A.「自然主義」文学⇒私小説⇒純文学という誤解
今は高校の現代国語の時間に、日本文学史みたいな授業はあるんだろうか?ぼくの高校生の頃は、教科書か副読本に『日本文学史』みたいなのがあって、源氏物語、枕草子いらいの古典は別として、明治以降の近代文学については二葉亭四迷「浮雲」から始まって田山花袋「蒲団」、島崎藤村「破戒」、志賀直哉「暗夜行路」、川端康成「雪国」と続くのが日本の小説=文学のメインストリームだと教わった(ような気がする)。別格で鷗外漱石芥川は出てくるが、荷風や谷崎や鏡花は怪しい異端で、有島武郎や武者小路実篤の白樺派や小林多喜二、徳永直のプロレタリア文学は傍流のアダ花扱いだった。まして東北辺境の詩人、啄木や賢治などは路傍の突然変異としか見られていない。戦後文学にもその流れは続いて、太宰・安吾の無頼派、野間宏・大岡昇平の第1次戦後派、安岡・吉行など第三の新人まで連綿と「私小説―純文学」こそ日本文学の王道だと書いてあった(ような気がする)。
公教育のなかで、とくにティーンエイジャーが通う後期中等教育(つまり高校)の日本語教育のなかで、日常無意識に使っていることばが、どのような人たちの創作によって豊かになってきたかは教えられる意味が大きい。ただほとんどは、教えている教師にすらそのことに無自覚だと思う。ただ教科書的な知識として「日本近代文学」の作家と作品をひと通り紹介すれば、それでカリキュラムはこなし次に進むというわけだ。ぼくも、高校で日本文学史を一通り学習して、作家と作品の名前をおぼえた。できればその小説を読んでみたいとも思ったが、受験勉強的な学習にはそんな余裕はなく、文芸評論家の小林秀雄が受験に出るから読んだ方がいいといわれて読んだ。でも小説は、小説の神様の最高傑作といわれた『暗夜行路』を読んでみたが、あまりにつまらない私情の吐露と煩悶にうんざりして、こんなものが日本文学の傑作だというなら、小説など読む時間がもったいないと思って、以後純文学には興味を失った。
それは半分は間違っていただろうが、半分は悪くない判断だったと思う。つまり、日本の近代文学は出発点の「自然主義」が、フランス文学のモダンなnaturalismをまったく誤解して、自分の即時的体験から感じた私情を唯一のrealismと混同して、これぞ新しい文学だと思いこんだことが、あとあとまで尾を引いて、古層にあった伝統的な「自然」を呼び覚ましていた。
「意味の混在は気づかれにくい:
文学上のnaturalismを、初めて「自然」ということばを用いて日本に紹介したのは、やはり鷗外であった。前掲の「文学と自然」論争と同じとし1889年の1月、『読売新聞』紙上で、
「ゾラー」は仏蘭西「プロワンス」の人、現時の所謂自然派(「ナトユラリスムス」)
と述べている。「ナトユラリスムス」とは、ドイツ語表現の読みである。
それから二十年近く経て、naturalismは「自然主義」として、日本の文学を導く思想となり、多くの小説を生み出し、やがて日本の文壇小説の主流ともなるのである。
日本の「自然主義」については、すでに多くの意見や批判がある。とくに、naturalismは、その代表者ゾラが、「自然」科学者クロード・ベルナールの『実験医学序説』の影響を受けて、「自然」科学の方法にならって小説を書こうとした方法を意味しているのに日本の「自然主義」は、それを理解しなかった、あるいは誤解した、と言われるのである。代表的な批判者、中村光夫の意見を見てみよう。中村は、「自然主義」発生期の旗手であった田山花袋が、「自然を自然のまゝ書く」と言っていることを批判して、こう述べている。
花袋はここで、‥‥‥素材の理想化を排するのを口実として、現実と表現の世界との差別を抹殺しようとしてゐることはたしかです。このいはば無意識の詐術の種につかはれてゐるのは、自然といふ観念です。自然が作者が意図しさへすれば、すぐ「そのまゝ」捕へられるものならば、実生活とその表現の区別もなくなる筈だからです。‥‥‥
花袋はこの生の自然(鷗外の云ふ実感の世界)と、作品に写された自然を混同し、これを作者の告白(あるひは実感の吐露)で強引に統一したので、これは日本の文学に多くの混乱を生んだ悲しむべき誤りであったと僕には思はれます。(『言葉の芸術』1965年、講談社)
この批判は、前に述べたあの鷗外の巌本批判を思い起こさせる。巌本が、「最大の文学は自然の儘に自然を写し得たるもの也」と言っていたように、花袋は、「自然を自然のまゝに書く」と言う。そして鷗外が、「自然の儘の自然は美にあらず」と批判したように、中村は、「生の自然」と「作品に写された自然」を混同した花袋を批判しているのである。
