A.構造的な“バグ”
イスラエル出身の歴史家ダニ・オルバフの『暴走する日本軍兵士』という本は、大日本帝国陸軍の内部に孕まれた「不服従の文化」を対象に、日本では従来一部軍人の例外的な逸脱と捉えて、あまり幕末の「志士」を範とするそのつながりを問題にしていなかったところに焦点をあてた。明治の陸軍創設から西南戦争、日清戦争、閔妃暗殺、張作霖爆殺、そして2.26事件と、過激派の陸軍軍人が上層部や法規を無視して、武力行使に訴える行動を起こし、それが一種の「文化」になっていたという指摘は、なるほどそういう見方もできるかと思う反面、多少の違和感も感じる。そしてぼくたちが、なんとなく陸軍軍人というものに対して抱いてきたイメージ、とくにいわゆる「昭和史」に登場する軍人たちの人物像に、ある種の毀誉褒貶をひっくるめて暴力的な「悪人」の印象をもっていたことを、逆に個人の属性に帰してしまって、構造的な「文化」としては捉えていなかったとも思う。この本の冒頭に、以下のような著者の全体的な問題設定が書かれている。
「欧米人の多くは、大日本帝国陸軍が権力に対して無批判に服従していたと考えている。太平洋戦争中、上官の命令で死へと突き進む日本兵の姿は敵側に知れ渡り、欧米人に「家畜の群れ」や「蜂の集団」といった不気味な印象を与えた。オーストラリア人の従軍記者は次のように書いている。「私が見た日本兵の多くは、うつろな目をした去勢牛のような連中だった。(中略)彼らは持ち場から離れずに命を落とした。そうしろと命令されたからだった。自分の頭で考えることができないのだ」
これは極端な例だが、日本兵が規律にひたすら従うという話は一理ある。実際、軍部は上官命令への絶対的な服従を重要視した。すべての軍人、とりわけ1920年代半ば以降の軍人に暗記が義務づけられ、即座に暗唱できなければならなかった『軍人勅諭』は次のように書かれている。「軍人は忠節を尽くすを本分とすべし(中略)一途に己が本分の忠節を守り、義は山岳よりも重く、死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」。しばしば将校も、命令があればためらうことなく死へと突き進んだ。それは、日本が戦ったほとんどすべての戦争で、将校の死傷者がかなり出ていることからわかる。1880年代にはじめて公布された陸軍刑法では、階級に関係なく命令違反をした将兵は厳罰に処す、と定められていた。
それにもかかわらず、大日本帝国陸軍は、近代史上屈指の反抗的な軍隊であったと言っていいだろう。日本の将校は、再三にわたりクーデター、暴動、政治家の暗殺を起こした。この現象は1870年代と1930年代という二つのピークがあり、そのあいだの期間も、将校は政府や軍の最高司令部が下した命令に繰り返し抵抗しつづけた。クレイグ・M・キャメロンは、この「下位者が上位者を打倒」する下克上という現象は、「日本の軍隊文化を形づくるきわめて重要でユニークな概念である。(中略)中堅の参謀将校は、上官に逆らうことで国家政策を変えた。(中略)昭和天皇から最高司令部に至るまでの上位者は、自らの権威を回復することなく、何度も下位者の不服従に耐え、彼らの強引な手段を許容した」と書いている。
この伝統は、日本近代史の非常に早い時期に始まった。1870年代は動乱の時代で、反体制派の軍人、政治指導者、かつての武士は、たびたび暗殺計画や反乱を企て、ときには公然と反旗を翻すことさえあった。19世紀末と1910年代から20年代にかけて、将校は外国の指導者を暗殺し、政治危機のさなかに文民内閣を転覆させた。1930年代になると、軍人の不服従はきわめて混沌とした形態になった。1931年、「桜会」という軍部のテロ組織が、日本政府をまるごと空爆で壊滅させようとした。その七か月後、反体制派の将校が犬養毅首相を暗殺した。それに続くクーデターは失敗したが、軍内外の暴力を伴うさらなる混乱のきっかけとなった。1935年、派閥抗争により、中心的な立場にあった将官が青年将校に斬殺された。
