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「完本 美空ひばり」から 3 天才少女歌手のデビュー  逃走半世紀

2024-01-29 22:33:27 | 日記
A.母と娘の巡業旅
 「ステージママ」なる言葉が、若い芸能人の卵を密着して売り出そうとする母親として知られるようになったのは、10歳の美空ひばりとその母・喜美枝さんのイメージが強く反映していた。なにしろ歌手はまだ小学生である。プロを目指すひばりは母親と一緒でなければなにもできない。戦後間もなくのまだテレビなどない時代、童謡歌手ではなく大人の歌を唄って巡業の旅をしなければ名も知られずお金も稼げない。加藤喜美枝さんは、東京山谷の育ちだが、夫の出征中も魚屋を支え子どもを育てるたくましさで、戦後すぐ娘が唄の才能をもつと信じて、この子を芸能界に売り出すことに情熱を燃やしたという。そういうことを考える親子は、たくさんいるだろうけれど、何もない焼け跡闇市の戦後に、本気で少女歌手でプロになれると思うのは、かなり現実離れしているだろう。第一、町の魚屋の子にはちゃんとした音楽教育を受けるチャンスなどない。
 進駐軍の占領下にある横浜周辺は、米軍キャンプもあり歌手が唄う機会はあるが、アメリカ兵の求める音楽は当時のスウィング・ジャズである。やがてデビューしてからのひばりは、必要に迫られて英語でジャズも歌うようになるが、得意のレパートリーは日本の歌謡ヒット曲である。子どもが大人の歌を唄うのはまだ奇異の目で見られた。小学生にあんな歌を唄わせて、金を稼ごうなんてひどい親だと見る人もいたし、当の芸能界やレコード会社の幹部もそう考えた。

「そんなふうに、正規のルートで歌謡界に入ろうとしても、「いかがなものですかな?」と首を傾げられてしまうのだった。けっきょく、場末の劇場か田舎まわりの巡業で、職業歌手の前歌を歌うことだけしか、道はのこされていなかった。
  〽星の流れに  身を占って
   どこをねぐらの 今日の宿  (『星の流れに』清水みのる作詞 利根一郎作曲)
 菊池章子の唄う『星の流れに』のデカダンスなメロディが、月収1800円ベースの生活苦の街に哀愁をかなでた1947(昭和22)年春、ひばりは、漫談の井口静波と俗曲の音丸夫妻の一座に加わって中国から四国への巡業に出発した。
 そのころ、父親の増吉氏より母親の喜美枝さんのほうが、娘を歌手にすることに夢中になっていた。増吉氏にしてみれば、「美空楽団」の結成も一種の道楽だった。娘をプロの芸人にしようなどとは毛頭考えていなかった。だから、異常にハッスルしはじめた喜美枝さんと夫婦喧嘩になった。
「お前は和枝を河原コジキにするって、ずいぶん怒鳴られました。うちの人のガンコときたら、なみや、大ていじゃないんですからね。出てけバカヤローって、そのへんにあるものがとんでくる。ゲンコツが飛んでくる……」
 だが喜美枝さんも負けず劣らず頑固だった。(この子は必ず日本一の歌手になる)という天の啓示のような想念に、母親はとり憑かれていた。それは信仰にも似た強さで喜美枝さんをとらえ、あの戦火の日々の闘魂をふるい立たせた。四国への旅と聞いて渋い顔をする増吉氏をやっとのことでくどき落として、喜美枝さんはひばりと母子二人、巡業に旅立っていった。
 その巡業最中の四月二八日、四国の山の中で、ひばりにとって一生の運命を決定する事件がおこった。
……白い飛沫をあげて岩をかむ川の流れを、ひばりはバスの窓に頭をおしつけて、ぼんやり眺めていた。四国山脈をぬって走る山道だった。雨もよいの空は澱んでいた。さみしい風景だった。
 ずっと立ちどおしで、足が痛くて、窓の外をみつめているうちに涙がこぼれてきた。子供心を、見知らぬ土地の孤独がしめつけた。そのとたんだった。からだが宙にさらわれ、天と地がぐるりと逆さになって、そのまま真っ暗な奈落に落ちていった。旧坂を下っていたバスがトラックと衝突したのである。
 音丸の話――
「大杉という駅の近くにさしかかったとき、トンネルを出て、坂道を下っていったのですが、左手が崖になっていてその向こうに、駅が見えました。運転手がそちらの方をちょっとわき見したらしいのですね。目の前にいきなりトラックがあらわれて、あわててハンドルを切ったのですが、間に合わなくて、ぶつかってしまったのです。私たちのバスは、左手の崖に、横倒しになって落ちました」
「私は座席から床に投げ出されたのですが、不思議とケガをしませんでした。窓から外にはい出しました。見ると、和枝ちゃんが、血だらけになって倒れていました。バスの中から引き出して、近くの民家に運びこみました。息をしているかいないかという仮死状態でした。もう1人重傷だったのが女の車掌さんで、この人はバスの中から救い出した時は死んでいました。この車掌さんと和枝ちゃんと、二人を土間に寝かせて、むしろをかけようとしたのです。あ、ひどいことをするなと思ったとき、お母さんが、まだ死んでいない!と叫んで、和枝ちゃんのむしろをはねのけたのです。
 お医者さんが来て人工呼吸をして、やがて息をふきかえしました。右手首のところを切り、胸や、頭を強くうっているようでした。押すとゴボッゴボッと音がしました。和枝ちゃんは、文字通り九死に一生を得て、二週間くらい高知の病院で治療してから横浜に帰っていきました」
「自己の起こる前、和枝ちゃんは一番うしろの座席に座っていて、窓に顔をおしつけて外の景色を眺めていました。そのうちに、涙をポロポロ流していたのです。どうしたのときいても、ウウンというだけで、黙ってまたポロポロ涙を流していました。どうしたのかわかりませんでしたが、和枝ちゃんて、そんな子供だったのです。おとなしくじっとしているのです。まるで、何かに耐えているような大人っぽい表情でいつも黙っているのです。あの時も何かを感じて涙を流していたのでしょうね」
 横浜の家に帰って敷居をまたぐと、増吉氏が鬼のような顔をして待っていた。いきなり、喜美枝さんの横面をなぐりつけて、「もう金輪際、和枝には歌をうたわせないぞ」と怒鳴りつけた。
「ええ、そのときは私もあきらめてましたね。これ以上、うちの人に無理はいえないって。でもこういってみたんです。じゃあ、和枝の気持ちをきいてちょうだい。この子が納得したら、もうぷっつり芸事はやめさせます」
 増吉氏が、歌手なんかやめて学校に行きなというと、ひばりは大声をあげて泣きだした。「いやだい、いやだい」いつまでも泣きやまない。とうとう根負けをした父親は「じゃ、勝手にしな」とさじを投げた。
 ひばりの話――
「私の人生のテーマはそのとき決りました。歌手になれないなら、自殺しちゃおうって思ったんです。10歳でした。そんな小さな子供のくせに、そう思いました。神さまってものがあるのかないのか、私にはわからないけど、あの四国の事故で、死んでいたはずの生命が助かったときに、思ったんです。私の命を救ってくれた、運命みたいなものがあるにちがいないって。私は歌い手になるために生まれてきたんだ、だから神様が、生命を救ってくれたんだって」
 ひばりの右の手首には、いまでもその時の傷跡がくっきりと残っている。」竹中労『完本 美空ひばり』ちくま文庫、2005年。pp.48-52.

 このエピソードは、竹中労の思い入れもあるが、美空ひばりが父母の意志をこえて、プロの歌手になる覚悟を決めた体験として語られる。やはりただものではない天才少女だったのだろう。

「1948(昭和23)年五月一日、ひばりは、横浜国際劇場で、小唄勝太郎の前歌をうたった。それが、いわば職業歌手としての本格的なデビューということになる。
 横浜国際劇場は、戦後になって桑島組という土建屋が建てた新興劇場だった。鉄筋コンクリート建て一回の身で2000名の収容能力である。当時の横浜では、超一流の劇場だった。1947年5月に開場して、第一回の公演はSKDのショー、幸四郎、海老蔵、三津五郎の三番叟でこけら落としをやった。それを皮切りに、主として実演を興行、横浜一の入りを誇った。歌舞伎、新派、エノケン、ロッパ、歌手も一流のタレントしか出演させなかった。
 だから国際から出演の話があったとき、ひばりの母親が「いろいろ苦労ばかり多いので、もう芸能界をよそうと思っていました。そこへ国際からのお話で、せめて一ぺんは立ちたいと思っていた舞台に立てて、もうこれでやめても思い残すことはないと思いました」(「平凡」1949年3月号)といったのも当然だった。
 福島通人(当時横浜国際劇場支配人)の話――
「ひばりちゃんの国際出演は、藤山一郎、笠置シヅ子、小唄勝太郎などと一緒でした。勝太郎さんが、自分の前座に、手を引いて出て来てくれる童謡の歌える子供がほしいという要求で、ひばりちゃんが出てきたわけです。私も相当興業界に顔があったから、東京のレコード会社などへたのめば、童謡歌手の一人や二人は連れてこれるのだが、せっかく横浜でやっているのだから地元の人間をと考えた。そしたら、劇場に出入りしている関という男が、それなら、うってつけの子供がいるといって連れてきたのがひばりちゃんでした。
 リハーサルもなにもせず、ぶっつけで舞台に上げたら、いきなり大人の歌――笠置シヅ子の『セコハン娘』を唄いだしたのには驚きました。それがまた受けに受けて、しかも勝太郎さんがいい人で、別に文句もいわずニコニコして手を引かれて、袖から現れたのでホッとしたものです。その時のひばりちゃんのギャラは、一日300円から500円ぐらいでしたね。藤山、笠置クラスが楽団こみで五万円くらいの時代です」
「この興業がきっかけになって、ひばりちゃんをあずかることになりました。これは素質のある大変な子になると思ったので、すぐ横浜日劇歌劇団の専属みたいな形にして、めったに外へは出さなかったのです。特に東京へは、まともな舞台以外は出すまいと決心しました。専属の半年くらい、横浜国際では、少女歌劇の前座などに、ぽつぽつと使ってました。
 そしてその年の暮れに、浅草国際でテイチク祭が開かれるのを知って、旧知の山崎プロデューサーに無理矢理たのんで、強引に飛び入りを承知させたのです。たまたま『星の流れに』の菊池章子が病欠してアナがあいたのも幸運でしたが、東京進出はちゃんとした舞台でなければいけないという願いが、まずかなえられたわけです。はたせるかな国際の出演では大人気で、続いてすぐ日劇の公演にも口がかかってきました」
 小唄勝太郎の話――
「前唄に童謡歌手を出したらという案は、私がいいだしたのか福島さんがいいだしたのか、よく憶えていません。私はその時長い振袖の着物を着て出るので、手を引いて出てくれる女の子が欲しいと言ったのだと思います。そして福島さんが連れてきたのが、美空ひばりちゃんだったのです。無口で、おとなびた感じの娘さんでした。ところが歌いだしてみると、これが笠置さんや岡晴夫さんの真似をした歌で、すごくうまいんですよね。アッと驚きました。子供さんの前唄だから、童謡をうたうものとばかり思っていたので、ほんとにビックリしました」
「ええ、そのころは少女歌手なんていっても、ひばりちゃんだけだったんです。楽屋でも、あんな小さな子に流行歌なんか歌わせてと、眉をしかめる人もいました。でも、私はこう思ったんですよ。子供が大人の歌をうたって悪い理屈は、どこにもないんですよね。それに戦争が負けて、子どもが喜んで歌う歌なんか一つもなかったでしょう。キンコンカンっていう『鐘の鳴る丘』ね、あのくらいじゃなかったかしら。だからおやめなさい、趣味が悪いからっていう人もいましたけれど、私は、ずっとひばりちゃんに前唄をうたってもらうことにしたんです」
 〽みなさんどなたも 私のことを  セコハン娘と だれでもいいます
  私のこのドレスも 着物も    ハンドバッグも このハイヒールも
  何一つ あれもこれも      私の姉さんの お古ばかり
  おお だから私はセコハン娘  (『セコハン娘』結城雄二郎作詞 服部良一作曲)

