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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

逃げる人 高野長英2 東北北上の気候風土 施政方針?

2019-01-30 14:29:13 | 日記
A.東北の気候と生活
 ぼくが山形県の庄内鶴岡にアトリエを借りて、毎月通うようになって、はじめての冬を経験した。乾燥した関東の冬しか知らなかったので、日本海側の雪国はたいへんなんだろうなあ、となんとなく思っていただけで、具体的にどういう生活になるのか想像できなかった。12月に行った時、いきなり雪がどんどん降って一日で70㎝積もった。道路はふさがるかと思ったが、幹線道路はすぐ除雪車が来て、人々は自分の家の周囲をシャベルで人が通れるように掻いていた。ぼくも入口の所だけ雪掻きしようとしたが道具がない。雪国の人は慣れてて別に驚きもしない。しかし、雪というのは短時間で溶けないし、溶けても凍りついて滑る。数日降り続けば雪掻きはかなりの労働になる。それでも鶴岡のような街場は、近年はさほど積もらないそうで、たいへんなのは山間部だという。暖房も石油ストーブを焚いていればしのげそうだが、昔は木造家屋の隙間風で寒さもひとしおだっただろう。こういうところで生まれ育った人は、世界の見方が違ってくるかな。

 「地球の気候の歴史には、長い目でみると変動があって、紀元前4000年から紀元前2000年の間に人間にとっての快適な気候の時期があり、その後寒い時期をとおって、紀元400年から1000年の間にふたたび快適な気候の時期があったとされている。13世紀から14世紀にかけて寒い時期があり、16世紀初めに暖かくなったが、それは16世紀半ばごろでおわり、16世紀後半には温度がさがって、1565年、1608年、1709年、1830年はとくに寒い年だったそうである。日本では、この寒い時期が江戸時代にあたり、江戸時代末のもっとも寒い時期をこえて、今日ふたたび暖かくなっているという(和達清夫監修『日本の気候』東京堂、1958年刊)。
 このもっとも寒い「小氷期」に、凶作と飢饉とが何回も東北地方におこった。記録に残っているものでは、貞享一年から元禄をへて宝永六年(1684~1709)まで、宝暦三年から明和四年(1753~67)まで、明和七年から安永と天明をへて寛政七年(1770~95)まで、文政七年から天保一二年(1824~41)までの、それぞれの時期に各々15年以上にわたって毎年のように凶作と飢饉が東北地方を見まった。
 なかでも、岩手県にあたる南部藩と伊達藩に住む人びとの間に四大飢饉として知られているのが、元禄八年(1695)、宝暦五年(1755)、天明三年(1783)、天保九年(1838)である。
 二宮三郎編『岩手県災害年表』(1938年刊)には、貞観七年(865)以来の凶作、飢饉、地震、洪水、津波、暴風、長雨、夏冷、降霜、大旱などが古い文献からひろわれて記されている。これらは、この地方に生きるものにとっては大切な知識だったにちがいない。
 高野長英は、天明の大飢饉と天保の大飢饉との間に生まれた。」鶴見俊輔『評伝 高野長英1804-50』藤原書店、2007.pp.49-50.

 江戸時代の生活は、基本的に米を主食とする農業生産の上に成り立っていて、農民が田を耕しじゅうぶんな米を収穫すれば安定している。武士や町人はその上に乗っかって定常的な暮らしを維持できるが、自然災害で凶作になれば、たちまち生命の危機に陥る。病者や餓死者が続出し、社会は不安定になる。もちろん為政者である藩は、何もしないわけではなく備蓄米を配ったり避難所を設けたりするのだが、どういう対策をとるかは藩ごとに差があった。

「凶作という事実にたいして、どのような対策をもって臨むかに関して、それぞれの藩の体質がわかれた。八戸藩の町医者だった安藤昌益は、宝暦の飢饉に米の作り手である百姓が飢え死に、米を作らぬ武士が米を施すという矛盾を見すえて『自然真営道』を書いた。凶作の原因が東北の気候(とくに冷害)にあったとしても、そのために農民が飢えて死ぬという飢饉の直接の原因は、気候よりも武士支配の政治にあった。
 武家の支配はかえないにしても、おなじ東北地方の米沢藩では、天明三年(1783)の飢饉にさいして、藩医に命じて救荒食物の製法を印刷して領民にくばったし、一ノ関藩では、宝暦の飢饉にさいして、藩医建部清庵が『民間備荒録』をあらわして飢饉をふせぐための貯蔵計画や野草・果実の調理法を教えた。
 これにひきかえて、南部藩では、政治の失敗がすさまじい飢饉をつくりだした。黒正巌の『百姓一揆年表』(1937年刊)によると、彼の調べることのできた近世74年の期間に、日本全国で1240件の百姓一揆がおこっており、そのうちの29%にあたる361件が北陸・東北地方でおこったものであり、とくに南部藩では86件をかぞえ、藩としての最大の発生率を示している。
 南部藩の領地は水稲生産の北の果てにあたり、米を作るには難しい土地だった。関西のように近世のなかごろから水田の裏作もできるようになっていたところと、今日でもそれができないところとでは、収穫の条件はおおいにちがう。ところがそのちがいを見ぬふりをして画一的な税のとりかたを中央からわりあてられたのでは、南部藩としてははじめから天才にくわえて人災をおしつけられていたと言う他ない。
 元禄八年(1695)の飢饉の時には、南部藩にはそれと取り組むだけの政治力があったらしく、飢えている人が1万5000人いたと記録されているが、あくる年の二月九日現在で飢え死にした人は一人もいないという報道が残っている。それから六〇年たった宝暦五年(1755)になると、南部藩の政治をあずかる人はすでにかわっており、飢饉対策も真剣でない。凶作の前に、江戸の米の高いのをあてこんで藩の貯蔵米のおおかたを江戸に送って、大もうけをしたところに、それにつけこんで幕府から日光の東照宮の修理を命じられて約六万両をつかった。そこに五年つづきの大凶作で、すでに藩の貯蔵庫の米の80.5%を失っていたので、救済も思うにまかせなかった。寺の中に救貧小屋をもうけて収容し、よそ目には救済したように見せたが、その施しは一人あたり一升の水に米八勺しかなく、しかもその頭をはねる役人がいて収容者のおおかたが死んだ。
 さらに二八年後の天明三年(1783)になると、前回の見せかけ程度の救済使節さえつくれず、領内に放火、強盗がおこり、飢え死にした老母の死体を六百文で売ったり、赤児を食う母親が出たりした。南部藩の全人口35万7896人中の18%にあたる6万4698人が死んだと言われるので、このような無政府状態が生じたのも当然であろう。
 さらに四九年後の天保三年(1832)にはじまった飢饉になると、南部藩の武士たちは公然と飢饉救済用の寄付を自分たちで使うようになる。天保五年一月、岩泉町の豪商佐々木彦七が飢人救済用の米を五〇匹の馬につんで野田代官所に送りとどけた。ところがその後ひと月たっても飢人救済のはじまる様子がないので問いあわせたところ、その米を武士の給料に使ったときかされて、佐々木はあきれはてたという。(森嘉兵衛『岩手県の歴史』山川出版社、1972年刊)
 このような役人の失策は、民衆の側からの反撃をうみだした。南部藩の百姓一揆は、大飢饉をとおるごとに、生き残ったものたちの間により強いつながりをつくっていった。
 寛政七年(1795)には、南部藩の和賀、稗貫二郡の農民数千人が新税廃止を要求して盛岡城下におしよせた。和賀は、水沢から山一つへだてた隣村であり、伊達藩留守領の水沢を追われたかくし念仏の指導者が宝暦年間に国境をこえて逃げたところであり、この山間のにかくまわれてかくし念仏が明治の国家主義、昭和の軍国主義をへて今日まで生きのびている。権力を批判し得るような信仰を必要とする人びとが、南部藩には伊達藩以上にいたということを示す一つの事実であろう。
」鶴見俊輔『評伝 高野長英 1804-50』藤原書店、2007.pp.55-57.

 政治という領域の第一の使命は、民の暮らしを支え、衣食住の安定安心を確保することにある、そこが危うくなれば民心は為政者から離れ、一揆がおこるとするならば、南部藩のような政治をやっていたら農民は隣の伊達藩領に集団脱走することも考えておかしくない。さらに貧困は疫病の流行を招いて死者を増やす。

 「凶作は気候によるとしても、それが多数の死の原因となるのは、藩による課税、米貯蔵計画の不備、救済施設の不備などにくわえて、疫病対策の不備によってである。
 青木大輔は第二次世界大戦のころから東北地方の寺をまわって過去帳を調べ、『宮城県疫病志』、『岩手県の飢饉』などの著書をあらわした。
 青木が宝暦六年(1756)、天明四年(1784)、天保五年(1834)、天保八年(1837)、天保九年(1838)の死者の数を過去帳をもとにして推定したところ、地域別にしてもっとも死者が多いと推定されたところは、花巻、遠野、葛巻、福岡などの内陸グループ、宮古、山田などの海岸グループであり、次は沢内で、旧仙台領や盛岡は少なかった。
 宮古、山田などは海岸であり、海のものがたやすく手に入るから飢え死になどはしないはずだけれども、ここに死者が多いのは、凶作と不漁にくわえて疫病の流行がはげしかったためと考えられる。凶作はつねに地勢上一定の地域をおそうけれども、死者は必ずしも、そこに多く発生するということはなく、結局、流行病のはげしさによって死者の多少がきまる。
 その流行病とは次のような種類にわけることができるという。

 一 漆瘡 疥癬
 二 はしか 天然痘 痢病
 三 風邪ひき 悪風 時疫まざりの風邪
 四 傷寒
 五 ホエド傷寒 かとれのわずらい
 六 熱病 疫癘 時疫

 痢病とは主に赤痢だったろう。「かとれのわずらい」とは、「かとれ」はかつえ、つまり飢渇の病言い、栄養失調の症状。傷寒は症状の記録によって見ると、腸チフス、インフルエンザ、発疹チフスなどを指す。
 過去帳では、早春にほとんど一斉に爆発的に死者が集中しているので、普通の腸チフスよりも、インフルエンザあるいは発疹チフスが主だったと考えられる。このような大流行が、たがいに藩境をかため交通を制限した時代に、どうしておこったか。大飢饉のさいには、警備もゆるむので流民が藩境をこえ、熱病をひろめる役割を果たしたと考えられる。
 山形県の記録に、天保の飢饉にさいして「ホエトの傷寒」がはやったとあり、この「ホエト」は、「ホエド」「ホイト」「布衣人」「乞食」などとも呼ばれ流民を指す言葉である。各地に餓死者の供養塔が見られ、たとえば葛巻町鳩岡の旧岩泉街道の三界万霊塔には「宝暦八戌寅歳餓死供養」とあり、他郷からの流民がここまで来てつかれはてて倒れたのを、村人があわれみと自責の念をもって建てたものと言い伝えられている(青木大輔『岩手県の飢饉』、1967年刊)。
 三〇年ほどを周期として波のようにおそってくる凶作と、他郷から来る流民とは、今日の日本人に毎日テレビや新聞でもたらされる知識とはちがって、内臓にくいいる記憶として当時の東北地方の人びとのなかにたくわえられていったであろう。長英の幼年時代の教育を復元しようと考える時にも、凶作と飢饉と流民が、漢文の素読など以上にかれの内部にくいいったことは、当然と考えられる。黒正巌や森嘉兵衛によってあきらかにされた百姓一揆研究によれば、南部量は一揆のもっとも多くおこった地帯であり、伊達領はもっとも少なくおこった地帯だということで、そこに藩政の差があると言われるが、おなじ冷害気候にさらされ、おなじ凶作にとりくむものとして東北地方の人びとはつねに風土と食糧生産のきびしい相互関係が念頭をはなれることがなかった。安藤昌益や後藤寿庵にはじまり宮沢賢治にいたる技術的構想力の展開は、東北地方出身の思想家を特長づけるもので、高野長英は、この系譜に一つの位置を占める。」鶴見俊輔『評伝 高野長英 1804-50』藤原書店、2007.pp.60-62.

