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「日本近代美術史論」 7  岡倉天心  雅楽という文化財

2024-05-01 13:32:58 | 日記
A.自分では描かない美術指導者
 “The Book of Tea”はOkakura kakuzoが1906年にニューヨークで出版した本で、日本の茶道と日本人の美意識や精神文化を欧米人に解説したもので、新渡戸稲造の『武士道』と並んで、明治期に日本人が英語で書いた著書として注目される。ジャポニズムや日露戦争における勝利によって、日本への関心が高まったヨーロッパ各国(スウェーデン、ドイツ、フランス、スペインなど)でも翻訳された。つまり、これは西欧人に向けた書かれた本で、日本人が読むことを想定していないし、現に当時の日本ではほとんど読まれなかった。著者は英語に堪能で西洋文化を知悉していたが、文明開化の明治時代にあって欧化論者ではなくむしろ保守的伝統論者といってもよい立場にあった。
 岡倉天心(1863(文久2)年~1913(大正2)年)は、日本の思想家、美術理論家。本名は岡倉覚三といい、越前福井藩士の父が幕末に開港した横浜で、学国との貿易を担当したことで、覚三は横浜で生まれ、そこで育ち漢籍とともに早くから米人宣教師バラーの塾で英語を学ぶ。開成学校でフェノロサの講義を聴き、その助手のような仕事をするうち東京美術学校の設立にかかわり、いきなりその校長となる。近代日本における美術史研究と美術の制度化に大きく貢献した。また、英文による著作を欧米で出版し、日本美術院を作って大観や春草などの美術家の養成、ボストン美術館中国・日本美術部長を勤め、日本のみならず東洋の美術への世界への発信宣伝に大きな寄与をした。なお、「天心」は、彼が詩作などに用いた号であるが、生前に「天心」と呼ばれることはなく、本人はアメリカでもOkakura Kakuzoで通していたという。(以上は主にWikipediaの記述による)

「生前においても、死後においても、岡倉天心ほどその評価の振幅の激しい人物は日本近代の歴史においては類例が少い。わずか二十五歳、今で言えば大学を出てようやく就職したばかりといった年齢で美術取調員として欧米諸国に視察に赴くという大役を与えられ、二十九歳で新設されたばかりの東京美術学校の校長に任ぜられたということは、いかに若いエネルギーを求めていた明治の時代においてとはいえ、かなり異例の出世であったろうし、それほどまで華やかな出世コースを辿りながら、三十七歳で早くも失脚して職を追われたというのは、さらに異例のことであったに違いない。このように波瀾の多い生涯は、とりもなおさず、彼の優れた才幹と奔放な性格に対する人々の評価のあらわれであった。天心は、有力な支持者や熱烈な心酔者と同時に、多くの敵をも持っていた。それだけに、天真に対する同時代人たちの証言は、よい意味でも悪い意味でも、何らかのバイアスをともなっている。そしてそのことが、われわれに天心という人物像を正確に把握することを困難ならしめるのである。
 さらに、天心自身の活動の多様性が、その困難を倍加している。事実われわれは、天心のような人をどのようなカテゴリーに分類すればよいか、ただ途方にくれるのみである。彼は同時に思想家であり、教育者であり、行政官であり、美術史家であり、批評家であり、芸術運動の組織者であり、美術館の管理者であり、しかもそれらのいずれの枠からもはみ出してしまう存在であった。明治以降の近代日本画の発展に天心が決定的な役割を演じたことはおそらく誰しもこれを否定することができぬが、しかし彼自身彩管を手にして創作活動を行なったわけではない。といって、批評家、理論家、学者と呼ぶには、遺された著作、評論はあまりにもわずかである。天心の近代日本画に対する影響は、理論的活動を通してよりも、東京美術学校の開設や日本美術院の創設という実践活動を通して、さらには、大観や春草たちとの人格的触れ合いを通していっそう強く作用した。しかもそれは、普通に「影響」という言葉で呼ぶものより、はるかに強烈で本質的なものであった。大観や春草は、天心によって見出されたのではなくて、天心によって生み出されたのだと言ってもよい。日本美術院は、――少なくとも初期の日本美術院は――、大観や春草の美術院であるよりは、やはり天心の美術院であった。われわれが、近代日本画の歴史を再検討するにあたって、天心の存在を無視することができないのは、まさにそのためである。
