A.世紀末から20世紀はじめの英国社会
産業革命を先導し、世界中に植民地を持ち、空前の富を築いた大英帝国の最盛期は、19世紀それも後半。日本が幕末鎖国を解いて、西洋列強との近代化路線を歩み始めたとき、その先進国モデルは英雄ナポレオンが席巻したフランスと、海洋帝国イギリスだった。でも、日本はフランスやイギリスを追いかけるよりは、後発だけれどより君主制による開発独裁が手堅いと思われたプロイセン=ドイツを手本にすることになる。国費留学生、夏目金之助・漱石に与えられた国家の使命は、英語という汎用性の高い世界言語を、日本の将来を担う英才たちに教育する指導者になって帰って来ることだった。でも、漱石は語学というものがそのような実用性や技術効用などではすまない、文化的社会的意味を帯びていて、それは極東のサムライ国家だった日本とは、あまりにかけ離れたものであり、それを18世紀までの英文学作品を真面目に学べば学ぶほど、イギリス人の生活と思想を日本へ持ち帰るなど不可能だと知ってしまった。これでノイローゼにならないような知識人は、たいしたものにはならない。
漱石はロンドンの下宿で、独り自分の課題と設定した『文学論』を書きながら、しかし、大学卒業以来、仕事としてきた英語教師であり続け、その日本での親玉になることなど、なんの魅力も感じていなかった。日本へ帰って、帝国大学や一高の英語教授になったものの、鬱々とした気分を晴らすために、俳句誌「ホトトギス」に『吾輩は猫である』を書く。これが作家漱石の誕生になる。文学博士授与の打診があったけれど、漱石はこれを断って、朝日新聞の専属小説家になる。給与は大幅にふぇ
「1840年代にイギリスの政界人たちは、産業革命による経済的成長の結果、憂慮すべき事態が生じたことに気がついた。都市人口の急激な増加のせいで、住居、衛生、雇傭、貧困などの問題を政府が処理しかねるやうになつた。しかし強力な政治形態をもつてこれに臨むことは個人の自由の束縛になる恐れがあつたからである。このことをカーライルが論じた一文から「英国の状態」問題(condition-of-England question)といふ語句が生れ、さらには「英国の状態」小説(“condition of England”novel)といふ文学用語が派生した(メアリ・プーヴィーおよび『ペンギン十九世紀歴史事典』)。その種の長編小説の代表はディケンズの『荒涼館』(1853)とディズレイリの『シビル』で、ディケンズについては何も説明が要らないと思ふが、ディズレイリについては、多年にわたつて首相を務め、伯爵になつたあの人物で、彼は小説家としても多くのベスト・セラーを出す成功者だつた、と言へばそれでよからう。そしてこの二人を継承して「英国の状態」小説を書いたのが、ジェイムズの尊敬するジョージ・エリオットなのだから、ジェイムズの作風には審美的な繊細と巧緻のほかに、社会的なものの見方が常にあつた。もつとも実を言ふとこれはモダニズム小説の一特質なので、それゆゑジェイムズもコンラッドも政治小説を書いてゐるし、さらにはジョイス『ユリシーズ』(1922)も最近はラテン・アメリカ小説の反植民地的性格の先駆をなすものと評価されるやうになつてゐる(ヴィヴィアン・マーシア)。
しかし二十世紀の「英国の状態」小説の代表としては、やはりE・M・フォースタ-の『ハワーズ・エンド』(1910)をあげなければならない。特徴的なことに、『ハワーズ・エンド』の世界は図式的な人物配置で出来てゐる。まづ中流上層の二つの家族。知的で教養のあるシュレーゲル家の姉妹と、世俗的で実際的なウィルコック家の人々。この両家はドイツ旅行の途中で偶然に知合った。そして中流下層のレナードは、無教養で品行の悪い妻をかかへながら知的生活にあこがれてゐる。
ここでちよつと説明して置けば、イギリスの社会は、
上流upper class (王室、貴族など)
中流上層upper middle class (政治家、医者、大学教授、会社社長、高級官僚などを含む)
中流middle class (ビジネス・マンや知的職業など)
中流下層lower middle class (小売商人、下層官吏など)
下層lower class (労働階級と同じ)
