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小説家の小説論・丸谷才一 3 20世紀英国小説  具体美術協会回顧

2022-10-31 03:34:37 | 日記
A.世紀末から20世紀はじめの英国社会
 産業革命を先導し、世界中に植民地を持ち、空前の富を築いた大英帝国の最盛期は、19世紀それも後半。日本が幕末鎖国を解いて、西洋列強との近代化路線を歩み始めたとき、その先進国モデルは英雄ナポレオンが席巻したフランスと、海洋帝国イギリスだった。でも、日本はフランスやイギリスを追いかけるよりは、後発だけれどより君主制による開発独裁が手堅いと思われたプロイセン=ドイツを手本にすることになる。国費留学生、夏目金之助・漱石に与えられた国家の使命は、英語という汎用性の高い世界言語を、日本の将来を担う英才たちに教育する指導者になって帰って来ることだった。でも、漱石は語学というものがそのような実用性や技術効用などではすまない、文化的社会的意味を帯びていて、それは極東のサムライ国家だった日本とは、あまりにかけ離れたものであり、それを18世紀までの英文学作品を真面目に学べば学ぶほど、イギリス人の生活と思想を日本へ持ち帰るなど不可能だと知ってしまった。これでノイローゼにならないような知識人は、たいしたものにはならない。
 漱石はロンドンの下宿で、独り自分の課題と設定した『文学論』を書きながら、しかし、大学卒業以来、仕事としてきた英語教師であり続け、その日本での親玉になることなど、なんの魅力も感じていなかった。日本へ帰って、帝国大学や一高の英語教授になったものの、鬱々とした気分を晴らすために、俳句誌「ホトトギス」に『吾輩は猫である』を書く。これが作家漱石の誕生になる。文学博士授与の打診があったけれど、漱石はこれを断って、朝日新聞の専属小説家になる。給与は大幅にふぇ

 「1840年代にイギリスの政界人たちは、産業革命による経済的成長の結果、憂慮すべき事態が生じたことに気がついた。都市人口の急激な増加のせいで、住居、衛生、雇傭、貧困などの問題を政府が処理しかねるやうになつた。しかし強力な政治形態をもつてこれに臨むことは個人の自由の束縛になる恐れがあつたからである。このことをカーライルが論じた一文から「英国の状態」問題(condition-of-England question)といふ語句が生れ、さらには「英国の状態」小説(“condition of England”novel)といふ文学用語が派生した(メアリ・プーヴィーおよび『ペンギン十九世紀歴史事典』)。その種の長編小説の代表はディケンズの『荒涼館』(1853)とディズレイリの『シビル』で、ディケンズについては何も説明が要らないと思ふが、ディズレイリについては、多年にわたつて首相を務め、伯爵になつたあの人物で、彼は小説家としても多くのベスト・セラーを出す成功者だつた、と言へばそれでよからう。そしてこの二人を継承して「英国の状態」小説を書いたのが、ジェイムズの尊敬するジョージ・エリオットなのだから、ジェイムズの作風には審美的な繊細と巧緻のほかに、社会的なものの見方が常にあつた。もつとも実を言ふとこれはモダニズム小説の一特質なので、それゆゑジェイムズもコンラッドも政治小説を書いてゐるし、さらにはジョイス『ユリシーズ』(1922)も最近はラテン・アメリカ小説の反植民地的性格の先駆をなすものと評価されるやうになつてゐる(ヴィヴィアン・マーシア)。
 しかし二十世紀の「英国の状態」小説の代表としては、やはりE・M・フォースタ-の『ハワーズ・エンド』(1910)をあげなければならない。特徴的なことに、『ハワーズ・エンド』の世界は図式的な人物配置で出来てゐる。まづ中流上層の二つの家族。知的で教養のあるシュレーゲル家の姉妹と、世俗的で実際的なウィルコック家の人々。この両家はドイツ旅行の途中で偶然に知合った。そして中流下層のレナードは、無教養で品行の悪い妻をかかへながら知的生活にあこがれてゐる。
 ここでちよつと説明して置けば、イギリスの社会は、
 上流upper class (王室、貴族など)
 中流上層upper middle class (政治家、医者、大学教授、会社社長、高級官僚などを含む)
 中流middle class (ビジネス・マンや知的職業など)
 中流下層lower middle class (小売商人、下層官吏など)
 下層lower class (労働階級と同じ)
といふ区分で出来てゐる階級社会である。これはオクスフォード大学出版局刊のエイドリアン・ルーム著『イギリス生活のAからZまで』にはつきり書いてある常識的見解で、これにくらべれば戦後の日本は無階級社会と言つてもよい。
 フォースターはこの三様の家族をあれこれともつれさせながら、イギリス社会の風俗と倫理をアイロニカルに研究したのだが、その結果、名作と呼んで差支へない本が出来あがつた。とりわけ最初の数章のすばらしさは……『三四郎』の出だしを思ひ出すほどだと言へばわかりやすいのではないか。しかもこれは『三四郎』刊行の一年後に出た長編小説なのである。これではどうしても比較したくなるし、心のなかでじつと見くらべてゐると、『三四郎』には「日本の状態」小説とも呼ぶべき局面ないし性格があることに気がつくだらう。
 たとへば汽車のなかで、職工の妻の語る話を聞いて爺さんがする戦争批判と信心が大事だといふ説。同じく汽車のなかで髭の男が三四郎にする、西洋人は美しく、そして富士山しか自慢するもののない日本人はかはいさうだといふ説。日本は亡ぶといふ説。それらが彼らの立居振舞の描写をまじへて示されるとき、わたしたちはおのづから日本の全体を思ひ、その運命について考へることへと促される。これは東京の忙しさ、「大変な動き方」が描かれるときも、大学の講義の詰まらなさが紹介されるときも、そしてこれにくらべればかなり出来が落ちるが、女(?)の轢死者のくだりでも、漱石が日本の社会の諸相をとらへようとしてゐることは納得できる。それをわたしは「日本の状態」小説への志と見るのだが、考へてみれば、彼がこんなふうに社会全体を展望しようといふ気持を見せたことは、これ以前にも以後にもなかつたのだ。その点で『三四郎』は例外的な作品であつた。
 『三四郎』の連載のはじまる1908年9月の三ケ月前に赤旗事件があり、翌々年6月には幸徳秋水が逮捕されたのだが、漱石は社会主義者たちとはつきあひがなかつたけれど、明治後期の社会の危なげな様子は敏感に感じ取ってゐたし、小説家はその社会を描かねばならないと思つてゐたに相違ない。それはE・M・フォースターとの類似によつても推定できる。といふのは、フォースターとの類似によつても推定できる。といふのは、フォースターはイタリア旅行によつて、イギリス社会の窮屈さと偽善性を意識するやうになり、一方では「英国の状態」小説の伝統に励まされながら、他方ではジェイン・オースティンから学んだアイロニーの筆法によつて、その批判を書いたのである。この場合、百年前の閨秀作家から借り受けた望遠鏡で一国の運命を眺望するといふ工夫がじつによかつた。家庭小説の作家であるオースティンは、当時のなまなましい現実であるナポレオン戦争について一言も触れてないことで有名だが、オースティンふうのアイロニーと「英国の状態」といふ異色の取合せによつて、優しくてしかも残酷な認識が得られたのである。一方、漱石はイギリス留学によつて、自国への批評意識を強めたし、もともとイギリス小説の伝統に詳しかつたし、さらにオースティンを敬愛してゐたことは、後年、「則天去私」の作家は誰かと問はれて彼女の名をあげたことでもわかる。そのアースティンゆづりのアイロニーが最もよく発揮されてゐるのは『三四郎』であつた。
 そしてフォースターも漱石も外国に旅することによつて自国批評の意欲を強めたことは注目に価しよう。第一にモダニズム小説には基本のところに知的な文明批評があるし、その要素にとつては比較と分析といふ方法が大切だし、第二にモダニズム小説はもともと国際的な性格のものだからである。それは国民文化に対して覚めた新しい意識で立ち向かふやいに出来てゐる。
 残念なことに「日本の状態」小説は長くはつづかない。階層の対比による社会の眺望といふ方法は都市と地方との対比へと切り替へられる。主人公が受取る母親からの手紙によつて都と鄙とが対照を形づくるのだが、それとても一国全体の研究といふ趣のものではなく、もつと浅い感じだし、文明論的な言及はときどきなされてもあまり迫力がなくなり、一体に『三四郎』冒頭の、亡国の予言をさへ含む堂々たる風格は薄れてゆく。「日本の状態」小説は恋愛小説めいたものに変わるのだ。三四郎は美彌子と知合ひ、金を借り、といふよりもむしろ借りるやうな羽目になり、あるいはさう仕向けられ、自分では何もしないうちに他人から美禰子に惚れてゐると思はれ、自分も何となくさう思ひ込み、借りた金を返し、そして相変わらず何もしないうちに美禰子は結婚してしまふ。これは『ハワーズ・エンド』が「英国の状態」小説として最後まで立派に押切るのとは大変な違ひである。
 こんな具合になつたのは、これは前にも述べたことだが、一つには当時の良家の風俗に縛られて、三四郎にも美禰子にも積極的な行動を取らせなかつたせいだし、さらには視点を三四郎にしぼつたため、恋愛小説がドラマを欠いたせいもある。その点フォースターにはさういふ風俗的制約はなかつたし、小説の伝統も成熟してゐたし、それに彼は視点の据ゑ方の点でも老獪だつたから、いつそメロドラマに近いやうな趣向さへ平気で立てることができた。かうして恋愛小説的要素を自由にしらひながら、「英国の状態」小説に力をこめることができたのである。一方、漱石にとつては、社会が成熟してゐないのにその未熟さを題材に取つて「日本の状態」小説に挑むのはむづかしい話で、たとへば三四郎は汽車から降りてしまふと、もう他の社会階層と出会うことができなかつた。もつともフォースターにしてもこれは苦心したところで、『ハワーズ・エンド』で中流下層のレナードが中流以上のシュレーゲル姉妹と知合ひになるのは、音楽会で隣の席にゐたレナードの雨傘を妹のほうが間違つて持ち帰つたためである。しかし日本で音楽会をこんなふうに使ふのは、明治末年では無理な話だつた。昭和も戦後にならなければ、いや、多分オペラばやり以後にならなければ、登場人物である庶民が知識人と同じ音楽を聴きにゆくことを読者は納得しないはずである。こんな調子で、社会小説的なものを書くことのむづかしさを漱石はいちいち味ははされ、それに恋愛小説の方もうまくゆきさうな気がしない。次第々々に、出だしのところでの大きな構へが重荷でたまらなくなり、早くそれを投げ出して楽になりたいと心のどこかで念じつづけてゐて、それで三四郎に東京からの富士を見させないことにしたのだらう。見てないと言はせるのではあまりに嘘つぽいので、あの山のことは忘れてゐたと言はせたのだと思ふ。
 そんな具合に処理するとき、心の底に、東京から富士が見えるのは当たり前で、何もわざわざ書きつけるほどのことぢやないといふ言ひわけがよどんでゐたとも考へられる。事実、明治の文学者の回想記類を見ても、富士山のことなどちつとも出て来ない。書いたらかへつてをかしいやうなものかもしれない。しかし回想記といふ半ば日常的な次元ではさうだとしても、小説の作中人物の場合は違ふ。その小説の世界である、格式の高い別乾坤に生きてゐる。漱石はその特殊な事情を何とかして忘れやうと務めてゐたらしい。すなはち富士山はまさしく、はじめは大事な手段でありながら次第に後退してゆく「日本の状態」の象徴のやうなものであつた。 
 それにもともと漱石には富士山に対するアンヴィヴァレントな感情があつて、もちろん愛着はあるけれども、それを素直に表明しにくく、また、表現の仕方がむづかしいのかもしれない。『英国詩人の天地山川に対する概念』(1893)といふ論文から推しても、彼は自然をワーズワースふうに人格主義的にみる態度に共感を寄せてゐたらしい。前にも引用したが、広田先生が「自然を翻訳すると、みんな人間に化けて仕舞ふから面白い。崇高だとか、偉大だとか、勇壮だとか」「みんな人格上の言葉になる」といふのはその反映だらう。しかし自分と富士山との関係はそれだけではないといふ気持もあつて、ただしそのさきの分析は面倒なため、はふつて置いたのではないか。と言ふのは、漱石は一方では江戸人の習俗に漬かつて育ち(それゆゑかへつてこれを意識化することは困難で)、他方では、時代的条件のせいで当たり前の話だが、ギルバート・マリやフレイザーなどのケンブリッジ古典人類学派には接してゐないため、自分の心の底にひそむ江戸人の心情を山岳信仰として明確にとらへることはできなかつたはずである。そこでこの山と自分との関係をうまく整理することができないまま、富士山論を語る広田先生と驚く三四郎、何かにつけて富士山を持ち出す広田先生と「丸で忘れてゐた」三四郎といふ二人に分けて出したのかもしれない。浜松の駅で、富士山をまだ見ないうちにそれが話題になつて、車窓から見る場面がないのが意味深長だけれど、漱石は登場人物とこの山が対面する場面をなるべくならよけて通りたいと思つてゐた、とも言へる。
 こんなふうに論じてくると『三四郎』に対する私の評価が低いやうに思はれるかもしれないが、もちろんそんなことはない。出だしのところを絶賛したい気持ちは変らないし、それに全体の調子がすつきりしてゐる。本当はこのことが大切なので、東京をあつかつて『三四郎』ほど粋な小説は私たちの文学に珍しい。大学の構内も、学生の下宿も、団子坂も、上野の美術館も、この小説のなかではロンドンの匂ひがする。それはつまり本当の都市的なものがここにはあるといふことで、さういふ感じに近いものとしてはさしあたり吉田健一の「東京の昔」を思ひ出す。不思議なことに漱石のこの長編小説は前まへから玄人筋に評判が悪く、そのくせ素人にはひどく好まれてゐると聞いたが、もしさうだとすればこの粋な感じが素人の心を魅惑し、玄人には嫌がられるのだらう。何となくわかる気がする。それこそはモダニズム小説といふもので、さう言へば『三四郎』には油絵の画家たちのいはゆる滞欧作を思はせるものがある。黒田清輝も東郷清児も、ヨーロッパにゐたころは粋な絵を描いた。
 それに言い添へて置かなければならないのは、作者が恋愛小説(?)に熱心になつてからも、ときどき「日本の状態」小説らしいふしは仄見えて、隠し味といふのかしら、この本の奥行きを深め、複雑な感じのものにしてゐるといふ事情である。外国人教授だけではなく日本人教授も迎へようといふ与次郎の企てとか、それに伴ふジャーナリズムの内幕とかもさうだけれど、例の美禰子の台詞「ストレイ・シープ」(迷へる羊)にしたつて、この線で考へるべきもののやうな気がする。すなはち、三四郎と美禰子の淡い恋といふ私的な文脈ではなく、近代日本の運命といふ公的な文脈でで。美禰子は小説の真中へんで自分と三四郎とを憐れんで、三四郎は終わりで美禰子の肖像を見て、「ストレイ・シープ」とつぶやく。あの台詞は在来とかく、キリスト教的に解されてゐるやうだが、出典と覚しきフィールディング『トム・ジョーンズ』(漱石酷愛の書!)第十八巻第八章のその箇所から推しても、もつと世俗的な感じである。宗教的ではない。美禰子が教会にゆく場面があるからと言つて、そんなものに気を使ふ必要はない。あれはおそらく明治末年の青春を、ひいては近代日本の運命を、ひいては近代日本の運命を、優しく憐れむ言葉なのだ。いささか舌足らずなものの言ひ方かもしれないけれど、何しろ明治の人間は無口だつたから、それはまあ仕方がない。鎖国からいきなり開国して帝国主義の時代に身を処してゆかなければならない幼い日本が、漱石にはいとほしくてならなかつたのである。」丸谷才一『闊歩する漱石』講談社文庫、2006年.pp.141-151. 

