A.天皇擁立論をめぐって
北一輝の思想は、二・二六事件の首謀者であった青年将校たちが、『日本改造法案大綱』を信奉して、天皇による革命を軍によるクーデターとして計画実行したことから、軍国ファシズムや右翼的「昭和維新」の思想的リーダーであるかのようにみなされ、彼が計画した事件でもないのにそれを認めて54歳で死刑になった。ただ、23歳で書いた『国体論及び純正社会主義』の内容をこうして読んでみると、北一輝の社会変革プランなるものは、20世紀初頭の時点で世界の潮流であった「社会主義」の線に沿って、明治日本の国体を論じたものであって、皇道右翼的でもなければ暴力革命論でもないようだ。とくに天皇については、その神聖性に疑いをもち、あからさまには書かないが明治藩閥政府が作り上げた天皇制を、将来は廃止することまで考えていたと読める、と渡辺京二氏は読み込んでいる。『国体論及び純正社会主義』を書いた明治30年代には、幸徳秋水や堺利彦といったアナーキズムや社会主義者とのつきあいもあったが、中国の辛亥革命運動に共鳴して中国にかかわるようになったことで、大逆事件の嫌疑からは免れた。
その後の北は、大正時代に中国革命での盟友宋教仁との運動を論じた『支那革命外史』を書き、そして日本に戻って1923(大正12)年40歳で、『日本改造法案』を出版した。それから1936(昭和11)年の二・二六事件まで、彼はなにをしていたのか?はこの後で出てくるのだが、明治の青春を生きていた23歳の「純正社会主義」者が、大正昭和とすすむにつれ思想的変質を遂げたのか。それとも中国辛亥革命での経験も踏まえ、思想的進化発展を遂げたのか?いや、思想家北一輝は結局23歳のときに完成してしまった思想を持ち続けて変わらなかったのか?そこは、外から見た人たちにはよくわからず、右翼の黒幕みたいに政治家や財界人を脅して金をまきあげるようなこともやっていたから、誤解や曲解も招いた。だいたい『国体論及び純正社会主義』をちゃんと読んだ人などごく少数だったのではないか。
とりあえず明治天皇は、維新政府によって都合よく捏造された天皇制の頂点に引っ張り出されたのであって、維新以前の天皇とは別のものになったのだ、という北の天皇論をみよう。
「しかしなぜ、それは擁立されねばならなかったか。むろん、いわゆる勤皇論というものの働きがあった。だがそれは彼によれば、維新革命という理論なき革命が、誤ってまとわざるをえなかった「被布」であった。フランス革命においては、「ラテン民族の古代に実現せる民主政」という理想があったのに対し、維新革命にはそういう民主的な理想が欠けていたのである。しかし「炬火は燃えつつあり、理論なかるべからず。彼らは遺憾にもその革命論を古典と儒学に訪ねたるなり。‥‥‥彼らは理論に暇あらずして、ただ儒学の王覇の弁と古典の高天原の仮定より一切の革命論を糸の如く演繹したり」。北が明白に「遺憾」と断言しているのを、見落としてはならない。騎亜は、日本という国はもともと天皇の支配すべきもののと定められていて、その正統の王に政権を返さねばならぬのだ、というこの勤皇論が、いわゆる国体論と名を変えて、神聖天皇の専制支配の根源となっていることをもって、遺憾だというのである。
だが、歴史は逆説によってすら自己を貫徹することを、北は鮮やかに論証する。尊王論は、じつは「民主主義を古典と儒教との被布に蔽ひたる革命論」である。なぜなら志士たちは、その尊王論を楯として、それまで臣属してきた君侯への「忠順の義務」を解除したからである。こういう北のみかたは、凡庸な史学研究者たちには、細部を無視した何かとほうもない論断のように見えるかも知れない。だが、それは恐ろしく的をついていた。維新の指導者たちはたしかに、自己の忠誠観念を天皇に転換しえたからこそ、三百年の恩顧をこうむって来た封建諸侯の支配を廃絶することができたのである。うがっていうならば、彼らが、一度も臣属したことのない天皇の譜代の忠臣であるかのような自己幻想をつのらせたのは、先祖代々奉公してきた君侯を捨て去ったやましさの代償と見れぬこともあるまい。