小藩の中級藩士の子も、武士として政治の担い手になる可能性がある以上、学問とは四書五経を読むただの教養ではなく、政治はいかにあるべきか、そして民百姓の暮らしを守るために何が必要か、飢饉が相次ぐ東北の小さな城下町に育った長英は何を考えていたかを想像する。



B.自画自賛している場合か
 国会が召集され、冒頭天皇最後のお言葉に続き、安倍首相の施政方針演説があった。その全文が新聞に掲載されていたが、これを全部読む人はどのくらいいるのだろう。第2次政権獲得からずっと、悪いことはすべて前民主党政権のせいにして攻撃し、アベノミクスで日本は力強く立ち直ったと数字を並べて自慢する演説を続けてきたが、さすがにこれだけ一強安倍政権が続くと、「改革」の名のもとにすすめてきた政策の評価は、ひとのせいにはできない。しかし、施政方針演説の基本トーンは相変わらず、ひとりよがりな自画自賛である。統計そのものに疑問符がつくような根拠のぐらつきも無視して、少しでも有利な数字だけ使って成果は上がっていると自慢する。こんなんで大丈夫なのだろうか、と思わざるをえない。

 「3成長戦略:デフレマインドの払拭
 平成の日本経済はバブル崩壊から始まりました。
 出口の見えないデフレに苦しむ中で、企業は人材への投資に消極的になり、若者の就職難が社会問題となりました。設備投資もピーク時から3割落ち込み、未来に向けた投資は先細っていきました。
 失われた20年。その最大の敵は、日本中に蔓延したデフレマインドでありました。
 この状況に、私たちは3本の矢で立ち向かいました。
 早期にデフレではないという状況を作り、企業の設備投資は14兆円増加しました。20年間で最高となっています。人手不足が深刻となって、人材への投資も息を吹き返し、5年連続で今世紀最高水準の賃上げが行われました。経団連の調査では、この冬のボーナスは過去最高です。
 日本企業に、再び、未来へ投資する機運が生まれてきた。デフレマインドが払拭されようとしている今、未来へのイノベーションを、大胆に後押ししていきます。
 第4次産業革命:世界は、今、第4次産業革命の真っただ中にあります。人工知能、ビッグデータ、IoT、ロボットといったイノベーションが、経済社会の有り様を一変させようとしています。
 自動運転は、高齢者の皆さんに安全・安心な移動手段をもたらします。体温や血圧といった日々の情報を医療ビッグデータで分析すれば、病気の早期発見も可能となります。
 新しいイノベーションは、様々な社会課題を解決し、私たちの暮らしを、より安心で、より豊かなものとする、大きな可能性に満ちている。こうしたSociety 5.0を、世界に先駆けて実現することこそ、我が国の未来を拓く成長戦略であります。
 時代遅れの規制や制度を大胆に改革いたします。
 交通に関わる規制を全面的に見直し、安全性の向上に応じ、段階的に自動運転を解禁します。寝たきりの高齢者などが、自宅にいながら、オンラインで診療から服薬指導まで一貫して受けられるよう、関係制度を見直します。外国語やプログラミングの専門家による遠隔教育を、5年以内にずべての小中学校で受けられるようにします。
 電波は国民共有の財産です。経済的価値を踏まえた割当制度への移行、周波数返上の仕組みの導入など、有効活用に向けた改革を行います。携帯電話の料金引き下げに向け、公正な競争環境を整えます。
 電子申請の際の紙の添付書類を全廃します。行政手続きの縦割りを打破し、ワンストップ化を行うことで、引っ越しなどの際に同じ書類の提出を何度も求められる現状を改革します。
 急速な技術進歩により、経済社会が加速度的に変化する時代にあって最も重要な政府の役割は、人々が信頼し、全員が安心して新しいシステムに移行できる環境を整えることだと考えます。
 膨大な個人データが世界を駆け巡る中では、プライバシーやセキュリティーを保護するため、透明性が高く、公正かつ互恵的なルールが必要です。その上で、国境を越えたデータの自由な流通を確保する。米国、欧州と連携しながら、信頼される、自由で開かれた国際データ流通網を構築してまいります。
 人工知能も、あくまで人間のために利用され、その結果には人間が責任を負わなければならない。我が国がリードして、人間中心のAI倫理原則を打ち立ててまいります。
 イノベーションがもたらす社会の変化から、誰一人取り残されてはならない。この夏策定するAI戦略の柱は、教育システムの改革です。
 来年から全ての小学校でプログラミングを必修とします。中学校、高校でも、順次、情報処理の授業を充実し、必修化することで、子どもたちの誰もが、人口知能などのイノベーションを使いこなすリテラシーを身に付けられるようにします。
 我が国から、新たなイノベーションを次々と生み出すためには、知の拠点である大学の力が必要です。若手研究者に大いに活躍の場を与え、民間企業との連携に積極的な大学を後押しするため、運営費交付金の在り方を大きく改革してまいります。
 経済活動の国境がなくなる中、日本企業の競争力、信頼性を一層グレードアップさせるために、企業ガバナンスの更なる強化が求められています。社外取締役の選任、役員報酬の開示など、グローバルスタンダードに沿って、これからもコーポレートガバナンス改革を進めてまいります。」朝日新聞2019年1月29日朝刊、5面。

 「官僚の作文」を並べただけというのは簡単だが、問題はその向かう方向と、ベースにある思想であろう。この成長戦略の部分だけ読んでも、「改革」としてあがっているのは、デフレ「マインド」からの脱却、規制緩和、イノベーションを使いこなす知の育成など、漠然とした気分気力でがんばろうという話、と紙の申請書類を電子化するとか、小学校でプログラミングを必修化するとかといった妙に細かい話が混在する。「第4次産業革命」「Society5.0」IT、ビッグデータなどは政府が旗を振るテクノロジー礼賛の「明るい未来」像なのだが、ぼくは一種のサイエンス・フィクションに近い話と、現実に科学技術の分野で起こっていることを混同したあやしげな話だと思う。日本の官僚は優秀だ、日本の企業は優秀だ、日本の科学者は優秀だ、こういった話は完全に過去の伝説になってしまった。少なくとも現在の中央官僚、大企業の幹部、先端科学の担い手にはかなり深刻な知的劣化と倫理観の麻痺が広がりつつあるような気がする。
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逃げる人 高野長英1 貯金マイナス借金!

2019-01-28 12:29:18 | 日記
A.鶴見俊輔と高野長英はどこでつながるの?
 鶴見俊輔がどういう人か?2015年7月に93歳で亡くなった人。といっても、若い世代の人は鶴見俊輔を知らないかもしれないので、まずWikipediaの説明を引用しておく。
「鶴見 俊輔(つるみ しゅんすけ、1922年〈大正11年〉6月25日 - 2015年〈平成27年〉7月20日)は、日本の哲学者、評論家、政治運動家、大衆文化研究者。アメリカのプラグマティズムの日本への紹介者のひとりで、都留重人、丸山眞男らとともに戦後の進歩的文化人を代表する1人とされる。」
 これだけだと、今の学生には「なんか昔のサヨク学者」か、で終ってしまう。ぼくらの世代には、経済学者都留重人も政治学者丸山眞男も、アカデミックな大学の先生で「知識人」の代表ではあったが、あくまで書物と評論の世界のビッグネームだった。しかし、鶴見俊輔はいわゆる学者とか大学の先生(大学教員をやっていた時期はあるが)とかで有名だった人ではない。父は保守派の有力政治家で母方の祖父は、明治の近代化と関東大震災の復興などに大きな貢献をした後藤新平である。姉の社会学者鶴見和子と同じく、若くしてアメリカに行き、ハーヴァード大学でプラグマティズムを学ぶが、日米戦争にぶつかり日本に戻って海軍軍属になり、ジャワ(今のインドネシア)で終戦。
 戦後、京大、東京工大、同志社大学の教員などをしながら、転向研究などを組織して雑誌『思想の科学』で評論活動をし、ヴェトナム戦争反対の「べ平連」の中心メンバーでデモの先頭に立った。大学闘争で学生処分に抗議して大学を辞めた人だった。大学生だったぼくは、『思想の科学』と『朝日ジャーナル』を毎号読んで、じっとしていられず「べ平連」のデモに参加していた。話したことはなかったけれど、デモなどでよく見かけた。鶴見俊輔は、非常にアクティヴに行動するインテレクチュアルとして、ぼくらの憧れでありリスペクトの対象だった。
 その鶴見さんが、べ平連の運動が終わったあと、高野長英の評伝を書いた。え?鶴見俊輔と高野長英って、すぐには結びつかなかった。鶴見はアメリカ哲学から出発した人だし、日本の民衆・大衆文化の研究はあるけど、歴史家ではない。江戸時代の蘭学者、“蛮社の獄”で死んだ高野長英の本をどうして書いたんだろう、と不思議で、藤原書店から2007年に出た(最初は1975年に朝日新聞社から出版)、『評伝 高野長英1804-50』を購入した。ただ、なかなか読む暇がなくて、書棚に並べたままだった。そこで、今回ちゃんと読むことにした。
 なぜ高野長英なのか、はとりあえず岩手県の水沢(今は奥州市)でつながる。高野長英という人は、岩手県南部のこの城下町(仙台伊達藩の支藩留守家1万石)の下級武士の3男に生れた。先に触れたように鶴見俊輔の祖父は後藤新平である。この後藤家も水沢の藩士で高野長英とは親類になる。維新後政治家を目指すが、まず医者になった後藤新平の概説も、あげておく。
後藤 新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4月13日)は、日本の医師・官僚・政治家。位階勲等爵位は正二位勲一等伯爵。台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁。拓殖大学第3代学長を歴任した。計画の規模の大きさから「大風呂敷」とあだ名された、植民地経営者であり、都市計画家である。台湾総督府民政長官、満鉄総裁を歴任し、日本の大陸進出を支え、鉄道院総裁として国内の鉄道を整備した。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の帝都復興計画を立案した。
とりあえず、鶴見俊輔と高野長英は水沢の武士の家で親戚筋だったという事実があるのを知ったが、それだけではこの評伝を書く動機としては弱い。

