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「能」を知る・補遺   加藤周一の指摘   言葉のズレ?

2024-04-04 17:35:40 | 日記
A.あった!これか。
 観世清和・内田樹『能ってこんなに面白い』を手掛かりに、能をお勉強してみたのだが、なるほど奥が深くて、なによりもっと能舞台を見なければ何も言えない気もするが、この本の中に出てきた世阿弥の時代の能は、江戸以降の武家の式楽ではなくて、もっと身分も階級も超えた芸能だったということを加藤周一が早く指摘していたという文章を読んで、それはどこに出てくるのか気になったので、加藤の『日本文学史序説』ではないかと思って書棚を探したら、『序説』の下巻はあったのだが、室町時代の能狂言に触れているであろう上巻が見つからない。それで、区立図書館で検索したら『日本文学史序説』本体ではなく、「『日本文学史序説』補講」(ちくま学芸文庫2012年)だけがあった。この補講は、世界7カ国語に翻訳され、高い評価を得た『日本文学史序説』について、著者みずからが2003年夏に、白沙会という読書グループが五日間の合宿で、著者加藤氏に質問と回答、そして議論をした記録という形で公刊されたものだ。これを借り出して読んだら、こういう記述があった。

「歌舞伎に大衆は登場しない。大衆に対する演説もしない。シェイクスピアにはよく出てきます。『ジュリアス・シーザー』もそうだし、歴史物の『ヘンリー五世』もそう。一対一ではなくて、兵士を集めて、「一緒に来るやつは来い、帰りたいやつは帰れ」と演説するでしょう。そうして兵士をもういっぺん説得して、積極的に一緒に闘うという者だけを連れていく。そういうことが根本的な問題。大衆が出てこないと、惹きつけるものは、感情的な一対一の人間関係と、劇上の衣装や装置になるでしょう。
――歌舞伎を支えた町人相手では、哲学的なものよりも娯楽第一でいかざるをえなかったのでは。また、シェイクスピアを支えた英国の人々は貴族的階級で、支持層が違うのではないか。
 シェイクスピアはかなり日本の能に似ているかもしれない。階層的に上から下まで観に来ていました。グローブ座というのは貴族も来ていたけれども大衆も来ていて、貴族だけが支持していたわけじゃない。お弁当食べたりお酒を飲むものもいて、ずいぶんうるさかったらしい。シェイクスピアの事情はそういうことです。
 歌舞伎が発達した一つの理由として、能と狂言は室町時代にはかなり大衆的だった。ことに京都の河原能というのは、ほとんど貧乏な農民よりもっと下の農奴に近い階層の人たちも観に来ている。もちろん坊さんも貴族も来て、極端な場合、将軍も来ている。将軍から乞食までいたのが京都の〈勧進能〉です。それが室町時代の話。ところが、徳川時代に能と狂言を貴族と支配的な武士階級が奪った。支配層だけに限定して庶民を中に入れない。それと劇団をお抱えにしてしまう、役者はそこから月給をもらえるわけで、大衆から切り離されてしまった。だから、大衆は歌舞伎をつくって対抗したというところがあると思います。
 むつかしい哲学はないとはいいきれないところもあって、狂言にはかなり哲学があります。本来、材料も観ていた人も大衆的なもので、能のなかにも狂言的要素がもっと入ってきてもいいと思います。狂言のなかの哲学は、歌舞伎よりもむしろ多いくらいかもしれない。かなりするどいことをいっています。歌舞伎のなかでは生活態度としての経済問題にはあまりふれませんが、狂言ではいろいろふれているところがありますね。
 それから男女の関係も狂言のほうが自由だ。男女の差別を強くしていくのは、歌舞伎は町人の芸能だけれども、人気の歌舞伎役者は比較的、武士社会の価値体系や倫理観をそのまま保存している場合が多いのです。そうすると男女差別も当然ふくむから、やはり歌舞伎には男女差別がある。狂言の方はそうじゃない。たいていは太郎冠者が大名をとっちめる。その逆は少ない。〈女物〉になると、女が出てくればたいてい男がとっちめられるので、男が女をとっちめる狂言は少ない。『鈍太郎』にしても『塗師』にしても、みんな女のほうが頭が良くて、能力があって、男をやっつける。そういうことは歌舞伎ではほとんどない。
 これは非常な違いです。庶民生活の描写のなかで、徳川以後の歌舞伎には出てきません。どうしてかといえば、男女差別にしても権力的な階層性の差別にしても、江戸時代というのは要するに差別的社会でしょう。室町のほうが開放的で、まだ差別はそれほど固定していない。だから、頭のいいやつが少しとんまな目上のやつをいじめる展開になる。建て前としては男が偉くて女は仕えるということになっているけれど、実際問題としては女のほうが頭が良くて、男はぼんくらだとなる。男のほうがからかわれたり、助けてくれなんていっている。そういう〈笑い〉が歌舞伎からなくなってしまったのは、幕藩体制なるものの階層的構造の反映だからです。室町時代はそうではなかった。一度はそうではない時代があったのです。
 もうひとつ付け加えると、江戸時代でも農村では男女差別はわりあい強くなかった。ところが、歌舞伎というのは農村ではやられることが少ないので、町人芝居です。町人社会は武士階級の階層性を輸入している。そしてかなり儒教的です。
 ――ジャン・コクトーが歌舞伎を観て、それを『美女と野獣』に取り入れたという。フランス人に歌舞伎はどう映ったのか。
