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ルネサンスの町フィレンツェ 6 トスカナの都  チャットGPT?

2023-10-31 23:20:45 | 日記
A.市民の好み
 イタリアはローマ教会の本拠バチカンがある場所だけれど、中世以来多くの小国に別れていたのはドイツと同様で、統一国家の形になるのは19世紀のガリバルディによる統一運動が成功する1860年までかかった。フィレンツェは中部のトスカナ地方の中心都市で、ここで触れられている初期ルネサンスの時代は、メディチ家が本拠を置く共和国だった。いちおう王様が君臨する王国ではないということで、メディチ家の力は近隣と戦争を繰り返すだけの勢力をもっていたが、王様貴族がやりたい放題という体制ではなく、町の運営には選ばれた市民の意向を尊重しなければならなかったという。この市民の好みは、彫刻や絵画や建築など町の主要な教会や施設の建設に強く反映された。教会や邸宅は職人工房の手で念入りに作られ、そこには多くの彫刻や絵画、工芸品が飾られた。それは今も残っている、ということが偉大なるルネサンスの遺産としてイタリアが誇るのも当然だろう。しかし、それがつくられた時の事情は、いろいろあったようだ。

「ブルネレスキ、ドナテルロ、マサッチオによって創始されたフィレンツェ芸術の新しい様式は、十五世紀の中頃には、すでにそれぞれの領域で、次の世代に受け継がれていった。しかしその継承のしかたは、必ずしもこれら創始期の巨匠たちの当初の意図をそのまま発展させたものではなかった。それどころか、ドナテルロに対する一種の反発の例に見られるように、時には新様式に対するはっきりした抵抗すら見られたし、そうでない場合にしても、彼らのように強く独創的な芸術家たちの生み出した様式は、たとえ最も忠実な後継者によって受け継がれた場合でも、何らかの変貌を受けないわけにはいかなかった。しかも、新しい芸術の出発点となったこれら三人の巨匠たちの場合は、同時代のギベルティやルカ・デルラ・ロッピアのように、殷賑をきわめた広大なアトリエを配下に持っているというわけではなく、三人とも多かれ少なかれ孤立した存在であったために、いっそう一般の人びとからかけ離れてしまうという状況にあった。
 しかしそれと同時に、これほどまで強い表現力と衝撃的な新しさをもった芸術様式が、そのまま忘れられてしまうこともむろんありえなかった。それは、フィレンツェにおいてのみならず、やがてはイタリア全体に大きな影響を与え、十六世紀の古典主義の成立をもたらすはずのものであった。十五世紀後半のイタリアの諸都市の芸術活動の基本的課題をひとくちに定義するなら、それはフィレンツェによって与えられた新様式の衝撃をどのように受けとめるかということにあったと言ってよいであろう。いわば、1420年代のフィレンツェによって投じられた新様式は、大きな波紋を描いてイタリアの他の地方に広がってゆき、それぞれの場所で既成の様式と干渉しあいながら、やがて多くの天才たちの活動によって増幅されて盛期ルネサンスの古典主義にまで結晶してゆくのである。
 ところが、大変興味深いことには、その古典主義芸術が成立するのは、新様式の出発点であったフィレンツェにおいてではなくて、競争相手のローマにおいてなのである。逆にいえばフィレンツェは、他の諸都市に先がけて新しい芸術の芽を育てながら、ついにその成果を実らせることはできなかった。そこに十五世紀フィレンツェの人びとの受け取り方にあった。
 たとえば、彫刻におけるギベルティの人気と、それにともなう優美な様式の流行は、多くの極めて美しい作品を生み出しはしたものの、結局ヴェロッキオやポライウオーロの持っていた厳しい面を、フィレンツェでは発揮させることなく終わったし、ミケランジェロについてすらほぼ同様のことが言えるのである。彼らのなかにあった力強い造形表現の理念を実現させたのは、フィレンツェではなくて、ヴェネツィアやローマだったのである。
 そのことは、多かれ少なかれ絵画や建築についてもあてはまる。ミケロッツォは建築の上でブルネレスキの原理を受け継ぎながら、それを一般市民の趣味に適したように通俗化させたし、マサッチオの力強い厳格な人間表現は、次第に甘美な色彩と描線の魅力にとって代わられるようになった。このような変貌をともないながら、十五世紀後半のフィレンツ美術は、なお数多くの傑作を生み出し続けてゆくのである。
  宮殿と別荘
 東方世界におけるメディチ家の代理人であったベネデット・デイという人物が1472年に書き記した『年代記』(未公刊)によれば、当時のフィレンツェには、「金や銀やビロードやダマスク織物の飾りに満ちた」百八の素晴らしい教会のほかに、行政府のための23の宮殿(パラッツォ)と、コジモとロレンツォの二人のメディチ家の当主をはじめとして、みな建築に対して強い情熱を抱いていた。造形芸術に対してはかなり冷淡であったロレンツォ豪華王ですら、花の聖母マリア大聖堂の西側正面部の造営を企て、フィレンツェ郊外のカレッジの別荘の改修や、ポッジオ・ア・カヤーノの別荘の建設には進んで熱意を示した。
 この時代のフィレンツェ建築の大きな特色は、中世以来、建築の主要なテーマであった宗教建築と並んで、新しいタイプの世俗建築をいちじるしく発達させたことである。活発な商業活動によって築き上げられた富の基礎の上に、市民たちは、決して派手とは言えないにしても、堂々たるたたずまいを見せる壮大な住居をうち建てたのである。特に富裕な大商人たちのあいだでは、パラッツォ(宮殿)とよばれる大規模な邸宅と、ベネデット・デイのいわゆる「町の城壁の外の宮殿」すなわち休息のための別荘とを造営する趣味が広く一般的であった。当時のフィレンツェの年代記作者の記録によれば、1450年から1478年までのあいだに、この花の都で、30をくだらない数の宮殿が建てられたという。
 このような世俗建築の様式を確立したのは、フィレンツェ生まれの建築家ミケロッツォ・ディ・バルトロメオ(1396―1472)である。ギベルティの弟子であり、ドナテルロの協力者であったミケロッツォは、ブルネレスキと同じように、最初は彫刻家として出発し、中年を過ぎてから建築に転じた。しかし、ブルネレスキより一世代近く遅れてやってきた彼は、「新様式」の創造者であるよりも、ブルネレスキの生み出した「新様式」をやや通俗化させながら、当時のフィレンツェ市民の趣味に適合させるという、いわば啓蒙的継承者の役割を果たした。彼は、ブルネレスキの創意を受け継ぎながら、この時代のフィレンツェ特有の宮殿建築の様式を生み出したのである。
 ブルネレスキは、大聖堂の大円蓋建設作業を指揮しながら、1440年にピッティ宮殿のための計画案を作り上げた。それは、表面の磨いていない粗石を積み上げ、思い切って水平性を強調した三階建ての建物で、不規則な凸面部を見せる粗石積みの構造という点で十四世紀の遺産を受け継ぎながら、質実な力強さと、主要な開口部である窓の意匠によって「新様式」の誕生を告げていた。類似のプランは、当時自家のための宮殿建築を企てていたコジモ・デ・メディチのもとにも提出されたが、さすがのコジモも、その大胆な表現に驚いて、その計画案を採用する決心がつかなかった。そしてその四年後、お気に入りのミケロッツォのプランを採用して、十五年がかりで、現在も残っているラルガ街のメディチ家宮殿を建てさせたのである。(その後、この宮殿は十七世紀に増築されて、リッカルディ宮殿となった。
 コジモの気に入ったミケロッツォの計画案は、粗石組みの三層の建物という点ではブルネレスキの原理を受け継いでいたが、全体のプランは中央に中庭のある正方形で、外壁の粗石の表面は上層に行くほど平らとなり、最上階ではほとんど完全になめらかな平面となって、その上に古代風の軒蛇腹が庇のように大きく突き出しているという、しゃれたおとなしいものであった。ミケランジェロの優れた創意が発揮されたのはむしろ中庭のあつかいで、そこは入口を除く三方がアーチの連続を円柱で支える柱廊形式になっており、その上に古代風のメダイヨン装飾を配した幅の広いフリーズ状の装飾帯があり、二階部分は外側正面部と同じ半円形アーチでまとめられた双子窓を繰り返すという方式が採用されていた。その結果、全体としてブルネレスキの大胆な力強さよりも、むしろ器用なまとまりを示す表現となったが、おそらくその点こそが、メディチ家の当主に好ましく思われたのである。
 ミケロッツォの手になるこのメディチ宮殿の様式は、その後のフィレンツェの宮殿建築のいわば原型となり、共和国政府の本拠でもあった政庁舎パラッツオ・ヴェッキオの中庭を、同じようなやり方で改修する工事がミケロッツォにゆだねられている事実は、彼の生み出したこの形式が当時のフィレンツェ市民たちにいかに好まれたかをよく物語っている。(ただしこの中庭は、十六世紀の中葉にさらに改修され、特に円柱の部分に豊麗な浮彫装飾が加えられた。)
 この種の宮殿建築の中でも、もっとも洗練された見事な表現を見せているのは、ジュリアーノ・ダ・マヤーノ(1432-90)とクロナカ(本名シモーネ・デル・ポライウオーロ)(1457-1508)の協力によって建てられたストロッツィ宮殿である。1489年から1507年まで、十八年間にわたって造営されたこの建物は、十五世紀フィレンツェのバラック建築のひとつの到達点といってもよい。
 一方ピッティ家は、ブルネレスキの当初の計画案を採用して造営工事を開始したが、ブルネレスキの存命中には完成せず、その五十六世紀にアンナマーティによって、やや修正を受けながら完成された。このピッティ宮殿が現在ではフィレンツェの誇る美術館になっていることは広くられているとおりである。
 宮殿が町の中心に位置する邸宅であり、公的な生活の舞台であるとすれば、別荘は町の喧騒を離れた憩いの家であり、高尚な趣味と清遊の場であった。ロレンツォ豪華王は、その晩年、相次ぐ政治的、経済的危機に対処する多忙な生活の合間をぬって郊外の別荘に遊ぶのを楽しみとしており、1492年の手紙の中では、もはや完全に公的生活から引退して、フィエーゾレの丘にある別荘に引きこもりたいという希望すら洩らしている。
 このフィエーゾレの別荘は、ラルガ街の宮殿と同じくミケロッツォの設計になるもので、詩人のポリツィアーノや、哲学者のピコ・デルラ・ミランドーラのようなロレンツォの保護を受けたユマニストたちが好んで訪れたところであるが、現在ではすっかり変わってしまって昔日の面影をまったく残していない。
 フィレンツェの北東に位置するこのフィエーゾレの丘は、かつてボッカチオがペストを逃れて『デカメロン』を執筆するために引きこもったと伝えられる別荘のあったところで、別荘地としてきわめて適したところであった。マルシリオ・フィチーノは、1488年の秋、友人のピコ・デルら・ミランドーラとこの丘に散策した時の模様をヴェローリに宛てて書き送っているが、その手紙の中で、このような地こそ理想の別荘にふさわしいとして、次のように述べている。
「‥‥‥われわれは、この丘の斜面に、北からの冷たい霧は完全にこれを遮断し、といって暖かい日の微風はこれを充分に受けとめることができるために、すっかり盆地の底にうずまってはしまわないような具合に、一軒の家があればよいと考えました。われわれの考えたところでは、その家は野原からも森からも同じぐらいの距離にあり、泉にとりかこまれていて、アリストテレスがその家庭論の中で建築について総助言しているように、南東の方向に面しているのが望ましいと思われました‥‥‥」
 この一節からも明らかなように、当時のユマニストたちにとっては、別荘の位置や周囲の地形が建物そのものに劣らず重要であった。ジェノヴァで生まれ、ヴェネツィアとパドヴァで学び、ローマとフィレンツェで活躍した「万能の天才」のひとり、レオン・バティスタ・アルベルティ(1404-72)も、その浩瀚な『建築論』(1485年頃より公刊)において、建物の位置やとくに庭園との関係が建築そのものの諸法則よりも一層重要であると説いている。ローマ時代の建築家ヴィトルヴィウスの『建築の書』は、同じく彼の手になる『絵画論』(1435年刊)とともに、世紀の後半に大きな影響力を持ったものであるが、住居と環境との関係、およびとくに庭園の重要性の強調は、当時のフィレンツェ人たちの趣味とも一致していた。フィエーゾレの別荘と同じく、ユマニストたちの集まる場所は、多かれ少なかれ豊麗な緑と結びついていたのである。
 その最も良い例は、やはりフィレンツェ郊外のカレッジにあったメディチ家の別荘である。もともとこの別荘は、ゴシック時代の農園であって、コジモ・デ・メディチが追放からもどって後買い求め、ミケロッツォに命じて改修させたものである。したがって建物自体は新しい造営ではないが、しかしゴシック時代の余計な装飾を取り除いて単純な比例関係の組合せによる調和の美を実現したミケロッツォの巧みな改修は、1459年にこの別荘を訪れた教皇ピウス二世をして、全イタリアの中でも最も美しい住居のひとつと感嘆させたほどであった。
 ピウス二世をとくに魅了したのは、小さいながら豊富な草花や樹木をもったその庭園であった。祖父コジモの後を受けて、ロレンツォ豪華王もこのカレッジの庭園を愛し、できるかぎり手をつくして珍しい植物を集め、一種の植物園といってよいものを作り上げた。メディチ家と親しかったユマニストのひとりは、1480年頃の手紙のなかで、「戦の女神ミネルヴァに捧げられた橄欖樹、ヴィーナスに捧げられたミルテの樹、ジュピターに捧げられた樫の樹」をはじめ、ポプラ、プラタナス、松等の樹木からバラ、ジャスミン等、はっきりした目的にもとづいて栽培されているものにいたるまで、この庭の植物の種類を数え上げて、これこそ古代世界の七不思議にも比較しうるものと語っている。ボッティッチェルリの《春》の画面を飾る様々の美しい草花は、この庭園で写したものであると言われている。」高階秀爾「フィレンツェ 初期ルネサンス美術の運命」中公新書、1966.pp.128-137.

