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 軍人の叛乱について 3 反抗的な軍隊?  民主化のサイン

2021-03-29 14:36:03 | 日記
A.構造的な“バグ”
 イスラエル出身の歴史家ダニ・オルバフの『暴走する日本軍兵士』という本は、大日本帝国陸軍の内部に孕まれた「不服従の文化」を対象に、日本では従来一部軍人の例外的な逸脱と捉えて、あまり幕末の「志士」を範とするそのつながりを問題にしていなかったところに焦点をあてた。明治の陸軍創設から西南戦争、日清戦争、閔妃暗殺、張作霖爆殺、そして2.26事件と、過激派の陸軍軍人が上層部や法規を無視して、武力行使に訴える行動を起こし、それが一種の「文化」になっていたという指摘は、なるほどそういう見方もできるかと思う反面、多少の違和感も感じる。そしてぼくたちが、なんとなく陸軍軍人というものに対して抱いてきたイメージ、とくにいわゆる「昭和史」に登場する軍人たちの人物像に、ある種の毀誉褒貶をひっくるめて暴力的な「悪人」の印象をもっていたことを、逆に個人の属性に帰してしまって、構造的な「文化」としては捉えていなかったとも思う。この本の冒頭に、以下のような著者の全体的な問題設定が書かれている。

 「欧米人の多くは、大日本帝国陸軍が権力に対して無批判に服従していたと考えている。太平洋戦争中、上官の命令で死へと突き進む日本兵の姿は敵側に知れ渡り、欧米人に「家畜の群れ」や「蜂の集団」といった不気味な印象を与えた。オーストラリア人の従軍記者は次のように書いている。「私が見た日本兵の多くは、うつろな目をした去勢牛のような連中だった。(中略)彼らは持ち場から離れずに命を落とした。そうしろと命令されたからだった。自分の頭で考えることができないのだ」
 これは極端な例だが、日本兵が規律にひたすら従うという話は一理ある。実際、軍部は上官命令への絶対的な服従を重要視した。すべての軍人、とりわけ1920年代半ば以降の軍人に暗記が義務づけられ、即座に暗唱できなければならなかった『軍人勅諭』は次のように書かれている。「軍人は忠節を尽くすを本分とすべし(中略)一途に己が本分の忠節を守り、義は山岳よりも重く、死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」。しばしば将校も、命令があればためらうことなく死へと突き進んだ。それは、日本が戦ったほとんどすべての戦争で、将校の死傷者がかなり出ていることからわかる。1880年代にはじめて公布された陸軍刑法では、階級に関係なく命令違反をした将兵は厳罰に処す、と定められていた。
 それにもかかわらず、大日本帝国陸軍は、近代史上屈指の反抗的な軍隊であったと言っていいだろう。日本の将校は、再三にわたりクーデター、暴動、政治家の暗殺を起こした。この現象は1870年代と1930年代という二つのピークがあり、そのあいだの期間も、将校は政府や軍の最高司令部が下した命令に繰り返し抵抗しつづけた。クレイグ・M・キャメロンは、この「下位者が上位者を打倒」する下克上という現象は、「日本の軍隊文化を形づくるきわめて重要でユニークな概念である。(中略)中堅の参謀将校は、上官に逆らうことで国家政策を変えた。(中略)昭和天皇から最高司令部に至るまでの上位者は、自らの権威を回復することなく、何度も下位者の不服従に耐え、彼らの強引な手段を許容した」と書いている。
 この伝統は、日本近代史の非常に早い時期に始まった。1870年代は動乱の時代で、反体制派の軍人、政治指導者、かつての武士は、たびたび暗殺計画や反乱を企て、ときには公然と反旗を翻すことさえあった。19世紀末と1910年代から20年代にかけて、将校は外国の指導者を暗殺し、政治危機のさなかに文民内閣を転覆させた。1930年代になると、軍人の不服従はきわめて混沌とした形態になった。1931年、「桜会」という軍部のテロ組織が、日本政府をまるごと空爆で壊滅させようとした。その七か月後、反体制派の将校が犬養毅首相を暗殺した。それに続くクーデターは失敗したが、軍内外の暴力を伴うさらなる混乱のきっかけとなった。1935年、派閥抗争により、中心的な立場にあった将官が青年将校に斬殺された。
 そしてついに、1936年2月の大規模な軍事的反乱の渦中に、国家統制は財政的に崩壊した。千人以上の軍人が往来を占領し、数名の政府首脳が邸宅で殺された。イギリスの特派員ヒュー・バイアスは、第二次世界大戦中に書かれた著作の中で、「暗殺政治」という表現を使っている。バイアスによると、1930年代の将校は、暗殺を繰り返して文民政府を恐怖に陥れた。彼らは暴力で政治家を脅して外交政策の主導権を握り、際限のない軍拡へと舵を切り、しまいには太平洋戦争という最悪な事態へと突き進んでいった。
 日本軍人の不服従について研究した英語論文の中で、1930年代の反乱について注目したものはごくわずかだ。おそらくそれは、第二次大戦が目前に迫っているからだろう。そうした数少ない文献からわかるのは、反逆や暗殺が、この時期の日本政治を語るうえで欠かせない特徴になっていたということだ。しかし、反逆や暗殺というどう考えても異常な行動が、エリート軍人のあいだで、当然のこととして広く受け入れられていたことを説明できた著者は一人もいない。1935年に将官を殺害した青年将校は、何事もなかったかのように次の任務を行おうとした。桜会に殺されかけた要人が首謀者に下した罰は、たった25日間の謹慎処分だった。いやそれどころか、犯行グループは、将校団と一般大衆の両方から幅広い支持を得た。だが、支持者の中で、暗殺の原因の一端が軍部のややこしい議論や派閥抗争にあったことを知る者はほぼ皆無であったろう。彼らにとって重要なのは、暗殺者の「純粋な動機」だった。1930年代前半の日本では、将校の暴力行為は、「真摯な」愛国心が動機である限り、正当化され、美化されたのだ。
 日本軍についての主要な歴史学者が最近認めたように、1930年代における大日本帝国陸軍の反逆精神の根底にあるものは、依然として謎に包まれている。その謎を解く鍵は、過去数十年間の情勢の変化の中に存在する。日本において、軍人の反逆、抵抗、暗殺、陰謀がどのように当たり前になっていったのかを理解するには、軍人の不服従の歴史を知ることが不可欠だが、そのような長い期間の歴史は英語で書かれてこなかった。本書が初の試みである。
 軍人の不服従によって引き起こされた事件は、散発的でも偶発的でもなく、深い根をもつ歴史パターン、すなわち1860年代から1930年代までの日本の軍隊社会の一要素であった反逆と抵抗の文化に基づいていた、というのが私の主張だ。この文化のルーツと変遷をたどりながら、次の四つの大きな特徴について説明しよう。第一に、この文化は、コンピュータプログラムの「バグ」に相当する、日本の政治形態の構造的な欠陥によるものであった。第二に、この文化は、為政者が別の目標を達成しようとして一見合理的な決断を下した結果、思いがけず進展した。第三に、この文化は両義的で、武力による反逆と微妙ですぐにはそれとはわからない抵抗とが結びついていた。第四に、反逆と抵抗は長年にわたって交互に繰り返し、一方が他方を育み、作り直すという互恵関係にあった。
 ここでは「コンピュータプログラムのバグ」を、政治システムの基本構造の欠陥を指すメタファーとして使っている。コンピュータプログラムのバグと同様に、通常その欠陥は国家運営を妨げなかったが、ある状況において特定の条件が満たされた場合のみ、国家システム全体を最終的に弱体化させる深刻なエラーを引き起こした。第一のバグは、日本の政策に決して埋まることのない、反逆と抵抗が生まれる隙間を作り出し、日本の天皇制の本質と結びついていた。日本近代史学者の多くが認めているように、天皇の権威は、理論上は絶対だが、実際には非常に制限されていた。あとで詳しく論じるが、世間の目から隠されていた天皇は、自ら政策を決定することができなかった。しかし、天皇の「意向」は政治的正当性を表す最高のシンボルであったため、少数の指導者(「明治の元勲」として広く知られている)は、天皇の名を利用して国の実権を握った。
 しかし、この支配集団はある問題に直面した。公式には、天皇が政策決定者であり、元勲は天皇の助言者にすぎなかったのだ。そこで、天皇優位のイメージを維持するために、元勲は事実上の国の支配者である自分たちの地位を正当化しなかった。このような状況は、軍内外の反体制派にとって、無限に政府を批判できるということだった。反体制派は、自分たちのほうが、非公式に権力を保持している者たちよりも、天皇の隠された意向を体現している、といつでも主張できたのだ。あとで見ていくが、彼らは1877年の青年戦争から1936年2月26日のクーデターに至るまで、何度となくそのように主張した。こうした軍の蜂起は、他の不服従の行為と同様に、国の支配者に対して行われたものであり、天皇や国家に対しての反対行為はほとんどなかった。最も暴力的な形態をとった軍隊の反逆や抵抗でさえ、天皇を支持し、愛国的であったのだ。
 第二のバグは、軍人の反逆や抵抗への対処を難しくした。それは、国家イデオロギーのある種の特徴と関係があったからだ。明治政府の基本方針は富国強兵だった。そのため、軍部の反体制派は、政府よりも迅速かつ毅然とした態度で独自に帝国拡大の道を突き進むことで、反対姿勢を明確に打ち出すことができた。そのような軍人の態度は、しばしば他国への未承認の軍事行動という形を取った。政府は、国家イデオロギーとして不断の領土拡大を掲げていたため、たとえ反体制派将校のやり方が許せなかったとしても、彼らの「功績」を取り消すことはできなかった。とどのつまり、そのような「愛国者」は、政府と同じ目標に向かって努力していたため、彼らだけを処罰することは難しかったのだ。
 第三のバグは、軍人の不服従をさらに過激化した。それは、国家イデオロギーのもう一つの特徴である「根本的曖昧性」に由来するものであったからだ。日本の国家目標が富国強兵であることは誰の目から見ても明らかであったが、その限度を理解している者は皆無だった。国家政策は、しばしば帝国が無限に成長していくイデオロギーであると解釈された。その結果、いつになっても軍部の反体制派の渇望は癒やされず、理想がかなうこともなかった。大日本帝国がどれだけ拡大しようとも、不満を抱えた将校たちは帝国のさらなる拡大の必要性を唱え続けることができた。かくして、前述の三つのバグは、帝国陸軍内で反逆と抵抗が起こる余地を生み出し、軍人たちにイデオロギー的な後押しと限りない口実を与えることになったのだ。
 しかし、この三つのバグは舞台装置でしかない。この三つのバグにより、軍人の不服従が発生する可能性が高まったが、バグ自体が軍人の不服従の発生を避けられないものにしたわけではない。実のところ反逆と抵抗は、さまざまな人間が何十年にもわたって行ってきた、数多くの政策決定の予期せぬ結果だった。仮に、いくつかの決定が違っていたら、もっと緩やかな変遷であったかもしれないし、抑制することさえできたかもしれない。さまざまな関係者――将校であれ、政治家であれ、警察であれ――が問題の解決を試みたが、軍人の不服従を助長する意図はなかった。それにもかかわらず、彼らの行動は予想外の結果を生んでしまった。
 関係者の決断によって意図せず生まれた軍人の不服従は、政府の方針に対する武力を伴う反逆と[暗黙のうちの]抵抗という二つの形態を取っており、その主要な出来事はそれぞれ異なった時期に発生している。本書では、反逆と抵抗の項後の発生を、1860年から1936年(日中戦争直前)までの76年間、時系列に沿って考察している。江戸幕府は、1860年代に、「志士」(高い志をもった武士)という急進的な武士たちが結成した革命連合によって倒された。このような従順でない武士たちのイデオロギーと組織形態は、何世代にもわたって日本の反抗的な将校に受け入れられた。何よりも、志士はさまざまな理由から1870年代の新政府に敵対することになった反逆者に影響を与えた。初期に起きた軍人の不服従に驚きはない。なぜなら、親政府は発足したばかりで強固な支配体制が確立されておらず、その真価が未知数であったからだ。
 皮肉なことに、政権基盤が脆弱だった時期に生まれた軍人の不服従のパターンが、国内の結束後も存続することができたのは、1870年代の大変革に対する政府の対応に原因があった。1877年の大規模な反逆[西南戦争]の鎮圧後に実施された軍隊の改革は、その後数十年にわたって軍人の不服従を抑制することに貢献したが、未承認の軍事行動(1895年[閔妃暗殺]と1928年[張作霖暗殺])や無血クーデター(1912~3年[大正政変])の形態で国家権力に抵抗する傾向を育むという予期せぬ結果を生んだ。このような軍人の抵抗は、過去の武力を伴う反逆の基本的特徴の一部を、休眠状態で保存した。抵抗は次第に過激な性質を帯び、ついに1931年から1936年までの新たな反逆の波の中で爆発した。要するに本書は、1877年の軍隊改革で国家権力によって抑制された軍人の不服従という現象が、なぜそしていかにして50年後に再び爆発し、日本が軍国主義、無制限の領土拡大、世界大戦へと向かう原因になったのかという疑問に答えているのである。」ダニ・オルバフ『暴走する日本軍兵士』長尾莉紗・杉田真訳、朝日新聞出版、2019年、pp.18-24.

