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 北一輝「国体論及び純正社会主義」の核心 2  明治天皇擁立論  危機の政治家  

2023-11-30 21:24:40 | 日記
A.天皇擁立論をめぐって
 北一輝の思想は、二・二六事件の首謀者であった青年将校たちが、『日本改造法案大綱』を信奉して、天皇による革命を軍によるクーデターとして計画実行したことから、軍国ファシズムや右翼的「昭和維新」の思想的リーダーであるかのようにみなされ、彼が計画した事件でもないのにそれを認めて54歳で死刑になった。ただ、23歳で書いた『国体論及び純正社会主義』の内容をこうして読んでみると、北一輝の社会変革プランなるものは、20世紀初頭の時点で世界の潮流であった「社会主義」の線に沿って、明治日本の国体を論じたものであって、皇道右翼的でもなければ暴力革命論でもないようだ。とくに天皇については、その神聖性に疑いをもち、あからさまには書かないが明治藩閥政府が作り上げた天皇制を、将来は廃止することまで考えていたと読める、と渡辺京二氏は読み込んでいる。『国体論及び純正社会主義』を書いた明治30年代には、幸徳秋水や堺利彦といったアナーキズムや社会主義者とのつきあいもあったが、中国の辛亥革命運動に共鳴して中国にかかわるようになったことで、大逆事件の嫌疑からは免れた。
 その後の北は、大正時代に中国革命での盟友宋教仁との運動を論じた『支那革命外史』を書き、そして日本に戻って1923(大正12)年40歳で、『日本改造法案』を出版した。それから1936(昭和11)年の二・二六事件まで、彼はなにをしていたのか?はこの後で出てくるのだが、明治の青春を生きていた23歳の「純正社会主義」者が、大正昭和とすすむにつれ思想的変質を遂げたのか。それとも中国辛亥革命での経験も踏まえ、思想的進化発展を遂げたのか?いや、思想家北一輝は結局23歳のときに完成してしまった思想を持ち続けて変わらなかったのか?そこは、外から見た人たちにはよくわからず、右翼の黒幕みたいに政治家や財界人を脅して金をまきあげるようなこともやっていたから、誤解や曲解も招いた。だいたい『国体論及び純正社会主義』をちゃんと読んだ人などごく少数だったのではないか。
 とりあえず明治天皇は、維新政府によって都合よく捏造された天皇制の頂点に引っ張り出されたのであって、維新以前の天皇とは別のものになったのだ、という北の天皇論をみよう。

 「しかしなぜ、それは擁立されねばならなかったか。むろん、いわゆる勤皇論というものの働きがあった。だがそれは彼によれば、維新革命という理論なき革命が、誤ってまとわざるをえなかった「被布」であった。フランス革命においては、「ラテン民族の古代に実現せる民主政」という理想があったのに対し、維新革命にはそういう民主的な理想が欠けていたのである。しかし「炬火は燃えつつあり、理論なかるべからず。彼らは遺憾にもその革命論を古典と儒学に訪ねたるなり。‥‥‥彼らは理論に暇あらずして、ただ儒学の王覇の弁と古典の高天原の仮定より一切の革命論を糸の如く演繹したり」。北が明白に「遺憾」と断言しているのを、見落としてはならない。騎亜は、日本という国はもともと天皇の支配すべきもののと定められていて、その正統の王に政権を返さねばならぬのだ、というこの勤皇論が、いわゆる国体論と名を変えて、神聖天皇の専制支配の根源となっていることをもって、遺憾だというのである。
 だが、歴史は逆説によってすら自己を貫徹することを、北は鮮やかに論証する。尊王論は、じつは「民主主義を古典と儒教との被布に蔽ひたる革命論」である。なぜなら志士たちは、その尊王論を楯として、それまで臣属してきた君侯への「忠順の義務」を解除したからである。こういう北のみかたは、凡庸な史学研究者たちには、細部を無視した何かとほうもない論断のように見えるかも知れない。だが、それは恐ろしく的をついていた。維新の指導者たちはたしかに、自己の忠誠観念を天皇に転換しえたからこそ、三百年の恩顧をこうむって来た封建諸侯の支配を廃絶することができたのである。うがっていうならば、彼らが、一度も臣属したことのない天皇の譜代の忠臣であるかのような自己幻想をつのらせたのは、先祖代々奉公してきた君侯を捨て去ったやましさの代償と見れぬこともあるまい。このような尊王論の解釈は、むろん彼の維新解釈と不可分である。彼はそれを民主主義革命と把握したが、その把握は次のような理解に裏付けられていた。「維新革命は貴族主義に対する破壊的一面のみの奏功にして、民主主義の建設的本色は実に『万機公論による』の宣言、西南佐賀の反乱、而して憲法要求の大運動によりて得たる明治二十三年の『大日本帝国憲法』にあり、即ち維新革命は戊辰戦役に於て貴族主義に対する破壊を為したるのみにして、民主々義の建設は帝国憲法によりて一段落を劃せられたる二十三年間の継続運動なりとす」。つまり、北にとって明治維新とは、このように自由民権運動を通じて国会開設にいたる過程に、その本質を現わすような革命なのであった。
 彼は、維新が王政復古であることを、力を尽くして否認しようとした。それが王政復古であるのなら、なぜ「維新後十年ならずして」「憲法要求」の運動が起こったのか。この運動を西洋思想の「全く直訳的のもの」とみなし、短期間に生じた「急激なる変化」のように考えるものは、維新の本質についてまったく無知なのである。根は、慶応四年の政権移動のずっと以前からあったのだ。つまり維新を用意したすべての運動が、もともとこの憲法要求の運動にまで展開すべき本質をかくしもっていたのだ。それを王政復古などという人間は、それだけで「野蕃人」だ。こう彼はいう。われわれは、このようにとらえられた維新が、じつは維新の理念態であることに気づかねばならない。これが、後世から見て維新とは何であったかという、純粋に客観的な認識を示すものではなく、維新革命終結後十五、六年にしかならぬ時代に、その全過程を完了させるものとして、第二維新革命を提起しつつある人間の、行動的な視点から導き出された論理であることを、悟らねばならない。
 彼はいかにもヘーゲリアンらしく、維新革命を、次第に本質を顕現してくる革命というふうにとらえている。顕現してくる本質とは、自由民権運動に代表されるような国民の「平等観の拡充」である。彼が、維新は民主主義革命であり、明治国家が民主国だと主張するのは、その現実についてではなく、その理念態についてでああり、それを現実にもたらすのは、むろん彼自身も含む国民の革命的な意志なのである。
 北は周知のように、そもそも法的に社会主義たるべき日本公民国家において、資本家の階級支配が行われていることを、「経済的家長国」への逆倒と表現した。これはまさに革命の成果が資本家によって簒奪されたことをいうもので、この意味で北は維新革命のトロツキーにたとえられてよい。だが、彼がこの本の中で示した論理全体からいうならば、彼が革命からの逆倒とみなしたのはけっしてブルジョワの経済的支配だけではない。天皇制専制支配もまたかならずや、維新革命からの逆転現象とみなされたはずである。ところが彼はその逆転を、ただ固陋な復古主義者の脳中にだけ存在する妄想であるかに強弁した。この強弁の意味についての考察は後段にゆずるが、ここで最低必要なことをいっておくならば、何よりもまず彼には、維新革命が実現したのが教育勅語に集約されるような天皇制専制国家であってたまるか、という思いがあったように受けとれる。父たちが闘って憲法を獲得した明治国家は、断乎として民主国と解すべきである。目下、それがただひとつの現実であるかのような貌つきで立ち現れている天皇制専制主義は、あくまでも一時的な逆転現象にすぎない。その逆転現象をもって日本国家の本質を「家長国」と認めるのは、父たちが切り開いて来た戦線を放棄する敗北主義である。維新革命を法源とする日本公民国家の反逆者は、彼らであって自分たちではない。彼らの国体違反、憲法違反こそ、取り締まられるべきではないか。これが北の本音であって、その点では日本国家は民主国なりという彼の主張はあながち強弁とばかりはいえぬ彼の実感でもあった。
 「大日本国憲法」は、上からの憲法構想と下からの憲法構想の対抗過程をへて、明治専制支配者の勝利、民権論者の敗北の表現として出現した憲法だ、というのは今日の通説である。だが、北の生きていた時代の人間に、そういう深刻な挫折感があったかどうかはきわめて疑わしい。彼らは、明治の天皇制専制主義がついに昭和の「天皇制ファシズム」にまで昂進した結末を知っている後世の人間ほど、明治国家における天皇制支配を絶対的ないし不動のものとは考えていなかった、とみるほうが事実に近いだろう。彼らが明治二十年代において、日本近代国家を天皇制専制国家などとは考えておらず、逆に、まだ十分開花はとげていないにせよ、あきらかに民主主義国家への途を歩みつつあるものとみなしていたことには、明治の史論家たちの言説をはじめとして数々の証拠がある。彼らは帝国憲法すら、それほど専制的な性格のものとは考えていなかったかも知れない。だからこそ美濃部達吉のような憲法解釈もあった。三十年代に至って天皇制支配は強化されたとはいえ、こういう感覚はまだ根強く生き残っていたはずである。
 北は以上のような論理で、維新革命を民主主義革命とみなし、明治国家を民主国ととらえた。天皇という古代遺制を担ぎ出してきたのは「遺憾」であったけれども、それは志士たちに、自分たちがいかなる「天則」によって動かされているかという、自覚がなかったことから来た錯誤だった。しかし「天則に不用と誤謬なし」。北はおそらく、擁立された天皇は、覚醒したばかりの国家意識に中心点を与える道具として、「天則」から選ばれたのだというふうに考えていたにちがいない。だから彼には、国民が革命の必要のために拾いあげてやった天皇が、自分を神権的国王であるかに思いちがえて、国民に対して支配者然と君臨しようとするのは、許しがたい反革命的倒錯と感じられた。
 北が天皇を「国家の一機関」と規定し、さらに「特権ある国民」と念を押す真意は、この点にある。つまり彼は、維新革命の必要によって擁立された天皇は、まかりまちがっても、従来の君主がそう考えられているような国民の支配者などではないと主張しているのである。「日本国民と日本天皇とは権利義務の条約を以て対立する二っつの階級にあらず」というとき、彼は両者間の調和を説いているのではない。革命のシムボル、より端的に言えばその道具である天皇が、国民と対立したり、国民を支配したりすることが、ありうるはずがないではないか、といっているのである。国民と天皇がもっている権利義務は、それぞれに対する権利義務ではなく、国家に対する権利義務だと彼はいう。北のいう国家とは国民の理念態であるから、じつにこれは天皇は国民の支配者どころか、国民に対しその「機関」として義務を負うているのだぞ、という主張となる。天皇が特権を有する一国民だというのは、北の定義では、それが国王的栄誉権をもち皇室費の支弁をうける、ということにすぎない。しかもそれは、天皇の要求しうる権利ではなく、国家すなわち国民が彼に許した権利なのである。「日本国民が天皇を無視す可からざる義務あるは、天皇の直接に国民に要求し得べき権利にあらずして、要求の権利は国家が有し、国民は国家の前に義務を負ふなり」。
 天皇よ、錯覚するな、と彼はいいたいのだ。汝は維新前には、神主の大なるものにすぎなかったではないか。誰のおかげで、民主国日本の天皇になれたのだ。分を知らねばならぬ。汝の特権は、国家が必要と認めて付与してやっただけだ。だからといって、国民を自己の臣民視するならば、汝はただちに国家の反逆者となることを明記せよ。」渡辺京二『北一輝』朝日選書、1985年。pp.115-121.

