A.東北の気候と生活
ぼくが山形県の庄内鶴岡にアトリエを借りて、毎月通うようになって、はじめての冬を経験した。乾燥した関東の冬しか知らなかったので、日本海側の雪国はたいへんなんだろうなあ、となんとなく思っていただけで、具体的にどういう生活になるのか想像できなかった。12月に行った時、いきなり雪がどんどん降って一日で70㎝積もった。道路はふさがるかと思ったが、幹線道路はすぐ除雪車が来て、人々は自分の家の周囲をシャベルで人が通れるように掻いていた。ぼくも入口の所だけ雪掻きしようとしたが道具がない。雪国の人は慣れてて別に驚きもしない。しかし、雪というのは短時間で溶けないし、溶けても凍りついて滑る。数日降り続けば雪掻きはかなりの労働になる。それでも鶴岡のような街場は、近年はさほど積もらないそうで、たいへんなのは山間部だという。暖房も石油ストーブを焚いていればしのげそうだが、昔は木造家屋の隙間風で寒さもひとしおだっただろう。こういうところで生まれ育った人は、世界の見方が違ってくるかな。
「地球の気候の歴史には、長い目でみると変動があって、紀元前4000年から紀元前2000年の間に人間にとっての快適な気候の時期があり、その後寒い時期をとおって、紀元400年から1000年の間にふたたび快適な気候の時期があったとされている。13世紀から14世紀にかけて寒い時期があり、16世紀初めに暖かくなったが、それは16世紀半ばごろでおわり、16世紀後半には温度がさがって、1565年、1608年、1709年、1830年はとくに寒い年だったそうである。日本では、この寒い時期が江戸時代にあたり、江戸時代末のもっとも寒い時期をこえて、今日ふたたび暖かくなっているという(和達清夫監修『日本の気候』東京堂、1958年刊)。
このもっとも寒い「小氷期」に、凶作と飢饉とが何回も東北地方におこった。記録に残っているものでは、貞享一年から元禄をへて宝永六年(1684~1709)まで、宝暦三年から明和四年(1753~67)まで、明和七年から安永と天明をへて寛政七年(1770~95)まで、文政七年から天保一二年(1824~41)までの、それぞれの時期に各々15年以上にわたって毎年のように凶作と飢饉が東北地方を見まった。
なかでも、岩手県にあたる南部藩と伊達藩に住む人びとの間に四大飢饉として知られているのが、元禄八年(1695)、宝暦五年(1755)、天明三年(1783)、天保九年(1838)である。
二宮三郎編『岩手県災害年表』(1938年刊)には、貞観七年(865)以来の凶作、飢饉、地震、洪水、津波、暴風、長雨、夏冷、降霜、大旱などが古い文献からひろわれて記されている。これらは、この地方に生きるものにとっては大切な知識だったにちがいない。
高野長英は、天明の大飢饉と天保の大飢饉との間に生まれた。」鶴見俊輔『評伝 高野長英1804-50』藤原書店、2007.pp.49-50.
江戸時代の生活は、基本的に米を主食とする農業生産の上に成り立っていて、農民が田を耕しじゅうぶんな米を収穫すれば安定している。武士や町人はその上に乗っかって定常的な暮らしを維持できるが、自然災害で凶作になれば、たちまち生命の危機に陥る。病者や餓死者が続出し、社会は不安定になる。もちろん為政者である藩は、何もしないわけではなく備蓄米を配ったり避難所を設けたりするのだが、どういう対策をとるかは藩ごとに差があった。
「凶作という事実にたいして、どのような対策をもって臨むかに関して、それぞれの藩の体質がわかれた。八戸藩の町医者だった安藤昌益は、宝暦の飢饉に米の作り手である百姓が飢え死に、米を作らぬ武士が米を施すという矛盾を見すえて『自然真営道』を書いた。凶作の原因が東北の気候(とくに冷害)にあったとしても、そのために農民が飢えて死ぬという飢饉の直接の原因は、気候よりも武士支配の政治にあった。