 この本のキーワードとなるのがDisobedience規律違反、抗拒、役者たちはこれを「不服従」と訳しているのだが、日本軍人はすべての行動を上位者の命令、さらにその命令は大元帥・天皇陛下の命令だと思って文句なく従うように教育されていた、はずなのに、実は公式の命令と秩序を大胆に無視する逸脱行動を繰り返し、なんとそれが「軍人の文化」になっていたという。そこまで言っちゃっていいの?という気はする。確かに歴史の節々にそういった事件が刻まれているのは確かだが、それをやったのはごく一部の飛び抜けた個性をもった軍人で、問題は
それをはっきり処罰する決意をもてなかったことが、構造的な欠陥だったのではないか。


B.ミャンマーの民主化
 ミャンマーの軍事政権のクーデターは、市民の抗議デモを力で弾圧する形で今も収まらない。軍事政権というものは、ほとんどの場合、軍人のもつ武力で反対する民衆を押さえつけながら、自分たちの考える国家を強引につくり出せると考えている。しかし、武器暴力で国民全部を支配できる政治など長続きできるものではない。国連総会で、民主化政権から送られているミャンマーの国連大使が、国際社会にむけて支援を求める演説をし、三本指のサインを送ったことが報道された。軍事政権は彼を解任し、帰国させて処罰すると伝えてきたが、いまだその職にあるという。

 「三本指がさすところ:週のはじめに考える
 親指と人差し指で輪をつくり、ほか三本を立てれば「OK」とか「お金」の意と解されましょう。でも、世界は広い。ある地域では「木曜日」を意味するとか。親指を、小指とくっつけて月曜日、薬指とくっつけて火曜日と順に。しかし、以前のニューズウィーク日本版の記事には驚きました。あの手の形がホワイトとパワーの頭文字WとPに見えることから、米国では白人至上主義者のシンボル化しつつある、と…。
 ほかにも手指のサイン、あまたある中、私たちに一番なじみ深いといえば、やはりVサインでしょうか。では、人差し指、中指にもう一本、薬指も立てる「三本指のサイン」とはー。
 ミャンマー民衆の怒り
 最近、そのポーズを見たのは、ミャンマーの人々をとらえた写真でした。
 かの国で、国軍によるクーデターが起きたのは二月一日。世界中に衝撃が走りました。長く軍事政権が続いたミャンマーに、民主化運動を率いたアウン・サン・スー・チー氏を中心とする政権が誕生したのはやっと2016年のことその後の民主化の歩みをクーデターが蹂躙したのです。全土で連日、反軍デモが続いており、国軍の強硬な鎮圧で多数の死者も出ています。その中で人々が掲げているのが「三本指のサイン」なのです。
 由来は、独裁国家パネムを描く米SF映画『ハンガー・ゲーム』で、民衆が独裁への「抵抗」「反逆」の印として掲げるサイン。それが現実世界で、権威主義的な強権へのシンボルとして一般化したのは、14年に起きたタイの軍事クーデターの際だったといいます。
 さらには、同年、若者らが民主化を求めた香港の「雨傘運動」でも象徴的なサインとして用いられました。
 タイ、香港でも抵抗の印
 その後、タイでは民政移管されましたが、軍の影響力を強く残す政体への不満から昨年、市民らのデモが頻発し、非常事態宣言が発令される事態に。今も国民の抵抗は続いています。香港でも、中国政府が香港国家安全維持法を土台にして、民主勢力を根絶やしにしようとする弾圧が苛烈さを増しています。街頭で決然と、あるいは心中で、今も、無数の三本指のサインが掲げられているのです。
 ミャンマー国軍の総司令官がテレビ演説で語ったことが気になりました。曰く、経済、外交政策は継続、外国からの投資も歓迎すると。民主的体制をねじ伏せておいて、投資や経済の成長を維持できると考えているのでしょうか。
 もっとも、そう考えてもおかしくない“手本”が近くにあるのも確かです。ステファン・ハルパー著『北京コンセンサス 中国流が世界を動かす?』の表現を借りれば〈「資本主義の道は歩むが、独裁国家の道は譲らない〉という新たなブランドを広めている」国―。そう、もちろん中国です。
 同署も言うように、新興国は、民主主義+市場経済の「西側モデル」より、権威主義+市場経済の「中国モデル」に引きつけられる傾向が強まっています。今回のミャンマー国軍の行動と中国の直接の関係は不明ですが、その影響を思わずにはいられません。
 顧みれば、中国にも、「政治改革」への意思が垣間見えた時期が確かにありました。まだ十年ほど前には、例えば時の温家宝首相が経済発展を続けるには「人民」の民主的権利の保証や国政運営への積極的な参加が必要だと公言したことさえ。あの空気は中国が権威主義+市場経済で成功しつつも深層に抱いていた、民主的でないことへの「後ろめたさ」の表出ではなかったでしょうか。
 しかし、かすかにあったかもしれないそれも、12年以降、習近平体制が深化するにつれ、きれいさっぱりなくなっていく。現在の中国は、国家が国民を監視、管理するような権威主義が民主主義に優越していると「口だけ」ではなく「本心から」考えている。その“自信”が一層、磁力を強めているように思えてなりません。
 試される民主主義世界
 人々に、暮らし向きがよくなることと引き換えに、自由や権利を差し出させるような世界が広がっていいはずはありません。
 しかし、対抗すべき「西側」にも、格差の拡大など問題が多い。第一、表現の自由への圧迫、異論を敵視する風潮など権威主義的な空気の浸潤が疑われる面さえあります。こうした課題を克服して自らを鍛え直せるか、今、民主主義世界が問われているということでしょう。タイで香港で、そしてミャンマーでー。人々が掲げるあのサインは、私たちにも向けられているのかもしれません。」東京新聞2021年3月28日朝刊5面、社説。

 中国の政治体制、つまりここで権威主義+市場経済のセットと呼んでいるものが、不安定な途上国の多くで、西欧的近代化のモデル、つまり民主主義+市場経済のセットより人々の生活を向上させると考える勢力が増えていくのかもしれない。でも、それが武器暴力をもつ軍によって進められるのは、やはり長い目で見て人間を幸福にはしない、というのは歴史の教訓ではないだろうか。
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 軍人の叛乱について 2 2.26事件の結末  オリ・パラやるの?

2021-03-26 11:11:51 | 日記
A.2.26事件(続き)
 2.26事件と呼ばれるけれども、青年将校が部下の部隊を率いて「蹶起」し政府要人を襲撃殺害したのが、2月26日早朝。それから、事件が首謀者逮捕で一件落着したのは、29日昼。4日近くも軍上層部や政府、そして宮中は混乱と決断できない混迷に陥っていた。それを、はっきりと「反乱軍を鎮圧せよ」と命じたのは昭和天皇だった。「陛下の御為」と事を起こした青年将校たちが、陛下に一言真情を伝えたいと懇願したのに、反乱軍の賊には聞き耳もたぬと天皇に拒否されるのは最大の皮肉だが、どうも首謀者たちは、まじめに天皇が望んでいることを自分たちがやるのだ、と錯覚していたようなのだ。

