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「自然主義」はただありのままの「実感」で終わった。文学の価値について・・

2018-09-30 02:55:47 | 日記
A.「自然主義」文学⇒私小説⇒純文学という誤解
 今は高校の現代国語の時間に、日本文学史みたいな授業はあるんだろうか?ぼくの高校生の頃は、教科書か副読本に『日本文学史』みたいなのがあって、源氏物語、枕草子いらいの古典は別として、明治以降の近代文学については二葉亭四迷「浮雲」から始まって田山花袋「蒲団」、島崎藤村「破戒」、志賀直哉「暗夜行路」、川端康成「雪国」と続くのが日本の小説=文学のメインストリームだと教わった(ような気がする)。別格で鷗外漱石芥川は出てくるが、荷風や谷崎や鏡花は怪しい異端で、有島武郎や武者小路実篤の白樺派や小林多喜二、徳永直のプロレタリア文学は傍流のアダ花扱いだった。まして東北辺境の詩人、啄木や賢治などは路傍の突然変異としか見られていない。戦後文学にもその流れは続いて、太宰・安吾の無頼派、野間宏・大岡昇平の第1次戦後派、安岡・吉行など第三の新人まで連綿と「私小説―純文学」こそ日本文学の王道だと書いてあった(ような気がする)。
 公教育のなかで、とくにティーンエイジャーが通う後期中等教育(つまり高校)の日本語教育のなかで、日常無意識に使っていることばが、どのような人たちの創作によって豊かになってきたかは教えられる意味が大きい。ただほとんどは、教えている教師にすらそのことに無自覚だと思う。ただ教科書的な知識として「日本近代文学」の作家と作品をひと通り紹介すれば、それでカリキュラムはこなし次に進むというわけだ。ぼくも、高校で日本文学史を一通り学習して、作家と作品の名前をおぼえた。できればその小説を読んでみたいとも思ったが、受験勉強的な学習にはそんな余裕はなく、文芸評論家の小林秀雄が受験に出るから読んだ方がいいといわれて読んだ。でも小説は、小説の神様の最高傑作といわれた『暗夜行路』を読んでみたが、あまりにつまらない私情の吐露と煩悶にうんざりして、こんなものが日本文学の傑作だというなら、小説など読む時間がもったいないと思って、以後純文学には興味を失った。
 それは半分は間違っていただろうが、半分は悪くない判断だったと思う。つまり、日本の近代文学は出発点の「自然主義」が、フランス文学のモダンなnaturalismをまったく誤解して、自分の即時的体験から感じた私情を唯一のrealismと混同して、これぞ新しい文学だと思いこんだことが、あとあとまで尾を引いて、古層にあった伝統的な「自然」を呼び覚ましていた。

 「意味の混在は気づかれにくい:
 文学上のnaturalismを、初めて「自然」ということばを用いて日本に紹介したのは、やはり鷗外であった。前掲の「文学と自然」論争と同じとし1889年の1月、『読売新聞』紙上で、
 「ゾラー」は仏蘭西「プロワンス」の人、現時の所謂自然派(「ナトユラリスムス」)
 と述べている。「ナトユラリスムス」とは、ドイツ語表現の読みである。
 それから二十年近く経て、naturalismは「自然主義」として、日本の文学を導く思想となり、多くの小説を生み出し、やがて日本の文壇小説の主流ともなるのである。
 日本の「自然主義」については、すでに多くの意見や批判がある。とくに、naturalismは、その代表者ゾラが、「自然」科学者クロード・ベルナールの『実験医学序説』の影響を受けて、「自然」科学の方法にならって小説を書こうとした方法を意味しているのに日本の「自然主義」は、それを理解しなかった、あるいは誤解した、と言われるのである。代表的な批判者、中村光夫の意見を見てみよう。中村は、「自然主義」発生期の旗手であった田山花袋が、「自然を自然のまゝ書く」と言っていることを批判して、こう述べている。
花袋はここで、‥‥‥素材の理想化を排するのを口実として、現実と表現の世界との差別を抹殺しようとしてゐることはたしかです。このいはば無意識の詐術の種につかはれてゐるのは、自然といふ観念です。自然が作者が意図しさへすれば、すぐ「そのまゝ」捕へられるものならば、実生活とその表現の区別もなくなる筈だからです。‥‥‥
花袋はこの生の自然(鷗外の云ふ実感の世界)と、作品に写された自然を混同し、これを作者の告白(あるひは実感の吐露)で強引に統一したので、これは日本の文学に多くの混乱を生んだ悲しむべき誤りであったと僕には思はれます。(『言葉の芸術』1965年、講談社)
この批判は、前に述べたあの鷗外の巌本批判を思い起こさせる。巌本が、「最大の文学は自然の儘に自然を写し得たるもの也」と言っていたように、花袋は、「自然を自然のまゝに書く」と言う。そして鷗外が、「自然の儘の自然は美にあらず」と批判したように、中村は、「生の自然」と「作品に写された自然」を混同した花袋を批判しているのである。
 そして、花袋の「自然」は、巌本の場合と同じように、伝来の日本語の意味である。中村の「自然」は、鷗外と同じようにnatureの翻訳語としての意味なのである。そしてまた、巌本が、「自然なるものをまったくナツールに当(ひと)しとするも宜(よ)し」と言いながら、伝来の日本語「自然」の意味を押し通そうとしたように、花袋も、ゾレなどのnaturalismに教わり、それに拠っていると思い込みながら、実は、日本的な「自然」主義で理解していた。巌本が、鷗外の批判の前に分が悪かったように、花袋の文学論は、時代を離れたこの中村の批判に堪え得ないように見受けられるのである。
しかし、ここでもまた、私は同じようなことを改めて言わなければならない。花袋と中村の場合も、結局、ことばの意味のすれ違いという出来事なのである、と。つまり、それほどまでに、一つの翻訳語をめぐる伝来の母国語の意味と、翻訳語の原語の意味との混在という現象は、人びとに気づかれがたいのである。
ただ一つのことば、ただ一つの意味が始めにあって、それを西欧ではnatureと言い、日本では「自然」と言う、のではない。この単純明快な事実を理解することは、しかし非常にむずかしい。とくに日本の知識人にとってむずかしいようである。
「自然」とは、natureということばが日本にくる以前に日本語であった。それがnatureの翻訳語として用いられるようになって、以後natureと等しい意味の言葉になったわけではない。学者や知識人が、ことばの意味をどう定めようと、単なる記号ならいざ知らず、現実に生きていることばは、少数者の定義で左右できるものではない。また、巌本や花袋が、意識的にはnatureと同じと思いながら、伝来の「自然」の意味を動かしがたかったように、ことばの意味は、使用する人の意識をも超えた事実なのである。
 日本語「自然」における意味の変化
「自然主義」とは、naturalismと等しい意味のことばではなかった。ではこの「自然主義」の自然は、伝来の日本語そのままであったのだろうか。恐らくそうではない、と私は考える。
 いったい「自然のままに自然を書く」ということも、考えてみると矛盾である。伝来の意味の「自然」とは、意識的でない、ということで、これに対して、「書く」とは、非常に意識的な行為だからである。「自然主義」とは、また一段と矛盾した用語である。「主義」とは、あえて唱え、行うということで、「自然」とは正反対の態度だからである。
 そして、ここで重要なことは、このような矛盾を通して、伝来の「自然」の意味も変化している、と考えられるのである。
 花袋は、『花袋文和』(1911(明治44)年)で、こう語っている。
  自分の内面もまた一自然である。他の宇宙が自然であると同じやうに、矢張自己も一自然であるといふことである。そして同じ法則が、同じリズムが同じやうに自他を通して流れてゐるといふことである。
 同じようなことは、当時の「自然主義」の論客たちも、異口同音に語っている。たとえば島村抱月は、「今の文壇と自然主義」(1907(明治40)年)でこう言う。
  事象に物我の合体を見る、自然は茲に至って其の全円を事象の中に展開するのである。その事象は冷かなる現実客観の事象に非ずして、霊の眼開け、生命の機覚めたる刹那の事実である。‥‥‥
 無念無想後の我れの情、我れの生命は、事象と相合体して、生きた自然、開眼した自然の図を作って来る。物我融会して自然の全円を現じ来たるとは此の謂ひである。
 「自他を通して流れてゐる」とか、「物我融会」というように語られる「自然」は、もちろんnatureではなく、伝来の「自然」の意味からやってくる。しかし、こうして語られている「自然」は、伝来の「自然」とまったく同じなのではない。「自然」は、「我」に対して対象化されている。その反対側に、「自然」に対する「我」がいる。
 見出された「我」は、しかし主体としての立場を貫いていくわけではない。見出されると同時に。「自他」一つになり、「融会」しようとする。「自他」の対立する存在の発見と、それにつづく「自他」が一つに帰する運動、それが「自然」なのであり、伝統的な「自然」の意味は、こうしてとりもどされる。
 「自然」は、natureの翻訳語とされることによって、直ちにnatureの意味がそこに乗り移ってきたわけではない。「自然」は、翻訳語とされることによって、まずnatureと同じような語法で使われるようになった。論理学の用語で言えば、内包的な意味はそのままで、外延的に、あたかもnatureということばのように扱われた。対象世界を語ることばのように扱われた。これは意味の上からは矛盾である。そしてこの矛盾が、新しい意味を求め、「自然」ということばの使用者は、矛盾を生めるような意味を求めていく。こうして、あえて、意識的に「自然」であろうとし、「自他」「融会」する。「自然」の意味はこうして回復され、同時に新しい意味を生み出しているのである。」柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書189 .1982. pp.142-148.

 ここで柳父氏が言っていることは、日本近代文学が背負った宿阿と西洋近代との出会いがもたらした矛盾の象徴的な出来事である。高校生だったぼくは、そんなことはもちろん分からなかったし、志賀直哉を読んでなあんだ文学ってこんなものかと切り捨ててしまった。ただ、ぼくたちの生きる社会が、こうした日本語の築き上げた文化の上に成り立っている、ということをやがて理解するようになったのは、高校教育の成果に他ならないし、とにかく学校で国語の時間に日本文学史をまんべんなく教えておくことは、武器暴力を蓄えて戦争ができるようにするよりも、遥かに重要な国民の「教養」なのだということは強調しておきたい。



B.「文学」の力
 2018年の日本では、いかに落ち目の老舗大企業を立ち直らせ、「日本経済」を成長軌道に乗せ、財政と金融のアルコール依存のような無理矢理成長路線をやめようとしない強気だけの安倍政権の暗雲漂う未来を、なるべく考えないようにしてきた結果、元号平成が終わるときまでに何をやるべきか、少しは現実的に考える能力のある人も、もっぱらAIテクノロジーと怪しげなトランプに頼るほかない不安に陥って出口がない。そこでは、楽観主義の「工学的」打開策は語られるが、もっと深い「文学的」考察はほとんど顧慮されない。この国では、あれほど固有の歴史と文化を自慢していながら、近代以降の「文学的」達成についてまったく低い評価しか与えていない。日本文化は江戸以前の博物館的文化財ではあっても、現代に生きる人間の精神に重みを与えるものとは考えておらず、大学の「文学部」は非生産的な盲腸としか思われずに予算を削減されてしまう。まったくこの国の未来は貧困化する。
 でも、それもある意味では自業自得なのかもしれない。マジョリティーの若者は軽いエンタメ小説すらもはや読むだけのリテラシーをもたない。まして近代日本文学の諸作品を手にとっても、旧かなや難しい漢字が読めないのだから、まずアクセスできない。嗚呼!という漢字が読めない以上、文学なんてこの世に存在しないに等しい。いまの高校生に鷗外漱石を読ませるのは無理でも、強制的に丸谷才一を読ませる必要はあるのではないだろうか。