このような尊王論の解釈は、むろん彼の維新解釈と不可分である。彼はそれを民主主義革命と把握したが、その把握は次のような理解に裏付けられていた。「維新革命は貴族主義に対する破壊的一面のみの奏功にして、民主主義の建設的本色は実に『万機公論による』の宣言、西南佐賀の反乱、而して憲法要求の大運動によりて得たる明治二十三年の『大日本帝国憲法』にあり、即ち維新革命は戊辰戦役に於て貴族主義に対する破壊を為したるのみにして、民主々義の建設は帝国憲法によりて一段落を劃せられたる二十三年間の継続運動なりとす」。つまり、北にとって明治維新とは、このように自由民権運動を通じて国会開設にいたる過程に、その本質を現わすような革命なのであった。
彼は、維新が王政復古であることを、力を尽くして否認しようとした。それが王政復古であるのなら、なぜ「維新後十年ならずして」「憲法要求」の運動が起こったのか。この運動を西洋思想の「全く直訳的のもの」とみなし、短期間に生じた「急激なる変化」のように考えるものは、維新の本質についてまったく無知なのである。根は、慶応四年の政権移動のずっと以前からあったのだ。つまり維新を用意したすべての運動が、もともとこの憲法要求の運動にまで展開すべき本質をかくしもっていたのだ。それを王政復古などという人間は、それだけで「野蕃人」だ。こう彼はいう。われわれは、このようにとらえられた維新が、じつは維新の理念態であることに気づかねばならない。これが、後世から見て維新とは何であったかという、純粋に客観的な認識を示すものではなく、維新革命終結後十五、六年にしかならぬ時代に、その全過程を完了させるものとして、第二維新革命を提起しつつある人間の、行動的な視点から導き出された論理であることを、悟らねばならない。
彼はいかにもヘーゲリアンらしく、維新革命を、次第に本質を顕現してくる革命というふうにとらえている。顕現してくる本質とは、自由民権運動に代表されるような国民の「平等観の拡充」である。彼が、維新は民主主義革命であり、明治国家が民主国だと主張するのは、その現実についてではなく、その理念態についてでああり、それを現実にもたらすのは、むろん彼自身も含む国民の革命的な意志なのである。
北は周知のように、そもそも法的に社会主義たるべき日本公民国家において、資本家の階級支配が行われていることを、「経済的家長国」への逆倒と表現した。これはまさに革命の成果が資本家によって簒奪されたことをいうもので、この意味で北は維新革命のトロツキーにたとえられてよい。だが、彼がこの本の中で示した論理全体からいうならば、彼が革命からの逆倒とみなしたのはけっしてブルジョワの経済的支配だけではない。天皇制専制支配もまたかならずや、維新革命からの逆転現象とみなされたはずである。ところが彼はその逆転を、ただ固陋な復古主義者の脳中にだけ存在する妄想であるかに強弁した。この強弁の意味についての考察は後段にゆずるが、ここで最低必要なことをいっておくならば、何よりもまず彼には、維新革命が実現したのが教育勅語に集約されるような天皇制専制国家であってたまるか、という思いがあったように受けとれる。父たちが闘って憲法を獲得した明治国家は、断乎として民主国と解すべきである。目下、それがただひとつの現実であるかのような貌つきで立ち現れている天皇制専制主義は、あくまでも一時的な逆転現象にすぎない。その逆転現象をもって日本国家の本質を「家長国」と認めるのは、父たちが切り開いて来た戦線を放棄する敗北主義である。維新革命を法源とする日本公民国家の反逆者は、彼らであって自分たちではない。彼らの国体違反、憲法違反こそ、取り締まられるべきではないか。これが北の本音であって、その点では日本国家は民主国なりという彼の主張はあながち強弁とばかりはいえぬ彼の実感でもあった。
