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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

1950年代チャンバラ時代劇考 11  石光真清の手記のこと。 

2019-06-28 02:01:56 | 日記
A.戦争と時代劇
時代劇スターと戦争との関係を考えてみようかと思って、試みに戦後日本映画で活躍した時代劇スターの主な男優について、戦争が終った1945年8月にいくつだったかを調べて一覧表にしてみた。以下のようになっている。年齢は満年齢だが、当時は数えの方が普通だから、プラス1か2する方がいいかもしれない。
  大河内伝次郎(明治31年生、終戦時47歳)、進藤英太郎(明治32年生、46歳)、阪東妻三郎(明治34年生、44歳)、月形龍之介(明治35年生、43歳)、嵐寛寿郎(明治36年生、42歳)、片岡千恵蔵(明治36年生、42歳)このへんまでが40代、ちなみに新国劇の島田正吾・辰巳柳太郎も明治38年生まれで終戦時40歳である。続く30代は、市川右太衛門(明治40年生、38歳)、東野英治郎(明治40年生、38歳)、長谷川一夫(明治41年生、37歳)、小沢栄太郎(明治42年生、36歳)、黒川弥太郎と山村聰(明治43年生、35歳)、高田浩吉と森雅之(明治44年生、34歳)、大友柳太朗と藤田進(明治45年生、33歳)、山形勲(大正4年、30歳)とここまでが30代。以下の20代はほとんどが軍隊経験があるはずだ。近衛十四郎(大正5年生、29歳)、千秋実(大正6年生、28歳)、伊藤雄之助(大正8年生、26歳)、岡田英次と三船敏郎(大正9年生、25歳)、丹波哲郎(大正11年生、23歳学徒出陣組)、木村功と三國連太郎と西村晃(大正12年生、22歳)、鶴田浩二(大正13年生、21歳)とここまでが20代の戦中派。そして20歳前の若者だったのが、佐田啓二と東千之助(大正15年生、19歳)、田村高廣(昭和3年生、17歳)、大川橋蔵と若山富三郎(昭和4年生、16歳)、市川雷蔵と天知茂と勝新太郎と高倉健は(昭和6年生、14歳)のまだ少年、中村錦之助と仲代達也が(昭和7年生、13歳)、石原裕次郎(昭和9年、11歳)、川津祐介(昭和10年生、10歳)、小林旭(昭和12年生、8歳)、津川雅彦(昭和15年生、5歳)とこのへんはまだ子どもである。
 戦後の占領時代は時代劇の製作は禁止だったから、この人たちが侍姿で復活したチャンバラ映画に出るようになったのは、6,7年後だとすると、終戦時16歳の大川橋蔵や13歳の中村錦之助は登場した時は、きらきらイケメン若侍だったわけだ。彼らには戦争の影も記憶もきれいさっぱり消えていた。しかし、鶴田浩二や三國連太郎や丹波哲郎や三船敏郎はそうはいかない。彼らは軍隊に取られ現実に戦争をやっていた若者だったのだから。さらに上の戦前の映画に出ていた人たちは、いろんな戦争のくぐり方をしたはずだ。そのことが彼らの戦後の映画スターとしての活躍となにか関係があるだろうか?時代劇は近代戦の始まるずっと前の江戸時代のお話ということになっていたから、イクサといっても刀や槍のチャンバラで、しょせんはフィクションである。そこに戦争体験は一見無関係で、娯楽映画はあくまで娯楽であればいいわけだが、でもあの戦争を戦った人間は、それをきれいさっぱり忘れ去ることなどできただろうか?

 「人類の歴史にとって“娯楽”というものは、それまでは常に“特別”だったし、あんまり深入りしてはいけないものだったのです。“見世物”とか“混雑”とか“御馳走”というようなものは“お祭り”というような特別な日、特別な場所にしかなかった。それは“非現実”の世界に属するようなものだったのです。だから“芸人”というものは特別で賤しいものとされました。だって“普通じゃない”んですから。現実は“毎日がお祭り”ではないんですから。そういうものが“現実”だから、“特別”というものはあったんです。“特別”に深入りすれば“現実”を失います――それが堅気の発想というものです。役者に熱を上げる、小説に読み耽ける、芸事に血道を上げる――こういうことを堅気の人間がしたら、それは即“オマンマの食い上げ”につながる訳で、こんなことが奨励される訳もありません。“娯楽”というのは“楽しい”という表の顔の他に“誘惑”という裏側を持っていたんですね。だから、それは“特別”な場合に限定されて存在していたんです。
  “娯楽”というものは、人類の歴史の初めからあったような古いものですが、それは“特別な場合”“特別な時”という“非現実”の中にしかありませんでした。現実と娯楽の間には、常に一本の線が引かれていたのです。でも、昭和四十年から始まる“ゆとり”というのは、この一線を曖昧にしました。“ゆとり”というものは、現実の中に娯楽を貯えて行く、そうしたものでした。その結果どうなったのか?人は”ゆとりの住い”というような現実離れのした外界を持つ、“宅地”という名の人工的な空間の上に立った“マイホーム”というオモチャ箱に居心地悪く住んで(それは本当の演技を知らないからです)、テレビタレントをそれぞれに養成することになりました。それが“娘”であったり“息子”です。
  観客席にいた人間が舞台に上って、それを現実だと思って、そこで現実生活を営む。あるいは、一度上がった舞台の上の“現実”を胸にしっかと叩き込んで、再び舞い戻った舞台の上の“現実”を再現する。それが昭和四十年からの“生活”というものですが、これに不安感を感じなかったら、人間はバカです。現実感がある筈のない場所で現実を演じたり、現実感のない現実を演じたりしていたら人間というものは必ず不安になります。何故かといえば――こんなこと、説明するのもバカらしいくらいですが――それは“嘘”だからです。“血が通っていない”からですし、“心”がないからですね。“心がない”というのはこういう状態を言うのですが、しかし残念なことに、世界中が舞台となってしまって、同時に世界中が観客席となってしまったような現実の中ではこういうことが発見出来ません。嘘がホントの尻ッ尾を呑みこんで、ホントが「ひょっとしたら自分は嘘なんじゃなかろうか?」と首をかしげているんですから。それまで舞台の上にいたプロの役者は、シロートの演じる“信じこみ”の演技を見て「とてもあのリアリティーにはかなわない」と言っているんですから、そんなことは誰にも分かりません。分るのはただ一つ、なんとなく不安だ、ということだけです。分りやすく言ってしまえば、現在の蔓延する不安感の正体とは、「人並みが身にしみない」です。“人並みじゃない人”がいてくれたらまだしも、見渡せば周りがみんな“人並み”になってしまった訳ですから――一億総中流というのはそういうことですね――その逃げ出せる先の目安となる“人並みじゃない状態”というのは見当がつきません。容赦なく“人並み”という状態に落ち着けられて、そこで「身にしみないなァ……、なんとなく……」と言っているのが、現代の最大の不安感というものです。
  人間というのはなかなかバカではない訳ですから、不安を感じたら「なんとかしよう……」と思いますし、「何故だろう……?」とも考えます。「何故だろう?」と、自分を包む不安感の原因を探って出た答えが、「そうだ、自分達は人生の途中から“人並み”になった、その成り上がり性が自分達を落着かせないのだ」とうことで、「だったらどうしよう……」の答が、「私達の子供は“生まれた時から人並みである”――という環境で育てよう」です。「自分達の芝居が身にしみないのは、長い間観客席でシロートをやっていて途中から舞台に上がったという、その演戯経験の浅さだ」――という訳で、「舞台の上で生まれた子供は生まれながらの演技者である」という、救いのない(少なくとも子供にとっては)結果が生まれます。昭和四十年に生まれた子供は、今二十歳で“大学生”なんですよ、男も女も。これだけで、全部お分りでしょう?非現実を真似するんだったら、現実感のない人間の方が真似はうまいんですよ。真似もうまいし、真似る時間と場所もたっぷりあるんですよ。そのお母さん達が昔、「まァ」という上品な驚き方を発見しても、それをなかなか自分の生活の場で生かしていけるような余裕がなかった――少なくとも自分が“人並みの上品な奥様”と呼ばれる迄は――というのとは、今の若い子は違うんですよ。どこにも売れ口のないテレビタレントを自分の家というテレビのセットの中で育てているだけなんですね、今の“家庭”というものは。
  みんな真似がうまい。真似が出来なければ仲間には入れてもらえない。今の若い人達はみんな、自分の家専用のそして更に、”自分達”という仲間内専用のテレビタレントとして育てられているんですね。今や、子供が人並みである状態を指して“可愛い”という訳ですね。“可愛い子供”であることによって、今の子供は立派に親にとってのテレビタレントとなっている訳ですね。今の子供達に生活実感のないのは当たり前です。“現実”という悪夢のテレビスタジオの中でテレビタレントを生きているわけですからね。
  勿論、この“悪夢”がいつ始まったのかといえば、昭和の四十年からです。昭和の三十九年に「分った」と言って学ぶことをやめて――つまり、他人のドラマというものを見るのをやめて、自分を舞台に上げて行ったからですね。勿論、昭和の四十年に日本人の多くがそうなったからといって、全員がそうだという訳ではありません。いくら東京オリンピックが国民的行事だったからと言って、東京オリンピックの中継をするテレビの視聴率が100%だった訳でもありませんし、『赤穂浪士』を日本人が全員見ていた訳でもありません。見なかった人だって勿論います。見なかった人に、そうした国民的な変化は関係がなかったのかと言えば、勿論そんなことはありませんね。「他のヤツはみんな見てるんだろうな」という、自主的な“孤立”という形の参加をします。全然外界のことを知らないで、気がついたら取り残されていたという形で、関わりというものを持たされます。こういう人達が、日本人の多くが舞台に上がってドラマに参加して行く時、観客席に取り残されるんですね。取り残されて「はみだした……」「あぶれた……」という実感を持つんですね。繁栄の下にある“翳り”というのは、別に貧しさだけではないんですね。ドラマというものが、悪夢の太陽の下で“翳り”というものを濃くして行くんですね。
  飛び飛びの話で分り難いかもしれませんが、昭和三十六年の『用心棒』から生まれる“残酷時代劇”は二つの流れを持ちます。一つは、海外の映画祭で賞を取る“社会派”の芸術映画です。既に“現実”は、自分の家の中に”娯楽”を持っています。テレビが“娯楽”を奪ったら、映画はもう“娯楽”ではありません。映画が“娯楽”となるのなら、それは、一家の団欒の中にある娯楽――そういう一体感から取り残された、特別な人達の為の“特別な娯楽”となるしかないのです。
映画が大衆娯楽の王座にあった昭和三十年代を過ぎて、テレビという報道のメディアが娯楽の王座についた時、映画は個人的な娯楽へと落ちました。集団としての一体感を味わえなくなった人間だけが、態々映画館の暗闇の中へと足を運ぶようになったのです。一体感を失った人の為の娯楽――それが特殊なものであるというのは勿論、その娯楽がすべて悲劇であるという“特殊な娯楽”だったからです。
   誰が悲劇を求めるのか?誰が“救いのない”ことを“救い”とすることが出来るのか?救われない貧相な人達だけです。そういう人達が高度成長の下に浮かび出して、ここに“娯楽としての悲劇”が復活するのです。復活するというのは勿論その先例あってのことですが、それが何かというと、最初のチャンバラ・ニューウェーブ”純情青年の妄想『無頼漢解題雄呂血』ですね。無頼漢が公然と“ヤクザ”になって復活して来たのが、昭和四十年代のヤクザ映画なんですね。
ヤクザ映画に関して語るべきことは多くありそうで、実はあんまりありません。何故かというと、そこに出て来る人間は、結局は“ヤクザ”だからです。道を踏み外した人間が自己完結して行く――結局最後、殴り込みの後で刑務所へ行く――のを“娯楽”として見るというそのことが、私にとってはどうにも不健康なことだとしか思えないからです。言葉を変えて言えば、どうしてヤクザ映画を見ていた男は、自分の能無しぶりには目を剥けなかったのだろう?としか私には思えないからです。なんだかんだ言ったって、結局は現実を切り開かない訳でしょ?いい人を虐げる悪いヤクザを、自分が犠牲になって倒すという、ヒロイズムに酔って、酔ったまま現実から逃避して刑務所に逃げ込むわけでしょ?男がそれでいいの?と思うからです。
 「ヤクザなんか人間の屑だ」というのは、道を踏みはずしてしまった主人公の口にする決まり文句ですが、と同時に、ヤクザ映画の根本道徳は「男が立つか立たないか」ですね。“人間の屑”が男を立たせる最大の方法は、ヤクザをやめることであるという矛盾の上に初めっから乗っかっている訳ですが、このヤクザ映画というヤツで、しかしこの矛盾が解消された映画に、まずお目にかかったことはない。主人公が「俺ァ、もう、足洗ったんだ」という前提に立っていても、悪玉は決してこれを許さない。さまざまな妨害を繰り返すその結果、「俺ァもうアイツには我慢出来ねェんだ」と言っての殴り込みになるわけですが、それから終始一貫逃げようとして堅気を全うしたヤクザというのは、決して出て来ないんですね。それをやるのは、必ず善意の脇役で、この人は必ず悪いヤクザのなぶり殺しに遭って、主人公の「もう、許せねェ」の怒りの引き金を引くだけです。はっきり言って、ヤクザ映画の主人公は、善玉に「我慢出来ねェ」んではなくて、自分がつまらない堅気であり続けることに「我慢がなんねェんだ」なんですね。主人公は常に、「我慢出来ねェ!」と言って両肌脱ぎになる機会だけをジーッと待っている。「大の男がバカみたい……」という人間が一人ぐらいいてもいいとは思います。幸い、ヤクザ映画の主人公は「笑ってやっておくんなさい」と言っている訳ですから、私としても笑う訳です。「大の男が、他に問題解決の方法を見つけらんないの?」と。“話し合い”という解決の方法だってある――およそヤクザ映画の性質を全く無視したイチャモンだってしっかとつくというのは、当の主人公が「ヤクザは人間の屑だ」という矛盾した前提を、平気で受け入れているからですね。」橋本治『完本チャンバラ時代劇講座』徳間書店1986、pp.358-361. 