 フィレンツェ郊外のこのフィエーゾレの別荘は、いまも高級別荘地帯として有名で、金持ち日本人にも別荘や結婚式場として人気なのだという。そんなことまだやってんのかな。


B.チャットGPT体験
 AIの書く文章がそれなりに、ちゃんと読める文章になってきたのは最近のことはいえ、さすがに古今の名文からトリセツマニュアルまで、膨大なデータを仕込んでいれば恰好はつくのだろう。でも、それで書いた文章がどれほどの価値を生むか、そもそも価値ある文章とはいかなるものか、ゲーテまで遡って考えている。この記事、ゲーテはいいとしても、家康まで連想するのはちょっと違うと思うけど…。

「パクリの効用  主筆 小出 宣昭
 呼べば答える「おしゃべりコンピューター」のチャットGPTなるものを初めて使ってみた。ネット上にあふれる数千億の文章を学習し、それを的確に組み合わせて答えるだけに、その優れぶりは驚くほかない。
 社会問題、新聞の将来などなんでもござれだが「ガールフレンドはいますか」と聞いたら「いません。私はAIの存在ですから、異性への感情などは持っていないのです」。「人生の青春とか老後について」にも「そういう感性にかかわることは分かりません」。ほっとした。
 やはり、人間とは決定的に違う存在なのだ。ただ、彼らが使う材料は過去に誰かが書いた文章ばかりである。当然、独創性はなく、著作権に関わったり、情報の真偽が問われたりする問題は出てくるだろう。全身、これパクリの頭脳というべきか。
 文学作品の中に他人の文章を盗用する、いわゆるパクリの問題は昔からあるが、19世紀のドイツで議論が白熱した。最近の作品には独創性がなく、シェークスピアの描写をそっくりパクったり、旧約聖書や古代ギリシャのホメロスにまで盗用が広がっているetc. 
 そこへ、文豪ゲーテがこう一石を投じた。「独創性とはいったい何だろうか。私たちは生まれてからさまざまな人々の影響を受けて育ち、君たちが話しているドイツ語だって君たちのオリジナルかい。家族や友人、さまざまな書物、先輩や後輩などからの発想の仕方、表現の方法などを学んで育ってくるのだ。他人から学んだものをすべてはがし、心のオリジナリティ―を求めるなら、それは君の情熱と意欲しかないだろう」(ゲーテとの対話)
 唐突だが、独創性を排し、過去や他人の知恵をとことん重んじたのは、徳川家康である。独創性の塊みたいな信長、ひらめきで生きる秀吉とは違い、家康はぱくりと模倣に生きた。
 まず、新しいものには手をださない。珍しきものとして11月に桃が届いたが、時節はずれは食せずとして家康は一つも食べず、すべて家来にやってしまった。安土桃山を彩った茶の湯や南蛮文化も興味なく、ひたすら武田信玄の軍法をパクりまくった。面白みがない英雄だが、一番安定し、長持ちした保守の権現さまである。」東京新聞2023年10月31日朝刊、6面総合欄、風来語。
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ルネサンスの町フィレンツェ 5 ボッテガ工房  万博やるの?

2023-10-28 10:01:07 | 日記
A.総合美術工房
 二十世紀の画家や彫刻家の作業場でのイメージは、孤独に作品に向かう単独アーティストというもので、弟子や助手がいるとしても2,3名ぐらいのものだろう。それは、世間に認められた高名な存在になれば別だが、多くの若いアーティスト志望者は、自室にこもって作った作品を、公募展に出して評価を待つというシステムが19世紀に定着したために、注文主のご要望にそって作品を作り報酬をもらう職人というあり方ではなくなってしまったからだ。だが、十五世紀のイタリアでは、画家も彫刻家も(あるいは建築家も)、王侯貴族や教会からこういうものを作ってくれと依頼されて働く職人であって、個人というより総合美術工房のアトリエの一員であって、有力な親方が主催する「ボッテガ」と呼ばれた工房は、絵画も彫刻も建築もなんでもご注文に応じて作れるプロ集団だった。そこでの仕事は孤独な個人の創作ではなくて、親方に指導された集団の成果だから、そもそも芸術家というようなイメージではなかっただろう。ただし、大きな工房を主宰する親方は、総合専門集団を率いる文化的指導者として高い評価を得た。そのへんのことも、高階先生は詳しく説明されている。

