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教育制度と試験について 2 科挙 ウイルス感染の拡大

2020-02-27 03:58:37 | 日記
A.科挙について 2 
 中国の隋王朝から始まった科挙という全国選抜試験は、高麗や李氏朝鮮でも制度化されて行われたが、日本では一度も定着しなかった。科挙の主たる目的は、天子が身分制度を超えて官吏登用を行なうことで旧弊な世襲貴族の権力を牽制することにあった。それは皇帝の権力を強固にし、中国の政治文化、あるいは教育に長く大きな影響を与えたことは確かだと思う。だとすれば、日本ではなぜ科挙はできなかったのか?日本の歴史で、もっとも中国文明を大真面目に輸入しようとしたのは、遣隋使を送った7世紀初め。聖徳太子から聖武帝までの飛鳥・奈良時代だということになっている。国家制度としての律令制の整備はその成果だが、科挙はできなかった。
 よく知られているように、飛鳥時代のヤマト朝廷は、蘇我氏をはじめとする豪族の力が強く、また漢字の書物を読め書ける知識階級もごく限られていただろうから、統一試験などとてもできるわけもない。しかし、その後平安初期になれば、空海や阿倍仲麻呂のような地方出身の若者でも勉学に励んで儒教仏教の経典を読みこなし、中国の知識人と対等に議論できる人材が出てくるわけだから、もしかしたら科挙ができたかもしれない。そうすれば、日本の歴史はかなり変わったかもしれないが、その後の日本史は文優先の儒教的世界観を追うことはなく、弓矢で天下を争う武士の暴力的権力闘争で終始し、天子に仕える官僚制はただの名前だけのものになった。
 偉大な中華文明の基準からすれば、日本などいくら頑張っても、文字も読めない未開の野蛮人の国で、まず礼儀から教えなければならない後進国だった。

 「郷試 科挙試のニ :試験の期日
 郷試の三年に一回、子年、卯年、午年、酉年ごとに挙行されることが法令で定められており、その期日もあらかじめ指定されている。八月九日に第一回の試験が始まり、十二日に第二回、十五日に第三回で、完全に終了するのは十六日である。八月といっても旧暦である。今の暦でいえば九月、ちょうど中秋の名月の前一週間ほどかかって行われる。政府では受験者の苦労を考慮して一年中で最も気候のよい時節をえらんだのである。
 もし宮中に大慶事たとえば天子の即位とか、天子あるいは皇太后の頌寿の式典が行なわれる時には、科挙は三年一度のほか、特別に一回増加することがある。これを恩科という。がんらい科挙は天子がその補佐役たる官吏を登用するため、天子の崇高なる義務の一つとして行なう試験であるが、後世になるとそういう意味が薄れて、人民がなりたがっている官吏への途を開いてやる天子の恩典というふうに考えられてきた。そこで科挙を一回ふやすことを天子の特別な恩典という意味で恩科と称するのである。恩科が通常の科挙の行なわれる年の中間へくれば問題ないが、もし同年になる時は両方を半年ほどずらせて行なうのが例である。
 試験官の派遣
 郷試は各省の首府に省内の挙子を集めて行なう。河南省なら開封、江蘇省なら南京江寧府といった具合である。その試験官は臨時に中央から派遣して、各省へ別々に派遣する。その人数は省ごとに正考官一名、副考官一名である。何ぶんにも大切な任務を負わされて行くので、朝廷ではまえもって派遣可能な官吏を集め、試験を行った上で任命するのである。だれをどこへ派遣するかはいよいよという時まで決定しない。よからぬ運動が行われるのを防ぐためである。
 郷試は試験期日が正式に定まっており、全国一斉に行われるが、試験官は中央から遠方へ派遣されるので、目的地へ着くまで相当の日数がかかる。彼らの到着が試験にまにあわなくても困るが、あまり早く到着しすぎると、またそこで運動する者が出てくるかも知れない。そこで中央では旅程を見はからって、早すぎぬよう遅すぎぬように二人の考官を出発させるのである。
 たとえば中央から一番遠い雲南省、貴州省の首府に到達するには、北京から約九十日かかる。そこで四月下旬になると中央政府の大臣は試験官、考官たるべき者の名簿を天子に提出し、天子がその中からだれを正考官、だれをだれを副考官と指名し、五月一日ごろに発表して正式に任命する。任命された者は都でぐずぐずしていてはならず、遅くも五日以内には出発しなければならない。もし五月五日に出発すると、途中約三か月を費やして、ちょうど試験期日の八月九日より数日前に目的地の雲南・貴州省の首府に到着するという仕組みである。広東省、広西省、福建省への約八十日、だんだん近い所へきて山東省、山西省、河南省へは二十日の日程を見込んでおく。近い所ほど任命がおくれるわけである。当時は旅行に不便な時代で、運河や揚子江の水路を利用するので、このように日数がかかるが、考官は何ぶんにも天子名代としてのお使い、欽差官であるから船に欽差と書いた旗を立てて罷り通ると、ほかの船はみな傍へよけて優先的に通してくれる。地方官も落度のないように、ひたすら勇退するのである。
 目的地の省の首府に到着すれば、土地の大官、総督、巡撫、布政使、按察使、知府以下が出迎え鄭重に待遇する。そしてあらかじめ定めておいた答案審査補助官と試験事務担当官を紹介する。
 もともと試験の係員には二通りの系統がある。一つは答案審査員で、中央から派遣された正・副考官だけで手がまわらないので、地方官吏のうち学問のすぐれた者を補助員として用い、これを副考官という。大きな省では十八名、小さな省では八名である。これは総督、巡撫から委任するので、多く知府、知県の中から選ぶ。学校の教官などは問題にされない。これらの正考官、副考官など、考官と名のつく者は直接答案審査に当たる者で、また内簾官と称せられる。
 このほかに試験事務だけを担当する系統が必要で、これを外簾官と称する。その全責任者を監臨官といい、総督もしくは巡撫がこれに当たる。その下に事務局長、監督官、またその下に答案受理係、整理係、身体検査係、謄写係、校正係といろいろ特殊な任務を命ぜられた官吏が整然と備わっており、互いに他の領分を犯してはならぬことが定められている。
 試験場
 試験場は貢院といい、各省の首府に常設の建物がある。前の科試までの受験生は大広間、堂の中に机を並べて座らされたが、貢院は、ちょうど一人だけはいれる独房が蜂の巣のように何千、何万と集まったものであり、その一つずつが厩のような長屋の形に連続したものであるから、全体で頗る広い敷地を占める。
 いま南京江寧府の場合を例にとると、屋形船で有名な秦准運河に臨んで、その北に広大な敷地をもつ南京貢院があった。運河に面して大きな石造りの坊門が三つあり、その奥に見えるのが貢院の入口、すなわち大門である。大門を入るとやや広い場所があり、その北が二門である。二門の次の竜門をぬけると北に向かって広い大通りがのびており、甬道とよばれるが、西側にも東側にも、およそ二メートルおきぐらいに号筒といわれる小路の入口が開いている。
 試みにこの入口から中へ入ると、入口の狭いわりに奥行きはきわめて深く、目の届かぬほど遠くへのびている。そして片側に一メートルぐらいに仕切られた小さな部屋、すなわち号舎とよばれる独房が無数に奥のほうへ続いて並んでいる。号舎をいま部屋といったが、実は部屋というにあたいしない。というのは、それは戸もなく家具もなく、ただ三方を煉瓦の壁で仕切りして屋根をいただいた空間にすぎないからである。地面はもちろん土間で、ただ大きな板が三枚ある。これを壁から壁へかけわたすと、一番高いのは物置き棚になり、次のが机になり、一番低いのが腰掛けになる。そのほかは何の設備もない、正に格子戸のない牢獄である。郷試の受験生たる挙子は、ぶっ通しに三日二晩をこの中で過ごさねばならないのである。
 小路は非常に長く、行けども行けどもつきない。片側の号舎の列も無限に続く。ただ三年に一度使うにすぎない建物だから、ふだんは手入れも非常に悪く、屋根にはペンペン草が生え、軒はくずれおちそうであり、壁に湿気がにじんで黴くさい。もしひとりで夜中にこんなところへ迷いこんだら、どんなに気味が悪いことだろう。きっと鬼哭啾々、といった感じにちがいない。
 この小路はどんなに長くても奥は行きづまりであって、抜けるところはどこにもない。ちょっと考えると八幡の藪知らず、ラビリンスのように迷いこんだら出られまいと思われそうだが実際はそうでなく、行きづまりの一本道だからもし出ようと思ったら、入ってきたと反対の方角へどこまでも歩いていれば、いつかは自然に大門に通ずる大通りの甬道へ出てこられるのである。
 甬道の中ほどのところに明遠楼とよばれる立派な高層建築がある。これは試験施工中に見張りをしたり、合図をしたりするところである。このほかに数カ所、見張りのために瞭楼という高い櫓がある。挙子たちの入っている号舎は入口の戸がない吹きさらしだから、こうしてあちこちの瞭楼や明遠楼からのぞいてさえいれば受験生の動きが手にとるように見えるのだそうであるが、しかしこう広くては実際に効果がありそうにも思えない。単に威圧を加えるにすぎないのだろう。 明遠楼を通りすぎて、さらに甬道をまっすぐ北へ進めば、いっそう厳重に塀をめぐらした大きな別構えの門につきあたる。この内部は試験係員がひと月あまりも罐詰にされる宿舎と事務室とを含み、さらにそれが大きな運河によって前方部と後方部とに仕切られている。前方は試験事務担当院の居所で、いわゆる外簾官の居所である。外簾官は試験の現場を取り締まり、答案の整理をつかさどるので試験現場へは行き来できるが、その奥の内簾官の居所へは交通できない。内簾官は答案審査に当たる官で、この方は全く自分たちの居所に釘づけにされたまま、答案の審査がすむまでは一歩も埒外に出ることが許されず、一番窮屈に身柄を拘束されているのである。
 何百人もの係員がひと月も罐詰にされるためには多量の食べ物が必要だが、それはあらかじめこの構えの中の倉庫に貯えておく。こうして幾重にも内部が仕切られ、その外まわりには厚い高い壁をめぐらして世間から遮断されていて、出入口はただ一つ、南面の大門よりほかにない。試験係員も挙子もおよそ人間と名のつく者はすべて大門からだけで入りすることになっている。その外には狗くぐり一つないが、ただ例外は水と排泄物である。
 試験中に挙子が使う硯の水や炊事用の水は莫大の量にのぼる。そのため大門の左右両側に一ヵ所ずつ、外から内部へ清水を送りこむ仕かけがあって、これを水台という。試験の前に人夫がここから水を汲んで、試験場内の各号筒、小路の入口の大きな水甕の中にいっぱいためておき、試験最中にも使われて減るにしたがって補充する。それから先は挙子の仕事で、めいめいが土鍋をさげてここまで水をもらいにくるのである。排泄物の方は、各小路のつき当たりの便所にたまったものを、試験後に人夫が集め、東側にただ一ヵ所ある出糞処からくみ出す。出糞処はもう一ヵ所北側にあるが、これは試験係員の排泄物のくみ出し場所である。
 これら数ヵ所の出し入れ口をのぞいて、外周の高塀には蟻の這いこむ隙間もない。したがってもし試験最中に挙子が急に死にでもすると始末にこまる。大門は堅く錠をおろして時間がくるまでは絶対に開かない。そこで仕方なく屍体をこもにくるんで塀の上から外へ投げ出すのである。
 徹夜の答案
 八月五日、まず試験事務担当係員が試験場に入るが、この時身体検査を行ない、必要不可欠の衣服、身廻品を携帯するほか、余分なものの持ち込みを禁止される。
翌六日、答案審査員たる正・副考官は、土地の総督・巡撫ら大官に招かれてささやかな酒宴に臨んだ後、試験の総裁ともいうべき監臨官となる総督・巡撫の一人、事務担当官たる提調官、審査補助官たる同考官ら相携えて試験場に入る。正考官と監臨官の二人は、特に外部から望見されるように駕籠の窓を開け放して街をねりあるく。試験場に到着すると明遠楼から景気よく号砲三発を放ち、重い大門の戸が左右に開かれる。考官はそのまま奥の構えの中に姿を消すが、監臨官は部下をしたがえて試験場を隈なく見廻り、整備が行きとどいているかどうかを点検する。こうして一度試験場構内に入った係員はそのまま終了の日まで構内に宿泊して外部との交通を断つ。 一方挙子は省内の各地から陸続と首府へ集まってくるが、その際に船を利用するときは、舳に「奉旨某省郷試」、すなわち勅令で行なわれる某省の郷試応募者という旗をたてて罷り通ると、内地の税関でもその荷物には手だしをしないという。
 首府に到着すると、挙子は官設の受付所に赴いて答案用紙を買う。これは厚い白紙の折本で、十四ページと十六ページのものニ種類がある。いずれも一ぺージは十二行二十五字詰めの赤い罫が印刷してあり、合計三通のほかに、草稿用紙が必要である。その表紙に姓名、年齢、容貌特長など書き込む欄があり、各自が書きこんで係員に預けておき、預かり証三通を受け取って保存する。これは試験当日、場内に係員に示して答案用紙と引き換えるためである。
 試験開始の前日、八月八日は挙子の入場の日である。夜半の午前零時頃に最初の号砲が一発鳴りわたり、三十分ほどして第二の号砲二発、さらに三十分ほどして第三の号砲が三発鳴ると、それを合図に試験場の大門が開き、挙子が続々と門前につめかける。門前で先ず人員点呼が行なわれ、省内数十ないし百余の県出身の童生はその出身地にしたがって十数個の起(組)に分けられる。その標識は燈籠と旗であり、第一起に属する挙子は第一起と書いた一個の燈籠のもとに集まる。第二起は燈籠の数が二つ、双児にしてつり下げられ、第十何起ともなると、あたかも祭礼の屋台の屋根からぶら下がっている提灯のように五列にしてつり下げられる。だから、挙子は字が見えなくても自分の集まるべき場所が分かるのである。夜があけると旗を目あてに集まる。
 点呼の際には各学校の教官が立ち会って本人に間違いないことを認識する。点呼がすむと、係員の誘導にしたがって一起ずつ大門をくぐって入場する。大門から先は附添人は入れない。挙子はめいめいに大きな荷物をかかえているが、それもそのはずで、試験場で三日二晩をすごさねばならないから、硯や墨、筆、水さしのような文房具のほかに、土鍋、食料品、せんべい蒲団、入口にかけるカーテンまで持ち込む必要がある。そこで点検がすめば見送りの人に別れてみずからこの重い荷物を肩にかついで場内へ進入する。
 大門を入ったところで身体検査があり、四人の兵卒が同時に1人の挙子の着衣を上から下までなでまわし、荷物をあけさせて内容を調べる。書物は言うに及ばず、文字を書きこんだ紙片は持込み厳禁で、もしそれを発見した兵卒があれば銀三両を賞に与えられるというので、取調べは厳重をきわめ、饅頭を割って中の餡まで調べると言われる。しかしどうしてか、カンニング用の虎の巻などがともすると厳重な係員の目をくぐって場内に入ることも珍しくない。ひどい時には、本屋が一軒できるほどたくさんの書物がもちこまれたとか。」宮崎市定『科挙 中国の試験地獄』中公新書15、1963年、pp.57-68. 

