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イギリスに行ったウィトゲンシュタイン・・ドイツ語と英語

2018-03-30 23:17:39 | 日記
A.イギリスの社会思想
 戦前の日本の高等教育、つまり旧制高校や旧制大学の教育では、語学と言えば英独仏のどれかを学ぶもので、とくにデカンショと呼ばれた西洋哲学の原書を読めるようになることが、大学生の基礎的教養のように考えられていた(らしい)。実際どれほどの大学生が、カントやヘーゲルやデカルトやショーペンハウエルを原書で読んで理解できたのかは、怪しいかもしれないが、とにかく横文字を読めるのがステータスではあった。今の文科省みたいな、とにかく英語を自在に話せて外国人とサシで会話できるのが語学の価値で、学術的洋書を読むことなどできなくてもいい、という考えは、外国人と直接接する機会などなかった時代には現実的ではなかった。今でも大学で第二外国語として、ドイツ語やフランス語や、なかにはロシア語やスペイン語なども教えるクラスはあるが、これも実用的には英語に比べて格段に無用視されている。要するに、いまは読むことから話すことへ、語学の有用性が移行している。
 同時に、グローバル世界の汎用言語として英語の使用頻度が圧倒的に高いという“常識”があって、だから英語だけは話せた方がいいという教育観になっている。でも、少なくとも学問の世界で、とくに社会科学の世界で、英会話が達者であることよりは、洋書が読めることの方がやはり絶対に重要だと思う。できれば英語だけでなく、フランス語かドイツ語が読めることは学問研究上、比較優位性があると思う。20世紀の半ばの時点では、重要な最新文献は翻訳もなく、原典を読めなければ先端の議論に参加できない。数式やデータで結果だけ理解できればよい理系の論文はともかく、社会科学や哲学は言語的読解が正確にできなければ、話にならない。
 スチュアート・ヒューズの『大変貌』の主題は、ヨーロッパからアメリカに亡命した社会思想家の問題だから、ドイツ語圏やフランス語圏から英語圏への亡命者の言語の問題もかかわってくる。フランス人のアメリカ亡命者はドイツ語圏よりはるかに少なかった、というから、ドイツ人が英語圏に行ったらどうなるか、がひとつのテーマになるが、ここでは移民国家アメリカではなく、英語の祖国イギリス(イングランド)の哲学に外国人が影響を与えたか、という話である。

「19世紀末以来、イギリス思想の動きは、大陸での動きと局面がずれていた。イングランド人とスコットランド人は、自分たちで決めた特徴的な目的にあった概念だけを外国から借りてきて、独自のコースを歩んでいた。19世紀のはじめ、フランス大革命の反響は、ドイツやそれがもともと起った国にあらわれたほどには、啓蒙への広い疑問を惹き起さなかったので、また、ベンサムと二人のミルの伝統は1789年以前の精神世界から途切れることなく継続していたので、ジョン・スチュアート・ミル以降の数世代の知的闘いは、英仏海峡の向こうのものとは違った次元で起り、違った色調をもっていた。イギリスでは、自由主義と、平明で常識的な種類の実証主義とは、国内産の産物で、哲学的論究の第二の天性となっていた。この二つのものはともに、ジョン・ロックを正統の祖だとしていた。そして、実証主義的姿勢は、ダーウィンの時代の自然科学の勝利によって強化されていた。
 この後者の態度の優位に対して、観念論的思想は、動揺し途切れがちな挑戦しかできなかった。厳しい甲冑に身を固めたドイツ観念論は、大陸での最盛期を半世紀も過ぎてからようやくイギリスの大学に到来した――そのとき、それはヘーゲル流の観念論であった。イギリスの観念論的思考様式の受容は、当時にあっても時代遅れのものであった。世紀の転換期に、すでに原型的な観念論と実証主義の双方を経験していた大陸の理論家たち――とくにデュルケームとウェーバー――が、この双方から学びとったものを総合して超えでるような新しい社会思想の準拠を明らかにしはじめていたときに、イギリスでは、F・H・ブラッドレーやバーナード・ポザンキットのような哲学者たちが、強情に抵抗する自国の人たちをヘーゲル哲学に導入しようとなお努力していたのである。
 ヘーゲル観念論――あるいは絶対的観念論とも呼ばれる――は、「外国からの輸入品で……イギリスの風景では異国風のもの」とみられた。したがって、それが短期間力をもったのが、容易にしかも永久に力を失ったのも不思議はなかった。観念論的思考様式の退潮と、それに伴うイギリスのもっとも広く生き渡った20世紀思潮の明確化とは、二組の異なった著作家たちの手によって行われた。だが、この二組は、ともに足の地につかぬ抽象を嫌っただけでなく、さらに、ヘーゲル哲学への逸脱の時代をこえて本来的なイギリスの哲学的過去へと戻った点でも共通していた。
 まず最初に現れたのは、経済のアルフレッド・マーシャルや社会学のグレアム・ウォ―ラスに典型的にみられるプラグマティクで唯名論的な社会科学であった。19世紀の普遍的理論追求の野望を棄て、マーシャルやウォーラスのような人びとは、個別的で特殊的なものに関心を向けた。かれらはまた、社会改革に深くかかわり、かれらの思想の実践的適用に力を入れていた。同時代の大陸の人びとよりも穏健な目標を追求したかれらは、1900年前後のドイツ人やフランス人、イタリア人がきわめて緊要な問題と考えていた認識論的問題にかかずらうことを拒んだ。イギリスの社会思想家たちは、思弁よりも測定を、認識理論よりも堅固な事実を好んだのである。かれらのもっとも影響力のある達成は、次の世代において、ジョン・メイナード・ケインズの新しい経済学とともに実現されることになった。
 絶対的観念論を打破した第二の思想家の一群は、ケンブリッジの哲学者G・E・ムアとバートランド・ラッセルであった。世紀が転換して間もなく公刊された『倫理学原理』Principia Ethicaで、ムアは、「それ自体善なる」ものは「本質的にまったく独自」なものである――それは「現実についてのいかなる断定にも還元され」えない――と主張して、実証主義とヘーゲル哲学の教えの双方を論駁しようとした。この価値の領域と事実(ないし科学)の領域との分離は、これとほとんど同時に行われたマックス・ウェーバーの方法論的宣言と相通じるものであった。このイギリス人とドイツ人とは、二正面作戦を戦うという危険な立場を共にしていたのである。かれらは、一方で、読者に何の断りもなく科学的断言と倫理的断言の間を往復する安易な実証主義的研究に挑戦することが必要だと考えた。他方、かれらは、精神のある領域において、この二つの型の言表が堂々と綜合に達しうるというヘーゲル哲学の考え方を攻撃した。ムアのいうように、「真理を犠牲にして“統一”と“体系”を求めるのは」、「哲学の本務」ではないのであった。
 ムアとウェーバーの努力の相似が、これまでほとんど注目されてこなかったのは不思議なことである。かれらの用語とかれらの論じた主題とがひじょうに異なったものであったので、かれらの根本的な知的一致が見過ごされたままになってきたのである。しかし、ふたりは、正しい問いかけ――すなわちまた、これまで哲学者たちが求めないできた問いかけ――を求めたのであり、かつて哲学者たちが問うていた問いの意味を暴露しようとした。ウェーバーの場合は、この手続きは、人間社会の探求のための予備学という形をとった。ムアとその同志たちの場合には、こういう端緒の前提の明確化が、まず最初になすべき主要な仕事になった。ムアのケンブリッジの同僚バートランド・ラッセルの初期の準数学的研究において、哲学は、言語の論理分析という狭い視野に還元され精緻化された。そして、これは、ラッセルのより厳密な継承者たちの研究に引き継がれた。ムアの遺産はもっと開かれたものであった。かれの簡明で直截な議論の仕方と「常識」の尊重とは、かれの影響を受けた学生たちの二世代に、まったく自由に自分たちに興味のあることがらを何でも探究させた。しかし、実際には、大ていのものは、安全で危なげのない論理学と認識論の境界内にとどまった。ムアの仕事に深く触発されたものたちのうちで、ケインズただひとりが第一級の社会思想家になった。
 こうして、マーシャルとウォーラスを一つの知的努力のタイプとし、ムアとラッセルをもう一つのタイプにして、かれらは、ロック、ヒューム以来のイギリスの中心的伝統――経験的で唯名論的な――を賦活したのだが、イングランドとスコットランドの諸大学では、ウェーバーやデュルケームが創唱したような哲学的基礎に立つ社会科学は発展しなかった。ケインズは、そういう社会科学の定礎者の役割を演ずることができたはずだが、公務と技術的経済学にエネルギーを注ぐことの方を選んだ。結局、ケインズが友人として助け、財政的に援助までした一人の人物――ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン――が、時期的には遅れ、焦立たしい断片の形ではあったが、厳密な哲学的分析と社会の本質についての思弁とを結ぶ視点を、イギリスの学生たちに与えることになった。

 ヴィトゲンシュタインは、政治的ないしは「人種的」迫害を逃れてきたものではなかった。ユダヤの出自ではあったが、かれは、その出自のために差別に苦しんだことはなかった。さらに、かれが最終的にイギリスに移住したのは、ドイツでのヒトラーの抬頭に四年先立っていた。しかし、かれがイギリス人の間で果した機能は、まさにアメリカ合衆国における中央ヨーロッパからの亡命者たちの仕事に対応するものであり――影響力という点ではそれに優ってさえいた。
 イギリスの教育機関は、外国人に対してアメリカのそれより閉鎖的だった。イギリスの大学が受入れたのは、数の上ではるかに少なかったし、その大部分は文学ないし古典学の教科のもので、1930年代に大陸から亡命した社会科学者については、ほんの一握りのものしか吸収しなかった。それは単に教職のポジションが少かったからだけではなかった。それはまた、イギリスでは正式の大学院教育という考え方がやっと生まれたばかりであったからであり、大学に籍をもつ研究生の大部分は自然科学に特定されていたからであった。その上、社会学の分野は、混迷して沈滞していた。このようなあまり望みのない状況のなかでは、大部分の中央ヨーロッパの学者たちが大西洋を越える方をとったのも当然であった。そしてまた、イギリスに定住した大陸出身者のなかでもっとも影響力のあったそのひとが、純粋に正統的な哲学の分野で仕事をしたひとであり、しかも大学との結びつきが第一次世界大戦前に遡るひとであったのも、不思議ではない。」スチュアート・ヒューズ『大変貌 社会思想の大移動 1930-1965』荒川幾男・生松敬三訳、みすず書房、1978.pp.27-29.