そして、花袋の「自然」は、巌本の場合と同じように、伝来の日本語の意味である。中村の「自然」は、鷗外と同じようにnatureの翻訳語としての意味なのである。そしてまた、巌本が、「自然なるものをまったくナツールに当(ひと)しとするも宜(よ)し」と言いながら、伝来の日本語「自然」の意味を押し通そうとしたように、花袋も、ゾレなどのnaturalismに教わり、それに拠っていると思い込みながら、実は、日本的な「自然」主義で理解していた。巌本が、鷗外の批判の前に分が悪かったように、花袋の文学論は、時代を離れたこの中村の批判に堪え得ないように見受けられるのである。
しかし、ここでもまた、私は同じようなことを改めて言わなければならない。花袋と中村の場合も、結局、ことばの意味のすれ違いという出来事なのである、と。つまり、それほどまでに、一つの翻訳語をめぐる伝来の母国語の意味と、翻訳語の原語の意味との混在という現象は、人びとに気づかれがたいのである。
ただ一つのことば、ただ一つの意味が始めにあって、それを西欧ではnatureと言い、日本では「自然」と言う、のではない。この単純明快な事実を理解することは、しかし非常にむずかしい。とくに日本の知識人にとってむずかしいようである。
「自然」とは、natureということばが日本にくる以前に日本語であった。それがnatureの翻訳語として用いられるようになって、以後natureと等しい意味の言葉になったわけではない。学者や知識人が、ことばの意味をどう定めようと、単なる記号ならいざ知らず、現実に生きていることばは、少数者の定義で左右できるものではない。また、巌本や花袋が、意識的にはnatureと同じと思いながら、伝来の「自然」の意味を動かしがたかったように、ことばの意味は、使用する人の意識をも超えた事実なのである。
日本語「自然」における意味の変化
「自然主義」とは、naturalismと等しい意味のことばではなかった。ではこの「自然主義」の自然は、伝来の日本語そのままであったのだろうか。恐らくそうではない、と私は考える。
いったい「自然のままに自然を書く」ということも、考えてみると矛盾である。伝来の意味の「自然」とは、意識的でない、ということで、これに対して、「書く」とは、非常に意識的な行為だからである。「自然主義」とは、また一段と矛盾した用語である。「主義」とは、あえて唱え、行うということで、「自然」とは正反対の態度だからである。
そして、ここで重要なことは、このような矛盾を通して、伝来の「自然」の意味も変化している、と考えられるのである。
花袋は、『花袋文和』(1911(明治44)年)で、こう語っている。
自分の内面もまた一自然である。他の宇宙が自然であると同じやうに、矢張自己も一自然であるといふことである。そして同じ法則が、同じリズムが同じやうに自他を通して流れてゐるといふことである。
同じようなことは、当時の「自然主義」の論客たちも、異口同音に語っている。たとえば島村抱月は、「今の文壇と自然主義」(1907(明治40)年)でこう言う。
事象に物我の合体を見る、自然は茲に至って其の全円を事象の中に展開するのである。その事象は冷かなる現実客観の事象に非ずして、霊の眼開け、生命の機覚めたる刹那の事実である。‥‥‥
無念無想後の我れの情、我れの生命は、事象と相合体して、生きた自然、開眼した自然の図を作って来る。物我融会して自然の全円を現じ来たるとは此の謂ひである。
「自他を通して流れてゐる」とか、「物我融会」というように語られる「自然」は、もちろんnatureではなく、伝来の「自然」の意味からやってくる。しかし、こうして語られている「自然」は、伝来の「自然」とまったく同じなのではない。「自然」は、「我」に対して対象化されている。その反対側に、「自然」に対する「我」がいる。
見出された「我」は、しかし主体としての立場を貫いていくわけではない。見出されると同時に。「自他」一つになり、「融会」しようとする。「自他」の対立する存在の発見と、それにつづく「自他」が一つに帰する運動、それが「自然」なのであり、伝統的な「自然」の意味は、こうしてとりもどされる。
「自然」は、natureの翻訳語とされることによって、直ちにnatureの意味がそこに乗り移ってきたわけではない。「自然」は、翻訳語とされることによって、まずnatureと同じような語法で使われるようになった。論理学の用語で言えば、内包的な意味はそのままで、外延的に、あたかもnatureということばのように扱われた。対象世界を語ることばのように扱われた。これは意味の上からは矛盾である。そしてこの矛盾が、新しい意味を求め、「自然」ということばの使用者は、矛盾を生めるような意味を求めていく。こうして、あえて、意識的に「自然」であろうとし、「自他」「融会」する。「自然」の意味はこうして回復され、同時に新しい意味を生み出しているのである。」柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書189 .1982. pp.142-148.