 この年四月八日からはじまった「東宝争議」は、八月一九日、アメリカ第一騎兵中隊の兵士と戦車で包囲され、おまけに空には監視のヘリコプター、軍用機が飛ぶというものものしさの中で、四カ月間すわりこんでいた砧スタジオから、争議団は実力で退去させられた。
 東北地方では、冷害のために人身売買がさかんに行われ、若い娘たちの家出があいついだ。10月七日、昭電疑獄で芦田内閣総辞職、そのころ銀座街頭では「踊る宗教」が狂ったパレードをくりひろげていた。全学連が結成され(九月十八日)、東条英機以下七人の戦犯が絞首刑になり(十二月二三日)、海のむこうでは、12月十六日中国人民解放軍が北京を無血占領して社会主義革命を現実化していた。
 動乱する世相を反映するように、笠置シヅ子のうたう「東京ブギ」の絶叫が、「セコハン娘」の投げやりな哀調が巷の空気をゆすっていた。庶民大衆は占領軍のセコハンの救援物資で、ほそぼそと生命をつないでいた。カストリ焼酎を飲んで、目がつぶれたり死んだりするものが多かった。そのころ新宿で復活したムーラン・ルージュで、楠トシエ、春日八郎が唄い、市村俊幸、由利徹、若水ヤエ子、左卜全などのコメディアンが活躍した。
『太陽を食べたネズミの話』(1947年3月)ではじまり、『国定忠治それまで物語』(1949年6月)で終わった戦後ムーランは、私の青春とともにあった。中江良夫の『にしん場』(1947年11月)、森繁久彌が登場したころから外語(*現・東京外大)の「怠学生」であった私はムーランに通いつめ、小柳ナナ子の肉体美や明日待子の美貌にうつつをぬかしていた。
 ムーランの裏の尾津組のマーケットで、イカの塩辛を肴にカストリを飲んでいる森繫のすがたを、何度も見かけた。そのころから饒舌であった森繁は、虚実とりまぜて意表に出る話術で、人々を煙にまいていた。鼻をつくアセチレンガスの灯の下で、酔えば天鼓のごとく高らかに、またうらぶれて低く哀しくうたう森繁ぶしを、私は戦後の最もなつかしい思い出の一つとして胸の底にとどめている。」竹中労『完本 美空ひばり』ちくま文庫、2005年。pp.56-60.

 「セコハン娘」がどういう歌か、ぼくはネットで聴くことができた。なるほど、コミカルソングではあるが、これを小学生が唄ったら、どんなに上手くても、教育的公序良俗を重んじる当時の良識派からは、なんと大人びた親の操り人形だと鼻白む人は多かっただろうと思う。そこをひばり母娘はまず、乗り超えなければならなかった。


B.半世紀逃亡した彼
 1974~5年に連続企業爆破事件が起こり、指名手配されて49年間逃走していたとみられる桐島聡という人物が、鎌倉市の病院で末期がんのため入院して、本人だと明かし今日の朝、死亡したというニュースが流れた。新聞に、本人であれば彼は広島県出身で当年70歳。高校を出て東京の明治学院大学に入学とあった。え?ぼくよりも4年若いから、大学時代にすれ違っていた可能性はあまりないが、実は同じ頃同じ学部にいたやはり連続爆破犯として逮捕され死刑になった男がいたのは知っている。たぶん「東アジア反日武装戦線」を名乗る秘密グループとのかかわりがあの頃の大学のつながりで、あったのだろうと推測される。

「指名手配「桐島聡」名乗る男 「最期は本名で迎えたい」入院前 神奈川で生活か
 1974年~75年に起きた連続企業爆破事件の一つに関与したとして、爆発物取締規則違反容疑で指名手配されていた過激派「東アジア反日武装戦線」のメンバー桐島聡容疑者(70)を名乗る男が入院先の神奈川県の病院で「最期は本名で迎えたい」と話していたことが、そうさかんけいしゃへの取材で分かった。男が入院前、同県の工務店に勤務していたことも判明。同県内で逃亡生活を送っていた可能性があり、警視庁公安部は詳しく調べるとともに、DNA鑑定などによる本人確認を急いでいる。
 捜査関係者によると、男は入院前、少なくとも数年間、神奈川県内の工務店で働いていた。末期がんを患っており、今月、職場の同僚に付き添われて同県鎌倉市の病院を訪れた。入院時、運転免許証や健康保険証など身分を示すものは所持しておらず、当初は別の名前を口にしたが、「最期は本名で迎えたい」と話し、自身を桐島聡だと名乗ったという。
 25日から公安部が事情聴取しているが重篤といい、本人と確認された場合でも任意で捜査を続けるとみられる。
 男は桐島容疑者の家族の詳しい情報を話し、身長などの身体的特徴も一致している。公安部は、男が長年にわたり偽名を使って工務店で働いていたとみて、調べている。
 東アジア反日武装戦線は、桐島容疑者が所属する「さそり」を含む「狼」「大地の牙」の3グループで構成。8人が死亡、約380人が重軽傷を負った74年8月の三菱重工ビル爆破など、企業を標的とする爆破事件を次々と起こした。
 一連の事件では、桐島容疑者を除く9人が逮捕された。ただ、佐々木規夫(75)、大道寺あや子(75)両容疑者は逮捕後、日本赤軍のハイジャック事件などによる超法規的措置で釈放されたため、現在も逃亡している。
 桐島容疑者は75年4月、東京・銀座は韓国産業経済研究所に手製爆弾を仕掛け、爆発させたとして、爆発物取締罰則違反容疑で同年5月に指名手配された。共犯者として国際手配された大道寺容疑者が逃亡中のため、時効が停止されている。
 70年代から「長い闘い」公安OB衝撃
 「死んでいると思っていた。一体どうやって生活していたのだろうか」。かつて桐島容疑者の行方を追った警視庁公安部OBの男性も既に70代。桐島容疑者を名乗る男が見つかったことに衝撃を隠せない様子で当時を振り返った。
 1974年8月30日。東京・丸の内近くの勤務先で書類作業をしていると、突然耳をつんざく爆音が響いた。70年安保闘争が収束し、連合赤軍も壊滅するなど、過激派の活動もやや沈静化していた時期だった。三菱重工本社前に臨場すると「辺り一面血だらけだった。倒れている人や、片脚がない女性もいた」。
 桐島容疑者がメンバーの東アジア反日武装戦線は、爆弾製造の方法などを記した「腹腹時計」を地下出版し、海外進出する企業を「侵略企業」と非難して爆弾闘争を主張。三菱重工を皮切りに、企業に次々と爆弾を仕掛けた。男性も極左暴力取締本部に取り立てられ、そこから同グループメンバーとの「長い闘い」が始まった。
 80年代に入っても捜査は続いたが、桐島容疑者に近い人物から聞いた「あいつはもともと意識が低かった。今ごろは人民の海に紛れて普通に暮らしているだろう」との言葉が今も記憶の奥底に残っている。
 手配写真では、長髪で笑顔を見せていた桐島容疑者。桐島容疑者を名乗る男の写真を見た現職捜査幹部は「面影はなかった」と明かす。その影を追い続けた公安部OBの男性は複雑な心境を吐露した。「逃走に一生をささげた人生を思うと、哀れみも覚える」」東京新聞2024年1月28日朝刊23面、社会欄。

 半世紀という時間が経って、あの「過激派」が跳梁した時代のことは、今の人たちには想像もつかない異様さとしか思えないだろう。しかし、あの時代を大学生として生きていたぼくには、他人事として見過ごすことは難しい。
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「完本 美空ひばり」から 1 おいたち  方言の変質

2024-01-24 12:00:16 | 日記
A.「ひばり」の誕生
竹中労『美空ひばり』は、1965年12月に弘文堂より刊行され、その後、原稿を追加し、1987年9月に朝日文庫(朝日新聞社)の一冊として刊行され、さらに1989年に追悼文を加え「増補・美空ひばり」が刊行された。そしてこの「完本 美空ひばり」は、「増補・美空ひばり」をもとにアンケートへの回答などを収録した形で、ちくま文庫として2005年に刊行されたものである。
 竹中労(1928~1991年)は、ルポライターとして多くの作品を書いたアナーキスト。Wikipediaによると、東京都出身で父は竹中栄太郎という画家。甲府中学中退。「夢野京太郎」「ケンカ竹中」「反骨のルポライター」などの異名を持ち、芸能界や政界に斬り込む数々の問題作を世に送り出した。晩年には癌を患うが、闘病しながら活動を続けた。
 なかでもこの「美空ひばり」の評伝は、美空ひばりとその母に密着し寄り添った記録として知られる。ひばりの生い立ちからその死まで、戦後という時代の風景を織り込みながら、竹中の大衆の偶像たる歌姫というかなり独断ともいえる思い入れに満ちた文章で、刺激的だが基本的な事実はその取材を通じて押さえてある。
 大スター美空ひばりについては、すでにおおくのことが語られているが、いまぼくが確認しようと思っているのは、敗戦の翌年、横浜のはずれの町で、9歳の天才少女歌手として登場する当時の世の中とその雰囲気を知りたかったからだ。まず、はじめの部分は父母と滝頭「屋根なし市場」のことから。