 その意味では、天心が生前に発表した著作として、『東洋の理想』、『日本の目覚め』、『茶の本』のいわゆる英文三部作以外、何らまとまったものを残していないということは、後世にとっても、また天心自身にとっても不幸なことであった。生きた天心に接することのできない後世は、もっぱらこれらやや特殊な状況のもとに描かれた英文著作を通して自己の天心像を形成していったからである。そして事実そのことは、天心を理解させる以上に、彼を誤解させるのに役立ったようである。第二次大戦前から戦中にかけて、天心が国家主義の代弁者として不当に持ち上げられたのも、またその結果戦後になってからは逆に厳しい批判の的となったのも、これら英文の著作を通して、国粋主義者天心というイメージがいつのまにか作り上げられてしまったからにほかならなかったのである。
 むろん、天心に国粋主義者と呼んでいいような一面があったことは否定し得ない。しかしその反面、彼は、そう言ってよいなら国際主義者でもあった。もともと天心の父岡倉勘右衛門は越前福井藩の藩士であったが、藩主松平春嶽の意を受けて、海外貿易のため横浜に開かれた藩の売込店支配人となり、角蔵(後に覚三)が生まれた時には横浜本庁一丁目に住んでいた。したがって、少年覚三も当時としては最も国際的な港町横浜の新しい空気を存分に吸い込んで育ったわけである。しかも、父勘右衛門の店は、福井藩国産の生糸類の売込みが主要な業務であったので、その店には外人商人の出入りが盛んであったという。そして、角蔵は、早くも七歳の頃から伊勢山下にあった高島学校で米人教師ジョン・バラーに就いて英語の学習を始めている。維新の変革期において、国際的視野と感覚を身につけるためには最も恵まれた環境に育ったひとりと言ってよいであろう。後年天心が自由に英語を操って国際的に多彩な活動をする基礎は、実にこの頃から養われていたのである。
 したがって、天心の国粋主義は――もしそれが国粋主義であったとして――、決して排他的な独り善がりではなかった。天心は、美術学校長時代、頭には冠帽を戴き、身には闕腋の袍をまとうという奈良時代の朝服をそのまま復活させたような制服を定めて、その服装で馬に乗って学校に通ったというほどの「伝統主義者」ではあったが、しかし、なま半可な欧化主義者よりもはるかに深く西欧の事情に通じており、その文化にも明るかった。後年の天心の日本画復興運動が、ただ単に古式を復活させるということだけではなく、場合によっては洋画の優れた点をも取り入れて、新時代にふさわしい日本画を創り出そうとしたものであったことも、彼が単純な復古主義者ではなかったことをよく示している。いや、敢えて言えば、天心のように幼少の頃から西欧の雰囲気をじかに肌で受け止めて育ち、漢字よりも先に英語で読み書きすることを学んだ人間にとっては、自国のみを絶対化することは、たとえしようと思っても不可能なことであったに相違ない。美術学校の制服に奈良時代の朝服を復活させたという話から明らかなように、天心は平生より和服を好み、外国に旅するときももっぱら羽織袴を着用したが、それとても、現在においてもなお時に欧米にある日本人のあいだに見られるように、好んで人眼をそばだたせるためのものでもなければ、ましてや異国趣味を売り物にするためでもなかった。明治三十七年、ちょうど日露開戦の年、天心は大観、春草、六角紫水の三人とともに米国に赴いたが、出発に先立って紫水が、自分たちも和服で行った方がよいかどうか天心におうかがいをたてたところ、天心は静かに、それはどちらでもよいが、英語を自由に話せるのなら和服の方がよかろうと答えたという。このエピソードは、私にはきわめてよく天心の人柄を伝えてくれるものであるように思われる。要するに天心は自己の趣味に忠実だったまでなのである。ただ彼は、それが何かのためにするものでるかのようにとられることを虞れた。日本古来の伝統に忠実であることが、西欧とのコミュニケーションを妨げる障壁となることは望まなかった。つまり天心は、伝統主義者ではあったとしても、文化の攘夷論者ではなかったのである。