 20世紀のはじめの清末まで科挙が行われていたということも、なかなか感動的だ。テキストが決まっていて、それを必死で勉強し誰でも受験するチャンスがあり、そこで合格すれば社会で輝かしい未来が約束されるという制度は、若者に大きな希望を与える。今の大学入試と違う点は、その試験が非常に厳密な牢獄のような閉鎖的な施設で、数日間寝食を費やして答案を筆記するものであったこと、その審査も選ばれた審査官が罐詰になって不正が起こらないように監視されながら行っていたこと。それでも、さまざまな不正行為が起こっては処罰されたこと。そういうこと自体が、科挙を通過した進士の栄誉と評価を保証していたことだ。
 日本では結局、個人のもつ能力主義、実力主義というものが、政治組織のなかで正当に評価されるシステムはなかったのではないか、と思う。もちろん、科挙の評価基準がきわめて偏狭な受験技術にすぎなかったことは、今も考慮に値するとは思うけれど。


B.コロナウイルスの笑劇
 今の日本で現実に起きていることは、かなり笑える段階に来たと思う。年末に中国武漢で危ない新型ウイルスが広がり、そこに日本人も企業進出していて逃げた方がいい、ということになり政府はチャーター便を手配する。帰ってきた日本人は、感染を危惧して千葉県のホテルに2週間の隔離を行なう。これでいったんは大丈夫だとメディアも報道したが、航海中の豪華観光クルーズ船に感染者がいたことが判明し、香港で下船したものの、沖縄、そして横浜に停留した数千人の乗客に感染の可能性があり、二週間はそのまま部屋に拘留して検査することになった。
 しかし、タクシー運転手など感染者が国内で次々に判明。感染経路も捕捉できないうちに、クルーズ船客の拘束も限界になってきて、検査で感染が確認されない陰性の人々を、日本社会の市民として開放した。そして、今起きている事態は、このウイルスの蔓延という現実に、われわれの社会が完璧に対処し抑え込むことは不可能だということだ。
 
「クルーズ船 下船後また陽性:新型コロナウイルスの感染拡大が続き、25日午後11時半までに、国内で新たに11人の感染が確認された。北海道5人、愛知県3人、長野県1人、徳島県1人、熊本県1人で、長野、徳島両県での感染確認は初めて、北海道では35人となった。
 徳島県では、集団感染が起きた大型クルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号から下船した同県藍住町の60代の女性が、検査で陽性だったことがわかった。船内で検査を受けた際には陰性だったという。四国での感染確認は初めて。
 長野県で感染が確認されたのは、松本保健所管内に住む会社役員の60代男性。県によると、男性は今月14~17日に北海道に、17~19日に東京都内に滞在。25日に検査で陽性反応が出たという。
 北海道では20代~70代の男性3人と、20代と60代の女性各1人の感染が確認された。このうち60代女性は札幌市在住で、24日に感染が公表された市内の70代女性の友人という。名古屋市は、市内の70代女性2人と40代女性1人が感染したと発表した。いずれも容体は安定しているという。熊本市では、60代女性の感染が確認された。熊本県内で初めて感染が確認された20代女性看護師の母親という。
 4人目の死者
 ダイヤモンド・プリンセス号で、厚生労働省は25日、乗船していた東京都の80代の日本人男性の乗客が入院先の医療機関で死亡したと発表した。クルーズ船に乗っていた人で亡くなったのは4人目。
 厚労省によると、男性は症状があり、9日に船から医療機関に搬送。肺炎がみつかり、10日に新型ウイルスの感染が確認され、25日に死亡が確認された。死因は肺炎。男性には糖尿病の持病があったという。23日に死亡が確認された別の80代の日本人男性は、乗客で新型ウイルスに感染していたことを明らかにした。クルーズ船関連の重症患者は25日時点で37人という。
 さらに加藤勝信厚生労働相は25日の衆院予算委員会の分科会で、同船の下船後、健康状態の確認をしている乗客のうち、28人に発熱などの症状があることを明らかにした。このうち7人がすでに検査を受けたか、受ける予定という。7人のうち3人は陰性。陽性は1人で下船後に感染が確認され、栃木県が発表した同県在住の60代女性という。

 千葉の患者 同じジム利用
 千葉県は25日、県内でこれまでに新型のコロナウイルスによる肺炎患者と診断された11人のうち、3人が施設にいた時間帯には計約600人の利用者やスタッフがおり、県は「濃厚接触者」にあたるとして健康観察をする。
 施設は「エース〈アクシスコア〉市川店」。県によると、3人の利用時間帯は、15日午後1時45分~3時半▽16日午後0時半~4時▽18日午後1時半~5時。
 店は3月3日まで自主的に営業を休止。館内の消毒をする。」朝日新聞2020年2月26日朝刊35面社会欄。

 先週ぼくは、よく行くスポーツジムに行って1時間半ほど運動をした。もしそこにコロナウイルスに感染した人がいたとしたら、感染している可能性は高い。筋トレ器具はいろんな人が手にし汗もつく。隣で運動している人の息や飛沫は浴びる。でも、たぶん今度のウイルスは高熱の肺炎をもたらすかもしれないが、基本的な体力と免疫力がある健康な人には、致命的なダメージにはならないと思われる。だからぼくは、この事態がなにも心配いらないというのではなく、感染症の暴威というものが、今まで安定した社会の常識を信じてはいけない時代がくると思う。
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教育制度と試験について1 科挙  ステム教育 

2020-02-24 00:23:49 | 日記
A.「科挙」について
 中国歴代王朝が行なった官吏登用試験「科挙」のことは、世界でもまれな統一筆記試験として知られている。でも、それが具体的にどのようなものであったかは、あまり知られていない。日本語で読める「科挙」の解説で代表的なものとして、京都大学名誉教授で中国史研究者の宮崎市定氏(1901-1995)の『科挙 中国の試験地獄』中公新書1963.があったので、読んでみた。中国は日本のように武士階級や世襲貴族が権力を握った時代は少なく、広大な中国を支配した王朝では、皇帝に仕える文官が大きな地位と名誉と富を占めていた社会だった。その官吏になるには、全国の秀才が大試験場に集まって、数日間の泊まり込みの試験に合格する必要があった。
 何を試験したのかというと、八歳くらいから始める「学問」なのだが、この「学問」というのは古典文献の勉強のことで、まず文字の読み書きを覚え、「千字文」という二百五十字の韻文をマスターし、やがて古代の聖人の書物「四書五経」の儒教経典の読解と有名な詩や文章を規則通りに書けるようになること、科挙の試験範囲はこの範囲に限られる。十五歳くらいまでにこの古典教育学習を終えれば、それぞれの県にある国立学校の三年に二回行われた入試(県試・府試)を受ける。これに通って生員という学生にならないと、上の科試、郷試という本番の科挙を受ける資格が得られない。何歳でもどんな出身でも受験できるが、かなりの集中的な勉強を要するから、家庭がそれを許すだけの経済的文化的な環境をもった子弟に生まれないと合格は難しい。浪人を続けて30,40歳になってしまう人もいたという。
 メインのテキストである「四書五経」は、論語(11,705字)、孟子(34,685字)、大学、中庸(これは後の礼記に含まれる)が四書で、易経(24,107字)、書経(25,700字)、詩経(39,234字)、礼記(99,010字)、左伝(196,845字)が五経になる。合計で431,286字になる。これをほとんど暗誦するうえに、他の古書籍、歴史書や文学書も読んで試験に備える