「大日本国憲法」は、上からの憲法構想と下からの憲法構想の対抗過程をへて、明治専制支配者の勝利、民権論者の敗北の表現として出現した憲法だ、というのは今日の通説である。だが、北の生きていた時代の人間に、そういう深刻な挫折感があったかどうかはきわめて疑わしい。彼らは、明治の天皇制専制主義がついに昭和の「天皇制ファシズム」にまで昂進した結末を知っている後世の人間ほど、明治国家における天皇制支配を絶対的ないし不動のものとは考えていなかった、とみるほうが事実に近いだろう。彼らが明治二十年代において、日本近代国家を天皇制専制国家などとは考えておらず、逆に、まだ十分開花はとげていないにせよ、あきらかに民主主義国家への途を歩みつつあるものとみなしていたことには、明治の史論家たちの言説をはじめとして数々の証拠がある。彼らは帝国憲法すら、それほど専制的な性格のものとは考えていなかったかも知れない。だからこそ美濃部達吉のような憲法解釈もあった。三十年代に至って天皇制支配は強化されたとはいえ、こういう感覚はまだ根強く生き残っていたはずである。
北は以上のような論理で、維新革命を民主主義革命とみなし、明治国家を民主国ととらえた。天皇という古代遺制を担ぎ出してきたのは「遺憾」であったけれども、それは志士たちに、自分たちがいかなる「天則」によって動かされているかという、自覚がなかったことから来た錯誤だった。しかし「天則に不用と誤謬なし」。北はおそらく、擁立された天皇は、覚醒したばかりの国家意識に中心点を与える道具として、「天則」から選ばれたのだというふうに考えていたにちがいない。だから彼には、国民が革命の必要のために拾いあげてやった天皇が、自分を神権的国王であるかに思いちがえて、国民に対して支配者然と君臨しようとするのは、許しがたい反革命的倒錯と感じられた。
北が天皇を「国家の一機関」と規定し、さらに「特権ある国民」と念を押す真意は、この点にある。つまり彼は、維新革命の必要によって擁立された天皇は、まかりまちがっても、従来の君主がそう考えられているような国民の支配者などではないと主張しているのである。「日本国民と日本天皇とは権利義務の条約を以て対立する二っつの階級にあらず」というとき、彼は両者間の調和を説いているのではない。革命のシムボル、より端的に言えばその道具である天皇が、国民と対立したり、国民を支配したりすることが、ありうるはずがないではないか、といっているのである。国民と天皇がもっている権利義務は、それぞれに対する権利義務ではなく、国家に対する権利義務だと彼はいう。北のいう国家とは国民の理念態であるから、じつにこれは天皇は国民の支配者どころか、国民に対しその「機関」として義務を負うているのだぞ、という主張となる。天皇が特権を有する一国民だというのは、北の定義では、それが国王的栄誉権をもち皇室費の支弁をうける、ということにすぎない。しかもそれは、天皇の要求しうる権利ではなく、国家すなわち国民が彼に許した権利なのである。「日本国民が天皇を無視す可からざる義務あるは、天皇の直接に国民に要求し得べき権利にあらずして、要求の権利は国家が有し、国民は国家の前に義務を負ふなり」。
天皇よ、錯覚するな、と彼はいいたいのだ。汝は維新前には、神主の大なるものにすぎなかったではないか。誰のおかげで、民主国日本の天皇になれたのだ。分を知らねばならぬ。汝の特権は、国家が必要と認めて付与してやっただけだ。だからといって、国民を自己の臣民視するならば、汝はただちに国家の反逆者となることを明記せよ。」渡辺京二『北一輝』朝日選書、1985年。pp.115-121.
北の天皇論は、考えてみれば歴史の実態に即していて、とくに過激でもなければ異様でもない。明治維新を実際にくぐってきた明治人(とくに維新の元勲たち)にはある意味自明のものだったともいえる。それを知らない昭和の軍人や皇道右翼には、水戸学以来の神聖なる万世一系の天皇像を貶めるけしからぬ思想に見えただけで、ぼくには西洋の王や皇帝の立憲契約主義とも考えあわせた北のリアリズムのほうが、知的な説得力があるように思う。ただ、その後の日本では、こうした思想が異端視されていったのも確かだ。
B.岸田首相は何型?