 「午前遅く、荒木や真崎など行動派の有力者を含む軍事参議官たちが非公式の会議を開き、堀と香椎が封じ込め戦略を提案していたことと、青年将校に共感する声が強かったことから、反乱軍に対して比較的好意的な結論が出された。全員の合意のもと、川島陸相名で戒厳を発することに決定した。そして翌日の午前二時五〇分、反乱軍の占領地域のみに戒厳が布かれた。戒厳司令官には香椎中将が任命された。川島が署名した反乱軍宛ての告示文では、参議官らは青年将校の動機が国体の概念に沿うものであることを認め、彼らの要求を天皇に伝えることを約束し、彼らの目標の達成に向けて善処するという曖昧な表現をした。
 香椎中将は東京の全部隊に青年将校たちを攻撃しないよう命じた。そして反乱部隊には戦時警備を下令し、配置場所にとどまるよう指示を出した。つまり、一時的に反乱軍を正規の指揮系統下に入れたのである。さらに香椎は、前述の告示の初期案の内容を電話で書き取らせた。初期案はより急進的で、軍参議官らが反乱軍の動機だけでなく行動も支持することを示すものだった。この通話内容は正式な告示として確認されたのち、午后三時二〇分に東京警備司令部が下達した。
 陸相に青年将校が「義軍」か「賊軍」か判断させる助言をした山口一太郎中隊長は、上官の指示を受けて青年将校たちのもとを訪れ、よい知らせを届けた。当然ながら青年将校らは安堵し、いくつかの証言によると勝利を宣言して踊り始めたという。山口と同様、彼らは警備司令部の告示によって決着がついたと信じた。天皇の指揮系統に編入された自分たちはつまり、反乱軍ではなく正義の軍だということだ。午後七時、青年将校部隊は歩兵第一連隊長が率いる新編成部隊に統合され、本部から暖かい食事も届けられた。ただ、軍は公式に彼らを「義軍」あるいは「賊軍」としては定義せず、「軍人活動家」など曖昧な表現で濁した。「義軍」か「賊軍」かの決定はあとに持ち越された。それは当然ながら、政治や戦場における力関係によって決まるものだった。
 午後九時、七人の軍事参議官が数人の参謀を連れ、グーデターの首謀者に会うため陸相官邸を訪れた。行動派の将官である荒木と真崎が反乱軍の指導者たちと話した。香田が青年将校を代表し、クーデターに反対した文民および軍人の指導者を逮捕するよう改めて求めた。さらに、統制派の将校を排除し、「強い内閣」をつくり、昭和維新を宣言するよう要求した。荒木の回答は丁寧ながら毅然としたものだった。正当な理由なしに立派な年長者を逮捕するのは不適切だと荒木は言った。また、内閣は天皇の承認により組織されるのであって軍事参議院の権限ではないと指摘した。さらに真崎が、維新に関しても軍事参議院は宣言する立場にないと付け加えた。だが真崎は、自身も他の軍事参議官も青年将校の目的には理解を示していると納得させた。そして、無条件に軍事参議院など上の者を信じ、すべて自分たちにまかせるよう伝えた。また、最終的な決定は天皇に委ねられており、天皇の命令に逆らうものは誰であれ敵とみなされると忠告した。
 この会話が行われたとき、先の見えない緊張状態の中で政府は混乱し麻痺していた。天皇に対する新たな首相の推薦を担うことの多かった西園寺は、自らの命を守ろうとして東京に寄りつかなかった。その役割はただちに他の権力者たちが手に入れようとした。二月二六日夜まで、参謀本部の中堅将校は自分たちが主導権を握れるものかどうかと迷っていた。正午までには、軍事課長の村上啓作が河村参郎と岩畔豪雄に「維新大詔」の草案作成を命じた。夜には、満州事変を首謀した石原莞爾大佐、相沢の弁護人である満井佐吉、桜会を率いた橋本欣五郎がが帝国ホテルで維新について話し合った。軍の不服従文化に深く絡んでいるこの三人は、陸軍が維新を先導して新たな首相を任命すべきだという考えで一致した。だが、次の首相候補については意見が分かれた。青年将校に近い思想をもつ満井は、真崎大将が次期首相にふさわしいとした。橋本は、三月事件で自分の後援をした建川大将を推した。一方、石原は親王の地位にある者が就くべきだと考えた。結局その会合で三人が意見の違いを乗り越え、混乱を裏から支配する派閥をつくることはできなかった。
 参謀本部の将校が踏みきれなかったために、いまや下層の黒幕の影響力が比較的弱くなったにもかかわらず陸軍を指導する者が決まらなかった。反乱軍が武装し、天皇が宮中に身を潜めている限り、行動は指導者の荒木と真崎が有利な立場にあった。結局のところ、反乱軍と話ができ、東京の中心部で自らを政治の切り札と出来るのは彼らしかいなかったからだ。一方で青年将校の立場は弱かった。軍事参議院と協力することで彼らは軍の指揮系統に再び統合され、その命運は上層の同調者に委ねられることとなった。だが、磯部があらかじめ仲間たちに警告したとおり、この依存関係は非常に危険だった。皇道派の将官さえも信頼はできない、と磯部は言った。
 ここにも反乱軍の根本的な欠陥が見られる。一八七〇年代の反乱者たちと同様、絶体的なリーダーシップが欠けていたことで権力の分散が起こり、結局誰も決定権を持たない状態になった。しかも、青年将校の戦略は混乱していた。のちに磯部が記したところによると、暗殺の波に対する陸軍の反応を予測できなかったため綿密な計画が立てられなかったという。だが、それこそが問題だった。彼らは二つの異なる戦略の間で身動きが取れなくなっていた。一つ目の戦略は、五・一五事件に倣い、要人を何人か殺したあとは引き下がって軍指導部に残りの改革をまかせ、荒木の言葉で言えば「その精神が天皇に伝わったことに満足する」というものだった。そのためには大まかな計画だけでよかった。一方で、本格的なクーデターを起こし、武装状態で維新を実行するのがもう一つの戦略だった。だが、そのように複雑な政治的行動に出るには徹底した計画が必要だった。二・二六事件の首謀者たちは、一つ目の戦略に従うかのように事前計画を十分に行わず、あまりに多くを陸軍上層部の裁量に委ねていた。それでいながら、二つ目の戦略、つまり大規模なクーデターを適切な準備なしに実行した。
 その結果、東京警備司令部の高官がのちに記したように、暗殺が済むとすぐに反乱軍の動きは止まった。さらに多くの敵を殺害して恐怖を拡大しようともしなければ、占領地域の近くにあった軍事および民間の通信施設を乗っ取ることもせず、参謀将校に命令させて東京にいる部隊のうち暴動に肯定的なものを招集することもしなかった。さらに地方の支持者や、東京の軍隊学校、予備役組織、民間右翼団体から事前に人員を集めることもしなかった。また、長引く包囲戦を耐えるに足る食糧もなかった。そもそも十分な物資を用意していたとしても、軍本部が都心の占領を無期限に許すわけがない。自ら軍の指揮系統から外れられなくなったことで反乱軍は不利な立場に立った。それでも、軍指導部が東京都心での衝突を恐れていたため、しばらくは不安定なバランスが保たれた。
 霞を払ってー―昭和天皇の決断
 この事件の一部始終を見ていたイギリス人特派員のヒュー・バイアスは、次のように当時を思い返す。東京は「汚れた雪の中、いっさいの人影がなかった。普段目にするものはすべて通りから姿を消した。学校は閉鎖されていた。街に入る列車はなく、路上には車一つ走っていない。東京は最終決戦のために隔離されていた」。
 この切羽詰まった状況で、すべての目は霞がかった天皇の存在に集まった。反乱軍が皇室側近を排除したり捕縛したりしなかったことで、天皇の周りは彼らに反感をもつ顧問が囲んでいた。そして何より、天皇自身が青年将校や皇道派の大言壮語と常態的な不服従をひどく嫌っていた。重臣たちを殺されたことに激怒し、さらに経済への悪影響を懸念した天皇は、反乱軍を打ち倒すと心に決めた。川島陸相が謁見して反乱軍の要求を伝えようとしても天皇は耳を貸さず、「彼らの言い分が何であれ、不愉快な事件だ。国家の名を汚すものである」と答えた。そして、反乱軍の逮捕を明確な言葉で川島に命じた。その後は20~30分おきに本庄繁侍従武官長を呼び出し、暴動鎮圧にどのような措置が取られているか最新情報を求めた。
 この天皇の行動は政治上および制度上の観点から理解しなければならない。国家に君臨するが統治はしないという天皇の立場では、詔勅を出して政府高官を自分の意向通りに動かすことはできても、自ら直接手続きを取る手段はなかった。第八章で述べたように、張作霖暗殺事件後に天皇は命令がどのように実行されているか経過を追うことはできず、結局陸軍は命令通りに動かなかった。だが今回、天皇はいくらか有利な立場にあったため、前よりも事態の主導権を握ることができた。麻痺状態にある文民および軍の組織が天皇の意思に目を向けたことに加え、皇室顧問のほかにも反乱鎮圧に詔勅を利用したいと望む権力者が多くいたからである。その時の参謀本部は統制派が支配し、海軍は岡田、鈴木、斎藤という三人の退役将官を反乱軍が襲ったことに激怒していた。反乱軍が無力化しなかったこれらの組織は天皇の意思を実行することができた。青年将校が軍の対立勢力を排除しなかったことは、彼らにとって致命的な結果をもたらした。
 だが、川島陸相、香椎東京警備司令官、そして皇道派幹部の影響によって、天皇の命令はなかなか実行されなかった。二月二七日の全日および二八日の大半にわたり、青年将校に少しづつ平和的に武装を解かせるよういつまでも説得が試みられた。二の足を踏む高官たちに対して、天皇は介入の量と厳しさを徐々に増すことで即座の行動を訴えた。本庄侍従武官長には、反乱者が直ちに制圧されないのであれば、自分が近衛師団を率いて直接鎮圧にあたると繰り返し伝えた。
 本庄は軍の不服従文化に深い関わりをもつ人物だった。一九三一年には関東軍司令官として満州事変を指揮した。彼は青年将校の考えにいくらか共感し、義理の息子である山口一太郎大尉を介して個人的なつながりももっていた。天皇に拝謁した際、彼はそれまでどおりの主張を試みた。反乱軍の行いは間違っているが、その動機は愛国心で純粋なものであると本庄は言った。だが、天皇はその弁明をはねのけてこう言った。「私の手足である老臣を殺戮した狂暴な将校たちを許せるはずがない。私が最も頼みとする大臣たちを殺すことは真綿でわが首を締めるに等しい」。さらに、反乱軍との交渉による和解を目指す香椎中将の方針に対するいら立ちあらわにした。本庄が記したところによると、「陛下は戒厳司令官が慎重すぎるため不必要に措置が先延ばしになっていると感じておられた」。
 (中略)
 青年将校の天敵の一人である杉山元参謀次長は討伐命令を出そうとしたが、セット喰い寄って反乱軍を自決させられると考えた香椎や複数の軍事参議官がそれを止めた。そして何度かの議論の末、反乱指導者の多くがその高潔な解決手段を受け入れた。栗原と香田は泣き出し、涙声で天皇に自分たちの精神を伝えてほしいと頼んだ。それから勅使を派遣してもらい、その者に自決を求められればそのとおりにすると言った。それは自らの名誉を守るためだけでなく、彼らのイデオロギーの基盤である天皇との直接のつながりを保つための必死の訴えだった。そのことをよく理解していた天皇は、怒りをこめてその要求を拒絶した。本庄侍従武官長は次のように記す。「陛下は非常な不快感を示してこう言った。『自殺を望むなら勝手にさせればよい。このようなものどもに勅使の派遣など論外だ』」。天皇は激怒し、ただちに反乱を鎮圧しなければ第一師団を他の者に指揮させると荒々しい口調で言った。
 二九日早朝、軍上層部は煮え切らない話し合いをついに終わらせた。」ダニ・オルバフ『暴走する日本軍兵士』長尾莉紗・杉田真訳、朝日新聞出版、2019年、pp.350-363.

 2.26事件は、いろいろ小説や映画にもとり上げられているが、ひとつの分かりやすい物語として描かれるのは、当時の日本は大不況の中にあって、東北農村などでは悲惨な貧困飢餓がすすみ、その原因を政府財閥・特権階級の利己的権力の強欲とみた純粋な青年将校たちが立ち上がったのだ、というお話。たとえば高倉健主演の『動乱』(森谷司郎監督1980年)では、主人公の大尉が、部下の兵士が貧しい東北農家の出身で姉が身売りするときいて隊を脱走し処刑されるのを見て、正義感から青年将校の世直し「昭和維新」の中心メンバーになり、2.26事件を起こして銃殺になるところまでを描く。身売りされた姉の吉永小百合を助けて妻にするというおまけもつけてある。しかし、これは歴史の真実といえるのだろうか?
 「昭和維新」のイデオロギーは北一輝「日本改造法案大綱」や大川周明などの思想に影響されたものといわれるが、それが天皇による社会変革というプログラムを含んでいたゆえに、2.26の指導理念になり、北も処刑されることになった。ただそれは、農民の塗炭の苦しみを救う、というようなヒューマニズムから来るというよりは、西洋の帝国主義的資本主義とソ連の共産主義という当時の世界の2つの主潮流に対して、天皇というマジックを使った革命こそ日本が追求するべき道だという、かなり空想的プランであって、それに感化された知的には未熟な狂信的若者たちが、たまたま武器と兵士を手にしていたために、首都占領というような妄想を実行してしまったということではないか。


B.それでもやるのか?
 オリンピック・パラリンピックは、いよいよ聖火リレーがスタートと相成ったようだが、常識的に考えて、それでもどうしてもやっちゃいたいわけ?疑問はかなり多数の意見となりつつある。べつに芸能人、有名人が個々にどういう判断をするかは自由だとしても、世間大衆の感覚に敏感であるのが芸能人・有名人だとすれば、当然影響は大きくぼくたちに響いてくる。「コロナ禍を克服した象徴として」の五輪という言葉自体が、むなしく響く。無観客だろうが、不参加が相次ぐだろうが、どうしてもやる、というのが最大の内閣の自己目的になってきた。

­­­­­­
 「東京オリンピックの聖火リレーが始まった。新型コロナウイルスの影響で冷え込んだ五輪の機運醸成が使命である反面、拡大を避けるため沿道に観衆が殺到するような「過熱」を招いてはならない。7月23日の開幕まで121日間、ジレンマを抱えて全国を巡る。
 東日本大震災の被災地・福島県から走り出す聖火リレーは揺らいでいる。スタート当日に落語家の笑福亭鶴瓶さんがランナーの辞退を発表するなど、著名人の「辞退ドミノ」はその表れだ。
リレー出発の1か月ほど前から大会の盛り上げ役として期待されてきた著名人ランナーの辞退が相次いだ。表向きの理由は「スケジュールの都合」が多いが、意義を見いだせずにいる人も少なくないとみられる。2012年ロンドン・パラリンピックの競泳金メダリストの秋山里奈さんは「五輪・パラリンピックをこのコロナの状況で実施すべきなのか」と疑問を抱いて辞退した。当初、リレー初日には俳優の香川照之さんや東京五輪男子マラソン代表の大迫傑選手、アイドルグループ「TOKIO」のメンバーらが走る予定だったが、いずれも辞退した。
スタート地点を巡っては、3月に寒さが残る東北より、1964年東京五輪の出発地だった沖縄から桜前線とともに北上する案もあった。しかし、復興五輪を強調するため、福島第一原発事故の風評被害などの影響があった福島が18年に選ばれた。だが、延期決定後の1年間は「コロナに打ち勝った証」としての五輪が強調され、復興五輪は薄らいだ。」毎日新聞2021年3月25日朝刊。

