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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

マルクス・リニューアル 1 地球を壊す資本主義  この夏

2021-08-29 20:23:28 | 日記
A.人新世(Anthropocene)って何?
 ソ連崩壊から30年が経ち、日本ではもう社会主義だの共産主義だのといった話はだあれもしない。それは昔そんなものもあったのか…という過去の記憶になり、若い世代はかつての左翼が何を考え何を主張していたのかも、聞いたことがないから知らない。もしそんな話をすれば、時代遅れの「昭和ノスタルジーじいさん」として端から聞く耳はもたないだろう。しかし、いちおう20世紀の歴史を一通り知っていてものを言うのと、何も知らないでものを言うのとでは説得力が違うし、たとえば『資本論』にどういうことが書いてあるかは読まないとわからないが、読まないでマルクスについて云々しても、まともな議論はできない。そして、この30年、マルクス主義的大きな物語は意味を失ったと言って、もっぱら目先の些末な現象を技術的にどう処理するかばかり考えてきたのが日本の現状で、すべては新自由主義的市場原理と経済成長の追求だけを目標にしてきた結果、地球規模の環境危機という問題は、考えてもしょうがない、お手上げ棚上げのお話しにしてしまった。
 そして、欧米ではすでにマルクスの読み直し、資本主義というものの再検討が現在の危機を切り拓くという思想動向が強まっているというのが、今話題の斎藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社新書・2020)である。ということでぼくもいちおう読んでみた。まず冒頭。「人新世」というのは耳慣れない言葉だが、今がそうだという。

 「人類の経済活動が地球に与えた影響があまりに大きいため、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンは、地質学的に見て、地球は新たな年代に突入したと言い、それを「人(ひと)新世(しんせい)」と名付けた。人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代という意味である。
 実際、ビル、工場、道路、ダムなどが地表を埋めつくし、海洋にはマイクロ・プラスチックが大量に浮遊している。人工物が地球を大きく変えているのだ。とりわけそのなかでも、人類の活動によって飛躍的に増大しているのが、大気中の二酸化炭素である。
 ご存じのとおり、二酸化炭素は温室効果ガスのひとつだ。温室効果ガスが地表から放射された熱を吸収し、大気は暖まっていく。その温室効果のおかげで、地球は、人間が暮らしていける気温に保たれてきた。
 ところが、産業革命以降、人間は石炭や石油などの化石燃料を大量に使用し、膨大な二酸化炭素を排出するようになった。産業革命以前には280ppmであった大気中の二酸化炭素濃度が、ついに2016年には、南極でも400ppmを超えてしまった。これは400万年ぶりのことだという。そして、その値は、今この瞬間も増え続けている。
 400万年前の「鮮新世」の平均気温は現在よりも2~3℃高く、南極やグリーンランドの氷床は融解しており、海面は最低でも6m高かったという。なかには10~20mほど高かったとする研究もある。
「人新世」の気候変動も、当時と同じような状況に地球環境を近づけていくのだろうか。人類が築いてきた文明が、存続の危機に直面しているのは間違いない。
 近代化による経済成長は、豊かな生活を約束していたはずだった。ところが、「人新世」の環境機器によって明らかになりつつあるのは、皮肉なことに、まさに経済成長が、人類の繁栄の基盤を切り崩しつつあるという事実である。
 気候変動が急激に進んでも、超富裕層は、これまでどおりの放埓な生活を続けることができるかもしれない。しかし、私たち庶民のほとんどは、これまでの暮らしを失い、同生きのびるのかを必死で探ることになる。 
 このような事態を避けるためには、政治家や専門家だけに危機対応を任せていてはならない。「人任せ」では、超富裕層が優遇されるだけだろう。だからよりよい未来を選択するためには、市民の一人ひとりが当事者として立ち上がり、声を上げ、行動しなければならないのだ。そうはいっても、ただやみくもに声を上げるだけでは貴重な時間を浪費してしまう。正しい方向を目指すのが肝腎となる。
 この正しい方向を突き止めるためには、気候危機の原因にまでさかのぼる必要がある。その原因の鍵を握るのが、資本主義にほかならない。なぜなら二酸化炭素の排出量が大きく増え始めたのは、産業革命以降、つまり資本主義が本格的に始動して以来のことだからだ。そして、その直後に、資本について考え抜いた思想家がいた。そう、カール・マルクスである。
 本書はそのマルクスの「資本論」を折々に参照しながら、「人新世」における資本と社会と自然の絡み合いを分析していく。もちろん、これまでのマルクス主義の焼き直しをするつもりは毛頭ない。150年ほど眠っていたマルクスの思想のまったく新しい面を「発掘」し、展開するつもりだ。
 この、「人新世の『資本論』」は、気候危機の時代に、より良い社会を作り出すための想像力を解放してくれるだろう。」斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社新書、2020,pp.4-7. 

 カール・マルクス(1818-1883)は、19世紀半ばのヨーロッパで活動し『資本論』などの著作を残した思想家だが、なにしろ当時の西欧は経済も社会も今とはだいぶ違っていた。それでも、彼が生きたドイツやフランス、そして『資本論』を書いたイギリス(ロンドン大英博物館に通って書いたといわれる)は、産業資本主義の経済システムの勃興期であったし、それが基本的に現在まで続いているという意味では、問題は繋がっていると考えてもいいだろう。そして、従来は注目されてこなかった、晩年のマルクスのなかに21世紀の人類が直面する問題へのヒントがあるという。

 「「人新世」の環境危機においては、資本主義を批判し、ポスト資本主義の未来を構想しなくてはならない。だが、そうはいっても、なぜいまさらマルクスなのか。
 世間一般でマルクス主義といえば、ソ連や中国の共産党による一党独裁とあらゆる生産手段の国有化というイメージが強い。そのため、時代遅れで、かつ危険なものだと感じる読者も多いだろう。
 実際、日本では、ソ連崩壊の結果、マルクス主義は大きく停滞している。今では左派であっても、マルクスを表立って擁護し、その知恵を使おうとする人は極めて少ない。
 ところが、世界に目を向けると、近年、マルクスの思想が再び大きな注目を浴びるようになっている。資本主義の矛盾が深まるにつれて、「資本主義以外の選択肢は存在しない」という「常識」にヒビが入り始めているのである。先述したように、アメリカの若者たちが「社会主義」を資本主義よりも好ましい体制とみなすようになっているという世論調査のデータもある。
 ここから先は、マルクスならば、「人新世」の環境危機をどのように分析するのかを明らかにし、そして、気候ケインズ主義とは異なる解決策へのヒントも提示していこう。
 もちろん、古びたマルクス解釈を繰り返すことはしない。新資料も用いることで、「人新世」の新しいマルクス像を提示するつもりである。
 ▼〈コモン〉という第三の道
 近年進むマルクス最解釈の鍵となる概念のひとつが、〈コモン〉、あるいは〈共〉と呼ばれる考えだ。〈コモン〉とは、社会的に人々に共有され、監理されるべき富のことを指す。20世紀の最後の年にアントニ・ネグリとマイケル・ハートというふたりのマルクス主義者が、共著『〈帝国〉』のなかで提起して、一躍有名になった概念である。
〈コモン〉は、アメリカ型新自由主義とソ連型国有化の両方に対峙する「第三の道」を切り開く鍵だといっていい。つまり、市場原理主義のように、あらゆるものを商品化するのでもなく、かといって、ソ連型社会主義のようにあらゆるものの国有化を目指すのでもない。第三の道としての〈コモン〉は、水や電力、住居、医療、教育といったものを公共財として、自分たちで民主主義的に管理することを目指す。
 より一般的に馴染みがある概念としては、ひとまず、宇沢弘文の「社会的共通資本」を思い浮かべてもらってもいい。つまり、人々が「豊かな社会」で暮らし、繁栄するためには、一定の条件が満たされなくてはならない。そうした条件が、水や土壌のような自然環境、電力や交通機関といった社会的インフラ、教育や医療といった社会制度である。これらを、社会全体にとって共通の財産として、国家のルールや市場的基準に任せずに、社会的に管理・運営していこうと宇沢は考えたのである。〈コモン〉の発想も同じだ。
 ただし、「社会的共通資本」と比較すると、〈コモン〉は専門家任せではなく、市民が民主的・水平的に共同管理に参加することを表現する。そして、最終的には、この〈コモン〉の領域をどんどん拡張していくことで、資本主義の超克を目指すという決定的な違いがある。
 ▼地球を〈コモン〉として管理する
 実は、マルクスにとっても、「コミュニズム」とは、ソ連のような一党独裁と国営化の体制を指すものではなかった。彼にとっての「コミュニズム」とは、生産者たちが生産手段を〈コモン〉として、共同で管理・運営する社会のことだったのだ。
 さらに、マルクスは、人々が生産手段だけでなく地球をも〈コモン〉(common)として管理する社会を、コミュニズム(communism)として、構想していたのである。
 事実、『資本論』第一巻の末尾の有名な一節で、マルクスは次のように述べている。「収奪者が収奪される」ことによってコミュニズムの到来を描く、「否定の否定」と呼ばれる箇所だ。

 この否定の否定は、生産者の私的所有を再建することはせず、資本主義時代の成果を基礎とする個人的所有をつくりだす。すなわち、協業と、地球と労働によって生産された生産手段をコモンとして占有することを基礎とする個人的所有をつくりだすのである。(「資本論」第1巻)