武家の支配はかえないにしても、おなじ東北地方の米沢藩では、天明三年(1783)の飢饉にさいして、藩医に命じて救荒食物の製法を印刷して領民にくばったし、一ノ関藩では、宝暦の飢饉にさいして、藩医建部清庵が『民間備荒録』をあらわして飢饉をふせぐための貯蔵計画や野草・果実の調理法を教えた。
これにひきかえて、南部藩では、政治の失敗がすさまじい飢饉をつくりだした。黒正巌の『百姓一揆年表』(1937年刊)によると、彼の調べることのできた近世74年の期間に、日本全国で1240件の百姓一揆がおこっており、そのうちの29%にあたる361件が北陸・東北地方でおこったものであり、とくに南部藩では86件をかぞえ、藩としての最大の発生率を示している。
南部藩の領地は水稲生産の北の果てにあたり、米を作るには難しい土地だった。関西のように近世のなかごろから水田の裏作もできるようになっていたところと、今日でもそれができないところとでは、収穫の条件はおおいにちがう。ところがそのちがいを見ぬふりをして画一的な税のとりかたを中央からわりあてられたのでは、南部藩としてははじめから天才にくわえて人災をおしつけられていたと言う他ない。
元禄八年(1695)の飢饉の時には、南部藩にはそれと取り組むだけの政治力があったらしく、飢えている人が1万5000人いたと記録されているが、あくる年の二月九日現在で飢え死にした人は一人もいないという報道が残っている。それから六〇年たった宝暦五年(1755)になると、南部藩の政治をあずかる人はすでにかわっており、飢饉対策も真剣でない。凶作の前に、江戸の米の高いのをあてこんで藩の貯蔵米のおおかたを江戸に送って、大もうけをしたところに、それにつけこんで幕府から日光の東照宮の修理を命じられて約六万両をつかった。そこに五年つづきの大凶作で、すでに藩の貯蔵庫の米の80.5%を失っていたので、救済も思うにまかせなかった。寺の中に救貧小屋をもうけて収容し、よそ目には救済したように見せたが、その施しは一人あたり一升の水に米八勺しかなく、しかもその頭をはねる役人がいて収容者のおおかたが死んだ。
さらに二八年後の天明三年(1783)になると、前回の見せかけ程度の救済使節さえつくれず、領内に放火、強盗がおこり、飢え死にした老母の死体を六百文で売ったり、赤児を食う母親が出たりした。南部藩の全人口35万7896人中の18%にあたる6万4698人が死んだと言われるので、このような無政府状態が生じたのも当然であろう。
さらに四九年後の天保三年(1832)にはじまった飢饉になると、南部藩の武士たちは公然と飢饉救済用の寄付を自分たちで使うようになる。天保五年一月、岩泉町の豪商佐々木彦七が飢人救済用の米を五〇匹の馬につんで野田代官所に送りとどけた。ところがその後ひと月たっても飢人救済のはじまる様子がないので問いあわせたところ、その米を武士の給料に使ったときかされて、佐々木はあきれはてたという。(森嘉兵衛『岩手県の歴史』山川出版社、1972年刊)
このような役人の失策は、民衆の側からの反撃をうみだした。南部藩の百姓一揆は、大飢饉をとおるごとに、生き残ったものたちの間により強いつながりをつくっていった。
寛政七年(1795)には、南部藩の和賀、稗貫二郡の農民数千人が新税廃止を要求して盛岡城下におしよせた。和賀は、水沢から山一つへだてた隣村であり、伊達藩留守領の水沢を追われたかくし念仏の指導者が宝暦年間に国境をこえて逃げたところであり、この山間のにかくまわれてかくし念仏が明治の国家主義、昭和の軍国主義をへて今日まで生きのびている。権力を批判し得るような信仰を必要とする人びとが、南部藩には伊達藩以上にいたということを示す一つの事実であろう。
」鶴見俊輔『評伝 高野長英 1804-50』藤原書店、2007.pp.55-57.