 どうしてもオリンピックはやるべきだという人たちは、それが「日本を元気にする」「国民を勇気づける」「経済にもおおいにプラス」と言ってきたが、どうもみんな裏目に出そうな危惧のつのる状況である。中止したら大きな損失・禍根を残すというのだろうが、そういってもっと大きな禍根に邁進した昔の記憶もある。かつて東京オリンピックが最初に予定されたときも、似たような目標が掲げられたが、日本から始めた戦争で消えてしまった。なんだか、あの幻の東京五輪が繰り返される歴史の皮肉にならなければ…と思うけれど…。
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軍人の叛乱について 1 「2.26事件」ってなんだったのか

2021-03-23 18:01:22 | 日記
A.Disobedient 不服従の伝統
 今年はじめからこのブログでは、戦争の記憶、戦争と性暴力といった本を読んできたのだが、区の図書館でいろいろ文献を探していたら、日本の戦争と軍隊に関するちょっと変わった本があったので借り出して読んだ。もとは英語の研究書で邦訳版が2019年に朝日新聞出版から出たダニ・オルバフ著『暴走する日本軍兵士』長尾莉紗・杉田真訳である。どこが変わっているかというと、まず著者のオルバフ氏の経歴は、1981年イスラエル生まれで、ハーバード大で歴史学の博士取得。専門は軍事史、日本および中国現代史。イスラエル軍情報部に勤務後、テルアビブ大学、東京大学、ハーバード大学で歴史学と東アジア地域学を学ぶ。現在はエルサレム・ヘブライ大学アジア学部の上級講師とある。イスラエル出身の日本史研究者というのはちょっと珍しいし、さらに内容は明治維新の志士にはじまる「不服従の伝統」が明治の陸軍に響きわたり、昭和維新の叛乱、そして敗戦までつながるという、ぼくたちのなじんだ近代史とはかなり視点が異なるような箇所があちこちにあるが、まだアラフォーの若手歴史家として日本語の資料文献もかなり読みこんでいるとは思う。まずは山場である2.26事件の記述。

 「二・二六事件――天誅
 二月二六日午前四時三〇分、歩兵第一及び第三連隊と近衛歩兵第三連隊の兵士一四〇〇人あまりが激しい吹雪に紛れて、[雪は降っていなかったとする説もある]兵舎を出た。拳銃、短機関銃、重機関銃、そして大量の弾薬を装備したが、食糧はほとんどもたなかった。決着はその日のうちにつける計画だった。出発前、将校が部隊の前で「蹶起趣意書」を読み上げ、これから新たな維新を起こすと伝えた。士気を上げるため、首謀者たちは正義のための自己犠牲を称えた志士指導者、高杉晋作の有名な句になぞらえて三銭切手を軍帽に縫いつけた。その句は「浮世値三銭」(苦と楽を差し引きすれば、浮世の値はわずか三銭である)というものである。
 栗原安秀中尉は、「君側の奸」、つまりその存在自体が維新の邪魔となる要人たちの排除を指揮した。これら「君側の奸」のうち最重要なのは間違いなく岡田啓介首相だった。午前五時、栗原の部隊が首相官邸に到着した。栗原はすべての出口に武装した兵士を配置し、部隊とともに建物に突入した。部隊の一部が警備隊と戦っているあいだ、他の兵士たちは岡田を探した。巨大な首相官邸の構造に関する事前情報は得ていなかった。職員が電線を切断すると、暗闇の中で動かなければならなくなった。中庭に寝間着姿の男がいたため銃で撃った。実際その男は岡田の義弟だったが、栗原はその死体を岡田だと誤認し、部隊が官邸を取り囲んで封鎖するよう命じて自分は陸相官邸に向かった。そのあいだ、岡田は使用人の助けで押入れに隠れ、のちに建物の外に脱出した。
 他の部隊も優先度の高い「君側の奸」排除のため動いていた。高橋是清蔵相の殺害は最も簡単だった。近衛歩兵第三連隊の中橋基明中尉は部隊を高橋の私邸近くに集め、高橋の「罪」、とりわけ陸軍の予算拡大要求拒否について伝えた。その後、就寝中の高橋を見つけた。中橋は「天誅」と叫んで高橋を撃ち、別の将校も彼に斬りつけた。そのころ、坂井直中尉率いる部隊は、海相と首相を務めた経験もある斎藤実内大臣を殺害した。斎藤の妻は夫の前に立ち、「撃つなら私を撃ちなさい。国はこの人を失ってはいけない」と言った。反乱軍は妻を負傷させて斎藤を殺し、天皇を称える万歳をした。坂井は待機していた部隊のもとに戻って血まみれの両手を見せ、「見よ!これが邪悪な反逆者、斎藤の血だ」と言った。
 二時間後、斎藤を殺害した部隊が渡辺錠太郎教育総監の私邸に到着した。渡辺の妻が現れ、彼らに日本軍かと尋ねた。それに対して安田優少尉は「私どもは渡辺閣下の軍隊ではない。天皇陛下の軍隊である」と答えた。この騒ぎに目を覚ました渡辺は、布団に隠れて侵入者を銃で狙った。だが、敵の数が多過ぎた。渡辺は拳銃の銃弾二発と機関銃の射撃を受けたのち、最後は慣例通り軍刀でとどめを刺された。一方、二人の暗殺者は失敗した。鈴木貫太郎侍従長は重傷を負い、妻は反乱軍に彼を置いて出ていくよう説得した。死亡したと考え軍人たちはその場を去ったが、のちに鈴木は傷から回復した。前内大臣の牧野伸顕伯爵は、看護婦と警官、そして孫娘の助けを借りて裏口から脱出した。
 一方、反乱軍が驚くほどの自制を見せた面もあった。主な要人の暗殺が済んだ午前、栗原率いる部隊は陸軍および昭和維新に敵対的だと見なした東京朝日新聞本社を襲撃した。彼らは「非国民」である同社に「天誅」を下すと宣言した。だが社員を殺すことはせず建物から立ち退かせ、二階に上がって印刷に使う活字を散乱させただけだった。野中四郎大尉率いる部隊は警視庁を取り囲み、二人の高官と話をして蹶起趣意書を渡した。このとき反乱軍は銃撃戦を望んでおらず、誰の血も流すことなく占拠した。この点について言えば青年将校は、前章で述べたように外務省などの全職員を虐殺しようとした桜会より残虐性が低かった。このように、自制と過激な暴力行為が奇妙に併存したことが二・二六事件の主な特徴である。
 雪中の光――中橋中尉と、宮中へつながる門
 反乱軍は曖昧に存在する国家君主の政治的重要性を十分に認識し、中橋基明中尉率いる近衛第三連隊が宮城への入口の一つである坂下門を占拠することにした。彼らが憧れる明治維新の志士もかつて京都御所でクーデターを起こしたことから、こうした行動は許されると考えた。明治の革命家たちは自分たちの手で天皇を動かしてはじめて、正当な理由のもと幕府を倒して維新を起こす力をもったのである、と。
 計画では、混乱に乗じて中橋が宮城守衛隊の緊急援軍として坂下門を警備する許可を上から得て、「邪悪な」侍従や皇室顧問の入場を防ぐ予定だった。規定上、要人が宮城に入るには坂下門しか使えないことになっていたため、反乱軍がいると知らなければ必ずこの門に来る。そこを機関銃で迎え撃てばいい(ただし、これは中橋をはじめとする誰もはっきりとは言及していない)。次の段階は、仲間の反乱部隊を呼んで他の門も包囲し、宮城全体を占拠することだった。62人しかいない中橋の部隊が援軍なしで全守衛隊を圧倒することは不可能であるため、仲間の到着までそこで待機する許可をその場の指揮官から得なければならなかった。幸い、中橋の中隊はその週の当直であったため、彼が門前にいても理由はつけられた。
 宮城の周りに部隊を配置しようとする中橋の試みは、初めはうまくいきそうに思えた。近衛部隊による蔵相暗殺を知っていた宮城守衛部隊司令官は、反抗的だという評判と乱れた外見から中橋に疑いをもったものの、坂下門前での部隊配置を許可した。だが結局反乱軍の作戦の効果はなく、木戸幸一など複数の天皇側近が無事に宮中に入った。中橋は計画の次の段階として、濠の向こうわずか900メートル先の警視庁にいる野中大尉に援軍を求める連絡をすることにした。警視庁の望楼では野中の部下が宮城からの合図を待っていた。合図を受ければ野中が近くで待機する安藤大尉の部隊に援軍を養成する予定だった。なぜ中橋は安藤に直接使者を送らず、わざわざ野中を通すことになっていたのか?こうした余計なやりとりからも彼らの事前計画の粗さがわかる。
 援軍の要請は失敗した。警視庁で待機していた部隊は、雪で視界が悪かったためか、中橋が懐中電灯で送った信号に気づかなかった。中橋は手旗でも合図を送ったが、それも届かなかった。一説には、中橋の使者が警視庁に到着したが、天皇の尊厳を傷つけたくないとして野中が動かなかったとするものもある。
 援軍が向かっているだろうと確信していたと思われる中橋は、守衛隊司令官のもとに歩み寄って見せつけるように銃を机に置き、宮城守衛の権限を渡すよう要求した。ついに手の内を見せた中橋は、昭和維新が開始されたこと、仲間の部隊がまもなく宮城に到着することを司令官に伝えた。驚きと怒りに襲われた司令官は中橋を一室に軟禁したが、これは宮城での中橋の行動と同様に無意味だったようだ。午前八時半ごろ、中橋は宮城を出て首相官邸で仲間と合流した。彼の部隊の兵士たちは政府の管理下に戻り、数時間後に兵舎に帰された。
 正義か反逆か――陸軍大臣のジレンマ
 仲間たちが日本の指導者たちに「天誅」の雨を降らせているあいだ、村中、磯部、香田は、ライフル、自動小銃、機関銃を装備した部隊を連れて東京都心に拠点を構える陸軍中枢部に向かった。部隊の一部は参謀本部と陸軍省の建物をそれぞれ占拠し、村中ら三人は川島陸相の官邸に向かった。入り口はすんなりと通された。官邸に入った彼らは比較的冷静な行動を取った。香田がのちに語ったように、彼らは「無礼のないように」応接室から出てうろつくことはせず、女性たちを起こさないように努めた。ただ、緊急事態について話をするため川島大臣にただちに合わせるようにとは強く求めた。午前六時半、川島が現れて青年将校たちの話を聞いた。磯部と村中、そして首相官邸から駆けつけた栗原を横に、香田が「蹶起趣意書」とともに川島に対する要望事項を読み上げた。その内容は、彼ら占拠部隊の行動を是認すること、対立する将校(統制派の中心人物および関係者、さらに桜会など三月事件と十月事件に関わった者を含む)を逮捕あるいは罷免すること、昭和維新に向けた組閣への足がかりをつくることなどだった。
 川島は青年将校に威厳を示せなかった。朝鮮で頭を負傷した際に脳に障害を負った彼の話し方は聞き取りづらく不明瞭だった。だがそれをしらない香田は、恐怖とためらいのせいだととらえた。川島は将校の逮捕や罷免は拒んだが、彼らの精神を称えて「要求の大部分を天皇に上奏する」と約束した。自ら確固たる決断を下すことはなく、川島は午前九時に官邸を出て宮城に向かった、川島の出発からまもなくして、彼の官邸の門近くで事件が起こった。神経の逆立っていた磯部が、陸軍士官学校事件で自分の停職処分に関わった片倉少佐を見つけて頭部を撃ったのである。片倉は病院に運ばれて一命を取り留めた。
 警視庁を占拠し、憲兵も素早く動かないという状況で、反乱軍にとっての懸念は他の陸軍部隊、特に彼らの連隊のうち二つが所属する第一師団の出動のみだった。師団長の堀丈夫中将と参謀らは東京警備司令部と相談した。反乱軍と正面衝突する案はすぐに却下された。堀と香椎浩平東京警備司令官は日本軍兵士が互いに撃ち合うのを見たくなかった。また、そのような戦いが起これば街の大部分に被害が及ぶとわかっていたため、東京の中心部が戦場になることを恐れた。そうなればおそらく外国大使館も被害を受け、外交面で大きな問題になる。さらに建物も破壊され民間人が犠牲になるだけでなく、宮城に流れ弾が当たる恐れすらある。加えて反乱軍の純粋な動機に共感した二人は、封じ込め戦略をとることにした。」(この項続く)ダニ・オルバフ『暴走する日本軍兵士』長尾莉紗・杉田真訳、朝日新聞出版、2019年、pp.350-358.