といふ区分で出来てゐる階級社会である。これはオクスフォード大学出版局刊のエイドリアン・ルーム著『イギリス生活のAからZまで』にはつきり書いてある常識的見解で、これにくらべれば戦後の日本は無階級社会と言つてもよい。
フォースターはこの三様の家族をあれこれともつれさせながら、イギリス社会の風俗と倫理をアイロニカルに研究したのだが、その結果、名作と呼んで差支へない本が出来あがつた。とりわけ最初の数章のすばらしさは……『三四郎』の出だしを思ひ出すほどだと言へばわかりやすいのではないか。しかもこれは『三四郎』刊行の一年後に出た長編小説なのである。これではどうしても比較したくなるし、心のなかでじつと見くらべてゐると、『三四郎』には「日本の状態」小説とも呼ぶべき局面ないし性格があることに気がつくだらう。
たとへば汽車のなかで、職工の妻の語る話を聞いて爺さんがする戦争批判と信心が大事だといふ説。同じく汽車のなかで髭の男が三四郎にする、西洋人は美しく、そして富士山しか自慢するもののない日本人はかはいさうだといふ説。日本は亡ぶといふ説。それらが彼らの立居振舞の描写をまじへて示されるとき、わたしたちはおのづから日本の全体を思ひ、その運命について考へることへと促される。これは東京の忙しさ、「大変な動き方」が描かれるときも、大学の講義の詰まらなさが紹介されるときも、そしてこれにくらべればかなり出来が落ちるが、女(?)の轢死者のくだりでも、漱石が日本の社会の諸相をとらへようとしてゐることは納得できる。それをわたしは「日本の状態」小説への志と見るのだが、考へてみれば、彼がこんなふうに社会全体を展望しようといふ気持を見せたことは、これ以前にも以後にもなかつたのだ。その点で『三四郎』は例外的な作品であつた。
『三四郎』の連載のはじまる1908年9月の三ケ月前に赤旗事件があり、翌々年6月には幸徳秋水が逮捕されたのだが、漱石は社会主義者たちとはつきあひがなかつたけれど、明治後期の社会の危なげな様子は敏感に感じ取ってゐたし、小説家はその社会を描かねばならないと思つてゐたに相違ない。それはE・M・フォースターとの類似によつても推定できる。といふのは、フォースターとの類似によつても推定できる。といふのは、フォースターはイタリア旅行によつて、イギリス社会の窮屈さと偽善性を意識するやうになり、一方では「英国の状態」小説の伝統に励まされながら、他方ではジェイン・オースティンから学んだアイロニーの筆法によつて、その批判を書いたのである。この場合、百年前の閨秀作家から借り受けた望遠鏡で一国の運命を眺望するといふ工夫がじつによかつた。家庭小説の作家であるオースティンは、当時のなまなましい現実であるナポレオン戦争について一言も触れてないことで有名だが、オースティンふうのアイロニーと「英国の状態」といふ異色の取合せによつて、優しくてしかも残酷な認識が得られたのである。一方、漱石はイギリス留学によつて、自国への批評意識を強めたし、もともとイギリス小説の伝統に詳しかつたし、さらにオースティンを敬愛してゐたことは、後年、「則天去私」の作家は誰かと問はれて彼女の名をあげたことでもわかる。そのアースティンゆづりのアイロニーが最もよく発揮されてゐるのは『三四郎』であつた。
そしてフォースターも漱石も外国に旅することによつて自国批評の意欲を強めたことは注目に価しよう。第一にモダニズム小説には基本のところに知的な文明批評があるし、その要素にとつては比較と分析といふ方法が大切だし、第二にモダニズム小説はもともと国際的な性格のものだからである。それは国民文化に対して覚めた新しい意識で立ち向かふやいに出来てゐる。
残念なことに「日本の状態」小説は長くはつづかない。階層の対比による社会の眺望といふ方法は都市と地方との対比へと切り替へられる。主人公が受取る母親からの手紙によつて都と鄙とが対照を形づくるのだが、それとても一国全体の研究といふ趣のものではなく、もつと浅い感じだし、文明論的な言及はときどきなされてもあまり迫力がなくなり、一体に『三四郎』冒頭の、亡国の予言をさへ含む堂々たる風格は薄れてゆく。「日本の状態」小説は恋愛小説めいたものに変わるのだ。三四郎は美彌子と知合ひ、金を借り、といふよりもむしろ借りるやうな羽目になり、あるいはさう仕向けられ、自分では何もしないうちに他人から美禰子に惚れてゐると思はれ、自分も何となくさう思ひ込み、借りた金を返し、そして相変わらず何もしないうちに美禰子は結婚してしまふ。これは『ハワーズ・エンド』が「英国の状態」小説として最後まで立派に押切るのとは大変な違ひである。