岸田文雄という人が、国民の目から見ても、どうやら政治家として確固たる信念も思想ももっていない、ただ総理大臣をやっていたいだけの人らしい、ということが見えてしまったのだろう。しかし、それでは国家にとっても国民にとっても困ってしまう。平和で安定した日本だった頃なら、それでもなんとかなったのかもしれないが、今は経済も社会も問題は深刻になって、政治の転換への決断が迫られる状況だ。こうなった責任の多くは、安倍政治のとった諸政策の結果でもあるのに、岸田政権はなんだか、いままでの惰性でそのうちよくなると期待するだけ…にしかみえない。亡国への途を深める首相という後世の評価が予想される。
「危急の時代 指導者の姿勢:状況に流され強硬論しか考えない 保阪 正康 (ノンフィクション作家)
岸田文雄内閣の支持率が下落している。各メディアの調査によると、軒並み不支持が圧倒的に支持を上回っている
共同通信の11月の調査では不支持率が4.2㌽上がり56.7%。支持率は4.5㌽下がって、2年前の内閣発足以来最低の28.3%となった。人気がないというより首相失格のレッテルが貼られたかのように見える。
この首相は、なぜこれほどまでに支持されないのであろうか。
消費者物価の高騰や世界平和統一家庭連合(旧統一教会)問題への後手の対応、二つの戦争(ロシアのウクライナ侵攻、パレスチナ自治区ガザを実効支配するハマスとイスラエルの紛争)に対する消極的姿勢など、いくつかの要因はすぐ思いつく。
しかし政策への取り組みの甘さだけで、これほど支持率が軒並み落ち込むとは思えない。何か基本的な信頼感に欠ける政治姿勢があるのではないか。それは何だろうか。私の思うところを記してみたい。
国際社会は今、大規模な戦争の季節に入るか否かの瀬戸際にある。核の不安を伴うウクライナの戦争は長期化し、イスラエル・ハマス紛争は一歩間違うと全面的な中東戦争に転換しかねない。
日本が直接巻き込まれる恐れは薄いにしても、国民意識には戦争の時代の閉塞感が漂っているのではないだろうか。いわば危急の時なのである。その際の首相の姿勢に、国民は納得していないというのが不支持の理由と考えていいだろう。
こういう危急の時代は、主に昭和10年代をモデルとして考えると一つの回答が浮かび上がってくる。二・二六事件(昭和11〈1936〉年2月)の後、日本は日中戦争、太平洋戦争へと突き進み、国土は焦土と化して昭和20年8月の敗戦に至った。危急の時代における指導者の政策の誤りで、悲惨な結果に陥ったのである。
この間、広田弘毅に始まり鈴木貫太郎に終わる、9人の首相が時代を担った。9人は戦争にどう向き合ったか。私の見るところ、次のような四つのタイプに分かれる。
1、状況に流されて眼前の強硬論しか考えない東条英機型。
2、哲学、思想はあるが、優柔不断に対応する近衛文麿型。
3、迂回しながらも政治的目的の完遂をめざす鈴木貫太郎型。
4、信念欠如、思想欠落の無気力型。
4には広田弘毅や林銑十郎、平沼麒一郎、阿部信行、米内光正、小磯国昭が含まれると思う。この中で1と4は最も歴史感覚のない首相である。1は戦争への道をまい進し、4は東条のような首相を生み出す土壌をつくった首相、つまり補佐役と言っても良いだろう。
私は、岸田首相は自民党の宏池会出身ということもあり、2か3のタイプだと思っていた。つまり「寛容と忍耐」を説いた池田隼人のように、理念に基づき政治のかじ取りを行うだろうと。国際社会が戦争へ動く際には、これを阻止するための行動を起こし、危急の時代を乗り切る知恵を国連などで出していくと思っていた。しかし、そうではなかった。
私の見るところ、この首相は1の東条英機型であると思う。登場の強引さ、直線的な発想という特徴はないのだが、最も重大な点が重なり合うのだ。どういう点か。これも箇条書きにしたほうが分かりやすい。
1、自分と周囲の利害得失でしか物事を判断しない。
2、人事で有能の士を遠ざける。
3、大局より小事にこだわり、その実践を誇りとする。
要は状況をつくるのではなく、状況の流れの中でしか判断しないのである。岸田首相は都内のスーパーを視察して、物価高の現状を確認したという、東条が戦時下に庶民のごみ箱のふたを開けて、まだ食べられるものが捨てられているから、食料は安心だと言った史実と重なり合う。