 「中国の政治思想によると天子なるものは天から委任をうけて、天下の人民を統治する義務を負わされたものである。
 しかし天下は広く人民は多いから、とうてい一人で統治することはできない。いきおい人民のなかから助手を求めて、その仕事の一部を分担せざるをえない。それがすなわち官吏であり、官吏の良し悪しは政治上に影響すること重大であるから、人民のなかの最も賢明なものを登用しなければならない。それがためには万人のなかから公平に人物を採用する試験制度こそ最良の手段だ。こうして科挙が始まったのである。
 これは実にすぐれたアイディアである。そしてこの科挙制度の成立したのが、いまから1400年ほど前の587年だということは、驚くべき事実である。
 なぜなら第六世紀はヨーロッパでいえばゲルマン民族移動の大混乱がようやくおさまりかけた頃で、中世的な封建諸侯の割拠、その花形である騎士道の黄金時代はこのあと長い時代をかけて展開されるからである。ところが中国では、封建諸侯にも比すべき特権貴族の黄金時代はこの頃すでに終りを告げて、それに代わる新しい社会の胎動がきざしていた。科挙の制度も、単なる儒教の理念から形成されたものでなく、実際政治の必要に促されて、歴史の動きのなかから生まれ出たものなのである。
 それまでの中国は貴族主義全盛の時代といわれ、地方に有力な貴族群が根をはってはびこり、帝王権力もこれには一目おかないわけにはいかなかった。彼らは地方の州を単位として、そこにいわば貴族連合政権ともいうべき地方政府を形成した。その要職はすべて土着の帰属によって独占され、ただ長官だけが中央政府から任命されるので、かろうじて全体的に統一国家らしい体面を保っているだけである。
この貴族群は地方政府を足場として、もし風向きがよければ中央政府へ進出して重く用いられるが、具合が悪くなれば地方へ引きこもって蟄伏しながら、おもむろに再起を計ろうとする。中央政府はこうした貴族たちの鼻息をうかがわなければ、円滑にその政治を行なうことができない。そこで貴族はますます図にのって、自分たちの家柄は天子のそれよりも古いと自慢しあい、天子の権利をないがしろにすることさえもしばしばであった。
 このような貴族のわがままにがまんしきれなくなったのが隋の文帝である。彼は地方政府に対する世襲的な貴族の優先権をいっさい認めず、地方官衙の高等官はすべて中央政府から任命派遣することに改めた。このためには中央政府が常に多量の官吏予備軍を握っていなければならないが、この官吏有資格者を製造するために科挙制を樹立したのである。
 すなわち年々中央政府が全国から希望者を集めて試験を行ない、種々の科目に及第した者に、秀才・明経・進士などの肩書をあたえて有資格者と定め、必要に応じて各地の官吏に任用するのである。中国では官吏登用のことを選挙というが、試験には種々の科目があるので、科目による選挙、それを略して科挙という言葉が唐代になって成立した。その後、宋代に入ってから科目は進士の一科だけに絞られたが、依然として科挙という言葉を使って清朝の末年に及んでいる。
 このように科挙なるものは、がんらいは天子が貴族と戦うための武器として案出されたものであったが、その任務はおおよそ次の唐代三百年ほどの間にほぼ果たされたと見てよい。次の宋代になるともはや世上には天子に刃向かうほど強力な貴族はいなくなり、科挙の全盛時代に入る。天使は自分が思うまま自由にこき使える官吏を、科挙によって十分に補給することができなのである。宋一代、科挙出身の政治家が自由に手腕を振るうことができ、中国史上はじめて見られる文治派の政治が完成されたのであった。
 しかし同時にこの頃から、官吏登用ははたして科挙のような試験制度にばかり頼っていてよいかという反省が生じた。北宋中期に出た有名な政治家王安石は科挙出身であったが、もっと進んだ考えを出して学校制度をはじめ、官吏は試験で採用するばかりでなく、あらかじめこれを学校で教育しておかなければならぬと考えたのである。いまから考えてみると、科挙制度はこの時代に、学校制度にその地位を譲っておくべきだったのである。
 宋を亡ぼしたモンゴル人の元王朝は、はじめは武力一点ばりで、学校にも科挙にも少しも興味をもたなかった。しかし征服された中国人の間には、科挙への郷愁のやみがたいものがあった。そのうち元王朝も少しずつ中国化してくると、中国人の切なる希望もあって、四十年ほど中絶していた科挙が小規模ながら再興されて、元の滅亡する直前まで続いた。
 モンゴル人を北へ追い払って中国人の中国を回復した明の太祖は、学校と科挙とを併用する政策をたてた。全国に学校をたて教官を任命し、そこで十分に教育した上で、生徒のなかから優秀な者を科挙の試験によって抜擢しようというのである。ところが不幸にしてこの政策は時間がたつ間に骨抜きにされてしまった。金のかかる学校教育が有名無実になってしまい、学校における試験が、しだいに科挙の試験の踏み台にされるようになると、それは始めから終わりまで試験だけの連続という、きわめて好ましからざる制度に変形してしまったのである。
 清朝は明代の科挙制度をそのまま踏襲した。ただし科挙も過去に長い歴史をもつようになると、しだいに弊害が積み重なってきたので、清朝はなるべくその弊害を矯正しようと努力した。しかし、単に試験に不正をなくして公平を図ることのみを目指したので、その結果は試験の上にさらに試験を重ねることになり、ますます試験の負担を増すだけであまり効果をあげることができなかった。そして清朝も末年になると、弊害の方がいよいよ募るばかりで、ついには世間からも愛想をつかされるようになった。
 そこへ押しよせたのがヨーロッパ新文明の波である。ヨーロッパの文明は学校でなければとうてい教育できない自然科学、実験、工作の要素を含んでいる。そこで清朝政府もついに兜をぬいで、1904年を最後の年として、以後は科挙を行なわぬことに定めた。
 ただし科挙通過者の称号たる進士の名は、なお引き続いてこれを用い、大学卒業者、あるいは海外留学からの帰朝者に対し、その学歴に応じてあたえることにした。奇抜なのは、日本の服部宇之吉博士が清朝に招かれて京師大学堂の師範教習に任じられ、1909年帰国の際に、進士の称号を贈られたことである。朝鮮には、中国へ入って実際に科挙を受けて進士となった者があるが、日本では唐代に阿倍仲麻呂がはたして進士になったか疑わしいのを除き、ただ服部博士だけが科挙制度崩壊直後に進士となったのである。ただしこれは余談。
 以上は主として天子の側から科挙制を眺めたのであるが、これを人民の側から、受ける人の立場として見ると、また異なったニュアンスが出てくる。科挙は天子がせっかくこのように広く一般人民に門戸を開いて人才を求めるのだから、これに応じて存分の才能を伸ばしてみるのは男子生涯の壮挙といってよい。ただしこれも立派に言おうとすればそうなるのであるが、実際は何よりも就職の便利のためである。旧中国において何がもうかるといって、官吏となるほど得な職業は外にない。しかもそれが名誉とあわせて実益をつかむのだからたまらない。
 科挙の始まった六、七世紀の頃からのち数百年間は、官吏となる以外に利殖の道が少なく、下って明代頃から商売に身をいれれば、らくに暮らせるような世のなかになったが、しかし商人では肩身がせまい。その上、大商売をしようとすればどうしても身を卑下しつつ官辺と連絡をとらねば不便なので、そんな屈辱をしのんで金をもうけるよりも、官吏そのものになって堂々と幸運をつかむのが一番賢いやり方なのである。
 そこで世人が争って科挙の門をめがけて殺到するから、広い門もだんだん狭くなる。競争が激しくなればなるほど、それに打ちかつには単なる個人の才能よりも、、個人を取り巻く環境が大いに物をいうことになる。もし同程度の才能に生まれついていれば、貧乏人よりは金持ちが有利、無学な親をもつよりは知識階級の家に生まれた方が有利、片田舎よりも文化の進んだ大都会に育った方が有利だということになる。その結果として文化が地域的にいよいよ偏在し、富もまたいよいよ不公平に分配されるようになる。
 中国は土地が広く人口も多い。そのなかから、最も環境に恵まれ、才能に富んだ人たちが集まって必至の競争を展開するのだから、科挙はますますむつかしい試験になる。試験地獄がもし起こらなかったら、その方が不思議であろう。」宮崎市定「科挙 中国の試験地獄」中公新書15、1963.pp.2-7. 

 科挙の試験を巡る受験生や家族の悲喜劇は、多くのエピソードとして残されている。この本のなかにもいろいろ紹介されているが、科挙を受け続けて七十歳、八十歳になる人もいたらしく、その歳で合格したとしても、もう役人として赴任し勤務することは無理だから、名誉学位的に資格だけあげたりもしたという。儒教の経典の一字一句に通暁していないと合格しない科挙だが、それが官僚としての有能さに直結するとは限らないとぼくたちは思う。しかし、選抜試験などというものは、人間の能力のある特殊な部分だけを基準にして、人を選り分けるだけのものだと思えば、漢詩文の読み書きだけをひたすら競い合う科挙も、中国という社会の文化的基幹を作ったと同時に、弊害も数々あったと思われる。


B.ステム教育?の目指すもの
 21世紀の未来を拓く教育、という謳い文句で「ステム教育」というスローガンが、叫ばれていて文科省もどうやら推奨するつもりらしい。どんなものかというと…

 「世界と日本 大図解シリーズ No.1445         STEM教育 「分かった」その先へ 
教育の枠組みを超えた学びとして注目されている「STEM教育」を知っていますか。Science, Technology, Engineering, Mathmaticsの頭文字から取られています。今の子どもたちには知識や技能を学ぶだけではなく、それらを活用して問題を解決したり、新しい価値を創造する力が求められています。ITC(情報通信技術)も積極的に活用した総合的な学びを紹介します。
 1なぜ必要なの?・・国内外の研究で、10~20年後、今ある職業の半分はAI(人工知能)やロボットに代替されると予測されている。そういう世の中になってもイノベーション(技術革新)をもたらす人材を育てる教育として注目を集めており、国家戦略と位置付けている国もある。
 2好奇心を刺激する授業・・ステム(STEM) 数学や科学の基礎を学ぶだけではなく、技術や工学的なアプローチで、社会問題の解決や技術革新をもたらす人材育成のため必要とされる教育。理数系の教育分野が主となる。
 3これからの日本・・2020年4月から、小学校でプログラミングが必修に。自治体によってIC機器の導入や教員の研修などにばらつきがあるのが課題となっている。学びの効率を上げるためのキーワード:*アクティブラーニング・・自学自習、生徒同士の協働による学びあい。従来の「一律・一斉・一方向型授業」より、学びの定着率が高いとされる。
*EdTech・アダプティブラーニング・・21世紀の学習教材、文具としてのICTの活用。個人の学習状況を把握しておのおのに合った学習計画を立てるのに役立つ(アダプティブラーニング)など一人も取り残さず、多様な学びを提供するのが目的。 