 「否定の否定」とはどういう意味か、簡単に説明しておこう。一段階目の「否定」は、生産者たちが〈コモン〉としての生産手段から切り離され、資本家の下で働かなくてはならなくなったことを示している。だが、二段階目の「否定」(「否定の否定」)においては、労働者たちが資本家による独占を解体する。そして、地球と生産手段を〈コモン〉として取り戻すというのである。
 もちろん、これだけではまだ抽象的な図式にすぎない。だが、マルクスの主張は明快である。コミュニズムは、無限の価値増殖を求めて地球を交配させる資本を打倒する。そして、地球全体を〈コモン〉として、みんなで管理しようというのである。
▼コミュニズムは〈コモン〉を再建する
 こうした〈コモン〉をめぐるマルクスの基本的な発想を重視する姿勢は、ネグリとハートのふたりに限らず広く共有されたものである。例えば、ジジェクも〈コモン〉に言及しながら、コミュニズムの必要性を訴えている。
 ジジェクによれば、「文化というコモンズ」、「外的自然というコモンズ」、「内的自然というコモンズ」「人間そのものというコモンズ」の四つのコモンズの「囲い込み」が、グローバル資本主義のもとで人々に敵対する形で進行しているという。それゆえ、今の時代に「コミュニズムという概念の復活を正当化するのは、(中略)『コモンズ』を参照することによってである」とジジェクも述べている。
 ジジェクが言うように、コミュニズムとは、知識、自然環境、人権、社会といった資本主義で解体されてしまった〈コモン〉を意識的に再建する試みにほかならない。
 あまり一般には知られていないことだが、マルクスは〈コモン〉が再建された社会を「アソシエーション」と呼んでいた。マルクスは将来社会を描く際に、「共産主義」や「社会主義」という表現をほとんど使っていない。代わりに使っていたのが、この「アソシエーション」という用語なのである。労働者たちの自発的な相互扶助(アソシエーション)が〈コモン〉を実現するというわけだ。
▼社会保障を生み出したアソシエーション
 このような意味での〈コモン〉は、21世紀に入ってからの新しい要求ではない。今、国家が担っているような社会保障サービスなども、もともとは人々がアソシエーションを通じて、形成してきた〈コモン〉なのである。
 つまり、社会保障サービスの起源は、あらゆる人々にとって生活に欠かせないものを、市場に任せず、自分たちで管理しようとした数々の試みのうちにある。それが20世紀に福祉国家のもとで制度化されたにすぎないのだ。
 この点について、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの文化人類学者デヴィッド・グレーバーは次のように述べている。
 ヨーロッパにおいて、のちに福祉国家となる主要な制度—―社会保険や年金から公共図書館や公共医療までのすべて――のほとんどが、その起源をたどれば、政府ではまったくなく、労働組合、近隣アソシエーション、協同組合、労働者階級政党、あれこれの組織にいたりつく。これらの多くが、「古い外皮のうちにあたらしい社会を建設する」、すなわち、下から社会主義的諸制度を徐々に形成していくという自覚的な革命的プロジェクトに関与するものであった。(D・グレーバー『官僚制のユートピアーテクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』2017)
クレーバーによれば、アソシエーションから生まれた〈コモン〉を、資本主義のもとで制度化する方法のひとつが、福祉国家だったのである。しかし、1980年代以降、新自由主義の緊縮政策によって、労働組合や公共医療などのアソシエーションが次々と解体もしくは弱体化され、〈コモン〉は市場へと吞み込まれていった。
 ここで、新自由主義に抗して、福祉国家に逆戻りしようとするだけでは不十分な対抗策にしかならない。高度経済成長や南北格差を前提とした福祉国家路線は、気候危機の時代にはもはや有効ではなく、自国中心主義的な気候ケインズ主義に陥るのが関の山だ。それは気候ファシズムになだれ込んでいく危険性と隣り合わせである。
 しかも国民国家の枠組みだけでは、現代のグローバルな環境危機には対応できない。福祉国家に特徴的な国家による垂直的な管理も、〈コモン〉の水平性とは相容れない。
 つまり、単に人々の生活をより豊かにするだけでなく、地球を持続可能な〈コモン〉として、資本の商品化から取り戻そうとする、新しい道を模索せねばならない。
そのためには、大きなビジョンが必要だ。だからこそ、まだ誰からも提示されていないマルクス解釈が、「人新世」という、環境危機の時代に求められるのである」斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社新書、2020,pp.140-147. 

 〈コモン〉が再建された社会「アソシエーション」をどのように実現するか、「コミュニズム」と「ソーシャリズム」のちがいはなにか?確かにマルクスは『共産党宣言』は書いたけれども、あれは政治的マニフェストであって、そこでコミュニズムとは何かははっきり言っていない。もう少し先を読んでみる。


B.この夏
 コロナ・パンデミックは、ぼくたちの期待に反していっこうに収まりそうもない。緊急事態宣言などなにをやるんだかわからなくなって、日本中が漂流してしまう気分だ。政府の見通しはほとんど外れまくって、医療体制は崩壊寸前。猛暑の中で水害災害も頻発している。もうこれは、一時的な非常事態などではなく、恒常的な危機である。それでもこんな最中に、無観客とはいえオリンピックも高校野球もパラリンピックも予定通りやってしまうというのだから、誰も首相のいうことなんか信用しない。

 「豪雨・コロナ禍…無力感の夏 「モダン」の生き方 棚卸しを   神里達博
 今回は、7月以降の出来事を振り返ることから始めてみたい。
まず確認しておきたいのは、7月3日に熱海市で起きた土石流をはじめとする、豪雨災害が各地でまた繰り返されてしまったことだ。ありばんがしょうりし
毎年、夏になると、どこかで川が氾濫し、山が崩れ、家が泥水にのみ込まれ、尊い命が奪われている。どう考えても、かつての「異常気象」が「日常化」している。地球温暖化、気候変動の影響は、すでに懸念の段階を超えて、日本の抱えるリスクの上位に位置づけられるようになったと考えるべきだろう。
そしてオリンピックは、世論の反対がありながらも開催されたが、競技が始まるとアスリートの活躍に注目が集まった。とはいえ、同時に「デルタ株」の拡大によって感染者が急増し、現在の日本は、コロナ・パンデミックが始まって以来、最も深刻な状況となっているのは周知の通りである。
一方で、8月15日、驚くべきニュースが飛び込んできた。アフガニスタンのガニ大統領が隣国に逃れ、「タリバンが勝利した」とする声明を発表したのである。
ブラウン大学の調査によれば、あの「9.11テロ」以来、米国はアフガンでの戦争に200兆円もの巨費を投じてきたという。無数の命を犠牲にしてきたこの20年の戦いとは何だったのか。脱出を試みる人々の姿は、ベトナム戦争末期の「サイゴン陥落」と二重写しに見えた。
  •      *      *  
 以上、この夏に起きた出来事を、いくつか挙げてみたが、これらを重ね合わせてみると、ふと、「無力さを思い知らされた夏」という言葉が浮かんだ。
 たとえば土木工事によって治山・治水を進めることは非常に重要である。それによって救われる命が確実に増える。しかし、温暖化の影響は今後もっと厳しくなると予測されている。この調子で豪雨が繰り返されると、だんだんと「賽の河原で石を積んでは、鬼に壊される童」のようになってくるのではないか。
 また、私たちがパンデミックに投げ込まれてから、すでに1年半以上が経つ。もちろん、ワクチンの普及によって光明が見えてきてはいる。だが、変異株の登場で、また少し押し返されているようにも見える。
 そもそも、なぜこのようなことが起きたのか。よりマクロな視点で考えてみれば、地球生態系における人類という種の、突出した繁栄に起因している、ともいえるだろう。
 生息域を徹底的に拡大しつつ約80億にまで個体数が増えた、長距離移動を繰り返す「大型哺乳類」の生態に対し、上手に適応したウイルスが登場したと捉えるのが、「自然な」理解なのかもしれない。
 短期間に次々と変異株が登場するのも、結局、感染者の数が多すぎるためである。このウイルスは人の細胞の中でしか変異しないからだ。
 残念ながら、ウイルスの側から見れば、この世界は「カモ」だらけということなのかもしれない。
 このような状況に対して、従来型の「医学の進歩」だけで対応しようとするのは、いささか無理があるのではないか、とも思うのだ。
 一方でアフガニスタンの件は、また稿を改め、丁寧な議論をする必要があるだろう。だが、少なくともアメリカという国は長いこと、自由と民主主義を世界に広めるという理想を掲げてきた。今回の出来事は、その歴史に、大きな挫折の記録を追加することになったのは、確かであろう。
  •        *         * 
 このように、異常気象、感染症、戦争と、それぞれ全く別の話ではあるが、視野を広げて捉えれば、私たちが慣れ親しんできたこの近代という時代の生き方、いわば「モダンの作法」が、通用しなくなったようにも見えるのだ。
 私自身、以前から時々表明している通り、モダンにどっぷり浸かって生きてきた人間だ。モダンの良いところを信じているし、他の時代に生まれたかったと思ったことはない。
 しかし、そろそろ本当に、色々な点でモダンは続行不可能になってきているのかもしれない。
 正直、この夏の日本は、政治の対応が何もかにも酷かったことも手伝って、どこか「世も末」な気分が広がっているようにも感じられる。とはいえ、やけっぱちになるのは全くの悪手である。
 こんな時、私たちが真剣に行うべきことは、「モダンの本気の棚卸し」ではないだろうか。
 科学的な態度や基本的人権、物質的な豊かさや清潔な暮らし、思想や政治、経済活動の自由、どれもそれ自体は素晴らしいことばかりだ。
 ただ、いずれも、どこかに「ガタ」が来ている。どのくらいの修理が必要なのか。もう諦めなければならないレベルなのか。そこを一つ一つ、正確に見極めて、新しい時代に持って行く「アイテム」を取捨選択していくのである。
 その際に警戒すべきは、表層的な「ノスタルジー」かもしれない。昔は良かったというのは簡単だ。だが、とりわけ最近の日本は、諸外国と比べても、前に進む勇気や気力に乏しいように見える。日本が丸ごと「次の時代に持って行けないアイテム」にならないようにしたいものだ。
 私の思う一つの希望は、コロナ禍に伴うロックダウンで、排ガスが減り、空がきれいになったとの報告が世界中から寄せられたことだ。
 まだ間に合うと、信じたい。」朝日新聞2021年8月27日朝刊13面オピニオン欄、月刊安心新聞+。

 この国の政権与党は、改革とか進歩とか言ってなにかが変わるようなことを何度も選挙で言ってきたが、結果的にわかったことは、何も変わっていないどこか、昔の栄光を懐かしむ「ノスタルジー」に浸るばかりで「次の時代に持って行けないアイテム」としてさまざまな可能性を腐らせてしまった、と思う。
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少年犯罪をめぐって 4 脳のせいか? アメリカの失敗

2021-08-26 18:41:07 | 日記
A.全体性の視点 
 いま日本で起こっていることは、コロナウイルスを抑え込むと言いながら、じわじわと感染拡大が広がり、医療崩壊、ワクチン接種も不充分で有効な対策が効かないという事態である。コロナウイルス変異株に対処するというだけではなく、この国がもつ医療資源の限界を超える危機になると、平常時でも一定数存在する基礎疾患を抱え、さまざまな細菌やウイルスに抵抗力の弱い免疫弱者が、十分な治療機会を得られなくなるのが、社会全体の不安とストレスを高めてしまう。もうぼくたちは、いまここで病気や事故に遭ってっしまうと、満足な治療も受けられないという現実を避けられない。ぼくたちが今までいかに医療や公衆衛生にかんして、日本社会にいることに安心感をもっていたか、無自覚であったかに気が付く。
 考えてみると、犯罪というものも、一つの社会の中で一定の割合で起こっていて、どんな社会も犯罪を完全になくすなどということはできない。それは先天的に悪事を企む犯罪の遺伝子をもった人間が一定数いるから、というのではなく、その社会がひとびとを社会秩序のなかにコントルールする力が、いくつかの要因で強まったり弱まったりするからだと考えられる。法律や制度によっても多少は変わるが、戦争や革命の最中のような緊急事態では、通常の犯罪は減少し、逆に社会が平穏で人々の欲望と財力が高まっている時は、犯罪もおおむね増加すると考えられる。現在の日本は、統計などから見ると以前より犯罪件数は減少を続けているし、その内容も昔のような貧困とか生活苦からくるものは減っているといわれる。それは、日本社会の規範による統合力が強まっていると考えるか、それともデュルーケーム的なアノミー状況、個人の孤立が深まって犯罪に向う人間の意欲すらすり減っているとみるか。個々の事例も重要だが、全体としてどうなっていくか、という視点が重要だと思う。
 一方で、あらゆる問題は「科学」の形で提示されるととりあえず人々は納得、いや説得されてしまうのは現代の特徴である。犯罪も脳科学によって身体的な要因から犯罪者を見るとき、従来の説明とは異なる視点が出てくる。しかし、これはそんなに説得力があるのだろうか?