 「昭和二十年八月下旬、彼は三十代半ばの老上等兵として宮崎県のはづれにゐて、連隊本部要員だった。この年の正月、召集されたので、少しは同情してくれたらしく、郵便物の検閲と連隊長の私信の代筆が主な仕事である。戦争に負けてもすぐには復員にならないので、兵隊を退屈させないため演芸会をすることになり、連隊本部からも一つ出すことに決った。ちょうど本職の役者が二人とこれも本職の踊りの師匠がゐるので、それにはめて台本を書けと命じられ、変なものを書いた。
 博徒の親分(新劇の役者)が妾(踊りの師匠)と子分(道頓堀の軽演劇の役者)を連れて旅に出るが、親分が横暴なのに愛想を盡かして子分が盃を返す。出てゆかうとする子分を妾が呼びとめて、それならあたしも連れて行っておくれ、この男はもともと大嫌ひだったが、余儀ないわけがあって身を任せたのだから、と言ふ。子分は喜んで、まへまへから慕っていたと打ち明け、二人はイチャイチャする。かなり際どい。子分が、これからは堅気に戻り、竹の柱に茅の屋根で苦労しようと言ふと、妾はキツとなつて、勘ちがひされちゃ困る。あたしにはそんな気は毛頭ない、太く短く生きると宣言して、一人で飛び出してゆく。残された男二人は茫然として、
 「そんなのあるかい」
 といふ寸劇で、芝居はともかく、女形があでやかで大好評だったが(衣裳は彼らの宿舎である村長の家から借りた)、その夜、特配の酒がはいると、親分役をやつた新劇の役者が荒れた。
 はじめは役不足をと遠まはしに愚痴つてゐたのに、追ひ追ひと台本の批判になつて、とうとう、あの台本は「上御一人」を愚弄するものだ、つまりあの旅に出てゐる博徒は天皇で、子分とは国民だ、と言ひ出したため、軽演劇の役者、踊りの師匠、衣裳と小道具の係の会社員、新聞紙で鬘を作った小学校の教員がしきりになだめ、村長の家の隣にある小さな社の境内へ連れ出した。古屋も仄かな月明かりを頼りについて行って、ひよつとするとこれは踊りの師匠をめぐる恋(男色)の鞘当てかもしれないと疑ひかけたとき、光の束を投げるやうにして懐中電灯を振りながら週番将校が巡回して来た。兵器はもう渡してしまったので、丸腰である。みんながてんでに敬礼をした。答礼した将校が明りを彼らのほうに向け、おそくまで何をしてゐるのかと訊ねた。これが天の崇拝に凝り固まつてゐる精神家の将校なので、古屋は咄嗟に、この男の加勢で台本批判がいつそう激しくなるのではないかと案じたが、会社員がのんびりした声で、今日の演芸会の反省をやつてゐるのだと答へると、精神家は寸劇の出来ばえを絶讃して、思ひ出し笑ひをし、いかがはしい冗談を言つてから、早く寝ろと言ひ残して去った。その後ろ姿は、左右に懐中電灯を向けて、暑苦しくて平穏な闇をもつともらしく検分しながら、ゆつくりと遠ざかってゆく。そのとき一瞬、棕櫚の樹の影が土蔵の白壁に鮮明に映つた。村長の家に分宿して以来、古屋はこの埃まみれの棕櫚の樹が嫌ひで、全体のむさくるしい印象、長い柄のついた葉のひろがり方、ぼろのやうにめくれた大きな皮をほとんど憎んでゐた。誰にも言はなかったけれど、朝夕これを目にしては厭な樹だなあと思つてゐた。ほかのところで見かける棕櫚にはわりあひ無関心だつたのに。だが、不思議なことに、このとき見た同じ樹の影にはひどく魅惑されたのである。様子がよくて端正だつた。この記憶は間違ひではないと思ふ。といふのは、たぶん昭和三十年ごろ、この新劇俳優が左翼劇団の幹部になつてゐるのを新聞の演芸欄で知つたとき、古屋は軽く舌打ちしてから、例のスクラップ・ブックに十年前の八月の一部始終を書きつけたのだが、今度、見つけて読んでみると、その末尾に二行、「棕櫚。影。まつたく違ふ感じなのに驚いた。まるで、衣裳の好みの悪かつた女がある日とつぜん水際立つたなりで現れたやう」とあるからだ。」丸谷才一『樹影譚』より抜粋(群像日本の作家「丸谷才一」小学館1997)pp.231-233.

 昔、何かの本か雑誌を読んだときに、丸谷才一の小説に昭和20年8月、あの大戦争が終結したときに、帝国陸軍の兵士たちにどんな出来事が起きたのか、とても印象的な記述があると書いてあったことを、記憶の片隅に残していた。それが、たまたま今年、山形県の鶴岡市に個人的なスペースを作り、月に一回そこに暮らしていろいろ「文化的・文学的・美術的」生活を始めたぼくは、鶴岡という場所に縁のある人物についても改めて知ることになった。世間で知られる鶴岡出身の人として、まず歴史小説家の藤沢周平、満洲国建設の立役者の軍人・石原莞爾、民間右翼として戦犯になった大川周明、これが三大鶴岡名士だとすると、遡って幕末の策士、新選組・新徴組の組織者清河八郎も挙げなければならないし、範囲を庄内という平野に広げれば酒田の写真家土門拳や評論家佐高信にも触れるべきかもしれない。
 ぼくは東京23区の豊島区で育ち、今もそこに家を持って暮らしている人間だが、今年4月からもうひとつの拠点として、庄内鶴岡に一種の想いをこめた時間を過ごしている。そこで、チャリンコを漕いで市内の鶴岡市図書館に行って、迂闊にも初めて知ったのが、丸谷才一というユニークな作家が鶴岡の城下町中心部馬場町で開業医の長男として育った人だということである。丸谷才一は日本文学において主流であった自然主義以来の私小説的伝統に、J・ジョイスの精神を受け継いで反旗を翻し、次々に旺盛な問題作を出して活躍したパワフルな作家なのだが、正直言って彼の試みはいま文壇(そんなものがまだあると仮定した場合)からほとんど黙殺される状況にある。それは彼の故郷鶴岡においても同様であり、中央で名声と地位を獲得した小説家としては顕彰されながら、実は庄内藩伝統の保守派からは排斥されるという点で藤沢周平に通じてしまう。『樹影譚』は、小説としては複雑な入り子構造の作品だが、丸谷の意図をうまく読み物の面白さに変換している佳作だと思う。
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art nature ってのがあったが、矛盾だ。右翼論壇の愚・虞・具!

2018-09-28 00:22:47 | 日記
A.「自然」科学と「自然」法
 柳父章著『翻訳語成立事情』(岩波新書・1982)を読んできたのだが、名著だと思う。柳父氏は今年1月2日に亡くなられたそうである。本名・柳父章新(やなぶ ゆきよし)氏は東京生まれ。東京大学教養学部教養学科卒業。桃山学院大学教授を務めた。脳内出血にて死去。第14回(1987年)山崎賞受賞。山崎賞というのは東大名誉教授山崎正一の基金で作られた哲学系学術賞として始まり(第1回受賞者・村上陽一郎、第2回廣松渉など)、以後分野を学術一般に広げ、毎年1回新進の研究者に与えられている。
 授賞選定理由: 「柳父氏は、・・・「翻訳文化」としての日本の学問・思想の基本性格を、「翻訳語」の成立過程を手がかりとして問い正す作業にたずさわってきた。その作業は、・・・ 總じて「翻訳語」を介して受容された異文化が、それを受容した文化のコンテクストのなかで、いかなる役割を演じたか、その諸相を解明するという形で行われてきた。 その作業は、そもそも「翻訳」とは、一体、何を意味するのかを根本的に問う、「文明批評」の手続きである。この観点から、数々の注目すべき業績を挙げている柳父氏の研究は高く評価される。」
 『翻訳語成立事情』がとりあげていることばは、社会、個人、近代、美、恋愛、存在‥自然など。いずれも明治期に翻訳語として登場し、定着したことばで、その後の日本で大きな意味をもって今も使われている。今回は「自然」について…。
 「これまでとりあげてきたことばは、いずれも、翻訳のために、幕末―明治以後、はじめて使われるようになったことばであった。あるいは、旧い用例はあったとしても、一応それとは別に、西欧語の翻訳語として、新たに生まれ変わったようなことばであった。
 「自然」ということばも、やはり近代以後、西欧語のnatureの翻訳語として使われるようになった。が、これは翻訳のための新造語ではない。漢籍にもたとえば老子の古い用例があり、日本語としても、仏教用語の「自然(じねん)」などは、歴史も長いことばである。しかも、近代以後、「自然」が翻訳語として使われるようになっても、同時に、それとは別に、多くの人々に使われ続けていたことばである。つまり、近代以後、今日に至る私たちの「自然」ということばには、新しいnatureの翻訳語としての意味と、古い伝統的な意味とが共存しているのである。
 翻訳語「自然」ということばをめぐる、問題は、第一に、この、原語(西欧語)の意味と母国語(日本語)の意味との混在ということであり、そして重要なことは、この混在という事実が、翻訳語に特有の「効果」によって覆いかくされている、あるいは、このことばの使用者にとって分りにくくなっている、ということである。二つの異質な意味は、時に、たがいに論理的に矛盾するほど深刻であり、そして矛盾するから、翻訳語「自然」は、この矛盾を覆いかくすように働くのである。
 言い方を変えれば、翻訳語「自然」には、natureという原語の意味と、伝来の日本語としての「自然」の意味とが混在し、その結果として、ただ二つの意味が共存している、というだけではなくて、いわば第三の意味ともいうべき、翻訳語特有の効果を生み出しているのである。この事情は、簡単には分りにくいかも知れない。まず実例に当って見てみよう。
 すれ違いの論争
 「美」の章でも紹介した巌本善治と森鷗外との「文学と自然」論争を、その中心テーマである「自然」を中心として眺めてみよう。
 1889(明治22)年4月、『女学雑誌』で述べられた巌本の「文学と自然」という論文の趣旨は、一言で言えば、「最大の文学は自然の儘に自然を写し得たるもの也」ということであった。これに対して、一ヵ月後、『国民之友』に森鷗外の「文学と自然」という反論が載せられた。
 鷗外は、まず「文学」には二つある、と言う。一つは科学としての文学、もう一つは美術としての文学。
  試ニ本草綱目ヲ見ヨ、又タ「コスモス」ヲ見ヨ。是レ実ニ「自然」ノ儘ニ「自然」ヲ写シ得タルモノナリ。試ニ論語ヲ見ヨ、又タ「クリチック、デル、ライネン、フエルヌンフト」ヲ見ヨ。是レ決シテ「自然」ノ儘ニ「自然」ヲ写シ得タルモノニ非ズ、又タ単ニ「自然」ヲ写シタルモノニ非ズ。其写シタルモノハ「自然(ナツール)」ニ非ズシテ「精神(ガイスト)」ナリ。女学記者ハ其レ、「自然」ヲ知テ「精神」ヲ知ラザルモノカ。
 つまり、「自然の儘に自然を写」素ならば、「本草綱目」や「コスモス」のような、今日言う自然科学になってしまう。これに対して、哲学や文学は。「自然」とは別の「精神(ガイスト)」を写すのだ、と言うのである。ここで明らかなように、鷗外の言う「自然」とは、今日「自然科学」というときの「自然」である。つまりnatureの翻訳語としての「自然」のことである。natureは当然、客観的存在であって、人間の「精神」とは対立する。
 他方、巌本の「自然」とは何か。これは日本における伝統的な意味の「自然」である。簡単に言えば、ありのまま、ということである。ありのままの境地には、外の客観世界と、内なる精神との区別はない。
 さて、鷗外のこの批判に対して、巌本は、さらに、『女学雑誌』に、「国民之友第五十号における『文学と自然』を読む、を謹読す」と題する反論を書いた。そこで、まず「所云る自然なるものを全くナツールに当(ひと)しとするも宜(よ)し」として、「余が所云る自然には固より自然の精神を含めり」と言う。そして、
  最美の美文字は概(おおむ)ね自然の儘に自然を写さずと云ふ乎(か)。然らば何に拠(よ)りて写すぞ。人の理想は自然より来(きた)り、若くは自然の為に発達せしめらる。人の趣向は自然に倣(な)らひ、若(もし)くは自然より教示せらる。自然に拠(よ)らざるの製作者は、夫れ只(た)だ驕慢(きょうまん)なる文学美術者なる哉(かな)。
 と言うのである。ここで「美文学」とは、今日の「文学」のことで、「文学美術者」とは、今日の「文学者」のことである。
 しかし、この巌本の説には無理がある。何よりも、「自然なるものを全くナツールに当(ひと)しとするも宜し」と認めながら、「自然」が「自然の精神を含めり」と言い、また「人の理想は自然より来り」などとしているところである。「ナツール」、すなわち鷗外の言うドイツ語のNaturを受けている以上、この「自然」という翻訳語は、「精神」とは対立する。ここで巌本の言う「自然」には、「ナツール」すなわちnatureの意味と、日本語「自然」の意味とが混在している。その結果、言っていることに矛盾が起きてしまう。つまりnatureの意味の翻訳語「自然」は「精神」を含まず、伝来の日本語の意味の「自然」は「精神」を含むことができるのである。
 まもなく鷗外は、「再び自然崇拝者に質す」を『国民之友』に書いて再反論する。そして、巌本の言うのは「自然美Das Natureschöneと名(なづ)くるもの是れなり」で、これに対し、「自然の美は塵(ちり)を含めり。これを焚(た)き棄てゝ術美Das Kunstschöneとなすものは詩人彫工等の能なり。到底塵(ちり)を含みし自然の儘の自然は美にあらず」と言うのである。「自然」は、「精神」と対立するように、またKunst(人為)とも対立し、文学はこの人為の美、鷗外のここでの訳語で「術美」を目指す、と言う。
 論争はまだつづくが、鷗外の論旨が終始一貫しているのに対して、巌本の言うところはどうもゆれ動いている。二人の論争を通じて、巌本の「自然」は、基本的に日本語の伝統的な意味であり、鷗外の「自然」は、natureと同じ意味であった。そして、ここで重要なことは、そのことに、二人ともまったく気づいていなかった、ということである。論争はどちらの勝ちでもない。ことばの意味をめぐるすれ違いにすぎなかった。」柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書、1982.pp.127-131.