岸田首相の唐突な所得税減税案を見ていくと、本質から遠いところで大衆的人気を考えている構図にがくぜんとする。
今この首相に望むのは、果たせずとも対米開戦回避を目指した近衛型と、継戦論を抑えポツダム宣言受諾に導いた鈴木方の長所を取り入れた首相象の確立である。
それこそが危急時の首相ではないか、と思えてならない。」東京新聞2023年11月27日夕刊5面。
北一輝の思想は、二・二六事件の首謀者であった青年将校たちが、『日本改造法案大綱』を信奉して、天皇による革命を軍によるクーデターとして計画実行したことから、軍国ファシズムや右翼的「昭和維新」の思想的リーダーであるかのようにみなされ、彼が計画した事件でもないのにそれを認めて54歳で死刑になった。ただ、23歳で書いた『国体論及び純正社会主義』の内容をこうして読んでみると、北一輝の社会変革プランなるものは、20世紀初頭の時点で世界の潮流であった「社会主義」の線に沿って、明治日本の国体を論じたものであって、皇道右翼的でもなければ暴力革命論でもないようだ。とくに天皇については、その神聖性に疑いをもち、あからさまには書かないが明治藩閥政府が作り上げた天皇制を、将来は廃止することまで考えていたと読める、と渡辺京二氏は読み込んでいる。『国体論及び純正社会主義』を書いた明治30年代には、幸徳秋水や堺利彦といったアナーキズムや社会主義者とのつきあいもあったが、中国の辛亥革命運動に共鳴して中国にかかわるようになったことで、大逆事件の嫌疑からは免れた。
その後の北は、大正時代に中国革命での盟友宋教仁との運動を論じた『支那革命外史』を書き、そして日本に戻って1923(大正12)年40歳で、『日本改造法案』を出版した。それから1936(昭和11)年の二・二六事件まで、彼はなにをしていたのか?はこの後で出てくるのだが、明治の青春を生きていた23歳の「純正社会主義」者が、大正昭和とすすむにつれ思想的変質を遂げたのか。それとも中国辛亥革命での経験も踏まえ、思想的進化発展を遂げたのか?いや、思想家北一輝は結局23歳のときに完成してしまった思想を持ち続けて変わらなかったのか?そこは、外から見た人たちにはよくわからず、右翼の黒幕みたいに政治家や財界人を脅して金をまきあげるようなこともやっていたから、誤解や曲解も招いた。だいたい『国体論及び純正社会主義』をちゃんと読んだ人などごく少数だったのではないか。
とりあえず明治天皇は、維新政府によって都合よく捏造された天皇制の頂点に引っ張り出されたのであって、維新以前の天皇とは別のものになったのだ、という北の天皇論をみよう。
「しかしなぜ、それは擁立されねばならなかったか。むろん、いわゆる勤皇論というものの働きがあった。だがそれは彼によれば、維新革命という理論なき革命が、誤ってまとわざるをえなかった「被布」であった。フランス革命においては、「ラテン民族の古代に実現せる民主政」という理想があったのに対し、維新革命にはそういう民主的な理想が欠けていたのである。しかし「炬火は燃えつつあり、理論なかるべからず。彼らは遺憾にもその革命論を古典と儒学に訪ねたるなり。‥‥‥彼らは理論に暇あらずして、ただ儒学の王覇の弁と古典の高天原の仮定より一切の革命論を糸の如く演繹したり」。北が明白に「遺憾」と断言しているのを、見落としてはならない。騎亜は、日本という国はもともと天皇の支配すべきもののと定められていて、その正統の王に政権を返さねばならぬのだ、というこの勤皇論が、いわゆる国体論と名を変えて、神聖天皇の専制支配の根源となっていることをもって、遺憾だというのである。
