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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

戦争の経験をふりかえる 3 日中戦争の報道  就任演説!

2021-01-31 23:20:20 | 日記
A.日中戦争の記録
昭和の日本が始めた戦争を、1931年9月の柳条湖事件を起点に1945年8月の敗戦までの、いわゆる十五年戦争は、順にみると、満洲事変、日中戦争、そして太平洋戦争という三段階の戦争に分かれる。空間的にもそれぞれ戦争が行われた場所は、満洲(中国東北部)、中国中央部、
そして太平洋から東南アジア(オーストラリアの一部までを含む)と異なっていた。このように戦争を拡大したのは日本の意思、とくに軍部の積極的な意図のもとに行われた侵略戦争であることは疑う余地はない。
当時の日本国民の主観的認識としても、明治の日清戦争以来、日本が台湾、朝鮮、樺太、満洲と戦争のたびに版図を拡張し、アジアの地図に日本帝国の領土が赤く塗られていくことに、誇りと満足を感じていたということは、ほぼ頷ける事実だっただろう。それは、国民各層に戦争の犠牲、直接には戦争を戦って死んだ身内の兵士、国家のために命を捨てた若者への、敬意と哀悼という心情に裏打ちされていたはずだ。靖国神社に祀られた「英霊」とは、そうした精神の回路で理解されていた。たとえそれが他国の領土を奪い取るために、「敵」の命を多数殺したとしても、それは正義の名において称賛されてしかるべき出来事だ、と多数の臣民(国民)は思っていたことだろう。
しかし、冷静に考えてみれば、それは他人の土地に武力をもって踏み込んで、自分たちの領土だとそこの人たちを支配するということだけをみれば、あまり褒められることとは思えないと、考えた日本人もいたはずだ。そこで、良心のやましさを感じても、なおかつ日本の行為を正当化できるとすれば、これは結局、そこの人々にとっても幸福と平和をもたらす善きおこないなのだ、という説明。つまり、そこの劣った人々の力では達成できない先進的な近代化を、日本が正しく導いてやるのだ、親が子を、兄が弟を助けるように扶育するのだ、という論理である。この踏み込まれた国の人民からみれば、きわめて自分勝手で傲慢な論理も、昭和の日本人には正義の根拠であったし、報道機関が国民向けに記事を書く時、これ以外には拠って立つ場所はなかった。

「つづけて、日中戦争の報道とそこでの戦争像を探ってみよう。同時代的には、日中戦争は、ばらばらの戦闘のつらなりとして伝えられた。発端となる盧溝橋事件からしばらくの報道を見ると、1937年7月7日の日本軍(支那駐屯軍)と中国軍(第29軍)との交戦を、『東京朝日新聞』は7月8日発行の夕刊で報じた。「北平郊外で日支両軍衝突」との大見出しがあり、「不法射撃に我軍反撃 廿九軍を武装解除、疾風の如く龍王廟占拠」との見出しがならぶ。
 1933年5月に塘沽(タンクー)停戦協定が結ばれたあとも、中国軍と日本軍との小規模な衝突は続いており、1934年10月から1935年6月にかけて、張北事件(第一次・第二次)、察東事件(第一次)などがおこっている。華北一体を国民政府の統治から切り離そうと日本軍による「華北分離」の工作がなされ、1936年に天津に司令部を置く支那駐屯軍が増強されるなか、さらに第一次・第二次豊台事件(1936年6月、9月)がおこった(安井三吉『盧溝橋事件』研文出版、1993年)。こうしたなかで起きた盧溝橋事件は、大々的に報じられ、7月9日朝刊の連載小説(深田久彌「鎌倉夫人」)は休載となった。
 7月9日の『東京朝日新聞』朝刊第ニ面は、「支那側の態度強硬」で「現地交渉」が決裂し、再び「交戦状態」に入ったと記している。このあとの報道は、事件の「解決」に向けての現地の交渉の様相が中心となり、いったん7月9日に中国軍が撤退したことを告げる(新聞報道は、7月10日。だが、両軍の対峙は継続している)。また、衝突の「非」が中国側にあることが繰り返された。このときの日本の交渉相手は、現地の中国第二九軍とともに「冀察(きさつ)政権」(宋哲元を委員長とする、冀察政務委員会)であったが、「中央」(南京の国民政府)が登場し、「紛糾」したとされる(『東京朝日新聞』夕刊、7月10日)。
 7月11日の朝刊には、再び「日支全面的衝突の危機!」の大きな活字が躍った。ここでは蒋介石が「進撃令」を下したといい、蒋介石の南京政権の軍隊とのあいだに戦闘がなされたとされる。
 しかし、現地では7月11日に「解決条件」がまとまり停戦が実現し、日本軍の主力も引きあげた。けれども、その7月11日に近衛文麿内閣が、「華北」への派兵を決定する。陸軍中央部の強硬論者が大勢を制したためだが、現地停戦協定の成立は「内地」に伝えられたものの(7月12日)、同日夕刊の紙面には「全面的衝突」の不可避が前面に押し出されることとなった。
 そして、その後は、日中両軍の戦闘の様相が、写真入りで報じられる。新聞社はすぐに特派員を派遣し、戦闘の詳報やエピソード、戦場における美談などを掲載するようになる。『東京朝日新聞』のばあい、特派員たちは、たとえば、北京の城外の「戦線」を「決死的」に視察して回った際のエピソードを掲げ(7月16日夕刊)、戦端が開かれてからは、写真とともに、臨場感ある戦闘の記事がたっぷりと掲載される。7月22日の記事は、塹壕のなかの兵士との会話から始まり、戦闘の現場の生々しさを伝えた。手書きの図や地図も掲げられ、「膺懲進撃」(7月31日)の様相が記されることとなる。
 同時に、新聞は「国運進展の礎石」をいい、「全国民打って一丸」となることを図り(7月12日夕刊)、「銃後の護り」として、明治神宮への祈願や慰問袋作りを紹介する(7月12日夕刊)。また、朝日新聞社は「航空報国事業」として「軍用機献納運動」を展開し、社として二万円の募金活動を7月20日より開始する。
 そうして、大局レベルで中国を批判しつつ(「支那一片の反省なく/形勢俄然緊迫化す」7月20日)他方では身近な銃後の活動を紹介し、その中軸を戦闘の報道が占めるという戦争報道のパターンが、盧溝橋事件の勃発からほぼ10日間のあいだに作り上げられた。かかる内容と組合せをもって、定型化した戦争報道は、以後、上海をはじめとする北京以外の各地の戦線―戦闘ごとに記され、その積み上げにより「日中戦争」が報じられることとなる。
 7月25日の(北京と天津の中間の)廊坊、26日の北京の広安門での日本軍との衝突、さらに7月28日になされた支那駐屯軍と第二九軍とのあいだの本格的戦闘も、こうした定型が形づくられるなかで報道された。
 8月15日に、近衛文麿首相は「支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す」との声明を発表する。新聞報道は、この宣戦布告を行わないという日中戦争の特徴と即応するかたちで、戦闘の推移に従いながら戦争を報道していくものとなっている。戦闘の局面は、詳細かつ扇情的に報じられるが、戦争の大要や目的に関しては、不明瞭のまま投げ出されている。
 兵士たちの手記
 日中戦争では、さまざまな表現媒体による戦闘の表象がみられたが、とくに1937年7月の盧溝橋事件以降の本格化をきっかけとして、従軍した兵士の手による戦争の記述が登場する。「戦時」には、戦争遂行という誰もが異議を挟めない公的で支配的な前提があるなかで、従軍し戦地に赴いた兵士が自らの「個」的な体験や状況を報告する記述が開始される。当初の「特派員」の「ルポルタージュ」から始まった記述は、次第に実践に携わった人々の筆」になった(板垣直子『現代日本の戦争文学』六興商会出版部、1943年)。
小説では、『麦と兵隊』(1938年)に始まる三部作(『土と兵隊』1938年、『花と兵隊』1939年、いずれも改造社)を著した火野葦平や、上田廣『黄塵』(改造社、1938年)らを代表とする、いわゆる「兵隊作家」が輩出し、戦場の日常と戦闘の様相が記された。」成田龍一『増補「戦争経験」の戦後史』岩波現代文庫、2020.pp.30-34.

 戦争がどういうものか、実際に中国大陸で日本軍はなにをやっているのか、国民の多くは知るすべもない。そこで、新聞は特派員を送りこみ、出版社は職業作家を現地に送ってルポルタージや小説を書かせ、あるいは実際に兵士として現地で戦争を経験した兵隊作家の作品を載せた。映像を中心とした現代のマス・メディアの報道と違って即時性もビジュアルな映像も乏しいが、人びとに強く訴える力はあったはずだ。いや、考えてみれば、現代のテレビやネットの映像は、あたかも今そこでぼくたちが現場に立ち会っているかのように思ってしまうけれど、それはあくまでメディアのフィルターを通った作られたイメージの域を出ないのではないか。


B.「大統領演説の翻訳」
 新しいアメリカ大統領の就任演説は、世界の注目を浴び、歴史に記録される発言である。今回のバイデン氏の演説も、世界に報道された。とくに連邦議会議事堂というアメリカン・デモクラシーを象徴する殿堂に、デモ隊が乱入し破壊行為を行ったのが、前大統領の挑発的呼びかけによるものだったという、前代未聞の事態を受けての演説だったから、バイデンが何を語るか、世界は耳を澄ました。ぼくもそれを読んでみた。まずは邦訳で、そして次に英語の原文で。