「第一章 私は街の子 生いたち(1937~47)
 1937(昭和12)年。中国との戦争がはじまった年の五月二十九日、美空ひばりは、横浜市磯子区滝頭町で生まれた。
 本名、加藤和枝。父、増吉。母、喜美枝
 家業は魚屋で、屋号を「魚増」といった。
 ‥‥…滝頭は横浜の場末。商店街と住宅街の入り組んだ、ごみごみした下町だった。ひばりの生家は、「屋根なし市場」と呼ばれるマーケットの中にあった。ハモニカのように並んだ店の間口も奥行きもせまいので、軒先から道まで品物をひろげて売っている。だから「屋根なし」である。
 そのころ磯子一帯は、埋め立ての新開地だった。毎日新聞横浜支局刊の『横浜今昔』(昭和32年発行)によると、「磯子の今日を造りあげたのはなんといっても埋め立てにある。埋め立ては明治40年ごろに始められ、大正二年に完成した。滝頭にあった刑務所の囚人を人夫がわりに使って工事は進められた。今のように機械化されていない時代のことで大事業といってもすべて人間の手で行われた。山に深さ五間、十間というトンネルを、五つも六つも掘って、山のシンを痛めつけ、山が崩れ落ちる寸前にトンネルから走り出て逃げる。そして崩れた岩や土をトロッコに積んで海に捨てる。職人の技術といえば技術だが、勘にたよる工事だけに、山がくずれるとき逃げ遅れて、生き埋めになった人も、数多かった……」「屋根なし市場」の裏は刑務所跡の草ぼうぼうの原っぱで、その先のアスファルト道を市電がのろのろと走っていた。
 停留所を二つゆくと市営の魚市場(八幡橋)、そこからすぐに海がひろがっていた。滝頭の子供たちは水着一枚で、歩いて泳ぎにいった。海岸のベットリした砂地を掘ると、赤い虫がとれる。それを餌にして、ボラやハゼが釣れた。
 秋になると、原っぱの空にヤンマの群れがとぶ。子供たちは、たこ糸の両端に鉛のおもりをつけたのを空にほうって、トンボを捕った。
 そういう場末の町で、ひばりは育った。そこには文明にまだ汚されない自然があり、素朴な人の心があった。「屋根なし市場」の人びとは、あけっぴろげな近隣の気安さで連帯していた。貧しくてもほがらかな、そこは庶民の世界であった。
 ひばりは生まれたとき2500グラム、難産で頭部の前後が人並よりも長かった。つまりサイヅチだった(いまでも彼女には出来合いのカツラが合わない)。子ほめにきた隣家の荒物屋の主人が、家に帰ってから「金ヅチが見当たらぬときは魚増の赤ん坊を借りてきて代用品に使えばよい」と笑った。壁越しにそれを聞いたひばりの父親が、カンカンになって怒鳴りこむ。万事、そんな具合だった。
 隣近所の話が筒抜けになるような、へだてのない、そして、いささか落語的な「屋根なし市場」の風景をぬきにして、美空ひばりを語ることはできない。ひばりは正真正銘の街の子であり、大衆の子だった。彼女の「原体験」は、戦火に破壊される前の日本の庶民世界で形成された。
 そのころ街には、古賀政男のいわゆる「古賀メロディ」が、ギターの弦に哀傷の戦慄をのせて流れていた。『影を慕いて』(1929年発売)、『酒は浪だか溜息か』(1930年)でデビューした古賀は、『丘を越えて』『うちの女房にゃヒゲがある』『青い背広で』『人生の並木道』『人生劇場』などを作曲して、名実ともに、歌謡界の第一人者の地歩を築いた。それらの記念碑的な歌曲は、やがて1965年、美空ひばりによってリバイバルする。
  〽わびしさよ
   せめて痛みのなぐさめに
   ギターをとりて爪弾(つまび)けば
   どこまで時雨(しぐれ)ゆく秋ぞ
   振音(トレモロ)さびし身は悲し  (『影を慕いて』古賀政男作詞作曲)
 ひばりが誕生して、二か月後の七月七日。JOAK(NHK)は、『鶯の饗宴』という番組で歌っていたミス・コロムビア(松原操)の声を突然中断して、重大ニュースを報じた。―-北平(現在の北京)郊外盧溝橋付近で、日本軍は中国軍と交戦状態に入った。いわゆる「支那事変」の勃発である。八月八日、北平陥落。同十五日、南京空襲。戦火は速い速度で大陸にひろがっていった。
 だが「屋根なし市場」の明け暮れは、あいかわらずにぎやかで平和だった。戦争はまだ遠い距離にあった。
 ひばりの父親――加藤増吉は、多芸であり多趣味であった。ギターが得意で、都々逸や端唄は玄人はだしの節まわしだった。そして、熱狂的な浪曲のファンでもあった。
 1937年、その前年六月に内務省が発禁にした『忘れちゃいやよ』(最上洋作詞 渡辺はま子唄)がようやく下火になって、広沢虎造『石松代参』の名調子が全国を風靡していた。
〽バカは死ななきゃなおらねえ……というあれである。
 増吉氏はみずから清水次郎長を気どって、店の若い衆二人に、小政、石松と異名をつけるほどの気の入れようだった。ひばり五歳のとき、その石松が、友人と「市電にぶつかって死ぬか死なぬか」というバカな賭けをした。そして、本当に電車に体当たりを敢行して、冥土へ旅立ってしまった。そんなすっとんきょうな、“身命を鴻毛の軽きに置く”日本男児が健在だった時代である。男一匹、「たとえどんなにチッポケでも、てめえの城ってものを持たなきゃいけねえ」というのが増吉氏の口ぐせだった。
 増吉氏は、栃木県の農村(河内郡豊岡村)の四男坊である。十六歳のときに横浜に出てきて、魚屋に奉公し、二二歳で独立して自分の店を持った。東京山谷の石炭卸商の長女であった喜美枝さん(旧姓・諏訪)と見合い結婚したのは、二四歳の秋。戦前の社会で、田舎から歩ッと出の若ものが、たとえ九尺二間にもせよ「自分の店」を構えるのは、なみたいていのことではなかったのである。
 いわば立志伝中の人である増吉氏は、なかなかエリート意識が強く、「屋根なし市場」の文化人をもってみずから任じていた。
 東海林太郎そっくりの男前だったし、宵越しの金は持たないという気っぷであったから、増吉氏は、花柳のチマタで大いにもてた。都々逸、端唄などの『教養』は、そこで見についた。
 ひばりは回想する。
「……私のお父さんって人はよくいえば粋な人、はっきりいっちゃえば道楽ものだった。仕事もするかわりに遊びも派手で、母をずいぶん泣かせたものです。そのくせ、私が芸能界に入るときには大反対でした。歌うたいなんか、河原コジキのすることだって、死ぬまで頑固なことをいってました。でも、私に“芸”の手びきをしてくれたのは、その父だったんです。こうして目をつぶると、店の上がりかまちのとこに腰かけて、ポロロンポロロンてギターを爪弾いている父のすがたがうかぶんです。“お父さんって芸人だなあ”って思ったものでした……」
 美空ひばりの最初の「歌の記憶」は、百人一首の朗詠であった。
 1940(昭和15)年―-皇紀二千六百年の前夜に復古調の波にのって。小倉百人一首が全国津々浦々に流行した。増吉氏は、早速町内の若い男女を集めて、盛大にカルタ会を開いた。「魚増」の店先からは夜も昼も、みやびやかな(?)うた声が流れた。小政がサバの切身をつくりながら「あひみてののちの心にくらぶれば」と上の句をかけると、石松がマグロのあらを皿に盛る手を休めて「昔はものをおもはざりけり」と下の句をうける。
 そんな掛け合いの途中で、「めぐりあひて見しやそれともわかぬまに」という紫式部の恋歌の下の句につまっているのを聞いて、そばにいたひばりが、「雲がくれにし夜半の月かげ」すらすらと後をつけた。満三歳の冬である。
 おどろいた増吉氏が、ためしに上の句をたてつづけに読みあげると、ひばりは百句のうち七十五句まで、よどみなく暗唱することができた。むろん、意味などわかりはしない。呂律で、耳におぼえていたのである。
 このエピソードは、重要である。たんに天才的な「暗譜(誦)」の非凡な能力があったというだけでなく、やがて大衆芸術家・美空ひばりを形成する原体験を、ここに見ることができる。ギター、浪曲、都々逸、そして、百人一首、……父親の「道楽」は、幼いひばりの魂に日本の音律を刻んだ。
 百人一首の朗詠が持つ、素朴な七五調の抒情は古来、私たち民族の情動を支配してきた。
 それは、祭文、筑前びわ、浄瑠璃など、さまざまに分化した「語り」の音曲の原型である。日本人の哀傷、詠嘆、かいぎゃく、その他もろもろの詩的感情を表白するのに、もっとも適切な音律がそこにある。
 七五調の情念については、一つの論を後にまとめたので、ここではくわしく述べない。ともあれ日本の音律は、その揺らんのときから、ひばりと共にあった。
 そして横浜という港町が必然的に持たなければならなかった、バタ臭い異国情緒も、ひばりの心に早くから根をおろした。昭和一二年、淡谷のり子の『別れのブルース』が登場した年でもあった。」竹中労『完本 美空ひばり』ちくま文庫、2005年。pp.16-23.

 いまNHK朝ドラでやっている「ブギウギ」は、笠置シヅ子がモデルだが、美空ひばりが人前で歌って注目されるのは、当時爆発的に流行した笠置シヅ子の唄、「セコハン娘」だったという。敗戦直後の混乱と飢餓の時代に、占領者アメリカの音楽である(スウィング)ジャズの派手なリズムを強調した曲を、小学生の少女が唄うことがどれほど異常で刺激的なことであったか。それをいま想像することは簡単ではない。とにかく、美空ひばりは父と母に導かれ、ここから出発したのだ。


B.方言の意味変換
 庄内鶴岡にぼくが毎月通うようになって、もう5年近くなるのだが、地元の人たちの会話にでてくる東北弁のひとつである庄内弁を耳にすることはあっても、ちょっとしたイントネーションや語尾などで方言かと思うことはあるが、意味不明で困るようなことはまずない。高齢者には方言中心の人もいるが、大半の人びとはテレビで話す標準語を使えるし、よそ者に違和感は与えない。つまり方言は、失われつつあるともいえるし、完全に方言だけで暮らしている生活は、ごく少数の高齢者だけになっているのかもしれない。方言への蔑視や拒否は、かつてほど主張されず、それをむしろ固有の文化として尊重したいという気分もある。ただ、逆に若い人たちは方言から遠ざかることを意識して残念に思うこともあるかもしれない。いずれにしても、方言を知らないぼくのような東京人には、井上ひさしが絶妙に作品化した方言の多彩なありようの歴史性は、うらやましい文化遺産だと思う。