だが、歴史は逆説によってすら自己を貫徹することを、北は鮮やかに論証する。尊王論は、じつは「民主主義を古典と儒教との被布に蔽ひたる革命論」である。なぜなら志士たちは、その尊王論を楯として、それまで臣属してきた君侯への「忠順の義務」を解除したからである。こういう北のみかたは、凡庸な史学研究者たちには、細部を無視した何かとほうもない論断のように見えるかも知れない。だが、それは恐ろしく的をついていた。維新の指導者たちはたしかに、自己の忠誠観念を天皇に転換しえたからこそ、三百年の恩顧をこうむって来た封建諸侯の支配を廃絶することができたのである。うがっていうならば、彼らが、一度も臣属したことのない天皇の譜代の忠臣であるかのような自己幻想をつのらせたのは、先祖代々奉公してきた君侯を捨て去ったやましさの代償と見れぬこともあるまい。このような尊王論の解釈は、むろん彼の維新解釈と不可分である。彼はそれを民主主義革命と把握したが、その把握は次のような理解に裏付けられていた。「維新革命は貴族主義に対する破壊的一面のみの奏功にして、民主主義の建設的本色は実に『万機公論による』の宣言、西南佐賀の反乱、而して憲法要求の大運動によりて得たる明治二十三年の『大日本帝国憲法』にあり、即ち維新革命は戊辰戦役に於て貴族主義に対する破壊を為したるのみにして、民主々義の建設は帝国憲法によりて一段落を劃せられたる二十三年間の継続運動なりとす」。つまり、北にとって明治維新とは、このように自由民権運動を通じて国会開設にいたる過程に、その本質を現わすような革命なのであった。
彼は、維新が王政復古であることを、力を尽くして否認しようとした。それが王政復古であるのなら、なぜ「維新後十年ならずして」「憲法要求」の運動が起こったのか。この運動を西洋思想の「全く直訳的のもの」とみなし、短期間に生じた「急激なる変化」のように考えるものは、維新の本質についてまったく無知なのである。根は、慶応四年の政権移動のずっと以前からあったのだ。つまり維新を用意したすべての運動が、もともとこの憲法要求の運動にまで展開すべき本質をかくしもっていたのだ。それを王政復古などという人間は、それだけで「野蕃人」だ。こう彼はいう。われわれは、このようにとらえられた維新が、じつは維新の理念態であることに気づかねばならない。これが、後世から見て維新とは何であったかという、純粋に客観的な認識を示すものではなく、維新革命終結後十五、六年にしかならぬ時代に、その全過程を完了させるものとして、第二維新革命を提起しつつある人間の、行動的な視点から導き出された論理であることを、悟らねばならない。
彼はいかにもヘーゲリアンらしく、維新革命を、次第に本質を顕現してくる革命というふうにとらえている。顕現してくる本質とは、自由民権運動に代表されるような国民の「平等観の拡充」である。彼が、維新は民主主義革命であり、明治国家が民主国だと主張するのは、その現実についてではなく、その理念態についてでああり、それを現実にもたらすのは、むろん彼自身も含む国民の革命的な意志なのである。
北は周知のように、そもそも法的に社会主義たるべき日本公民国家において、資本家の階級支配が行われていることを、「経済的家長国」への逆倒と表現した。これはまさに革命の成果が資本家によって簒奪されたことをいうもので、この意味で北は維新革命のトロツキーにたとえられてよい。だが、彼がこの本の中で示した論理全体からいうならば、彼が革命からの逆倒とみなしたのはけっしてブルジョワの経済的支配だけではない。天皇制専制支配もまたかならずや、維新革命からの逆転現象とみなされたはずである。ところが彼はその逆転を、ただ固陋な復古主義者の脳中にだけ存在する妄想であるかに強弁した。この強弁の意味についての考察は後段にゆずるが、ここで最低必要なことをいっておくならば、何よりもまず彼には、維新革命が実現したのが教育勅語に集約されるような天皇制専制国家であってたまるか、という思いがあったように受けとれる。父たちが闘って憲法を獲得した明治国家は、断乎として民主国と解すべきである。目下、それがただひとつの現実であるかのような貌つきで立ち現れている天皇制専制主義は、あくまでも一時的な逆転現象にすぎない。その逆転現象をもって日本国家の本質を「家長国」と認めるのは、父たちが切り開いて来た戦線を放棄する敗北主義である。維新革命を法源とする日本公民国家の反逆者は、彼らであって自分たちではない。彼らの国体違反、憲法違反こそ、取り締まられるべきではないか。これが北の本音であって、その点では日本国家は民主国なりという彼の主張はあながち強弁とばかりはいえぬ彼の実感でもあった。