ここで柳父氏が言っていることは、日本近代文学が背負った宿阿と西洋近代との出会いがもたらした矛盾の象徴的な出来事である。高校生だったぼくは、そんなことはもちろん分からなかったし、志賀直哉を読んでなあんだ文学ってこんなものかと切り捨ててしまった。ただ、ぼくたちの生きる社会が、こうした日本語の築き上げた文化の上に成り立っている、ということをやがて理解するようになったのは、高校教育の成果に他ならないし、とにかく学校で国語の時間に日本文学史をまんべんなく教えておくことは、武器暴力を蓄えて戦争ができるようにするよりも、遥かに重要な国民の「教養」なのだということは強調しておきたい。
B.「文学」の力
2018年の日本では、いかに落ち目の老舗大企業を立ち直らせ、「日本経済」を成長軌道に乗せ、財政と金融のアルコール依存のような無理矢理成長路線をやめようとしない強気だけの安倍政権の暗雲漂う未来を、なるべく考えないようにしてきた結果、元号平成が終わるときまでに何をやるべきか、少しは現実的に考える能力のある人も、もっぱらAIテクノロジーと怪しげなトランプに頼るほかない不安に陥って出口がない。そこでは、楽観主義の「工学的」打開策は語られるが、もっと深い「文学的」考察はほとんど顧慮されない。この国では、あれほど固有の歴史と文化を自慢していながら、近代以降の「文学的」達成についてまったく低い評価しか与えていない。日本文化は江戸以前の博物館的文化財ではあっても、現代に生きる人間の精神に重みを与えるものとは考えておらず、大学の「文学部」は非生産的な盲腸としか思われずに予算を削減されてしまう。まったくこの国の未来は貧困化する。
でも、それもある意味では自業自得なのかもしれない。マジョリティーの若者は軽いエンタメ小説すらもはや読むだけのリテラシーをもたない。まして近代日本文学の諸作品を手にとっても、旧かなや難しい漢字が読めないのだから、まずアクセスできない。嗚呼!という漢字が読めない以上、文学なんてこの世に存在しないに等しい。いまの高校生に鷗外漱石を読ませるのは無理でも、強制的に丸谷才一を読ませる必要はあるのではないだろうか。
「昭和二十年八月下旬、彼は三十代半ばの老上等兵として宮崎県のはづれにゐて、連隊本部要員だった。この年の正月、召集されたので、少しは同情してくれたらしく、郵便物の検閲と連隊長の私信の代筆が主な仕事である。戦争に負けてもすぐには復員にならないので、兵隊を退屈させないため演芸会をすることになり、連隊本部からも一つ出すことに決った。ちょうど本職の役者が二人とこれも本職の踊りの師匠がゐるので、それにはめて台本を書けと命じられ、変なものを書いた。
博徒の親分(新劇の役者)が妾(踊りの師匠)と子分(道頓堀の軽演劇の役者)を連れて旅に出るが、親分が横暴なのに愛想を盡かして子分が盃を返す。出てゆかうとする子分を妾が呼びとめて、それならあたしも連れて行っておくれ、この男はもともと大嫌ひだったが、余儀ないわけがあって身を任せたのだから、と言ふ。子分は喜んで、まへまへから慕っていたと打ち明け、二人はイチャイチャする。かなり際どい。子分が、これからは堅気に戻り、竹の柱に茅の屋根で苦労しようと言ふと、妾はキツとなつて、勘ちがひされちゃ困る。あたしにはそんな気は毛頭ない、太く短く生きると宣言して、一人で飛び出してゆく。残された男二人は茫然として、
「そんなのあるかい」
といふ寸劇で、芝居はともかく、女形があでやかで大好評だったが(衣裳は彼らの宿舎である村長の家から借りた)、その夜、特配の酒がはいると、親分役をやつた新劇の役者が荒れた。
はじめは役不足をと遠まはしに愚痴つてゐたのに、追ひ追ひと台本の批判になつて、とうとう、あの台本は「上御一人」を愚弄するものだ、つまりあの旅に出てゐる博徒は天皇で、子分とは国民だ、と言ひ出したため、軽演劇の役者、踊りの師匠、衣裳と小道具の係の会社員、新聞紙で鬘を作った小学校の教員がしきりになだめ、村長の家の隣にある小さな社の境内へ連れ出した。古屋も仄かな月明かりを頼りについて行って、ひよつとするとこれは踊りの師匠をめぐる恋(男色)の鞘当てかもしれないと疑ひかけたとき、光の束を投げるやうにして懐中電灯を振りながら週番将校が巡回して来た。兵器はもう渡してしまったので、丸腰である。みんながてんでに敬礼をした。答礼した将校が明りを彼らのほうに向け、おそくまで何をしてゐるのかと訊ねた。