 「この本を書いているころ、詩人谷川雁に会った。なにをしているか、ときくので、高野長英の伝記を書いていると答えると、「それは私が先生と呼びたいと思うわずかの人の一人だ」と言う。
 彼はいつもいばっている男だったので、おどろいた。そう言えば、彼の生き方には最後のラボの指揮と外国語教育をふくめて、高野長英の生き方と響きあうところがある。

 伝記を書くには、資料だけでなく、動機が必要だ。
 私の場合、長いあいだその仕事にかかわっていた脱走兵援助が、一段落ついたことが、この伝記を書く動機となった。
 ベトナム戦争から離れた米国人脱走兵をかくまい、日本の各地を移動し、日本人の宗教者がついて「良心的兵役拒否」の証明書つきで米軍基地に戻ることを助けたり、国境を越えて日本の外の国に行くのを助けたりしていた。このあいだに動いた私たちの仲間も多くいたし、かくまう手助けをした人も多くいた。その人たちのあいだに脱走兵の姿はさまざまな形で残っている。
 高野長英もまた、幕末における脱走者だった。
 彼の動いたあとをまわってみると、かつて長英をかくまったことに誇りをもつ子孫がいる。そのことにおどろいた。それは、長英の血縁につらなることとはちがう、誇りのもちかただった。
 こうして重ねてきた聞き書きが、この本を支える。
 私の母は後藤新平の娘であり、水沢の後藤から出ている。そのこととは別に、ベトナム戦争に反対して米軍から離れた青年たちと共にした一九六七年から一九七二年までの年月が、この本の動機をつくった。
 もっとさかのぼると、大東亜戦争の中で、海軍軍属としてジャワのバタビア在勤海軍武官府にいて、この戦争から離れたいという願いが強く自分の中にあったこととつながる。
 私に与えられた仕事は、敵の読む新聞とおなじものをつくるということで、深夜、ひとりおきて、アメリカ、イギリス、中国、オーストラリア、インドの短波放送をきいてメモをとり、翌朝、海軍事務所に行って、メモをもとに、その日の新聞を作ることだった。私がひとりで書き、私の悪筆を筆生二人がタイプ印刷し、南太平洋各地の海軍部隊に送られた。司令官と参謀だけが読む新聞だった。日本の新聞とラジオの大本営発表によって、艦船の移動をはかることが不利な戦況下で、海軍はそのことを理解していた。
 その仕事のあいまに、深夜、部屋の外に出ると、近くの村々からガムランがきこえ、村のざわめきが伝わってきた。戦争からへだたった村の暮らしがうかがえた。軍隊から脱走したいという強い思いが私の中におこった。
 とげられなかった夢は、二十年後に、アメリカのはじめたアジアへの、根拠の薄い戦争の中で、その戦争の手助けをする日本国政府の下で、私たちのべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)となった。
 その間に私を支えた夢が、高野長英伝のもとにある。
 この本は、はじめ、朝日新聞社から一九七五年に出版された。そのとき朝日新聞社の川橋啓一氏にお世話になった。小学校卒業の私が、文献と資料をこなすことができたのは、川橋氏のおかげである。
 長いあいだ絶版になっていたのを、藤原書店にひろっていただいた。今度は、藤原良雄氏、刈屋琢氏のお世話になった。お礼を申し上げる。
                    二〇〇七年一〇月九日   鶴見俊輔  」鶴見俊輔『評伝 高野長英 1804-50』藤原書店、2007.「新版への序」pp.1-3.

 この序文から、鶴見がヴェトナムで戦うことを拒否した脱走米兵と、幕府の罪人として牢に入り、仲間の古関三英や渡辺崋山が自殺するなか、逃亡して各地を経巡りながら著作を続けた長英を、重ねる心情があったことがわかる。本文はこういう記述から始まっている。

 「高野長英の生まれた水沢のことからはじめよう。
 岩手県水沢に生れて育った美術評論家森口多里(たり)(1892~1984)は、水沢の町の人影のない旧街道を歩きながら、農家出身の伯父から、こんな話をきいた。それは、平安朝の末期に源頼義(988~1075)が、その子義家(1039~1106)とともに康平五年(1062)にこの地方の豪族安倍(あべの)貞(さだ)任(とう)を攻めた時のことである。
 安倍貞任の衣川の城は、鶴をいきうめにしてその上に築いたものだったので、八幡太郎義家の軍勢が矢を射かけると、城はまるで鶴が空に舞い上がるように巻き上がって、どうにもしようがなかった。ところが貞任の娘が義家と通じて、城の秘密をもらしたので、攻め手は土中の鶴の首を切って魔術の力を消し、そのために城は落ちた。
 貞任が死んだ日は、真夏だったのに、紫の雪がふった。
 鶴の仕掛けのほかにも、貞任の軍には、さまざまの工夫があった。貞任は、たくさんの竹田を使って、生きた人間とおなじように自由自在にはたらかせて、義家の軍勢をさんざんに悩ませた。
 「竹田とは何ですか」
 と森口がたずねると、伯父は、
 「人形のことだ」
と教えた。(森口多里『黄金の馬』三弥井書店、1971年刊。初版は二見書房から1942年に発行され、発売禁止となった)
 〔中略〕
 もともと安倍一族が京都の軍勢に反抗して前九年の役と言われる戦いをはじめたのは、この地方を治めていた安倍頼時が自分の子の貞任の嫁に、京都軍の武将藤原光貞の娘をもらいたいと申しいれたところ、蝦夷(彼らがアイヌかどうかは論争のわかれるところだが)にはやれないと断られたからだという。何かというと藤原氏が出てくるところに、この地方のぬきがたい劣等感があらわれている。事実はどうであれ、異民族として見られていたのであり、それが戦争の原因となった。

 安倍氏が滅んだあとで、やはり地方の豪族の清原氏がおこり、その支配が続いたが、清原氏も自分たちの一族が京都から低く見られていることをいやがって、自分たちの文化が京都の文化とならぶほどのものであることを見せようとして平泉に中尊寺を建てた。
 戦後の1950年の長谷部言人らの調査によって、平泉の中尊寺に残る清原氏の四体のミイラがアイヌよりも「日本人」の特徴を具えるものとされたけれども、清原氏は京都下りの人びとと血縁を結んだのちにも自分たちを大和とは別のものと考えていた。清原清衡が中尊寺にささげた供養願文によれば、彼らは「俘囚之上頭」「東夷之遠酋(あずまえびすの昔からのかしら)」とみずからを呼び、長くさげすまれてきた自分たちの仲間のうちで、罪なくして殺されたものの霊を慰めるためにこの寺を建てたという。
 この清原氏は、京都の人々との血縁を求めて藤原氏と称し、中尊寺を建てて京都の文化を学習する力があることを証明したが、やがて中央政府を主宰する源頼朝にそむいた義経をかくまったという言いがかりをつけられて、鎌倉幕府の軍勢に滅ぼされた。その後、この地方は幕府支配下の豪族の領地とされる。徳川時代に入ってからは、岩手県の北は南部氏に、南は伊達氏の支配下におかれる。ただし水沢は伊達の支配下でも、その支族留守氏の領地とされ、別格の扱いをうけていた。」鶴見俊輔『評伝 高野長英 1804-50』藤原書店、2007.pp.13-16.

 仙台藩祖伊達政宗の伯父にあたる重臣留守政景という名前は、NHK大河ドラマ「独眼竜正宗」にも登場していた。確かいかりや長介さんが演じていた。「留守」という名字が珍しく、伊達一門の長老として重みのある武将として描かれていた。それが水沢で1万石程度の城(城といっても館に堀程度だが)を構えていたことも知らなかった。



B.借金するのは能力か
 人からお金を借りるのは、とりあえず今手元に使える金がなく、必ず期限までに返済すると約束して借りるわけで、そもそも物を買うにせよ、なにか仕事を始めるにせよ、そのお金で利益が生まれ返済の見通しが立ってこその借金である。でも一時サラ金地獄などが問題になったように、借金の金利で首が回らなくなった人が、さらに借金でそれを返そうとして無限悪循環に陥り、ついに破産するような事例が増えた。それができるのも多少なりとも決まった収入があるからで、借金ができるのも貸し手が返済能力があるとみた「信用」ゆえである。しかし、収入が途切れたり、所得を上回る負債借金をしてしまうと、いずれ破綻が来ることは避けられない。
 ぼくは、金銭に関しては臆病者なので、借金はしない。唯一、家を建てるのに住宅ローンを借りる時はかなりの決心と勇を揮って25年くらい借金を返すことにした。それも去年、残りを全部払って清算したので、非常に気が楽になった。借金を妻や子に残して死ぬのでは、情けないし成仏できないから、精神の穏やかさは貯金から借金を引いてプラスがあるほど確かなものになる。しかし、そういう考え方をする人はむしろ少ないのかもしれない。

