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『日本近代美術史論』 4  黒田清輝  サプリのうそ?

2024-04-16 21:28:08 | 日記
A.恵まれた留学生
 黑田 淸輝(くろだせいき・1866年8月9日(慶応2年6月29日)~ 1924年(大正13年)7月15日)は、日本の洋画家、従三位勲二等、子爵。薩摩藩士黒田清兼の子として鹿児島に生まれ、その後伯父の子爵黒田清綱の養子となる。黒田清綱は幕末から明治にかけ、戊辰戦争を戦い明治政府で栄達し枢密顧問官になるなど、薩摩士族の成功者だった。清輝は1872(明治5)年に上京。その後、平河学校(現 麹町小学校)に入学。東京外国語学校を経て、1884(明治17)年2月2日に横浜を出発しフランスに留学。
 1893(明治26)年7月30日に帰国するまで、フランスで当初は法律を学ぶことを目的としていたが、パリで画家の山本芳翠や藤雅三、美術商の林忠正らに出会い、1886年に画家に転向することを決意し、ラファエル・コランに師事する。サロンに入選するまでに腕を上げ帰国すると、東京美術学校の洋画科担当教授になって日本の洋画界で大きな足跡を残すことになったことは知られている。明治期に欧州留学をした若者は当時の先進文明を学んで帰国し、“新帰朝者”としてそれぞれの分野で働いたわけだが、黒田がフランスの法律を学ぶ道を放棄して、フランス人と同等の競争を勝ち抜くような才能を発揮できたのはなぜだったか。もちろん並外れた絵の才能があったといえるが、彼の恵まれた境遇がそれを可能にしたともいえるだろう。彼がフランス・パリに旅立った1884年は、森鴎外が衛生学を学ぶためにドイツ・ベルリンに旅立った年でもあった。

「森鷗外は、明治三十五年三月、小倉から東京に転勤するにあたって、いわば置土産として小倉偕行社での送別会の席上行った「洋楽の盛衰を論ず」と題する講演において、坪内逍遥の「定見を持しての洋行」という考えを批判して次のように述べている。

 「……坪内氏は今後の洋行者は定見を持して往くと曰へり。此定見をして有用ならしめんと欲せば、これをして少くも欧州学者の見地と同等ならしめ、若くはこれに超越せしめざる可からず、予の単に自家の実験を語ることを許されん乎。予の留学生仲間は、洋行中始より自家の見を立てて動かざりし者は、帰郷後の学問上の成績小に、洋行中先づ己を虚しくして教を聞き、久しきを経て纔に定見を得し者は、帰郷後の成績大なりき、予の如きは固より言ふに足らずと雖、始て欧洲に入りし時は、宛も所謂椋鳥の都に入りし如くなりき。而して今に至るまでも毫もこれを悔ゆることなし。是故に予は毎に謂へらく。若し洋行の効果の充分ならんことを欲せば、洋行前の心理上能覚受性(APPERCEPTION)を抛ち、彼地に至りて新に此性を養成せざる可からず。箪笥を負いて往き、学問を其抽箱に蔵せんと欲するは不可なり。彼地に至りて箪笥を造らざる可からずと……」

 彼自身の体験に裏付けられた鷗外のこの信念は、文字通り「洋学」、すなわち学問の領域に関することである。だが、同じようなことはおそらく芸術家の「洋行」についても言い得るであろう。いや、出来上った成果を部分的に切り離して持ち帰っても或る程度まではものの用に立つ学問の場合と比べて、長い歴史を背後に持った感受性の体系と密接に結びついている芸術創造の場合は、もしほんとうに西欧に生まれた成果をものにしようと思えば、「洋行前の心理上の能覚受性を抛ち、彼地に至りて新に此性を養成」することは、いっそう必要であるに違いない。
「定見なくして洋行」することを説く鷗外の主張の背後には、実は学問ですら――少くとも「洋学」関するかぎり――、その生まれ育った風土から容易に切り離すことができないという信念がある。それは、二十三歳から二十七歳まで、青年時代の最も豊穣な時期をドイツにおいて実際に医学の研究に従事することで過ごした彼自身の実感であったろう。いやもう少し正確に言えば、四年間のその留学生活を終えて帰国してから、日本において同じような研究を続けることがいかに困難であるかを身をもって体験した上での実感であったろう。それは何も、研究室の設備が充分整っていないとか、必要な文献が手許にないとかいう実際上の不便だけに由来するものではなく、もっと根本的に、西欧と日本との精神的風土の相違に根ざすものであった。鷗外は、この信念を、同じ「洋学の盛衰を論ず」の講演のなかで、医師ベルツの言葉を借りながらこう語っている。

