A.人新世(Anthropocene)って何?
ソ連崩壊から30年が経ち、日本ではもう社会主義だの共産主義だのといった話はだあれもしない。それは昔そんなものもあったのか…という過去の記憶になり、若い世代はかつての左翼が何を考え何を主張していたのかも、聞いたことがないから知らない。もしそんな話をすれば、時代遅れの「昭和ノスタルジーじいさん」として端から聞く耳はもたないだろう。しかし、いちおう20世紀の歴史を一通り知っていてものを言うのと、何も知らないでものを言うのとでは説得力が違うし、たとえば『資本論』にどういうことが書いてあるかは読まないとわからないが、読まないでマルクスについて云々しても、まともな議論はできない。そして、この30年、マルクス主義的大きな物語は意味を失ったと言って、もっぱら目先の些末な現象を技術的にどう処理するかばかり考えてきたのが日本の現状で、すべては新自由主義的市場原理と経済成長の追求だけを目標にしてきた結果、地球規模の環境危機という問題は、考えてもしょうがない、お手上げ棚上げのお話しにしてしまった。
そして、欧米ではすでにマルクスの読み直し、資本主義というものの再検討が現在の危機を切り拓くという思想動向が強まっているというのが、今話題の斎藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社新書・2020)である。ということでぼくもいちおう読んでみた。まず冒頭。「人新世」というのは耳慣れない言葉だが、今がそうだという。
「人類の経済活動が地球に与えた影響があまりに大きいため、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンは、地質学的に見て、地球は新たな年代に突入したと言い、それを「人(ひと)新世(しんせい)」と名付けた。人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代という意味である。
実際、ビル、工場、道路、ダムなどが地表を埋めつくし、海洋にはマイクロ・プラスチックが大量に浮遊している。人工物が地球を大きく変えているのだ。とりわけそのなかでも、人類の活動によって飛躍的に増大しているのが、大気中の二酸化炭素である。
ご存じのとおり、二酸化炭素は温室効果ガスのひとつだ。温室効果ガスが地表から放射された熱を吸収し、大気は暖まっていく。その温室効果のおかげで、地球は、人間が暮らしていける気温に保たれてきた。
ところが、産業革命以降、人間は石炭や石油などの化石燃料を大量に使用し、膨大な二酸化炭素を排出するようになった。産業革命以前には280ppmであった大気中の二酸化炭素濃度が、ついに2016年には、南極でも400ppmを超えてしまった。これは400万年ぶりのことだという。そして、その値は、今この瞬間も増え続けている。
400万年前の「鮮新世」の平均気温は現在よりも2~3℃高く、南極やグリーンランドの氷床は融解しており、海面は最低でも6m高かったという。なかには10~20mほど高かったとする研究もある。
「人新世」の気候変動も、当時と同じような状況に地球環境を近づけていくのだろうか。人類が築いてきた文明が、存続の危機に直面しているのは間違いない。
近代化による経済成長は、豊かな生活を約束していたはずだった。ところが、「人新世」の環境機器によって明らかになりつつあるのは、皮肉なことに、まさに経済成長が、人類の繁栄の基盤を切り崩しつつあるという事実である。
気候変動が急激に進んでも、超富裕層は、これまでどおりの放埓な生活を続けることができるかもしれない。しかし、私たち庶民のほとんどは、これまでの暮らしを失い、同生きのびるのかを必死で探ることになる。
このような事態を避けるためには、政治家や専門家だけに危機対応を任せていてはならない。「人任せ」では、超富裕層が優遇されるだけだろう。だからよりよい未来を選択するためには、市民の一人ひとりが当事者として立ち上がり、声を上げ、行動しなければならないのだ。そうはいっても、ただやみくもに声を上げるだけでは貴重な時間を浪費してしまう。正しい方向を目指すのが肝腎となる。
この正しい方向を突き止めるためには、気候危機の原因にまでさかのぼる必要がある。その原因の鍵を握るのが、資本主義にほかならない。なぜなら二酸化炭素の排出量が大きく増え始めたのは、産業革命以降、つまり資本主義が本格的に始動して以来のことだからだ。そして、その直後に、資本について考え抜いた思想家がいた。そう、カール・マルクスである。
本書はそのマルクスの「資本論」を折々に参照しながら、「人新世」における資本と社会と自然の絡み合いを分析していく。もちろん、これまでのマルクス主義の焼き直しをするつもりは毛頭ない。150年ほど眠っていたマルクスの思想のまったく新しい面を「発掘」し、展開するつもりだ。
この、「人新世の『資本論』」は、気候危機の時代に、より良い社会を作り出すための想像力を解放してくれるだろう。」斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社新書、2020,pp.4-7.