「震災も逆風 方言は消えるのか  東北大学名誉教授 小林 隆 さん
 単語や文法に土地ごとの特徴が表れる「方言」。2011年の東日本大震災の際には、地域コミュニティーの崩壊などからその消滅が加速したと言われる。方言に未来はあるのか。東北伊地方を中心に調査・研究を続ける方言学者小林隆さんに聞いた。(編集委員・宮代栄一)
 18年の平昌冬季五輪で銅メダルを獲得したカーリング女子日本代表のLS北見(ロコ・ソラーレ、北海道)の選手たちが試合中に交わした、北海道弁の「そだねー(そうだね)」が、その年の新語・流行語大賞に選ばれた。熱戦とのんびりしたアクセントのギャップが話題となった。
 東北大学名誉教授で方言学が専門の小林隆さんは「あの言葉を聞いた多くの人は、北海道弁に、素朴でかわいいといったイメージを抱いたのではないでしょうか。このように、近年、方言はポジティブに評価されるケースが増えています」と話す。
 19世紀、近代化を急いだ明治政府は「一国家、一民族、一言語」の還俗を掲げ、言文一致に加え、学校教育や軍隊などで共通語(標準語)の使用を奨励した。戦前の沖縄では、学校で方言を使った子どもが、罰を示す札(方言札)を首にかけさせられることもあったとされる。かつて、方言は悪であり、撲滅すべきものだったのだ。
 「ですが、実際にはほとんど効果はあがりませんでした。他方では共通語の必要性が実感として感じられず、子どもたちも学校では共通語教育を受けても、家では方言しか使っていなかったからです」
 変わったのは高度成長期。「交通が発達し、人の行き来が増えた結果、多くの人が方言のやりとりだけでは意味が通じにくいと感じるようになった。そこへテレビやラジオから共通語が流れてくる。必要性に後押しされる形で、若い世代を中心に全国で共通語が話されるようになりました」
 一方、共通語化が進んだ結果、ユネスコ(国連教育科学文化機関)が09年に発表した「消滅の危機にある言語・方言の一覧」で、アイヌ語、八重山方言、国頭方言、沖縄方言、宮子方言の八つが世界の約2500限後と並び、きわめて深刻・重大な危機・危険の三つのランクに該当するとされるなど、マイナス面も顕在化している。
 現在、能登半島地震の被害が連日報じられているが、小林さんによれば、大災害も方言の消滅を加速させるらしい。
 11年、小林さんも所属していた東北大学方言研究センターが東日本大震災後発災後の青森・岩手・宮城・福島4県の方言の状況を分析したところ、岩手県宮古市や宮城県気仙沼市。福島県いわき市などの数十か所で、人口減やコミュニティ―の崩壊などにより、その地域特有の方言が危機に瀕していることが明らかになった。「話者が亡くなったり、移住したりすれば、その地域における方言は脆弱になる」と指摘する。
 発災後、宮城県には全国から支援ボランティアが訪れたが、東北特有の方言のせいで、地元の人とコミュニケーションがとりづらい状況が続いていた。そこで、小林さんたちは以前からフィールドにしていた気仙沼市を訪れ、避難所やボランティアセンターなどを回って、地元の人との会話で何が通じないのかを徹底的に聞いて回った。
 「すると『かれき投げて(捨てて)ケロ』と言われ、『がれきをぶん投げればいいのか』と思ったとか、からだがびょうてきにつかれてしんどいことを『こわい』と言うのですが、『こわい、こわい』と言われて『何がこわいのかと悩んだ』といった話が出てきた」。そこで、誤解を招きそうな方言をパンフレットにまとめ配布したという。
 16年に起きた熊本自身の時は、この経験が生きた。すぐ現地に行くことができなかったため、わかりにくかったり、意味を取り違えたりしそうな熊本弁の言葉を選んでパンフレットを作り、八歳から1週間前後でネット上に公開したのだ。
 東北大学方言研究センターでは現在、今回の能登半島地域にも対応しようと、能登地方の方言パンフレットの作成を急ピッチで進めているという。「今後、受け入れ態勢が整えば、各地からボランティアなどの支援者が多く駆けつけるでしょう。その時に役立ててもらえば……」と話す。
 小林さんによると、消滅の危機に瀕していない方言も、「日本列島内では、その役割が大きく変容しつつある」という。
 「すべての言葉には本来、考えや知識を伝えるという役割があるのですが、その部分はすでに共通語が代行してしまっている。そのため、あえて方言を使うのは、相手との心理的距離を縮めたり会話の雰囲気を和らげたりする必要がある場面に限られるようになってきているのです」と語る。
 「たとえば共通語的な会話でも、語尾を方言にしたり、『おばんです』と挨拶したりすると、途端に場がなごむでしょう。現代における方言は気持ちのやりとりを円滑に行うためのツールであり、方言が今後生き残る道はそこにしかないとも思うのです」
 かつて民俗学者の柳田国男は、方言の地理的な分布はほぼ同心円で、文化の中心地には新しい言い方が広まる一方、中心から遠いところに古い言い方が残るという「方言周圏論」を唱えた。「柳田の説は基本は正しいのですが、では、東北と九州に古い言葉が同じように残っているかというと、そんなことはない」。東北が変化しやすいのに対し、九州は変化しにくいという。
 たとえば、東北弁の「どこどこさ行く」の「さ」は、古典語の「さまに」から来ていて、言葉尻を削った結果だという。また、「誰々はあそこにいたっけよ」などの「け」は、古典語の「けり」の「り」を短くして意味も変化させたものだという。
こうした語尾の変化の根底にあると思われるのが「言葉は簡単に使える方がよく、そのためには変化も容認すべきだ」との考え方だ。「特有の言い方が成立する背景には、東北の人たちに特有の発想の仕方があるのではないでしょうか。東北弁はズーズー弁といわれ、『し』と『す』、『じ』と『す』の区別をしませんが、その方が発音が楽だからです。空から降る雨となめるあめのアクセントを区別しないのも同じ理由です。それでも会話には困りませんので、言葉遣いに対する東北人の発想は、きわめて合理的だと私は思います」」朝日新聞2024年1月19日夕刊6面。
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「未完のレーニン」を読む 4 帝国主義戦争から階級戦争へ 国立大学の危機

2024-01-17 12:34:05 | 日記
A.闘争の時間化
 第一次大戦は、大国同士が領土と国威の拡張を求めて、正規軍と銃後の国民全体を動員しぶつかり合った、それまでの戦争とは性質の異なる、大規模戦争だった。ロシア帝国もこれに参戦し、ドイツやトルコと戦っていたが、反体制側の社会主義者や革命家たちは、もともと国家単位の帝国主義戦争はブルジョアジーと国家権力がやっていることで、なすべき闘いは階級闘争である、と言っていた。そう言いながら戦争が長期化すると、各国のプロレタリアート側の指導者たちも、インターナショナルな労働者の連帯よりも自国の戦争に加担して、運動はバラバラになってしまった。
 ロシアでも労働者や農民たちは戦争に動員されて兵士になり、戦争を戦っていたけれど、皇帝や政府のために戦争をし命を捨てることに疑問を持ちはじめ、兵士の反乱から皇帝の退位、ロマノフ王朝の最期にいたる二月革命が起こる。代わりにできた臨時政府は、実力部隊をもたない。レーニンはこれを見て、対外戦争ではなく国内の階級闘争に切り替えてしまうチャンスだとみた。そして十月革命が起こる。

「プロレタリア革命としてのロシア革命は、レーニンの意図によれば、ブルジョアジーとプロレタリアの世界最終戦争の始まりとして闘われるべきものであった。これによって人類史を構成してきた階級闘争が終結するとされる以上、それは文字通り「最終」の戦いであり、これ以後本質的な対立というものは存在しえず、本質的な闘争もありえない。この最終闘争においては、ブルジョア階級が旧き世界・「人類の前史」を代表するものであり、プロレタリア階級が新しき世界・「自由の王国」を代表するものとして現れる。してみれば、闘争は必然的に過去と未来との間での戦いとして現れてくる。レーニンにとっての内戦の意味とはまさにこれである。ロシア革命における内戦の際立った特徴は、通常人びとの戦いは空間的属性によって分かたれた集団の間で戦われ、空間の獲得・防衛をめざして戦われるのに対し、レーニンの考える闘争は時間的属性によって分かたれた集団の間で戦われ、どちらの階級が己の未来を摑むのかということを決するために闘われたということである。スーザン・バック=モースはつぎのように言っている。

 近代の政治のこれら二つのヴィジョン[引用者註:国民国家と階級戦争を指す]におけるもっとも顕著な差異は、それらの視覚的展望を決定する位相である。その位相によって、敵の性質と配置が決定され、戦争が遂行される領野が決まる。国民国家にとっては、その位相とは空間であり、階級戦争にとっては、その位相は時間である。国民国家の政治的想像界においては、空間は絶対的優先性を持っている。国家になることとは、領土を獲得することである(対照的に、1917年のボリシェビキの理論は、領土を持つものにも持たないものにも国家的独立を認めた)。(中略)国民国家にとって内戦は悲劇であり、その存在そのものにとっての脅威であるのに対し、階級革命にとって、それは望ましい歴史の目標へ向けたひとつのステップである。[強調原文]