 北の天皇論は、考えてみれば歴史の実態に即していて、とくに過激でもなければ異様でもない。明治維新を実際にくぐってきた明治人(とくに維新の元勲たち)にはある意味自明のものだったともいえる。それを知らない昭和の軍人や皇道右翼には、水戸学以来の神聖なる万世一系の天皇像を貶めるけしからぬ思想に見えただけで、ぼくには西洋の王や皇帝の立憲契約主義とも考えあわせた北のリアリズムのほうが、知的な説得力があるように思う。ただ、その後の日本では、こうした思想が異端視されていったのも確かだ。


B.岸田首相は何型?
 岸田文雄という人が、国民の目から見ても、どうやら政治家として確固たる信念も思想ももっていない、ただ総理大臣をやっていたいだけの人らしい、ということが見えてしまったのだろう。しかし、それでは国家にとっても国民にとっても困ってしまう。平和で安定した日本だった頃なら、それでもなんとかなったのかもしれないが、今は経済も社会も問題は深刻になって、政治の転換への決断が迫られる状況だ。こうなった責任の多くは、安倍政治のとった諸政策の結果でもあるのに、岸田政権はなんだか、いままでの惰性でそのうちよくなると期待するだけ…にしかみえない。亡国への途を深める首相という後世の評価が予想される。

 「危急の時代 指導者の姿勢:状況に流され強硬論しか考えない  保阪 正康 (ノンフィクション作家)
 岸田文雄内閣の支持率が下落している。各メディアの調査によると、軒並み不支持が圧倒的に支持を上回っている
共同通信の11月の調査では不支持率が4.2㌽上がり56.7%。支持率は4.5㌽下がって、2年前の内閣発足以来最低の28.3%となった。人気がないというより首相失格のレッテルが貼られたかのように見える。
 この首相は、なぜこれほどまでに支持されないのであろうか。
 消費者物価の高騰や世界平和統一家庭連合(旧統一教会)問題への後手の対応、二つの戦争(ロシアのウクライナ侵攻、パレスチナ自治区ガザを実効支配するハマスとイスラエルの紛争)に対する消極的姿勢など、いくつかの要因はすぐ思いつく。
 しかし政策への取り組みの甘さだけで、これほど支持率が軒並み落ち込むとは思えない。何か基本的な信頼感に欠ける政治姿勢があるのではないか。それは何だろうか。私の思うところを記してみたい。
 国際社会は今、大規模な戦争の季節に入るか否かの瀬戸際にある。核の不安を伴うウクライナの戦争は長期化し、イスラエル・ハマス紛争は一歩間違うと全面的な中東戦争に転換しかねない。
 日本が直接巻き込まれる恐れは薄いにしても、国民意識には戦争の時代の閉塞感が漂っているのではないだろうか。いわば危急の時なのである。その際の首相の姿勢に、国民は納得していないというのが不支持の理由と考えていいだろう。
 こういう危急の時代は、主に昭和10年代をモデルとして考えると一つの回答が浮かび上がってくる。二・二六事件(昭和11〈1936〉年2月)の後、日本は日中戦争、太平洋戦争へと突き進み、国土は焦土と化して昭和20年8月の敗戦に至った。危急の時代における指導者の政策の誤りで、悲惨な結果に陥ったのである。
 この間、広田弘毅に始まり鈴木貫太郎に終わる、9人の首相が時代を担った。9人は戦争にどう向き合ったか。私の見るところ、次のような四つのタイプに分かれる。
 1、状況に流されて眼前の強硬論しか考えない東条英機型。
 2、哲学、思想はあるが、優柔不断に対応する近衛文麿型。
 3、迂回しながらも政治的目的の完遂をめざす鈴木貫太郎型。
 4、信念欠如、思想欠落の無気力型。 
 4には広田弘毅や林銑十郎、平沼麒一郎、阿部信行、米内光正、小磯国昭が含まれると思う。この中で1と4は最も歴史感覚のない首相である。1は戦争への道をまい進し、4は東条のような首相を生み出す土壌をつくった首相、つまり補佐役と言っても良いだろう。
 私は、岸田首相は自民党の宏池会出身ということもあり、2か3のタイプだと思っていた。つまり「寛容と忍耐」を説いた池田隼人のように、理念に基づき政治のかじ取りを行うだろうと。国際社会が戦争へ動く際には、これを阻止するための行動を起こし、危急の時代を乗り切る知恵を国連などで出していくと思っていた。しかし、そうではなかった。
 私の見るところ、この首相は1の東条英機型であると思う。登場の強引さ、直線的な発想という特徴はないのだが、最も重大な点が重なり合うのだ。どういう点か。これも箇条書きにしたほうが分かりやすい。
 1、自分と周囲の利害得失でしか物事を判断しない。
 2、人事で有能の士を遠ざける。
 3、大局より小事にこだわり、その実践を誇りとする。
 要は状況をつくるのではなく、状況の流れの中でしか判断しないのである。岸田首相は都内のスーパーを視察して、物価高の現状を確認したという、東条が戦時下に庶民のごみ箱のふたを開けて、まだ食べられるものが捨てられているから、食料は安心だと言った史実と重なり合う。
 岸田首相の唐突な所得税減税案を見ていくと、本質から遠いところで大衆的人気を考えている構図にがくぜんとする。
 今この首相に望むのは、果たせずとも対米開戦回避を目指した近衛型と、継戦論を抑えポツダム宣言受諾に導いた鈴木方の長所を取り入れた首相象の確立である。
 それこそが危急時の首相ではないか、と思えてならない。」東京新聞2023年11月27日夕刊5面。
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 北一輝「国体論及び純正社会主義」の核心 1  評伝北一輝  今の自民党に思想などない!

2023-11-27 00:42:43 | 日記
A.ある記憶
 大学生だった頃だと思う。山手線に乗って席が空いたので座り、持っていた本を取り出して読んでいたら、隣にいた中年男性に訊ねられた。「なんの本を読んでるのかね?」ぼくはその本の表紙を彼に見せた。『北一輝伝説』松本健一著。「ふ~ん、北一輝ね。いまどき北一輝かあ」と言って黙って、彼は渋谷で降りて行った。ぼくがこの本を買ったのは、とくに北一輝に関心があったというより、松本健一という著者が、当時新進の批評家でいわゆる左翼の主流とは立場の異なる論説を発表していたのに興味をもったのだ。
 北一輝については2・26事件の黒幕として処刑された人物で、昭和のはじめに「日本改造法案大綱」という本を書いて「昭和維新」を唱えたファシズム運動の扇動者だというイメージしかなかった。その頃、吉田喜重が監督したATG映画「戒厳令」(1973年公開)を見ていたから、三國連太郎が演じていた北一輝の印象がとても強かった。5・15そして2・26という軍部青年将校を焚きつけて、天皇による革命を図る怪しげな怪物で日蓮宗の行者、という北一輝像は、銃殺されるとき刑吏から「天皇陛下万歳と唱えられますか?皆さんそうされてますが…」と聞かれて「私は死ぬ前に冗談は言わないことにしている」と答える三國連太郎で決まってしまった。
 松本健一『評伝 北一輝』は今は中公文庫になっているが、ぼくは途中まで読んで放り出してしまった。松本健一は、資料を駆使して、佐渡の多感な少年時代から、辛亥革命に始まる中国の革命運動に挺身した北一輝の足跡を辿り、その〈ロマン的革命家〉としての実像を描いていた。松本健一は、1946年群馬県生まれ。東京大学経済学部卒業。評論家。麗澤大学教授。著書に『石川啄木』『北一輝の昭和史』『北一輝伝説』『昭和天皇伝説』『われに万古の心あり』『真贋』『隠岐島コミューン伝説』『近代アジア精神史の試み』『開国のかたち』『白旗伝説』『幕末畸人伝』がある。
 しかし、これからぼくが数回読んでいくのは、松本健一ではなく、1985年4月に出た渡辺京二の書いた評伝『北一輝』朝日選書、である。これもたぶん20年くらい前に買って、研究室に積んであった本だが、ほとんど読んでいなかった。それがたまたま先月、眼にとまって引っ張り出して読み始めたら、北一輝の思想は、若干二十三歳の時に書いた『国体論及び純正社会主義』(1906(明治39)年出版)にすべて詰まっていて、後年の『支那革命外史』や『日本改造法案』(もとは1919(大正8)年の『国家改造案原理大綱』)よりも重要だと書いてある。これがいかに凄いか、たしかに佐渡島という辺境にいて、佐渡中学を出ただけの青年がほぼ数年の独学で到達した政治思想の、雄大ともいえる革命の展望は、凄い。帯にある「擬ファシスト的民族国家主義者」という北一輝のイメージは、覆ってしまった。渡辺京二は、松本健一の北一輝像は、過剰なロマン主義者として描き出すが、北のテキストを読み違えてその思想をわかっていないとかなり批判的である。なにより北一輝は社会主義者であって、アジア主義も含む東洋の革命を構想していたという。それが明治維新のやり直し、第二革命というアイディアになっていく。