 だがでは、それほどまで広い国際的感覚の持主であった天心が、戦争中、国粋主義の代表者のように仕立てあげられてしまったのはなぜであろうか。むろん、天心の名を利用しようとした人びとにためにする曲解があったことは否定できないが、天心自身の方にも、若干の責任がなかったとは言えない。というのは、すでに述べてきたように、天心は、自己の思想をはっきりしたかたちで後世に伝えるような著述をひとつも残さなかったからである。われわれに残されたものは、新聞や雑誌に発表されたきわめてわずかの短文を別とすれば、後にも先にも、英文三部作のみである。他に著作がない以上、われわれはその英文三部作をもって天心の主著としないわけにはいかないが、しかし、そこに天心の思想が余すところなく表明されていると思うのは、大きな誤りである。むろん、これらの著作のなかに天心の思想を読み取ることが出来ぬというのではないが、その際、われわれは、これら三部作のいずれもが、天心の外遊の機会に、西欧の読者のために、英語で書かれたものであることを忘れてはならない。それらはもともと、われわれ日本の読者を想定して書かれたものではないのである。
 栗原信一氏は、前章においても触れたその著書『フェノロサと明治文化』において、天心の本領は『東洋の理想』以下の著述の中に盛られた思想にこそあるとして、
 「……そしてその『東洋の理想』以下の諸書が英文で書かれ、外国で出版されたところに特殊の意味が伏在している。明治三十六年『東洋の理想』が、天心流の佶屈な日本文で書かれ、東京の一隅から出版されたとしても、一部具眼の日本人を感心させたにとどまって、時期尚早のため一般からは不問に附され。そのままに埋れ去ったかと思われる。天心が、その著書を英文で書き、倫敦で出版し、外国人の間に先ず知己をえた事は、非常に幸福なことであった。天心は、その本領を先ず外国人に認識せしめた、そうしてその逆輸入によって自国人の耳目を把捉したのであった……」
 と述べているが、このことは、半ば本当であっても、半ば本当ではない。天心の著書がまず外国で迎えられたことは、それが英文で発表されたものである以上当然のことであるが、それは、本来に本文で書かれるべきものがたまたま英文で発表されたと言ったようなものではない。それは、飽くまでも西欧の読者に東洋ないしは日本の文化を紹介するために執筆されたものであって、敢えて推測すれば、天心自身はそれがいつの日か日本語に移されることを期待していなかったのではないかとさえ思われる。もし明治三十六年という時点において、天心が日本文で何かまとまった著述を書き下ろしたとすれば、それは、たとえ「東洋の理想」について語ったものであったとしても、現存する英文の著書とはかなり違ったものになっていたに違いない。
 むろんだからといって、私は、『東洋の理想』や『茶の本』は、外人向けの単なる観光案内書だなどと言おうとしているのではない。随所に見られる天心一流の豊麗なイメージを別にしても、そこには東洋の伝統文化の本質についての鋭い洞察があり、芸術の歴史的発展に対する興味深い示唆がある。そして何よりも重要なことは、これらの著書では、西欧文化についても造詣の深い優れた思想家によって、東洋の文化的伝統のなかに育ちながらしかもそれを他の文化との対比において外から眺めることのできる人間、いわば、「英語を自由に話す和服姿」の人間によって書かれたおそらくは最初の東洋文化論である点に、天心の英文著作の重要な意味があるのである。