「バイデン大統領演説 訳し方で違った印象:池上彰の新聞ななめ読み 
 アメリカのジョー・バイデン大統領の就任式は、時差のため日本国内では深夜の中継となりました。実際にどんな演説をしたか知りたい人は、新聞各紙1月22日付朝刊に掲載された日本語訳をじっくり読んだのではないでしょうか。
 朝日新聞や日経新聞は、英文と日本語を対訳の形で同時に掲載しました。読売新聞は、本紙は日本語訳だけで、英文は読売の英字紙「ジャパン・ニューズ」に掲載しました。就任演説は格調が高く、日本語訳だけを読んでいると、「あれ、この部分はどんな英文なのだろう」と知りたくなる人もいるはずですから、ここは対訳にしてほしかったところです。
  •        *        * 
 新聞各紙を読み比べると、バイデン大統領の言葉を「です、ます」調で訳すか、「である」調で訳すかによって、イメージが違ってくることがわかります。たとえば朝日新聞。冒頭に近い部分で、こう書きます。
 〈今日、私たちは大統領候補者の勝利ではなく、大義の、民主主義の大義の勝利を祝福します。人びとの意志は届き、そして聞き入れられたのです。民主主義は大切であることを改めて学びました。民主主義は壊れやすいものです。皆様、今この時、民主主義は勝利したのです〉
 一方、読売はこう訳しました。
 〈私たちが今日祝うのは候補者の勝利ではなく、大義、すなわち民主主義の大義だ。国民の意思が聞き入れられ考慮されたのだ。民主主義とは、もろいものだ。そして皆さん、民主主義は今この時をもって、勝利した〉
 では、日経はどうか。
〈我々はきょう、一候補者の勝利ではなく、民主主義の大義の勝利を祝っている。人々の意思が響きわたり、人々の意志が聞き入れられた。我々は改めて民主主義の貴重さを認識した。民主主義はもろいものだ。しかし今この瞬間、民主主義は勝利を収めた〉
 あなたはどの訳文が好みですか。バイデン大統領の人柄をほうふつとさせるのは、朝日の訳文でしょう。優しい口調になっているからです。でも、なんだか校長先生が生徒に話しているようなイメージもあります。
 読売は「である」調を採用したことで格調高くなりましたが、「考慮されたのだ」という表現はこなれていない印象です。日経は大胆な意訳です。「人々の意思が響きわたり」と訳すとは、ちょっとびっくりです。
  •      *      * 
 アメリカ大統領は代々キリスト教徒ですが、バイデン氏はケネディ以来のカトリック教徒です。それらしい箇所があります。日経新聞はこう訳しました。
 〈何世紀も前、聖アウグスティヌスは人々は愛の共通の目的で定義づけられると書いた〉
 これでは、なぜ聖アウグスティヌスを引用したのかわかりません。これに対して朝日はこう訳します。
 〈何世紀も前、私の教会の聖者、聖アウグスティヌスはこう訳しました。民衆とは、愛する共通の対象によって定義される集団であると〉
 この方がいいですか、さらに丁寧なのが読売です。
 〈何世紀も昔、私が属する教会の聖人である聖アウグスティヌスは、人々は愛を注ぐ共通の対象によって特徴付けられると説いた〉
 「私の教会」より「私が属する教会」の方が、わかりやすいですね。
  •       *        * 
 アメリカはキリスト教が盛んな国だと実感するのは、大統領がほぼ必ず聖書の一節を引用するからです。
朝日訳です。
 〈聖書にあるように、嘆き悲しむことが一晩続くかもしれませんが、次の朝になれば喜びが来ます〉
 ところが、読売訳はこうなっています。〈夕べは涙のうちに過ごしても、朝には喜びの歌がある〉
 これは聖書協会共同訳『旧約聖書』詩編30章からの引用です。朝日も別稿で紹介していますが、やはり演説の日本語訳に聖書の言葉をそのまま盛り込みたいところ。演説のニュアンスが素直に伝わります。
それにしても、日本の総理の演説との格調の差は、どうにかならないものでしょうか。◆東京本社発行の最終版を基にしています。」朝日新聞2021年1月29日朝刊13面オピニオン欄。

 なるほど、英語を日本語に訳すとき、そこに訳者の、この場合は新聞社のスタンスが強く反映しているな。ちなみに、池上氏があげている箇所の原文は以下の通り。
Today, we celebrate the triumph not of a candidate, but of a cause, the cause of democracy. The people, the will of the people, has been heard and the will of the people has been heeded.
We’ve learned again that democracy is precious. Democracy is fragile. At this hour, my friends, democracy has prevailed.
And I promise you this, as the Bible says: “Weeping may endure for a night, but joy cometh in the morning.” We will get through this together. Together.
Many centuries ago, St. Augustine, a saint in my church, wrote that a people was a multitude defined by the common objects of their love. Defined by the common objects of their love. What are the common objects we as Americans love, that define us as Americans? I think we know. Opportunity, security, liberty, dignity, respect, honor and, yes, the truth.
I give you my word, I will always level with you. I will defend the Constitution. I’ll defend our democracy.
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戦争の経験をふりかえる 2 戦中派‼  外国人労働者導入の欺瞞

2021-01-28 23:32:57 | 日記
A.ぼくらにとっての「戦争」
 「戦争体験」ではなく「戦争経験」を考える、という成田龍一氏のこの本、『「戦争経験」の戦後史』は、あえて「戦争経験」という言葉によって、かつて1931年から45年まで日本が遂行した戦争を、これまでは実際に生きて体験し記憶している人と、戦争を記憶もあやふやな幼児期に生きた人や、それすらない戦後生まれのぼくらのような人間との間に線を引き、「体験の記憶」をなんらかの知識や教訓として継承する、という立場が主流だった。しかし、それだけでなく、戦争が終わった時から70年以上経って、もはや「戦争体験」のある人はほとんどいなくなるから、戦争そのものの歴史的事実と合わせて、戦後70年、それがどのように語られ、いかに解釈され変化してきたのかを追いかけてみようという試みだろう。
 それを読みはじめたら、ぼくは大学に入った頃、数人の友人たちと夏休みの一泊旅行で遊びに行くついでに、読書会もやろうということで、そのとき読んだ本のことを思い出した。それは『戦争とはなんだ』(三一書房、1966年)という高校生むけの新書だったと思う(だいぶ記憶は薄れているが)。そこで、戦争を若いときに経験した知識人たちが対談したものを載せていて、当時活躍中のほぼ同世代の安田武、橋川文三、藤田省三、梅棹忠雄という人たちだった(と思う)。細部はもう覚えていないが、青春を戦争のなかで過ごしたこの人たちの話は、それぞれユニークでしかも戦争への立ち位置、評価は互いにかなり違っていて論争的でもあったのが印象的だった。
 戦争体験は一つではなく、その人がどこにいてどういう立場にいたかでも全く違うものなんだな、とそれを読んで思った。その違いが、戦後の生き方や思想に大きな影響を与えている。ただ、この人たちは「生き残った人間」「生き残された人間」で、戦後にそれぞれの分野で活躍していたのだが、同世代の友人知人、仲間や家族を戦争で失っているという共通体験がある。そうしたリアルは、戦後生まれのぼくらにはない。
 
 「1945年8月15日の早暁に、ソ連軍との交戦の中で友人を失った評論家の安田武(1922年生まれ) は、
 なぜ、戦争体験に固執するのか、――そう問われれば、ぼくは当惑するよりほかはない。固執するわけではなく、固執せざるを得ないのだ。なぜならば、その体験を抜きにして、ぼくの今日は無なのだから。(「戦争体験」未来社1963年。初出は、1955年)
 という。隣にいたB (と安田は記す)が「眉間から後頭部を貫通した銃弾」によって即死したことをめぐり、安田は煩悶を繰り返す――「ところで、ぼくが、いま不しあわせでないのは、あの時、ホンの10糎ほど左の方に位置していたからなのだろうか。ソ連の狙撃兵が、ぼくではなく、Bを狙ったからであろうか。それとも、8月15日に、敗戦が決まったからであろうか」(傍点は原文。以下、断りのない限り同様)。
 (安田は「戦争体験」と記すが)戦争経験は、このように個人にとり何ものにも代え難いものであるとともに、何より不条理なものである。それは戦後の過程についても同様である。安田は「学徒出陣」を「不幸」と思い、「汚辱」とし、さらに生き残ったことを「感謝」しなければならないというねじれた心情を吐露する。この心情は「人の生命が、これほど侮辱された時代」はない、という切実な認識と結びついている。戦争経験を「放棄」することによって「単なる日常的な経験主義」に陥り、「その都度かぎりの状況のなかに溺れることだけは、ぼくはもうマッピラだ」との想いを、安田は表明する。
 また、思想史家・橋川文三(1922年生まれ)は、1959年に「戦争体験」論について、「わが国の精神伝統の中に、はじめて「歴史意識」を創出しようとする努力の一環として考えられるものであり、それ以外のなにものでもない」と述べたが(「「戦争体験」論の意味」『現代の発見』第二巻『戦争体験の意味』春秋社、1959年、所収)、戦争経験の論議こそは、現時の歴史的位相を測り、現時の構成を考察する重要な要素として認識されてきた。橋川の言は、安田の想いと行為とに響きあっている。
 こうした体験を「経験」に組み替えようというのが、同じく思想史家で1927年生まれの藤田省三の提言であった。藤田は、「戦後の議論の前提」(『思想の科学』1981年4月)で、「戦後の思考の前提は経験であった」と説き、「いわゆる「戦争体験」に還元し切ることの出来ない色々のレベルにおける経験」に着目する。
 藤田は「戦後経験」の「核心」をあげ、(1)国家(機構)の没落が不思議にも明るさを含んでいるという事」の発見、(2)すべてのものが両義性のふくらみを持っていることの自覚」、(3)「もう一つの戦前」すなわち「隠された戦前」の「発見」(4)「時間の両義性と可逆関係」を指摘する。そしてそのうえで、藤田は「経験固有の相互関係性」を見て取り経験に着目していったのである。
 「体験」は「制度的圧迫の中」で「己の存在」を主張するのに対し、「経験」は「多くの次元と関連」を含み「広い可能性」をもつとした。戦争という「受難(或は「受苦」)」を「生成核」とし、「戦後の経験よ「経験の古典」となって永遠に生きてあれ」と藤田は力説する。
 すなわち藤田は高度成長のただなかで、「体験」が横行することを嘆くとともに、個別に存在する戦争体験を、他者にも通ずる「戦争経験」とすることの必要性を唱えたのである。戦闘経験を持つ人びとと「銃後」を経験した人びとではその内容は違うだろうし、旧植民地の人びとからする戦争はまた違ったものとなる。戦争を、戦闘の局面、戦時生活や戦時統制の側面、あるいは植民地やそれと表裏をなす帝国意識との関係で把握するなど、戦争の体験を経験化することの必要性を藤田は説いた。
 藤田が同時代的に提起した議論は、通時的にみたときにはいっそう重要性を有する。直接に「アジア・太平洋戦争」に直面した世代から、その経験を聞いた次世代、学習によって「アジア・太平洋戦争」を知るさらに次の世代とでは、戦争といったときの内容を事にしよう。
 藤田たちの提起からは、「戦時」と「戦後」という区分、またその「戦後」が絶えず「戦時」(「戦前」を鏡として自己を認定するという戦後の歴史過程があったということがうかがわれる。しかも、それはその時々に様相と構成を変えて現象してくる。
 あらためて整理してみれば、戦争経験といったときに、体験/証言/記憶の三位一体――この三者の織りなす領域がある。体験/証言/記憶の集合体は歴史的な形態を持つが、とりあえず「戦後」という時期を想定しこの射程で考察するとき、「戦争直後におけるこの三位一体では「体験」という語と概念が、他の記憶と証言の概念を統御していた。
 また、1970年前後には「証言」がさかんに言われ、記憶/体験を統御していた。当初は、戦争経験のある人びとが同様の経験を有する人びとに語りかける「体験」の時代があり、経験を有する人びとがそれを持たない人びとと交代の兆しを見せる1970年前後に「証言」の時代となった。そして、戦争の直接の経験を持たない人びとが多数を占める1990年代に「記憶」の時代となる。
 1950年代を中心とする「体験」の時代、1970年代を中心とする「証言」の時代を経て、1990年代から「記憶」の時代が開始されてきた、と考えることができる。体験/証言/記憶は三位一体をなすとともに、時系列的であり、時期によって三者の関係が変化し統御する主たるものが交代すると把握しうる(以下、「 」をつけた場合は、それが、体験/証言/記憶の三位一体を統御すること、またその時代であることを示すこととする)。」成田龍一『増補「戦争経験」の戦後史』岩波現代文庫、2020.pp.17-20.
 