 バック=モースはさらに「階級戦争においては空間は単なる戦術的なものであって、政治的目標ではない。それに対し、国民国家にとっては時間は戦術的なものであり、空間がすべてである」とつづけている。ロシア革命における内戦が、時間を軸にして戦われたということは、われわれが見てきた〈力〉の性質、すなわち未来が先駆的に現前することによってそれは生成した、という性質から必然的に生じた帰結であることは明らかである。
 第一次世界大戦による歴史の終り
 このように闘争の領野が極度に時間化されたことと、当時の帝国主義戦争という時代状況を結びつけて考えてみることは興味深い。レーニンも『帝国主義』を著してこの状況に取り組んだわけだが、そのなかで彼が強調していることは、それが書かれている時点で列強による地表の分割が地球の隅々までことごとく完了している、という事実である。つまり、空間的に世界は占領され尽くしてしまった、世界は空間的には終ったという認識がここにはある。
 もはや切り拓くべき空間が存在しないということは、必然的に地表の再分割のための闘争を招来し、それは現に第一次大戦として戦われた。そこでなされていたこととは、閉ざされた空間において勢力の淵を塗り替える、あるいはそれを防ぐための闘争であり、すなわちレーニンの言葉で言えば、「力関係の変動のための闘争」にほかならない。もはや世界は閉じている以上、この闘争においては、本質的に新しいものはありえず、それはその未曽有の悲惨さにもかかわらず、純粋な力の戯れであるほかない。したがってそこには何の意味もない。つまり、レーニンの洞察にとって世界分割の完了が意味したこととは、空間的拡張一般が人類に対して、何等未来を与えず、また空間をめぐる闘争が意味を剥奪された時代が到来したということである。してみれば、空間的配置に基づいて成り立つ国民国家を肥大化させたものとしての帝国主義諸国家の間で争われた第一次世界大戦とは、歴史がその意味のゼロ度へと到達してしまったことを示す戦争にほかならなかった。
 つまり、こうして歴史はこの時すでに一度終わっていた。ゆえに、レーニンとボリシェヴビィズム(そして社会主義革命にシンパシーを抱いた世界中のコミュニストたち)にとって課題となったことは、意味をもつ歴史を再開することであった。ここに闘争の軸を空間から時間へとラディカルに転化させた理由がある。述べたように、空間をめぐってなされる闘争は、すでに根源的な意味を失っているように思われた。ロシアを破滅させてでも階級闘争を戦い抜こうとレーニンが欲したのは、ロシアという空間の獲得そのものにはもはや根源的な意味が存在しなかったからにほかならない。
 しかしながら、以上のようなレーニンの時間認識は、ただ単に未来志向主義として理解されてしまうならば、さほど独創的なものであるとは見えない。近代以降の何時の世にも、凡百の「新時代」のイデオローグたちがあらゆる社会領域において存在してきたし、いまも存在している。「これからは……の時代だ」という紋切り型の語り口ほど巷間に溢れているものはない。だから、レーニンの言説における顕著な点は「未来」の侵入のさせ方という、言説の形式的な側面にある。そしてそのために、レーニンが呼びかけた「未来を獲得する闘争」によって導入されるものは、あらゆる「新時代」とは質的に異なったものとなる。
 木村敏は『時間と自己』において、人間による時間性の把握の仕方の三類型を挙げている。ひとつ目は「分裂病者の時間」、ふたつ目は「鬱病者の時間」、最後に「祝祭の時間」である。最初のふたつの類型の特徴について簡単に説明すれば、つぎのようになる。すなわち、「分裂病者」は「つねに未来を先取りし、現在よりも一歩先を読もうとしている。彼らは現実の所与の世界によりも、より多く兆候の世界に生きているといってよい」[傍点原文]。これに対して「鬱病者の時間」は「自己自身におくれをとらないように、とりかえしのつかない事態にならないように、これまでの住み慣れた秩序の外に出ないでおくという、いわばきわめて保守的な、ハイデッガー的にいえば既存性を存在の唯一の根拠にしているような時間である」。
 一見して両者は対照的なあり方をしているということがわかるが、素朴な見方をすれば、前者は革命的な時間意識であり、後者は保守的なそれであるかのように見える。それゆえに、前者を革命的なプロレタリアートの意識、後者を保守的なブルジョアジーの意識になぞらえるということもかつてなされた。
 しかし、レーニンの思考法、あるいは彼のもっていた時間意識は、「分裂病者」のそれとは決定的に異なる。なぜなら、レーニンの思考の特異性とは「現実の所与の世界」への徹底的な沈潜によって「未だ在らざる世界」を引きだすという点にあるということは、本書で再三指摘してきた通りであるからだ。むしろ、このふたつの類型になぞらえられるべきは、『国家と革命』で激しく批判された無政府主義のイデオロギーと第二インターナショナル的なイデオロギーである。すなわち、前者は国家を即座に廃絶できると主張するが、それは兆候を現実と取り違えているにすぎない。そして後者は、帝国主義戦争の全面的勃発という新しい状況下においても未だに国家の維持――そこから愛国主義の噴出という第二インターの崩壊の理由も出て来る――という既往の公式を墨守しようとしたのであった。
 それでは、レーニンによる「未来の侵入」の論理は、「分裂病者の時間」ではないとすれば、はたしてどのようなものなのだろうか。
 興味深いことには、木村によれば、このふたつのそれぞれに病んだ時間意識は、正常な日常的時間意識におけるふたつの要素――「未知なる未来における自己の可能性の追求と、既知の慣習や経験への保守的埋没」――がそれぞれ極端に突出したものであるという。つまり、ふたつの時間意識が対極にあるように見えるとしても、実際にはむしろそれらは同根的であるということだ。なぜなら、未来の把持と過去の把持という、われわれが日常生活を営むうえで不可欠な両要素のうちの一方が突出することによって、人はこれらの精神疾患に罹るというわけだからだ。だから、これらのふたつの狂気は、どちらも日常性の圏内に属するものであり、日常性における時間意識をそれぞれ逆の方向に突き詰めていったところに現われるものだと言えるだろう。
 そして、これらの同根的狂気とは質的に異なるものとして、木村は「日常性の内部構造それ自体の解体によって姿を現わす非日常性」[傍点原文]としての「第三の狂気」(=祝祭の精神病理)の存在を指摘している。そして、前二者が日常性の突出であるのに対して、この第三のものは日常性の突出であるのに対して、この第三のものは日常性が解体したところに現われるという、このような狂気の典型的な具体的事例として木村は躁病等を挙げているが、興味深いのは、それらの発作において患者に経験される「永遠が永遠としての実感を伴ってわれわれに直接に現前する」という事態である。そして、このような大いなる永遠の現前を前にして、「日常性を保証する理性的認識の座としての意識の解体」[傍点原文]が生ずるという。
 レーニン『国家と革命』を貫いているものとは、おそらくこのような狂気にほかならない。時間の蝶番が外れ、日常性の直線的な延長のものではないものとしての未来性が現在に進入して来るという事態、これこそがレーニンのテクストを単なる空想家によるそれとは決定的に異質なものたらしめている。
 レーニンの主張と無政府主義者の主張との、また両者の主張が基づいているそれぞれの思考様式における微細かつ決定的な差異を思い起こしてみよう。それは、両者が同じもの(=国家の廃絶)を終着点と見なしながらも、レーニンは「いまここにあるもの」に徹底的に密着していた一方で、後者は「いまここにないもの」へと一足飛びに駆け上がろうとしたことにあった。後者の主張はラディカルであるかのように見えるが、実際には保守的な側面を持っている。なぜなら、「いまここにあるもの」を認めず「いまここにないもの」についてのみ語るということは、現状に不満を持つ者がもっとも安易に手にすることができる心の慰めでもあるからだ。つまり、現状の否認とは日常的な意識を構成する重要な一要素である。そして、人びとがこのような心の慰めによって満足することができるならば、革命(=非日常性)は永遠に不要である。
 してみれば、レーニンにおける〈力〉の生成の十分条件をなすところの「未来の現在への侵入」の特異性とは、その未来が一種の祝祭として、大いなる永遠の現前として現れているところにある。それは、過去・現在・未来の連続した流れとして通常われわれが対象化するような時間ではない。しばしば言われるように、このようなわれわれの日常的な時間意識においては、「未来」とは現在の延長であるにすぎず、本来の意味での未来は存在しない。それに対し、『国家と革命』における「未来の現在への侵入」は、このような流れが中断・解体されることによって、生じている。つまり、質の違った時間性が祝祭のように其処に現前しているのである。そこには、現存する世界の内奥から湧き出てくるあの〈外部〉が堂々としているのである。それだからこそ、『国家と革命』においてはアナーキックな主張が異様なリアルさを伴っているのだ。
 そして、この祝祭の存在を最終的に確証しているのは、あの最期の不在のページにほかならない。なぜなら、そこではテクストの存在は姿を消し、描かれてきた〈力〉そのものが筆を執っているからである。ここにおいて、作者の意識は見事なまでに解体されている。」白井聡『未完のレーニン 〈力〉の思想を読む』講談社学術文庫版2021年、pp.234-242.

 白井聡『未完のレーニン』が、アカデミックなレーニン研究でもロシア革命史研究でもない、政治思想研究のユニークさを持っているのは、ロシア革命のさなかに書かれた『何をなすべきか』と『国家と革命』に焦点を置きながら、同時にフロイトや精神分析理論を援用してレーニンの考えた歴史変革の動因〈力〉の分析を試みていることだろう。ただそれが成功しているかどうか、難しい所だと思う。ロシア革命もその後のソ連社会主義についても、いまはもう、過去の歴史の残骸のように思われて、とくにスターリン体制の問題点についてはさんざん批判され否定されてきた。日本でも、1960年代までの左翼社会主義運動が社会に影響力を及ぼしていた時代を知る人たちには、言い古された話だけれど、70年代以後に成長した人たちには、触れる機会も関心もない、ど~でもいい昔話になり、さらにソ連の崩壊によって社会主義じたいが消えてしまった。だからこそ、というか、そういう時代を新たな視点でまともに考えようとする若い世代が登場したのは、たしかに注目に値する。


B.大学はどうなってしまうの?
 大学進学率は5割を超え、多くの人が大学という場所に通ったことがあるわけだが、その大学がじわじわと変わりつつある、いや変えられつつあるということは、学生にはよくわからないだろう。とくに国公立大学の管理運営体制は、文科省や政府の文教政策の改変、高等教育への介入干渉で歪められてきたことは、大学の中にいる教員でないと実感できないことかもしれない。

「国立大学はどこへ行く? 失われた自主性: 池内 了
 私が32年間勤めた国立大学をいったん辞めたのは、国立大学が法人化された直後の2005年のことであった。「法人化反対」運動の旗を振っていた私は、政府の決定に従うのを潔しとせず、定年まで3年を残してさっさと名古屋大を辞職したのである(その後、すぐに別の国立大学に復帰したのだが)。国立大学が国家の組織から切り離された独立法人という枠組みとなり、自由に運営できると宣伝されていた。友人が「法人化は大学の自主性が確保できるから賛成」というのに対し、私は「法人化によってかえって自主性が失われて危険である」と主張し、激しい議論を交わしたことを覚えている。
 結局、国立大学は法人化することによって、文部科学省が差配する運営交付金と呼ぶ資金が削減される一方、文科省は取り上げた資金を使ってさまざまな名目の新規事業で大学を競わせる政策を推し進めたのであった。国立大学は、文科省が掲げる人参にありつかねばやっていけない状況に追い込まれたのである。
 それとともに、いわゆる「大学の自治」が次々と剥奪されていった。例えば、かつては、大学の最高議決機関は各学部からの代表者で構成される評議会であり、学部教授会の意見を持ち寄る形であった。大学の運営は学部自治を基本にしつつ全学全体の合議によるという構造で、大学としての独自の見識を示してきたのである。ところが、学部自治は否定され、学外の人間が過半数を占める経営協議会が評議会に取って代わり、大学としての独自色を出せなくなってしまった。
 また、学長は大学構成員の投票によって決定する大学が多くあった。自分たちの意向を体現してくれる学長を選ぶことで、大学運営に構成員も参画する意識をもつことにつながっていたのだ。ところが、やはり学外の委員が半数を占める「学長選考・監察会議」なる会議がつくられ、そこで大学構成員の意向に関係なく学長を選出することになってしまった。その会議が学長任期の上限撤廃すら決める大学まで出現している始末である。
 このような法人化以後の国立大学「改革」は、「象牙の塔」から「開かれた大学」に変えるとの建前で進められた。しかしそれは、何千人もの構成員が集団として生きる国立大学という組織の自治そして自律の権利を奪ってきた歴史であった。さらに、先の国会で成立した改正国立大学法人法によれば、規模の大きい大学を「特定国立大学法人」に指定し、そこに「運営方針会議」という合議体の設置を義務付け、大学運営の根幹である中期目標・中期計画や予算・決算を決定することが明記されている。その委員の任命には文科大臣の承認を得ることになっていて、もはや大学自治の息の根が止められかねない状況である。国立大学が独自に決められる分野はどこにあるのか、と疑問を抱かざるを得ない。
 むろん「研究と教育」があるではないか、研究対象や教育内容は大学自治の最後の砦と誰もが考えるだろう。しかし、大学財政の根幹を文科省に握られた国立大学は、資金を求めて現実性のない研究・教育計画を平気で掲げるようになっている。実際、国際卓越研究大学の認定に向けての東北大の提案書は、大風呂敷を広げた企業計画と見まがうばかりである。今後東京大も京都大もそれに続き、多数の大学が文科省に迎合して新たに運営方針会議の設置に向け一斉に走り出すのであろうか。
(いけうち・さとる=総合研究大学院大名誉教授)」東京新聞2024年1月12日夕刊3面。
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「未完のレーニン」を読む 3 〈力〉の使い方 昭和の日常

2024-01-14 21:19:27 | 日記
A.「普遍的な力」の出現 
 1871(明治4)年1月に始まった普仏戦争は、2月末にプロイセンの勝利に終わり、フランスの国防政府がプロイセンと和平交渉をしてアルザス・ロレーヌ割譲や賠償などを取り決めるが、これに反対するフランス各地で蜂起したコミューン(革命自治会la Commune)のうち、3月26日に史上初の「プロレタリアート独裁」による自治政府を宣言し、5月28日まで存続した世界最初の労働者政権を、パリ・コミューン(Commune de Paris)と呼ぶ。パリ以外でもマルセイユ、リヨン、サン・テティエンヌ、トゥールーズ、ナルボンヌ、グルノーブル、リモージュなどでも同様のコミューン結成宣言が出されたが、いずれも短期間で鎮圧された。
 パリ・コミューンは、ブルジョアに支持されたヴェルサイユ政府軍によって鎮圧されたが、短期間のうちに実行に移された数々の社会民主主義的政策は、以後の社会主義、共産主義運動に大きな影響を及ぼした。直後に書かれたマルクスの『フランスの内乱』は、パリ・コミューンについての綿密な分析で、プロレタリア革命の歴史的意義を説いたことで有名。なお、日本の明治維新政府から米欧に向かった岩倉使節団はパリ・コミューンの終わったこの年の末に、アメリカ経由欧州に出発している。
 パリ・コミューンから46年後のロシアで革命の渦中にいるレーニンにとっても、パリ・コミューンが「国家と革命の範例」として大いに語るべき課題を提供していた。それはとくに〈力〉の使い方、つまり軍事的暴力を、被搾取階級が手にしているという状況の応用問題になる。