政治という領域の第一の使命は、民の暮らしを支え、衣食住の安定安心を確保することにある、そこが危うくなれば民心は為政者から離れ、一揆がおこるとするならば、南部藩のような政治をやっていたら農民は隣の伊達藩領に集団脱走することも考えておかしくない。さらに貧困は疫病の流行を招いて死者を増やす。
「凶作は気候によるとしても、それが多数の死の原因となるのは、藩による課税、米貯蔵計画の不備、救済施設の不備などにくわえて、疫病対策の不備によってである。
青木大輔は第二次世界大戦のころから東北地方の寺をまわって過去帳を調べ、『宮城県疫病志』、『岩手県の飢饉』などの著書をあらわした。
青木が宝暦六年(1756)、天明四年(1784)、天保五年(1834)、天保八年(1837)、天保九年(1838)の死者の数を過去帳をもとにして推定したところ、地域別にしてもっとも死者が多いと推定されたところは、花巻、遠野、葛巻、福岡などの内陸グループ、宮古、山田などの海岸グループであり、次は沢内で、旧仙台領や盛岡は少なかった。
宮古、山田などは海岸であり、海のものがたやすく手に入るから飢え死になどはしないはずだけれども、ここに死者が多いのは、凶作と不漁にくわえて疫病の流行がはげしかったためと考えられる。凶作はつねに地勢上一定の地域をおそうけれども、死者は必ずしも、そこに多く発生するということはなく、結局、流行病のはげしさによって死者の多少がきまる。
その流行病とは次のような種類にわけることができるという。
一 漆瘡 疥癬
二 はしか 天然痘 痢病
三 風邪ひき 悪風 時疫まざりの風邪
四 傷寒
五 ホエド傷寒 かとれのわずらい
六 熱病 疫癘 時疫
痢病とは主に赤痢だったろう。「かとれのわずらい」とは、「かとれ」はかつえ、つまり飢渇の病言い、栄養失調の症状。傷寒は症状の記録によって見ると、腸チフス、インフルエンザ、発疹チフスなどを指す。
過去帳では、早春にほとんど一斉に爆発的に死者が集中しているので、普通の腸チフスよりも、インフルエンザあるいは発疹チフスが主だったと考えられる。このような大流行が、たがいに藩境をかため交通を制限した時代に、どうしておこったか。大飢饉のさいには、警備もゆるむので流民が藩境をこえ、熱病をひろめる役割を果たしたと考えられる。
山形県の記録に、天保の飢饉にさいして「ホエトの傷寒」がはやったとあり、この「ホエト」は、「ホエド」「ホイト」「布衣人」「乞食」などとも呼ばれ流民を指す言葉である。各地に餓死者の供養塔が見られ、たとえば葛巻町鳩岡の旧岩泉街道の三界万霊塔には「宝暦八戌寅歳餓死供養」とあり、他郷からの流民がここまで来てつかれはてて倒れたのを、村人があわれみと自責の念をもって建てたものと言い伝えられている(青木大輔『岩手県の飢饉』、1967年刊)。
三〇年ほどを周期として波のようにおそってくる凶作と、他郷から来る流民とは、今日の日本人に毎日テレビや新聞でもたらされる知識とはちがって、内臓にくいいる記憶として当時の東北地方の人びとのなかにたくわえられていったであろう。長英の幼年時代の教育を復元しようと考える時にも、凶作と飢饉と流民が、漢文の素読など以上にかれの内部にくいいったことは、当然と考えられる。黒正巌や森嘉兵衛によってあきらかにされた百姓一揆研究によれば、南部量は一揆のもっとも多くおこった地帯であり、伊達領はもっとも少なくおこった地帯だということで、そこに藩政の差があると言われるが、おなじ冷害気候にさらされ、おなじ凶作にとりくむものとして東北地方の人びとはつねに風土と食糧生産のきびしい相互関係が念頭をはなれることがなかった。安藤昌益や後藤寿庵にはじまり宮沢賢治にいたる技術的構想力の展開は、東北地方出身の思想家を特長づけるもので、高野長英は、この系譜に一つの位置を占める。」鶴見俊輔『評伝 高野長英 1804-50』藤原書店、2007.pp.60-62.
小藩の中級藩士の子も、武士として政治の担い手になる可能性がある以上、学問とは四書五経を読むただの教養ではなく、政治はいかにあるべきか、そして民百姓の暮らしを守るために何が必要か、飢饉が相次ぐ東北の小さな城下町に育った長英は何を考えていたかを想像する。
B.自画自賛している場合か