 人間は、思春期から青年期、それを15歳から30歳までとすれば、その15年ほどの時期に生きて考えたことを、人格の中核に抱えたまま、その後の人生を生きるのが普通だろう。だとすると、安田武や藤田省三のような1922(大正11)年生まれの人は、戦争が終わった1945年に満で23歳(当時の数えでは24か5)。彼等の青春はまさに戦争とともにあった。時代の移り変わり、とくに戦争が終わって世の中は正反対ともいえる大変革を遂げたわけだから、その中で彼らの生活も思想も変化はする。でも、この戦中派としての自己の核心は変わらないはずだ。ぼくらには、そういうものは希薄で、知識としての「戦争」についていろいろ学んでも、それを自分の中核とすることはむずかしい。


B.技能実習生という欺瞞
 1980年代後半のバブル時代に、労働力不足を補うには先進諸国と同様に、日本も外国人労働力を導入するしかないという議論が起って、導入論と鎖国論の論者がテレビなどで賛否を競っていたのを思い出す。結局、保守派の外国人労働者を入れたら社会的な負の影響が大きいから、ということで見送られ、それでも南米からの日系人子弟ならOKということにして、抜け穴にした。それも姑息な遣り方だった。ぼくは、出稼ぎの研究が出発点だから、当時の外国人出稼ぎ労働の問題を、ドイツのガストアルバイターなどのデータも集めて、外国人労働力導入のためには、十分な受け入れ整備が必要だと思っていたが、いずれ日本もやらざるを得ないだろうと考えた。しかし、実際にその後日本がとった「技能実習生制度」によって、多数の外国人が日本で働く姿をあちこちで見るようになった。これが、「技能実習」というのは名目で、実質的な底辺労働者導入になっていることは当初から予想できた。80年代末の外国人労働者本格導入論は、結局バブルがはじけてうやむやになってしまった。日本の保守派言論はいつも、日本人だけが勤勉で麗しい伝統の中にあり、外国人は異物だから人権も自由も制限して構わない、というところへ行ってしまう。そのツケがやがて必ず来るのに…。

 「取材考記 人手不足補う「外国人材」不安定な立場  大阪社会部 玉置 太郎 
技能実習生と国民との格差 正そう
 年末年始の連載企画「共生のSDGs」で、外国人技能実習生を取材した。見えてきたのは、「東条国への技術移転」という建前をかかげる技能実習制度の矛盾だ。実際は人手不足の産業に労働者を送る国策なのに、その建前にもとづいて自由な転職が認められず、実習生は弱い立場におかれる。
 実習制度ができて28年。この間、政府は正面から外国人労働者を受け入れず、実習生のほか、留学生のアルバイトや就労を自由化した日系人の派遣労働者で人手不足を補ってきた。日本社会に必要な働き手として正面から受け入れない姿勢が、権利の制限や労働条件の不安定さを生んだ。
 政府はようやく2年前、人手不足の産業に海外から労働者を受け入れる新たな在留資格「特定技能」を設けた。その法改正をめぐる国会論議で、安倍晋三前首相がくり返したのは「移民政策ではない」という言葉だった。保守派の支持層に配慮し、定住につながるイメージを持つ「移民」の語を避けた背景がある。かわりに使った言葉は「外国人材」だった。
 「移民政策とは何か」の編著がある大阪大大学院の高谷幸准教授は、「移民」が「国境を越える移動に焦点を当てた呼び方」であるのに対し、「外国人」は「国民との対比を強調する呼び方」だと言う。『移民』という言葉を避けて、『外国人』と呼ぶことは、この社会の外部の人々だという印象を与え、法や権利の上での国民との格差を正当化することにつながりかねない」
 新型コロナウイルスの感染が広がる中、真っ先に職を失ったのは技能実習生や日系人の派遣労働者だった。言葉や文化の壁がある上、労働条件や権利が不十分な状況におかれているためだ。そうした格差を是正せず、「外国人だからしょうがない」と「正当化」する考えが、私達にないだろうか。
 連載取材では、ベトナムから来日し、コロナ禍で職を失い、各地を転々としたシングルマザーの技能実習生の歩みをたどった。実習生一人ひとりに来日にいたる人生があり、家族や夢がある。同じ社会で暮らす「人」として向き合うことが、政策への議論を起こす第一歩になるはずだ。」朝日新聞2021年1月27日夕刊、5面NEWS+α。

 日本の高度経済成長の下支えになったのは、国内各地農漁村から集められた出稼ぎ労働者だった。それが外国人労働力を入れずにすんだ日本の特殊事情だった。しかし、高度成長はその農漁村を衰弱させて生活水準を高めた結果、出稼ぎをする日本人はいなくなった。日本人がやりたくない3K労働は国民生活に欠くことができないから、誰かにやってもらわねばならない(しかも低賃金で!)。いよいよ外国人労働者を入れざるを得ない、となって、日本社会はきちんと体制を整え、ぼくたちの外国人への意識態度も変える必要があったのだ。でも、政治が用意したのは、姑息な欺瞞的制度だった。そのツケがいま廻っている。
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「戦争の経験」をふりかえる 1 卒業式の君が代

2021-01-25 16:29:04 | 日記
 A.どこから振り返るのがよいか 
 日本が20世紀の前半に大きな戦争をやって敗北したことは、日本人なら当たり前に、あるいは世界の人々も、初歩的な世界史を学んでいれば、誰でも知っているはずの事実だと思う。でも、当の日本の歴史教育は、上の学校に行くほど「日本史」と「世界史」に分かれていき、かつては受験準備もあり、日本史は明治くらいまで教え、近現代史はさらっと通りすぎることも多かったという。戦争を経験した人がまだ多く生きていて、それがどんな戦争だったかは簡単な説明が難しい、という事情もあったのだろう。敗戦の記憶には触れにくかったかもしれない。その結果、大学生でも戦争が負けて終わったことは知っていても、どこを相手に戦争したのかほとんど知らない、という恐ろしい無知すら起きてしまった。 
 昭和の戦争は日本史のなかでは、明治維新に始まる近代国家形成の輝かしい歩み、というお話の途中で起きた不幸な失敗あるいは一時的な挫折、のように学校で教えられる(ことが多い)。これに対し世界史では、第2次世界大戦というおおきな世界戦争のアジア篇として、少し違った角度で日本の敗北を捉える。端的に言えば、日本史の中で「太平洋戦争」と呼べば、「アメリカと戦って負けた戦争」のイメージが強く、戦後に生まれたぼくたちも学校で日本史を学ぶと、真珠湾攻撃に始まり、原爆と8月15日の玉音放送で終戦になった戦争、という印象が固着していた。そこには同時に、アメリカのような豊かな大国相手に愚かな軍人が大戦争をやって負けた愚かさ、という説明が納得されていた。 
 しかし、世界史の視点で、つまり日本の戦争を外国の視線を含めて捉えると、日本がなぜアメリカ(だけではなくイギリス、そして中国)に戦争を仕掛けることになったか、もう少し多角的に、冷静に見ることができる。そして、それは昭和の日本帝国が軍事力によって中国大陸や南方アジアに勢力拡張、侵略を行なったことを無視しては、戦争が説明できない。つまり、日本の軍人や政治家が愚かだったから、アメリカの強大な軍事力を甘く見たから負けたのだ、というような理解は、かなり浅薄なものだと思えてくる。いまの中高での歴史教育は、このへんをどう教えているのだろうか? 
 