「十五世紀におけるイタリア美術の大きな特色のひとつは、「ボッテガ」と呼ばれるアトリエ(工房)のシステムが大変に盛んであったことである。世紀の前半に華やかな活動を示したギベルティのアトリエから、ロレンツォ豪華王の時代に大勢の職人を擁して隆盛を示したヴェロッキオやギルランダイオのアトリエにいたるまで、この時代のフィレンツェの主要な芸術制作の担い手となったのは、これらのアトリエの広範な活動であった。
「ボッテガ」には、むろん大小さまざまの形があったが、普通には中心となる親方と、実際に親方の仕事の手助けをする仲間と、将来の親方を目指す見習とから構成されるという、一般の同業者組合と同じような組織を持っており、たとえば洗礼堂の門扉制作とか、教会の壁画制作のような大がかり注文を受けると、アトリエの総力をあげてその仕事に従事し、その間に、他のさまざまの小さな注文を適当に消化してゆくというやり方をとっていた。そして注文を出す側でも、それぞれのアトリエの特色や能力をよく見きわめて、自分たちの希望に適したアトリエを選んで注文を依頼するというのが普通であった。
 したがって、大きなアトリエともなれば、どのような注文にも応じられるだけの幅広い職人群を、常時養成しておかなければならず、逆にまた、各種のジャンルに腕の優れた職人がいるということが、アトリエの評判を高めることともなったのである。
 例えばブロンズの門扉の注文を受けるとすれば、単に彫刻家や鋳造家のみならず、下絵を描く画家から、最後の仕上げをする金工家、さらには門扉の取りつけのための建築家まで、自分のアトリエに養成しておく必要があるし、また普通の祭壇画ひとつにしても、複雑な彫刻をほどこして金泥を塗った額縁を制作することから、教会内の適当な場所に据えつけるまで、すべての仕事をアトリエで引き受けるというのが当然のたてまえであった。
 それだけに、重要なアトリエは親方のほかにも、安心して仕事をまかせることのできる腕の良い職人が何人もいるのが普通であった。ヴェロッキオが1482年に招かれてヴェネツィアに去った時、自分のアトリエの指揮をレオナルドの兄弟子にあたるロレンツィオ・ディ・クレディにまかせていったり、ドメニコ・ギルランダイオがサンタ・マリア・ノヴェルラ教会の壁画装飾の仕事を依頼された時、その一部を弟のダヴィデとベネディットにゆだねたりしたのはその例である。
 このギルランダイオのアトリエの場合に典型的に見られるように、この時代の「ボッテガ」に、親子、兄弟、親族等、芸術家の一族によって支えられるものがしばしば登場してきたことも、アトリエのシステムの隆盛と無関係ではない。大きな組織をもったアトリエであれば、当然社会的地位や伝統がものをいうわけであり、そのような歴史や伝統を守りながら多方面にわたるアトリエの仕事を維持していこうとすれば、一族が協力して事業を経営するのが最も早道だったからである。
 たとえば、世紀の中頃にフィレンツェの町で人気を呼んでいたロッセルリーノのアトリエには、アントニオとベルナルドの兄弟がいたし、建築も彫刻も引き受けていたマヤーノのアトリエには、ジュリアーノとベネデットの兄弟の協力で運営されていた。ロレンツォ豪華王の時代に、ヴェロッキオのアトリエと並ぶ大きな「ボッテガ」を持っていたポライウオーロ家も、アントニオとピエロという二人の兄弟がその中心であった。
 これらの大きなアトリエは、多種多様な注文をつぎつぎに消化して数多くの作品を生み出していったと同時に、新しい芸術家を育て上げるという重要な歴史的役割も果たした。レオナルド・ダ・ヴィンチがヴェロッキオのアトリエに学び、ミケランジェロがギルランダイオのアトリエで最初の手ほどきを受けたことは、広く知られているとおりである。
 アトリエのシステムのもうひとつの重要な結果は、その多彩な社会的活動によって、親方の社会的地位を単なる職人から統率者ないしは指導者の立場にまで引き上げ、芸術家としての存在を社会的に認めさせたことである。大きなアトリエの親方ともなれば、どのような注文も自由にこなすことのできる技術と、社会的意味をもつ造営活動などに積極的に発言できるだけの見識を持っていなければならなかった。芸術家は手先が器用だというくらいではもはや充分ではなく、共和国の政治に関しても堂々と意見を述べることができるようなエリートとなることを要求されたのである。
 このような風潮に応じて、十五世紀になってから、芸術家たちの社会的地位はいちじるしく向上した。公証人の息子であったマサッチオや、豊かな中産階級の家に生まれたブルネレスキのように、富裕な市民階級のなかから指導的立場の芸術家たちが登場するようになったことはこの時代の大きな変化であるし、それだけに彼らは、大商人や人文主義者たちと同じように、人びとから畏敬され、その発言が尊重される存在となった。たとえばギベルティやドナテルロは、高名な人文主義者ニッコロ・ニッコリと親しく交わりを重ねることができたし、ブルネレスキは、1425年に、共和国の政府とも言うべき最高評議会のメンバーに選ばれている。
 芸術制作の面に関しても、彼らは単に命じられたことだけをそのとおりに実現する職人ではなく、自分でさまざまなプログラムを考え出し、全体の意匠を定めることのできる創造者であった。たとえばギベルティは、1401年のコンクールに優勝して洗礼堂の北側門扉を制作した後、さらに同じ建物の東側門扉の注文も受けたが、最初の門扉の時には、すでに存在していたゴシック時代のピサーノの南側門扉とあらゆる点で同じように制作することを要求され、その主題や構図にいたるまで、最初からさまざまな指示が与えられていたのに、二番目の注文の時は、全体の構想から実現にいたるまで、そのほとんどがギベルティの自由にゆだねられた。1401年と1425年のこのふたつの注文の差異は、当時の芸術家の社会的評価の変化を跡づける上で、はなはだ暗示的である。それは芸術家が職人からユマニストに、「手先の人」から「頭脳の人」に移行したことを示すものだからである。
 事実ギベルティのみならず、ブルネレスキやマサッチオや、さらには世紀の後半にいたってレオナルドなどが、数学や自然科学などの理論的なものに強い興味を抱くようになり、芸術家が同時に数学者や科学者でもあるという状況が生まれてくるのは、そのことと無関係ではない。十四世紀のチェンニーノ・チェンニーニの『芸術の書』が、まだあくまでも職人的技術のための実際的な技法指導の書であったのに対し、ベルティの『コメンタリイ』やレオナルドの『絵画論』は、同時に明確な意識にもとづく歴史論であり、自然科学論でもあったのである。
 このようなアトリエの発達は、ルネサンス期のイタリアに特有のあの「万能の天才」を生み出す基礎ともなった。先に見たように、ひとつのアトリエが、建築、彫刻、絵画はもとより、モザイク、ステンドグラス、金銀細工、陶器にいたるまで、あらゆる注文をこなす「多角経営」をその本来の姿をしていたとすれば、当然そこに働く職人たちは、時と場合に応じてどのような仕事もできるだけの技術的基礎を備えていなければならない。後の彫刻家ミケランジェロがギルランダイオのアトリエでまず最初に習ったのは、フレスコの技法とそのための絵具の溶き方であったし、ロレンツォ・デ・メディチの寵愛した建築家ジュリアーノ・サンガルロも、メディチ家の別荘建築にたずさわる前は、装飾彫刻家として教会の聖職者席の浮彫の下絵を描いたり、ボッティチェルリの円形絵画のために金泥塗りの額縁を作ったりしていた。そのボッティチェルリも、ウルビノのフェデリコ大公の書斎の寄木細工装飾のための下絵を描いている。ウッチェルロは、フィレンツェにやってきて画家となる前はヴェネツィアのサン・マルコ教会のモザイク制作に従事していたし、ギベルティやブルネレスキは、まず最初は金銀細工師として出発している。
 もちろんこのような幅広い活動は、単にこの時代になってはじめて出てきたものではない。偉大なフレスコ画家であったと同時に、フィレンツェの公共建築物の総監督であり、大聖堂付属の鐘楼の設計者であり、さらにモザイク装飾家でもあったジョットーの例からも明らかなように、「万能の天才」は中世期以来のトスカナの伝統であった。しかしその伝統が、十五世紀におけるアトリエ活動の隆盛によっていよいよ進められたことは、疑いのないところであった。そして一般の人々にも、たとえば建築のことはあまりよく知らないギベルティを大聖堂造営の責任者に任命したりする事実に明らかなように、優れたアトリエの親方は、当然あらゆる芸術活動に優れているものだという期待があった。そしてギベルティは、実際の造営工事にたずさわるために、遅まきながらサン・ジョバンニ洗礼堂のアーチのとめ方などを一生懸命に研究している。芸術家の方も、諸芸に秀でるよう努力しなければならない状況にあったのである。
 したがって、ギベルティはじめ、ロッセルリーノ、マヤーノ、ヴェロッキオ、ポライウオーロ等、大きなアトリエの指導者は、多かれ少なかれ「万能の天才」であった。彼らはいずれも画家であると同時に彫刻家であり、時には建築家であり、時には工芸家であった。ヴァザーリはその『ヴェロッキオ伝』の冒頭に、「フィレンツェのアンドレア・デル・ヴェロッキオは、金銀細工師であり、透視図法家であり、彫刻家であり、木工家であり、画家であり、音楽家であった」と述べているが、同様のことは、多少ともニュアンスは異なっていても、他の芸術家たちについても言いうることであった。
 そのヴェロッキオの弟子であったレオナルドが、師を凌ぐ万能の天才であったことは広く知られているとおりであるが、そのレオナルドが、ミラノの僭主ルドヴィコ・イル・モーレに宛てた自薦の手紙は、当時の芸術家の自負心を充分示すに足るものである。彼はそのなかで主として、戦争に役立つさまざまの技術を自分が身につけていることを述べているが、それと同時に、芸術全般にわたって素養のあることを告げているからである。
 たとえば、そこには次のような一説がある。
 「……私は、きわめて軽量でしかも堅固な、持ち運びのできる橋を作ることができます。それらの橋を利用すれば、思いのままに敵を追いかけたり、いつでも敵前から撤退したりすることができます。また、火や戦闘の際に焼けることも壊されることもなく、しかも架橋するのにきわめて容易な橋もできますし、敵の橋を燃やしたり破壊する方法を考案することもできます。
 また包囲攻城戦に際しては、堀の水をからにし、さまざまの種類の橋を作り、覆いのある梯子や、トンネルや、その他そのような攻撃に必要な機械を作る術を心得ております。
 ‥‥‥‥‥
 平和の時には私は、建築や、公共用、私用の建物の造営において他の誰にも匹敵するご満足を得ていただくことができると信じます。また、ひとつの場所から他の場所に水道を引くことについても同様です。
 私はまた、大理石、ブロンズ、粘土等で彫刻を制作することもできますし、また絵画においては、どのようなことも、他の誰にも負けないほど見事に描くことができます‥‥‥。
 もし上に述べたことがらのどれか一つでも、不可能だとか、あるいはとてもできないと思う方がおられるならば、私はいつでも、公のお屋敷の庭か、あるいはどこかご指定の場所において実際に腕を振るって見せる用意がございます‥‥‥」
 むろんレオナルドのこの手紙は、一種の就職依頼状であるから、まず実際的なものに関する知識を披露するのは当然の順序であったろうが、そのように技術的なものも含めて、芸術家がさまざまのジャンルに腕を振るったということは、時代の要求でもあったわけである。
 すでに見たように、この時代の主要な芸術家たちはいずれも、多かれ少なかれ工芸家ないしは装飾家であった。このことは芸術の機能として、装飾的、工芸的なものが重要視されたということ以上に、当時の人びとの趣味が、そのような装飾的傾向を助長したからであって、ワレワレハソコニ、コノジダイノフィレンツェ美術のひとつの重要な底流を認めることができる。」高階秀爾「フィレンツェ 初期ルネサンス美術の運命」中公新書、1966.pp.116-124.