「北が『国体論及び純正社会主義』で提示した理論のうちで、今日の眼からしてもっとも重要な意味をもつのは、日本近代国家と日本革命の性質を論じた部分である。この本が日本の近代政治思想のなかでもっとも重要な文献のひとつになりえているのは、もっぱらこの部分によってといっていい。
 北は、明治三十年代の国家は、帝国憲法の水準では社会主義国家であるが、藩閥政府と教育勅語の水準では天皇制専制国家であり、現実の経済制度の水準では、ブルジョワジー・地主の支配する資本制国家であると把握した。さらに、日本はすでに維新革命によって法的には社会主義国家なのであるから、来るべき社会主義革命は、教育勅語水準の天皇制専制主義(すなわち彼の用語によれば「国体論的復古的革命主義」を反国体、憲法違反として無化し、ブルジョワジー・地主の経済的階級支配を廃絶する第二維新、すなわち補足的な経済革命で充分である、と主張した。
 わが国の知的カースト社会の住人には、これは何ともわけのわからぬ論理に見えるらしい。とくに問題になるのは、明治国家を北が社会主義国家と規定する点である。戦後イデオロギーの見地からすれば、北がそれを「民主国」と規定するのさえ許しがたいのに、社会主義呼ばわりするなど、正気の沙汰とも思えないのである。この点で北を批判しようとする人間は、むかしから大勢いた。
 だが彼らは、北の論理を無心に読み解くことから始めず、自身の知的常識やイデオロギー尺度から裁くことのみを急いだ。そうすると北の論理は、収拾のつかぬ矛盾と混乱の集積に見えた。つまり批判者自身がわけがわからなくなってくる次第で、その場合彼らは、次のように罵って自らを慰めるのを常とした。いわく「理解に苦しむこんんとんたる思想」(田中惣五郎)。だが、こんとんとしているのは夫子自身の脳中の状態で、彼らは、北の論理的、あまりにも過剰に論理的な理論構成を、ただ読み解けないというにすぎなかった。また仮に読み解けたとしても、天皇制専制主義は国体違反で、現実の日本は民主国だという北の主張が、どういう戦略を意味するかわからず、天皇制国家の美化ではないかと疑った。日本国家は維新革命の産物なのだから、先験的に社会主義国家のなのだという北の弁証にいたっては、まさに判じものであった。現在の研究水準は、おおかた、こういう連続的な疑問符の行進の上に立って、ああでもないこうでもないと、北の表面を撫でまわしているだけである。
 北の第二革命の論理において、まず問題になるのは、帝国憲法に規定された日本国家の国体を、「民主国」とみなし、したがって天皇を制限された立憲君主と規定した点にあろう。
彼の定義では、「民主国」とは、国家が君主や封建諸侯の所有対象、すなわち「物格」であることをやめて、「人格」として自立した段階を示している。国家とは、北にとって国民の理念態を意味する。すなわち国家の「人格」化とは、同時に国民の「人格」化でもある。維新革命によって創出された日本近代国家は、このような「民主国」であり、帝国憲法はそのことの表現であると彼は理解する。したがって、憲法にその地位を明記された天皇は、かつての絶対君主のような国家の私有者ではなく、民主国の意志を忠実に表現する「国家機関」である。北が来るべき社会主義革命を、上部構造的変革を必要とせぬ経済面での補足的革命と考えたのは「民主国」をこのように、法的側面において社会主義的要請をすでに実現したものとみなしたからであった。
 この北の論理は、ただちに、さまざまな角度からの異論や疑問を誘発せずにはおかない。私はなるべく順序よくそれを片付けてゆき、片づけ終ったときには、北の第二維新革命の論理構造がすべて開示されているといったふうに、話しを運びたいと思う。
 まず問題になるのは、北の論理が、天皇制専制支配との闘争を放棄し、闘争目標をブルジョワジーと地主のみにかぎる、経済主義的な戦略ではないかということだろう。何しろ彼は、本書のなかで、天皇と社会主義が矛盾しないということを力説し、そのことを明らかにしたのが自分の日本社会主義理論への貢献だとさえ主張しているのだから、その疑いはむりもない。疑った人はたくさんいるが、代表は何といっても服部之総で、彼はこの点で、北を労農派の先蹤とさえみなした。だが北の論理を、天皇制専制支配の合理化であり美化であるかに考えたものたちは、北が本書の第四編『所謂国体論の復古的革命主義』の冒頭に、次のように書いたことを完全に看過していた。
 「欧米の社会主義者に取りては、第一革命を卒へて経済的懸隔に対する打破が当面の任務なり。未だ工業革命を歩みつつある日本の社会主義にとりては、然かく懸隔の甚しからざる経済的方面よりも、妄想の駆逐によりて良心を独立ならしむることが焦眉の急務なり。‥‥‥『国体論』といふ脅迫の下に犬の如く匍匐して、如何に土地資本の公有を鳴号するも、斯る唯物論的妄動のみにては社会主義は霊魂の去れる腐屍骸骨なり」。
 彼は経済的階級支配すなわちブルジョワジーの階級支配と闘う以前に、ぜひやっておかねばならぬことがある。それは国体論という「妄想」と闘うことだといっているのである。この国体論という「妄想」が天皇制イデオロギーそのものを指すことは、彼が第四編のおびただしいページを費して展開した国体論批判をみれば明白である。皮相にいえば彼はここでは労農派どころか、いわゆる天皇制絶対主義との闘争を強調した講座派の立場に立っている。しかし、これは矛盾である。彼はすでに、日本は民主国で、それゆえに社会主義革命は国体の変更を伴わぬと主張していたではないか。批判者たちは、北のこういう一見矛盾としか感じられぬ所説のなかに、彼が近代日本国家をどんな意味で民主国と主張したかという、秘密がひそんでいることに、もっとはやく気づくべきだった。
 従来の批判者たちは、維新を民主主義革命、明治国家を民主国とする北の主張を、彼の客観的な事実認識としか理解できず、しかもそれが、天皇制支配を強弁によって弁護するものであるかに曲解して来た。ところが、これはたしかに強弁にはちがいないが、眼前の天皇制支配を、維新革命の正統ならざるものとして否認しようがための強弁なのであった。北の第二革命の論理を上っつらだけ読むと、彼が廃絶しようとするのはブルジョワジーの階級支配だけで、天皇制支配は「そんなものはない。それは復古的国体論者の脳中にだけ存在するものだ。日本はすでに憲法上民主主義国家なのだ」という論理で温存するもののようにとれる。ところがじつは、彼の主張する第二維新革命は、天皇制支配の廃絶を第一の任務として含むものであった。もちろんそれは禁句であるために、彼はその天皇制止揚の論理をきわめて細心に埋伏したけれども、眼のあいているものは、それを行間に読み取ることが可能なのだった。
 北の天皇制論を貫いている赤い糸は、一言でいえば〈擁立された天皇〉というアイディアである。つまり、天皇は維新革命の必要のために擁立された国家の道具にすぎぬという見かたで、この視点のユニークさのために、『国体論及び純正社会主義』は、天皇制について戦前提出された見解のうちで、もっとも重要なもののひとつとなっている。
 彼の考えでは、明治国家における天皇は、東洋的デスポットとしての古代天皇、「神道の羅馬法王」としての中世より近世にいたる天皇とは、まったく歴史的範疇を異にする存在であった。それを混同するような思考を、彼は、用語に対するモノマニアックな固着としてきびしく批判する。明治国家における天皇は、それまでの日本歴史にかつて存在しなかったような、独特な歴史的範疇であって、たとえ「天皇」という共通の呼称をもっているからといって、明治国家の天皇に古代的天皇の神権的性格を付会するのは、理論的にも実践的にも許されぬ誤謬だというのが、彼の「科学的」認識だったのである。
 だが、明治国家の天皇に古代的天皇の神権的性格を付会せしめたのは、明治国家の支配エリートの必要であると同時に、いわゆる万世一系・皇統連綿たる天皇家の歴史でもあった。しかし、北にいわせれば、そのような天皇制の歴史的継続性に関する思いこみも、ひとつの錯視の産物であった。彼はそのことを証明するために『国体論及び純正社会主義』の厖大なページを、かの「乱臣賊子論」のために費やした。これはこの本の核心をなすものとして、従来最も重視されてきた部分であるが、私はそうは思わない。もしこの乱臣賊子論とそれに続く国体批判が、もっとも価値をもつ部分だとすれば、この本はすでに死んだ本である。なぜなら、天皇制イデオロギー批判は、すでに過去の思想的任務に属するからである。北はこの部分においても、たとえば、中世以降の天皇を、現世の政治的世界の支配者たる幕府、すなわち「神聖皇帝」に対する「神道の羅馬法王」と規定するような、鋭い着想を随所に示してはいる。しかし、彼の論証は小気味よくもあり巧妙でもあったが、それによって示されたことは、今日、誰でも承認するような平凡な事実にすぎない。要するに彼は、日本人が天皇を、一貫して神聖な支配者として遇して来たというのは完全な嘘っぱちで、じつは彼に乱臣賊子の行為を働き続けて来たこと、そしてそれは歴史の必然であって、善でも悪でもないことを、えんえんと論証した。日本史が「国民に取りては、億兆心を一にして万世欠くるなき乱臣賊子を働きたる歴史的ピラミッド」である、という彼の結論は、教育勅語の神聖天皇像の完全なパロディというべく、彼の専制主義的近代天皇に対する悪意をはばかりなく露出するものであった。
 彼の考えでは、維新革命直前の天皇は、衰亡に瀕した古代専制君主の遺制、プラスとるにたりぬ京都近傍の小封建君主で、もし維新革命の指導者が打ち棄てておいたならば、革命のもたらす外光と外気に触れて、遠からず頽然とくずれ落ちるような存在にすぎなかった。そのような天皇がなぜ、創設された日本近代国家の君主となりえたのか。北の考えでは、それは国家がその必要から擁立したからであって、この意味では、天皇は明治国家の完全な被造物である。もちろん、あからさまには書いていないが、天皇は、どうしようもなく落ちぶれていたのを、国民が必要と認めて拾いあげてやったのだ、という感覚が北にあったのは疑う余地がない。私は彼の言葉を引いて論証してもよいのだが、そうでなくともこみいりがちな解析作業が、いっそうこみいるのをおそれて、いちいちの引用は避ける。ただし、私がこの章で北の主張として書いていることは、すべて『国体論及び純正社会主義』の叙述にもとづいている。疑う人があれば、論証の用意はつねにある。
 だが、この〈擁立された天皇〉という北のアイデアについては、それが彼の天皇論の基軸である以上、一応彼の言葉についてたしかめておこう。彼は、明治憲法に規定される国民対天皇の関係が、「権利義務の関係に於て相対立する」ものではないと力説する。「中世の契約説時代の憲法は、君主と貴族、或は国民との条約的性質」を持っていたが、明治憲法はけっしてそういう条約ではないという。北は何を主張しているのだろうか。日本の憲法は、契約説に立つヨーロッパの憲法などとちがって、天皇と国民のあいだの、もっとなごやかな、あい親しむ関係を規定している、といっているのだろうか。そうではない。彼がいいたいのは、日本天皇は国民を支配する君主ではないということである。これはじつに容易ならぬ提言であるが、彼がそれをもってまわった論理で、歯に衣着せて表現したために、この彼の重要な命題は、これまでほとんどその意味を読み取られてこなかったように思われる。
 日本憲法が、ヨーロッパ近世(北は中世というが、正しくは近世)において成立した憲法のように、国王と国民との間の権利義務の境界を確定する「条約的性質」をもたないということは、いいかえれば、日本近代天皇は、ヨーロッパの君主がそうであるような、国民に対して持っていた諸権利を、闘争を通じて徐々に譲り渡して来た、かつての絶対君主の後身ではないということを意味する。では、それは何であるのか。北が乱臣賊子論の部分で、天皇は千年このかた日本「家長国」の支配者であったことは一度もないと、力説しているところを、この北の主張に重ねるならば、彼のいわんとするところはおのずと明らかといえよう。彼は、近代天皇は国家の必要から擁立された「機関」であって、国民の支配者などではないと主張しているのである。
 これはじつに鮮烈な着想である。なるほど日本の近代天皇は、カイザーが、辛苦してプロシャ王国を列強のひとつたらしめたフリードリヒの後裔たるゆえに、ドイツ帝国の支配権を主張しえたように、明治国家の支配者たることを主張しえたのではなかった。またツアーリが、同輩の大貴族から推戴されたロマノフ家の正統であるゆえに、ロシア帝国の絶対君主たることを主張しえたように、日本帝国の神聖君主たることを主張しえたのでもなかった。さらにいくつかの立憲君主たちのように、かつて所有していた王国の絶対支配権を、臣民との闘争を通じてしだいに譲渡し、約定(憲法)によって、相互の権利の境界について妥協に達したがゆえに、帝国の正統的君主として君臨しえたのでもなかった。天皇は自前で国家の支配権を請求する意志と能力もなかったのに、革命家たちによって国民国家の首長として擁立されたのである。その事情はある点で、オレンジ公ウィリアムの担ぎ出しに似ていることに、北が気づかなかったはずはあるまい。彼が、理念態としての天皇を、英国国王と実質上ほとんど変わらないような、制限君主として把握したのは、あるいはこのことと無関係ではないかも知れない。」渡辺京二『北一輝』朝日選書、1985年。pp.108-115.