知って創る、創って知る  大谷忠
 科学(Science)、技術(Technology)、エンジニアリング(Engineering)、数学(Mathematics)を横断的・総合的に学ぶ「STEM」(ステム)教育が各国で進められています。このような教育の推進はSTEMにArts(アート・リベラルアーツ)を加えて「STEAM」(スティーム)教育にまで発展しようとしています。
 STEM・STEAM教育は米国を中心に世界各国で注目されている教育であり、日本でもSTEM教育を高校段階に取り入れることなども検討されています。このような教育が求められる背景にはAI(人工知能)やロボット、IoT(モノのインターネット)などの急速なテクノロジーの発達に伴い、われわれの生活がこれまでにない速度で大きく変化すると予想されている状況があります。
 またこれから急速に変化する社会は予測が困難な時代であり、このような時代にわれわれが生きていくためには貧困や飢餓、気候変動やエネルギーの問題のような迫りくる社会的な課題に対して、誰一人取り残さず、われわれが一人一人の問題として取り組み、課題を解決していくことが求められます。
 このような社会では未来の「ありたい姿」に向かって新しい価値を生み出すため、アートやエンジニアリングにおけるデザインや設計などの創る力が必要になってきます。また「ありたい姿」を描くためには、自由に発想できるための土台となる、もう一つのArts(リベラルアーツ)の内容を知ることも大切になります。さらに「ありたい姿」の中からあるべき姿を見つけ、社会課題の解決の実現を目指して創る活動の中で科学、技術、数学を知り、活用しようとする力も必要になります。
 このような創る活動と知る活動を何度も横断しながら、総合的に進めていく教育がSTEM・STEAM教育なのです。このような教育は、従来の学校で行われている総合的な学習を乗り越え、社会的な課題解決に向け、新しい価値を創造・実現できる確かな力を育成するものであり、これから求められる教育となるでしょう。(東京学芸大学大学院教授、東京学芸大こども未来研究所理事長)」東京新聞2020年2月23日朝刊、サンデー+テレビ版見開き1ページ。

 ステム教育(さらにアートを含めたSTEAM教育)とは、従来の教科枠を超えた総合的な学習や、アクティブ・ラーニングなどの教育手法をさらに強化した、創造的な能力を育成する教育ということらしいが、ぼくがこの説明を読むかぎり、要するに科学・技術・工学・数学という理系に偏した応用実践能力を早くから子どもに叩き込もうという思想が目立つ。それにおまけのように、デザインのような美的感覚をアートと呼んで飾ろうとする。本家のアメリカはともかく、日本のステム教育推進派は、人文的・社会科学的知はまったく無用なものとして蔑視しているかのようだ。社会的な問題をきちんと捉え、その歴史的文化的な価値観を深く考えて解決を探る能力は、このきわめて短期的・即自的技術でしかないステム教育からは決して生まれないと思う。
 いわば、現代の学校教育に持ち込まれている教育思想が、一見高度に知的なノーベル賞的成果をもたらす応用技術で何でも解決できるというテクノロジー信仰に冒されており、人間の生きかた・考え方の基本を形づくる教育をばかにして、数学と英語さえ教えれば、あとは実験・観察の面白さで創造的な能力が開発できるという悪しき教育に子どもたちを追いこむ気がして心配だ。理系学問に早くから有能な才能をもつ子は、そうたくさんはいない。教育資源を理数系能力に集中し、それを創造性だと考える教育は、不幸にして数学に喜びを触発されなかった多数派の子どもを脱落させる結果にならないだろうか。
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宇沢弘文『社会的共通資本』を読む 15 温暖化対策  本気?

2020-02-21 03:46:19 | 日記
A.地球温暖化とは
 2010年代に入った頃から、ぼくたちの生きている地球の自然環境はどうもそれ以前の常識が通用しない「異常気象」と地殻変動を、確かな知識として何も知らなくても体感するようになったと思う。夏の暑さは、毎度のことというレベルを超えて度を越した熱暑になり、温帯や亜寒帯だった各地でもクーラーがないために熱帯夜で死者が出る事態になった。毎年のように豪雨や台風の異常気象のために、今まではありえなかった水害・風害・地震・土砂崩れ・電気水道交通の遮断といった災害が多発した。それらはたまたま起きた例外的な災害ではなく、地球温暖化という人間がこの100年でやってきたことの結果であり、必ずしも予測不可能な出来事ではないと、ぼくたちは知りつつあるのではないか。ぼくたちが生活している地球の地表大気の平均気温が、じわじわと上昇していることはこれまでも指摘されてきた。それが未来にどんな影響を与えると予測されるかも、だいぶ前から語られてきた。しかし、各国政府をはじめ、世界の経済活動を担う権力と経済力をもつ人々は、この危機についてまじめに考えることに目をつぶってきた。目の前の金銭的利益と、できあがった既存の体制を壊さないように、いまの快適な生活を維持することだけに集中すれば、つぎの2020年代後半にどういう恐ろしい現実が待っているか、それは人間の想像力の質が問われる問題だと思う。

 「1980年代の終り頃から現在にかけての地球環境問題のうち、経済的、社会的な観点からもっとも重要な意味を持つのが、地球温暖化(Global Warming)である。
 地球温暖化の問題を考えるためにはまず、平均気温がどのようにして決まってくるかについて簡単な説明から始めることにしよう。
 ここで平均気温というのは、正確には地表大気平均温度(Global Averege Surface Air Temperature)といわれている概念である。地球の表面には約二千ヵ所の観測点が設置されていて、連続的に地表大気温度(気温)を測定している。海岸では、観測船が利用されている。この二千ヵ所に及ぶ観測点をいくつかのブロックに分けて、各ブロックごとに毎日の平均値が計算され、さらにブロックの平均値から、毎日の平均温度を求めて、地表大気平均温度が計測されている。
 地球の表面は、十キロメートルの厚さにわたって大気の層によって覆われている。地球全体の大きさからみれば、大気層は、地球という卵を覆っている薄い皮膜に相当する。
 太陽から放射されるエネルギーは電磁波として地球に向けられるが、大気に含まれるさまざまな化学物質によって吸収され、一部分だけが地表に到達する。
 太陽から放射される電磁波のうち、波長の短い紫外線は、大気上部の形成層にあるオゾン層にほとんど完全に吸収されて、地表には到達しない。生物が海から出て地上で生活することができるようになったのは、じつに成層圏に厚いオゾン層が形成されるようになってからである。
 太陽からの電磁波は、大気中を通過するとき、可視光線の部分はそのまま地表に到達するが、赤外線の部分は一部分大気中に存在する温室効果ガスによって吸収され、残りの部分が地表に到達し、吸収される。太陽の表面は六千度に達し、太陽から放射される電磁波はきわめて短いものが中心であるが、地球の表面は十五度前後であって、地表から放射されるエネルギーは赤外線の形をとる。この、地表から放射される赤外線はまた、一部分大気中の温室効果ガスによって吸収される。
 このようにして、大気中に存在する赤外線を吸収する化学物質の存在によって、大気は温室と同じような働きをすることになる。
 温室効果ガスは、水蒸気の他に、二酸化炭素、メタン、亜酸化窒素、フロンガスが存在するが、いずれもごく微量しか大気中には含まれていない。しかし、地表大気平均温度を十五度に維持するためには重要な役割を演じている。もし、大気中にこれらの温室効果ガスが存在しなかったとすれば、地球の平均気温が零下十八度になって、ほとんどの生物が快適な生存を続けることは不可能になってしまう。逆に、大気中の温室効果ガスがもっと大量に存在していたとすれば、平均気温は現在よりはるかに高くなってしまう。生物が存在することが困難になる。たとえば、金星の場合、その大気中には二酸化炭素が、地球大気の約九〇倍含まれていて、その平均気温は四百七十度の高温に達する。鉛が熱水のように流れ、硫酸の雨が降り注ぎ、とても生物が存在しうる環境ではない。
 温室効果ガスのうちでもっとも重要な役割を果たすのが、二酸化炭素(CO2)である。
 大気中の二酸化炭素は、産業革命の時代までは極めて安定的な水準に維持されていた。ほぼ六千億トンであって、二百八十ppmの濃度が保たれていた。しかし、産業革命以降の二百年ほどの間に、大気中の二酸化炭素は約25%増えて、現在の七千五百億トン、三百五十ppmの濃度になっている。
 産業革命は、科学、技術の急速な発展を契機として、規模の経済を最大限に利用する生産様式の普及という形で起こっていった。それは、石炭、石油などの化石燃料を大量に燃焼することによってはじめて可能となった。そのプロセスで、大量の二酸化炭素を大気中に排出することになったわけである。
 産業革命以降の大気中の二酸化炭素の増加はさらに、森林、とくに熱帯雨林の消滅によって惹き起こされた。森林を構成する樹木は、光合成作用を通じて、二酸化炭素を太陽エネルギーによって分解して、澱粉と酸素をつくり出す。森林はいわば、大気中の二酸化炭素を効果的に吸収する装置であるといってよい。
 しかし、産業革命を契機として工業化が急速に進むとともに、都市化もまたかつてないペースでおこなわれるようになった。その結果、大量の森林が伐採されてきた。とくに、第二次世界大戦後、発展途上国における経済発展が、工業化に偏っておこなわれ、それにともなう熱帯雨林の伐採が極めて大量におこなわれることになった。また、人口の増加が著しく、定住地のために森林が大量伐採され、住居、薪炭のためにもまた森林が伐採されてきた。またなによりも大きな要因は、先進工業諸国における材木に対する需要が、第二次世界大戦後の期間を通じて、異常に大きな水準に保たれつづけてきたことにある。また、対外経済援助の名のもとに、発展途上諸国の多くについて、熱帯雨林を大量に破壊して、環境破壊的な形で工業化がすすめられてきたこともあげなければならない。
 大気中の二酸化炭素は、温室効果ガスのうちもっとも重要な枠割を果たすもので、温室効果の半分以上を占める。フロンガスは二十世紀に入ってから人工的につくり出されたもので、それまで地球上に存在しなかった化学物質である。冷凍庫、エアー・クーラー、スプレーなどに用いられているが、温室効果だけでなく、オゾン層を破壊する。メタンは、動物の糞尿、水田、反芻動物、天然ガスの発掘などから発生する。水蒸気もまた温室効果を加速化する。一方、森林と海洋は、大気中の二酸化炭素を吸収し、地球温暖化を緩和する機能を果たす。
 国連によって創設されたIPCCの報告によれば、地表大気平均気温は、過去百年間に、〇・三度ないし〇・六度上昇したと推計されている。もし、地球温暖化が現在のペースで進行するとすれば、二〇二〇年には、平均気温は現在より〇・三度上昇し、二十一世紀の終わりにはニ~四度上昇すると予想されている。このように地球温暖化によって惹き起こされる気象の変化は大きい。
 地球温暖化は結局、石油、石炭などの化石燃料の大量消費と、森林、なかでも熱帯雨林の大量伐採とが、主な原因となっておこっている。
 地球温暖化を何とか防いで、安定した自然環境を長い将来にわたって守ってゆくためには、どのような道があるのであろうか。社会的共通資本の理論からただちに導き出されるのは、炭素税、二酸化炭素税、もっと広くとれば環境税の考え方である。
炭素税は、さまざまな生産の活動にさいして、大気中に放出される二酸化炭素の排出に対して、そのなかに含まれている炭素の量に応じて、一トンいくらというかたちで、徴収するものである。
炭素税の大きさは一体どのようにして決められるのであろうか。大気中の二酸化炭素の量がふえると、将来の平均気温が高くなって、気候条件の変化を生み出し、自然環境を変え、人々の生活環境にさまざまなかたちで好ましくない影響をもたらす。この、地球温暖化によって、人々の生活の実質的な水準が低くなる。この被害は、大気中の二酸化炭素の濃度が高くなればなるほど、大きくなる。しかも、二酸化炭素は大気中に何十年という長い時間にわたって残留、ずっと遠い将来の地球環境に影響を及ぼし、将来の世代にまで、地球温暖化の被害をもたらす。
 二酸化炭素の排出に対してかけられる炭素税の税率は、地球温暖化によって、将来の世代がこうむる被害の大きさを反映したものである。将来の世代が地球温暖化の影響をどのように評価するかについて、適当な前提条件をもうけることによって、炭素税の大きさについて推計することができる。
炭素税の制度を採用すれば、人々は、化石燃料の消費をできるだけ少なくするように努力する。また、都市をつくったり、新しい交通機関を設計するときにも、二酸化炭素の大気中への排出が少なくなるように配慮することになる。
 炭素税の制度はまた、森林についても適用される。森林を伐採したときに、二酸化炭素の放出の増加に見合う炭素税をかける。同じように、森林を伐採したときには、大気中への二酸化炭素の排出量の減少に応じて、補助金を出す。
炭素税の制度が、現実に実行可能な唯一の大気安定化政策である。しかし、経済学者、とくにアメリカの経済学者が提案している炭素税の制度は大きな欠陥をもっている。
  大気中の二酸化炭素は、はやい速度で地球上を循環する。したがって、経済学者が普通提案する炭素税の制度は、大気中への二酸化炭素の排出が、どの国でなされていても、同じ率の炭素税をかける。例えば、化石燃料を燃焼して、大気中に二酸化炭素を排出するとき、含有炭素一トン当たり百ドルの炭素税をかけるとする。化石燃料の燃焼が日本でおこなわれていても、また、インドネシア、フィリピンでおこなわれていても、一律に一トン当たり百ドルの税が課せられることを意味する。日本の場合、温室効果ガスの排出量は、一人当たりの二酸化炭素に換算して、ほぼニ・五トンであるから、一人当たりの炭素税支払いは二百五十ドルである。日本の一人当たりの国民所得一万九千ドルのうち、二百五十ドルの炭素税支払いは、ほとんど意識されないであろう。アメリカの場合にも、一人当たりの国民所得一万七千ドルのうち、炭素税支払いは三百四十ドルで、これも無視できる額である。ところが、インドネシアでは、一人当たりの国民所得は四百ドルで、そのうち炭素税支払いは三十ドルとなる。フィリピンの場合も同様で、一人当たりの国民所得五百ドルのうち、炭素税支払いは六十ドルという高い割合を占めることになる。
 一律の炭素税の制度は、国際的公正という観点から問題があるだけでなく、発展途上諸国の多くについて、経済発展の芽を摘んでしまう危険をもっている。炭素税の制度が提案されるとき、発展途上諸国がつよく反対するのは当然だといってもよい。」宇沢弘文『社会的共通資本』岩波新書、2000年、pp.222-229. 
  宇沢先生のこの本が書かれた20世紀最後の時代から、地球環境問題とくに地球温暖化対策については、その後のリオデジャネイロ環境会議でいちおう国際的な合意として、CO2削減の目標と炭素税の提案は、その責任を負う先進各国が、現実的な解決にむけて二酸化炭素排出の量を、取引するという形で取り組まれるところまではすすんだ。しかし、事態はそれで解決したとはとても言えない。現に地球温暖化の危機は、各地の甚大な災害としてぬきさしならないところまですすんでいる。