 「中高年になると健康診断のたびに一喜一憂させられるコレステロールというのも、じつは暴力と関係があるらしい。米国の神経科学者ブルース・マッキーエンらによる『とらわれの脳』(加藤進昌監訳、学会出版センター、2003)に、低コレステロール値の問題が興味深い形で紹介されている。
 つまり、心臓発作で亡くなる人の多い米国では、予防のために高コレステロール薬を多く使うようになった。それによって心臓死が減って、死亡率が下がることが期待されたが、全体の死亡率は変わらなかった、というのである。
 なぜなのか、詳しく調査が行われて分かったのは、心臓病による死亡率は減ったけれども、自動車事故やスポーツ中の事故、自殺さらには殺人といった外因(=衝動性、暴力と関係)による死亡率が増加していたということであった。さらに、動物実験などの結果も合わせて、暴力行為に及ぶ人は、血中コレステロール値が相対的に低く、セロトニン活性が低いことが明らかになったと報告されている。
 そうすると、低セロトニンというのが、生物学的にずいぶん罪作りな状態であることが分かってくる。我が国では、うつ病との関係でセロトニン不足が取り上げられることが多いが、衝動的な攻撃行動が自分に向かうとそれは自殺(未遂)ということになる。例えば引きこもりの少年が親を殺してしまうといった、家族を巻き込む拡大自殺のような犯罪においては、セロトニン異常なども考えに入れる必要があるように思う。
 『とらわれの脳』(原題はザ・ホステイジ・ブレイン)というタイトルの意図は、脳がどれほど傷つきやすいか、例えば、ウイルスや毒だけでなく物理的な衝撃によっても、また無視や悪意など、人を傷つける無数のやり方によっても、脳が容易に本来の機能を減弱させてしまうということを示すところにある。
 低セレトニンと暴力の関係は、ほんのその一例に過ぎない。神経伝達物質との関連でいうと、世界中の最前線の研究を紹介することによって過激なダイエットに警鐘をならすほか、筋肉増強剤としてのステロイドホルモンの大量使用が、ドーパミンの上昇を引き起こして脳のネットワークを乱し、精神病様の症状を呈することがあることも警告している。
 このようにみてくると、従来の力動心理学では、人が安易に暴力をふるったり、犯罪を企てたりする根底には「自尊心の欠如」があるとされるのが通例であったが、事例によっては、脳の制御がうまくいかないという要素を指摘する必要が出てくる。
 ベストセラーとなった『診断名サイコパス――身近にひそむ異常人格者たち』(小林宏明訳、早川書房、1995)を著した心理学博士ロバート・ヘアは、良心がすっかり抜け落ちてみえる異常人格者を詳細に分析している。サイコパスは、精神病質あるいは反社会性人格障害と呼ばれる人格状態と大いに重なるが、しかし完全に同じではなく、「刺激に対する喚起メカニズム」がまったく欠落している人格、つまり従来のうそ発見器がまったく通用しないタイプであるらしい。
 ヘアの言うサイコパスは、“①饒舌で一見すると魅力的 ②過大な自尊心があり自己中心的 ③異常なほど嘘つき ④後悔の念や罪悪感の欠如 ⑤冷淡で共感性がない ⑥行動の責任を取れない”という人物である。
「非暴力的なサイコパス」と「詐欺師」は非常に近い関係にあるとされており、連続殺人犯、強姦魔のみならず、免許を剥奪された医師、強気一辺倒の証券セールスマン、除名された弁護士、無節操な実業家なども、サイコパスの例として挙げられているのが興味深い。
 前掲の『犯罪に向かう脳』では、ロバート・ヘアらがSPECT(前出)など最新技術を使ってサイコパスの脳を探った結果が紹介されているが、前頭葉と大脳辺縁系の連絡が途切れてしまっていることがいくつかの検査で明らかにされている。
 つまり、良心、罪悪感、後悔をつかさどり、道徳心が存在する場所である前頭葉と、そうした感情を生成する大脳辺縁系との連絡が途切れているらしいというのである。用いられた検査は、曖昧な単語や意味のない単語のほかに、感情を刺激する単語(例えばレイプとか死、殺し、銃)を聞かせて、脳の活動をみるとともに、コンピューター上でテストを行うというものであった。
 その結果、普通の人とサイコパスには明らかな違いが認められたのである。普通の人は、あいまい語では脳の後部だけが、感情に訴える単語では脳の後部と前部が反応するのに対し、サイコパスでは、どちらも脳の後部にしか反応が記録されなかったという。つまり、サイコパスでは、意味は正確に理解できているが、脳の部分同士の交流がないので、他人の苦痛を理解したり想像することができず、自分のやったことに自己嫌悪や胸騒ぎを覚えることもないという、というのである。
 このような一連の実験結果をもとに、「やっかいなのは、彼らは情に流されず冷静に決断を下せるがゆえに、権力、影響力、信頼を手にしやすいということだ。サイコパスはそうやって獲得した力をとことん利用し、食いつくしたあげくに、あっさりと裏切ってみせる」と述べられている。
 つまりこれらのデータからはっきりするのは、犯罪を起こしてしまう人間は、精神疾患(統合失調症、そううつ病のような)でなくても、もともと脳に損傷や障害を持っていることがあるということである。
 精神科医春日武彦は、視点はまったく異なるけれども、『心の闇に魔物は棲むか――以上犯罪の解剖学』(大和書房、1996)のなかで、数々の異常犯罪と精神障害(病)・人格障害の関係を論じてみせた。そして、確かに、正常とはいえないが、さりとて病気とも診断しがたい人はいるとして、たとえば「普段の言動や外見などは、表面的には通常の人々とさして異なるものはない。頭脳もしばしば優秀。しかし、精巧なアンドロイドにほんのわずかな回路の不備があったために人間特有の思いやりや共感の能力を欠いてしまっている人」を、サイコパスだとしている。
 そして、サイコパスの上位概念である人格障害(者)について、「彼らは我々と地続きの存在であり、「不連続さ」に縁取られた「狂気」(精神の病気)とは性質を異にしている」と述べている。
 私が興味を引かれたのは、春日が自らの直観に基づくものと断ったうえで、人格障害者が発する独特のトーンを特徴づけるキーワードとして、「奥行きの欠如」という表現を選んでいる点である。「時間間隔における奥行きの欠如」、「感情における奥行きの欠如」、「感情における奥行きの欠如」という三つの側面が論じられているが、いずれも私が日ごろ接する非行少年像とよく重なるように思う。
 彼らは、「時間」の流れに対する感覚がどこか欠落していて、一時間前のことも、10年前のことも、区別のない感じ方をしているようだと著者はいう。「現在」もどこか希薄で、過去との関係で際立つことがない、という意味での奥行きのなさである。同じ失敗を延々と繰り返す非行少年を見ていると、学習能力がないなぁ、とため息が出てしまうが、時間に縦軸がないゆえに学習ができにくいのかもしれない、と思い当たる。
「思考」に奥行きがないことも明らかだ。視点を変えて考えるとか、別の可能性をあれこれ立体的に検討するということがひどく不得手である。また、彼らの「感情」も確かに奥行きは感じられない。原始的な感情がナマのまま出てしまう、つまり感情に怒りの底の悲しみとか、喜びの裏の寂寥感という重層性が見られない、と著者は指摘している。
 そしてこれらは、「狂気」とはまったく異なり、普通の人との間に連続性があるというのである。たしかにこれだけを読めば、連続性どころか、自分も人格障害者ではないか、と思えてくるほどである。「精神の病気」とは本質的に異なる、というのは、そういう意味である。
 さて、脳について知ったかぶりを書いてきたが、私の経験というのは、神経心理学検査を通じて発達障害の有無による違いを実感したという位程度のものである。日常、見聞きするだけでもこの分野の発展は目覚ましい。そこで、『とらわれの脳』の監訳に当たられた加藤進教授に直接おたずねすることになった。
 結論から言えば、脳のことは依然、謎だらけだということである。例えば、脳の形態についての研究、脳の機能につての研究がそれぞれ進んでも、形態と機能の関係がわからないという具合に、相互の関係となると特にまだこれからだそうだ。だからこそセロトニンの問題なども、社会的な偏見につながらないように注意が必要だということであった。
 確かにそうだろう。例えば、海馬の容積やセロトニンの量で自殺傾数や犯罪度数が計測されて人格に貼り付けられるとしたら、たまったものではない。数値で出るだけに恐ろしい。これからは実務家と専門研究者とが連携していくことが、ますます必要とされるようになるだろう。
 それにしても、である。欧米の書物から受けるパンチのすごさはどうだろう。ロバート・ヘアによる『診断名サイコパス』がアメリカで1993年に出版され、『犯罪に向かう脳』のイギリスにおける出版が1995年であることを考えると、欧米の犯罪研究の進み具合には呆然とするばかりである。まぁ、それだけ、我が国には異常犯罪が少なかったということになるのかも知れないが。
 しかし今後については、我々実務家も考えを改める必要が出てきている。それは我が国でも、人々の犯罪に対する認識がはっきりと変わってきているからである。
 以前なら、犯罪は、あって当たり前のものであった。たとえば「どろぼう」は、漫画「サザエさん」でも時々登場するキャラクターであって、手ぬぐいで頬っかむりをして、背中に唐草模様の大風呂敷を背負う、どこか憎めない男であったが、現在ではそういう風情は影も形もない。また、昔のガキ大将など、大小の悪さをして叱られ、喧嘩をして骨の一本や二本、折ったりしながら生育するものであったが、今はそういうわけにはいかない。
 少年犯罪ですら、いったんメディアに取り上げられると、「裁判所は、説明責任を果たすべきだ」とされて、「非公開」「少年の保護」という理念だけで事件を扉の中に封じ込めることが許されなくなった。被害者がなるべく納得する形で審判結果が示されることが期待されるようになったのである。
 それだけ犯罪についての認識が変わってきたことに対して、その審理や処遇にあたる実務家は、どのように応えればよいのだろう。
 異常犯罪の少ない我が国では、専門家の需要自体が少なく、旧態依然の犯罪理解でやっていけないことはなかった。しかし、一例一例を丁寧に見ていくと、少なくとも一部の犯罪については従来の理解枠や殊遇論では行き詰ってしまうことが分かってきていた。並行して、近年立て続けに起きた若年者による凶悪犯罪について発達障害が指摘されるに及び、犯罪観は実務家集団のなかでも着実に変化を見せはじめている。
 先達のひとり、『犯罪に向かう脳』の著者アン・モアは、「狂った」ものは病院行き、「悪い」者は刑務所送りにするとして、「しようがない」人間は、どうすればいいのだろう、と問いかけ、罪と罰を基盤にした伝統的な司法の概念を捨て去り、予防、診断、治療を基本とする「医学的モデル」を導入することは可能ではないかと提言して、『犯罪に向かう脳』を締めくくっている。」藤川洋子『少年犯罪の深層 ――家裁調査官の視点から』ちくま新書、2005.pp.122-130. 