 この渡辺京二『北一輝』評伝は、朝日新聞社が朝日選書のシリーズとして企画したひとつで、他に大岡信が『岡倉天心』、鶴見俊輔が『高野長英』(これにはずいぶん教えられた)、横山宏章が『陳独秀』などを書いている。この『北一輝』のなかで、渡辺氏は松本健一がいかに北一輝を誤読しているかを述べるのだが、では渡辺氏の北一輝論が、そうとう色濃く渡辺流に染められているとはいえまいか、とも思う。『国体論及び純正社会主義』という大著ながら、23歳のこの著作以後、北一輝はこうした理論書を書いていない、とすると、それはマルクスやレーニンを読み込むのとは違ってくる。むしろ、明治39年という日露戦争が終わった時点で、佐渡島にいた若者がこれだけの世界観と構想を形にしていた事実に驚くと同時に、その「純正社会主義」なるものが、さまざまな思想的矛盾を孕んでいたことも見なければならない。


B.誹謗中傷のことばの軽薄さ
 影響力の大きな権力者を、鋭い言葉で批判したり、柔らかい言葉で揶揄したりすることは、やり方さえ間違わなければ悪いこととは思わない。ジャーナリズムや言論機関は、それが仕事の大事な部分でもある。政治家が税金をごまかしたり、法を無視する姿勢をとれば厳しく批判し報道するのは、必要なことなのはいうまでもない。しかし、弱い者、苦しんでいる者、それを支援する人たちを、揶揄や攻撃の対象にして、言いがかりをつけたり、馬鹿にしたりする言説を流す連中がいる。とくに、フェミニズム、LGBTQ、在日外国人、被差別部落やアイヌなどの少数派への誹謗中傷。あるいは障害者、高齢者、貧困者への罵詈雑言や冗談の皮を着せた悪口。彼らは、マイノリティが社会的弱者であることを口実に悪事を働き、不当な金をせしめているというデマを流す。非常に悪意に満ちた許しがたい行為だが、彼らの意識のなかでは、正義をうたい快楽を呼ぶ行為らしいのだ。しかもそこには一貫した思想などない。

「時代を読む : 公金とコスプレ  法政大学名誉教授・前総長  田中 優子 
 11月17日の本紙「本音のコラム」で北丸雄二さんが、宝塚会見の「軽さ」と自死の事実の「重さ」の不均衡を指摘していた。SNS上の誹謗中傷に見える言葉の軽さと、ジャニーズ事件被害者の自死の重さも同様だ。この不均衡は近ごろ、至る所に見られる。
 某自民党議員がフェイスブックに「チマ・チョゴリやアイヌの民族衣装のコスプレおばさん」と投稿し、札幌と大阪の法務局が人権侵犯と認定した。さらにアイヌ政策関連予算について会計不正があると主張し「公金チューチュー」と揶揄した。この議員は日本学術振興会の科学研究費助成を受けたフェミニズム研究を誹謗中傷し、それが「名誉棄損にあたる」という判決も受けている。
 これらは「差別問題」とされている。ヘイトスピーチ解消法やアイヌ施策推進法に反しているのだから、確かに差別だ。しかしこの議員に差別思想はあるのか? 思想という言葉の重さと言動の軽さの間には、気の遠くなるような深い溝がある。法務省が「特権ではない」と明言した事柄を「在日特権」と表現した差別も同じ構図なのだが、しかしこの公金・コスプレ表現には「差別思想」どころか、思想の「し」の字も見当たらない。だからこそ、怖い。
 ◇  ◆  ◇ 
 ちなみに、あえてこの議員の名前をあげないのは「自民党議員」というくくりで十分だからである。この議員を問題視しない自民党では、他の議員たちも同じ感覚をもっている、とみなすことができる。
 「公金チューチュー」という言葉は、これより前に使われていた。若年女性の支援をしている「コラボ」への攻撃だ。その攻撃に加担した人物のインタビューが公開された。彼は攻撃を率いたリーダーを巨大な公金不正組織と闘っている英雄だと思いこみ、彼のために多額の寄付金を集めた。そのリーダーは全ての責任を負って闘ってくれている「戦車」だったからという。自分たちフォロワーを守り「さあ、お前ら攻撃しろ」と言ってくれる。その戦車は絶対正義であり、その闘いに参加し、リーダーの喜ぶ情報を集めて褒めてもらうのが、この上ない快楽だったという。これは「戦争ごっこ」だ。
  ◇  ◆  ◇ 
 コラボにもアイヌ政策関連予算にも公金不正はなかった。証拠も根拠もなく「悪」を作り上げて自らを正義とするのは、典型的な陰謀論詐欺である。「チューチュー」「コスプレ」等の言葉で生身の人間の存在の重さや深さ、事実に向かう真摯をことごとくゲーム感覚の「軽さ」に変換する。そうやって快感を与え、その快感で称賛者たちを集め、従わせ、彼らを集金装置や集票装置にするのだ。この自民党議員がよく使うおはこが「生産性」である。相模原の障害者施設で19人を視察したとして死刑判決が確定した植松聖死刑囚も、優生思想や障害者を殺害したナチスの思想を知らなかったが「生産性のない人間は生きる価値がない」と言い放った。生産性とは何か自分の頭では考えず、殺人を生産性に貢献する「正義」と思いこんだ。数値と競争のみで人間を測る社会が、その思い込みを生んだのだ。
 イスラエルはガザで多くの人間を殺している。そのユダヤ人たちも膨大な人数が殺された。日本には、政治家を含め、人間への想像力を欠いた誹謗中傷を快楽とし、人の命と心を日々殺している人々がいる。」東京新聞2023年11月26日朝刊、5面社説・意見欄。
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 J・ロールズの原爆投下不正義論  南西シフト反対‼

2023-11-24 14:10:17 | 日記
A.許される戦争はあるのか
 大戦争をやって敗北した日本では、「戦争は二度とやってはいけない」と言い続けられ、ぼくたちは繰り返し「戦争はどんな理屈を並べても正当化できない悪だ」と素直に思ってきた。しかし、この原則的反戦、絶対平和主義を唱えているだけでは、現実に起きてしまう戦争にじゅうぶん対処できるのだろうか、を真剣に考えることをやめているのではないか。たとえば、戦後日本が間接的にではあるがかかわった戦争、朝鮮戦争やヴェトナム戦争では、軍隊こそ送らなかったけれど結果的に米軍の戦争に加担し利益を得ていたということは否定できない。また、自衛隊という軍隊を備える必要を説く人たちが強調するように、北朝鮮やロシア・中国のような軍事力で威圧する国が日本を攻撃する可能性がある以上、武力で反撃防衛することは当然の権利だ、という理屈もどこまで反論できるのか、という問題がある。
 かりに戦争が避けられない事態にいたった場合、あるいは武力攻撃や侵略が現実に起きた場合、なにもしないで無抵抗・非暴力でよいのか、やむをえず防衛戦争を戦うとしても国境を越え敵基地攻撃の準備をする必要があるのか?など、ぼくたちは重い決断を迫られるだろう。こうした問題を、哲学・倫理の原理的考察として考えたのが、ジョン・ロ-ルズの『正義論』であり、ロールズが広島の原爆について「原爆投下不正論」を発表していたことに注目した記事があった。

「原爆投下 なぜ不正か  インタビュー  社会倫理学者 川本 隆史 さん
一般市民への攻撃 免責事由なき悪行 論証した米哲学者
 広島と長崎への原爆投下は不正だったとする論考を米国で発表した哲学者がいた。論考を邦訳したのは広島出身の社会倫理学者、川本隆史さんだった。あのとき哲学者は「原爆投下はなぜ不正なのか?」を考えた。核抑止論が注目される今、その問いに改めて向き合う作業が求められている、と川本さんは言う。

 ――米国の哲学者ジョン・ロールズ(1921~2002)の論考「原爆投下はなぜ不正なのか?」
が邦訳されたのは、今から27年前でした。月刊誌「世界」の96年2月号でそれを読んだときに私は、著名な知識人が自分の国による原爆投下を「不正」だったと断じる姿に衝撃を受けました。あのとき、なぜ翻訳しようと思ったのですか。
 「目を開かれたからです。論考は硬派のオピニオン誌『ディセント(異論)』95年夏号に掲載されました。きっかけは当時米国内を揺るがしていた、現場投下の是非をめぐる激しい論争です。米国立スミソニアン航空宇宙博物館が戦後50年を機に原爆の被爆資料を含めた展示を企画し、それに憤った退役軍人や保守派が猛反発して、企画が中止に追い込まれたのです」
 「米国では多くの人が、広島と長崎への原爆投下は『正しかった』『やむを得なかった』と今も考えています。日本との戦争終結を早め、多くの米兵の命を救ったとされているのです。退役軍人は、原爆投下の正当性を疑うのは太平洋戦争を戦った米軍兵士への侮辱に等しいと訴えました。ロールズはそうした世論の大勢に異議を申し立てたのです。勇気ある発言でした」
 ――ロールズは、20世紀後半のもっとも重要な政治哲学者ともいわれる大きな存在でしたね。有名な71年の主著「性議論」は、正義にかなう社会が満たすべき条件とは何なのかを根底から考え、提示した本でした。
 「すべての人が平等な自由を享受し、機会の平等が実現され、最も不遇な人々の暮らし向きが改善される。それらの条件を満たす制度こそが正義にかなうものだとロールズは主張しました。私がロールズ研究の道に入ったのは、最も不遇な人々への配慮が不可欠だと訴える彼の姿勢に心を打たれたからです」
 「ロールズは社会の正義を生涯探求し続けた人ですが、哲学研究者としてのスタンスを守り、現実の政治的問題について時評的な発言をすることは控えていました。その意味で『原爆投下はなぜ不正なのか?』の寄稿は、異例の行動でした」
*    * 
 ――ロールズは、どのような論理によって原爆投下を不正だったと結論づけたのでしょう。
 「西洋では古代や中世から『正義にかなう戦争とは何か』をめぐる議論が続けられてきました。ロールズはそうした蓄積を精査し、『正しい戦争のルール』から逸脱したものだったと論証したのです」
 「戦争が正義にかなうための条件としてロールズは六つの原理を提示しました。『人々に平和をもたらすことが戦争の目標であること』『相手国が非民主的で領土を拡張しようとしている国であること』などです。原爆投下に直接関係するのは『(たとえ戦争中でも)まともな民主社会は、相手国の非戦闘員、兵士双方の人権を尊重しなければならない』という原理です。原爆の投下は、多くの非戦闘員を死傷させた悪行でした」
 ――一般市民を攻撃することイコール不正としたのですか。
 「ロールズは、攻撃対象に一般市民を含めることもやむを得ない場合があることも論じていました。攻撃側が『極限的な危機』にある場合がそれで、例として第2次世界大戦の初期に英国がドイツの市街地を空爆した作戦を挙げています。優勢なドイツ軍に押されて絶望の淵に立たされていた当時の英国は『極限的な危機』にあり、空爆は免責されるとしたのです」
「他方、米国が原爆を投下した際にはそうした免責事由がなかったとロールズは説きました。英国の例とは異なり、米国は優位に立っていたからです。危機による免責に該当しない状況下で多くの非戦闘員を攻撃したのが原爆投下だった、だから不正だ、と結論づけたのです。『凄まじい道徳的な悪行だった』と断定しています」
――ロールズの議論には、正しい戦争は存在するのだという前提があるように見えます。一方で非戦闘員への攻撃は今のガザ侵攻でも続いていますね。
「世界は力と力のぶつかり合いだと見なす「現実主義」の立場にも、どんな戦争もあってはならないとする絶対平和主義的な「理想主義」の立場にも、ロールズはくみしませんでした。戦争を避けられない局面があるとの現実を直視しつつ、『戦争といえどもこういう条件は満たされなければならない』という正義と不正の区別に関する議論をあきらめずに積み上げていく。そんな『現実主義的ユートピア』を彼は目指しました」
「原爆投下について米国民が反省すべきだからといって第2次大戦でのドイツと日本の責任が軽減されるわけではない、とも付記しています」
 ――川本さんは、ロールズが大戦の終結直後に広島市外の惨状を目撃していた可能性が高い、と近年指摘していますね。
 「ええ。ロールズは大戦中に米陸軍兵士としてニューギニアやフィリピンを転戦し、日本軍との白兵戦を経験しています。終戦後に占領軍の一員として九州に上陸したのですが、45年11月、任務を終えて日本を離れる途上に軍用列車で広島を通過していたことが、近年の研究で明らかになってきました。ロールズ自身はその体験を公表していないのですが、死後に公開された書簡に記されていたのです」
 「被爆3か月後の広島の惨状をロールズは車窓から目撃していたと私は推定しています。96年に論考を邦訳したときには、私の中で、彼の原爆投下不正論と広島での目撃体験はつながっていませんでした。でも今は、もし目撃体験がなかったら彼はあの論考を発表していなかったかもしれないと考えています」
――広島にかかわる体験をなぜ公表しなかったのでしょう。
 「わかりません。ただ、ロールズが自身の『体験』に立脚する形で原爆批判をするのではなく、原理や論理の力を活用したことには意味があると思います。人間は、原爆が投下された当時に自分がどこにいたかとは関係なく、原爆のことを切実な問題として考えられるのだという判例を示しているからです」
 ――川本さんは広島市のご出身なのですね。
 「祖父は被爆者、母は入市被爆者で、生家の柱にはガラス片が刺さっていました。爆風で吹き飛んだ窓ガラスの破片です」
 「ロールズの原爆投下不正論に出合ったことは、私が原爆について深く省察するきっかけになりました。それ以前から『核兵器は絶対悪だ』とは考えていましたし、今でもそう思いますが、なぜ悪なのかとか、どうしたら核武装の現状を打開できるかについては、突き詰めて考えてこなかったのです」
 「『あってはならないものだ』というところで思考停止していた。理由を具体的に挙げながら不正を論証するという筋道が見えていなかったのです」
*      * 
 ――原爆を必要悪と考える人々と絶対悪と考える人々。両者の間で歴史の共有が進んでいく可能性はあるでしょうか。
 「ロールズが提示した『重なり合う合意』という考え方が参考になると思います。意見は対立して完全な合意は成立しないけれど、重なり合いの部分でなら合意できる状態のことです」
 「広島市の秋葉忠利市長(当時)は99年の国際平和会議での講演で、核兵器反対のメッセージを世界に広げる方策として『たとえ戦争でも子どもは殺すな』というスローガンを用いようと提案しました。核保有国の人々も賛同せざるをえない主張を掲げることで、重なり合いを確認しようとする試みだったのでしょう。少なくとも、市民の大量虐殺を伴うような戦争の進行には歯止めをかけられます」
 ――ロシアがウクライナに侵攻し、核兵器使用の可能性を示唆している影響もあってか、平和のためには核抑止が必要だとする声が内外で強まりつつあり、核廃絶を求める人々の一部には不安も広がっています。
 「大事なのは、正義と不正の区別を粘り強く考え続け、声を上げ続けることだと思います。ロールズは論争下で意義申し立てをしたと言いましたが、ロンソウトいっても95年当時、原爆投下を批判する側は圧倒的な少数派でした。声が大きい方が勝つという『現実』に人々が負け、議論することを諦めてしまうこと。ロールズはそうした流れに抗し、民主主義に命を吹き込んだのだと私は評価します」 (聞き手 編集委員・塩倉裕)」朝日新聞2023年11月22日朝刊、11面オピニオン欄。