 「借金という未来への砲撃:日曜に想う 編集委員 福島 申二
 「その暖簾くぐるには、なぜか一応の怯みがあった」と言っていたのは下町情緒あふれる漫画で知られた滝谷ゆうだった。路地の奥にひっそりと下がっている質屋の暖簾のことである。同じような気分は私も学生時代に経験がある。
 こちらは質屋ではないけれど、借財にあたって「万死に値する」と苦悩した人がいた。大平正芳蔵相、のちに総理大臣になる政治家だ。1975年度、石油ショックの後遺症で税収が伸びず、補正予算で赤字国債発行に追い込まれた。
 額は2兆円。非常事態とはいえ禁断の木の実を食べてよいものかどうか、大平さんは悩み抜いたと、当時を知る先輩記者は書き残している。
 自伝を読むと、苦悩には生い立ちがかかっているように思われる。生家は農家で借財が多かった。借金のことで父母がひそひそ話をしているのを聞くのもしばしばだった。毎年の収穫で返済できるうちはいいが、返せなければ田畑まで手放さなければいけなくなる。
 三つ子の魂百までという。農家と国家ではスケールは違うが、胸の内で双方が重なっても不思議はなかっただろう。
 それから歳月は流れ、怯みも苦悩も忘れたように膨らんだ国の借金である。地方と合わせて1100兆円を超えた長期債務を、天上の大平が知れば目をむくにちがいない。それは子や孫の暮らしを質草にした莫大な先食いでもある。
 1万円札の顔、福沢諭吉が自伝に書いている。「およそ世の中に何が怖いといっても、暗殺は別にして、借金ぐらい怖いものはない」。そんな「遺訓」に背くかのような借金1100兆円は、1万円札で積み上げると国際宇宙ステーションの27倍の天空にまで届く。あまりのことに現実味がわかないが、子や孫の世代に、本人たちのあずかり知らぬ巨額債務をつけ回しする現実は動かない。
 しまりなく財政赤字を垂れ流せば将来世代の重荷は増えるばかりだ。そうしたさまを、米国の経済学者が「財政的幼児虐待」と呼んでいると聞けば、どきりとさせられる。「虐待」の程度は先進国では日本が突出しているという。しかも少子の進む時代だから、1人あたりの負担はどんどん大きくなっていく。
  思い起こすのは安倍晋三首相が「戦後70年談話」で述べた言葉だ。
 「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」。こうした分野には熱意をたぎらせる首相だが、地味な上に痛みをともなう財政再建にはおよそ前向きとは言いがたい。
将来世代に思いを致すのなら、ここは「謝罪を続ける」を「借金を返す」に置き換えて事にあたるべきではないか。
  ドイツの作家、故ミヒャエル・エンデについて一昨年の当欄に書いた。名高い児童文学者は、私たちのもたらしている地球環境の破壊を「将来世代に対する容赦ない戦争」であると例えている。
膨れ上がる国の債務も、同じことが言えるだろう。いわば未来に向けた借金の砲撃だ。どちらも、今を生きる世代がつくる負の遺産に、まだ生まれていない世代は一言の異議申し立てもできない。
  米国では政府債務が膨らんだレーガン大統領の頃に、こんなふうに言われたと聞いたことがある。「次の世代が返済しなければならないと思えば、生まれた赤ん坊が泣き叫ぶのは当然だ」 
とはいっても、国や民族によらず増税が喜ばれることはまずない。この秋の消費税率アップも、せんだっての本紙世論調査では賛成33%、反対59%と出た。
政治への信頼の薄さが「反対」の多い要因の一つだろう。今回の増税が社会保障の安心にはつながらないとみる人は75%を占めていた。暮らしに不安を残したまま、たとえば防衛費は伸び続け、米国からは言い値で兵器を買いまくる。一強政治の決める税金の使途に、納める側の思いは反映されているのかと疑う。
 今の暮らしを大切にしながら、借金の砲撃で将来世代に「白旗」を揚げさせない道をどうやって選び取るか。根拠のない楽観は無責任と同義である。」朝日新聞2019年1月27日朝刊、3面総合欄。

  この国がどうして1100兆円もの莫大な借金を積み上げて、それでもギリシャみたいな財政破綻に陥らないのか?日本国債は信用を保っていられるのか?この借金は最終的に将来世代に重くのしかかることが明らかなのに、どうして有効な改善策をとらないのか?
  答えはたぶん、2つ。ひとつは、日本国民や企業が高度成長以後にささやかながら蓄えた貯金(全体としては莫大な富)が、いつのまにかこの借金のもとでに回っていること。われわれの国民資産はそれでかなり目減りしているのだが、これがあったから1100兆円調達できたとはいえる。消費税10%くらいでは焼け石に水程度だとしても、いよいよ税負担強化をせざるをえない。それは貯金のない人ほど締め上げられる。
  もうひとつは、この国の政府と政治家が、この借金地獄から抜け出すには歳入を増やす、つまり力強い経済成長を取り戻して、昔のように税収がどんどん入ってくる以外に有効な手はないと思いこんでいること。そのために福祉や教育予算など減らしても、成長分野や防衛費などにさらに予算を注ぎ込む無理を続ける。オリンピックみたいな気分だけの砂上楼閣、バヴェルの塔に税金をつぎ込む愚をやめない。
  いずれにしても、この国の借金は、借り手には好きなだけ借りられる巾着で、貸し手の未来に生れる子どもたちには、審査も拒否も返済請求もできない。何も知らないうちに莫大な借金を背負わされて生まれてくるなんて、呪われた世代になってしまう。この先に来るものは、ほんものの自己破産にならなければよいが…。
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恋愛映画の夢の幻18 ストーカーの「蒐集」 日本語の奇跡

2019-01-26 03:12:04 | 日記
A.蒐集と所有
 資本主義という歴史的に巨大な運動が、そこに巻き込まれる人間にどういう欲望を喚起するものか、鶏と卵の関係のように、精神のありようと方向が経済的富の増大に導かれ、その精神に喚起された活動が経済をさらに発展させる。それをマックス・ヴェーバーは、禁欲的な宗教倫理と飽くなき営利企業の合理的活動に結びつけたが、ヴェルナー・ゾンバルトは人間の欲望がどこまでも拡大し、伝統や宗教を食い破って欲しいものをどこまでも手に入れようとする「蒐集」と「所有」への欲求こそ、資本主義の本質だろうと考えた。もし、このような「モノへの欲望」こそ歴史を前に進めるのだとすると、近代の西欧帝国主義が地球上のあちこちに進出して、欲しいものを思うさま略奪し、排他的に所有するという欲望に没頭していたといえる。資本主義の走り出した蓄積過程は、購買消費者という欲望の塊を作り出し、そこに美味しそうな商品を絶え間なく供給することで莫大な利益を「蒐集」し「所有」するシステムを構築する。
 経済史のような大きな話はともかく、この「蒐集」と「所有」の欲望というのは人間の奥深い精神に作用するので、まるで関係のなさそうな「恋愛」のようなものにまで、しっかり波及する。つまり、レヴィ・ストロースの構造主義を持ち出すまでもなく、「美女」は人々が欲しがる財であり、子を産む資源というだけでなく、男の「蒐集」と「所有」の欲望を満たす商品であり続ける。そのようなものとして、現実の世界に現れたとき、非常にいびつで倒錯した形をとる。それが、ストーカーであり、犯罪者であるような…。

■ ウィリアム・ワイラー監督「コレクター」1965 
 テレンス・スタンプという俳優を知ったのは、イタリアの奇才、パオロ・パゾリーニ監督の「テオレマ」だった。たった一人の若い男が、退廃的なブルジョア家族をセクシャルな魔力で崩壊に陥らせる。性的な潜勢力が社会変革を実現するという革命幻想が、何か芸術的な期待を浮き上がらせていた倒錯した時代のヒーローだった。それをハリウッドの大監督が声をかけて、昆虫愛好者という変質者を演じさせた古典的ともいえる歪んだ恋愛映画である。
 主人公の独身青年は、昆虫採集が趣味の冴えない銀行員だったのが、宝くじが当たって生活に不自由ない大金を手にする。そこで彼が始めた実験は・・・。
 銀行に勤めるフレディー(テレンス・スタンプ)は内気なのか、孤独癖が強いのか熱中することは蝶を集めることくらいだった。その蝶をクロロフォルムで殺すとき、何もかも忘れてしまうという変わった男だった。あるとき、彼は幸運に恵まれ大金を握った。郊外の一軒家を買い調度品を揃えた。そして美術学校に通う魅力的なミランダ(サマンサ・エッガー)という娘を誘拐し、強制的に自宅で同棲生活を送ることを実行する。閉じ込めてはいるが暴力的に体を求めたりはしない奇妙な生活だった。ミランダが欲しがるものは何でも買い与えた。絵を描くための道具や設備。だが決して監視の目はゆるめない。同時に彼女の方はフレディに従うそぶりを見せつつ、たえず逃げる努力を止めなかった。手を縛られて散歩したときも、ある夜入浴中に予期せぬ来客があったときも、通報する機会をもう少しのところで失ってしまった。
  ついに激しい雨の夜、彼女はフレディをシャベルで殴り、逃走を試みたが、血まみれになりながら男は逃げる彼女を芝生の上でひきずり回し、部屋に戻す。病院で手当てを受けてフレディが帰ってくるとミランダは肺炎を起こして重体だった。そして彼女は死んだ……。翌日は快晴。フレディは車をゆっくり走らせ、前を行く娘にじっと視線をおいてつぶやく。その娘は病院で彼の傷の手当てをした若いチャーミングな看護婦であった。「ぼくは間違った。彼女は知的で気位が高すぎた。こんどはもっと愛らしく、単純で、ぼくを理解してくれる女を選ぼう」ふたたび彼の蝶の採集が始まる。日本でも「完全なる飼育」という、女性監禁シリーズがあるが、もはやこの映画は、古典の域に入っているのかもしれない。変態の聖地。
  今の日本では、頻繁と言えるほどストーカー犯罪が起こっている。ちょっと男に愛想を振りまいただけで勝手に熱い恋に落ちたと思い込んだキモ男に付きまとわれ、逃げても追いかけられてついに殺されてしまう不幸な事件は後を絶たない。「恋愛」を対等な個人の自由な相互作用だと考えるのは、実態を空想化してしまう。ストーカーの先にある暴力は、この欲しいものを完全に排他的に「所有」する拉致監禁になるのは当然ともいえる。暴力を背景に植民地から欲しいものを好きなだけ略奪し、それを楽しんで儲ける。資本主義というシステムはそれを許容するからこそ、男たちは「美女を所有したい」という誘惑に限りなくむず無ずわくわくするのだ。それはきわめて病的だが、異常とは言えない。
 「恋愛」という観念は、半分は病的である。勝手に誰かに夢中になって、相手を心も体も「蒐集」し「所有」したいと熱望する。それはまるで蝶の採集と変わらない。そこには蝶の意志も権利もない。権力の意志だけが事態を左右する万能感に囚われたストーカーは、蝶が逃げようとすれば力で殺してしまう。どこまでいってもこれは彼だけの閉鎖的で完結した世界で、「恋愛」と呼ぶことはふさわしくない。
   そもそも人が人を所有することなどできない、と思うけれども、実は古代の奴隷制は人が人を所有していた。奴隷は人間であると知っていながら、それは労働する機械でありモノであり財産だった。奴隷制はやがて廃止されたが、権力や財力をもつ者が、そのちからで誰かを買い集め、自分の快楽のために人の自由を奪うという欲望は、絶えるどころか燃え盛っている。だからこれは「恋愛」ではない。
 さて、「恋愛映画」のお話はこのへんで終わりにしよう。
 次は、なぜか「高野長英」になりそうです。



