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「日本近代美術史論」を読む 2 高橋由一(続)  オッペンハイマー!

2024-04-10 22:41:49 | 日記
A.弓剣二道の師と画技 
 日本における洋画、つまり西洋の絵画技法であるキャンバスに油絵の具で描く絵画を最初に本格的に取り組んで作品を残した画家は誰か、といえば1828年つまり文政11年という江戸時代の後半に生まれた高橋由一というのが、まあ通説として語られる。高橋由一は下野佐野藩堀田家の家臣高橋源五郎という武士の孫として育てられた人で、堀田家は一万石ほどの小藩だが、立派な武士の跡継ぎだった。しかもその祖父は武道の師範として弟子たちに弓剣を教えていたという。由一もその武道の後継者たるべく育てられるが、途中で絵の才能を認められ(また剣を極めるには体力に欠けると見られ)、明治維新になる前の江戸幕府の番所調所で洋画を学ぶ道に進んだという。彼が伝統的日本画ではなく西洋画を志した事情について、彼が晩年に息子に筆記させた『高橋由一履歴』という文書以外には、確かな文献資料がないことから、そこに書かれた彼が若いころに見た「洋製石版画」に出発点を求める説が定着した。しかし、それがいつのことであったか、『履歴』では嘉永年間と書かれているのだが、これは疑問があると高階秀爾氏は指摘し、もっと後の文久年間ではなかったかという自説を展開している。

「遠い昔の記憶については、自ら思い違いをしているところもあるであろう。それよりも明治十一年、由一がまだ五十歳の働き盛りに正風に語ったことの方が、いっそう真実に近いと考えて差し支えあるまい。すなわち、『由一履歴』に見られる嘉永年間の「洋製石版画体験」は、文久年間のことと修正する必要があるわけである。
 西欧の表現法と決定的な触れ合いが嘉永年間ではなくて文久年間に行われたということは、由一の作品を理解する上でどのような意味をもつだろうか。私見によれば、この十年ほどのずれは、かなり重要なものである。嘉永年間は由一が二十歳から二十六歳までの時期であり、文久年間は三十三歳から三十五歳の時である。自分がその中で育てられてきたひとつの文化的伝統とまったく異質の世界に二十代の前半に触れるのと、三十を超えてから接するのでは、かなり決定的な差異があるように思われる。そしてそのことに触れる前に、われわれは一応由一の歩んだ生涯の跡を辿ってみなければならない。

 高橋由一は、文政十一年(1828年)二月五日に生まれた。『高橋由一履歴』の冒頭には、
  下野国旧佐野城主堀田摂津守正衡家士
  高橋源五郎嫡孫承祖
  幼名猪之助後抬之介又由一と改む
 と書かれている。つまり維新時代に活躍した多くの若いインテリゲンチャと同じように、彼も地方の下級藩士の出身だったのである。そして「高橋源五郎嫡孫」と書かれていることからも明らかなように、彼は父よりもむしろ祖父の強い影響を受けた。父親は源十郎という名で、養子として源五郎の家に来たが、由一が三歳にもならないうちに離縁して家を出てしまった。したがって由一は、もっぱら実母と祖父母の手によって育てられることとなるのである。
 この祖父は、由一の語るところによると優れた武芸の達人で、多くの弟子を指導した人だという。

「‥‥‥祖父源五郎ハ弓剣二術ノ達ニシテ主命ヲ奉シ汎ク門下ヲ教導セシ人ナル故由一ニモ家業を継カシメントテ頻ニ此二道ヲ強イラレシカハ百事ヲ抛ツテ他ヲ省ミサリシカ生質多病ニシテ動モスレハ休業スルコトアルヨリ或日祖父厳ニ由一に向ヒ武術者ト成ランモノ身体健全ナラサレハ貫徹スヘカラス汝尫弱ニシテ武術者タランコト望ミ難キモノゝ如クナレハ今日ヨリ性質好ム所ノ画学ニ換フヘシ弓剣二術ノ相続者ハ他の門生中ニ求ムヘシト宣ヒシカハ夫ヨリ絵画ニ従事セント決断セリ‥‥‥」