  橋本治『完本チャンバラ時代劇講座』が書かれたのは、1986年の刊行で今を去る33年も前であり、さらにこれが書かれた元は、1981年に『マキノ雅裕監修・浦谷年良編著・ちゃんばらグラフィティー』という本が講談社から出された中に寄稿した文章がはじまりになっていた。これは東映の創立三十周年記念で作られた映画『チャンバラグラフィティー』の単行本だった。そのときは最初の短いチャンバラ映画論だったものが、どんどん伸びてついに1400枚の原稿になったという。でも、今これを読んでみて、橋本さんがこれを書いていたあのバブルに向かう時代は、まだ東映時代劇をリアルタイムで観ていた人がたくさんいた。しかし21世紀も19年経った今は、チャンバラ時代劇というものを何も知らない人がマジョリティなのだから、今これを読むことはそのままでは意味が薄い。たんなる懐古やオマージュは消えゆく年寄りの趣味でしかない。そうではなく、東映時代劇に象徴されるあの戦争をはさんだ日本人の経験を、大衆としての「オヤジ的なるもの」の基層を彫り出す試みとして新たな意味があるかも知れないと、ぼくは思ったのだ。

 「東映という第二次世界大戦後の日本に出来た会社は、一体何でその会社の基礎を固めたのかというと、『笛吹童子』に始まるお子様向けチャンバラ映画のヒットによってでした。この北村寿夫原作によるNHKの連続放送劇(まだこれはラジオです)『新諸国物語』のシリーズ第一弾『笛吹童子』が中村錦之助主演で昭和二十九年に映画化され、これで東映という会社は一躍大会社にのし上がったのです。お子様向けのチャンバラ映画が続々と作られ、中村錦之助という前髪立ちの似合う美少年は一躍トップスターにのし上がりました。戦後出の映画スターというのは全部この中村錦之助の影響下にあると言っても過言ではありません。大映の勝新太郎や市川雷蔵が白塗りのツケマツ毛美少年をやっていたのは、だから、大映のトップスター長谷川一夫の影響ではなく、中村錦之助という美少年スターの影響なんです。勿論戦後に中村錦之助が出て来るということは戦前の長谷川一夫(林長次郎)という先例あってのことですが、しかし戦後という“太平の御世”は、中村錦之助をそんまんまアイドルとして位置づけさせたのです。
 松竹からデビューした長谷川一夫には日活マキノという対抗馬がいました。男性的チャンバラに対しての女性的チャンバラがデビュー時の長谷川一夫ですが、しかし戦後の中村錦之助にはそうしたライバルがいなかったのです。東映製のお子様向けチャンバラ映画は二本立ての添え物で、一本の上映時間が五十分前後という“短編”でした。言ってみれば、市川右太衛門・片岡千恵蔵という戦前からの映画スターを一家の長とする“子供部屋の主役”だったのです。ここにライバルはありません。あるとするなら、それは子供に対しての“大人”です。子供が大人を喰って行く、それがある意味での戦後の日本ですが、中村錦之助もそうでした。若く美しいスターが生まれてしまったから、大人も若く美しくなったのです。片岡千恵蔵や市川右太衛門が五十代という年齢であるにもかかわらず若くて独身の主人公を演じ続けていたというのは、この中村錦之助のせいです。彼が一人で、日本映画の主流を変えてしまったのです。
 昭和三十年代前半の全盛期、東映がワンパターンのチャンバラ映画を作り続けていられたのは、この要となるスターが、年をとらない本当の意味での“少年”だったからです。
 彼には何の不安もない――それはまだ彼が世の中という現実を知らないでいたから。実際には刀で人を斬ればイヤな音もするし血も出る――そのことを知らないでいられたから、彼は平気で刀を振り回し、颯爽たる活躍を示す。だから世界は明るかった。でも、その明るい世界が実は“明るい世界”という作り物だったらどうなるのか?斬れば血が出るという残酷時代劇の登場は「お前のやっていることはウソだ」という少年に対しての突きつけでしかないのです。「正義は勝つ!」という単純なる世界観は、複雑なる現実に押し潰されて見る影もない――それは1960年代から始まって今に至るも、です。男の子はヤクザにはなっても“男”にはならない。世の中に裏切られた女は、“男”になる――そしてそれはヤクザになるということだった。他のヤクザ映画の主人公達はみんな“ヤクザになってしまった主人公”でしかなかったけれども、緋牡丹お竜だけは、ヤクザ映画の世界に降り立った男(ヒーロー)だったんです。
 私ははっきり言って、お子様向けのチャンバラ映画で戦後の幕が開かれたんなら、ヤクザ映画にだってキッチリと“少年ヤクザ映画”というものがあったってよかったと思うんですね。ヤクザの家に生まれたけれどもお父さんが「お前だけはヤクザにしたくない」と言ってちゃんと中学校に入れる手筈はしておいてくれたにもかかわらず、お父さんが悪人の手にかかって殺されると中学の方では入学取り消しを言って来た。心の支えとなるお母さんはいなくて、親戚筋の親分衆はおタメゴカシを言って組を乗っ取っちゃう。もう、くやしさを噛みしめて男の子は一人旅に出て自分を磨かなければならないところに追いつめられて――というのはそのまんま、緋牡丹お竜よりも男の子にふさわしいような話です。チャンバラ映画が衰退してヤクザ映画の全盛期が来たというのは、“理想の江戸時代”がもう終って仕方なく、フィルムの中の江戸時代人は近代の夕まぐれに足を踏み込んだというのに等しい訳で、それはそのまんま“現実”というものに直面してはねのけられてしまった少年の運命に等しいようなものですからね。」橋本治『完本チャンバラ時代劇講座』徳間書店1986、pp.365-366. 

 あらためて橋本治氏の提示した問い、なぜ江戸時代が終わって50年も経った大正時代に、映画という新奇なメディアに夢をかけた人たちが、チャンバラ時代劇を作ったのか?そしてそれを見た観客が、見たこともない侍が刀を振り回すドラマに熱狂したのか?これは解くべき愉快な謎だな。



B.歴史を生きた不遇な人物
 中公文庫に収められている、明治の軍人・石光真清の手記『城下の人 一 西南戦争・日清戦争』、『曠野の花 ― 義和団事件』、『望郷の歌 ― 日露戦争』、『誰のために ― ロシア革命』という4冊の本がある。これは、日本の明治以来の近代をリアルタイムで生き抜いたある一人の男の、凄絶ともいえる記録である。こういう文章が残っていること自体、歴史をほんとうに知る重要な手がかりだと思う。

 「戦争は必要なのか 諜報に半生捧げた男の疑問:編集委員 駒野 剛 
 JR熊本駅から東へ10分ほど歩く。白川を越えてまもなく、目的地があった。入口にロープが張られ「ようこそ石光真清記念館へ」の紙。しかし、誰もいない。記念館を所有する熊本市から教えられた警備会社に連絡を取り、鍵を開けてもらった。
 木造2階建ての民家が記念館である。石光は1868(明治元)年にこの家で生まれ、76年の神風連の乱、翌年の西南戦争を体験し上京するまで過ごした。西郷軍を迎え撃つ熊本鎮台司令長官谷干城が石光の父真民をたずね、2階の書斎で熊本、鹿児島の情勢を聞いたという。民家は戦の目撃者だ。
 尚武の時代に生を受けた石光は陸軍将校となり、日清、日露戦争、そしてロシア革命後の混乱期、日米などが派兵した「シベリア出兵」に至るまで、祖国に尽くした。
 普通の軍人のように戦場で命のやりとりをするのではなく、諜報活動、つまりスパイとして敵地に入り、生業を持つ傍ら、敵の実力や配備状況など戦争の帰趨を制する秘密情報を入手することに半生を捧げた。
     ◎        ●        ◎
 ロシアに強い関心を持ったのは近衛師団の将校時代、「大津事件」に遭遇したからだ。警備の巡査が来日中のロシア皇太子に斬りつける未曽有の不祥事が起きた。日本中が震え上がる。強国の怒りを恐れた明治天皇自ら皇太子に謝罪する騒動になった。
 加えて日清戦争で得た中国・遼東半島を露独仏3国の干渉で放棄させられたことも、石光の対ロシア観を敏感にさせる。
 ロシア語を猛勉強し、留学の許可を得て、中ロ国境のロシア軍の拠点の都市で暮らし始めるが、軍による中国住民約3千人の虐殺事件を目にする。義和団事件に呼応すると疑われ起きた悲劇だ。石光は東アジアの血闘史が開幕したと受け取った。
 事件後、陸軍から旧満州地域の交通の要衝ハルビンで諜報活動を命じられ、洗濯屋や写真館を経営しながら、ロシア軍の装備や重要施設の情報を集め、その後の日露戦争で生かされることになる。
 戦後、東京都内の郵便局長を務めるが、ロシア革命が勃発、影響調査を参謀本部次長で後の首相、田中義一から命じられる。
 ロシアに戻った石光はシベリア出兵をめぐり二転三転する祖国に疑問を持ち始める。残した手記にある。「中央と第一線の間ばかりじゃない、各機関の間にさえ、出兵についての統一的な考え方が出来ておらん」「大戦のドサクサにまぎれて僅かな武力で東部シベリアの独立をはかろうなんて、そりゃ出来ることじゃない」
 「目的が達せられないことを承知で、犠牲を払うことが忠誠であろうか」「自分は与えられた責任を立派に果たした……そう考えてすむことだろうか、そんな形式主義が官界にも軍界にも浸透している」
 日本はバイカル湖畔のイルクーツクまで占領するが、結局撤退に追い込まれ富と命を浪費して終わる。野心を各国に見透かされた上、シベリア出兵の反省なく満州事変という謀略に手を染め泥沼に落ち込む。第2次大戦終盤、出兵の復讐を受けるようにソ連軍の侵攻を受け、北方領土も失った。
◎        ●        ◎ 
 「戦争でこの島を取り返すのは賛成か、反対か」「戦争をしないとどうしようもなくないか」。北方領土訪問に同伴した国会議員が、元島民に発言して衆院の糾弾決議を受けた。双方の憎悪の連鎖を増幅する戦争が、最終的な解決策にはなるわけがない。
 何より深刻に思うのが、選良の一人というだけでなく、東京大学経済学部を卒業して経済産業省の官僚まで務めたトップエリートの彼が、歴史に学ぼうとしていないことだ。過去の失敗を繰り返さないためには、歴史に謙虚に向き合わねばなるまい。
 諜報活動で、石光が得た富や名誉はほとんどなく逆に多くの借財に苦しんだ。1942(昭和17)年、亡国に向かう祖国を見ながら波乱の一生を終えた。記念館を訪ねる人は年に10件あるかどうか、だという。」朝日新聞2019年6月26日朝刊、13面オピニオン欄、多事奏論。

 明治維新によって東洋の島国に創られた日本という国家が、その後の西洋を追いかける近代化を達成し、植民地まで持つ強国に成り上がったあげく、無謀な戦争に突入し悲惨で惨めな敗北を喫したという歴史の事実を、ぼくたちは見たくない汚点のように無視している。その敗北を導いたのは、独善的な日本帝国陸軍・海軍の軍人たちだったということになっているが、その軍人たちの中にこそ、この祖国のために粉骨精神働き、その祖国の危機を憂え、冷静に理性的に未来を見通したが故に、結局名誉とも称賛とも無縁だった不遇な生涯を送った人がいた、ということを忘れたくないと思う。
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1950年代チャンバラ時代劇考 10 机龍之介のヘン? 沖縄74年慰霊。

2019-06-25 04:23:43 | 日記
A.大衆小説と時代劇チャンバラ・・大菩薩峠
 『大菩薩峠』という長~い小説があって、主人公は音無しの構えという技を使う剣豪で、新選組とか天誅組とかが出て来るから幕末の話らしい、という程度の知識は持っていた。片岡千恵蔵がその机龍之介を演じた映画があり、それは観ていなかったが、市川雷蔵が机龍之介で若い中村玉緒が相手役を演じていた『大菩薩峠』は一度観ていたから、着流しで月代を剃っていないニヒルな浪人の机龍之介は、ああこれは眠狂四郎じゃないかと、ぼくは思った。でも、ぼくの知識は決定的に間違っていて、戦後の大衆小説の主人公、眠狂四郎は元祖中里介山が創作した机龍之介の後追いコピーだったのだ。1950年代東映時代劇のどこまでも明るい勧善懲悪の単純さに引き較べて、『大菩薩峠』の机龍之介という狂気の男は、実は主人公かどうかも怪しい病人だということを、橋本治の『完本チャンバラ時代劇講座』をちゃんと読むまで知らなかったのである。それは大衆小説でもなければ、チャンバラ娯楽を売りにした剣豪ヒーローでもない。それが登場したのは、明治が終わった大正二年だったということが重要なのだ。