国会が召集され、冒頭天皇最後のお言葉に続き、安倍首相の施政方針演説があった。その全文が新聞に掲載されていたが、これを全部読む人はどのくらいいるのだろう。第2次政権獲得からずっと、悪いことはすべて前民主党政権のせいにして攻撃し、アベノミクスで日本は力強く立ち直ったと数字を並べて自慢する演説を続けてきたが、さすがにこれだけ一強安倍政権が続くと、「改革」の名のもとにすすめてきた政策の評価は、ひとのせいにはできない。しかし、施政方針演説の基本トーンは相変わらず、ひとりよがりな自画自賛である。統計そのものに疑問符がつくような根拠のぐらつきも無視して、少しでも有利な数字だけ使って成果は上がっていると自慢する。こんなんで大丈夫なのだろうか、と思わざるをえない。
「3成長戦略:デフレマインドの払拭
平成の日本経済はバブル崩壊から始まりました。
出口の見えないデフレに苦しむ中で、企業は人材への投資に消極的になり、若者の就職難が社会問題となりました。設備投資もピーク時から3割落ち込み、未来に向けた投資は先細っていきました。
失われた20年。その最大の敵は、日本中に蔓延したデフレマインドでありました。
この状況に、私たちは3本の矢で立ち向かいました。
早期にデフレではないという状況を作り、企業の設備投資は14兆円増加しました。20年間で最高となっています。人手不足が深刻となって、人材への投資も息を吹き返し、5年連続で今世紀最高水準の賃上げが行われました。経団連の調査では、この冬のボーナスは過去最高です。
日本企業に、再び、未来へ投資する機運が生まれてきた。デフレマインドが払拭されようとしている今、未来へのイノベーションを、大胆に後押ししていきます。
第4次産業革命:世界は、今、第4次産業革命の真っただ中にあります。人工知能、ビッグデータ、IoT、ロボットといったイノベーションが、経済社会の有り様を一変させようとしています。
自動運転は、高齢者の皆さんに安全・安心な移動手段をもたらします。体温や血圧といった日々の情報を医療ビッグデータで分析すれば、病気の早期発見も可能となります。
新しいイノベーションは、様々な社会課題を解決し、私たちの暮らしを、より安心で、より豊かなものとする、大きな可能性に満ちている。こうしたSociety 5.0を、世界に先駆けて実現することこそ、我が国の未来を拓く成長戦略であります。
時代遅れの規制や制度を大胆に改革いたします。
交通に関わる規制を全面的に見直し、安全性の向上に応じ、段階的に自動運転を解禁します。寝たきりの高齢者などが、自宅にいながら、オンラインで診療から服薬指導まで一貫して受けられるよう、関係制度を見直します。外国語やプログラミングの専門家による遠隔教育を、5年以内にずべての小中学校で受けられるようにします。
電波は国民共有の財産です。経済的価値を踏まえた割当制度への移行、周波数返上の仕組みの導入など、有効活用に向けた改革を行います。携帯電話の料金引き下げに向け、公正な競争環境を整えます。
電子申請の際の紙の添付書類を全廃します。行政手続きの縦割りを打破し、ワンストップ化を行うことで、引っ越しなどの際に同じ書類の提出を何度も求められる現状を改革します。
急速な技術進歩により、経済社会が加速度的に変化する時代にあって最も重要な政府の役割は、人々が信頼し、全員が安心して新しいシステムに移行できる環境を整えることだと考えます。
膨大な個人データが世界を駆け巡る中では、プライバシーやセキュリティーを保護するため、透明性が高く、公正かつ互恵的なルールが必要です。その上で、国境を越えたデータの自由な流通を確保する。米国、欧州と連携しながら、信頼される、自由で開かれた国際データ流通網を構築してまいります。
人工知能も、あくまで人間のために利用され、その結果には人間が責任を負わなければならない。我が国がリードして、人間中心のAI倫理原則を打ち立ててまいります。
イノベーションがもたらす社会の変化から、誰一人取り残されてはならない。この夏策定するAI戦略の柱は、教育システムの改革です。
来年から全ての小学校でプログラミングを必修とします。中学校、高校でも、順次、情報処理の授業を充実し、必修化することで、子どもたちの誰もが、人口知能などのイノベーションを使いこなすリテラシーを身に付けられるようにします。
我が国から、新たなイノベーションを次々と生み出すためには、知の拠点である大学の力が必要です。若手研究者に大いに活躍の場を与え、民間企業との連携に積極的な大学を後押しするため、運営費交付金の在り方を大きく改革してまいります。