 ヒューズは、アメリカの思想史家として20世紀ヨーロッパを見ているので、どうしてもナチスに追われたユダヤ系亡命者のアメリカへの貢献、およびかれらの思想のアメリカでの発展というところに目が行く。そこで繰り返し出てくる名前が、ウェーバー、フロイト、そしてウィトゲンシュタインだが、この3人のうち亡命者といえるのは晩年のフロイトだけで、しかもフロイトもウィトゲンシュタインも移住したのは、アメリカではなくイギリスだったのだから、ヒューズの扱いは少々説明を工夫することになる。



B.誰のために働いているのか?
 財務官僚は国家中枢の高級官僚中の官僚といわれている。この人たちは国民への奉仕者として大きな権限を与えられているが、それは時の首相と内閣が、国民から選ばれた国会で多数を占める与党の権力に基づき、政府が決めた方針や政策を忠実に実現することが仕事だからだ。この論理から、首相の意向に忠実に動くことは正当化される。でも、だからといって違法行為や国民に説明できない不正行為をやってよいはずはない。不正行為が発覚しその責任を問われて国会の証人喚問に呼ばれた財務官僚は、誰かの指示や意向を汲んで公文書の改竄をしたのではなく、自分のした不正行為の理由も経緯も説明を拒んだ。これは私は気が狂っていました、という意味か、それともどうしても隠したいことがある、と言っているとしか思えない。

「連立方程式:佐藤 優
 二十七日、衆参両院の予算委員会で元財務相理財局長の佐川宣寿氏に対する証人喚問が行われた。森友学園への土地売却に関する公文書が改竄された経緯や自らの関与については、刑事訴追の恐れがあるという理由で証言拒否した。しかし、安倍昭恵首相夫人の関与については、全面的に否定した。佐川氏自身が本件に関する関与を、改竄された公文書を見たか否かという刑事訴追に関係するとは思われない事項に関して証言を拒否したうえで、改竄に関する昭恵氏の関与を否定するのは奇妙だ。なぜなら佐川氏自身が当該公文書を読んだことを含め、事案の全体像に通じていなくては昭恵氏の関与を否定できないからだ。
 佐川氏は、首相官邸、財務省と自分を同時に守るという連立方程式をつくって尋問に臨んだ。その目的は、首相官邸と財務省を守れば、自分が刑事責任を追及されることを免れるという希望的観測に基づくものだ。佐川氏には、国民に対する奉仕者である国家公務員だったという意識が希薄だ。自分の生き残りしか考えていない。それだから、有権者による直接選挙によって選ばれた参議院議員、衆議院議員の前で真実を語ることに関心がなかったのだ。今回の証人喚問の結果、国民から超然として存在している元財務官僚の病理が可視化された。徹底的な治療が必要だ。(作家・元外務省主任分析官)」東京新聞2018年3月20日朝刊27面特報欄、本音のコラム。

 自分のした行為に責任を取る、とはどういうことかを考えさせる記事もあった。

「成田闘争の象徴 撤去へ:成田空港(千葉県成田市など)の開港を4日後に控えた1978年3月26日、開港に反対する活動家たちが管制塔(高さ約64㍍)に侵入して機器を破壊する「管制塔占拠事件」が起き、開港は2カ月遅れた。あれから40年。成田国際空港会社(NAA)は「成田闘争の象徴」といえるこの建物を、2020年にも取り壊すことを決めた。
 成田空港をめぐっては、建設が閣議決定された66年以降、地元農家らの反対運動が活動家を巻き込んで激化。警察官3人が死亡した東峰十字路事件など「成田闘争」が繰り広げられた。
 78年3月、航空機への離着陸の指示などを担う管制塔の最上階の16階の管制室に活動家らが侵入。鉄パイプなどで機器を壊し、著類を窓から投げ捨てた。数時間後に逮捕されたが、開港は5月20日まで延期された。
 93年2月に高さ約87㍍の新管制塔が北側に建てられた。事件が起きた建物は旧管制塔となり、地上の航空機の誘導などを担うランプコントロールタワーとして使われてきた。しかし、近年は老朽化が進み、雨漏りなど傷みが目立つ。NAAは2020年の運用開始を目指し、今年4月、南側に高さ約60㍍の新ランプコントロールタワーを着工する。運用開始後、旧管制塔を撤去する予定だ。
 成田空港は現在、海外115都市、国内18都市を結ぶ。17年の旅客数は計468万人で、過去最多を更新。今月13日には。3本目の滑走路の新設や運用時間の延長に地元自治体などが合意した。
 元活動家「管制官に謝りたい」
 管制塔占拠事件の中心メンバー17人のうち、管制室まで入ったのは6人。その一人、中川憲一さん(70)=東京都=は当時、会社員だった。「怖い思いをさせて申し訳なかった。当時の管制官に謝りたい」。朝日新聞の取材にそう話した。
 「特別な任務をやってくれないか」。数カ月前にそう言われた。任務で走れるようにたばこを断った。刑務所に入ると覚悟し、頭を丸刈りにした。管制室では「人を傷つけないように」と、窓から機器を投げずに書類をばらまいた。
 出所後、しばらく日雇いで働き、再び会社員になった。定年まで勤めながら、空港反対運動に時々参加した。元活動家たちには国から1億300万円の損害賠償金を督促され、給与の差し押さえ命令が通知されるなどしたが、インターネットの支援サイトなどで約2千人が寄付してくれた。「心のこもったお金。感謝している」。この10年は、母親の介護で北陸と東京を往復しているという。
 管制塔占拠事件を計画した和多田粂夫さん(77)=同=は「開港を延ばし、国に開港をあきらめさせようと思った。ぼくも福井県の農家の出身。農家を守りたいという思いもあった」と降り返る。
 逮捕から11年半後に釈放され、出所後は会社勤めをして出版物発送会社の社長にも就いた。事件から40年。当時の反対派の農家の中には、子どもが空港で働いている人もいるという。「地元ではそうやって生きているのが現実」と受け止めている。
 いまも反対運動を続けている人がおり、和多田さんは集会などに参加しているが、「もう僕らが外から何か言うものではない」と話す。山梨県にある畑に時々通い、野菜を育てている。(黒川和久)」朝日新聞2018年3月30日夕刊15面社会欄。

 成田空港反対闘争は、60年代末から70年代半ばまで、いわゆる新左翼「過激派」が絡んださまざまな事件のなかで、若者中心の大学闘争や武力革命を叫んだ赤軍派事件など観念が先行した運動とは異なる、土地を奪われる農民の生活圏と国家が進める空港建設の対立というリアルな問題に、若者が実力で「支援する」ものだった。管制塔事件は、その象徴的な事件の一つだった。成田闘争の問題は発端で三里塚の農民を説得する努力を怠って、運輸省と政府が強引に強制収用などをすすめたことへの農民の反発に起因する。こじれ切った中で、多くの学生や若い社会人が運動に加わった。革命運動の一つとして党派的に関わった者も混じっていただろうが、多くは土地に生きる農民やその家族の心情に共感して反対運動に参加していたと思う。当時三里塚に行っていた友人を見ていて、運動の主体は農民であって学生はそれを応援しているのだ、という言い分に納得したと同時に、わくわくイヴェントに成田に行ってくるぜ、という軽薄な気分も感じた。闘争の行方を見兼ねた労働経済学者、隅谷三喜男先生たちが、政府と調停に立って反対派との和解をすすめ、計画を部分修正して空港がやっと開港した。
 あのときの若者たちももはや70代!事件を知る人もみな老いた。成田空港は日本の玄関として賑わっている。しかし、管制塔を占拠破壊した行為は暴力的違法行為であるから、実行者は逮捕され刑務所に入って責任を取った。正義を信じて行った行為でも、人生にとっては重い責任である。国民の税金や資産を恣意的に動かした不正行為を、権力の意向で免れようとするのが高級官僚であるのなら、重い責任を取ってもらわねばならない。

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ドイツ人の英語、アメリカ人のドイツ語? 音楽の環境革命

2018-03-28 19:50:06 | 日記
A.語学の壁
 大学など高等教育を受けたドイツ人は、たいてい英語を話す、と思われる。ドイツ語と英語はゲルマン系言語で語順と名詞・冠詞に男女中性などがあって多少違うが、文法構造的に大きく異なるわけでもないから、まじめに学習すれば読書や会話や簡単な文章は書けるだろうと思う。英語ネイティヴがドイツ語を学ぶより、ドイツ語ネイティヴが英語を学ぶほうがたぶん容易なのではないか、と言語体系のまったく違う日本人なら思うだろう。でも、どうやらそう簡単でもないらしい。とくに文筆を業とするドイツ人が、別の言語で満足のいく表現をするのは困難だと感じるのは、ある年齢を超えるとやむをえないかもしれない。
 自分の場合で考えれば、ぼくは30代後半でドイツ語を学習したので、読むと話すは何とかこなしても書くのは苦しかった。外国語で文章を書くのは、自国語で書いておいて翻訳をすることになるからぎこちなく、ネイティヴ・チェックをしないと読める文章にはならない。頭の中がドイツ語で考えられるところまでいかないと、まともな文章にはならない。同様のことは、アメリカに亡命したドイツ人作家の場合も、似たようなものだろう。ある言語には、独特の言い回しやちょっと凝った表現などがあるものだが、英語やスペイン語のように、多民族や複合文化の人々がコミュニケーションの道具として使うことの多い言語は、もともとの特殊な表現は削ぎ落してしまうのに対し、ドイツ語は固有の表現に深みを持たせたりするから英語に変換すると味気なくなるとドイツ人は思うだろう。
 ものを書くのが仕事だった人間が、異なる言語の世界に来て、もとの言葉でしか書かなければそれは読まれることなく、作家として生き延びることは難しい。アメリカに亡命したドイツの知識人の場合、言葉を表現手段とする作家や哲学者と、英語を道具として使いこなした社会学者や音楽家は、亡命先での活動や知的貢献にかなり違った結果をもたらした、とヒューズは言う。

「新しいアメリカの環境のなかでは、ある様式の思考は栄え、あるいはようやく命脈を保った。このような成功と不成功の理由のもっとも重要なものは、それぞれの場合に、ドイツ語の表現がどの程度、比較的損なわれずに英語に移せたかということであった。
 この点で、亡命者のなかで、作家と社会思想家は、ちがった問題に当面した。前者は、自国語を用いつづけ、アメリカの読者に対しては翻訳家に頼っていた。かれらの大部分は、劇作家のカール・ツックマイヤーや小説家のヘルマン・ブロッホのような卓越した作家を含めて、アメリカ合衆国での歳月をほとんどまったく無名のままに過した。このことは、かれらが、自国語がほんの僅かの者によってしか話されず、ごく少数の教育ある者によって僅かに読まれるだけの国に定住するために払った残酷な代価であった――その僅かの少数者も、おそらく一世代前よりは少なかっただろう。第一次世界大戦中の反独的風潮の腐蝕力がもはや回復し難いまでにドイツ語研究を挫いていたのである。社会思想家の方は、ごく僅かだが目立った例外を除いて、反対の選択をした――はじめは下手だったが、次第に自信をもって。だが、かれらのなかでもっとも若かったか、もっとも適応力があったものだけが、新しい言葉を完全に身につけた。大ていのものは、その過程で自分たちが失ったものに痛く気づくことになった。このような言葉の闘いの経験者のひとりは、回想して次のようにいっている。
 夢のなかでも使う自分の言葉ではない言語で仕事をすることは、多くの含蓄、多義性と詩的観念、自発性、さらには沈黙の意味をすら失うことであった。思考と感情の次元は、前もって組み立てられ学習された連結で語られ、したがって豊かなるべきものを貧しくする危険の強い言葉を使う、意味作用のテクニックにとって代られざるをえなかった……。
 教育のない人たちは、型にはまった句で僅かのことをしゃべることをすぐ覚える。知識人は、覚えるのが遅く、「翻訳」式に話す傾向がある。そして、頭ではそうありたいと思っているレヴェルの一段下にいると、いつも苦痛をもって自覚しているものである。
 こうして、亡命者たちは、英語といえるようなものを使いながら、その擬古的に近い英語は、古代ギリシャ語で「コイネー」〔共通ギリシア語〕といわれたものに相当することに気づいた。自国語がドイツ語やイタリア語やマジャール〔ハンガリー〕語であったものたちは、ぶっきらぼうで、ふくらみのない、単にものの用に立つだけの語法で書かざるをえなかった。しかし、アメリカ人はそれに対して寛容で、イギリス人よりもはるかに親切に受入れた。出版社の編集者たちは、ドイツ語風の英語をまずまず読める文章語に直す手間をかけ、アメリカ生まれの著作家たちの崩した文章に慣れていた読者たちも、別にそれに抗議しなかった。その結果、英語は、以前よりもずっとリンガ・フランカ〔混合国際語〕的になった。ヘレニズム時代のギリシア語の場合のように、影響する範囲の拡大は、英語の明確な形態を失わせ、思考と表現の陰翳を伝える力を失わせる危険を伴った。
 亡命知識人の中で、言葉のあやで幻惑するようなことのできない言語に移しかえざるをえないことが、自分の思想にとってよいことだと考えたのは、ほんの僅かの楽観主義者だけだった。ティリヒは、平明な英語に移したときにドイツ的深遠さが消え去るのをみて経験した喜びと落胆の入りまじった思いを、屈折した自己憐憫をもっていつも回想した。だが、もっとふつうの反応は、言語的貧困感であった。この貧困化は、二つの面で――亡命者自身の側とかれらを迎えた側とで――作用した。迎えた側の文学的表現語法自体、それほどしっかりしたものではなかったのである。戦後の時期に、繰返しイギリスの学者たちは、大西洋をこえてくる社会科学が用いているドイツ語風アメリカ語のジャーゴンを嘆くことになるだろう。亡命の出来事のあと一世代経っても――アメリカに帰化するまでになった亡命者たちが自国語でよりも英語で自然に考えると思われたときにも――知的収穫と言語的損失を秤にかけてどちらが重いかを決めるのは困難であった。
 