 20世紀の初めのロンドンにいた夏目漱石が、体験したイギリス社会は、ヨーロッパ最先進国の資本主義と都市化と、その後の2つの世界大戦にいたる現代社会の諸問題が出そろっていた。英文学も、19世紀の自然主義やロマン主義を脱して、新しい小説の萌芽が芽生えていた。漱石が、それをどこまで意識していたか、少なくとも丸谷才一は、多大な期待をもって読み込もうとする。


B.「前衛美術」の回顧と現在
 敗戦後の日本では、19世紀フランス印象派から20世紀戦間期の西洋美術、キュビスム、フォービスム、シュールレアリスム、表現主義などは入っていたものの、戦争で現代美術の満足な創作は難しかった。それが、敗戦で一気に欧米の前衛美術の情報が流れ込み、戦前からごく一部とはいえ現代美術の創作を試みていた人たちが、美術団体と展覧会をはじめた。「具体美術協会」は、大阪など関西を中心に活発な表現活動を展開し、リーダーの吉原治良によって1954年にはじまり72年まで続いた。

 「扉:「具体」未知なる美術の先駆  戦後関西の前衛美術集団「具体美術協会」は、型破りりな表現の数々で現代アートに新たな地平を切り開いた。時にインスタレーションやパフォーマンスの「先駆」などと語られ、欧米の著名な美術館に多数の作品が収まる「世界のGUTAI」を今、振り返る。
 すべて未知の世界への果敢な前進を具体美術は高く尊重する――。そんな宣言とともに、革新的な芸術作品を次々と世に送り出した具体美術協会は、画家で実業家の吉原治良(1905~72)が、阪神エリアの若手作家たちと結成したグループだ。その運動は戦後復興期の54年に始まり、吉原が没する72年まで続いた。今年は解散から50年の節目にあたる。
 戦前から前衛作家として活動し、戦時の閉塞感を肌身で知る吉原にとって、人びとの精神の自由を「具体的に」示すことこそ、戦後の芸術の使命だった。ゆえに吉原は年下の会員たちに向かってこう繰り返す。「人のまねをするな」「これまでになかったものを創れ」
 自由を求めて、既成の枠組みを飛び出した斬新な表現の数々。中でも具体の代名詞のように語られるのが、作家の身体や行為、素材の物質性などを強調した作品群だ。例えば、キャンバスの上を滑るように、足で絵の具を塗り広げる白髪一雄の「フット・ペインティング」。木枠に張った紙を自ら突き破る村上三郎のパフォーマンスは、見た目のインパクトに加え、空間に響き渡る巨大な音で鑑賞者の度肝を抜いた。
 電球や管球をつなぎ合わせた田中敦子の「電気服」や、ブリキ缶を並べた山崎つる子の作品など、身の回りの素材を用いて美術の定義を押し広げた例も少なくない。これらの作品は時に室内を飛び出し、公園や劇場、デパートの屋上でも展示が繰り広げられた。
 形式上の新しさを前面に打ち出した表現はしかし、当時の日本の美術界からは「思想や内容がない」などと批判された。だがある出会いを契機に、具体は海の向こうでその名を広めることになる。
 グループの活動を知ったフランスの美術評論家ミシェル・タピエが、自らの提唱する国際的な抽象絵画運動「アンフォルメル」に共鳴する動きとして、具体を評価したのだ。企画展への絵画作品の出品などを通じて、「GUTAI」はやがて前衛芸術の政界的な潮流の中に位置づけられる。65年には欧州の前衛グループであるオランダの「ヌル」、ドイツの「ゼロ」などとの合同展にも参加した。
 一方、62年には大阪・中之島に常設展示館「グタイピナコテカ」がオープン。会員や海外作家のの個展が定期的に開催され、米国の現代美術家ジャスパー・ジョーンズや作曲家のジョン・ケージらが訪れるなど、国際的な交流が育まれた。
 70年の大阪万博では、太陽の塔に隣接するお祭り広場で「具体美術まつり」を演出。巨大な帰休や消防車も使った大がかりで奇天烈なパフォーマンスショーは、具体のフィナーレにふさわしい祝祭となった。
 関西大学の平井章一教授(美術史)は「具体の作品には、会員の大胆で多彩な発想を吉原の審美眼が選抜していく、共同制作のような側面があった」と話す。
 会社経営者という顔も持つ吉原は、海外の高価な美術雑誌を広く買い集めるなど、同時代の前衛の情報に精通していた。グループの絶対的リーダーは、自らの知識と感性に基づき、会員らが持ち込む作品を評価。質や強度が不十分と見れば容赦なく「あかん」と突き返した。それでも若手作家たちが吉原を慕い続けたのは「彼が良いと言った作品パリの美術評論家もほめちぎるのだから、その目利きぶりは間違いないと思ったのでしょう」。
 72年の解散後も、個々の作家は具体時代に切り開いた表現をそれぞれの形で深化させていく。パリを拠点に活動する元会員の松谷武判(85)は、当時普及し始めたばかりの木工用ボンドを用いた手法を確立。有機的と評される独自の造形技法で、今なお新作を生み出している。「誰もやらないことをやろうと皆が必死だった。『おもろいやん、おっさん喜ぶで』。吉原先生に作品を見せる前、具体の先輩方にそう励まされたことを今も思い出します」
(文・西田理人 グラフィック・近藤祐)」朝日新聞2022年10月30日朝刊、27面文化欄。

 ぼくもこの9月、東北地方のある美術団体(もうじき100周年を迎えるというので歴史はある)に会員にしてもらった。ただ、その会員の多くは60代70代の高齢者で、若い人はごく少数だ。戦後から高度経済成長期は、美術団体も各地にあり、中高の美術教員に指導された若者が、美大をめざして公募展に作品を出品していた。団塊の世代はいろいろな分野で、戦後社会の活性化に貢献してきたといえるが、さすがにもうエネルギーは衰えてくる。日展を頂点とする公募展による美術団体という組織がこの先どうなるのか、その実態は社会学的には興味深いものがある。
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小説家の小説論・丸谷才一 2  漱石『三四郎』の富士山

2022-10-28 20:12:00 | 日記
A.漱石の苦悩
 明治の文豪、夏目漱石(1867年2月9日(慶応3年1月5日)~1916年(大正5年)12月9日)は、20世紀が始まったときにロンドンに留学して、大英帝国の象徴、ヴィクトリア女王の葬儀を見たといわれる。漱石という人の経歴をざっと見ておくと、以下のようなことが分かる。 
 漱石・夏目金之助は江戸が東京に改称される時、牛込馬場下町の名主の家で五男として生まれ、すぐに塩原家へ養子に出され、養母と共に9歳のときに夏目家に戻った。17歳で大学予備門予科(のち第一高等学校)に入学。成績優秀で1890年、23歳で創設された帝国大学英文科に入学、卒業後は高等師範学校で英語を教えるものの、神経を病み鎌倉で参禅などしたのち、1895年高等師範を辞めて松山の中学に英語教師として赴任。松山は大学予備門からの友人、正岡子規の故郷でともに句作に励む。翌年には熊本の第五高等学校の英語教師に転任。そこで貴族院書記官長の娘鏡子と結婚。そこで彼には大きな転機が訪れる。
 1900(明治33)年5月、文部省から英語教育研究のため、英国留学を命じられ、9月に単身で日本を出発。ロンドンでは文部省の留学費用が乏しいため大学には通わず、シェイクスピア研究家のクレイグに個人教授を受け、英文学の研究と書籍の蒐集に励むが、一人で下宿に籠って『文学論』執筆に取組むうち再び神経衰弱に陥り、1902年12月にロンドンを離れ帰国。国費留学生として2年3カ月ほどのロンドン滞在だった。ここまでの漱石は、英語教師であり英文学に通じた学者として、帝国大学で外国人教師ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)を引き継ぐはじめての英語教育者になることを期待されている人間だった。彼のノイローゼは、そうした国家が与える役割に自分を押し込めることの重圧にあっただろうと思われる。
 そして、高浜虚子から薦められ俳誌「ホトトギス」に1905年の1月、『吾輩は猫である』を気分転換の戯文として一回だけ載せるつもりで発表。これが好評を得て、続きを書き続ける。翌年2月、帝大、一高、明治大学講師などの一切の教職を辞め、朝日新聞社に入社して文筆生活に入る。これが作家漱石の誕生というわけだ。「坊っちゃん」は1906年4月、「三四郎」は1908年9~12月連載である。
「猫」から最後の「明暗」にいたる小説を書き続け、亡くなるまで11年間の作家活動は日本文学史に残る偉大な名前としていまも話題になる。それは、初期の「猫」や「坊っちゃん」の軽快な娯楽作にはじまって、やがて重厚な問題作を連ね、最後は西洋近代文学の達成(それを「純文学」などと呼んだが)に至った進化とみる漱石論があまたある。しかし、丸谷才一『闊歩する漱石』は、そのような視点はとらず、漱石のロンドン留学時点に遡り、さらに当時の最先進国であったイギリス社会の風俗と変化を見ぬくなかから、漱石の初期の3作品を論じる。