B.理系の哲学
 ぼくは、小中高と学校教育のなかで与えられた場所は、つねに「文科系」で、数学、物理、化学、生物の理系科目は苦手だった。実験、観察、測定、計算、それが嫌いになったのは、試験で少しもいい点が取れなかったからだ。でも、今思うと、世界を客観的に正確に把握するという態度は、じつは人間の精神活動としてきわめて面白いことなのだと思う。そしてそれを学校教育のなかで、いやなものだと思ってしまったぼくは、ずいぶん損をしたと思う。算数計算の早さとか、方程式の暗記とか、原子記号の並びとか、地球と人類の起源とかについて、ぼくは初めから興味をもつことを避けてしまっていた。地球に人類が登場したのは、たかだか1億年ほどのことで、記録された人類文明などごく最近の紀元前2千年にすぎない。キリストもブッダも結構最近の人で、理系の知識はそういう制約を超えて、太陽系の歴史をかえりみるとき、盛者必衰のことわりが、無時間的に意味をもってくる。

 「盛者必衰のことわり:福岡伸一の動的平衡 
 もし時間旅行ができるとしたらどの時代に行ってみたい?虫好きの私なら迷うことなく石炭紀と答える。恐竜が闊歩していたよりもさらに昔、今から3億年も前のこと。史上最大の昆虫が空を自由に飛び回っていた。巨大なトンボに似た生物メガネウラだ。翅(はね)を広げると75㌢。その姿を見てみたいのだ。
 当時、虫たちはみな巨大化していた。なぜか。酸素の濃度が今よりもずっと高かったからだとされる。効率よくエネルギーを生産できた。酸素を生み出したのは湿地帯に大繁茂していた植物群。梢は数十㍍の高さに及んだ。しかし盛者必衰の理。植物はCO2を吸収しすぎて地球は寒冷化に向かい氷河期を招いた。このときの森林堆積物がのちの石炭や石油となった。その後、また植物が繁栄した時代も繰り返しあったが、それが化石燃料にならなかったのは菌類が活躍しだしたからだ。菌類は偉大なる分解者として、植物や樹木を糖やアミノ酸に変え、環境の循環に戻してくれた。
 最後にこの星にやってきた独善的な生物が、我が物顔に資源を独り占めし、地球が蓄えていたエネルギーをあらかた掘り起こして燃やしてしまった。今度はCO2が増えすぎ、結果として起きているのが地球温暖化である。頼みの綱の森林もどんどん切り崩している。地球が健全な循環を取り戻すためには、この利己的な種に退場して頂くほかはない。」朝日新聞2020年2月20日朝刊、28面文化・文芸欄。

 この福岡氏の文章にぼくは、正確にいえば、歴史を抜きに一般化してはいけないと思う。特権的で独善的な生物「人間」が、過去この地球という星に蓄積されたエネルギーのもととなる資源を蕩尽したことを認める。たった100年で思うさま化石燃料となる資源を使い尽くし、まるで自然と資源を自分たちの欲望の満足と快楽のために、好きなだけ消費する不道徳な文明を、欧米先進国(日本も含む)の権力を握る傲慢な富裕層の罪深さは、今さら言うまでもない。だが、問題はそういう利己的権力者と富裕な資本家の愚かなふるまいにあるのではなく、その基礎を築いている社会の常識に、アートという空想的な営みがどれだけ抵抗し、積極的な美的価値を示せるか、それが勝負なのだ。
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宇沢弘文『社会的共通資本』を読む 14 地球環境危機  量子コンピューターの影響?

2020-02-18 14:09:26 | 日記
A.自然の上に社会がある
 1972年ストックホルムで最初の国連環境会議が開かれ、「かけがえのない地球 (Only One Earth)」をスローガンに113か国が参加した。この会議において「人間環境宣言」及び「環境国際行動計画」が採択された。これを実行するため、国際連合に環境問題を専門的に扱う国際連合環境計画 (UNEP) がケニアのナイロビに設立され、これは第三世界に本部を置いた最初の国連機関だった。国連環境計画(UNEP)はこのときに、この国連人間環境会議の決議により設立された。2017年にはケニア・ナイロビで第3回国連環境総会(UNEA3)、2019年同じくナイロビで第4回世界環境総会(UNEA4)が開かれた。そこでとりあげられた主要なテーマは三つ。
1. 持続可能な消費、生産とサプライチェーン
2. 生物多様性の損失と保全
 3. 気候変動
 である。宇沢弘文『社会的共通資本』(岩波新書)は2000年に刊行されたもので、21世紀のことは触れられていないが、現在これだけ深刻な環境問題、気候変動のもたらすグローバルな危機についてすでに経済学者として、明確な見通しを述べている。