カール・マルクス(1818-1883)は、19世紀半ばのヨーロッパで活動し『資本論』などの著作を残した思想家だが、なにしろ当時の西欧は経済も社会も今とはだいぶ違っていた。それでも、彼が生きたドイツやフランス、そして『資本論』を書いたイギリス(ロンドン大英博物館に通って書いたといわれる)は、産業資本主義の経済システムの勃興期であったし、それが基本的に現在まで続いているという意味では、問題は繋がっていると考えてもいいだろう。そして、従来は注目されてこなかった、晩年のマルクスのなかに21世紀の人類が直面する問題へのヒントがあるという。
「「人新世」の環境危機においては、資本主義を批判し、ポスト資本主義の未来を構想しなくてはならない。だが、そうはいっても、なぜいまさらマルクスなのか。
世間一般でマルクス主義といえば、ソ連や中国の共産党による一党独裁とあらゆる生産手段の国有化というイメージが強い。そのため、時代遅れで、かつ危険なものだと感じる読者も多いだろう。
実際、日本では、ソ連崩壊の結果、マルクス主義は大きく停滞している。今では左派であっても、マルクスを表立って擁護し、その知恵を使おうとする人は極めて少ない。
ところが、世界に目を向けると、近年、マルクスの思想が再び大きな注目を浴びるようになっている。資本主義の矛盾が深まるにつれて、「資本主義以外の選択肢は存在しない」という「常識」にヒビが入り始めているのである。先述したように、アメリカの若者たちが「社会主義」を資本主義よりも好ましい体制とみなすようになっているという世論調査のデータもある。
ここから先は、マルクスならば、「人新世」の環境危機をどのように分析するのかを明らかにし、そして、気候ケインズ主義とは異なる解決策へのヒントも提示していこう。
もちろん、古びたマルクス解釈を繰り返すことはしない。新資料も用いることで、「人新世」の新しいマルクス像を提示するつもりである。
▼〈コモン〉という第三の道
近年進むマルクス最解釈の鍵となる概念のひとつが、〈コモン〉、あるいは〈共〉と呼ばれる考えだ。〈コモン〉とは、社会的に人々に共有され、監理されるべき富のことを指す。20世紀の最後の年にアントニ・ネグリとマイケル・ハートというふたりのマルクス主義者が、共著『〈帝国〉』のなかで提起して、一躍有名になった概念である。
〈コモン〉は、アメリカ型新自由主義とソ連型国有化の両方に対峙する「第三の道」を切り開く鍵だといっていい。つまり、市場原理主義のように、あらゆるものを商品化するのでもなく、かといって、ソ連型社会主義のようにあらゆるものの国有化を目指すのでもない。第三の道としての〈コモン〉は、水や電力、住居、医療、教育といったものを公共財として、自分たちで民主主義的に管理することを目指す。
より一般的に馴染みがある概念としては、ひとまず、宇沢弘文の「社会的共通資本」を思い浮かべてもらってもいい。つまり、人々が「豊かな社会」で暮らし、繁栄するためには、一定の条件が満たされなくてはならない。そうした条件が、水や土壌のような自然環境、電力や交通機関といった社会的インフラ、教育や医療といった社会制度である。これらを、社会全体にとって共通の財産として、国家のルールや市場的基準に任せずに、社会的に管理・運営していこうと宇沢は考えたのである。〈コモン〉の発想も同じだ。
ただし、「社会的共通資本」と比較すると、〈コモン〉は専門家任せではなく、市民が民主的・水平的に共同管理に参加することを表現する。そして、最終的には、この〈コモン〉の領域をどんどん拡張していくことで、資本主義の超克を目指すという決定的な違いがある。
▼地球を〈コモン〉として管理する
実は、マルクスにとっても、「コミュニズム」とは、ソ連のような一党独裁と国営化の体制を指すものではなかった。彼にとっての「コミュニズム」とは、生産者たちが生産手段を〈コモン〉として、共同で管理・運営する社会のことだったのだ。