 「自然」については、新たに作られたことばではないが、西欧語のnatureの訳語に当てられたために、いろいろと混乱・誤解を招きもした。たとえばダーウィン進化論を意識して社会進化論を導入した加藤弘之『人権新説』では、「自然淘汰」ということばが登場するが、この「自然淘汰」は人の手が加わらない自然ではなく、「人為淘汰」だったと柳父氏はみる。「今から一世紀前のこの論文は、今日の私たちの目から見ると、いかにも論理のきめが荒い。が、ここに現われている翻訳語を中心とする論理構造は、きめが荒いだけに明瞭である」(p142)。

 「三つの分野の「自然」
 「自然」ということばの翻訳語としての用法には、およそ三つの重要な分野があった。「自然法」という法律上の用法、「自然科学」のような科学上の用法、そして「自然主義」という文学上の用法である。
 個の中では「自然法」という法律用語の定着は、もっとも早かったようである。Natural lawは、幕末―明治初期の頃は、「性法」あるいは「天律」などと訳されていた。Natureは「性」または「天」というわけである。1881(明治14)年、『性法講義抄』と題したボアソナードの講義録が出版されている。講義じたいは1874(明治7)年に行われたものだが、後に司法省法学校の井上操がまとめたものである。それによると、「性法」と並んで、時に「自然法」という用語も使われており、少なくともこの本の出た当時、「自然法」という言い方が、次第に「性法」にとって代わり始めていたことをうかがうことができる。
 文学上の「自然主義」については後に述べるが、科学上の用語「自然」に関しては、前掲、森鷗外の「『文学と自然』ヲ読ム」が、明らかな意味で使われている例としては、もっとも早いものであろう。じしん「自然」科学者でもあった鷗外が、科学の対象であるnatureを、はっきりと「自然」と訳していたのである。
 これ以前、「自然」科学の分野では、natureの翻訳語としては、「天」とか「天然」とか「天地」とか「万物」などを使うのがふつうであった。たとえば、1886(明治19)年、当時の代表的「自然」科学者、石川千代松の『百工開源』では、その「諸言」に、「Nature and Art」(天造と人工)と書かれているのである。」柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書、1982.pp.137-138.

 たしかに言われてみると、「自然科学」natural science というときの「自然」は科学的探究が対象とする物象世界のことで、人間の行なう相互行為と心理や感情などの現象は、「自然」と呼ぶにはあまりに複雑多様である。「社会科学」social scienceということばもやがて定着するが、キリスト教の神の創造を根拠にする「自然法」では、物理的世界の本質・本性と人間のそれとは連続していて、自然の本質・本性を明らかにするのは神から与えられた理性の働き、ということになる。しかし、今日ではこのような自然法思想は、そのままでは受け入れがたく、とくに日本のようなキリスト教の文化的背景が希薄な社会では、すんなり理解できる概念ではない。
 ちなみに「自然法」についてwikipediaの記述を要約するとこうなっていた。
「「自然法」(英: natural law、独: Naturrecht)の方は、事物の自然本性から導き出される法の総称で、この概念を主に人間社会を念頭に置いて使う場合、「倫理」と多分に意味内容が重複する概念となる。自然法は実在するという前提から出発し、それを何らかの形で実定法秩序と関連づける法理論は、自然法論と呼ばれる。自然法には、原則的に以下の特徴が見られる。但しいずれにも例外的な理論が存在する。
1.普遍性:自然法は時代と場所に関係なく妥当する。
2.不変性:自然法は人為によって変更されえない。
3.合理性:自然法は理性的存在者が自己の理性を用いることによって認識されえる。
 自然法の法源は、ケルゼンの分類に従うならば、神、自然ないし理性である。ギリシャ哲学からストア派までの古代の自然法論においては、これらの法源が渾然一体となっている。
 キリスト教の自然法論では、神によって作られた人間には自然本性が備わる、つまり法源は神になる。このことは理性にもあてはまり、神が人間に理性を与えたことが強調されるときは、合理的な法としての自然法の究極な法源もまた神となる。そこで自然法は実定法に対して授権関係あるいは補完関係に立つ。
 ここで「自然」とは、自然本性一般のことではなく、外的な自然環境のことである。外的な自然が自然法の法源となるのは、外的な自然環境と人間の自然本性との連続性が強調されるからである。ヘラクレイトスおよびストア派の自然法論において見られるように、自然学と倫理学とが連続性を保っている。このような場合には、自然法則と自然法がほとんど同義で語られることが多く、何らかの傾向性(例えば結婚は普通雌雄で行われることなど)が自然法とされることもある。」

 キリスト教の文脈で「自然」natureは神が作った世界の秩序になるが、日本の「自然」(じねん)はただ自ずからなるなりゆき、であって植物の成長も人間の人生もただ流れていくありのままの肯定になってしまう。



B.『新潮45』事件の顛末と背景
 LGBTへの差別発言が問題になった杉田水脈議員の論を、再度積極擁護に出た新潮社の『新潮45』が実質廃刊になった。文芸出版で歴史のある大手出版社としては、売れ行きの落ちた論壇誌の踏み外しが「常識外れ」だったことの後始末に迫られた、ということになる。しかし、ことは新潮社だけの独走ではない。右派論壇誌が好き放題のヘイト論説をまき散らすようになったのは、90年代の「正論」(産経新聞社)などから始まっていたが、その論説の質が読むに堪えないほど低下したのは、安倍政権になってからだと思う。首相自らが、場外ヤジのような下品な物言いを好み、同調する若手論者、とくに女性右翼を積極的に応援して右派論壇に送り込んでいることが大きい。杉田議員の主張は、非常に単純に「サヨク嫌い」「中国韓国北朝鮮嫌い」「弱者の主張支援大嫌い」で一貫していて、かつての伝統極右的な「尊皇愛国」とか「サムライニッポン」とかいう思想は乏しく、むしろネオリベ的市場淘汰主義で勝ち抜くみたいな色あいだが、それも取ってつけた借り物だろう。

 「今回の杉田議員の差別発言を掲載した『新潮45』八月号の特集も、「日本を不幸にする『朝日新聞』」であった。また、過去の登場回も、2018年6月号「『朝日新聞』という病」、2018年6月号「朝日の論調ばかりが正義じゃない」という特集だ。
 なぜ「朝日を叩く」のだろうか。それは『朝日新聞』がリベラルの看板と見なされているからにすぎない。リベラルと見なされる議論や対象への反発と、それによって稼ぐビジネスとして「朝日叩き」の構図を維持してきたのである。杉田議員の一連の発言をみると、選択的夫婦別姓反対、LGBT支援反対、「慰安婦」問題の否定、女性差別撤廃条約への批判、男女共同参画への批判、科研費による「反日」研究批判など、人権関連案件のリベラルな時流に対する「逆張り」(反動)がウケていると感じざるを得ない。すなわち、かつての一部の保守に見られた国家観による思想ではなく、「逆張り」の結果として、現在の復古主義的かつ差別的な右派言論が成り立っている。
 「参加型文化」「集合知」「朝日叩き」が冷戦崩壊後、現在まで四半世紀も続く右派の言論・論壇の特徴と言えるのではないだろうか。」倉橋耕平「右派論壇の流通構造とメディアの責任」(岩波書店『世界』2018年10月号)、p.132.

 出版不況が続く中で、論壇誌も軒並み売り上げが減っているから、生き残るには「固定客」が期待できる右派ヘイト論に流れる、という説明は確かにそうかもしれない。しかし、その結果、全体から見ればごく一部だが、それを好んで読む読者がネットでデマを拡散する流れができ、いつのまにか世論の「なんとなく今はこっち」というどこかに忍び込む。

「「ヘイト本は売れる」。自身の体験からそう話すのは、保守論客として知られる評論家の古谷経衡氏だ。古谷氏の商業ライターとしてのデビューは10ねん、韓国や北朝鮮への批判に軸を置いたオピニオン誌。当時、ヘイト表現を含む右派論壇誌が盛んに出版されていた。「編集者から『読者の留飲を下げることをあおり気味に書いてもらえば売り上げの見通しが立つから、後は好きに書いてよい』と言われた」と振り返る。編集者は売上目当てで「右翼思想などなかった」と語る。
 実際、その雑誌は左派系論壇誌を上回る売れ行きを見せた。中小出版社で、ヘイト市場に手を出す社も目立ち始めたという。
 書き手も続々と現われた。古谷氏は「左派系の言論空間で認められるには、学界などの功績や有力者とのコネが求められ、障壁は高い。他方、右派系の論壇誌は敷居が低く、若い書き手が参入しやすい。一部の媒体では『韓国が嫌い』と言っていれば何でも書けた。『竹島に行ってきた』などと言えば、それこそ引く手あまただった」と話す。古谷氏は現在、「ネット右翼の思考の狭さや偏り」に疑問を感じ、距離を置いた視点から執筆活動をしている。
〔中略〕
 講談社が昨年、出版したケント・ギルバート氏の著書「儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇」は、中国人を「『禽獣以下』の社会道徳や公共心しか持たない」などと表現し、問題視された。だが、同書は新書の年間売り上げで首位を記録し、発行部数は47万部を数える。同社は「本書をヘイト本と見なされるとすれば誠に残念です」とコメントした。」東京新聞2018年9月27日朝刊29面、こちら特報部「読者参加型、ネットで拍車:ヘイトに舵切った:特集意図検証し 議論深める機会」より。

  問題は、LGBTQをどう見るかだけではなく、自民党が拠って立つ戦後日本社会への対抗的なナショナリズムであり、復古的な価値の復権を目指す憲法条項の変更である。それはどうみても、現代の現実的・社会的・思想的諸問題の解決にとって、おそろしく時代錯誤な後ろ向きの過激主義であり、大衆の現状維持という盲目の思考に便乗して、自らの権力を固守しようという利己的で痙攣的な提案だと思う。

 「だが、杉田議員を高く評価する安倍首相率いる自民党は、あたかもかつての「人口政策確立要綱」を参照したかのような改憲草案を公表し、すでに多くの指摘があるように、24条(〔1〕婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。)をめぐっても、立法当時の精神を否定するような改定案を示している。いやそもそも、「良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため」憲法を制定すると前文で謳う自民党改憲草案は、大東亜共栄圏を建設し、その健全な発展を図ることを目的とした「要綱」の精神を引き継いでいるかのようなのだ。
 この草案の起草に加担したであろう憲法学者たちは、現行の24条改定の理由について、口をそろえたように個人主義を批判する。そして、「個人を基礎とする世界観を排して家と民族とを基礎とする世界観の確立、徹底」という文言は、「要綱」ではなく、現在の彼らの発言だったとしても、もはや驚くひとは少ないのではないだろうか。
 自民党改憲案では、日本国憲法の核心ともいえる13条から「個人」を消し、また、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」における「公共の福祉」を、「公益及び公の秩序」に変更している。立憲主義の趣旨からすれば、人権、個人の尊厳をよりよく尊重するために国家は存在しているのだから、人権を制約しうるのは人権にほかならないことは、容易に理解できる。しかし、立憲主義をそもそも理解できない自民党は、人権を制約するための、人権を超えた価値が存在すると考えるのだ。では、その価値とはなにか。直接自民党の見解を引用しておこう。

  学説上は「公共の福祉は、人権相互の衝突の場合に限って、その権利行使を制約するものであって、個々の人権を超えた公益による直接的な権利制約を正当化するものではない」などという解釈が主張されています。しかし、街の美観や性道徳の維持などを人権相互の衝突という点だけで説明するのは困難です。(自民党 憲法改正推進本部ウェブページ「Q15「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に変えたのは、なせですか?」『日本国憲法改正草案Q&A』より)