 この本では、2.26事件の経過を追いながら、首謀者である青年将校たちが何をめざし、それに軍の幹部や政府要人はどういう対応をしたのか。まずは逐一それを記述している。これはまだ前半部分だが、結末は天皇の命により彼らは反乱軍「賊軍」とされて捕縛され処刑されて事件は終わる。ぼくたちの教わった日本史では、この突出した青年将校のクーデター計画は失敗したが、結果的に政党政治は破壊され、議会は軍を恐れ、統制派の支配が固まって軍国体制が完成していったと説明される。でも、なんでこんな軍人によるテロなんかが起きたのか、ぼくらはどうもよくわからない。日本を牛耳っている支配層「君側の奸」を殺して、天皇を中心に維新(つまり西洋風に言えば社会革命)を成し遂げる、というのだが、それでどういう社会を作るのか具体策があるのか?神がかった言葉を叫ぶだけで、当時の国民はどう思ったんだろう、とうまく想像できない。まあ、もう少し読んでみよう。


B.ドイツ人の反省も女は別?
 ナチスによるホロコーストの絶滅収容所といえば「アウシュビッツ」が有名だが、他にもたくさんあって、ユダヤ人を抹殺するのが主目的ではない収容所では、敵の捕虜や囚人を労働させたり反ナチで捕まったドイツ人もいた。そこで男性囚人に性労働を強制された女性がいたという話は、知らなかった。その理由も「生産性を高めるため」というのはいかにもドイツだ。

 「強制性労働「沈黙の歴史」 歴史に向き合う独の「タブー」:ナチス・ザクセンハウゼン収容所 日本人ガイドに聞く
 ドイツの首都ベルリン近郊にあるザクセンハウゼン強制収容所記念館でガイドを務める日本人がいる。ベルリンのフンボルト大学歴史学科に在籍する中村美耶さん(33)=京都府出身。ナチスの収容所で性労働を強制された女性の保証や名誉回復について研究する中村さんに、その「沈黙の歴史」について聞いた。(独東部ブランデンブルク州オラニエンブルクで、近藤晶)
 「インターンの経験からホロコースト(ユダヤ人らの大量虐殺)の歴史を語り継ぐことに国籍は関係ないと思った。見学者が考える時間になるように伝えることが大切だと考えている」
 中村さんは日本の大学を卒業後、ドイツに留学。独中部のミッテルバウ・ドーラ強制収容所記念館でインターンシップ(就業体験)を経験した後、2017年からザクセンハウゼンでフリーランス・ガイドをしている。
 大学の授業を通じて収容所での強制性労働の事実を知り、「負の歴史に向き合っているイメージがあるドイツでもタブーとされていることに関心をもった」。強制性労働については戦後、独社会でもあまり語られてこなかった。ザクセンハウゼンの見学者用パンフレットにも施設の存在は書かれていない。
 性労働は当時、強制労働をさせられていた男性収容者の生産性を高めるために取り入れられたとされ、十カ所の収容所で行われていた。女性らは独北東部にあった女性専用のラーフェンズブリュック強制収容所から各地に送られ総数は約二百人。ナチスに「女性としてふしだら」と見なされたドイツ人やポーランド人が多かった。
 だが、強制性労働の実態に関する研究や被害者支援が始まったのは80年代になってから。生き残った男性収容者らは口をつぐみ、補償を申し立てた女性はわずか四人。自身の体験を具体的に訴えたのは一人しかいなかったという。
 中村さんは「ドイツでは、被害者の声をくみ取るNPOなど民間の活動による連帯が大きかった」と指摘する。「それでも、記憶を語りたがらない人たちが、語りたくなかった事実を受け止めるしかない。沈黙された歴史というものが、どのように歴史として残るのか。何が史実なのかということを考えさせられる」
 死者2万3000人/日本の右翼団体視察
 ザクセンハウゼン強制収容所は、ナチスが1936年に設置した。隣接地にはドイツ支配下の全収容所を管理する「監査部」が置かれ、「モデル収容所」とされた。
 45年までに20万人以上が収容され、うち女性は約2万人。ユダヤ人のほか、ロマなどの少数民族、反ナチス政治犯、同性愛者、犯罪者などが収容された。当初は主にドイツ人だったが、戦争末期はソ連やポーランドの市民が多かった。
 大量虐殺を目的とした「絶滅収容所」ではないが、死者は名前が確認されているだけで2万3000人に上り、強制労働、飢餓や病気、虐殺実験などで命を落とした。収容所は45年4月にソ連軍とポーランド軍によって解放された。
 収容所入り口にある「A塔」と呼ばれた監視塔の2階では収容所の歴史などを展示している。その中に1枚の日本人訪問団の写真がある。
 「1937年12月、A塔前の日本人将校」。写真には簡単の説明しかないが、一行は「大日本正義団」という右翼団体だった。正義団は22年に酒井栄蔵が大阪で創設。」酒井ら一行はローマでイタリア首相ムソリーニと会見した後に訪独した。
 日本の国会図書館に保存されている当時の訪問記で、酒井は「民間施設として日独伊の親善が目的」と記しているが、収容所を視察した理由などは分かっていない。」東京新聞2021年3月22日夕刊3面。

 性暴力は表に出にくいのだろうが、戦争や収容所のような過酷な場所では、なおさらなのか。
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軍隊と性暴力をめぐって 5  加害と被害  ソウルの練習問題という問題

2021-03-20 00:56:21 | 日記
A.利得を得た人は誰か?
 第2次大戦中の日本軍が戦地で行なったこと、とくに日中戦争が泥沼化した1937年以降の中国大陸で、日本軍兵士が中国人に加えた残虐行為として、日中双方のさまざまな記録や証言、あるいは小説や映画などで描かれるのは、無辜の婦女への強姦とその直後の殺害である。関係者が殺されてしまえばその実数は確かではないが、日本兵側の誇張した武勇伝的なものを含め、少なからずそのようなことはあったと考えられる。ただ、日本の軍規においてもそれは禁じられた犯罪であり、とくに1941年1月に全陸軍に布達された「戦陣訓」は、中国大陸での兵士の不法行為が蔓延り、反日運動を勢いづけ国際的にも問題になることを怖れて、陸軍将兵の倫理規定として出されたと考えられる。軍内で加害者がどこまで処罰されたかは不明だが、犯罪という意識はあったはずだ。兵士がもつ銃器などの武力が、そこで使われていることも重大な犯罪になる。これは、異論はない。
これに対し、現地「慰安所」や「遊郭」での買春は、兵士の意識の中で罪悪感はなく、褒賞推奨する行為ではないにせよ「必要悪」として当時は合法性の中にあった。しかも、それは民間業者が営む商売であり、女性との関係は金銭を介する商行為のように捉えられていた。このことが、「慰安婦」問題を犯罪ではないとする主張のいちばんの論拠だろう。しかし、戦争と性暴力にかんする理論的枠組みを考えると、そこから誰が利益を得、誰が精神的・身体的被害を受けたのか、ことは重層的に絡み合ってくる。