こんな具合になつたのは、これは前にも述べたことだが、一つには当時の良家の風俗に縛られて、三四郎にも美禰子にも積極的な行動を取らせなかつたせいだし、さらには視点を三四郎にしぼつたため、恋愛小説がドラマを欠いたせいもある。その点フォースターにはさういふ風俗的制約はなかつたし、小説の伝統も成熟してゐたし、それに彼は視点の据ゑ方の点でも老獪だつたから、いつそメロドラマに近いやうな趣向さへ平気で立てることができた。かうして恋愛小説的要素を自由にしらひながら、「英国の状態」小説に力をこめることができたのである。一方、漱石にとつては、社会が成熟してゐないのにその未熟さを題材に取つて「日本の状態」小説に挑むのはむづかしい話で、たとへば三四郎は汽車から降りてしまふと、もう他の社会階層と出会うことができなかつた。もつともフォースターにしてもこれは苦心したところで、『ハワーズ・エンド』で中流下層のレナードが中流以上のシュレーゲル姉妹と知合ひになるのは、音楽会で隣の席にゐたレナードの雨傘を妹のほうが間違つて持ち帰つたためである。しかし日本で音楽会をこんなふうに使ふのは、明治末年では無理な話だつた。昭和も戦後にならなければ、いや、多分オペラばやり以後にならなければ、登場人物である庶民が知識人と同じ音楽を聴きにゆくことを読者は納得しないはずである。こんな調子で、社会小説的なものを書くことのむづかしさを漱石はいちいち味ははされ、それに恋愛小説の方もうまくゆきさうな気がしない。次第々々に、出だしのところでの大きな構へが重荷でたまらなくなり、早くそれを投げ出して楽になりたいと心のどこかで念じつづけてゐて、それで三四郎に東京からの富士を見させないことにしたのだらう。見てないと言はせるのではあまりに嘘つぽいので、あの山のことは忘れてゐたと言はせたのだと思ふ。
そんな具合に処理するとき、心の底に、東京から富士が見えるのは当たり前で、何もわざわざ書きつけるほどのことぢやないといふ言ひわけがよどんでゐたとも考へられる。事実、明治の文学者の回想記類を見ても、富士山のことなどちつとも出て来ない。書いたらかへつてをかしいやうなものかもしれない。しかし回想記といふ半ば日常的な次元ではさうだとしても、小説の作中人物の場合は違ふ。その小説の世界である、格式の高い別乾坤に生きてゐる。漱石はその特殊な事情を何とかして忘れやうと務めてゐたらしい。すなはち富士山はまさしく、はじめは大事な手段でありながら次第に後退してゆく「日本の状態」の象徴のやうなものであつた。
それにもともと漱石には富士山に対するアンヴィヴァレントな感情があつて、もちろん愛着はあるけれども、それを素直に表明しにくく、また、表現の仕方がむづかしいのかもしれない。『英国詩人の天地山川に対する概念』(1893)といふ論文から推しても、彼は自然をワーズワースふうに人格主義的にみる態度に共感を寄せてゐたらしい。前にも引用したが、広田先生が「自然を翻訳すると、みんな人間に化けて仕舞ふから面白い。崇高だとか、偉大だとか、勇壮だとか」「みんな人格上の言葉になる」といふのはその反映だらう。しかし自分と富士山との関係はそれだけではないといふ気持もあつて、ただしそのさきの分析は面倒なため、はふつて置いたのではないか。と言ふのは、漱石は一方では江戸人の習俗に漬かつて育ち(それゆゑかへつてこれを意識化することは困難で)、他方では、時代的条件のせいで当たり前の話だが、ギルバート・マリやフレイザーなどのケンブリッジ古典人類学派には接してゐないため、自分の心の底にひそむ江戸人の心情を山岳信仰として明確にとらへることはできなかつたはずである。そこでこの山と自分との関係をうまく整理することができないまま、富士山論を語る広田先生と驚く三四郎、何かにつけて富士山を持ち出す広田先生と「丸で忘れてゐた」三四郎といふ二人に分けて出したのかもしれない。浜松の駅で、富士山をまだ見ないうちにそれが話題になつて、車窓から見る場面がないのが意味深長だけれど、漱石は登場人物とこの山が対面する場面をなるべくならよけて通りたいと思つてゐた、とも言へる。