 「中里介山の『大菩薩峠』が大衆小説だと思われるのには幾つか理由があります。一つは、それが大衆小説=新講談が生まれる年に登場したこと。次にその文体が分りやすく、中里介山が読者に向かって”頭を下げていた”こと。次に『大菩薩峠』が“チャンバラのある小説”だったことです。何故か日本では“チャンバラのある小説”は全部大衆小説にされてしまうので、“チャンバラがあればもう普通の小説ではない”というその前提は、正に“チャンバラ映画の本”である本書の狙う領域とピッタリと重なる――従ってこの本には余分な説明が多い(多すぎる)という訳です。
 大正二年に『大菩薩峠』が始まる前の日、その掲載紙である『都新聞』には次のような広告が出ました――“大菩薩峠は甲州裏街道第一の難所也。徳川の世の末、ここに雲起こりて風雲関八州におよびぬ。剣法の争ひより、兄の仇を報いんとする弟、数奇の運命に弄ばるる少女。殊に一度に五十里を飛ぶ凶賊の身の上甚だ奇なり。記者は古老に聞ける事実を辿りて、読者の前にこの物語を伝へんとす”

 全く大衆小説というのはこういうものだと言わぬばかりの公告ですが、しかしこの年にまだ大衆小説というのは出来ていない、あるいは出来たか出来ないかというような時期ですから、これが大衆小説の典型(ステロタイプ)という訳ではありません。大衆小説の方が、この宣伝文の指し示す方に傾いていったのだというのが本当でしょうね。そして、こうもあっさり類型的に書かれている以上、この宣伝文が何かの型にはまったものであることだけは確かですが、その“型”とは何かと言ったら勿論“実録読物”であるというのはちゃんとこの宣伝文に“古老に聞ける事実を”とあることで、正に明らかであるというのが、日本には大変な時代もあったもんだな、というところでしょう。『鉄仮面』という小説が”正史・実歴”なら、『大菩薩峠』だってそうだって言ってるんです。別に馬琴のせいでもないでしょうが、ここら辺まで“馬琴の呪い”は生きているというようなもんですね
 大体、文庫本にして二十巻(しかも未完)、舞台は“甲州裏街道第一の難所”大菩薩峠から果ては遠く南方海上の小島に至り、登場人物大勢、しかも主役なしという一種の無焦点ドラマを知っている“古老”などというものが存在する訳はない。『古事記』の語り部・稗田阿礼がこんなことを聞かされたら己の記憶力というものに自信を失ってしまうでしょうが、結局のところ“嘘”というものを受け入れる土壌が日本にはなかったんですね。だから“事実”として謳わなければならない。“事実”ということを前提にすれば、いくらでも想像力を働かせることが出来るという大前提があったればこそ、こういう惹句は出て来るんですね。
 「これは事実である」ということを前提にして物語を享受する――これは存外古いというよりも、人間にとっての物語とはそもそもそういうものであったというのは“神話”という人類最初の物語を頭に置けば分るでしょう。神は実在したし神話も事実であったればこそ、神話という物語は成立したのです。そして、物語が“事実である”—―“これはかつて存在した事実である”という前提によって人間たちに受け入れられるということは、実際の自分の狭い現実生活の枠を超えて確かに存在している、実在していた“可能性”というものがある。自分とは異質な事件の起こりうる可能性というものを前にして、人はそれを恐れたり感動していた、というのが“物語の真実”でしょう。そして、このことから次のことが出ます。AがBなら、BがAであってもいいという、逆転の発想です。
 事実として、自分の現実の外側に別種の可能性があるのなら、それを提示するのが物語であるのなら、それを逆転させた形――即ち、自分の見たい可能性を物語として存在させる、そしてそのことによって自分の側から可能性を外に向かって開いていく、ということです。「どうも、遠い世界には別種の可能性というものがあるらしい……」と、外側から自分の内部に届いてくるものをぼんやり受け入れる受け身の体勢から、「自分の中にはこういう可能性がある!」という形で外へ向けて開いて行く能動態への逆転です。この逆転こそが“個人”というものがすべての中心に据えられる“近代の誕生”なんですが、それで行くと、大正二年の『大菩薩峠』連載開始の前日まで、日本の(少なくとも『都新聞』という舞台の上には)ということです。近代というものは生まれていなかったということになります。そして勿論、作者の中里介山だとて、「これは事実ではありません」などということを作中で口にしている訳ではないので、そこに近代が始まっているかどうか、検討しようとしない人間には一向に分らないし関係がないということなのです。
 という訳で『大菩薩峠』は始まります。前日の広告と次の日の第一回の文章を比べれば、中里介山の姿勢というものは明らかです。“記者は古老に聞ける事実を辿りて、読者の前にこの物語を伝えんとす”の次の日の文章は、“大菩薩峠は上り三里、下り三里、領分は甲斐の国に属して居りますれど、事実は武蔵と甲斐との分水嶺になります”—―中里介山は、三遊亭円朝や講談師と同じように、明らかに、お客さんに対して頭を下げているんですね。
 “これは事実である”ということを前提とする、新聞の実録読物という極めて近世的な世界の延長線で始められた。高座で客に対して頭を下げる寄席芸人の語り口で始められた。そしてその内容は近世の読本、歌舞伎とおんなじようにチャンバラのある物語である。この三点をもって、中里介山の『大菩薩峠』は軽く見られた。大衆小説だと思われた、という訳です。大衆小説というのは、その三点を踏まえて始められたものですから。
 それではさて、中里介山の『大菩薩峠』がとても大衆小説如きものと一緒くたにされるようなものではないという話はなぜかと言いますと、この『大菩薩峠』には“人間”が描かれているからです。
 この話にはもちろん異論というものがありましょう。「大衆小説にだって人間の描かれているものはある」「いやしくも“小説”と銘打たれたもので人間の描かれていないものなどある筈がない」とか。
 しかしところで違うというのは、“人間”というのは存外恐ろしいものである、ということです。紫式部が地獄に落ちたという伝説があるのを御存知でしょうか?能の『源氏供養』というのは、紫式部が『源氏物語』を書き、狂言綺語(即ち“嘘”)を弄して人心を迷わせたが為に成仏出来ないでいる――だからそれを供養してほしいと言って、紫式部の霊が現れる話です。
 上田秋成の『雨月物語』の序文というのは“羅子(らし)ハ水滸(すいこ)ヲ撰シテ、而(しこう)して三世唖児(あじ)ヲ生ミ、紫媛(しえん)ハ源語(げんご)ヲ著(あらわ)シテ、而(しこう)シテ、一旦悪(あく)趣(しゅ)ニ堕スルハ、蓋(けだ)シ業ヲ為スコトノ逼(せま)ル所耳(のみ)”で始まります。要するに、“羅子(羅貫中)は『水滸伝』を書いたが為に、その後三代にわたって唖の子供が生まれた、紫媛(紫式部)は源語(源氏物語)を書いて地獄に堕ちた、すべてはその仕事の報いである”ということです。皮肉屋上田秋成は、その後に続けて“私のこの先始まる作品はそう大したものじゃないからそんな祟りはないだろうが”という風にして、『雨月物語』を始めるわけです。
 嘘をつくと祟るのではなく、嘘をつくことによって読者を感動させたら、それは地獄行きだ、ということです。上田秋成が『雨月物語』を書いた頃、まだ滝沢馬琴は『南総里見八犬伝』を書き始めてはいませんから目も潰れてはいない訳ですが、これで『雨月物語』の出版がもっと後だったら、必ずや上田秋成は“羅子・紫媛”に続けて“曲亭”という馬琴の号をここに入れたであろうなァということは明白ですね。個人的に物語を作るということは、そういうことでもあったのです。
 「自分の中にはこういう可能性がある!」で、外へ向けて“物語”なるものを出して来ても、その“内から出て来るようなもの”というのは、それまで内にしまわれていなければならなかったという故をもって、実のところ“あってはならないもの”なのです。それ故にそれは“可能性”という形でつかまえられるしかない訳ですが、ここら辺のジレンマは、厳格な世界の中でロマンチックな夢を見たけれども、その自分は厳格に侵されていて到底ロマンチックになり切ることは出来なかったという、武士出身の戯作者。滝沢馬琴のジレンマと似ています。というより、おんなじです。
 世界はその現状をこのまんまでよしとしている――実際していなくても、世の中がなかなかすんなりといい方向へ動いて行けないのは、根本のところで「よく分んないから、このまんまでよしとする他はないな」と、世の中が思っているからです。だから世の中は、「そういう事実もよその時代、よその場所にありましたよ」という“事実”でしか物語を受け容れられないのです(根本のところで)。ところが、世の中は総体としてはそうであっても、世の中に住む個々人というのはまた違って色々です。うっかり世の中に出現してしまった“物語”という人間ドラマを、うっかりと読んでしまって、うっかりと感動してしまうことだってある。
“感動”という言葉を使うと何か美しいことのような気もしますが、しかしこれは実際、心に揺さぶりをかけられることなんです。実際には身動きできないでいる状態の人間の心に、いきなり得体の知れない揺さぶりをかけられると、人は感動というものをします。その先が“美しい夢を見る”になるも、“うっかり自身の暗い深淵を見てしまう”になるも、実はおんなじ結果です。感情というものを置き去りにして夢なんか見ないという人が、実は現実の中で静かに機能的であるというのが“実直な人”であるというのも、よくしたもんだなァ、というようなところです。
 内側にだけ揺さぶりをかけられて、外側はそのまんまなんだから、感動というものは必ず、それを覚えた人間に緊張関係をもたらし、揺がし、きしませます。即ち“惑わされる”のです。どうにもならない世の中で、どうにもならないままでいる人間を平気で惑わせたら、それは罪です。だから、その作者は地獄に堕ちるぐらいの罰を受けてもいいんだというのが実は、人間と、その人間の作っている“世の中”というものの根本的な関係というものです。人間というのは、それぐらいこわいのです。こわいことを経験させてしまうようなものこそが、“可能性”という形でしか位置づけられないような何かなのです。
 という訳で、『大菩薩峠』です。
 中里介山の『大菩薩峠』で“人間が描かれている”というのは、この埋もれさせられたままになっている人間のある部分が丸ごと描かれているからです。その“埋もれさせられたままになっている人間のある部分”のことを、とりあえず“人間のする理不尽な行為”ということにします。人間はやはり、“理不尽なこと”をするのです。そして、ここで重要なのは、よく考えていただければわかるのですが、“理不尽な行為”というものには理由がないのです。理由もなくそういうことをやってしまうから、それは“理不尽な行為”と呼ばれるのです。
人間は理不尽な行為をする。そしてそれに理由がない――そこまで描かなければ人間を描いたことにはなりません。そのように、人間というものは“訳の分らないもの”で、それ故にこそ、訳の分からない部分を持った人間は“魅力的”なのです。ある人間が“魅力的”であるということは、その人間のその”魅力的”であるような部分が、平気で説明を拒んでいられるからです。人間というものはそういうものです。“自由である”ということが最も魅力的であるというのは、そういうことですね。“理不尽な行為”というものは、いつだって魅力的なのです――というと、異論のある方もいらっしゃいましょうが、しかしそれは間違いですというのは、“迷惑な理不尽さ”というものをここに持って来られるからです。
“理不尽な行為”には理由がありません。それは平気で、理由を説明されることを拒んでいるからです。ところで、これとは違った“迷惑な行為”というものは、説明されたらおしまいなんです。それを「理不尽である」と他人に指摘されたら、それを指摘した他人の中には「それを理不尽として指摘する理由」というものがあるということです。“説明された理不尽”というものは、それは“理不尽な行為”ではなく、“平気で理不尽を演じるわがままな行為”ということになるんです。たとえば、赤穂浪士の討入りに追いてきぼりを喰った『赤穂浪士』の青年・堀田隼人は、最後に辻斬りをはたらきます。既にこの一行で“堀田隼人の理不尽”は説明されてしまいましたが、『赤穂浪士』の作者に大佛次郎だって、ちゃんと“説明”をしているんです。

“(叩き潰せ!)とどこかで荒々しく叫ぶ声がきこえる。—―中略――毀したいのである。ひっ裂きたいのである。どれも叩き潰したいのである。”

堀田隼人には分っていて、そしてそれを他人に対してごまかしているだけですね。

堀田隼人は最後、盟友蜘蛛の陣十郎に対して、そうとは知らず斬ってかかる。それをかわした蜘蛛の陣十郎は「なんになります。こんなことが?」と言う。既にして、彼がわがままであることはバレている訳ですね。

“「なんになります。こんなことが?」
 隼人の手にある刀身が白く光った。雨の中を獣物のように躍り込んで来た。その腕を、甚十郎は抱き込んでいた。
陣十郎の目には怒りが燃えていた。
「気違え……だなあ。無駄じゃありませんか?……気の毒なおひとだ。もうお目にかかりませんぜ。私ァ旅に出ます。ちょいと躯がいそがしくなってね”

 バレて見透かされて哀れまれている。そういう”わがままな人間の可哀相さ”で終わるのが『赤穂浪士』なのであって、別に“理不尽さ”が書かれている訳ではない。
 日本の小説というのは全部説明をしますから、理不尽な行為が“理不尽”にはならない。説明することによって底が浅くなってしまうということに、なかなか人間というのは気づけないものです――という訳で、人間はなかなか“わがままである自分の若さ”に気がつかない。という訳で、近代というものは、知らない間に“青年止まり”になっていることに“説明”の雲が幾重も垂れこめて、視界不良の現在へ至る訳です。
“若い人間”だって人間だけれども、その人間の“若い”という部分だけを執拗に説明していたら、“若い人間”はそれで慰められるだろうけれども、そこから先が見えなくなる。“若い人間の若さを描く”のと“若い人間を描く”ということは、似ていて自ずと違うのですね
というところでこの中里介山作『大菩薩峠』の青年、机龍之介(年は“三十の前後”ということになっております)。私は何かというと“大菩薩峠の頂上で老巡礼が斬られる発端”という持ち出し方を、この『大菩薩峠』に関しては今迄にして来ましたが、しかし一体、この大長編の発端である大菩薩峠の頂上で、どうしてこの老巡礼は机龍之介に斬られなければならないのか?どうして机龍之介はこれを斬るのか?なんと、その理由はこの大長編のどこにも書かれてはいないのです。」橋本治『完本チャンバラ時代劇講座』徳間書店1986、pp.299-303.