 文字どおりの意味での言語の問題は、これくらいにしよう。思考方法というより広い意味では、1930年代と1940年代に中央ヨーロッパから放射された知的影響には、二つの分肢が見分けられる。ヘーゲル、フッサール、ハイデガーというトリオと結びついたより形而上学的な潮流は、フランスに受入れられた。より具体的で経験的な思考様式――哲学においてであれ、心理学においてであれ、歴史であれ社会学であれ――はイギリスにないしはアメリカ合衆国に家郷を見出した。こういうドイツ語世界と英語世界とのWahlverwandtschaaften(親和力)のうち、とくに三つのものは、詳細に注目するに値する。それは、マックス・ウェーバーと、ジークムント・フロイトと、ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインによって与えられたアプローチである。
 1 1920年にウェーバーが死んだとき、かれはあとに組織だった学派を残さなかった。かれの自分の国での影響は、同時代人のエミール・デュルケームのそれに比すべくもなかった。デュルケームの学徒とその方法とは、戦間期の全期間を通じてフランスの社会科学を支配しつづけた。ウェーバーは、生前でさえ、孤立した学者だった。かれの死後、社会の「価値自由」的研究の教えは遵守されるよりもむしろ尊崇されるだけだった。ウェーバーの遺産は、アメリカ合衆国に来てはじめて、社会思想の主力となった。
 このような遅れて来た影響は、一部にはドイツ社会学そのものの状態からきていた。ドイツの社会学は、旧い教養的学問と同様、準聖職者的学風の所産であったから、農業的諸関係からなるより単純な世界へのノスタルジーをそれらと共有していた。だが、それは、そういう思慕を満たすことは拒否した。それは、土地貴族とのイデオロギー的結びつきはなかった――さらに付け加えると、資本主義的中産階級とのつながりもなかったし、さらに、それが「社会問題」に関心をもち、またその概念装置の大部分がマルクスに由来しているにもかかわらず、プロレタリアートとさえ結びつきはなかった。ドイツ社会学は、価値の領域で真に中立たるには程遠かったのだが、超脱と分離の姿勢をとった。ドイツの社会学者の著作は、「諦念」に満ちていた。「かれらは、現代生活のいくつかの局面を、不可避な、あるいは望ましいものとしてさえ受入れるように……薦めていたが、一方、その偶然的で非寛容な局面を和らげることも求めた。この態度は、かれらに、新しい環境への情緒的な対応を抑え、悲劇に面と向かって、合理的解明という英雄的な理想を掲げさせたのである。」(Ringer, Decline of germen Mandarins, p.163)
 こうして、ワイマール期のイデオロギー戦争に超然としながら、社会学者たちは、自分たちをとりまく状況のきびしい局面から遊離していた。かれらはまた、ドイツのアカデミー生活の主流のうちに身を置くこともできなかった。だが、しばしばいわれるように、かれらの仕事がほとんどもっぱら抽象的ないし歴史的だというのは、真実ではない。第一次世界大戦前に、かれらは労働者階級の状態に関する一連の数量的調査を始めていたし、この関心のいくらかは、戦後の時期にも引き継がれていた。しかし、このような調査研究は、継続性としっかりした組織的基盤を欠いていた。ドイツ社会学をより徹底的な経験的研究態度へと向わせるには、アメリカへの移住が必要であった。
 さらに、イギリスやアメリカ合衆国に亡命した社会学者や社会学的関心をもった歴史家たちは、既存の者にとらわれず、実験的な精神をもったものたちが多かった。かれらのなかには、マンハイムとその弟子の幾人かだけでなく、ウェーバーから直接、間接にえた方法論と思考様式を身につけたものがたくさんいた。そして、これらのものの多くは、自分たちの国では発展を妨げられていた諸々の技法を、アメリカの研究者から学びとれるのを喜んでいた。そこに生まれたものは、大西洋をこえた綜合の最初の事例であった――つまり、ドイツ人がその特色とする理論を提供し、アメリカ人が経験的調査研究の能力と熱意を与えた、社会学的諸伝統の融合である。これこそが、今日われわれが知っている国際定な社会学理論の起源であった。
 この過程で、ウェーバーの範例は、きわめて徐々に、ときにはそれと気づかれぬ形で、作用をおよぼした――そして、これが、かれの遅れてきた影響を説明するもう一つのものである。ウェーバー的態度は、しばしば、ウェーバー自身との関係が希薄だったり、十分気づいていなかったりする学者たちの仕事を通じて、毛細管を通るゆっくりした運動のように社会思想に滲透した。「継続性のない不完全な翻訳……という障害によって」、かれの教えの受容は、「断片的とならざるをえなかった」。結局、それは、「特殊的な理論的必要ないしは調査上の問題」に当面した人びとによって、断片的に少しずつとり入れられることを通じて、一般に認められるにいたったのである。「その結果は、“創造的誤解”といわれるかもしれない」――だが、それは、やむをえない運命であったが、ウェーバーの探求と同様の領域に渉り、その主張においても同様に実験的なこのさまざまの試みの総体を、必ずしも傷つけるものではなかった。アメリカでウェーバーは、神話の神のように、相互のつながりが必ずしもはっきりしない一連の変容を受けたのであった。」スチュアート・ヒューズ『大変貌 社会思想の大移動 1930-1965』荒川幾男・生松敬三訳、みすず書房、1978.pp.21-24.

 マックス・ヴェーバーは第1次世界大戦が終結しワイマール憲法が成立した翌年1920年に亡くなっているから、実質的に敗戦し崩壊したドイツ帝国内の大学人として生きたといえる。その頃のドイツのアカデミーには、社会学という学問領域はまだ確立していなくて、Soziologieという言葉はあったが、ヴェーバーは法制史や宗教思想史などの専門家とみられ、かれが属したのは社会政策学会だった。フランスのデュルケームが、大学の社会学講座に座って多くの弟子を育て社会学派を形成したのとは大きく違った。もし、1930年代にナチスが台頭してドイツの社会学者たちがアメリカに亡命しなかったとしたら、ヴェーバーの仕事がその後の社会学に与えた広範な影響はなかったかもしれない。少なくともかれの著作が英語に翻訳されて広く読まれるようなことは難しかっただろう。
 日本の場合は、戦前にドイツ留学者も多く、早くからヴェーバーやジンメルは翻訳され読まれていたから、アメリカとはちょっと事情が違うかもしれない。



B.音楽の環境が変わった?
 もはや音楽は、20世紀から続いたCD購入や、個別ダウンロードの段階は過ぎ去り、あらゆるジャンルの音楽が即座に聴き放題に手に入る定額制配信サービスの時代になりつつある(らしい)。ほとんど無限にあらゆる曲が聴き放題だといっても、人間の使える一日24時間が30時間に増えるはずもなく、音楽に耳を澄ます時間は誰でも限られているから、自分で聞く音楽を選ぶのがいきあたりばったりしかないのは困る。偶然性の出会いに頼るのではなく、これもAI技術で、自分の好みに合った音楽をAIが選んで推奨してくれるのだという。

「聴き放題 未知の曲の海:インターネットを介し、定額料金で音楽を好きなだけ聴ける定額制配信サービス。音楽の楽しみ方が、CD・ダウンロード時代から、聴き放題時代へとシフトするなか、音楽を聴くスタイルが劇的に変化している。
 AIが好みに応じ配信■愛着薄める不安も
 *月額千円前後で古今東西、多ジャンルの曲を無尽蔵に聴ける――。「あれもこれも聴きたいけれど、財布と相談しないと……」。長年音楽ファンを苦しめてきたそんな悩みは、サービスの登場で消滅した。国際レコード産業連盟によると、サービスの有料会員数は2016年に全世界で1億人を突破。日本も複数のサービスがしのぎを削る状況だ。
 00年代初頭に欧米で始まったサービスは、数百万~数千万曲を背景に「何でも聴ける」恩恵を当初強調していた。ただ、音楽評論家の榎本幹朗さんは「聴き手の音楽の知識や情報収集能力は限りがあり、すぐに膨大な曲を前に『何を聴けばいいか』途方に暮れる」と話す。
 そこで生まれたのがプレイリスト文化だ。曲が無限な点を生かし、自由に曲を選べる独自の楽曲リスト。誰でもつくれるが、「最近は音楽に精通した一流のキュレーターがテーマごとに様々なプレイリストを、アルゴリズムや人工知能(AI)で個々人の嗜好に合わせて提供する動きが強い」。
 ポイントは「新しい音楽との出会い」だ。年齢を重ねる中で音楽の趣味は固定化しやすい。榎本さんは「個々人に合った出会いを提供し続け、利用者をつなぎとめる傾向はますます強まっていく」と話す。
*一方、こうしたサービスの普及は「人々の間に『時代性を無化する感覚』を生む」とポピュラー音楽研究者で武蔵大学の南田勝也教授は指摘する。
 1950年代のエルビス・プレスリーを聴こうが、00年代の椎名林檎を聴こうが、大事なのは、自分にとってそれが新しい出会いで、聴いていて心地いいかどうか、だ。未知の曲との出会いが重視されるあまり、「アーティストがいた時代や当時の社会状況への関心をふまえて曲を聴く習慣が薄れるのではないか」。それは「音楽に深い愛着を持つ感覚の喪失だ、と。
 「『音楽は時代や地域を超える』と言えば聞こえはいいが、サービスを受け身に利用しすぎると、聴き方に深みが生まれない恐れもある」
 *「いろいろな人が、長い時間をかけて音楽を作っている。その実態を知ってほしい」。2月上旬、東京都渋谷区のビクタースタジオ。日本レコード協会の担当者が、見学に来た専門学校生十数人に呼びかけた。
 同協会は、中高生らを対象に加盟各社のレコーディングスタジオを見学できるプログラムを一昨年から始めた。音楽の制作過程を知り、上質な感興で音楽を楽しむことで、音楽への愛着を強めてもらう考えだ。
 見学会では、学生が持ち寄ったお気に入りのCDをスタジオの豪華な音響機器を通して高音質で流したり、プロが使用するマイクなどのレコーディング機材の性能を体感したりした。参加した河村侑佳さん(20)は「音楽の編集作業も体験でき、曲の制作上、とても重要なことがわかった」。
90年代のCD不振を背景に、00年代以降、低迷が続く音楽業界にあって、定額配信サービスは産業再活性化の大きなカギだ。一方で、日用品のように手軽に楽曲が消費される状況の広がりは、人々の音楽への愛着を薄める不安・懸念もある。音楽と人々の関わり合い方はより問われるかもしれない。 (河村能宏)

 CD縮小歯がゆくも :お笑いタレント バイきんぐ 小峠英二さん
 パンク大好き芸人ということで昨秋、(定額制音楽配信サービスの一つ)dヒッツで、自身がこよなく愛するバンドを、トークと曲で紹介するプログラムを配信しました。ラフィンノーズ、ニューロティカ……中学・高校時代にはまったマニアックな音楽を発信できるなんて夢にも思わなかったですよ。
 でもそれ以上に感動したのは、これを聴いてパンクに興味をもった人が、関連する別の曲を同じサービス上で検索してすぐに聴ける環境です。曲が事実上、無限にある――。聴き放題って本当にすごいですよね。
 自分も利用していますが、本当に便利。何げない友人との会話で出てきた曲を、その場で流し、盛り上がることがある。「工藤静香の『慟哭』いい曲だよな」みたいに。
 一方で、ミュージシャンは音だけ鳴らしているわけじゃない。歌詞カードやジャケット写真、ライナーノーツ……。トータルとしての作品を大事にする文化がある。今後、CDやレコード市場がより縮小していくのでしょうけれど、そこが歯がゆくもあります。

聴く:定額制配信サービスの再生端末として近年、AIスピーカーが注目されている。「ジャズを流して」など呼びかけに反応し、曲を自動的に流す。「Amazon Echo」や「Google Home」、「Clova WAVE」などが販売されている。」朝日新聞2018年3月25日朝刊、35面扉欄。