経済活動の国境がなくなる中、日本企業の競争力、信頼性を一層グレードアップさせるために、企業ガバナンスの更なる強化が求められています。社外取締役の選任、役員報酬の開示など、グローバルスタンダードに沿って、これからもコーポレートガバナンス改革を進めてまいります。」朝日新聞2019年1月29日朝刊、5面。
「官僚の作文」を並べただけというのは簡単だが、問題はその向かう方向と、ベースにある思想であろう。この成長戦略の部分だけ読んでも、「改革」としてあがっているのは、デフレ「マインド」からの脱却、規制緩和、イノベーションを使いこなす知の育成など、漠然とした気分気力でがんばろうという話、と紙の申請書類を電子化するとか、小学校でプログラミングを必修化するとかといった妙に細かい話が混在する。「第4次産業革命」「Society5.0」IT、ビッグデータなどは政府が旗を振るテクノロジー礼賛の「明るい未来」像なのだが、ぼくは一種のサイエンス・フィクションに近い話と、現実に科学技術の分野で起こっていることを混同したあやしげな話だと思う。日本の官僚は優秀だ、日本の企業は優秀だ、日本の科学者は優秀だ、こういった話は完全に過去の伝説になってしまった。少なくとも現在の中央官僚、大企業の幹部、先端科学の担い手にはかなり深刻な知的劣化と倫理観の麻痺が広がりつつあるような気がする。
ぼくが山形県の庄内鶴岡にアトリエを借りて、毎月通うようになって、はじめての冬を経験した。乾燥した関東の冬しか知らなかったので、日本海側の雪国はたいへんなんだろうなあ、となんとなく思っていただけで、具体的にどういう生活になるのか想像できなかった。12月に行った時、いきなり雪がどんどん降って一日で70㎝積もった。道路はふさがるかと思ったが、幹線道路はすぐ除雪車が来て、人々は自分の家の周囲をシャベルで人が通れるように掻いていた。ぼくも入口の所だけ雪掻きしようとしたが道具がない。雪国の人は慣れてて別に驚きもしない。しかし、雪というのは短時間で溶けないし、溶けても凍りついて滑る。数日降り続けば雪掻きはかなりの労働になる。それでも鶴岡のような街場は、近年はさほど積もらないそうで、たいへんなのは山間部だという。暖房も石油ストーブを焚いていればしのげそうだが、昔は木造家屋の隙間風で寒さもひとしおだっただろう。こういうところで生まれ育った人は、世界の見方が違ってくるかな。
「地球の気候の歴史には、長い目でみると変動があって、紀元前4000年から紀元前2000年の間に人間にとっての快適な気候の時期があり、その後寒い時期をとおって、紀元400年から1000年の間にふたたび快適な気候の時期があったとされている。13世紀から14世紀にかけて寒い時期があり、16世紀初めに暖かくなったが、それは16世紀半ばごろでおわり、16世紀後半には温度がさがって、1565年、1608年、1709年、1830年はとくに寒い年だったそうである。日本では、この寒い時期が江戸時代にあたり、江戸時代末のもっとも寒い時期をこえて、今日ふたたび暖かくなっているという(和達清夫監修『日本の気候』東京堂、1958年刊)。
このもっとも寒い「小氷期」に、凶作と飢饉とが何回も東北地方におこった。記録に残っているものでは、貞享一年から元禄をへて宝永六年(1684~1709)まで、宝暦三年から明和四年(1753~67)まで、明和七年から安永と天明をへて寛政七年(1770~95)まで、文政七年から天保一二年(1824~41)までの、それぞれの時期に各々15年以上にわたって毎年のように凶作と飢饉が東北地方を見まった。
なかでも、岩手県にあたる南部藩と伊達藩に住む人びとの間に四大飢饉として知られているのが、元禄八年(1695)、宝暦五年(1755)、天明三年(1783)、天保九年(1838)である。
二宮三郎編『岩手県災害年表』(1938年刊)には、貞観七年(865)以来の凶作、飢饉、地震、洪水、津波、暴風、長雨、夏冷、降霜、大旱などが古い文献からひろわれて記されている。これらは、この地方に生きるものにとっては大切な知識だったにちがいない。
高野長英は、天明の大飢饉と天保の大飢饉との間に生まれた。」鶴見俊輔『評伝 高野長英1804-50』藤原書店、2007.pp.49-50.
江戸時代の生活は、基本的に米を主食とする農業生産の上に成り立っていて、農民が田を耕しじゅうぶんな米を収穫すれば安定している。武士や町人はその上に乗っかって定常的な暮らしを維持できるが、自然災害で凶作になれば、たちまち生命の危機に陥る。病者や餓死者が続出し、社会は不安定になる。もちろん為政者である藩は、何もしないわけではなく備蓄米を配ったり避難所を設けたりするのだが、どういう対策をとるかは藩ごとに差があった。