 芳賀徹氏は、高橋由一を論じたきわめて優れた評論『幕末のある洋画家』(『自由』昭和38年12月号所収)において、由一のこの武芸から絵画への転向を重視し、
「‥‥‥由一は、日本画から洋画に転ずるよりさらに前に、武芸への道へのいわば挫折を経験し、弓剣に代うるに彩管をとる『決断』を強いられたのである。これはのちのちまでかれの画道に対する態度を決めた重要な事件であったと私は思う」
 と述べている。そして芳賀氏は、例えば「鮭」図に見られる「気魄」のようなものも、単に武士上りの画家というよりも、「意志的に剣を捨てて、画筆を構えた人」のものであると指摘している。
 芳賀氏のこの論文は、おそらくこれまで由一について書かれたもののなかで最も優れたもののひとつであり、由一の画業のなかにかつて「弓剣二術」を学んだことの反映が見られるというその指摘は重要な意味をもっているが、しかし、由一の場合、絵筆を手にすることは、必ずしも武道を捨てることではなかった。少くとも彼が弓剣から彩管への「転向」――もしそれが「転向」と呼ぶにふさわしいものであるなら――を決意した時、そこには一般に「転向」に伴う後ろめたさや、芳賀氏の言うような「挫折」感などは、およそなかったに相違ない。由一が晩年の病床においてその生涯を懐古しながら、「余武芸ト絵画トノ外学フ所無シ」と述懐したのも、逆に言えば「武芸ト絵画」に対しては、生涯ひそかな自負を失わなかったことを示しているのではないだろうか。むしろ由一においては、画学局の壁に掲げたというあの有名な「西洋画法のすすめ」のなかで「固ヨリ画ト字国用ヲ為シテ須臾モ離ルヘカラサル最大ノ技芸ナリ官開成所中ニ設ケタルハ其意ニシテ画学局ハ功要急務ノ関係スル所各官勉励セスンハアルヘカラス」と述べていたり、あるいは後年(明治十八年)に元老院議長に宛てて提出した「展画閣ヲ造築センコトヲ希望スル」上書のなかでやはり同様の主旨を披瀝していることからも明らかなように、「彩管の道」は「武芸の道」と同じように国家に尽す道であり、武士の武芸同様に誇るに足るべきものであった。彼が画学局に在学中、上官から、「君ハ始終理屈ニ富メリ其思想好カラサルニアラス然シナカラ理屈ヲ吐ク寸隙ニモ写法ヲ研究スルカ特益ナラン」と意見された時、昂然として、「絵事ハ精神ノ業ナリ理屈ヲ以テ精神ノ汚濁ヲ除却シ始テ真正ノ画学ヲ勉ムベシ」とやり返したというエピソードも、画業を単に小手先の職人芸とは見ずに、男子一生の事業として全身全霊を挙げてそれに打ちこもうとする彼の意気をよく物語っている。彼は武芸の道の落伍者になったから止むを得ず絵画の道で満足したのではない。絵画も武芸に劣らず価値のある事業であったからこそ、あえて生涯を絵画に捧げようとしたのである。
 同様のことは、由一の日本画から洋画への転向――これも「転向」と呼び得るのならばの話だが――についても指摘することができるだろう。もともと由一は、生まれつき優れた画才に恵まれていたらしい。『高橋由一履歴』には、
  「生レテ二歳筆ヲ把ツテ人面ヲ描ク母之ヲ奇トシ後来望アリト称ス…‥」
 というエピソードが伝えららているし、上に触れた明治十八年の上書のなかにも、
  「‥‥‥臣年甫メテ二歳偶然筆ヲ弄シテ人面ヲ描ク過ツテ世人の奇トスル所トナレリ…」
 と述べられている。もちろん、いかに天才でも、生まれて二年足らずの幼児が描いた「人面」がそれほど巧みなものであったとも思われないし、第一そのようなエピソードがあったとしても、果してほんとうに二歳の時のことであったかどうか何ら確証はないが、しかし、由一が母から聞いたというこの挿話を自分では信じこんで、好んで人に語ったということは事実である(友人信夫粲の贈文のなかにも、やはりこの話が語られている)。つまり由一は早くから自己の天分に目覚めさせられていた。そして母のみならずあの祖父までも、彼の画才を早くから認めていたようである。『履歴』によれば、彼は十二、三歳の頃から狩野洞庭という画家について運筆法を学び、次いで狩野探玉斎の門に入って絵を学んでいる。さらに、正式に絵画に志すようになってからは、田安家の画家吉沢雪葢にも教えを受けている。
 これら青年時代に彼が教えを受けた人々の影響が、後年の由一の画業にどのようなかたちで反映されているかということは、きわめて微妙な問題である。これまでの研究者は、ほとんどすべてそこにあ江戸末期の狩野派アカデミズムの形式主義しかなく、それなればこそ由一は、そのようなアカデミズムに飽き足らず、西洋画法の写実主義に惹かれたのだと説いている。つまり、由一が最初に学んだ日本画は、西洋画の新技法の前に否定さるべきものとしてのみ存在したというわけである。
 私自身も、原則的にはこのような見方に賛成である。狩野洞庭や狩野探索玉斎がどのような画家であったか、詳しいことを私は知らないが、しかしいずれにしても美術史上に名を残すほどの大家でなかったことはたしかであろう。彼らの教えが、狩野派アカデミズムの型にはまった形式主義的なものであったことは想像に難くない。由一自身もその『履歴』のなかで、これらの師たちは彼を満足させなかったと述べている。
 しかしながら、それにもかかわらず、若い時に狩野派の門に学んだということは、単にその「運筆法」を習得したというd家ではなく、それによって従来の日本画の伝統に触れ、その伝統を支える感受性のなかにはいりこむ少なくともひとつの道に踏み出したということである。それは、たとえ相手が形骸化したアカデミズムであっても、である。いや形式的なものとなったアカデミズムであればなおのこと、例えばものの見方とか対象の捉え方――ヴェルフリンのいわゆる「見る形式」――等においては、一層はっきりと伝統的な特色を示すと言い得るであろう。もちろん、それを単に小手先の技術としてのみ受け取る者も少なくないに違いないが、しかし、「絵画ハ精神ノ業」であると確信していた由一のような画家にとっては、青年時代におけるこのような伝統との接触は、その感受性の襞の上に何らかの痕跡を残さずにはおかなかったはずである。そしてそのことは、当然「洋製石版画」に接した時、それを受けとめる受けとめ方に微妙な陰影を投げかけたであろう。ここにおいて、由一の「洋製石版画体験」が二十代の前半ではなく、三十代になってからのことであったという事実は、かなり決定的な重みを持って来る。「花魁」に見られる非西欧的特色は、すでに完結したひとつの感受性の体系を暗示しているからである。
 もちろん、三十歳までの由一の感受性を養ったものは、狩野派の末流の教えだけではない。狩野派アカデミズムの筆法は、対象の明確な形態再現を通して、細部に対する鋭い観察力を養成したに違いないが、その狩野派と並んで、おそらく狩野派よりはるかに大きな程度において、江戸末期の通俗的浮世絵版画をも含めた日本特有の色彩感覚もやはり由一のなかに生き続けていた。「花魁」の平板で装飾的な色彩配合は、ルーベンスのものでもなければドラクロワのものでもなく、むしろ浮世絵の色――あえて言えば、ほとんど国芳や国貞のそれに近いもの――である。むろん、この連想は主題から来るものではない。「花魁」の鮮やかな色彩がそれぞれお互いのヴァルールの関係によって支配されない色、つまり端的に言えば空気の存在を知らない色だからである。西欧の油絵が空気の発見とともに登場して来たことを思えば、「花魁」の表現が「破格」であるのも当然のことと言えよう。
 そう言えば、「花魁」にかぎらず、有名な「鮭」図連作にしても、「豆腐と油揚」図や「読本と草紙」にしても、つまり明治十年から十一年頃までの由一の静物画は、その「迫真的」な描写にもかかわらず、奇妙なほど空気の存在を感じさせない。というよりも、空気の存在を感じさせない故にいっそう「迫真的」であると言うべきであろう。われわれは、対象とわれわれとのあいだに本来あるべきはずの空気の媒介なしに。文字通りじかに対象と直面させられる。そこには、ある種の目まいにも似た距離感の喪失がある。われわれとものとのあいだの正常なバランスが失われ、あらゆる細部が同じような力でわれわれに迫って来る。「花魁」の色彩表現に私の感じたあの奇妙に杯盤な感じ、「迫真的」であるにもかかわらず平面的であるその印象は、この距離感の喪失によるものであるに違いない。それは迫真的であるが故に平面的なのである。
 似たようなことは、「花魁」のみならず「鮭」その他の静物画に見られるほとんど超現実的といってもよい表現効果についても指摘できるであろう。事実これらの作品は、きわめて日常的な題材をきわめて写実的に描き出したものでありながら、日常のものたちがわれわれに与えてくれる親しみ深い暖かさに欠けている。それらの作品の不気味なほどの「迫真力」については、これまでにもしばしば語られて来たが、その不気味さも、対象のあらゆる細部が同じような力でわれわれに迫って来るところから生ずる日常的なバランスの喪失によるものであろう。ここでも由一は、写実的であろうとしていつか写実を越えてしまっているのである。