B.日本語を捨てなかったことは偶然か
 地球上に人類が棲みついて、たくさんの固有の言語が話され人々を結びつけたが、18世紀ごろから西洋に国民国家が成立し、共通言語を国語として読み書き文法を学校で教えられ、言葉の「正しい」使い方をなるべく統一的に標準化するのが国家の文教政策の基本だとされてきた。しかし、日本の場合、大戦争に敗北して占領軍の統治政策のなかで、民族の固有性を維持することばの教育という政策判断で、漢字・ひらかな・カタカナ併用の日本語は奇跡的という経過を通過して生き残った。
 
 「漢字制限論捨てさせた発明 ワープロ誕生40年:ザ・コラム  編集委員 山脇岳志
 新年の京都は、空気まできりりと引き締まっているように感じる。祇園にある八坂神社の参拝客は、着物姿が目立つ。派手な柄の着物はレンタルが多く、中国からの観光客が好んで借りるのだという。
 八坂神社のそばに「漢字ミュージアム」がある。年200万人以上が受験する「漢検」の日本漢字能力検定協会が、2年半前に開いた。館内を歩くと、漢字の歴史や成り立ちがすっと頭に入ってくる。
 中でも興味深いのは、日本を占領したGHQ(連合国軍総司令部)が、漢字を廃止しようとした経緯である。米国の教育使節団は、日本語をローマ字表記にして、漢字習得にかける勉強時間を、外国語や数学の学習にあてるべきだと主張した。
 京都大学名誉教授で、漢字文化研究所長の阿辻哲次氏に、詳しく聴いた。
 「GHQは、漢字のせいもあって日本人が戦争に走ったと考えたんですね。英語のアルファベットのような『表音文字』のほうが、漢字のような『表意文字』より進んでいるとも考えていました」。教育使節団は、難しい漢字のせいで日本人の識字率が低いことを示そうと、全国調査を命じる。しかし、非常に識字率は高く、漢字廃止には至らなかった。ただ、戦後すぐに制定された「当用漢字表」とは「当面に使う」という意味で、漢字使用を制限したかったGHQの影響が見え隠れするという。
◇          ◇ 
 もっとも、GHQを待たずとも、習得が難しい漢字の廃止論は昔からあった。
 有名なのは、「郵便制度の父」前島密である。前島は最後の将軍、徳川慶喜に仮名文字での教育の普及を建白した。明治初期には、森有礼が英語を公用語とするよう提唱、終戦直後には志賀直哉がフランス語を公用語にせよと主張した。
 フランス語は極論だとしても、戦後の国語審議会では、伊藤忠商事元社長の伊藤忠兵衛ら、「かな文字派」=「表音派」が大きな力を持った時期があった。
 阿辻氏は、そうした風潮の根っこに、文化人・経済人の一部にあったコンプレックスを指摘する。日本語では、英文タイプライターのような機器で文字を早く打てないからだ。それを克服しようと伊藤忠商事では、60年代、社内文書の作成にカタカナのタイプライターが使われていた。使える漢字の数をなるべく少なくする「漢字制限論」も、70年代までは影響力があった。
 潮流を変えたのは、技術革新だった。
 「日本語ワープロの登場で、漢字制限論の力が失われたと思います」
 漢字ミュージアムには、東芝製の初代のワープロが展示されている。発売は40年前の79年2月。重さは200㌔グラムを超す。630万円と高かったが、その後ワープロの値段は急速に下がっていく。
 「当用漢字」が「常用漢字」と名称が改められ、使える字数も増えたのは、2年後の81年のことである。
 著名な国語学者、金田一春彦氏は、著書「日本語(新版)」で、ワープロの発明によって自らの漢字制限論を捨てたと明かした。今やパソコンやスマートフォンで、誰でも難しい漢字を使える時代となった。
◇           ◇ 
 漢字、ひらがな、カタカナを交えた日本語の文章は、視覚的に変化に富む。漢字の量を増減するだけで、文章の質は変わる。同じ言葉でも「適当」と書くのと「テキトー」と書くのではニュアンスが違うし、日本人はそれを自然に楽しんでいる。
 このグローバル化時代、英語が母国語だと、世界中で仕事がしやすい。ワシントンのシンクタンク研究員が来日したとき「米国人は、母国語が英語というだけで、ほんと得だよね」とからかったことがある。彼女は真顔で「英語しか話せない多くの米国人は、世界の多様性が理解できない。逆に、大きなハンディだ」と反論した。
 だからといって日本人の英語習得の苦労が減るわけでもないが、彼女の見方も真実の一面ではあろう。日本人は、繊細な日本語を使い、世界を相対化しながら、美的感覚や独自の文化を磨いてきた。ものづくりにもその感覚は生かされてきただろう。
 40年前の武骨なワープロを眺めながら、多くの漢字が生き残ってよかった、とつくづく思った。」朝日新聞2019年1月24日朝刊14面オピニオン欄。

 ぼくは、日本の伝統的な価値を重視するナショナリズム、国粋主義は結局愚かな偏狭な思想だと思うので、その立場に立つことはできない。しかし、日本という長い歴史の表象を自分なりに捉え返し、日本語と日本語が紡ぎ出した言葉の文化には、最大の敬意と愛着をもつ。21世紀に日本人が言葉の領域で創造的な作品を生み出せるとすれば、漢字かな交じり文を文学表現に実現した明治の文学者の貢献は「偉大」だと思う。
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恋愛映画の夢の幻17  "blue" 女の子の煌めき: 天皇交替のこと

2019-01-24 01:58:01 | 日記
A.21世紀の恋愛は少女マンガから始まった
 この「恋愛映画」シリーズも、最後の段階にきている。恋愛は男女の間で起こるもの、という常識はもはやない。「同性愛」という言葉がなにか、アブノーマルな禁断の世界のように語られたのももう時代遅れだといって構わない。それは性愛というものを、子どもを産むための生殖や、男の女への支配欲やエロを優先した思想を否定して、ロマンチック・ラブ・イデオロギーの欺瞞を一度疑ったうえで、人を想うことの完全にピュアな形がありうると、それを形象化したのは、まず20世紀の終りの少女マンガだったとぼくは思う。