そしてついに、1936年2月の大規模な軍事的反乱の渦中に、国家統制は財政的に崩壊した。千人以上の軍人が往来を占領し、数名の政府首脳が邸宅で殺された。イギリスの特派員ヒュー・バイアスは、第二次世界大戦中に書かれた著作の中で、「暗殺政治」という表現を使っている。バイアスによると、1930年代の将校は、暗殺を繰り返して文民政府を恐怖に陥れた。彼らは暴力で政治家を脅して外交政策の主導権を握り、際限のない軍拡へと舵を切り、しまいには太平洋戦争という最悪な事態へと突き進んでいった。
日本軍人の不服従について研究した英語論文の中で、1930年代の反乱について注目したものはごくわずかだ。おそらくそれは、第二次大戦が目前に迫っているからだろう。そうした数少ない文献からわかるのは、反逆や暗殺が、この時期の日本政治を語るうえで欠かせない特徴になっていたということだ。しかし、反逆や暗殺というどう考えても異常な行動が、エリート軍人のあいだで、当然のこととして広く受け入れられていたことを説明できた著者は一人もいない。1935年に将官を殺害した青年将校は、何事もなかったかのように次の任務を行おうとした。桜会に殺されかけた要人が首謀者に下した罰は、たった25日間の謹慎処分だった。いやそれどころか、犯行グループは、将校団と一般大衆の両方から幅広い支持を得た。だが、支持者の中で、暗殺の原因の一端が軍部のややこしい議論や派閥抗争にあったことを知る者はほぼ皆無であったろう。彼らにとって重要なのは、暗殺者の「純粋な動機」だった。1930年代前半の日本では、将校の暴力行為は、「真摯な」愛国心が動機である限り、正当化され、美化されたのだ。
日本軍についての主要な歴史学者が最近認めたように、1930年代における大日本帝国陸軍の反逆精神の根底にあるものは、依然として謎に包まれている。その謎を解く鍵は、過去数十年間の情勢の変化の中に存在する。日本において、軍人の反逆、抵抗、暗殺、陰謀がどのように当たり前になっていったのかを理解するには、軍人の不服従の歴史を知ることが不可欠だが、そのような長い期間の歴史は英語で書かれてこなかった。本書が初の試みである。
軍人の不服従によって引き起こされた事件は、散発的でも偶発的でもなく、深い根をもつ歴史パターン、すなわち1860年代から1930年代までの日本の軍隊社会の一要素であった反逆と抵抗の文化に基づいていた、というのが私の主張だ。この文化のルーツと変遷をたどりながら、次の四つの大きな特徴について説明しよう。第一に、この文化は、コンピュータプログラムの「バグ」に相当する、日本の政治形態の構造的な欠陥によるものであった。第二に、この文化は、為政者が別の目標を達成しようとして一見合理的な決断を下した結果、思いがけず進展した。第三に、この文化は両義的で、武力による反逆と微妙ですぐにはそれとはわからない抵抗とが結びついていた。第四に、反逆と抵抗は長年にわたって交互に繰り返し、一方が他方を育み、作り直すという互恵関係にあった。
ここでは「コンピュータプログラムのバグ」を、政治システムの基本構造の欠陥を指すメタファーとして使っている。コンピュータプログラムのバグと同様に、通常その欠陥は国家運営を妨げなかったが、ある状況において特定の条件が満たされた場合のみ、国家システム全体を最終的に弱体化させる深刻なエラーを引き起こした。第一のバグは、日本の政策に決して埋まることのない、反逆と抵抗が生まれる隙間を作り出し、日本の天皇制の本質と結びついていた。日本近代史学者の多くが認めているように、天皇の権威は、理論上は絶対だが、実際には非常に制限されていた。あとで詳しく論じるが、世間の目から隠されていた天皇は、自ら政策を決定することができなかった。しかし、天皇の「意向」は政治的正当性を表す最高のシンボルであったため、少数の指導者(「明治の元勲」として広く知られている)は、天皇の名を利用して国の実権を握った。