これが天の崇拝に凝り固まつてゐる精神家の将校なので、古屋は咄嗟に、この男の加勢で台本批判がいつそう激しくなるのではないかと案じたが、会社員がのんびりした声で、今日の演芸会の反省をやつてゐるのだと答へると、精神家は寸劇の出来ばえを絶讃して、思ひ出し笑ひをし、いかがはしい冗談を言つてから、早く寝ろと言ひ残して去った。その後ろ姿は、左右に懐中電灯を向けて、暑苦しくて平穏な闇をもつともらしく検分しながら、ゆつくりと遠ざかってゆく。そのとき一瞬、棕櫚の樹の影が土蔵の白壁に鮮明に映つた。村長の家に分宿して以来、古屋はこの埃まみれの棕櫚の樹が嫌ひで、全体のむさくるしい印象、長い柄のついた葉のひろがり方、ぼろのやうにめくれた大きな皮をほとんど憎んでゐた。誰にも言はなかったけれど、朝夕これを目にしては厭な樹だなあと思つてゐた。ほかのところで見かける棕櫚にはわりあひ無関心だつたのに。だが、不思議なことに、このとき見た同じ樹の影にはひどく魅惑されたのである。様子がよくて端正だつた。この記憶は間違ひではないと思ふ。といふのは、たぶん昭和三十年ごろ、この新劇俳優が左翼劇団の幹部になつてゐるのを新聞の演芸欄で知つたとき、古屋は軽く舌打ちしてから、例のスクラップ・ブックに十年前の八月の一部始終を書きつけたのだが、今度、見つけて読んでみると、その末尾に二行、「棕櫚。影。まつたく違ふ感じなのに驚いた。まるで、衣裳の好みの悪かつた女がある日とつぜん水際立つたなりで現れたやう」とあるからだ。」丸谷才一『樹影譚』より抜粋(群像日本の作家「丸谷才一」小学館1997)pp.231-233.
昔、何かの本か雑誌を読んだときに、丸谷才一の小説に昭和20年8月、あの大戦争が終結したときに、帝国陸軍の兵士たちにどんな出来事が起きたのか、とても印象的な記述があると書いてあったことを、記憶の片隅に残していた。それが、たまたま今年、山形県の鶴岡市に個人的なスペースを作り、月に一回そこに暮らしていろいろ「文化的・文学的・美術的」生活を始めたぼくは、鶴岡という場所に縁のある人物についても改めて知ることになった。世間で知られる鶴岡出身の人として、まず歴史小説家の藤沢周平、満洲国建設の立役者の軍人・石原莞爾、民間右翼として戦犯になった大川周明、これが三大鶴岡名士だとすると、遡って幕末の策士、新選組・新徴組の組織者清河八郎も挙げなければならないし、範囲を庄内という平野に広げれば酒田の写真家土門拳や評論家佐高信にも触れるべきかもしれない。
ぼくは東京23区の豊島区で育ち、今もそこに家を持って暮らしている人間だが、今年4月からもうひとつの拠点として、庄内鶴岡に一種の想いをこめた時間を過ごしている。そこで、チャリンコを漕いで市内の鶴岡市図書館に行って、迂闊にも初めて知ったのが、丸谷才一というユニークな作家が鶴岡の城下町中心部馬場町で開業医の長男として育った人だということである。丸谷才一は日本文学において主流であった自然主義以来の私小説的伝統に、J・ジョイスの精神を受け継いで反旗を翻し、次々に旺盛な問題作を出して活躍したパワフルな作家なのだが、正直言って彼の試みはいま文壇(そんなものがまだあると仮定した場合)からほとんど黙殺される状況にある。それは彼の故郷鶴岡においても同様であり、中央で名声と地位を獲得した小説家としては顕彰されながら、実は庄内藩伝統の保守派からは排斥されるという点で藤沢周平に通じてしまう。『樹影譚』は、小説としては複雑な入り子構造の作品だが、丸谷の意図をうまく読み物の面白さに変換している佳作だと思う。
今は高校の現代国語の時間に、日本文学史みたいな授業はあるんだろうか?ぼくの高校生の頃は、教科書か副読本に『日本文学史』みたいなのがあって、源氏物語、枕草子いらいの古典は別として、明治以降の近代文学については二葉亭四迷「浮雲」から始まって田山花袋「蒲団」、島崎藤村「破戒」、志賀直哉「暗夜行路」、川端康成「雪国」と続くのが日本の小説=文学のメインストリームだと教わった(ような気がする)。別格で鷗外漱石芥川は出てくるが、荷風や谷崎や鏡花は怪しい異端で、有島武郎や武者小路実篤の白樺派や小林多喜二、徳永直のプロレタリア文学は傍流のアダ花扱いだった。まして東北辺境の詩人、啄木や賢治などは路傍の突然変異としか見られていない。戦後文学にもその流れは続いて、太宰・安吾の無頼派、野間宏・大岡昇平の第1次戦後派、安岡・吉行など第三の新人まで連綿と「私小説―純文学」こそ日本文学の王道だと書いてあった(ような気がする)。