 しかしそれにしても、これらの著作が、外国人のために啓蒙的意図をもって書かれたものであること、したがってそれは外国において刊行され、日本の一般読者がそれらの「主著」に触れることができるようになったのは天心の死後十年も経ってからであり、完全に日本語に移されたかたちでそれらを読むことができるようになったのはさらに後であること等は、ここで指摘しておく必要があるであろう。つまり、日本近代美術史上における天心の影響は、決してその「主張」を通して与えられたものではなかったのである。
 天心が明治の美術界に決定的な影響を与えたのは、その「著作」を通してではなく、もっと直接的に実践活動を通してであった。明治二十年代から三十年代にかけて、新しく創設された東京美術学校の校長として、また教授として、さらに美術学校を追われてからは野に下って日本美術院の指導者として、天心の果たした役割りは、その後の日本画の発展を方向づけるものであった。この間、天心は、宮内省に設けられた臨時全国宝物取調局の取調掛や帝国博物館の学芸委員として、古美術の調査や保存にも力を尽くし、また欧米や中国、インド等へ調査旅行も行っている。
 天心のこの多彩な活動において、少くとも明治二十年代の前半頃までは、フェノロサの存在が陰に陽に強く感じられるのは、当時の天心とフェノロサとの関係を考えれば、当然のこと言ってよいであろう。
 もともと、天心が美術に興味を抱くようになったについては、フェノロサの影響を無視することができない。天心は、明治十年、開成学校が東京帝国大学に改められた時その第一期生として入学し、翌年夏招かれて来日したフェノロサの講義を受けることとなるのであるが、英語に堪能であった天心は、教室以外でもしばしばフェノロサと交渉を持った。後に天心の述懐として梅沢和軒の伝えるところによると、フェノロサは日本美術について、はじめのうちはもっぱら他人に聞くだけであったが、そのうち「いつまでも人の説のみを聞いてゐてはと言ふ気になつたものか、更に自分の力で十分研究攻覈して見ようといふ勇気を起したけれども、元来日本の書物はちつとも読めぬ故、私に種々の書物を調べて呉れと頼まれて、能く使はれたものだ。其はまだ書生であつたから、夏蠅(うるさい)と思つた事もある。それ探幽の経歴を調べて呉れの、沿革を精査して呉れのと、使はれたものだ。有賀君なども矢張り其中の一人で、時折洋食位の御馳走にありついた」(栗原氏の著書より引用)というから、いわば課外のアルバイトとして、フェノロサの手伝いなどしていたわけである。もっとも、天心が学生の頃から生涯の事業として美術論ではなくて『国家論』であった。ところが、この論文がささいなことから起った夫婦喧嘩の際、若妻の基子によってばらばらに破棄され、燃やされてしまったので、やむなくわずか二週間のあいだに改めて書き下したのが『美術論』だったのである。後に天心が自ら語っているように、もしこの時『国家論』がそのまま卒業論文として提出されていたら、美術界の指導者としての天心の生涯はなかったかもしれない。
 その後、天心は。文部省において文部少輔九鬼隆一に見出されて美術に専心するようになるのであるが、この頃から、フェノロサとの交渉が復活している。明治十五年には、フェノロサ、ビゲロー等といっしょに京都奈良の古社寺を歴訪しているし、明治十七年には、今度は正式の命を請けてフェノロサと古美術の調査に出かけている。奈良の法隆寺で夢殿の秘仏を開いたのはこの時のことであった。また、この年の第二回内国絵画共進会において、フェノロサが狩野芳崖とあい識るようになったのは、前章で述べた通りである。
 このフェノロサ、芳崖との出会いが、やがて美術学校の開設にまで実を結ぶ(もっとも芳崖自身は開校直前に世を去っている)ことになるのは広く知られている通りであるが、その美術学校の開校に先立って、天心は美術取調員として、フェノロサといっしょに九カ月間、欧米に出張旅行を命ぜられている。これは、美術学校を新たに開設するにあたって、欧米先進国の実情を調査して参考とするためであったが、その結果は、「西洋ノ事果シテ本邦ニ適スルヤ否ヤヲ考フルニ一トシテタダチニ之ヲ実施スベキモノナシ」という徹底した西欧否定論で、出来上った美術学校も純然たる日本の伝統美術を教えるためのものであった。」高階秀爾『日本近代美術史論』講談社文庫、1980年、pp.202-211.