 なんだか大きなお世話という気もする。「自分の好み」といったって、要するに過去のデータを積み重ねて読み込んで一定のパターンを抽出するわけで、拡散するよりは収束し、似通った傾向の曲がさあどうぞと並ぶのを、そっか!と聴いて喜ぶということになる。アドルノに言わせれば音楽を自ら開拓し深めるのではなく、自分では音楽好きであると思い込んで、実はどんどん貧弱な文化の不毛に陥るバカげたシステムだ。ぼくのように、三味線音楽や能楽からインド音楽や現代音楽も聴けば、Jポップもヒップホップもジャズもロックもシャンソンも、できるだけいろんな音楽を聴くことをポリシーにしている人間には、AIを困らせるだけが楽しみだな。
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ドイツ文学の気負いと誇り・・会津士魂もたぶんに気力の怨念。

2018-03-26 03:55:48 | 日記
A.ヘッセとマン
ヘルマン・ヘッセ(Hermann Karl Hesse,1877-1962年)は、ドイツ生まれのスイスの作家。『車輪の下』『デミアン』など主に詩と小説によって知られる20世紀前半のドイツ文学を代表する文学者で、1946年ノーベル文学賞受賞。ドイツ南部のビュルテンブルク王国で生まれ、ドイツ語で書いた作家として高名だが、途中でスイスのベルンに住み、のちスイスに帰化した。

「亡命者の前触れとなったいわばバステスマのヨハネは、ヘルマン・ヘッセであった。ヒトラーが権力についたとき、ヘッセは、もう二〇年も荒野に――この言葉でかれが最後に定住したイタリア・スイスの牧歌的な村を想定できるとして――住んでいた。1933年のころ、かれの小説家としての名声は、なによりも、かれが自分の国の特性的な知的欠陥をとりあげた二つの作品によって保たれていた。それは、偽善と体制順応主義を激烈に攻撃していた『デ-ミアン』(1919年)と『荒野の狼』(1927年)であり、『荒野の狼』では、ブルジョワ社会と何とか妥協しつつ生きようというかれ自身の空しい努力を記録し、その過程で、かれ自身のような平和主義的心情の知識人たちの抱く諸価値を、ものごとを相対化するイロニーを自在に働かせることで保つというまことに至難な技を試みていた。
 そこで、ドイツの文学者でもっとも長期にわたる亡命者としてのヘッセの役割には、なにかひとを戸惑わせるものがあった。遠く離れてみていると、かれの信頼性は欠けるところのないものにみえた。1933年以後になって逃げ出した人びとは、第一次世界大戦前にもう同胞たちが向かいつつあるところを感じとっていたこの人の先見の明を、当然尊敬の眼でみた。しかし、もっと近寄ってみてみると、ヘッセは、ナチ支配の12年間に役立ちうるようなことを、同胞たちにほとんど教えてはいなかった。『荒野の狼』は、日常の闘いから身を引いて、不滅の人びと――ゲーテやモーツアルトやその他――の笑いが人間の独善性を嘲笑って響く水晶のように透明な領域に引籠ることを示唆していた、というだけではなかった。さらに、ヘッセがそれに続いて発表した二つの小説は、もっと遊離的でアレゴリカルなものであった。そして、かれが、そのもっとも野心的な作品『ガラス玉遊戯』となるべきものの序章を発表した1934年のころまでには、ヘッセの純粋美学と主知主義の提唱者への転身は完成したようにみえた。
 この序章が概略を描いた遊戯は、もっとも高貴な「精神」Geistの理想を要約していた。「……巨匠は精神の領域を翔け抜けた。」それは、想像的な形で西欧世界の文化的創造の総合をあらわすものであった。
  こうして、ガラス玉遊戯は、われわれの文化のすべての内容と価値とを備えた遊戯様式である。……一切の識見、高貴な思想、人類がその創造的時代に生み出した芸術作品、それに続く学問的研究の時代が概念に還元し知的財産に転換した一切のもの――こういう知的諸価値の膨大な集積の上で、ちょうどオルガン奏者がオルガンで奏するように、ガラス玉遊戯の演者は演戯するのである。……理論的には、この遊戯具は、遊戯のなかに宇宙の知的内容をそっくり再生する能力をもっている。
 音楽と数学が、それの緻密な儀礼の規則と先例となっていた。実際、ガラス玉遊戯は、主題と変奏として――あるいは、互いに対位法的関係におかれた相異なった文化的努力の分野から抽出された一連の諸主題として――考えるのが、いちばん適切と思われる。この遊戯についてのヘッセの記述は、故意に曖昧なものであった。というのは、かれは明らかに、読者が「現代の知的生活のどんな分野からでも自分の連想をつくれるようなきわめて一般的な表現で」、それを示そうと思ったのである。だが、それは、なかんずく、「非具象芸術や無調音楽や象徴論理にみられる、両大戦間の時期に特徴的な抽象と綜合へと向かう傾向」をあらわしているように思える。ヘッセの個人的な好みはノスタルジックなものであり、かれは厳密な古典音楽とドイツ・ロマン主義の魔術的世界にもっとも親しみを感じていたのだが、かれは、身のまわりに生じていることに十分に目を見開いて、同時代人たちに、その知的未来図を与えることができた。『ガラス玉遊戯』への序章は、ただ一つの複合的な隠喩でもって、同胞たちが洗練させた、肉体を超えたGeistのもつ含意を描いてみせたのである。
 これが、1930年代はじめにヘッセが到達していた地点であった。ヒトラーの出現は、想像上の三世紀にわたる未来史を通じての遊戯の変遷を詳細に描いてみせるはずのこの小説の性格に、影響を与えないではいなかった。ヘッセは、ナチ支配のはじめの10年間、辛苦してこの小説を描き続けたが、その大筋は、それと分らぬ間に漸次累積的に変化した。それは、次第に純粋な頭脳のなかでの作業であることをやめた。それは、美学と主知主義の領域から、現実世界と人間の連帯への関心へと移行した。『ガラス玉遊戯』がついに発表された1943年のころには、九年前に序章を読んでいたものたちは、ヘッセの主人公が、最後には魂の巨匠としての立場を棄て、闘う人間と運命を共にしているのを発見して驚いたのである。」スチュアート・ヒューズ『大変貌 社会思想の大移動 1930-1965』荒川幾男・生松敬三訳、みすず書房、1978.pp.16-17.

 トーマス・マン(Paul Thomas Mann、1875-1955年)はドイツの小説家。北ドイツ・リューベックの富裕な商家に生まれる。当初は実科を学んだが処女小説『転落』が認められて文筆を志し、1901年に自身の一族の歴史をモデルとした長編『ブッデンブローク家の人々』で名声を得る。その後市民生活と芸術との相克をテーマにした『トーニオ・クレーガー』『ヴェニスに死す』などの芸術家小説や教養小説の傑作『魔の山』を発表し、1929年にノーベル文学賞を受賞した。

「『ガラス玉遊戯』を感謝の念をこめて迎えたものたちのなかに、ドイツの小説家のなかでもっともヘッセによく似た作家、トーマス・マンがあった。「こんなに温く尊敬に満ちた仲間意識」を自分のなかにかき立ててくれた「作品は他にほとんど」ない、とマンは書いた。1933年にマン自身が亡命するにいたったとき、かれは、ヘッセとの二〇年以上も前からの相互敬愛の絆を新しくした――この同じ国民共同体からの離別はまた、かれをフロイトと密接に結びつけることになり、1936年のこの巨匠の八〇歳の誕生日に際して、ドイツ亡命文学者たちに向って、フロイトを代弁するような講演をすることになった。
 ヘッセが亡命の予言者であったとすれば、マンは、早くからそのもっとも卓越した代表的人物となった。そういう役割は、かれが政治的関心を離れて自分の美学的立場の発見に心を砕いていた小説家としての初期には、しっくりしたものではなかっただろう。だが、1920年代が過ぎゆくにつれて――マンがワイマール共和国を受入れて擁護し、代表作『魔の山』(1924年)と短編『マリオと魔術師』(1930年)で、恐怖と蒙昧主義の合体した力に対して「善と愛」の力を確認するにつれて――、かれは、ほとんどそれと意図せずに公認の諸価値の宣言者の地位に立っていた。ワイマール期の間に、マンは、二つの分水界を越えていた。かれは、ドイツ民族派からコスモポリタン派へ渡り越え、またかれの作品の軸を、私的な感受性からイデオロギー的コミットメントへの転換したのである。結局、「かれの晩年は、ファシズムに反対する絶え間ない宣伝戦に向けられた」――ちょうどかれの小説の主人公たちが、「孤立から人間的で社会的な共同体へと」向っていったように。こうしてジェルジ・ルカーチは、二〇世紀の「批判的リアリスト」の最大のものとして、尊敬をもってこのひとについて書いた。
 自分が亡命することへのマンの態度ははじめは躊躇いがちのものであった。1933年の秋に、チューリヒの近傍に自分にふさわしい家をみつけたときでさえ、残る生涯の間続くかもしれぬ亡命にほとんど満足を見出せそうもなかった。かれのドイツ文化への結びつきは、あまりに密接だったのである。かれは、もとに戻せぬ断絶にしりごみした。南フランスを選ぼうかとも思ったりしながら、かれはドイツ語が話されている町を選んだのだった。1936年になってやっと、マンは、亡命作家たちをユダヤ人で非ドイツ人だとするスイスの一批評家に答えて、同じく祖国を去ってきた同胞作家たちにはっきり自分を結びつけた。かれがヘッセに説明して書いたように、かれの第三帝国との関係について流布されている「あいまいで、どっちつかずの見方」を、すっきりさせる必要があると考えたのである。二年後、オーストリア併合とともにアメリカに永住する決心をしたとき、マンは自分の選択に対する疑いをすっかりふるい去った。いまやかれは、自分の亡命を、ドイツ文化のための一種の精神的使節だと考えた。「祖国の外にいるというのはどういうことだろうか。私の祖国は、わたしが持参する作品のうちにある。そのなかに身を浸せば、わたしは家庭にいる気楽さをすっかり味わう。それは、わたしの言葉、ドイツ語とその思考様式であり、わたしがさらに発展させてきたわたしの国と国民が残し伝える財産なのだ。わたしのいるところ、そこにドイツがある。」
アメリカで、トーマス・マンはほんとうの亡命者となった。はじめ、かれはプリンストンに住んだ。その大学が提供した一般教養の特別講義の座が気に入ったのである。このかれのいう「お笑い」寄席の二年間は、十分満足のいくものであった。やがてかれは南カリフォルニアに移り、そこに小さな地所をみつけて、海に面したレモンの木立の中に家を建てた。この気候と風景はかれの気に入り、また大学に関係しないで自由に創作に専念できる機会を得たこともかれを喜ばせた。だが、かれの時間は、全部自由になるというわけにはいかなかった。かれは、自分よりも不幸な他の亡命者のために思考とエネルギーを割き、またドイツに残った同胞たちに希望のメッセージを放送した。かれは、自分の特別な立場と、それに伴う責任を十分に自覚していた。つまり、金持ちや有力者が大騒ぎしてかれをもてはやし、かれの名声は、講演料や小説の翻訳料という形でかれに安全と居心地の好さとを与えているという点についてである。また、かれの公的な諸活動は、友人の幾人かが心配していたようには、創作力を殺ぎはしなかった。むしろその逆が事実だっただろう。マンの論争に費やす努力は、かれが芸術的創作を続けるのに必要な外的刺戟を与えたように思われた。
それゆえ、かれが、ついには亡命の経験を好意的な推薦の調子で語るようになったのも驚くには当らなかった。1942年11月にワシントンで行った講演のなかで、かれは、現に行われつつある「ヨーロッパ文化のディアスポラ」を「これまでみられなかった先例のないもの」と規定し、「これまでのどんな亡命ともまったく違った意義」をもっていると断言した――その意義とは、他ならず全世界に統一をもたらすべき「新しいヒューマニズムの感覚」を創り出す可能性であった。人間性についての希望がこれほど高まったことは未だかつてなかった。マンがこのように語っていたちょうどそのころ、戦況は、北アフリカで、またスターリングラードで転換しつつあった。ヒトラーの敗北が今やありうることと予想され、いや確実とすら思えるようになった。亡命者の公的スポークスマンとして、マンは、初期の新しい国への適応の辛苦と、それのあとに来ることになった冷戦の精神的困惑との間の、甘いが一時的な幸福感を声にしたのであった。」スチュアート・ヒューズ『大変貌 社会思想の大移動 1930-1965』荒川幾男・生松敬三訳、みすず書房、1978.pp.17-19.