 「性暴力連続体が戦争という文脈のもとに置かれるとどうなるだろうか?以下に戦争に関わる文脈をとりあげてみよう。それを通じて、戦時下における性暴力の固有性が浮かび上がってくるだろうからである。
 関与者の複数性と認知ギャップ
 性暴力には必ず複数の関与者(actor)がいる。加害者と被害者である。しかし数多くの性暴力被害の研究があきらかにするように、加害者と被害者のあいだには「状況の定義」をめぐって著しい認知ギャップが存在することがわかっている。したがって性暴力被害には、当事者の「状況の定義」が欠かせない。
 性暴力が偶発的・個別的に起きた場合と違って、組織的・継続的に行われた場合には関与者はさらに増える。曽根ひろみ(1990)は売春の関与者として、①顧客、②業者、③国家、④家族、⑤女性という五つのアクターを挙げており、売買春とは顧客(男性)と業者(多くは男性)とのあいだの女性という商品をめぐる経済的交換関係であり、それに許可を与える上位の権力(国家)とそこから利益を得る女性の家族からなるとする。このなかで売買春行為から利益を得るのは①から④までのアクターであり、⑤は取引される商品にすぎず、アクターとすら言えない。「慰安婦」制度の場合は、日本軍が「慰安書」設置を推進、許可、監督しており、兵士と業者のあいだの私的関係でなかったことはあきらかにされてきた。
 兵士の性体験からわかるのは、彼らの側に加害者意識がないことである。第3章岡田論文は、兵士が何を合法と考え、何を違法と見なしていたかを裁判記録に即して赤裸々に述べる。少なくとも違法行為に関しては彼らは加害者意識を持っていたはずだが、「慰安婦」制度は合法的なものととらえられていた。兵士の多くは回想録や自分史のなかで「慰安婦」との接触をなつかしい思い出として語っており、恋愛や結婚の対象として触れたものもある。「慰安婦」の側からその経験を裏付ける証言もあり、事実、戦局が逼迫した後に兵士と「慰安婦」の「心中」がままあったことは、彼らのあいだの「恋愛」の可能性を示唆する。管轄する軍隊や軍人等の記録からわかるのは、彼らが「慰安所」設置を少なくとも外聞をはばかる必要悪ととらえていたことや、「慰安婦」に動員された女性の過酷さに対する理解と同情を持っている者もいたことなどであろう。だが「慰安婦」の証言にある暴力的な虐待(殴打、殺傷、私刑等)については、加害者の沈黙がある。
 ポジショナリティと歴史の複数化
 ここにポジショナリティの概念を持ち込めば、アクターによって歴史は複数化、多元化する。兵士の記憶を虚偽意識と断ずることはできない。それもまたひとつの現実だからである。「慰安婦」生存者がもたらしたのは、その背後にある「もうひとつの現実」、加害者の視点からは決して見えない「もう一つの歴史」だった。そしてそのふたつの歴史の落差に、わたしたちは愕然としたのだ。
 「慰安所」設置に関わった重要なアクターのうち、欠けているのは女性を騙したり監視下で酷使した業者の歴史である。彼らは植民地主義の協力者と見えて、その実、植民地支配をも自己利益に利用する狡猾な個人主義者だったという見方もある。彼女たちを女衒(ぜげん)の手にわたした親や共同体の歴史もまた書かれていない。彼女たちの多くが過去を秘匿したり、故郷に帰ることを拒んだのは、親や親族の反応を予期したからであろう。さらにそれを黙認し、支持した共同体の責任もまた問われるべきであろう。満州でソ連兵の「接待」のために共同体のリーダーが女性を「供出」したところでは、「仲介者」というアクターも登場する。彼らは被害者でもあり、加害者でもあった。
 歴史の複数性を強調するのは、それを「さまざまな歴史」という相対主義のニヒリズムに陥れるためではない。性暴力をめぐる複数のアクターのうちで、性暴力による被害を性暴力被害として同定する「状況の定義」の資格を与えられているのは、唯一⑤当事者女性だからだ。セクシュアル・ハラスメント(以下SHと略称)の定義が「のぞまない性的接近」とされているように、「のぞまない」の主語は女性であり、女性が「状況の定義」権を持っている。「被害者」カテゴリーに同一化したときにはじめて「性暴力」は事後的に定義される。これが「性暴力」を本稿で定義してこなかった理由である。この定義権は被害者にあり、加害者にはない。加害者側に加害者カテゴリーへの自己同一化がなくても、「性暴力」は成り立ちうる。公定の歴史におけるジェンダー非対称性に抗して、この「状況の定義」権の奪還を果たしたのが、20世紀後半の性暴力をめぐるフェミニズムの達成であったと言えよう。
 敵と味方の分断
 ここまでは平時の「性暴力連続体」と変わらない。だが戦争はここに「敵」と「味方」という分断線を持ち込む。そうなると加害者/被害者関係は、加害者が敵である場合と味方である場合とに分割される。問題は、戦地では敵と味方とが現実にははっきりしないうえに、しばしばその転換が起きることである。
 にもかかわらず、戦争は敵と味方とを二分し、あいまいなグレーゾーンを許さない。中間的な存在は協力者か、それとも敵への内通者に二分される。そして敵に属する者は、男女を問わず生命を奪うことを含めて、どのように凌辱してもかまわないとされる。敵側の男性は民間人を含めて潜在的な戦闘員と見なされ、敵側の女性は性的搾取の可能な戦利品と見なされる。敵の女性の性的搾取はそれが敵の男性の「男性性」を深く傷つけるからこそ、つよい怒りと憎悪を生み、またそれを意図して行われる。
 しかし敵だった土地が占領地になると、そこには友好的な占領地から敵対的な占領地までのグラデーションが生まれる。たとえ不本意な占領であっても、満州国建国の際の皇帝溥儀や、パリ無血開城を果たしたナチに協力的なフランスのヴィシー政権のような、傀儡政権や協力者が登場する。ミュールホイザーは、占領地ではひとびとの選択肢は「傍観者、協力者、抵抗者」などの幅があると指摘する。女性も同じである。「自発的」に占領者たちに接近する女性もいれば、占領者の権力を自分の庇護や特権に利用する女性もいるだろう。共同体の男性や地方行政局または国家によって、占領者へと差し出された女性たちもいた。旧満州でソ連兵へ性的「接待」のために供出された女性たちは、ソ連兵の犠牲者であるのみならず、日本人共同体の家父長的支配の犠牲者でもあった。彼らは家父長的ジェンダー規範にしたがって女性を選別し、娼婦の経験者や所属する夫のいない女性たちを選別して送り出すことで、家父長制が守るべき女とそうでない女とを分断した。
 日本政府が占領者に差し出したのが、占領軍慰安婦施設の「特殊接客婦」たちである。彼女たちは「女事務員募集」という文言に釣られて応募しており、小沢信夫はこれを「女中奉公と称して娘たちを買いあつめた女衒の手口が国策となり」(小沢信夫2016:102)と表現している。これは韓国女性たちを「女給」や「看護の仕事」と言いくるめて「慰安婦」にした手口と変わらない。「慰安婦」のなかには仕事の内容をうすうす知っていた者もいただろうが、多くは移送され現場に投じられてから強姦されて退路を断たれている。第5章茶園論文は、強姦経験から「やけになって」(キズモノになるという不可避な経験をしてしまったために)パンパンになった女性がいることを報告している。
 だが実際には占領地の敵と味方のあいだにはグレーゾーンがあり、これを性暴力連続体と並んで「占領地連続体」と呼ぶこともできるだろう。そしてそのもとに置かれた個々人にも抵抗者から協力者に至るまでの「非占領者連続体」が生まれる。占領とともに被占領者がすべて抵抗者になるわけではない。そしていかなる占領も、被占領者の自発的・非自発的協力なしには統治の効果を上げることができない。この複雑さが、性暴力の語りをいっそうむずかしくする。
 このような敵・味方のカテゴリーの採用は、裏返しに、味方とされる集団のなかの性暴力被害を不問に付す傾向がある。兵士が味方の女性にだけ「紳士的」ということは考えにくい。このようなカテゴリー化が抑制するのは軍隊内性暴力被害の告発である。男性同士のあいだに性暴力被害があることは、今日では広く知られているが、軍隊に女性がいるところでは、女性兵士に対するセクハラ被害は、日本でもアメリカでも問題化されることが困難だった。
 日本軍には女性兵士はいなかったが、「慰安婦」のほかに「従軍看護婦」(当時)が随行していた。彼女たちが同胞男性から性暴力被害を受けなかったとは考えにくいが、赤十字看護師たちの回想録に性被害は出てこない。亀山美知子(1984)によれば、従軍看護婦は「慰安婦」に看護婦と同じ業務をさせることをいやがったというが、それは貞操を守るべき女と娼婦との間の分断支配を受け容れた、娼婦差別の結果だった。性暴力連続体のもとでは、境界の管理はいっそう厳重でなければならない。だがカテゴリーが彼女たちのあいだを分断していたとしても、現実にはその境界線は揺らぐ。実際には「慰安婦」たちは前線で看護婦としても働いていたし、看護婦たちにも性的な視線は向けられただろう。看護婦たちが家父長的ジェンダー規範に同意することで、かえって自らの性被害の言語化を抑制される結果になったことを指摘したのは、管見の限り樋口恵子のみである。
 敵と味方の移動
 ミュールホイザーの研究がわけても刺激的なのは、ドイツ国防軍兵士が、人種や占領地によって性行動を変えるその多様性を描き出していることである。東部戦線を侵攻するにしたがって前線は移動していくが、ソ連の支配下にあって反ソ的な感情を持っていたバルト三国やベラルーシでは、ドイツ兵は歓迎された。そこでは恋愛、同棲、結婚までが許容され黙認された。もとより圧倒的な権力の非対称のもとで、難民化した被占領民にとって物資の入手は死活問題だったから、兵士はわずかな日用品と交換に、かんたんにセックスを手に入れることができた。地元の女性のなかにはドイツ兵を庇護者としてすすんで求める者もいた。それに加えて、人種による統制と制約があった。ナチによってユダヤ人女性は性的な対象として不適切だとされたが、もちろんそれにはタテマエとホンネがあった。不適切な対象であれば性行動が抑制されるとは限らず、むしろどのように凌辱してもよい対象となる。
 「第二次世界大戦下のフランスで米兵は何をしたのか?」を副題とするロバーツの著書は、フランス領内に研究対象がとどまっている。フランスに上陸した連合軍兵士たちはその後、ドイツ領内に侵攻していく。そこはあからさまな敵地である。「敵の女」に対する態度は、フランス女性に対する態度とは異なっていただろう。同じ兵士が、文脈が異なれば異なる性行動をとるのはあたりまえである。笠原十九司(1999)は、日本軍兵士が中国の「治安地区」と「準治安地区」「非治安地区」とで異なる性行動をしたことを指摘する。兵士は誰に対して何をしてよいかを熟知したうえで、「理性的に」行動していた。戦時性暴力は、制御できない兵士の「獣欲」の生などではない。」上野千鶴子「序章 戦争と性暴力の比較史の視座」(上野千鶴子・蘭信三・平井和子編著『戦争と性暴力の比較史へ向けて』岩波書店、2018年)pp.13-20。

 敗戦後、連合軍が日本に占領にやってくる際に、日本政府がまず考えたのは、占領軍兵士から「日本の無垢な婦女子の貞操」を守るため、娼婦を集めて提供することだった。つまり、占領軍(「進駐軍」と呼ばれることになる)用の「慰安婦」を用意することだった。日本軍が占領地で何をやったか、政府はよく知っていたわけだ。そして、そこでは「慰安婦」たちはまたも国策のため「無垢な貞操をもたない女」として、利用されたのだ。戦後まもなくベストセラーになった小説、田村泰次郎の『肉体の門』は東京有楽町のガード下に生きるパンパン(娼婦をそう呼んだ)を主人公に描いていたが、小説のなかで彼女たちと絡む男たちは日本人だった。でも、実際は有楽町(「ラク町」と呼ばれた)にたむろして商売をした女たちのお客は、日本人男性などではなく、お堀端にあったGHQの進駐軍だったという。それを隠したのはもちろん占領政策の言論統制による。どこの国でもやることは同じともいえるが、威張れることではない。


B.韓国への視線
 大学で女子学生たちと話すと、必ず何人か熱心な韓流アイドル・ファンがいる。なぜか男子学生にはまずいないのだが、何度もソウルに行ってコリア情報に詳しい子もいる。どうしてそんなに韓流アイドルが好きなの?と聴くと、とにかくカッコイイ、日本のジャニーズ系も悪くはないけど、やっぱり違うのだという。いつごろからこうなったのか?たぶん初めは、例のテレビドラマ「冬ソナ」あたりの韓流スターに、日本の中年女性がはまったあたりからだと言われているが、今のブームはこの7,8年の韓流アイドル・グループの大ヒット以来らしい。一方で、ネトウヨ言論は口を極めて「嫌韓」の罵詈雑言を繰り返した時期に重なるので、ある意味興味深い。女の子たちは韓国への偏見がなく、男の子(の一部)はコリアを罵るのは、どっちも無知なのか?
 1910年8月から敗戦の1945年9月までの35年間、朝鮮半島を日本が植民地支配したという歴史を知っていれば、「外国人」というぼくたちの認識が、他の「外国」とは別の、この隣国についてだけは厄介なことになる。戦争が終わるまで、朝鮮半島にルーツをもつ人たち、あるいはそこから日本に来た人たちはみな「日本国籍」になっていた。日本語の教育が学校で行われ、天皇を君主として祀り、自分の名前まで日本風に変えさせられた。その日本の支配がなくなった後も、朝鮮半島は南北で戦争になり別々の国家に分断された。そのことには、日本の責任もあるのだが、戦後の日本では朝鮮の戦争はいわば他人事のように見えていて、そのおかげでむしろ利益も得ていた。そして、いまの若い世代の人たちが生まれた20世紀の終わりごろまで、日本人の韓国と韓国人のイメージは、あまりポジティヴなものではなかったと思う。軍事政権でなにやら国内も不安定そうだし、経済的な発展も日本より遅れている、と思っていた。
 それが、日本がバブルに沸く1980年代なかば、韓国はもっとちがった国かもしれない、という本が出た。