■ 安藤尋監督「blue」2001
 少女マンガもレディースコミックも、既にジャンルとしてはもはや意味をもたなくなっていると思うが、マンガ専門書店などでは、まだそういう分類が通用していて、人気マンガは表の台に載せて片隅の方に少し大きな版のレディース系がまとめて並んでいる。しかし、今の「アニメの聖地」池袋の住人のぼくには、コスプレ・ゲームに流れた漫画文化は堕落だと思っているので、少女マンガの本道王道は、ピュアな瞬間のトキメキを静かに描く20世紀末の作家たちに生命が宿ったと信じている。この映画の原作になった魚喃キリコ(なななんキリコ)という漫画家を、実はぼくは知らなかった。10年ほど前この映画を観てちょっと面白かったので、原作漫画を探したが見つからなかった。かわりに彼女の別の作品「南瓜とマヨネーズ」という作品を買って読んだら、おおマンガは深化しているな!と感心した。それもいまや昔である。
  この「blue」は二人の女子高校生が主人公である。高校3年生になった桐島カヤ子(市川実日子)は、いつも一人でいる同級生で、大人っぽくて物静かな遠藤雅美(小西真奈美)をお昼に誘った。遠藤はひとつ年上であるが、去年、何かの理由で停学し同級生になっていた。この映画をだいぶ前にDVDで見たのだが、小西真奈美はこの映画の頃すでに売れっ子の若手女優として知られていたが、相手役の市川実日子は少女モデルから女優になったばかりで、世間には新人でぼくもこれで初めて見た。そのときは、不思議な雰囲気の子だなあと思っただけで忘れてしまった。やがてユニークな大物女優になるとは思わなかった(今ぼくにはこの人は一番気になる女優である)。
  この二人は、お互いを「キリシマ」「エンドウ」と姓で呼ぶ。日本海らしい浜に近い地方都市で女子高に通う二人だが、キリシマは進路が見つからない。彼女から見るエンドウは、自分の知らない世界を生きている。こういう状況は、たぶん日本のあちこちに偏在するだろう。先が見えずに心が揺れている少女は、身近にいて先を歩くモデルがどうしても必要だ。エンドウの世界を覗いてみたい。自分の知らない音楽、美術、そして歳の離れた男との恋愛、どうやらエンドウの停学の理由は妊娠して堕胎したことがバレたことらしい。謎めいた友人との交流は、大人の世界を予感させて刺激的だ。しかし、やがてキリシマはエンドウへの依存する心理を断ち切る段階にたどり着く。
  キリシマは、美大に進学することを決め、真剣に絵の勉強をすることにする。17歳の女性が世界をどのように見ているのか、ぼくにはわかるようでよくわからない部分がある。ただ、人が17歳で経験するある貴重な時間が、その人にとって決定的な意味をもつかどうかは、出会う他者のユニークな個性よりも、自分自身のもっているある態度、人に向き合うときの構えのようなものに気づき自覚したかどうか、にあるような気がする。うまく言えないが、キリシマはエンドウを見つめることで自分の姿を自覚する。
  少女マンガのリリカルな表現は、日常の細部で何げない短い言葉のやりとりと、お互いの表情だけで微妙な関係を生成させる技術に長けている。たとえば、二人が親密になる最初の場面はこうなっている。
   教室で教師に寝ていると注意されたキリシマに、エンドウが「知ってるよ・・寝てなかったよね」「・・うん」が最初の会話。それがきっかけでキリシマはエンドウを屋上での昼食会に誘う。みんなが何となく敬遠していたエンドウが屋上にやってきて、食事が始まる。午後、学校を一緒に下校する二人。キリシマは誘われてエンドウの家に行く。エンドウの部屋で炊き込みご飯を食べていけと言ったあと、机から取り出したタバコを吸うエンドウ。煙を吐いてエンドウが言う「すごいなあ・っと思って見てる?」。「ううん、火のつけ方がきれいだなって見てる」「バレないの?」「もう知ってる。だからって大っぴらにやってるわけじゃないよ。こないだなんか急に外から声かけられてさ、あわててゴミ箱に捨てたら燃えちゃって・・焦ったァ」「バカだねえ」ふふふと笑う二人。屋上での昼食に誘ったことを「ね・・昼間ごめんね」「何が?」「みんな、いろいろ聞いちゃって・・」「え、全然、・どうして?」「ううん・じゃあ、いい」「パンバターああやってみんなで食べるとおいしいね」「うん、そうなの…CDたくさんあるね」「貸してあげようか」「これいいよ、アンテック・キャメラ、知ってる?」「ううん?」その後、キリシマが本棚のセザンヌの画集を手に取って見る。「絵、好きなの?」「好きっていうか‥なんかこれ見てると安心するの」「ねえ、エンドウ、あのさ…」「なに?」「ううん、何でもない、いい…」「なに?言いなよ、気持ち悪い」「いい!」、次の画面は自宅でセザンヌの画集を見るキリシマ。
   物語の主役はエンドウなのか、キリシマなのか。作者の視点はキリシマからエンドウを見つめているから、観客もキリシマに同一化する。自分にはない未知の世界と人生の跳躍をエンドウは生きている。それに強く惹かれてもっとエンドウのことを知りたいと思う。それは初期の恋愛といってもいいが、男との恋愛ごっこのように愚かで軽薄なルストが絡まないし、自分の内部に湧き上がるものだけで走り出す。
  親が留守のエンドウの家に泊まりに行った夜。夕食を片づけてタバコを吸いながらエンドウが言う。「ここでなきゃどこでだっていいんだけど…でも別にやりたいことがあるわけでもないし…あたしって何にもないからさァ・・何にもないまま出ていくのって・・ちょっと怖いんだよね」「エンドウに何もないって信じらんないな。だっていろんなこと知ってるし、あたしの知らない音楽とか、本とかも知ってるし、すごいなあ~って思うよ」「でも、知ってるってだけなんだよ」「そうかな、あたし・エンドウになれるんだったら・なりたいよ」「へえ、どうして?つまんないよ、なってみたらがっかりするよ」そこから問題の質問になる。「エンドウさ、救急車乗ったことある?」「え、なに?…うん」「それって・停学と関係ある?」「…う~ん、うん、あるよ。え、なにキリシマ知ってたんだ・そっか…」
  並んで洋画のヴィデオを見ながら寝そべった二人。「あたしね・・中絶したんだ。2年のとき、一人で病院に行ったんだけど…次の日学校へ行ったら具合悪くなっちゃって‥保健室で寝てたら出血が止まんなくて、それで救急車呼ばれて、学校にも親にもばれちゃって‥停学のこと知ってる人はいるけど、救急車のこと知ってる人、あんまㇼいないんだよね、音消してきたから・・キリシマ知っててびっくりしたよ」「痛い?」「中絶?」「うん」「麻酔かけるから痛くはないんだけど、なんか終わったあとね、ほら、つわりってのがあるから気持ち悪くなるんだよ、それが終わった後なくなって、すっきりしちゃうんだよ…なんかそれがヤだったな。こんなんでもあたしになりたいって思う?」「思うよ」「へんなやつ…」ふたりは軽くキスをする。
   夏休みになり、エンドウはどこかに消えてしまう。たぶん男とどこかに行ったのだ。キリシマは置いてきぼりにされた自分を救おうと、美大受検の準備に入る。夏休み明けに美術室で再会した二人。飛び出すキリシマ、後を追うエンドウ。街を歩き回ってキリシマはしゃべる。「うちの親、離婚してるじゃない。おばあちゃんち、父親の方の実家なんだけど…そういうことあんまり関係なく、弟とよく行ってたんだ。凄い田舎でさ、昔は牛とかも飼ってて‥放牧場もあって、ちょっとそこいいんだよ・エンドウそこ連れてきたいなって」「よくしゃべるね」「だって、喋ってないと…喋ってないとまた・エンドウのこと責めちゃいそうだから…」泣き出すキリシマ。しゃがみこむエンドウ。
夜の海辺に出た二人。「ナカノにどこまできいてる?」「だいたい…会いに行っちゃったとこまで」「アイツ助けてほしいって言ってたんだよ。声には出してなかったけど・・そう聞こえたんだ。キリシマには言えなかったよ。キリシマよりあいつが大事だなんて」。「東京に行ってやり直したいって言ってて、一緒に来ないかって言われて…、あたしそう言われるの期待してた。でも行かなかった。キリシマがいたからだよ」「違うよ・あたしがいなくても・エンドウは行かなかったと思う。だって、あたしはいつまでも二番目なんだよ。今はその人と別れて、一番目が空いたままだけど、いつかは別の人が一番目を・・でも、あたしはいつまでもエンドウが一番好きだよ」「みんな心配してるかな?」「たぶん」「電話する?」「しない」
男女の性愛という枠を離れて、「恋愛」というものを再定義すれば、まずはこの相手が唯一だという絶対性と、その相手を排他的に独占したいという所有の観念。
魚喃キリコの「南瓜とマヨネーズ」は、この女子高生が東京に出て生活し、音楽の好きな男と同棲して暮らしている物語として読むことができる。主人公の美穂は、音楽をやりたい男を養うためにおミズのバイトまでして暮らしながら、別れた元カレのハギオを忘れられない。ハギオは女に縛られたくないと次々遊ぶ女を取り替えていくような男である。レディコミの読者である大都市に暮らす若い女たちは、男に夢を託しながら働いて、繰り返し裏切られながらも世の中のリアリティーを見つめて逃げない。こういう女に依存しながら夢を追っているつもりの男は、金と慰安を補給してくれる女にひたすら逃げ込むばかりだ。やさしいだけのニート少年がパラサイトする場所は親の家とは限らない。
それにしてもどうも理解に苦しむのは、我がままで女が自分に尽くすのは当然のように甘え切るダメ男に、心を痛めながら会いたいよォ、こっちを向いてよォ、と金を与える女性がたくさんいる、らしいことだ。水商売に慰安とエロを買いに来るお客を、心の中でツバを吐いて軽蔑しながら、その金をダメ男に貢いで切ない恋愛をしているつもりの女の、現象学的スケッチは静止画のような女子マンガの独壇場。つまり、これは優れた文学だな。
 それに比べると、この「blue」の海辺の女子高生キリシマの見ている風景は、ひどく清冽に切り立って美しい。自分が強く惹かれている相手は、もっと別の人間を追いかけていて、自分はどこまでも二番目に気にしてもらえるにすぎない。悲しいがエンドウへの想いは断ち切れない。つまり、片思いという言葉よりも、報われることのない愛と本人は思いこんでいるが、思い続けて忘れないことでどこまでもピュアであるような極度に精神的な恋愛、ということになる。この場合、たとえ二番目でもキリシマは、エンドウに重要な他者として少しは振り向いてもらえる限り、エネルギーは消えない。
 でも、これは少女漫画的虚構かもしれなくて、異性愛では邪魔なものが女同士では排除できる。そして自分を追いかけてくるキリシマを、エンドウも精神的に必要としているのなら、この世界は魅力的なのだ。だがもし、エンドウにとってキリシマなどど~でもいい、ジャマでうざったい存在でしかないならば、これは「悲劇」というより「ファルス(笑劇)」であって、それは次回とりあげるストーカー物語である。



B.社稷を昏きところで守るスメラギ
 戦後の日本国憲法を安倍晋三は変えるのが悲願というが、9条の非武装論や自衛隊を書き加えるのが主な理由だと想定する議論になって、無理やりこじつけ的な話も出てくる。結局安全保障上の現実的な問題にたいして、自衛隊が国土防衛に存分に活躍するだけなら、9条の文言など実質的に支障があるわけではないから、国民にはすぐ変えようという意見は多数派にはならないと思う。むしろ、復古的改憲派の心情のもとにあるものを炙り出していけば、自衛隊がどうこう以前に、天皇制をどう考えるか、ちょうど平成が終わる代替わりのタイミングでもあるから、ぼくたちは天皇がなんのためにあるのかを、ここでちゃんと考えてみることに価値がある。
今回の代替わりについて日本会議的な極右派の意見は、要するに国家祭司としての天皇であるべきだ、つまり「国民統合の象徴」とは神武古代以来、連綿と繋がっている伊勢神宮や国家神道の祭司としての天皇であればよい、という立場だろう。現に国民には公開されずに行われている宮中の神事、新嘗祭、神嘗祭、そして代替わりの行事である大嘗祭。これは万世一系の天皇家の祭祀であって、日本という国の弥栄を昏き畏き所で、祈る儀式なのだ。形式・内容とも神道の宗教儀式というほかない。昭和天皇崩御の際、日本国憲法の下でこの神事を国の費用で執り行うのは、信教の自由に反するのではないかという意見が出る隙もなく、「古式にのっとって(かどうかもごく一部の人にしかよくわからないが)」平成天皇は即位した。いままた、この社稷受領の秘めたる儀式が、ふたたび「前例踏襲」という問答無用で「宮廷費」によって執り行われようとしている。極右派の考える日本とは、天皇を祭司とする国家神道を日本人統合の核とする国なのだろう。これは現行憲法とはまったく異質の思想であり、9条を変えるかどうかとは関係のない「国体論」の問題である。ぼくたちはそんな空想的な神学は問題外だと相手にしなかったし、だから逆に誰も真面目に、保守派ですらあんまり真剣に考えていなかったのではないか。でも、今こそ考える時だ。

「日曜に想う :編集委員 蘇我 豪  大嘗祭の忘れもの
30年前にしまったまま忘れた宿題を突き付けられた気がして悔いがつのる。
平成元(1989)年の12月のことだった。戦後憲法下で初めて、政治が憲法と天皇の根幹問題で一つの大きな判断を下そうとしていた。新天皇の即位に伴い行われる大嘗祭(だいじょうさい)の法的位置付けである。
海部俊樹政権のもと、官房長官を長とする政府の即位の礼準備委員会が政府見解策定にあたった。意見は多様だった。
一方の極には、大嘗祭を憲法の定める天皇の国事行為にせよと迫る自民党右派など伝統主義派の声があった。もう一方の極には、政教分離の原則から宗教色の濃い大嘗祭に公的支出は認めないとする社会党など憲法重視派の声があった。
 両極の声は退けられて焦点は、皇室行事としたうえでいかに政教分離の歯止めをかけつつ公的な位置付けを表現するか、具体的に大嘗祭を賄うのは「宮廷費か内廷費か」に絞られた。その取材班の末端に政治記者1年目の自分はいた。
 昭和が瞬く間に遠ざかる冬だった。
 戦後の世界を東西に分かったベルリンの壁が壊された直後の冬だった。夏の参院選で自民党が惨敗し衆参はねじれ、野党提出の消費税廃止法案が参院で可決され衆院で廃案となった混迷の冬でもあった。大嘗祭も無縁ではなかった。
 定義だけで言えば、皇室の公的活動や皇居の維持などにあてられる宮廷費は公金扱いで宮内庁が管理する。89年度は昭和天皇の武蔵野陵建造もあって約45億円だった。他方、天皇、皇族方の日常費用や毎年の新嘗祭(にいなめさい)などに使われる内廷費は公金ではない御手(おて)元金(もときん)とされ宮内庁の管理も受けない。89年度で約2億6千万円だったが、問題は別にあった。
 内廷費の金額は皇室経済法の施行法で定める必要がある。つまり、20億円はかかると目された大嘗祭を内廷費で賄おうとすれば、政府は大幅な増額を法改正で書き込み、ねじれ国会の難関を越えなければならない。年末の予算編成が迫るなかでその危うい橋は渡れなかった。
 宮廷費支出に合わせるかのように表現も強まった。[公的色彩]があるとしたのが「公的な性格」に変わり、最後は「な」が抜け「公的性格」で決着した。暮れも押し迫った12月21日、準備委が臨時閣議に報告した見解は、大嘗祭について天皇が「国家・国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される」ものとした。
 結局、宮廷費ありきだったのだ。その時はそう思いそう書いたが、果たしてそれだけだったか。
 少しして見解策定の渦中にいた人物に夜回りをした。彼がつぶやいた言葉は30年後の今も鮮明に思い出す。
 昭和は戦争と平和の両方があった激動の時代だった。「昭和天皇は存在自体が象徴でした。今度の陛下は違う。ご自身でそうならなければならないのです」
 どうなさるのでしょうと聞くと、彼は即答した。「きっと、祈り続けられるのでしょう。どんな時も、国民と共に」
 見解に込められたであろう意味、「祈り」の真の姿はその後明らかになる。
 平成の日本を幾度も災害が襲った。国民はその都度、被災地で膝を折り被災者に寄り添う天皇と皇后の姿を目にし、天皇の祈りの言葉を耳にした。戦争の鎮魂の旅もまた、同様であったろう。
 むろん、危機に臨んで国家を統合するのは政治の仕事である。だが政治性は厳しく除去されようと、国民の心を一つにと祈る象徴の仕事は必ずある。天皇はそう決意されご自身のルールを守り、それが十全に果たせないと思った時、自ら退位を言い出されたのではなかったか。
 秋篠宮さまは昨年、大嘗祭は内廷費で賄われるべきで「身の丈にあった」もので良いと言った。だが足りないのは宮内庁の経費節減だけではあるまい。「象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた」と国民への謝意を語った昨年末の天皇の姿に改めて思う。
 平成の次の時代も祈りは分断と諦めを遠ざけ融和と希望をもたらそう。ならばなぜ憲法は政教分離と共に天皇を象徴と定めたか。その来歴と今日的意義を語り直すことの足りなさこそ悔やまれる。」朝日新聞2019年1月20日朝刊3面総合欄。