 実務家である家裁調査官の著者は、脳科学の成果にかなり期待しているようだけれど、ぼくは身体的要因(たとえば脳の海馬とか、ホルモンとか)に起因する犯罪という考え方には、まだ疑いを持っている。それはもちろん専門家によってさらに解明してもらいたい課題だけれど、予防や処遇においてある身体的特徴を持つ人々を犯罪傾向を秘めた人とする見方は少々危険だと思うことと、精神鑑定という専門家によるかなり不安定な診断が、裁判という場で決定的に判断を左右してしまうのもまだ問題が多いと思うからだ。


B.アメリカの幻想と傲慢
 アフガンからの米軍撤退は、バイデン政権の判断だとはいえ、20年にわたる米国の武器暴力で一国を思い通りにしようと米軍を送り込んできた戦略そのものの敗北だとみられる。これがいかに世界のあちこちで名もなき民衆の命を損なっただけでなく、当の米軍兵士たちの命も危険にさらしてきたことは疑いない。軍事技術は進歩しロボット兵器や無人ドローン攻撃は発達しても、それで一国全体の変革統治などに成功することはできないということは、ヴェトナム戦争の敗北で分かっていたのではないか。ヴェトナムの時は、背後に東側とくにソ連の支援があったからアフガンとは違うというかもしれないが、結局ひとつの国を変えるには外国軍を投入するだけではだめで、その国の民衆に支持された賢い政府が自力で立ち上がらなければならない、という教訓を確認することになった。そうすると、第2次大戦後の日本とドイツの占領統治が、改めて成功したのはなぜか、という問題をよく考える必要があるし、日本のぼくたちにとって、考えるべき課題だな。

 「アフガン 失われた20年:軍事力頼みの国造り 米の幻想 米ボストン大学名誉教授 アンドリュー・ベースビッチさん
 —―アフガニスタンで起きている事態をどうみますか。
 「この惨事の原因をバイデン大統領に求める反応が多いですが、大きな間違いです。最終的な撤退に彼が責任を負うのは当然であるにせよ、はるかに重要なのは過去20年の失敗です。バイデン氏をたたくより、戦争の包括的な検証が必要です」
 「米国はアフガニスタンの『ネーション・ビルディング(国造り)』を掲げました。愚かな目的であり、達成に近づくことすらできなかった。その結果が、いまカブールで起きていることなのです」
 —―米軍撤退の判断はどう評価しますか。
 「必要な判断で、遅すぎました。1兆㌦以上のお金と多くの人命を費やしました。もっと努力すれば良い結果が得られるという主張には何の根拠もありません。ただ、その結果を無視して立ち去るのは無責任です。家を追われたり、攻撃を受けたりする弱い立場の人々に対処する責任は残ります」
 —―アフガニスタンは再びテロの温床になるのでしょうか。
 「9.11(2001年の米同時多発テロ)で、19人のハイジャック犯のうち15人はサウジアラビア出身でした。テロ攻撃がアフガニスタンから来ると示す証拠はない。注意する必要はありますが、アフガン駐留でテロは防げるという考えは馬鹿げています」
 ――今回の失敗は米国優位主義の結果と指摘していますね。
 「独立以来、米国は上昇の歴史を歩んできました。豊かに、強力になった。それは1989年の冷戦終結でクライマックスを迎えます。世界唯一の超大国となり、リベラルで民主的な資本主義に変わるイデオロギーはなくなり、史上最強の軍事優位性を得たと、人々も政治家も信じ込みました」
 「米国人は認めたがらないと思いますが、私は米国が軍国主義に傾斜していたと考えます。物事を効率よく解決できる軍事力は米国の強みだと考えるようになっていたのです」
 —―なぜ軍事力に頼るようになったのでしょう。
 「冷戦はソ連と戦わずして終結しました。続いて湾岸戦争では多国籍軍を結成、短期間で大きな被害もなくイラク軍をクウェートから追放しました。二つの出来事を通じて、米国人は『自分たちは特別だ。戦争の達人だ』と思うようになったのです。幻想でしかないのですが」
 —―そこへ9.11が起きました。
 「9.11は米国のすべてに疑問を投げかける事件でした。あらゆることが思い通りに行くという考えは粉砕されました。米国が唯一の超大国であり、世界はリベラルな民主主義となる、という幻想が破壊されるのを、ブッシュ政権は防ぎたかった。そのためには、戦争で早期に圧倒的な軍事的勝利を収めるしかなかったのです。米国人の多くも無敵の軍事力を使うことを望みました」
 —―なぜうまくいかなかったのでしょうか。
 「それは第2次世界大戦の結果をどう解釈してきたのかに由来します。敵国だった日本とドイツは戦後、奇跡的な経済成長をみせました。米国人は、マッカーサー元帥が日本を民主化したから成功したと考えたわけです。連合軍が占領統治したドイツも同様です。あまりに単純化した馬鹿げた考えですが、これが9.11後の戦争につながりました。日本やドイツでやったことを、今度はアフガニスタンやイラクでやろうじゃないかと。状況には無数の違いがあるにもかかわらず、米国はそう考えたのです」
 —―いまや米国優位の幻想はなくなったのですか。
 「そうは思いません。米国人はいまだに幻想にしがみついています。バイデン氏がよい例です。『米国は戻ってきた』と宣言し、民主主義を称賛し、専制主義の抬頭を警告する。彼はいまも冷戦後の言語を操っています。今後も武力を使うのにためらうことはないでしょう」
 「民主主義国家ですから、責任は国民にあります。戦争が長引いたのも、国民が許容できると考えたからです。米国では新型コロナウイルスで60万人以上が亡くなりました。国家安全保障上の失敗です。それでも国防総省の予算規模については何の議論もありません。多くの人は安全保障とは軍事のことだと考え、巨費を投じる習慣が深く根付いている。まず、それを変えるべきです」 (聞き手 ワシントン=高野遼)」朝日新聞2021年8月25日朝刊13面オピニオン欄。

*Andrew Bacevich : 1947年生まれ。シンクタンク「クインシー研究所」代表。専門は歴史、国際関係学。米陸軍士官学校を卒業後、ベトナム戦争従軍を含め米軍に23年間勤務した。
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少年犯罪をめぐって 3 脳科学による解明はすすんでいるのか  小笠原の星条旗

2021-08-23 19:11:09 | 日記
A.犯罪と脳?
 個人的な体験のなかで、ぼくはいままで知人友人に犯罪容疑者として逮捕された人間は、いなかった(いたとしてもその事実を聞いていない)。大学教師をやっていたから先輩後輩、教え子なども数は多くても、犯罪歴のある人に会った記憶はない。ごく身近に犯罪にかかわった人がいても、言いふらすようなことではないから、交通事故とか万引きとかの経験、あるいは軽い犯罪の被害に遭った経験はないこともないにしても、一般に犯罪というものが日常化した外国の事例に比べれば、日本はいつも犯罪を意識して暮らす必要はない安全な社会である。その感覚で外国を旅すると、思わぬ被害に遭う。ぼくもアルゼンチンのブエノスアイレスの下町を独りで歩き回っていたとき、現地の人からあそこは一人で歩くと襲われて身ぐるみ剥がれても仕方がない地区だよ、といわれて後でぞっとした。現地では貧乏な風体をしていたので幸い襲われたりはしなかったが、地下鉄でカメラを掏られた。子どもも入っている窃盗団や詐欺グループなんかが外国人観光客を狙っているのは常態だという。
 そういうプロの犯罪集団は、いわば組織された目的合理的活動だから、職業化しているといえるかもしれないが、日本の少年犯罪や非行は、ヤクザにつながる戦後の混乱期にはあったけれど、今はそのような形はもう例外的だろう。家裁調査官藤川洋子さんの書いたこの本も、事例として出てくるのは、アウトロー的逸脱者ではなく、一見ふつうに社会生活をしている人間である。ただ、犯罪少年の動機や背景の説明に、従来の心理学的、あるいは社会学的説明ではじゅうぶんでなく、脳科学的な視点を加えたいという。