 「ヴァージニア・ウルフが自分たちの立場を擁護した講演『ミスタ・ベネットとミセス・ブラウン』(1924)のなかに、「1910年12月に、あるいはほぼそのころに、人間性は改まつた」といふ殺し文句がある。これは1910年5月にエドワード七世が亡くなったことを指すのではなくて、10年11月から翌年1月まで、ロンドンのグラフトン・ギャラリーで第1回後期印象派展(セザンヌ・ゴッホ、マネ、マチス、ピカソ、ヴラマンク、ルオーなど)が開かれ、フランス絵画の新傾向をはじめて紹介して、大反響を呼んだことを踏まへてゐる。出品作品を選んだのはウルフの友人、ロジャー・フライ。ウルフはイギリスの知識人たちがこの時に受けた伝説的な衝撃を逆用して、自分たちの新しい小説の作風を宣揚しよふという作戦。かうして新しい小説の性格は、必然的にアヴァン・ギャルド絵画のそれに近づけられ、過激な実験性といふ局面だけが意識された。モダニズム小説といふ概念はジョイスやウルフの作品を中心にすることになり、その全盛期は、ジョイス『ユリシーズ』(1922)、ウルフ『ダロウェイ夫人』(25)、『燈台へ』(27)などの出た1930年代からジョイス『フィネガンズ・ウェイク』の39年にかけてといふことになる。戦前の文学史の常識はほぼこういふ見通しのものだつたらう。
 しかしこの見方は徐々に改まつて来て、今では、1880年ごろからモダニズム小説ははじまり、世紀の変わり目(the turn of the century)のころにはそれがかなり有力になつたといふのが定説になつてゐる。つまりモダニズム小説誕生の日付けはくりあげられ、それにつれておのづからこの流派はもつと穏健な技法のものまで含むことになつた。ヘンリ・ジェイムズとか、コンラッドとか、当然E・M・フォスターも、ジョイスやウルフと並んでモダニズムの作家に入れられる。
 ここで念を押して置きたいのは、漱石が文部省留学生としてロンドンに滞在したのはまさしくこの、世紀の変わり目だつたといふことである。彼は1900年10月にロンドンに着き、02年12月にロンドンを去つたのだから、モダニズム小説が形成される重大な時期にその渾沌の中心にゐたことになる。しかしこの、世紀の変わり目であり小説の変わり目である時期、ちょうど文学革命の首都に居合せた、やがて日本の小説の代表的な作家になるこの男のことは、あとで詳しく調べることにして、ここではとりあへず、一体なぜこの二十年間イギリス小説に大変革が訪れたのかといふ話をしなければならない。やはりそれは今ここで言って置くほうが具合がよささうだ。大筋のところはマルカム・ブラッドベリの説に寄りかかり、主として彼の書いた箇条書きを敷衍するやうな形で、そして敷衍するに当たつてはいろんな本で知つたことを補ひながら、記すことにしよう。
 ブラッドベリは社会的なもの、知的なもの、心理的なもの、そして文学それ自体の変化による理由、と四つに分けて説明してゐるが、まづ(1)社会的理由。
 十九世紀後半における科学技術の発達は目覚ましかつた。パラグラフは1967年から81年まで、わづか十五年間に出現したものだけでもかうなると言ふ。
 内燃機関
 電話
 マイクロフォン
 蓄音器
 無線電信
 電燈
 機械化された公共交通機関
 空気入りタイヤ
 自転車
 タイプライター
 安価な大量販売用新聞印刷用紙
 最初の合成繊維
 人絹
 最初の合成樹脂
 ベークライト
 かういふものの発明者、改良者が、イギリス人だけだつたわけではもちろんないが、イギリスの工業力と自由貿易政策による国力が、諸国の技術者を非常に刺戟した。82年以後は帝国主義が作用して産業の発達を促し、そしてまた今度はそのせいで侵略や国家間の競争がいよいよ激化し、ひいてはさういふ条件すべてが、バラクラフのいはゆる「第二次産業革命」となつてイギリス社会にすさまじい影響を及ぼした。
 工業技術の躍進は、当然、大企業の設立をもたらし、この結果、都市の人口はいちじるしく増大した。ちようどそのころ、衛生学と医学の発達によつて死亡率がうんと低下したのだが、それでふえた分の人口が都市に移った形になつてゐる。この都市人口の増加は、社会学的に見てきわめて重要な要素であつた。言い落としてならないのは、都市に移つた労働者層を含んで、国民全体が徐々に豊かになつたことである。個人の富がゆるやかに上昇した。
 それに、このころ閑暇がふえた。これについては後に首相になつたバルフォアの逸話がおもしろいが、彼は91年に院内総務に選ばれると、それまでは水曜日が議会の開会時間の短い日だつたのを、金曜日に移すことにした。バルフォアはゴルフが大好きだつたからである。彼の個人的魅力がすばらしかつたので、社交界は彼にぞろぞろついてゆき、このため田舎の館で週末を過ごすといふ風俗が生まれ、週末といふ制度が確立した(バーバラ・W・タックマン)。
 このころ学校教育が整備され、識字率が上つた。イギリスは言ふまでもなく最初に産業革命をはじめた国だが、このことがかへつて裏目に出たらしく、少年少女の教育よりもむしろ彼らを工場に傭つて働かせることに熱心になり、識字率が低かつた。これは何とかしなければならないとしきりに言はれたあげく、70年にフォースター法が出来て、初等教育が充実され、識字率は上昇した。つまり都市に流入した大衆の文化水準はこの三十年間にずいぶん向上したと推定される。
 その次が難物なのだが、階級関係が変化した。難物といふのは、イギリスが名だたる貴族支配の国で、それは今でも続いてゐるからである。が、その一方で、十九世紀最後の二十五年間、大衆が貴族を脅しはじめたとはたしかに言へる。もちろんイギリスの政治はデモクラシーだけれど、氏素性、財産、社会的威信などを尊び、それによつて政治をおこなふデモクラシーだつたのニ、何度も何度も選挙法を改めてゆくうちに(改めるやうにされてゆくうちに)、大衆デモクラシーの色調を濃くして行つた。この形勢は、1905年におけるバルフォアの敗北で決定的になるだらう。
 次は(2) 知的理由 
 まづヴィクトリア朝的世界観が衰退した。ヴィクトリア朝的世界観には、「進歩」への信頼とか、帝国主義とか、偽善的な道徳とか、いろいろな局面があるけれど、根本のところにあるのはキリスト教的な立場である。1800年にはイギリス中の人が聖書を真に受けてゐたのに、1900年になると、聖書に書いてあるのは本当のことばかりとは誰も思わなくなつた、などと言ふ。これはどちらもちよつと大げさか。しかし十八世紀の終わりの年の人々は、比喩的に言へばサンタクロースの実在を信じたいと思つてゐる子供の屋う名もので、その百年後の人々は、サンタクロースなんてゐるもんかと笑ふ大きな子供、といふ見立てならかまはないだらう。
 決定的に作用したのはもちろんダーウィンの『種の起源』(1859)で、当時、ある気の弱い信者が、
 「主よ、進化論なる説が本当でありませんやうに。もし本当なら、その説ができるだけ世間の評判になりませんやうに」
 と祈つた、とバジル・ウィリーの本にある。この思想史家はどうやら実話だと思つて書いてゐる様子だが、イギリス人にはこういふ冗談の名人がごろごろしてゐるのだ。とにかくダーウィンの本は社会全体に対してゆるゆると効いて行つて、80年以後は強烈に作用し、人々はキリスト教の神を疑ふやうになつた。いはゆる「神の死」である。
 進化論によつて神は、人間を創造したといふ資格を失なつた、あるいはすくなくとも失ひかけたわけだが、これは自然科学がキリスト教に与へた第二弾で、これより遥かに以前、天文学は、天地の創造者といふ資格を神から奪つてゐた。そしてダーウィンと相前後して、いはばこの生物学者と協力するやうな形で、地質学や医学や人類学その他さまざまな科学が、聖書の記述を覆した。それは素朴な段階での反證にすぎないとしても、しかしかへつてそれだけ、かつて宗教の持つてゐた圧倒的な権威をゆるがしたのである。
 さらに自然科学の刺戟もあつて、心理学、社会学、文化人類学など、人間くさい科学が着実に位置を得て行つた。これが価値の多元化をもたらし、宗教の地位を低めた。
 一体に人生が物質的な面からとらへられるやうになつた。唯物論的ヴィジョンがものの見方を染めた。
 (3) 心理的理由 
 まづ人間関係の性格が変化した。もともと村といふ共同体から離れて都会へ流出し、そして村の伝統的な習俗および村の教会と別れて、もう教会へゆかなくなつた人々で成立してゐる社会なので、個人といふものが強く意識されるやうになつた。人々はいはば群衆のなかの孤独な存在となつた。
 性的関係も、もちろんそれ以前と比較してだけれど、掟がゆるんでゆき、もつと自由でもつと率直なものに変わつた。
 一般に意識が改まり、アイデンティティが、失はれたとは言はないまでも、薄れたり、にじんだりして行つた。
 時間に対する感覚や意識が変化したことも大きい。90年代に自転車乗りが盛んになつたころ、自転車があまり早いので(徒歩より四倍速い)、風圧のせいで顔がゆがむと言はれ、「自転車顔」(bidydle faceだらうか)といふ言葉が出来たさうだが、これでわかるやうに、新しい速度がとつぜん日常生活のなかに闖入した。
 このへんはほぼスティーヴン・カーンの『時間の文化史』によつて記すのだが、人間は速度に憑かれるやうになつた。あるいは、技術の発達がそのことを可能にした。ドイツの心理学者ヘルバハは『神経衰弱と文化』(1902)のなかで、神経衰弱は1880年にはじまるもんどえあり、その原因の一つは輸送と通信の早さによる緊張、興奮、不安であると主張した。
 しかしもつと本質的な時間意識の問題もある。十九世紀においては、時間は過去から未来へと直線的に、しかも均質に、進んでゆくものとしてとらへられてゐた。時計の文字盤はその格好の表示だつたし、進歩史観やマルクシズム史学の発展段階説は基本的にはその種の時間論にもとづく。ところが世紀末のころ、社会学者や人類学者が原始社会を調査し、精神病医が患者を研究して、時間がさういふ単純な性格のものではないことがわかつた。そのころ映画技法は可逆的な時間を発見したし、そしてH・G・ウェルズは『タイム・マシーン』(1895)を書いて、別の時間把握を示した。さう言えばスティーヴンソンは1880年代に書いたらしいごく短い文章のなかで、人間にとつての本当の時間の流れは時計だの暦だのとは関係のないものだと言ってゐた。これらの現象は、西欧人が一般に、十九世紀的時間解釈に不満をいだいてゐたことの結果であつた。」丸谷才一『闊歩する漱石』講談社文庫、2006年、pp.120-128. 

