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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

3度目の〈近代の超克〉 日本がいちばん得意満面だったとき

2017-12-18 01:20:50 | 日記
A.もう一つの座談会
 1989年に『季刊思潮』(思潮社)という雑誌に、この雑誌の編集同人の4人(浅田彰・市川浩・柄谷行人・鈴木忠志)のうち三人(浅田・市川・柄谷)がゲストに廣松渉を招く形で「<近代の超克>と西田哲学」という座談会が掲載された。副題は「関係の内面化状況から浮上する<日本>という無根拠な自信」である。これは廣松が『<近代の超克>論』という本を出したことに関わっていたが、廣松がこれを書いて雑誌に発表したのはもっと前、1975年頃だという。今は講談社学術文庫に入っていて誰でも読める本だが、マルクス主義哲学の研究家廣松が、日本の京都学派について論じたのは、かなり特異なものといわれた。1989年ももう28年も前だから、今の若い人にはこの議論の文脈がよくわからないかもしれない。80年代後半はいわゆるバブル景気に沸き日本が世界第2の経済大国になったと得意満面だった時期である。読書界ではフランス現代思想のブームがあって、ちょっと気取った大学生は、デリダだフーコーだと口走ってカッコつけていた。今から考えれば、極めてお気楽に浮かれていたような表層の戯れだが、そういう時代に、何度目かの「近代の超克」が語られていたのも、振り返る価値はある。