「花魁」の図は、これまで多くの研究者によって、「鮭」連作と相前後する明治十年ごろの作品と考えられて来た。しかし、隈元謙次郎氏の「高橋由一の生涯と作品」(『近代日本美術の研究』所収)によれば、それよりもやや早く明治五年(1872年)直後の作品とされている。作品の表現の展開の上から見て、この年代は私を十分納得させてくれる。「花魁」の画面に見られるあの奇妙な違和感は、「鮭」連作や「豆腐と油揚」図においてはずっと弱められているからである。それと同時に、細部の描写は時とともにいよいよ明確に、いよいよ「迫真的」になって行く。その発展は、対象の存在にいよいよ間近に迫って行こうとする由一の追及のきわめて論理的な帰結であるように思われる。しかし、それにしては由一芸術のその後の発展は、明治十一、二年ごろを境として急にせきとめられたように見える。由一自身は、まだその後十数年のあいだ、絵筆を握り続けているにもかかわらず、である。ここに由一の芸術のひとつの謎がある。
 事実、由一芸術の頂点が「花魁」から「鮭」図連作を経て「豆腐と油揚」図等の日常の事物の表現に至る静物画群にあると見ることは、おそらく誰しも依存のないところであろう。ということは、年代にすれば明治五年から明治十年頃、せいぜい下って明治十二年頃までの六、七年間のことである。「生レテ二歳」から筆を把って生涯絵画に身を捧げた由一としては、意外に短い期間と言わねばならない。特に、晩年十数年間は、作品が残っていないわけではないのに、「花魁」や「鮭」に匹敵するほどの厳しい緊張感に満ちた表現にまで達しているものはついに見あたらない。この事実はいったい何を意味するものであろうか。」高階秀爾『日本近代美術史論』講談社文庫、1980.pp.17-27.