「大日本国憲法」は、上からの憲法構想と下からの憲法構想の対抗過程をへて、明治専制支配者の勝利、民権論者の敗北の表現として出現した憲法だ、というのは今日の通説である。だが、北の生きていた時代の人間に、そういう深刻な挫折感があったかどうかはきわめて疑わしい。彼らは、明治の天皇制専制主義がついに昭和の「天皇制ファシズム」にまで昂進した結末を知っている後世の人間ほど、明治国家における天皇制支配を絶対的ないし不動のものとは考えていなかった、とみるほうが事実に近いだろう。彼らが明治二十年代において、日本近代国家を天皇制専制国家などとは考えておらず、逆に、まだ十分開花はとげていないにせよ、あきらかに民主主義国家への途を歩みつつあるものとみなしていたことには、明治の史論家たちの言説をはじめとして数々の証拠がある。彼らは帝国憲法すら、それほど専制的な性格のものとは考えていなかったかも知れない。だからこそ美濃部達吉のような憲法解釈もあった。三十年代に至って天皇制支配は強化されたとはいえ、こういう感覚はまだ根強く生き残っていたはずである。
北は以上のような論理で、維新革命を民主主義革命とみなし、明治国家を民主国ととらえた。天皇という古代遺制を担ぎ出してきたのは「遺憾」であったけれども、それは志士たちに、自分たちがいかなる「天則」によって動かされているかという、自覚がなかったことから来た錯誤だった。しかし「天則に不用と誤謬なし」。北はおそらく、擁立された天皇は、覚醒したばかりの国家意識に中心点を与える道具として、「天則」から選ばれたのだというふうに考えていたにちがいない。だから彼には、国民が革命の必要のために拾いあげてやった天皇が、自分を神権的国王であるかに思いちがえて、国民に対して支配者然と君臨しようとするのは、許しがたい反革命的倒錯と感じられた。
北が天皇を「国家の一機関」と規定し、さらに「特権ある国民」と念を押す真意は、この点にある。つまり彼は、維新革命の必要によって擁立された天皇は、まかりまちがっても、従来の君主がそう考えられているような国民の支配者などではないと主張しているのである。「日本国民と日本天皇とは権利義務の条約を以て対立する二っつの階級にあらず」というとき、彼は両者間の調和を説いているのではない。革命のシムボル、より端的に言えばその道具である天皇が、国民と対立したり、国民を支配したりすることが、ありうるはずがないではないか、といっているのである。国民と天皇がもっている権利義務は、それぞれに対する権利義務ではなく、国家に対する権利義務だと彼はいう。北のいう国家とは国民の理念態であるから、じつにこれは天皇は国民の支配者どころか、国民に対しその「機関」として義務を負うているのだぞ、という主張となる。天皇が特権を有する一国民だというのは、北の定義では、それが国王的栄誉権をもち皇室費の支弁をうける、ということにすぎない。しかもそれは、天皇の要求しうる権利ではなく、国家すなわち国民が彼に許した権利なのである。「日本国民が天皇を無視す可からざる義務あるは、天皇の直接に国民に要求し得べき権利にあらずして、要求の権利は国家が有し、国民は国家の前に義務を負ふなり」。
天皇よ、錯覚するな、と彼はいいたいのだ。汝は維新前には、神主の大なるものにすぎなかったではないか。誰のおかげで、民主国日本の天皇になれたのだ。分を知らねばならぬ。汝の特権は、国家が必要と認めて付与してやっただけだ。だからといって、国民を自己の臣民視するならば、汝はただちに国家の反逆者となることを明記せよ。」渡辺京二『北一輝』朝日選書、1985年。pp.115-121.
北の天皇論は、考えてみれば歴史の実態に即していて、とくに過激でもなければ異様でもない。明治維新を実際にくぐってきた明治人(とくに維新の元勲たち)にはある意味自明のものだったともいえる。それを知らない昭和の軍人や皇道右翼には、水戸学以来の神聖なる万世一系の天皇像を貶めるけしからぬ思想に見えただけで、ぼくには西洋の王や皇帝の立憲契約主義とも考えあわせた北のリアリズムのほうが、知的な説得力があるように思う。ただ、その後の日本では、こうした思想が異端視されていったのも確かだ。
B.岸田首相は何型?
