからだが、ぼくが物心ついた時には寺を出ていて、僧侶も辞めてギターの弦を作る工場の経営者になっていたから、お寺も仏教も無縁な生活だった。ただ家には仏壇があり、父はときどきお経を唱えていたし、真言密教の本も書棚にあった。でも父から仏教の教えを直接聴くことはほとんどなかった。それはぼくがまだ子どもだったこともあるだろう。でも、大人になっても般若心経や南無大師遍照金剛を法事などで唱えることはあっても、とくに意味を説明したりはしてくれなかった。
 でも今考えると、父は僧侶であったことも、僧侶をやめたことも彼なりに納得していて、信仰については常に考えていたように思う。父の喜寿(77歳)のときに、永年念願にしていた四国八十八カ所巡礼をしたいというので、ぼくは父と母をレンタカーに乗せて四国をぐるっと回った。弘法大師空海は平安時代初期に遣唐使船で唐に渡り、当時最先端の真言密教を伝授され、仏典・仏具を持ち帰って紀州高野山に金剛峯寺を開いて、日本の密教のセンターにした。空海が若き時、四国をめぐって苦行の修業をしたという伝説から、四国八十八カ所の霊場も開かれ、いまも巡礼者は絶えない。
 しかし、日本では真言密教の中心仏である大日如来は、民衆にはしごく人気のない、イメージの沸かない仏である。それは、真言密教が「密教」というように一般の民衆には、とっつきにくい理論で武装され、しかも加持祈祷という怪しげな儀式を執り行う呪術的世界であり、それはやがて修験道のような魔の跳梁する山伏にもつながる恐いものだとされて、浄土系や法華系や禅のようなわかりやすい手がかりのない宗教とみられた。仏教といっても、釈迦の説いた原始仏教から百年二百年経過して、大乗仏教が進化するなかで出てきた密教は、インド世界のある意味抽象的哲学的思考の作り上げた壮大な宇宙論なのだ。それは、曼陀羅と大日如来がすべてを包摂するとんでもないグランド・セオリー、スペース・ファンタジアだった。

 「仏教が成立して、釈迦如来像が造り始められ、礼拝されるようになった頃には、大乗仏教の時代が始まっていた。この頃にはお釈迦様は現実の人間としてでなく、仏としての釈迦如来の意味が強くなっていた。すなわちお釈迦様は仏教が説く、さとりの最高の境地を象徴する仏として考えられるようになっていたのである。
 大乗仏教は自己のさとりを求めるだけにはとどまらず、他人をもさとりの道にいざなうことをしなければならないと教える。それは上求菩提下化衆生(上に向かっては悟りの道を求め、下に向かっては大衆を教化する)の言葉によって示される精神である。この精神を展開していけば、下化衆生を具体的に行なうために、さまざまな仏が出現することになってくる。釈迦の次にこの世に生まれて成仏し、大衆を教化する役目を担っている未来仏としての弥勒如来、死に対する安心感を与えるための阿弥陀如来、人間を病気から守る力を持つ薬師如来など、さまざまな如来が作り出されてきた。それは千仏、三千仏の思想をも生み出してくる。釈迦如来以外の諸如来で大衆に親しまれてきたものは、それぞれかなり具体的な性格を持っており、人間のさまざまな苦悩に対処して導く誓願を持っているのである。
 多数に出現した如来は、それぞれ独立した所依の経典を持っているが、その経典は仏説○○経というように、釈迦が説いた経典であるという形式の名称となっている。その意味からいうならば、釈迦の説法によって出現した如来ともいうことができる。しかしそれらの如来相互の関係や、それら全体を釈迦を中心とした体系にまとめる思想は、それぞれの経典には示されていない。
 しかし釈迦を中心として、如来を一つのものに統一する思想は西紀三〇〇年代の後半には成立していた。それは四〇〇年代の初め頃に漢訳された「華厳経」・「梵網経」・「観普賢経」などに説いている廬舎那仏によってなされたのである。この廬舎那仏を仏教の本源の仏として考え、その仏があらゆる世界に釈迦となって出現し、菩提樹下で説法すると考えたのである。この形を表わしたものが東大寺大仏殿の本尊廬舎那仏・唐招提寺金堂本尊像などである。
 東大寺大仏殿の本尊廬舎那仏が座っている蓮台は、「梵網経」に説く千葉の大蓮華であり、その大蓮華の一葉ごとに一つの世界があり、その各世界に釈迦が出現して、大説法を行なう。その釈迦の坐る千葉の蓮華の千の世界にその釈迦が菩薩として出現するというのである。その多くの世界を合わせると百億の世界になるといっている。このことを表わすように、大仏殿の大きい蓮台の各葉には、釈迦の説法と世界図を毛彫りで表している。それは雄大な世界の想像であり、その大きさを表わすために、大仏のように巨大な廬舎那仏の造立がなされたのである。ジャワのボロブドウルの遺蹟が巨大なのも「華厳経」の思想を中心にして作られたためであると考えることができる。唐招提寺金堂像の光背に多数の如来像が作りつけてあるが、これは華厳経に説くように、本尊のいちいちの毛穴から化身の雲を出すというのに従って、その毛真の釈迦が出現した様を表わしているのである。中国の西の涯にある敦煌の壁画には、既に五〇〇年代の廬舎那仏が描かれており、雲南の大同石仏にも見られる。「大日経」、「金剛頂経」に説いている大日如来はこの思想を進展させて成立したものということができる。大日如来の梵名を摩訶毘盧遮那仏というが、これは大毘盧遮那仏の意味であり、その名称から見てもこの両尊は同じ系統のものであることがわかる。
 「大日経」と「金剛頂経」は同じ場所で、同じ人によって書かれたものではない。しかしその中心の本尊を同じように大日如来としていることからみるならば、廬舎那仏の思想が成立して以来、この仏はインドの仏教思想の間に広まってゆき、その思想を展開して、新しい仏教的統一の世界を作り出そうという試みが諸所でなされていたと考えてもよいものと思う。この二つの経典を一つのものとして、両部不二の経典とし、それによって教義を展開していったのが日本の真言密教である。
 この両経典によって制作された大日如来の姿は両者ともに、頭に高い髻を結い、宝冠、首飾りなどをきらびやかにつけた、いわば菩薩形をとっている。しかしその印相は異なっている。すなわち「大日経」による大日如来像は膝の上に両掌を重ねている禅定印である。これを法界定印という。それに対して、「金剛頂経」によって作られたものは、両手を胸の前にさげ、左手の人差し指を右の拳で握っている印相である。これを智拳印という。
 大日如来像は如来でありながらも、全く装飾をつけていない他の如来とは違って、同じように王者の姿として菩薩形に似た姿をとっている。しかしその姿には菩薩の場合よりも、その肉身につけている装飾ははるかにきらびやかであり、王者の風格を表わそうとしている。それは如来・菩薩・明王・天などの諸尊を統一する最高の地位を象徴するものつぃて、王者の姿がとりあげられたのであろうと考えられる。それは他の諸如来と区別するためにとられた、最良の方法といわなければならない。
 次に大日如来の印相のうち、胎蔵界大日如来の法界定印はさとりの境地を象徴するもので、いかなるものにも侵されない、さとりの最高の境地を示すのである。それは大日如来に統一される理の世界を表わす中心本尊の印相としては適切な表現というべきである。また智拳印は胸の前に両手をあげて、一方の拳で他方の指を握っている形になっているが、これは考える場合の動作の一つといってよい。その考えを決定する時、それから行動に移ろうとする直前の動作ともみられるのである。智拳印の名はそのことを意味する。「大日経」が理の世界を説いているのに対して、「金剛頂経」は智の世界、働きの世界を説くといわれるが、その中心の本尊としてこの智拳印を結んでいることも適切な表現といってよい。この印相は昨今流行している忍者の結ぶ印に似ている。忍者と密教系修験者との間に深いつながりがあることを考えるならば、忍者の印は金剛界大日如来の印相と関係があるといってもよいと思う。
 日本密教においては、上述の両経典によって描かれた胎蔵界と金剛界の両界曼荼羅を一対のものとして、堂内に掲げるのが通例となっている。そのために両界曼荼羅図の遺品は多い。室町時代以後になると、木版の曼陀羅図も作られ、印刷して広く配布されるようになった。現在でもこの時代の版画彩色の曼陀羅図がかなり多く残っている。
 両界の大日如来がその四方に配している四如来の名称は次のように異なっている。
  胎蔵界大日如来・・宝幢如来(東)、開敷華王如来(南)、無量寿如来(西)、天鼓雷音如来(北)
  金剛界大日如来・・阿閦如来(東)、宝生如来(南)、阿弥陀如来(西)、不空成就如来(北)
 この両界の四仏の名称は異なっているが、後世の解釈では、同じ方位に配されている両尊は同体であると考えられている。これらの如来の名称をみると、阿閦如来、阿弥陀如来(無量寿如来)などは独立経典を持っており、かなり広く信仰された歴史を持った仏である。しかし他の如来はあまり聞きなれない名のものばかりである。これらのものは他の諸経典の中に方位に配して説かれているにもかかわらず、一般の信仰の中に入ってこなかったものばかりである。不空成就仏・天鼓雷音仏は釈迦と同体であるとされており、仏教の祖師としての釈迦を北方に配していることは興味あることといわなければならない。すなわちそれはこれらの経典の成立地が南方であったことを考えさせるものといってよいと思う。
 さて両界曼荼羅を中心本尊と考えた日本の密教において、両界の大日如来以下の諸尊をいかにとりあつかってきたか。それを考えるために、まず弘法大師の独自の考えによって建立された高野山の伽藍をみることにしよう。
 ここでは絵画として日本に伝えられた両界の曼陀羅を象徴する二基の塔を伽藍の中心において、南都仏教の伽藍にみるような金堂は作らなかった。すなわちこの場合には曼陀羅の中心に描かれている大日如来以下の五仏を彫刻として表わし、その他の諸尊は柱や壁に描いたのである。この形式の伽藍を作った例は多くはない。しかし両界曼荼羅を象徴する両界大日如来像などを作ることは、広く、また長い期間にわたって行われてきた。それ五仏を省略した形式として、両界大日如来像だけを作って、堂内に安置したものと考えられる。これは地方寺院ではときどき見かけることができる。
 多宝塔と呼ばれている塔内に金剛界五仏もしくは胎蔵界五仏を安置したものがみられる。これは高野山の伽藍の二つの塔の形式を踏襲して作られた場合もあるが、最初から塔一基だけを建立した場合も多い。この場合には、真言系においては金剛界、天台系においては胎蔵界を最高のものとする考えによって、両界のうちの一つを選び、安置したものと考えられる。この例にならって、金剛界大日如来一体を安置することが真言系の寺院において行われることがある。それは一字金輪・大日金輪などと称する場合もある。中尊寺の一字金輪像はその例である。また天台宗においては胎蔵界大日如来像だけを安置する例が比叡山総持院に早くから見られる。」望月信成・佐和隆研・梅原猛『仏像 心とかたち』NHK出版、2018.pp.117-123. 