「凶作という事実にたいして、どのような対策をもって臨むかに関して、それぞれの藩の体質がわかれた。八戸藩の町医者だった安藤昌益は、宝暦の飢饉に米の作り手である百姓が飢え死に、米を作らぬ武士が米を施すという矛盾を見すえて『自然真営道』を書いた。凶作の原因が東北の気候(とくに冷害)にあったとしても、そのために農民が飢えて死ぬという飢饉の直接の原因は、気候よりも武士支配の政治にあった。
武家の支配はかえないにしても、おなじ東北地方の米沢藩では、天明三年(1783)の飢饉にさいして、藩医に命じて救荒食物の製法を印刷して領民にくばったし、一ノ関藩では、宝暦の飢饉にさいして、藩医建部清庵が『民間備荒録』をあらわして飢饉をふせぐための貯蔵計画や野草・果実の調理法を教えた。
これにひきかえて、南部藩では、政治の失敗がすさまじい飢饉をつくりだした。黒正巌の『百姓一揆年表』(1937年刊)によると、彼の調べることのできた近世74年の期間に、日本全国で1240件の百姓一揆がおこっており、そのうちの29%にあたる361件が北陸・東北地方でおこったものであり、とくに南部藩では86件をかぞえ、藩としての最大の発生率を示している。
南部藩の領地は水稲生産の北の果てにあたり、米を作るには難しい土地だった。関西のように近世のなかごろから水田の裏作もできるようになっていたところと、今日でもそれができないところとでは、収穫の条件はおおいにちがう。ところがそのちがいを見ぬふりをして画一的な税のとりかたを中央からわりあてられたのでは、南部藩としてははじめから天才にくわえて人災をおしつけられていたと言う他ない。
元禄八年(1695)の飢饉の時には、南部藩にはそれと取り組むだけの政治力があったらしく、飢えている人が1万5000人いたと記録されているが、あくる年の二月九日現在で飢え死にした人は一人もいないという報道が残っている。それから六〇年たった宝暦五年(1755)になると、南部藩の政治をあずかる人はすでにかわっており、飢饉対策も真剣でない。凶作の前に、江戸の米の高いのをあてこんで藩の貯蔵米のおおかたを江戸に送って、大もうけをしたところに、それにつけこんで幕府から日光の東照宮の修理を命じられて約六万両をつかった。そこに五年つづきの大凶作で、すでに藩の貯蔵庫の米の80.5%を失っていたので、救済も思うにまかせなかった。寺の中に救貧小屋をもうけて収容し、よそ目には救済したように見せたが、その施しは一人あたり一升の水に米八勺しかなく、しかもその頭をはねる役人がいて収容者のおおかたが死んだ。
さらに二八年後の天明三年(1783)になると、前回の見せかけ程度の救済使節さえつくれず、領内に放火、強盗がおこり、飢え死にした老母の死体を六百文で売ったり、赤児を食う母親が出たりした。南部藩の全人口35万7896人中の18%にあたる6万4698人が死んだと言われるので、このような無政府状態が生じたのも当然であろう。
さらに四九年後の天保三年(1832)にはじまった飢饉になると、南部藩の武士たちは公然と飢饉救済用の寄付を自分たちで使うようになる。天保五年一月、岩泉町の豪商佐々木彦七が飢人救済用の米を五〇匹の馬につんで野田代官所に送りとどけた。ところがその後ひと月たっても飢人救済のはじまる様子がないので問いあわせたところ、その米を武士の給料に使ったときかされて、佐々木はあきれはてたという。(森嘉兵衛『岩手県の歴史』山川出版社、1972年刊)
このような役人の失策は、民衆の側からの反撃をうみだした。南部藩の百姓一揆は、大飢饉をとおるごとに、生き残ったものたちの間により強いつながりをつくっていった。
寛政七年(1795)には、南部藩の和賀、稗貫二郡の農民数千人が新税廃止を要求して盛岡城下におしよせた。和賀は、水沢から山一つへだてた隣村であり、伊達藩留守領の水沢を追われたかくし念仏の指導者が宝暦年間に国境をこえて逃げたところであり、この山間のにかくまわれてかくし念仏が明治の国家主義、昭和の軍国主義をへて今日まで生きのびている。権力を批判し得るような信仰を必要とする人びとが、南部藩には伊達藩以上にいたということを示す一つの事実であろう。
」鶴見俊輔『評伝 高野長英 1804-50』藤原書店、2007.pp.55-57.