 ここで丸谷がモダニズムとよぶものを、西洋近代のゾラやスタンダール、あるいはフローベールのような「近代小説」と重ねると、この説明は混乱する。丸谷の「モダニズム」ははむしろ、そうした19世紀小説を否定し乗り越えようとした、20世紀初めのジョイスとかヴァージニア・ウルフなんかの小説のことを言っている。よく読むとわかるが、それはイギリス社会の変化とそれを敏感に反映した小説の新潮流なのであり、漱石はまさにその胚胎期にロンドンにいたのだ、というわけなのだろう。
 富士山を日本の象徴としても、それは日本人が作ったわけではない、自然にあるだけだから自慢にはならないという「三四郎」冒頭の広田先生の言葉。そういっておいて、三四郎は東京から富士山を見ないし、小説中にも富士山は出て来ない。丸谷才一はそこを逆に深読みする。


B.身体からの記憶と運動
 「バカの壁」で知られる養老孟司先生は、相変わらず元気に昆虫採集をされているようで、まことに慶賀にたえない。

 「身体動かし得た経験 大切に  共感できる情報ばかりなら 頭は固く :養老孟司さん
 僕にとって、解剖学とは、いわば方法論です。解剖するものは、カエルでも、昆虫でも、永田町でも名でもいい。観察して、分類して、概念化する。この見方を学んだので、色んなことを考えることができる。
 例えば、哲学でさえ、誰かが言ったことを暗記しているだけの人もいる。それでは役に立ちませんよ。
 そうではなくて、その人の考え方を応用することが大切です。方法を学ばないと、何も学んだことにはなりません。
 「どうして解剖学を学んだのか」とよく聞かれますが、その質問には、人間の選択について「意識的に理由が説明できる」と言う前提がありますね。やっかいなことを言って申し訳ないが、人が何かをする理由は、そう簡単にわからない。様々なことの積み重ねです。
 昼飯でカレーか、ラーメンか選ぶ時に、その理由を答えられる?3日前に同じもの食べたから嫌だとか、色んなことが絡んでいる。様々なことが総合して、決断をしたのではないか、というのが僕の考え方です。
 人間の活動の大部分は「意識」に基づきます。しかし、この世界は、論理一辺倒、人の意識だけでできていません。全てのものごとを言葉にできるとは限らない。それが「バカの壁」になる。
 そうした考え方を身につけるためには、身体を使うことが重要です。ガスや電気が止まった時に、火をおこせるのか。トイレがない時、穴をどう掘るのか。そういうことから学びは始まると思っている。都市化が進み、身体を動かして経験から学ぶことが軽視されていることに、危機感を感じています。
 僕は子どものころからずっと、昆虫採集をしています。最近も、虫を探しにラオスに行ってきたところ。長年、保育園の理事長などをしていて、子どもたちに虫のことを教えてきました。虫を知ろうとすると、植物や地質も知らなくてはいけないから自然への関心がわく。天気、風、湿度にまで感覚が広がっていく。意識化されない、ものごとを感じ取る力が見につきます。
 僕は小学校2年生の時、終戦を迎えました。常識は百八十度変わり、今の日常とされる生活はありませんでした。当時は、本も、紙もなかった。古本を読んでいました。衣食住に事欠く状況で、学びとは、生きるために必要なものでした。体を使って動き、自分で考える状況がありました。
 便利な時代になった。逆に何が必要かよく見えない時代でもある。ネットに情報はあふれているが、共感できるものばかり見ていたら頭は固くなるよ。
 社会のシステムが大きくなり、安定はしているけれど、自分が働いた結果がどう自分に返ってくるか、よく見えない社会になってしまっている。その分、参加している人の生きがいや素朴な感覚が失われてしまっている面もあると思います。大学の時の先生がよく、「教養とは、人の心がわかること」と言っていました。
 コロナ禍やウクライナでの戦争など、予想もしていなかったようなことが起きる時代でもあります。ただ、メディアが報じても、実感が伴わないことも多い。そこを埋めていくのが、想像力だと思います。
 日常生活で見過ごしている当たり前のことは、案外、複雑にできていて大切です。当たり前のことが、当たり前でないと気付くためにも、学ばないといけません。 (聞き手・宮田裕介)」朝日新聞2022年10月26日朝刊、24面教育欄。
 ぼくは若いとき山登りをしていたので、電気もトイレもない自然の中で、どうやって生きるか、身体で憶えている。だからときどき食糧危機や電気も電車も止まったらどうするか、具体的に考えてみる。3日くらいならとくに困らないだけの用意はある。養老さんもそこは大丈夫だろう。
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小説家の小説論・丸谷才一 1  漱石『坊っちゃん』の列挙  哲学のことば

2022-10-25 11:19:21 | 日記
A.丸谷才一『闊歩する漱石』のこと
 小説家・丸谷才一について、以前ちょっと触れたことがある。この人は、1925年にぼくが今これを書いている山形県鶴岡市に生れ、旧制新潟高校から戦後東京大学にすすみ、文学部英文学科を卒業した。1968年『年の残り』で芥川賞受賞。その後、『たった一人の叛乱』で谷崎賞、『忠臣蔵とは何か』で野間文芸賞、『樹影譚』で川端賞、『横しぐれ』英訳で英紙インデペンデント外国小説賞特別賞、『新々百人一首』で大仏次郎賞、『輝く日の宮』で朝日賞、泉鏡花賞など受賞多数と、小説、評論、翻訳、俳句、古典研究など多くの著作を残した。だが故郷の鶴岡は嫌っていて、文化勲章までもらっていながら、同郷の作家・藤沢周平とは違って故郷を悪しざまに言ったため、庄内では評判が悪い。この人の家は、庄内藩の藩医をつとめた医家で、父も鶴岡の開業医だったらしいが、医者にはならずに英文学、そして小説家になった。
 この『闊歩する漱石』は、講談社文庫になっているが、もとは1998年7月号の「現代」に発表した「『坊っちゃん』と文学の伝統」(改題として本書第1章「忘れられない小説のために」)、1999年4月の「文芸春秋」に発表した本書第2章「三四郎と東京と富士山」、2000年2月号の「現代」に発表した本書第3章「あの有名な名前のない猫」の3つをまとめて、2000年7月に文庫化されたものである。『坊っちゃん』と『三四郎』と『吾輩は猫である』という夏目漱石の初期の3作について、独自の考察と見解を提示したもので、ぼくはこんな著作があるのを知らなくて、たまたま図書館でみつけて借りてきた。
漱石論といえば、多くの研究家が、彼がノイローゼになったロンドン留学から戻って、気晴らしのために『猫』を書き、やがて東大を辞めて朝日新聞の専属作家になり、十年ほどの期間に多くの小説を書いて日本文学に名を残した軌跡を、大衆向けの娯楽小説から初めて、西洋近代小説へとすすみ、『それから』『門』『心』と男女の三角関係の物語を書き、最後の『明暗』で本格的な家族の心理小説に到達して世を去ったことを、苦悩する知識人、森鷗外とならんで西洋の真髄と格闘した偉大な文豪として讃えていることはよく知られている。
しかし、丸谷才一は漱石を、英文学の本場ロンドンで当時隆盛を極めていた19世紀小説ではなく、18世紀の文学を研究することで、西洋のあらゆる形態の文学と向き合い、これを日本でやることはほぼ不可能だと考えてノイローゼになった、という指摘を、20世紀初頭までの英文学から読み解き、初期の3つ小説をユニークな視点で捉えなおす。このこと自体とても面白いので、大岡昇平の『現代小説作法』に続いて、このブログで紹介してみたい。文庫には和田誠の表紙と挿画もついていて楽しい。まずは、第1章の『坊っちゃん』論である。

「『坊っちゃん』のことに戻ります。
 しかしその前に一つ、漱石伝の重要事項に触れて置かなければならない。漱石は『文学論』の序文で、自分は若いころ漢籍を読むのが好きだった、それで、「文学は斯くの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり(「左国史漢」は『春秋左氏伝』と『国語』と『史記』と『漢書』、日本の学者は古来、これらの史書に通暁することを重んじた)。ひそかに思ふに英文学も亦かくの如きものなるべし」、そこで英文科にはいつたのに「卒業せる余の脳裏には何となく英文学に欺かれたるが如き不安の念あり」といふことになつたと述懐してゐる。これは有名な箇所です。そして漱石はロンドンに留学してイギリス嫌いになつたし、しきりに余裕の文学を説いて俳語や漢詩の境地を推賞したし、それからこれは晩年ですが、午前中は新聞小説を書き、午後は漢詩を作って心を慰めた。ここから人は、漱石における東西文学の対立といふ図式を引出しました。あれだけの俊秀があれだけイギリス文学を勉強しても日本人だからやはり東の文化が性に合ふのだ、しよせん日本人はビフテキではなくてお茶漬けの味だなあといふわけです。
 これは昭和にはいつてからよく言はれた「日本への回帰」とよく似てますね。まるでその先輩のやうである。「日本への回帰」といふのは、青春のころ西洋文学に心酔してその圧倒的な影響下に仕事をしてゐた文学者が、中年になると自国の伝統に目覚め、日本美を追求する、といふ傾向を指す。その代表者としては谷崎潤一郎における悪魔主義から『春琴抄』『蘆刈』『陰翳礼讃』などへの転回、さらには萩原朔太郎における世紀末的頽廃から蕪村と王朝和歌の再評価への回心をあげればいいでせう。この動向に対して萩原自身が「日本への回帰」と命名したのでした。
 しかし文学者が自国の古典文学に対して関心を持つのは当たり前である。むしろ無関心なほうが以上ではありませんか。イギリスの現代作家でシェイクスピアに親しんでゐなかつたり、ダンを知らなかつたりしたら奇怪なことでせう。ところが、戦前の日本文学では、自国の古典を読む小説家なんてまつたく例外的な存在だつた。変わり者もいいところだつた。国文学史と近代文学史と二本立てで行つてゐることでもわかるやうに、明治維新以前の文学は作家にも詩人にも劇作家にも無縁のものだつたのです。たとへば谷崎潤一郎訳の『源氏物語』にしても、文学の現場にはかかはりのないものでした。日本の古典が批評家や小説家の関心を惹くやうになつたのは、小林秀雄の『無常といふ事』ではないかと思ひます。その意味で彼の功績はじつに大きかつた。
 かういふ事情を頭に置いて考へると、「日本への回帰」といふとらへ方の歪み具合もよく見えて来る。つまりあれは、日本の文学者としてごく当然なことをしたのに、自分も他人も、これはすごい事件だし大変なことだぞと受け取つたのだつた。ごく正常なことなのに異変として反応したのだつた。この誤解の背景には、西洋文学と近代日本文学との特殊な関係があります。
 日本が西洋と本式に出会つたのは十九世紀。そして十九世紀西洋の合言葉は「進歩」で、自分たちは人類文明の頂点に立ってゐると自負してゐた。この傲慢さのせいで、過去を軽んじる一種の反伝統的な気風が生じたのは必然の結果でした。もちろん、昔ごころが残ってゐるヨーロッパですから、いろいろ歯止めはかかつてゐたにしても。ところが西洋文学の日本移入はそれ以前の文学を断ち切り、無視しての、十九世紀文学だけの摂取でしたし、その新文学の底にひそんでゐるギリシア、ローマ以来の古典主義の骨格は目にはいらなかつた。かういふ浅薄な師事の結果、日本の文学者は概して、西洋とはすなはち西洋十九世紀のことと思ひ込んでゐたのです。東・対・西とはすなはち、悠久の東洋・対・俗悪な進歩の時代といふことだつた。古代以来の長い長い時間とわづか一世紀(それも極めて例外的な百年間)とを比較したわけです。漱石が左国史漢と英文学とを対比させたのは、この図式を典型的に示してゐます。
 西洋十九世紀文学は、写実主義、個人主義、反伝統主義などを基調にしてゐました。そしてこの風潮が全盛をつづけたあげく、世紀末のころからやうやく、これに対する反逆と挑戦の動きが出て来ました。この傾向の大成したものがいはゆるモダニズム文学ですが、この流派の特色としては、さしあたり、神話的方法の採用をあげれば話が呑込みやすくなるかもしれません。
 これはワグナーのオペラに刺戟を受けたと言はれるものですが、たとへばジョイスの『ユリシーズ』やエリオットの『荒地』のやうに(さらにはヴァレリーだとか、ジッドだとか、トーマス・マンだとか、際限なくあげることができますが)、現代人の生活を神話の神々や半神半人や英雄のそれに見立てたり、あるいはぢかに神話をあつかつたりして書く方法である。ジョイスやエリオットは文化人類学者フレイザーの『黄金の枝』を非常に参照しましたし、トーマス・マンの相談相手は神話学者カール・ケレーニでした。この方法でゆけば、現代の市民の日常生活が普遍性や威厳を併せ持てるし(写実主義の克服)、共同体的なものを恢復できるし(個人主義からの脱却)、そして古来の文学の風趣を継承することができる(反伝統主義の解消)。ジョイスにおけるブルームのダブリン彷徨をオデュッセウスの復員になぞらへる見立ても、エリオットにおける故事の頻出、数多くの引用句も、みなこのための工夫でした。
 日本のモダニズム文学としては、普通、初期の横光利一、川端康成とか、伊藤整とか、それから西脇順三郎などが代表とされますが、西脇以外の場合には神話的方法がはつきりしないし(ただし横光に『日論』があるか)、伝統的なものの採用も目立たないでせう。しかしもつと年齢が上の谷崎や萩原の場合も視野に入れて考へればどうでせうしか。『蘆刈』において後鳥羽院の豪奢を極めた宮廷生活を詳しく叙するのは、やがてお遊様の妹夫婦にかしづかれての暮らしぶりを読者に納得させるための容易で、これは一種の神話的方法と見ることができさうだし、『郷土望景詩』その他の慷慨体漢詩調はパスティーシュによる伝統の利用となるでせう。さういふ見方でゆけば、谷崎の『陰翳礼讃』や萩原の一連の評論は、モダニズム文学の主張そのものとなります。すなはちわたしは、いはゆる「日本への回帰」を、在来の通説とは違つてモダニズムの一現象としてとらへたい。文学史家たちは、世代論的な見方にこだはつて、大正期に登場した文学者たちがモダニズムに属するなどあり得ないと思つてゐるらしいが、しかしヨーロッパのモダニズム文学は支配的な文学運動でしたから、その影響力ははなはだしく、日本の文学史家が考えてゐるやうな狭く限定されたものではなかつた。現に芥川龍之介は1919年(大正八年)、ジョイスの『若い芸術家の肖像』を丸善で入手してゐる。彼の最晩年の自伝的作品には、案外、ジョイスの影響があるかもしれない。殊に『或阿呆の一生』の第六章、