公教育のなかで、とくにティーンエイジャーが通う後期中等教育(つまり高校)の日本語教育のなかで、日常無意識に使っていることばが、どのような人たちの創作によって豊かになってきたかは教えられる意味が大きい。ただほとんどは、教えている教師にすらそのことに無自覚だと思う。ただ教科書的な知識として「日本近代文学」の作家と作品をひと通り紹介すれば、それでカリキュラムはこなし次に進むというわけだ。ぼくも、高校で日本文学史を一通り学習して、作家と作品の名前をおぼえた。できればその小説を読んでみたいとも思ったが、受験勉強的な学習にはそんな余裕はなく、文芸評論家の小林秀雄が受験に出るから読んだ方がいいといわれて読んだ。でも小説は、小説の神様の最高傑作といわれた『暗夜行路』を読んでみたが、あまりにつまらない私情の吐露と煩悶にうんざりして、こんなものが日本文学の傑作だというなら、小説など読む時間がもったいないと思って、以後純文学には興味を失った。
それは半分は間違っていただろうが、半分は悪くない判断だったと思う。つまり、日本の近代文学は出発点の「自然主義」が、フランス文学のモダンなnaturalismをまったく誤解して、自分の即時的体験から感じた私情を唯一のrealismと混同して、これぞ新しい文学だと思いこんだことが、あとあとまで尾を引いて、古層にあった伝統的な「自然」を呼び覚ましていた。
「意味の混在は気づかれにくい:
文学上のnaturalismを、初めて「自然」ということばを用いて日本に紹介したのは、やはり鷗外であった。前掲の「文学と自然」論争と同じとし1889年の1月、『読売新聞』紙上で、
「ゾラー」は仏蘭西「プロワンス」の人、現時の所謂自然派(「ナトユラリスムス」)
と述べている。「ナトユラリスムス」とは、ドイツ語表現の読みである。
それから二十年近く経て、naturalismは「自然主義」として、日本の文学を導く思想となり、多くの小説を生み出し、やがて日本の文壇小説の主流ともなるのである。
日本の「自然主義」については、すでに多くの意見や批判がある。とくに、naturalismは、その代表者ゾラが、「自然」科学者クロード・ベルナールの『実験医学序説』の影響を受けて、「自然」科学の方法にならって小説を書こうとした方法を意味しているのに日本の「自然主義」は、それを理解しなかった、あるいは誤解した、と言われるのである。代表的な批判者、中村光夫の意見を見てみよう。中村は、「自然主義」発生期の旗手であった田山花袋が、「自然を自然のまゝ書く」と言っていることを批判して、こう述べている。
花袋はここで、‥‥‥素材の理想化を排するのを口実として、現実と表現の世界との差別を抹殺しようとしてゐることはたしかです。このいはば無意識の詐術の種につかはれてゐるのは、自然といふ観念です。自然が作者が意図しさへすれば、すぐ「そのまゝ」捕へられるものならば、実生活とその表現の区別もなくなる筈だからです。‥‥‥
花袋はこの生の自然(鷗外の云ふ実感の世界)と、作品に写された自然を混同し、これを作者の告白(あるひは実感の吐露)で強引に統一したので、これは日本の文学に多くの混乱を生んだ悲しむべき誤りであったと僕には思はれます。(『言葉の芸術』1965年、講談社)
この批判は、前に述べたあの鷗外の巌本批判を思い起こさせる。巌本が、「最大の文学は自然の儘に自然を写し得たるもの也」と言っていたように、花袋は、「自然を自然のまゝに書く」と言う。そして鷗外が、「自然の儘の自然は美にあらず」と批判したように、中村は、「生の自然」と「作品に写された自然」を混同した花袋を批判しているのである。
そして、花袋の「自然」は、巌本の場合と同じように、伝来の日本語の意味である。中村の「自然」は、鷗外と同じようにnatureの翻訳語としての意味なのである。そしてまた、巌本が、「自然なるものをまったくナツールに当(ひと)しとするも宜(よ)し」と言いながら、伝来の日本語「自然」の意味を押し通そうとしたように、花袋も、ゾレなどのnaturalismに教わり、それに拠っていると思い込みながら、実は、日本的な「自然」主義で理解していた。巌本が、鷗外の批判の前に分が悪かったように、花袋の文学論は、時代を離れたこの中村の批判に堪え得ないように見受けられるのである。