 「環境問題に関する二つの国際会議
 環境と経済の関係について、この三十年ほどの間に本質的な変化が起こりつつあることを指摘する必要がある。この変化は、国連の主催のもとに開かれた環境問題にかんする二つの国際会議のテーマに象徴的に現れている。1972年、ストックホルムで開かれた第一回の環境会議と、1992年、リオ・デ・ジャネイロでの第三回の環境会議である。
 1960年代を通じて顕著にみられるようになっていった自然破壊とそれによって惹き起こされた公害問題は、歯止めのないかたちで進行していった工業化と都市化の必然的な帰結ともいえる性格をもっていた。当時、スウェーデンでは、五万を越える湖沼の大半が死んでしまったといわれていた。水質の悪化によって、魚やその他の生物が棲むことができなくなり、周辺の森林でも多くの樹木が枯れはじめた。その直接的な原因は酸性雨によるものであった。それは大部分、イギリスや東ドイツ、ポーランドなどの東欧の社会主義の国々における工業活動によって惹き起こされることが綿密な調査によって明らかにされていった。1972年、ストックホルムで開かれた第一回の国連環境会議は、公害問題の国際性に注目したスウェーデン政府の提案にもとづいて開催されたのである。
 ストックホルム環境会議の主題は公害問題であった。それは、日本における水俣病問題や四日市大気汚染公害に象徴されるように、産業活動の結果、自然環境のなかに排出される化学物質によって惹き起こされたのである。これらの産業廃棄物は、二酸化炭素、硫黄酸化物、有機水銀など、それ自体いずれも有害な物質であって、直接人々の健康を冒し、生物に被害を与える。
 1960年代から70年代にかけて世界的な拡がりをみた公害問題は、それによってもたらされる人間的犠牲の深刻さ、環境破壊の大きさの点から、これまでの人類の歴史において、平和時にはまったく経験しなかった規模をもつものであった。
 ストックホルム会議に象徴される公害問題に対する社会的関心は、産業活動のあり方に対して大きな反省を迫り、公害規制のためにさまざまな政策が実行され、数多くの制度的対応がとられることになった。その後、三十年ほどの期間に、産業活動にともなう公害に対して、かなりの効果的な規制がとられ、少なくとも資本主義の多くの国々については、工業化、都市化にともなう公害問題は基本的に解決の方向に進みつつあるといてよい。しかし、水俣病問題の例が示すように、1960年代の郊外によって惹き起こされた深刻な被害に対する本質的な救済はまだとられていない。また、発展途上国の多くについて、公害問題はいぜんとして未解決であるだけでなく、なかにはいっそう拡大化し、深刻化しつつある国も少なくないことを指摘しておかなければならない。
 1992年のリオ環境会議の主題は、地球規模における環境の汚染、破壊についてであった。地球温暖化、生物種の多様性の喪失、海洋の汚染、砂漠化などの問題である。なかでも、深刻なのは、地球温暖化の問題である。地球温暖化は、主として、化石燃料の燃焼によって排出される二酸化炭素が大気中に蓄積され、いわゆる温室効果が働き、地表大気平均気温の上昇を惹き起こすことによって、地球規模における気象条件の急激な変化をもたらすことにかかわる諸問題を指す。温室効果は、二酸化炭素の他に、メタン、亜酸化窒素、フロンガスなどのいわゆる温室効果ガスによっても惹き起こされる。これらはいずれも大気中にごく微量しか含まれていないが、地表大気平均気温の上昇に対してつよい効果をもつ。
 二酸化炭素をはじめとして温室効果ガスの大部分は化学物質としては無害であり、直接人体に影響を与えたり、動・植物に危害を与えるものではない。しかし、地球規模における蓄積が進むとき、地表大気平均気温の急激な上昇という温暖化現象を惹き起こす。
 森林の伐採もまた、地球温暖化を促進する。とくに熱帯雨林の急激な消滅は、植物の光合成作用による大気中の二酸化炭素の吸収効果の現象をもたらす。熱帯雨林の消滅はまた、生物種の多様性の喪失に対して決定的な影響を及ぼす。地球上には、一千万種に上る生物種が存在すると推定されているが、そのうち30%以上が熱帯雨林のなかにあるといわれている。しかも、その大部分はまだ同定されておらず、もし現在の時点で消滅してしまうと、永久に回復不可能となってしまう。
 熱帯雨林とその周辺に存在する多様な生物種が、人類の歴史において果たしてきた役割は大きいものがある。また、将来にわたって重要な意味をもちつづけることは確実といっていいと思う。米、小麦をはじめとして、農作物の大部分は、その原種が、森林、草原から求められたものである。農作物のなかで、病虫害によって全滅してしまったものが数多く存在するが、その多くは、森林のなかから、新しい生物種を見いだすことによって代替されてきた。また、現在用いられている衣料品の50%近くが、熱帯雨林ないしはその土壌に生存する微生物、生物を原材料としてつくり出されたものであるといわれている。
 森林の消滅
 FAO(国連食糧農業機関)の推計によれば、世界全体の森林(広義の)四十億ヘクタールのうち、年々二千万ヘクタール近くの森林が消滅しつつある。それにともなう地球温暖化効果と生物種の多様性の喪失とは、人類の生活にはかり知れない影響を及ぼすだけでなく、自然環境に不可逆的な変化をもたらすことになるのは確実である。
 リオ環境会議ではさらに、湿地帯の消滅、農地の塩化など、さまざまな環境問題が取り上げられたが、これらの諸問題は共通の基本的生活をもっている。それは、環境破壊の影響が必ずしも局所的に限定されるものではなく、また必ずしも現在の世代に直接影響を与えるだけでなく、もっぱら将来の世代に関わるものである。
 地球温暖化問題は、ストックホルム環境会議の主題であった公害問題に比較して、その深刻性、緊急性ははるかに小さく、その直接的な社会、政治への影響もまた軽微である。しかし、地球全体の気候的諸条件に直接関わりをもち、また、遠い将来の世代にわたって大きな影響を与えるという点からみて、決して無視することのできない深刻な問題を提起している。
 また、地球温暖化をはじめとして、地球環境全体に関わる問題は、その対応策もまた地球的規模をもたざるをえない。したがって経済的、社会的、政治的観点から、重要な意味を持ち、有効な対応策をとることは必ずしも容易ではない。
 持続可能な経済発展
 リオ環境会議で取り上げられた地球環境問題を中心とする環境破壊の問題は、持続可能な経済発展(Sustainable Economic Development)の概念によって統一的な視点が与えられることになった。この概念は、環境と経済の相関関係を考慮しようとするとき基本的な役割を果たす。
 持続可能な経済発展というとき、二つの意味において用いられる。一つは、定常状態に限定して考える場合と、もう一つは、定常状態にないときでも、環境と経済の相互関係が安定的に維持されている場合である。持続可能な経済発展の意味するところを考えよう。このとき、定常状態と経済発展という二つの概念が両立し得るかについて疑問が提起される。定常状態における経済発展はすでに、ジョン・スチュアート・ミルによって明確に提示されている。1848年に刊行されたミルの『経済学原理』は、古典派経済学を集大成した書物であるが、その最終章で、ミルは定常状態を説明して、つぎのように述べている。
 定常状態は、国民所得、相対価格体系、資源配分のパターン、名目的所得の分配などは時間を通じて一定水準に保たれていて、毎年毎年同じ状態が繰り返される。しかし、ひとたび経済社会の実態的側面に目を向けるとき、そこには多様な文化的、社会的活動が展開されていて、安定的な経済的条件のもとでゆたかな、人間的社会が具体化されている。
 ミルの定常状態は、市場経済制度の究極的な姿であり、ミルのいっていた理想主義的な世界観を具体化したものである。
 一般に、経済発展が持続可能であるというのは、自然環境の状態が年々一定水準に保たれ、自然資源の利用は一定のパターンのもとにおこなわれ、しかも、消費、生活のパターンが動学的な観点からみて最適(dynamically optimum)、かつ世代間を通じて公平(intergenerationally equitable)な経路を形成しているときであると定義される。この考え方について、果たして経済理論のなかで、厳密なかたちで定式化し、じっさいの制度的、制作的な面で有効に適用することが可能であろうか、という問題が提起される。この設問は、1848年、ジョン・スチュアート・ミルの『経済学原理』が出たときから、経済理論の分野で、重要な問題となってきた。」宇沢弘文『社会的共通資本』岩波新書、2000年、pp.215-221. 

 ここでミルの「定常状態」がとりあげられているが、地球の自然資源・環境として永遠の経済成長を目標とする社会が、現実的に不可能であり、早晩限界に達することを知るならば、「定常状態」を改めて構想する意味が振り返られるのは、ますます重要になるだろうし、現に議論はそこに達している。


B.量子コンピューターのもたらすもの
 先端科学の話は、肝心な技術の話になると専門的で、素人は「で、それでどうなるの?」と結論だけを聞きたがるものだ。専門知識のない一般人が、量子コンピューターがどういうもので、何ができて何ができないか、それが具体的にわれわれの生活にどんな影響を与えるのかは、専門家の解説を聞かないとわからない。新聞ジャーナリズムの科学記事は、そこのところを丁寧に解説してくれると、誤解や偏見にとらわれずにすむ。

「記者解説 量子コンピューターの胎動:暗号が無意味に 社会変える可能性 科学医療部 勝田敏彦
 初めてスパコン超え/ 米IT大手グーグルが昨年10月、開発している量子コンピューターで「世界最速のスーパーコンピューターが一万年かかる計算を200秒で終わらせた」と発表し、世界に衝撃が走った。英科学誌ネーチャーはこの成果を、ライト兄弟がエンジンつきの飛行機を初めて飛ばしたのに並ぶ「歴史的なできごとだ」と評価。発表に先駆けて英紙フィナンシャル・タイムズが特ダネとして報じたこともあり、大きな関心を集めた。
 この成果が、単にとても早いコンピューターが登場したということ以上の意味をもつのは、量子コンピューターが実用化されると、現在、インターネットで一般的に使われている暗号が破られてしまうなど社会を大きく変える可能性があることが理論的に分っているからだ。
 暗号は、私たちが意識しなくてもあらゆるところで使われている。メールの送受信のほか、インターネット経由の送金や電子商取引などだ。これらが安全にできるのは、通信が暗号化されているからにほかならない。
 その暗号が、もし簡単に破られてしまったら、通信の安全は崩壊する。個人情報は漏れ、国家の安全保障も危うくなる。もちろん、量子コンピューターの実用化はまだまだ先とみられるが、それでも発表後、ビットコインなど暗号技術を駆使して価値を担保している暗号資産(仮想通貨)の価格は軒並み急落した。
 まだ研究段階なのに、これほど話題になった量子コンピューターとは、どんなものなのか。
 「1」「0」どちらでも/ 現在のコンピューターは、スパコンでも電卓でも、電気が流れるか流れないかで数字の「1」と「0」を表して計算している。そろばんの玉のようなもので、専門用語でこれをビットと呼んでいる。
 そろばんだと、玉は上と下のどちらかに必ずあるが、電子や原子などミクロの世界の振る舞いを記述する量子力学では「上でもあるし、下でもある」状態がありうる。そんな「量子ビット」を利用するまったく別の原理の計算機を、米国のノーベル賞物理学者リチャード・ファインマンが1980年代に提唱した。
 普通の玉なら、ひとつで1か0かのどちらかしか表せないが、量子ビットの玉なら同時に「1も0も」2通りを表せる。二つあれば4通り、三つなら8通り、10個なら1024通りと、ねずみ算式に多くの状態を扱って高速に計算できる。だが、答えもたくさん出てしまい、絞り込むのにまた膨大な計算をしなければならないため、メリットはないと思われていた。
 潮目が変わったのは、米国の数学者ピーター・ショア氏が94年、量子コンピューターで、大きな数を素数のかけ算の形に分ける素因数分解を高速に計算できる方法を発見したときだった。
 というのも、現在使われている暗号は、「二つの大きな素数をかけ算してさらに大きな数にするのは簡単にできるが、元の二つの素数を知らずに、その大きな数を素数のかけ算の形に戻す計算はきわめて困難」という素因数分解の一方向性に頼っているからだ。
 数が大きくなると、計算はどんどん難しくなる。だが量子コンピュータがショア氏の計算法をできるようになると、素因数分解は短時間で終わり、暗号は安全ではなくなってしまう。
 ショア氏の発表以降、世界中の政府機関やIT企業が量子コンピューターの開発にしのぎを削るようになった。それでも、これまではごく小規模な実験的な量子コンピューターしかつくれず、実際に早い計算ができたと確かめられたことはなかった。
 だが今回、量子コンピューターの得意な問題だったとは言え、初めてスパコンを超えてみせた。
 実用化には10~20年/ ただ、すぐに実用化するというわけではなさそうだ。量子コンピューターの「1でも0でもある」という状態はノイズの影響を受けやすく、計算結果に誤差が出る。通常、コンピューターには繰返し計算をさせるが、その間に誤差が積み重なって使い物にならなくなってしまう。
 今回のグーグルの発表には反論もあり、ライバルのIBMは「スパコンで1万年かかる計算というのは言い過ぎで、2日半がいいところ」とコメントした。グーグルの研究者ジャロド・マクリーンさんも、論文発表後に東京で開かれたセミナーで「いったん盛り上がったとしても、これから(実用化まで長いトンネルに入る)失望の時期がくるだろう」と話した。
 本格的な量子コンピューターの実現には10~20年かかるとみられている。
 それでも、ライト兄弟の初飛行から20年あまりでリンドバーグが大西洋単独無着陸飛行に成功し、その後、世界的な航空ネットワークが生まれたように、今回の成果が突破口になる可能性も十分考えられる。
 そのためには誤差を修正する仕組みの実現や、より大規模な計算をするための集積化が必須と考えられている。
 量子コンピューターに期待がかかる分野の代表が化学の分野だ。分子や原子はまさにミクロの世界で、現実に「1でも0でもある」ような量子力学的な振る舞いが起こっている。
 大阪市大の杉崎研司特任講師は「グーグルは量子コンピューターが夢物語ではないことを示した。今回の数倍の規模で誤差の修正もできれば、スパコンでも歯が立たない化学計算ができるようになる」と期待する。
 英国のノーベル賞物理学者ポール・ディラックは1928年、「化学を支配する物理法則は完全に理解されているが、これらの法則を実際に応用しようとすると、あまりにも複雑で解けない方程式にたどり着く」という言葉を残した。量子コンピューターはこの言葉を過去のものにし、効率のよい電池の設計や分子レベルでの薬の効果の予測などに応用できるようになるかもしれない。」朝日新聞2020年2月17日朝刊、7面オピニオン欄。

 なるほど、そういうことか、と思うが、化学と物理の違いもぼくはよく解っていなかったと思う。量子コンピューターについて、日本はある程度世界水準の研究をしていたというが、いまは米中など他国に水をあけられているらしい。