 昔、大学院生の頃、ロールズの『正義論』を少し勉強したことがあった。社会学の行為論や交換理論に関係して、人間同士の社会関係の分析に倫理という問題を組み込む理論として、注目されていた。一般的に悪とされる行為も、一定の条件のもとでは許される場合がある、とすれば、それはどういう事例か。人権や自由、平和と安全の確保をあくまで基本としながら、人としてやっていいことといけないことがある、という立場を「原爆投下不正論」としてロールズが提起していたと川本氏は言う。戦争の中で、非戦闘員である市民、とくに子どもや病者・弱者を無差別に殺害する暴力は許されるはずがない。しかし、もし例外がありうるとすれば、どんな場合か?それ以外に自分たちが生きる方途がない、という場合はありうる。英国によるドイツの都市爆撃がそれにあたる、のかどうかぼくには判断できないが、米軍による原爆投下は、日本がもはや軍事的に無能化した1945年8月に、このような市民の虐殺が行われたことは、戦争の是非以前に許されることではない、ということは納得できる。アメリカの一般世論が、原爆投下を戦争の勝利への有効な手段だったと肯定するのを、覆すのは難しいとしても、ひるがえって日本軍が中国大陸やアジアの占領地でやった暴力的殺害も、免責されると考えるなら、人としての倫理にもとるのはいうまでもない。


B.沖縄の危機感はこの国の危機感
 日本政府は米軍とともに自衛隊の南西シフトを、着々と進めている。このままいけば、「台湾有事」という軍事シナリオに誘導された戦争の準備が、琉球弧の島々ですすめられ、人びとが望みもしない危機的状況に向ってしまう。国会前や沖縄那覇市で、勤労感謝の昨日、反対集会が開かれたという東京新聞の一面記事。

「沖縄も日本も戦場にさせるなー。政府が進める沖縄県名護市の辺野古新基地建設や自衛隊の南西シフトに反対する集会が23日、国会前で開かれた。同日に那覇市であった「県民平和大集会」に全国各地で連帯する行動で、沖縄、鹿児島両県の島民らも参加。「有事になれば基地のある島が狙われる」「戦争の準備は始まっている」と危機感を訴えた。
 国会前に2千人:「島では戦争の足音だけでなく戦争の姿も見え始めた。東京でも想像してください」。沖縄県宮古島市の清水早子さん(75)は国会正門前に立ち、呼びかけた。
 陸上自衛隊と米海兵隊は10月、九州・沖縄で離島防衛を想定して戦闘射撃や負傷兵搬送を行う大規模訓練を展開。有事には先島諸島の住民ら約12万人を九州全域に避難させるとする国の想定があり、宮古島ではシェルター機能のある地下施設の整備も検討されている。清水さんは「12万人もどうやったら運べるのか。小さな島にいるからこそ、この国の行く末がよく見える」と危ぶんだ。
 沖縄県石垣市で農業を営む上原正光さん(70)は、パレスチナ自治区ガザ豊島の状況を「閉じ込められているのは同じ」と重ね合わせた。「武装すれば必ず敵をつくる。島々の力だけでミサイル戦争は止められないから、反戦のために一緒に闘ってほしい」と訴えた。
 沖縄集会の運営委員によると、同日の集会・行動は横浜や大阪など11カ所で計画。国会前集会は、南西諸島で戦争になれば本土の米軍・自衛隊も参戦する恐れがあるとして開かれ、主催者発表で約2千人が参加した。実行委員会の野平晋作さん(59)は「沖縄と本土では、危機感の隔たりがあまりに大きい。共有できる機会となれば」と願った。
 【用語解説】自衛隊の南西シフト:九州南端から台湾へと連なる南西諸島で、自衛隊の体制を強化する日本政府の方針。中国の軍事的台頭を背景に2010年の「防衛計画の大綱」で部隊配備が明記された。16年の与那国島(沖縄県)の陸上自衛隊駐屯地をはじめ、19年の宮古島(同)、奄美大島(鹿児島県)、今年3月の石垣島(沖縄県)と開設が続き、ミサイル部隊などの新編・移駐が進められてきた。」東京新聞2023年11月24日朝刊1面。
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ルネサンスの町フィレンツェ 11 エピローグ  ヤジと民主主義

2023-11-21 16:55:02 | 日記
A.メディチ家とトスカナ共和国
 イタリア・ルネッサンスを育んだトスカーナ地方が、繁栄の頂点にあった15世紀は、フィレンツェは共和国で、メディチ家の支配下になるとトスカーナ公国となる。このへんを、歴史的に確認すると以下のようになる(おもにWikipediaの記述による)。政治的な実体をもって地理的文化的に成り立ったのは、15世紀から始まった都市国家フィレンツェ共和国がその拡大政策によって1406年にピサ共和国を、1421年にはリヴォルノを取得したことに始まった。フィレンツェ共和国は、メディチ家が支配する16世紀に世襲制君主国のトスカーナ公国になり、領土はトスカーナ地方全域に拡大した。
 メディチ家時代の第1期(1434年から1494年)はコジモ・デ・メディチ(治世:1434年 - 1464年)に始まり、メディチ家のフィレンツェ追放により終わる。その後フィオレンティーナ共和国(Repubblica Fiorentina)が建国されたが、1512年にメディチ家が復帰し、1527年にフィレンツェ共和国が再興された。1530年、神聖ローマ皇帝カール5世はアレッサンドロ・デ・メディチを摂政に任命し、1532年にアレッサンドロはフィレンツェ公となった。その為国名をフィレンツェ公国に改めた。コジモ1世が1537年にトスカーナ公となるとイタリア戦争に関わっていき、カール5世のスペイン軍と共にフランスと結んだシエーナ共和国を攻撃し1555年にシエーナを占領した。そして、1559年のカトー・カンブレジ条約によりスペインに貸していた膨大な債権と引き換えにシエーナ共和国とシエーナ公の地位を手に入れ、併合した。1569年にはローマ教皇ピウス5世により初代トスカーナ大公に叙され、トスカーナ大公国が成立した。コジモ1世からフェルディナンド1世までがメディチ家の絶頂期であった。
 なかでもコジモの孫、ロレンツィオ・デ・メディチ(1449 - 1492年)が、ここでの「豪華王」である。その後メディチ家はジャン・ガストーネ(在位:1723年 - 1737年)まで続いたが、地中海貿易の衰退などによってイタリア自体国際的地位が低下し、トスカーナ大公国も衰退の一途を辿った。ジャン・ガストーネが没すると、後継者がなくメディチ家は断絶した。ジャン・ガストーネの遺言によってトスカーナ大公国はハプスブルク=ロートリンゲン家に継承された。