 彼は絶え間ない潮風の中に大きい英吉利語の辞書をひろげ、指先に言葉を探してゐた。
 Talaria 翼の生えた靴、或はサンダアル。
Tale 話。
Talipot 東印度に産する椰子。幹は五十呎(フィート)より百呎の高さに至り、葉は傘、扇、帽等に用ひらる。七十年に一度花を開く。……
彼の想像ははつきりとこの椰子の花を描き出した。すると彼は喉もとに今までに知らない痒さを感じ、思はず辞書の上へ啖を落した。啖を?--―しかしそれは啖ではなかつた。彼は短い命を想ひ、もう一度この椰子の花を想像した。この遠い海の向うに高々と聳えてゐる椰子の花を。

における言葉への執着は、「肖像」のスティーヴン・ディーダラスをまつすぐに連想させる。そして宮沢賢治とアルノー・ホルツ(1863~1929)との関係については植田敏郎の卓抜な研究があります。ホルツはドイツの詩人、劇作家で、自然主義から出発して印象主義や表現主義と進んだ人ですが、1920年(大正九年)刊の山岸光宣『現代の独逸戯曲』のなかで「深厚な社会的同情と、鋭敏な直覚力と、近代的宇宙観と豊富な創作力」(まさしく宮沢賢治!)を備へてゐると紹介された。盛岡高等農林学校でドイツ語を学んだ青年は、この本を読んで刺戟され、ホルツの詩集を買つた(蔵書目録にある)のだらうし、さう言えばホルツは好んで方言を用ゐるし、政治、社会、科学の専門語を平然としてまじへるし、造語を辞さない点でも宮沢とよく似てゐる、と植田は指摘するのです。
ところで前にもちよつと言ひましたが、モダニズムには二面性があるんですね。前衛的であることと伝統的であることとの二面性です。これが一番はつきりしてゐるのはジョイスとエリオット。彼らはどちらも、古典を受けついでしかも新奇な工夫を凝らすといふことをした。彼らにおいては前人未踏の新境地を拓くことがすなはち文学的正統を継ぐといふことであつた。そしてこれは、彼らほどこの二面性があらはでない文学者たち、たとへばプルーストやカフカにおいても、子細に調べれば充分に納得のゆくことなのです。
このことを踏まえて考へれば、モダニズムとは古典に学ぶことであるといふ逆説的な定義が成立する。この場合大事なのは、東とか西とかいふ地域性にとらはれない文学の正統であつて、つまりもつと普遍的な、かつてはどの国の文学にもあつたに相違ない古典主義的なものを新しくよみがへらす流派がモダニズムなのである。
とすれば、谷崎や萩原の「日本への回帰」が実はモダニズムの一形態であつたと言へるはずです。事実、彼は1900年から02年までイギリスに留学して、世紀末文学からモダニズムが成立するころのロンドンに居合せた。この時期は、シリル・コナリーの要約によれば、「パリは特に絵画において先導し、しかしロンドンは三分の首都となり、920年までそれでありつづけた」。1890年代から二十世紀初頭にかけて、イギリス小説が大きな転回をおこなつたと見るのは今日の文学史的常識ですが、さういふ、モダニズム文学がいはば前史の段階を脱して本格的にはじまるころのロンドンで生き、そしてそのイギリス小説の大転回あるいはその萌芽の状態に立合つて、その体験を東京に持ち帰つたのが三十代後半の漱石でした。この、プルーストより四歳上、ジョイスより十五歳上の男は、東京に帰つて数年後、プルーストやジョイスに先んじてモダニズム小説を書いたとわたしには見えます。
『坊っちゃん』についての私の意見は、かういふ大きな文脈のなかに置いてお考へ下さい。わたしは主人公の言ふ罵り言葉の列記に端を発して、世界文学におけるエヌメラチオ、日本文学の物づくしの歴史を概観しました。『坊っちゃん』の何行かを例に引いて何といふ大げさな藩士だと呆れる方もあるかもしれない。しかし、そのわづか二、三行の背後には、一方には人類全体の文学の長い伝統が控えてゐるし、他方には、ちようどそのころから世界的に盛んになつてゆく、そしてやがて二十世紀の文学全体を指導する、モダニズムが位置を占めてゐる。その「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、香具師の、モゝンガーの、岡つ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴」といふ台詞を、あの珍妙な武器としての生卵および蝗と並べ、その武器のパロディがいはば象徴である擬英雄詩的乱闘場面を念頭に置き、さらには綽名の多用、典型としての人物を描く描く方などといつしよにするとき、あるいはさらにプルーストの「土地の名」、物売りの声づくし、ジョイスのいろいろなリスト、諸国語合成による雷鳴などを思ひ浮かべるとき、わたしたちはそこに、反十九世紀文学の姿勢をはつきりと見ることができるのです。
 これは自然主義の作家たちにとつて、不愉快きはまることでした。当然ですよね。彼らの目ざす(そしてなかなか上手に模倣することができない)西洋十九世紀の写実主義小説の型があつさりと否定されてゐるのだから。彼らにはその新しさはわからず、むしろ古く見えたのぢやないでせうか。それなのに漱石の作品は人気がある。そこで「高等落語」とか何とか悪口を言つて、自分を慰めたのでした。
 残念なことに、後期の漱石にはモダニズム文学の色調が薄れます。むしろ自然主義への接近が見られて、たとへば最後の作品である『明暗』など科学(医学)的真実の探求といふ点で日本自然主義のもつとさきを行つているやうである。初期の漱石にみなぎつてゐた祝祭的文学観は失はれて、じつに不景気なことになつてしまつた。 
 だが、それは後日譚に属します。ここでは大切なのは、モダニズムのごく初期の段階において、世界にさきがけてと言ひたくなるほど、モダニズム小説の名篇を少なくとも三つ書いた、夏目漱石の偉大といふことである。すごい才能ですね。彼は十八世紀に学んで十九世紀逆らふといふ手を編み出し、それを見事に実行した。そのことの端的な證拠として、あの『坊っちゃん』の、生卵と悪口づくしがあります。」丸谷才一『闊歩する漱石』講談社文庫、2006年、pp.83-93.

 丸谷才一の文章は、旧カナ遣いで書かれているので、慣れないとちょっと読みづらいが、彼は英文学と言ってもイングランドではなく、ジョイスやエリオットといった一風変わったというか、アイルランドやスコットランドで非常に意識的に文学的実験をやった作家を熱心に研究したり翻訳したりしたので、19世紀の主流の西洋近代小説は写実主義・自然主義であり、これに反して古典と前衛、伝統と革新を追求した小説をモダニズム文学と呼ぶ。そして漱石の初期作品は、そうしたモダニズム小説の名編を書いたのだという。この見解は、かなりユニークというか、通説を覆すものだ。『坊っちゃん』論は、中に出てくる[罵り言葉]の羅列enumerationについて、歌舞伎から西洋古典まで延々と事例を渉猟して続く。多分書いている丸谷が一番面白がっている。


B.語原探訪
 こちらも言葉の問題を扱った文章だが、哲学者の鷲田清一氏の「語源」探訪である。言葉というものは、だれかがある時、すでにある言葉や慣用句をいじくって、新たな意味や解釈を付け加えたことで、豊富化され、またもともとのその言葉の意味を変えてしまうというのは、おそらくどこの国の言語でも現在進行形で起こっていることだろう。「今年の新語・流行語大賞」などというものが発表されるように、言葉はつねに移り変わっていく。若者が発明して流行っている言葉を、年寄りが「そんな言い方は間違っている。本来はこういうのが正しい」などと言っても、一度流通した言葉はやがて定着し、そしてまた消えても行く。「ウッソー!」「まじ!」「ヤバ」などは完全に流行語の段階をこえた。だからこそ、語源に遡って考えることの意味も奥深いのだ。