 仏像研究の第一人者、高野山大学教授、京都市立芸大名誉教授の佐和隆研氏は、京大経済研究所、滋賀大学学長などを勤めた高名な計量経済学者、佐和隆光氏の父である。佐和隆研先生の大日如来の説明は、密教と曼陀羅そのものの解説として完璧なものだが、これを読むと、一体真言密教というものは、とてつもない観念の構想物、インド的空想世界の宇宙論の飽くなき展開だと思えてなんだか気が遠くなる。浄土系の南無阿弥陀仏でOK!だとか、禅宗のただ坐って無念無想とか、日蓮の法華経の行動主義だとかは、みんな単純なスローガンで走り出す全共闘みたいな感じに思えてきた。梅原猛もそこに感応して、真言密教なんていかがわしい呪術かと始めは思ったけれど、だんだんこの大日如来が統べる曼陀羅世界は、意外にすごいんじゃないかと思い始めている。

 「両界曼荼羅から密教精神をとらえる
 このように大日如来の形と色の分析は、既に密教の精神を示すのである。一体密教とは何か。ここで密教を知るためにはあくまで形から考えるわれわれは曼荼羅を考察しようと思う。曼陀羅とは何であろう。曼陀羅にはいろいろな意味があるらしいが、集合と本質という意味が有力であろう。つまり、仏の集まりを示すとともにさとりの本質を示すものであろう。佐和先生の言われるように、この仏の集め方にはいろいろ種類があり、従って曼陀羅は無数にあるが、日本に多いのは、空海が恵果から授けられた「大日経」に基づく現図胎蔵界曼荼羅と「金剛頂経」に基づく金剛界曼荼羅を二対一組とする両界曼荼羅である。
 大乗仏教は多くの仏を創造したが、結局その仏も一なる仏、絶対の仏である大日如来に統一されることになる。今この仏の集まり、仏の統一の仕方を見てみよう。例を現図胎蔵界曼荼羅にとろう。この曼荼羅、すなわち仏のサークルは、十二の院に分かれている。中央が中台八葉院、この院の長はもちろん大日如来、この大日如来をかこんで宝幢、開敷華王、無量寿、天鼓雷音の四如来と、普賢、文殊、観世音、弥勒の四菩薩がいる。この院をかこんで第一重といわれる仏の徳を示した四つの院、つまり不動明王を長とする迷妄を打ち破る精神を表わす持明院、対立にとらわれない広大な知を表わす遍知院、それに慈悲を表わす蓮華部院、知恵を表わす金剛手院の四院がある。この遍知院の上に第二重として釈迦を長とする釈迦院があり、その周囲に第三重といわれる文殊、除蓋障、地蔵、虚空蔵、蘇悉地の五院があり、さらにその外側に最下院があり、そこには仏教以外の神までも、仏教を擁護するための神として配されている。
 この曼荼羅を見ると、私はいろんなことを考えるのである。実にうまく仏さまをまとめたものである。大日如来を中心にして、多くの仏様が平和共存しているのである。それぞれの仏様がその場所を与えられている。阿弥陀様も、不動様も、文殊様も、それぞれその場所を与えられているばかりか、仏教以外の、仏教に反対する神、帝釈天や梵天も、仏教を守る神として、ここでその住むべき場所を与えられている。毘盧遮那の世界はすべてを統一する一なる世界であり、多の中に共通な一を見る思想であった。ここでは、一が如何に種々なる多に変化するかが物語られている。一の原理が優勢な毘盧遮那に対して、ここで優勢なのは多の原理であり、一つ一つの仏の個性がみごとに生かされている。仏の個性をそれぞれ生かした統一の世界、曼陀羅の世界はそういう共存の原理によってたてられているのである。」望月信成・佐和隆研・梅原猛『仏像 心とかたち』NHK出版、2018.pp.139-141. 

 ぼくは自分の潜在的ルーツである真言密教について、ちゃんと知りたいと思いながら、もう古希を過ぎるまで無知だった。僧侶として高野山で学んだ父は何を考えていたのだろうと思う。ただの家族の幸福とか、世俗の金や名誉や人間関係のあれこれに悩んでいたようには思えない。仏教者として、真言密教を学んだ者として世界を眺めていたのかもしれないと、今になって息子のぼくは思う。父は死んでしまったが、ぼくはまだ生きている。


B.なんだか奇跡的な人だった
 今の日本の言論状況、マスメディアがかまびすしくエンタメや芸能ジャーナリズムで騒ぎ立てている風潮は、露骨なクソ左翼バッシングと、長い歴史の記憶への無知ゆえに、軽薄にメジャーに迎合する見当ちがいなLGBTQ支援への加担や、SDGsを錦の御旗に掲げる一見リベラルな主張が、実はただ風向きに乗ってるにすぎないことには気がつかないといけない。作家で尼僧の瀬戸内寂聴という人は、それに必ずしも自覚的に、あるいは男性文化の中では大いに違和感をかんじて抵抗してきた人だったと思う。この人が小説に書いた田村俊子、岡本かの子、菅野須賀子、伊藤野枝という女性たちは、まさに日本の近代という男性社会に異議を唱え、激しく戦ったヒロインだった。でも、どうして瀬戸内寂聴はここまで反体制を綺麗に貫いて、大手メディアの注目を浴びてあの世にいけたのか。それは女性だったから、といえるのか?

「瀬戸内寂聴さんを悼む 「小さな声」に寄り添い続け  落合恵子
 いつだって、少し距離のあるところから、瀬戸内寂聴さんの姿を拝見し、スピーチを拝聴してきた。いまをときめく大きな存在とは少しばかり距離をとる‥‥‥。そうしてきた。そして寂聴さんは、九十九歳の最期まで、いまをときめく存在であり続けた。
 五十一歳で出家される直前にインタビューをさせていただいた時や、京都の庵を取材で訪ねた時のほうが、寂聴さんと向かい合う時間がずっと長かったように思う。
 いつもにこやかだった。しかし、抗議行動の時のスピーチに力がこもると、声音が少し高くなり、実際の年齢には到底思えないほど凛々しい言葉が並び、存在感がより増したものだった。実際「力がこもる」テーマばかりを、引き受けてこられた。そういう時代、そういう社会、そういう政治であり、それに抗う寂聴さんだった。
2011年3月11日以降は、反原発の集会にも、経産省前「テントひろば」でのハンガーストライキにも参加されていた。戦争体験を話されたのは、15年の国会前でのこと、安保法制反対の集まりだった。
 「私は、いかに戦争がひどくて大変か身に染みて感じています。戦争に、いい戦争はないのです」
 難しい言葉を使うことはなかった。誰にでもわかる風通しのいい、易しく優しい言葉で話をされた。そうでなくては、社会的運動は拡がりも深まりももてない、という自分との約束がおありになったのかもしれない。
 1991年、湾岸戦争。2003年、イラク戦争。寂聴さんの憤りは、女・子ども、高齢者、障がいのある人たち等、それぞれの存在を踏みにじるものへ、力へと向けられていた。米国に追従するこの国の権力にも、グローバリズムにも。
 「徳島ラジオ商殺し事件」で逮捕された女性を支援したことも、寂聴さんの中では一貫した選択であったに違いない。「より声が小さい側」、アザー・ヴォイセス(other voices、主流でない声や価値観)への共鳴と共感。痛みと憤りへの想像力。
敗戦の瓦礫の下から、ようやく「わたしたちはここに居る!」という女性たちの声がきこえはじめたころ、寂聴さんはそれをすでに実行されていた。やむにやまれぬ熱情に背を押されるように。当時の倫理観からするならその「実行」はスキャンダルであったろうし、作品もまた、そういった色眼鏡で評価される場合も少なからずあったに違いない。人は自分が見たいようにしか、他者を見ない場合が多いのだから、他者という存在は、見る側の眼鏡の度数で、いろいろに変化する。
田村俊子、岡本かの子、伊藤野枝、菅野須賀子らをモデルとしての評伝や伝記小説。彼女たちは「はみだした女」ではない。自らに誠実であろうと望み、そうした結果、社会から「はみ出さざるを得なかった」女たちだ。彼女たちのある日ある時ある瞬間に、寂聴さんはご自分の瞬間を重ねて見ておられたのかもしれない。      
 この国に限ることはない。どの社会においても、大きな力(常識もそのひとつだ)への「反」の意思表示は決してたやすいことではなかったはずだ。
 わたしが考えるフェミニズムとは、「アンチ・ナショナリズム」だ。男性優位主義も、多様性を認めない不寛容さも、むろん好戦主義も、それぞれのフィールドにおける「ナショナリズム」ではないか。そういった意味で、寂聴さんは、果敢な人生の自由主義者であり、同時に豊かなアナーキストであったのだ。(おちあい・けいこ=作家)◇作家・瀬戸内寂聴さんは9日死去、99歳。」東京新聞2021年11月25日夕刊3面。



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仏像を考える 3 阿弥陀如来  共闘と連立政権

2021-11-26 19:12:47 | 日記
A.彼岸への憧憬
 「なむあみだぶ」という言葉は、「なんまいだ~」として仏前で唱えるものと知られているが、正しくは「南無阿弥陀仏」で、浄土宗・浄土真宗ではこれを唱えるだけで救われる、という有難い「六字の名号」と呼ばれる。阿弥陀仏への帰依を表明する定型句である。サンスクリット語からくる「南無」はナモーの音写語で「礼拝、おじぎ、あいさつ」を意味するナマスの連声による変化形。「礼拝」から転じて帰依を表明する意味に用いられ、「わたくしは帰依します」と解釈される。このような言葉として、ほかに「なんみょうほうれんげきょう」(南無妙法蓮華経)もあるが、これは阿弥陀仏ではなく法華経というお経に帰依するという意味で、浄土系の宗派ではなく法華宗・日蓮宗系が唱える。ほかにも「南無釈迦牟尼仏」は禅宗系、「南無大師法蓮華経」は真言宗系などとそれぞれ宗派で「南無○○」が違っている。これらは各宗派の教義にかかわってくるのだが、「南無阿弥陀仏」はある意味いちばん分かりやすい。
 つまり阿弥陀如来という仏さまは、難しいことはよくわからない文字も読めない衆生でも、みんなまとめて救ってくれ、西方にある極楽浄土に導いてくれるのが仕事なのである。そのためには、ただ「南無阿弥陀仏」と唱えるだけでよい、というのが浄土系仏教の教えのキモなのだ。したがって、仏像も寺院もこの極楽浄土のイメージを美しく荘厳に描き出そうとする。