レオナルドの自分を売り込む就職依頼状は有名なものだが、まずは軍事的知識と戦争に自分は大いに役立つのだという露骨なもので、この時代のアーティストが、高尚な美の作り手というよりは、ご注文に応じてどんなものでも作ってご覧にいれる技術者・職人という能力を強調している。現代のアーティストが、自分は戦争でも商売でもすぐ役に立ちますよ、などといったら鼻白まれることを思えば、ルネサンスは鷹揚だった。


B.大阪万博
 大阪で万博が開かれたのは1970年。日本中から千里の万博会場に人がつめかけ、高度経済成長の繁栄と月の石に象徴された科学技術の賛美が、日本人の半分が見に行ったほどの盛況を演出した。しかし、それを知っている人はあの世に逝ったか、もう高齢者である。東京オリンピックもそうだったけれど、戦争で傷ついた日本がみるみる豊かになり、元気な若者で溢れていたあの時代が再び来るなどと考える者は、現実感覚も想像力ももたない愚かな幻視者でしかない。それでも、オリンピックをやり万博をやれば日本に元気が戻って昔のような世の中が期待できるなどと考える人たちがいて、実はそれは信じていなくても、とりあえず儲かる人たちはいるのだろう。でも、日本の国家も社会も、こんなことをやればさらに深い傷を拡大するだけで、後世に禍根を残すことはほぼ間違いない。やめるなら今だ。

「会場の夢洲自体が問題  開幕危ぶまれる「大阪万博」 :中島岳志 
 2025年4月から、大阪市の夢洲(ゆめしま)で大阪・関西万博が開かれる予定である。しかし、開催まで1年半を切ったにもかかわらず、建設準備が大幅に遅れ、予定通りの開幕が危ぶまれている。当初、1250億円と想定されていた予算も、20年12月に資材価格の高騰などで1850億円に引き上げられ、現在はさらに450億円積み増して2300億円程度になるという。
 そもそも会場となる夢洲はゴミや建設残土の埋め立て地で、万博やIR(統合型リゾート施設)という用途を前提としていない。地盤はゆるく、有害物質が含まれるとされており、災害時や混雑時の危険性が指摘されている。
 古賀茂明は「2350億年の無駄では済まない『大阪万博』中止こそが日本を救うと断言できる3つの理由」(10月17日、AERAdot.)のなかで、無理な万博開催こそが日本経済にマイナスの影響を与えると指摘する。現在、建設土木分野では需要超過の状態が続いており、資材価格の上昇や人手不足が深刻化している。そのため、マンションや一戸建て住宅も建設費が上がっており、多くの庶民にとっては家を買いたくても買えない状況が続いている。このような状況で万博の建設現場に人と資材を集中させると、さらに競争が激しくなり、「ただでさえ高い工事費用は天井知らずに上がる可能性が極めて高い」。結果として、日本経済の循環が悪化し、各地の大型プロジェクトも停滞する。いま万博を強行するのではなく、中止した方が「日本のためになる」と言うのだ。
 伊東乾は「大阪万博を開催する意味は本当にあるのか、札幌五輪断念を機に再考を」(10月13日、JBpress)において、問題山積の万博開催に突進む現代日本を、「太平洋戦争を指導した大本営」になぞらえる。
 大本営は、「一度振り上げた拳の下ろし場所がなく、立案した作戦行動に威信やら見栄や維持やらで固執」し、「必要のない犠牲を出し続け」た。今回の大阪万博もこれと同様で、指摘される深刻な問題に対応しようとせず、開催そのものを目的化して突き進んでいる。ここには「破滅する日本型組織の典型的特徴である思考の硬直化、一度の成功体験に味を占めた思考停止、空気に流され変更を決断できない、合理的に事態を直視できないなどの現実が見て取れる」。
 この国のリーダーたちは、「立ち止まって冷静に見直すこと」「引き返すこと」ができない。新田次郎「八甲田山死の彷徨」では、1902年に起きた八甲田山雪中行軍遭難事件が題材にされているが、ここでも雪中行軍の演習にこだわったリーダーが無謀な計画を強行し、210名中199名が吹雪で遭難、死亡している。不都合な予測やデータは見ないことにされ、根拠の乏しい楽観に固執する。
 今回の大阪万博開催に向けては、一部の与党国会議員の口から「超法規的措置」の必要性まで説かれている。2024年4月に「時間外労働の上限規制」が建設業界にも適用されるが、この法的規制を外す「超法規的措置」が必要だというのである。根拠として、「非常事態」「災害だと思えばいい」といった声が飛び出したが、これは危険である。
 この事態に対応するためには、ナオミ・クラインが説いた「ショック・ドクトリン」という概念が重要になる。「ショック・ドクトリン」とは、戦争や政変、自然災害などを利用して、平時では不可能だった政策を実行する策略で、惨事便乗型資本主義ともいわれる。一部の政治家や資本家が大きな利益を得ることが多く、新自由主義権力との相性がいい。
 「ショック状態」は、人為的に作られることも多い。「万博の開幕が間に合わなければ、国家の威信にかかわる」「日本という国のイメージや信頼に関わる事態」などの声を高めることで、無尽蔵に税金が投入され、「超法規」という名の「違法」が容認されかねない。
 大阪万博は、間に合わないことが問題なのではなく、夢洲での開催自体に問題があるのだ。この点を間違えてはいけない。 (なかじま・たけし=東京工業大教授)」東京新聞2023年10月25日夕刊5面、論壇時評。
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ルネサンスの町フィレンツェ 4 ドナテルロの彫刻  武蔵野図屏風

2023-10-25 17:09:41 | 日記
A.近代的表現とは?
 「近代」modernというものは、多様な側面があり、政治的、社会的、経済的、文化的な「近代化」は同時期に一様な形で起きたわけではなく、数百年かかる社会的変動を俯瞰的にとらえる必要があるのだが、衆目の一致するところは、15世紀後半から胎動し始めた西欧での、文化的革新、つまりルネサンスと呼ばれるアートの新機軸から「近代化」が始まったと考えてよいだろう。これに宗教改革や新大陸への拡大を含め、人びとの世界の見方、人間という存在への新たな発見が、アートを通じて目に見える形で現われて来たのがルネサンスだったとすると、その中心になったのが15世紀前半のフィレンツェだったという見解は、ほぼ歴史的合意があると思う。
 ただそれは、それが出てきた当初は、それ以前の中世キリスト教世界でのゴシック様式がまだ人々の共有意識に力を持っていて、ルネサンスのもつ新しさを必ずしも理解していたわけではなかった。そのへんを高階秀爾『フィレンツェ』は、丁寧に解説してくれる。