 自民党は、普遍的な価値が宿る人の尊厳を、「性道徳」などというその時々の社会状況や政治状況に左右される不確かな思い込みで、成約しようとしている。「思い込み」というのは、決して言い過ぎではない。「性道徳」など、誰が決めるのかも(もちろん、自民党議員は自分たちで決めると考えているのだろう)はっきりせず、しかも、セクシュアリティをめぐっては、偏見にまみれた「個人的な意見」が、まことしやかに流通する。杉田議員は次のように書いていた。

 多様性を受け入れて、様々な性的思考も認めよということになると、同性婚の容認だけにとどまらず、例えば兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころかペット婚や、機械と結婚させろという声も出てくるかもしれません。

 第一に、権利主張の対象を、「容認」と見下すような表現は、杉田議員の権利「意識」のなさを表している(『容認』とは、本来を認められないことをいしとすることであり、法律的・道徳的に間違っているが、大目にみてよいという意味である)。それ以上に、わたしたちが問題にすべきなのは、なぜ人間社会に婚姻制度が存在するのか、なせ社会制度上、婚姻については手厚い保護がなされているのかを考えることもせず、同性愛者たちが積み上げてきた議論や活動のみならず、同等の権利を希求してきた人びとをここまで貶める「意見」が「性道徳」と同一視される危険性が皆無ではないことなのだ。
 一人ひとりに備わる人としての尊厳が、これほど露骨に貶められ、毀損されることが、あってよいであろうか。」岡野八代「差別発言と、政治的文脈の重要性 「「LGBT」支援の度が過ぎる」の根幹」(岩波書店『世界』2018年10月号)、pp.147-148.
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没理想、没価値、没個人・・日本は~ 議論にならないよ

2018-09-26 14:58:30 | 日記
A.「没理想」論争と翻訳語の物神化
 日本で何かを論じるのに、いまもよく使われるやり方のひとつに、「海外では~だ」「世界では~となっている」「日本は~で遅れている」という外国の新潮流からみればダメだ、というのがある。これを反転させると、「日本は世界で上位だ」「外国人は日本人をスゴいと言っている」「日本は~で世界をリードしている」というドヤ論になる。オリンピックの金メダルの話なら、まだわかりやすいが、「日本は~」「日本人は~」「欧米では~」「海外では~」という語り方は基本的に雑な議論で、どういう基準でランク付けしたのかを確かめないし、問題の比較する内容自体をほとんど無視する。それでも、この議論は結構受けてしまって、やっぱり日本はダメかとがっかりしたり、そうか日本はスゴいのか、と一喜一憂したりする。
 そうなってしまう理由の一つは、ここで柳父氏が論じている翻訳語の問題で、外国の新しいことばが輸入されるとき、日本にはそれに該当する日常語がないので、翻訳語を作ってしまう。あるいは今なら、翻訳語を作る手間を省いてそのままカタカナ名詞にして通用させてしまう。これは、原語とその文脈を理解している専門家から見れば、いい加減な誤用・誤解を招いていると思えるのだが、使っている人間は、実はそのことばをよくわかっていないことを知りながら、だからこそ何となくカッコよさげで、意味のあることばのように思いこむ。「美」もまたそうした翻訳語だった。

 「鷗外が、坪内逍遥との間で交わした有名な「没理想」論争もこの頃のことで、この論争でも、「美」は重要な役割を果たしている。
 「没理想」論争は、1890(明治23)年における坪内逍遥の発言に始まって、翌年、森鷗外がこれに反論し、さらに逍遥が反論、以後たがいに応酬をくり返すのである。論争のテーマは、簡単に言えば、逍遥が、すぐれた文芸作品には「理想」はない、と言うのに対して、鷗外は、文芸とは「理想」を表現するものだ、と主張したのである。当時、日本の文芸界における指導的地位にあって文名高かったこの二人の論争は、世人に注目され、文学史上も名高い。
 論争の決着は、延々と続いた二人のやりとりを通じて、必ずしもそれほど明らかではないように見える。が、いま「美」ということばに焦点を絞って見返してみると、意外に簡単に決着はついていたのだ、と気づくのである。
 逍遥は、「マクベス評釈の諸言」(1891年)で、シェークスピアの作品をたたえて、こう言う。
  沙羅(さら)双樹(そうじゅ)の花の色、厭世(えんせい)の目には諸行無常の形とも見ゆらんが、愁(うれい)を知らぬ乙女は如何(いか)さまにながむらん。要するに造化の本意は人未だ之を得(え)知らず。只(ただ)已(すで)に愁の心ありて秋の哀(あわれ)を知り、前に其心楽しくして春の花鳥を楽しと見るのみ。造化の本体は無心なるべし。さてシェークスピヤの傑作は頗(すこぶ)る此造化に似たり。‥‥‥彼が傑作は殆ど万般の理想をも容(い)れて余あるに似たり。
 偉大な文芸作品は、「造化」すなわち自然とも似ていて、「万般の理想をも容れて余ある」、一つの「理想」で裁断しようとしてはならぬ、と言う。「『花』の美しさといふ様なものはない」という思考と共通である。
 これに対して鷗外は、「早稲田文学の没理想」と題して、こう反論した。
  沙羅双樹の花の色を見るものは、諸行無常とも感じ、また只管(ひたすら)にめでたしと眺むめれど、其色の美に感ずるは一つなり。この声、この色をまことに美なりとは、耳ありて能く聞くために感ずるにあらず、目ありて能く視るために感ずるにあらず。先天の理想はこの時暗中より躍り出でて此声美なり、この色美なりと叫ぶなり。
 初めにあるのは「美しい花」ではない、「花の美しさ」である。「美」が初めにある。つまり、文学は美術である。美術は「美」を表現する。「美」とは「先天の理想」である。したがって、文学は「理想」を表現するのであって、「没理想」とは誤りだ、と説いたわけである。
 鷗外のこの批判は、逍遥にとって、おそらく致命的であったように思われる。逍遥は、この論争の少し前、1885(明治18)年、有名な『小説神髄』を書いて、新しい時代の小説を導いていた。その巻頭に、「小説の美術たる由を明らめくせば、まづ美術の何たるをば知らざる可らず」と書き出すのである。「美術」とはartの訳語であって、この発言の背景には、ドイツ観念論の系譜の美学がある。fine artの「美術」はもちろん、詩歌、戯曲、小説なども、「美」を追求し、表現するものだ、という考え方である。前述の西周の『美妙学説』、中江兆民の紹介した『維氏美学』(1883-84(明治)16-17)年)、鷗外のハルトマン美学など、いずれもそうであった。
 逍遥は、とくに「美」について深く考えてはいなかったようだが、その主唱した文学論は、実はこのような美学と不可分であり、それに支えられていたわけである。「美」とは「先天の理想」であるという鷗外の反論は、痛かったであろう。
 この鷗外の反論の一ヵ月後、1892年1月、逍遥は「烏有先生に謝す」という短文を書き、そこで実質上、自分の説の誤っていたところを認め、「没理想とは即ち有大理想の謂」と弁明したのである。ここで二人の論争の大勢はすでに決していたと思う。「先天の理想」で芸術作品を裁断するなと言う逍遥の主張は、改めて見直してみると、まことにもっともなところがあったのであるが、逍遥があまりよく知らず、鷗外がよく知っていたこの「美」という言葉の前に、後退せざるをえなかった。逍遥にとっては、あまりよく知らないとしても、どうしても使わざるをえないことばだったからである。
 ところで、この論争で二人が使っている「理想」ということばについて、ここで一言述べておきたい。
 二人の使っていた「理想」とは、今日ふつうに「理想」と翻訳されるidealのことではない。英語のidea、ドイツ語のLdeeのことであって、このことは、二人とも承知していた。英語でもドイツ語でも、このことばには、大きく分けると、「考え」というような日常語的意味と、今日普通「観念」と翻訳される哲学用語とがある。そして、逍遥の言う「理想」は、論争の後半では混同されているが、初めはこの前者の意味であった。鷗外の「理想」は、一貫してこの後者の意味である。そこで、こういうように筋を通してみるならば、逍遥の言う「没理想」は、鷗外の立場と、必ずしも矛盾はしていなかったわけである。おころが、鷗外は、論争の終りに近く、「早稲田文学の後没理想」(1892年)で、こう言う。
  第一、没理想の理想を常の義に取られ、没をも常の無といふ義にとらるゝときは、造化に永劫(えいごう)不滅のものなきやうに解せらるべし。‥‥‥古今の哲学者及審美学者が用ゐなれたる理想の語は矢(や)張(はり)その用ゐなれたる義に使はるゝこと止まざるべく、‥‥‥
すなわち、自分が理解して使っている意味が「常の義」で、それは、「哲学者及審美学者」が用いている意味だ、と言う。と言うよりも、「哲学者及審美学者」が用いているから、それは「常の義」なのだ、という考えである。これは、さまざまの論争などを通じて見られる鷗外の基本的思考法である。
 およそことばの意味は、「哲学者及審美学者」がきめるのではない。ことばが先にあって、その日常的意味をもとにして、「哲学者及審美学者」は、これをつごうによって抽象し、限定して使うのである。しかし、この限定された意味を、翻訳語として受けとめ、従って、完成された意味として受け取ることの多い日本では、この順序はとかく逆転して理解されがちである。
 鷗外のこの逆転したことば観を、逍遥もまた反論できなかった。このことは、日本における翻訳語というものの性格をよく物語っている。
  三島由紀夫の「美」のトリック
 「美」ということばは、分かりにくいことばである。そして分かりにくいにもかかわらず、これまで考察してきたように、たとえば巌本善治は盛んに口にしていたし、また、坪内逍遥はこのことばの前では頭を下げざるをえなかったのであった。
 今日でも、「美」は、やはりそういうことばである。
 「美」の、こういう性格を巧みに利用した文章家として、三島由紀夫の用例を見てみたい。
 三島由紀夫の「美」の語り方には二通りがある。「美」について語るときと、「美」に語らせるとき、である。「美」について語るのは、評論ふうの短い文章の場合であり、「美」に語らせるのは、小説作品の中である。このうち、まず前者から見てみよう。
 三島が「美」について語るときは、ほとんど常に軽蔑したような口調で、否定的である。いくつか例を挙げてみよう。

 ふつう唯美主義とか耽美主義とかよばれるものは、十九世紀後半殊に世紀末の文芸思潮に冠せられた名で、すでに時代おくれの呼名である。のみならず、常識的にその代表者と見なされるボオドレエルにしてもワイルドにしても、美は相対的な救済にすぎず、最後に来るものは、神による絶対的な救済である。  (『唯美主義と日本』1951年) 
 もう今度の旅では、私は「美」に期待しなくなってゐた。解説された夥しい美、‥‥‥もはや美の領域で、「ブルジョアをおどろかす」やうなものは存在しない。 (『美に逆らうもの』1961年)
  三島 それは小林さんがいつか書いていらしつたんで、美といふものは人が思ふほど美しいものぢやない、決して美しいものでも何んでもないんだっていふ、あれがあの中に入つてるんです。
  小林 あ、さうかな。  (『美のかたち』(小林秀雄との対談)1959年)
 いずれも、一読してすぐ分るように、「美」はつまらない、というように発言している。この小林との対談は、小説『金閣寺』の書かれた翌年のことで、三島の言う「あの中」とは、この小説のことである。
 ところで、この『金閣寺』の中で、三島は「美」に語らせているのである。
 まず、修業中の若い僧の「私」が、下宿の娘を抱こうとしたときのことである。
  私はやうやく手を女の裾(すそ)のはうへ辷(すべ)らせた。‥‥‥そのとき金閣が現はれたのである。
  ‥‥‥下宿の娘は遠く小さく、塵のやうに飛び去った。‥‥‥隈(くま)なく美に包まれながら、人生へ手を伸ばすことがどうしてできよう。‥‥美の永遠的な存在が、真にわれわれの人生を阻み、生を毒するのはまさにこのときである。
だいじなところで、「美」が現われて、「私」を動かし、支配するのである。
その後も、「美」はたびたび「私」の前に現われるが、しだいに、放火という「私」の行為のクライマックスへ導くように現われてくる。

 細部の美はそれ自体不安に充たされてゐた。それは完全を夢みながら完結を知らず、次の美、未知の美へとそそのかされてゐた。そして予兆は予兆につながり、一つ一つのここには存在しない美の予兆が、いはば金閣の主題をなした。
美が最期の機会に又もやその力を揮つて、かつて何度となく私を襲った無力感で私を縛らうとしてゐるのである。私の手足は萎えた。 
・‥‥
『私は行為の一歩手前まで準備したんだ』と私は呟いた。(傍点は原文)
「美」が、金閣寺からさえも離れているかのように、「私」に対して存在し、「私」の前に現われ、「私」の上に臨み、「私」を導こうとしている。「美」は、ここでは、常に彼方にあって、「私」はその現われを見るばかりの立場である。その正体そのものは明かされない。
 ところが、三島由紀夫は、前述の評論などの中では、「美」について語っている。まるでつまらないもののように、軽蔑した口調で。
この二つの「美」の語り方は、明らかに意識的である。二つの「美」の使い分けによって、もっとも効果的に、三島は、その読者に対して「美」を操作しているのである。
読者は、小説の中で、「美」がとてもだいじな、おそろしいような存在である、と感じさせられる。他方、その舞台裏にまわって見せるかのように、「美」そのものについては、三島は、つまらないものだ、と語る。読者は、どちらから見ても、「美」の正体はわからない。そこでいっそう惹きつけられ、意味あり気で、それは底知れぬ彼方にひそんでいるように見えてくるのである。
この、「美」ということばのトリックは、私たちの国において、近代以後、すでにこのことばが持っていた性格の上に成り立っていた。いや、そこにあるのは、およそ私たちの国における翻訳語というものの重要な特徴なのである。」柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書、1982.pp.72-82.