 「阿弥陀如来は、現在もなお西の方、十万億土を越えた所に極楽浄土を開いて、そこで説法をしていると信じられ、われわれ凡夫はこのままの姿で、この浄土にある宝池の蓮華の上に往生して、この如来に救ってもらえるものと信仰されている。如来は必ず一浄土を開いているけれども、阿弥陀如来の極楽浄土が一番多く信仰されるために、ただ単に浄土教といえば、阿弥陀如来の浄土の教えをいうこととなったものである。恐らく仏教の諸仏のうちで阿弥陀仏の信仰は他のすべての如来を圧して一頭地を抜いているものということができるだろう。わが国でもその例にもれず、古い時代から阿弥陀如来の信仰が盛んで、その造像も隆盛を極めた。阿弥陀如来の姿や極楽浄土の有様は、「観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)」(略して観経という)に詳しく説かれており、像を作る人、極楽浄土を知りたい人びとは、みなこの経をひもとかなければならない。そのために諸芸術もみなこの経に基づいて表現されるものである。
 さてわが国の阿弥陀如来に関する信仰は、仏教伝来後間もない頃にすでにあり、その造像も早くから見られた。たとえば奈良県法隆寺にある橘夫人稔持仏という阿弥陀如来像は白鳳時代の最優秀作で、銅製鍍金の精巧な彫像である。極楽浄土の蓮池を銅板に浮き彫りとし、それから生ずる三(さん)茎(けい)の蓮華座の上に阿弥陀、観音菩薩、勢至(せいし)菩薩の三尊が乗り、後ろに供養天人像の浮き彫りを施した衝立(ついたて)があるなど、精巧な彫法を示したものである。この像をはじめ、昭和二十四年(1949)に惜しくも焼失した天下の名画、法隆寺金堂の西の大壁に阿弥陀如来を中心とした極楽浄土の有様を描いた壁画も、白鳳時代の代表作品であったことなど、相当早い頃から阿弥陀如来の造像があったことを知ることができる。やがて平安時代になると、いわゆる末世思想が台頭し、阿弥陀如来の教法は、「末世相応の教え」と信仰され、その造像は驚異的な隆盛をみるようになった。
 末世思想とは釈迦如来の教えが流布する状態を正・像・末の三法とし、釈尊の入滅後五百年間は正法(しょうぼう)時代と称し、教・行・証が完全に存在している時代で、最も理想的な良い時である。すなわち釈尊の教えを直接に聞いた人もおり、その人から次の人へと伝わり、その教が正確に伝承されているから、行、すなわち修行も容易にできるし、証、すなわちさとりも正確に達成することが可能な時代なのである。この五百年が過ぎてから、千年間を像法(ぞうぼう)時代という。この時代は教・行は残るが、証はない時代であり、経典を読み、それにより修業はできるがなかなか証は得られない時代と説くのである。しかし正法時代よりはやや悪くはなったが、まだ像法時代は最悪時とはいえない。このように釈迦牟尼が入滅してから千五百年間はとにかく良い時代であるけれども、これを過ぎると末法時代に入るという。末法は万年間続くというが、万年は満数(仏教で無限を意味する表現)であって、永久に続くというのと同意義である。この時代は教だけがあって、修行も証果もない時代で、最悪な時期であると説く。
 この時代は自力では解脱が不可能であるので、仏教信者はその時期に入ることを極端に恐れた。この末法時代にいつ突入するかが仏教信者にとっては大問題であり、伝教大師最澄は『末法灯明記』著わして、そろそろ末法時代に入ることを警告している。あたかも平安時代の初め頃が、釈迦の入滅後千五百年に相当するところから、平安時代の仏教信者は気が気ではなかった。伝教大師時代はまだ多少像法時代のなごりがあると信じて安心していたが、藤原氏が勢力を示す頃は、いかにしても末法時代に入ったことは否定できず、自らの力で救うことは全くできない時代であるから、他力によって最悪なこの世界から脱出するよりほかに道がないと考え、阿弥陀仏の信仰ががぜん隆盛を極めるようになったのにほかならない。阿弥陀仏の信仰は念仏することだけで、この姿のまま極楽浄土の台の上に往生することができ、この蓮華上で阿弥陀仏の説法を聞きながら証果を得ようという信仰である。これならば末法時代でもだれでもできることである。従って藤原時代から以降は、阿弥陀如来像の造立はもちろんのこと、阿弥陀如来の来迎する姿、極楽浄土の有様などを表現した彫刻像や仏画がおびただしく制作されて、崇拝された。現在もなお優秀な作品が相当数残っている。
 さて阿弥陀如来像の形相については釈迦如来像の項で述べたように、同じく三十二相八十趣好を具備し、面貌や身体は諸仏と全く変化がなく、区別することができない。それで手の位置や指の曲げ方、すなわち印相で阿弥陀如来像を見分けなければならない。
 阿弥陀如来の印は諸仏のうちでも最も種類の多いものである。一般に阿弥陀如来の印は両手ともに第一指と第二指(または第三指あるいは第四指)とを曲げて、輪のようにしているものであるから、これさえ知っておくと他の仏と区別することができる。しかも二指を曲げた手の位置で、上品上生から下品下生の九種に区別されるのである。次ページの図で九種の印のあり方を示そう。
 すなわち第一指と第三指を曲げたのが、中品印であって、上生以下は上品の時と同じであり、第一指と第四指を曲げた場合は下品印であり、そして上品印の時と同じく、上生から下生の三種の印相となる。仏像や仏画に現われる多くの阿弥陀如来像は、上品上生印と上品下生印とであって、その他は非常に少ないことも知っておくべきである。
 このほかに法隆寺金堂壁画の阿弥陀如来の印のように特殊な説法印もある。また京都市太秦広隆寺の講堂の本尊に丈六の木造阿弥陀如来座像が安置されているが、この像の印は下品中生印である。この像は永原御息所の御願と伝え、この御息所は淳和天皇の女御であり、天長、承和年間(824-848)頃に活躍した女性であるから、この像もその頃に造立されたものと思う。いくら業障の深い女性が発願したからといっても、下品中生の阿弥陀如来像を作るほど卑下するのは不自然であるので、むしろこの印相は当時阿弥陀如来が極楽浄土で説法をしているときのいわゆる転法輪印(説法印のこと)であるらしく、法隆寺金堂の壁画の阿弥陀仏の説法印の転化であろうと思う。奈良市法華寺に有名な三幅対の阿弥陀如来来迎図があるが、かの中幅の阿弥陀像が、またこの広隆寺講堂の本尊と同じく下品中生印を結んでいる。この画像は平安時代初期の優れた作品であるが、これも同じく説法印と考えるべきものと思う。平安時代の初期を下るとこのような印相を示した独立した阿弥陀仏像は耐えて見なくなるのだから、私は九品の印相が成立をしたのはやや時代が下り、あるいは藤原時代の中頃以降ではなかろうかと考えている。」望月信成・佐和隆研・梅原猛『仏像 心とかたち』NHK出版、2018.pp.85-90.

 阿弥陀仏の説明は、以上の望月信成師の詳しい解説でおよそ理解できるが、阿弥陀仏の精神的な意味とその影響について、梅原猛氏はどうコメントしているか。これはなかなか興味深い。

 「望月先生は前の「形」の説明の最後で、「平安時代の仏教芸術は阿弥陀如来関係の作品を除くと大半は失われてしまう」と言われた。このことは美術作品ばかりではないであろう。平安時代の文化の中に阿弥陀信仰は深く影響を及ぼしている。そして、日本文化の基礎を作ったのが平安時代であることを考えると、阿弥陀信仰はまさに日本文化の核をこしらえたはずである。われわれはまず問う。この阿弥陀信仰の実体は何であったかと。
 望月先生はおっしゃる。「極楽浄土を知りたい人びとは、みなこの経(観無量寿経)をひもとかなければならない」と。今、われわれは極楽浄土を知ろうと思う。われわれ人間と日本人の心を知るために、熱烈に極楽浄土を知ろうと思う。そのために「観無量寿経」を知らねばならない。ところがわれわれは仏教の経典についてはなはだ無知である。明治以来のわれわれの学校教育は仏典に関する強要を正規の教育課程からしめ出してしまった。われわれは、論語や孟子、あるいはソクラテスやカントについては少しは学び、また親鸞や道元の文章をも少しは学んだ。しかし経典について何一つ学ばない。そして、古くから日本人に愛読され、日本文化の核をきずいたと思われる「法華経」や「阿弥陀経」について何一つ知ろうとせず、しかも、それらの経典に大きな影響を受けたはずの小説や随筆を日本文学の傑作として尊重する。私はこのことを明治以来の日本の教育のあり方の重大な欠陥だと思う。かつてこの国の人に最も多く読まれた本についての基礎知識を持たずに自国の文化について語るのは笑うべきことではないか。
 さて「観無量寿経」を読もう。それはすばらしく美しいドラマなのである。釈迦の同時代に、阿闍(あじゃ)世(せ)というマガダ国の一太子があった。悪友の教えに従って、父頻婆娑(びんばしゃら)羅王を幽閉し、死に至らしめようとした。頻婆娑羅の夫人で阿闍世の母、韋提(いだい)希(け)は、身を清潔にして酥(そ)蜜(みつ)(牛乳を精製して蜜を加えたもの)に小麦粉を混ぜたものを身にぬりつけ、玉の瓔珞(ようらく)(装身具)の穴に葡萄の汁をもって、幽閉中の大王に近づき、大王の命を救う。阿闍世は門番に問う、頻婆娑羅は死んだかと。門番は答える、死なないと。阿闍世はその理由を知り、怒って、母を殺そうとする。大臣月光と医者耆婆(ぎば)は命を賭して、阿闍世を母殺しの罪から救う。やっと阿闍世は母を殺すことをあきらめ、彼女を深宮に幽閉する。
 このような悲劇を背景にして偉大なる浄土の教えは説かれるのである。韋提希夫人は悲しむ。そして、涙の雨の中で、彼女は釈迦に哀願する。「もうこれ以上、このにごった世界に住みたくありません。どこか、未来のうれいのない国へ行かせてください」。五体を地に投げ、身も世もなく泣きくずれて懺悔する韋提希夫人に、釈迦は十方の光り輝く国土を示す。しかし韋提希の願いはただ一つ、「極楽世界、阿弥陀仏の所へ行かせて下さい」。韋提希はこのようにして仏の力で阿弥陀浄土、極楽世界の美しさを見、それを信じることができたが、後世の衆生はこのような仏の力にすがることができない。それで、その極楽浄土へ行く方法を、釈迦に教えてくれと頼むのである。これが所謂、定善(じょうぜん)と散(さん)善(ぜん)である。定善とは、心の散り乱れているままに悪を廃め善を修めて阿弥陀浄土に往生する方法である。」望月信成・佐和隆研・梅原猛『仏像 心とかたち』NHK出版、2018.pp.104-106. 

 アジャセの物語は、なかなかドラマチックな展開で、ここから浄土のイメージにつながってくる。それはたとえば手塚治虫の「ブッダ」でも出てくるが、精神分析のフロイト「エディプス・コンプレックス」に対比して、「アジャセ・コンプレックス」という言葉でも知られる。これは、古澤平作が創唱し、小此木啓吾が広めた精神分析用語になったもので、未生怨すなわち出生以前に母親に抱く怨みの事を意味する。エディプス・コンプレックスが、父を敵視し母と結ばれたいという男の子モデルなのに対し、アジャセ・コンプレックスは、母との一体感ゆえに息子が母のエゴイズムに恨みを抱く心理ということになる。しかし、元の「観無量寿経」の説話はそのように解釈できるとは限らない。あくまで仏典は、この世の苦ゆえに極楽浄土を希う人間の必死さを描くものだろう。


B.野党の進むべき道は?
 総選挙の結果を野党第一党、立憲民主党はどう総括して次の体制を作るか?これは野党全体の方向にも影響を与える問題だ。選挙直後から立憲が共産党と候補者一本化調整を図り、政権獲得すれば閣外協力で共闘するとしたことに「失敗だったのではないか」という声が出てきた。たぶんそれで議席を減らした責任を追及され枝野代表は辞任、後任の代表選挙になっている、という構図だろう。でも、野党共闘で一本化していなかったら、もっとひどい結果になったのではないか。選挙開始直後、自民党の甘利明幹事長は、「日本に共産主義政権ができてしまう」と時代錯誤な危機発言をして、結局自分が落選してしまった。反共攻撃は今に始まったことではないか、連立政権になったからといって、共産主義政権ができるなどというのは、政治というものの基本がわかっていないことになる。やはり総選挙後2カ月かかった新政権が発足したドイツでは、SPD(社会民主党)と緑の党とFDP(自由民主党)という左右立場の違う3党が時間をかけて政策協議をして新しい体制を作った。自民党一党体制が続く日本では、考えられないことである。