 「日本、遅れる産業化 政府も「深刻」 米・カナダが先頭 中国も集中投資
 量子コンピューターで日本は基礎研究で強みを持っていたが、実用化や産業化では後れをとりつつある。
 NECは1999年、中村泰信・現東京大教授と蔡兆申・現東京理科大教授らが、自在にプログラムできる「万能型」量子コンピューターの基礎をつくり、ネイチャーに発表した。東京工業大の西森秀稔教授らが98年に発表した理論は、投資資金をうまく配分して利益を最大にするような問題を解く「特定用途型」の開発に応用されている。
 一方、量子コンピューターが実現しても安全な「量子暗号」の研究も進んでいる。東芝は1月、2020年度から米国で事業を始めると発表した。江島克郎サブマネジャーは「量子コンピューターが新しい技術の刀だとすると、量子暗号は盾だ」と話す。
 ただ、量子コンピューターの実用化ではグーグルやIBM、カナダのベンチャー企業D-Waveなどが世界の先頭を走っているほか、中国も集中的な投資をしている。
 政府の統合イノベーション戦略推進会議が1月21日に決めた「量子技術イノベーション戦略」は「研究者の層は諸外国に比べて薄い」とし、「実用化や産業化の遅れは極めて深刻な状況」と危機感をあらわにした。府省がばらばらに研究開発を進め、統一的な戦略や継続性がなかったことなどが原因とされる。
 蔡教授は「米国は将来性を見込んで継続的に投資してきたが、日本は『新しいことをやれ』と言うばかりで継続性がなかった。そんなに新しいプロジェクトばかりできるわけがない」と嘆く。
 グーグルがネイチャーに発表した論文の査読者の一人だった大阪大の藤井啓祐教授は「かつてこの分野で大きな優位性をもっていた日本の企業も、経済の後退とともに基礎研究を縮小させてしまった。このままでは存在感がなくなる。人材をどう育てていくかが課題だ」と指摘する。」朝日新聞2020年2月17日朝刊、7面オピニオン欄。

 国が限られた予算をどこに注ぎ込むか、先端科学や技術開発には莫大な資金が必要となるから、国家予算の主力を軍事費に費やすか、医療福祉費におくか、科学の研究開発費にかけるかは、結局ときの政治家たちの選択判断による。日本は、かつては経済的な余裕があっただろうし、軍事費を抑えていたから、教育・科学研究にもある程度予算を回していたのだろうが、21世紀に入って、基礎研究や次世代研究者の育成にかける予算を削る方向になっているようだ。これは将来に禍根を残す可能性がある。政治家の広い視野と優先順位の冷静な判断が求められる。
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宇沢弘文『社会的共通資本』を読む 13  地球温暖化  「夢で逢いましょう」のこと

2020-02-15 13:31:02 | 日記
A.地球温暖化に無力な経済学
 先頃、世界経済フォーラム(WEF)第50回年次総会(ダボス会議)で注目を集める17歳の環境活動家グレタ・トゥンベリさんに、地球温暖化に関連付けて経済問題を論じる資格があるだろうかと、ムニューシン米財務長官は批判を一蹴した。グレタさんの活動で活発になった気候変動の経済学を巡る議論について、ムニューシン氏は23日にコメントを求められ、「彼女はチーフエコノミストなのか」と問いかけた。「大学に行って経済学を学んで、その後で私たちに説明できるようになるだろう」と話した。トランプ氏は21日のスピーチで、環境活動家を「われわれの生活のあらゆる側面をコントロール」しようと心に決めた「人騒がせな人々」と批判。これを受けてムニューシン長官は、気候変動に対する政権の姿勢を繰り返し説明している。「われわれの見解について、間違った解釈がある。米政権はきれいな空気ときれいな水が大切なものだと固く信じている」と同長官は述べた。グレタさんはスピーチで、ダボスに集まったエリートたちの「空虚な言葉と約束」は気候変動について何もしないのに等しいと、厳しく批判していた。
 「きれいな空気ときれいな水」が大切、という問題としか捉えていないとしたら、米政権は地球温暖化という問題を理解していない。気候変動は企業活動で空気や水が汚れる短期的な公害問題などではなく、地球全体の気温が上昇するという長期的な環境問題なのだ。米財務長官は、若いグレタに「大学に行って経済学を学んで、その後で言え」環境活動家は、学位をとってから言え、と言ったという。ムニューシン長官は自分が学んだ市場原理優先のエコノミストのネオコン経済学を学んでほしいだろうが、彼女がもし大学で経済学を学んでも、地球環境を破壊する経済学ではなく、あるべき未来を展望するオルタナティヴな経済学に到達すると思う。

 「自然環境は、経済理論の中でどのように位置づけたらよいであろうか。自然環境は具体的には、森林、草原、河川、湖沼、海岸、海洋、水、地下水、土壌、さらには大気などを指す。また、森林、草原などに生存する様々な動・植物もすべて自然環境の一部である。
 自然環境を構成する具体的な構成要素はこのようなかたちに分類されるが、自然環境というとき、これらの構成要素のいくつかが相互に密接に関連した、一つの全体としてとらえる。たとえば、一つの森林をとったとき、たんに森林を構成する樹木だけでなく、伏流水として流れる水、さまざまな微生物をもつ土壌、そこに生存する動・植物などを統合して、一つの総体としての森林を自然環境、あるいはたんに環境という概念としてとらえているわけである。
 自然環境は、経済理論でいうストックの次元をもつ概念である。自然環境を構成するさまざまな希少資源の多くはまた、生産、消費などさまざまな経済活動にさいして、不可欠な役割を果たす。このような意味で、自然環境が果たす経済的役割に焦点を当てるとするとき、自然資本という表現を用いることがある。
 自然環境について、もっとも特徴的な性質は、その最生産のプロセスが、生物学的ないしはエコロジカルな要因によって規定されていることである。一つの森林を自然資本としてとらえて、たとえば、樹木の総重量によってそのストックをはかることにしよう。森林のストックが時間的経過にともなってどのように変化するであろうか。森林を構成する個々の樹木がどのようなペースで成長し、あるいは枯れてゆくかによってはかられる。それは、個々の樹木の種類、年齢に依存するとともに、森林のなかに存在する水の流れ、土壌の性質、さまざまな動・植物、微生物の活動によっても影響される。
 同じような現象は、他の自然環境についてもみられる。よく引用されるのは漁場である。経済学では、ある一つの、明確に境界をつけられた漁場を自然環境としてとらえて、そのストックの量を漁場に存在する魚の数ではかる。単純化のために、魚は一種類として、年齢構成は問わないことにする。この漁場における魚の再生産のプロセスは、魚の餌となるプランクトン、小魚などがどれだけ存在するかに依存するだけでなく、水温、海水の流れ、沿岸のエコロジカルな諸条件、場合によっては上流の森林の状態によっても左右される。
 このようにして、自然資本のストックの時間定型化にともなう変化は、生物学的、エコロジカル、気象的な諸条件によって影響され、きわまて複雑な様相を呈する。したがって、自然資本の時間的変化率は、経済理論がもっぱら対象にしてきた、工業部門における「資本」の減耗あるいは資本とは本質的に異なる性質をもつ。
 自然環境を自然資本としてとらえるとき、規模の経済あるいは外部(不)経済の概念もまた、経済理論における伝統的な概念とは本質的に異なる。
 規模の経済について考察するために、まず、森林を例にとってみる。森林のストックかりに、その面積ではかるとして、森林の面積が二倍になったときに、さまざまな経済活動の過程における森林の果たす役割は何倍になるであろうか。たとえば、森林という自然資本から、木材という産出物が生産されるとする。まったく同じ面積をもつ同じ樹相をもった二つの森林を一緒にしたとする。年々生産される木材の量は二倍になるであろうか。ここでも、工場生産を中心とする経済理論の常識をそのまま適応することはできない。しかし、森林を自然資本としてとらえたとき、この点にかんする分析は、統計的にも、実証的にも十分に満足できるようなかたちではなされていない。
 同じ問題は、外部(不)経済についても指摘される。一般に、自然環境を自然資本としてとらえたとき、ある水準までは外部経済が働くことは否定できない。そして、その水準を超えたときは、外部不経済の現象がみられると考えてよいであろう。
 また、環境の果たす経済的役割を考察するとき、自然環境を構成するさまざまな要素の間に存在する、錯綜した相互関係を無視することはできない。森林の経済的機能を考えるとき、水の流れ、さまざまな樹木の間の相互関係、土壌の性質、森林に生存するさまざまな生物、微生物の間には複雑な関係が存在し、森林の果たす経済的機能に対して大きな影響を与える。そこには、工場生産のプロセスにみられるような決定論的、機械論的な関係を想定することはできない。とくに、気象条件の及ぼす影響を考慮に入れる時、自然環境の果たす経済的役割は本質的に統計的、確率論的な意味をもつことを指摘しておきたい。
 自然環境と人類の生存
 自然環境はなによりも、人間が生存し、生活を営むに欠くことのできない役割を果たす。
 人間をはじめとしてすべての生物が生存しうるために大気の存在が不可欠であることはいうまでもない。地表を包む大気をもつ天体は、これまで地球のほかにあまり多くは見つかっていない。地球が誕生してから四十六億年の長い年月が経ったが、その間に、数多くの偶然が重なって、地表を数十キロメートルにわたって覆う大気が形成された。その大気は水蒸気、酸素、窒素を主要成分として、二酸化炭素、メタンなどのいわゆる温室効果ガスがごく微量ではあるが存在して、地表大気平均気温を十五度(摂氏)前後に保たれることによって、赤道近くまで温まった湿気を含んだ大気が上昇して、地表のいたるところに降雨をもたらす主要な原動力となってきた。降雨のかたちで、水が地表のいたるところに循環することによって、土壌、森林、草原が形成され、さまざまな生物が生存しうる条件がつくり出され、地球上にはいたるところに美しい自然が形成されている。私たちの知っている天体のなかに、このような美しい自然がつくり出されている例は、地球のほかに存在しない。
 自然環境を経済学的に考察しようとするときに、まず留意しなければならないのは、自然環境に対して、人間が歴史的にどのようなかたちで関わりをもってきたかについてである。この問題は、広く、文化をどのようにとらえるかに関わるものであって、狭義の意味における経済学の枠組みのなかに埋没されてしまってはならない。
 「文化」というとき、伝統的社会における文化の意味と、近代的社会において用いられる意味との間に本質的な差異が存在することをまず明確にしておきたい。
 1854年、アメリカ・インディアンの酋長シヤトルがいったといわれるつぎの言葉は象徴的である。
 「白人がわれわれの生きかたを理解できないのはすでに周知のことである。白人にとって、一つの土地は、他の土地と同じような意味をもつ存在でしかない。白人は夜忍び込んできて、土地から、自分が必要とするものを何でもとってしまう余所者にすぎないからである。白人にとっては、大地は兄弟ではなく、敵である。一つの土地を征服しては、また次の土地に向かってゆく。……白人は、自らの母親でも、大地でも、自らの兄弟でも、また空までも、羊や宝石と同じように、売ったり、買ったり、台なしにしてしまったりすることのできる「もの」としか考えていない。白人は、貪欲に、大地を食いつくし、あとには荒涼たる砂漠だけしか残らない」
  (中略)
 伝統的社会では、「文化」はつぎのような意味をもつ。「社会的に伝えられる行動様式、技術、信念、制度、さらに一つの社会ないしはコミュニティを特徴づけるような人間の働きと思想によって生み出されるものをすべて含めて、一つの総体としてとらえたもの」を意味する。他方、近代社会においては、「文化」は「知的ならびに芸術的な活動」に限定して考えるのが一般的である。
 マサイ族の若者が「文化」というときには、同年代の若者たちのことを想起し、伝統的な制度のもとで、社会がどのように組織され、自然資源がどのように利用されているかに思いをいたす。しかし、北ヨーロッパの人々が「文化」というときには必ず、芸術、文学、音楽、劇場を意味している。
 環境の問題を考えるとき、宗教が中心的な役割を果たす。宗教は、自然をつくり出し、自然を支配する非人間的な力の存在を信じ、聖なるものをうやまうことだからである。
 自然環境が文化、宗教とどのような形で関わっているかによって社会全体が規定されているといってもよい。また、ある一つの社会において、自然とみなされているものが、他の社会では、「文化」と考えられる。またケニアやタンザニアのマサイ族には、宗教に対応する言葉は存在しなかった。宗教は自然そのものと同一視されているからである。伝統的社会においては、「文化」は、自然、宗教、文化を総体としてとらえたものになっている。
 自然と人間との間の相関関係が具体的なかたちで表現されるのは、自然資源の利用という面においてである。伝統的社会では、人やものの移動がきわめて限定されているため、生活を営む場所で利用可能な自然資源に頼らざるをえない。したがって、これらの自然資源の枯渇はただちに、伝統的社会の存続自体を危うくする危険を内在している。伝統的社会の文化は、地域の自然環境のエコロジカルな諸条件にかんして、くわしい深い知識をもち、エコ・システムが持続的に維持できるように、その自然資源の利用に関する社会的規範をつくり出してきた。
 自然資源の利用にかんして、長い、歴史的な経験を通じて知識が形成され、世代から次の世代に継承されていった。自然環境に関する知識と、その世代間を通ずる伝達によって、文化が形成されると同時に、文化によって新しい知識が創造されてゆく。何世代も通じて知識が伝達されてゆくプロセスで、社会制度がつくり出される。そして、日常的ないし慣行的な生き方が、社会的制度として確立し、一つの文化を形成することになる。
 自然と人間との間の相関関係がどのような形で制度化されるかによって、人間と人間との間の社会的関係もまた規定されることになる。どのような自然資源を、どのようなルールにしたがって利用すべきかが文化の中心的な要素となる。したがって、年長者の教示ないしは指示に重点が置かれ、自然資源の利用は、社会のすべての構成員に対して公正に、また利用可能となるような配慮が、どの伝統的社会についても充分払われている。
 伝統的社会では、自然資源を持続的なかたちで利用するのは、また将来の世代だけでなく、他の伝統的社会を考慮に入れて、自然資源の保全をはかってきた。
 人間の移動が自由になるとともに、文化、宗教、環境の乖離は拡大化されていった。とくに、ヨーロッパ諸国によって、アフリカが植民地化されるプロセスを通じて、資源の搾取がより広範な地域でおこなわれるようになり、伝統的社会のもつ、それぞれの限定された地域に特定化された知識は無視され、否定されていった。アフリカ以外の大陸でも事情は同じであった。伝統的な自然環境と密接なかかわりをもつ知識は、経済発展の名のもとに否定され、抑圧されていった。
 ハイデンライヒ=ホールマン論文で、近代キリスト教の教義が、自然の神聖を汚し、伝統的社会における自然と人間との乖離をますます大きなものにしていった経緯がくわしく論ぜられていることは興味深い。キリスト教の教義が、自然に対する人間の優位にかんする論理的根拠を提供し、人間の意志による自然環境の破壊、搾取に対してサンクションを与えた。と同時に、自然の摂理を研究して巧みに利用するための科学の発展もまたキリスト教の教義によって容認され、推進されていった。
 ルネッサンスは人間の復興であったが、それは自然の凋落を意味している。近代思想の発展はさらに、人間の優位を確立し自然の従属性に拍車をかける。フランシス・ベーコンにとっては、すべての創造物は人間との関係においてのみ意味をもち、自然は天からの賜物であって、物理学と化学を中心とした科学の発展を通じて、そのゆたかな収穫を搾取されるものにすぎない。ルネ・デカルトはさらに極端なかたちで論議を進めていった。デカルトの機械論的、決定論的世界観にもとづけば、自然は、数学的な法則にしたがって機械的に動く存在であり、自らの意志をもたず、受動的な存在にすぎない。自然の価値は、人間にどれだけの効用をもたらすかによってはじめてはかることができるとされていた。自然を抑圧し、搾取することに対してなんら制約条件はもうけられるべきではない。
 自然の手段化は、アダム・スミスの経済学によって、その極限の段階に入っていった。そこでは、自然だけでなく、人間自身もまた、経済的利益の追求の前にその尊厳性を失って、すべてが生産手段として、経済活動の手段を果たすものとなっていったのである。
 科学が、宗教、文化とまったく独立なものとして展開され、経済学が普遍的な思想を形成するとともに、産業革命の可能性が現実のものとなっていった。化石燃料の大量消費によって惹き起こされつつある地球温暖化の現象は、まさに産業革命の必然的帰結に他ならない。」宇沢弘文『社会的共通資本』岩波新書、2000年、pp.204-214. 