 おお!この大長編の冒頭でいきなり起こる無垢の老巡礼を切り殺す龍之介の理不尽は、その動機も背景もなにも説明されないで、話は先へ進んでしまうのだ。でも、それを「大乗的深淵なる境地」などではなく、要するに剣の道を究めることを生まれつき強いられた男が、できればもう降りたい、もっと気楽で優雅な人生に移行したいというお坊ちゃんのワガママを持て余して、とにかく刀はほんとうに人が斬れるのか、斬ってみなければ始まらないという無茶苦茶な論理に突き進む虚構だったのだ。そのことによって、心の病を救い難く極めてしまう哀れな男を、チャンバラ時代劇はどうして孤高のヒーローに祭り上げ、オヤジたちは机龍之介をわれらがヒーローと勝手に誤解したのか?それがチャンバラ時代劇のひとつの決定的な焦点なのだ。



B.沖縄という中心
 1945年の初夏、沖縄本島は米軍の猛攻のなかで絶望的な戦いを強いられていた。それは何のためだったのか、といえば、元首天皇のいる日本本土での最終決戦のための時間稼ぎ、として日本軍はできるだけ抵抗を長引かせるために沖縄の住民非戦闘員を巻き込んで死へと追いやった。沖縄の苦難はそれだけではなく、戦後も米軍の占領統治下で、土地を奪われ命を危険に晒された。そのことを今、ウチナーンチュはこのように声を上げているのだが、本土の日本人たちはその痛みを共有するだけの知性も余裕もない。どころか、従属的な日米安保体制こそ、日本が生きる唯一の道だと信じる首相が、この慰霊の宣言をそこで聴いていた。

 「戦後74年 沖縄慰霊の日 沖縄県知事の平和宣言(全文)
 戦火の嵐吹きすさび、灰じんに帰した「わした島ウチナー」。
 県民は想像を絶する極限状況の中で、戦争の不条理と残酷さを身をもって体験しました。
 あれから七十四年。忌まわしい記憶に心を閉ざした戦争体験者の重い口から、後世に伝えようと語り継がれる証言などに触れるたび、人間が人間でなくなる戦争は、二度と起こしてはならないと、決意を新たにするのです。
 戦後の廃墟と混乱を取り戻すべく米軍占領下を生き抜いた私たちウチナーンチュ。その涙と汗で得たものが、社会を支え希望の世紀を開く逞しい営みをつないできました。
 現在、沖縄は、県民ならびに多くの関係者のご尽力により、一歩一歩着実に発展を遂げつつあります。
しかし、沖縄県には、戦後七十四年が経過してもなお、日本の国土面積の約0.6%に、約70.3%の米軍専用施設が集中しています。広大な米軍基地は、今や沖縄の発展可能性をフリーズさせていると言わざるを得ません。
復帰から四十七年の間、県民は、絶え間なく続いている米軍基地に起因する事件・事故、騒音などの環境問題など過重な基地負担による生命の不安を強いられています。今年四月には、在沖海兵隊所属の米海軍兵による哀しく痛ましい事件が発生しました。
県民の願いである米軍基地の整理縮小を図るとともに県民生活に大きな影響を及ぼしている日米地位協定の見直しは、日米両政府が責任を持って対処すべき重要な課題です。
国民の皆さまには、米軍基地の問題は、沖縄だけの問題ではなく、わが国の外交や安全保障、人権、環境保護など日本国民全体が自ら当事者であるとの認識を持っていただきたいと願っています。
わが県においては、日米地位協定の見直し及び基地の整理縮小が問われた一九九六年の県民投票から二十三年を経過して、今年二月、辺野古埋め立ての賛否を問う県民投票が実施されました。
それにもかかわらず、県民投票の結果を無視して工事を強行する政府の対応は、民主主義の正当な手続きを経て導き出された民意を尊重せず、なおかつ地方自治をもないがしろにするものであります。
政府におかれては、沖縄県民の大多数の民意に寄り添い、辺野古が唯一との固定観念にとらわれず、沖縄県との対話による解決を強く要望いたします。
私たちは、普天間飛行場の一日も早い危険性の除去と、辺野古移設断念を強く求め、県民の皆さま、県外、国外の皆さまと民主主義の尊厳を大切にする思いを共有し、対話によってこの問題を解決してまいります。
時代が「平成」から「令和」へと移り変わる中、世界に目を向けると、依然として、民族や宗教の対立などから、地域紛争やテロの脅威にさらされている国や地域があります。
貧困、難民、飢餓、地球規模の環境問題など、生命と人間の基本的人権を脅かす多くの課題が存在しています。
他方、朝鮮半島を巡っては、南北の首脳会談や米朝首脳会議による問題解決へのプロセスなど、対話による平和構築の動きもみられます。
真の恒久平和を実現するためには、世界の人々がさらに相互理解に努め、一層協力・調和していかなければなりません。
沖縄は、かつてアジアの国々との友好的な交流や交易をうたう「万国津梁」の精神に基づき、洗練された文化を築いた琉球王国時代の歴史を有しています。
平和を愛する「守礼の邦」として、独特の文化とアイデンティティーを連綿と育んできました。
私たちは、先人から脈々と受け継いだ、人を大切にする琉球文化を礎に、平和を希求する沖縄のチムグクルを世界に発信するとともに、平和の大切さを正しく次世代に伝えていくことで、一層、国際社会とともに恒久平和の実現に貢献する役割を果たしてまいります。
本日、慰霊の日に当たり、国籍や人種の別なく、犠牲になられた全てのみ霊に心から哀悼の誠をささげるとともに、全ての人の尊厳を守り誰一人取り残すことのない多様性と寛容性にあふれる平和な社会を実現するため、全身全霊で取り組んでいく決意をここに宣言します。
御元祖(うぐわんす)から譲(ゆじ)り受(う)きてぃ、太平(てーふぃ)(平和)世願(ゆーにげー)い愛(かな)さしっちゃる肝心(ちむぐくる)、肝(ちむ)清(ちゅら)さる沖縄人(うちなーんちゅ)ぬ精神(たまし)や子孫(くゎんまが)んかい受(う)き取(とぅ)らさねーないびらん。
幾世(いちぬゆー)までぃん悲惨(あわりくり)さる戦争(いくさ)ぬねーらん、心安(くくるや)しく暮(く)らさりーる世界(しけー)んでぃし、皆(んな)さーに構築(ちゅくてぃ)いかんとーないびらん。
わした沖縄(うちなー)御万人(うまんちゅ)と共(とぅむ)に努(ちとぅ)み尽(ち)くち行(い)ちゅる思(うむ)いやいびーん。
令和元年六月二十三日 沖縄県知事 玉城デニー 」東京新聞2019年6月24日朝刊21名特報欄。

 沖縄戦当時、徹底抗戦の要員として組織された沖縄の青少年組織『鉄血勤皇隊』は、日本軍沖縄守備隊とともに対米戦闘に加わり若い命を散らした。ぼくは、アルゼンチンでその「勤皇隊」にいた記憶を持つ人に会って、安倍晋三という人には大いに期待したのにどうしてあっさり内閣を投げ出したのかと聞かれて、さあ、体調が悪かったみたいですよ、としか答えられなかった。そして復活した第2次安倍晋三内閣は、日米安保を金科玉条に沖縄の米軍基地問題を均すために、辺野古の海への基地拡張をやめる気配はない。どっちに義があり、心があるのか?
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1950年代チャンバラ時代劇考 9 敗戦後論のこと

2019-06-22 16:51:12 | 日記
A.東映の青、大映の黒
 絵は色彩なしでも黒い鉛筆だけで描ける。それを刷毛や指先でぼかすと、灰色になり濃度の差をつけて立体感も出せる。写真も映画も、最初はモノクロだった。フィルムの焼付け加減で、全体が暗くなったり明るくなったりもする。キャメラ撮影も照明もセット美術も、色のない時代は陰翳の印象を考えて俳優も演技していた。音声が入るトーキー時代も、画像はモノクロ映画でドラマが演じられた。人々は映画とはそういうものだと思い、色彩がなくても映画はじゅうぶん複雑な表現はできていた。それが、アメリカでまずカラー映画が登場し(1935年『虚栄の市』が第1作、テニクカラー版)、やがて戦後の日本でもカラー映画(第1作は1951年、木下恵介監督『カルメン故郷に帰る』、総天然色映画と呼んだ)が作られ、またたく間に映画はカラーが当り前の時代が来た。東映のチャンバラ時代劇も、一気にカラフルになり早乙女主水之介の豪華絢爛な衣装は輝いた。
 しかし、むやみに派手なカラフルに塗りたくると、画面は安っぽい絵本か漫画になってしまう。よく東映の夜空はどこまでも青く、大映のそれは陰翳を秘めた黒だと言われた。たしかに同じ時代劇でも東映のカラフルな明るさは平面的で、大映の画面はかならず影と奥行きがあるように感じられた。チャンバラ映画ならそれで結構だが、まじめなリアリズムを狙う「社会派」やドキュメンタリー映画は、予算の節約もあり、なかなかカラー映画に移行しなかった。