 「私がこの本を書こうと思い立った動機のひとつは、犯罪や非行を、心理学的要因や社会的な要因だけでなく、生物的要因(つまり脳の働き)を加えて、もっと相互的あるいは立体的に考える必要があることを示したいということであった。
 諸外国に比べて犯罪の少ない日本では、人々が実体験に即して犯罪を考えるということが難しい。いきおい、メディアの報道に強く影響されることになってしまうが、メディアが流す情報には、その立場上さまざまな限界がある。ニュース性が身上であるから、インパクトのある部分が極度に強調される上、情報提供者がどういう意図や背景のもとにそれを発信したかの吟味が抜け落ちやすい。
 その結果、偏りがあったり、不正確であったりする情報が、まことしやかに届けられてしまうのである。すなわち、人が「犯罪者」に対して持つイメージは、その人自身がそれまでの人生で直接体験した非常に個人的なものか、あるいはメディアによってデフォルメされたものか、そのどちらかであるに過ぎないと考えておく必要がある。
 その結果であろうけれども、「子どもが罪を犯すのは、親の育て方のせいだ」と考える人や、「犯罪はつまるところ、社会の産物だ」と、単純化してしまう人が少なくない。私は、そこに新たな視点を提供したいと思っている。
 では、それを言うのに、なぜ、犯罪全体から言えばほんの少数に過ぎない、自閉症スペクトラム障害の事例をわざわざ取り上げたのか――これではまるで犯罪と自閉症の間に特別な関係があるみたいではないか、という抗議が当然、起きるであろう。
 ここで少し、自閉症が、どのように理解されてきたかに寄り道をしなくてはならないと思う。じつは歴史的事実として、自閉症圏の障害は、長年、母親の養育態度にもっぱら起因するとされてきた。カナー、アスペルガーという二人の優れた児童精神科医によって、それぞれ別の国で偶然同じ頃に発見されたこの障害は、発見から約六〇年を経た現在では、脳科学的な特性を原因とすることに疑問の余地はない。
 しかし発見から三、四〇年の間は、「冷蔵庫のような母親が自閉症児をつくる」(ベッテルハイム)をはじめとして多くの心因論者から、母親の温かみに欠ける養育態度ばかりが取り上げられてきた。それを受けて、相談機関などでは「母親は子どもをとことん受容して、絶対的な愛情を注ぐべきである」と指導されるのが主流であった。
 この指導理念は、養育には愛情が不可欠だという意味では間違いではないのだが、今となってみると、罪深い理念であった。問題は、子どもがうまく発達していかないことが、母親の愛情不足、努力不足に帰結させられていたことである。それは、たとえて言うなら、生まれつき視力障害のある子どもに、「母親が受容し、共感することによって目が見えるようになる」「目が見えるようにならないのは、母親の愛情不足だ」といっていることと同じだからである。
 その後、自閉症児については、双生児研究によって遺伝子の関与が明らかにされ、CT(コンピュ-タ断層撮影法)やMRI(磁気共鳴映像法)などを用いた脳の構造と機能の研究によって、最近では、脳のおよそどの当たりの部位の異常によるものであるかが明らかになりつつある。しかし、それが広く知られるようになるまで、どれほど多くの母親が無実の涙を流したことであろう。そして、涙を流させた側の人間は、どれほど的外れな指示を送り続けて時間と労力を無駄にしたことだろう。
 私たち実務家が、自閉症スペクトラム障害に限らず、ADHD(注意欠陥。多動性障害)やLD(学習障害)など生来的な障害のある子どもによる非行事例を数多く経験してみると、原因論と処遇論の両方において、従来の非行理論では行き詰ってしまうことが分かってくる。つまり「愛情に飢えた子どもが非行を犯す」という誰もが信じていた前提に、大きな欠落があることに気づく。
 さらにいうと、「愛情不足」が原因とされること、処遇にまごついてしまうこと、という二つの点で、自閉症に起きた悲劇が、一部の非行事例にまったくおなじ形で起きていることが実感されるのである。
 私自身は、自閉症に関しては「涙を流させる側」ではなかったけれども、非行に関しては、じゅうぶん「涙を流させる側」であった。ここでいう涙は、いわれのない涙、無実の罪を着せられたゆえの涙という意味である。
 根拠がないのに責められると、不当だという怒りが起こる。怒りは方向を失って肝心の子どもにはね返ってしまうだろう。さらに根拠があると思いこまされて取る親の行動は、一貫性がなくていつも不安定だったはずだ。だから私は、「責任があるのは、お母さん(お父さん)、あなたですよ」と思わせて放置したことを含めて、ずいぶん罪深いことをしたと思っている。その贖罪の意味も込めて、本書を書きたいと思った。
 生物的要因を語るにあたって、前章などで自閉症スペクトラム障害を取り上げたのは、もっぱらそのような理由によるものであるということを、記しておきたい。
 さて、前章までに取り上げた事例は、公務執行妨害、現住建造物放火、そして爆発物による殺人、最後に身代金誘拐殺人である。いずれも、テロ多発地域ならともかく、我が国などでは滅多に起こらない事件である。それゆえに、犯人の人物像に人々の関心が集まる。動機が奇妙であれば、なおさらである。
 しかし、こうした突飛な事件ですら個人が持つ「人格の異常性」だけでは到底説明することができず、「世相」の影響を大なり小なり受けていることは明らかである。ユナ・ボマーは大真面目に当時の世相を批判しているし、身代金誘拐の死刑囚も同種犯罪を模倣している。「模倣」は、犯罪において一つのキーワードであるが、模倣の対象は必ず「世相」のなかに存在する。
 一般に、犯罪論では人々から見えやすい「世相」の方がまず問題にされる。世相が犯罪を作ったと短絡されるのである。これは、犯罪者個人に会うことのできない立場にあれば、致し方のないことであるが、たとえば、前章までに挙げた犯罪の原因を、「世相」や「親の育て方」に帰結させることが妥当であろうか。
 注目すべきは、世相の影響を彼らが受けているとしても、本人の実生活と世相、つまり当時の社会との間に、越えられないほどの隔たりがあるということである。ユナ・ボマーの助教授時代、彼は学生から教え方が下手だと見下され、誰とも付き合わずにぽつねんと生活していた。彼が後年、声明文のなかで批判した、社会のコンピューター化や遺伝子工学の進歩が、彼の日常生活と何らかの関わりがあった様子もない。
 第三章で取り上げた死刑囚の方も、ちやほやされる映画スターに憧れつつ、都会の片隅で、誰とも親しく交わることなく黙々と生活していた。彼が女優と暮らしたい、と考えているとは、誰にも察知のしようがなかっただろう。当時の世相と彼らの実生活との間には相互性がまったくなかったのである。
 それでは、彼らの犯罪行為と実生活の関係はどうなのだろう。ユナ・ボマーはコンピューターを触ることはなく、古ぼけたタイプライターを大切に使っていた。住んでいた小屋には電気も水道もなかった。社会とのかすかな接点は、ポピュラーではない社会学系の書物と月後れで手に入る科学系の雑誌であった。死刑囚の方も、黙々と働くほかは、テレビと芸能雑誌だけが友だちであった。この二人の実生活と犯罪との間に相互的な関係を見出すことは困難である。
 ここで、彼らがいったい自分自身のことをどう思っていたのだろうか、という疑問が起こる。「あなたは人からどう思われていると思う?」と、もし聞いてみたとして、ユナ・ボマーや死刑囚は何と答えるだろう。おそらく、そのような質問を受けたことがないので、困惑して「分からない」と答えるか、こちらが期待する対人的な要素を含んだ回答ではなくて、「○○年生まれの人」とか、「車のパンクを直す人」と答えるだろうと、私には想像がつく。
 人からどう思われているかを知る力は、群れる動物であるヒトにはかなり潤沢に備わっている。「つきあいが悪いね」とか「陽気だね」「気にしすぎじゃないの」などとお互いに言い合うことによって、自分の対人的な特徴を自覚する。毎日繰り返されるこうしたやりとりの集大成が「自己イメージ」であり、もっと言うと「自我」だと私は考えるのだが、孤立が深刻になってしまうと、判断基準となる対人関係が乏しいために、いわゆる「自己イメージ」あるいは「自我」が形成されにくい。
 なんのかんの言っても、実生活こそ自我機能の集積であることに間違いはないのであるが、この二人の殺人犯における実生活と犯罪行為との間の乖離の甚だしさは、彼らの自我の形成不全を推測させる。つまり、世相と実生活と犯罪行為、その三者を結び付けて適切にコントロールする働きが機能していないといわざるを得ない。その結びつかなさに、脳による負の関与、つまり脳が正常な作動の仕方をしていないのではないかという疑いが持たれるのである。
 かつて人々の生活は貧しく心細く、大部分の犯罪は起こるべくして起こっていたが、高等教育や福祉施策が普及した現在、犯罪は、「敢えて起こす」時代に突入したといえる。その一方で、日進月歩といわれる脳科学が、行動科学の解明に寄与する時代となった。
 今や、脳の中の小さな組織が人の思考のみならず、感情や意識までをつかさどっていることに異論を唱える人はいないであろう。そして人間がとる無数の行動のなかで、最も解明が急がれる行動のひとつが犯罪・非行である。突飛な犯罪には、人間の脳が考えつく限界が示されているからである。」藤川洋子『少年犯罪の深層――家裁調査官の視点から』ちくま新書、2005.pp.104-111. 

 文中の「たとえて言うなら、生まれつき視力障害のある子どもに、「母親が受容し、共感することによって目が見えるようになる」「目が見えるようにならないのは、母親の愛情不足だ」といっていることと同じだから」という指摘はなるほどと思う。だとすると、視力障害の場合は遺伝子的な身体の能力で、回復不可能だと医学が認めているわけで、これを少年犯罪にあてはめると犯罪非行を起こすのは身体的、特に脳の障害によるものだということになる。それは母親の愛情とは直接の因果関係はない、ということになり、母親への責任追及は免責される。でも、犯罪や非行をする原因が、脳の障害だと証明できるのだろうか?そこは医学の検証結果によるわけで、一般化するのは無理ではないか。


B.小笠原諸島の帰属
 江戸時代の蘭学者、高野長英のことを調べていた時、彼がときの幕府老中水野忠邦の取り締まりにあって、捕縛され伝馬町の牢に入ることになった事情のなかに、『壬戌夢物語』という著作で幕府批判をしたという件のほかに、長英とは無関係の人々が小笠原へ渡航移住するという計画が露見したことがあると知った。当時、日本近海に外国船が出没して緊張が高まり、幕府は離島の領有問題に神経質になっていた。小笠原は、太平洋を航行する捕鯨船など各国の舟が立ち寄り、日本人だけでなく米国人などが定住していた歴史がある。日本の領土と明白に認識されるのは後のことで、人々は国籍など気にせずに仲良く暮らしていたようである。

 「よみがえる ペリーの星条旗:小笠原で戦中処分 愛媛から複製届く
 19世紀前半、小笠原諸島・父島に移住した米国人の子孫の下にこの夏、かつての星条旗のレプリカが届いた。旗はペリー提督から授かり、代々大切に受け継がれていたが、太平洋戦争中に「敵」となった米国人への迫害を恐れ、燃やされていた。その事実を知った愛媛県西条市の時計店店主が思いを寄せ、当時の星条旗のレプリカをつくり、父島へ送った。
 星条旗のレプリカを受け取ったのは父島に住むセーボレー孝さん(63)。小笠原村職員だった孝さんは、1830年5月、父島に渡った米国マサチューセッツ州出身のナサニェル・セーボレー氏の5代目の子孫にあたる。
 19世紀初め、欧米諸国はクジラを追って太平洋へ進出し、捕鯨基地として注目したのが小笠原諸島だった。ナサニェル氏ら米英伊、デンマーク出身の5人と太平洋諸島の人々を加えた約20人が、当時無人島だった 父島に住み着いた。
 「黒船来航」で有名なペリー提督も、父島と縁がある。浦賀(神奈川県横須賀市)に艦隊で現れ、日本に開国を迫る前の月、53年6月に父島へ来航。ナサニェル氏を行政長官に任命し、その際、ペリー提督から星条旗が授けられたという。
 その後、島は大きな歴史の波にのみ込まれていく。
 75年に明治政府が島の開拓に乗り出し、76年に領有を宣言、約70人いた欧米系島民はその後日本に帰化した。八丈島などから入植も続き、大正時代には人口5千人を超える島となった。
 だが1930年代、父島は日本軍の前線基地となっていく。米国が「敵国」となる中で、ナサニェル氏の孫で、孝さんの祖父らは迫害を恐れ、代々大切に受け継いできた星条旗を燃やした。44年には小笠原諸島の島民6886人が強制疎開し、825人の男性は軍属として徴用された。孝さんの伯父で、セーボレー家4代目のスウェイニー氏もその一人だ。米国人を祖先に持ちながら日本兵として米軍と戦って命を落とした。「まだ20代半ば、最も不幸な時代だった」と孝さんは父島にある伯父の墓前で話した。
 そんな父島の悲しい歴史を、新聞で知った人がいる。
 西条市で時計店を営む近藤章さん(83)だ。この春、時計用の精密機器がメーカーから届いた。その段ボール箱に詰められていた新聞紙を広げた際、父島の星条旗を巡る記事に目がとまった。「なんてむごい」。胸が痛くなった。自身は7歳のときに終戦を経験し、敗戦後の苦しさを味わった。「国旗は祖国を思う心と同じ。失った星条旗を返してあげたい」
 ペリー提督が渡した星条旗は星の数が31個。州が増えた今より少ない。当時の正確なデザインを知ろうと、市内の事業者が集う「伊予西条間税会」の仲間と資料を探した。全国各地の博物館に問い合わせ、古本も探して、ようやく当時の旗の姿を突き止めた。老舗の旗専門店に再現してもらい、、6月、縦102㌢、横163㌢のせいじょう気ができあがった。
 愛媛から届いた星条旗を孝さんは「こんなに大きかったのか」と、感慨深そうに手にする。
 「ペリーが日本と交戦せずに交渉できた背景には、父島の存在があったのかも知れない」。多様な歴史や文化を持つ人々が共に暮らす島の姿を、先祖はペリーに伝えたのではと思っている。
 戦後の米軍統治から日本復帰時代を父島で生きてきた孝さんは「この旗が、島の数奇な運命と平和の意味を語り継ぐきっかけになるだろう」と話している。 (中山由美)」東京新聞2021年8月21日夕刊7面社会欄。