さらに、マルクスは、人々が生産手段だけでなく地球をも〈コモン〉(common)として管理する社会を、コミュニズム(communism)として、構想していたのである。
事実、『資本論』第一巻の末尾の有名な一節で、マルクスは次のように述べている。「収奪者が収奪される」ことによってコミュニズムの到来を描く、「否定の否定」と呼ばれる箇所だ。
この否定の否定は、生産者の私的所有を再建することはせず、資本主義時代の成果を基礎とする個人的所有をつくりだす。すなわち、協業と、地球と労働によって生産された生産手段をコモンとして占有することを基礎とする個人的所有をつくりだすのである。(「資本論」第1巻)
「否定の否定」とはどういう意味か、簡単に説明しておこう。一段階目の「否定」は、生産者たちが〈コモン〉としての生産手段から切り離され、資本家の下で働かなくてはならなくなったことを示している。だが、二段階目の「否定」(「否定の否定」)においては、労働者たちが資本家による独占を解体する。そして、地球と生産手段を〈コモン〉として取り戻すというのである。
もちろん、これだけではまだ抽象的な図式にすぎない。だが、マルクスの主張は明快である。コミュニズムは、無限の価値増殖を求めて地球を交配させる資本を打倒する。そして、地球全体を〈コモン〉として、みんなで管理しようというのである。
▼コミュニズムは〈コモン〉を再建する
こうした〈コモン〉をめぐるマルクスの基本的な発想を重視する姿勢は、ネグリとハートのふたりに限らず広く共有されたものである。例えば、ジジェクも〈コモン〉に言及しながら、コミュニズムの必要性を訴えている。
ジジェクによれば、「文化というコモンズ」、「外的自然というコモンズ」、「内的自然というコモンズ」「人間そのものというコモンズ」の四つのコモンズの「囲い込み」が、グローバル資本主義のもとで人々に敵対する形で進行しているという。それゆえ、今の時代に「コミュニズムという概念の復活を正当化するのは、(中略)『コモンズ』を参照することによってである」とジジェクも述べている。
ジジェクが言うように、コミュニズムとは、知識、自然環境、人権、社会といった資本主義で解体されてしまった〈コモン〉を意識的に再建する試みにほかならない。
あまり一般には知られていないことだが、マルクスは〈コモン〉が再建された社会を「アソシエーション」と呼んでいた。マルクスは将来社会を描く際に、「共産主義」や「社会主義」という表現をほとんど使っていない。代わりに使っていたのが、この「アソシエーション」という用語なのである。労働者たちの自発的な相互扶助(アソシエーション)が〈コモン〉を実現するというわけだ。
▼社会保障を生み出したアソシエーション
このような意味での〈コモン〉は、21世紀に入ってからの新しい要求ではない。今、国家が担っているような社会保障サービスなども、もともとは人々がアソシエーションを通じて、形成してきた〈コモン〉なのである。
つまり、社会保障サービスの起源は、あらゆる人々にとって生活に欠かせないものを、市場に任せず、自分たちで管理しようとした数々の試みのうちにある。それが20世紀に福祉国家のもとで制度化されたにすぎないのだ。
この点について、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの文化人類学者デヴィッド・グレーバーは次のように述べている。
ヨーロッパにおいて、のちに福祉国家となる主要な制度—―社会保険や年金から公共図書館や公共医療までのすべて――のほとんどが、その起源をたどれば、政府ではまったくなく、労働組合、近隣アソシエーション、協同組合、労働者階級政党、あれこれの組織にいたりつく。これらの多くが、「古い外皮のうちにあたらしい社会を建設する」、すなわち、下から社会主義的諸制度を徐々に形成していくという自覚的な革命的プロジェクトに関与するものであった。(D・グレーバー『官僚制のユートピアーテクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』2017)