政治という領域の第一の使命は、民の暮らしを支え、衣食住の安定安心を確保することにある、そこが危うくなれば民心は為政者から離れ、一揆がおこるとするならば、南部藩のような政治をやっていたら農民は隣の伊達藩領に集団脱走することも考えておかしくない。さらに貧困は疫病の流行を招いて死者を増やす。
「凶作は気候によるとしても、それが多数の死の原因となるのは、藩による課税、米貯蔵計画の不備、救済施設の不備などにくわえて、疫病対策の不備によってである。
青木大輔は第二次世界大戦のころから東北地方の寺をまわって過去帳を調べ、『宮城県疫病志』、『岩手県の飢饉』などの著書をあらわした。
青木が宝暦六年(1756)、天明四年(1784)、天保五年(1834)、天保八年(1837)、天保九年(1838)の死者の数を過去帳をもとにして推定したところ、地域別にしてもっとも死者が多いと推定されたところは、花巻、遠野、葛巻、福岡などの内陸グループ、宮古、山田などの海岸グループであり、次は沢内で、旧仙台領や盛岡は少なかった。
宮古、山田などは海岸であり、海のものがたやすく手に入るから飢え死になどはしないはずだけれども、ここに死者が多いのは、凶作と不漁にくわえて疫病の流行がはげしかったためと考えられる。凶作はつねに地勢上一定の地域をおそうけれども、死者は必ずしも、そこに多く発生するということはなく、結局、流行病のはげしさによって死者の多少がきまる。
その流行病とは次のような種類にわけることができるという。
一 漆瘡 疥癬
二 はしか 天然痘 痢病
三 風邪ひき 悪風 時疫まざりの風邪
四 傷寒
五 ホエド傷寒 かとれのわずらい
六 熱病 疫癘 時疫
痢病とは主に赤痢だったろう。「かとれのわずらい」とは、「かとれ」はかつえ、つまり飢渇の病言い、栄養失調の症状。傷寒は症状の記録によって見ると、腸チフス、インフルエンザ、発疹チフスなどを指す。
過去帳では、早春にほとんど一斉に爆発的に死者が集中しているので、普通の腸チフスよりも、インフルエンザあるいは発疹チフスが主だったと考えられる。このような大流行が、たがいに藩境をかため交通を制限した時代に、どうしておこったか。大飢饉のさいには、警備もゆるむので流民が藩境をこえ、熱病をひろめる役割を果たしたと考えられる。
山形県の記録に、天保の飢饉にさいして「ホエトの傷寒」がはやったとあり、この「ホエト」は、「ホエド」「ホイト」「布衣人」「乞食」などとも呼ばれ流民を指す言葉である。各地に餓死者の供養塔が見られ、たとえば葛巻町鳩岡の旧岩泉街道の三界万霊塔には「宝暦八戌寅歳餓死供養」とあり、他郷からの流民がここまで来てつかれはてて倒れたのを、村人があわれみと自責の念をもって建てたものと言い伝えられている(青木大輔『岩手県の飢饉』、1967年刊)。
三〇年ほどを周期として波のようにおそってくる凶作と、他郷から来る流民とは、今日の日本人に毎日テレビや新聞でもたらされる知識とはちがって、内臓にくいいる記憶として当時の東北地方の人びとのなかにたくわえられていったであろう。長英の幼年時代の教育を復元しようと考える時にも、凶作と飢饉と流民が、漢文の素読など以上にかれの内部にくいいったことは、当然と考えられる。黒正巌や森嘉兵衛によってあきらかにされた百姓一揆研究によれば、南部量は一揆のもっとも多くおこった地帯であり、伊達領はもっとも少なくおこった地帯だということで、そこに藩政の差があると言われるが、おなじ冷害気候にさらされ、おなじ凶作にとりくむものとして東北地方の人びとはつねに風土と食糧生産のきびしい相互関係が念頭をはなれることがなかった。安藤昌益や後藤寿庵にはじまり宮沢賢治にいたる技術的構想力の展開は、東北地方出身の思想家を特長づけるもので、高野長英は、この系譜に一つの位置を占める。」鶴見俊輔『評伝 高野長英 1804-50』藤原書店、2007.pp.60-62.
小藩の中級藩士の子も、武士として政治の担い手になる可能性がある以上、学問とは四書五経を読むただの教養ではなく、政治はいかにあるべきか、そして民百姓の暮らしを守るために何が必要か、飢饉が相次ぐ東北の小さな城下町に育った長英は何を考えていたかを想像する。
B.自画自賛している場合か
国会が召集され、冒頭天皇最後のお言葉に続き、安倍首相の施政方針演説があった。その全文が新聞に掲載されていたが、これを全部読む人はどのくらいいるのだろう。第2次政権獲得からずっと、悪いことはすべて前民主党政権のせいにして攻撃し、アベノミクスで日本は力強く立ち直ったと数字を並べて自慢する演説を続けてきたが、さすがにこれだけ一強安倍政権が続くと、「改革」の名のもとにすすめてきた政策の評価は、ひとのせいにはできない。しかし、施政方針演説の基本トーンは相変わらず、ひとりよがりな自画自賛である。統計そのものに疑問符がつくような根拠のぐらつきも無視して、少しでも有利な数字だけ使って成果は上がっていると自慢する。こんなんで大丈夫なのだろうか、と思わざるをえない。
「3成長戦略:デフレマインドの払拭
平成の日本経済はバブル崩壊から始まりました。