 三島のようなことばを作為的に弄ぶ作家には、「美」もまた読者を翻弄させる魔術にできるだろうが、いまの日本に蔓延ることばの乱用、単純化は、逍遥―鷗外の時代と違って、まともな議論を成立させない質のものになっている気がする。飛び交っているのは、精密誠実な議論による思考の交流ではなく、嫌悪と憎悪の感情的投げ合いと、派手なことを言って注目を浴びたいという自己顕示欲しか感じられない文章だ。「新潮45」のひどさは言論の砂漠状況を露呈した気がする。



B.敗戦前後に生きていた人の記録
 今はもう、1945年8月に敗北で終った戦争を、実体験として記憶している人はどんどんあの世へ行ってしまった。それも、青春真っただ中で敗戦を経験した人は、生きていても90歳以上だろう。戦争の記録は夥しくあるが、ぼくもあの時生きていた若い人が、なにを感じ考えたかを知る必要があって、図書館に行って文献資料を探した。あの戦争は何だったかという戦争論や有名人の書いた戦争記録、作家の書いた戦争文学はたくさんあるが、市井に生きた無名の人の記録はそう多くはない。リアルタイムの記録としては日記を残した場合と何かの機会にインタビューなどで言葉を記録された場合だ。そのような中からみつけた一事例。横浜の鉄道労働者として働いた皇国青年で、戦争末期に数カ月徴兵されて軍隊も経験した人の日記である。

 「日々の努力の結果、1942年11月に開かれた東京鉄道局奉公会の高島駅青年隊結成式では、隊員11名を率いる分隊長に選ばれた。1943年8月に開かれた奉公会青年隊指導者練成会には、高島駅から彼一人が選抜されて参加した。また、この年には、資格試験に合格し、4月16日付で雇員に昇格することができた(月給制となり、月給51円を給すという辞令を受け取っている)。彼がつぎにめざすのは、操車掛になることだった。
 この頃、彼は、修養団体の中心社を主宰する常岡一郎の処世道に共鳴していた。それは、目前の努めにいかに全力をそそぎうるか、自分の生命をいかに有意義にささげうるか、自分の死がいかに大きな光を放つか、という問題に取り組むというものだった。1943年の年末には、その理想が「戦陣訓」に集約されていると記している。「戦陣訓」の「死生観」というところには「生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし、心身一切の力を尽し従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし」と記されているが、修養の極致は、この「死生を超越し」というところにあるのであって、「皇民男子」なら「明日にも御召によって出陣する」という決意を抱くべきだ、と覚悟していた(12月31日)。
 サイパン島が陥落したことを聞いた1944年7月18日には、この「死生観」を再確認し、以後の日記は自分の遺書として書く、と記している。最初の「遺書」は「決戦の輸送を守りつゝ死するを無上の光栄と信ず、たとへ靖国の神にまつられずとも我が魂は永遠に皇国を守らん」というものだった。1945年1月1日には、国鉄44万人の先陣を切って神風を巻き起こす「若き特攻隊長たらん」と決意している。
5月29日の横浜大空襲では、横浜市も高島駅も「この世の地獄か」と思われるほどの大きな被害を受け、彼はかろうじて一命をとりとめた。廃墟となった市街地を眺めながら「これが戦争なのだ。これからだ、本当に裸になって戦ひ得るのは」と記し、「必ず此の仇は討ってやるのだ」と誓っている(5月30日)。彼の戦意は、横浜大空襲を体験しても崩壊しなかったのである。その翌日、ついに彼のところにも召集令状が来る。
5月31日に念願の召集令状を受け取った小長谷は、勇んで甲府市の東部第63部隊に向かった。ここの練兵場や武田神社などで、アメリカのM4戦車に向かって手榴弾や爆雷を投げつける訓練をし、その後、体格が小さかったためか、衛生兵としての訓練を受けた。
7月27日、第一線に出たいという点族希望が認められ、熊本の西部第61部隊に向けて出発した。大本営は、アメリカ軍の九州上陸作戦を察知していたから、ここはそれを迎え撃つ最前線となりつつあった。
 第61部隊に着いたのは8月1日だった。医務室に配属されたが、毎日が希望のない灰色の中で過ぎていった。何よりの苦痛は「食物の量の少き事」と、夜毎の南京虫・ノミ・蚊の来襲だった。また、アメリカ軍機による空襲のため、毎日退避しなければならないことも辛かった(8月7日)。
「休戦」の知らせは、食糧不足で半病人のようになっている15日の夜に、疎開した山間の平集落に、風のように伝わってきた。その後、一カ月間、憂鬱で日記は書けなかった。気を取り直して9月16日に記したところによると、8月17日、疎開していた近所の奥さんから16日の新聞を見せてもらい、「ポツダム宣言を受諾せり」という記事を見て、もっとも呪うべき事態が遂に来たと思った。
その時の思いはつぎのように記されている。無条件降伏により、日本は「最も下等国」になり、米・英・中・ソの支配の下に苦しまなければならない。「再起の日まで穏忍自重せよ」という大詔が出たが、我が闘志はいまだ屈していない。敗戦の思いで全身の血は逆流し、嵐となって猛り狂う、と。
しかし、そのような彼も、21日には「招集解除の一日も早からん事を望むの気持切なるものあり」と記している。23日には、班長から明日招集解除されると伝達された。「喜び此の上もなし」と思った。24日、帰郷の列車に乗った。帰心矢のごとき嬉しさを感じながら、そう感じる自分を浅ましいと思う気持ちもわいてきた。26日夕方、自宅の敷居をまたいで、家族の喜ぶ声に迎えられた。こうして、彼の戦後の日常生活がはじまる。
軍からもらった新しい服・帽子・編上靴を身に着けて、31日に張り切って高島駅に出勤した。9月2日の降伏文書調印式の日には、アメリカ軍機が横浜上空を乱舞するのを見せつけられ、悔し涙を流している。
しかし、高島駅でアメリカ軍が軍需物資を輸送する姿をみていると、昼夜を分かたず作業に従事することに「案外なり」と思い、機械力を使った作業能率にも感心せざるをえなかった。体力、とくに機械力では米軍が数百倍勝るのに、日本の指導者がそれを過小評価したのだ、と思った(17日)。
とはいえ、最近の新聞は、アメリカのご機嫌取りをするし、欺瞞に満ちた記事ばかり流しているとも感じている。12月に横浜ではじまったBC級戦犯横浜裁判の報道についても、「昨日までは戦争指導者たちの片棒を担いで其の宣伝に努力せる新聞が一朝に掌をかえせる如く、彼らを攻撃し、敵国たりし米国の鼻息をうかがってそれにこびる状態である」と憤慨した(12月19日)。
彼は、日本人には祖国日本があり、日本には忠義を重んずる日本人がいるはずであり、その理想は「戦陣訓」で尽きていると依然として信じており、アメリカの「自由と民主主義」や、ソ連の社会主義を信じる日本人は許せなかった(同前)。このため、英語は絶対に習わず、まだ担当させてもらえない操車業務にやがては専念し、操車の神様と呼ばれるようになりたいと念願した。それが、アメリカへの無言の復讐になると信じたからだ。これは、やや児戯に類した反応・態度であるかも知れないが、彼のような皇国青年には、多くの大人のような大勢順応的な急転回は困難だったのである。」吉見義明『焼跡からのデモクラシー 草の根の占領期体験』上、岩波現代全書、2014.pp.98-101.

 昭和の10年代、大戦争を生真面目な若者として生きていたこの人は、軍や政府が鼓吹した戦争への献身要求をただ言われるままに受容していたのではなく、かなり主体的積極的に自己の「修養」としての民衆道徳、「中心の請願」を自らの生き方の基本としていた。「大宇宙の中心、世界の中心、皇国の中心、社会団体・一家一身の中心は何であるか」をつかむことが人類生存の唯一の道であり、各自の立場にたって、その分を知り、一つひとつの中心を通って、より大きい中心に統制されるべきである、というものだった。このような民衆道徳の流布と熱心な運動は、そのまま戦争への積極的協力と天皇中心主義のイデオロギーに直結する。そしてこの生真面目な態度は、敗戦による帝国崩壊にもかかわらずその後の国鉄労働者としての人生でも、基本的に維持されていく。
 昭和戦前の皇民教育が、子どもたちにどういう人間を理想として提示したか。それはこの場合に示されているように、親兄弟、イエ、ムラ共同体から国家までがひとつながりの秩序を作っていて、その中でおのれの分を守り、与えられた使命を自覚して献身することが「修養」であり、自分の人間としての価値を高めるという信念である。その究極形態として国家のために一命を捧げる兵士としての使命もある。
 少なからぬ若者が(女子も含め)このような精神の高みが価値あるものと考えていたのであろう。戦争が終わって平和だが貧しい生活にあっても、その価値は棄て去られなかったし、上の世代の大人たちの無節操なアメリカ迎合に反発も感じただろう。しかし、この民衆道徳に欠けていたのは、共同体や国家への奉仕・献身以外の価値、より普遍的なものへの自律的主体的選択という意思である。それらは自分たちに同調しない個人を、「自分勝手なわがまま」「周囲に合わせない異端」「欲望に溺れた自堕落」としかみない否定的な視線を招く。ここが戦後のポイントだったのだが、保守勢力はこの民衆道徳を巧みに操って、皇国少年を企業戦士に衣替えしていった。
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「び」beautiful, wonderful Japan? Over the border.