クレーバーによれば、アソシエーションから生まれた〈コモン〉を、資本主義のもとで制度化する方法のひとつが、福祉国家だったのである。しかし、1980年代以降、新自由主義の緊縮政策によって、労働組合や公共医療などのアソシエーションが次々と解体もしくは弱体化され、〈コモン〉は市場へと吞み込まれていった。
ここで、新自由主義に抗して、福祉国家に逆戻りしようとするだけでは不十分な対抗策にしかならない。高度経済成長や南北格差を前提とした福祉国家路線は、気候危機の時代にはもはや有効ではなく、自国中心主義的な気候ケインズ主義に陥るのが関の山だ。それは気候ファシズムになだれ込んでいく危険性と隣り合わせである。
しかも国民国家の枠組みだけでは、現代のグローバルな環境危機には対応できない。福祉国家に特徴的な国家による垂直的な管理も、〈コモン〉の水平性とは相容れない。
つまり、単に人々の生活をより豊かにするだけでなく、地球を持続可能な〈コモン〉として、資本の商品化から取り戻そうとする、新しい道を模索せねばならない。
そのためには、大きなビジョンが必要だ。だからこそ、まだ誰からも提示されていないマルクス解釈が、「人新世」という、環境危機の時代に求められるのである」斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社新書、2020,pp.140-147.
〈コモン〉が再建された社会「アソシエーション」をどのように実現するか、「コミュニズム」と「ソーシャリズム」のちがいはなにか?確かにマルクスは『共産党宣言』は書いたけれども、あれは政治的マニフェストであって、そこでコミュニズムとは何かははっきり言っていない。もう少し先を読んでみる。
B.この夏
コロナ・パンデミックは、ぼくたちの期待に反していっこうに収まりそうもない。緊急事態宣言などなにをやるんだかわからなくなって、日本中が漂流してしまう気分だ。政府の見通しはほとんど外れまくって、医療体制は崩壊寸前。猛暑の中で水害災害も頻発している。もうこれは、一時的な非常事態などではなく、恒常的な危機である。それでもこんな最中に、無観客とはいえオリンピックも高校野球もパラリンピックも予定通りやってしまうというのだから、誰も首相のいうことなんか信用しない。
「豪雨・コロナ禍…無力感の夏 「モダン」の生き方 棚卸しを 神里達博
今回は、7月以降の出来事を振り返ることから始めてみたい。
まず確認しておきたいのは、7月3日に熱海市で起きた土石流をはじめとする、豪雨災害が各地でまた繰り返されてしまったことだ。ありばんがしょうりし
毎年、夏になると、どこかで川が氾濫し、山が崩れ、家が泥水にのみ込まれ、尊い命が奪われている。どう考えても、かつての「異常気象」が「日常化」している。地球温暖化、気候変動の影響は、すでに懸念の段階を超えて、日本の抱えるリスクの上位に位置づけられるようになったと考えるべきだろう。
そしてオリンピックは、世論の反対がありながらも開催されたが、競技が始まるとアスリートの活躍に注目が集まった。とはいえ、同時に「デルタ株」の拡大によって感染者が急増し、現在の日本は、コロナ・パンデミックが始まって以来、最も深刻な状況となっているのは周知の通りである。
一方で、8月15日、驚くべきニュースが飛び込んできた。アフガニスタンのガニ大統領が隣国に逃れ、「タリバンが勝利した」とする声明を発表したのである。
ブラウン大学の調査によれば、あの「9.11テロ」以来、米国はアフガンでの戦争に200兆円もの巨費を投じてきたという。無数の命を犠牲にしてきたこの20年の戦いとは何だったのか。脱出を試みる人々の姿は、ベトナム戦争末期の「サイゴン陥落」と二重写しに見えた。
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以上、この夏に起きた出来事を、いくつか挙げてみたが、これらを重ね合わせてみると、ふと、「無力さを思い知らされた夏」という言葉が浮かんだ。