 「野党共闘 進化を探れ  効果あった候補一本化:中島岳志 
 衆議院選挙後、野党共闘のあり方が議論になっている。立憲民主党や共産党などの野党は、小選挙区での候補者の一本化を進め、多くの選挙区で与党候補との一対一の対決に持ち込んだ。しかし、立憲民主党は大幅に議席を減らし、共産党も二議席失う結果となった。そのため、野党敗北の原因を、野党共闘に求める論調が目立っている。
 しかし、与党自民党で情報調査局長を歴任し、ネット戦略にかかわって来た平将明議員は、十一月四日放送の「報道1930」(BS-TBS)で「立憲と共産党の統一候補というのは、大変な脅威でした」と語っている。自民党は最終的に接戦区で競り勝ったため、結果的に良い数字をとることができたものの、結果が反転していてもおかしくなかった選挙区が多数あり、「たまたま我々が勝てた」というのが実情だったと述べている。
 『武器としての世論調査』(ちくま新書、2019年)という著作がある三春充希は、「みらい選挙プロジェクト」というブログで野党共闘の結果を分析し、「野党共闘は失敗か?」という論考を掲載している。
 三春は前回の衆議院選挙と、今回の衆議院選挙の結果を統計的に比較し、野党共闘の効果を探る。まず見えてきたのは、維新を含む与党と共闘した野党の最有力候補の得票率が明らかに増加しているという事実である。もし全国的に5ポイントほどの票が野党側に動き、接戦区を制していれば、自民党が過半数割れになっており、選挙結果は一転したという。
 さらに前回の衆議院選挙で野党が候補者を統一せず、今回は統一が成立した選挙区が百五十四あるが、そのうち野党側の支持が前回よりも増加した選挙区は九十九にも昇る。一方で前回、今回共に野党の候補者一本化が成立した選挙区は五十八だが、支持が増加したのはわずか十四にとどまり、減少した選挙区が四十四になった。
 つまり、野党側にとって今回は非常に厳しい選挙であったにもかかわらず、野党共闘が新たに成立した選挙区では、議席を獲得したり、接戦に持ち込んだりした選挙区が増加しているのである。実際、前回よりも今回の選挙時の方が、立憲民主党の支持が低迷する中、小選挙区では結果が明らかに好転しているのだ。
 三春曰く、「野党共闘の効果は明白で、どのように考えても失敗と結論付けることができるものではありません」。
 野党側は、選挙の総括をまちがえてはいけない。今回の選挙結果は、野党共闘が否定されたのではなく、野党共闘が徹底できなかったことが問題なのである。
 これまで野党側は、二大政党制の幻想にとらわれていた。しかし、衆議院では比例代表制が並立した選挙制度をとり、参議院選挙が三年に一度、半数の改選を行う以上、野党第一党が一気に単独政権を樹立することは難しく、他党との連立政権になるのは必須である。このことを踏まえると、立憲民主党は共産党との連立内閣を視野に入れた構想を練り、そのヴィジョンに基づいた選挙協力を展開する必要がある。これまでの新進党や希望の党は、共産党を排除した二大政党の樹立を目指して結党されたが、いずれも失敗に終わった。民主党政権も、連立相手の社民党が政権から離脱したことが、崩壊に至る要因としてあげられる。
 政治学者の山口二郎は「野党共闘をやめる選択肢はもうない」と題したインタビュー記事(AERAdot11月16日)の中で、野党共闘の成果を強調しつつ、候補者の「一本化」に時間をとられたために、「最後に息切れしてしまった」と述べている。選挙直前になって、突然、候補者が一本化され、これまで支援してきた人とは別の人を応援しろと言われても、なかなか力が入らないというのが実情だろう。
 野党統一候補の一本化は、支持者を含めたボトムアップの決定が望ましい。そのためには、選挙区における予備選挙の導入を図る必要がある。立憲民主党の代表を退くことになった枝野幸男氏は、二〇一八年秋に参議院選挙に向けた予備選挙の実施を訴えていたが、実現することはなかった。
 二二年の参議院選挙まで八カ月を切った。野党共闘をいかなる形で進化させるのか、その方法が問われている。(なかじま・たけし=東京工業大教授)」東京新聞2021年11月24日夕刊5面、論壇時評。

 立憲民主党の代表選挙で、4人が横並びで演説する光景がメディアに出るけれど、4人のどこがどう違うかが混在して薄まっている印象だ。自民党総裁選も結局、候補者4人の誰でもたいした主張の違いはなくても、何か色合いがそれぞれ違うようには報道されていた。内輪のなれ合いみたいな印象をもたれるのは、マイナスだな。
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仏像の意味 2 釈迦如来  成長主義の見直し?

2021-11-23 19:07:25 | 日記
A.仏教は初め偶像崇拝ではなかった! 
 寺院には仏像が置かれてそれを拝む、ということをぼくたちは当たり前のように思ってきたが、お釈迦様が初めに教えを説いたころから仏像というものが作られたわけではない。仏像というものができたのは、もっとずっと後だった、とこの本に出ていて、ほう・そうなのか、と思った。仏教でもキリスト教でも人間が作った偶像を拝むのはまやかしだ、という考えがあって、イスラム教などはいまも偶像崇拝を禁じてモスクには幾何学模様の装飾は溢れているが、人体や動物を象った形象は皆無だ。キリスト教でも厳格な宗派は、偶像否定の思想(アニコニスムsniconism)を主張して聖像などは排除した。しかし、カソリックは民衆に広まっていくのと並行して、彫刻や絵画で神の教えを説く効用を認め、しだいにイエスやマリアや聖人の像を教会に置くようになる。仏教でも、まず釈迦の骨を納める塔を立て、それを飾り立てるうちに仏像が現れ、とくに密教の曼陀羅などに示される多数の仏を仏像として形象化し、如来、菩薩、天などの壮大な体系に位置づけてこれを拝む、ということになったという。

 「今からおよそ二千六百年ほど前に、中印度地方を中心に釈迦牟尼は仏教をひろめ、多くの信者を獲得し、四十五年間説法を続けてきたが、しかし八十歳になって入滅した。当時のインドの風習として、その遺骸は荼毘に附さなければならなかった。火葬の後、多くの弟子や信者は争ってその遺骨を分けあい、おのおの故郷に持ち帰り、これを手あつく埋葬し、その墳を礼拝したのである。この墳墓から仏教芸術は発生したのである。仏教徒は釈迦牟尼の遺骨を特に舎利(Sarira)と呼んで尊崇し、またこれを埋めて土を半球型に盛り上げた墳墓を卒塔婆(Stupa)と呼んだ。卒塔婆は略して塔婆とも、塔ともいう。地方によりパコーダとも呼んでいる。この舎利を納めた塔は仏教徒によっては最も神聖な場であり、しかも最も貴重な建築であるから、各時代各所で人知のおよぶかぎり荘厳を尽くし、立派に作って、礼拝の対象としたものである。従ってこれから仏教芸術が発生したことは、当然と言わなければならない。
 現在インド各地に古い塔がいくつか残っており、仏教が四方に伝播するに従って、各地にも種々の塔が作られ、現在も各所に各時代の遺構が数多く残っている。インドで有名な塔をあげると、バールフット(Bharhut)、ボト・ガヤ(Bodh-Gaya)、サンチー(Sanchi)などは、何人もよく知っている所である。これらの仏塔は、いずれも円形、または方形の基壇の上に半球体に土を盛り、また煉瓦や石で積みかさね、内部に舎利を納めた容器を安置するものであって、この基壇の周囲を石で囲み、その表面に彫刻を施して装飾したり、また半球型の塔を囲んで石の玉垣や門を作って、その柱、貫、笠石などに種々の彫刻を行なって、輪奐(りんかん)の美を整えている。この装飾の彫刻から仏教芸術は発生するのである。
 これらの装飾的彫刻は仏教を守護する諸神の姿をはじめ、釈尊の前世の伝説(これを本生譚(ほんじょうたん)と呼んでいる)、釈尊の行状、及び蓮華や唐草などの装飾文様を丸彫りや浮き彫りとして作り出している。しかしこの中で釈尊の行状を示した作品には釈迦牟尼の姿は一切表わさず、そのかわりに法輪、台座、仏足石、菩提樹などが表わされ、一種の象徴的なものだけを示している点を注意しなければならない。これによって、仏教の原始時代は釈迦牟尼の像を表示することがなく、従って偶像崇拝の宗教ではなかったものと見なければならない。
 ところが、アレキサンダー大王が西暦紀元前三二四年に西インドに進軍し、この地方に多くのギリシア系芸術家を送って、文化工作をして以来、インド、ギリシア芸術がインダス河を中心とした地方に発生した。特にその中心がガンダーラ(Gandhara)であり、多くの石像美術が発掘されるから、インド・ギリシア式彫刻を総じてガンダーラ彫刻と呼んでいる。ここに初めて釈迦牟尼仏の姿が表わされるようになった。
 頭にはちぢれた髪をゆい、ひげのある人間的な姿形に作られ、後世のように仏陀としての相好や形式はまだ整ってはいなかったが、とにかく釈迦仏像が作られて、これを拝むようになった。仏教が偶像崇拝になったのはガンダーラ彫刻の影響であると思われる。従ってこれに刺戟されて、釈迦牟尼の親しく歩かれ説法をした地方、すなわちガンジス河を中心とした中インド地方でも、偶像を作るようになった。この地方の芸術はギリシア様式の影響はこうむらず、準インド式が発達した。その代表様式をマトゥラ(Mathura)美術と呼んでいるが、ここに仏陀の姿を始めて作り出している。
 このように原始仏教は仏陀の姿を作らず、西紀前後頃からインダス河付近に釈迦仏の姿が作り出され、やがてこれが全インドに伝播し、さらに中国に伝わったのである。そして今から千四百年以前にわが国に伝来した。
 インドの各地に造立された仏舎利塔のなごりはわが国の三重塔や五重塔などに見出すことができる。これは塔の上層部に相輪または九輪とよぶ金属製の九つの輪や宝珠などで形成されていたものがのっているが、その下部に四角の台の上に覆鉢という半球形の鉢をふせたような形のものが必ずある。これがインドのスツーパの半球形の土盛りのなごりであって、わが国もこの覆鉢の中に舎利を安置するのが普通である。
 奈良市薬師寺には有名な仏足石がある。遣唐使黄文本実が中国の普光寺にあった仏足石を写して帰り、今からおおよそ千二百年ほど前にそれによってこれが作られた。現存するわが国の仏足石の最古の遺作である。仏像のまだ作られなかった原始仏教芸術のなごりがここにも残っていることを注意すべきである。この仏足石が作られて以来、我が国では盛んにこの模写が行なわれ、現在では諸寺院に大小の石に刻んだ仏足石が多数にある。
 さてわが国に仏教が伝来したのは欽明天皇十三年(五五二)であると歴史に見えているが、この時以来釈迦如来像が盛んに制作されたことはいうまでもない。そして現在まで残る名作も決して少なくない。その中で第一に頭に浮かぶ像は飛鳥地方の安居院の本尊であろう。
 この像は飛鳥大仏として大衆に親しまれているが、伝えられる所によると、蘇我馬子が聖徳太子と相はかって物部守屋を討伐することができたら、寺を建てようと祈願した。幸い希望がかなえられたので、飛鳥地方に法興寺を建立したのである。推古天皇十三年(六〇五)に止利仏師が丈六(一丈六尺)の銅造鍍金の大釈迦如来像を作ってこの寺の本尊として安置したと記録にあるが、その大釈迦如来像が現在の飛鳥大仏であるという。後に再三火災に遭って、像は焼けただれ、そのつど補修をしているが、修理が拙劣であって、今はみにくい姿となっている。しかし飛鳥時代のなごりは所々にあって、日本の仏像研究には第一に触れなければならない遺作である。
 さて、釈迦仏像を考える順序として、第一に釈迦牟尼仏の生涯の行状をとり扱った作品から検討しなければならない。上にも述べたようにインドの仏舎利塔の基壇などに釈迦伝を盛んに彫刻しているけれども、わが国ではどういう理由か釈尊の全生涯を表現した作品は比較的少ない。多少ある中で第一に挙ぐべき代表作は「過去現在因果経」である。この経はインドに出生した釈迦牟尼の前世の行状すなわち本生譚とインドに生まれてからの行状とを説いた経典であって、わが天平時代にはこの経典に絵巻物式に絵を加えたものができた。それは料紙の下半分に経文を書写し、上半分にこの経文に説かれた釈尊の行状を絵に表わしたものである。現在京都市上品蓮台寺、同醍醐寺報恩院、東京芸術大学および個人等に分蔵されており、さらに鎌倉時代の中頃の建長六年(一二五四)に住吉慶忍の描いた「鎌倉因果経」もあり、これも同じ形式である。これらは忠実に釈尊の生涯の行状を描いたもので非常に貴重な遺作である。天平の因果経の絵は人物、楼閣、山水ともに稚拙の域を脱しない書き方であるが、単純な色彩はかえって美しく、天平時代の珍しい遺作として珍重されている。この絵因果経はわが国に残る仏伝を取りあつかった最古で最も顕著な作品である。」望月信成・佐和隆研・梅原猛『仏像 心とかたち』[完全版]2018、NHK出版.pp.25-30. 