 「日本映画がカラー時代に突入しても巨匠連中がなかなか色彩の世界へと参入して来なかった、頑なに白黒の世界を守っていた(残酷時代劇が白黒であったことを思い出していただきたいと思います)のは、白黒映画が光と影の対照によって出来ていて、カラー映画は満遍なく生き渡った色彩がこのコントラストを消してしまう――ドラマの中心を曖昧にしてただの絵物語、紙芝居にしてしまうという危惧があったからなんですね。
 そのことで一番特徴的なのは、日本で最初に大型カラーを導入したのが東映であることです。東映の時代劇というものには、何も言われなくとも「あ、それは東映だ!」と言わせてしまうようなものがあります。「画面が如何にも東映だ」というようなその特徴は何かというと、これは明からさまにも紙芝居であるような、奥行きのなさです。もっと正確に言えば、紙芝居ではなく、陰影を無視した日本映画、輪郭のくっきりした“形(フォルム)で認識する浮世絵”の世界ということになりましょう。
 日本映画の全盛期というのは映画会社に金が余っていましたから、なんでもかんでもセットを作ってしまいました。武家屋敷、町家は言うに及ばず“山の中”までスタジオ内に作ってしまいます。東映の場合は“東映城”というお城まで、スタジオの敷地内に建ててしまいましたが、なんでそんなことをするのかというと、何遍も使うものだったらいっそ作ってしまった方が安上がりだということもありますが、それと同じように重要なのはカメラアングルの確保です。映画撮影用に作られたスタジオというものは、なにしろその為に作られたものですから、よきカメラアングルを確保するための足場のよさというものはロケ地の比ではありません。安定した画面を得るためにはセット撮影が一番なのです—―ということは、裏を返せば、セット撮影というのは“安定した”と称されるような決まりきったアングルからしか撮影ができない、必ず破綻のない世界しか作らない(作れない)ということです。
 すべてが最も安定した視点から捉えられる――これは、初めっからマンネリズムを肯定しているということですね。東映というのは戦後にできた新しい会社ですが、片岡千恵蔵、市川右太衛門、月形龍之介、大友柳太朗、そして大河内伝次郎と揃ったところを見れば明らかなように、それは戦前の日活→マキノ→日活→大映と続く、チャンバラ映画の正統を受け継ぐものです。そして、ここが正にその伝統を受け継いでいたというのは、十年一日の勧善懲悪――すべてが”正義は勝って晴れやかに笑う”というワンパターンで貫かれていたことでも分ります。既にして、時代劇のパターンは出来上がっていたのです。「もう時代劇はそれだけでいい!」というという、娯楽の本質だけを作り続けていたわけですから、視点が安定しているというのは当り前なんです。”既に物語は決っている”という前提があれば、“その物語を眺める視点も決まっている”ということは自動的に出て来ます。後は、その場その場の枝葉のアレンジである、と。それが職人芸を生むんですね。
 東映のチャンバラ映画には“極端な視点”というものが出て来ません。アップなら、襟元から頭の先がちょっと切れるくらい。もう少しカメラを引くと、いわゆる”バスト・アップ”と呼ばれる胸元から上、更にカメラを引いてロングになっても、座っていれば全身が入るけれども、立っていれば膝から下が切れてカメラに入らないという具合にカメラの位置は極めて“お芝居的”“紙芝居的”な安定を保っています。たとえばこれを松竹の時代劇と比べてみます。松竹というのはご承知のように歌舞伎の本家ですから、江戸時代の芝居小屋というは映画にもよく出て来ます。勿論これは東映のチャンバラ映画にも出て来ますが、明らかに違うというのは、その本家松竹の“本物志向”です。
 東映に出てくる芝居小屋は、これはもう安定した視点ですから、揺るぎません。左から右へと、カメラが水平に移動すればそれで「ああ、芝居小屋か」ということは分ります。“左から右”(あるいは“右”から“左”)という横の視線の移動は、人間の物を見る目にとって最も自然なものですから、このカメラの移動(“パン”と呼びます)があれば、「ああ、なるほど、これは芝居小屋だなァ」と納得が出来ます。これはある意味で、作られた背景セットが芝居の”書き割り”と同じだということです。ところで、松竹がこれと違うというのは、芝居小屋だったら必ず、二階桟敷・三階桟敷という客席の上の方から全体を見渡したシーンというのが登場するというところです。
 東映は「なるほど芝居小屋だなァ・・・」ということが分かればいいけれども、一方の松竹は「この際だから当時の芝居小屋の全貌をお目にかけます」という本物志向だということ、お判りいただけましたでしょうか?目の動きでいけば“左右”という横の動きだけではなく、前後であったり上下であったりする、奥行きとか高さを探る視点というものもあります。そして現実の風景というのは、全部この上下、左右、前後という三次元で取り仕切られている訳ですからそう簡単には平面的になりません。東映のチャンバラ映画というのは、「チャンと立体的なセットを組んだんだから、あとはもう平面的でもかまわない」と言わぬばかりに、横の動き専門です。すべての装置が、シネマスコープの横長の天地に沿って、必ず平行に組み上がっている――そのことを映画設定の基本にするのが東映です。敢えて奥行きを消してしまう――そのことによって画面を、浮世絵の持つ単純明快なる平面構成に置き換えてしまう、と言いましょうか。
 ところで一方、松竹はそうではありません。松竹ばかりでなく、東宝も大映もそうですが、現実には奥行きと立体感がある、とばかりに、斜めの線が必ず出て来ます。たとえば、東映が“東海道の松並木”をスクリーンに映し出す時は、シネマスコープの画面に横一列であるなら、よその映画は必ず、遠近法を生かして、右手前から左奥へというように斜めに見せる、というようなものです。東映が人物主体であるなら、よそは風景主体(したがってロケも多い)だから、超ロングもあるし、人間が歩いていれば、必ず頭の先から爪先まで画面に入るというようなものなのです。東映が意図的にお芝居であるのなら、よそは平気で現実です。映画的ということで言えばよその映画会社の方が映画的ですが、チャンバラ映画的、時代劇的ということでいえば、人物にカメラを絞り込んでいく東映の方がズッと本物です。“旧態依然の様式美”を脱することが映画的であるなら、東映は映画という現代芸術を態々平面的にして様式的にしてしまった、ということが言えます。しかし、残念ながら様式美というのがいかに大きい何かというと、実は今まで東映チャンバラで言ってきたことが全部、黒澤時代劇にもあてはまる、ということもあるからなんです。
 完璧主義者・黒澤明は、チャチなオープンセットでは我慢出来ずに、本物を再現してしまう。建物の古びを出す為に一遍木材を火で焦がすとか、砂埃をビュービューまき散らすとか色々やっています――そういう意味では、セットも出演者同様の本物性=ノン・スター性を要求されているんですが――しかし、そうして出来上がった本物をフィルムの中に収める時にどのようにするか?意外や意外、黒澤映画のカメラの視点は、非常に安定したいつも通りの東映チャンバラ映画のカメラアングルと同じなんです。
 黒澤明の映画は東映のチャンバラ映画と同じように、一目見れば「あ、クロサワだ」と分るように力感のこもった画面ですが、実はこれ、本物を最も安定した視点から捉えてそれを様式的に再構成しているという点で、極めて東映映画的なんですね。
 『椿三十郎』の冒頭、古い神社のお堂に集まった九人の若侍達が大目付の手の者に取り囲まれ、それを三船三十郎が奇計を用いて追い払った後のこと。横長画面の右端に座って三船三十郎が無精髭を撫でていると、その後ろには加山雄三を中心にした九人の若侍が右から左へきれいに一列に並んで手をついている。横一文字の、全く様式的な構図ですね。そして「これからお前達どうする?待てよ、今の話だと城代家老が危い」と椿三十郎が次のドラマ展開を暗示すると、座って手をついていた若侍がパッと一勢に立ち上る――その立ち上がり方というのが、中央に腰を下ろした加山雄三はそのまんまで、その後ろに一人が立ち、その両横に二人が立ちという具合に、九人が一団となって、“富士山の構図”を作る。中央が立って両端が膝をついたままならそうなるのは当然ですが、リアリスト黒澤明というのは、実に様式的な人でもある、ということです。
 (中略)
 そして、このところで大映が出て来ます。大映というのは、カメラ位置は松竹と東映の中間やや松竹よりというところでしょうが、ここが違うのは、色に奥行きがある、というところです。たとえば、東映の夜が“青い”なら大映の夜は“暗い”という、そういう違いです。
 映画のセットというものは、(野外の)オープンセットでなければ、みんな屋根のあるスタジオの内部に組まれます。という訳で、本来なら頭のテッペンから降り注いでいる陽の光というものはセットの中には存在せず、代わりに強いライトの光というものが当ります。昔のカラー映画というのは、実に膨大な量の光というものを撮影に当って必要としたので、スタジオの天井にはライトが沢山ブラ下がっていたのですが、しかし自然の力というものは偉大なもので、太陽光線と同様の光を用意するというのは大変なことでした。という訳でどうなるのかというと、室内のセット撮影は、あまりにも満遍なく光が当りすぎて、カーッと照りつける太陽の光が作り出す“影”というものを消してしまうのです。同じ映画の中で、人工照明によるセット撮影部分と、太陽光線による野外撮影部分を見分けるのは簡単です。太陽光線の方はくっきりと自然に影を作っているのに対して、人口光線の方はそれが妙に力なげなんです。あまりにもその野外の強力な太陽光線によるクッキリとした影が自然なので見落としがちですが、それは注意してみればよく分ります。人工照明で影を作れば暗くなりすぎて目がチラチラするのにもかかわらず、太陽光線による影はあまりにも自然だから目にとまらない――でも注意すると、室内セットで撮影された部分は妙にぼんやりとして影がない。カラーだと室内、野外の差があまりにもくっきりと歴然であるが為に、巨匠連中は長らく白黒で映画を撮り続けたという一面もある筈です。
 さて、そこで東映と大映ですが、どう違うのかというと、今度は重箱の隅ではなく、部屋の隅、障子の隅です。東映のチャンバラ映画の画面がどこかノッペリして一目瞭然“東映”であるというのは、実にその障子の紙の貼り方です。もう、この東映の障子は、昨日貼り換えましたと言わぬばかりに真っ白です。そして、その神の質感までわかるような、どこか不透明な白さです。
 たとえば、昼間室内で障子を締め切っていたら、外光を受けて障子の白い紙は透き通るような輝きを見せます。障子の裏から光が当たるからですね。だから、障子の紙の質感なんていうものは、この時飛んでなくなってしまう筈です。言ってみれば、大映の時代劇は、障子の裏から光を当てて光の質感を出す世界、一方の東映は、障子の表からうっすらと光を当てて障子紙の真新しい質感を出す世界という、そんな差です。
 東映の時代劇の室内は、隅々まで隈なく一様に明るい。一方、大映の時代劇は光の当たらない影が出来る、と。東映の夜は青くて、大映の夜が暗いというのはこんなところです。面倒臭いことを一々言っていてもしょうがないので結論を言ってしまいますと、東映は時代劇を時代劇として撮っていたけれども、大映は時代劇を現代の映画会社が作る時代劇として撮っていた、ということです。“映像的な深み”とはそのことを指します。」橋本治『完本チャンバラ時代劇講座』徳間書店1986、pp.258-262.

 大映の時代劇が、二大看板の市川雷蔵の「眠狂四郎」シリーズと勝新太郎の「座頭市」シリーズで、活気を呈するのは1960年代なかば、東映のチャンバラ時代劇の全盛期より少し遅く、そのせいもあり単純な勧善懲悪も日本晴れの明るさも影を潜めて、主人公はニヒルに暗い。この時代劇の主人公論はぼくも考えてみたら面白いので次回。



B.なにが「ねじれて」いたのか?
 今年亡くなった文芸評論家・加藤典洋氏は、ぼくと同じ大学に所属する教員だったので、大学で何度かみかけたが直接話を交わしたことはなかった。もちろんその著書はほとんど読んでいた。彼は自分の肩書を「文芸評論家」としか書かず、早稲田に移ってからは「早稲田大学教授」と書くようになった(これは同じく早稲田に移った文芸評論家竹田清嗣氏も同様)のは、ちょっと笑ったが、話題になった『敗戦後論』は、出た時に読んで、なるほどと思うと同時にこれもちょっと違和感を覚えた。彼の言う「ねじれ」とは、どういうことか?

 「戦後日本の「ねじれ」論 彼の問い 再び向き合う時:月刊安心新聞 神里達博 
 先月半ば、文芸評論家の加藤典洋氏が亡くなった。彼の代表的な仕事といえば、やはり1995年、雑誌「群像」に連載された「敗戦後論」と、それに引き続く論考群であろう。
 彼の議論は、当初から論壇において強い反応を惹起し、左右両方から攻撃されるという、特異な状況が生じた。だが、まさにそのことが、彼の投げかけた問いが真に意味あるものだったことの、証しではないか。
 もっとも、彼の問い自体は、それほど難解なものではない。誰でも薄々気づいてはいるが、敢えて目をそらしてきた、この社会に埋め込まれた「公然の秘密」に光を当てるものであったと感じる。
 彼はそれを、「ねじれ」という言葉を使って表現する。
 戦前の日本という国家は、周知の通り、破滅的な戦争の道へとなだれ込んでいった。むろん、戦時中も、国の方針に同意しないために弾圧される者がいた。また、「あの頃は、公然と戦争に反対することなど、とてもできなかった」という言い方を、私たちは何度も聞かされている。
 しかしそれでも、現実に私たちの先祖は、総体としては、侵略戦争を行った国家の国民であったのであり、その結果、300万の自国民と、2千万とも言われるアジアの人々の命が、失われたのである。
 玉音放送を経て、マッカーサーがやってくる。日本は、その思想の根本レベルから、全く新しい国に切り替わることを強いられるのだが、同時にそのことを人々が歓迎するという、不思議な状況が見られた。
 この、ある種の精神転換のプロセスは、実に徹底したものであったが、そうなった理由を加藤氏は、第2次世界大戦というものが、かつてのような国家と国家の領土紛争などではなく、枢軸国と連合国という、国家グループ同士の「世界戦争」であったことに求めている。
 すなわちそこでの敗北は、戦勝国によって道徳的な意味での「悪」として裁かれ、完全な宗旨替えを求められるというものであった。それは、日本という国がかつて経験したことのない、圧倒的な負け方であったといえるだろう。
 こうして、戦前と戦後は、社会制度のみならず、精神的にも「切断」されることになる。その結果として「主体の分裂」が起きたと加藤氏は指摘し、そこから生じる矛盾を文芸評論の手法で解き明かしていくのだ。
 たとえば「戦死者」との向き合い方、という問題に彼は注目する。
 人類の歴史において、共同体の犠牲となった人々に敬意を表し、集団として記憶に刻もうとする行為は、ごく普通に行われてきた。日本も例外ではない。
 ところが、「戦前を完全に否定して始まった戦後」を生きる人々から見れば、第2次大戦における自国の戦没者、特に兵士として亡くなった者については、侵略国家の構成員という、負の刻印を押された存在として受けとめられるため、その歴史的な扱いに当惑することになる。
 だが時代を経て、戦争の記憶が薄れてくると、自国の戦死者を真正面から悼むべきだという考え方が広がってくる。これはある意味で自然なことなのだが、それと呼応するかのように、日本の戦争責任を無化する言説も目立ってくる、というのだ。
 いずれも、この国の歴史的な「ねじれ」を引き受けることなく、一方の、いわば、すっきりした立場からしか見ようとしないことが問題の原因であると、加藤氏は考えるのだ。
 されに、憲法の問題にも「ねじれ」の否認が関わっているとする。
◎         ◎ 
 日本国憲法がGHQの強い影響下で制定されたものであることは、歴史的に明らかであると加藤氏は見る。それは、いかに優れた者であったとしても、あくまで占領軍が自国の利益を追求するプロセスの一部として、日本側に実質的な判断の自由がない占領下において、受け入れさせたものであるというのだ。
 しかし、戦後のリベラル派は、それをひたすら「良きもの」として捉え、一貫して護ろうとしてきた。それが再軍備の歯止めであったことについては、彼も評価する。
 だがその根本に危うさを抱えていることも無視できないだろう。
 たとえば、もし「戦後体制」が外国の権力に与えられたものであるなら、その制定権力の心変わりによって、「悪しきもの」に変貌するかもしれないからだ。
 一方で保守派とされる人々も、矛盾を軽視してきた。基本的に憲法改正を悲願としてきたわけだが、同時に、そのような憲法を「圧しつけた」張本人である米国と、一貫して親密な関係を保ってきた。また国家主権の回復のために、在日米軍の撤退を求めるといったこともなかった。
 これらの原点には、「敗けた」ではなく、「喧嘩はよくない」で始まった戦後があると彼は説く。「敗戦」による「ねじれ」を、いまだに受け入れていない、というのだ。
 以上のような重い問いを提起した加藤氏が、世界が不安定化する今、世を去ったのは実に惜しい。「ねじれ」と深く関わっている米国の、世界史的な位置づけが揺らぎつつあることを思えば、なおさらだ。
 「ゴジラ」を愛したことでも知られる加藤氏は、それを戦後日本が向き合うことを避け、逃げ続けてきたものの象徴と捉えていたようだ。映画「シン・ゴジラ」は、ゴジラが東京駅前で眠りにつくところで終わる。だが、いつ目覚めてもおかしくない。私たちは彼の立てた問いに、もう一度、向き合わねばなるまい。」朝日新聞2019年6月21日朝刊13面オピニオン欄。

 日本がアジアの戦争犠牲者への反省を言う前に、まず自国の戦争について、その戦争責任と戦後体制のあり方についてきちんと考えけじめをつけていないこと、これが現在までの国家をめぐる、とくに日米関係や日中・日韓関係の困難な隘路になっている、というのが加藤氏の指摘だということはわかる。当時は、右へのナショナリズムが今ほど強くなく、加藤氏の批判は左の現状安住的な護憲派に向けられていたかと思う。だが今は、左はほとんど壊滅状態といってもいい。そのことは、『敗戦後論』が出てから現在まで、安倍政権の改憲提案の具体化まできている現状にとって、さらに深刻な矛盾が深まったといってもいいだろう。日本はアメリカに「負けた」「占領された」ということを、認めざるを得ない現実なのに、一方でそんなことなどなかったかのように忘れた振りをし、他方でいまだに宗主国アメリカに依存し従属する方針を卑屈と云う程に墨守している。憲法改正を表立って言わずに選挙をしてきた安倍政権も、今度は選挙公約に改憲を入れた。本気でアメリカの戦争の為に自衛隊を使えるようにし、同時に大日本帝国の復活を理念とするのなら、「ねじれ」はさらに深まり、矛盾のドグマは国民を引き裂く。
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1950年代チャンバラ時代劇考 8 講談の巷談 炎上?