たとえば土木工事によって治山・治水を進めることは非常に重要である。それによって救われる命が確実に増える。しかし、温暖化の影響は今後もっと厳しくなると予測されている。この調子で豪雨が繰り返されると、だんだんと「賽の河原で石を積んでは、鬼に壊される童」のようになってくるのではないか。
また、私たちがパンデミックに投げ込まれてから、すでに1年半以上が経つ。もちろん、ワクチンの普及によって光明が見えてきてはいる。だが、変異株の登場で、また少し押し返されているようにも見える。
そもそも、なぜこのようなことが起きたのか。よりマクロな視点で考えてみれば、地球生態系における人類という種の、突出した繁栄に起因している、ともいえるだろう。
生息域を徹底的に拡大しつつ約80億にまで個体数が増えた、長距離移動を繰り返す「大型哺乳類」の生態に対し、上手に適応したウイルスが登場したと捉えるのが、「自然な」理解なのかもしれない。
短期間に次々と変異株が登場するのも、結局、感染者の数が多すぎるためである。このウイルスは人の細胞の中でしか変異しないからだ。
残念ながら、ウイルスの側から見れば、この世界は「カモ」だらけということなのかもしれない。
このような状況に対して、従来型の「医学の進歩」だけで対応しようとするのは、いささか無理があるのではないか、とも思うのだ。
一方でアフガニスタンの件は、また稿を改め、丁寧な議論をする必要があるだろう。だが、少なくともアメリカという国は長いこと、自由と民主主義を世界に広めるという理想を掲げてきた。今回の出来事は、その歴史に、大きな挫折の記録を追加することになったのは、確かであろう。
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このように、異常気象、感染症、戦争と、それぞれ全く別の話ではあるが、視野を広げて捉えれば、私たちが慣れ親しんできたこの近代という時代の生き方、いわば「モダンの作法」が、通用しなくなったようにも見えるのだ。
私自身、以前から時々表明している通り、モダンにどっぷり浸かって生きてきた人間だ。モダンの良いところを信じているし、他の時代に生まれたかったと思ったことはない。
しかし、そろそろ本当に、色々な点でモダンは続行不可能になってきているのかもしれない。
正直、この夏の日本は、政治の対応が何もかにも酷かったことも手伝って、どこか「世も末」な気分が広がっているようにも感じられる。とはいえ、やけっぱちになるのは全くの悪手である。
こんな時、私たちが真剣に行うべきことは、「モダンの本気の棚卸し」ではないだろうか。
科学的な態度や基本的人権、物質的な豊かさや清潔な暮らし、思想や政治、経済活動の自由、どれもそれ自体は素晴らしいことばかりだ。
ただ、いずれも、どこかに「ガタ」が来ている。どのくらいの修理が必要なのか。もう諦めなければならないレベルなのか。そこを一つ一つ、正確に見極めて、新しい時代に持って行く「アイテム」を取捨選択していくのである。
その際に警戒すべきは、表層的な「ノスタルジー」かもしれない。昔は良かったというのは簡単だ。だが、とりわけ最近の日本は、諸外国と比べても、前に進む勇気や気力に乏しいように見える。日本が丸ごと「次の時代に持って行けないアイテム」にならないようにしたいものだ。
私の思う一つの希望は、コロナ禍に伴うロックダウンで、排ガスが減り、空がきれいになったとの報告が世界中から寄せられたことだ。
まだ間に合うと、信じたい。」朝日新聞2021年8月27日朝刊13面オピニオン欄、月刊安心新聞+。
この国の政権与党は、改革とか進歩とか言ってなにかが変わるようなことを何度も選挙で言ってきたが、結果的にわかったことは、何も変わっていないどこか、昔の栄光を懐かしむ「ノスタルジー」に浸るばかりで「次の時代に持って行けないアイテム」としてさまざまな可能性を腐らせてしまった、と思う。