 岡倉天心は日本の近代美術に大きな足跡を残した人だが、自ら筆を執る画家ではなく、創作者ではなくて、日本を代表して欧米に東洋美術の価値を知らしめ、日本人に対しては西洋とじゅうぶん太刀打ちできる画家・美術家を育てることに力を注いだ人と見ることができる。それがその後の世界にどういう形で実現していったかは、とりあえず彼の弟子たち、日本美術院の画家たちのその後を見ることで判断しよう。


B.雅楽のいま
 雅楽を直接聴いたことはない。たぶん、多くの人がそうであろうと思う。歌舞伎や能楽などと比べても、雅楽を生で見る機械はほとんどない。宮内庁楽部というところが、宮中の儀式などで雅楽を奏していると聞いたことはあるが、笙、篳篥などの雅楽特有の楽器を正式に演奏する(演奏できる)人はごく少数だろう。でも、千年それを伝承してきたのは事実で、それが宮中だけでなく奈良の社寺や大阪の四天王寺で伝えられていることは、この記事ではじめて知った。

「宮内庁×民間 千年の調べ次代へ  雅楽協会代表理事 小野 真龍 さん
 雅楽は宮中や寺社の儀礼で奏されてきた音楽と舞です。中国大陸や朝鮮半島からの外来音楽と日本古来の歌舞が融合し平安時代に完成、千年以上変わらずに上演されています。
 江戸時代までは、宮中、奈良の社寺、大阪・天王寺の3カ所で伝えられてきました。明治に楽人(がくにん)の大半が東京へ移り、四天王寺では聖徳太子をまつる「聖霊会(しょうりょうえ)」の舞楽の存続が危うくなりました。その時、近くの願泉寺従職だった私の曽祖父が伝承団体「雅亮会(がりょうかい)」を作って四天王寺の舞楽の伝統を守りました。私もそこで子供の頃から楽器と舞を学びました。
 皇室の儀式などで演奏する宮内庁式部職楽部の方たちと、私たち民間の雅楽人が、立場を超えて初めて集まり、昨年9月、「一般社団法人雅楽協会」を設立しました。目的は雅楽を次代につなげる環境作り。様々な課題の解決や提言、行政などへの働きかけをしてゆきます。
 目下一番の心配は基本の管楽器である篳篥(ひちりき)の材料になる植物ヨシの確保です。昔から、大阪の淀川河川敷にある鵜殿のヨシ原のものが最適とされてきました。しかし、よしずなど生活用品の材料としての需要が減り、地元で手をかけてヨシ原を守るのが難しくなっています。他にも、囲炉裏でいぶされたすす竹やべっこうなど、楽器の素材が手に入りにくくなり、、装束を作る職人の高齢化も深刻です。雅楽界全体の問題として取り組まねばなりません。
 雅楽というと縁遠く感じる人もいるでしょうが、関心を持って学ぶ人も増えていて、女性も数多く活躍しています。初歩から手ほどきをする団体もありますから、誰もが親しめる機会は広がっています。
 一方、世襲で伝統を受け継いできた「楽家」は、古代の天皇や貴族の末裔であることも珍しくありません。そうした歴史に思いをはせるのも、雅楽の楽しさでしょう。私が住職を務める願泉寺を創建したのは、飛鳥時代の遣隋使、小野妹子の八男です。私で44代目になります。  (聞き手・山口宏子)」朝日新聞2024年5月1日朝刊13面オピニオン欄「リレーおぴにおん 集まれば」より
 なお、記事にある小野さんの紹介分はこうなっている。
 1965年生まれ。天王寺楽所雅亮会理事長。京都大学博士(文学)。著書に「ハイデッガー研究」「雅楽のコスモロジー」「天王寺舞楽」。
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