しかし、ここでもまた、私は同じようなことを改めて言わなければならない。花袋と中村の場合も、結局、ことばの意味のすれ違いという出来事なのである、と。つまり、それほどまでに、一つの翻訳語をめぐる伝来の母国語の意味と、翻訳語の原語の意味との混在という現象は、人びとに気づかれがたいのである。
ただ一つのことば、ただ一つの意味が始めにあって、それを西欧ではnatureと言い、日本では「自然」と言う、のではない。この単純明快な事実を理解することは、しかし非常にむずかしい。とくに日本の知識人にとってむずかしいようである。
「自然」とは、natureということばが日本にくる以前に日本語であった。それがnatureの翻訳語として用いられるようになって、以後natureと等しい意味の言葉になったわけではない。学者や知識人が、ことばの意味をどう定めようと、単なる記号ならいざ知らず、現実に生きていることばは、少数者の定義で左右できるものではない。また、巌本や花袋が、意識的にはnatureと同じと思いながら、伝来の「自然」の意味を動かしがたかったように、ことばの意味は、使用する人の意識をも超えた事実なのである。
日本語「自然」における意味の変化
「自然主義」とは、naturalismと等しい意味のことばではなかった。ではこの「自然主義」の自然は、伝来の日本語そのままであったのだろうか。恐らくそうではない、と私は考える。
いったい「自然のままに自然を書く」ということも、考えてみると矛盾である。伝来の意味の「自然」とは、意識的でない、ということで、これに対して、「書く」とは、非常に意識的な行為だからである。「自然主義」とは、また一段と矛盾した用語である。「主義」とは、あえて唱え、行うということで、「自然」とは正反対の態度だからである。
そして、ここで重要なことは、このような矛盾を通して、伝来の「自然」の意味も変化している、と考えられるのである。
花袋は、『花袋文和』(1911(明治44)年)で、こう語っている。
自分の内面もまた一自然である。他の宇宙が自然であると同じやうに、矢張自己も一自然であるといふことである。そして同じ法則が、同じリズムが同じやうに自他を通して流れてゐるといふことである。
同じようなことは、当時の「自然主義」の論客たちも、異口同音に語っている。たとえば島村抱月は、「今の文壇と自然主義」(1907(明治40)年)でこう言う。
事象に物我の合体を見る、自然は茲に至って其の全円を事象の中に展開するのである。その事象は冷かなる現実客観の事象に非ずして、霊の眼開け、生命の機覚めたる刹那の事実である。‥‥‥
無念無想後の我れの情、我れの生命は、事象と相合体して、生きた自然、開眼した自然の図を作って来る。物我融会して自然の全円を現じ来たるとは此の謂ひである。
「自他を通して流れてゐる」とか、「物我融会」というように語られる「自然」は、もちろんnatureではなく、伝来の「自然」の意味からやってくる。しかし、こうして語られている「自然」は、伝来の「自然」とまったく同じなのではない。「自然」は、「我」に対して対象化されている。その反対側に、「自然」に対する「我」がいる。
見出された「我」は、しかし主体としての立場を貫いていくわけではない。見出されると同時に。「自他」一つになり、「融会」しようとする。「自他」の対立する存在の発見と、それにつづく「自他」が一つに帰する運動、それが「自然」なのであり、伝統的な「自然」の意味は、こうしてとりもどされる。
「自然」は、natureの翻訳語とされることによって、直ちにnatureの意味がそこに乗り移ってきたわけではない。「自然」は、翻訳語とされることによって、まずnatureと同じような語法で使われるようになった。論理学の用語で言えば、内包的な意味はそのままで、外延的に、あたかもnatureということばのように扱われた。対象世界を語ることばのように扱われた。これは意味の上からは矛盾である。そしてこの矛盾が、新しい意味を求め、「自然」ということばの使用者は、矛盾を生めるような意味を求めていく。こうして、あえて、意識的に「自然」であろうとし、「自他」「融会」する。「自然」の意味はこうして回復され、同時に新しい意味を生み出しているのである。」柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書189 .1982. pp.142-148.