 「1945年8月15日の敗戦から、すでに60年を超える歳月がたつ。「アジア・太平洋戦争」と呼ばれる戦争の「終結」であるが、この戦争は、渦中から報道されただけでなく、敗戦後もずっと論じられ続けてきた。アジア・太平洋戦争とは、二〇世紀の「日本」にとって、それほどまでに巨大な出来事であり、人びとにとっての壮大な経験であった。そしていま、あらためてこのことが焦点化されながら、異なった視角が出されてきている。 
 「戦時」から勘定すると80年に及ぼうという戦争は、巨大な経験であり、現在に至っても決して完了することなく、直接の経験を持たないものにまで語り継がれ、「戦後」の歴史を規定し続けてきた。本書ではその戦争への認識の推移と、戦争の叙述の時期ごとの特徴を探り、二一世紀初頭―敗戦六〇年を経てのアジア・太平洋戦争の語りの位相とその課題を明らかにしてみたい。 
 戦争の語りは、書き留められ公刊されたものだけでも膨大な数に及び、語られないままに消え去っていったもの、いまだに沈黙の中にあるもの、身近な人々にのみ語られたものなどを考えると、無数に存在する。戦争の経験は、あらゆる意味においてその人の人生を規定するがゆえに、戦争を語ることは自らのアイデンティティを確認する作業となり、戦争とどう向かい合い、戦争をどう受け止めるかによって「主体」が形づくられる。 
 このことは、直接に戦争を生き経験した世代のみならず、戦後に成長した世代にとっても同様である。戦争が、「主体」の形成にとって抜き差しならない世代と時期が存在し、そこでは戦争を軸として、容易に譲れない主張がなされてきた。 
 とともに戦争をめぐる語りは、同世代の人々や、後の世代の人々、あるいは他国の人々といった「他者」との関係が入り込む領域でもある。戦争を語ることは、社会のレーゾンデートルをなす行為であると考えられ、さらには、国家の根幹にかかわるとする議論も少なくない。 
 戦争の経験の歴史的な意味づけをめぐる対抗や対立が見られるのはこうした理由によっており、広義の意味での「政治」が現れる場所ともなっている。しかも、戦争をめぐる議論ではその時々の状況によって論点が呼び起こされたりあらたに創出されたりもする。 
 さて、ここまで「戦争」と規定をしないままに述べてきたが、その内容は、一人ひとりによって異なっている。そもそもが、戦争の呼称がさまざまで統一されていない。 
 1930年前後の中国大陸への日本の侵略の開始、とくに1931年9月18日の柳条湖での南満州鉄道の「爆破」による「満州事変」、そして1937年7月7日の盧溝橋事件をきっかけとする日本と中国との全面的な戦争(日中戦争)から、さらに1941年12月8日のマレー半島と真珠湾への攻撃に発するアメリカ、イギリスなどへの宣戦布告(狭義のアジア・太平洋戦争)という推移を見せることが、これまでの「アジア・太平洋戦争」の認識として共有されている。 
 評論家の鶴見俊輔がこの認識に沿って「十五年戦争」という概念と用語を提起して以来、歴史学研究もこの認識を共有しながら論議を遂行してきた。歴史家の家永三郎はその著作のタイトルを『太平洋戦争』とするに当たって、「この戦争を何と呼ぶか」は「戦争の歴史的意義の理解のし方」と結びつき、その変遷自体に「思想史的な意味」があることを指摘したうえで、「太平洋戦争」という名称が「完全に科学的客観性」を持つとはいえないが、「便宜上、比較級的に不適切の少い」この名称を用いたと述べている(岩波書店、1968年)。 
1931年9月18日以降の戦争は、歴史学が「十五年戦争」と把握し一連の戦争として描くように、決してばらばらな戦争――出来事ではない。だが、同時に、「満州事変」からまっしぐらに一直線に、1937年7月の盧溝橋事件にいたり、1941年12月の真珠湾とマレー半島の戦闘に突入したのでもない。ましてや、アメリカ・イギリス軍によってのみ、1945年8月15日の「終戦」がもたらされたのではない。時間的な屈曲と空間的な拡大のもとで、アジア・太平洋戦争の歴史的な過程がある。 
 歴史家の黒羽清隆は、『朝日新聞』のコラム「天声人語」の用語法が、「大東亜戦争」や「今次の大戦」から、1946年に「太平洋戦争」に変化することを確認している(『太平洋戦争の歴史』上、講談社、1985年)。 
 時間に関し、中国文学者の竹内好は、中国への侵略という意識を払しょくしきれない当時の知識人たちが、1941年12月8日の対英米戦の開始による「胸が轟く」(青野季吉)と述べたことを紹介し、多くの知識人が「戦争肯定」に向かったことを指摘する。 
 1941年12月8日という「特殊な時点」の意味を指摘し、この時点での「特殊な戦争肯定」がやがて「戦争一般の肯定へ発展」したと述べ、竹内はこの日に「抵抗から協力への心理の屈折の秘密」を求める。すなわち、竹内は12月8日を契機とする「戦争の性質」の変化を指摘し、そのことを強調するのである(「近代の超克」『近代日本思想史講座』第七巻、筑摩書房、1959年)。 
 空間にかかわっては、軍事史家の田中宏巳(『BC級戦犯』筑摩書房、2002年)の議論がある。田中は「太平洋戦争」(広義のアジア・太平洋戦争)を「満州戦域」「中国戦域」「南方資源地帯戦域」「太平洋戦域」の「四つの戦域」から成り、それぞれ戦う相手が異なり、戦闘期間、戦闘形式も違う戦争として把握している。「各戦域の戦争」を「日中戦争」「南方資源地帯獲得戦争」「対英米(豪)戦争」「日ソ戦争」とし、「満州」を含め、四つの戦争が「同時併行」していることを強調し、空間に力点を置いて把握する。 
 こうした認識は、1941年12月以降は(田中の用語を用いれば)、「西太平洋戦域」に目を向けがちな戦争認識のもとで、他の「戦域」では異なった形態の戦争が継続していたことへの自覚を促す。また、田中の議論に時間的な契機を入れ込めば、1941年12月8日に始まる対英米戦のもつ歴史的な意味にも踏み込むこととなる。 
 
 以上を受けて、本書では書き留められた戦争と帝国―植民地の記述を手がかりとして、「アジア・太平洋戦争」の語られ方を探り、そこから戦争、および植民地への歴史認識についての考察を試みたい。すなわち、誰が、どの機関に、どのような形態で戦争と植民地を語ったか、また、そのときの「戦争」とはどのような事態を内容とし、誰に向かってどのように語ったか――その推移を書き残されたものを手がかりにして考察してみたい。 
 おおづかみに、戦争の家中で戦争が「状況」として語られた時期(1931年ころから1945年)、「体験」として戦争を語る時期(1945年から1965年ころまで。1949年に活気があり、また、1952年の占領の解除も見過ごせない)、「証言」として戦争が語られる時期(1965年から1990年ころまで)、「記憶」が言われる時期(1990年以降)と時期を設定し、戦闘のみならず植民地認識にも目を配りながら論じてみよう。 
 変化の推移を追跡することは、語り手の状況、聞き手の環境を考察することに通じ、試みそれ自体が一つの戦後史を形成することになろう。「戦争経験」の戦後史の試みである。ここには戦争の経験者が経験の共有を前提に語る(語りうる)という状況から、経験者が少数派になるという状況の変遷がある。また、総力戦としての「アジア・太平洋戦争」が、朝鮮戦争からベトナム戦争、あるいは湾岸戦争やイラク戦争といった「戦後」の戦争のなかで呼び起こされることであり、さらには戦争自体の変化が進行していることに対しての自覚の過程でもある。」成田龍一『増補「戦争経験」の戦後史』岩波現代文庫、2020.pp.8-12.  
 
 1996年に「新しい歴史教科書をつくる会」ができて、それまでの歴史教科書は、「自虐史観」に支配されているので、変えるための運動を始めると主張した。中心となった西尾幹二、藤岡信勝といった人たちの考えでは、戦後の歴史学はマルクス主義や左翼の立場に立って太平洋戦争を悪と決めつけ、日本の子どもたちに日本人がやったことを否定的にしか見ない、誇りの持てない歴史を教えている。「つくる会」は、従来の「大東亜戦争肯定史観」ではないけれども、自虐的な「東京裁判史観」や「コミンテルン史観」には立たない日本人の歴史を教えるような教科書を作るといって、実際に教科書を書いた。それから四半世紀が経ち、日本の学校の歴史教育でなにが変ったか、ぼくはちゃんと調べていないが、歴史修正主義の運動は、少なくとも「日本史」において、「ニッポンすごい!」という程度にはナショナリズムの風をそよがせているのかもしれないと、いまの大学生に接すると感じることがある。 
 日本がアメリカと戦ったことすら知らない若者に、正確な戦争の歴史が理解されているとは思えないが、日本が中国や朝鮮などアジアで戦争の名で行なったことを知り、さらに1930年代からの世界史の理解があれば、日本が中国に負けると思いたくない感情的な心情の源流を冷静に見ることができるし、日本史はそこまで教える必要があると思う。 
 