 コクトーは、まあ想像がつきますが、ジャン=ルイ・バローでさえ歌舞伎に興味をもったし、テアトル・ド・ソレイユも歌舞伎を取り入れた舞台をつくっています。それはさっきいった舞台装置とか衣装の色彩を取り入れたのであって、芝居の内容とはぜんぜん関係ない。彼らは日本語がわからないし、観ているだけでは何もわからないでしょう。花道なんかは面白いし、それはちょっとギリシャ劇に通じるところもある。ギリシャ劇は額縁舞台ではなくて、周囲ぐるりに観客がいて真ん中に舞台があるという点では、花道も半分同じ。客のすぐそばでやっているわけですから。近代劇のように、行儀よく額縁舞台の中に収まっていないという共通点があります。そういうことにも興味をもったのでしょう。
 それと、仮面劇の伝統はヨーロッパでも強いのです。ヴェルディのオペラにもありますが、劇上の外でも仮面舞踏会があり、カルバヴァーレのときには街中に仮面の男女があふれていました。化粧は本来、マスクの模倣だと思います。隈取などは、中国の芝居で盛んに使用するお面の代わりに、じかに塗った。現在では回り舞台にはそれほど感心しないでしょうけれど、花道などの舞台空間やマスク、衣装の色には興味をもつはずです。
 それから、様式化されたしゃべりかたが面白いのでしょうね。テアトル・ド・ソレイユで、ムヌシュキンという女の人が使った歌舞伎だと、花道を通して両側に観客がいて、隈取をして出てくる。われわれもサムライが出てきたような感じがします。あまり正確な模倣じゃないけれど、何となくサムライ的な役者が出てきて科白をいうと、科白はフランス語でも日本語でもない、イントネーションだけ。“うわー、うううわぁー”なんていう(笑)、何となく歌舞伎の調子、発声法に似てなくもない。ギリシャ劇とも違う。そういうのをやっていました。ヴァンサンヌの森の中の昔の兵器庫を改造した劇場です。
 ポール・クローデルは歌舞伎については書かなかったが、能については書きました。それだけでなく、能の影響の強い『繻子の靴』という芝居を書いています。前ジテは勇敢なルネッサンスの冒険家で、後ジテは没落した死の迫っている男です。二人の人物のたたかいではなくて、同じ一人の人物が変わっていく芝居です。
 人物が一人ということが根本的、卒塔婆小町なら卒塔婆小町が問題なんで、あとの人物は付録みたいなものでしょう。二人の人物が争っているというのではない。西洋式の、ことに近代劇だと、二人の人物が基本で、そのあいだになにかがおこる。二人の人物がが出てくるだけではつまらないので、たとえば喧嘩するとか抱き合うとかなるわけだ。だから、ヨーロッパ的な劇とは「何かがおこるものだ」というのです。
 ところが能は違う。いくら待っていても何もおこらない(笑)。何しろゆっくりだから、まぁそれもあるのだろうけれど、とにかく能の登場人物は一人で、一人では何もおこりようがない。おこらないのだけれど、人物が面白い。小町というような個性的な人物が到着する。Arriverというフランス語は〈到着する〉という意味。「芝居では何か事件がおこるけれども、能では何かが現れる、到着する」とクローデルはいいました。
 『繻子の靴』は、クローデルの代表作で、最後の作品です。渡辺守章さんの詳細な註を含む見事な日本語訳(岩波文庫)があります。クローデルにとっての能は、単なる冗談や思いつきではありません。能は彼を深くとらえたのだと思います。〈生〉と〈死〉の劇、人間の意志と運命の必然、夢幻能の構造はほとんどそのままギリシャ悲劇のそれと呼応するのです。
 ――「大衆の涙と笑い」(定448頁)と「笑いの文学」(下135頁)で町人の川柳とか諧謔を含んだ小咄が出てくるが、「しかし農民は笑わなかった」(下137頁)とも書かれている。〈笑い〉どころではなかったのか。西洋の農民の〈笑い〉はどうか。
 その記述は、それどころじゃなかった、ということに重点があった。農民の文学に〈笑い〉はなかったですよ。町民文学の中では〈笑い〉はだんだん増えてくるのだけれど、天明の頃は一揆をしていたので、農民はかなり苦しかった。彼らの上に町人文化と武士の文化があって、酒井抱一なんかでもそうですが、ぜいたくな支配層です。
 ヨーロッパでは、農民といえるかどうかという問題はありますが、支配層でない民衆の中には〈笑い〉の文学がありました。〈笑い〉の文学を書き大規模な仕事をしたのは、十六世紀フランスのラブレーです。『ガルガンチュアとパンタグリュエルの物語』、これは哄笑です。ラブレーのひとつの柱は生命力みたいなものですが、大酒を飲んでゲラゲラ笑うというもので、その笑いは、無害なものではない。政府や貴族や学者、それから教会の坊さんに対する強い〈笑い〉、しばしば攻撃的です。
 中世からルネッサンスにかけてのフランスの農民を含めた民衆の中の〈笑い〉は大いにあったと思います。
 ――しゃれのめすというのは町人の文化ですね。関西でそれに対応するような〈笑い〉の文化は?
 そう。江戸時代の、ことに十八世紀から十九世紀にかけての町人文化です。関西に文化の重点があったのは、だいたい十八世紀の中頃まで、その頃から文化の新しい創造力は江戸に移ります。「おつ」だとか、「町奴」だとか、「男意気」といった言葉がそうです。「侠客」という言葉は元来中国語だけで、江戸時代にも使われた。「助六」みたいなもの。だけど《助六由縁江戸桜》ですから「助六」は江戸です。江戸前の巻き舌の啖呵。フランス語は南部に行くとrを巻くんだけど、日本では江戸のべらんめえ言葉。
 私はおそらく「べらんめえ」言葉を子どものときに聞いた最後の世代でしょう。父親はそうじゃなかったけど、父親の知人の中には本当の江戸弁の人がいました。「ひ」と「し」の区別ができない本当の江戸の方言です。もう少したって、歌舞伎座に行って舞台の歌舞伎役者の科白を聞きましたが、最後の「べらんめえ」は五年くらい年長の人までかな。小倉朗さんという作曲家は日常会話に少し、軽く巻き舌の調子が残っていましたが、もう完全に滅び去ったでしょう。まぁ、あんまり知的じゃない(笑)。」加藤周一「『日本文学史序説』補講」ちくま学芸文庫2012年。pp.194-202.