「ほとんど一世紀に近いあいだ、イタリア半島のどの町よりも、いや当時のヨーロッパのどんな都市よりも、華々しく豊かな芸術の花を開かせたトスカナの首都フィレンツェは、十五世紀の末から十六世紀初頭にかけての変わり目の時期に、急速に歴史の舞台から脱落してゆくようになる。これまで概観してきたような輝かしい成果と、美しいものに対する過敏なまでの憧れとは、いったいどこにいってしまったのだろうか。今もなお、五百年昔の姿をそのままに保ちながらアルノー川のほとりに静かに横たわっているこの花の都に、いったいどのようなことが起こったのだろうか。
 フィレンツェの場合、その挫折は革命的としか呼びようのないものであった。クヮトロチェントの歴史を見るかぎり、そこには偉大な天才たちも、理解ある保護者も、豊かな富も、優れた伝統も、何ひとつ欠けてはいなかった。しかし、美術をはぐくみ育てるそれらの条件は、世紀の終わりが近づくにつれて、ひとつひとつ、まるで夜明けの星のように消え去っていった。そして新しい世紀が明けそめた時、歴史の光に照らし出されたのは、昨日に変わる凋落した花の都の姿だったのである。
 むろん、さまざまの悪条件が重なったとはいえ、それらひとつひとつを取り出してみれば、いずれもそれぞれに必然的な理由があったに相違ない。しかし、そのような不幸な状況が、まるで申し合わせたようにいちどにこの町を襲ったというのは、偶然というにはあまりに痛ましい運命のいたずらであった。われわれはそこに、何か歴史の悪意といったようなものを感じないわけにはいかない。
 第一の不幸は、政治的混乱である。芸術の繁栄のためには、特にフィレンツェのような町においては、安定と平和は必要不可欠なものであった。十五世紀も九十年代までは、いろいろの困難はありながらもフィレンツェ共和国は表向き破綻を見せずにすんだ。東方世界の脅威も、フランス国王のおどしも、直接人びとの生活に不安をもたらすまでにはいたらなかった。しかし1492年のロレンツォ豪華王の死を境として事情は一変した。完璧を誇った民主的体制も、優れた指導者を失った時いかに無力なものとなるかを、ピエロ二世を中心とする共和国政府ははっきりと示した。フランス軍は現実にアルプスを越えて町の城壁に迫ってきた。サヴォナローラの神聖政治も、結局は混乱をいっそう強めるだけでしかなかった。フィレンツェの市民たちは、いつ襲いかかるかもしれない破滅の不安の中におびえながら、生き続けるようになったのである。
 第二の不幸は、経済上の打撃であった。東地中海におけるトルコ帝国の進出と、イギリス、フランドル、フランス等のアルプスの国々の擡頭とは、もはやイタリアのみに経済上の利益を独占させてはおかなくなった。コジモの時代にはヨーロッパでも有数の富を誇ったメディチ家の金庫も、ロレンツォの治世の最後にはすでにはっきりと破産の徴候を示していた。大がかりな造営事業や思い切った装飾活動を許すだけの経済的基礎は次第に失われていった。たとえばサヴォナローラの事件の後、ボッティチェルリの創作活動が急激に衰えてゆくのも、彼自身の創造力の枯渇による以上に、彼の創造力を支えた富裕なユマニストたちの没落によるところが大きい。
 第三の不幸は、フィレンツェの生み出した天才たちの国外流出である。すでに見たように、ロレンツォ豪華王の治世の最盛期とも言える1480年代から、多くの優れた芸術家たちが続々とフィレンツェから去っていった。ヴェロッキオ、ポライウオーロの二大アトリエの中心人物をはじめ、レオナルド、フィリッピノ・リッピ、サンガルロ、マヤーノ、そして少し遅れてミケランジェロ、ラファエルロ等、いずれもフィレンツェに学び、フィレンツェで修業時代を過ごした芸術家たちが、これまた短時日のあいだにこの芸術の町を見すてていった。
 これも、ひとりひとりの場合を取り上げてみれば、それぞれ特殊事情があったに相違ないが、これだけ大量に人材が流出したことは、もはや単なる個人的事情だけでは説明のつかない何かがその背後にあったことを予想させる。もちろん、クヮトロチェントの後半、フィレンツェに代わって次第に政治上、経済上の優位に立つようになってきたヴェネツィアやローマが、トスカナ芸術の栄光に憧れて、フィレンツェの芸術家たちを争って招き寄せたという事情は充分に理解できる。しかし、そのようにして招かれた芸術家たちは、何の未練もなく芸術の故国を去っていったばかりか、多くの場合、与えられた仕事を完成した後もふたたびフィレンツェにもどろうとはしなかった。芸術の都と自他ともに許していたフィレンツェに、これら天才たちに反発を感じさせるようないったい何があったのであろうか。
 ここでわれわれは、フィレンツェ芸術の挫折をもたらした第四の要因として、フィレンツェの市民たちの独特な気風と趣味とを指摘しなければならない。
 といって、フィレンツェの市民たちの気風が野蛮だったとか、その趣味が低かったとかいうのではない。それどころか逆に、フィレンツェの人びとは少なくともクヮトロチェントにおいては、最も芸術的な気風の持ち主であり、最も洗練された趣味の人びとであった。十五世紀におけるフィレンツェ芸術の栄光は、このような一般市民たちの芸術的気風と洗練された趣味なしには成立しえないものであったことはたしかである。しかしながら、その優れた気風と趣味とがまた、フィレンツェ芸術の挫折のひとつの要因であったということも――一見きわめて矛盾するようではあるが――やはりほんとうなのである。
 これまでにもしばしば触れた、あの伝記作者ヴァザーリは、フィレンツェの持つこの特異な精神的風土について、次のような重要な指摘を行っている。
 「‥‥‥人があらゆる芸術、特に絵画において完璧な腕を持つようになるのは、他のどこよりもフィレンツェにおいてであるが、それには三つの理由がある。第一には、批判の精神が町に満ちているので、人びとは凡庸なものに満足せず、自由な眼を持ち、作品の良否をその作者の名前によってではなく、それ自身の美しさと優れた美点とによって評価する気風があることである。第二には、誰にせよこの町に住もうと思う者は、勤勉で目先がきいて気転屋で、つねに知力と判断力を働かせていなければならず、またお金をかせぐ手段を心得ていなければならないという事情がある。というのは、フィレンツェは豊饒富裕な土地を持っておらず、したがって物がたくさんある他の町のように物価が安くないからである。これらに比べて少しも劣ることのない影響力を持つ第三の理由は、あらゆる職業の人びとに強く見られる、栄光と名誉への渇望である。この気風があるため、能力のある者はみな、誰か他人が彼と肩を並べることを好まず、たとえそれが広く巨匠として認められている人びとであっても、自分と同じように人気があったり、自分以上にもてはやされたりするのを我慢することができない。自分自身を世に出したいというこの欲望により、人びとは、もし生まれつき賢明で親切でないならば、しばしば他人に批判的で恩知らずとなる。たしかに、もし人が必要なことを学び終えた後、単に動物のように生きてゆく以上に、何か仕事をしてしかも富を得ようと欲するなら、彼は町を去って他国で作品を売らなければならない。それによって町の名声も広く世界に伝わることとなる・・・。というのは、フィレンツェという町は、芸術家たちに対して、あたかも『時』と同じ作用をおよぼし、まず彼らを生み育てた後、次いで彼らを見すて、次第に消耗させてしまうからである‥‥‥」
 彼自身フィレンツェの町に育ち、フィレンツェの町で活躍した画家であったヴァザーリのこの証言は、歴史の光に照らして見る時、恐ろしいほど真実であると言わなけれなならない。きわめて民主的なフィレンツェ共和国において、他人より抜きん出ようとすることが表向き許されなかったように、芸術の世界においても、一般の市民たちは彼ら自身優れた趣味を持っていただけに、けたはずれの天才の存在を許さない傾向を持っていた。
 すでに見たように、十五世紀前半においてもブルネレスキに対する反感は彼が死ぬまで消えなかったし、ドナテルロに対し、人びとはきわめて冷淡であった。市民たちに人気のあった芸術家たちは、ギベルディにしても、ロッセルリーノにしても、ボッティチーニにしても、どこか甘く抒情的で、繊細な工芸趣味を特色とする人びとであった。ドナテルロやマサッチオの新様式を受け継いだ人びとは、このような精神的風土になじむことができず、フィレンツェから離れていった。逆に言えば、十五世紀のフィレンツェは、その優れた芸術的風土の故に輝かしい芸術誕生の地となりながら、まさにその同じ理由から、その新芸術の成熟する舞台とはなりえなかったのである。
 したがって、多くの天才芸術家たちが国外に「流出」した後に残ったのは、フレンツェの市民たちの趣味に迎えられる通俗的技巧家ばかりであった。十五世紀末におけるフィレンツェ芸術の挫折とは、必ずしも美術活動すべての沈滞を意味するわけではない。大規模な造営事業は行われなかったとしても、個人的な祭壇画の依頼は、不安な時代であるだけにむしろかえって盛んであった。世紀の変わり目にきわめて人気の高かったアトリエを指導していたネリ・ディ・ビッチの日記は、そのような個人的註文の盛んであったことをよく伝えてくれる。
 このような時代にフィレンツェの町にとどまっているためには、ボッティチェルリのように沈黙を守るか、あるいはギルランダイオやペルジーノのように市民たちの趣味の要求に自己の作品を適合させるかのいずれかの道しかなかった。その結果は、技巧のみ表面に出た通俗的作品でしかなかった。
 たとえばドメニコ・ギルランダイオは、町の建物や広場の情景を描く時、定規もコンパスも使わずに実物そっくりに描き出すというのでフィレンツェの人びとのあいだで高い評判を得たが、結局、創造的役割を果すことはできなかったし、サヴォナローラの没落後、一時期のあいだ人気の絶頂にあったペルジーノは、その人気に溺れて通俗画家となってしまったため、フィレンツェの聖母マリア下僕会の修道院のため祭壇画を描いた時は、人物たちの表情やポーズが以前のペルジーノの作品の繰り返しに過ぎないというので、修道士や市民たちから手厳しい批判を受けた。その時ペルジーノは、「私が以前に描いた人物たちは大変な好評で人々の讃辞を得た。ところが今、人びとは、私が同じものを描いたというので私を攻撃する。いったい私はどうしたらよいだろう」と言って、故国のペルージアに引きこもってしまったという。
 このエピソードは、十五世紀のフィレンツェ芸術の運命を象徴的に物語っているようである。
 だが、十五世紀にフィレンツェに起こった新様式は、世紀の末におけるフィレンツェの挫折にもかかわらず、そのまま消滅してしまいはしなかった。フィレンツェ芸術の栄光は、世紀が変わると同時にローマに受け継がれ、あの見事な古典主義芸術として完成するからである。そしてその古典主義芸術を完成させた天才たちが、レオナルドにせよ、ミケランジェロにせよ、ラファエルロにせよ、いずれもフィレンツェで育った芸術家たちであったことを思えば、われわれは十五世紀フィレンツェ芸術の栄光とそお運命的な挫折に、深い感慨を禁じ得ないであろう。
その没落が急速であっただけにいっそう、この時代のフィレンツェはわれわれにとって輝かしくも美しいものに思われるのである。」高階秀爾「フィレンツェ 初期ルネサンス美術の運命」中公新書、1966.pp.198-205.
ということで、フィレンツェとルネサンスのお話は、終わります。


B.反権力・反体制を嫌う気分?
 ぼくの20歳前後の時代を思い出すと、政府や権力の見方をするような発言をすると、たちまち周りからダメナヤツ、ヘンなヤツという目で見られた。警察や学校当局というものも権力の手先で、反抗して当たり前という雰囲気があった。もちろん、大方のオヤジたちや、中年以上の連中は保守的で、政府や自民党は強く正しいと思っていたようだが、ぼくらは30歳以上の人間はみんな駄目だと思っていたから、反権力・反体制を語ることこそ正義だと思っていた。今から考えると、ずいぶんとんがった時代だったかもしれない。いまは、正反対になってしまって、若者たちは、政府や警察に逆らうような反権力的な言動は、頭のおかしい過激派のように思いこむらしい。だけど、権力者を批判的に見ること自体を悪いことのように思うのは、世の中を堕落させると思う。

「ヤジと民主主義 :鎌田慧
 札幌市で遊説中の安倍晋三元首相に対して「安倍やめろ」とヤジった観客が、警官隊に取りかこまれ、即刻、逮捕された事件は2019年の7月だった。1人の若者が言葉を投げつけ続けただけ。石や爆弾を投げつけたわけではない。
 それでも、その場から引きずり出されたのは、言論が警察官たち〈国家権力〉に封じられた事件というべきで、わたしは当時、北海道新聞の求めに応じて、「戦前の弁士中止を思い起こさせる」と言った記憶がある。
 演説とヤジでは正反対のようだが、言論の行使には変わりはない。マイクや集団での妨害発言ではない。同じ空間での異論というべきだ。
 違法警備として訴えられた警察側は「危険防止」と弁明しているが、「危険」や「治安」を掲げれば、たいがいの過剰警備批判を乗り切れると踏んでいる。安倍政権は警備警察を秘書官にして重用していたが、自分への攻撃を防げなかった。
 いま、ガザ市への非人道的な攻撃を加えているイスラエルの在日大使館に向かう道の警備は、厳重極まりない。デモ行進はすでに細かく分断、規制されている。警備警察はこれからますます厳しくなりそうだ。
 権力者へのヤジは、強権政治の発生を予知するカナリアの声だ。北海道放送の「ヤジと民主主義」は、これから映画として各地で上映される。 (ルポライター)」東京新聞2023年11月21日朝刊19面、本音のコラム。
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ルネサンスの町フィレンツェ 10 神学と哲学の融合  江戸城天守?