 
B.卒業式の季節 日の丸・君が代の強制 
 新型コロナウイルスの感染拡大を受け東京都教育委員会は、今春の卒業式で参加者に君が代を歌うよう求めない。「日の丸・君が代」について定めた「10・23通達」を2003年10月に出して以降、教職員に「歌え」という職務命令が出ない卒業式は初めて。ただ、歌唱入りのCD  を流し、起立は求めるといい、通達にこだわる都教委のかたくなな姿勢が浮かび上がった。 
 「都教委の発想は、国際的な基準から逸脱している。国際労働機関(ILO)と国連教育科学文化機関(ユネスコ)は19年、「起立斉唱の強制は、個人の価値観や意見を侵害する」などと都教委を批判。起立斉唱したくない教員も対応できる式典のルール作りのほか、懲戒処分を回避するため教員側と対話するよう求める勧告を出している。 
 これに対し、都教委に加え文部科学省も一切、取り合わず、耳を傾けるそぶりがない。「日の丸・君が代」問題に詳しい東京大の高橋哲也教授(哲学)は「都教委は自己矛盾に陥っている」と指摘する。 
 都教委が起立斉唱を求める根拠として持ち出す「高等学校学習指導要領解説・特別活動編」には、その目的として「(生徒が将来)国際社会において尊敬され、信頼される日本人」に成長するためとうたわれている。高橋氏は「労働と教育、両国際機関の勧告を無視し、生徒の目の前で強制を繰り広げることは、「国際社会から尊敬される人への成長につながらない。自ら構築した論理と矛盾している」と指摘し、こう続ける。 
 「世界のあちこちで台頭している『命令にはとにかく従え』という権威主義が、戦後日本にも根強く残る。不起立で抵抗してきた教職員を懲らしめようと、コロナで歌えなくても起立を強制する都教委の手法に「権威主義の地金」がくっきり見える。昨年来、批判が続く日本学術会議の任命拒否問題とも通底している」 
 「何があっても、強制をやめようとしない。都教委の粘着気質は病的と感じる。起立強制問題は、今の教育現場を息苦しくしている元凶といっても過言ではない」。08年以降、不起立で懲戒処分を受けた教職員にインタビューするなど、「日の丸・君が代」問題を取材してきたルポライターの長尾俊彦氏(63)は、今回の都教委の方針を批判する。 
 長尾氏は教職員らが起こした複数の訴訟の記録を読み込み、たくさんの原告に会って話を聞いた。「教師というのは生徒の心を聞く仕事だ」との元校長の言葉が印象深く記憶に残る。命令と服従は、子どもがそれぞれ備えている唯一無二の個性を伸ばす教育になじまない。それなのに、「日の丸・君が代」の強制は上意下達の思想を植え付ける。 
 「教職員に命令し、服従を強い、『上には何を言っても変わらない』という雰囲気をつくる。教職員も『子どもも命令に従って当然』という意識を形成する。権力側に都合のいい人間を育てる戦前の教育と似ている」 
 懲戒処分を受けると、人事や昇給で不利になる。過酷な研修も科される。定年後の再任用も他の人より早く打ち切られる。「それでも何度も職務命令に従わない教職員がいるのは、子どもを上意下達型の人間にしたくないからだ」と長尾氏は語る。 
 不起立に対し「歌わないのはけしからん」といった批判があるのも事実。長尾氏は、ある弁護士が語った「やりたくないことをやらなかったのではなく、子どものためやってはならないことをやれと言われて悩み苦しみ、できなかった人たち」との言葉に共感するという。 
 長尾氏はこれまでの取材の成果を新著「ルポ『日の丸・君が代』強制」にまとめた。取材に応じてくれた教職員は、子どもと誠実に向き合ってきた人ばかりだった。「自分もそういう先生に教えてもらいたかった。もし今度の卒業式で不起立の教職員を見かけたら、「身をていして教育を守ろうとする先生だ」という目で見てほしい」 
デスクメモ:理屈が通らないと分かっているから、法律や通達で言うことを聞かせようとする。政府がコロナ関連の法改正案に罰則を盛り込もうとしているのもその典型だろう。説明しないのも最近の悪しき風潮の一つ。高橋教授の「学術会議の任命拒否問題とも通底する」との指摘はその通りだ。(千)」東京新聞2021年1月25日朝刊21面特報欄。 
 
 この記事は、「日の丸・君が代」の強制を、教職員と子どもたちへの、都教委の規律訓練的な服従施策として批判している。それはわかるけれど、なぜこんなに「日の丸・君が代」に強権的な執行・処罰を教委がやめようとしないのか、を説明しないと、読者はただ管理主義的な権力の濫用・示威はよくないなあ、だけで終わってしまうのではないだろうか。東京都の姿勢は、「日の丸・君が代」のみならず関東大震災時の朝鮮人殺害被害者追悼式などにおいても、政治的中立を理由に極右勢力が問題にする「反日的」集会や催事への禁圧を強めている。都は、あちこちで炎上する一部の右翼的言論に配慮して、そうしているというよりも、基本的にいまの政権与党の政治家たちの多くが、いわゆるリベラル左派、つまりかつての左翼的言論をまったく生理的に拒否するイデオロギーに深く囚われていることに原因があるようにぼくは思う。これは、冷戦期の思考枠組み、もっといえば戦前からの「アカ=共産主義」への恐怖に淵源する心情的嫌悪感であって、もはや21世紀の世界においてほとんど無意味な世界観(だって、共産主義も革命運動も社会主義国家も消滅している、「共産党」は日本にまだあるけどね…)なのに、長かった安倍政権のおかげで、「バカなサヨクのいうことなんか聞く耳もたなくていい、シカトしておけばいい」という習慣が抜けないのだろう。確かに20世紀のサヨクはバカなまま死滅しかかったけど、もう死んだ幽霊を相手に政権与党がゾンビのような頭のまま生きているのは、この国の終わりじゃないか。
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坂口安吾『堕落論』を読む 5 ファルス  共通テスト実施

2021-01-22 22:25:24 | 日記
A.突き放す「童話」「狂言」「伊勢物語」
 坂口安吾の名を高からしめた『堕落論』だが、これはエッセイで『続堕落論』を含めても、そう長いものではない。小説家としては1930年頃から「風博士」などの作品を書きながら同時に評論も発表していて、戦争中も旺盛に執筆しているが、もちろん「堕落論」のような反戦的内容は、戦前は御法度だからもっぱら非政治的なファルス(笑劇)的文学論や日本文化論が多い。いま岩波文庫になっている『堕落論/日本文化史観』には表題作の他おもな評論22編が収められている。前半11編は戦前に書かれたものである。そのひとつ、「文学のふるさと」(1941年8月『現代文学』に発表)を読んでみる。