 ぼくは、明治以後の大日本帝国皇帝としての天皇制と国家神道は、西洋帝国主義に摸して捏造されたもので、フランスやプロシアの皇帝とイギリス王室などを適当に折衷して、そこに幕末尊皇思想をかぶせて皇室を権威づけたものに過ぎないと思う。だから、皇室の本来のあり方は、平安朝以来ず~っとそうであったように、京の都の御所のなかで、茶道や華道の家元のように、日本伝統文化の優雅な継承者としてつつましく穏やかに平和に暮らしていただけばよいので、国家を牛耳りたい政治家や軍人の道具に使われる不幸は、それこそ悪徳野蛮不敬反日だと思う。だから、戦争の教訓を生かそうと日本国憲法の枠の中で、「国民統合の象徴」とはどうあるべきかを追求してきた今の皇室のあり方を、今回の代替わりに際して復古的国家神道にもっていこうとするのは、阻止するべき(べき論ってヤなんだけど…)。
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恋愛映画の夢と幻16 『明暗』と『新明暗』 映画ではなく‥

2019-01-22 09:16:40 | 日記
A.永井愛作「新明暗」という舞台
 「恋愛映画」ということで、今まで見た映画から思いつくままにとりあげてきたが、当初10本ぐらいと思っていたのが、もう15本になった。そろそろやめようかとも思っているが、漱石の「それから」を出したので、ついでにもう一本漱石作品のスピンオフをとり上げたい。ただしこれは映画ではなく芝居である。夏目漱石の映画化作品としては、娯楽作の『坊っちゃん』と人気作『こゝろ』はいくつか映画になっている(市川崑や新藤兼人などの監督作)し、『吾輩は猫である』も一度市川崑が仲代達矢の苦沙味先生役で撮っている(伊丹十三の美学者迷亭はヒューモア溢れる名演!)が、森田芳光の『それから』以外は記憶にない。『三四郎』はたしかNHKのテレビドラマで一度見た記憶があるし、『門』もテレビで加藤剛と星由里子でやっていたが、漱石の最後の未完の長編小説『明暗』は映画でもテレビでもやっていないはずだ。何しろこれは、漱石の死によって途中で終っているから、結末がないドラマは映画もテレビも手がつけられなかった。文豪といわれる漱石と鷗外の作品(鷗外は『舞姫』と『阿部一族』の映画化はある)は、恋愛をテーマとした作品も奥が深いのでなかなか映画にはしにくい。そこで、そのままではなく、『明暗』に新解釈で現代を舞台に結末を戯曲にした永井愛の『新明暗』という舞台があるので、それをあえてとり上げたい。

■ 永井愛作・二兎社公演「新明暗」世田谷パブリックシアター
 夏目漱石の最晩年の到達点といわれる未完の小説「明暗」を、ぼくは2度読もうと思って買ったのだが、結局途中で放り出していた。「津田が・・」「お延が・・」というきわめて日常的で世俗的な出来事が長々書き連ねられている小説は、志賀直哉や藤村のような退屈で長ったらしい私小説と同じような気がして、我慢できなかったのだ。大正5年5月から朝日新聞に連載され作者の死によって中断された小説。今回、この芝居を見て、目から鱗が落ちたように新鮮だった。「明暗」ってこんな話だったのか、どうして今までそれに全然気がつかなかったんだろう、と不思議だった。それから、もう一度小説を読んで、漱石の死で結末が書かれなかったため、真犯人が明かされない推理小説のように謎めいて、多くの議論を呼んできた事を知った。ぼくはいったい何を読んでいたんだろうと不明を恥じた。
 それから、水村美苗が「季刊批評」に連載していた漱石の文体をそのままに書いた「續明暗」というデビュー作があったことを思い出し、引っ張り出して読んでみた。う~ん、なるほど。永井愛も水村美苗もさすがにいい所に目をつけている。この「新明暗」は、設定こそ現代にしてあるが、筋書きも登場人物もほぼ漱石の原作に忠実に、効果的な装置と回り舞台を活用して場面転換をスピーディに追っていく。
 津田由雄は大手商社の若手エリート。都内の高級マンションで、延子との新婚生活を始めたばかり。延子は重役・吉川の親友の娘。恋愛結婚には違いないが、将来の重役ポストへの足固めだと噂されている。由雄の目下の悩みは悪化した痔。とうとう医者に手術を勧められ、とたんに不安にかられる。この肉体はいつ、どんな急変に襲われないとも限らない。精神だって同じだろう。だいたい、なぜ自分は延子と結婚する気になったのか?かつての恋人清子にフラれたから?じゃあ、なぜ清子は他の男と結婚してしまったのか?「暗い不思議な力が自分を支配している」由雄はそんな考えにとりつかれだした。延子もとっくに不安を抱えていた。新婚だというのに、もう夫は謎に包まれている。会話を避け、すぐ自室に引っ込んでしまうのはなぜ?
 結婚を機に人材派遣会社を退職した延子は、さらなるキャリアアップを目指して充電中。専業主婦になってどんなに尽くしても、いずれは夫に軽んじられる。「愛の相撲取り」延子の理想は唯一絶対の存在として愛し、愛される夫婦関係。その実現のためには、夫と対等に向き合えるような社会的存在でありたかった。だが、もうすでに二人はコミュニケーション不全に陥っている。延子は由雄が何か重大なことを隠していると勘ぐり、由雄は延子が何かを探ろうとしていると警戒した。
 二人はマンションのローンも重く、その返済をめぐっても、腹の探り合いが続いていた。その上面倒なことに、二人は敵だか見方だかわからない人びとに囲まれていた。吉川夫人は夫の優秀な部下として、由雄が大のお気に入り。だが、行為を超え、すべてを支配しようとする夫人の欲望も、由雄は敏感に察知していた。夫人はなぜか延子を嫌い、清子のことをほのめかして由雄を刺激する。由雄の妹、秀子もなぜか延子を嫌っていた。
 大学時代の友人小林という男も、由雄にはやっかいな存在だった。ルポライターを自称し、怪しげな職業を転々としている小林は、由雄のエリート意識を罵りながらつきまとう。由雄の入院、手術、退院と日を追うにつれ、これらの人間関係は由雄と延子を翻弄した。吉川夫人、秀子、小林の言動から、延子は由雄に忘れられない女がいると確信する。一方、由雄は吉川夫人に煽られ、流産した清子が宿泊中の温泉宿に向かう。清子に会い、なぜフラれたのかを聞き出そうというのだが・・。
 最後に温泉で清子に出会った所で、漱石は死んでしまったが、永井愛はちゃんと結末を書いた。推理小説の結末をバラすことになるが、なるほどと納得してしまった。小説としては水村美苗の方が漱石の文体を引き継いで綿密だし、丁寧だが、「新明暗」は現代にしたぶん明確な感動がある。
 1916年、大正5年の東京に生きる学歴や地位に恵まれた津田という男の頭を占領しているのは、基本的に21世紀の現代に生きている普通のサラリーマンそのものである。というよりも近代化された社会の日常を生きている人間の、共通項としての精神の課題を既に大正5年にしっかり小説にしていた夏目漱石の凄さ!に驚かないといけない。さらに、それが問題にしていることが、当時の男にも女にもよく理解されていなかったことも確かだ。漱石の弟子たちは、漱石が何か崇高な哲学「則天去私」に到達していたはずだ、というところから勝手に見当違いな解釈をして満足した。50年後の江藤淳はそれを指摘したけれども、「明暗」の結末はさらに30年ほど経って女性作家によって書かれるまで見つからなかった。
 津田の存在は清子によって否定された、というテーマが姿を現し、その探求が津田自身によって逡巡しながらも行われる。津田の「あなたはどうしてぼくを捨てたんですか?」という問いは、根源的なものになると同時に、きわめて日常的でありふれた問いでもある。わざわざその答えを聞くために遠くまでやってきた津田を清子はどう扱うのか?規範や道徳や約束や契約や、人間が社会生活で考慮すべき面倒な枠組みの中で、津田のような男は自分の利害とエゴイズムを巧みに調整し実現していくことに自信をもっている。いわば世間をうまく渡っていける、と思っているエリート男だ。そういう男が「うまくいく」はずの女によって否定される。それが津田にリアルを露呈させる。では、清子は何を考えているのか?あるいは妻の延子は?
 「ぼくを捨てた理由」を問うという行為は、「ぼくは君に何を求めたのか?」という問いと対になっており、彼女にとっては「あなたを捨てた理由」とは「あなたに何を求めていたのか?」という問いでもある。個として近代に向き合って生きるということは、こういう問いを逃げないで問い続けることなのだ、ということになる。それを問いに来た男に会って、女は覚悟を決めて逃げない。なぜ?それは他の誰でもない自分を選んでくれたことへの責任というものだろう。そして他の誰でもないあなたを選んだ自分への責任でもある。女は男をもう一度受け容れようと風呂場で待ってるから来てと言う。ところが男は必ず行くと言いながら、怖くなってこそこそ正念場で逃げ出してしまう。責任を取ろうとしない男が、いつも言い訳に使うのが世間、国家、国益、民族の大義であるのは救いようがない。清子は最後にはっきりと、あなたがそういう人だから私は捨てたの、と言って去る。
 漱石だったらどう書いただろうか?きっともっと中途半端だったろう。「それから」の長井代助のように。水村美苗の「續明暗」では清子に去られ妻の延にも見つかって、ぶざまにぐじぐじ居直る津田にしてある。さすが、女の視線は厳しい。でも、ぼくもこの結末を書いてみろといわれたら、ちょっと苦しい。それはぼくが男だからなのだろうか?世間や社会のしがらみを脱ぎ捨てるには、厄介なものを重く抱えていると思っているからだろうか?それとも自分にも他者にも、息詰まるような激しい関わりをもつ気力や意欲をすでに失っているからだろうか?
21世紀の現在も、あきれるほど沢山の恋愛小説やラブ・ストーリーが消費されているけれど、ほとんどの物語は2人の作る世界とそれ以外の世界を分け、2人だけの閉じた恋愛空間がそれ以外の世界と背中を向け合っている。いわば逃避の巣を女も男も恋愛に仮構している。しかし恋愛空間は必然的に変質していくので、回転ドアのように3人目の外部世界と往復することになる。すると、通俗的には2つしかパターンがない。恋の終わりを諦観で締めくくるか、よりめざましい恋に突進するか。でもどちらも嘘である。「明暗」が際立つのは、そういう安易な道を捨てて、恋自体を問うからだと思う。