「「母なる自然は、どのような職業においても、あるきわめて優れた人物を生み出す時、しばしばまったく同時に、類似の領域に彼に匹敵する他の人物を登場せしめて、彼らがお互いにその才能と競争とによって助け合うようにさせるものである。このような状況は、当の本人たちによって格別の力となるのみならず、その後に来る者の精神をも燃え立たせ、研究と勤勉とによって、自分たちがこれら先輩について日々耳にするのと同じような名誉と、栄光に満ちた評判を勝ち得るために努力するようせしめるのである。このことが真実であることを示す例として、フィレンツェが同じ時に、フィリッポ(ブルネレスキ)、ドナテルロ、ロレンツォ(ギベルティ)、パオロ・ウッチェルロ、マサッチオを生み出したという例が挙げられるであろう。彼らはいずれも、それぞれの分野において傑出した人々であり、その当時まで盛んであった粗野な様式をすっかり革新したのみならず、その美しい作品によって彼らの後継者たちの心を刺激し、燃え上がらせて、それぞれの分野の芸術を、今日見るような偉大さと完成にまでもたらしたのである」
*333 ヴァザーリは、十六世紀緒中葉に描かれたその著『芸術家列伝』のマサッチオの項の冒頭にこのように書いて、十五世紀初頭のフィレンツェの芸術の隆盛を讃えた。事実、ヴァザーリのいわゆる「近代的表現」は、イタリア半島においてはまずフィレンツェの町で、ここに挙げられた人びと、特に建築におけるブルネレスキ、彫刻におけるドナテルロ、絵画におけるマサッチオの三人によって、ほぼ同じころに達成されるのである。
 彼らが登場するまでは、フィレンツェの芸術も、アルプスの北の諸国と同じように、国際ゴシック様式と呼ばれる装飾趣味の強い表現様式によって支配されていた。国際ゴシック様式というのは、十四世紀から十五世紀にかけての移り変わりの時期に、その名のとおりヨーロッパ全体を風靡した芸術様式であって、どこか神経質な繊細さを持った、貴族趣味の華麗な表現を特色とするものである。フィレンツェにおいては、たとえばジェンティーレ・ダ・ファブリーノ(1360頃-1427)やロレンツォ・モナコ(1370―1456)のような画家たちがその代表的な存在であって、少なくとも十五世紀の初頭には、人びとの間にまだ強い共感をもって迎えられていた。先に触れた1401年の洗礼堂門扉のコンクールにおいて、ギベルティがブルネレスキをおさえて優勝したことも、実はこのような一般的趣味と無縁ではない。もともと金銀細工師であったギベルティは、ゴシック末期の繊細な装飾趣味を多分に受け継いでおり、それが当時のフィレンツェ市民たちの好みに投じたからである。そしてブルネレスキの激しい表現は、いささか早過ぎたのである。
 造形美術の分野において、マサッチオやドナテルロが、写実主義に基礎をおいた堂々たる人間表現によって、新しい芸術の方向をはっきりと示すようになるのは、1420年前後のことである。ちょうど同じ頃、彫刻を放棄したブルネレスキは、花の聖母マリア大聖堂の大円蓋設計案において、建築の革新の第一歩を踏み出していた。ヴァザーリが正当に指摘するように、この頃期せずして、芸術のさまざまなジャンルにおいて、新時代の到来を予告する革新が進められていたのである。
 それは歴史的に見れば、明らかに中世末期の病的なまでに艶麗繊細な国際様式に対する反発であった。したがってそれは、必ずしもイタリアだけのものではなく、アルプスの北においても認められるはずのものであった。事実、ネーデルランド地方からやってきてフランスのブルゴーニュ地方で活躍した彫刻家ニコラズ・スリューテルのシャンモル僧院の予言者像(1411年頃)や、油絵の革新者ヤン・ファン・アイクの晩年の《神秘の子羊》の祭壇画(1425―31年)などの厳しく力強い表現は、北方世界においてもゴシック国際様式に対するアンチテーゼがほぼ同じ頃登場してきたことを雄弁に物語っている。それは、マサッチオやドナテルロの場合と同じく、現実世界を直視する精神から生まれてきている。フェン・アイクをはじめとするフランドル絵画が、十五世紀のイタリアにおいてきわめて高く評価され、広く人々に愛好されたことも、決して偶然ではなかったのである。
 ブルネレスキ
 フィリッポ・ブルネレスキ(1377-1446)は、ギベルティと同じようにもともとは彫刻家であり、金銀細工師であった。1401年のアの洗礼堂のためのコンクールにおいて、もしブルネレスキが優勝していたら、あるいは彼は生涯彫刻家として活躍したかもしれない。しかし、充分に自信のあった作品が落選したことが、彼に別の道を歩ませることとなった。コンクールの後、彼は若い友人のドナテルロといっしょにローマ旅行を試みたが、その頃から建築に身を捧げる決心をしていたようである。したがって、実際に彼が建築設計を手がけるようになったのは、ほとんど四十歳頃になってからであるが、その後三十年たらずのあいだに、イタリアのみならずヨーロッパ全体の建築の歴史において、記念すべき事業をなしとげたのである。
 当時のフィレンツェの建築界において、最も重要な問題は、町の中心である花の聖母マリア大聖堂の造営事業であった。十三世紀の末、アルノルフォ・ディ・カンピオによって始められた大がかりな大聖堂新築計画は、その後いくたびか中断されながら、十五世紀にはようやく最後の仕上げを待つばかりになっていた。しかし、その最後の仕上げというのが、全体の中では最も困難な中央合唱壇上部の大円蓋の造営であった。合唱壇というのは、東の方に頭を向けたかたちの十字架形のプランをもつ大聖堂の縦横の腕の交わる部分にあたり、したがってそれは、正方形のプランの上に円形の丸天井を載せるという、はなはだ厄介な課題を提起していたのである。ブルネレスキ自身言っているように、もしそれがたとえばローマのパンテオンのように、最初から円形のプランの上にお椀のような円蓋を載せるのであれば、問題はずっと簡単であったに相違ない。しかし、直径42メートルにも及ぶ巨大な空間を、正方形から円形に移行しながら完全に覆うということは、もっぱら石の積み重ねだけに頼る構築法では、容易なことではなかったのである。
 大聖堂参事会はこの問題を解決するため、フレンツェのみならず、外国からも著名な建築家を招いていろいろと意見を徴した。ただ、ブルネレスキにとって不運であったことは、建築の依頼にあたる委員会のメンバーが、専門の建築のことなどよく知らない人びとばかりであったということである。「彼らは、内外の多くの建築家にいろいろと意見や計画案を求めながら、提出された意見のうち、どれが最も優れたものであるかを判断することができなかった。フィレンツェのもつ民主的な伝統の弱点が、このようなところにもはっきりとあらわれている。ブルネレスキは、まったく何もわからない市民たちに、石の置き方からはじめて、専門的な工事の方法まで、細かく説明しなければならなかった。しかも、伝記作者たちによれば、さまざまの計画案の中で、ブルネレスキのものが唯一の実現可能なものであったにもかかわらず、造営委員会のメンバーたちにはそのことが理解できず、ブルネレスキに工事が依頼されるまでには大変な紆余曲折があった。
 その上、友人のユマニストたちの後押しでようやく彼に造営がゆだねられてからも、このような大事業をただひとりの責任者にまかせて、もしものことがあったらどう申開きをするかというお役所的考え方から、造営委員会は当時フィレンツェ芸術界にあって最も高い名声をえていたギベルティを、ブルネレスキと同じ資格で造営責任者に任命した。ギベルティは、彫刻や金工制作においてはたしかに当代並ぶもののない名手であったが、しかし建築のことにかけてはしろうとも同然であった。ブルネレスキにとっては、実際の仕事は全部自分が引き受けなければならないのに、世間一般にはギベルティの助力を仰いだように噂され、しかもそれまでの年功からギベルティの方がはるかに高額の給料を得ているのに心中強い不満を覚え、ギベルティが実は建築のことには無知であるということを示すため、大円蓋の基部ができあがった時、その注意を鉄の環で締めつける仕事をギベルティにまかせた。そしてそのできあがりがいかにも不手際であったので、造営委員会は「これまでギベルティに払ってきた給料と、この鉄の環のための出費が、完全な無駄遣いであった」ことを認めないわけにはいかなかった。そこで、ギベルティは造営の仕事からはずされ、後はブルネレスキがひとりで総指揮をとることになったが、ただ委員会の方は、何もしないギベルティに対し、「これまでの行きがかり上」やはり前と同じように高額の給料を支払い続けたという。
 いずれにしても、現実にはほぼブルネレスキのプランどおりの大円蓋が、1421年から1436年にかけて完成された。それは、八角形の胴部の上に、二十殻構造のやや先の尖った円蓋を載せたもので、外からはっきりと見える八本の稜線に対応する部分に八本、さらにそれぞれの中間部に二本ずつ、合計全部で二十四本の石と煉瓦によるアーチを組み合わせ、必要な個所を鉄の環で締めつけて安定させるという構造であった。ふたつのお椀をすっぽり重ね合わせたようなこの独創的な二重殻構造は、最初ブルネレスキが提案した時には、円蓋の重量がそれだけ重くなるから危険だという強い非難を呼んだものであるが、実はお互いに力を支え合い、分け合って、広大な空間を覆うのに十分な安定した円蓋を作りあげるものであったのみならず、作業をする上でも大変便利であったという。
 この造営工事中、人夫たちが賃金値上げを要求してストライキをしたことがあったが、その時ブルネレスキは、ただちにストライキをした者を全員解雇し、ミラノから新しく人夫たちを雇ってきた。スト派の人夫たちにしてみれば、石をあつかう建設工事には多年の熟練が必要なので、新米の人夫たちには到底この仕事はできるはずはないという計算であったのに、案に相違してブルネレスキは、たった一日で新しい人夫たちに完全に仕事の要領を覚えさせて、少しも不自由を感じなかった。その様子を見て、解雇された人夫たちがあわててブルネレスキのもとに、自分たちも働かせてほしいと頼みにゆくと、ブルネレスキは、以前よりも安い賃金という条件で復帰を許したというエピソードも伝えられている。
 このようにさまざまの波瀾を起しながら、多年の懸案であったこの大円蓋造営は、ブルネレスキの創意によって見事に完成し、ゆるやかなガルッツォの丘の起伏を背景に、堂々たるその雄姿を現在も聳えさせている。そして、その大聖堂のすぐかたわらには、彼の死後造られたブルネレスキの彫像が置かれてあり、満足げにあの大円蓋を見上げ続けている。
 この大円蓋造営と並んで、ブルネレスキは他にも数多くの革新的な仕事をした。なかでも、完全な円形アーチを細い円柱で受けとめ、アーチの直径と円柱の高さを同じにするという単純明快な構成を基本単位として、その単位を連続させて正面部を作りあげた孤児院(1419年)や、同じように余計な装飾を排して、柱、アーチ、壁等の基本的構造要素の組合せだけで構成したサン・ロレンツォ教会の旧聖器室(1420年着工)、同教会の本堂(1421年着工)、さらには、サンタ・クローチェ教会のすぐわきにある愛らしいパッツィ家礼拝堂(1429-46)や、1444年、彼の死の二年前から着工されたサント・スピリト教会内部などは、フィレンツェの町における彼の多様な活動を今もなお証言するものであると同時に、他のイタリア諸都市、たとえばヴェネチアやミラノなどにおいていまだにゴシック様式が支配的であった時代に、ブルネレスキがどれほど「近代的理念」を持っていたかをも、はっきりと物語ってくれる。
 ブルネレスキの作品の何よりも大きな特質は、建物全体を明快な数学的規則に還元し、各部分の形態や大きさ、比例関係等を、単純で基本的なものに統一した点に、これを指摘することができる。円柱、角柱、半円形アーチ、水平な格天井等、彼の建物の基本的構造要素はいずれももっとも単純なもので、わずかに見られる装飾要素も、三角形のフロントロン(破風)や、メダイヨンと呼ばれる丸窓等、いずれも簡素な幾何学的形態のものばかりである。これらの諸要素に、彼が古代建築の遺品から学んだ形式が認められることは事実であるが、しかしそれらの要素の組合せの結果生まれてきた空間造形は、ルネサンスのみのもつ清新な力強さに充たされているのである。
 ドナテルロ(Ⅰ388-1466)は、親友のブルネレスキと同じく、独創的な個性とけた外れの大きさをもつ偉大な天才であった。彼は、歴史的に見れば、ブルネレスキが1401年のコンクール課題作品で垣間見せた激しく力強い表現を、彫刻の世界で受け継ぎ、厳しい写実的観察にもとづく造形世界を作り上げた。そのことは、むろん彫刻の歴史にとっては幸運であったというべきであろうが、ドナテルロその人にとっては、必ずしも幸福なことではなかった。彼の友人ブルネレスキが、同時代のフィレンツェ市民たちの無理解と嫉妬に苦しまねばならなかったように、ドナテルロもまた、フィレンツェにおいて十分にその力量を認められることはできなかったからである。
 しかもドナテルロの場合は、ブルネレスキの大聖堂円蓋造営に匹敵するような大事業を遂に与えられなかった。ブルネレスキは、無能な大聖堂造営委員会の無理解や妨害に会うたびに、フィレンツェを去ってローマに移ることを考えたが、しかしこの歴史的大事業を自分の力で成し遂げるという情熱に支えられて、フィレンツェの町にとどまった。そして、多くの反対者の悪口や中傷にもかかわらず、結局ブルネレスキ以外にそれを完成させることのできる者がいないことは、次第に明らかとなった。だがドナテルロの活躍した彫刻の分野においては、ギベルティをはじめとして、多くの優れた天才たちがほかにも数多くいた。そして、ギベルティに対する市民たちの信頼と愛好が端的に示すように、人びとの趣味は、ドナテルロのもつ激越さや力動感に対しては、はなはだ冷淡だったのである。
 ドナテルロの芸術の基礎となったものは、ひとつは中世末期のなまなましい表現主義の流れであり、もう一つは主としてローマにおいて学んだ古代彫刻の先例である。このふたつの基礎の上に、彼はマサッチオと同じような鋭い現実観察を加え、圧倒するような強い情熱によって、驚くべき個性的な造形世界を築き上げた。」高階秀爾「フィレンツェ 初期ルネサンス美術の運命」中公新書、1966.pp.97-108.