 「シャルル・ペローの童話に「赤頭巾」という名高い話があります。既に御存知とは思いますが、粗筋を申上げますと、赤い頭巾をかぶっているので赤頭巾と呼ばれていた可愛い少女が、いつものように森のお婆さんを訪ねて行くと、狼がお婆さんに化けていて、赤頭巾をムシャムシャ食べてしまった、という話であります。まったく、ただ、それだけの話であります。
 童話というものには大概教訓、モラル、というものが有るものですが、この童話には、それが全く欠けております。それで、その意味から、アモラルであるということで、仏蘭西では甚だ有名な童話であり、そういう引例の場合に、屡々引合いに出されるので知られております。
 童話のみではありません。小説全体として見ても、一体、モラルのない小説というのがあるでしょうか。小説家の立場としても、なにか、モラル、そういうものの意図がなくて、小説を書きつづける――そういうことが有り得ようとは、ちょっと、想像ができません。
 ところが、ここに、凡そモラルというものが有って始めて成立つような童話の中に、全然モラルのない作品が存在する。しかも三百年もひきつづいてその生命を持ち、多くの子供や多くの大人の心の中に生きている――これは厳たる事実であります。
 シャルル・ペローといえば「サンドリヨン」とか「青髯」とか「眠りの森の少女」というような名高い童話を残していますが、私はまったくそれらの代表作と同様に、「赤頭巾」を愛読しました。
 否、むしろ、「サンドリヨン」とか「青髯」を童話の世界で愛したとすれば、私はなにか大人の寒々とした心で「赤頭巾」のむごたらしい美しさを感じ、それに打たれたようでした。
 愛くるしくて、心が優しくて、すべて美徳ばかりで悪さというものが何もない可憐な少女が、森のお婆さんの病気を見舞に行って、お婆さんに化けて寝ている狼にムシャムシャ食べられてしまう。
 私達はそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。
 その余白の中にくりひろげられ、私の目に沁みる風景は、可憐な少女がただ狼にムシャムシャ食べられているという残酷ないやらしいような風景ですが、然し、それが私の心を打つ打ち方は、若干やりきれなくて切ないものではあるにしても、決して、不潔とか、不透明というものではありません。何か、氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさ、であります。
 もう一つ、違った例を引きましょう。
 これは「狂言」のひとつですが、大名が太郎冠者を供につれて寺詣でを致します。突然大名が寺の屋根の鬼瓦を見て泣きだしてしまうので、太郎冠者がその次第を訊ねますと、あの鬼瓦はいかにも自分の女房に良く似ているので、見れば見るほど悲しい、と言って、ただ、泣くのです。
 まったく、ただ、これだけの話なのです。四六判の本で五、六行しかなくて、「狂言」の中でも最も短いもののひとつでしょう。
 これは童話ではありません。いったい狂言というものは、真面目な劇の中間にはさむ息ぬきの茶番のようなもので、観衆をワッと笑わせ、気分を新たにさせればそれでいいような役割のものではありますが、この狂言を見てワッと笑ってすませるか、どうか、尤も、こんな尻切れトンボのような狂言を実際舞台でやれるかどうかは知りませんが、決して無邪気に笑うことはできないでしょう。
 この狂言にもモラル――あるいはモラルに相応する笑いの意味の設定がありません。お寺詣でに来て鬼瓦を見て女房を思いだして泣きだす、という、なるほど確かに滑稽で、一応笑わざるを得ませんが、同時に、いきなり、突き放されずにもいられません。
 私は笑いながら、どうしても可笑しくなるじゃないか、いったい、どうすればいいのだ……という気持ちになり、鬼瓦を見て泣くというこの事実が、突き放された後の心の全てのものを攫いとって、平凡だの当然だのというものを跳躍した驚くべき厳しさで襲いかかってくることに、いわば観念の眼を閉じるような気持になるのでした。逃げるにも、逃げようがありません。それは、私達がそれに気付いたときには、どうしても組みしかれずにはいられない性質のものであります。宿命などというものよりも、もっと重たい感じのする、のっぴきならぬものであります。これも亦、やっぱり我々の「ふるさと」でしょうか。
 そこで私はこう思わずにはいられぬのです。つまり、モラルがない、とか、突き放す、ということ、それは文学として成立たないように思われるけれども、我々の生きる道にはどうしてもそのようでなければならぬ崖があって、そこでは、モラルがない、ということ自体がモラルなのだ、と。
 晩年の芥川龍之介の話ですが、時々芥川の家へやってくる農民作家―ーこの人は自信が本当の水呑百姓の生活をしている人なのですが、ある時原稿を持ってきました。芥川が読んでみると、ある百姓が子供をもうけましたが、貧乏で、もし育てれば、親子供倒れの状態になるばかりなので、むしろ育たないことが皆のためにも自分のためにも幸福であろうという考えで、生まれた子供を殺して、石油缶だかに入れて埋めてしまうという話が書いてありました。
 芥川は話があまり暗くて、やりきれない気持になったのですが、彼の現実の生活からは割り出してみようのない話ですし、いったい、こんな事が本当にあるのかね、と訊ねたのです。
 すると、農民作家は、ぶっきらぼうに、それは俺がしたのだがね、と言い、芥川があまりの事にぼんやりしていると、あんたは、悪いことだと思うかね、と重ねてぶっきらぼうに質問しました。
 芥川はその質問に返事することができませんでした。何事にまれ言葉が用意されているような多才な彼が、返事ができなかったということ、それは晩年の彼が始めて誠実な生き方と文学との歩調を合わせたことを物語るように思われます。
 さて、農民作家はこの動かしがたい「事実」を残して、芥川の書斎から立去ったのですが、この客が立去ると、彼は突然突き放されたような気がしました。たった一人、置き残されてしまったような気がしたのです。彼はふと、二階へ上り、なぜともなく門の方を見たそうですが、もう、農民作家の姿は見えなくて、初夏の青葉がギラギラしていたばかりだという話であります。
 この手記ともつかぬ原稿は芥川の死後に発見されたものです。
 ここに、芥川が突き放されたものは、やっぱり、モラルを超えたものであります。子を殺す話がモラルを超えているという意味ではありません。その話には全然重点を置く必要がないのです。女の話でも、童話でも、なにを持って来ても構わぬでしょう。とにかく一つの話があって、芥川の想像もできないような、事実でもあり、大地に根の下りた生活でもあった。芥川は、その根の下りた生活に、突き放されたのでしょう。いわば、彼自身の生活が、根が下りていないためであったかも知れません。けれども、彼の生活に根が下りていないにしても、根の下りた生活に突き放されたという事実自体は立派に根の下りた生活であります。
 つまり、農民作家が突き放したのではなく、突き放されたという事柄のうちに芥川の優れた生活があったのであります。
 もし、作家というものが、芥川の場合のように突き放される生活を知らなければ、「赤頭巾」だの、さっきの狂言のようなものを作り出すことはできないでしょう。
 モラルがないこと、突き放すこと、私はこれを文学の否定的な態度だとは思いません。むしろ、文学の建設的なもの、モラルとか社会性というようなものは、この「ふるさと」の上に立たなければならないものだと思うものです。
 もう一つ、もうすこし分かり易い例として、伊勢物語の一つの話を引きましょう。
 昔、ある男が女に懸想して頻りに口説いてみるのですが、女がうんと言いません。ようやく三年目に、それでは一緒になってもいいと女が言うようになったので、男は飛びたつばかりに喜び、さっそく、駈落ちすることになって二人は都を逃げ出したのです。芥の渡しという所をすぎて野原へかかった頃には夜も更け、そのうえ雷が鳴り雨が降りだしました。男は女の手をひいて野原を一散に駆けだしたのですが、稲妻にてらされた草の葉の露をみて、女は手をひかれて走りながら、あれはなに?と尋ねました。然し、男はあせっていて、返事をするひまもありません。ようやく一軒の荒れ果てた家を見つけたので、飛びこんで、女を押入れの中へ入れ、鬼が来たら一刺にしてくれようと槍をもって押入れの前にがんばっていたのですが、それにも拘らず鬼が来て、押入れの中の女を食べてしまったのです。生憎そのとき、荒々しい雷が鳴りひびいたので、女の悲鳴もきこえなかったのでした。夜が明けて、男は始めて女がすでに鬼に殺されてしまったことに気付いたのです。そこで、ぬばたまのなにかと人の問ひしとき露と答へてけなましものを――つまり、草の葉の露を見てあれはなにと女がきいたとき、露だと答えて、一緒に消えてしまえばよかった―ーという歌をよんで泣いたという感情の附加があって、読者は突き放された思いをせずに済むのですが、然し、これも、モラルを越えたところにある話のひとつではありましょう。
 この物語では、三年も口説いてやっと思いがかなったところでまんまと鬼にさらわれてしまうという対照の巧妙さや、暗夜の曠野を手をひいて走りながら、草の葉の露をみて女があれは何ときくけれども男は一途に走ろうとして返事すらもできない――この美しい情景を持ってきて、男の悲嘆と結び合わせる綾とし、この物語を宝石の美しさにまで仕上げています。
 つまり、女を思う男の情熱が激しければ激しいほど、女が鬼に食われるというむごたらしさが生きるのであります。女が毒婦であったり、男の情熱がいい加減なものであれば、このむごたらしさは有り得ません。又、草の葉の露をさしてあれは何と女がきくけれども男は返事のひますらもないという一挿話がなければ、この物語の値打ちの大半は消えるものと思われます。
 つまり、ただモラルがない、ただ突き放す、ということだけで簡単にこの凄然たる静かな美しさが生まれるものではないでしょう。ただモラルがない、突き放すというだけならば、我々は鬼や悪玉をのさばらせて、いくつの物語でも簡単に書くことができます。そういうものではありません。
 この三つの物語が私達に伝えてくれる宝石の冷めたさのようなものは、なにか、絶対の孤独――生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独、そのようなものではないでしょうか。
 この三つの物語には、どうにも、救いようがなく、慰めようがありません。鬼瓦を見て泣いている大名に、あなたの奥さんばかりじゃないのだからと言って慰めても、石を空中に浮かそうとしているように空しい努力にすぎないでしょうし、又、皆さんの奥さんが美人であるにしても、そのためにこの狂言が理解できないという性質のものでもありません。
 それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない、我々の現身は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。
 私は文学のふるさと、あるいは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる―ー私は、そうも思います。
 アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。
……
 だが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。そして、文学の批評も。私はそのように信じています。」坂口安吾「文学のふるさと」(『堕落論・日本文化史観』岩波文庫)、2008.pp.91-100.

 評論・エッセイといっても、これは人前で講演をするような話しかける「です・ます」調の文体で、句読点の少ない『堕落論』とは違って、私は、いかにも、そのように…と一語一語句点で区切ったしゃべりの言葉である。安吾の基礎的教養の源泉は、豊山中学から東洋大時代に学んだ仏教とアテネフランセの仏文学で、昭和6,7年ごろの大学生がみんな熱病のようにとり憑かれた左翼マルクス主義のシュトルム・ウント・ドランクの嵐からは免れて、外にいたようだから、ある意味で政治に屈折やコンプレックスはなく、戦争中も好き勝手な文学論を書いていられたのかもしれない。ただ、戦後になって堰を切ったように『堕落論』をはじめ、言いたいことを好き放題に言えるようになった解放感はあったんだろうなあ。


B.冷たい経済学
 大学受験のシーズンがやってきて、コロナ禍のなかで入試をどうするか、心配すればきりがない状況である。こればかりは中止にはできないが、こちらもセンター試験に代わる新型の共通テスト初年度ということもあり、いろいろ試行錯誤のようだ。ぼくはもう入試に関わらなくてよい立場になったので、他人事として眺めているが、国立大の多くは共通テストだけで個別二次試験等はしない大学も多くなるらしい。試験実施当局者の心配は、なにか異常事が起きてしまった場合の責任を、当事者が集団で分散してしまうことによるリスキー・シフトだという。