 仏像を見るには、如来、菩薩、明王、天などそれぞれその姿形の特徴を知らなければならない。たとえば社会如来は装身具や壺や錫杖などは何も持たないで、説法をする姿だというが、印相という腕や指の形が決め手になるという。これが観音菩薩などになると、いろんな飾りを身にまとい頭にも宝冠を乗せていたりする。

 「釈迦如来は仏教の教主であるから、多くの如来像が制作されても、常は釈迦仏像が基準となることはいうまでもない。身には一切の装身具を着けず、衣と袈裟とを着るだけであって、豪華な着物はいっさい顧みなかった。また鉄鉢と錫杖を持つだけであって、他の持物はいっさい執らなかった。
さて成道した釈迦仏はそれ以来諸国を巡錫して、機に触れ折りを得て説法し大衆を教化した。この説法教化の姿を彫刻や絵画に表わしたのが、普通一般に拝む釈迦如来像なのである。
 室生寺の座像で説明しよう。今、奈良県室生寺の弥勒堂に安置されている木造釈迦如来坐像を見ながら、釈迦仏像の特徴を考えると、上述のように、如来系は頭や顔や身体などは、すべて同型であるから区別がつけにくいけれども、手の位置や指の在り方で、如来を見分けることは上に述べた通りであるが、室生寺の像を見てもう一度くりかえすと、頭の上に大きく盛り上がったこぶのようなものが肉(につ)髻(けい)相を表わしたもので、身には何の装飾もない衣と袈裟とを着て座している。しかし両手に特色があり、右手は肘を曲げて前腕を平らにして前につき出し、指を曲げずに開いて、掌(たなごころ)を外に向け、左手は膝の上に安んじて、同じく指を開いて掌を上に向けている。この印相が釈迦如来の特有のものなのである。右手の印を施無畏(せむい)印(不安の除去を表す)、左手の印を与(よ)願(がん)印(願いをかなえることを
表す)と呼んでいる。もしもこの印を結んだまま立ち上がったとすれば、右手はこの像と同じく、左手は真っ直ぐに下に垂れて、掌を外に向けて指を伸ばしている印となる。これも与願印であり、立像の釈迦如来は、みなこの印を示している。座像、立像ともに右手は施無畏印、左手は与願印であれば釈迦如来像であると覚えておけば、諸仏像の中から釈迦如来像を区別することは容易なはずである。
 この室生寺の釈迦如来像を見ると何びとも等しく、手の指の間に水鳥の水かきのような薄い膜があるのを見て不思議に思うらしいが、これも上述の三十二相の一つであって、手足指縵網(しゅそくしまんもう)相と呼ばれるものである。しかし後世の作者によって、いかなる理由には、この水かきをつくらない仏像もある。
 ( 中略 ) 以下は梅原猛氏執筆部分から
 さて、いま私は望月先生から釈迦像の形についての話をきいた。この話から、その形の奥にかくれた心を探りつつ、その心を現在のわれわれの立場から再検討するのが私の課題なのである。前に述べたように、心は、あくまで形に即して探られねばならない。形の奥にかくれた心を探るには、仏教思想、及び他の文化の理解を必要とし、またそこにはある程度の仮説と類推が必要であろうが、できるだけ形そのものから心を導き出すことが必要なのである。形から心を出せと私は言った。しかも、形は像の形なのである。ところが、望月先生が示されたように、釈迦の説いた教えでは像がなかったのである。像のないところに、像の形はない。像のない原始仏教から、像を持った仏教がどうして生まれたか。既にそれについて、釈迦の遺骨崇拝が塔を生み、塔の周りの絵を生み、やがてガンダーラにおいて、ギリシア彫刻との結びつきによって、今日われわれが見る像を生んだのをわれわれは知った。このようにして像は生まれ、形は生まれた。しかし、この像の発生は、どのような心の様式の変化を示すとともに、どのように仏教の思想を変えていったのか。それを知るために、われわれは原始仏教の思想を知らねばならない。
 原始仏教の基本概念は、四諦(したい)、すなわち四つの真理であるといわれる。人生は苦である、苦の原因は愛欲である、欲を滅ぼせ、その愛欲を滅ぼす正しい道を行なえ、というのがこの四つの真理である。釈迦の原始仏教の思想がこの四つの真理に十分にまとめられるのかどうか、私は知らない。しかし、彼の教えがはなはだ倫理的であると同時に知的であったことはたしかである。たとえば、釈迦の説法をまとめたもっとも古い伝承である『スッタニパータ』には、私の好きな次のような言葉がある。
 「一切の生き物に対して暴力を加えることなく、一切の生き物のいずれをも悩ますことなく、また子女を欲するなかれ。況んや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め」
 「交わりをした者には愛恋が生ずる。愛恋に従ってこの苦しみが起こる。愛恋から患いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め」(『仏陀の言葉』中村元訳)
 このような実践的知恵の教えである釈迦の教えが、果たして宗教といわれるものであったかどうかは疑問である。もし宗教というものを、絶対者の実在を信じ、その絶対者に帰依し、信仰することと考えるならば、釈迦の教えは宗教ではない。釈迦の教えが、この意味における宗教になるためには、釈迦が歴史的人格性を離れて、超歴史的・超人的実在となり、その釈迦に対して帰依の感情を持つことが必要となる。望月先生の指摘された「頭にはちぢれた髪を結い、ひげのある人間的な形姿」から、三十二相八十種好を持った釈迦像への変化は、崇拝の対象たる釈迦が、歴史的人格から超歴史的・超人的性格へ変化した過程を示すものであろう。
 大乗仏教が、この仏像の成立によって深い影響をこうむったことは否定できない。大乗仏教とは、紀元後一世紀に起こった、形骸化した伝統仏教の立場に対し、釈迦の精神に帰れという仏教革新運動であるが、その際、己れを大乗、だれでも乗せることのできる大きな乗り物と称し、伝統仏教を小乗と呼んだ。そしてこの大乗仏教は、もっぱら釈迦の存在を超歴史化・超人格化し、それを人間と違った如来、仏とするばかりか、釈迦の持っているさまざまな性格をも実体化して仏とし、薬師、大日、阿弥陀などの多くの仏を生んでいった。そしてこれらの仏像を礼拝するということになったのである。ここに仏教は、前述の意味で初めて宗教となったのであろうが、この倫理的な仏教から、宗教となった仏教への変化の中に、像の成立が大きな役割を担っているのは否定できない。今日、われわれが仏教というものを考える時、仏像を持った仏教を考えるわけであるが、その仏教は釈迦仏教からだいぶん変化していたわけである。」望月信成・佐和隆研・梅原猛『仏像 心とかたち』[完全版]2018、NHK出版.pp.34-42. 

 まずはどんな仏像があるのか、お勉強しなくちゃならない。この本はそこは丁寧に詳しく説明されていてありがたい。


B.どこを見直すか?
 総選挙の結果とそれを受けた国政の動向については、自民党岸田政権のこれからがまだ見通せないことと、野党とくに立憲民主党の党首選がいま行われる最中なのだが、こちらもなにを理念として掲げるのか、まだ曖昧、というより4候補がいかなる人物か今まであまりに情報に乏しかった。もうじき年末で、コロナ禍はかなり収まってきた感じだが、欧州ではまた感染者が拡大しているようで安心はできない。いま考えるべきは、もうすこし長期的な展望をもって、この国の政治のどこを見直すのか。憲法についてまともな議論は必要だと思うが、改憲派の主張は復古的で、未来の時代にそなえて何かを創造するというのではなく、現行憲法を壊すことを目標にしているとしか思えない。

 「コロナと新しい資本主義:グローバル化=経済成長? 価値観の見直しこそ必要:佐伯啓思
 新型コロナに翻弄されておおよそ二年が過ぎ、多少は収束の気配も漂ってきた。もちろん、コロナが消滅するわけではなく、ようやく「コロナとの共存」にわれわれが慣れてきた、ということであろう。
 二年前に世界に散布されたこのウイルスは、果たして世界を大きく変えたのだろうか。それとも、世界史の年表に、そこそこ記述される程度のエピソードになるのだろうか。
 世界が変わったのか、変わっていないのかはもちろん、視点によって違ってくる。この視点をできるだけ社会の表層に置いてみると、たとえば経済についての理解に多少なりとも変化が生じたことは間違いない。
 市場競争中心の新自由主義は見直され、社会に広がる格差に焦点が合わされるようになった。すでに潜在的に広がっていた格差を、この二年間のコロナがあぶりだしたのも事実である。経済がそれなりに成長している時には視界から遠ざけられてしまう格差は、一国のなかにおいても、また国家間においても、思いのほか大きかったということである。
 そこで、先進国は、決して決然というわけではなく、どちらかといえばためらいがちに、経済の軸を「競争と成長」から「分配と安定」へと移動しつつある。この世界的な潮流は、海に囲まれた日本にも押し寄せているようで、岸田新内閣も、格差の解消をうたい、所得分配の公正化を唱えている。
 もっとも、そうかといって、ほぼゼロ成長が続く日本で成長路線を放棄することもできず、「成長」と「分配」の両立という、うまくいけばまことに結構なビジョンを打ち出し「新しい資本主義」と称している。「競争」による「成長」ではなく、「分配(平等)」による「成長」である。だが、それは本当にうまくゆくのだろうか。
 確かに、コロナ前まで世界を支配する経済思想は、もっぱらグローバルな市場競争による成長実現という新自由主義であったことを思えば、大きな転換ともいえよう。
  •     *     * 
 しかし、そもそも、グローバル市場競争がさまざまなレベルで格差を生み出すことはほとんどわかり切ったことであった。だから、この方向転換はむしろ遅きに失したと言わねばなるまい。
 だが真に大事な論点は、競争と分配のどちらが成長を可能とするかではない。今日の先進国の経済状況を見れば、競争も分配もどちらも経済成長につなげるのは難しい。なぜなら、今日における先進国の成長の、ひとつの、しかも根本的な理由は、経済のグローバリズムにあるからだ。
 グローバル競争は、世界中を厳しいコスト競争におとしいれ、概して賃金や不動産コストの高い先進国は不利な立場に置かれた。そこで個々の企業は海外展開を模索したり、労働節約的イノベーションに頼ったりすることとなる。
 しかし、それは国内において勤労層の所得を低下させ、消費の拡張にはつながらない。結果として経済はデフレ圧力にさらされるのである。
 それにもかかわらず、グローバル化とイノベーションこそが経済成長をもたらすという言説がいつの間にか常套句になってしまった。だからまた、日本経済の低迷の理由は、日本企業がグローバル化に適応しようとせず、イノベーションを避けているからだ、といわれてきた。
 しかし、そうではない。激しいグローバルな競争や急激なイノベーションこそが経済の低迷と格差をもたらしているのである。
  •       *       * 
 問題の焦点は、「競争による成長」か「分配による成長」か、ではない。従来の新自由主義を、所得再配分を取り入れたケインズ主義型の「新しい資本主義」に変えればよい、というものではない。
 グローバリズムやイノベーションによって可能となる経済成長がそのまま社会の進歩である、という今日われわれを支配している価値観そのものを見直すことが必要になる。
 この価値観が変わらなければ、コロナによって世界は変化したとはいえないであろう。
(さえき・けいし=京都大名誉教授)」東京新聞2021年11月22日夕刊5面。