しかし、この支配集団はある問題に直面した。公式には、天皇が政策決定者であり、元勲は天皇の助言者にすぎなかったのだ。そこで、天皇優位のイメージを維持するために、元勲は事実上の国の支配者である自分たちの地位を正当化しなかった。このような状況は、軍内外の反体制派にとって、無限に政府を批判できるということだった。反体制派は、自分たちのほうが、非公式に権力を保持している者たちよりも、天皇の隠された意向を体現している、といつでも主張できたのだ。あとで見ていくが、彼らは1877年の青年戦争から1936年2月26日のクーデターに至るまで、何度となくそのように主張した。こうした軍の蜂起は、他の不服従の行為と同様に、国の支配者に対して行われたものであり、天皇や国家に対しての反対行為はほとんどなかった。最も暴力的な形態をとった軍隊の反逆や抵抗でさえ、天皇を支持し、愛国的であったのだ。
第二のバグは、軍人の反逆や抵抗への対処を難しくした。それは、国家イデオロギーのある種の特徴と関係があったからだ。明治政府の基本方針は富国強兵だった。そのため、軍部の反体制派は、政府よりも迅速かつ毅然とした態度で独自に帝国拡大の道を突き進むことで、反対姿勢を明確に打ち出すことができた。そのような軍人の態度は、しばしば他国への未承認の軍事行動という形を取った。政府は、国家イデオロギーとして不断の領土拡大を掲げていたため、たとえ反体制派将校のやり方が許せなかったとしても、彼らの「功績」を取り消すことはできなかった。とどのつまり、そのような「愛国者」は、政府と同じ目標に向かって努力していたため、彼らだけを処罰することは難しかったのだ。
第三のバグは、軍人の不服従をさらに過激化した。それは、国家イデオロギーのもう一つの特徴である「根本的曖昧性」に由来するものであったからだ。日本の国家目標が富国強兵であることは誰の目から見ても明らかであったが、その限度を理解している者は皆無だった。国家政策は、しばしば帝国が無限に成長していくイデオロギーであると解釈された。その結果、いつになっても軍部の反体制派の渇望は癒やされず、理想がかなうこともなかった。大日本帝国がどれだけ拡大しようとも、不満を抱えた将校たちは帝国のさらなる拡大の必要性を唱え続けることができた。かくして、前述の三つのバグは、帝国陸軍内で反逆と抵抗が起こる余地を生み出し、軍人たちにイデオロギー的な後押しと限りない口実を与えることになったのだ。
しかし、この三つのバグは舞台装置でしかない。この三つのバグにより、軍人の不服従が発生する可能性が高まったが、バグ自体が軍人の不服従の発生を避けられないものにしたわけではない。実のところ反逆と抵抗は、さまざまな人間が何十年にもわたって行ってきた、数多くの政策決定の予期せぬ結果だった。仮に、いくつかの決定が違っていたら、もっと緩やかな変遷であったかもしれないし、抑制することさえできたかもしれない。さまざまな関係者――将校であれ、政治家であれ、警察であれ――が問題の解決を試みたが、軍人の不服従を助長する意図はなかった。それにもかかわらず、彼らの行動は予想外の結果を生んでしまった。
関係者の決断によって意図せず生まれた軍人の不服従は、政府の方針に対する武力を伴う反逆と[暗黙のうちの]抵抗という二つの形態を取っており、その主要な出来事はそれぞれ異なった時期に発生している。本書では、反逆と抵抗の項後の発生を、1860年から1936年(日中戦争直前)までの76年間、時系列に沿って考察している。江戸幕府は、1860年代に、「志士」(高い志をもった武士)という急進的な武士たちが結成した革命連合によって倒された。このような従順でない武士たちのイデオロギーと組織形態は、何世代にもわたって日本の反抗的な将校に受け入れられた。何よりも、志士はさまざまな理由から1870年代の新政府に敵対することになった反逆者に影響を与えた。初期に起きた軍人の不服従に驚きはない。なぜなら、親政府は発足したばかりで強固な支配体制が確立されておらず、その真価が未知数であったからだ。