こんなふうに論じてくると『三四郎』に対する私の評価が低いやうに思はれるかもしれないが、もちろんそんなことはない。出だしのところを絶賛したい気持ちは変らないし、それに全体の調子がすつきりしてゐる。本当はこのことが大切なので、東京をあつかつて『三四郎』ほど粋な小説は私たちの文学に珍しい。大学の構内も、学生の下宿も、団子坂も、上野の美術館も、この小説のなかではロンドンの匂ひがする。それはつまり本当の都市的なものがここにはあるといふことで、さういふ感じに近いものとしてはさしあたり吉田健一の「東京の昔」を思ひ出す。不思議なことに漱石のこの長編小説は前まへから玄人筋に評判が悪く、そのくせ素人にはひどく好まれてゐると聞いたが、もしさうだとすればこの粋な感じが素人の心を魅惑し、玄人には嫌がられるのだらう。何となくわかる気がする。それこそはモダニズム小説といふもので、さう言へば『三四郎』には油絵の画家たちのいはゆる滞欧作を思はせるものがある。黒田清輝も東郷清児も、ヨーロッパにゐたころは粋な絵を描いた。
それに言い添へて置かなければならないのは、作者が恋愛小説(?)に熱心になつてからも、ときどき「日本の状態」小説らしいふしは仄見えて、隠し味といふのかしら、この本の奥行きを深め、複雑な感じのものにしてゐるといふ事情である。外国人教授だけではなく日本人教授も迎へようといふ与次郎の企てとか、それに伴ふジャーナリズムの内幕とかもさうだけれど、例の美禰子の台詞「ストレイ・シープ」(迷へる羊)にしたつて、この線で考へるべきもののやうな気がする。すなはち、三四郎と美禰子の淡い恋といふ私的な文脈ではなく、近代日本の運命といふ公的な文脈でで。美禰子は小説の真中へんで自分と三四郎とを憐れんで、三四郎は終わりで美禰子の肖像を見て、「ストレイ・シープ」とつぶやく。あの台詞は在来とかく、キリスト教的に解されてゐるやうだが、出典と覚しきフィールディング『トム・ジョーンズ』(漱石酷愛の書!)第十八巻第八章のその箇所から推しても、もつと世俗的な感じである。宗教的ではない。美禰子が教会にゆく場面があるからと言つて、そんなものに気を使ふ必要はない。あれはおそらく明治末年の青春を、ひいては近代日本の運命を、ひいては近代日本の運命を、優しく憐れむ言葉なのだ。いささか舌足らずなものの言ひ方かもしれないけれど、何しろ明治の人間は無口だつたから、それはまあ仕方がない。鎖国からいきなり開国して帝国主義の時代に身を処してゆかなければならない幼い日本が、漱石にはいとほしくてならなかつたのである。」丸谷才一『闊歩する漱石』講談社文庫、2006年.pp.141-151.
20世紀の初めのロンドンにいた夏目漱石が、体験したイギリス社会は、ヨーロッパ最先進国の資本主義と都市化と、その後の2つの世界大戦にいたる現代社会の諸問題が出そろっていた。英文学も、19世紀の自然主義やロマン主義を脱して、新しい小説の萌芽が芽生えていた。漱石が、それをどこまで意識していたか、少なくとも丸谷才一は、多大な期待をもって読み込もうとする。
B.「前衛美術」の回顧と現在
敗戦後の日本では、19世紀フランス印象派から20世紀戦間期の西洋美術、キュビスム、フォービスム、シュールレアリスム、表現主義などは入っていたものの、戦争で現代美術の満足な創作は難しかった。それが、敗戦で一気に欧米の前衛美術の情報が流れ込み、戦前からごく一部とはいえ現代美術の創作を試みていた人たちが、美術団体と展覧会をはじめた。「具体美術協会」は、大阪など関西を中心に活発な表現活動を展開し、リーダーの吉原治良によって1954年にはじまり72年まで続いた。
「扉:「具体」未知なる美術の先駆 戦後関西の前衛美術集団「具体美術協会」は、型破りりな表現の数々で現代アートに新たな地平を切り開いた。時にインスタレーションやパフォーマンスの「先駆」などと語られ、欧米の著名な美術館に多数の作品が収まる「世界のGUTAI」を今、振り返る。