出口の見えないデフレに苦しむ中で、企業は人材への投資に消極的になり、若者の就職難が社会問題となりました。設備投資もピーク時から3割落ち込み、未来に向けた投資は先細っていきました。
失われた20年。その最大の敵は、日本中に蔓延したデフレマインドでありました。
この状況に、私たちは3本の矢で立ち向かいました。
早期にデフレではないという状況を作り、企業の設備投資は14兆円増加しました。20年間で最高となっています。人手不足が深刻となって、人材への投資も息を吹き返し、5年連続で今世紀最高水準の賃上げが行われました。経団連の調査では、この冬のボーナスは過去最高です。
日本企業に、再び、未来へ投資する機運が生まれてきた。デフレマインドが払拭されようとしている今、未来へのイノベーションを、大胆に後押ししていきます。
第4次産業革命:世界は、今、第4次産業革命の真っただ中にあります。人工知能、ビッグデータ、IoT、ロボットといったイノベーションが、経済社会の有り様を一変させようとしています。
自動運転は、高齢者の皆さんに安全・安心な移動手段をもたらします。体温や血圧といった日々の情報を医療ビッグデータで分析すれば、病気の早期発見も可能となります。
新しいイノベーションは、様々な社会課題を解決し、私たちの暮らしを、より安心で、より豊かなものとする、大きな可能性に満ちている。こうしたSociety 5.0を、世界に先駆けて実現することこそ、我が国の未来を拓く成長戦略であります。
時代遅れの規制や制度を大胆に改革いたします。
交通に関わる規制を全面的に見直し、安全性の向上に応じ、段階的に自動運転を解禁します。寝たきりの高齢者などが、自宅にいながら、オンラインで診療から服薬指導まで一貫して受けられるよう、関係制度を見直します。外国語やプログラミングの専門家による遠隔教育を、5年以内にずべての小中学校で受けられるようにします。
電波は国民共有の財産です。経済的価値を踏まえた割当制度への移行、周波数返上の仕組みの導入など、有効活用に向けた改革を行います。携帯電話の料金引き下げに向け、公正な競争環境を整えます。
電子申請の際の紙の添付書類を全廃します。行政手続きの縦割りを打破し、ワンストップ化を行うことで、引っ越しなどの際に同じ書類の提出を何度も求められる現状を改革します。
急速な技術進歩により、経済社会が加速度的に変化する時代にあって最も重要な政府の役割は、人々が信頼し、全員が安心して新しいシステムに移行できる環境を整えることだと考えます。
膨大な個人データが世界を駆け巡る中では、プライバシーやセキュリティーを保護するため、透明性が高く、公正かつ互恵的なルールが必要です。その上で、国境を越えたデータの自由な流通を確保する。米国、欧州と連携しながら、信頼される、自由で開かれた国際データ流通網を構築してまいります。
人工知能も、あくまで人間のために利用され、その結果には人間が責任を負わなければならない。我が国がリードして、人間中心のAI倫理原則を打ち立ててまいります。
イノベーションがもたらす社会の変化から、誰一人取り残されてはならない。この夏策定するAI戦略の柱は、教育システムの改革です。
来年から全ての小学校でプログラミングを必修とします。中学校、高校でも、順次、情報処理の授業を充実し、必修化することで、子どもたちの誰もが、人口知能などのイノベーションを使いこなすリテラシーを身に付けられるようにします。
我が国から、新たなイノベーションを次々と生み出すためには、知の拠点である大学の力が必要です。若手研究者に大いに活躍の場を与え、民間企業との連携に積極的な大学を後押しするため、運営費交付金の在り方を大きく改革してまいります。
経済活動の国境がなくなる中、日本企業の競争力、信頼性を一層グレードアップさせるために、企業ガバナンスの更なる強化が求められています。社外取締役の選任、役員報酬の開示など、グローバルスタンダードに沿って、これからもコーポレートガバナンス改革を進めてまいります。」朝日新聞2019年1月29日朝刊、5面。
「官僚の作文」を並べただけというのは簡単だが、問題はその向かう方向と、ベースにある思想であろう。この成長戦略の部分だけ読んでも、「改革」としてあがっているのは、デフレ「マインド」からの脱却、規制緩和、イノベーションを使いこなす知の育成など、漠然とした気分気力でがんばろうという話、と紙の申請書類を電子化するとか、小学校でプログラミングを必修化するとかといった妙に細かい話が混在する。「第4次産業革命」「Society5.0」IT、ビッグデータなどは政府が旗を振るテクノロジー礼賛の「明るい未来」像なのだが、ぼくは一種のサイエンス・フィクションに近い話と、現実に科学技術の分野で起こっていることを混同したあやしげな話だと思う。日本の官僚は優秀だ、日本の企業は優秀だ、日本の科学者は優秀だ、こういった話は完全に過去の伝説になってしまった。少なくとも現在の中央官僚、大企業の幹部、先端科学の担い手にはかなり深刻な知的劣化と倫理観の麻痺が広がりつつあるような気がする。