「……昨年東京帝国大学のBAELZ氏の雇を解くや師は演説して曰く。学問は器械道具の如く一地より他に運送す可き者に非ずして、有機体なり、生物なり。此生物の種子をして萌芽し成長せしむるには、一種特異の雰囲気なかる可からず。日本は従来洋学の果実を輸入したり。其の器械道具の如く輸入せらるゝことを得て又実用に堪へたるは、果実なるを以てなり、此輸入は教師をして、講堂に於て講説せしめて足る。然れども学問当体に至りては、西洋人の西洋の雰囲気中に於いて養ひ得たる所にして、西洋の此雰囲気あるは一朝一夕の事に非ず‥…」

(もちろん、鷗外がここで引用しているのは、ベルツの明治三十四年十一月二十二日に帝国大学在勤二十五年祝賀の席上で行った演説のなかから、自分に関心の深い部分を取り出し、自分の言葉にして語っているのである。この時のベルツの演説のドイツ語文は、平川祐弘氏によって、東京大学教養学部紀要『比較文学研究』第六輯に全文覆刻されている。なお、同氏の「西洋文明との出会いの心理(3)」(『自由』昭和四十二年一月号所載を参照)
「洋学の盛衰を論ず」は、鷗外自身の弁明によれば、急に話をせよと言われて、「倉卒の間、些の準備にだに遑あらず」という状況で話されたものであるが、しかしここに述べられた感想が単に通りいっぺんのものではなく、彼自身つねに日頃身にしみて感じていた実感であったことは、この演説から九年ほど後に発表された「妄想」のなかで、同じような気持ちを、ほとんど言葉遣いまで変えずに繰り返していることからも明らかである。
 すなわち「妄想」の主人公は、三年間のドイツ留学を終えて故国へ向う船のなかで、次のように考える。
 「自然科学の分科の上では、自分は結論丈を持って帰るのではない。将来発展すべき萌芽をも持ってゐる積りである。併し帰って行く故郷には、その萌芽を育てる雰囲気が無い。少くとも『まだ』無い。その萌芽も徒に枯れてしまひはすまいかと気遣はれる。そして自分はfatalistischな、鈍い、陰気な感じに襲はれた……」

 鷗外のこの述懐には、自分の持ち帰った「萌芽」がついに育たなかったということに対する口惜しさばかりでなく、かえってそのために他人の妬みを買って人世につまずかせられたという苦々しさも感じられるが、しかしそのような個人的感懐は別として、明治時代に洋行して、故国に帰るにあたってこのような不吉な予感を抱いたのは、ひとり鷗外だけではなかったはずである。もちろん、帰るなり「希望に輝く顔をして、行李の中から道具を出して、何か新しい手品を取り立てて御覧に入れ」た洋行帰りの方が数からいえばずっと多かったであろうが、多少とも西欧の生活のなかに浸って、その「雰囲気」の与える不思議なエネルギーに触れることのできた者は、帰国によってその「雰囲気」を失うことを本能的に恐れたに相違ないからである。
 たとえば明治二十六年、九年間にわたる長い留学生活に終わりを告げていよいよ日本に引き上げなければならなくなった時、黒田清輝が養母貞子に宛てて次のように書き送ったのは、おそらく、ほとんど無意識のうちに、同様な不安を感じていたからではなかったろうか。

 「…こないだからひらけてをるちさなきようしんくわいに六まいほどゑをだしてをきましたらある三ッ四ッばかりのしんぶんににつぽんじんのくろだといふやつがせいようゑをかくだのなんのかのとかいてありましたよ もう四五ねんもこつちにをつたならすこしハせけんにしられるようになるかもしれませんがざんねんです いまこれからといふときになつたところでかえつていくのですからかなしいもんです だがしかたハございません につぽんへかへつてからてがさがらなけれバよいがとおもつております せいようじんにまけんようにやろうといふのハむづかしいもんです せいようじんハ一せうべんきようをしてをるのににつぽんじんハながくて十ねんばかりきり それからにつぽんへかへつてゆくとせけんのやつがなんにもできないもんですからすぐにひとりてんぐになつてしまいなんニもできないようになつてしまいます わたしもそういふようになつてしまうのかとおもふとみがずうつといたします……」(三月二十六日付書簡)