能より狂言のほうがリベラルで、男性優位ではない!そうか、これは狂言についてももっと見なきゃな。


B.英霊は「英国の幽霊」? 新婚「むんむん」
 だいぶ前だが、大学である学生に君が好きな音楽は?ときいた年配の先生が、「ぼくはほとんど邦楽ですね」という答えを聞いて、「ほう、君はなかなか渋いね」と答えたのを見ていて、「邦楽」の中身が先生と学生ではぜんぜん違うことに双方気がついていないので、可笑しかった記憶がある。そうしたことはいつでもどこでも起るのだろうが、以下の歌人の指摘はなかなか具体的で面白くて、考えさせられるものがある。

「言葉季評:ズレへの驚き 根底にあるのは   歌人 穂村 弘 
 こんな短歌を見たことがある。

 英霊を英国の幽霊と問ふ若者の顔まじまじと見つ     吉田樽石

 若者の問いにショックを受けたのだろう。英霊とは戦死者の霊を敬っていう表現。だが、その言葉を知らない世代が現れた。あの戦争からそんなにも時間が経ったのか、と。
 ある言葉を知らなければ、その文字から意味を想像するしかない。英霊は「英国の幽霊」かな、と若者は考えた。その時、頭の中には、米霊、独霊、仏霊、露霊などの言葉も浮かんでいたのかもしれない。我々の知る世界像からはズレた別世界のイメージだ。
 こんな歌もあった。