 「危機の時代の意思決定:責任の分散が招く鈍感さ   竹内 幹 (一橋大学教授)
 先週末、約53万人が志願した大学入学共通テストが全国681カ所の試験会場で行われた。寒くて換気もしづらく、密閉空間となった教室にたくさんの受験生が密集した。
 新型コロナウイルス感染症が心配なところだが、大学入試センターは「試験場入場時におけるサーモグラフィーなどによる受験者の検温を行わないこと」と各会場に通知していた。検温が受験者に「無用の不安感や動揺を与えるおそれ」があるからだという。しかし、発熱症状に対処するキャパシティーがないので、問題自体をなかったことにして切り抜けたようにも見える。
 大学共通テストを予定通り実施することで感染が加速する可能性はある。しかし、テストを延期すれば様々な混乱が発生する。両者をてんびんにかけて、それでも前者の方が損害は小さいと見なし、テスト実施のリスクをとったと解釈するほかない。
  •       *      * 
 経済実験での人のリスク回避度を測るときには、例えば、「50%の確率で千円が当たるくじ」がどのくらいの価値をもつか考えてもらうことが多い。不確実性を嫌うリスク回避型の人にとって、くじの価値は低いだろう。だが、それなりの金額を支払ってでも、このくじを買える人はリスクを許容するタイプにちがいない。このようにして測られるリスク回避度は人それぞれであり、特に正解はない。
 興味深いのは。複数人が集団で統一的な意思決定をする場合だ。集団を構成する一人ひとりのリスク回避度に比べると、集団の意思決定は極端な方向に振れやすいことで知られる。集団が堅実さを忘れてリスクをとる方に大きく振れるときは、リスキー・シフトが起きたといわれる。
 リスキー・シフトが起きる原因の代表的なものが「責任の分散」だ。リスクをとった結果として損害が出ても、その責任は集団内で共有され分散されるので、集団に属する人はリスクに鈍感になってしまう。結果、リスクを回避することが難しくなるのだ。
 政府は新型コロナ対策にあたって、不確実性が大きいなか、様々な決断に迫られた。ただ、昨年春の東京オリンピック延期や入国制限、「Go To トラベル」の一時中止、2度目の緊急事態宣言などの決定は総じて遅きに失した感がある。リスクを放置した、との印象は否めないだろう。
 安倍晋三首相が昨年4月7日の記者会見で「最悪の事態になった場合、私たちが責任を取ればいいというものではありません」と述べたことからわかるように、ここでは、責任の分散が生じ、感染拡大のリスクを軽視するリスキー・シフトが起きていた可能性がある。
 今回の決定の遅れは、金融投資の業界で知られる「ディスポジション効果」という行動様式にも通ずる。
 これは、投資家が、購入した株が値下がりして含み損を抱えた場合でも、なかなか株を売却できず、損失を膨らませてしまう傾向を指す。株価が下がり続けても、いつかは株価が回復し、含み損が一気に解消されるという望みを捨てきれないのだ。
 実は、この心理は投資家に限ったものではない。一般的に人は不利な局面になると、一か八かの勝負に出る傾向がある。政府は、新型コロナの感染者数が増え続けるのを見ながらも、いつかはそれが減少に転じて多くの問題が一挙に解決されるという望みを捨てきれず、重要な決定を先延ばししてしまったのだろう。
 *         *          * 
 意思決定の責任を問いただすことは当然としても、そもそも完全な「正解」は存在するのだろうか。
 例えば、コロナ禍で行われた1人10万円の特別定額給付金などは必要な政策だったし、正当に評価すべきだ。しかし一方で、昨年度129兆円だった国債の市中発行額は今年度212兆円を超える見通しだ。昨年までは2割に満たなかった短期国債(償還期限が1年以内)が占める割合も今年度は4割近くになるなど、財政は自転車操業の様相を帯びつつある。大規模な財政出動は必要ではあったが、長期的に“正しい”選択だったのかはまだわからない。
 理想的な意思決定はどうあるべきか。ひとつの指針として「マックス・ミニ基準」がある。複数ある選択肢について「最も悲観的なシナリオ」を想定し、それぞれを評価する。そして、選択肢の中で最も損害の少なかったものを選ぶというものだ。だが、最も悲観的なシナリオを想定することは意外に難しい。
 10年前の福島第一原発事故でいえば、事故前の政府の安全設計審査指針は、事故原因となった冷却用電源の喪失について「想定しなくてよい」と解説していた。東京電力は貞観地震のような大地震で大津波が発生し、原発を襲う可能性を認識していたが、対策はとられなかった。
 完全な「正解」は、容易に得られるものではないのかもしれない。
 それでも、私たちにしかできないことが一つある。後世の人々が教訓を得られるように、今日の意思決定過程を丹念に記録し、その帰結を長く記憶してゆくことだ。危機の時代を生きる私たちには、この使命が課されていることを自覚したい。」朝日新聞2021年1月21日朝刊13面オピニオン欄、経済季評。

 「最悪の場合を想定して、万全の体制をとる」のがリスク管理だとわかっていても、どういう事態が最悪の場合なのか、想像力が不足しているか、そんなひどいことは起きないと考えたい、という心理が働くのだとする。経済学は、ある意味、冷たい学問で、リスクは必ずあるのだから、コストを計算して、30%失敗したとしても、60%成果があがれば中長期的に見て、まあまあ悪くないと判断する。仮にウイルス感染が30%発生して、致命的な犠牲者が3%出たとしても、それで全体がびくともしなければ必要な犠牲だと考えるのだろう。でも、それは経済を維持するために、一定程度の死者が出ても医療制度が崩壊しなければまずまずだと「命の選別」を、医療現場に丸投げする、のだとしたら、責任は医療者ではなく、政治の方にあるだろう。
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坂口安吾『堕落論』を読む 4 続堕落論  バイアス?

2021-01-19 19:33:27 | 日記
A.堕ちよ!のエール!
 坂口安吾の「堕落論」は1946年4月(『新潮』)続編「堕落論(続堕落論)」は1946年12月(『文学季刊』)に発表された。今から75年前である。当時、長い戦争を生き延びてこれを読んだ人は、もうほとんどあの世へ逝かれているだろう。まだ幼児でこれを読めなかった人、そして戦後生まれの我々は、この文章の書かれた時代を体験的には知らない。とくに戦前の皇民教育と戦争中の極端ともいえる天皇の神格化を、具体的に経験していないので、なんとなく大変だったんだろうなあと想像はしても、実感はできない。
「堕落論」では、天皇制が大きなテーマとして扱われ、日本人の多くがそれを絶対的な正義として受け容れていたことが、偽善、歴史のカラクリとして痛切に指摘される。戦争の敗北によって天皇を頂点とした価値の体系が崩壊し、人々が天皇と国家の為に自己犠牲と耐乏生活に献身することを讃美していたのに、あっという間にみんな欲望剥き出しの「堕落」に陥った、という現実は誰もが実感していた昭和21年である。それを「堕落」というのは、戦前の無理筋の価値観でみたときに出てくる言葉であって、そういって嘆く戦前の指導者、価値体現者が戦後、潔く責任を取って腹を切りもせず、こそこそと逃げ隠れ、あるいは先を争って醜い保身と私欲の追求に走っているのも、人間とはほんらいそういうもので、自分のことを考えれば同類であるという。「堕落」を嘆いたり、特攻隊の生き残りが闇屋で稼ぎ、戦争未亡人が米兵に身体を売るのも、大和魂とか武士道とかいう空虚な観念のバカバカしさを信じていた愚かさをかなぐり捨てた結果である。だからもっと堕ちよ!堕ちるところまで堕ちることが、今の日本には必要なのだと安吾は叫ぶ。それは、当時の人々には覚醒であり大きな激励でもあったのだろう。

 「天皇制が存続し、かかる歴史的カラクリが日本の観念にからみ残って作用する限り、日本に人間の、人性の正しい開花はのぞむことができないのだ。人間の正しい光は永遠にとざされ、真の人間的幸福も、人間的苦悩も、すべて人間の真実なる姿は日本を訪れる時がないだろう。私は日本は堕落せよと叫んでいるが、実際の意味はあべこべであり、現在の日本が、そして日本的思考が、現に大いなる堕落に沈淪しているのであって、我々はかかる封建遺制のカラクリにみちた「健全なる道義」から転落し、裸となって真実の大地へ降り立たなければならない。我々は「健全なる道義」から堕落することによって、真実の人間へ復帰しなければならない。
 天皇制だの武士道だの、耐乏の精神だの、五十銭を三十銭にねぎる美徳だの、かかる諸々のニセの着物をはぎとり、裸となり、ともかく人間となって出発し直す必要がある。さもなければ、我々は再び昔日の偽瞞の国へ逆戻りするばかりではないか。先ず裸となり、とらわれたるタブーをすて、己れの真実の声をもとめよ。未亡人は恋愛し地獄へ落ちよ。復員軍人は闇屋となれ。堕落自体は悪いことにきまっているが、モトデをかけずにホンモノをつかみだすことはできない。表面の綺麗ごとで真実の代償を求めることは無理であり、血を賭け、肉を賭け、真実の悲鳴を賭けねばならぬ。堕落すべき時には、まっとうに、まっさかさまに堕ちねばならぬ。道義頽廃、混乱せよ。血を流し、毒にまみれよ。先ず地獄の門をくぐって天国へよじ登らねばならない。手と足の二十本の爪を血ににじませ、はぎ落して、じりじりと天国へ近づく以外に道があろうか。
 堕落自体は常につまらぬものであり、悪であるにすぎないけれども、堕落のもつ性格の一つには孤独という偉大なる人間の実相が厳として存している。すなわち堕落は常に孤独なものであり、他の人々に見すてられ、父母にまで見すてられ、ただ自らに頼る以外に術のない宿命を帯びている。
 善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変わりはない。
 悲しい哉、人間の実相はここにある。然り、実に悲しい哉、人間の実相はここにある。この実装は社会制度により、政治によって、永遠に救い得べきものではない。
 尾崎咢堂は政治の神様だというのであるが、終戦後、世界聯邦論ということを唱えはじめた。彼によると、原始的な人間はとで対立していた。明治までの日本には、まだ日本という観念がなく、藩と藩とで対立しており、日本人ではなく、藩人であった。そこで非藩人というものが現れ、藩の対立意識を打破することによって日本人が誕生したのである。現在の日本人は日本国人で、国によって対立しているが、明治に於ける非藩人の如く、非国民となり、国家意識を破ることによって国際人となることが必要で、非国民とは大いに名誉な言葉であると称している。これが彼の世界聯邦論の根柢で、日本人だの米国人だの支那人だのと区別するのは尚原始的思想の残りに憑かれてのことであり、世界人となり、万民国籍の区別など失うのが正しいという論である。一応傾聴すべき論であり、日本人の血などと称して後生大事にまもるべき血などある筈がない、と放言するあたり、いささか鬼気を感ぜしむる凄味があるのだが、私の記憶に誤りがなければ彼の夫人はフランス人の筈であり、日本人の女房があり、日本人の娘があると、却々(なかなか)こうは言いきれない。
 だが、私は敢て咢堂に問う。咢堂曰く、原始人はとで対立し、少し進んで藩と藩で対立し、国と国で対立し、所詮対立は文化の低いせいだというが、国と国の対立がなくなっても、人間同士、一人と一人の対立は永遠になくならぬ。むしろ、文化の進むにつれて、この対立は激しくなるばかりなのである。
 原始人の生活に於ては、家庭というものは確立しておらず、多夫多妻野合であり、嫉妬もすくなく、個の対立というものは極めて希薄だ。文化の進むにつれて家庭の姿は明確となり、個の対立は激化し、先鋭化する一方なのである。
 この人間の対立、この基本的な、最大の深淵を忘れて対立感情を論じ、世界聯邦論を唱え、人間の幸福を論じて、それが何のマジナイになるというのか。家庭の対立、個人の対立、これを忘れて人間の幸福を論ずるなどとは馬鹿げきった話であり、然して、政治というものは、元来こういうものなのである。
 共産主義も要するに世界聯邦論の一つであるが、彼等も人間の対立に就て、人間に就て、人性に就て、咢堂と大同小異の不用意を暴露している。蓋し、政治は、人間に、又、人性にふれることは不可能なのだ。
 政治、そして社会制度は目のあらい網であり、人間は永遠に網にかからぬ魚である。天皇制というカラクリを打破して新たな制度をつくっても、それも所詮カラクリの一つの進化にすぎないこともまぬかれがたい運命なのだ。人間は常に網からこぼれ、堕落し、そして制度は人間によって復讐される。
 私は元来世界聯邦も大いに結構だと思っており、咢堂の如く、まもるに値する日本人の血など有りはしないと思っているが、然しそれによって人間が幸福になりうるか、人の幸福はそういうところには存在しない。人の真実の生活は左様なところには存在しない。日本人が世界人になることは不可能ではなく、実は案外簡単になりうるものであるのだが、人間と人間、個の対立というものは永遠に失わるべきものではなく、しかして、人間の生活とは、常にただこの個の対立の生活の中に存しておる。この生活は世界聯邦論だの共産主義などというものが如何ように逆立ちしても、どう為し得るものでもない。しかして、この個の生活により、その魂の声を吐くものを文学という。文学は常に制度の、又、政治への反逆であり、人間の制度に対する復讐であり、しかして、その反逆と復讐によって政治に協力しているのだ。反逆自体が協力なのだ。愛情なのだ。これは文学の宿命であり、文学と政治との絶対不変の関係なのである。
 人間の一生ははかないものだが、又、然し、人間というものはベラボーなオプチミストデトンチンカンなわけの分らぬオッチョコチョイの存在で、あの戦争の最中に、東京の人達の大半は家をやかれ、壕にすみ、雨にぬれ、行きたくても行き場がないよとこぼしていたが、そういう人もいたかも知れぬが、然し、あの生活に妙な落付と訣別しがたい愛情を感じだしていた人間も少なくなかった筈で、雨にはぬれ、爆撃にはビクビクしながら、その毎日を結構たのしみはじめていたオプチミストが少くなかった。私の近所のオカミサンは爆撃のない日は退屈ねと井戸端会議でふともらして皆に笑われてごまかしたが、笑った方も案外本音はそうなのだと私は思った。闇の女は、社会制度の欠陥だと言うが、本人達の多くは徴用されて機械にからみついていた時より面白いと思っているかも知れず、女に制服をきせて号令かけて働かせて、その生活が健全だと断定は為しうべきものではない。
 生々流転、無限なる人間の永遠の未来に対して、我々の一生などは露の命であるにすぎず、その我々が絶対不変の制度だの永遠の幸福を云々し未来に対して約束するなどチョコザイ千万なナンセンスにすぎない。無限又永遠の時間に対して、その人間の進化に対して、恐るべき冒瀆ではないか。我々の為しうることは、ただ、少しずつ良くなれ、ということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしか有り得ない。人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何者かカラクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。そのカラクリを、つくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、その切ない人間の実相を我々は先ず最もきびしく見つめることが必要なだけだ。」坂口安吾『堕落論・日本文化史観』岩波文庫、2008.pp.238-244. 