 当時二十八歳の黒田が書いたこの文章を、単に長いこと親しんだ土地を去るにあたっての感傷とのみ解してはなるまい。医学のように普遍性を目指す科学ですら「学問当体」はその生まれ育った風土から容易に切り離しえないものであるとしたら、感受性に依存する度合いがはるかに大きい芸術の場合は、問題はいっそう深刻なものとなるのは当然のことだからである。そして、明治以降の洋画輸入の歴史において、単純に技術的成果か、さもなければせいぜいのところ表面的な様式の意匠を土産として持ち帰って来る「洋行帰り」の多かったこの分野で、少くとも黒田清輝は西欧の生活のなかにはいりこんで、その「雰囲気」のなかで小さいながら自己の才能の芽を育て上げていたからである。
 事実、鷗外の言葉を借りるなら「定見なくして」洋行し、「彼地に至りて新たに」自己の感受性を育て上げた日本の近代画家がもしいるとすれば、黒田清輝こそその筆頭に挙げられるべき存在であろう。というのは、彼がはじめてヨーロッパに向って旅立ったのが、まだ満で数えれば十八歳にもなっていない時のことでり、したがって何にせよ「定見」を持つほど出来上がった年齢ではなかったのみならず、最初は画家になろうなどということはおよそ考えてもいなかったからである。彼が、当初の目的である法律の勉強を断念して絵画に専念するようになるのは、渡仏後二年もたってからの話である。鷗外流に言えば、箪笥を背負って往くどころか、箪笥を造ろうとすら考えてもいなかったのである。
 それだけに、彼の絵画修業は徹底していた。絵画に転向して五年後には、パリのサロンに作品を出して入選するまでに至っている。フランスにおいて、フランス人と同じ条件のもとで十分太刀打ちできるほどの腕を持っていながら、彼は日本に帰って「てがさがらなけれバよいが」と心配し、「なんニもできないようになつてしま」うことを憂えている。しかも重要なことは、彼のこのような危惧は単なる杞憂ではなかったということである。少し意地の悪い言い方をすれば、帰国直前の彼のこの手紙は、その後の自己の運命を予言したものともいえる。もちろん、日本に帰るにあたって、彼は彼なりに抱負も自負もあったに違いない。そして、鷗外の場合と違って、帰国後の黒田清輝は、世間的には成功と栄誉の連続であった。土方定一氏は、黒田について、「幸福な環境、幸福な才能、幸福な時代」という言葉を引いている(『近代日本の美術』岩波新書)が、たしかに、その家柄においても、地位においても、天分においても、黒田ほど恵まれた人は例が少い。それほどまであらゆる条件に恵まれていながらなお、彼の企てた洋画輸入の試みがついに挫折してしまったところに、私は近代日本美術のひとつの宿命を見る。それは、鷗外の言うように、fatalistischという言葉ででも呼ぶよりほかにはないものであった。他のあらゆる条件がきわめて恵まれていただけに、黒田清輝の場合は、いわば理想的状況における実験のようなものであった。そして、その実験の結果は、日本の近代というものの性格をはっきりと浮き彫りにして見せてくれたのである。
 もちろん、天真道場以来黒田の日本における活動は、その後の日本の洋画発展の歴史の上では決定的な役割を演じた。黒田という存在がなかったなら、日本の近代美術は少なくとも何割か見劣りのするものとなったであろう。その意味では黒田の試みは無駄ではなかった。まして、彼の世間的な栄光を考えれば、彼の生涯には失敗と挫折とかいう言葉はほとんど無縁のものであるように見える。しかし、世間的な栄光はとも角、芸術創造の面においては、黒田自身の成し就げたことも、あるいは黒田に始まるいわゆる「新派」の勝利も、決して黒田の意図したものではなかった。余人は知らず、少くとも黒田自身は、その華やかな栄光の陰で、ある種の空しさを噛みしめていたはずである。おそらくそれは、挫折感としか呼びようのないものであった。晩年の黒田は、決して「幸福な環境と幸福な才能」を楽しく享受していたわけではなかったのである。
 私そのように思わせるものは、後に見るように晩年の黒田がしばしば自分の仕事について苛立たし気な口調で語っているということばかりではない。晩年の黒田の作品に、時に不気味なほど暗い絶望の影が稲妻のように浮かぶことがあるからである。例えば1924年、彼の死の年に描かれた最後の名作「梅林」(国立文化財研究所所蔵)がその例である。この作品は、決して功成り名遂げた芸術家の悠々自適の心境を反映しているものではない。激しく捩れる梅の樹枝や、画面に絵筆を叩きつけたようなダイナミックな筆触、そして何よりも、印象派の感覚的表現とも、フォーヴの色彩礼讃とも違うその表情スタかな色彩表現は、この絵の作者の心の中で何ものかが激しく荒れ狂っていたことを雄弁に物語っている。それは、何らかの意味で外部の世界を写し出したものではなく、むしろ作者の内部の怨念のようなものを吐露した妖しい迫力を持つ名作である。外から見れば申し分ない幸福に包まれたような六十年の生涯の終りに、彼にこのような悲劇的作品を描かせたものは、いったい何だったのだろうか。私にはそれが、日本近代の持っているfatalstischなものに対する彼のせいいっぱいの抵抗であったように思われてならない。」高階秀爾『日本近代美術史論』講談社文庫、1980年、pp.70-77.