 人間中心主義と他の動植物を含む自然の手段化、という問題は、ユダヤ=キリスト教という宗教のもつ文化に由来するとしても、それが極端に地球全体を危機に陥れたのは、やはり「近代」が生んだ資本主義のもたらしたものであることは、疑いない。だとすれば、問題は資本主義を前提に人類社会の進歩を追求する経済学自体を考え直すしかないのではないか。


B.アメリカン・ポップスの時代
    NHKで「夢であいましょう」という番組が放映されたのは、1961年4月8日から1966年4月2日までの5年間、毎週土曜日22時台に日比谷会館、日比谷第1スタジオ(H-1)から生放送されていた。毎月1曲、永六輔作詞・中村八大作曲による「今月のうた」が作られ、ここからたくさんのヒット曲が世に生まれ出た。ヒット作として、「上を向いて歩こう」(歌:坂本九、1961年10月と11月)、「遠くへ行きたい」(歌:ジェリー藤尾、1962年5月)、「故郷のように」(歌:西田佐知子、1962年12月)、「おさななじみ」(歌:デューク・エイセス、1963年6月)、「こんにちは赤ちゃん」(歌:梓みちよ、1963年7月)、「ウエディング・ドレス」(歌:九重佑三子、1963年11月)など。番組には毎回ごとのテーマが設けられて、これに沿ったショートコントで進行し、その合間に踊りやジャズ演奏、外国曲の歌唱などが挿入された。歌手のコント出演や、コメディアンの歌唱などの企画は、後続のバラエティショー番組の原型となった。 
      初代ホステスの中嶋弘子が番組冒頭で上半身を右に傾けてお辞儀をするテレビ用の挨拶は、視聴者の話題になった。番組オープニングタイトルは繊維会社で宣伝部に在籍していた吉村祥が担当し、毎回趣向を凝らしていた。中嶋はその後、結婚の為に1965年3月をもって番組を降板。番組が終了するまでの1年間は、レギュラーの黒柳徹子が替わって司会を務めた。中学生だったぼくも、毎週必ず見ていたから、いろいろな記憶が今も残っている。とくに、そこで歌われた音楽が、基本的に従来の演歌歌謡曲ではなく、アメリカのジャズやポップスの匂いがしていたことが新鮮に思っていた。日本にアメリカン・ポップスが定着したのは、この時期のことだったと思うが、はじめはアメリカのヒット曲を日本語にして日本の歌手に歌わせることで、当時のぼくたちのような団塊世代の少年少女の心をとらえたのだと思う。その歌手のひとり梓みちよさんが亡くなった。

 「梓みちよさんを悼む 「こんにちは赤ちゃん」伝えた時代:北中正和(音楽評論家)
 また一人、昭和の空気を伝える歌手が亡くなった。梓みちよ。享年76.洋楽のカバー曲から「二人でお酒を」のような大人の歌まで、多彩な歌謡曲をアルトな歌声でポップにうたった人だった。しかし誰の耳にも残っている歌は「こんにちは赤ちゃん」だろう。NHKの番組「夢であいましょう」で紹介されたこの曲は、5万枚がまずまずのヒットと言われていた1963年に、ミリオンセラーを記録した。
 番組の構成作家でもあった永六輔と、ジャズ畑出身の中村八大のコンビによるこの歌は、若い母親が赤ちゃんに語りかけるホームソング調の明るい作品だった。
 コンクリート建築の団地が次々に生まれ、核家族化が進み、消費社会の到来が告げられていた時代。音楽では戦後アメリカ文化の申し子だったロカビリーブームが、洋楽曲の日本語カバーポップスに引き継がれたころだ。そのブームを仕掛けた渡辺プロダクションと契約した彼女も、最初は「恋はボッサ・ノバ」をはじめとするカバー曲をうたっていた。
 ほぼ同世代では、橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦・吉永小百合らの「青春歌謡」がヒットしていた。レコード会社専属のベテラン制作陣が作るそれらの歌に対して、永六輔や中村八大はフリーの立場から、洋楽の感覚を引き継いだ曲で新風を吹き込んだ。
 「こんにちは赤ちゃん」がヒットするまで、「ママ」という呼称は外国の象徴としてのアメリカや都会の限られた人たちの言葉だった。はじめて聞いたとき、赤ちゃんに向かって「たまにはパパとママの二人だけにして」と語りかける発想の新しさに驚くと同時に、まぶしい気恥ずかしさもおぼえたものだ。「こんにちは赤ちゃん」が爆発的にヒットし、昭和天皇の前でもうたわれたのは、この歌が明るい未来の社会を予祝するものとして聞かれたからだろう。63年は永六輔・中村八大・坂本九による「上をむいて歩こう」が全米ナンバーワン・ヒットになった年でもあった。
 しかしこの歌は彼女の歌手としてのイメージを制限することにもなった。後に「二人でお酒を」などの大人の歌でイメージチェンジに成功してからの彼女は、この歌を遠ざけていた。その封印が解かれたのは21世紀になってからのことだった。少子化の時代にどう聞かれていくのだろうか。(寄稿)」朝日新聞2020年2月14日朝刊28面文化・文芸欄。

 「ママ」「パパ」の呼称は、たしかにぼくたちの世代では、恥ずかしくてちょっと使えなかった。みんな「おかあさん」「おとうさん」「母(かあ)ちゃん」「父(とう)ちゃん」「おふくろ」「おやじ」だった。その後、一般庶民も「ママ」「パパ」をふつうに使うようになったのは、この歌のせいもあるだろうな。おしゃれでカッコイイと思えば、少年少女はどんどん言葉を使っていって定着する。
     「夢であいましょう」には、若くて活きのいい歌手、タレント、芸人が代わる代わる出演していたので、ぼくはその画面でのちに有名になる人たちと顔見知りになった。NHK専属タレント、黒柳徹子のほか、渥美清、谷幹一といった浅草出身芸人、E・H・エリック、岡田真澄の兄弟、三木のり平やフランキー堺のような名優、デューク・エイセス、そして坂本九、田辺靖雄、九重佑三子、坂本スミ子、大阪の西野バレエ団出身の金井克子、由美かおる、奈美悦子など、当時の芸能界のフレッシュな人材が次々登場して、歌だけでなくコントもやっていた。
 梓みちよさんは、「こんにちは 赤ちゃん」が大ヒットしすぎて、他の印象が飛んでしまったのは皮肉だけれど、あの豊かさに向かう明るく幸福な時代の象徴でもあったなあ。
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