「柄谷:今日廣松さんに来ていただいたのは廣松さんが『<近代の超克>論』(朝日出版社)という本を書かれたからなんですが、これはいつ頃書かれたんですか。
廣松:本にしたのは1980年ですが、連載したのは74年から75年にかけてです。
柄谷:ぼくの知る範囲で言うと、廣松さんが日本の哲学、とくに西田哲学や京都学派に関して言及されたことは少ないですね。多分この本だけじゃないでしょうか。しかし、廣松さんの本の中で例外的にみえるけれども、これは意外に重要なものではないかと思ってきたのです。廣松さんは戦前の「近代の超克」論議を単にバカにしてはならない、それは世界思想の課題であるという意図でやってこられたと思うんですね。ただ戦前の「近代の超克」では駄目だという批判だったと思うんです。むしろぼくは廣松さんの仕事は、〈近代の超克〉とよぶべきものではないかと思っています。そして、それは一見断絶しているようにみえるけれども、過去のそれとつながっているのではないか、と。廣松さんのこの本では西田哲学に対するまだあまり突っこんだ議論じゃないと思うんですね。むしろ歴史的な考察という感じじゃないかと思います。今日はそういうことも含めて改めて日本の哲学や思想の状況について話ができたらと思います。
 廣松さんが『〈近代の超克〉論』を書かれたのは1974年頃とおっしゃいましたが、それはどういう状況を感じられたからなんですか。
廣松:当時の状況をどう受け止めたかを整理していうのはひじょうに難しいですが、73年が連合赤軍事件ですが。68年から70年にかけての全共闘運動の山が過ぎて73,4年頃から「近代の超克」という話が異常な感じで議論になった。全共闘の諸君が「近代の超克」という言い方をしたかどうかは別として、一口で言えば「近代の超克」を志向したと思うんです。それは近代科学批判というようなこととも繋った。それに対して73,4年になってくると、古い世代からの巻き返しという訳じゃないけれど、「近代の超克」というモチーフそのものに対してシニカルな風潮が強まってきた、そのうえ、あんな議論は戦前からすでにあったという冷笑的な言い方をする人たちまで出てきた、こういう風潮はちょっと困るぞと思ったんですね。ぼく自身全共闘運動なんかより前から一種の「近代の超克」を唱えていましたので、戦前・戦時のあの議論に対してどういうスタンスをとるのか態度を表明せざるを得ない。ということが、戦前・戦時の京都学派や日本浪漫派や『文学界』グループの「近代の超克」論を検討するあの連載を書いたバック・グラウンドでしょうね。
 その他に言うと、みすず書房の膨大な『現代史資料』がそのころようやく出揃ってきたし、その少し前の“明治百年”を機にいろいろな資料が出版されていた。資料がようやく整ったという感じがありました。73年には『伝統と近代』(三月号)が戦時中の「近代の超克」の座談会の復刻を出したのですね。戦時の雑誌の座談会を別の雑誌がそのまま復刻して出すというのはかなり異常なことですよね73、4年という時期は戦前・戦時の日本思想の見直しがおこなわれた時期だったと言える。そういう雰囲気の中で書いたのだから第三者的にみれば、論壇の動きに刺激されたということになるかもしれない。
 ただ、私自身の動機とその時の雰囲気ということは、本当は分けなきゃいけないかもしれません。私自身の場合、この本に「昭和思想史への一断章」とサブタイトルをつけているんですが、そういう仕事をやらなければいけないという意識がずっとあって、たまたま資料も出そろったことがきっかけなんですね。その時の周囲の議論がどうだったかというのは、ぼくの中で実はそれほどは大きくないんです。当時、『伝統と近代』がどうしてあんな復刻を出したのか、動機やモチーフはよくは分からないんです。
柄谷:「近代の超克」という座談会は戦後においても何回か取り挙げられて問題になってきましたよね。それはその座談会の歴史的意味を問うということを意味するだけではなかった。むしろそれを問うことがその都度その時期の状況を映し出すというかたちになっていたと思うのです。ぼくの知る範囲では最初に出てきたのは、たぶん竹内好の「近代の超克」論ですね。
廣松:戦後すぐに杉浦明平などのものがあるけどね。まともな形で出てきたのは竹内好たちのものが最初でしょうね。
柄谷:ええ、竹内が言いたかったことというのは、戦後の日本がアジアを切り捨てている、ということへの批判でした。「近代の超克」派、とくに日本浪漫派には〈アジア〉への契機があるということを重視していました。たらいの水と一緒に赤子を流してしまってはならない、と竹内好は言ったわけです。しかし、彼がこれを書いた時期には、つまり60年前後には大して影響力をもっていなかった。六十年代の全共闘の時代にべつの形で復活してきたと思うんです。一つにはベトナム戦争があって、ベトナムに対してアメリカが、日本が中国に対してそうであったように泥沼的なところへ入ってゆくという状況があった。もう一つは中国の文化大革命には近代批判というものが含まれているんだというフランス経由のマオイズムのようなものもあります。マオイズムはいわば「近代の超克」として評価されたわけです。それで思い出したんだけれど保田與重郎が紅衛兵を誉めたんですね。ここに大西郷の精神が生き残っていると言うんです(笑)。とにかく、この時期一種の「アジア主義」が勢力をもったことを忘れてはならないと思います。