「マルクス、そしてレーニンにとって、1871年のパリ・コミューンはわずかな期間ではあれ「プロレタリア独裁」を地上に出現させた出来事であった。言いかえれば、それは被搾取者階級によって形成される普遍的な真の〈力〉の戴冠を示した事件にほかならなかった。ゆえに、パリ・コミューンにおけるもっとも核心的な事柄について書かれたつぎに引用される第三章第二節の一節は、『国家と革命』において「革命とは何か」ということをもっとも端的に語るきわめて重要な箇所であり、理論的側面から言えば、このテクストのひとつの絶頂を成していると考えられる。レーニンは、マルクスが『フランスにおける内乱』で挙げたパリ・コミューンの二つの特長、すなわち常備軍の廃止とそれの武装した人民への置き換え、およびコミューン議員と官吏の選挙制と解任制とに言及した後、つぎのように言う。

 こうしてコミューンは破壊された国家機構を一層完全な民主主義と取り替えたに「すぎない」、すなわち、常備軍の廃止とすべての公務員の完全な選挙制と解任制が導入されたに「すぎない」かのようである。しかし、実際にはこの「すぎない」ことは、ある制度を根本的に異なる種類の制度に大々的に取り替えることを意味する。ここに見られるのは、ほかならぬ「量から質への転化」の一事例である。すなわち、民主主義は考えうる限りもっとも完全に、もっとも徹底的に遂行されると、ブルジョア民主主義からプロレタリア民主主義に転化し、国家(=特定の階級を抑圧するための特殊な力)から、もはや本来の国家ではないあるものへと転化する。
 ブルジョアジーと彼らの反抗を抑圧することは、依然として不可欠である。コミューンにとっては、このことは特に不可欠であった。そして、コミューンの敗北の原因のひとつは、これを十分に断固としておこなわなかったことにある。だが、ここでは抑圧の機関はいまや住民の大多数であって、奴隷制のもとで、農奴制のもとで、賃金奴隷制のもとでつねにそうであったように、少数者が抑圧するのではない。そして、ひと度人民の大多数が自身の迫害者を自ら抑圧するならば、抑圧のための「特殊な力」はもはや不必要である! この意味で国家は死滅し始める。特権的少数者の特殊な制度(特権的な官吏、常備軍首脳部)に代わって、多数者自身が直接にこれを務めることができる。そして、国家権力の諸機能の遂行それ自体が、全人民的なものになればなるほど、国家権力の必要性はますます小さくなる。[傍点強調原文]

 ここにおいて、「特殊な力」を凌駕する「普遍的な力」がついに明瞭な言葉で語られている。「本来の国家ではないあるもの」とは、本来の国家が多数者を抑圧する「特殊な力」である以上、それは「普遍的な力」でしかありえない。それゆえに、ここでレーニンは「量から質への転化」を語っているのである。コミューンの〈力〉は、この「普遍的な力」をその内実としているがゆえに、「《特殊な力》はもはや不必要である」ということができるのであり、より正確な言い方をすれば、もはやその〈力〉は「特殊な力」とは質的に異なるものである以上、「特殊な力」がひと度立ち上がった以上、「特殊な力」はもはや存在することはできないということを証明するために、革命後には内戦が戦われなければならなかった。
 だが、この一節は右に要約した内容を明瞭に読み取ることができるのと同時に、きわめて謎めいたものであり、この謎は十月革命と呼ばれる事件の不可思議さに直接連なっている。というのは、明らかにここでレーニンは暴力革命による「力の交替」について論じており、『国家と革命』のなかで彼は、社会主義革命が絶対に暴力革命でしかありえないことをたびたび強調していた。しかし、いま引用した部分では、「力の交替」が行われる瞬間における暴力に関する具体的な記述が登場していない。われわれは『国家と革命』の論述の流れを追ってきたが、この引用部分の直前では国家との闘争における被抑圧階級の〈力〉の統一性が語られ、この引用部分ではコミューンの設立を経てこの〈力〉はすでに普遍性を帯びている。さらに言えば、コミューンの設立過程が暴力的なものであるとも言われてはいない。つまり『国家と革命』のテクストにおいては、暴力革命の不可避性が強調されながらも、それが絶頂に達するはずの瞬間に暴力は不可解な沈黙に入っているのである。
 実際のロシア革命のプロセスを検討してみるならば、暴力が荒れ狂ったのは十月革命後の干渉戦争と内戦の時代であることは、誰の目にも明らかであろう。内戦期の暴力の苛烈さと比べると、十月革命それ自体における暴力はほとんど無に等しい。したがって、ロシア革命がその運命を決せられたのは内戦期においてであったという見解は、きわめて正当なものであると言わねばならないであろう。十月革命それ自体は、革命の全プロセスから見れば、ほとんどエピソード的なものにすぎない。しかしそれにもかかわらず、内戦はあくまで内戦であり、の十月の蜂起が「革命」と呼ばれるのは正当なことである。それは「革命」と呼ばれる出来事の本質的な性格に関わるからである。
 あたかもボリシェビキ革命の成り行きに対応するかのように、ここでのレーニンの記述は、「普遍的な力」の出現自体を暴力的プロセスとして描かずに、すでに登場した〈力〉がなすべきこととして「ブルジョアジーと彼らの反抗を抑圧すること」と書いて、暴力的プロセスを示唆している。ここでレーニンが用いている論理、すなわち「普遍的な力」の出現それ自体は暴力ではなく、それのなすことは暴力であるとは一体いかなることなのか。
 しかし、この一見奇妙な論理は、実際はそれほど奇異なものではない。主に国家の暴力装置に関して考えてみるならば、ここでレーニンが語っているのは「常備軍を廃止し、それを武装した人民と取り替えること」であるが、それは具体的にはいかなるプロセスであるのか。もし「武装した人民」の内実が単に手近にある武器を手にとった労働者や農民のことを指すにすぎないとすれば、彼らが国家の完全な指揮下にある常備軍と武力衝突した場合、軍事的勝利は後者に属することは火を見るよりも明らかであろう。つまり武装した人民が「普遍的な力」の担い手であるとしても、それは暴力によっては決して出現することができないのである。
 革命における軍事的戦略について具体的に言えば、正規軍の主要な部分が中立に廻るか革命勢力の側に加担しないかぎり、その勝利は望むべくもない。そして、それが実現したのがロシア革命のプロセスであった。ケレンスキーの臨時政府が、十月のボリシェビキの蜂起の前になす術もなく潰え去ったもっとも具体的な理由は、当時の軍事力の指揮権が臨時政府から実質的に失われていたという事実にほかならない。軍隊が国家の正規の指揮系統に従わなくなるという現象は、すでに二月革命の時点で現れつつあった。
 十月革命の成功は、このような軍隊の公式の指揮系統が崩壊したことの延長線上にあると言わねばならないが、注目すべきは、決定的な瞬間に、軍隊というブルジョア国家の暴力装置の最たるものがブルジョア国家の崩壊を助けるという逆説である。だが、この逆説はブルジョア国家のまさに本質的な性格から出現するものである。論じてきたように、近代資本制社会においては経済的支配と政治的支配が分離するので、そこから必然的に、経済的支配者(ブルジョアジー)と政治的支配者(政治家・官僚・軍隊等)は人格的に分離する。このことは一面で、ブルジョアジーにとっての大きな強みであった。図2´の分析でわれわれが見たように、ブルジョアジーは自ら武装することなく――つまり余計な出費をせずに――支配をおこなうことができる。そしてさらに、誰が表面的に政府を代表・運営していようとも、生産手段の私的所有が保障されているかぎり、ブルジョアジーの支配には基本的に揺るぎがない。またそこから、ブルジョア国家のきわめて柔軟な性格が出てくる。これらの事情から、多くの場合において国家権力の人格的担い手はブルジョア階級ではなくなる。ゆえに、国家権力の実体はつぎのようなものとなる。
 
 じっさい、資本主義国家権力の人格的担い手は、労働者階級やその他の勤労人民大衆のなかから雇いいれられたり徴募されたりした一般兵士、下級警官、下級官吏の大群と、かれらに対する比較的少数の、だがおなじく賃金によって雇いいれられた上層管理者集団――将校集団や上層官吏集団――とからなりたっているのであって、これは、法治国という形態から出てくる国家権力の客観的・機能的性格に基づいている。

 ここで言われていることは、公権力の具体的な担い手の大部分は、本質的には「労働者階級やその他の勤労人民大衆」であるということだ。われわれは、図2´を分析する際に、ブルジョア国家として組織された「特殊な力」が非媒介的・間接的性質を帯びていることを見たが、この性質に応じて、公権力を構成する実体は、実質的な支配者階級たるブルジョアジーではなく、一般の勤労人民大衆にならざるをえない。なぜなら、論じてきたように、近代資本制社会における公権力の実体は、必然的に支配者階級そのものではない。彼らが直接に政治的支配をおこなうことは、彼ら自身の原理からして不可能である。ゆえに、具体的な統治行為を担う者は、「公」の状態にある者でなければならず、その実体を成すのは社会の大多数を占める「労働者階級やその他の勤労人民大衆」であるほかない。
 以上を踏まえれば、なぜレーニンが公権力を「特殊な力」と呼んだのかということが、いまやきわめて明瞭に理解されるであろう。つまり、国家権力の実体――すなわち、「労働者階級やその他の勤労人民大衆」――が公権力という在り方をしているときには、まさにそれは「特殊な」存在様態にあるということにほかならないのである。してみれば、「普遍的な力」が生成するということは、「特殊な」存在様態にある〈力〉が、本来の状態に移行することでしかない。
 ロシア革命の勃発の要因を、第一次世界大戦下という歴史状況を抜きにして語ることはできないことは自明であるが、その成功の端的な要因は戦時下の総動員体制にある。それはすなわち、労働者および農民という大衆が、総動員体制によって兵士という「特殊な力」へと大規模に編成されていたという状況である。レーニンが「帝国主義戦争を内乱へ」というテーゼによって企てたことは、このような形で現れた「特殊な力」を徹底的に利用することであった。言いかえれば、それは、人類史上初めての総力戦によって未曽有の規模で組織された「特殊な力」を質的に転化させることによって、それを一挙に革命の原動力へと転換させてしまうことであった。
 この企図が実行可能であったのは、ブルジョア法治国家の本質的性格、すなわち経済的支配者と政治的支配者が人格的に異なるという性格のためであり、再三述べてきたように、レーニンがブルジョア国家の本質的構造を利用することによってプロレタリア革命の道筋を発見したということの根拠は、まさにこの点にある。「普遍的な力」は「特殊な力」から直接に生まれるものである以上、「特殊な力」が大規模に組織されていることは、「普遍的な力」が比例的に大規模なものとなり、したがって強力なものとなることさえも意味するであろう。
 また同時に、〈力〉のこのような質的変化は、〈力〉が直接的なものになることを意味する。図2´の分析において見たように、公権力として編成される「特殊な力」は、C1がc2を搾取することによって惹きだした〈力〉を国家に媒介させることによって実現されるものであった。「特殊な力」が「普遍的な力」へと転化することは、このような被媒介的・間接的に成立した〈力〉の「間接性」が取り払われることを、言いかえれば、それが直接態となることを意味する。なぜなら、いまや統治をおこなうのは、総力戦体制によって「特殊な力」へと徴募されながらもそこから本来の状態へと離脱した「武装した人民」にほかならないからである。彼らは自らのために武装し、自らの原則によって〈力〉を行使することになる。」白井聡『未完のレーニン 〈力〉の思想を読む』講談社学術文庫版2021年、pp.198-206.