2018-09-24 16:11:08 | 日記
A.「美」(び)という翻訳語
 目の前に白い花が咲いていて、それを「綺麗」と感じる経験は誰にもある。あるいは向こうから歩いてくる少女を見て「あ、可愛い」と思うこともあるだろう。しかし、この花はなぜ美しいのか、あの少女をどうして可愛いと思ったのか、をちゃんと説明するのは、かなり難しい。「説明」などしなくても花や少女を絵に描いて見せれば、その美しさや可愛さは伝わる、と考えれば説明は要らない。綺麗な音楽も耳を澄まして聴けばそれで感知できる。美術や音楽はそれでよくても、ことばで語るアートは、そうもいかない。ことばは、音としての響きや文字としての形象以上に言語の意味が可変的に多彩に受容されるからだ。つまり、ことばは一定のコンセプト・概念を表しているが、それは外界にある事物から直接経験として来るのではなく、むしろことばによって形成されたもの、人の意識が創りだしたものといえるからだ。
  日本の古典文藝では、「春はあけぼの月の頃はさらなり」とか、「静けさや岩にしみいる虫の声」とか、「春の良さ」や「静けさ」というコンセプトを具体物で「説明」しているかのように読めても、ではそれがなぜ良いのか、どのような虫の声なら静かさを際立たせるのか、は触れずにただ黙って余韻を味わえばよかった。ところが、西欧近代の拠って立つことばのコンセプトは、確かなもの、正しいもの、そして美しいものが、どのようにして成り立ち、どんな条件で可能なのかまで「説明」しようとする。それには、新しいことばを、かなり無理しても創りだす必要があった。明治の日本でその近代語を輸入するために、翻訳に取り組んだ人たちは、「美」ということばで、今までになかった美しさをこの国にも創りだせると思ったのだろう。

 「美の翻訳史:「美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない」(『当麻』1942年)とは、小林秀雄の有名な命題であるが、確かに、かつて私たちの国では、花の美しさというように、抽象観念によって美しいものをとらえようとする言い方も乏しく、したがってそのような考え方もほとんどなかった。花の美しさ、というようなことばや考え方を私たちに教えてくれたのは、やはり西欧舶来のことばであり、その翻訳語だったのである。
 『波留麻和解』(1796年)によると、オランダ語の形容詞schoonが「美麗、好シ」、その名詞形のschoomheidが「美麗」となっている。『和蘭字彙』(1855‐58年)によると、schoonが「立派ナル又美々敷(びびし)清ラカナル」で、schoonheidが、「ウツクシサ 綺麗ナル事」である。
 フランス学の先覚者であった村上英俊が、1857(安政4)年に出した『三語便覧』によると、beauté, beauty, schoongeidに対して、「美(ウツクシサ)」があてられている(千葉宣一氏の御教示による)。これはおそらく「美」という漢字一字の訳語を用いた最初であろう。村上は1864(元治元)年に出した『仏語明要』でも、beautéを「美人、美」としており、この「美」は「美(び)」と読まれたと思われる。
 ロブシャイドの『英華字典』(1866‐69年9によると、beautifulが「美、美麗、秀麗」などで、beautyは「色、美、艶麗」などとなっている。
 「美」という訳語は、こうして幕末頃からあったわけだが、おそらく漢字一字は翻訳語としてやや不安定であったのであろう。明治初期には、『波留麻和解』や『英華字典』にあった「美麗」という訳語の方がよく使われていた。
 たとえば、西周がesthetics(美学)を紹介した『美妙学説』(1877(明治10)年で、「美妙学の元素」を、「物ノ美麗」と「吾人ノ想像力」とである、と言っている。西欧語の和訳辞書でも、明治前半の頃までは、「美」よりも「美麗」の方が多いくらいだが、やがて「美」の方が多くなっていくのである。
 たとえば、日本の伝統的美意識とか、世阿弥の美学、というような言い方がよく聞かれるが、このような問題のたて方は、自ずと翻訳的思考法をすべり込ませている、ということに注意したいと思う。なぜか。きわめて簡単明瞭なことなのであるが、近代以前、日本では「美」ということばで、今日私たちが考えるような「美」の意味を語ったことはなかったからである。BeautyやSchönheitなどは、西欧の詩人や画家などが、作品を具体的に制作する過程で、立止まって考えるときに口にすることばなのである。世阿弥や芭蕉は、当然こういう西欧語を知らず、従ってその意味を知らなかった。つまりその翻訳語である「美」を知らなかったのである。
 もっとも、「美」とある程度似たことば、したがってその考えは、日本の伝統の中に全くなかったわけではない。
 たとえば、世阿弥は、「花」とか「幽玄」ということばに、抽象観念らしき、あるだいじな意味を託して語っている。利休の「わび」、芭蕉の「風雅」「さび」、本居宣長の「もののあはれ」なども、一応同じような例として考えられるのである。これらのことばには、西欧美学の「美」と共通するところもかなりある。
 その意味の抽象性、という視点から見ると、「幽玄」について、世阿弥は、
  例へば、人に於ては、女御、更衣、又は遊女、好色、美男、草木には花の類、かやうの数々は、その形、幽玄の物なり。(『風姿花伝』1400-02年)
 と言っている。また、利休は、「わび」について、茶の湯と歌とに共通する心を説いている(『南坊録』成立年代不明)。さらに、芭蕉は、
  西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其の貫道する物は一なり。(『笈の小文』1709年)
と言う。
しかし、これらを、西周の『美妙学説』で紹介された次のような考え方と比べるとどうか。
  西洋ニテ現今美術ノ中ニ数フルハ、画学、彫像術、彫刻術、工匠術ナレド、猶是ニ詩歌、散文、音楽、又漢土ニテハ書モ此類ニテ、皆美妙ノ元理ノ適当スル者トシ、猶延イテハ舞楽、演劇ノ類ニモ及ブベシ。
と、こちらは、はるかに徹底して広く網羅した諸分野からの抽象であり、その上に立って、「美麗」ということを考えているのである。
 また、ことばの観念性という点から見てみよう。たとえば、世阿弥は、「花」について、
 さればこの道を極め終わりて見れば、花とて別にはなきものなり。奥義を極めて、万に珍しき理を知るならでは、花はあるべからず。(『風姿花伝)』)
と、「道を極め」るという具体的な行為を離れて、「花」があるわけではない、と説いている。
 また、「風雅」について、芭蕉は、弘法大師の「古人の跡を求めたる所をもとめよ」という言葉をあげ、「風雅も又これに同じ」として、「風雅」が、「古人」という具体的存在の外にあるのではないことを説いている(『柴門の辞』1693年)。
 さらに、「もののあはれ」についても、宣長は、
 まずすべてあはれといふは、もと、見るものきく物ふるるに事に、心の感じて出づる嘆息の声。(『源氏物語』玉の小櫛1796年)
と、「あはれ」と感動する体験とともにある、という視点から語っている。
 以上、いずれも、舶来の「美」よりもはるかに具体的で、これでは観念を語っていると言うのさえむずかしいくらいである。
 もちろん、いかに具体的な体験を重視しているとは言っても、「わび」とか「さび」とか「風雅」とか「あはれ」というように、名詞の形で、ある窮極の境地をとらえた、ということはやはり重要であろう。その限り、「美」と共通するところはある、と言わなければならない。これらのことばによって、いわば芸術の理想にも対応するような価値観が語られ、その道の人々の精神を支えたのである。
 しかし、私がすでに述べたような、違っている、という面もやはり重要である。そしてこの違いは、日本的「美」意識の特殊性とか、西欧の「美」と日本の「美」の違い、というように、「美」を前提としてとらえてはならない、と私は考える。少なくとも基本的な態度として、一つの普遍的な観念としての「美」を先に立て、その特殊な場合として日本的「美」がある、という思考方法は間違いである、と私は考えるのである。」柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書、1982.pp.67-72.

 時空を超えて普遍的・絶対的な「美」がある、という考え方は幾何学的黄金律のように「合理的・近代的」なものといえるが、同時に「美」はどのようにも表現でき、その作者の個人名においてユニークなものでもある、という考え方も可能になる。いったんこの「美」の革新と創造という運動が始まると、アヴァン・ギャルドの競争という現象が起る。

「「美」という舶来のことばは、このことばを味方につけ、武器とすることのできる人びとにとって、たいへん価値あることばであったようである。
 1889(明治22)年、歌舞伎の市川団十郎が、忠臣蔵でおかるの役をやれという話があったとき、卑しい女郎の役を務めるのは自分の身を汚すことだ、と言って断ったことがあった。当時の世評では、さすが団十郎、りっぱな見識である、と世の不徳男子はこれを模範とすべきである、などと言ってほめる声があった。ところが、雑誌『国民の友』に、局外生と名乗る人の投書があって、
  賤しき女中には「美」存在せずとする歟。おかるの役を扮すれば技芸の「美」消失すると思う歟。‥‥‥団十郎の痴愚を学ぶ勿れ。有識者の憫笑を招く勿れ。演劇の「美」を焼失せしむる勿れ。
と述べているのである。
 演劇の目ざすところは「美」である。だから団十郎の態度は誤りだ、という論理であって、この「美」ということば、その考え方が、新しいものの見方の世界を開いていた、と知られるのである。
 この事件は、この後、『女学雑誌』を主宰する巌本善治と、『国民之友』に拠る森鷗外との「文学と自然」論争(1889年)に継承される。この論争の中心テーマは「自然」であるが、それに次いで「美」も重要である。巌本善治は、この少し後、「極美の美術なるものは決して不徳と伴うことを得ず」と述べて、つまり団十郎の立場、伝統的な文学、演劇感を擁護する。ここで「美術」とは、今日言う「芸術」と同じである。鷗外はこれに対して、「極美ノ美術ナルモノハ時トシテ不徳ト伴フコトヲ得ベシ」と、真向から反論した。論争はこの後も何回かくり返され、はっきり決着がついたわけではないが、はたから見て、どうも巌本の方が旗色が悪い。それは、巌本じしん口にしている「美」ということばが、西欧の観念論美学の翻訳語であり、しかも、このことばが、その美学における理論に反して使われているからである。
 鷗外はこの当時、ハルトマンの美学の研究・紹介をしつつ、他方、日本のジャーナリズムの場で、しきりに「美」について発言していた。」柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書、1982.pp.72-74.

 西洋において「美」とはこのようなものである、と西洋の「美学」を紹介し、実作でもそれを作ってみせたのが鷗外や漱石であったとすれば、ぼくたちは今もそのように輸入された「美」というコンセプトによって、アート作品を眺めていることになる。



B.「日本人」のフェンス
 「にほん」「ニッポン」ということばも、江戸時代までは、さほど日常的に使われていたわけではない。近代的な国民国家の成立していない段階で、他国との外交関係を執り行う際に、「わが国」をどう呼ぶか決める必要があって、「やまと」とか「倭国」という古いことばは使わず、中世に「ひのもと」を漢字の「日本」にしていた例に倣ったのだろう。マルコ・ポーロの旅行見聞録"La Description du Monde"(1300年頃の口述記)に「黄金の国ジパング」Cipanguとして語られたものが、「ジャパン」の語源とされる。マルコ・ポーロは中国までしか来ていなくて、中国で聞いた話としてヨーロッパに伝わった。ジパングは中国語の「日本国」(リーベングォ)から転用と考えられている。ジャパンJapan, Japonがヨーロッパで極東の海上にある島国名として地図上に定着したのは、大航海時代の15世紀くらいだろうか。
 いまのぼくたちが「日本」と考えているものは、明治維新で成立した国であって、そこに住む「日本人」が言語、文化を共有する単一民族である、という観念も、明治以降に意図してつくられたものである。古事記、日本書紀が記述する神話に根拠を求め、西暦紀元に対してヤマト創成二千数百年の歴史を唱える皇国史観も、幕末から明治にかけて練り上げられたものと考えられる。昭和戦前期に子どもたちに教えられた「国史」は、万世一系の輝かしい歴史が紆余曲折ありながらも、古代から現代まで連綿と続いたのだ、こんな歴史を持つ国は世界広しといえど日本だけだ、と説明していた。そのような歴史教育は戦後否定されたが、近年の日本でさかんに語られる根拠も怪しい「日本スゴイ!」の礼賛は、オリンピック開催めがけて高まっている。同調しないと「日本が嫌いなのか?」「反日か」と白い目を向けられる。
 エスノセントリズム(自民族中心主義)やナショナリズムは、どこの国にもあるが、それが他国への敵意や排外主義に結びつくとろくなことは起きない。とくに、「日本人の血」を重視する視線は、ハーフやクォーターといった人への微妙な偏見や差別につながりかねない。