2019-06-19 13:01:03 | 日記
A.講談という藝能
 昨年の暮れ、たまたま落語と講談の二人会というのを聴いた。和室の10畳二間くらいの空間で、目の前で落語と講談をじっくり聴かせてもらった。江戸由来の話芸のうち、落語は町人の笑い噺で、座布団一枚で複数の登場人物を演じ分けるものだが、講談は講釈とも言うように歴史上の有名な人物や大名家の騒動など武士の事績を見てきたように語るもので、小さな台を前においてパンパンと叩く。ぼくが聴いたのは、落語が「淀五郎」、講談は「徂徠豆腐」という演目だった。どちらも年末にちなんで忠臣蔵に縁のある話である。「淀五郎」は、歌舞伎の忠臣蔵で二枚目塩谷判官役に抜擢された若い役者が演技を認められるまでの苦労話。「徂徠豆腐」は、元禄時代の儒者荻生徂徠が貧乏で豆腐だけしか食べられない頃、豆腐屋に世話になりやがて柳沢吉保に見いだされ仕官が叶い、豆腐屋に恩を返すという話である。
 その話の枕で、落語家は一人前になると「師匠」と呼ばれ、相撲取りは「関取り」と呼ばれるが、講釈師は「先生」と呼ばれるのだという。読本などの作者・物書きも「先生」だから、語りと動作だけの伝承口芸の落語に対して、講談は「本を読む」「一節を読ませて頂く」というように、歴史の事実を書いた書物を聴衆に読み聞かせるという形からくる。本など読めず、一般民衆への事件報道もそのままでは制限された江戸時代、一種の歴史や事件の解説評論活動として講談があったと思われる。それが明治以降の新聞ジャーナリズムなどの発展で、講談は「ホントと称してウソだらけ」な歴史挿話の語り芸になって寄席などで生き残った。だが戦後は、落語家はお笑いタレント化してテレビなどで活躍する人も多いが、昭和の終わりごろには講釈師はもはや時代遅れの衰退する伝統芸能になってしまい、講談専門メッカだった東京の本牧亭などが立ち行かなくなって、風前の灯火かと思われた。しかし、近年若い講釈師が続々登場し、とくに女性講談師が活躍して次第に盛り返す気配もあるのは結構なことだと思う。

 「さて、歌舞伎・浄瑠璃という芸能・芸人の世界では平気で〈ウソ〉が花開いている。そして、文章活字の世界の作者とは、もちろん芸人ではない訳で、芸人が“最終的には一線を引かれる”という形で差別、卑しめを受けるのは江戸時代も同じで、身分社会である以上は更に明確です。だから、それを小説(読本)という別ジャンルに持ち込む時には〈ウソではない〉ということにしなければならなかった。武士から町人に降りて来て町人にもなり切れなかったという屈折を背負っている馬琴であるならそれはなおさらであるというのが、江戸の町人文芸――即ち〈娯楽〉の一ジャンルである筈の読本が〈教養である〉という複雑でした。
 そして、その〈読本のホント〉と同時に、ノンフィクション作家・講談・講釈師の〈ホント〉というのもあります。この人達が幕末に当時の事件、お家騒動というものを「その実際はこうである」という語り方をした――それが〈幕末の講談〉だという話は前にしました。
 そしてそれが明治になります。新聞という正規の報道が登場して来る明治には、「事実を報道してはいけない」という語禁令はなくなりますそれは新聞なりなんなりに譲って、〈明治の講談〉は聞いて役に立つ“立派な人の話”に変わるのです。やっぱりどこかで武士とつながる講談師というものは、世の為人の為ということを考える正義感というものが濃厚なんでしょうね。「向うが禁止するならこちらも話す」という前提がなくなったら、“そういう正義は意味がない” で変わって行く訳ですからね。事実がオープンになったのなら、問題は“事実全体”ではなく、事実を支える人間だ、ということになるのでしょう。斯くして明治の講談は“偉人伝”となります。そして、ここで講談から消えて行くのが、かつての旧幕の時代に講談の目玉商品であったお家騒動、犯罪ネタです。何故かというと、お家騒動・犯罪の主役は決して“立派な人間”ではなく、“悪人”だからです。
悪を前面に出して語る――しかし最終的には善が勝つ、これが江戸時代の“勧善懲悪”でした。滝沢馬琴というのは勧善懲悪の権化でしたが、しかし彼の勧善懲悪というのは、”悪が滅びるという大前提だけ押さえておけば、いくらでも残虐シーンは書ける”という、彼の暗い情熱の反映であるなどということは、今や有名すぎるほど有名です。人間なんて正直だからそれでいいんですが、しかし“暗い情熱”というものは、困ったことに、人前で公明正大に語られることを喜ばないんですね。「語られてはならない」という世の外側のモラルの問題ではなく、「語りたくないなァ、恥ずかしいなァ、一人でそっと撫でていたい」というような、内側の人間の羞恥心――あるいは“独占欲に近い芸術愛好心”とでも言いましょうか、ともかく「表沙汰にしたら面白くなくなる」「表沙汰にしない方が面白い」というような“照れ”に近いものです。
 という訳で、“暗い情熱”は公明正大に売られて一人で(こっそり)読まれる活字に委ねられ、人前で語られる講談からは消えて行くということになるのです。講談雑誌・読物雑誌というようなものが、大正以後、ある種いかがわしいエログロ雑誌のように思われていたこともありますが、それは勿論講談のせいではなく、大正二年以後に出て来る「こういうものが講談なんだろうなァ」という、知識人ライターのギャップを反映した“新講談”、そこら派生する“講談並み”という見られ方をするような“大衆小説”のせいなんです。単純なる日本国民に“忠君愛国”などというあまりにも公式(おおざっぱ)すぎる思想を植えつけてしまった――そのことに成功した講談が、なんでそんないかがわしさを捨てるもんですか。講談というものの最大欠点は“健康なこと”で、それは大衆のもつ欠点とおんなじなんですね。大衆というのは常に健康で、それがうかつに知性に染まると不健康になるというのが、残念ながら人間というものの本性なんだと、この私は思いますです。
 というところで、明治の講談には毒婦、悪人の顔が出てこない。ところで一方、同じ時期の新聞の実録読物は、毒婦、悪人の横行するお家騒動、犯罪実話の花盛り。明治一大女の仮名屋小梅だとか高橋お伝なんていうのは、みんな新聞の実録読物から出て来るわけですね。これは、新講談経由で、大衆小説の毒婦、怪浪人という、お馴染みステロタイプの“物語”を作る訳です。
 さて、それをまとめますと、新講談から大衆小説という流れは、実は新聞記事から小説へという流れなのですが、これに“新講談”でも“講談”でもどちらでもいいですが、”講談”という一項が加わることによって何が生じたかといいますと、「この作品の対象とする読者は低い」という見くびりです。実際問題書き手が読者を見くびったのかどうかは別として、新聞連載の実録読物と講談とでは、文体が違うのです。新聞の実録読物の文体は黒岩涙香の文体と同じですから、これを“新講談”にするのなら、語り口を三遊亭円朝の平易にまでもって来なければならない。インテリが芸人になって、読者に頭を下げなければならない、というのはここですね。
 ところで、新聞というものは正義を広めるものですから、これは平気で悪を糾弾します。だから、新聞の実録読物だって勧善懲悪だから、基本的には「なんと悪い奴だ、このヤロめ、このヤロめ!」です。客に向かって頭を下げるという態度では全くなかった人がそう簡単に頭を下げられるか?おまけに、これは“芸人のやっていたものを、そうではなくインテリが代わってやってやる”という新講談です。分りやすくはあっても、気楽に読めることはあっても、別に頭を下げる必要はないという曲解は簡単に生まれます。という訳でこの結果がどうなるのかというと、”いい加減なことを平気で書く”というレベルの低下、見くびりが生まれるという訳なのです。
 新講談はいつのまにか“大衆小説”というものへ移行します。大衆小説と新講談の間に差があるのかというと、別にありません。講談と新講談の間に重要な差があった、しかし講談がどこかでなめられていた、見くびられていたから、たやすくその上に“新”の一字が乗っけられて、全く別物が生まれたというだけです(この件に関してはもう一度講を改めて“立川文庫”との関係で語られるかもしれません――というところで、お待たせしました、「お好みにより「大菩薩峠」不可解の一席を口演いたします」というところでしょうか)。
 中里介山の『大菩薩峠』が大衆小説だと思われるのには幾つか理由があります。一つは、それが大衆小説=新講談が生まれる年に登場したこと。次のその文体が分りやすく、中里介山が読者に向かって“頭を下げていた”こと。次に『大菩薩峠』が“チャンバラのある小説”だったことです。何故か日本では“チャンバラのある小説”は全部大衆小説にされてしまうので、“チャンバラがあればもう普通の小説ではない”というその前提は、正に“チャンバラ映画の本”である本書の狙う領域とピッタリと重なる――従ってこの本には余分な説明が多い(多すぎる)という訳です。
 大正二年に『大菩薩峠』が始まる前の日、その掲載誌である『都新聞』には次のような広告が出ました――“大菩薩峠は甲州裏街道第一の難所なり。徳川の世の末、ここに雲起りて風雲関八州に及びぬ。剣法の争ひより、兄の仇を報いんとする弟、数奇の運命に弄ばるる少女。殊に一度に五十里を飛ぶ凶賊の身の上甚だ奇なり。記者は古老に聞ける事実を辿りて、読者の前に此の物語を伝へんとす”

 全く大衆小説というのはこういうものだと言わぬばかりの広告ですが、しかしこの年にまだ大衆小説というのは出来ていない、あるいは出来たか出来ないかというような時期ですから、これが大衆小説の典型(ステロタイプ)という訳ではありません。大衆小説の方が、この宣伝文の指し示す方に傾いて行ったのだというのが本当でしょうね。そして、こうもあっさり類型的に書かれている以上、この宣伝文句が何かの型にはまったものであることだけは確かですが、その“型”とは何かと言ったら勿論“実録読物”であるというのはちゃんとこの宣伝文に”古老に聞ける事実を”とあることで、正に明らかであるというのが、日本には大変な時代もあったもんだな、というところでしょう。『鉄仮面』という小説が“正史・実歴”なら、『大菩薩峠』だってそうだって言ってるんです。別に馬琴のせいでもないでしょうが、ここら辺まで”馬琴の呪い”は生きているというようなもんですね。」橋本治『完本チャンバラ時代劇講座』徳間書店、1986.pp.297-299.

 日本文学史の正統解説では、明治の近代文学は坪内逍遥が『小説神髄』で江戸の旧文学、とくに滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』を否定して、西洋の演劇や小説をモデルにした新しい言語表現を目指さねばならぬ、と言った場所を出発点に置く。それに続いて二葉亭四迷が『浮雲』で言文一致体の小説を創作したとなると教科書に書いてある。しかし、橋本治はそんな通俗文学史に痛撃を加えて、さらにその後の「純文学」の下に「大衆文学」を置き、「高尚」と「通俗」、「西洋文化」と「伝統文化」という二項対立で、つねに講談→通俗読み物→大衆娯楽小説を、西洋文化を身につけず知的に劣った人々が読む程度の低い文学、という構図をたくみに逆転を図る。
 これは追悼の意味で再版された橋本治『失われた近代を求めて』上下(朝日新聞出版、2019年)でさらに「古事記」「万葉集」以来の日本文学史への独自の解釈が詳しく述べられている。だが、とりあえずその焦点は、中里介山の『大菩薩峠』になる。



B.「1人で死ね」の余波
 「ごく普通の人々」を強い衝撃に巻き込む事件が報道されると、たちまち即時的感情の流れ出す攻撃が、当事者(被害者・加害者・その縁故者)や事件へのコメントを口にしたり書いたりした人間に向かう。その速度は、SNSの時代、一瞬に拡散する。問題はそれが「とりあえず留飲を下げる」効果で終らず、憎悪や称賛の溢れる言辞によって、問題の本質を考える余裕を奪ってしまう事だろう。通常の思考では理解できないとんでもない事件が起きると、絶句したあとすぐ、誰でも「どうしてそんなことをしたのか・・?」自分の理解の枠の中に押し込みたい気もちと同時に、被害者の不幸な犠牲への同情と加害者への処罰を求める感情の波に襲われる。起きてしまったことはもう取り返しはつかないのだが、それがなぜ起きたのかは簡単には説明できない。事件報道ジャーナリズムは、警察発表にある事実を一通り伝えた後、関係者への取材、とくに加害者をめぐる新たな情報を求めて走り回り逐次報道する。それがまた多くの反応を呼び起こす。しかし、少し時間が経つともう誰も話題にしなくなり、ただ危険なことを考えているおかしな人間を野放しにするな、そういう奴を人間扱いをする必要はない、という乱暴な感想だけが残っていく。それは社会の安全・安心にとって、改善の助けにはならずむしろ悪影響を与えると思う。