 「義務を果たしあう精神こそ コミュニティ再考  鷲田 清一
 語源を調べるのが好きなほうだとおもう。ただ、語源というのは確定がとてもむずかしく、日本語の語源辞典を開いても、語源の候補とされるものが十以上載っている項目も少なくない。
 だから、立論に都合のよい語源をつい探してしまう、そんな危うさもあって、ここは気をつけなければならないが、それでも語源を調べてみたくなるのは、じぶんの凝り固まったものの見方、じぶんのなかの根深い思い込みに気づかせてくれるからだ。
 わたしの場合、若い頃から、哲学のさまざまな問題に取り組むときに、主題となる概念の語源を調べることで助けられたことが多い。
 たとえば、〈身体〉を論じたときは、日本語の「身」にボディという物体的な意味がごくわずか例外的にしか存在しないことが、〈顔〉を論じたときは、「おもて」が仮面と素顔の区別なしに用いられることが、ものの〈現れ〉の構造を論じたときは、「かげ」が影と形をともに意味することが、〈ことば〉を主題にしたときは、「かたる」が語るであるとともに騙るでもあることが、わたしの目線からいくつかの執拗な先入見を取り外してくれた。
 同じことはわたしたちがあたりまえのように使っている外来の概念についてもいえる。例えば「共同体」と「免疫」、コミュニティとイミュニティが語根を共有していることが何かしらずっと気になっていたのだが、しばらく前、イタリアの思想家、ロベルト・エスポジトに「自由と免疫」という論文があるのを知り(『近代政治の脱構築』という邦題のついた彼の論文集に、岡田温司役で収録されている)、引き込まれるように読んだ。そこではコミュニティの語源が現代の自由論に迫る発想の転換が強く打ち出されていた。
 コミュニティ(共同体)は、「共通・共有の」を意味するラテン語の「コムーニス」に由来するが、この「コムーニス」はさらに贈与や義務を意味する「ムヌス」にできる。このことにもとづいて、エスポジトは、現代のコミュニティ論は倒立しており、それを元のかたちに反転させる必要を訴える。わたしたちが共同体のメンバーであることは、現代ではある生活の形式や価値感を共有していることとして、いわば共同体への各人の「同一性」の根拠という文脈で論じられるのだが、語源的にはじつは反対に、各人が自己の内に閉じこもるのではなく、むしろ自らを他者たちへと開き、そこでを相互に果たしあうことを意味するというのである。そして「自由」もまたおのれに帰属するものをおのれの意のままにできるということではなく、逆にじぶんをその外部へと開いてゆくこと、その意味でじぶんという囲いを放棄し、それから解放されることをこそ意味するのだという。
 〈私有〉ということに異様なまで厳格にこだわり(私的な所有を意味するプロパティは、自己の存在の固有性をも意味する)、のものの管理・運営を行政機関に委せきりにする現代の地域コミュニティのありようを顧みるとき、だれにとっても重要で、しかもだれのものでもないからこそ、その管理・運営の責任を億劫でもみなが少しずつ分かちあうという〈自治〉の精神をここに見ることができる。
 「おまかせ」と「押しつけ」ばかりで、みずからは共同の義務を担おうとしない現代の地域社会のありかたへの異議申し立てを、その語源は示唆している。そういえば「地方自治の」という形容詞、ミューニシパルもこの「ムヌス」からきている。 (わしだ・きよかず=哲学者)」東京新聞2022年10月21日夕刊3面。

 ラテン語は古代からの書き言葉で今は話せる人はいない。贈与や義務を意味する[ムヌス]から[コムーニス]が出てきてさらに「コミュニティ」が出てきたという。ここらは「コミュニケーション」も出てくるし、「コミューン」や「コミュニズム」も出てきた。社会的存在としての人間が結ぶ共同性。現代のコミュニティは地域行政のお題目になっているが、本来の共同性を失って、ただのお役所任せになっているといわれれば、そうかもしれない。
 なおこの文章に「価値感」という文字が使われていたが、ふつう人の価値観は[観]という字を使う。鷲田氏の意図的な[観]の表現なのか?それともたんに誤字なのか?今の若者は意識せずに[価値観]と書くところを「価値感」「世界感」と書いてしまう学生をよく見る。[観]にはある視点に立って全体を見渡すという意味があるが、[感]には自分の感覚で感じるfeelingしかない。この点を鷲田氏はどう考えるのか聞いてみたい。
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小説家の小説論・大岡昇平 9 むすび  キューバ危機

2022-10-22 15:41:18 | 日記
A.劇的小説
 大岡昇平『現代小説作法』を読んできて、この作家がただの小説家ではなく、もともとスタンダールを中心に幅広い西洋文学の研究家であり、翻訳者であり、そしてサラリーマンとして家庭を持ち、戦争末期に兵士としてフィリピンで戦い、米軍の捕虜となって帰還した人である、ということが、このような小説論を書かせた背後にあるのだな、と思う。明治以来営々と書き継がれてきた日本の近代小説は、日本語というものを豊かにし、ぼくたちの精神にいろいろと影響を与えてきたことは確かだ。ただ、日本が性急に西洋文化を摂取し近代化を図ったことの功罪を考えると、とくに19世紀フランス文学を手本とした、日本の自然主義から私小説という文壇主流の文学観は、ある意味非常に偏狭な、あるいは言葉のアートの可能性を切り捨ててしまったのではないか、ということに気づく。そういう考えにたどり着くには、ギリシャ神話からシェイクスピアの演劇、さらにキリスト教のなかにある超越的な精神を知る必要があるのだけれど、日本の小説家たちはどうもそういう視野に欠けていた。

 「劇的小説は前章に引いたミュア「小説の構造」が立てているジャンルです。
「劇的小説における作中人物の行動と性格との間の照応は本質的なもので、(略)状況がちょっとでも変ると必ず作中人物にも変化が生ずる。一方一切の変化は劇的、心理的たるを問わず、すべて状況と人物の内なる何物かによって、形をあたえられる。この点が劇的小説が行動小説、性格小説のいずれとも区別されるゆえんです。後の二者ではプロットと作中人物の間に間隙がありますが、劇的小説にはそれがありません。劇的小説のプロットは、自ら小説の意義の一部となっています」
 行動小説、性格小説という種類については、前章(引用者註、第23章行動小説と性格小説)で説明しました。「宝島」や「アイヴァンホー」等で代表される行動小説にあっては、人物の性格と筋の展開との必然性関連が要求されないのは見やすい理です。しかし「虚栄の市」のように、人物の性格を描き分けることに力点がおかれている小説で、作中人物の性格が状況を生みそうで、実はそうはならない点については、少し説明がいります。
 ミュアが劇的小説の見本にあげているのは、ジェーン・オースチンの「高慢と偏見」ですが、その一場面と「虚栄の市」の一場面との巧妙な比較が「小説の構造」にありますから、紹介します。 
「高慢と偏見」は田舎の地主の娘エリザベスの結婚するまでの平凡な経過を描いたものですが、そこまでに行く細かい筋のあやが、みんな作中人物ん性格から導き出されている点で、劇的と考えられるのです。
 エリザベスが舞踏会で初めて結婚の相手ダーシイに会う場面から、平凡の状況の中に、早くも緊迫感があります。

 エリザベス・ベネットは男の踊り手が少なかったものだから、二踊りも踊らずに座っていなければならなかった。その間にちょっとダーシイ氏がわりに近くに立っていて、ビングリイ氏と交わす会話をもれ聞く廻り合せになった。ビングリイ氏はダンスの合間にダーシイに踊るようにすすめに来たのである。
「こらダーシイ、どうしても君を踊らせるぞ。馬鹿みたいに、一人で突っ立ってる手はないよ。踊った方が気がきいてるよ」 (中略)
「この部屋のたった一人の美人は、君が踊っているじゃないか」とダーシイは長女のベネットを見やりながら答えた。
「そりゃ、あの人は、すごくきれいだ。でも、ちょうど君の後ろに座っている妹さんも、なかなか可愛いいじゃないか。感じがいいってところだ。僕のパートナーに、紹介させようか」
「どの娘さ」ダーシイはふり向いて、エリザベスの方を見た。視線が合うと、自分からそらした。そして冷たくいった。「悪かないが、踊ろうって気は起きないね。第一、ほかの連中が見向きもしない娘のご機嫌を取るなんて真っ平だよ。君はパートナーのところへ戻って、笑顔に見惚れてりゃいいんだ。僕と話に来るなんて、時間つぶしだよ」 
 ビングリイ氏は忠告に従った。ダーシイ氏も向こうへ行ってしまった。そしてエリザベスにはダーシイに対する面白くない気持ちが残った。しかしエリザベスはあとでこの話を友達に、勢いよく喋った。活発ないたずら好きの気性で、おかしいことがあればのがしはしなかったのである。  (富田彬訳)

 一刷けにさっと描かれているだけですが、女主人公の性格も相手の男の性格も、躍動しています。この初対面の場面を読むだけで、どうもこの二人はタダには住みそうもないぞ、という感じがします。
 これと対照的なのが「虚栄の市」の別の初対面の描写です。策動が行われて、それまで寄寓していた貴族の家から追い出されたベッキイ・シャープが、新しい雇主の家へ移る場面です。

 ピット卿の邸は二階の窓の鎧戸がしまっていたが、食堂のほうは一部あいていて、日除けがわりに古新聞がはってあった。
 馬車を一人で馭して来た馬丁のジョンは、馬車からおりてベルを鳴らしに行こうとはせず、その役目を通りすがりの牛乳配達の少年に押しつけた。ベルが鳴ると、食堂の鎧戸の隙間から人の顔がのぞいた。そしてやがて玄関の戸を開けて出て来たのは、淡褐色のズボンにゲートルを穿き、古い汚れた上衣を着た男だった。古ぼけた汚い襟飾を毛むくじゃらの頸に巻き、てかてか光る禿頭にずるそうな赤ら顔、灰色の眼が光り、口元に絶えずにやにや笑いが浮んでいた。
「ピット・クローリイ様のお屋敷かね」とジョンが馭者台の上からきいた。
「そうだよ」入口に立った男はうなずいた。
「じゃ、このトランクを降ろしてくれ」とジョンはいった。
「自分でおろせばいいじゃないか」門番はいった。
「おれが手綱を離せねえのが、わかんないのか。さあ、手をかしてくれ。娘さんが酒代をはずんで下さるぞ」とけたたましい笑声を立てながら、ジョンはいった。
 この男はシャープ嬢が雇主の家族と関係が切れ、その上家を出る時、雇人たちに一文もくれなかったので、敬意をはらわないことにきめていたのである。禿頭はズボンのポケットから手を出し、いわれた通りシャープ嬢のトランクを肩に引っかついで、家の方へ運んでいった。
「バスケットとショールも運んでちょうだい。それから玄関を開けておくれ」といって、シャープ嬢はぷりぷりしながら、馬車を降りた。
「ヤトリイ様に手紙を書いて、お前のやったことをいいつけてやるから」と馬丁にいった。
 シャープ嬢は門番に導かれて食堂に通った。
 台所用の椅子が二つ、丸テーブル、使い古しの灰かきや火箸が暖炉のまわりに投げ出され、ぱちぱち音を立てるよろ火の上に鍋がかかっていた。テーブルの上にはチーズとパンのひとかけ、錫の燭台がおいてあった。ビンにはビールが少し残っていた。
「夕食はまだでしょうね。部屋が暑すぎやしないかな。ビールを一口いかがです」
「ピット・クローリイ卿にお目にかかります」とシャープ嬢は威厳をもっていった。
「へ、へ、ピット・クローリイ卿はあたしですよ。荷物を降ろしてあげた酒代の貸しをお忘れなく。へ、へ、うそだと思うんなら、チンカーに聞いて下さい。チンカー夫人、こちらがシャープ嬢でいらっしゃる。家庭教師さん、こちらが派出婦さんだ。ほ、ほ」 (三宅幾三郎訳)