 佐伯氏の意見に、ぼくは賛意を表明したい。この国が抱える諸問題を解決するのは経済成長以外にないと思い込んだ政治家は、与党にも野党にも多数派のようだが、その結果、ずっとやってきた政策がすべて経済成長など実現できずに失敗し、ただ財政赤字を積み上げて国民が疲弊したという事実を、考えれば何を見直すべきか。答えは簡単ではないが、「新しい資本主義」などではないことは確かだ。
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 仏像を考える 1 仏教と仏像への無知  但馬日記のこと

2021-11-20 18:50:48 | 日記
A.仏像をちゃんと見たことがなかった!
 ぼくたちは子どもの頃から、どこの町にもお寺というものがあって、そこにはお葬式とか法事とかを執り行うお坊さんが住んでいて、周りにお墓がたくさんあることも知っている。仏教というものが日本の伝統的な宗教になっていて、もとはインドでお釈迦様が始めたものだが、それがアジア各地に広がって、中国経由で日本にも伝わった、ということも学校で習う。日本のお寺には本堂に仏像、つまり仏の像があって参詣者はこの仏様に手を合わせて拝むものだと教わるから、初詣とか有名なお寺に行ったらお賽銭をあげて手を合わせると、なにか良いことがあるかもしれないと思う。
 しかし、自分が拝んでいる仏像がなんなのか、そもそもお寺と神社は違うものらしいが、どこがどう違うのか、あんまり真面目に考えたことがない。鳥居があるのが神社で頭を下げて拍手し、お寺には鳥居はなく鐘撞き堂があったりする。一番わかりやすいのはお寺や神社にどんな名前がついているかで、浅草観音とか目黒不動とかはお寺の呼称で、神田明神とか北野天神とかは神社だということはわかる。観音様はあちこちに立っているし、不動明王という恐ろしい姿の仏様の絵も見たことがある。奈良や鎌倉の大仏は坐っているがあれはなんという仏様の像なのか。考えたら阿弥陀如来とか地蔵菩薩とか、仏像にはいろんな種類があるようだが、ちゃんと見たことがなかった。なんにも知らずに70年も生きてきてしまった自分は、なんとも迂闊で成仏できそうもない、と急に思ったのだ。
 信仰とか宗教とかいうものをまともに考えたことがない人ほど、あやしげな宗教もどきにひっかかるのは日本だけの特徴ではないが、日本人の大多数は仏教もキリスト教もごく表面しか知らないし、それでとくに不都合はないと思っているとしたら、これからの地球の未来をきわめて無防備にすると思う。
 そんなことを考えたのは、今回たまたま図書館である本を手にして借りてきたからだ。画像入りの仏像解説的な本はいくつかあったのだが、これは単なる仏像の紹介や観光美術案内ではなくて、仏教の中で仏像というものがどうやって作られ、どういう意味をもっているのか、ということを仏教美術に詳しい僧侶が説明し、その持つ意味を哲学者、梅原猛が大胆な考察を述べたというもので、もとはNHKテレビの連続12回のシリーズ「仏像――かたちとこころ」の再整理として出版されたものだ。
 しばらくこれを読んでみることにした。

 「従来、仏像の鑑賞法には大体二つの方法があった。一つは、いわば仏像を対象とした抒情詩をつづる方法である。われわれの人生において、われわれはしばしば人と出会うのである。われわれが人生の途上でふと出会った人がわれわれの一生を支配し、決定することがある。一生に何回かわれわれは自己の運命を支配する人に出会うわけであるが、時とするとわれわれは仏とも運命的な出会いをすることがある。大正七年(1917)、和辻哲郎氏は、奈良の古寺の仏像の美に感動して『古寺巡礼』を書き、ヨーロッパ的教養で仏像を見る新しい仏像鑑賞の道を教えた。彼のその後の日本文化への関心が、そのような仏像との出会いによって決定されたであろうことは疑いがない。そしてまた、昭和十二年(1937)、亀井勝一郎氏は転向の罪に傷ついた心を抱いて、ふと訪れた中宮寺の弥勒菩薩の微笑に一切の罪を許す慈悲を見て『大和古寺風物詩』を書いた。そして戦後の民主主義のかもし出す俗悪な空気に耐えかねて、法隆寺を訪れた竹山道雄氏は、そこに精神の貴族のみが味わうことのできるロマン的文化の崇高さを感じて『古都遍歴』を書いた。このような己の精神の転機にあって、運命的な出会いをした仏に対する感慨を記すことは、たしかに人の魂をゆり動かすことにちがいない。そして、われわれは結局、仏に対して自己の心でふれるより他ないのである。われわれの個性が無数に複雑であり、われわれの人生が無限に異なるように、仏に対するわれわれの感動も、日に新たなのである。日に新たな感動で仏にふれることで、仏像の鑑賞は十分なのかもしれない。しかし、とかく主観的感動は、客観的な仏の持つ意味と食い違うことがある。特に古都の仏像に伴う深遠で神秘なムードは、仏像とその仏像の持つ教えの差異に対してほとんど注意を促すことなく、一様に、ただ甘美な陶酔に人をさそい込みがちなのである。たとえば、飛鳥仏の口もとにただよう微笑は、仏像そのものの象徴であるかのように、ある神秘的気分に人を誘い、多くのむしろ冷厳な哲学者や文学者の口から、美しいが、意味のとりがたい嘆声のような賛美の言葉をもたらさせるのである。その微笑は「モナリザの微笑に似た微笑」とか「瞑想の奥で得られた自由の境地の純一な表現の微笑」とか「摂取の上で、むしろ摂取の刹那に、間髪を入れず頬に浮かびあがる優艶な微笑」とか言われ、はては中宮寺の庭や法隆寺の門まで、微笑に満ちた庭や門とされるのである。このように仏像に対して恋文にも似た賛美の言葉を送るより、仏像の表す客観的な思想の意味を知り、その仏像に表された思想とわれわれの魂とを格闘させたらどうか。高い調べの美しく悲痛なる仏像に関する抒情詩をつづるかわりに、仏像の語る思想と真摯な哲学的対話をすることが必要ではないか。
 仏像を鑑賞する第二の道
 しかし、このようなロマン的というべき仏像の鑑賞法に対して、むしろ実証的な仏像の鑑賞法がある。それは、仏像の様式論である。つまりこの仏像は何々時代にできたか、この仏像はもとはどこにあったなどということを、克明な資料にもとづいて研究する方法である。日本美術史学界の方向は大体その方向であり、この方向にそって日本の美術史学は発展してきたのであろうが、単なる形だけの美術史では、仏像は今のわれわれにほとんど何も語りかけないのである。実際形の中に心がかくされているのである。仏像は何よりも仏教の像なのである。それゆえ、形は形だけで表されることはないのである。何げない形の変化の中に、仏教思想の変化が隠されているのである。しかも仏教、一般に宗教は、何よりも人間の心の問題なのである。それゆえ、形の変化の中に思想の変化が、思想の変化の中に心の変化がかくされているのである。
 たとえば、われわれは釈迦の一生を表した像のうちで、日本で多く造られた釈迦像と、日本でほとんど造られなかった釈迦像とがあることを知る。この釈迦の像が、インドから中国を通じて日本へ移入され、選択されていった過程の中に、われわれは仏教の思想の変化と、そういう移入選択を行った中国および日本の文化の特性と、中国人および日本人の心の特性を知ることができるはずである。また阿弥陀仏は、奈良時代では主として説法をしている姿で表わされ、平安時代では座って沈思黙考している姿で表わされ、そして更に鎌倉時代以後は、立って念仏者を迎えている姿で表わされる。このことは確かに形の変化であるが、しかしそれは形の変化ばかりではなく、仏教思想、浄土教思想の変化であるばかりか、そのように阿弥陀仏を変化させなければならなかった人間の心そのものの変化なのである。ジェット機のような速度で雲に乗って来迎する阿弥陀仏を描かねばならなかった人の心の中には、一刻も早い往生をのぞむ不安がかくされているのであろう。
 形を形としてのみ見るのは、いわば精神に対する禁欲を命じる美学である。それはいわば、人間の精神のあり方にほとんど関心を示そうとしない、あるいは関心を示すことをあきらめた美学なのである。たしかに精神は物質のごとくつかみやすいものではない。仏像の形の中に心を探る試みは、いきたにんげんの表情と言葉の中にかくされた真実の心を探るよりむずかしいことかもしれない。しかし、もしわれわれが、形の背後にある心を探る営みをやめたら、到底生きた人間をつかむことができないように、仏像の真の意味をもとらえることができないであろう。
 仏像を精神的な立場からとらえる
 形の中に心を探れ。われわれはその言葉とともに、ヨーロッパの二人の哲学者のことを考える。ヘーゲルとディルタイである。へーゲルは人間が作り出した文化を「客観化された精神」と考える。つまり、彼は、歴史を支配するものとしての絶対的な精神を考えるわけであるが、この精神が形をとって現われたものが、文化だというのである。つまりヘーゲル流にいえば、法隆寺の仏像は、飛鳥時代の精神が客観化したものというわけである。またディルタイは文化を生命の表現と見る。つまり彼は、ただの理性、精神で人間を考えるヘーゲルの立場と異なり、生命から人間を見るわけであるが、文化とは人間の生命が表現されたものであり、この表現されたものを通じて生命そのものを理解することが精神史の課題であるとした。つまり法隆寺の仏像は、それを造り出した飛鳥時代の人間の生命の表現であり、その造られた像を通じて作った人間の生命に迫るのが、精神史の課題というのであろう。
 いま、ヘーゲルとディルタイのこまかい思想の差異を論ずることはできない。しかし、ヘーゲルやディルタイのように、宗教や芸術や学問の中に「客観化された精神」や「表現された生命」を見るのが、ヨーロッパの文化史の主流派の考え方なのである。ドヴォルジャック(チェコの美術史家)はこの方法で中世の芸術を研究し、ヴェルフリン(スイスの美術史家)はこの方法でルネッサンス様式とバロック様式を区別し、ヴォリンガー(ドイツの美術史家)はこの方法で東洋と西洋の芸術の様式を区別した。しかし、こうした方法論にもとづく文化史は、残念ながら日本ではまだ書かれていないのである。仏像に関しても、その形の中に心を探る、つまり客観的形を通じて心の様式を探り、生命の在り方を探ろうとする試みはまだほとんどなされていないのである。
 このような意図で仏像を見ようとする時、われわれは、従来のように「古寺巡礼」的に古寺を訪問する方法や、時代別に仏像を見る方法をとることができなかった。われわれの探求しようとしているのは、一つの寺のかもし出す詩的ムードや、一時代を支配する時代精神ではなく、むしろ日本で造られた仏像の背後にある精神なのである。われわれは、日本で昔から崇拝されてきたいく種類かの仏像を知っている。その仏の像の背後にいかなる思想があり、いかに日本人に崇拝され、いかなる意味を今のわれわれに暗示するか。われわれは、仏像を場所により、時代によって分けるのではなく、種類によって分ける方法を選んだ。そして主な仏像として、釈迦、薬師、阿弥陀、大日の四如来と、観音、地蔵、弥勒の三菩薩、それに明王と天部、達磨、地獄極楽図を加えて十一の柱とし、その像に現われた形と心について研究することにした。
 このように代表的な仏像を選び、その形と心を明らかにしようとしたのがわれわれの試みであったが、もちろん、それは大変に困難な課題であった。なぜなら、このような課題に答えるためには、仏教美術史に関する正確な知識と、仏教思想に対する偏らない理解と、その仏教美術、仏教思想を広く日本文化全体から見渡し、その現代的意味を考える識見がともに必要であろう。だれが一体、一人でそのような仕事ができるのか。時とともに分業化していく現代の学問の趨勢に反して、このようなことを一人で考えようとするのは狂気の沙汰であろう。もしも、われわれの仕事が少しでも成果を上げることができたとしたら、それはこの番組を通じて、深い学問的協力を賜った諸先生のおかげである。
 仏像の形の項は、望月先生と佐和先生に担当していただき、その形に現われた思想についてはだいたい仏教思想の専門家にお話しいただき、更にそれを、広く日本文化の問題を考えている学者、思想家、芸術家にふり返っていただいた。全体を通じて総合司会は梅原が行なったが、千年もの長い間、日本人に親しまれてきた仏像の形と心を明らかにし、更に、今後の世界への展望を語るのに、一時間という時間はあまりに短すぎたのである。司会の不手際もあり、議論は必ずしもスムーズに行われなかったが、それでも今まではほとんど注意されなかった日本文化を見る新しいいくつかの視点が注意されたはずである。」望月信成・佐和隆研・梅原猛『仏像 心とかたち[完全版]』NHK出版、2018.pp.17-23.