 さっき廣松さんが『〈近代の超克〉論』を書かれたのは74年だと言われたんだけれど、だいたい戦後の米ソの二元構造が終ったのが71,2年くらいですね。本当はその段階で戦後の秩序は終わっているんだと思うんです。つまりアメリカがベースにあってソ連がブラックボックスになっているというような対立の構図のぐらつきが露骨に見えたのが71,2年ぐらいの玄蕃じゃないかと思うんです。
廣松:今から見れば確かにそうですけど、当時から見ればやっぱり73年のオイルショックの方が大きかったよね。
柄谷:そうです。そのあたりが境い目ですね。ニクソンの訪中とか為替相場の自由化とか、一連の出来事があった。さらに左翼の自滅のようなこともね。そういう戦後の世界の構造が終ったという感じがあったと思うんですね。むしろ73、4年頃に「近代の超克」ということが言われてたとしたら戦後構造の終焉というようなことが言われてたんじゃないのかな。デリダがさっき言ったポール・ド・マンについて弁護論を書いているのですが、その中にド・マンがベルギーの新聞に二十歳の時に書いた文章が引用されています。その中に「世界新秩序」という言葉が使われているんですね。日本で、西田や西田派がみんなその言葉を使っているけど、これは実はヨーロッパから来たものですね。1941年のヨーロッパにおける新秩序とは何かというと、ヨーロッパではすでに戦争は終わっている、ヨーロッパは統一された、これが世界の新秩序なんだという考えなんですね。これはある意味で事実だった。イギリスをのぞいてヨーロッパは統合されたのです。当時のフランス人の大部分がそう考えていたといってもよいと思う。戦後「レジスタンスの神話」を作って、過去を忘れようとしましたが、日本の京都学派は、この「統合されたヨーロッパ」に対応して考えたわけですね。鈴木成高は「世界史的立場と日本」という座談会で、アメリカはヨーロッパの辺境ではもうないので一つの文化なんだというようなことを言ってますね。事実、戦後においてはヨーロッパはいわば消えてしまってアメリカとソ連が「世界新秩序」を形成した。その構造は今でもつづいていますが、たとえば「ヨーロッパの統合」が今なされつつあるし、世界のブロック化としての「新秩序」が形成される傾向にあると思います。そういう政治的・経済的な多極化が起こってきたのは1970年代の初期からです。米ソの二極化という戦後の二十年間くらいはむしろ異常な時代だったんじゃないですかね。
浅田:「近代の超克」ということが三十年代に言われ、五十年代末に小田切秀雄や江藤淳、竹内好や橋川文三によって問題にされ、さらに六十年代末の空気を踏まえて、74年頃に廣松さんによって取り上げられたわけだけれども、現在、つまり八十年代の半ばくらいからもう一度それが回帰している。この回帰の仕方が今までと違うのは、今までは、主流としての近代主義に対する反抗のパトスみたいなものに何がしか裏づけられて、アンビヴァレンスをこめながら「近代の超克」を語っていたのに対し、今回は、柄谷さんが言われた多極化の中で日本の地位が上がってきており、しかも、その原動力である経済成長が、かつては前近代的と批判された日本的制度によってもたらされたという背景から、何かもうすでにわれわれは近代を超えて勝利していると言わんばかりの無根拠な自信が出てきて、それをイデオロギー的に追認する形で「近代の超克」論が亡霊のように復活してきてるという点です。
 柄谷さんが異常と言われた敗戦から六十年代末に至る時期には日本も近代化をせねばならぬとがんばったけれども、高度成長で近代化の実を取ってしまった以上、近代化の理念はもう捨ててもいい、あとは既にポスト近代を謳歌すればいいということになった。実際、大平政権や中曽根政権の頃から、ホーリズムとアトミズムを生の場において調和させるバイオホロニックな文明の代表者である日本こそが新しいソフトな科学技術を持って世界をリードするであろうとか、あるいは、新京都学派が和の文化とか凹型文化とか中空文化とかいうような東洋的な調和の文化をもった日本こそが新しい大東亜共栄圏――まあそういう言葉は使いませんが――を指導するであろうとか言う類の議論が、薄められた形で、しかし、かなり公的に出てきたわけですね。そこへ、戦前と同じように、欧米における近代主義の自己批判がポストモダンという名のもとに流入するということがあって、まあ僕にも責任がなくもないのかもしれないけれども(笑)。そういった事柄が重なりあったところで、「近代の超克」が、鋭いアンビヴァレンスをもってというよりは、いささか安直に、復活しつつあるんじゃないかと思うんです。」思潮社『季刊思潮』1989年第4号。pp.007-010.