 十九世紀初頭のイギリスの貧乏貴族の風俗と雇い人根性が活写されていますが、ミュアはこの場面の閉鎖性に注意します。人物は一目で理解出来ます。動作も類型的で、最初から「自己を一般化した形で示し、以後それを続けるより仕方のないに人間」として、現われている。ところが「高慢と偏見」のエリザベスとダーシイは、これからの行動で本性を明かしてくれるのを、われわれに期待させるように描かれている。類型的なものの繰り返しではなく、個別的なものへの分化という風に、小説は進むのです。これが劇的小説と性格小説の根本的な相違だ、とミュアは指摘しています。
 同じような対照を、われわれは例えば尾崎紅葉と夏目漱石の小説の間に見出すことができるはずです。「金色夜叉の根本的な欠陥は、お宮にも貫一にも性格に発展がないことで、それがあの小説の進行をぎこちないものにしている原因です。がんらい性格小説として、一時代の風俗の中に漂う人物群を列挙するに止めるべきであったテーマを、お宮貫一の間の性格のドラマとしようとしたところに無理があったので、それが結局「金色夜叉」を未完に終わらせることになったようです。
 漱石が「明暗」を書いたころ、オースチンを読んでいたことは知られています。オースチンは時代的にはサッカレーより前で、十八世紀的な教養のうえに育った女流作家です。そして彼女が時代の風潮と関係なく、身辺の些細事のうちに見出した劇は、発表当時はそれほど高く評価されなかったが、次第に近代小説の典型として、多くの男性作家の賞讃を集めるようになりました。
 題材が地味だし、あまりイギリスの地方生活と密着しているので、わが国ではあまり読まれませんが、その数少ない作品はいずれも、巧まざる技巧をもって、奇跡的な完成に達しているように思います。
 漱石の「明暗」にも、事件らしい事件は全然ない。大正初期の、中の上あたりの市民の家庭の小波瀾の中に、各人物が日常些細の言動の積み重ねで、彫り上げられて行く。こういう作品が日本にあったということが、われわれの現代文学を拘束しているといえます。
 小説中の人物の性格が、事件を必然的に生み出していくためには、まずその人物がことに当って誠実であるということが必要ですが、漱石自身はたいそう自己に誠実な作家でしたから、それが各人物に投影して、日常生活の中に精緻なドラマを織り出すことが出来たのです。
 誠実であること、これが近代小説に登場する少なくとも主人公の前提である、といっても過言ではありません。そういう個人が市民階級の中から育ってきたということが、十九世紀になって、小説が詩歌や演劇に比肩することを可能にしたのです。イギリスの片田舎の文学少女が、発表のあてもなく書きためていた「高慢と偏見」が、第一流の文学として評価されるようになったのも、この結果です。
 奇想天外の事件で読者を面白がらせ、時代の発展、階級の分化に従って現われる新しい人物を紹介し、あるいは世相の変遷を描くという小説の機能は失われてはいませんが、一方その人物を偶然や浮動する外部的条件に任せておきたくない、その行為と心理に必然性を探ろうとする努力が、前世紀以来大作家といわれる特殊な個人の野心となっていました。
 社会において個人の果たす役割が、小さく評価され勝ちな現代では、この理想は維持しがたくなっていますが、まったく消滅したわけではありません。マス・コミの発達によって、文学がますます浮動する消閑の読み物となろうとしている現代でも、漱石の小説が教科書的人気を持ち続け、スタンダールやドストエフスキイの作品が、「世界文学全集」の中でよく売れる巻となっているのは、理想が生きている証拠です。小説の中にも古典が生まれようとしています。
 みなさんが現代の流行に従って、どんな小説を仕組もうとお考えになるにしても、これらの重大な遺産を看過するのは、賢明ではないと思います。」大岡昇平『現代小説作法』筑摩書房 2014年、pp.236-243.

 小説家が輝く文化人として尊敬された時代に生きていた大岡さんは亡くなって、いま小説はもはや「消閑の読み物」、大衆の娯楽エンタメですらなく、町の本屋が姿を消していくように、活字を読んで楽しむ余裕すら、人々は失っていく時代です。なにをそんなに忙しがっているのか?


B.60年前の危機が再びくるのか?
 ウクライナで戦争を始めたロシア・プーチン大統領は、この「軍事作戦」は一週間、せめて一月あれば片付くと思っていただろうが、半年すぎても泥沼の戦闘は続き、ロシア軍は劣勢を挽回するどころか各地で撤退を迫られている。厄介なことにプーチンは、核兵器のボタンを押せる場所にいる。ぼくたちは、60年前のキューバ危機の記憶を思い出す。

 「ソ連の潜水艦長は戦争が始まったと思いこんだ。1962年のキューバ危機である。米国ののど元にソ連はひそかに核ミサイルを運び込んだ。キューバ近海を封鎖した米国は、辺りにいた潜水艦に「浮上せよ」と警告する訓練用爆雷を落した▼轟音の中で艦長はまいっていた。頭上を敵艦隊に覆われ、モスクワとの交信も途絶え、ついに核魚雷の発射準備を叫ぶ。「われわれは死ぬだろう、だが奴らを残らず沈めてやる」(マーティン・シャーウィン著『キューバ・ミサイル危機』)▼やや大げさにいえば、人類史がいまも続いているのは、艦にアルヒーホフという大佐が乗り合わせていたからだ。発射に反対し、艦長を説き伏せて艦を浮上させた▼一連の出来事はちょうど60年前。米国がミサイルを確認した10月16日からの13日間は核戦争の瀬戸際だったと言われる。それ以来の脅威だという。ロシアのプーチン大統領が核兵器の使用をちらつかせている▼万が一にもないと信じたい。ただ60年前の出来事が伝えるのは、核のボタンを持つ人間がやけっぱちになる恐ろしさだ。ウクライナ戦線でロシアの劣勢が伝わる。想定外が続くプーチン氏は、どんな心境なのか▼キューバ危機を乗り越えたソ連の首相はフルシチョフ氏だった。「核兵器に近づける人間の一人が平常心を失うかもしれず、すると彼はわれわれ全員を戦争に引きずり込むことがありうる」と語ったという。プーチン氏がその一人にならぬことを祈るばかりである。」朝日新聞2022年10月21日朝刊、『天声人語』
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小説家の小説論 8 文体論  徴兵拒否は可能か

2022-10-19 16:47:26 | 日記
A.ユニークな文章とは
 昔、大学生の頃、若き文芸評論家の江藤淳の書く文章を、ぼくは一時期愛読していた。とくに、「成熟と喪失」や「漱石とその時代」は熟読した。ほかにも「作家は行動する」という現代小説の文体論を論じたものがあったのを思い出した。ちゃんとした文章を書くことは、大学生なら当然要求される能力で、いちおう文章読本や論文作成の手本的なものはあるのだが、レポートや論文を数多く書くことしか、人に読んでもらって間違いのない文章を書けるまでは時間がかかる。大学の教師になって、多くの学生のレポートや論文を読むようになって、誤字脱字やでにおはから始まって、達意の名文は無理でも、いちおう論旨と文章が一人前に書ける学生は、およそ三分の一、あとの三分の一は言いたいことを述べてはいるが、あちこちでおかしな表現や、思い込みだけで瑕疵の目立つ文章、そして残りの三分の一は、そもそも自分で文章を書く意欲と能力が乏しいので、どこかの文章の引用つぎはぎ、コピペでやりすごそうという姑息なしろもので、将来も文章を書くような仕事はしないで過ごそうと考えているような学生である。このような人は、日本語だけでなく英語など、外国語もちゃんと書けるはずはない。
 大学生なら、それでもなんとか卒業すれば、ツイッター程度のつぶやきで用はすみ、長い文章など書かず読まずに平穏に暮らすこともできるだろうが、文章を書くことが仕事の重要な部分であるような職業に就けば、そうはいかない。明治大正時代なら、公式文は漢字カタカナまじりの定型文だったから、その規則通りに書けば問題はなかったし、手紙などもほぼ型通りの形式に、ちょっと素朴な情緒をからめれば充分通用した。しかし、言文一致体の日本語が定着し、人々が小説などを読むようになってからは、よい文章、個性的な文体というものが、モノを書いて仕事にする人には要求されるようになった。今では、日本語の話し言葉は、若い人中心にころころ流行が移り変わり、それにともなって文章表現の方も、一見変遷著しいように思えるけれど、文章が人に言いたいことを伝えるという機能がある以上、基本的にはあるべき文章、しかも品格とアート性を追求した文体というのは、あるのだというお話。

 「文章はもちろん、我々の思考の表し方の一つですが、むかしは修辞学とか、美文の書き方とか、雄弁術とかは、言葉を操る技術として、人間と独立して考えられていた。それは近代のロマンチックな個性尊重、自己中心主義が現れると共に、維持できなくなりました。
 文章はいかに美しく、無疵に書かれるかより、たしかにあの人が書いた文章だ、あの人でなくちゃ書けない文章だ、と思われる方が尊敬されるようになった。破格な調子の悪い文章も、その人の特徴を示すものとして、尊ばれたのです。
 よき日本語を、よい文章を、という理想が、明治以来西欧のロマンチシズムに感染した文人に、どの程度あったか疑問です。漱石がアテ字や俗語を、勝手気儘に使ったのは周知のことですし、鷗外は字引にないような稀語難字を好んで使い、外国語はたいてい横文字のまま挿入しました。読者が理解しようがしまいがどうでもいいので、人の知らないことを知ってる自分というものを、読者に示すのに、むしろ誇りとよろこびを感じていたようです。彼らは人生と文学の理想を追うのに忙しかったので、文章の風格とか品とかいうものがやかましく言われるようになったのは、大正以来のことなのです。
 派手な文体、地味な文体、力強い文体、軽快な文体、などなど、種々の形容が、批評家によって、作家を月旦するに使われますが、それはある作家の文章を読んで、あたりさわりのない印象の表現です。作家が力強い文体を目指して、実際に力強い文体に達することはめったにないので、それは結局は一人の作家が、人生でも現実でも、なんにでも結構ですが、対象を前にして取る態度の結果あらわれたものにすぎません。これは江藤淳によって、「文体は作家の行動の軌跡である」という風に公式化されています。
 しかし一方言語が人間にとって外在するものなら、それは個人に属するより前に、民族に属するのではないか、という問題があります。文体の問題は、そのまま言語そのものに絡まって来ますが、ここではそこまで深入りしません。
 われわれは「源氏物語」の文体、上田秋成の文体とは言うけれど、人麻呂の文体、芭蕉の文体とは言いません。それは後の2人のは詩だからで、文体とはまず散文について言われるものです。詩歌において、文体に対応するのは、「声調」ともいうべきものであり、それは散文における文体より、もっと個人の身体に密接したものです。
 詩歌も散文も、言語という民族的媒体から成り立っていますが、詩歌では言葉の数も少なく、原則として一つの言葉の意味は、それ自身完結しているので、作者の体臭は、かえって、強く感じられるという関係だろうと思われます。
 散文では書く文章は相補うことが出来、論理的につながっています。事を叙しても、詩歌の質に対して、量で行く傾向があり、同じ文は人なりでも、作者の個性は淡くしか現れないという関係があります。
 ただ近代になって詩歌が印刷されるようになってから、詩歌と散文の差異はだんだん減少し、散文のなかに詩的要素が含まれることが多くなったので、その部分が文体と混同されることがあります。
 例としては、第二章にも引用した鷗外の文章をもう一度あげます。

 従四位下近衛少将兼越中守細川忠利は、寛永十八年辛巳の春、余所よりは早く咲く領地肥後国の花を見棄てて、五十四万石の大名の晴々しい行列に前後を囲ませ、南より北へ歩みを運ぶ春と倶に、江戸を志して参観の途に上らうとしてゐるうち、図らず病に罹つて、典医の方剤も功を奏せず、日に増し重くなるばかりなので、江戸へは出発日延の飛脚が立つ。        「阿部一族」
 
「南より北へ歩みを運ぶ春と倶に」は詩的な句です。この旅は実際は中止されているのですから、小説の約束に反しているのですが、ここには江戸時代の旅の風流があり、春のように駘蕩とした文章で、晩年の鷗外の自由な態度がうかがわれると前に書きました。しかし鷗外の「文体」は実はここにはないと思います。彼の散文家の本領はむしろ次のような「渋江抽斎」の中の有名な一節にありそうです。