 著者の望月信成氏(1899~1990)は大阪市立美術館長、大阪市大教授などを務めた仏教美術の権威、佐和龍研氏(1911~1983)は高野山大学教授、醍醐寺霊宝館長などを務めた仏教学者で、どちらもすでに故人となっている。そして梅原猛氏(1925~)は京都市立芸術大学学長、国際日本文化研究センター所長などを務めた文化人だが、この元のNHKの番組と本の構想とりまとめは梅原氏中心に行なわれたらしい。ぼくは高名な梅原氏の著作をちゃんと読んだことがなかったが、かなりユニークな内容と文体をもった文章を書く人だとわかった。


B.現代日本の「寂しさ」について
 岩波の雑誌『世界』に連載されている、劇作家・演出家の平田オリザ氏の「但馬日記」は、平田氏が主宰する劇団「青年団」を東京から活動拠点を兵庫県豊岡市に移して、演劇を中心に地域とかかわりを深め、豊岡市にある兵庫県立芸術文化観光専門職大学で学生を教えるようになってから、豊岡での日々を報告するレポートであり、なかなか面白いので愛読していた。それがコロナ禍の今年の「但馬日記」は、この四月に行われた豊岡市長選挙で、彼の活動を支援していた前市長への反対派の攻撃があり、結果的に新市長が当選したことをめぐって、継続した報告になっている。12月号の一部を抜粋させていただく。

 「結局あの選挙は何だったのかと思う。
いや、むしろ、「何も変わらなくなってしまった」というのが一つの答えなのかもしれない。ここ数年、急速に進んだ改革が、ここで止まり、市政のことが新聞紙上を賑わすことも少なくなった。もちろん人口減少はとどまるところを知らず、町はゆっくりと衰退していくのだが。
 とりあえず、市長選挙の振り返りを、もう少し続けたいと思う。さらに、より理念的な部分について。
 六年前、津田大介さんが主宰するWEBサイト「ポリタス」の戦後七〇年記念特集に、私は「三つの寂しさと向き合う」という小論を寄稿した。そこで掲げた三つの寂しさとは、
 「日本は、もはや工業立国ではないということ」
 「もはや、この国は、成長はせず長い後退戦を戦っていかなければならないのだということ」
 「日本という国は、もはやアジア唯一の先進国ではないということ」
 の三点だった。
 あるいは同じ文章の中で私は、以下のような事柄も書いた。
「20年、30年かけて、国を開く寂しさを受け止め、それを乗り越え、少しづつ異文化を受け入れられる国を創っていくことは、決して非現実的な話ではないでしょう。それを、いまから始めるのならば(中略)しかし、この寂しさに耐えられずヘイトスピーチを繰り返す人々や、ネトウヨと呼ばれる極端に心の弱い方たちをも、どうやって包摂していくのかという課題です。これもまた時間のかかる問題です」
  翌2016年、当初は泡沫候補とみられていたドナルド・トランプが、アメリカ合衆国の大統領選挙を勝ち上がる。トランプ氏に投票したのは、例えばラストベルトと呼ばれる五大湖周辺の工業地帯の人々だった。工場労働者が多く、もともとは民主党の地盤であったミシガン州・ウィスコンシン州・ペンシルベニア州などがトランプ支持に傾き、これが新しい大統領を生む原動力となった。
 かつては米国南部の白人貧困層を差別的に呼んだ「プアホワイト」が、北部の工業地帯にも広がり、この人々の「取り残された感覚」、まさに「寂しさ」がトランプを大統領に押し上げた。
 私はトランプ現象を学生たちに説明するときに、「橋を作ったのはこの俺だ」というフォークソングを紹介する。著作権の関係で歌詞のすべては載せられないので、ぜひ検索してみてほしい。この歌は1960年代後半によく歌われた労働課で、日本では高石友也さんが自ら翻訳して歌い、人口に膾炙するところとなった。私は直接その世代ではないが、八歳上の姉が高石さんのLP(懐かしい!)を持っていたので、子どもの頃からよくこの歌を聴いていた。
 歌詞は単純だ。
 昔、暗い森を切開いて、畑を耕し家を建て、この国を作ったのは俺達だ。「橋を作ったのはこの俺だ」「道路を作ったのもこの俺だ」と歌詞は続く。サビの部分では、「強いこの腕とこの身体で、この祖国を作ったのは俺達だ」と繰り返される。
 もちろん、いま聞けば、先住民の問題はどうなるのか、マッチョに過ぎるのではないかと突っ込みどころは満載なのだが、まさにこうした一つ一つのポリティカル・コレクトネス自体もまた、取り残された人々の寂しさや苛立ちを誘発するのだろう。
『世界』の読者の皆さん中には、60年代から70年代にかけて、仲間と肩を組み、この曲を歌った方たちも多いだろう。そして、そのような方たちには怒られるかもしれないが、皮肉なことに(いや事態はそれ以上に深刻なのだが)、今この歌を聴くとトランプ支持者が集会で叫ぶ歌のようにしか聞こえない。
二番、三番の歌詞には、以下のような内容もある(原文の歌詞は少し異なる)。
「オレの先祖や子孫には偉い奴など一人もいない」
「偉い社長さんや代議士さんが命令したから、この国ができたわけではない」。
いま聴くと、これが反知性主義を煽っているように聞こえてしまうのは、私の性根がひねくれているからだろうか?
 「トランプ型選挙」の再現だった。
 四月の市長選について、かつて私は「トランプ型選挙に巻き込まれた」と書いた。それは単にフェイクニュースを流され私自身が攻撃を受けたことを指すのではない。
 問題の本質は、この「寂しさ」にどう向き合うかにあるのだと思う。現市長に投票した方々の多くは、「この町を作ったのは俺たちだ」と思った。偉い市長さんや芸術家や学者たちに、この町をめちゃくちゃにしてもらいたくないと考えた。
 いや、本当に考えたかどうかは別として、選挙戦略では、そのような訴えが繰り返しなされた。ここに先の市長選の本質があった。」平田オリザ「但馬日記31回」豊岡市長選顛末記(4)、『世界』2021年12月号、岩波書店。pp.282-284.  

 この「寂しさ」の感覚と選挙についての平田氏の感想は、ぼくも3年前から山形県庄内地方の鶴岡市にアトリエを持って通い始めてから感じていることと共鳴する。地方都市の現実は人口減少と高齢化がじわじわと進行し、あらゆる側面でこれまでのコミュニティの力が衰えている。住民はこれをどうすればいいか、考え悩み「寂しさ」を感じているが、それが具体的な政治にうまくつながらない。それは東京にいるとあまり深刻に感じないが、この問題は国政レベルに跳ね返るはずで、それを各政党は本質をとらえられないために未来を拓く展望を提示できない。自民党政権がなんとか多数派で選挙に勝つのは、国民に希望を与えるビジョンを提示しているからではなく、誰もそれができないから「やっぱり経済成長しなきゃダメだよ」に惰性でやりくりするだけなのだと思う。
コメント
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日本画の近代 15 松岡映丘  なんとなく選挙の結末

2021-11-17 03:24:25 | 日記
A.近代美術としての「日本画」
 明治の西洋近代の開化へのリフレクションとしての美術革新運動であった「日本画」は、アメリカ人フェノロサの理念と当時にとしては抜群に西洋文化を知っていた岡倉天心の共同作業として、若い画家たちを育てて花開いた。それまでは大名公卿のご注文で屏風や扇子や襖に絵を描いて生きてきた伝統職人としての絵師だったものが、国家が開く展覧会を場に教養ある市民に見せる美術作品を制作する芸術家としての画家という存在が公認された。そのことの意味は、たしかに日本アートの近代化という眼でみると、絵画とくに日本画は、音楽や舞踊や演劇などの西洋直輸入の困難に直面したアートに比べ、伝統と革新の咀嚼を主体的に獲得したといえるかもしれない。しかし、それは大日本帝国が日露戦争に勝って西洋標準で植民地まで獲得する一等帝国主義国になったと自惚れたとき、国家とどういう関係に立つことになったか。
 ナポレオンがフランス国家の権威をアートで確立しようとしたサロンを真似て、文展・帝展というアカデミーを次第に国粋的色彩で染めていくなかで、日本美術院系の画家も、帝展系の画家も色あいは異なれども、権力の上流で装飾的権威になっていったと考えられるのではないか。その体質は、敗戦後の再建日展にも確実に引き継がれていた。たとえばあの柳田国男の弟、松岡映丘という才能にあふれ、知的にも優れた仕事をした人を考えても、大和絵と歴史画というナショナリズムを一度東京美術学校で学んだ西洋絵画を通りぬけながら、戦争にむかう時代の風潮の中で、弟子たちに何を教え導いたか。