 この星条旗復活を考え、作って送ったのが、小笠原とはおよそ無縁だった愛媛県西条市の時計店主だったということが、このニュースを微笑ましいものにしている。でも、太平洋の戦争で米軍と戦って全滅した日本軍の生き残りの人なら、これをどう感じるだろうか?ぼくには想像がつかないが、国家や領土のために戦争をすることの愚かさを自覚した戦争経験者なら、日本人として星条旗を焼いた祖父の悔しさに思いを致す想像力があると思う。
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少年犯罪をめぐって 2  幼児虐待の諸段階  アフガンをどう見るの

2021-08-20 22:30:18 | 日記
A.4種類の虐待とその対策
 家裁調査官が少年にかかわるのは、通常すでに犯罪行為を惹き起こしてしまってからなので、その前の段階、あるいはもっと当の少年が幼少期のことは、むしろ精神科医や心理カウンセラーなどの役割になるのかもしれない。しかし、形式的な精神鑑定とかカウンセリングですべてがわかるというわけではない。とくに幼少期の子どもと親との関係がどういうものであったかは、親子両者に時間をかけて面接することが必要だろう。ここで虐待の話が出ているのは、少年犯罪の被疑者の場合、成育歴のなかで精神的・身体的虐待を受けているケースが多い、という著者の経験があるのだろう。幼少期に深刻な心的トラウマを経験すると、成長しても簡単にそれを自力で克服できるものではない、と思われるから、犯罪や非行のような行為は、その過去の虐待の反作用のひとつとして現われると考えられる。犯罪や非行という形にならない場合でも、別の形で問題行動をもたらす可能性がある。
 家庭裁判所で調査官の仕事は、当面審理にかかる少年の処遇と更生への道づけにあるのだろうが、もう一段、犯罪の防止まで視野に入れれば、少年の成育歴のなかに虐待を見出した場合の対策も考える。

 「死ぬほどの恐怖を味わう虐待被害は、脳の発達に影響を及ぼすことが最近の研究で明らかにされている。例えば、サルでも恐怖体験つまり重篤な社会的ストレスで死ぬことがあるという。前章で挙げた『とらわれの脳』には、スタンフォード大学のサポロスキー博士の研究がその例として紹介されている。
 この研究にいうストレスというのは、ある地域で繁殖し過ぎたサルを船便で霊長類センターに送る二週間の間の、檻のなかのぎゅうぎゅう詰め生活であった。野生のサルは、上位下位がはっきりしていて、いっしょくたにされると下位のサルは上位のサルに苛められるばかりで逃げ場がない。そのストレスから胃潰瘍や副腎の肥大、腸炎、免疫機能不全を起こし、ついに何匹かのサルが死んでしまったというのである。そして死んだサルの脳を調べてみると、ストレス状況を乗り切ったサルに比べて、大脳辺縁系にある海馬が委縮していたという。
 この研究から、ストレスに対する「海馬」の働きが明らかにされている。つまり、ストレスに対処するには海馬が正常に働いていることが必要だが、重すぎるストレスは緊急ホルモンの出っぱなしという状態を作り、安全装置である海馬に過剰な負担をかけ、その結果ニューロンを傷つけて海馬全体を委縮させてしまうというのである。慢性ストレスに長期間さらされている場合は、海馬のニューロンは永久的に失われてしまうという。
 人間でも、同じことが言えるのだろうか。
 10年、20年前には、少年鑑別所や少年院には、顔や体に折檻の傷跡が残り、まともに発達するのを放棄してしまったような子どもが時々いた。大人の顔をまっすぐ見ようとせず、手負いのオオカミのように、隙があれば噛み付きそうな気配を漂わせていた。救護院(現在の児童自立支援施設)から逃走し、野宿のあげく、かっぱらいをして捕まった少年を思い出す。
 しかし、三年近くたって会った時、少年はバイクの運転免許を取って八百屋の配達をしていた。家庭裁判所に呼ばれた理由は、軽い交通事故だったのである。前歴の綴られた分厚いファイルと、父親に金槌で殴られた時にできたというおでこの傷がなければ、本人だとは分からなかった。
 こういうときに、私は人間の回復力のすごさを感じる。実験室のサルとの違いである。サルは金槌で子ザルを殴ったりはしないが、運転免許も住み込み就職も無縁だ。
 現在もこの国のどこかで、ひどい折檻に遭っている子どもはいるのだろうが、子どもをめぐる物理的な状況は、昔に比べれば格段によくなっている。暴力的な父親は、さっさと家族から愛想をつかされ、同居を維持することができなくなった。体が傷だらけになるまで子どもが救済されない事例は、あったとしても大きな数ではないだろう。
 しかし、ネグレクトや心理的な虐待は減ってはいないように思われる。紙おむつに託児所、ベビーフードが一般的になり、育児の手間は減った。「子育ての外注化」が一般的になり、親が自分のために使える時間は増えた。それなのに、いやそのせいか、子どもは「よい子で当たり前」という根拠のない思い込みが支配的になっている。じつは、その思い込みからさまざまな問題が発生している。
 さて、「虐待防止法」にいう虐待は、身体的虐待、性的虐待、ネグレクト(親業の無視・怠慢)、心理的虐待の四種類である。このうち、身体的虐待とネグレクトで全数の80パーセント強を占めている。私が実際にかかわるのは、虐待からの回復が遅れて非行などの不適応行動があらわれた事例ばかりだが、ここではまず思いつくままに、子どもの発達に応じて生じやすい虐待とその対策を示してみることにしたい。
 (一)乳児期(0歳から一歳)の問題
 子どもの乳児期に虐待が起きるのは、産み落としてすぐに死なせてしまう嬰児殺が極端な例である。その場合の原因は、もっぱら母親の資質や、置かれた環境にあるといえるように思う。
 安易な男女関係によって産み落とされた乳児は、心理的にも物理的にも養育保護に適した環境を得ることができない。乳児はまさに「招かれざる客」であって、ミルクを与える手間もおむつを換える手間も「面倒だ」と感じられ、泣けば、「やかましい」となる。
 主たる養育者、たいていは母親だが、その母親自身が抱える知的障害やうつ病、不安障害などの精神障害が引き金になることもある。生活苦、不和、あるいは夫婦間の暴力が深刻という場合もあるので、母親をめぐる環境側の要因をチェックして、ひとつひとつ解決していく必要があるだろう。
 この時期の子どもはあまりにも無力なので、養育能力の乏しい者に任せることは、生命の危険につながる。親族の適切な援助が得られればよいが、そうでない場合は乳児院や母子施設に保護することが必要であろう。
 (ニ)幼児期(二歳から五歳)の問題
 幼児期は、子どもにとって言語の獲得がいちばんのテーマである。言葉を獲得することによって、子どもは自分をコントロールすることができるようになっていく。ところが、応答性のある言葉を十分に経験させないと。言葉の概念はなかなか定着しない。知っている言葉は増えても、じっさいに使える言葉は少ない、という現象が起きる。使える言葉が増えないと知能も伸びないし、友だちとも遊べない。
 また、親(養育者)の側が、感情の赴くままに、あるいは飲酒などによって、子どもを可愛がってみたり撥ね付けてみたり、と不安定な態度をとると、子どもの情緒は安定しない。同じことをしたのに、あるときは叱られ、別のときは褒められるというのも子どもを混乱させてしまう。
 一方、子どもの側の素因も、親の養育姿勢に負の影響をもたらすことがある。一生懸命に子育てに取り組んでいる母親であっても、子どもの発達に遅れがある。聞き分けがまったくない、よその子どもと違うように見える、となると、平静ではいられない。子どもにとって、この時期の親というのは「全世界」とほとんど同義だが、一方の親にとってもこの時期の子どもは「私のすべて」というに近い存在なので、「聞き分けのなさ」や「発達の遅れ」は耐え難い苦痛になる。そこで、言葉の暴力や体罰、あるいは無視が起きることになるのである。
 もし親が孤立している場合は、問題は必ず悪化する。気持ちを楽にさせるための周囲の気配りが必要であるし、子どもの発達に関する専門家のアドバイスが重要であろう。しかしそういうサポートが得られたとしても、子どもの病院通いやさまざまな心配ごとや、周囲からの配慮のなさが重なると、親は疲弊してしまい、配偶者に対して余裕のある態度をとることができなくなる。
 「小さな子どもを抱えての離婚、大丈夫?」というケースでは、「(夫もしくは妻が)いない方が、精神的に楽」という答えがよく聞かれる。それほどに現代の育児はプレッシャーのきついものになっているようだ。
 (三)児童期(六歳から一二歳)の問題
 小学校に行き始めると、子どもの世界はいやおうなく広がる。それまでの養育が孤立した、多少不適切なものであっても、健康な大人や同年齢の友達と数多く出会うことによって、遅れや偏りに挽回や修正が行われる時期である。
 しかしその一方で、それまであまり目立たなかった子どもの特徴(遅れや偏りも含めて)が、成績表や仲間はずれによって、白日のもとにさらされてしまう時期でもある。
 この時期の子どもたちは、無邪気な反面、とても残酷なところがあるので、個々の子どもが抱えている客観的な事実、たとえば家が貧しいとか、親が単親だとか、勉強ができないとか、のろのろしているとか、体の特徴とかを、ずけずけ言ってしまうことがある。
 親からひどい体罰を受けたり放任されたりしている子どもは、びくびくしたり、ルーズであったりすることが多いので、子どもたちの中で対等にふるまうことが難しい。親からは不適切養育を受け、子ども仲間からもいじめに遭うという、まるっきり「立つ瀬のない」ところに老いこまれてしまうのである。
 こういう様子を聞くにつけ、みんなが貧しくて、子ども心をくすぐる商品などが溢れていなかった時代のほうが、子どもにとっては楽だったろうなと思ってしまう。
 さて、折檻や、無視、偏った食事、あるいは学校に行かせないというような事実があれば、なるべく早い時期に、学校から親に対して忠告や指導があってしかるべきだと思われる。だが、親の側に反発が予想されると、教師の腰は引けてしまうにちがいない。子どもと担任教師の関係は年単位なので、関係の悪化は致命的である。
 だからもし、親に対して指導の必要があるという共通認識が持たれたら、担任教師以外のアドバイザーが、「育て方を工夫する必要がある。今のやり方を改善しないと将来、本人に悪影響が出る危険性が高い」ということを告げるのがよいように思う。
 そのときは同時に、改善に向けての具体的な方法とかアイデアを提示する必要がある。「こうするとうまくいく」というアドバイスつきならば、人は案外、忠告に対して素直になれるものだということが、私にも試行錯誤の末、最近やっと分かってきたところである。
 気を悪くするようなことを人に告げる、というのは誰にとっても辛い仕事なのだけれど、問題行動を頻発させるというかたちで、子どもが「虐待」や「不適切養育」を告発する前に、できるだけの手を打つことが必要である。そのときは、役割を分担して、チームワークでいくことがうまくやるコツだと思う。」藤川洋子『少年犯罪の深層――家裁調査官の視点から』ちくま新書、2005年、pp.138-145. 