 アメリカに亡命したドイツの作家として、トーマス・マンはもっとも有名な人物で、ヒトラーが滅びた戦後もドイツには帰らなかった。かれほどの作家になれば、ドイツ語で書いていても優秀な研究者や翻訳者がたくさんいたから困らなかった、とはいえるかな。



B.勝者の歴史、敗者の歴史
 先日、庄内の酒田を訪ね鏑屋という古い商家の建物が保存されているのを見たのだが、奥の倉に西郷隆盛の肖像画が掲げられていた。庄内では西郷の人気はきわめて高いという。別にNHK大河ドラマのせいではない。戊辰戦争で庄内藩は奥羽越列藩同盟の強硬派として、薩長の新政府軍と戦って結局降伏した。庄内藩からすれば敵の大将である西郷だが、落城壊滅し国を捨てさせられた会津藩の処分に比べて、庄内藩には寛大な処置と戦後の支援をしてくれた恩人、ということらしい。会津攻めは薩摩でも武闘派の伊地知正治、桐野利秋、土佐藩の板垣退助が指揮し、西郷は庄内攻め担当だったことが結果的に幸いだった。会津の陥落は悲壮悲惨で、白虎隊などいまも悲劇として語られるが、庄内藩酒井家は、初戦で果敢に戦ったが新庄、米沢など周辺諸藩が寝返って力尽きて西郷に降伏した。西郷隆盛は負けた敵に禍根を残さぬ温情を施した。
 会津は京都守護職を維持するために領民に過酷な収奪を強いて、戊辰の防衛戦争に農民の離反を招いたが、庄内は君臣一体で領民も酒井の殿様を信じ、農商民も義勇兵に参加したほどだったという。西郷は民の動向に敏感だったから、この庄内藩の民情を弾圧するよりは撫育することで新政府の未来に希望を持たせることが得策だと考えた。このアイディアは150年後の今も、庄内に西郷ファンを育んでいる。歴史とは不思議なものだと思う。

「温故知新 「賊軍の子孫」たちの「無偏無党」 樋口陽一
 歴史を書くのは勝者だという。だが、勝者の疚しさもまた語り継がれ(能で挙げれば『藤戸』)、亡びの美学を世に残す敗者もいた(『忠度』)。
 今からちょうど一五〇年遡る明治元年は、内戦の勝者と敗者を分けた。その戊辰戦争を題材にした眞山青果の史劇三部作は『将軍江戸を去る』で締めくくられる。私と同年生まれのこの名作(一九三四年初演)に、吉右衛門丈の慶喜役であらためて対面できたのは数年前だった。
 勝者の策略と傲慢、敗者の無策と怨念…。書き手の筆を濁らせるものは多いが、青果劇はそういう次元を突き抜けた高みにある。公演時の冊子に半藤一利さんが文章を寄せ、「無偏無党」と題した。勝安房の台詞から抜き出されたその言は敗者への青果その人自身のまなざしをみごとに移しているが、それだけではない。
 作者は江戸城総攻めを前に勝と対坐する西郷に、「無辜の良民何十万何百万」の運命を憂えて「先生、実に戦争ほど残酷なものはごあんせんなァ……」と語らせる。英雄がやがて敗者となってゆく歴史と対坐する劇作家の立ち位置が、そこに浮かび上がってくるではないか。
 五〇年前、高度成長の起動と共に続発する公害と大学紛争の中で、「明治一〇〇年」を祝う公の行事が開かれていた。その同じ頃、地道な調査研究が、やがて「五日市憲法」として知られることとなる資料を発掘する(色川大吉他「民衆憲法の創造」一九七〇)。それは、可能性をはらみながらも挫折した民権思想の岩盤から「もうひとつの明治」をあらためて切り出したのだった。
 そして今「明治一五〇年」である。青果史劇への共感を惜しまない半藤さんが故・菅原文太の「対談草案」提唱を受けて二〇〇九年にしていた出会いの記録が、こんど世に出た。『仁義なき幕末維新―われら賊軍の子孫』(文春文庫)は、長谷川伸の相楽総三論をトバ口として「明治維新の正と負」を自在に語っている。
 「賊軍の子孫」だからこその「無偏無党」。――それは「われら」ご両人だけのことではなかった。青果も、そしてつけ加えれば彼と親交あった旧制中学同期の吉野作造もまたそうであり、六〇年を距てた後輩・文太にもそれが受け継がれたのだ。 (憲法学者)」朝日新聞2018年3月24日朝刊be.9面

 戊辰の会津は、幕末維新の負の遺産を追ッかぶされて、武士のことごとくは誇りを死に換えて亡びた。会津藩は尊王の志を愚直に信じたサムライで、それゆえに文明開化の明治という新時代には、ゾンビのように蔑まれた。国民の歴史を確認するNHK大河ドラマで、この幕末維新の会津を正当に描いたのは、山田太一の「獅子の時代」であると思う。主人公の会津藩士を演じたのは菅原文太である。仙台一高で、樋口陽一と井上ひさしの一学年上級生だった文太が演じた平沼銑次は、パリ万博に行き、会津鶴ヶ城に籠城し、函館五稜郭で戦い、斗南開拓に骨身を削り、西南戦争から秩父の民権蜂起まで、明治維新の敗者の足跡をヒーローとして辿ってゆく。歴史とは、一つの整合的な歴史観で見たときは英雄豪傑の単純な物語で終わる。しかし、現実の歴史はそのような単線的なものではない。
 現在の日本に生きている若者には、歴史というものがリアルに皮膚の痛みとして実感されていないと思う。平凡な日常がどこまでも矛盾なく続いていくと、なんとなく彼ら彼女たちは信じている。でも、歴史をみれば、平凡で平和な日常が淡々と続いていく時代など、ごくまれであって、この地上には理不尽な暴力や権力のきまぐれで無残に抹殺されてしまう不幸な人間は、世界中にいるのだ。

「会津人は、戊辰の戦後、凄惨な運命をたどらされた。
 かれらは明治時代、とくに官界において差別された。
 かろうじて山川浩が、かれを尊敬していた土佐の谷干城の好意で軍人になった。ついで高等師範の校長になり、さらには貴族院議員になったりして、他の同藩の士よりもめぐまれていたが、しかし一日として心を安んじたことはない。
 その晩年、旧藩のことを雪辱すべく右の史録(引用者註:山川浩遺稿『京都守護職始末』)を書いたのである。堂々たる修史事業で、一人でできるようなものではなかった。幸い、九歳下の弟がいて、これに協力した。
 弟とは、山川健次郎(1854~1931)のことである。健次郎もまた、その少年期は数奇だった。戊辰戦争のとき、少年隊である白虎隊にいったんは編入され、年齢が一つ不足していたために外された。このことが、生涯溶けることのない心中の病塊になった。
 会津鶴ヶ城が落城し、容保が降伏してから、処分が決まるまで、藩主および藩士団は城外の猪苗代と塩川の地に謹慎を命じられた。全員が捕虜のあつかいだった。この時期、藩の儒者秋月韋軒たちが、会津がほろんでもその種子をのこすべきであるとして、ふたりの少年の逸材をえらび、越後口にむかって脱出させたのである。少年とは、山川健次郎と小川亮だった。
 山川健次郎は明治三年、北海道開拓使の留学生にえらばれ、渡米し、イェール大学で物理をまなび、明治期の物理学の開拓者になった。
 かれは、帝大の前身の教授になり、明治三十四年、東京帝大総長、ついで九州帝大総長、ふたたび東京帝大総長にもどり、京都帝大総長を兼ねた。よほど徳望の人であったことは、この職歴でも察せられる。
 日常、白虎隊の話になると涙のために言葉が出なかったといわれる。
  (中略) 
 明治政府は、降伏した会津藩を藩ぐるみ流刑するようにして(シベリア流刑を思わせる)下北半島にやり、斗南藩とした。この地は三万石といわれていたが、実質は七千石程度で、そういう寒冷の火山灰地に一万四千二百八十六人が移った。藩士たちのくらしは赤貧というようななまやさしいものではなかった。あたらしい藩主の容(かた)大(はる)(移住のときは生後一年四カ月)自身、衣服にシラミがわくという状態で、他は文字どおり草根木皮を食べた。
 石光真人の編著に
『ある明治人の記録』(中公新書)
 という本がある。副題が“会津人柴五郎の遺書”とある。
 旧会津藩士柴五郎は安政六年(1859)にうまれて、昭和二十年(1945)十二月、八十七歳でなくなった。
 明治初年、斗南の地から飲まず食わずで東京に出、できたばかりの陸軍幼年学校に入学して、ようやく三食を得ることができた。
 かれは、山川兄弟と似た温厚質のひとだったが、近代史の重要な場面に登場する。明治三十二年、駐在武官として北京にいたときに義和団事件が勃発したのである。
 沈勇で機略に富み、なによりも誠実だったということで、清国人からも賞讃された。会津人であったため、当然大佐どまりであったところを、この国際的名声のために将官になり、大正十二年、陸軍大将として予備役になった。この明治の軍人の人柄や言行をみると、昭和の軍人とはべつの民族ではないかと思えるほどである。ついでながら、太平洋戦争が勃発して早々、
 「この戦争は負ける」
 と、近親のひとびとに洩らしていたという。
 この人が、晩年、少年期を送った斗南の地での飢寒と貧窮、さらには屈辱について書いている。執筆当時、当人は発表を意識せず、死の三年前、編者石光真人にみせ、読んで保存してくれといったという。
 文章は、激情がおさえられている。

 いくたびか筆とれども、胸塞がり涙さきだちて綴るにたえず、むなしく年を過して齢すでに八十路を越えたり。

 落城後、俘虜となり、下北半島の火山灰地に移封されてのちは、着のみ着のまま、日々の糧にも窮し、伏するに褥なく、耕すに鍬なく、まこと乞食にも劣る有様にて、草の根を噛み、氷点下二十度の寒風に蓆を張りて生きながらえし辛酸の年月、いつしか歴史の流れに消え失せて、いまは知る人もまれとなれり。

 しかし権力の座についた一集団が、敗者にまわった他の一集団をこのようにしていじめ、しかも勝利者の側から心の痛みも見せなかったというのは、時代の精神の腐った部分であったといっていい。
 柴五郎の家は、二百八十石という標準的な会津藩士だった。
 籠城中は、父や兄は城中にいた。幼かった五郎は本二ノ丁の屋敷にいたが、ある日、郊外の山荘へひとり出された。
 そのあと、祖母、母、姉妹がことごとく自刃した。末の妹は、わずか七歳だった。木村という家に嫁した姉も一家九人が自刃し、伯母中沢家も家族みな自刃した。かれらは、自発的に死をえらんだ。藩は婦女子も城内に入るようにといったのだが、彼女らは兵糧の費えになるということで、城内に入ることを遠慮したのである。
 歴史のなかで、都市一つがこんな目に遭ったのは、会津若松市しかない。」司馬遼太郎『街道をゆく33 白河・会津のみち 赤坂散歩』朝日文庫、1994. pp.178-183.

 21世紀の現在、司馬遼太郎が生きていた昭和も、すでに遠い過去である。時間は、ある意味で公平で、ある意味で残酷な観念の動力である。会津に行ったとき、丘の上の藩主松平家の墓に詣でたことがある。朝敵とされた会津松平家は、百年以上経って名誉回復のチャンスを得た。会津藩の藩校日新館が再建されて、そこに展示された資料に、次期皇位継承権第一位の秋篠宮文仁殿下の妃、川嶋紀子様は学習院大学教授の長女で、先祖は会津藩士池上四郎で「敗者」として辛酸を舐めたが、時代は変わり、その子孫である紀子様は宮妃となって、長年の怨念を晴らし、平成18年(2006年)には悠仁親王様をご出産。皇統を守るという大きな務めを果たし、「国母」となると高々自慢していた。藩主の墓前で、歴史とは恨みと誇りの関数で、武士が滅んで西洋文明にひれ伏した時代の歴史的な運命を感じずにはいられない。
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イタリアの社会思想って? 性教育をしない方がいい?