 「普通の市民たちの姿 ポップに 「ソウルの練習問題」1984年刊 関川夏央 ◀◀独裁下の韓国「怖い」「暗い」印象変えた
 昨年韓国で最大の話題となった映画「KCIA 南山の部長たち」を見に行った。題材は1979年の朴正煕大統領暗殺事件。日本でも人気の韓流スター、イ・ビョンホンが、大統領に銃を向ける中央情報部部長を演じた。触れることもタブー視された組織の内実を映画化するとは時代も変わった。しかも、日本人が楽しんでいるのだから。
 実際の事件が起きた79年の冬、一人の日本人ノンフィクション作家が初めてソウルの地に立った。関川夏央さん(71)である。在日コリアンの野球選手の奮闘を描いた『海峡を越えたホームラン』など、韓国・北朝鮮の優れたルポルタージュで知られる。しかし、影響力の大きさでは84年出版の『ソウルの練習問題』だろう。日本人の韓国観を変えたとも言われた。
 80年代初めのソウルでの体験記の形ながら、芸能やスポーツなど多彩な話題、とりわけ言葉についてコラムや詳細な注で紹介した。軍事独裁政権下で「怖い」「暗い」印象が強かったソウルの街の様子や人々の姿が、時に苦い交流を通して、生き生きと、ポップに描かれていた。
 在日韓国YMCAの日本語学校長を務める田附和久さん(53)は、出版後間もない80年代半ば、高校生時代に読んだ。「ニュースでは見えない人々の暮らしがあることを気づかせてくれ、実際に行きたいという思いがかき立てられました。大学で朝鮮語学科に進もうという思いを後押ししてくれた本です」
 いま女子高で韓国語を教えている。「彼女たちは韓国への関心が高いし、ネットで直接現地の情報にアクセスしている。お化粧の言葉などこちらが学んでますよ」
 70年代末から80年代にかけての韓国は、軍政下の“暴力”とソウル五輪や民主化に向けた動きとが、闇と光が交差するかのように起きた。日本では岩波新書『韓国からの通信』など、軍政を告発するトーンの出版物が目立った。そこに鮮烈に登場したのが、『ソウルの練習問題』だった。翌85年には、男性週刊誌「平凡パンチ」が「カッコいい韓国」という特集を組んだ。韓流人気の萌芽のような、サブカル的な情報が入り始めた時期と言えるだろう。
 同じようなまなざしを香港に向け、79年出版の『香港旅の雑学ノート』に結実させた同世代の作家山口文憲さん(73)は、関川さんを「ちょっと遅れてきた異文化観察者」と表現した。「私など、彼より前の組は、現地語ができないことを異文化体験の魅力であるかのようにうそぶいてきました。関川夏央は言葉を十分習得してから行った。それであんなに多面的で深いアプローチができたんです」
 『ソウルの練習問題』には、「異文化への透視ノート」という副題がある。異文化の中に身を投じて何になじめず、理解できないのかを、言葉を交わして思索し、つきあい方を探る試みだった。
 関川さんに話を聞いた。
 「昔は横柄だったり卑屈だったりした日本人を大勢見ました。言葉を学んだのは普通でいたかったからだし、いじめられないためです。勉強することは防衛ですから。知らない国に行くのだから、礼儀でもありますしね」
韓国へ行く日本人は、ソウル五輪のあった88年の110万人から2019年の330万人へと、30年で3倍に増えた。戦後最悪の日韓関係と言われながら、第4次韓流ブームという今の状況をどう見ているのだろう。
 「韓国の政治家や知識人があれだけ日本を批判しても、普通の市民には日本文化が人気ですよね。政治家は信用されていないからです。日本でも普通の人たちに韓流が人気なのは自然なことですよ」
 『ソウルの練習問題』の後書きでは、「無数の無名のソウル市民たち」に感謝の言葉を捧げた。まなざしは今もそこにあるように思えた。
 「おいしいものを食べに行く、ソウルの街を散歩する、それだけでもいいことだと思います。人と人とは相性もありますからね。けんかしないのが第一。そして、無理な友好もしないことです」(西正之)」朝日新聞2021年3月17日夕刊3面、時代の栞。

 ぼくも当時『ソウルの練習問題』を本屋でパラパラ読んでみた気がするが、覚えていない。ただ、その頃から確かに一般の日本人が韓国に抱くイメージは変わり始めたと思う。関川夏央氏はぼくと同年らしいので、もう一度ちゃんと読んでみようと思う。
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軍隊と性暴力をめぐって 4 戦争と犯罪  英国王室もめごと

2021-03-17 21:53:49 | 日記
A.“敵なら殺していい”という論理の根拠
 戦争は本質的に暴力行使であり、近代では国家や軍隊が戦争をするのだとすれば、その暴力は敵に対して、敵国の兵士のみならず敵国民に向けられる暴力になるから、敵への暴力、とくに敵兵に対する攻撃殺害行為は、正当化され場合によっては英雄的、名誉の献身として表彰されさえする。しかし、どんな宗教でも殺人自体は悪とされている。この矛盾をどう考えたらよいか。いまぼくは、ちょうどある小説を読んでいて、その中にこういう文章があった。

 「……たとえばナポレオン時代のスペイン戦争における「無数の残虐行為」、いわゆる「スペインに処女なし。」の悪名高い伝説を、私も至極大雑把に承知している。しかし『暴力論』のジョルジュ・ソレルは、一大佐のスペイン戦争従軍回想記を援用しつつ、例の悪名高い伝説をある意味において否定していた。それによれば、フランス軍外征下のスペインにおける虐殺および残虐行為は、フランス兵士たち(一定期間の正規訓練を経て「戦争に特有なる道徳」を体得せる兵士たち)の所為ではなかったそうである。「戦争に特有なる道徳」という語句がそこに書かれていたのを、私は忘れていない。戦争関係の一切は憎悪ならびに復讐的精神を伴うことなく遂行せられるのであり、戦争中の軍隊は「純闘争的性質」を持つのである、とジョルジュ・ソレルは一般的に認定していた。言い換えればソレルも、私と同様に、虐殺、残虐行為、悪逆無道は、戦争と参戦軍隊とが本来不可避的に要求する暴行殺人の埒外に出た行為である、と確信していたのである。……」大西巨人『神聖喜劇』第一巻、光文社文庫、2002年、pp.457-458.
 これはこの小説の主人公が、陸軍に徴兵されて初年兵訓練を受けるなかで、中国大陸の前線で中国人を何人も殺してきたと噂の軍曹が、何も知らない新兵たちに自分の戦争観を滔々と述べる場面。そこで、主人公が戦場での殺人や残虐行為について、ジョルジュ・ソレルを引き合いに考察するという、この作者大西巨人ならではの、長大な記述の一部である。
 これまで戦争と性暴力というテーマで、平井和子氏の「兵士と男性性」を読んでみたのだが、問題は「慰安所」だけにとどまるものではないし、女性だけの問題でもない。そこで、この本の序論として書かれている編者でもある上野千鶴子論文からもちょっと引用させていただく。戦争のなかで性暴力がどのような形を取り、それをいかに記録し、いかなる方法で思考を展開すればよいのかが語られている。

 「敵と味方の反転――「協力者」から「裏切り者」へ
 さらに事態を複雑にするのは、東部戦線が独ソ戦の過程で反対の方向に移動することである。ドイツの占領地はソ連によって再占領され、かつての敵は味方に、味方は敵に、オセロゲームのように入れ替わる。女性もまたこの戦況に翻弄された。支配者が転換すると、かつての占領者たちが去った後の被占領地で、ひとびとの憎しみは「敵」よりも「協力者」のほうにもっと苛烈に向けられる。かつてのドイツ兵の「恋人」は「敵の共犯者(collaborator)」となった。そこにわずかでも女性のエイジェンシーが疑われれば、敵味方の反転したあとでは、「敵と寝た女」に対する制裁はいっそう呵責ない。その典型が、フランスの「丸刈りにされた女たち」(藤森2016)であろう。かつてドイツ占領下のフランスで、ドイツ兵の恋人だったり妻だったりした女たちが、戦後、共同体の制裁を受けて丸刈りを強制された。藤森晶子が描く「丸刈りにされた女たち」は、中世のシャリバリに似た野蛮でみせしめ的な共同体の制裁を受けたのである。そしてその制裁はいちじるしくジェンダー化されている。同じように「協力者」であった男性たちは、このような制裁の対象にはなっていないからだ。近年フランス史の再審の過程で、ヴィシー政権およびフランス人の対ナチ協力が主題化されているが、そのなかにも「丸刈りにされた女たち」の居場所はない。
 敵による性暴力が告発可能になるのは、敵が撤退したり敗北したあとに限られる。占領者が勝者である場合には、性暴力被害は他の暴力とともに沈黙を強いられる。返還前の沖縄を支配したのは米軍性暴力に対する受忍であり、それは返還後も長く続いた。また、1945年のベルリン女性の互換経験は、東ドイツが崩壊し、ソ連軍が撤退したあとに改めて問題化された。
 同じことが「慰安婦」についても言える。帝国日本の支配下で日本国籍を強制された朝鮮人「慰安婦」たちは、朴(パク)裕(ユ)河(ハ)(2014)が指摘するように、和装をし日本名を名乗り、日本語を話していた。日本軍の「同伴者」であった彼女たちは、敵地だった被占領地で被占領民の怨嗟と憎悪の的だったにちがいない。だが、日本の敗戦は朝鮮にとって「光復」であった。敵と味方が逆転したあとの戦後韓国では、たとえ強制的な動員や管理下に置かれていたとはいえ、日本軍の「協力者」と見なされていた朝鮮人「慰安婦」や徴用工、軍属たちの位置は扱いにくいものになっただろう。わけても「志願兵」の位置は難しいものになった。1995年に沖縄県の大田昌秀知事(当時)が、敵味方の区別を問わずまた軍民の区別を問わない沖縄戦戦没者のすべてを刻銘した「平和の礎」を建立したとき、一万人近くいた朝鮮人戦没者の氏名のうち刻銘されたのは423人に過ぎない。そのうち341人を朝鮮半島にまでわたって調べ、あきらかにした歴史家は洪鐘佖(ホンジョンピル)である。その努力にもかかわらず、刻銘を拒んだ遺族たちもいた。沖縄戦に従事したことがわかると、韓国では日本の協力者という烙印を捺されることを懸念したからだという。そのなかに女性の名前はない。朝鮮人女性戦没者は「慰安婦」であると推測される可能性があるからだと説明されている。戦後韓国で「慰安婦」被害の告発が遅れたのは、性被害のスティグマのみならず、「親日派」のスティグマがそれに重層していたと考えられる。
 権力の正統性が反転した後の「協力者」の扱いは、その後の「解放」や「独立」の文脈のなかでは、思い出したくないふつごうな過去となる。同じような変化は、戦争のみならず革命や政権交代のあとにも起きる。かつて逆賊であった者が英雄になり、協力者であった者が裏切り者になるからだ。
 エイジェンシーの関与
 強姦から売買春、恋愛、結婚までの配列は女性の側の「同意」を尺度としている。対して「暴力」には、強制性が含意されている。「慰安婦」の「性奴隷」説vs.「売春婦」説の境界には同意の有無がある。両者に共通するのは、娼婦差別であろう。「性奴隷」説は、娼婦になるはずのなかった女性たちが娼婦並みの扱いをされたことを告発するが、娼婦であればどんな処遇を受けてもしかたがないとはいえない。
 これに対して、「慰安婦」を公娼制度の延長でとらえる論者(藤目2015)らは、公娼制そのものが契約の見かけをとった性奴隷制であることを指摘してきた。その強制性は暴力による物理的な拘束のみならず、借金という経済的拘束のかたちをとった。その経済的契約の恩恵を被ったのは娼婦本人ではなくその家族だった。このとらえ方では、平時と戦時の連続性を強調することで、日本人「慰安婦」もまた公娼制度の犠牲者となる。
 結婚はあらゆる性的接触のなかで、もっとも制度化された、ということは社会的に承認された形式である。略奪婚や幼児婚を別にすれば、結婚には本人の同意があると考えられているために、これを「被害」と呼ぶことは難しい。日本人の戦争花嫁たちは占領期においては征服者の愛をかちえた勝者だったかもしれない。だがその後、渡米した彼女たちを待っていたのは、DVや差別、経済的困窮などのさまざまな問題であった。占領期の構造的暴力は、婚姻後も継続しており、そこから逃れることができないという点で、家族は脱出することのできない一種の「強制収容所」(信田2012)だった。また「中国残留孤児」と「中国残留婦人」とを分かつ分断線(わずか13歳という年齢)の存在は、「残留婦人」には現地男性との結婚に対する同意があったと考えられているからである。それが性を対価とした必死の生存戦略であったとしても、女性のエイジェンシーが構造的暴力を免責する結果になる。
 同じような事態は、「輸入花嫁」にもある。自治体が斡旋するようなあからさまな集団見合いは影をひそめたが(あまりに問題が多いことから自治体が自粛するに至った)、代わって2000年代以降急速に増加した日本人男性とアジア人女性とのあいだの「恋愛」による国際結婚のカップルには、DVや経済的虐待、日本語習得の妨害や外出の禁止による幽閉状態等が報告されている。拘束から逃れることができない点で、権力と資源の圧倒的な非対称性のもとでの構造的暴力は継続しているのである。しかもこのような選択は、当事者の「同意」を前提としているために、他者に訴えることも帰責することもできない。親族が反対した場合はもとより、祝福した場合にも、結婚他出した彼女たちに、戻る選択肢はない。そしてDVを含めて虐待は、被害者に逃げ場がないことを熟知している加害者によって、巧妙かつ狡猾に行なわれるものであり、決して「かっとして」といった衝動的なものではないことも、研究からあきらかにされてきた。
 DVという概念は、このような女性たちに性暴力被害の語りの定式の選択肢を与えた。そのため、DVは離婚するための正当な理由となった。だが、経済的・社会的な理由から離婚の条件を持たない女性は、この不当な状態にとどまり続けるほかない。女性を「最後の植民地」と呼んだのはブノワット・グルー(Groult1975)だが、解消できない婚姻のもとにとどまり続ける女性は、家父長制下の「植民地」状況を生きていると言ってもよい。
 構造的暴力と植民地支配
 平和学の提唱者、ヨハン・ガルトゥング(ガルトゥング1991)は、暴力を物理的な暴力のみならず、権力や富など構造的暴力にまで拡張して定義している。圧倒的な権力や富の非対称性のもとで、女性が性的サービスに動員されるとしたら、そこに「同意」があると言うことができるだろうか。親に騙されて売られるのと、言い含められて泣く泣く同意するのと、親の苦境を察して自ら苦界に身を沈めることを志願することのあいだに、決定的な違いがあるだろうか。アメリカで徴兵制度が禁止されて志願制に変わったあとで、兵士が貧困家庭出身者に偏ったことを「経済的徴兵」と呼ぶのは、たんなる比喩ではない。
 ミシェル・フーコーは、暴力や強制力を行使して服従を調達することを統治技術として拙劣なものとした。自発性を調達する「司牧権力」のほうが、統治のコストが安くつく、より巧妙な支配なのだ。その究極は内面支配である。いかなる外的な強制力を伴うこともなく、自らの自発性から規範に服従するひとびと‥‥‥それこそが皇民化教育の目標であった。植民地エリートの教育に宗主国が熱心なのも、教育が宗主国の価値観を植え付ける洗脳装置にほかならないからである。「日本人と対等になりたい」という国民的同一化のイデオロギーは、被支配民の側からも動員される。朝鮮人志願兵たちもまた、一級国民化への誘惑と共にそのプライドを動員されたにちがいない。おそらくは人一倍まじめで誇り高かったであろう彼ら朝鮮人志願兵は、悲劇の主でこそあれ、排斥される理由はない。
 証言からは朝鮮人「慰安婦」が動員に「同意」した例は確認できないが(そうした証言はしないか、あるいは発話を抑制されていると考えられる)、日本人「慰安婦」(「戦争と女性への暴力」リサーチ・アクション・センター編2015)が、副題を「愛国心と人身売買と」としているように、日本人「慰安婦」のなかには、「兵隊さんと同じように、私たちもお国に奉公した」という気持ちを持つ者もいる。兵士が赤紙で「強制徴兵」されたと同じように、「慰安婦」も人身売買や欺瞞で「強制連行」されたとしても、そのことは兵士と同様に「慰安婦」が「愛国心」をもつことを妨げない。グアムにいた沖縄の「慰安婦」が、投降を勧められて「捕虜にはなりたくない、日本の女だ、今ここで殺してください。私は靖国神社に行きたいのです」と言った証言を、下嶋哲朗(2012:236)は記録している。だが彼女たちの「報国」は報われることがなかった。靖国神社には「慰安婦」の居場所がなかったからである。
 朝鮮人「慰安婦」の位置
 以上のような性暴力連続体のうちに「慰安婦」を位置づけるとどうなるだろうか。たとえ動員に「同意」があったとしても、拘禁下で組織的かつ継続的な強姦のもとに置かれる彼女たちの状況が「性奴隷」状態であるのを否定することはできない。だが、たまたまアジア各地の「慰安所」が同じ名称で呼ばれているからといって、その文脈の違いを無視することは適切ではない。敵国の占領地における偶発的及び組織的な強姦や、占領地女性を拉致して収容した占領地「慰安所」の「慰安婦」と、朝鮮人「慰安婦」との決定的な違いは、朝鮮が植民地状況下にあったことである。植民地には武力を伴わずに行使できる権力の圧倒的な非対称性が、すでに動員前から埋め込まれていた。この植民地女性の動員という例は、ミュールホイザーにもロバーツにも出てこない。朝鮮人「慰安婦」は性差別、娼婦差別、植民地差別、階級差別の三重、四重の差別のもとに置かれてきた。
 日本人「慰安婦」問題のむずかしさは、性差別、娼婦差別は共通しても「植民地差別」の有無が両者を分断するからである。歴史的にふりかえってみれば、朝鮮人「慰安婦」に語りの正統性を与えたのは「植民地支配」の告発という民族主義的な言説であった。だからこそ最初の金学順の告訴は、他の強制徴用工たちとの集団訴訟の一環だったのだし、2000年女性国際戦犯法廷の国際フェミニズムに対する韓国の女性団体の批判も、そこに「植民地支配」の視点が欠落しているというものであった。さまざまな地域の「慰安婦」問題のうちで、朝鮮人「慰安婦」問題の解決がもっともむずかしいのも、ここに理由がある。
 被害者のエイジェンシーは性暴力被害のあいだに分断線を持ち込み、語りうる被害と語りえない被害とのあいだを区別してきた。構造と主体の隘路のなかで、エイジェンシーとは100%の服従でもなく100%の抵抗でもない、被害者の生存戦略の発露であった。そのエイジェンシーを認めることは、エイジェンシーが行使される文脈である構造的暴力の存在を少しも否定しないし、それを免責しない。かえって構造的暴力のもとでの個々人の経験の多様性を担保し、「苦難を生き延びるもの」としての証人と証言の価値を高めるものであろう。」上野千鶴子「序章 戦争と性暴力の比較史の視座」(上野千鶴子・蘭信三・平井和子編著『戦争と性暴力の比較史へ向けて』岩波書店、2018年)pp.20-26。