すべて未知の世界への果敢な前進を具体美術は高く尊重する――。そんな宣言とともに、革新的な芸術作品を次々と世に送り出した具体美術協会は、画家で実業家の吉原治良(1905~72)が、阪神エリアの若手作家たちと結成したグループだ。その運動は戦後復興期の54年に始まり、吉原が没する72年まで続いた。今年は解散から50年の節目にあたる。
戦前から前衛作家として活動し、戦時の閉塞感を肌身で知る吉原にとって、人びとの精神の自由を「具体的に」示すことこそ、戦後の芸術の使命だった。ゆえに吉原は年下の会員たちに向かってこう繰り返す。「人のまねをするな」「これまでになかったものを創れ」
自由を求めて、既成の枠組みを飛び出した斬新な表現の数々。中でも具体の代名詞のように語られるのが、作家の身体や行為、素材の物質性などを強調した作品群だ。例えば、キャンバスの上を滑るように、足で絵の具を塗り広げる白髪一雄の「フット・ペインティング」。木枠に張った紙を自ら突き破る村上三郎のパフォーマンスは、見た目のインパクトに加え、空間に響き渡る巨大な音で鑑賞者の度肝を抜いた。
電球や管球をつなぎ合わせた田中敦子の「電気服」や、ブリキ缶を並べた山崎つる子の作品など、身の回りの素材を用いて美術の定義を押し広げた例も少なくない。これらの作品は時に室内を飛び出し、公園や劇場、デパートの屋上でも展示が繰り広げられた。
形式上の新しさを前面に打ち出した表現はしかし、当時の日本の美術界からは「思想や内容がない」などと批判された。だがある出会いを契機に、具体は海の向こうでその名を広めることになる。
グループの活動を知ったフランスの美術評論家ミシェル・タピエが、自らの提唱する国際的な抽象絵画運動「アンフォルメル」に共鳴する動きとして、具体を評価したのだ。企画展への絵画作品の出品などを通じて、「GUTAI」はやがて前衛芸術の政界的な潮流の中に位置づけられる。65年には欧州の前衛グループであるオランダの「ヌル」、ドイツの「ゼロ」などとの合同展にも参加した。
一方、62年には大阪・中之島に常設展示館「グタイピナコテカ」がオープン。会員や海外作家のの個展が定期的に開催され、米国の現代美術家ジャスパー・ジョーンズや作曲家のジョン・ケージらが訪れるなど、国際的な交流が育まれた。
70年の大阪万博では、太陽の塔に隣接するお祭り広場で「具体美術まつり」を演出。巨大な帰休や消防車も使った大がかりで奇天烈なパフォーマンスショーは、具体のフィナーレにふさわしい祝祭となった。
関西大学の平井章一教授(美術史)は「具体の作品には、会員の大胆で多彩な発想を吉原の審美眼が選抜していく、共同制作のような側面があった」と話す。
会社経営者という顔も持つ吉原は、海外の高価な美術雑誌を広く買い集めるなど、同時代の前衛の情報に精通していた。グループの絶対的リーダーは、自らの知識と感性に基づき、会員らが持ち込む作品を評価。質や強度が不十分と見れば容赦なく「あかん」と突き返した。それでも若手作家たちが吉原を慕い続けたのは「彼が良いと言った作品パリの美術評論家もほめちぎるのだから、その目利きぶりは間違いないと思ったのでしょう」。
72年の解散後も、個々の作家は具体時代に切り開いた表現をそれぞれの形で深化させていく。パリを拠点に活動する元会員の松谷武判(85)は、当時普及し始めたばかりの木工用ボンドを用いた手法を確立。有機的と評される独自の造形技法で、今なお新作を生み出している。「誰もやらないことをやろうと皆が必死だった。『おもろいやん、おっさん喜ぶで』。吉原先生に作品を見せる前、具体の先輩方にそう励まされたことを今も思い出します」
(文・西田理人 グラフィック・近藤祐)」朝日新聞2022年10月30日朝刊、27面文化欄。
ぼくもこの9月、東北地方のある美術団体(もうじき100周年を迎えるというので歴史はある)に会員にしてもらった。ただ、その会員の多くは60代70代の高齢者で、若い人はごく少数だ。戦後から高度経済成長期は、美術団体も各地にあり、中高の美術教員に指導された若者が、美大をめざして公募展に作品を出品していた。団塊の世代はいろいろな分野で、戦後社会の活性化に貢献してきたといえるが、さすがにもうエネルギーは衰えてくる。日展を頂点とする公募展による美術団体という組織がこの先どうなるのか、その実態は社会学的には興味深いものがある。