 2017年の現在から改めてこれを読むと、論議の中身よりあの時代の状況が今とはすっかり変わっていることが思い知らされる。80年代には、アジアの先頭を走るのは経済大国日本で、「近代」とはアメリカを筆頭とする西欧白人文明に重ねていて、それに日本はもう乗り越えたのだ、と思い込む言説は溢れていた。さらに当の近代本家のフランス現代思想のチャンピオンが、ポストモダンを謳い、日本に来て日本こそポストモダンを体現している、というようなリップサーヴィスまでしてくれるのに、すっかり浮かれていたわけだ。中国は文化大革命の後始末で国内がごった返していたが、経済力も軍事力もまだまだ途上国レベルで、日本はよしよしと上から目線で助けてあげると言っていたのだ。今はもう、すべてが逆転している。したがって「近代の超克」という言葉の意味も逆転してくるわけだろう。



B.過去の人たち
 平成はあと1年半後には終わって新しい元号になる。元号などたいした意味はないとはいえ、明治・大正・昭和の歴史があまりに大変動ではあったから、平成というのがひとつの時代として完結するような気分だけはしばらく語られるかもしれない。膨張し軍事的侵略を追求した前半と敗北してから苦心して経済復興を果たした昭和に比べて、平成はその遺産を食いつぶしひたすら停滞し、縮小する時代だった。昭和の成功を自分の栄誉のように感じていた人たちは、平成の衰弱が納得できないのだろう。だってほとんど30年くらい、ひたすら頑張れば頑張るだけGDPは上昇し、経済成長は自明の現実で、貧しかった日本はみるみる豊かな国になり、日本にあの先進国西洋白人が目を瞠って尊敬のまなざしを向けてくれたのだから・・・と今も信じているわけだ。

「海図なき時代の航海 かじ取り担ったトップ3人に聞く:平成の日本経済は、グローバル化や金融危機に翻弄された。昭和時代の「成長神話」が崩れ去り、いやおうなく変革を迫られた。荒波のなか「海図なき航海」のかじ取りを担った企業や中央官庁のトップ3人に、それぞれの「平成経済」を聞いた。
 資本主義観が変化 分配により力を:宮内義彦氏 オリックス・シニア・チェアマン
 平成が始まったときは日本経済の絶頂期で、そこから落ち目になった。苦しい時期を経てようやく社会が落ち着いてきたが、「成長を望まない」という雰囲気が強く残ってしまった。
 昭和で人生の大半を過ごした私にとって成長が続くのは当たり前だが、平成で社会の中核になった人は違う。意識のギャップを感じる。命がけで新しいことに挑戦する人が出てこなくなり、まじめな経営者はコスト削減ばかりに力を注いだ。
 昭和は、ホンダやソニーのような世界的なブランド企業を数十社生んだ。平成で成長した企業は、楽天やソフトバンク、ファーストリテイリングなど数えるほどしかない。昭和から続く大企業の大部分はサラリーマン社会。世界を驚かす革新的な製品やサービスを出す意欲を失った。経済の柱が製造業から非製造業にシフトしたのに、財界の中心はいまだに製造業の企業だ。財界の意識も変わらないと、日本を蘇生させられない。
 銀行の不良債権処理に手間取り、低成長が長期化してしまったことは大きい。歴代政権は巨額の国債を発行し、ありとあらゆる経済対策をとった。あれだけ財政を傾けてやるなら、銀行に公的資金を早期注入し不良債権処理を断行するべきだった。そうすれば経営者の心理はここまで冷え込まなかったはずだ。
 社会の仕組みが時代に合わなくなり、改革が迫られるときは、政権も不安定になる。選挙を考えて課題を先送りする体質はますます強まる。世界中で起きている現象だ。民主主義は根本的な矛盾を内包している。
 経済が行き詰った平成では、「会社は誰のためのものか」という問題も突きつけられた。「経営者は株主に奉仕する」というのが、資本主義の原則だ。私もそれが最も効率的に社会に富をもたらすと訴えてきた。「業績を上げるのが最優先だ」と。いまは、この考え方が変わった。
 米国は企業の稼ぐ力では抜きんでているが、貧富の格差が社会の亀裂を生んでいる。これを調和させるために社会が払うコストは高い。ここ5年ほどで、「そういう資本主義でいいのか」と疑問を抱くようになった。
 会社は人、モノ、カネをうまく使って経営する。だが、人はモノヤカネとは違う。最大限の配慮が必要だ。経済活動は人に奉仕するために存在する。「昔言っていたことと違う」と言われるかもしれないが、時代にあわせて人は変わるべきだ。次の時代は、より分配に力を入れた社会をめざすべきだ。 (聞き手・大日向寛文)