皮肉なことに、政権基盤が脆弱だった時期に生まれた軍人の不服従のパターンが、国内の結束後も存続することができたのは、1870年代の大変革に対する政府の対応に原因があった。1877年の大規模な反逆[西南戦争]の鎮圧後に実施された軍隊の改革は、その後数十年にわたって軍人の不服従を抑制することに貢献したが、未承認の軍事行動(1895年[閔妃暗殺]と1928年[張作霖暗殺])や無血クーデター(1912~3年[大正政変])の形態で国家権力に抵抗する傾向を育むという予期せぬ結果を生んだ。このような軍人の抵抗は、過去の武力を伴う反逆の基本的特徴の一部を、休眠状態で保存した。抵抗は次第に過激な性質を帯び、ついに1931年から1936年までの新たな反逆の波の中で爆発した。要するに本書は、1877年の軍隊改革で国家権力によって抑制された軍人の不服従という現象が、なぜそしていかにして50年後に再び爆発し、日本が軍国主義、無制限の領土拡大、世界大戦へと向かう原因になったのかという疑問に答えているのである。」ダニ・オルバフ『暴走する日本軍兵士』長尾莉紗・杉田真訳、朝日新聞出版、2019年、pp.18-24.
この本のキーワードとなるのがDisobedience規律違反、抗拒、役者たちはこれを「不服従」と訳しているのだが、日本軍人はすべての行動を上位者の命令、さらにその命令は大元帥・天皇陛下の命令だと思って文句なく従うように教育されていた、はずなのに、実は公式の命令と秩序を大胆に無視する逸脱行動を繰り返し、なんとそれが「軍人の文化」になっていたという。そこまで言っちゃっていいの?という気はする。確かに歴史の節々にそういった事件が刻まれているのは確かだが、それをやったのはごく一部の飛び抜けた個性をもった軍人で、問題は
それをはっきり処罰する決意をもてなかったことが、構造的な欠陥だったのではないか。
B.ミャンマーの民主化
ミャンマーの軍事政権のクーデターは、市民の抗議デモを力で弾圧する形で今も収まらない。軍事政権というものは、ほとんどの場合、軍人のもつ武力で反対する民衆を押さえつけながら、自分たちの考える国家を強引につくり出せると考えている。しかし、武器暴力で国民全部を支配できる政治など長続きできるものではない。国連総会で、民主化政権から送られているミャンマーの国連大使が、国際社会にむけて支援を求める演説をし、三本指のサインを送ったことが報道された。軍事政権は彼を解任し、帰国させて処罰すると伝えてきたが、いまだその職にあるという。
「三本指がさすところ:週のはじめに考える
親指と人差し指で輪をつくり、ほか三本を立てれば「OK」とか「お金」の意と解されましょう。でも、世界は広い。ある地域では「木曜日」を意味するとか。親指を、小指とくっつけて月曜日、薬指とくっつけて火曜日と順に。しかし、以前のニューズウィーク日本版の記事には驚きました。あの手の形がホワイトとパワーの頭文字WとPに見えることから、米国では白人至上主義者のシンボル化しつつある、と…。
ほかにも手指のサイン、あまたある中、私たちに一番なじみ深いといえば、やはりVサインでしょうか。では、人差し指、中指にもう一本、薬指も立てる「三本指のサイン」とはー。
ミャンマー民衆の怒り
最近、そのポーズを見たのは、ミャンマーの人々をとらえた写真でした。