 彫刻におけるドナテルロの仕事は、まさにルネサンスの頂点に向かうフィレンツェを代表するものだったといえるけれど、その時点では、市民たちの多くはドナテルロのやっていたことを冷ややかにしか見ていなかった。いつの時代にも先駆的なアーティストが作品そのもので達成していたことを、人びとは気づかないまま通り過ぎる、ということが起こる。ただ、ルネサンスのフィレンツェは、それでも才能あるアーティストが次々フィレンツェに現れてきたということは、驚くべきことだ。


B.第一人者の重み
 高階秀爾先生は1932年2月生まれの、現在91歳。日本で、西洋美術のみならず、東洋と日本の美術に関することで、おそらく高階先生の右に出る人はいない。美術作品の評価というものは、かなり頼りないもので、作家も批評家もじゅうぶんな知識と実績を兼ね備えて判断しているものではない。だから、なにが価値ある美術作品かは、ほぼ第一人者の見解に左右され、少なくとも日本では高階先生が最高の権威といってもいいだろう。それは、この分野で、これほどの実績と見識のある人が他にいない、という意味で第一人者なのだ。それは、この「武蔵野図屛風」の紹介をする文章でも、ただの作品紹介などというレベルでなく、平安京遷都の詔からはじめて、武蔵野の風景論にいたる、実に格調の高い文章の素晴らしさは、90歳を過ぎてますます冴えわたる。

「美の季想:草に入る月 視覚で告げる空 色彩の効果  高階秀爾 
 延暦13(西暦794)年、桓武天皇が平安京(現在の京都)を造営して都を移した時の「平安遷都の詔(みことのり)」に、「此(こ)の国、山河襟帯して、自然に城を作(な)す」と述べられている。その意味は、四方が山で囲まれているから、わざわざ城壁を作る必要はないということである。富の集積地である都市は、他の外敵から狙われ易い。それを防ぐために城壁を築いて都市(ミヤコ)をまもる。平安遷都も、そのために行われた。
 実際、平安京は、山に囲まれた盆地にある。周囲の山がそのまま城壁となるから、わざわざ城壁を建設する必要がない(その点では、奈良盆地に位置する平城京や藤原京の場合も同様である)。京都の町は現在に至るまで、ついに城壁というものを持たなかった。ヨーロッパの都市が、「カレーの市民」の物語に端的に見られるように、何よりまず堅固な城壁で守られているのとは、大きな違いである。
 盆地に存在するなら、太陽も月も東山から昇って西山の影に沈む。古代人にとっては、日論も月輪も山のすぐ背後に潜んでいて、時が来ればそこから姿を現すと感じられたであろう。
 だあが、周囲の山のない関東平野の場合は、そうはいかない。太陽も月も地平の彼方から出現して、天空を旅した後、反対側の地平線の向こうに沈む。歌枕にまでなった歌に「武蔵野は月の入るべき山もなし 草より出でてくさにこそ入れ」と歌われているとおりの情景である。
 現在サントリー美術館が所蔵する六曲一双の「武蔵野図屏風」は、まさしくその歌に歌われたような情景を描き出したものである。画面の下半分には、透垣(すいがい)のような草列が装飾的にずらりと並ぶ。そこに描き出された草花が萩をはじめ、すすき、ききょう、菊などであるのを見れば、季節はまぎれもなく秋である。そして左隻の上部には、金運を棚引かせる悠然とした富士の姿がはるか彼方に浮かびあがり、右隻では逆に、まるで草花のあいだに身をひそめるかのような巨大な銀色の満月が描き出されている。
 色彩表現の上では、可憐な草花のあでやかな姿と、それとは対称的に画面に大きな存在感を見せる富士の金雲と銀の満月との取り合わせが、饒舌多弁ではない豊かな効果を見せる。
 日本で最初の勅撰和歌集である「古今和歌集」の巻第四「秋歌上」の冒頭は、「秋立つ日よめる」という前書きのある藤原敏行朝臣の一首「秋きぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」がかかげられている(岩波文庫版「古今和歌集」)。そこでは、視覚的情景よりも「目に見えぬ」風の音が秋の到来を告げる。「武蔵野図屏風」では逆に、華麗なまでの視覚的情景が秋の来たことを告げる。さまざまの身体感覚を歌や情景に結びつけられるところに、日本人の美意識が養われ、受け継がれてきたと言ってよいであろう。 (美術史家・美術評論家)」朝日新聞2023年10月14日朝刊27面、文化欄。
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 ルネサンスの町フィレンツェ 3 視覚の革新  オスロ合意は…

2023-10-22 20:00:18 | 日記
A.透視画法 
 イタリア・ルネサンスが、人間の眼に見える世界の見方を変えた、といわれる。それ以前の人々も景色を眺め、人間を観察していたには違いない。しかし、ただ眼を開いて見ているだけでは、そこで見えているものがなんであり、どんな意味を帯びたものとして見えているかは、決まらない。たとえば奥行きのある空間で、近くにいる人と遠くにいる人の大きさが違って見えることに意識を集中するには、空間と距離の把握を数学的な関係として思考する能力が要るわけで、それは遠近をある視点から透視するとどうなるかを、絵画という形で知ることで理解する。絵画が透視画法(一点透視、2点透視などの遠近法)を獲得して、それを作品にしたのは、まさにルネサンス以後のことであり、それがどれほど目覚ましい革新であったか、いまはもう忘れられている。