B.またも柄谷先生ではあるが…
 江藤淳が文芸評論家としてデビューしたのは「夏目漱石」論だった。その後も、小林秀雄論や米国での経験を経て、まだエリクソンのアイデンティティという概念が日本では未定着だった頃の『成熟と喪失』で、大学生だったぼくは非常に大きな示唆を受けて江藤淳を片端から読んだ。あの頃、みんなが読んでいた吉本隆明をぼくも随分読んでいたのだが、その後『漱石とその時代』の評伝3部作で、作家になる前の漱石にさらに興味を持って、吉本からは徐々に離れた。政治的立場は、吉本と江藤はかなり距離があったし、80年代になると江藤淳は保守派の論客としてさまざまな活躍をしていた。江藤の言うことは、60%はよくわかったが、あとの40%のもとにある戦後への否定的立場が、どうも違和感があった。その頃やはり夏目漱石論で登場したのが柄谷行人で、ぼくはまた新たな漱石の読みに目を開かされた気がして、江藤から離れていった。少なくとも漱石論では、柄谷行人の言うことの方に説得力があるように今も思う。

 「『明暗』は、大正5(1916)年に朝日新聞に連載され、漱石の死とともに終わった、未完結の小説である。これが未完結であることは、読むものを残念がらせ、その先を想像させずにおかない。しかし、『明暗』の新しさは、実際に未完結であるのとは別の種類の“未完結性”にあるというべきである。それは、漱石がこの作品を完成させたとしても、けっして閉じることのないような未完結性である。そこに、それまでの漱石の長編小説とは異質な何かがある。
 例えば、『行人』、『こゝろ』、『道草』といった作品は、基本的にひとつの視点から書かれている。わかりやすくいえば、そこには「主人公」がいる。従って、この主人公の視点が同時に作者の視点とみなされることが可能である。しかし、『明暗』では、主要な人物がいるとしても、誰が主人公だということはできない。それは、たんに沢山の人物が登場するからではなく、どの人物も互いに“他者”との関係におかれていて、誰もそこから孤立して存在しえず,また彼らの言葉もすべてそこから発せられているからである。
“他者”とは、私の外に在り、私の思い通りにならず見通すことのできない者であり、しかも私が求めずにいられない者のことである。『明暗』以前の作品では、漱石はそれを女性として見出している。『三四郎』から『道草』にいたるまで、きまって女性は、主人公を翻弄する。到達しがたい不可解な“他者”としてある。文明批評的な言説がふりまかれているけれども、漱石の長編小説の核心は、このような“他者”にかかわることによって、予想だにしなかった「私」自身の在りよう、あるいは人間存在の無根拠性が開示されるところにあるといってよい。だが、それらの作品は、結局一つの視点=声によってつらぬかれている。
 『明暗』においても、津田という人物にとって、彼を見捨てて結婚してしまった清子という女は、そのような“他者”としてある。しかし、この作品はそれほど単純ではない。たとえば、お延にとって、夫の津田がそのような“他者”であり、お秀にとって津田夫妻がそのような“他者”である。
 注目すべきことは、それまでのコケティッシュであるか寡黙であった女性像、あるいは、一方的に謎として彼岸におかれていた女性像に対して、まさに彼女らこそ主人公として活動するということである(最後に登場する清子にしても、はっきりした意見をもっている)。さらに注目すべきなのは、これらの人物のように「余裕」ある中産階級の世界そのものに対して、異者として闖入する小林の存在である。『明暗』の世界が他の作品と異なるのは、とくにこの点である。いいかえれば、それは、知的な中産階級の世界の水準での悲劇に終始したそれまでの作品に対して、それを相対化してしまうもう一つの光源をそなえている。
 さらに、このことは、津田が痔の手術を受ける過程の隠喩的な表現にもあらわれている。それは、たんに、津田の病気が奥深いもので「根本的の手術」を要するという示唆だけではない。たとえば、彼の病室は二階にあるが、一階は性病科であり、「陰気な一群の人々」が集まっている。そのなかに、お秀の夫も混じっていたこともある。それは、津田やお延、あるいは小林が求める「愛」とは無縁な世界であり、津田の親たちの世界と暗黙につながっている。
 このように『明暗』には、多種多様な声=視点がある。それは、人物たちののっぴきならない実存と切りはなすことができない。つまり、この声=視点の多様性は、たんに意見や思想の多様性ではない。『明暗』には、知識人は登場しないし、どの人物も彼らの生活から遊離した思想を語ったりはしない。むろん彼らが“思想”をもたないわけではない。ただ彼らは、それぞれ彼ら自身の内奥から言葉を発しているように感じられる。その言葉は、何としても“他者”を説得しなければならない切迫感にあふれている。もはや、作者は、彼らを上から見おろしたり操作したりする立場に立っていない。どの人物も、作者が支配できないような“自由”を獲得しており、そうであるがゆえに互いに“他者”である。
 明らかに、漱石は『明暗』において変わったのである。だが、それは、小宮豊隆がいうように、漱石が晩年に「則天去私」の認識に到達し、それを『明暗』において実現しようとしたから、というべきではない。「則天去私」という観念ならば、初期の『虞美人草』のような作品において露骨に示されている。そこでは、「我執」(エゴイズム)にとらわれた人物たちが登場し悲劇的に没落してしまうのだが、彼らは作者によって操作される人形のようにみえる。
 『明暗』において漱石の新しい境地があるとしたら、それは「則天去私」というような観念ではなく、彼の表現のレベルにおいてのみ存在している。この変化は、たぶんドストエフスキーの影響によるといえるだろう。事実、『明暗』のなかで、小林はこう語っている。

 「露西亜の小説、ことにドストエヴスキの小説を読んだものは必ず知ってる筈だ。如何に人間が下賤であらうとも、又如何に無教育であらうとも、時として其人の口から、涙がこぼれる程有難い、さうして少しも取り繕わない、至純至精の感情が、泉のやうに流れ出して来ることを誰でも知っている筈だ。君はあれを虚偽と思ふか」
 小林のいう「至純至精の感情」は、漱石のいう「則天去私」に似ているかもしれない。しかし、ドストエフスキー的なのは、そのような認識そのものではなく、そう語る小林のような人物そのものである。小林は、津田やお延に対して、「尊敬されたい」がゆえに、ますます軽蔑されるようにしかふるまえない。傲慢であるがゆえに卑屈となり、また、卑屈さのポーズにおいて反撃を狙っている。彼の饒舌は、自分のいった言葉に対する他者の反応に絶えず先回りしようとする緊張から生じている。
 これは、大なり小なりお延やお秀についてもあてはまる。彼らは、日本の小説に出てくる女性としては異例なほど饒舌なのだが、それは彼らがおしゃべりだからでも、抽象的な観念を抱いているからでもない。彼らは相手に愛されたい、認められたいと思いながら、そのように素直に「至純至精の感情」を示せば相手に軽蔑されはすまいかという恐れから、その逆のことをいってしまい、しかもそれに対する自責から、再びそれを否定するために語りつづける、といったぐあいなのである。彼らの饒舌、激情、急激な反転は、そのような“他者”に対する緊張関係から生じている。いいかえれば、漱石は、どの人物をも、中心的・超越的な立場に立たせず、彼らにとって思いどおりにならず見とおすこともできないような“他者”に対する緊張関係においてとらえたのである。
 『明暗』がドストエフスキー的だとしたら、まさにこの意味においてであり、それが平凡な家庭的事件を描いたこの作品に切迫感を与えている。実際、この作品では、津田が入院する前日からはじまり、温泉で清子に会うまで十日も経っていない。人物たちは、何かがさし迫っているかのように目まぐるしく交錯しあう。われわれが読みながらそれを不自然だと思わないのは、この作品自体の現実と時間制のなかにまきこまれるからである。そして、この異様な切迫感は、客観的には平凡にみえる人物たちを強いている、他者に対する異様な緊張感に対応している。」柄谷行人「作品解説「明暗」」『新版漱石論集成』岩波現代文庫、2017.pp.358-363. (原著「新潮文庫」解説は、1985年11月記となっている)。

 『明暗』という作品が、いろんな意味で夏目漱石の到達点(たんに作者の死によって未完に終わった最後の作というだけではない)であったというのは、この解説でもよく解る。日本の文学史に残る小説家の多くは、若い時に西洋のキリスト教文化(自然主義からマルクス主義までを含む)に触発され、清新な作品で世に出るが、中年以降しだいに特殊日本的な要素を強め、晩年になるとナショナリズムや天皇制に愛着を示す保守的な傾向に固まっていく人がかなりいる。それを文学的な深まった境地とみる場合もあるが、ぼくは一種の老年の衰弱だと思う。鷗外の晩年の史伝は、そういう衰弱とは別の世界だとは思うが、夏目漱石の場合はむしろ絶えず進化して、最後まで衰えどころか方法と内容の革新を追求していたと思う。

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