2018-03-24 13:28:10 | 日記
A.戦間期イタリアの社会思想史
 イタリアというと第2次大戦でドイツ、日本と組んで枢軸国側で戦ったファシスト党ムソリーニの国という先入観があるが、その前の第1次世界大戦では、連合国側つまりイギリス、フランス、ロシアなどの側で、ドイツ、オーストリア、オスマン・トルコなど中央同盟国側と戦ったことはあまり知られていない。第1次大戦は当時の大国同士があちこちでぶつかって大きな犠牲を出し、19世紀以来のヨーロッパ世界を壊し「現代化」したが、イタリアの政治体制は比較的穏やかに連続していた。ただし二つの大戦の間、いわゆる戦間期にムソリーニのファシスト政権はじわじわと支配体制を固めていった。それはヒトラーのナチスよりもずっと早くから権力を握った。知識人たちの多くは、ファシズムを快く歓迎したわけではなかったが、アメリカの思想史家スチュアート・ヒューズの視点から見れば、ドイツやフランスとは事情も伝統もかなり異なっていた。

「それまでの体制支持を引っこめたのものたち、そしてピランデルロが特別な反感を抱いたものたちの頭目は、ベネデット・クローチェであった。前者がイタリアでもっとも論議されることの多い作家となったとすれば、後者は、相変わらずイタリアでもっとも影響力の大きい著作家であった。まことに逆説的だが、クローチェが反ファシズムに転向したことは、かれの知的支配を減少させるよりもむしろ強めた。というのは、このナポリの哲学者――平静で、自己に恃むところがあり、ムッソリーニが別格として尊敬していた――は、同胞たちが口に出せぬことを思うまま口にできたからである。それは一部には、かれが、体制には何の現実的脅威にもならぬ高遠な哲学の形式でそうしたからであった(それに、豊かな財産をもった民間学者であったので、かれは、大学教授たちが心を悩ませた宣誓の精神的ディレンマに直面しなくてすんだのである)。クローチェが文筆上の反対派の役割を担うことになると、知的に競合するものはいなくなった。若い社会思想家は出る幕がなかったし、歳とったものたちは消え去るか沈黙することになった。1930年には、ヴィルフレード・パレートは死んで七年になっており、かれが祖国の新しい体制と考えていた本当のところは、墓場にもって行ってしまっていた。アントニオ・グラムシは、ムッソリーニの監獄の一つで痩せ衰えつつあり、二〇年後まで出版されぬままになった断片的な著作を、忍耐強く書き綴っていた。ガエタノ・モスカは、1925年末のイタリア上院での最後の演説――ファシスト独裁を樹立する基本法に対する威厳ある投票拒否――のあと、政治問題に関する発言をやめていた。クローチェも、同様にこの法律に反対した。そして、さらにその五年後には、かれも上院議員としての権利を行使することはもはや自分の時間を割くに値しないことだと決断した。
 ナポリの”パラッツォ”やソレントの別荘に安全に身を置いて、クローチェはなおイタリアの文化生活にヘゲモニーをもちつづけた。だが、かれの影響力の性格は、戦間期に大きく変化した。1914年以前には、クローチェは、イタリアの思想のレヴェルを引上げ、その射程を拡げた。かれの社会科学に対する敵対すら、解放力として働いた。それというのは、かれの標的が人間的諸問題の研究における独断的な「科学主義」や実証主義であったからである。大戦後は、クローチェの範例は逆効果となった。非実証主義的社会理論が登場し(ウェーバーの場合のような)、また実証主義的起源をはるかに超えた含意をもつ社会理論(フロイトによるような)があらわれたのに、クローチェがなおひきつづき社会学や心理学を低くみたことは、つまりそれらを厳密ではない単に実用を目的としたものだとしてきびしく貶下したことは、若いものたちに、哲学的にも疑問がありイデオロギー的にも危険であるような領域にあえて冒険を試みるという勇気を失わせることになったのである。
 クローチェは、自分自身の抽象的な理由から社会科学を嫌ったのだが、ムッソリーニは、社会科学を潜在的に反逆的な者として恐れた。こういう二人の断罪が重なって、ファシズム期の間、社会科学の探求をほとんど不可能にした。クローチェの嫌悪と体制側の敵意とがまったく偶然に重なりあった結果は、イタリアにおける精神分析の前途有望な出発からほとんど消滅してしまうまでの変遷によくあらわれている。
 早くも1910年に、フィレンツェの文芸雑誌『ラ・ヴォ―チェ』が「性の問題」の特集号を発行して、そのなかでフロイトの業績を尊敬をもって論じていた。あちこちで、探究心に燃えたイタリア人は、ウィーンから流出する新理論を探りはじめていた。しかし、精神分析がイタリア人の心をとらえたのは、はじめは療法としてよりも哲学として――アンリ・ベルグソンやウィリアム・ジェームズの反実証主義的考え方と結びつくような哲学として――であった。イタリアの第一次世界大戦への参戦は、この試行的探索の局面を終わらせた。オーストリアは国民の敵となって、ハプスブルク帝国の首都の知的産物は自動的に遮断されたのである。そして、学問の紐帯がウィーンと再び結ばれたときにはもう、ファシズム体制がすでに地平に姿をあらわしていた。
 ムッソリーニとそのイデオロギー的共鳴者たちは、最低限でいってもものごとを相対化し、またかれらの奮闘努力の倫理をふつうの人間的なものへと還元するような情動理論には、いうまでもなく不信を抱いた。そして、この一点で、当局の考えは、一般大衆の態度を反映していた。フロイト主義は、ふつうのイタリア人には、自分たちの国の「地中海的」な精神の健全さに対しては、病的で異質なものと感じられた。カトリック教会の見解も同様であった――教会は、精神分析理論の無神論的で汎性欲的で決定論的な含意に、神学的理由から反感をもったのである。カトリックが支配的な国であるイタリアは、フランスよりももっと、フロイトの教えを受入れるのに抵抗を示した。この抵抗は、宗教に関してはたいてい不信心者である哲学者や科学者の、対立的だが相互に補強しあっている反対によっても支えられていた。
 医学者や心理学者たちは、なおチェーザレ・ロンブローゾの伝統に忠実であった。ロンブローゾは、医師であり思弁的人類学者で、十九世紀末のもっとも影響力の大きいヨーロッパの実証主義者の一人として通っていた。ロンブローゾの弟子たちによっては、精神分析が無意識的情動の葛藤として記述している諸障害については、生理学的ないし器質的説明で十分なのであった。それゆえ、ロンブローゾは、フロイトを不必要な余計者だとしていた。観念論の哲学者や文芸批評家たちにとっては、フロイトの仕事は、かれらが毛嫌いしていた実証主義のにおいがした。それゆえかれらは、フロイトを、身近にある憎むべきロンブローゾと同一視する傾向があった(クローチェの態度はもう少し含みがあった。しかし、かれも精神分析を誤解し、かれが軽蔑する雑多な知的諸傾向に結びつけて考えた)。「すでにロンブローゾがいるという口実で、イタリアの科学者たちはフロイトを拒斥した。……同じ口実で、また科学者たちの態度に触発されて、文学者や批評家たちは同じようにフロイトを拒斥した。前者にあっては、口実はロンブローゾへの愛着という形をとり、後者にあっては、まさにその同一人物に対する憎しみの形をとった。」
 こういう状況の下で、戦間期に、精神分析がともかくいくらか前進したことは注目すべきことであった。1925年には、「イタリア精神分析協会」が設立され、トリエステとローマが、治療面での漸進的な発展の中心となった。そして、1931年には、イタリア人でフロイトのもっとも正統的な信奉者であるエドアルト・ワイスが、一連の講義を公刊した。それは、はじめてイタリア人に明確な精神分析理論の概要を伝えたものであった。このような遅々としてはいるが累積的な前進の理由は、一つには、この運動があまり目立たぬもので、反感をもった注意を引くほどのものでなかったことである。もう一つは、ムッソリーニ自身が比較的寛容であったことで、かれは、1938年の春のナチのオーストリア併合に際して、ワイスと直接会見して、フロイトのためにヒトラーにとりなすか、あるいはフロイトのイタリア亡命を受入れるかしようと申し出た。だが、この巨匠はイギリスに行くことを選んだ。そして、同じ年遅く、精神分析運動には、その参加者が離散して続く七年間は地下に追いやられるという不運が降りかかった。
 ドイツをモデルにしたムッソリーニの反ユダヤ立法も、精神分析を敵視するものではなかった。しかし、他の国と同様イタリアでも、その大家の大部分はユダヤの出自であったから、この運動の普及と活動は必然的に打撃を受けた。ワイスとその同僚の大部分は亡命した。そして、亡命の地で、かれらは、アングロ=アメリカ世界でのフロイト以後の精神分析の発展には、小さな役割しか演じなかった。少数のものがイタリアに留まり、一時的に自分たちの専門的な仕事をもっと受入れられやすい道に向けかえた。1940年代の半ばまで、中央ヨーロッパ全体と同様イタリアでも、精神分析は実質的に存在しなくなっていた。」スチュアート・ヒューズ『大変貌 社会思想の大移動 1930-1965』荒川幾男・生松敬三訳、みすず書房、1978.pp.6-8.

 国民性、というものをあまり安易に語ると大抵は間違うが、ドイツに暮らしていたとき、夏の休暇でオーストリアのチロルに行き、最後にヴェネチアまで行ってみようと車を飛ばしてアルプスを越え、イタリアに入った途端、高速道路の中央分離帯がただのラインになり、平気で対向車線にはみ出る車があるのに驚いた。ドイツでは、誰もいない交差点でも赤信号ではみなちゃんと止まるのに、イタリアでは歩行者が誰もいなければ平気で信号無視して走っていた。イタリア人は法令順守思想より臨機応変で構わない、という人が多いのかな、と思った。
 イタリアの社会思想といっても、ウルフレド・パレート、アントニオ・グラムシという名は聞いたことはあったが、ガエタノ・モスカとかベネディット・クローチェの名は日本ではほとんど知られていないし、知っていたとしてもクローチェがどんな本を書いたか、ぼくもよく知らない。ヒューズの本の焦点は、アメリカへの亡命者たちだから、クローチェは大戦中イタリアに留まっていたから除外される。
 ちなみにクローチェ(Benedetto Croce、1866年2月 - 1952年11月)は、イタリアの哲学者・歴史学者。ヘーゲル哲学と生の哲学を結びつけ、イタリアのみならず、ヨーロッパ思想界に大きな影響を与えた人物。Wikipediaから経歴を抜粋すると、1901年、出版人ジョヴァンニ・ラテルツァと出会い、以後、主要著作はラテルツァ出版社から刊行される。1903年、ジョヴァンニ・ジェンティーレとともに『クリティカ』誌を創刊し、反アカデミズム・反実証主義の立場をとり、精神哲学体系諸著作を次々と発表した。1913年、ジュゼッペ・プレッツォリーニの雑誌『ヴォーチェ』でジェンティーレと哲学論争をおこなう。政治活動としては、1910年に上院議員に選出され、戦間期においては、ジョヴァンニ・ジョリッティ内閣の文部大臣をつとめた。ファシズムが台頭するに及んで、これを支持する姿勢もみせ、1924年、統一社会党のジャコモ・マッテオッティが暗殺されたときも、クローチェは上院における信任投票でベニート・ムッソリーニの政府に信任票を投じている。1925年ころより、クローチェは反ファシストの立場に転じ、同年5月1日には『知識人の反ファシズム宣言』を起草し、その後は一貫してファシズム批判を続けた。ムッソリーニ政権下でも『クリティカ』誌を発刊し続け、ファシズムを攻撃した。1929年にムッソリーニとローマ教皇が結んだ政教和約(ラテラノ条約)に反対し、議員を辞職した。
主著は『表現の科学および一般言語学としての美学(L'Estetica come scienza dell'espressione e linguistica generale)』(1902年)、『歴史叙述の理論と歴史(Teoria e storia della storiografia)』(1917年)。「すべての歴史は現代史である。」という言葉で知られる。



B.中学生に何を教えるのか?教えないのか?
 息子の通う小学校のPTAに関わったとき、性教育の啓発活動をしている人を呼んで話をしてもらう企画があって、それに「行き過ぎだ」という意見もあって少々もめたことがあった。男女の性差を「保健体育」的な予防教育は昔からあって、ぼくの子どものときも、おもに初潮を迎える可能性のある女子に対してだけ行っていた記憶がある。今はどうなっているのかと思ったら、こんな記事が新聞に出ていた。
 