 「耕論 絶望に追い込まぬため:生きる価値 制度で伝えて ほっとプラス代表理事 藤田孝典さん
 川崎市の殺傷事件後、自ら命を絶った容疑者に対し「他人を巻き込まずに自分だけで死ね」という言葉がネットやテレビで飛び交いました。ぼくは危機感を覚え「1人で死ぬべきだ、という非難は控えて」という記事をネットで配信しました。
 「1人で死ね」という怒りは自然な感情だと思います。しかしその怒りをそのまま社会へ流して憎悪が広がれば、孤立感を抱く人たちが「やはり社会は何もしてくれない」と追いつめられるかもしれない。分断が広がるだけです。
 記事には批判も起き、多くが「被害者や遺族の気持ちを考えろ」「加害者を弁護するのか」というものでした。ぼくは犯罪被害者の遺族の支援もしてきましたが、彼らの多くは「二度とこんな事件は起きてほしくない」「他の人に同じ悲しみを経験してほしくない」と語ります。「1人で死ね」という言葉が遺族を代弁するものとは思えません。
 記事では「次の凶行を生まないため」と書きましたが、実際は社会に絶望した人が凶行を起こすのは非常にまれです。むしろ多くの人は1人で命を絶ってしまいます。
 生きづらさを感じる人たちは、社会の欠点をよく分かっています。彼らの声を聞くことは、より良い社会にするためにとても大切です。日本は海外に比べ、こうした声を生かして社会や行政に働きかけるソーシャルアクションが少ない。ましてや彼らを死へ追い詰めるべきではありません。
 川崎の事件も、元農林水産事務次官の事件も、日本社会に根強い「一つだけの価値観」に苦しんだ末の犯行であるように思えてなりません。「男は働いて稼ぐもの」「家庭問題は自分で解決する」という価値観は、いまだに社会規範のように捉えられています。
 こうした価値観は社会保障制度にも見られます。日本はいわゆる現役世代の無職者への支援が手薄で「まず働け」と就労支援へ誘導します。家族による扶養を優先し、自立のための公的な住宅補助は極めて限られ、家族がその人の生活を丸ごと抱え込まざるを得ません。「規範」に縛られて第三者に相談できない人たちも多いのです。
 働けない人たちへの住宅補助などの公的支援は「あなたに生きてほしい」という社会のメッセージになります。「勤労」でなく「生存」自体を価値と捉える制度にすることが、社会の信頼関係を取り戻すことになると思います。
 日本で凶悪事件が起きると、当事者やその家族、行政へ責任を求める風潮があります。しかし「私たちの社会が起こしてしまった」という視点で一人ひとりが事件の背景や何ができるか考えることが、悲劇を繰り返さない一歩になるのではないでしょうか。 (聞き手・藤田さつき)」朝日新聞2019年6月14日朝刊13面オピニオン欄。

 こういった問題を「自己責任」論と「社会の責任」論を対立させて考えるのは、問題をわかりやすくするかに見えて、実は混乱させかねない。単純な議論を好む人は、「犯人は犯人、悪人は悪人、どんな事情があろうとも、やっていいことといけないことぐらいまともな人間ならわきまえるのが当然だ、それを自分勝手に人殺しまでやった以上、本人には厳罰を科して責任を取ってもらう、それを許した親や仲間も同罪といっていい」というのが、単純な「自己責任」論だろう。それに対して、「いや、人間だれでも好き好んで犯罪に手を染めたりはしない、みな自分の生を必死で生きているのだが、さまざまな悪条件が重なって救いのない状況からの脱出を試み、結果的に犯罪になったのは、遡ればわれわれの作っている社会が不十分な援助しかしなかったことを考えよう」というのが「社会の責任」論になるだろう。これで議論をすると、一方は相手を無慈悲で感情的なタカ派と非難し、他方は相手を夢想的で口先だけのハト派と軽蔑して終わりになる恐れが高い。そこで物別れに終わったのでは、せっかくの議論が実を結ばない。

 「怒りの感情 代弁者に喝采 :コラムニスト 小田嶋 隆 さん 
 川崎市の事件をめぐる言論で一番驚いたのは、「『1人で死ね』と言わないで」と書いた藤田孝典氏への反発の声の苛烈さでした。私は藤田氏の文意について「犯人を擁護したのではない。それが不安定な感情をかかえた人への呪いの言葉になることを憂慮したのだ」とフォローするツイートを発信しました。事件直後に犯人に対し「1人で死ね」と思う感情は理解できます。私自身、学生だった頃、友人の下宿で凶悪犯罪を報じたワイドショーを見ていた時など、画面へよく罵倒の言葉を並べていました。ただSNSの時代は、脊髄反射の言葉が全世界に拡散し、無関係な人間に届いてしまいます。投稿でそう説明したのですが、怒りの矛先が移ったようで、ほぼ罵倒だけの直接返信が600近く来ました。
 もっとも、ツイッターは主として罵倒や怒りを運ぶメディアで、悲しみや同意は沈黙によって表現されます。なので、私は世論が怒りだけだとは思っていません。
 プロファイルやタイムラインを見に行ってわかったのは、罵倒を送ってきた人々の大半が、いわゆる「ネトウヨ」だったことです。ただ、右左のイデオロギーとは関係なく、「人間の生の感情を重視し、そこに理性や倫理といった基準を持ち込むことを憎む」彼らは、むしろ「反知性主義者」と呼ぶべきなのかも知れません。
 一方、この事件で対照的な言葉を発したのが松本人志氏です。犯人を「不良品」にたとえました。人間を工業製品の文脈でとらえている意味で、ナチスドイツの優生思想につながる言葉です。しかし、彼の言葉は凶悪犯を罵倒しただけで、中高年の引きこもりを攻撃したわけではない、と周囲の援護を受け、本人も謝罪しませんでした。
 昨今、「言論の自由」を口にするのはむしろ右派の人々です。彼らは、リベラルメディアが彼らの本音をポリティカル・コレクトネス(PC、差別表現をなくそうとする考え)で抑圧していると感じ、うらみをためこんでいます。
 それだけに、思うままに怒りを発散できていた今回の流れのなかで、「少し落ち着こうよ」といった藤田氏の言葉は、正論であるがゆえに、かえって怒っている人々の逆鱗に触れました。逆に、単純な怒りを代弁する形になった松本氏には喝采が送られます。「ぶっちゃけた本音を言えるヒーロー」を持ち上げる下地があるのでしょう。
 この国では今、差別的言辞で非難されるリスクより、正論を口にしたことで罵倒されるリスクの方が大きくなっています。リンチに熱狂する群衆をたしなめると今度はその人間が標的になる、そんな気持ちの悪い国に変わる前兆を垣間見た気がしました。 (聞き手・中島鉄郎)」朝日新聞2019年6月14日朝刊13面オピニオン欄。

 「炎上」と呼ばれるネット上の感情的憎悪の攻撃は、書きこむ側が同じ標的に「質より量」で何度も繰り返し攻撃しているらくし、その標的が世間に知られた有名人やタレント、あるいは大手メディアの記事などであれば、攻撃の情熱を掻き立てられて燃え上がる。しかし、たとえばぼくのようなまったく無名な人間の書くことは、誰の興味も引かないらしく何の反応もあったことがない。口汚く罵られるのは気が滅入るかもしれないが、それで少しでも人々が考える糸口になるのなら、無駄ではないだろうな。
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1950年代チャンバラ時代劇考7 日本映画の発祥の地 空母?なのか

2019-06-16 15:04:15 | 日記
A.京都は時代劇のハリウッドだった。
 映画というものが人々に娯楽を提供する興行として、それまでの寄席や芝居小屋の見世物に代わって大きな人気を得るようになったのは大正時代の終り頃、まだ音のないサイレント映画で多くがチャンバラ活劇だった。「活動写真」「カツドウ」と呼ばれたように、画面は1秒16コマから20コマ、せいぜい20分ぐらいの短編で、説明の字幕に加えて「弁士」や「楽士」がついて音とナレーションを担当した。映像は激しい動きが命だったから、舞台上でゆっくり見得を切る歌舞伎ではのろくて、野外で刀を振り回すアクションが見せ場になる。着物を着て刀を持ってそういう動きができる役者しか映画には必要でなかった。若い歌舞伎役者で映画スターになった尾上松之介はじめ、サイレント時代の映画俳優の多くは歌舞伎出身者だったが女優はさすがに素人から抜擢された人が多かった。京都の撮影所がおもに時代劇、東京の撮影所がおもに現代劇と分担していたが、関東大震災で東京は壊滅し、映画は京都が中心となるうちに映画に音が入るトーキー時代になって、アクションだけでなくセリフと演技がしっかりした役者が生き残る。それが日本映画の隆盛を準備するはずだったが、昭和の戦争に突入して、戦意高揚に駆りだされた映画人は自由に映画が作りたくても軍のご意向に左右され、戦争末期は映画どころではなくなる。やっと戦争が終って、これで自由に映画が撮れると思いきや、占領軍はチャンバラ映画を禁止した。 