 ある意味単純化してしまえば、ロシア10月革命の成功は、第一次大戦に動員されて常備軍に参加していた労働者や農民が、そのまま革命勢力の実力部隊になってしまったことにカギがある、ということもいえるのかもしれない。パリ・コミューンのように一般民衆市民が銃をとって戦う蜂起型革命では、政府側の常備軍の前に敗北してしまうのは避けられない。とすれば、1917年のペテルブルクでは、市民がバリケードで政府軍と戦わなくても、政府側に軍を把握する力がなく、軍にいた将兵多数が革命側についてしまうということが起き、さしたる抵抗もなくボルシェビキ政権ができてしまった。むしろ戦闘はそのあとの、内戦と外国軍との戦争において激しくなった。「外との戦争を内なる革命へ」転化するという魔法が現実になったわけだ。


B.時代の空気感・関係性
 西岸良平のマンガ『3丁目の夕日』は、ちょうどぼくと同年代の作者が小学生時代を描いていて、昭和の30,40年代当時の東京の住宅街で暮らす人々の日常生活は、知っているものにはひどく懐かしい。つまりもはやそういう世界はとっくに失われているから、懐旧の念ひとしおになるのだ。この穂村弘という歌人はもう少し下の世代かも知れないが、コンビニもパソコンもないどころか、呼び出し電話の時代を知っているというから、やはり昭和の高度成長期初め頃の世界を懐かしんでいる。
 いまはコロナ禍もあって、身近で生身の他者と親密に関わる機会も必要もなくなっているように思えるが、能登の震災のニュースを見ると、通常の環境でも人間は一人で生きていくことは非常に難しいのに、生活インフラを破壊された被災地の生活は、困難をきわめていることを思うと、昔はもっと違った日常生活があったのだな、と思う。昔がよかったともいえないが…。

「言葉季評:変わりゆく町の濃度  生身の他人 遠くなって  穂村 弘 (歌人)
 昨年、引っ越しをした時、新しいご近所に挨拶に行くべきかどうか迷った。一人暮らしの部屋などに勝手に押しかけるほうが非常識という意見もあるからだ。時代とともに対人的な距離感が変化していることを感じる。
 私が子供の頃、つまり昭和の30,40年代には、引っ越しの挨拶は当然として、その後もご近所との間で頂き物のお裾分けや醤油の貸し借りなどが普通に行われていた。コンビニエンスストアなどの存在しない時代には、相互扶助的な共同体の濃密さが違っていた、昭和一桁生まれの父の記憶によれば、戦前の町内では猫の貸し借りもあったという。鼠を捕らせるためらしい。
 子供時代の家には電話がなかったが、お向かいの森さんが「ほむらさん、お電話ですよ」とわざわざ呼びに来てくれた。これは特別な親切というわけではなく、学級名簿の電話欄にご近所の電話番号を載せている家がたくさんあった。数字の後には「(呼)」の文字。呼び出し電話の略である。近隣に頼るのが普通だったのだ。個人情報保護の観点から学級名簿自体が問題視される現在では信じられない話である。
*    *    *  
 平成以降にも、たとえばこんな短歌があった。

 こわれもの預かってます木村さん あなたの眠るベッドの下で  東直子「春原さんのリコーダー」

 「ベッドの下」の空間に潜んでいるのか、と思って、一瞬どきっとする。でも、どうやら違うらしい。敢えてそうとも読めるように書いてあるけれど、これはマンションの階下という意味だろう。〈私〉は宅配便などの荷物を「木村さん」の代わりに預かっているのだ。引用歌を収めた歌集の刊行は1996年。その頃は、不在時の荷物を近隣の家で預かるケースがあったことを思い出した。
 一方こちらはご近所との関係性が希薄化した現代の短歌。

 隣人にはじめて声をかけられる「おはよう」でなく「たすけてくれ」と  木下龍也「つむじ風、ここにあります」

 現在の都会では、「隣人」との間の心理的なハードルが高くなっている。引っ越しの挨拶や頂き物のお裾分けや醤油の貸し借りや電話の呼び出しはもちろん、日常の挨拶でさえ緊張する。そこを飛び越えるのは、もはや何らかの非常事態の発生を意味しているのかもしれない。
 非常事態といえば、と思い出したことがある。対人的な距離感が遠いはずの東京でも、人と人の間が一気に縮まった特別な日があった。2011年3月11日である。
 後に東日本大震災と呼ばれる地震が発生した時、私は都内の漫画喫茶にいた。本の雪崩のなかから何とか抜け出して建物の外に出たが、何が起きたのかわからず、きょろきょろするしかない。周囲には同じような人々が開いて、互いに声をかけあっていた。
 とりあえず徒歩で数分の自宅に帰ろうと歩きだしたのだが、途中の路上でも見ず知らずの人同士が話し合っている姿が目に付いた。その時、私の頭に浮かんだのは「昔の町みたい」という奇妙な感想だった。
 昔に比べて今の都市生活はご近所への面倒な気遣いの必要もなく、マイペースで暮らせて快適。でも、我々がそのような距離感で生活できるのは、コンビニやスマホやAmazonやたくはいびんのおかげではないだろうか。
 だからこそ、それらが十分に機能しない状況下では、共同体の濃度を回復する必要が生じる。あの日に起きたのは、まさにそういう事態だった。今ここにいる生身の人間同士で何とかするしかない。そのために、コンビニもスマホもなかった昔のような空気感が、束の間、戻ってきたのだろう。
 だが、東京の場合は日常が形を取り戻すにつれて。対人的な距離感のほうも自然に元通りになっていった。ご近所同士が無表情にすれ違う町が帰ってきたのだ。元通りにならなかったケースがあるのは、むしろ夫婦や恋人同士のような親密な関係性だ。震災という非常事態によって、互いの価値観のズレが可視化されたからである。
*     *    * 
 一昨年、父の葬儀で親族が集まった際に、自分が赤ん坊だった時の話を聞いた。母乳の出の悪かった母の代わりに親戚の女性のお乳をもらっていた、というのである。60年前のことだ。もちろん、私に記憶はない。
 その女性は、あの子が嫌がるだろうからと、ずっと内緒にしていたらしい。なんということだ。だって命の恩人ではないか。感謝あるのみ。ただ、還暦を過ぎて初めて知らされた事実には、言葉にならない衝撃があった。
 戦中戦後などの栄養や物資が不足していた時代に、母親以外の女性からお乳をもらった赤ん坊の話は聞いたことがある。でも、まさか自分がそうだったとは。育児用のミルクなどを利用できない事情があったのか。両親が亡くなった今となっては不明。
 ただ、他者とのもっとも近い関係性を、何もわからない赤ん坊の時に体験していたことに不思議さを感じる。それから今日まで、生きれば生きるほど、時代の空気感として生身の他人は遠くなる一方だから。」朝日新聞2024年1月10日朝刊、11面オピニオン欄。
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「未完のレーニン」を読む 2 十月革命直前に書かれた理論書  被災地に行くべきか?

2024-01-11 14:15:48 | 日記
A.ロシア革命の焦点
 念のため確認しておくと、ロシア革命(Российская революцияラシースカヤ・レヴァリューツィヤ)とは、1917年にロシア帝国で起きた2度の革命を指す。特に史上初の社会主義国家(ソビエト社会主義共和国連邦)の樹立につながったことを重視すると、帝政が倒れた「二月革命」に続いて起きた「十月革命」を意味する。また逆に、広義には1905年6月、日露戦争も影響を与えた血の日曜日事件に始まるロシア第一革命もふくめた長期の革命運動を意味する。1905年では、皇帝が譲歩しストルイピン首相のクーデターにより終息し、ロシア国内の労働運動や革命運動は一時的に停滞した。レーニンなど革命家はスイスや北欧などへと逃れた。
 二月革命のはじまりは、第一次大戦中の1917(大正6)年2月23日、ペトログラードで国際婦人デーにあわせてヴィボルグ地区の女性労働者がストライキに入り、デモを行った。食糧不足への不満を背景とした「パンをよこせ」という要求が中心となっていた。他の労働者もこのデモに呼応し、数日のうちにデモとストは全市に広がった。要求も「戦争反対」や「専制打倒」へと拡大した。ニコライ2世は軍にデモやストの鎮圧を命じ、ドゥーマには停会命令を出した。しかし鎮圧に向かった兵士は次々に反乱を起こして労働者側につく。2月27日、労働者や兵士はメンシェヴィキ(ロシア社会民主労働党内でレーニンらのボルシェビキに対する少数派グループ)の呼びかけに応じてペトログラード・ソヴィエトを結成した。メンシェヴィキのチヘイゼが議長に選ばれた。一方、同じ日にドゥーマの議員は国会議長である十月党(オクチャブリスト)のミハイル・ロジャンコのもとで臨時委員会をつくって新政府の設立へと動いた。退位を要求されたニコライ2世は退き、皇帝はいなくなってロマノフ朝は崩壊し、5月にケレンスキーの臨時政府ができる。しかし、政府の方針に反対する七月蜂起が失敗して追いつめられたボルシェビキは、10月10日、レーニンが提起した武装蜂起による権力奪取の方針を決め、ペトログラードの労兵ソヴィエトは政府を打倒して権力を握る十月革命が成功する。
 このロシア革命の山場にいたる夏に、なんと革命指導者レーニンは『国家と革命』を執筆していた。どうしてこの革命は成功したのか?白井聡『未完のレーニン』は、そこを解き明かすために書かれた。第六章 〈力〉の生成――『国家と革命』の一元論的読解の部分。

「特殊な力の脆弱性
 以上より、今やレーニンが措定する〈力〉が展開する舞台としての構図の一般的布置が明らかになった。ここからは、『国家と革命』において〈力〉が具体的にいかにして生成変化を遂げるのか、そしてそれがいかにして「革命の現実性」を顕在化させることになるのかを、ここまで論じてきた構図について見極めなければならない。
 レーニンの言う「特殊な力」について、革命的サンディカリストのジョルジュ・ソレルはつぎのように述べている。

 この数年来、労働者をもっとも驚かしたと私に思えることの一つは暴動に対する公権力の臆病さであった――軍隊の出動を要求する権限をもつ行政官たちは、かつて彼らに見られなかったほどの忍耐を以て、罵られたり、打たれたりすることを甘受している。