 75年経って、戦争の記憶のある人がいなくなって、ぼくたちは「堕落論」をその書かれた背景と文脈を実感できない。天皇制についても、先年の令和改元の際の議論もさして問題にもされずに、通りすぎてしまった。政権与党も野党も、改憲を目指した右翼首相の退陣とともに、肝心なことには誰も触れなくなった。それで問題が消えたわけではなく、むしろ安吾の時代よりも怪しげなナショナリズムが巷を跋扈しているのに、人々は「堕ちる」どころか、観念的な国家秩序から外れる「堕ちたやつ」を、みんなでバッシングして留飲を下げている。坂口安吾が生きていてこれを見たら、なんというだろうか?「おまえら、もっと堕ちろ!堕ちなきゃ気がつかんのだ」でも、コロナぐらいじゃ堕ちないな。


B.対応バイアス?
 心理学、脳科学、認知科学という専門家が、だいぶ前からいろんなところで引っ張り出されて、その発言にみんなはは~ん、そうなのか、と納得している。それは物理学者や生物学者や医学の専門家が、それぞれの観点から述べるコメントとは少し別の角度なので、なにか目新しく、しかも実践的に役に立ちそうに見えるところが、今の日本にマッチしているのだろう。経済学や社会学は、どうもいかがわしくあてにならないと思われているみたいで、ここまで信頼を寄せられていない。でも、「バイアス」という言葉で心理的傾向を言い当てれば、なにかが解決するんだろうか。近代の実権心理学は厳密正確なサイエンスであろうとする傾向が強いけれど、人間行動のすべてを一般化して単純な原理で説明しようとすれば、一般の素人は納得しても、あまり役には立たないとぼくなんかは思う。

 「コロナ禍「バイアス」どう捉える  鈴木宏昭さん  青山学院大教授
 逃れられない自覚を  他者を「集団」でひとくくりにしない
 人は誰しも偏見や先入観など「バイアス」からは逃れられない。新型コロナウイルス感染が広がる中、知らないうちに物事を色眼鏡で見ていないだろうか。認知科学が専門の青山学院大の鈴木宏昭教授(62)に、その副作用を聞いた。        (服部尚)
 私たちが持ついろんな考え方のクセが、コロナ禍の生活にさまざまな影響を及ぼしている。そう鈴木さんは主張する。
 他人に厳しい発想
 そもそもバイアスとは何か。
 たとえば、同僚が仕事で遅刻すると、「あいつ、いつもルーズなやつだから」と思う一方で、自分が遅刻すると「昨日、仕事で遅かったから」と言い訳する人がいる。
 他者の行動の原因は、性格や態度、知能といった「内面」に求めるのに、自分の行動は「状況」のせいにする。こうした考え方のクセは「バイアス」と呼ばれる。
 「自粛警察」など、コロナ禍における他人への厳しいまなざしには、対応バイアスが隠れている、と鈴木さんは指摘する。
 また、人は「日本人らしさ」や「男らしさ」など、その集団の本質的な要素でカテゴリー化する傾向がある。これは「心理学的本質主義」と呼ばれる。
 「コロナの感染が広がっていない地域では、『あんなところに住んでいるやつらだから』『東京の野郎どもは遊びまくっているからだ』と考える人もいるでしょう」
 こうした考え方は、他者を「個」ではなく「集団」として捉えることにつながる。この延長線上にあるのが「内在的正義」というバイアスだ。不幸なことが起きるのは、悪行や不道徳の結果であり、コロナに感染するのは何かよくないことをしたからだ、という考え方につながる。
 「それが、悪いことをしたやつには懲罰を与えようという考え方につながり、マスクをつけない人を注意する『マスク警察』や、他の都道府県から来た車へのいやがらせなどにつながるのです」
 政策の言葉の作用
 政府の唱える「新しい生活様式」も、個ではなく、みんなでやろうという雰囲気が強い。
 「『新しい生活様式』というおかしな言葉を振りかざして、個人の生活に干渉しようという態度には、強圧的なものを感じます。自分たちが失敗しても『お前たちがしっかり生活しないからだ』と、国民の生活態度が悪いのだという言い訳にもできます」
 国民の側も、こうした考え方を知らぬ間に採り入れてしまっているかもしれない。それが、「お前たちのせいだ」と言われても納得し、自粛警察の風潮がさらにはびこる――といった悪循環につながりかねないと指摘する。
 バイアスから逃れるのは非常に難しい。だが認知バイアスを持つこと自体が開くとは言えない。得られた情報を判断する際に、自分にも他人にもバイアスがあると自覚することが重要だと鈴木さんは話す。
 「ことば」の使い方も重要だ。コロナ禍において政治家は、国民の行動を変えるための政策として、耳慣れない外来語を使ってきた。この戦略は、情報を判断するうえで、人々の考え方に二つの作用を与えたという。
 鈴木さんは、なじみのない外来語の代表例の一つとして「Go To トラベル」を挙げる。日本語にすると「旅行促進・推進事業」。いくらなんでも日本語でこんなことを言うと、多くの人から『こんな状況に何を!』という反論が出てくる。そこを英語を使うことで、あいまいに緩和する効果があったと思います」
 反対に、「オーバーシュート」「東京アラート」などは、訳すとインパクトがなくなる。「オーバーシュート」は「的を外す」、「東京アラート」は「東京警報」だ。「これらの言葉は外来語だからこそ、印象に残ったのだと思います」
 「リスクゼロ」の壁
 感染防止と経済活性化の両立を掲げる菅政権は、「Go To トラベル」にこだわってきた。だが感染拡大が続く中、批判の声が高まり、年末年始を前に一時停止に追い込まれた。政府が一貫性を維持しようと間違ったやり方に固執すれば、迷惑を被るのは国民だ。
 「間違ったと思ったらやめるのは、当然の判断でしょう。ただ政府には、なぜやめたのかをデータに基づき説明する必要があります。トラベルが感染拡大につながったのであれば、裏付けるデータを示したうえで、方針について説明すべきでした」
 物事を的確に判断するには、情報を比較することが大事だ。たとえば、海外では数百万人の感染者が出ている国もある一方で、日本は急増しているとはいえ、まだそのレベルではない。
 「それでも医療が崩壊しつつあると言われています。それは国が、医療システムに負荷をかけるような措置を講じたからだと考えられないでしょうか」
 私たちの社会に広く根づく「リスクゼロ信仰」も、正しい判断をする際の障壁となっているという。
 交通事故が起こるから自動車の運転は禁止、オレオレ詐欺が起こるから電話をしないという生活はありえない。「『ゼロに近づけるためならば何でもやる』という方針は馬鹿げています。感染状況だけでなく、人の生活全般を見据えた政策と、個人の冷静な意思決定こそが、求められているのです」」朝日新聞2021年1月16日夕刊、6面社会・総合欄。
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