「美術史的に見て、官展の作家は日本美術院の作家ほどには顕著な絵画運動は行ってきませんでした。そういったなかで松岡映丘(1881~1938。兵庫県神崎郡生まれ)は注目に値します。
 そもそも映丘兄弟は日本の秀才兄弟として有名でした。長兄鼎は医者となりますが、千葉県会議員を務め、三兄井上通泰は眼科医で、のちに宮内省御歌所寄人となり、宮中顧問官を務め、国文学研究家として名を成しました。六兄柳田国男は農商務省に努め、貴族院書記官長となりますが、民俗学の泰斗として今もよく知られています。七兄静雄は海軍大佐となりますが、退官後、言語学者として『万葉集論究』『日本言語学』『日本古典大辞典』などを著しています。夭折しなかった兄たちは皆目覚ましい活躍をしたのです。
 絵画の道に進んだ映丘にもその血は流れていました。14歳ころから東京美術学校教授で狩野派出身の橋本雅邦に師事しましたが、どうも狩野派は肌に合わなかったようです。16歳から大和絵住吉派の山名貫義(1836~1902)の画塾に移っています。その後、東京美術学校に入学し荒木寛畝、川端玉章、寺崎広業などに諸派を学びますが、主眼は大和絵にありました。美術学校時代から小堀鞆音、梶田半古、水野年方、吉川霊華らの歴史風俗画会に参加し、美術学校助教授となった1908(明治41)年ごろからは小林古径、前田青邨、今村紫紅、長野草風、磯田長秋、伊藤紅雲らと毎月歴史風俗研究会を自宅で開いています。そしてこのころから古土佐の研究を本格的に始めたといわれます。さらに1917(大正6)年には、美術雑誌『中央美術』主幹の田口掬汀の呼びかけで吉川霊華、結城素明、平福百穂、鏑木清方とともに金鈴社結成に参加しています。映丘が一番の若年で下から、どんなにか嬉しかったことでしょう。金鈴社は作品を発表するだけでなく、学者などを読んで講義を聞いています。五人が一つの目標をめざしてという会ではありませんでし、それぞれに勉強していたのです。
 映丘は尊敬する吉川霊華の影響を受け、江戸末に興り明治時代にはほとんど衰退していた冷泉為恭らの復古大和絵を研究し、虫の音のごとき土佐派を再び世にあらしめたのです。彼の研究は土佐派以前の平安・鎌倉期にまで及びました。映丘は純正の日本の絵画は金剛峯寺にある高野山有志八幡講十八箇院の《阿弥陀聖衆来迎図》(平安末・12世紀)に始まるといっています。それ以前の絵画、例えば奈良時代の《絵因果経》などは中国の影響があるとして、日本の絵画としては認めなかったのです。
 もちろん、院展作家たちも大和絵に注目しましたが、それは技法というよりも、宗達などの大らかな作風、桃山期の金碧障屏画に代表される絢爛豪華な表現に注目したのでした。しかし映丘は大和絵技法の再生に生涯をかけたのです。それは顔料(絵具)の研究であり、技法の研究であり、ありとあらゆるものに及びました。《春光春衣》(1916年)はテーマ、色彩、色調ともに大和絵を強く意識しているのがわかります。また大和絵絵巻の背景にすぎなかった風景を独立させたのも映丘でした。その代表ともいえるのが《さつきまつ浜村》(1928年)です。色彩などに大和絵を十分伝えながら、構図や空間表現に近代性を感じさせる、今までにない新しい風景画が誕生したのです。
 ところで1935(昭和10)年5月、松田文相により突然、帝国美術院が改組されました。これは官民美術団体の結集であり、美術界の挙国一致体制でもありました。これに猛反発した映丘は九月に門人たちと国画院を結成しました。しかしこのことが原因で一番弟子の山口蓬春と袂を分かつことになりますし、映丘自身も健康を害し、美術学校教授を辞め、38年3月には心臓性喘息で数え五八歳の生涯を閉じたのでした。
 映丘は東京美術学校を首席で卒業し、1908年から35年まで母校で後進の指導にあたりました。東京美術学校の秀才たちはみな映丘門に入ったといわれます。映丘自らが家塾の常夏荘に誘い、そこで本格的に大和絵の技法を伝授したのです。したがって常夏荘からは戦後に至る日本画壇を牽引する優秀な画家が多く輩出しました。それが山口蓬春、杉山寧、橋本明治、山本丘人、高山辰雄などでした。この五人の弟子たちは戦後、みな文化勲章を受賞しています。まさしく眩暈く陣容です。」草薙奈津子『日本画の歴史 近代編』中公新書、2018.pp.189-193. 

 国家主導の帝展・帝国美術院の流れに反発した映丘の国画院は、一種の芸術至上主義を指向したのかもしれないし、結果的に戦争画を描いて国策に奉仕する方向には行かなかったから、戦後の日本画壇で大活躍する巨匠を生んでいったとはいえるのかもしれない。映丘自身はそれを見ずに1938(昭和13年)に亡くなってしまうのだが…。

 「日本画の近代化をお話するとき、なんといっても1878(明治11)年に来日したお雇い外国人フェノロサ、彼に見出された狩野芳崖、橋本雅邦らの目覚ましいというより涙ぐましい活躍、それに続く岡倉天心と菱田春草、横山大観、下村観山らの活躍、それは富国強兵をめざす国策に沿うものとなり、天心の指導のもと、日本絵画協会日本美術院絵画共進会で堂々たる大画面の日本画を生み出していったのです。しかし1898年に結成された彼らの属す日本美術院は在野の団体でしたから、熱しやすく、冷めやすい岡倉天心の影響下にあって紆余曲折があり、一時有名無実となり、1914(大正3)年になって再興されるまで、日本美術院作家は作品発表の場をもちませんでした。
 一方、フェノロサと天心らによって1889年に開校した東京美術学校は国立ですから、天心らが日本美術院を結成して野に下っても、教授陣を入れ替えて粛々と続き、今日の東京藝術大学となったのです。
 明治の政治家牧野伸顕は外国を知っていました。したがってフランスに倣って国主催の展覧会をつくることにしたのです。1907年、文部省美術展覧会(文展)が発足しました。これが帝展、新文展と歴史を重ね、戦後の日展にまでつながるのです。
 岡倉天心を中心とする日本美術院には主義主張がありました。しかし官展にはそれが希薄であったといわれます。だからこそ官展には様々な画家が集まってきたのです。
 官展を代表するのが東京で活躍した川合玉堂です。彼の作品には様々な傾向――狩野派、四条派、西洋写実、南画など――が見られます。それは玉堂が近代を歩んできた証左でもあります。こういう和洋折衷の絵画は近代日本画の一つの姿であり、また一般にも受け入れやすいものでした。このことは京都の官展画家竹内栖鳳の作品にもいえます。近代に入り、狩野派の流れを汲む美術学校出身者、例えば大観や春草らは写実的に描くということに非常に苦労しました。それだけに研究を重ねました。しかし円山・四条派(円山四条派ともいいますが、写実を旨とする円山派に対し四条派はもっと軽妙で瀟洒な作風を示しますので、一応区別しました)の流れを汲む京都の画家たちは、近代に入り写実がやかましくいわれるようになってもそんなに苦労しないで済んだのです。無茶な言い方をするなら、彼らにとって近代化(写実化)なんて簡単だったということです。そこが苦労した院展の画家と、あまり苦労しなかった東京・京都の官展画家の違いだと思います。京都派の画家であっても国画創作協会の画家たちはいろいろ研究し、それなりに苦労したのですが、挙句、自滅してしまったのです。千年の都京都の歴史は一朝一夕では覆らないのです。
 しかし平明な日本画はなんといっても人気度は高いのです。美人画が非常な人気を博したのも、技術的に優れた画家が輩出したということもありますが、松園作品に見られる美しさ、清方作品の繊細な情趣が日本人の心情を刺激したからともいえそうです。
 東京の松岡映丘は大和絵を今に復活させますが、もはや大和絵は時代に即していなかったとこおがあります。しかし松岡映丘門から現代日本画を担う作家たちが大勢生まれたのは、日本画の基本にある大和絵をしっかり身に着けたからともいえます。
 多くの日本人は絵画に思想性を求めませんでした。西洋のように民族的迫害を避けるため一切合切を擲ち、逃げ惑う手段として嵩張らない芸術や学問があったのとは違います。
 日本人にとっては、功成り名遂げ成功した時に愛玩するものとして多くの芸術が存在したのです。」草薙奈津子『日本画の歴史 近代編』中公新書、2018.pp.209-211. 

 明治の日本画について草薙氏の本で、今回それなりにちゃんと学ぶことができた。その評価は認めるけれど、ここからはフェノロサ・天心・大観という太線で「近代化」の達成を描く事はできても、高階秀爾『日本近代美術史論』のような、西洋文化史を踏まえたパースペクティヴから、日本の近代美術を批判的な視線も含め冷静に見た考察は乏しいように思った。そのことは、相変わらず「洋画と日本画」という二項対立が、たんなる絵具や技法の違い以上のものではないかどうか、を問わずに日本国内だけ続いているという状況を考える価値はある、とぼくは思う。実は、ぼくの義理の伯父にあたる人が、戦後の日本画の世界ではかなり著名な画家で、文化勲章ももらっている人だったので、ぼくは子どもの頃から、それがどういう世界か、体感的に知っている。それは世間一般では高尚で美的な価値を追求する「芸術」だと思われているが、社会学者としてのぼくは、もっと違った側面があると考えている。


B.国政選挙の欠陥
 今回の衆議院選挙は、長く続いた安倍・菅政権の終わった局面でこれからの日本を左右する選挙であったにもかかわらず、きわめて「なんとなく」行われ、「どうってことない」かのように終わってしまった。開けてみれば自民党は議席数は減らしても、絶対多数は維持し「国民に支持された」と胸を張り、政権交代を挑み共産党と選挙協力をした立憲民主党は、議席を減らした。伸びたのは、維新と国民民主党という保守色の強い改憲支持政党だった。さて、これをどう見るか。ぼくはこの国の有権者国民を、きわめて政治意識の低い、利己的で視野の狭い人々だとは思いたくないが、とにかく投票率が相変わらず低いことは未来に不穏な絶望感を禁じ得ない。とくに憲法をいじくりたい人たちが勢いづいていることが、気持ち悪い。

 「国民の4分の1が決める国:時代を読む :法政大学名誉教授・前総長 田中 優子
 衆議院選挙から二週間が過ぎた。いろいろなところでいろいろな人が、いろいろなことを語っている。しかし私がもっとも深刻だと思ったのは、投票率の低さである。約56%。国民のおよそ半分しか投票していない中で日本のこれからが決まってしまう。多くの議席を得た党は、本当はさほどの支持を得ていないのに、「国民の圧倒的支持のもとに」と言ってさまざまな政策を推し進めるだろう。あるいは、決めるべきことを決めないだろう。これが、投票率の低さが引き起こすことだ。
 与党が進めたくないのは、この社会の多様性である。同性が愛し合って養子を迎え笑って暮らせば誰も迷惑を被らず幸せな人が増える。姓の異なる夫婦や親子が楽しい家族をつくるのは、江戸時代の日本でも中国でも韓国でも当たり前で、これも誰も迷惑せず幸せな人が増える。家族の多様性を認めない政治家は、女性を明治時代の家父長的壬申戸籍の中に閉じ込めようとしているように見える。なぜなのだろうか?私は、これが憲法改正に関わっているからだ、と考えている。
 気になるのは、自民党憲法改正草案の中に新設するとされる第24条だ。「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」。これは「前文」と呼応している。前文には「和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」「日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する」とある。
 現行憲法が「個人」を基本にしていることに対し、自民党憲法改正草案は「家族」を国家や社会の基本にしている。多様性の回避と併せて考えてみるとこの家族像がよく分かる。同じ姓をもった「男」と「女」が子孫をつくり国家に奉仕する。そういう家族だけが「家族」だという考え方だ。女性はその家族イメージの中にしっかりと結びつけられる。
 これらが昨今の眞子さんの結婚への攻撃や、上皇后さまや皇后さまに対して行われてきたマスコミによる攻撃に関係あるように見える。極めて固定的な家族像を国家の基本に置くには、
天皇家がそうでなくてはならない。天皇家とそこにつながる家族が「完璧」であるためには、女性が鍵となる。もし欠けるものがあるとしたら、それは女性のせいなのだ、と。
 憲法改正については賛成も反対も個々の自由だが、その結果自分がどういう社会に暮らすことになるのか、私はよく理解したい。それで自民党の憲法改正草案を熟読した。個人ではなく「家族」を基本にした国家に暮らすことは、今まで女性に何をもたらしてきたか?
 総議員の三分のニ以上の賛成で憲法改正の発議ができるので活発化するだろう。改正の手続きを定めた96条をまず改正しようという可能性がある。現行憲法では総議員の三分二以上の賛成によって国会が「発議」するのだが、自民党憲法改正草案では過半数の賛成を得たら国会が「議決」して国民の承認を得る。その承認は有効投票つまり投票した人の過半数の賛成を得ればよいことになっている。相当ハードルが低い。投票率が約50%であった場合、国民の25%以上が承認すれば国民の承認を得たことになる。今後日本は、重要な決断を国民の四分の一で行なう国になるのか。」東京新聞2021年11月14日朝刊、5面。

 憲法問題の核心は、田中優子先生も言うように、改憲派の願望は社会を構成する基本単位を「個人」ではなく、古色蒼然たる「家族つまりイエ」へと戻したいという隠微な欲望にある。これが日本国憲法に書き込まれるようになれば、この国は80年昔に逆戻りしてしまう。明治以来この国の女性たちが営々と闘ってきた人権と自由という価値を、それは台無しにしてしまう。そのことに若い日本人に気づいてほしい。
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