2023-11-18 22:16:46 | 日記
A.ユマニスムとフィレンツェ
 ユマニスムは、日本では人文主義と訳されているが、15~16世紀のルネサンス期に、ギリシア・ローマの古典文芸や聖書原典の研究をもとに、神や人間の本質を考察した知識人たちのことを指す。その思想には、後の宗教改革に結びつく要素があり、既成の権威に反抗して弾圧を受けた人物もいるが、ただし人文主義者の多くは穏健な思想を持ち、ほとんどの場合カトリックの信仰を保っていた。学識によって宮廷に仕え、権力者のブレーンとして活動した人物も多かった。従って、カトリック側と宗教改革運動側の対立が激しくなると、人文主義者は渦中から身を引く場合が多かった。「エラスムスが生んだ卵をルターがかえした」と言われるように、宗教改革の初期、エラスムスはルターを支持していたが、まもなく両者は決別した。イタリア・ルネサンスとキリスト教(カソリック)との緊張関係を思想的に問い直していくユマニスムという運動は、美術家たちにも深い影響を与えていた。
 ラブレー研究で知られる渡辺一夫の『ヒューマニズム考 人間であること』(講談社文芸文庫・初出1973)では、ラブレー、エラスムス、モンテーニュが主に取り上げられているが、トマス・モア、マキャベリなどもユマニストに含まれる。高階秀爾『フィレンツェ』では、フィレンツェ郊外に集ったユマニストたち、とくにその中心となったマルシリオ・フィチーノについてふれている。

「このフィレンツェの「アカデミア・プラトニカ」は、ロレンツォ豪華王がパッツィ家の陰謀による政治的危機を乗り越えてフィレンツェにおける支配体制を確立した1480年代には、イタリアのみならずヨーロッパ中にその名を知られるようになり、パリや、ケルンや、オックスフォードのユマニストたちはしばしばフィチーノたちと手紙で語り合い、時にはわざわざフィレンツェを訪れて、このカレッジの別荘にまで足を運ぶという、いわば全ヨーロッパ的な広がりを持つようになった。十五世紀末におけるフィチーノの名声は、ほとんど十六世紀初頭のロッテルダムのエラスムスにも匹敵するほどだったのである。
 では、この一風変わった「アカデミア」において形成されていたネオ・プラトニスムの思想は、いったいどのような内容を持っていたのであろうか。それは一口に言って、プラトンの哲学とキリスト教の神学とを綜合し、統一しようとする試みであったと言ってよい。
 ルネサンス文化についての古典的な名著『イタリア・ルネサンスの文化』を残したブルクハルトは、その著書の一番最後において、このフィレンツェのアカデミアに触れ、それこそが近代精神の出発点であるとして、次のように述べている。
 「‥‥‥中世の人びとがこの世を嘆きの谷と見て、偽キリストの登場してくる日までは教皇と皇帝の庇護だけを頼りとしていたのに対し、また、ルネサンス期の運命論者たちが力強い活力に満ちた時期と、逆に暗い諦め、または迷信の時期とのあいだを行ったり来たりしていたのに対し、これら選ばれた精神の持ち主である一群の人びと(アカデミアの仲間の人びと)のあいだに、この眼に見える世界は神の手出会いによって作られたものであり、それは神の中に潜在していた理想の判例の写しであって、しかも神はこの世の動因であり、休みない創造者であり続けるという新しい考えが生まれてきた。個人の魂はまず神の認識を通して自己の狭い限界内においても神に近づくことができるが、しかしそれと同時に、神への愛によって無限の中に自己拡大することもできる。そしてその時こそ、この地上に至福の時代が訪れるという考え方である。
 まさにこの思想において、中世神秘主義のこだまはプラトンの教えと触れ合い、はっきりと近代的な精神と触れ合うこととなった。おそらくここにおいて、世界と人間のあの認識の最も高い成果が実を結んだのであり、ただそれだけの理由からでも、イタリアのルネサンスはわれわれの時代の導き手であったと言わねばならないであろう」
 事実、このアカデミアにおいて最も重要な人物であり、自他ともに「新しいプラトン」と認めていたマルシリオ・フィチーノは、1482年に刊行した主著『プラトン神学』の中で、古代ギリシャ思想と中世神学の綜合を企て、ネオ・プラトニスムの世界観をキリスト教神学の支えとすることを試みた。
 この思想は、ボッティチェルリのように直接にフィレンツェのアカデミアと接触のあった芸術ばかりでなく、後の盛期ルネサンスの代表的存在であるレオナルド、ラファエルロ、ミケランジェロのような天才たちにも深い影響を与えた。たとえば、ラファエルロの描いた有名な《アテネの学園》の壁画にはっきりと見られるように、かつてダンテの『神曲』の世界では、「異教徒」であるが故に地獄に追いやられていた古代ギリシアの詩人や思想家たちが、キリスト教の最も重要な中心であるヴァチカン宮殿の壁に堂々と登場してくるようになる思想的、精神的地盤は、「アカデミア」のネオ・プラトニスムの思想によって準備されたのである。
 ネオ・プラトニスムの思想は、単にプラトンの教えとキリスト教とを結びつけようとしただけではなく、当時のユマニスムの精神にもとづいて、当時知られていた人間のあらゆる知識を集大成し、体系化しようとした。もちろん、フィチーノの言葉を借りるならば、「手によって作用する科学」である芸術も、例外ではなかった。
 現実に計量したり、計測したり、計算したりする能力は、古代神話の中の知識の神であるマーキュリーの支配のもとにあるが、純粋に新しいものを生み出す創造行為は、ヴィーナスとサテュルヌに支配されるというのが、アカデミアの人びとの考えであった。言うまでもなく、愛と美の女神であるヴィーナスは、同時に新しい生命を生み出す神でもあり、サテュルヌは神々の中では最も年老いた古い神であり、宇宙全体を司る神と考えられたからである。
 もともと、ヴィーナスが若々しい青春の象徴であり、明るく華やかな女神であるとしたら、サテュルヌは、逆に重々しく陰鬱な老年の神である。中世以来、人間の気質と天体の運行とを結びつける占星術的な考えによれば、金星を支配するヴィーナスは多血質という若々しく行動的な性質の支配者であり、当時知られていたかぎりでは、太陽から最も遠い惑星であった土星の神であるサテュルヌは、非行動的で陰気な憂鬱質と結びつくとされていた。したがって、ヴィーナスは以前から広く人々のあいだで尊ばれていたが、憂鬱質は人間にとってはむしろ望ましくないものであり、サテュルヌ神は現世の不幸と結びついた不吉な神と考えられていた。
 ところが、カレッジのアカデミアの仲間の人びとのあいだでは、ヴィーナスとサテュルヌは、若々しい行動的な原理と、重厚な思索的原理という人間の基本的な二つの面を代表するものとして、ともに尊敬の対象となっていた。そしてサテュルヌは、特に深遠な思索や芸術的創造力を支配する神として、ネオ・プラトニスムの世界で重要な役割を演ずるようになった。
 サテュルヌの神に対するこのような評価の変化は、ひとつにはアカデミアの中心人物であったフィチーノが、占星術的に言えば、サテュルヌの星の下に生まれた憂鬱質の人間であったので、自分を支配するこの不吉な星に何とかして積極的な意味を見出そうとした結果でもあるが、より根本的には、やはり人間の存在を行動的な面と思索的な面というふたつの側面から総合的にとらえようとする意欲のあらわれであった。カレッジのアカデミアでは、深遠な議論や哲学的思索が重んじられたと同時に、にぎやかな遊びや軽妙な冗談などが喜んで迎えられたが、そのことはとりもなおさず、彼らの用語を借りれば、アカデミアが「ヴィーナス神とサテュルヌ神の支配のもとにあること」を意味していた。
 そのような考えは、そのまま芸術の世界にも反映している。たとえば、かつてベルリンのカイザー・フリードリッヒ美術館にあって、今回の大戦で惜しくも焼失したルカ・シニョレルリの名作《パンの饗宴》(この作品はロレンツォ豪華王に捧げられた)は、サテュルヌ神の支配する観照の世界を表現したものであり、ボッティチェルリの描き出す《春》や《ヴィーナスの誕生》の世界は、それと対象的に、若々しい青春の女神の支配する世界を表現したものなのである。
  新しい芸術思想
 「絵画と弁論(文学)というこのふたつの芸術は、お互いに愛し合っており、いずれも平凡を避けて高く偉大であろうとする。一見不思議なことのように思われるかもしれないが、文運が擡頭すれば絵画もまた繫栄する。たとえば、かつてデモステネスやキケロの時代がそうであった。それに反し、文学が衰えてからは、絵画も退潮を見せた。そして、文学が復活してきた時、絵画もまた新たによみがえってきた。絵画はほとんど二百年ほどのあいだ、まったく粗野な芸術であったが、その間の文学は、やはり粗雑で、生気と優雅さに欠けていた。ペトラルカ以後、文学は隆盛に向かった。ジョットー以後、画家の腕は再びかつての輝きを取りもどした。そして爾来、この両者が平行して今日見るようなきわめて高い繁栄にまでいたったことは、人のよく知るとおりである‥‥‥」
 十五世紀の優れたユマニストであり、後に教皇ピウス二世となるアエネアス・シルヴィウス・ピッコロミーニは、1452年の有名な書簡の中で、文学と絵画との並行関係について、このように述べている。
 ピッコロミーニのこの手紙は、十五世紀の中葉という時期において、ひとりの優れた教養人が自分たちの時代の文化に深い自信を持っていたこと――そえはやがて世紀の後半の「黄金時代」の夢に結びついてゆくのであるが――を物語ると同時に、人間のさまざまの文化活動の奥にひとつの統一的秩序を見ようとするユマニスム的芸術観をもはっきりと示している。つまり絵画とは、単なる職人的な小手先の技だけではなく、文学や思想などの精神活動と結びついた高度な知的活動だとする考え方が、そこには読み取れるのである。
 もちろん、そうであるとすれば、平行関係は単に絵画と文学のふたつだけにはかぎらない。一方では彫刻や建築も、他方では数学や自然科学も、さらには音楽や天文学まで、同じようなパースペクティヴの中でこれをとらえることができる。十六世紀の初頭に成立する古典主義芸術は、人間の力と可能性に対する深い信頼の上に築き上げられることになるが、そのような信頼は、十五世紀全体を通じて、徐々に確立されてゆくのである。
 事実、アルベルティはその『絵画論』の冒頭において、絵画表現に熟達しようとする者はまず数学(幾何学)をマスターしなければならぬと説いているし、レオナルドは、絵画とは「精神的活動」にほかならぬことを繰り返し強調している。いずれの場合においても、絵画ははっきりと知的活動と密接に結びついている。
 アルベルティは、さらにその『建築論』においても、建築とは単なる構造技術だけではないことを説き、「神殿をつくるにあたっては、壁の上にも、哲学的意味を持たないものはなにひとつとして置かないようにするのが望ましい」と述べている。十五世紀のユマニストたちにとっては、芸術活動はそのまま思想の表現であり、造形の世界は精神世界の反映と考えられていたのである。
 すでに見たように、十五世紀フィレンツェの芸術家たちは、いずれも多かれ少なかれ「万能の天才」であり、芸術の諸ジャンルはお互いに深くかかわりあってはいたが、しかし十五世紀も末に近づくにつれて、はっきりとひとつの特徴的な傾向がみられるようになってくる。それは、さまざまの芸術表現の中で、絵画が次第に重要な意味を占めるようになってくることである。
 世紀の初頭には、フィレンツェにおける有力なアトリエは、ギベルティのそれを先頭として、いずれも彫刻、ないしは金銀細工を中心とするアトリエであった。だが世紀の終わりにフレンツェで人気を得ていたのは、ボッティチェルリにしてもギルランダイオにしても、絵画を中心としたアトリエであった。
 もちろん、もともとアトリエというものの性格上、注文があれば絵画でも彫刻でも工芸でもこなすことができなければならず、そのため、たとえば最初は彫刻家であり金工家であったヴェロッキオが、顧客の注文に応じるために絵画も勉強するというような事態が生じてくることも珍しいことではなかったが、しかし全般の傾向として、世紀の変わり目が近づくにつれて、アトリエの幅広い活動のなかで絵画の占める位置が次第に重要なものとなってゆくことは、きわめて顕著な特徴として指摘することができる。
 それはひとつにはフィレンツェ市民たちの趣味が、彫塑的なものより絵画的なものをいっそう好んだという事情もあるには違いない。たとえばロッセルリーノの場合に見たように、世紀の後半の彫刻は、奇妙な明暗の効果や色彩の輝きなどを表現の主要な基調とするようになってゆくが、それは一般の市民たちの趣味がそのような表現を要求していたからである。
 また、ヴァザーリは、アントニオ・デル・ポライウオーロが彫刻から絵画に転向した理由を、彼がそれまで手がけていたブロンズの作品は、いったん内乱とか戦争でもあればたちまち溶かされてしまうので、ブロンズでは将来に作品を残すことができないと考えたからだと説明しているが、あるいはそのような事情も働いたかもしれない。現にミケランジェロが若い頃ボローニャで作ったブロンズ彫刻は、数年もたたないうちに大砲に鋳直されてしまった。
 しかし、それらの理由にもまして重要なことは、絵画表現が複雑な対象表現や、深い意味内容を持った思想の表現に最も適していたということである。確かに絵画は、その霊妙な表現力において、他のあらゆる芸術に立ちまさっている。このことを繰り返し主張して絵画の優位性を説き続けたのは、レオナルド・ダ・ヴィンチであった。
 もともと、人間のあらゆる文化活動を総合的に統一し、体系化しようとしたユマニスムの思想は、当然のことながら、それらの諸活動を適当な場所に位置づけるため、お互いの可能性を比較しあうという結果をもたらした。つまり絵画と彫刻ではどちらが優れているかとか、詩と音楽ではどちらが優れた表現形式であるかといったような議論が、特に十五世紀の後半においては、好んで戦わされた。そして、レオナルドはそのような議論に積極的に参加して、絵画の優位性を強く主張したのである。
 レオナルドが絵画を何よりも優れた芸術ジャンルだと見なした理由は、ひとつには絵画の持っている表現力の豊かさの故であり、もうひとつは、人間の視覚が持っている知的認識力の故であった。
 たとえば彼は、その『絵画論』の中で、たとえダンテの作品といえども詩の表現力は絵画のそれに劣るとして、次のように述べている。
 「もし君が、地獄なり天国なり、あるいはその他の幸福や恐怖を言葉で巧みに描写してみせようと言ったとしても、画家は容易に君の上に出ることができるだろう。なぜなら画家は、そのような至福の状態や、あるいは思わず逃げ出したくなるような恐ろしい状況を的確に表現して、それらの沈黙の世界を君の目の前につきつけることができるからだ」
 むろんそのためには、絵画の表現技術そのものが完璧なものになっていなければならないが、十五世紀のフィレンツェ絵画は、どのように微妙な表現も可能なほど、その写実主義の技術を完成させていた。レオナルド自身、優れた技巧の持ち主であったことは、少年の頃、とかげや蛇やこうもりや、その他さまざまの動物たちを観察し、その部分を集めて恐ろしいメデューサの首を描き、父親の肝をつぶさせたというエピソードからもうかがうことができる。」高階秀爾「フィレンツェ 初期ルネサンス美術の運命」中公新書、1966.pp.185-195.