 「日本の映画会社の最大特徴は、京都と東京とで二つの撮影所を持っていたことです。古くは日活の向島、松竹の鎌田・大船の撮影所が現代劇専門であったのに対して、時代劇は京都であった、と。
 今迄のところでお気づきかどうかは分りませんが、チャンバラ映画にとって京都というものは実に大きな意味を持ちます。
 チャンバラ映画の生みの親・牧野省三が京都の芝居小屋の経営者。“松竹合名会社”を作った白井松次郎・大谷竹次郎兄弟がやはり京都の芝居小屋経営者。宝塚の生みの親・小林一三の興行師としてのスタートが、京都ではないけれども、やはり関西で宝塚。日活・松竹・東宝の三大映画会社のスタートラインはすべて関西で、昭和十七年にメジャーとマイナーに分れる、松竹・東宝対日活の命運は、本拠を東京へ移すか移さないかという“東京進出”の如何だけだということがはっきり分ります。松竹も東宝も、公然と東京進出を目指したんです。じゃァ、東京にも現代劇用の撮影所を持っていた日活にとって東京はどういう意味をもっていたのか、京都はどういう意味を持っていたのかという話は後にして、もう少し“京都(関西)”の重要性を示す例を挙げます。
 東京ではないということで重要なのは、剣劇の生みの親・沢田正二郎の新国劇です。東京に生まれ東京の早稲田大学を出て東京の新劇である芸術座を退団して東京で新国劇の結成をした沢田正二郎は、東京での旗揚げ公演に失敗して、京都へ来ます。東京での失敗が尾を曳いて京都でもパッとせず、大阪の道頓堀にあった大衆劇場街に身を沈めて、ここで松竹の白井松次郎に注目されるところから新国劇の第一歩が始まることになる訳で、新国劇の形成に関西というバックは欠かせません。関西文化圏の中で剣劇というものを生み出していくその初めである『月形半平太』の初演が京都の劇場であるということは非常に重要な事ですね。大正当時にテレビがある訳もなし、映画でさえまだ創成期であるような時期、目で見るインパクトはその地へ赴かなければならないという重要事項は生きています。チャンバラ映画を作りたがっている人(牧野省三その他)の住んでいる京都で初めて『月形半平太』のリアルな立回りが演じられる――このことは新しいチャンバラ映画形成の上で決定的なファクターとなる筈のものです。
 映画(活動写真)以前の日本近代――明治大正の演劇の歴史は、東京中心で、幕末から続いている歌舞伎というものを上品にしよう、そして、西洋にある演劇を日本でも上演しようという、大きく分けてこの二つでした。前者が“演劇改良”、後者が“新劇の誕生”です。上品にして西洋に近づける――それが進歩であって、それが東京を舞台とした演劇の“正史”です。近代演劇の歴史と言ったら、この東京の“正史”部分しか取り上げられませんが、この東京の頭で考える――言ってみれば理念先行型の正史に対して、体で受けとめる大衆文化の登場は全部関西です。
 日本に初めて活動写真(映画)というものが入って来たのが明治二十八年、関西の神戸・神港倶楽部というところで上映されます。神戸という西の入口があって、金と機材を持った横田永之助が京都の劇場主・牧野省三のところに「映画を作らんか?」と言ってやって来る。その結果、尾上松之助という日本で最初の映画スターであるチャンバラスターが生まれるのが日活の京都撮影所。
 小林一三という実業家が温泉地へと鉄道を新設し、その客寄せの商品として生み出した日本で最初のレビューが宝塚少女歌劇という関西。外国人が上演し、それが都心ではパッとしないからと言って旧来の大衆的繁華街である浅草へ落ちて行って、そこで改めて日本人の手によって花開く東京の“浅草オペラ”よりも、宝塚少女歌劇の方が時間的には先です。
 西洋の音楽劇も関西が先なら、新国劇という剣劇も関西、そして日本の喜劇の初めもやっぱり関西で、松竹新喜劇の前身で日本の近代喜劇の祖とされている曾我廼家五郎・十郎の“曾我廼家喜劇”が大阪で旗揚げするのは、まだ東京に新劇のシの字もない、日露戦争勃発当時の明治三十七年です。
 頭ではない体である。理屈ではない娯楽であるということがこれほど露骨な文化の東西対立というものはちょっとないようですね。なにしろ、この時期東京で生まれた大衆芸能というのは、外人主導が転落変形した浅草オペラだけなんですから。もしも沢田正二郎に“東京から関西へ落ちて行った”という前提がなかったら、はたして彼は“半歩前進主義”などという言葉を持ち出したかどうか、というようなことも考えます。この“半歩”というのは勿論、東京というものの持つ“幻の一歩”を念頭に置いての“半歩”でもあった筈ですからね。東京から落ちて行って初めて“半歩”という劣等意識は生まれるでしょう。東京という“頭”から見れば、関西という“体”はそうなんでしょう。でも、関西という伸びやかな体には、東京に対する対等なる対抗意識というのはあっても、“半歩”という劣等意識なんかはない筈ですね。東京という近代と、関西という前近代とが、対等に等しいものを生み出して行ったのが明治大正という時代で、そして同時に、その頃の関西にとって東京という“頭”はうるさかった。うるさかったものがなくなって、関西は関西を謳歌して結局のところ“半歩”が半歩のままで終って、その後は”独自な関西文化”という地方文化にとどまってしまうことになる――時代劇という、時間が止まったまんまのドラマジャンルが京都という一地方の特産物になってしまうような事件が起こる、というのが何かというと、それが大正十二年に帝都東京を襲った関東大震災なんです。
 関東大震災が起こった大正十二年というと、これはチャンバラ映画の歴史の上では、日活から独立した牧野省三がマキノキネマを創立して、尾上松之助ではない、阪東妻三郎という新しいスターによって新しいチャンバラ映画を正に作らんとしていた年です。この年に、東京という新しい文化・理念の文化の中心が壊滅してしまうんです。東京という新しい“近代日本”の中心地が壊滅してしまうということは、もう“半歩”という頭を関西が持たなくてもいい、ということですね。優等生で背伸びをし続けていた両親御自慢の長男が突然いなくなって、兄貴のプレッシャーを陰に日向に感じ続けていた次男坊が「ああ、ほっとした」という思いを感じることが出来るようになったというのが関東大震災です。ここで関西は力を貯えます(幸か不幸か)。遊び過ぎた子供が、大人になるとどこかでぼんやりしているという運命を、関西と、そしてチャンバラ映画がここで背負うことになるんです。
 関東大震災は大正十二年に起こって、これから東京が完全に立ち直るのが昭和の五年です。その年の三月に東京では“帝都復興祭”というのが執り行われています。そして、大正十二年から昭和の五、六年と言ったら、正にサイレント映画・サイレントチャンバラの全盛期です。昭和六年、国産初のトーキーである現代劇『マダムと女房』が東京で作られて、ここから日本映画は徐々にトーキーへと移って行きますが、トーキー以前のサイレント時代、東京はなかったということはとっても重要ですね。うるさいことを言う新文化はぽしゃっている訳ですからね。知らない間に東京は立ち直る。知らない間にトーキーという新文化は定着して来る。チャンバラ映画が現代性をなくして行くのはここからなんですね。昭和十七年、日活と大都映画と新興キネマの三社が合併して大映が生まれる――チャンバラ映画の大合同というのは、関東大震災から立ち直った東京文化が(それは軍国主義に行き着く近代文化ですが)“時代劇”“関西”という特定文化に押しつけた一つの制限枠であった。そして、関西のチャンバラ映画自身は、そのことにピンと来ないで、独自の道を平気で歩き続けていた、ということになるんです。まァ、“時代劇”という、現代と関係のないジャンルだから、それはそれで一向にかまわなかったということもあるんでしょうけれどね。どっかで、チャンバラ映画というのは平気で、時代離れのしたお人好しなんですよね。
 戦後の昭和三十年代、日本映画の全盛期がピークに達して衰退に向かおうとする昭和三十五年以降――すなわち一九六〇年代、時代劇というのは“残酷時代劇”という形で、一時的な安定を確保します(又は獲得しようとします)。でも、この残酷時代劇を撮った監督というのはみんな、旧来の時代劇とは関係ないところから出て来るんです。黒澤明、小林正樹、今井正――ある時期の時代劇はこうした“社会派”の巨匠たちにリードされた訳で、“社会派”というのも今となってはなんだかよく分からないネーミングですが、“社会悪”という、今となってはよく分からないものを追求すると“社会派の巨匠”というレッテルを貼られることになっていたというある時期の時代風潮に私は従っているだけですが、“社会派の巨匠達による時代劇”があるということは“時代劇専門の職人監督”では「現代に息づく社会悪は描けない」というような前提があった、ということを却って逆に浮かび上らせます。
 第二項で申し述べましたように、戦後のチャンバラ映画は東映の作品に代表される通り明らかにワンパターンで、どれをとっても同じです。結局のところ話は“ワッハッハッハ、正義は勝つのだ”で一つです。この話の一色ぶりはテレビの『水戸黄門』で「印籠が出て来るのは番組が始まってから何分位」と言われる今に至るまで引き継がれていることですが、そういうワンパターンという前提があって、「それをどう見せて行くか?」という包丁さばきを求められたのが時代劇の監督であり、シナリオライターであり、出演者達でした。どう料理できるか、どう目先を変えられるか、そして全体としては“相変わらず”という域にキチッと収める、それを要求されたのが時代劇の監督ですから彼等は当然“職人監督”という風に扱われます。“職人というものは大体がところ高級なことはしない”というのが日本のある部分での常識でありましたし、又実際、そうした職人監督の仕事振りが「またおんなじか‥‥‥」で飽きられて日本映画は斜陽へと向かって行く訳ですから、“鮮烈な”社会派監督の仕事振りがある時期映画界でもてはやされます。まァ、ある時期の“社会派”の仕事は必ず“鮮烈な”と“えぐる”の二大キャッチフレーズをお供に連れていた訳で、ということは裏を返すと、やっぱり“社会派”も明快なる勧善懲悪待望論の上に存在していた訳ですが(“明快”が“鮮烈な”になれば“社会派”だ、程度の許され方をしていたもんですから、‘60年代の“力作”群を今見ると「何を怒鳴ってんのかな?」ぐらいにしかならないというところもあるのですが)、はっきり言ってこれが日本映画を暗くしたんですね。「映画は暗い‥‥‥」で日本映画は斜陽になった、という話をしますと、残酷時代劇は結局のところ映画の方では海外のコンクールで賞を取って来る“芸術”――しかも“社会派の芸術”にしかならなかったけれども、テレビではこれが立派に娯楽として通っていたという現実があるからです。何かと言いますと、それは昭和三十八年(1963年)のテレビドラマ『三匹の侍』です。丹波哲郎(後に加藤剛)、平幹二郎、長門勇扮する三人の浪人者は文字通り“バッサバッサ”と悪人共を切り倒す、五社英雄監督(当時は“フジテレビの五社英雄ディレクター”)の痛快娯楽時代劇が『三匹の侍』で、これが受けたのは結局のところ、勧善懲悪の時代劇パターンに黒沢『用心棒』の“ドバッ!”“ブギュッ!”という“肉を切る音”を持ちこんだからですね。この時期テレビに娯楽は生きてました(ちなみにNHKの『赤穂浪士』はこの次の年です)。
 テレビに娯楽が生きていたというその裏には何があるかというと、映画で娯楽は死んでいたんです。同じ白黒画面で、血が飛び“ブギュッ!”と音の出る残酷時代劇でも、テレビの方は、最後はめでたしめでたしで、主人公は手を振ってまた旅を続けるけれども、海外で賞を取った残酷時代劇映画の方は、主人公が死んじゃうか悲愴に目を剥くかどっちかですから、娯楽なんかにゃなりゃしません。みんな「ウーン‥‥‥」と唸って鑑賞する訳で、いくら観客のお目当てがエログロの見世物だと言っても、態々金を払って暗い気持ちになりたがるバカというのはそういない訳で、娯楽になりえない日本映画は滅んで行くし、晴れやかに笑えないチャンバラ映画は消えて行くんです。」橋本治『完本チャンバラ時代劇講座』徳間書店、1986.pp.253-257.

 ぼくも映画館で黒澤の「用心棒」を観た時は、その音に昂奮した覚えがある。以後チャンバラはみんな「ドキュッ!バシッ!」の血の飛ぶ残酷映画になった。1964年東京オリンピックを境に、高度経済成長の豊穣とは裏腹のように、時代劇映画は明るい勧善懲悪の娯楽路線をやめてシリアスな“社会派”残酷物語で息の根が止まった、というのが橋本さんのここでのお話だが、東映がチャンバラ娯楽時代劇をやめても、唯一観客を集める時代劇シリーズを続けていたのが大映である。それは、「カツライス」といわれた二大スター、市川雷蔵の「眠狂四郎」シリーズと勝新太郎の「座頭市」シリーズで、橋本さんの本も当然それに触れているが、それはまた改めて読んでみよう。



B.自衛隊はどのように活躍すればいいのか?
 昨日、公開中の映画「空母いぶき」(監督・若松節朗)を観た。原作はかわぐちかいじの同名マンガだというが、物語はクリスマスが迫る年末、沖ノ鳥島の西方450キロ、波留間群島の初島(架空の島)に国籍不明の武装集団が上陸、日本領土への武力占領が生じ、そこへ訓練航海中の海上自衛隊・第5護衛艦隊群が出動するというドラマである。自衛隊初の航空機搭載型護衛艦「いぶき」の艦内で戦闘を指揮する、艦長秋津一佐(西島秀俊)と副長新波2佐(佐々木蔵之介)の葛藤を軸に、自衛官たちの奮闘と、「空母保有」の批判を押し切った垂水首相(佐藤浩一)の苦衷を描くという映画である。最新兵器を駆使する戦闘場面がアクション映画としての見所なのだが、日本が初めて自衛隊による武力戦闘(防衛出動)に踏み切り、双方に死者が出るという未曽有の事態が、実際にあったらこんな感じ、という映像は、なかなか刺激的だった。これが架空の敵国「東亜連盟」相手のただのフィクション・娯楽戦争映画ではすまないのは、近年の尖閣諸島、竹島といった離島や北方四島の領土問題、北朝鮮のミサイルに備えた「イ-ジス・アショア」計画や「空母」導入の是非といった自衛隊の武力をどう使うかが、政治上の争点になってきたことがある。映画での首相は、憲法遵守の上で「専守防衛」の原則を実際にどう使うかに悩む。演じた佐藤浩一の発言に、ネトウヨ系から非難が出るといったおまけもあった。
 戦後の創設以来、自衛隊は一度も戦争に参加することなく死者も出していない、という歴史が謳われるが、もしどこかの国が武力で日本の領土を侵略するような事態が、まったくありえないと考えるのは楽観的だという立場に、この映画は与することになるだろうか?戦闘で死者は出ていないが、自衛隊はその活動のなかで死者は出している。

 「飛行再開ありきでなく F35墜落事故 
 青森県の航空自衛隊三沢基地に所属する米国製の最新鋭ステルス戦闘機F35Aが4月上旬、夜間訓練中に太平洋上に墜落した事故で、防衛省が調査結果を公表した。
 操縦士が平衡感覚を失う「空間識失調」に陥った可能性が高く、機体に異常があった可能性は極めて低いとしている。訓練の徹底や、機体の特別点検を実施したうえで、同型機の飛行を再開させる方針だ。
 たしかに、空間識失調の可能性はあるだろう。夜間や雲の中で上下の間隔などが狂う現象で、操縦士がそれを自覚できないケースも多い。
 だが、あくまで「推定」である。隊員の命にかかわる問題であり、拙速な飛行再開は避けるべきだ。
 飛行情報を記録したフライトレコーダーは回収できず、操縦士も亡くなって事情は聞けなかった。分析は、一緒に訓練していた他の機体や地上レーダーの記録、操縦士との交信記録によって行わざるを得なかった。
 調査結果によると、事故機は近くにいた米軍機への接近を避けるため、管制塔からの指示で降下を始めた。機体の姿勢の回復や緊急脱出を試みた形跡はなかった。自覚のないまま、ほぼ垂直に急降下して海に突っ込んだとしている。
 墜落を回避する装置や警報は作動しなかったのか。大量のデータがデジタル表示される最新鋭機の特性が空間識失調への対応を遅らせた可能性はないか。事故の再発を防ぐため、さらなる検証が必要だ。
 空間識失調は、昨年6月に米空軍嘉手納基地所属のF15戦闘機が沖縄本島沖に墜落した事故や、一昨年10月に空自ヘリが静岡県浜松市沖で墜落した事故でも、その一因とされた。今回、再発防止策として、擬似体験装置を用いた訓練や教育を行うというが、十分な対策といえるのか疑問が残る。
 F35は米ロッキード・マーチン社製で、事故機は約140億円。貿易不均衡の是正のため、米国製兵器の大量購入を求めるトランプ米大統領は、147機体制を目指す日本政府の方針を歓迎している。
 調査結果を受け、岩屋防衛省は早々に「現時点で(配備計画を)見直す考えはない」と明言したが、このまま計画通りに進めていいのか。
 陸上配備型ミサイルシステム「イージス・アショア」の配備先について、秋田市の演習場が東日本唯一の「適地」とした防衛省の報告書に、信じがたい誤りが見つかったばかりである。F35の事故調査も結論ありきとみられれば、幅広い国民の支持は得られまい。」朝日新聞2019年6月12日朝刊、12面社説。

 「空母いぶき」では、空自の戦闘機パイロット出身の艦長と海自で船に乗ってきた副長が、防衛大の同期でそれぞれの考えの違いから戦闘作戦の決断で対立する場面もある。戦闘の現場では、プロとプロの技術と決断を瞬時に迫られる事態になるのだが、自衛隊員はみな誇り高く死力を尽くす人間として描かれる。しかし、防衛大臣は「こうなったら早く敵を叩け、これは戦争だ!」と昂奮して首相に迫る。結末は映画を観てもらえばよいのだが、これは自衛の戦闘だが戦争にはなっていないということでクリスマスが終る。敵の「東亜連盟」は、南太平洋のどこかにあるむやみに武力侵略を行う「ならずもの国家」として設定されるが、現実の世界でもしそういう事態がありうるとしたら、日本人は「北朝鮮」を想定するのだろうか?「ならずもの国家」があるという前提で物語を始めれば、戦争の危険はいかにも現実の脅威になりそうに思えるが、それを空想して自衛隊を強力な軍隊にしたい人たちがアメリカから最新兵器をどしどし買い込むことは現実的安全保障なのだろうか。
 三沢基地の墜落機のパイロットは死んでしまって、高価な戦闘機が失われた訓練中の事故は、ほんとうに乗っていたパイロットの責任なのか、F35になにか問題があったのか、それとも日本政府の防衛力整備計画に支障を来さないことが優先されたのか、夜間訓練の闇の中なのか?
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