 考えれば考えるほど、孤立した親の子育てを安定した環境に置く安全装置(保育所・保健所・学校・支援施設などの公的支援)などは、今の日本ではなかなかない。それでも、おそらく8割の子どもたちは、親がじゅうぶんな養育の余裕がなくても、何とか秩序のなかで自立する力をつけていくと思う、とぼくは思っている。問題は残りの2割ほどの子どもは、辛い幼少期を送るなかで、逸脱行為に誘惑される負の条件を背負ってしまう。


B.タリバンは悪の組織なのか?
 アフガニスタンからの米軍撤退で、一気に政権を握ったタリバンとはいかなる組織なのか?アメリカなどタリバンを過激なテロ組織として敵とした国のメディア(日本の報道はややとまどいもあるが)は、タリバンがイスラム過激派のように民衆への暴力や人権抑圧を行う悪の組織という見方を変えていない。しかし、タリバンはかつてソ連の侵略に抵抗してこの国を治めた政府であったわけだし、米軍にも抵抗して結局米軍を追い出したわけだから、アフガンの民衆が喜んで支持はしないとしても、民主的な政府をなんとか実現する可能性もないわけではないのではないか。テレビ報道では、市民のタリバンに対抗するデモが行われている映像も出た。もっとも今は過渡期で、こうした報道もどこまで信じていいか怪しいんだけれど…。とりあえず新聞に載っていたアフガンに関する3つのコメント。

「考/論 米国中心から大国間の競争へ 象徴:中山俊宏・慶大教授(米外交・外交)
 米国は20年にわたりアフガニスタンに介入し、国造りを支え、軍を育成してきた。多額の資金を投じ、米国人の犠牲も払った。しかし、米軍の撤退が本格化した途端、アフガニスタンはポキッと折れた。「米国と同じようにすれば世界は良くなる」という米外交のビジョン、信念もポキッと折れた。米国中心の時代が終わり、大国間競争の時代に入ったことを象徴する動きだ。
 中国の一部メディアなどでは「米国は信用できない」「台湾有事の際も米軍は助けに来ない」といった言説を広げようとする動きがあるが、注意が必要だ。確かに、世界からの米国の撤収志向は顕著で、今後も中東への関与を弱める方向性は変わらない。米国にとって、現在の最重要課題は対中国であり、インド太平洋地域でのプレゼンスを維持する方針はぶれない。
 今回の米軍撤退は手法とタイミングに大きな問題があり、バイデン大統領の判断力に疑問符がついた。同盟国も不安を抱いただろう。とはいえ、同盟国に米国以外のどんな選択肢があるのか。日本は「米国にとってアジアは重要だ」と伝え、日本自身がパートナーとして何をすべきか考え、米国と協力していくしかない。(聞き手・松井望美)

中ロ重視の地域 タリバン懐柔策か:鈴木一人・東大大学院教授(国際政治学)
タリバンは「大人」になったかのように振る舞っている。戦闘員に暴力や略奪を禁じるなど、国内外から承認を得ようとしている。外交や政治的交渉を通じて、イスラム主義国家を作ろうという意志が強くうかがわれる。
国内に拮抗する力をもつ抵抗勢力はないが、各地を支配する指導者がいる。単独で国を統治するのではなく、各地の勢力を束ねた統一政府を実効支配する形を目指すだろう。アフガニスタンを空白地としないためにも国際社会はこうした政府の存在を認めざるを得ないが、積極的に手を差しのべる西側諸国はないだろう。
 中国にとっては経済圏構想「一帯一路」の要衝で重要な地域だ。7月末にタリバンの代表団が王毅国務委員兼外相と会談するなど対話を進めている。新疆ウイグル自治区のイスラム教徒への影響力を及ぼさないように懐柔したとの意図もみえる。中央アジアへのイスラム過激派の拡散を防ぎたいロシアも、経済的恩恵を与えていくだろう。
 米国がいなくなり中ロが地域で存在感を増すということがオセロゲームで角のマスがひっくりかえたようなものだ。ユーラシア大陸全体のバランスが変わるだろう。(聞き手・小野甲太郎)」朝日新聞2021年8月18日朝刊9面国際欄。

 「ほんとの姿は? 斎藤美奈子
 十五日、米軍が撤退しアフガニスタンの首都カブールをタリバンが制圧した。日本のメディアは悪夢が復活するといわんばかりの書きようだ。
 みなが恐れるタリバンとはどんな組織なのか。参照すべきは現地で長く活動してきた故・中村哲さんの言葉だろう。
 2001年、米国がアフガニスタンを爆撃した直後のインタビューで中村さんは答えている。
「日本の論調では、ひと握りの悪の権化タリバンが力をもって罪のない民衆を抑圧するという図式が成り立っていたわけですけど、それはちょっと違うんです」
 タリバンはソ連撤退後のアフガニスタンに平和と秩序をもたらした地域集団の集合で、人々は歓迎していた。そこに英米軍が侵攻してきてグチャグチャにされた。それが現地の庶民の感覚で、女性に教育を受けさせないといってもカブールには何十もの女学校があって「かなり規制は緩んでいたんです」。西側の報道がいかに一面的か、目が覚める思いがする。
 02年1月号から九回に渡って行われたこのインタビュー記事は、現在ロッキング・オンのウェブサイトで公開されている(「中村哲が14年に渡り雑誌『SIGHT』に語った6万字」)。
 廿年後のいまもワシントン発の情報だけで判断はできない。平和を乱したのは誰だったのか。いまこそ考えるべきだろう。(文芸評論家)」東京新聞2021年8月18日朝刊21面、本音のコラム。
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少年犯罪をめぐって 1 家裁調査官の仕事  フェミって罵倒語?

2021-08-17 18:52:25 | 日記
A.非行の三要因 
 家庭裁判所の調査官という仕事がある。公務員で法律家のひとつだが試験は法律だけでなく、社会科学的な知識も必要とされるので心理学とか社会学の修士などが受験できる。ぼくの後輩にも家裁の調査官になった人がいるので、それが主に家裁が扱う事件の審理のために当事者や関係者に会って調べるのが仕事だとは聞いていた。その調査官のヴェテラン、大阪家庭裁判所総括主任家裁調査官、藤川洋子さんという人の書いた『少年犯罪の深層』(ちくま新書、2005年)を読んでみる。家裁調査官が扱うのは離婚などの家庭家族の問題がひとつ、そしてもうひとつは子どもの非行である。少年犯罪というのは「少年法」にもとづいて処遇される事件とその犯罪を起こしたと認定された少年(18歳までを少年とする規定だが、2001(平成13)年に罰則を強める改定があった)の問題である。