岸田文雄という人が、国民の目から見ても、どうやら政治家として確固たる信念も思想ももっていない、ただ総理大臣をやっていたいだけの人らしい、ということが見えてしまったのだろう。しかし、それでは国家にとっても国民にとっても困ってしまう。平和で安定した日本だった頃なら、それでもなんとかなったのかもしれないが、今は経済も社会も問題は深刻になって、政治の転換への決断が迫られる状況だ。こうなった責任の多くは、安倍政治のとった諸政策の結果でもあるのに、岸田政権はなんだか、いままでの惰性でそのうちよくなると期待するだけ…にしかみえない。亡国への途を深める首相という後世の評価が予想される。
「危急の時代 指導者の姿勢:状況に流され強硬論しか考えない 保阪 正康 (ノンフィクション作家)
岸田文雄内閣の支持率が下落している。各メディアの調査によると、軒並み不支持が圧倒的に支持を上回っている
共同通信の11月の調査では不支持率が4.2㌽上がり56.7%。支持率は4.5㌽下がって、2年前の内閣発足以来最低の28.3%となった。人気がないというより首相失格のレッテルが貼られたかのように見える。
この首相は、なぜこれほどまでに支持されないのであろうか。
消費者物価の高騰や世界平和統一家庭連合(旧統一教会)問題への後手の対応、二つの戦争(ロシアのウクライナ侵攻、パレスチナ自治区ガザを実効支配するハマスとイスラエルの紛争)に対する消極的姿勢など、いくつかの要因はすぐ思いつく。
しかし政策への取り組みの甘さだけで、これほど支持率が軒並み落ち込むとは思えない。何か基本的な信頼感に欠ける政治姿勢があるのではないか。それは何だろうか。私の思うところを記してみたい。
国際社会は今、大規模な戦争の季節に入るか否かの瀬戸際にある。核の不安を伴うウクライナの戦争は長期化し、イスラエル・ハマス紛争は一歩間違うと全面的な中東戦争に転換しかねない。
日本が直接巻き込まれる恐れは薄いにしても、国民意識には戦争の時代の閉塞感が漂っているのではないだろうか。いわば危急の時なのである。その際の首相の姿勢に、国民は納得していないというのが不支持の理由と考えていいだろう。
こういう危急の時代は、主に昭和10年代をモデルとして考えると一つの回答が浮かび上がってくる。二・二六事件(昭和11〈1936〉年2月)の後、日本は日中戦争、太平洋戦争へと突き進み、国土は焦土と化して昭和20年8月の敗戦に至った。危急の時代における指導者の政策の誤りで、悲惨な結果に陥ったのである。
この間、広田弘毅に始まり鈴木貫太郎に終わる、9人の首相が時代を担った。9人は戦争にどう向き合ったか。私の見るところ、次のような四つのタイプに分かれる。
1、状況に流されて眼前の強硬論しか考えない東条英機型。
2、哲学、思想はあるが、優柔不断に対応する近衛文麿型。
3、迂回しながらも政治的目的の完遂をめざす鈴木貫太郎型。
4、信念欠如、思想欠落の無気力型。
4には広田弘毅や林銑十郎、平沼麒一郎、阿部信行、米内光正、小磯国昭が含まれると思う。この中で1と4は最も歴史感覚のない首相である。1は戦争への道をまい進し、4は東条のような首相を生み出す土壌をつくった首相、つまり補佐役と言っても良いだろう。
私は、岸田首相は自民党の宏池会出身ということもあり、2か3のタイプだと思っていた。つまり「寛容と忍耐」を説いた池田隼人のように、理念に基づき政治のかじ取りを行うだろうと。国際社会が戦争へ動く際には、これを阻止するための行動を起こし、危急の時代を乗り切る知恵を国連などで出していくと思っていた。しかし、そうではなかった。
私の見るところ、この首相は1の東条英機型であると思う。登場の強引さ、直線的な発想という特徴はないのだが、最も重大な点が重なり合うのだ。どういう点か。これも箇条書きにしたほうが分かりやすい。
1、自分と周囲の利害得失でしか物事を判断しない。
2、人事で有能の士を遠ざける。
3、大局より小事にこだわり、その実践を誇りとする。
要は状況をつくるのではなく、状況の流れの中でしか判断しないのである。岸田首相は都内のスーパーを視察して、物価高の現状を確認したという、東条が戦時下に庶民のごみ箱のふたを開けて、まだ食べられるものが捨てられているから、食料は安心だと言った史実と重なり合う。
岸田首相の唐突な所得税減税案を見ていくと、本質から遠いところで大衆的人気を考えている構図にがくぜんとする。
今この首相に望むのは、果たせずとも対米開戦回避を目指した近衛型と、継戦論を抑えポツダム宣言受諾に導いた鈴木方の長所を取り入れた首相象の確立である。
それこそが危急時の首相ではないか、と思えてならない。」東京新聞2023年11月27日夕刊5面。