 絵画芸術という領域で、当時最先端のパリで一から油絵を学んでプロのレベルに達した人は、日本人にも何人かいたが、日本に戻って黒田ほどの名声と成功を得た人は他にはいない。しかし、かれは当時の前衛絵画だった印象派よりも一流とは言えないコランに師事することで伝統的な西欧絵画の基礎と精神を学んだ。帰国して彼が洋画教育において実践した方法は、たんなる技法修練を超える西欧近代の精神の表現ということにあった。しかし、それが困難な課題であることを彼はパリですでに予感していた。


B.ウソに近い広告?
 昼間家にいてなんとなく有線テレビを見ていると、ひっきりなしに健康・美容・投資への勧誘・宣伝・広告が流されていることがわかる。ぼくは、この手の商品を欲しいと思ったことがないが、これだけしょっちゅう流れているということは、きっと購入を申し込む人もかなりいるんだろうな、と思う。なかには人気商品なので今すぐ何分以内に申し込めば割引すると煽るものもある。その声の調子や、むやみに明るく挑発的なのも気に障る。小林製薬の紅麹サプリ死亡事件で、この問題が表に出た。いわゆるサプリメントは、医薬品ではないのに、医者の出す薬よりも効果があると思って切り替える人もあるという。このてのインチキめいた宣伝広告が広がったのは、やはりアベノミクスの結果だという。そうだったのか。

「時代を読む: テレビ局の広告と報道  法政大学名誉教授・前総長 田中 優子
母の在宅介護をしていた時、気になることがあった。テレビのコマーシャルから流れてくる商品を、電話をかけて注文することが多くなったのだ。「出てくる人がみんな、効果があった、と言っているのよ」と言う。電話をかけさせるために使っている手は「30分以内に電話すれば安くなる」という値下げだ。時には半額以上の値段が示される。それでも利益が出るのなら、そもそも元の値段が信用できないではないか。
  ◇   ◆   ◇ 
 機能性表示食品制度は「世界で一番企業が活躍しやすい国」にするという安倍晋三政権のアベノミクスの一環として2015年に発足し、急拡大した。
 小林製薬の問題でわかったのは、資料一式を提出すれば認可不要という「安全性の規制緩和」だったということだ。それをさらに拡大するための広告方法は母が信用してしまったように、一般庶民(と見える人)たちが出てきて自分の家(と見える場所)でそのサプリを飲んで見せ、家の周囲(と見える道)を元気よく歩くシーンを放送することである。「個人の感想です」という極小文字を入れることで、違法性を免れる。効果が一般的に認められている(から私も効果があるはず)とか、学者や医師が証言しているから科学的根拠があると思い込むのは、視聴者の責任というわけだ。ちなみに学者や医者の言葉を聞いていると、そのサプリではなく、含まれている一成分についてのみ「効果があると思われる」と言っているにすぎない。たった一本の論文が根拠になっていることもある。
 アベノミクスとは、新たな世界を目指す価値観ではなく、戦後の高度経済成長の反復にすぎなかった。企業→カネ→票→自民党という流れである。その流れの中に広告→国民がさし挟まれる。広告はしばしば「報道」であるかのように人々に伝えられる。その結果、健康を買えると思った人たちが企業に金を払い、それが再び票につながる。アベノミクス関係者たちは、その結果何が起こるか「知ったことではない」と思っていただろう。米国や日本の企業が潤えばそれでいいのである。
   ◇   ◆   ◇ 
 4月8日、前川喜平氏と私が共同代表をつとめる「テレビ輝け!市民ネットワーク」の記者会見を開いた。テレビ局を持つ企業の株を市民たちが購入し、必要な提案をする活動である。目的は、今なお大きな影響力を持つテレビを応援することだ。この中で「政治的な権力をもつ者からの圧力、介入により報道機関の公正報道を保ち難い」場合や、番組審議会が機能不全となっている恐れがある場合に、第三者委員会を作って調査公表する、という趣旨の定款追加を提案した。
 基地の拡大、武器の輸出入を含む軍拡、そして規制緩和によって生命や健康が危機にさらされる事態が起こっている。市民が自らを守るためには、報道が頼りなのだ。民間放送は企業に支えられてはいるが、企業や広告代理店には、報道と広告を明確に区別するよう求めてほしい。日本各地に何が起きているか、特に南西諸島を含む沖縄県の状況を、丁寧に伝えてほしい。なぜなら、沖縄の現状は、明日の日本全体を予見させる重要な情報だからだ。今もテレビは、真実を粘り強く繰り返し伝えることで、人びとを守ることができる重要な媒体なのである。」東京新聞2024年4月14日朝刊5面、社説・意見欄。
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