「中学の性教育に「不適切」 都教委 自民都議指摘受け指導へ 区教委「ニーズに合う」
 東京都足立区の区立中学校で今月行われた性教育の授業が、学習指導要領に照らして不適切だとして、東京都教育委員会が区教委に対して近く指導をすることがわかった。16日の都議会文教委員会で自民党の都議が授業の内容を問題視し、都教委が調査していた。区教委は「不適切だとは思っていない」としている。
 授業は3月5日、総合学習の時間で3年生を対象に教員らが実施。高校生になると中絶件数が急増する現実や、コンドームは性感染症を防ぐには有効だが避妊率が割を切ることなどを伝えた。その上で「思いがけない妊娠をしないためには、産み育てられる状況になるまで性交を避けること」と話した。また、正しい避妊の知識についても伝えた。
 この授業について、16日にあった都議会文教委員会で、自民党の古賀俊昭都議が「問題ではないのか」と指摘。都教委が区教委を通して授業内容を調査し、不適切な授業を行なわないように区教委を指導し、来月の中学校長会でも注意喚起することを決めた。
 都教委が問題としたのは、「性交」「避妊」「人工妊娠中絶」という言葉を使い、説明した点。中学の保健体育の学習指導要領には記されておらず、「中学生の発達段階に応じておらず、不適切」(都教委)としている。
 指導要領の解説には、思春期には「男子では射精、女子では月経が見られ、妊娠が可能となることを理解できるようにする」とある。指導要領をもとに都が作った中学生を対象とした手引では、エイズや性感染症の予防などの項目はあるが、性交や避妊については触れていない。
 一方、足立区教委の担当者は、「不適切だとは思っていない」と言う。「10代の望まぬ妊娠や出産を防ぎ、貧困の連鎖を断ち切るためにも、授業は地域の実態に即して行われ、生徒と保護者のニーズに合ったものだ」。性交や避妊は引き続き教えるという。
 授業を実施した中学校の校長も「授業は自信をもってやっている。自分やパートナーを大切にすることを伝える内容で、避妊方法に触れるからといって、性交をしてもいいとは教えていない」と話す。
 古賀都議は、2003年に都立の旧養護学校で行われていた性教育の授業を批判し、都教委が教諭らを厳重注意。元教諭らが「教育に対する不当な支配だ」と主張した訴訟で都とともに損害賠償を命じられている。11年の東京高裁判決は指導要領の効力について「一言一句に法的な拘束力があるとはいえない」などと認定した。
 今回、都議会で質問したことについて古賀都議は「中学生の段階で性交や避妊を取り上げるべきではない。行政を監視するのが我々の役割で、不当介入にはあたらない」と話した。 (斉藤寛子、山田加奈)」朝日新聞2018年3月24日朝刊38面

 足立区教委や中学の現場教師の見解は、日々中学生に向きあっている中から現実的な「ニーズ」として「性交」「避妊」「人工妊娠中絶」という言葉と内容を正確に教えることが必要だと考えたのだろう。これを「不適切だ」と咎めた都議や都教委の考え方は、現実からではなくイデオロギーから出てきていると思われる。中学生の「発達段階」ではこのような性教育は望ましくない、という見解は「淫行」「不純異性交遊」「卑猥な欲情」といった言葉とセットになっている。無垢で清純な子どもにいたずらに刺激的なことを教えれば、興味本位の欲情が湧き不穏な行為を招きかねない、というイデオロギー、というか連想。それはそのまま、この都議の頭の中ではセクシャリティもセックスもジェンダーも一緒くたに、卑猥な連想を醸し出すものでしかない。つまり彼自身が、そのようなものとして性をみていることを暴露する。

もうひとつ土曜身の上相談「悩みのるつぼ」から
「エロゲーム制作に関わる息子 相談者 女性 50代
 50代女性です。大学生の息子のことで相談です。
 息子は現在、海外に留学しています。高校生の頃からかアニメオタクになり、卒業後は就職せずにアニメ関係の会社を起業したいと、アニメに関わる音楽、イベント、ゲームをつくる活動を始めています。
 最近、息子が18禁ゲームに関わっていることに気づきました。看護師が主人公で、もし看護師さんが見たら、屈辱的で、大変傷つくような内容です。再三メールでこのジャンルはやめてほしいということを申しましたが、考えを変えさせることはできませんでした。
 息子の主張によると「成人向け、18禁、エロゲームなどに関わらずにアニメの仕事をすることは不可能、残虐な作品があるおかげでより大きい犯罪を防ぐ効果がある、子どもたちが見ないようにするのはゾーニングが必要であって作る側の責任ではない、この仕事をしている人たちは、みんな優しくて普通の人、才能もある人たちなので、偏見を持たずに関わっていく」とのことでした。
 息子には人を傷つけるもの、子どもに見せられないものを仕事にしてほしくないと思います。日本の大学の残りの学費や生活費を出すことが、息子の仕事を間接的にでも肯定し、支援することになってしまうなら、援助することをやめ、退学手続きをとろうかと迷っています。

好み・ポリシーと割り切って話し合いを  回答者 評論家 岡田斗司夫 
 私は以前、ガイナックスというアニメ会社を起業し、社長をしていました。アニメを作るたびに赤字になり、それを救ってくれたのがパソコン用のエロゲーム開発でした。
 最初に作ったのは『電脳学園』。クイズに正解すると美少女が脱ぐという内容です。よく売れて会社を経済的に救い、同時に私たちはエロであろうともゲーム作りの楽しさを知りました。シリーズ3作目の『電脳学園Ⅲ』では、自社の人気アニメ『トップをねらえ!』のキャラクターを脱がせました。実際のアニメ監督がゲームの監督もしたので、絵は非常に高レベルで評判も高かったのです。
 そのエロゲームの監督こそ、庵野秀明さん。いまや『新世紀エヴァンゲリオン』や「シン・ゴジラ」で世界的に有名な大監督です。私も庵野監督も、エロゲームを作ったことを恥ずかしいと思ったことも、隠したこともありません。その後の活動に支障をきたしたこともありません。
 というわけで、経験者としては、息子さんの説明も「一理ある」と思います。
 同時に、あなたの「息子には人を傷つけるもの、子どもに見せられないものを仕事にしてほしくない」という価値観にも「一理ある」と思います。だから「そんな仕事に加担したくないから、残りの学費や生活費を出さない」のもしかたないでしょう。正直な話18禁ゲームに関わってる程度で「海外に留学」というのはなんでやねん?と思っている私もいます。
 しかし、ひとつ問題があります。この理由で学費援助をやめても、あなたの望む効果はありませんよ。アニメ業界では学歴はあまり関係ありません。現に、僕も庵野監督も、大学中退です。なので大学を辞めたとしても将来、息子が大成功して庵野監督のようにメジャーになるかもしれません。鳴かず飛ばずのままかもしれませんが、それはしょせん、本人の才能と、やる気と、運次第です。
 ただし、どっちにしても息子は、あなたが自分のやりたいことを認めず学費を止めたことで、非常に傷つき、あなたを恨むでしょう。おまけに学歴は関係ない業界だから、息子は自分の望む世界に行く可能性は高いです。
 まずは話し合いですよね。「あなたにあきらめられない夢があるのと同じに、母には譲れない信念があると。
 どちらも正義はなく、単なる好み・ポリシーのすり合わせと割り切って、話し合ってみてください。」朝日新聞2018年3月24日朝刊、Be10面。

 岡田氏の作った『電脳学園』は、今から見ればクイズで美少女が脱いでいくというだけのゲームで、エロゲームとしてはかわいいものだともいえる。この相談者が見た看護師ものは、もっと過激なものだろうが、それを人間として許されないレベルだと思った母親と息子のエロへのギャップも大きい。現代の日本で青少年、とくに男の子が接触できるセクシャルなエロ画像や情報は膨大で、それが「文化産業」にとって無視できない市場を形成していることは事実だ。だからといって、この「コンテンツ産業」をどこまでも肯定していいわけではない。需要があり市場があるからといって、そうした商品が増殖していった先に何が起こるかは考える必要がある。それはたんにエロだからとか公序良俗に反する、とかいう従来の既成の範囲をこえて、文化の問題だと思う。
 性教育に介入する都議のように、一方でエコノミックにエロを蔓延らせる現状に目をつぶり、同時に表向きは正当な性教育も押さえつけようとするのは、観念的に時代錯誤である。だが、このアニメ会社を作りたい大学生の言い分のように、18禁ゲームは社会的に必要な安全装置の機能を果たし、犯罪を防ぎ若者に満足を与えるよいものだ、という見解はやはり毒された偏見であると思う。そうやって合理化し自己正当化したいのだろうが、成人向けエロ画像は、女性に向けられた攻撃的な視線で「欲情」を喚起することで充足する心理を、不断に教育している。これを変えるには、対抗的な性の充足するあり方を、示す文化的行為が必要だ。

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エミグレの20世紀 今の日本も末期的症状?

2018-03-22 12:32:07 | 日記
A.亡命の現代史
 Immigrantは「移民、移住者」と訳される。Migrationの訳語は「移住・移動」で人口移動などが典型だが、魚の回遊や卵子の遊走、分子内の原子の移動や電気分解でのイオン移動など、いろいろな現象に使われる。渡り鳥もmigrationである。フランス語のéemigréエミグレは、「亡命者」フランス革命のときの亡命貴族に由来する政治的亡命者を意味する。祖国を去って遠い異国で暮らす「亡命者」は、広い意味では移民に含まれるが、自分の意志でより広い天地に夢を託して移民を選ぶ場合とは異なり、やむをえぬ移動は難民にも共通する。ただし、すぐれた知識人や芸術家の場合の亡命は、特別な意味と効果を移住先の国にもたらす。それが大規模に起こったのが20世紀の半ばであった。
スチュアート・ヒューズの、『意識と社会』『ふさがれた道』に続く、20世紀社会思想三部作シリーズの最期は『大変貌』である。タイトルは訳書では「大変貌」となっているが、原文はThe Sea Chengeであって、その主題は、第二次大戦を挟むファシズムの暴威が吹きすさんだヨーロッパから逃れて、アメリカ合衆国に亡命した知識人の軌跡を追う、というものである。まずは冒頭。