ここで柳父氏が言っていることは、日本近代文学が背負った宿阿と西洋近代との出会いがもたらした矛盾の象徴的な出来事である。高校生だったぼくは、そんなことはもちろん分からなかったし、志賀直哉を読んでなあんだ文学ってこんなものかと切り捨ててしまった。ただ、ぼくたちの生きる社会が、こうした日本語の築き上げた文化の上に成り立っている、ということをやがて理解するようになったのは、高校教育の成果に他ならないし、とにかく学校で国語の時間に日本文学史をまんべんなく教えておくことは、武器暴力を蓄えて戦争ができるようにするよりも、遥かに重要な国民の「教養」なのだということは強調しておきたい。
B.「文学」の力
2018年の日本では、いかに落ち目の老舗大企業を立ち直らせ、「日本経済」を成長軌道に乗せ、財政と金融のアルコール依存のような無理矢理成長路線をやめようとしない強気だけの安倍政権の暗雲漂う未来を、なるべく考えないようにしてきた結果、元号平成が終わるときまでに何をやるべきか、少しは現実的に考える能力のある人も、もっぱらAIテクノロジーと怪しげなトランプに頼るほかない不安に陥って出口がない。そこでは、楽観主義の「工学的」打開策は語られるが、もっと深い「文学的」考察はほとんど顧慮されない。この国では、あれほど固有の歴史と文化を自慢していながら、近代以降の「文学的」達成についてまったく低い評価しか与えていない。日本文化は江戸以前の博物館的文化財ではあっても、現代に生きる人間の精神に重みを与えるものとは考えておらず、大学の「文学部」は非生産的な盲腸としか思われずに予算を削減されてしまう。まったくこの国の未来は貧困化する。
でも、それもある意味では自業自得なのかもしれない。マジョリティーの若者は軽いエンタメ小説すらもはや読むだけのリテラシーをもたない。まして近代日本文学の諸作品を手にとっても、旧かなや難しい漢字が読めないのだから、まずアクセスできない。嗚呼!という漢字が読めない以上、文学なんてこの世に存在しないに等しい。いまの高校生に鷗外漱石を読ませるのは無理でも、強制的に丸谷才一を読ませる必要はあるのではないだろうか。
「昭和二十年八月下旬、彼は三十代半ばの老上等兵として宮崎県のはづれにゐて、連隊本部要員だった。この年の正月、召集されたので、少しは同情してくれたらしく、郵便物の検閲と連隊長の私信の代筆が主な仕事である。戦争に負けてもすぐには復員にならないので、兵隊を退屈させないため演芸会をすることになり、連隊本部からも一つ出すことに決った。ちょうど本職の役者が二人とこれも本職の踊りの師匠がゐるので、それにはめて台本を書けと命じられ、変なものを書いた。
博徒の親分(新劇の役者)が妾(踊りの師匠)と子分(道頓堀の軽演劇の役者)を連れて旅に出るが、親分が横暴なのに愛想を盡かして子分が盃を返す。出てゆかうとする子分を妾が呼びとめて、それならあたしも連れて行っておくれ、この男はもともと大嫌ひだったが、余儀ないわけがあって身を任せたのだから、と言ふ。子分は喜んで、まへまへから慕っていたと打ち明け、二人はイチャイチャする。かなり際どい。子分が、これからは堅気に戻り、竹の柱に茅の屋根で苦労しようと言ふと、妾はキツとなつて、勘ちがひされちゃ困る。あたしにはそんな気は毛頭ない、太く短く生きると宣言して、一人で飛び出してゆく。残された男二人は茫然として、
「そんなのあるかい」
といふ寸劇で、芝居はともかく、女形があでやかで大好評だったが(衣裳は彼らの宿舎である村長の家から借りた)、その夜、特配の酒がはいると、親分役をやつた新劇の役者が荒れた。