 事実確認の徹底 帰るな:佐藤隆文氏 元金融庁長官
 北海道拓殖銀行や山一証券が経営破たんした1997年11月は、大蔵省銀行局の総務課長だった。その後、金融庁の局長や長官として銀行の不良債権処理やリーマン・ショックを経験したが、97~98年が役人人生で一番つらかった。
 当時は法的な裏付けのある破綻処理制度ができていない中で、金融システムの安定や預金者保護をしなければならなかった。銀行が抱える不良債権も深刻だということはある程度分かっていたが、正確な実態は十分わかっていなかった。
 さらに、公的資金を金融機関に使うことがタブー視され、機動的な破綻処理や経営支援ができなかった。これは95年に住宅金融専門会社(住専)への公的資金注入を決めた影響が大きい。「ずさんな経営をしていた連中の尻ぬぐいをするために公的資金が使われたのか」と世の中の怒りが爆発したからだ。
 また、大蔵省の接待問題で逮捕者も出て信用が落ちていた。そういう中で危機が深刻化し、極限に達したのが97~98年だ。
98年に金融監督庁が発足して検査が独立し、公的資金を使える法律ができ、実体を明らかにしたうえで必要なら公的資金を使おうという流れに変わった。
事実は事実として客観的に見ることが大事、というのが金融危機の教訓だ。当時の大蔵省銀行局は、実態の把握と、どういう対策を講じるかということが十分に分離されていなかった。
金融庁は来年夏、検査局を廃止するが、政策判断の前提として事実確認をしっかり行うという基本は変えてはいけない。 (聞き手・高田寛)

海外へ出ない選択肢はない:中西宏明氏 日立製作所会長
高度経済成長期の日本は一生懸命、海外市場を開拓し、家電や半導体、通信機器などを世界にどんどん売った。当時は生産も開発も、すべて日本を中心に考えられていた。
だが、このモデルは壊れた。商品の品質・性能の差が小さくなって価格競争が主となるコモディティー(汎用品)化が進み、人件費の安い韓国や台湾、中国に取って代わられたからだ。
日立製作所は2008年のリーマン・ショック後に大きな赤字を出し、事業再編を進めた。5年後、10年後の業界構造を検討した結果、ハードディスク駆動装置事業や液晶パネル、携帯電話などからは手を引くことにした。一方、競争力のある鉄道や情報通信は、それぞれ英国と米国に事業の軸足を移した。
海外市場では、単に製品を売るだけではだめで、例えば鉄道なら保守技術や運行に関することで現地の人との本格的な折衝が必要になる。そうしたことは日本人だけではできないので、トップは現地で採用した。
いまは海外に出て行かないという選択肢はない。日本はあくまで世界市場の一部だという考え方だ。日本が縮小していけば、日本の売上比率は縮む。そんなに大きいマーケットではない日本に増産の設備投資をしたってしょうがない。「内部留保が沢山あるんだから国内に設備投資しろ」と言われても、「どこへ?」という感じだ。
少子高齢化が進む日本は、付加価値をつけていく国にならざるをえない。多様な人が触発しあって初めてイノベーションが生まれる。海外の人の出入国の自由度を高め、社会の競争力を高める必要がある。
 日本が中長期的に成長していくには、ものをネットにつなげるIoTや人工知能、ロボットなどのイノベーションを採り入れることがカギだ。産業界としても政府と一緒に進めていきたい。 (聞き手・高田寛)」朝日新聞2017年12月17日朝刊4面経済・総合欄 

この人たちの信じてきた世界は、日本がたまたまいろいろな条件に恵まれて、この国の歴史上ないほどの大失敗から奇跡的に立ち上がって、世界でも例のないほどの豊かな社会を実現したのを、自分たちの努力と功績だと思いたいと願っている老人だということだ。彼らが高度成長神話の申し子だということは、ぼくもほぼその時代を生きてきたから理解できる。でも、この人たちの現実を見る眼はもはや曇っていて、一番いい時代の夢の中に彷徨っていると思う。日本が世界に誇るべきは、過去の栄光ではなく、これからますます不分明になり混迷する未来に対して、真に意味のある思想的イノヴェーションだろうが、それは「近代の超克」の焼き直しではないだろう。
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