 「大坂選手の快挙で多用されるが… 「日本人」って?私のモヤモヤ
 女子テニスの大坂なおみ選手(20)=日清食品=が全米オープンに続き、東レ・パンパシフィック・オープンで決勝に進出した。人気が高まり、テレビも連日取り上げている。快進撃を喜びつつ、応援や報道で「日本」や「日本人」が多用されることに違和感を抱く人たちがいる。
 23日の決勝で大坂選手は敗れたが、表彰式では「試合を見に来てくれてありがとうございます」と述べ、懸命に笑顔を見せた。
 会場には連日、ファンが詰めかけた。メッセージボードは大坂選手への応援で埋まり、「日本の誇り」という言葉もあった。22日に観戦した東京都東大和市の男性会社員(47)は、「彼女のしぐさやコメントは、日本人より日本人らしい。親近感がわく」と話した。
 大坂選手は父がハイチ出身で、母が日本人。全米オープンで優勝してから、メディアやSNSでは「日本人初の快挙」「日本の新しいビッグスターを応援しましょう」という言葉が踊る。
 いつも「外側」
 早稲田大生の岩澤直美さん(23)は「うれしいニュース」と思いながらも、「日本人初」という盛り上がり方にモヤモヤを覚える。父が日本人で、母がチェコ人。両親は、「日本でも欧米でもポピュラーな名前」である「ナオミ」と付けたという。旧約聖書「ルツ記」に登場する女性の名前だ。
 モヤモヤの根にあるのは、普段の自分の体験とのズレだ。生後間もなくから大半を日本で暮らし、国籍は日本。しぐさや表情などから、海外では「日本人」として扱われ、自身もそのように考えている。
 だが、日本で「何人?」と問われ、「日本人です」と答えると「違うでしょ」と否定される。不動産屋で「うちはジャパニーズ・オンリー」と断られた経験もある。友人らと飲食店に入れば、「彼女は何を頼みますか?」と岩澤さんを除いてやりとりが進む。「いつも『外側』にいる感覚。見た目や言葉などで『日本人』の中に入る、何重かのドアの開かれる数が違う」と話す。「『何人』というくくりでなく、一人ひとりに向き合ってほしい」と岩澤さんは語る。
 「本当の」とは
 「僕は『日本人初』というのに違和感はない」と話す俳優・タレントの副島淳さん(34)は別の角度からモヤモヤを抱いた。
 大坂選手が全米オープンで優勝して間もなく、行きつけの居酒屋である男性が「正直、日本人初で優勝するなら、本当の日本人の方が…」と話すのを聞いて、さびしさを覚えた。男性は「100%日本人」という言葉も交え、手放しでは喜べない思いを語ったという。
 「そう考える人は多いだろう」と思う副島さんは父親が米国人だが、顔も知らない。日本人の母のもと、日本で育った。小学生のころは「色が違う」と仲間外れにされ、「ダメなことなのかな」と思った。中学生になると「日サロ(日焼けサロン)に行き過ぎちゃって」とギャグで返すスキルが「身についちゃった」。
 多様性は現実
 「『混血』と『日本人』 ハーフ・ダブル・ミックスの社会史」の著書がある社会学者の下地ローレンス吉孝さん(31)は「外国人」を他者とすることで「日本人」が輪郭づけられ、「境界をつくるのに『問題』となる混血やハーフは、どちらか一方に区分されてきた」と指摘する。「それにより、ハーフの存在は見えにくくなり、差別や問題はないものとされたが、単純な二分法と現実の間に齟齬がある」という。
 人口動態統計によると、2017年に日本で生まれた子どもの約2%は、親のどちらかが日本以外の国籍だ。下地さんは「『日本人』の多様性は既に現実のものだ。当たり前で固定的だと思われていた『日本人』が問い直されているのではないか」と語る。(荻原千明)」朝日新聞2018年9月24日朝刊31面社会欄。
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明治の女学生に「恋愛」を説いた男・巌本善治… 長期政権の腐敗?

2018-09-22 16:01:04 | 日記
A.翻訳ことば「恋愛」の成立
巌本善治(1863(文久3)-1942(昭和17)年)は、明治の女子教育をリードした『女学雑誌』の編集人・寄稿者として名が残る人だが、勝海舟の口述をまとめた『海舟座談』の編者でもある。足尾鉱毒事件にも内村鑑三などともにキリスト教の立場からかかわり、明治のリベラル派論客とみられたが、西洋のLoveの翻訳語として「恋愛」を称揚した人として、柳父章『翻訳語成立事情』(岩波新書1882)に登場している。

 「巌本(善治)のあの文章が出た翌月の1890年11月、『女学雑誌』に、愛山生と名乗るおそらく若い筆者の「恋愛の哲学」と題する文章が載っている。熱烈な調子で論じ続けたその結びに、
  嗚呼(ああ)人の心霊と身体とに革命を行ふ恋愛よ。趣味想像の新しき境域を開拓する恋愛よ。英雄を作り豪傑を作る恋愛よ。家を結び国を固むる恋愛よ。余は大(おおい)なる詩人出でゝ爾(なんじ)を書き誤(あやま)りし幾多の小家族を瞠若(どうじゃく)たらしめんことを望む。
と言うのである。肩ひじを張った生硬な文章で、「英雄を作り豪傑を作る恋愛よ。家を結び国を固むる恋愛よ」と叫んでいるのは、いかにも唐突で、滑稽でもあろう。論理はもちろん飛躍している。いったいこの人は「恋愛」を何のことと思っていたのだろうか。
 いや、この人に限らなかった。おそらく当時の日本人が、初めて、いわば堂々として肯定できるような「恋愛」を教えられたのである。それはまず、ことばとしてやってきた。とにかく大事なもの、立派なことである。その意味・内容については、まだよく分らない。が、とにかく大事である。
 もっとも、巌本の提言を受けて、loveの意味から日本語のこれに対応することばを考えようとする人もいた。たとえば、同じ頃、1891(明治24)年2月、『女学雑誌』に、「色情愛情辨」と題するこういう投稿が載っている。
 
 俗に之を男女の情愛と云ふ。この心情に二様あり。英語に一を「ラップ」と云ひ一を「ラスト」と云ふ。「ラップ」は高尚なる感情にして「ラスト」は劣等の情欲なり。邦語には確然たる区別なし。余は一を愛情と云ひ一を色情と名づけいさゝか其異同を辨ぜんとす。‥‥‥俗語に「色」「恋」などと云ふ言あり。古昔(こせき)は今日の如く卑しき意義なかりしとて、当時は「色このめ」或いは「恋せよ」などと勧むる好事家(こうずか)もありと聞きぬ。古代の意味はさて置き、今日は決して斯(かか)る好奇の用法をなし、人をして下卑(げび)たる連想を起こさしめざる様(よう)すること先進者の務なるべし。‥‥‥今日は「色」と云ひ「恋」と云ひ、或は「色恋」と云ふ熟語の如きは(少なくも俗語には)已(すで)に一定の意義あり。余は飽(あ)く迄(まで)是等の語と「愛情」と云ふ聖語を混同せざらんことを望む。
 
 基本的な論理は巌本と同じで、「『ラップ』は高尚なる感情」で、「色」「恋」などは「卑しき意義」、「下卑たる連想を起こさしめ」ることば、と言う。そこで、巌本は、「恋愛」という新しいことばを持出して「ラップ」にあてようとしたわけだが、この人は「愛情」をあてよう、と言っている。
 しかし、この新しく出現した「高尚な」ことがらを表わすことばは、新しいことばが結局ふさわしいと思われていたようである。「恋愛」は、以後、この雑誌を中心とする人々の間に急速に普及し、流行した。
 「恋愛」の流行は、まず「恋愛」ということばの流行であった。そして、このことばによって支持され、勇気づけられた若い人々の間に、やがて「恋愛」という行為の流行として広まっていった。「恋愛」を流行させた人々は、知識人やその子弟に多く、とくにプロテスタント系クリスチャンや、その周辺の人が多い。知識人に多いということは、翻訳語一般について言えることであるが。クリスチャンへの影響ということは、「恋愛」が、巌本善治たちの解釈で、その精神的側面が強調されて理解されていたことにもよるであろう。
 「恋愛」の流行は、他方、これに対する反感もひき起した。これも、一般に新しい翻訳語をめぐって起きる反応と共通である。「恋愛」は堂々と口にされ、行なわれている。「色」や「恋」ならば、日常ふつうのことではあったが、人目を避けるべきものだったのである。当然、保守的な人々から反撥されたが、そればかりでなく、維新以来、新しい時代を導いてきたエリートの主流たちも、この「恋愛」流行を、不愉快なこととして迎えた。
 1891年7月、当時の論壇の代表誌であった『国民の友』は、その中心人物である徳富蘇峰の「非恋愛」と題する論説を載せている。「恋愛何物ぞ、男女交際何物ぞ、自由結婚何物ぞ」と「恋愛」を弾劾し、「恋愛」にうつつを抜かしている青年男女について、世を憂えたのである。ただちにその翌月、『女学雑誌』上で、巌本善治は、「非恋愛を非とす」と題する論文を書き、「恋愛は神聖なるもの也」と反論した。
 このようなやりとりのうちに、その背景として、当時の若い知識人男女における「恋愛」熱の高まりをうかがうことができよう。
  北村透谷と「恋愛」の宿命
 北村透谷は、巌本善治に認められて『女学雑誌』へしきりに寄稿した。文学史上に残るほどの文章も、ここで発表していたのであった。
 1890(明治23)年1月、透谷の論壇への出世作である「当世文学の潮(うしお)模様(もよう)」で、「愛(あい)恋(れん)」ということばをめぐって論じているところを見てみよう。
  
 いでや彼等に吾(わ)が大知嚢(ちのう)より人情の道を教へん、愛恋の哲理を授(さずけ)ん、希臘(ギリシャ)の古哲学と欧米の新理想とを筆に任かせて示しやらん。公(こう)等(ら)の理想斯(かく)の如くにはあらずや。‥‥‥宇宙の大観は愛恋より大なる者なし、是を極むるは小説家の本領なる可きも、余は未だ小説家の本領悉(ことごと)くここに止まるを知らず。

 ここで使われている「愛恋」には、とくに翻訳語であるようなようすはない。「愛恋」という用語は、漢籍にも古く用例がある。男女間の愛情を指すことばである。ここで使われている「愛恋」ということばには、前に引用した文章におけるような、翻訳語に固有の文章上の「効果」は見受けられない。
 ところで、これから二か月後の三月、透谷は「時勢に感あり」という文章を書いている。ここで、「恋愛」ということばが使われている。

 嗚呼豈(あ)に然らんや、憤激して起(た)つ可き社界は汝が眼前に横(よこた)はらずや。区々(くく)恋愛の説明吾人是れに懶(う)める事久し、些々(ささ)たる一代の栄声を求めて咄々(とつとつ)何の狭隘(きょうあい)なる。
 
 しかし、これも前の「愛恋」と同じく、とくに翻訳語ではなく、翻訳語に固有の「効果」を伴った用法でもない。当時としては珍しい用例であるが、同じ文中のやや前の所には、「恋情」ということばもあり、ことばの調子でつい使ってみた、というようなものであろう。意味としても、「区々恋愛の説明吾人是れに懶める事久し」、つまり、「恋愛」についていちいち説明するのはもうたくさんだ、従って、「恋愛」とはつまらないものだ、ということで、この七か月後に発表されたあの巌本の「恋愛」論におけるのとまったく違っている。
  そして、1892年2月、北村透谷は、「厭世詩家と女性」と題する文章を、『女学雑誌』に書いた。その冒頭に、
 恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり、恋愛ありて後(のち)人世あり、恋愛を抽(ぬ)き去りたらむには人生何の色味かあらむ。
と述べたのである。木下尚江は、これについて、「この一句はまさに大砲をぶちこまれた様なものであった。この様に真剣に恋愛に打込んだ言葉は我国最初のものと思ふ」と、後に語っている(「福沢諭吉と北村透谷――思想史上の二大恩人」1934年)。この文章はまた、後に『文学界』に集まる島崎藤村などの詩人たちにも激しい影響を与え、文学史上、明治ロマン主義の一時期を画する重要な論文として知られている。
 二年前、やはり透谷が、同じ雑誌に発表した前掲の「当世文学の潮模様」とは、論旨がまるで反対なほどに違っているように見える。あの時は、「宇宙の大観は愛恋より大なる者なし、是を極むるは小説家の本領なる可きも、余は未だ小説家の本領悉くこゝに止まるを知らず」と、「愛恋」の限界の指摘に重点があったのだが、今や、「恋愛ありて後人世あり」と言うのである。
 いや、私の見方によれば、これは違ってはいない。前の言は「愛恋」であったが、これは「恋愛」だからである。翻訳語「恋愛」だからである。
 透谷がここで語っていたのは、loveとしての「恋愛」であった。文中、ギヨエテ、バイロン、シエレイ、ミルトン、カーライル、エマルソン、スウイフト等々、西欧の詩人・文人の「恋愛」はしきりに論じられているが、東洋、日本の例では、「釈氏」(釈迦)「露伴子」(幸田露伴)が女性を軽蔑し、結局「恋愛」を否定したということが僅かに語られているだけである。若くして女学校で英語を教え、横文字に堪能であった透谷にとって、「恋愛」ということのすぐ向うの方には、loveということばがあった。Loveによって語られる絢爛たる世界が見えていたであろう。
 しかし、透谷の「恋愛」は、やはりloveと同じではなかった、と私は考える。同じ「厭世詩家と女性」で、透谷は言う。
  春心の勃発すると同時に恋愛を生ずると言ふは古来似非(えせ)小説家の人生を卑しみて己の卑陋(ひろう)なる理想の中に縮少したる毒弊(どくへい)なり、恋愛豈(あに)単純なる思慕ならんや、想世界と実世界との争戦より想世界の敗将をして立(たち)籠(こも)らしむる牙城(がじょう)となるは即ち恋愛なり。
 これはこの論文の中心主題を語っているところである。透谷のこの「恋愛」論における、「恋愛」の定義ともいうべき文句である。しかし、思うに、「春心の勃発すると同時に恋愛を生ずると言ふは古来似非小説家の人生を卑しみて」ではなくて、これもやはりloveなのであろう。「春心の」「恋愛」を描いた西欧の多くの名作を否定はできない。「恋愛豈単純なる思慕ならんや」とは言うが、loveは「単純なる思慕」をも含んでいる。透谷はこれを切り捨て、「想世界の」「牙城」としてのloveのみを「恋愛」である、とした。
 言い換えるなら、透谷は、「恋愛」の意味を、「想世界の」「牙城」にしか見出すことができなかったのである。これは、私たちの国における翻訳語の特徴的な性格を暗示している。
 透谷はこの後、編集者、巌本善治や、若い読者たちに支持されつつ、次々とこの雑誌に文章を発表していった。主題はさまざまであるが、「恋愛」を論じたものが多い。その「恋愛」は、しだいに観念として純化されていく。「歌念仏を詠みて」という一文では、「抑々恋愛は凡ての愛情の初めなり」と言って。「親子」「朋友」「上天」への愛も、「恋愛」によって根拠づけようとするのである。これは、loveからさえも遠い観念である。翻訳語「恋愛」は、一方で伝来の日本語と異なっているとともに、他方、原語のloveとも、その意味や、機能の上で同じではないのである。
 こうして観念として純化された「恋愛」は、当然、日本の伝統や現実のうちに、その実現をとらえることが困難になっていく。したがって、「恋愛」は、現実に生きている意味ではなく、日本の現実を裁く規範になっていく。これは、私たちの国の翻訳語の宿命である。そしてこの宿命が、透谷じしんの短い生涯や、さらに、彼の「恋愛」観に感動した人々、明治ロマン主義の詩人たちの、熱烈でかつ短命な行く末までも、おそらく動かしていたであろう。」柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書、1882.pp.97-105.