 ソレルが言っているのは、要するに「公権力は弱い」ということである。既にみたように。近代資本制に基づく社会においては公権力に暴力が集中・独占されているにもかかわらず、こういった事態がなぜ生じうるのであろうか。ロシア革命の成功のもっとも直接的な理由も。まさに公権力(この場合主に軍隊)を部分的に革命勢力へと引き入れることができたか、または彼らが中立を保ったことにある。
 ところで、レーニンが公権力について記述する際に特徴的なのは、「武装した人間の《特殊な》部隊」(括弧入れ原文)、「《抑圧のための特殊な力》」(同)、というようにその力の「特殊さ」を強調していることである。「公」のものが「特殊」であるという矛盾的表現には、単に耳目を惹きつける逆説以上のものがある。なぜなら、われわれが本書第二章において検討したように、レーニンが〈力〉について語るときには、その存在論的な充実性・強度がつねに問題になっているからだ。ソレルが語るような公権力の「臆病さ」、あるいは言いかえればその内的な脆弱さは、この「特殊さ」に淵源するのではないだろうか。それでは、なぜ公権力は脆弱さを内に孕む「特殊な」ものでしかないのだろうか。
それは、これから示すように、われわれが分析してきたブルジョア社会における国家と階級の布置から理解しうる事柄である。j本章では、我々が提示してきた図式のなかにおいていかにして革命を担う〈力〉が脆弱な力に取って代わって生成するのか、ということについて考察がなされる。
 レーニンが措定する一元論的な〈力〉とは「革命の現実性」を具体的に構成するものである。この「革命の現実性」が実際に社会革命を生ずるまでに高まる原因は、当然のことながら、階級対立の緊迫に求められなければならないであろう。すなわち、すべての図式において規定をなしている両階級の間の摩擦の力が極度に高まるという事態である。してみれば、この対立の力から生ずる国家の力の強度は、階級対立の激しさに正比例することは自明であろう。このことは、階級対立が激化したときには、労働運動・社会主義運動等に対する官憲の弾圧が比例的に強力なものになるという経験的事実とも符合する。また、「革命の現実性」がこのようにして階級闘争の激しさに基づけられるということは、レーニンの措定する〈力〉のただひとつの源泉として認められるのは、階級闘争における闘争のエネルギーであることをも意味する。
さて、本書第五章で述べてきたように、C1とC2の根源的な対立は近代資本制国家においては、それ自身としては現れず、図2に示される形でそれは国家とC2との間に置換される。C1からエネルギー備給を受けた国家の力は、具体的には主に常備軍と警察として現れ、C2と対峙する。じつにこの構造に〈力〉の経路の複雑な問題が存在し、またこの構造において革命による〈力〉の生成がつけこむ余地が見出される。というのは、本来的には国家の力の根源は、その析出される構造からして、階級対立に凝集した摩擦の力である、その一方で同時に、図2´で示される国家とC2との対立において国家がC2と闘うための力はC1から備給されたものである、と言わねばならない。つまり、その地からの起源はC1であるように見える。この一見矛盾するようにも見える二つの事態はどのように解釈されるべきであろうか。
この事態を整合的に把握するためには、つぎのように考える必要があるだろう。すなわち、国家の力がどれほど高いところまで上昇するかということは、階級対立の激しさに正比例しなければならない。その一方で、図2’では国家の力は直接的にはC1から備給されている。したがって、図2‘において国家が階級闘争に投ずる力は、図1から見て取れるような階級対立の摩擦力から直接に析出されたものではなく、媒介されたものであると考えねばならない。言いかえれば、たしかに図1に見られるように、国家の力として上向きに析出されるベクトルの高さは、階級対立の激しさによって一義的に決定されることは間違いがないが、しかしこうして疎外された力に備給し、それを間接的に実現しなければならないのはC1にほかならない、ということである。つまり、力の強度を決定するものとそれを実現する主体が別のものであるということだ。これが、図2において国家がC2と闘争する力が媒介されたものである、ということの謂いである。
そして、図2‘において階級対立の直接的噴出は国家とC2との間で生ずるわけだが、この闘争に対して投じる力を、C1は国家を媒介すること(C1と国家の間の双方向のベクトルを想起せよ、C1から国家へは主に財力による力の補填がおこなわれ、国家からC1へは生産手段の私的所有の保障がなされる)によってのみ実現することができる。国家とC2の対決において最終的にはC2が勝利しうるということの根拠は、じつにこの国家とC1との間の相互依存的な構造にある。
いま論じてきたように、資本制社会における国家の公権力の強度は、階級闘争の激しさに比例しなければならないが、その強度の実現はC1からの力の備給に依存する。一方でC1からすれば、階級闘争が激しくなればなるほど、国家析出を表す上方へのベクトルはより高く上昇せざるをえないから、この高くなった場所に力を備給することは、自らの力を大きく損耗することを意味する。それは、C1が国家に対して、自らの代理人としての役割を、私有財産の中立的な承認者という法治国家的原理を超えて果たすように要求することを意味し(具体的に言えば、所謂政官財の「癒着」「腐敗」と呼ばれるような現象をもたらす行動をC1がとらざるをえないことを意味する)、その「超えて果たす」という性格により、C1は多かれ少なかれ「法外的」手段に訴えることになる。そして、このようにして「法外的」行為が許容されることは、「中立的普遍的法を体現するもの」として確立されたブルジョア法治国家の正統性を動揺させることになる。かつ同時に、このような状態においては国家からC1へのベクトルはより鋭角に振り下ろされることになるということは、国家からC1へのベクトルがより強力なものになる、つまりC1の国家への依存は高まることを意味する。
さらに、図2‘の構造を再生産することを考えると、この構図が極めて不安定なものであることが理解される。というのは、資本蓄積の要請から搾取が激化し、階級対立が先鋭になると、それに比例して国家の位置が高くなり、そこに力を補給するC1はより多くの力を得なければならないが、C1がこれを得るにはC2からの搾取を強めるほかない。このことは階級対立の激化を必然的に引き起こすから、国家の位置はより高くなり、そこに力の備給を行なうことはますます困難になる。したがって、C1はC2への搾取をより強める……という悪循環が生じる一方で、国家の位置は、正統性を減じつつますます上方へと昇ることになるから、国家から振り下ろされるベクトルはより長くその角度はますます鋭角的になり、つまりその強度を増し、それに比例してC1は自立性を減じることになる。あるいは、より具体的に言えば、ブルジョワ階級が自らの存立の基盤を、国家による生産手段の私的所有の法的保障、および国家の暴力によるブルジョア的法秩序の維持のみに依存するその依存度は、構図の再生産によって累進的に高まるということだ。
ここに明らかになったのは、この構図の破滅的な不安定性である。なぜなら、この構図を維持することのできる限界は、C2の維持再生産が可能な範囲でC1がC2を搾取できる度合という限界によって明らかに画されざるをえない。しかしその一方で、資本蓄積にはその限界が原理的に存在しない。したがって、C1は二律背反したふたつの命令を受け取ることになる。すなわち、彼らは一方で被搾取階級の維持再生産のための限界内で搾取せよという命令を受けながら、その一方で資本蓄積の要請は、あらゆる限界をも踏み越えて蓄積することを命じる。したがってC1は、資本蓄積の要請に呼応して搾取を無制限に強化し、この構図を極大化することもできなければ、ある程度の水準に保つこともできない。構図は不安定な同様状態に置かれるほかないのである。そもそも図1が必然的に取る形態としての図2が出現したのは、図0がそれ自身を再生産することが不可能になったことによってであったが、図2‘もまたこうしてそれ自身を再生産することの困難に突き当たることになる。
また、なぜ公権力が結局のところ「特殊な力」に留まるのかということの理由も、いまや明らかであろう。図2‘において要石の役割を果たすのは国家であるが、いま述べてきたように国家への備給はC1によっておこなわれる。そして、その備蓄される力の強度は、c1がC2を搾取できる度合によって上限が限界づけられている。したがって、ブルジョア国家の力はこの上限の限界内にあるということになる。こうして公権力は、それがいかに強大なものに見えようと量的な限界のなかにある、すなわち普遍的とは呼ぶことのできない力であることが証明される。
ただし、いま述べた資本制社会の構造の再生産の困難とは、一国レベルで考えられた資本主義国家、つまり多くの場合近代国民国家として現れる一国的な枠組み内での困難にすぎない。この困難は歴史上、悲劇的なかたちで解を与えられることになる。つまりひとことで言えば、レーニンが目撃し分析した事柄、すなわち帝国主義諸国家の出現とは、図2‘に表される国家システムの再生産の困難という問題に対する応答であり、そして、それら諸国家の間での全面的衝突とは、その応答の不完全性の露呈であった。
帝国主義とは、国民国家が原則として民族共同体であり、したがって基本的には地縁的な結合に基づいているにもかかわらず、それを無際限に空間的に拡張しようとするという、そもそも途轍もない矛盾を孕んだ運動であった。それゆえ、国民国家の帝国主義国家化という現象には、国民国家の概念的否定が含まれていると言わねばならない。このような矛盾を犯してまでそれが追求されたのは、端的に言えば、一国内でもはや有効に継続することのできなくなった資本蓄積を、国民国家を空間的に膨張させることによって継続させようとする要求のためである。」白井聡『未完のレーニン 〈力〉の思想を読む』講談社学術文庫版2021年、pp.171-178.

ここで資本制国民国家の基本構図とされる図2が図2´に変換されるとは、ブルジョアジー(C1)とプロレタリアート(C2)の階級対立が国家(state)とどういう関係になるかを示す。レーニンによれば、支配階級であるC1は被支配階級であるC2と経済的関係ではなく政治的関係として直接に闘争するのではなく、国家という暴力装置を通じて支配する。だから、C2はC1の支配を倒すには国家と闘う以外にない、ということになる。そこから、革命の方法として何が必要かが導かれる、というわけだ。


B.大地震の被災地に行かない理由
 大きな災害が起こると、被災地では個人や自治体で対処できる限度をこえた悲惨な状況におかれる。政府は、いうまでもなく人命救助と破壊された地域の復旧に優先的に努めなければならない。そのためには首相をはじめ、政府の責任ある立場の人々が、事態を把握するために現地を見ることは必要だ。でも、非常時に必死で対処している現場に、政治家が大人数でやってくるのはむしろ迷惑じゃないのか?と思う人もいる。問題は、正確な情報をどうやって手に入れ、大きな政治的判断をどう下すか、そのために率先してやるべきことを自覚しているかどうかだ。鳥の眼と虫の眼ということでいえば、被災地を訪れて人に会うことは虫の眼であり、ヘリなどで上空から被災状況を俯瞰するのは鳥の眼になる。どちらも必要なことで、それをどういう形で行うかは、救助活動や支援を邪魔しない配慮のもとに決めればいいと思う。

「本音のコラム:現地に行く意味  斎藤美奈子
 阪神・淡路大震災(1995年1月17日)の際初動が遅いと批判された当時の村山富市首相はそれでも発災2日後の19日には現地に入った。
 新潟中越地震(2004年10月23日)の際、小泉純一郎首相が現地に視察に入ったのは溌災3日後の26日である。
 東日本大震災(11年3月11日)の際には菅直人首相が周囲の反対を押し切る形で翌12日に福島に飛び、福島第1原発に乗り込んだ後、東北一円を空から視察した。
 熊本地震(16年4月14日)の際、安倍晋三首相が現地に入ったのは9日後の23日。予定の16日に、より大きい本震が来たためだった。 
 能登半島地震の発生から10日。岸田首相はやっと13日に現地に行く方向という、交通の難があったにせよ遅すぎる。
 政治家、とくに首相の被災地訪問については以前から議論があった。主な反対論は「被災地の負担になる」というものだ。部課や警備を引き連れて押しかけられても迷惑なだけ!しかし災害の現場も見ず、被災者の声も聞かずにどうやって救済ができるのか。政治家の視察が邪魔なのは、政治家側が視察を平時の大名旅行と同等に考え、受け入れ側が視察を接待と考えているからだろう。
 独断で現地に入った国会議員を批判するなど本末転倒。最低限の随行人数で現地の悲鳴を最大限受け止めてきてよね、首相なら。 (文芸評論家)」東京新聞2024年1月10日朝刊19面。

 同じ紙面に記事「ショック・ドクトリン」能登半島地震にかこつけて政策強行? 「改憲・増税・原発 ~「緊急事態条項必要」材料に? 「東日本の復興税」は「恒久化」 「異常なし」盾に再稼働推進も…」も載っていた。岸田政権が国民から信頼されていない現状は、今回の能登地震をめぐっても、どさくさまぎれに別のことをやろうとしたり、自民党の政治資金問題や統一教会問題など、早く忘れてほしい問題を隠蔽するのに利用しようとしている疑惑はあるな。
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