かの国で、国軍によるクーデターが起きたのは二月一日。世界中に衝撃が走りました。長く軍事政権が続いたミャンマーに、民主化運動を率いたアウン・サン・スー・チー氏を中心とする政権が誕生したのはやっと2016年のことその後の民主化の歩みをクーデターが蹂躙したのです。全土で連日、反軍デモが続いており、国軍の強硬な鎮圧で多数の死者も出ています。その中で人々が掲げているのが「三本指のサイン」なのです。
由来は、独裁国家パネムを描く米SF映画『ハンガー・ゲーム』で、民衆が独裁への「抵抗」「反逆」の印として掲げるサイン。それが現実世界で、権威主義的な強権へのシンボルとして一般化したのは、14年に起きたタイの軍事クーデターの際だったといいます。
さらには、同年、若者らが民主化を求めた香港の「雨傘運動」でも象徴的なサインとして用いられました。
タイ、香港でも抵抗の印
その後、タイでは民政移管されましたが、軍の影響力を強く残す政体への不満から昨年、市民らのデモが頻発し、非常事態宣言が発令される事態に。今も国民の抵抗は続いています。香港でも、中国政府が香港国家安全維持法を土台にして、民主勢力を根絶やしにしようとする弾圧が苛烈さを増しています。街頭で決然と、あるいは心中で、今も、無数の三本指のサインが掲げられているのです。
ミャンマー国軍の総司令官がテレビ演説で語ったことが気になりました。曰く、経済、外交政策は継続、外国からの投資も歓迎すると。民主的体制をねじ伏せておいて、投資や経済の成長を維持できると考えているのでしょうか。
もっとも、そう考えてもおかしくない“手本”が近くにあるのも確かです。ステファン・ハルパー著『北京コンセンサス 中国流が世界を動かす?』の表現を借りれば〈「資本主義の道は歩むが、独裁国家の道は譲らない〉という新たなブランドを広めている」国―。そう、もちろん中国です。
同署も言うように、新興国は、民主主義+市場経済の「西側モデル」より、権威主義+市場経済の「中国モデル」に引きつけられる傾向が強まっています。今回のミャンマー国軍の行動と中国の直接の関係は不明ですが、その影響を思わずにはいられません。
顧みれば、中国にも、「政治改革」への意思が垣間見えた時期が確かにありました。まだ十年ほど前には、例えば時の温家宝首相が経済発展を続けるには「人民」の民主的権利の保証や国政運営への積極的な参加が必要だと公言したことさえ。あの空気は中国が権威主義+市場経済で成功しつつも深層に抱いていた、民主的でないことへの「後ろめたさ」の表出ではなかったでしょうか。
しかし、かすかにあったかもしれないそれも、12年以降、習近平体制が深化するにつれ、きれいさっぱりなくなっていく。現在の中国は、国家が国民を監視、管理するような権威主義が民主主義に優越していると「口だけ」ではなく「本心から」考えている。その“自信”が一層、磁力を強めているように思えてなりません。
試される民主主義世界
人々に、暮らし向きがよくなることと引き換えに、自由や権利を差し出させるような世界が広がっていいはずはありません。
しかし、対抗すべき「西側」にも、格差の拡大など問題が多い。第一、表現の自由への圧迫、異論を敵視する風潮など権威主義的な空気の浸潤が疑われる面さえあります。こうした課題を克服して自らを鍛え直せるか、今、民主主義世界が問われているということでしょう。タイで香港で、そしてミャンマーでー。人々が掲げるあのサインは、私たちにも向けられているのかもしれません。」東京新聞2021年3月28日朝刊5面、社説。
中国の政治体制、つまりここで権威主義+市場経済のセットと呼んでいるものが、不安定な途上国の多くで、西欧的近代化のモデル、つまり民主主義+市場経済のセットより人々の生活を向上させると考える勢力が増えていくのかもしれない。でも、それが武器暴力をもつ軍によって進められるのは、やはり長い目で見て人間を幸福にはしない、というのは歴史の教訓ではないだろうか。