  巌本は、明治のキリスト教信者として開明的な論説を展開したとされるが、他方でいろいろ悪評もある。Wikipediaを覗いてみたら、こんな記載があった。
 「巌本善治:但馬国出石藩(現・兵庫県豊岡市出石町)の儒臣・井上長忠の次男に生まれた。1868年(慶応4年)、母方の叔父で福本藩の家老格・巌本範治(琴城)の養子になった。1876(明治9)年、上京して中村正直の同人社で、英語・漢文・自由主義などを学んだ。ミル、スペンサーなどの影響を受けた。1880(明治13)年、津田仙の学農社農学校へ進み、翌年から同社の『農業雑誌』に小論文を書いた。二宮尊徳の『報徳記』を愛読した。
  1884(明治17)年、下谷教会(現、日本基督教団豊島岡教会)で同郷の牧師・木村熊二より受洗した。同年、学農社を了え、『農業雑誌』の編集に携わり、『基督教新聞』に寄稿した。修正社から、近藤賢三と『女学新誌』を発行した。『女学』は、「女性の地位向上・権利伸張・幸福増進のための学問」を意味した。1885(明治18)年、修正社と齟齬して『女学新誌』を離れ、近藤を編集人とする『女学雑誌』を創刊し、月の舎主人・月の舎しのぶ・是空氏・みどり・もみぢ・かすみ他の筆名で毎号のように書いた。同年秋、木村熊二が、九段下牛ヶ渕(現・東京都千代田区飯田橋)に開いた明治女学校の、発起人に名を連ね、また、『基督教新聞』の主筆になった。1886(明治19)年5月に近藤が急逝した後を受け『女学雑誌』の編集人となり、さらに8月に木村の妻で明治女学校取締役の鐙子が急逝した後を受けて1887(明治20)年3月に明治女学校の教頭となり、実務を執った。6月、東京基督教婦人矯風会の『東京婦人矯風雑誌』の編集名義人になった。10月に発行した『木村鐙子小伝』の序を、故人の旧知で40歳年長の勝海舟に依頼しに行ったのを縁に、勝邸に頻繁に出入りするようになった。フェリス女学院に講演に行って助教・若松賤子を知り、1889(明治22)年、横浜海岸教会で結婚した。
  1890(明治23)年、発足した東京廃娼会の委員となり、各地に遊説した。星野天知と女学雑誌社から『女学生』を創刊した。キリスト教系の18の女学校の生徒に投稿させる雑誌だった。1892年(明治25年)、明治女学校の校長になった。明治女学校で教え、『女学雑誌』に寄稿していた星野天知・北村透谷・島崎藤村・平田禿木ら浪漫主義者が、巌本の下では書き難くなり、1893(明治26)年、『文学界』を創刊した。教会や宣教師の経済的援助を受けなかったので、学校の経営は苦しかった。その上、1896(明治29)年2月の失火で校舎・寄宿舎・教員住宅の大半を失い、前から肺を病んでいた妻の若松賤子が、その直後に没した。1899(明治32)年、勝海舟の死没直後、かねて『女学雑誌』誌に連載した座談を、『海舟余話』に纏めて刊行した。学校再建の傍ら、宗教・政治の活動を続けたが、1903(明治36)年末『女学雑誌』の編集人をやめ、1904(明治37)年春、明治女学校の校主に退いた。
 1905(明治38)年、大日本海外教育会の構成員として押川方義と朝鮮へ渡った。ブラジル移民を扱う皇国移民会社に関わり、1907(明治40)年には、ペルー移民を扱う明治殖民会社の中心人物となった。翌年ペルーに渡った。明治殖民会社は1908年に違法配耕事件を起こし、1909年に同社が取り扱った移民の送金に関して延着や不着の問題が表面化し、業務停止処分となり解散した。1912年(大正元年)、皇国移民会社の水野龍が興したコーヒーの直輸入会社カフェーパウリスタの創立に関わり、取締役となる。1916(大正5)年、明治女学校の跡地に信託合資会社を設立した。1924(大正13)年、日活の取締役になった。
 プロテスタンティズムの警世家、女性啓蒙家として活動した巌本には、不名誉な噂が付いて回った。女癖が悪かった。若松賤子がそれを他言していた。明治女学校の生徒だった相馬黒光も巌本が教え子に手を出したことを非難し、自殺に追い込まれた犠牲者もいたことを実名を挙げて書いている。同じく卒業生の野上弥生子は晩年、自分の人生の腐植土になった三大出来事のひとつとして、巌本の失脚を挙げている。星野天知や平田禿木は詐欺的行為も犯したと書いている。失脚した巌本は「偽善の聖人」「偽善家」などと呼ばれた。こうした風説に対し巌本は沈黙を続けたが、島崎藤村は巌本をモデルにしたとされる短編『黄昏[1]』を発表し、巌本に憧憬を抱いていた羽仁もと子は、巌本の信仰生活を「本気に神に仕えようとはしていなかった」と非難し、明治女学校は巌本の「女性問題」が起因して「魔の国へさらわれ」、同校を廃校(1909年)へと追いやったと、その責任を問うた。1930(昭和5)年、『海舟座談』を編集出版し、さらに1937(昭和12)年、それを増補した。この年、林銑十郎の組閣に口を出した。自宅を「神政書院」と名付け、国家神道を説いた。『大日本は神国なり』との本に序文を書いた。1942(昭和17)年10月6日、豊島区西巣鴨の自宅で没した。墓は染井霊園にある。
  ヴァイオリニストの巌本真理は、米国大使館勤務の長男・荘民とアメリカ人女性(来日後東京女子大学英語講師)の娘である。」

 巌本が『女学雑誌』の編集人になったのが23歳(満年齢)で、明治女学校の校長になるのが29歳(同)である。現代の20代と明治20年代の20代は、同じ青年時代といってもだいぶ違うのだろうが、少なくとも教育界と言論界でプロテスタントの女性解放論を背景に、次々洋風の論説を発表する新進世代のリーダーと目された巌本は、女学生の憧れの存在だったのだろう。しかし、これがたぶん彼の過ちをもたらし、のちに馬脚を露す不祥事のもとになった。望ましい「恋愛」は神聖なもの、だという彼の論は、「女癖の悪さ」につながり、あやしげな移民会社や国家神道への関わりなど晩節を汚すことになったとすれば、罪深い人物である。



B.長いから腐敗したわけでもない?
 このままあと一期(自民党総裁=首相という前提の下で)安倍政権が続くと、日本の憲政史上でも最長の政権になるようだ。一人の人物が長期政権を維持する例は、歴史上珍しいことでもなく、立憲君主制を別にすれば、カリスマ的支配や個人崇拝が起り、スターリンやヒトラーのように独裁的権力者が死んだとき体制全体が危機に陥る。一応民主的な手続きで選出された指導者なら、いずれは退任するときがくるが、政治家や官僚をはじめ、トップに連なるお気に入りが固定する人事は、必然的に腐敗する。問題は、既存の権力構造からさまざまな利得を得ている人々にとっては、首相が代わっても自分の地位が変わらないのが望ましいから、反主流派の勝利によるみずからの没落を避けるには「禅譲」、つまり名目的にトップの人だけが交代するのがベストということになる。政治学的には、「禅譲」か「放伐」かというのは儒教的に古代以来の原問題だった。

 「かくも長き安倍時代 安倍晋三首相が自民党総裁選で3選を果たした。「1年ごとに首相が代わる」と揶揄された日本になぜこれほどの長期政権が出現したのか。長い「安倍時代」を考えてみた。
  不可解な‟禅譲″非民主的 小島 毅さん 東京大学教授
 日本の政治で、「禅譲」という言葉が普通に使われるのは不可解ですね。今回の自民党総裁選でも、岸田文雄さんが将来の禅譲を期待して出馬を断念したとか言われましたが、禅譲の本来の意味からすると違和感があります。
 禅譲はどちらの字も「ゆずる」という意味で、君主が自分の子ではなく、賢者に位を譲ることをいいます。「孟子」にある、尭が舜に位を譲ったという話などが典拠です。儒教では、これが理想的な王位継承の姿で、世襲より望ましいとされてきました。
 ただ、実際は単なる形式として使われました。最初の例は、1世紀の前漢から新への王朝交代。新を建国した王莽は王権を簒奪したのですが、尭・舜の禅譲伝承を利用してそれを正当化した。以後10世紀の宋まで、王朝交代はほとんど禅譲の形式をとります。
 禅譲という形式が使われた結果、流血の抗争はある程度抑制されます。前の王家の人々は殺される場合が多いものの、宮廷の高官たちはそのまま権力を温存したからです。
 儒教の定義では、禅譲と放伐、すなわち武力による政権奪取が対になっています。君主が暴虐であれば、殷の湯王や周の武王のような聖人が武力で取って代わるのは正当だとされました。
 日本に王朝交代はありませんでしたから、禅譲は儒教の教養として知られてはいたけれど、現実政治に影響したことはなかった。影響があったのは放伐で、それもその否定論です。17世紀の儒者の山崎闇斎は、殷や周の放伐ですら批判し、王朝交代のない日本の優越性を主張しました。
 日本の国体は天皇を君主にもつことだという見解は、明治維新の原動力でした。薩長は事実上の放伐を行なったわけですが、天皇の錦の御旗を掲げることで、賊軍討伐の形式で幕府を倒したわけです。
総裁選でも、2012年の石原伸晃さんのように幹事長が現任総裁の対抗馬になろうとすると、「君に弓を引く」的な言い方をされる。本質は権力闘争なのに、放伐を嫌い禅譲をよしとする風潮がある。
だから、安倍さんを力で倒すよりも、禅譲を待つといった話が正論として幅をきかせる。本来の禅譲とは全く違うわけですが、聞こえのいい言葉だから流通してしまう。
尭は舜に禅譲して政界から引退しました。その意味で、今の永田町で使われる禅譲は、むしろ中世の院政における譲位にあたります。前任者とその取巻きの権力温存を保障する仕組みだからです。
民主主義の理念では、政権の正統性は自由な選挙によって多数の支持を獲得することにもとづいています。現職に対抗する人物をつぶしにかかり、禅譲という美名での交代をはかるのは、自由・民主に反する行為にほかなりません。 (聞き手 編集委員・尾沢智史)」朝日新聞2018年9月21日朝刊15面、オピニオン欄、耕論

 山崎闇斎学派が提起した「湯武放伐否定論」は、日本の天皇「万世一系優位説」を導く。血統や男系相続という考え方は、過去の因習を大事にする「前近代」なので合理性を欠き、そもそも現行憲法下の総理大臣選出の方法としては、考慮の外にあって当たり前だと思う。民主主義を謳う政党のトップを選ぶ選挙ですら、「前近代」がまかり通っているのを見るのは、唖然とする。
コメント (1)
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