「ファシズムの暴圧を逃れたヨーロッパ知識人のアメリカ合衆国への移住は、ようやく1970年代の視野のなかで、二〇世紀の第二四半期のもっとも重要な文化的出来事――あるいは一連の出来事――としてはっきりと認識されるにいたった。この現象が明確に認識されるのになぜそこまでかかったのかは、ちょっとした不可解事である。おそらく、アメリカの風景に亡命者たちがいることが日常生活の一部になり切っていたので、それを「歴史」としてみることができなかったからであろう。またおそらく、大移動の個々の局面がはっきり弁別されるのには、いくらかの時間が必要だったのだろう。そこで、30年が経過し、ヨーロッパ文化が復興したあとになってようやく、亡命者のうちの年長の世代は死没してしまっていること、出身国に戻った人びとは再び「ヨーロッパ化」してしまったこと、この国に帰化して留まることにした大多数の人びとはアメリカ社会に同化してしまったこと――要するに、亡命経験は過ぎ去ったのだということ、が明らかになったのである。
 このような認識に促されて、1960年代の末に、この主題に関する三冊の著作がほとんど同時に刊行された。これらの著作から、われわれは、亡命の大略とその主要人物の活動について、多くのことを学び知った。いまでは、アメリカ合衆国に向けてヨーロッパを離れた知識人のおおよその数とその国籍別がはっきり分かっている。そのほとんど半数がドイツ人であること(オーストリア人を加えれば、三分の二になる)、そのまた三分の二はユダヤの出自であることも分かったし、フランス人の亡命者は比較的少く、そのうちのさらに少数がアメリカに留まることにしたということについても、われわれが前からもっていた印象が確かめられた。さらにまた、イタリア人は亡命者のほんの僅かのパーセンテーイジしか占めていないが、新しい国でのかれらの卓越した地歩と成功がその層の薄さを代償していることも――むしろ驚いたことなのだが――発見した。
 数の問題だけでなく、われわれは、移住が与えた知的刺激について、また二つの文化の間に宙吊りにされた生活経験がどのように才能の開花を迎えるよりもむしろ促進したかについて、いくつもの証拠をもっている。このような「知的状況の想像力」は、前例がないわけではない。トゥキュディデスとダンテのような有名な亡命者や、セント・ペテルスブルクの雪のなかで大革命後のヨーロッパの運命を沈思したジョゼフ・ド・メーストルなどが思い浮かぶ。地理的にもまた感情的にも所を移したことは、これまで慣れ親しんできた道から心を離れさせ、内面の凝視と社会的あるいは心理的探索に心を向けさせるようなショックを与えるものである。しかし、1930年代の亡命は、これまでのどんな文化的経験をも超えたものであった。その人材の範囲と達成した成果の点で、それは、西欧人の近代史のなかでたしかに新しいものであった。亡命者自身が「自分たちの達成した成果の大きさにびっくりした」し、「もし本国にそのまま留まっていたらこれほど成果をあげなかっただろう」と自らまず断言した。もちろん例外もあった。歳をとっていてアメリカの生活に適応するには疲れすぎ幻滅も大きかったものたち、母国語に固執して自分の仕事を英語で練り直すことのできなかったものたち、誇り高く融通がきかなくて自分にふさわしくないと思う地位につくのを拒んだものたち、である。しかし、かれら亡命者が与える支配的な印象は、新しい国で輝かしい達成をなしとげたという印象であった。
 このような成功――しかも、経済恐慌と明らさまともいえる反ユダヤ主義がしばしば亡命者の歓迎に歯止めをかけていたアメリカでの成功――をどのように説明できるだろうか。一つだけの説明や、いくつかの説明を組合わせても十分ではない。ただわれわれは、アインシュタインやシェーンベルクのような人たちを思い浮べて、亡命者のなかの天才的な人々の割合が、やはり前例のないものであったことを思い出しておかねばならない。それとともにまた、1930年代と1940年代のアメリカには、外国の有能な人々を異例なほど受け入れさせるある特質があった。この社会は開かれていた――生まれや階級にかかわりなく個々人のメリットを認める点で、ドイツやオーストリアやイタリアの社会よりもはるかに開かれた体質をもっていた。その上、外国なまりがほとんど問題にされない多元的社会であり、市民の大多数がアングロ=サクソン系でなく、それがこの年代には指導的地位につきつつあった社会であった。さらに特定的には、高等学術研究の諸機関は、ヨーロッパのものよりも多様でありまた閉鎖的でなかった。ここの教授があまり権力ないし権威をもっていない状況であったので、外国生まれの人たちを仲間に加えることは比較的容易であった。さらに、第二次世界大戦が勃発したとき、政府自身が、敵国人と考えても当然な人たちを、信頼を必要とする部署に進んでつけてもみせた。最後に、多くのヨーロッパ人たちに挑戦してかれらの思想を大衆が理解できるような形に変えさせようとした。たとえば神学者のパウル・ティリヒはこの経験について語って、自分を「非地方化」したといったし、哲学者のテーオドール・W・アドルノは、それに加えて、「アメリカでは……知的なものの前ではどんなものにでも黙って尊崇の念を示すということがない」のを見て「批判的な自己点検……をするようになった」と語った。
 もっと特定的にいえば、まさに大きな飛躍をしようとしていたアメリカの学問活動の諸分野は、ヨーロッパからの亡命者の到来によって十分の恩恵をうることができた。原子物理学と精神分析は、亡命者たちがちょうど決定的な瞬間に――つまり、すでに専門的な水準に達していたこの国生まれの学者が、ヨーロッパ人の与えうるより高度の訓練と指導を熱望していたちょうどそのときに――やって来た、二つの主な分野の例である。この二つの学問は、その重心が大戦中に決定的に大西洋を渡った学問であるが、それは、これまでの旧世界への尊崇というパターンがもはや必要でもなければ適切なものでもなくなった知的比重の転換を示唆していた。
 大移住について、われわれはいまこれだけのことを知っている。その概略はもう描かれているし、そのアメリカ文化への寄与も十分に認識されている。しかし、この過程の別の側面はまだ十分に理解されてはいない。諸々の困難が始まるのはこの点――とくに、亡命者たちの仕事の多くに底流し、これを支えていた社会思想の領域において――である。われわれは、亡命者たちの到来がアメリカの知的生活を豊穣にしたことを知っている。われわれは、それがヨーロッパにとっては損失であり、この大陸はそれから回復するのに二、三〇年を要したことも知っている。だが、亡命者自身はどうであったのか。もしかれらが祖国に留まっていた場合になしえた以上のものを達成したというのが真実なら、そのことは、かれら自身の理解が増大したということなのか、それとも、かれらを迎えた国のより多くの読者層のなかにかれらの思想が拡まったということのすぎないのか。中央ヨーロッパの社会学なり心理学は、その影響を拡げることによって皮相化したのか。それともこの「大変貌」sea changeは、かつては欠けていた鋭い味と特性をそれに与えたのだろうか。要するに、そのアメリカ経験は思想それ自体の性格をどのように変えたのか。われわれは、このような問いに、年代記的あるいは外面的伝記をこえて、重要な知的ドラマとしてこの経験の心理社会的分析にふみこむことによって、アプローチしうるだろう。」スチュアート・ヒューズ『大変貌 社会思想の大移動 1930-1965』荒川幾男・生松敬三訳、みすず書房、1978.pp.1-3 .(原著:H.Stuart Hughes “THE SEA CHANGE”1975,Harper & Row, Publishers, New York)

 最初に出てくる三冊の著作というのは、(『亡命の現代史』シリーズ、邦訳はみすず書房、..ラウラ・フェルミIllustrious Imigrants.(1968)『亡命の現代史1,2』、フレミング&ベイリンDonald Fleming & Bernerd bailyn,eds.,The Intellectual Migration: Europe and America(1969)『亡命の現代史4』、The Legacy of the German Refuges Interectualsなどである)。ぼくは、大学生のころ、スチュアート・ヒューズの『意識と社会』を読み、その三部作を読み、そして『亡命の現代史』シリーズも買って、なるほど20世紀後半に文化的学術的な達成を遂げるアメリカの知的世界に、実はヨーロッパからの亡命者たちが大きく貢献していることを知って、とても興味深いものを感じた。今改めて、ヒューズの『大変貌』を読んでみる気になったのは、21世紀の20年代を控え、世界がまた新たな大変貌の予感のなかにある気がするからで、とくに日本の場合は第2次大戦時にほとんど「亡命者」がでなかったことと比較すると、これから「亡命」という問題も考えておく必要があるかもしれない、と思うからだ。



B.末期的症状なのに末期が終わらない?
 森友学園問題のそもそもは、日本会議的極右思想の政権持続に便乗した学校理事長が、首相夫人と特別懇意にあることを強調して財務官僚に強引な土地取得の便宜を図らせた、という構図はほぼ間違いないと誰でも思う。それが表に出て疑惑を呼び、もみ消しに動いたがやぶへびになり、このままでは政権に打撃になるが、官邸や与党は次々官僚のしっぽを切ってことを済ませようとしている。末期的症状なのに、国民の安倍政権への支持が衰えないので、末期が末期なまま終わらない。

「夫人の立場 本音のコラム:斎藤美奈子
 共同通信が一七日、十八日に行った世論調査によると、首相夫人・安倍明恵氏の「国会招致が必要だ」と思う人は65.3%で、「必要はない」の29.0%を大きく上回った。首相ないし官邸はなぜ夫人の招致をかくも強硬に拒むのだろうか。あえてゴシップ誌的に理由を推測すると…。
① 首相愛妻家説。国会での証言はストレスが大きい。妻を愛する夫ならそりゃ拒みたかろう。結婚した際「君を全力で守る」と約束したのかも。
② 首相恐妻家説。夫の説得を妻が拒否している可能性もある。妻の強い態度に夫が逆らえない。
③ 仮面夫婦説。夫婦関係が完全に冷えていた場合はどうか。「勝手にどうぞ」と突き放す?いやいや、愛情を失った妻を国会に出すのはかなり危ない。一種の報復として彼女は夫に不利な証言をしかねないからだ。
④ 夫人誠実説。もしも彼女が正常な判断力の持ち主なら、さすがに自らの軽率なふるまいを反省し、すべてを正直に話したいと希望するだろう。しかし周囲が妨害する。不都合な真実を暴露されては困るからだ。
⑤ 夫人天然説。彼女が自由奔放な性格だった場合は?それも怖い。予測不可能な妻の発言。暴走でもされたら政権の命取りになりかねない。
 しかし、妻は夫の道具じゃないのだ。明恵氏とて独立した個人。ご自分のことはご自分で語らなくちゃ。(文芸評論家)」東京新聞2018年3月21日朝刊、27面。

 相変わらず、斎藤美奈子のアイロニーは鋭くて笑える。安倍明恵氏は、夫が野党時代ひまだったのか、立教大学の大学院に学生になって来ていた。池袋の巷にも気軽に出没していたという噂だったが、今はお忍びでも難しいんだろうな。「君を全力で守る」という言葉を、強い愛情表現だと喜ぶ若い女性は学生にもたくさんいるが、権力や金力のある男にちやほやされたいという願望だけの、ほとんどアホである。安倍明恵氏は個人としてどういう人は知らないが、そういうアホではないような淡い期待はある。

「官僚は政権の道具か 政官のゆがみ:朝日新聞 社説
 安倍1強体制の下での政官関係のゆがみを示す出来事が、立て続けに起きている。
 一つは、政権に批判的な発言をしていた前川喜平前次官が名古屋の中学で行った講演内容を、文部科学省が調べた件だ。自民党の赤池誠章参院議員と池田佳隆衆院議員が、同省に経緯を尋ねたり、市教委あての質問内容を点検したりしていた。
 あの異様な調査の裏に、やはり政治家の存在があった。
 もう一つは、同じ自民党の和田政宗議員がおとといの参院予算委でとった言動である。
 財務省の太田充理財局長が民主党政権時代に首相秘書官を務めたことを取りあげ、「安倍政権をおとしめるために意図的に変な答弁をしているのではないか」と責め立てた。
 共通するのは、官僚を政権を守る道具としてしか見ない姿勢だ。公務員を「全体の奉仕者」と定める憲法を無視し、権力は教育や人の内心に土足で踏み入ってはならぬという、戦後社会が築いてきた原則をわきまえない。見識を欠くこと甚だしい。
 赤池、池田両氏は問題発覚後も文科省の影に隠れ、メディアが名前を報じるまで沈黙していた。両氏のみならず、林芳正文科相の責任もまた重い。
 文科省が前川氏の講演を知ったのは議員側からの照会がきっかけだったのに、当初、報道で知ったと事実と異なる説明をし、今なお「あくまで省の主体的判断だ」と主張する。
 質問事項を議員に示し、意見を聞いて修正までしながら、主体的といえるのか。学校現場には政治的中立を求める文科省が、自らは与党議員の意をくんで中学の個別授業に介入する。この矛盾をどう考えるのか。
 一方の和田氏の発言は、さすがに不適切とされ、議事録から一部削除されることになった。
 国会の質疑は政権のためにあるのではない。国民のために事実を語り、ていねいに説明する。当たり前の話だ。
 それなのに、現政権に不利な話はするなとばかり議員が迫る。許されるものではない。
 公文書を改ざんした財務省を追求するのは当然だ。だが同省に責任を負わせて片づく問題ではない。なぜこんなことが起きたのかを徹底解明し、行政に対する監視機能を果たす。それがいま、与野党を超え立法府に課せられた使命ではないか。
 今回の二つの出来事は、熟議を拒み、「敵」とみなした人々を批判し、排除することを繰り返してきた。この5年間の安倍政権の体質を映し出す。深刻な事態である。」朝日新聞2018年3月21日朝刊、14面オピニオン欄社説。

 末期的症状といえばこっちもすでに政治家として終わっているとしかいえない。都合の悪いことは全部誰か下の者のせいにして、罵詈雑言で叱りつける。敵に同情的な者は、あら探しをしてはしたなく攻撃する。自分は正義のために頑張るのだと、権力をかさにきて人の意見に耳を貸さない。要するに政治家として教養も矜持も、いやそれ以前に政治家とは何をするために選ばれているかを知らない人たちだと思えるが、そういう連中が国会にうようよしてしまっているのだなあ。
コメント
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