 刀の欛に手を掛けて立ち上った三人の客を前に控へて、四畳半の端近く座してゐた抽斎は、客から目を放さずに、障子の開いた口を斜に見遣った。そして妻五百の異様な姿に驚いた。
 五百は僅かに腰巻一つ身に着けたばかりの裸体であった。口には懐剣を銜えてゐた。そして閾際に身を屈めて、縁側に置いた小桶二つを両手に取り上げるところであった。小桶からは湯気が立ち昇ってゐる。縁側を戸口まで忍び寄って障子を開く時、持って来た小桶を下へ置いたのであらう。
五百は小桶を持ったまゝ、つと一間に進み入って、夫を背にして立った。そして沸き返るあがり湯を盛った小桶を、左右の二人の客に投げ附け、銜えてゐた懐剣を把って鞘を払った。そして床の間を背にして立った一人の客を睨んで、「どろばう」と一声叫んだ。
 熱湯を浴びた二人が先に、欛に手を掛けた刀をも抜かずに、座敷から縁側へ、縁側から庭へ逃げた。跡の一人も続いて逃げた。

 これもあまり現実的な描写ということは出来ません。五百の行動はかなり美化されています。封建道徳の美しさを、事実だけを投げ出すことによって際立てようという作者の意志は露骨で、それが何の修飾も説明もない明晰な文体となってあらわれたと言えます。
 しかし僕は宇野浩二と共に、ここにも鷗外の本来の文体はないと考えます。抑制は文体の美徳の一つには違いありませんが、そのすべてではありません。この程度の抑制された行動描写なら、通俗小説作家にも模倣出来るので、人間の内部を書く手間を省くのに、打ってつけの文体とも言えます。

 戸を敲いた。そっとである。それでも医師は目を醒まして、明りをつけて、床から起上った。

 これは彼の翻訳の中の一句ですが、宇野浩二は「『戸を敲いた。そっとである。』といふやうな書き方は後にも先にもない、と言っても過言ではない。(略)鷗外の文章になり切ってゐる上に、唯これだけの言葉で、そつと戸を敲いた人と、その音ですぐ目を醒ます医師と――二人の人間の非常な動作が、心憎いまで、ありありと書かれてゐる」(「小説の文章」)と絶讃しています。
 多分、鷗外はそれほど苦心したわけではなく、外国語の文脈をそのまま写すのに、一つの文章を二つに分けたということだったでしょうが、それだけのことが、容易に出来難いのは、翻訳の経験がある人なら知っています。鷗外の文体の自由は、ここにあったと、僕は考えます。
 ついでにもう一つ翻訳の例をあげます。これは外国文学の翻訳ではなく、日本の古典の現代語訳、いわゆる「谷崎源氏」です。原文と訳文と並置します。

 思へども猶飽かざりし夕顔の露に後れし程の心地を、年月経れど思し忘れず、此処も彼処も、打解けぬ限りの、気色ばみ心深き方の御いどましさに、気近く懐かしかりし哀れに、似るものなう恋しく覚え給ふ。

 いろいろお思い返しになっても、矢張り未だにお心残りな夕顔の、露に先立たれ給ふた当時のお気持を、年月を経ても忘れることがお出来にならず、此処にも彼処にも、へんに様子振った方々ばかりが、お互に警戒し合ひ、競争し合っていらっしゃるのをご覧になっては、あの懐かしく親しみ易かった面影の類なさを、今も恋しう思し召される。

 谷崎潤一郎の文章は、もともと美文系に属し、疵がないのが玉に疵といった種類のものですが、かんでふくめるような平明な文章から、説明と敬語を取ってしまうと、あとには源氏の簡潔な原文が残るということになっているのは皮肉です。源氏には文体があるが、谷崎源氏にはそれがないからです。邦文和訳というものは、うかつにやるものではありません。外国文学なら、横のものを縦にする作業に訳者の行動があり、翻訳と原書は元来別のものですが、古典の翻訳では、いくら親しみにくくても原文が日本語で、現にそこにあるという点が、まずいのです。
 太宰治も、大変わかりよい文章を書きました。谷崎と同じような美文意識で統一された文章ですが、作者自身はおよぞ美文とは縁のない、破滅的な人間だったので、それが一寸類のない名文になっているところがあります。
あさ、眼をさますときの気持は、面白い。かくれんぼのとき、押入れの真暗い中に、ぢつと、しやがんで隠れてゐて、突然、でこちやんに、からつと襖をあけられ、日の光がどつと来て、でこちやんに「見つけた!」と大声で言はれて、まぶしさ、それから、へんな間の悪さ、それから、胸がどきどきして、着物のまへを合わせたりして、ちよつと、てれくさく、押入れから出て来て、急にむかむか腹立たしく、あの感じ、いや、ちがふ、あの感じでもない、なんだか、もつとやりきれない。箱をあけると、その中にまた小さな箱があつて、その小さな箱をあけると、またその中に、もつと小さい箱があつて、そいつをあけると、また、また、小さい箱があつて、その小さい箱をあけると、また箱があつて、さうして、七つも八つも、あけて行つて、とうとうおしまひに、さいころくらゐの小さい箱が出て来て、そいつをそつとあけてみて、何もない、からつぽ、あの感じに、少し近い。パチッと眼がさめるなんて、あれは嘘だ。 「女生徒」

 作者の甘ったれ根性は、かな書き、短い区切り、それから全体の子供っぽい言い回しに、あらわれています。たしかにほかの人間には書けない文章です。

 家具という家具は動き始めた。寝る道具から物を食ふ道具まで重なり合つて、門の前にある荷車の上に積まれた。 「家」
 これも島崎藤村のほかには書けない文章ですが、これはいけません。これは引越しの光景を描いたにすぎませんが、「寝る道具」なんて日本語はありません。「蒲団」で沢山です。「物を食ふ道具」ですが、藤村の時代なら「茶碗」です。これは単なる気取り、偽善です。一体藤村は売春婦のことを「白い顔をした女」なんて書く癖がありました。ここにも作者の個性が出ていますから「文体」ではないかという疑問が湧くかもしれませんが、こういうのは気取った「言い替え」にすぎず、文体ではありません。
 鷗外の例で既に見たように、普通の言葉の独特の組み合わせが文体です。露骨な主張は滑稽になりますから、注意しなくてはいけません。」大岡昇平『現代小説作法』ちくま学芸文庫、2014年、pp.218-226. 

 鷗外、漱石はやはり日本語の文章というものを、いまのような形に作りあげた源泉だけれども、それ以後の日本の小説は、西洋19世紀の近代小説を真似て落とし穴に落ちたために、非常に窮屈な文章を標準化したのかもしれない。太宰治はたしかにユニークな文体で、若い頃はとりつかれる人が多いけれど、これで評論や論文は書けないな。


B.避難民・脱出民・亡命者?
 ウクライナの戦争が長期化し、ロシアが兵力を消耗して、予備役の徴兵を多量に行うというプーチンの決定が、ロシアの若い男性たちに恐怖を呼んで、国外脱出を図る動きが起きたというニュースがあった。ヴェトナム戦争のときも、戦争が泥沼化しアメリカでも反戦運動や徴兵拒否者がたくさん出た時代があった。徴兵拒否は、国家の命令を拒む行為だから、ふつうは認められない。アメリカでは殺人を禁じるという宗教的な理由で、徴兵拒否する者は認めるが、それを証拠立てる信仰の証として、厳しい宗教的献身や奉仕などの実績を持たなけれならなかったと思う。いまのロシアでは、そういう徴兵拒否の特例があるのかどうか知らないが、たぶん拒否は国家への反抗・処罰の対象になるのだろう。そこで職も家も捨てての国外脱出を図って、ジョージアなどへの国境に人びとが押しかけたという。そういうことは、戦争が起こると必然的にはじまる副次行動だろうが、具体的な記録はまだ少ない。

 「社会・時評 :権力暴走 被害は市民に  ロバート・キャンベル 
 戦火を逃れようと、生まれた土地を離れてしまう人々の姿や声をとらえ、記録することに大きな意味があるように思う。
 ロシアが仕掛けたウクライナとの戦争では、千二百万人以上の住民が安全な場所を求め国内、あるいは国外へと移動している。記憶に眠らせ、先にある一つの時点から語り直す俯瞰的な回想もあるのだが、それらとは異なり、人間として「今」を生きる様々な根拠や、そこからの人生にどう向かうべきかという切実な展望への細かい洞察にも満ちているはずである。
 今年の春もそうだったが、冬に近づくにつれて戦闘が激化するウクライナの東部や南部から、西へと避難する人々が後を絶たない。規模と状況こそ大きく変わるけれど、自国の侵攻と占領、容赦なく隣国に振らせ続ける砲弾に嫌気が差し、国外へと避難するロシア人の若者たちも、声は拾いにくいけれど、相当数いることは間違いない。
 「どの家にも戦争支持者と反対派の人とがいて、それで壊れる家族がある」。そう語るのは、、ウラディミールという軍隊への動員を恐れ最近自国ロシアから隣のジョージアに避難したばかりの31歳男性。サンクトペテルブルクに住まい、職業は地質学の研究者である。地元で起きていた反戦デモにも参加してみたけれど、危険で無意味なことに気づいた。「抗議する人のおよそ十倍の警官がいて、これは無理だ」と観念したという(“Panic, Bribes, Dikched Cars and a Dash on Foot. Portraits of Flight From Russia”New York Times 2022年10月1日)。
 プーチン大統領が9月21日、職業軍人に限らず有事につきいわゆる予備役を部分的に動員するという大統領令に署名したばかりであった。以後、若い男性を中心に、二十万を超えると言われるロシア人男性は徴兵の紙を渡される前に、通れないかもしれないという恐怖を抱き隣国との国境に迫った。その内、四分の一以上はほぼ着の身着のままの状態で、真南に位置するジョージアの唯一の国境検問所がある峡谷の細い一本の道を車やバイク、自転車に頼って長い行列を作って目的地までひた走っている。
 厳しい言論統制が布かれたロシアから西側のメディアに流れるのは、ウラディミールのような急場にいる人間の証言ではない。彼らが平静を装い召集令状を待つか、はたまた仕事も愛する家族も捨て、いわゆる棄民になるのか。親密で具体的な経験の中から決断を迫られるロシアの若い才能の流出には、当然ながら、さまざまな背景がある。
 二十八歳のアルティヨムは情報系のエンジニア。ロシア人の国境警官には約20万円以上の賄賂を渡し、ようやくジョージアに入ることができたという(同)。アルティヨムは、かつて義務として徴兵され軍隊に組み込まれた一年間のことを苦々しく浮かべ、記者に語ったという。「銃を抱えながら塹壕の中にじっとしゃがみ込んでいる。一晩中。想像できます?そんな夜を過ごしているといろんなことが分かったり、気づいてくることも多い。陸軍の所属がとれた時に、自分が平和主義者であり、戦争が悪いんだという意識が自分の中に芽生えたのです。恐ろしいものです、戦争は……」 
 妻と友人と共に自動車でモスクワからやってきた彼は、国境から二時間ほどの距離で警官にモスクワナンバーを気づかれ、大金を払わなければ軍部に突き出すと脅され、金を渡して難を逃れた。国境へ向かうと、今度は車の長い列が待っている。動かない。しかたなく妻を残し徒歩でやっとのことで国外に出ることができた。検問所に詰め寄った群衆は「全員感情が高ぶっていて、言い争ったり、怒鳴り合っていた」という。
 間断なく降ってくるミサイルを避けながら命からがらに西へと逃げおおせるウクライナ人民とは比べものにならないほど安定した環境にいるロシアの国外避難者。しかし彼らもまた、侵攻という不条理な人災に将来を脅かされ、人生を狂わされる運命にあるという意味では、紛れもない犠牲者ではある。
 権力の暴走が彼我を問わず市民を苦しめるのは今も変わらない。」東京新聞2022年10月18日夕刊5面。
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