 定年まで勤めて退職することを「寿退社」と思う若者    臼井慶子

 寿退社とは結婚を機に退職すること。だが、そのような慣習が薄れた時代の若者は、この歌のように思うのかもしれない。「寿」がめでたさを指すことはちゃんと理解しているのだ。

 近頃の学生たちは新婚をほやほやでなくむんむんと言う     小林浦波

 思わず、くすっとなる。そうか、今は「むんむん」なのか。知らなかった。新婚の濃度もずいぶんと高まったものだ。英霊や寿退社の場合とは違って、新婚は「ほやほや」が正解と決まっているわけでもなさそうだ。
*     * 
 このような言葉のズレを生み出す要因としては世代や年齢差が大きいと思うが、それだけではない。例えば、インターネット上で「びっくり水はどこのお店で売っていますか」と尋ねている人を見かけたことがある。びっくり水とは、麺などを茹でるとき、沸騰した湯に入れる差し水のこと。だが、質問者はそのことを知らなかったのだろう。そういう水がお店に売っていると思ったのだ。これは世代の違いというよりも、過去の体験や料理をするしないといった生活習慣の問題だろう。
 これらの例からわかるのは、ある人や世代にとっての常識が他の人や世代にとってもそうであるとは限らない、ということだ。ただ、頭でそう理解はしていても、自分がそれまで当然と信じてきた言葉が伝わらないと、やはりショックを受ける。英霊を知らないなんて、びっくり水を知らないなんて、と怒ったり呆れたりするかもしれない。
 そのような反応の根底にあるものは怖れの感情ではないか。これは単に一つの言葉が死語になるという問題ではないからだ。本人にとっては、自分がそれまで拠って生きてきた世界像の一部が消え去ることを意味している。
 我々の一人一人が、生まれてから現在までの間に形作られた世界像の中で生きている。それは蜘蛛にとっての蜘蛛の巣のようなもので、ひとつずつ形も大きさも異なっている。まったく同じものは二つとない。そんな蜘蛛にとって、自分の巣の一部を失うことは世界を壊されるような衝撃だろう。
 だが、一人一人の裡なる世界像は、現実の蜘蛛の巣と同様に目に見えにくい。だから、何かの拍子にその違いが可視化されると驚いてしまうのだ。 
*      * 
 その実例として、以前も書いたことのあるエピソードだが、二つほど紹介してみたい。一つ目は、生前の父とのこんな会話である。
 「お父さん、昔、猫飼ってたの」
 「うん、飼ってたよ、子どもの頃な」
 「ごはんは何をあげてたの」
 「ん?餌をやったら、猫を飼う意味がないだろう」
 一瞬、父の言葉が理解できなかった。でも、気がついた。「餌をやったら、鼠を獲らなくなるだろう」という意味なのだ。昭和一桁生まれの父の「子どもの頃」とは戦前。令和の現在とは猫の位置づけがまったく違う。同じ新婚でも「ほやほや」と「むんむん」のズレがあったが、同じ猫でも父と私の間にはそれ以上のイメージのズレがあった。
 世界像の違いが可視化されるきっかけは言葉のズレだけではない。それが行動のズレのこともある。エピソードの二つ目は、父が海外旅行に行った時の話である。適当な鞄がないというので、我が家のスーツケースを貸したことがあった。そこには飛行機やホテルのステッカーがたくさん貼られていた。事件は帰国後に起こった。父がお土産をつめた鞄を返しにきた時、妻が悲鳴をあげたのだ。
  「スーツケースが!」
  「おお、なんかべたべた貼ってあったから全部きれいにしといたよ」
 父はにこにこと言った。スーツケースにびっしり貼られたステッカーをゴミだと思ったのだろう。全部剥がしてぴかぴかにしてしまったのだ。もちろん、良かれと思ってのこと。でも、それは妻にとっては大切な思い出の証しだった。堪えきれずに泣き出してしまった。父はおろおろ。う~ん、そうきたか、と私も天を仰いだ。全員にとって予想外の悲劇。その原因は世代差とも言い切れない感覚の違いだった。昭和一桁生まれでも、妻のように考える人はいるだろう。でも、無骨な父はそういうタイプではなかったのだ。」朝日新聞2024年4月4日朝刊13面オピニオン欄。
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