 画家や彫刻家や工芸家は、ルネサンス初期までは、手業でものを作れる技能ある職人であればよく、文学や思想などを語る人間ではないという常識が、フィレンツェで輩出された「天才」たちによって覆された。彼らは、ただ職人的技能が卓越していただけでなく、アカデミアでユマニストたちと議論に加わり、自然と人間に関する深く広い知識をもっていた。それが作品に表現されたことは、ルネサンス美術の作品を見ればわかるだろう。聖書物語やギリシャ神話の人物を描いても、そこには新しい思想の影響をとどめている。


B.天守閣作る意味はあるの?
 江戸城天守閣を再建するという話があって、菅前首相がフジテレビの報道番組で再建に言及したという。安倍内閣の官房長官時代には天守再建案には否定の答弁をしていたのに、積極的な姿勢を見せた。江戸城の天守閣は1607(慶長12)年に最初の天守ができ、二度目は1623(元和9)年。そして3度目の天守が明暦の大火(1657・明暦3年正月)で焼けてしまってから、再建されなかった。合計しても51年、その大きさも位置も変わっている。つまり江戸城ができる初期の50年ほど建っていた五層の天守を、360年後の今頃、旧本丸北側の天守台の上に立て直す意味はあるのだろうか?明治維新でほとんどの城の建物は破却売却されて消えてしまったが、わずかに残った天守閣は、歴史遺構として文化財になり、いまや観光の目玉になっている。ただ再建には、大阪城天守のような昔の建築とは全然違う形ではなく、いまは文化庁が江戸時代の図面や古写真などが正確に残っていない限り原則認めない。江戸城天守は、最後のものが図面は残っているようで、両国の江戸東京博物館には模型も飾られている。しかし、再建には費用も莫大になる。

「江戸城天守閣を巡っては、2017年の天皇の退位等に関する参院特別委員会で松沢氏(引用者註:都知事選に出馬した松沢成文・現参院議員)が「皇居東御苑の御下賜をいただいて、恩賜公園あるいは城址公園として国又は東京都が整備を」と質問している。当時官房長官を務めていた菅氏は「皇居の一部分を成している地域」「皇室財産としての供用を見直すことは当面考え難い」と答弁で否定していた。
 その菅氏が、今回再建を口にした意図は何なのか。今年10月にテレビ番組で共演したジャーナリストの鈴木哲夫さんは、カジノ解禁を含む統合型リゾート施設(IR)に触れて「IRもそうだがインバウンドは、菅氏がこだわってきた『一丁目一番地』。首相時代はコロナ禍で十分に果たせなかった政策だが、そのための江戸城再建なら、言及してもおかしくはない」と受け止める。
 菅氏はこのところ積極的に発言している。一般ドライバーが有償で乗客を送迎する「ライドシェア」の解禁もその一つ。8月の長野市の講演で、インバウンド急回復でタクシー不足が深刻化している実情を「現実問題として足りない。いろいろな観光地で悲鳴を上げている」と訴え、議論に火をつけた。
 岸田文雄首相も10月の臨時国会の所信表明演説で「ライドシェアの課題に取り組む」と言及。今月22日には導入に関する超党派勉強会の初会合が開かれる予定で、会長には菅氏と同じ神奈川県選出の小泉進次郎元環境相が就任する見通しという。鈴木さんは「岸田政権の支持率が低迷する中、首相退陣後は発言を控えてきた菅氏が動き出した。河野太郎氏や石破茂氏といった『ポスト岸田』候補とも連携し、自分がやり残したことと政局の双方をにらんだ動きだ」とみる。
 政治が進める天守閣再建。建築エコノミストの森山高至さんは、明治初期の廃城令で城が多数取り壊された経緯に触れ、「再建したいという気持ち自体はあってよいものだと思うが、地域の総意があってこそだ」と受け止める。
 ただし江戸城の場合、幕閣重臣の保科正之が明暦の大火で疲弊した庶民の救済や災害復旧を優先すべきだと主張した後、そのまま天守が建てられることはなかった。「むしろ江戸城に天守がないことこそが平和な時代の民主安定の象徴。インバウンドには、建てない判断をした徳川幕府と東京の歴史を伝えた方が良いのでは」と提案する。
 天守閣といえば、名古屋城の復元計画も揺れている。名古屋市は6月に木造復元の基本計画を文化庁に提出する予定だったが、直前にあった市主催の市民討論会で、車いす利用者が天守閣上層階まで昇降機設置を求めたところ、参加者から「ずうずうしい」「おまえが我慢せい」などと差別する発言が上がった。河村たかし市長含め市側もその場で制止しなかったことが問題となり、計画の策定は止まっている。
 駒沢大の山崎望教授(政治理論)は「城というのは、ナショナリズムや地域愛を起させるふわっとした統合のシンボルでもあり、政治家がこだわるのは分かる。再建自体に反対する人はあまりいないだろうが、名古屋城の場合、障害者への配慮、多様性の尊重といったリベラルな価値観とぶつかった途端に、問題化した」とみる。菅氏の本気度は見えていないとしつつ、こう話す。
 「江戸城再建の提案自体は右派層の反応が良いだろうし、前首相として耳目を集めることもできる。ウクライナ、パレスチナの戦争や国際対立で日本の安全保障政策も問われる中、一見牧歌的な話と思えるが、為政者からすれば、厳しい現実から国民の目をそらせ、都合のよい提案だ」
 *デスクメモ:江戸時代から残る国宝・姫路城の天守閣は、米軍の空襲でも無事だった。市街地は焼野原になったが、変わらぬ白鷺城の姿が戦後の市民を元気づけた。時代劇の江戸城にも使われる景観は、世界文化遺産にも指定されている。大勢の外国人観光客も、その歴史を見に来るのだろう。(本)」東京新聞2023年11月17日朝刊21面、こちら特報部欄。

 江戸城天守閣の再建には課題も多い。天守台が残る東御苑は皇室用財産のため、法改正や国の特別な許可が必要になる可能性が高い。費用も問題で、再建する会によると、10年前の専門家の試算で約350億円と推計されたが、浅井さんは「資材や工法などでかなり異なってくる。名古屋城の木造復元の事業費が約500億円。その程度はかかるという人もいる」と説明する。財源について寄付で賄うのか、税金が投じられるのかなど、不透明な部分も多い。
 ぼくは幼少期からずっとお城マニアなので、昔のまゝの城郭建築を見るのはわくわくするのだが、城というのは石垣や堀のような全体が重要であって、天守閣や櫓は焼けたり壊れたら立て直す付属物だと思えばよい。大阪城や名古屋城のように、鉄筋コンクリートで中はただのビルなのはいただけない。そもそも政治家が天守閣を作ろうというのは動機が不純で、観光目的の金儲けの道具にしようと企むのでは、歴史や文化を軽んじていないか。そして、江戸城天守台の場所は皇居である。皇居は城ではなく天皇が儀式を行う紫宸殿を中心に平地に並ぶ神聖な御所であったのを、明治維新で徳川幕府を倒した象徴として、江戸城をむりやり皇居にしたに過ぎない。雅な暮らしだった明治天皇はさぞや戸惑ったことだろう。その皇居に徳川将軍の象徴である天守閣なんか建てたら、維新の精神に泥を塗ることになるんじゃないかな。
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