「「魅力にあふれる時代、人間の魂の青春が息づいている豊麗な夜明け、人々はその時初めて、現実的な事物にひそむ詩情を見出した‥‥…」
 十九世紀の文芸史家イッポリット・テーヌは、十五世紀後半のフィレンツェについてこう書いている。事実この時代は、人間の眼が「現実的な事物」に向けられ、現実の中にこそ美と「詩情」がひそんでいることを、人びとが敏感に感じとった時代であった。そして、誰よりも鋭敏な感受性に恵まれていた芸術家たちは、こぞって「現実的な事物」の表現を求めた。
 したがって写実的表現の探求は、フランドル絵画の影響が明瞭になる以前から、イタリアにおいて意欲的に進められていた。すでに十四世紀において、ロレンツェッティ兄弟のようなシエナ派の画家たちが透視画法的表現を試みているが、明確な幾何学的理論にもとづいた線的透視画法、いわゆる「人工的透視画法」を完成させたのは、やはり
十五世紀のフィレンツェの芸術家たちであった。
この人工的透視画法をはっきりと体系的に理論化したのは、1435年に刊行された『絵画論』の著者レオン・バティスタ・アルベルティである。しかしこの理論そのものは、すでにギベルティやマサッチオたちによって、実地の作品に応用されていた。ギベルティは、1425年から制作を開始した洗礼堂の東側門扉において、ほとんど完全に線的透視画法を応用しているし、マサッチオも、1426年から先輩のマソリーニといっしょに制作に従事したカルミネ教会のブランカッチ礼拝堂壁画において、透視画法の豊かな知識を実証している。
ヴァザーリは、マサッチオがドナテルロやブルネレスキと親しかったことを強調した上で、彼が透視画法に優れた腕を持っていたことを次のように述べている。
「彼は透視画法の方法を熱心に研究し、その表現において驚くべき腕前を見せた。たとえば、現在リドルフォ・グルランダイオの家にある、大勢の人の登場する場面を描いた作品がその例であって、そこには、憑かれた男を癒すキリストのほかに、透視画法によって内部も外部も同時に見えるように描かれた、きわめて見事な建物が見える。それは彼が自己の視点として、建物の正面部ではなくて隅を――その方がいっそうむずかしいという理由で――選んでいるからである」
 ヴァザーリの述べるこの作品そのものは同じころ描かれたアンドレア・ディ・ジュスト作と伝えられる《キリストと使徒たち》(フィラデルフィア、ジョンソン・コレクション)を見れば、ヴァザーリの言わんとするところはほぼ明らかであろう。
 しかし、ギベルティやマサッチオよりも先に完全な透視画を描いた最初の人は、建築家ノブルネレスキであったようである。マネッティは、右に引いた伝記の中で、彼がサン・ジョバンニ洗礼堂の外観を透視画法によって現実そっくりに描いたことを述べている。ブルネレスキはその透視画を描くため、大聖堂の本堂の内部に立って、その入口を通して外側の洗礼堂を眺め、入口の枠をあたかも絵の額縁に見立てて洗礼堂を描いたという。このようにして描かれた透視画が実物そのもののように見えるためには、見る人の視点が、画家の視点と正確に一致しなければならない。見る人の視点の位置が違うと、透視画は十分な効果を発揮できないのである。そこでブルネレスキは、はなはだ頭の良い「見方」を考え出した。マネッティの説明によると、それは次のようなものであった。
 「……見る人がその視点を誤って選ぶことがないように、フィリッポ(ブルネレスキ)は、サン・ジョヴァンニ洗礼堂を描き出した絵の中央――ちょうどサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂中央入口内部の、画家が立っていたその位置に見る人が立った時に、その眼の正面にあたる部分――に、小さな穴をあけた。その穴は、画面の側では小豆のように小さかったが、裏から見るとちょうどじょうご形に広がって、一ドゥカット貨幣かもう少し大きいぐらいになっており、あたかも婦人の麦藁帽の冠飾りのようであった。フィリッポは、見る人の一方の眼をこの裏側の大きい穴にあてさせ、もう一方の眼を片手で塞がせ、他方の手に鏡を持たせて、ちょうどその小さい穴から鏡に映った絵が見えるようにした。鏡から眼に近い方の手までの距離は。フィリッポがサン・ジョヴァンニ洗礼堂を描いたときに立っていた場所から洗礼堂までの距離に対応するように調整された。このようにして穴から覗きこむと、透視画法の効果と正しい視点との作用によって、広場の情景はまったく現実ありのままのように見えた……」
 ブルネレスキは、このようないわば「浮き絵」を、政庁舎前の広場の情景についても描いている。
 ブルネレスキのこの実験からも明らかなように、透視画法とは、単に現実の姿をそのまま示すものではなく、ある一定の視点から眺めれば、また違った姿を提出するものである。同じサン・ジョヴァンニ洗礼堂にしても、別の視点から眺めれば、また違った姿を描く画家の目の存在であり、透視画法の発見はまた同時に、ひとつの視点からとらえられた統一的映像という人間中心主義的世界像の発見でもあった。透視画の登場が単に絵画技法の上の新段階を示すのみではなく、人間の外界認識の新しい時期を画したと言われるのもそのためである。
 事実、十五世紀も中葉から後半に移るにつれて、透視画法の研究は、次第に「現実世界の再現」ということよりも、「知的秩序の追求」という側面を強く見せるようになる。ウッチェルロやレオナルドの透視画法研究は、ほとんど「絶対の探求」に近い無償の情熱をすら感じさせる。そこには、現実世界にはっきりと背を向けるようになる「歪んだ透視画法」の萌芽さえ見られるのである。そして、このような理論的、知的研究がこの時代の芸術家たちをいかに魅惑したかということは、ウッチェルロが透視画法の研究に熱中したあまり、毎晩夜中過ぎまでアトリエにとじこもっていたので、彼の妻が見かねて早く寝るように催促にゆくと、彼が酔ったように、「透視画法とは何と美しいものだろう」と叫んだというあの有名なエピソードが、よく物語る通りである。
 ルネサンスは新しい世界の発見であった。それは、文字どおり地理上の「新世界」が歴史の表面に登場してきた時代でもあり、科学上の新知識が外界に対するそれまでとはまったく違った眼をもたらした時代でもあった。
 ロレンツォ・デ・メディチがその勢力の最盛期にあった頃、イタリアはあらゆる意味で新しい世界と直面しつつあった。東の方には、風俗も習慣も言葉も衣装もすっかり違う、巨大なトルコ帝国があった。頭にターバンを巻き、鮮やかな花模様の衣装にゆったりと身を包んだトルコの高官や豪商たちの姿は、東方の珍しい装飾品や香料などとともに、豊麗な色彩とどこか官能的な雰囲気とを半島の世界にもたらした。それに、ピウス二世の十字軍計画が教皇の死によって自然消滅してからは、東地中海を根拠とするトルコの勢力は、もはやこれを打ち破ることは不可能なようにみえた。イタリアの多くの都市国家を支配する政治家や大商人たちは、いまさら無駄な十字軍などに余計な精力をさくよりは、むしろこの強大な帝国の軍事力と富を利用して、自分たちの地位を固めた方が得策だと考えた。すでに見たように、ロレンツォ豪華王は、教皇との駆け引きの一手段として、トルコ皇帝との和親を積極的に企てたし、さらには「異教徒」に対して最も反対の立場にあるはずの教皇庁ですら、1494年のシャルル八世のイタリア侵攻の時には、アレキサンデル六世の密使をトルコに派遣して援助を求めようとまでした。(もっともこの密使は、不運にも途中でシャルル八世の軍隊につかまり、結局はフランス王をいっそう激怒させるだけの効果しか持たなかった。)
 いずれにしても、イタリア人たちは、好むと好まざるとにかかわらず、トルコ人たちといよいよ深く交渉をもつようになった。ロレンツォ・デ・メディチは、外交上と商売上の理由から、ベネデット・デイといういささか山師のようなところのある男を、1460年から十年間にわたって共和国の代理人として小アジアに派遣している。一方トルコの皇帝の方も、西欧の風俗や文化に強い興味を示した。特にサルタンにとって大きな魅力があったのは、西欧世界の科学技術である。コンスタンティノープルの町の入口に海の上を渡って架ける橋の構築のために、レオナルド・ダ・ヴィンチが意見を求められたことは広く知られているし、皇帝バヤズィット二世は、ミケランジェロをトルコに招こうと色々工作している。このようにして、イタリア人の生活の中に「東方趣味」が大きな場所を占めるようになった。しかもそれは、当時のイタリア人たちにとって、古代ギリシャ人たちの世界がトルコ人たちの世界と似たようなものと考えられていたために、いっそう盛んになったのである。
 芸術の領域において、この「東方趣味」を最もはっきりと見せているのは、いうまでもなく、東方世界に最も近く、商業的にもトルコと最も関係の深かったヴェネツィアである。しかしその異国趣味は、あるいはヴェネツィアを通して、あるいは直接に、トスカナ地方にも流れ込んできた。」高階秀爾「フィレンツェ 初期ルネサンス美術の運命」中公新書、1966.pp.86-94.


B.ハマス・ヒズボラ・イラン
 ガザの空爆は、ハマスによるイスラエル攻撃と人質拉致の襲撃に対する報復であり自衛だとイスラエルは主張し、地上への侵攻も準備中だという。ガザの人々の携帯やパソコン等の通信はすべてイスラエルが統制管理していて、今回の襲撃はそういう通信手段をいっさい使わずに秘かに準備されたらしい。どうしてそこまで激しい武力抗争を繰り返すのか、理解を超える。ぼくらはいちおうイスラエル建国以来のパレスチナとの底知れぬ憎悪と殺戮の歴史をきいて、なんとかならないものかと思い、1993年にイスラエルとパレスチナ解放機構が協定した「オスロ合意」で、やっと双方が平和に向けて歩みだすのかと思っていた。しかし、今回のガザで起きたことは、何も解決していないことを知らしめた。