はじめは役不足をと遠まはしに愚痴つてゐたのに、追ひ追ひと台本の批判になつて、とうとう、あの台本は「上御一人」を愚弄するものだ、つまりあの旅に出てゐる博徒は天皇で、子分とは国民だ、と言ひ出したため、軽演劇の役者、踊りの師匠、衣裳と小道具の係の会社員、新聞紙で鬘を作った小学校の教員がしきりになだめ、村長の家の隣にある小さな社の境内へ連れ出した。古屋も仄かな月明かりを頼りについて行って、ひよつとするとこれは踊りの師匠をめぐる恋(男色)の鞘当てかもしれないと疑ひかけたとき、光の束を投げるやうにして懐中電灯を振りながら週番将校が巡回して来た。兵器はもう渡してしまったので、丸腰である。みんながてんでに敬礼をした。答礼した将校が明りを彼らのほうに向け、おそくまで何をしてゐるのかと訊ねた。これが天の崇拝に凝り固まつてゐる精神家の将校なので、古屋は咄嗟に、この男の加勢で台本批判がいつそう激しくなるのではないかと案じたが、会社員がのんびりした声で、今日の演芸会の反省をやつてゐるのだと答へると、精神家は寸劇の出来ばえを絶讃して、思ひ出し笑ひをし、いかがはしい冗談を言つてから、早く寝ろと言ひ残して去った。その後ろ姿は、左右に懐中電灯を向けて、暑苦しくて平穏な闇をもつともらしく検分しながら、ゆつくりと遠ざかってゆく。そのとき一瞬、棕櫚の樹の影が土蔵の白壁に鮮明に映つた。村長の家に分宿して以来、古屋はこの埃まみれの棕櫚の樹が嫌ひで、全体のむさくるしい印象、長い柄のついた葉のひろがり方、ぼろのやうにめくれた大きな皮をほとんど憎んでゐた。誰にも言はなかったけれど、朝夕これを目にしては厭な樹だなあと思つてゐた。ほかのところで見かける棕櫚にはわりあひ無関心だつたのに。だが、不思議なことに、このとき見た同じ樹の影にはひどく魅惑されたのである。様子がよくて端正だつた。この記憶は間違ひではないと思ふ。といふのは、たぶん昭和三十年ごろ、この新劇俳優が左翼劇団の幹部になつてゐるのを新聞の演芸欄で知つたとき、古屋は軽く舌打ちしてから、例のスクラップ・ブックに十年前の八月の一部始終を書きつけたのだが、今度、見つけて読んでみると、その末尾に二行、「棕櫚。影。まつたく違ふ感じなのに驚いた。まるで、衣裳の好みの悪かつた女がある日とつぜん水際立つたなりで現れたやう」とあるからだ。」丸谷才一『樹影譚』より抜粋(群像日本の作家「丸谷才一」小学館1997)pp.231-233.
昔、何かの本か雑誌を読んだときに、丸谷才一の小説に昭和20年8月、あの大戦争が終結したときに、帝国陸軍の兵士たちにどんな出来事が起きたのか、とても印象的な記述があると書いてあったことを、記憶の片隅に残していた。それが、たまたま今年、山形県の鶴岡市に個人的なスペースを作り、月に一回そこに暮らしていろいろ「文化的・文学的・美術的」生活を始めたぼくは、鶴岡という場所に縁のある人物についても改めて知ることになった。世間で知られる鶴岡出身の人として、まず歴史小説家の藤沢周平、満洲国建設の立役者の軍人・石原莞爾、民間右翼として戦犯になった大川周明、これが三大鶴岡名士だとすると、遡って幕末の策士、新選組・新徴組の組織者清河八郎も挙げなければならないし、範囲を庄内という平野に広げれば酒田の写真家土門拳や評論家佐高信にも触れるべきかもしれない。
ぼくは東京23区の豊島区で育ち、今もそこに家を持って暮らしている人間だが、今年4月からもうひとつの拠点として、庄内鶴岡に一種の想いをこめた時間を過ごしている。そこで、チャリンコを漕いで市内の鶴岡市図書館に行って、迂闊にも初めて知ったのが、丸谷才一というユニークな作家が鶴岡の城下町中心部馬場町で開業医の長男として育った人だということである。丸谷才一は日本文学において主流であった自然主義以来の私小説的伝統に、J・ジョイスの精神を受け継いで反旗を翻し、次々に旺盛な問題作を出して活躍したパワフルな作家なのだが、正直言って彼の試みはいま文壇(そんなものがまだあると仮定した場合)からほとんど黙殺される状況にある。それは彼の故郷鶴岡においても同様であり、中央で名声と地位を獲得した小説家としては顕彰されながら、実は庄内藩伝統の保守派からは排斥されるという点で藤沢周平に通じてしまう。『樹影譚』は、小説としては複雑な入り子構造の作品だが、丸谷の意図をうまく読み物の面白さに変換している佳作だと思う。