 戦争犯罪に関して、それは通常の犯罪と同じく、戦時であろうが平時であろうが人間として許されない行為だとしておいて、軍隊が合法的存在だとする立場(軍隊を正当な公務執行組織とする立場)では、軍法や軍の諸規則は正義と倫理を根拠として将軍から兵士にいたるまでに、不正な犯罪を禁じて職務の遂行に当たるべく教育することを当然と考えるだろう。戦場でたとえ殺人が行われるとしてもそれは、正義の職務執行である限り罪ではない。戦争犯罪として罪に問われるのは、その法の正義を逸脱した行為であって、正しい軍隊や兵士は強姦や略奪などしない、というわけだ。しかし、そうきれいに割り切れるものだろうか、と『神聖喜劇』の主人公は、合法的殺人者である上官の言葉を聴いて疑問を持つ。上野氏が書いている女性への輻輳した構造的暴力と、それを生きるエイジェンシーという視点についても、さらに議論を深める必要があると思う。


B.イギリス王室のもめごと
 日本でもジャーナリズムのなかで「皇室報道」というのは特殊なジャンルを形成しているが、イギリスでの王室の話題というのも似たようなものなんだろうか。王や皇族などいない共和制の国では、ほとんど意味のない話題だろう。少なくとも法的に、国民市民の間に同等の権利と平等を認める国では、王室という一般市民とは異なる存在があること自体、奇妙なものになるからだ。日本の皇室は、イギリスの王室とは由来も歴史も異なるけれど、明治憲法で立憲君主制を規定する際に、ヨーロッパの王政あるいは皇帝制を参考にした面があり、戦後の新憲法下でも天皇制を存続させるにあたって、英国王室をひとつのモデルにしたと思われる。国民の敬愛を集める政治的には無力な君主一家というかたちをとって、それはある程度国民の支持を得ることに成功した。でも、それゆえに王室一家の行動はときに、社会的な物議を醸す。

 「公共への奉仕とは 「公助」こそ変わるべき :ブレイディ みかこ
 ヘンリー王子と妻メーガン妃の英国王室からの完全離脱が世界中に報道された。夫妻は昨年三月に王室から事実上の離脱を行い公務から退いて、生活拠点を米国に移していた。それから一年の間に公務復帰を含めて今後のことについて検討し、決定が下されることになっていたのだ。
 しかし二人には公務復帰の意思がないので、エリザベス女王が「王室の一員として活動しないでのあれば公務に伴う責任と義務を果たし続けることは不可能」と見なし、ヘンリー王子の軍の名誉職や慈善団体の役職なども返上されることに決まったと報道された。
 これに対し、ヘンリー王子夫妻は、「公式の役割に関係なく、引き続き、これまで代表してきた組織への支援を続ける。私たちはみな、奉仕の生活を送ることができる。奉仕は普遍的なものである」という声明を発表した。
 まるで「公務とは何か」についての議論を促すような言葉にも聞こえる。王室のメンバーが行なう仕事だけが公共奉仕ではないのだ、と。英国王室はこれを快く思っていないと伝えられている。
 ラジオ番組を聞いていると、ヘンリー王子夫妻を批判するリスナーからの電話が相次いだ。彼らの大半は、彼らがやっているようなセレブの仕事としてのフィランソロピー(個人や企業による社会貢献活動の総称)と、王室が行っている公務とは全く別物であると怒っていた。
 実際、ヘンリー王子夫妻は米動画配信サービス大手のNetflixと複数年にわたる契約を結んでおり、女性をたたえるアニメーションや自然に関する番組など「希望を与えるコンテンツ」を製作すると言っているが、その契約料は約百六十億円とも言われている。また、夫妻は音楽配信サービス大手のSpotifyとも大型契約を結んでおり、米国の人気司会者オプラ・ウィンフリーからテレビで放送するためのインタビューを九十分にわたって受けた。このようなあからさまに商業的な活動を「社会への奉仕」と呼んで、英国王室の公務と比較するのはおかしいという議論が英国では強い。
 確かにそれはそうだろう。しかしながら、王室のメンバーの公務、つまり公共への奉仕についても過大評価されてはいないだろうか、考えてみれば、そのほとんどが、公の場所に現れて赤いテープをカットしたり、スピーチを行ったり、手をふったり、握手をして回ったりすることだ。もちろん王室はそれ以外の仕事もしているし、特に慈善活動では重要な役割を果たしている。だが、その分野では著名な知識人や芸能人なども同様に活躍している。
 だからと言ってヘンリー王子たちの「奉仕」を擁護するわけではない。夫妻は善意でやっていたとしても、億万長者のセレブ仲間たちと一緒に社会問題への意識啓発パーティ―に出席したり、ツイッターで「希望のメッセージ」を流したりするだけで公共に奉仕している気分になっているとしたらそれは滑稽だ。
 今回の英国王室とヘンリー王子夫妻のもめ事は、公共への奉仕とはいったい何かということを思い出させる。なぜなら、それはコロナ禍ではっきり見えてきたことの一つでもあるからだ。
 公共に奉仕する姿とは、他者を助けようとするわれわれの姿だ。貧困層の子どもたちのために食事を作って届ける地域のボランティアや、前線で働く医療関係者、ワクチン投与のボランティアを志願した人々、ロックダウンの買いだめの影響で食糧がなくなったフードバンクのためにスーパーマーケットの駐車場に立って食品の寄付を募る人々、基礎疾患を持つ近所の人々の代りに買い出しに出かける学生たちのグループ。
 これらの人々の足元には赤いカーペットは敷かれていない。彼らの奉仕にトランペットでファンファーレを鳴らす人もいない、ただ淡々と、自分がすべきことを地域社会のために果たしていく。
 公共奉仕は、公共のために行われるものだけではない。公共が、公共自身で、公共のために行うこともある。いま、「公助」こそがこのスピリットから学び、変わるべきだ。(ブレイディ・みかこ=英国在住保育士、ライター、コラムニスト)」東京新聞2021年3月16日夕刊、5面社会時評。     

 イギリスでも、公共に奉仕する愛すべき王室、というイメージは一部の保守的国民にしか反響しない状況があるのかもしれない。共和制の国でスポーツや芸能分野のスターが、社会的セレブに見なされちやほや話題になるのは、大衆社会現象としては当たり前ではあるが、スターはその人自身のもつ達成的achievement評価であって、1代かぎりのものである。王族や皇族は生まれたときに決まっている属性的ascription運命であって、王室離脱したからと言って映画スターのように金銭的報酬を得て、公共奉仕をするのもよいと考えるとしたら、勘違いではないだろうか。それに比べると、日本の皇族結婚問題などは、逆にど~でもよい話題だとしか思えないが…。
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