 「成人の犯罪では、「人」が裁かれるのではなくて、「罪」が裁かれる。「人」は生きているから時々刻々と変化してしまうけれど、「罪」というのは特定することができる。逮捕状を示されて、そこに容疑事実が何も書かれていないということはあり得ない。
 少年の犯罪の場合も、逮捕状に容疑事実は書いてあるが、家庭裁判所の審理(調査や鑑別)が始まると、成人の機械的な審理とは様相が異なってくる。裁判官は、犯した罪と同時に、少年本人の「再犯危険性」や「矯正可能性」を見る。特定された「罪」ばかりでなく、呼吸し、心臓の脈打つ生命体を生きたまま、まな板の上に載せるわけである。
 再犯危険性を予測するには、成育歴をさかのぼって聞き取らなくてはならない。小・中学校でどうであったか、幼稚園でどうであったが、友だちと何をして遊んでいたが、育てやすかったか、生まれた時の様子はどうだったか、怪我や病気はあったか、親の側の状況はどうであったか、子どもはそれをどう受けとめたか、きょうだいとの関係はどうか、それまでどんな悪さをしたか、その時、親はどんな注意をしたか…。
 矯正可能性となると、本人の資質や考え方が問題となる。様々な問いかけが必要である。理解力はどのくらいだろう。理解できることと、できないことに差はないだろうか。自分のしたことの意味がどのくらい分かっているか、被害者の立場になって考えることができるか。それらを解明するのに、知能テストや心理テストも大いに役に立つ。
 そうした家裁調査官としての経験から、非行を三つの要因に分けて考えると便利だと思うようになった。
 まず、一番目が、生物的要因である。脳の働きの不具合も含めて、生物・医学的レベルの問題をどれくらい抱えているかを見なくてはならない。脳の構造的な異常や脳の出す電気信号(脳波)の異常は、器質障害と診断されよう。また最近では、はっきりした器質因が見つからなくても、行動や認知の特徴から自閉症スペクトラム障害や、ADHD(注意欠陥・多動性障害)、LD(学習障害)といった発達障害が診断されるようになっている。
 二番目は、心理的要因である。さまざまな生育上のエピソードが、本人にどのような影響を及ぼしているかを明らかにする必要がある。非行少年は、家族との離別や両親の不和を抱えていることが少なくない。離婚や別居がどのようにして起こったか、そしてどう感じたかを聞き出す。激しい体罰を受けたり、転居を繰り返したり、養育者が転々と変わっている場合もある。
 学校内のいじめられ経験は、学校教師による蔑視や暴言とともに、子どもの心に大きな傷を残す。それはしばしば親から受ける影響よりも大きい。それらが、学校不適応の原因を作り、ひいては非行の下地になることがある。
 三番目は、社会・文化的要因である。
 遊び仲間や、共犯者や先輩は、どのぐらい本人に影響力のある存在なのか、その関係が地域や学校ではどのように見られているか、といったことは重要である。バイク盗や、喫煙、飲酒、暴走行為などという非行や不良行為は、身近にいる不良先輩を模倣することから始まる。先輩から後輩へと脈々と非行文化が受け継がれていく地域もある。違った土地から来た者は異端視され、排除されやすい。言語や習慣の違いが大きければ、社会的にも心理的にも孤立しやすいことは言うまでもない。
 私たち家裁調査官は、これらを明らかにするために面接するわけだが、いきなりスラスラ答えてくれるわけではない。「話す」ことによってあまり得をした経験のない子どもたちが多いせいでもあるが、「そんなこと聞いてどうするの?」「関係あるの?」と言わんばかりの少年や保護者に話をしてもらうのは、なかなか骨の折れる仕事である。「信頼関係づくり」まで欲張らずとも、少なくとも誠実に話を聞くつもりであることを少年に感じさせてやらねばならない。
 また、いちばん初めにあげた生物的要因、ことに発達障害を明らかにするには、生い立ちについてかなり丁寧にエピソードを聴き取っていくことが必要である。信頼性の高いチェックリストを用いたり、保護者ばかりでなく、学校で少年をよく見ている担任教諭らの協力が得られると、格段に精度が上がる。
 家庭裁判所に送致される非行であっても、少年が犯す非行の七、八〇パーセントは、自転車盗やバイク盗、あるいは万引きといった青少年期の生活の荒れに由来する一過性のものであるが、近年、物欲や恨み、あるいは遊びといった分かりやすい動機では説明できないような事例が目立つようになっている。心理的あるいは社会・文化的なマイナス要因をほとんど持たない非行少年の割合も増えているように思える。
 例えば、家庭崩壊により子どもが家にいるのを嫌って非行に走るという構図は、前述のマイナス要因と深く関連していて分かりやすい。昔から、非行少年に家出はつきものであった。ところが、平成一六年版犯罪白書にある「少年院新入院者の非行時における家族との同居率の推移」統計によると、二〇年前、つまり昭和五九(1984)年には家族と同居していたのが男子で約六〇パーセント、女子で約四〇パーセントであったのが、平成十五(2003)年では、男子約八二パーセント、女子約六八パーセントに増加している。
 このデータもさまざまに読める。「居場所」があるにもかかわらず、少年院に収容されるほどの非行を犯してしまう少年が増えたとも、家族の存在が非行に対するブレーキの役割を果たせなくなったとも。つまり、その少年をめぐる環境要因を列挙しても、なぜ非行したかがはっきりしない。従来の犯罪心理学や犯罪社会学の視点だけでは、解明が困難な事例の増加である。そういうところに、どうも生物的要因が関係しているのではないか、という疑いが生じてくるわけである。
 一方、特殊教育の分野では、医学とタイアップした研究に長い歴史がある。従来は、視覚障害、聴覚障害と並んで知的障害がその中心であったが、次第に診断スキルが精密になり、通常学級のなかに軽度の発達障害を持つ者がいることが分かってきた。特殊教育が、他の先進国では10パーセントにも及んでいるのに対し、我が国ではわずかパーセントに過ぎないことの「無理」あるいは「不自然」が浮き彫りになってきた。
 全体的には知的障害があるとは言えないのに、ある特定の分野がひどく苦手だという子どもたちに文部省(現文部科学省)も注目していた。教育学者や医学者らがその子どもたちを研究した結果、練習量や親のしつけの問題ではなく、不特定の領域の不具合と関係することが明らかにされた。
 平成11(1999)年七月には、「学習障害」が定義され、特別支援教育に向けての取組みが始まった。その頃、いわゆる学級崩壊が大きく取り上げられ、その元凶としてADHD(注意欠陥・多動性障害)が取りざたされたこともあり、教育界の問題意識が一挙に高まった。その結果、学習障害に加えて、本来は医学概念であるADHD、および高機能自閉症(知的な遅れのない自閉症)あるいはアスペルガー障害が、特別支援教育の対象に加えられ、その実現に向けて、拍車がかかった。
 「平等」、「公平」は、すべての人に備わる基本的な人権であるが、同じ教室で同じように教わることが平等と言えるのか、公平と言えるのか、という議論が起きてきたわけである。本当のノーマライゼーションとは、心身の機能不全に対してきちんとサポート態勢がとられることではないのか、という問いかけである。
 平成15年三月には、文部科学省による実態調査の結果が公表された。それによると、いわゆる学習障害が四、五パーセント、ADHDが二・五パーセント、対人関係やこだわりのある児童が〇・八パーセントにのぼっている(重複があって全体では六・三パーセントである)。
厚生労働省も、発達障害者支援に向けて調査や研究に力を注いだ。そして、平成十六年一二月には「発達障害支援法」が成立し、発達障害を有する人びとを理解し、支援することが国の課題となり、一挙に一般の人々にも発達障害に対する理解が浸透することとなったのである。
しかし、である。その種のサポートも得られず、親から悲しい目に遭う一群の子どもたちがいた。それは、被虐待児である。子どもに発達障害があると、養育者からの虐待を受けやすいということが専門機関から報告されるようになってきているが、果たして実情はどうなのだろう。ここではまず、虐待の諸相を見ておくことにしたい。(続く)」藤川洋子『少年犯罪の深層――家裁調査官の視点から』ちくま新書、2005.pp.132-138. 

 少年犯罪の事件数や犯罪少年の数量だけみれば、日本は少しづつ長期的に減少している。そして、少年犯罪の内訳も7,8割は自転車バイク盗や万引きといった比較的軽い犯罪で、殺人や強盗のような犯罪を犯す少年は多くはない。ただ、ときどき世間を驚かすような凶悪事件を18歳未満の子どもが引き起こすと、メディアは大きく報道し、その親や家庭環境について細かく報道するので、世間の注目を浴び、少年法の改定も議論された。ただ、一般の人々は少年犯罪の実態、とくに犯罪少年がどういった成育歴、家庭環境、そして本人の身体的・心理的・社会的背景まで理解できる情報があるわけではない。家裁調査官は、その現場で当事者たちと面接し、いわばもっとも現実に近い専門家だと言える。この本にいくつか具体例が出てくるのでそこを少し読んでみる。


B.フェミニズム・フェミニストって言葉は、罵倒語なの?
 ネットで特定個人を罵倒するヘイトスピーチが頻出する際、日本ではどういう否定的な言葉が使われるか?SNSなどを覗いてみると「反日」というのが目立つが、ほかにも「サヨ(左翼)」など昔の「反共的言説」が左翼の絶滅化で意味を失ってしまったので、なんでも「反日」で単純化している気もする。嫌韓・嫌中など特定の国・国民を排外的に貶める言葉は、ある意味昔からず~っとあるのだが、日本人に対して「反日」が罵倒語になるのは、韓国や中国の肩をもつ奴は敵だ!という図式、戦争中の「鬼畜米英」と同様悪役をつくって盛り上がる愚かな精神のつくり出す妄想だろう。これとは別に、「クソフェミ」というのは、どうやらフェミニズムを敵視して発せられているのだろうが、女性解放運動への敵視蔑視だとすれば主張者は男だろう。中高年男性のオヤジ文化がフェミニズムを嫌うのは当然のような気はするが、韓国では若い男性から「フェミ」が罵倒語として使われるというのは、ちょっと驚いた。女子選手がショートヘアで国際試合に出ただけで、批難され罵倒されるのはちょっと理解を超えている。日本でも若い男性たちは、フェミニズムを毛嫌いしているのだろうか?

「ショートヘアなら「フェミ」? 五輪アーチェリーで3冠 韓国代表・安選手にSNS中傷
 東京五輪のアーチェリー女子で、韓国代表の安山選手(20)は三冠に輝いた。夏季五輪一大会で三個の金メダルを獲得したのは韓国初。しかし、同国の会員制交流サイト(SNS)などには中傷があふれた。理由はショートヘア。髪型だけでフェミニストと断定し、攻撃する。こうした動きは「バックラッシュ」と呼ばれる。女性の権利向上を求める運動が広がるたび、男性が「逆差別だ」と不満を募らせる行為で、日本でも起きている。
 「ショートヘアならフェミに違いない」「メダルを返せ」。発信者の多くは若い男性とみられ、激化したのはフェミニズム運動が急激に広がった反動とされる。家父長主義的な文化が根強い韓国でフェミニズム運動が盛り上がったきっかけは、2016年にソウルで起きた女性を狙った殺人事件。多くの女性が怒りの声を上げた。
 18年には女性検事が検察幹部のセクハラを訴え、欧米で広がった「#MeToo」(私も)の先駆けに。「82年生まれ、キム・ジヨン」などフェミニズムを扱う書籍もヒットした。一方で拒否感を示す男性も増えた。
 韓国の女性家族省が20年、15~39歳の男女約一万人を対象にした意識調査によると、韓国社会が「男性に不平等」と答えた男性は約52%。一方で「女性に不平等」と回答した男性は役19%だけ。バックラッシュの背景には、若者の就職難や経済的困窮による不満の高まりがあると指摘される。
 運動に参加してきた早稲田大三年の韓国人女性(26)は「ネットが『フェミニスト狩り』の場になった。当事者も声を上げにくくなり、議論が進まなくなっている」と漏らす。
 「私が発言をやめるまで、ずっと続くと思う」。
 日本で19年、職場でのヒール靴強制に反対する「#KuToo」運動を呼びかけたライターの石川優実さんは、ツイッターで誹謗中傷を受けた。「クソフェミ」「世間はおまえをおかしいと思っている」。ブロックしても新しいアカウントから投稿され、今も続く。#KuTooが国会で取り上げられるなど、注目を集めるほど攻撃も強まる。バックラッシュだ。
 「見なければいい」とアドバイスされることもある。ただ、「放置すればジェンダー平等やフェミニズムへの嫌悪はそのまま残る。デマや中傷を否定しないのはおかしい」と思う。ジェンダー関連の活動をしている他の女性からも似たような悩みを聞き、「これから声を上げようという人が出なくなるのでは」と懸念している。
 安選手は五輪の場でコメントしなかったが、ネット上では応援するように短髪の写真を投稿する女性が相次ぎ、中傷に屈しない連帯の輪が即座に広まった。石川さんは「声を上げた人を独りにせず、擁護や支援の輪を広げることが必要だ」と訴えている。」東京新聞2021年8月17日朝刊22面特報欄。
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