 まるで推理小説の謎解きのように、高橋由一の西洋画体験から「花魁」を経て「鮭」図連作や「豆腐と油揚」という頂点に達し、それが失速してゆく生涯の輪郭を描く高階氏の追及は周到である。


B.映画「オッペンハイマー」をめぐって
 米アカデミー賞で作品賞など7冠を取った映画「オッペンハイマー」の日本公開が世界から約8カ月遅れて始まった。原爆開発を担った科学者の物語。日本でどう受け止められるのか。不安視する向きもあったが、封切3日間の興行収入が3.7億円というヒットスタートになった。異なる視点の識者3人が読み解く。
3人とは、映画監督 黒崎博さん、物理学者 野村泰紀さん、在米ライター 武田ダニエルさん。武田さんの話が興味をひかれたのでここに引用させていただく。

「少ない反発 愛国への懐疑心  在米ライター 武田ダニエルさん
 今に続く世界の不安や、「科学の発達」を名目に米国が行なってきた、傲慢で人権を無視する兵器開発への絶望感が強く漂う作品。「原爆が戦争を早く終わらせた」という米国人の意識は否定しないが、「決して正義感だけで作られたわけではない」という疑念は米国の観客にも抱かせうる。米国の歴史に批判的な作品だが、反発が大きくなることなく多くの人が冷静に受け止められたのは、米国への視線の変化の表れだと思う。
 今の米国は積極的に愛国心を持つ人がかつてほど多くない。米国が世界で無責任な行動を取り続け、トランプ氏の支持者が「アメリカファースト」を掲げる一方、それが差別や排除にも基づいている、とネガティブな印象を持つ人も増えた。Z世代は景気が良かった「素晴らしい米国」を経験せず、9.11テロ直後のナショナリズムの高まりも記憶になく、コロナかも経て米国というシステムに懐疑心を持ち、「悪い敵国は攻撃して当然」と戦争を讃美するような映画も受け入れられづらい。
 徹底的にオッペンハイマーの視点で彼自身の物語を描いたことで、結果的にさまざまな物語が排除された点は話題となった。日本では被爆地の場面がないとの指摘があるが、米国では実験時の先住民の追放や被爆が描かれなかった点が問題視された。(構成・藤えりか)」朝日新聞2024年4月8日朝刊23面、文化欄。

 ぼくも映画館に行って「オッペンハイマー」を見てきた。IMAXレーザー画面の上映だったので、原爆実験の場面をはじめ幾度か大音響の画面に座席がビリビリ振るえるような振動まで感じた。これは映像体験だけではなくまさに体感する映画かもしれない。
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