「時事小言 :イスラエルとハマス 暴力は己の安全も脅かす  藤原帰一 
 イスラム組織ハマスによる10月7日の襲撃と殺戮の後、ハマスが拠点とするガザに対し、イスラエルのネタニヤフ政権は空爆を繰り返している。地上軍投入も時間の問題であると伝えられている。
 関心はこの武力紛争がどこまで広がるかに集まっている。すでにイスラエルはレバノンとの国境付近で同国のイスラム教シーア派組織ヒズボラと戦火を交え、ヨルダン川西岸での武力衝突も伝えられている。
 イラン政府の支持によってハマスが襲撃したとする議論の根拠は示されていないが、イランがハマスに武器を供与してきたことはほぼ確実である。ヒズボラも、イランの支援を受けているだけに、イランとイスラエルの緊張がヒズボラが南部を実効支配するレバノン、そしてシリアに拡大し、さらにイランとイスラエルとの直接の戦争にエスカレートする危険もある。イランがロシアに武器を供与していることも考えるなら、さらに紛争が拡大する可能性も無視できない。
 武力紛争がエスカレートする危険に目が向かうのは当然だろう。だが将来を考える前に、目を向けたい二つの暴力がある。
*      *      * 
 まず、10月7日のハマスの攻撃によって数多くの人が殺され、人質をとるかのようにガザに連れ去られた。音楽イベントで殺された人々を始め、犠牲者のほとんどは兵士ではなく一般市民である。武力紛争の予測をする前に、いわれのない暴力によって奪われた人々の命に目を向けなければならない。
 そしていま、ガザの人々が殺されている。すでにイスラエルによって外界との接触を断たれてきたガザは、ハマスの侵攻後、電力・食料・水の供給を断たれ、繰り返し大規模な空爆にさらされ、南部への移動を強要された。人道的災害と呼ぶほかはない極限的な暴力の行使である。
 片方だけの犠牲者に関心を向け、ハマスの攻撃による犠牲者とイスラエルのネタニヤフ政権によるガザ攻撃の犠牲者のどちらかだけを考えるなら、犠牲を強いた相手に対する暴力に与する危険がある。
 ハマスの無差別攻撃だけを見るなら、ガザ攻撃、ヒズボラ、さらにイランへの攻撃さえ自衛権の行使として正しい選択として映るだろう。ガザの犠牲者だけを見るならば、ユダヤ人に対する無差別テロを容認することになりかねない。どちらの選択も紛争の拡大と犠牲しか招かない。
 ハマスはイスラエル国家の存在を否定し、イスラエルを倒すための武力行使を訴えてきた。これまでにない数の人々を殺害した今回の無差別攻撃が成果とされ、力によってイスラエルを打倒できるという破滅的に誤った観念が生まれる可能性がある。
 イスラエル政府が自衛権行使として武力によるハマスの排除を進めることは、その限りでは正しい。21世紀の初めにテロを引き起こしたアルカイダやいわゆるイスラム国などによるグローバルテロが復活する危険も見逃せない。
 しかし、いまのイスラエルのネタニヤフ政権によるガザ爆撃と移動の強要は、ガザに住む人々の生活を破壊し、生命を奪う人道的災害である。軍人と民間人、軍事目標と民用物の区別を度外視した武力行使は、国際法に違反するばかりか、紛争の犠牲と規模を拡大する危険がある。これは自衛権の行使をはるかに逸脱しており、決して認めてはならない選択である。
*        *        * 
 およそ30年前の1993年9月、オスロ合意によってイスラエルとパレスチナが互いに相手の存在を認める枠組みが示された。だがイスラエル側にもパレスチナ側にも反発は強く、どちらの側でも相手を力で倒すことを辞さない急進派が台頭した。ガザの権力を掌握したハマスはイスラエルへの攻撃を繰り返し、ネタニヤフ政権はオスロ合意を無視するかのようにパレスチナ自治政府から自治を奪い、ヨルダン川西岸へのユダヤ人入植を進めた。
 力による相手の排除は、不当なばかりか、自らの安全を損なう選択である。ハマスによるイスラエル国家の否定と無差別虐殺はパレスチナの人々から安全を奪ってしまった。ガザ、さらにヨルダン川西岸の一般住民を犠牲とすることを厭わない攻撃は、パレスチナ人の悲嘆と憎悪を高め、国際的にはイスラエルを孤立させ、イスラエルの安全を損なう結果に終わるだろう。
 いま必要なのはハマスの暴力に対抗する国際的連帯と、ネタニヤフ政権の展開する人道的災害の阻止の両方である。それはまた、イスラエルとパレスチナの国家存立をお互いに認めあうオスロ合意の再確認に向けた、長く、苦しい道程でもあるだろう。 (千葉大学特任教授・国際政治)」朝日新聞2023年10月18日夕刊2面。
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 ルネサンスの町フィレンツェ 2 テンペラから油絵へ  性表現の規制

2023-10-19 20:50:03 | 日記
A.油絵の登場
 ルネサンスと呼ばれる文化運動がどういうものであったかは、そう簡単には要約できないが、古代ギリシャ・ローマの遺跡から出てきた彫刻などに大きな刺激を受け、それを復活させようとしたということから、中世のキリスト教世界で閉塞させられていた人間の生命力・リアリティの迸りという意味がルネサンスという言葉にこめられている、といわれる。そして、その中心が15世紀のフィレンツェにあったということは、どうやら疑いもない歴史上の出来事だった。
 前節で、1401年にフィレンツェで行われた、大聖堂の礼拝堂の扉を「アブラハムの犠牲」という主題でブロンズの浮彫をつくるコンクールで、ルネサンスの劇的表現を実現したフィリッポ・ブルネレスキ(1377~1446)が、旧来のゴシック的表現を保ったロレンツォ・ギベルティ(1378~1455)に負けた(正確には、負けたわけではなく審査員の両者優勝という提案をブルネレスキが拒否した)ことを紹介した高階秀爾氏は、続けてドナテルロについてもこう述べる。
 
「同様のことは、ブルネレスキの様式を受け継いだドナテルロについても認めることができる。コンクールに優勝して以来、ギベルティの作品は市民たちのあいだにいよいよ高い評判を得て、彼のアトリエは殷賑をきわめた。それに対し、同時代に活躍したドナテルロは、必ずしもフィレンツェ人たちに正当には理解されなかった。彼の天才に熱狂的な賛辞を捧げ、その天才にふさわしい作品を生み出させたのは、むしろパドヴァ人たちであった。パドヴァにおいて、あの記念すべき《ガッタメラータの騎馬像》やサン・タントニオ教会の主祭壇を制作した後、ドナテルロがふたたび故国フィレンツェにもどってきた時、フィレンツェの市民たちは、この偉大な彫刻家に対してはなはなだ冷たかった。彼の才能を深く愛していたコジモ・デ・メディチの力をもってしても、彼のためにたったひとつの騎馬像制作も、記念像の注文も得ることはできなかった。彼に与えられたのは、サン・ロレンツォ教会の説教壇外側の浮き彫りというはなはだ地味な仕事だけだったのである。
1491年、ロレンツォ豪華王の提唱で、花の聖母マリア大聖堂の西側正面部のための公開コンクールが行なわれた時、市民たちの批判精神は最も完全に発揮された。このコンクールには、建築家のみならず、画家、金銀細工師、指物師、鍛冶屋から音楽家にいたるまで、四十人もの人々が応募した。市民たちは誰しも、大聖堂の正面部はどのようなものであるべきか、そして応募作品の出来栄えはどうであるかについて、それぞれ一家言を持っていて、譲ろうとはしなかった。審査員たちはそれらの意見のどれも無視することはできなかった。結局コンクールは優勝者なしでお流れになってしまった。
このような風土は、優れた天才たちを育てるのには大変好都合であった。だが彼らに十分な活動の場を与えるには不適当であった。ドナテルロをはじめとして、ヴェロッキオも、ポライウオーロも、さらにはレオナルドも、ミケランジェロも、ラファエルロも、このフィレンツェの風土の中で育てられた。そして彼らの「傑作」は、いずれもフィレンツェ以外の場所で生み出されたのである。
フィレンツェ特有のこの地的風土は、ユマニスムの伝統と結びついて、芸術に対する理論的考察の発達をもうながした。先に触れたマネッティの筆になる(と称せられる)ブルネレスキの伝記に明らかなように、ユマニストたちはブルネレスキの中に、単なる職人とは別の優れた思索家を認めて、彼の栄光を讃えた。この時代においては、優れた芸術家たちは多かれ少なかれユマニストであり、知的探求に強い情熱を燃やしていたのである。
たとえば、ブルネレスキに比べればはるかに職人的面を残しているギベルティですら、プリニウスやヴィトルヴィウス等の古代ギリシャ・ローマの芸術文献の熱心な読者であり、古代から中世を経てルネサンスにいたる芸術の発展の記録である『コメンタリイ』全三巻の著者でもあった。十五世紀のちょうど中葉に公刊されたこの貴重な回想録の中で、ギベルティは理論的なものに対する自己の関心を、次のように述べている。
「きわめて賢明なる読者よ。私は金銭に対する欲望に従うことなく、幼少の頃より大きな熱意と関心とをもって追求してきた芸術の研究に自分の身を捧げた。芸術の基本的な諸原理に習熟するため、私は自然が芸術においてどのように働くかを探求しようと努めた。そして、ものの姿がいかにして眼に映ずるか、視る力がいかにして働くか、視覚的影像がどのようにして生まれるか、どのようなやり方で彫刻や絵画の理論が形成されるべきであるかを探し求めた……」
 このような理論的関心は、ブルネレスキにも同様に指摘されるものであり、さらには、アルベルティ、ウッチェルロ、レオナルド等にまで続いてゆくものである。
 もともとこの種の理論的関心は、十五世紀イタリア全体の大きな特徴であるが、フィレンツェにおいては、特にそれがいちじるしかった。ボッテッチェルリのようなきわめて感覚的な画家でさえ、プリニウスの記述をもとにして、失われたアペレスの名画を再現しようと試みたり、アルベルティの『絵画論』をそのまま実地に適用した作品を作ろうと企てたりしている。芸術理論と作家研究と作品目録とを兼ね備えたような、あの壮大なヴァザーリの『芸術家列伝』が、フィレンツェ派の画家の手によって書かれたということは、決して偶然ではないのである。
 油絵の誕生
 イタリアは、ヨーロッパ諸国に先がけていち早く近代的な芸術の花を開かせ、その後の西欧芸術に大きな影響を与えたが、しかしイタリア・ルネサンスは、単にアルプスの北の国々に多くを与えただけではない。中世ゴシックの時代におけると同じように、北方から多くのものを学んでもいるのである。その中でも特に重要な結果をもつもののひとつに、油絵の技法がある。
 クワトロチェントの初頭においては、ミニアチュアや工芸品を別にすれば、絵画の主要な技法は、フレスコ画かテンペラ画であった。
 フレスコというのは、粗壁の上に石灰と砂を混ぜた壁を塗って、その壁がまだ渇ききらないうちに、水に溶いた顔料で直接壁の上に絵を描いてゆく手法である。壁が濡れているところに描くのであるから、色は壁の中に浸みこんで、壁が乾くと同時に乾く。つまり壁の表面と絵が一体になって建築装飾としてはきわめて長もちするものである。しかし、描く方から言えば、壁が濡れている間に素早く描かなければならないから熟練した技巧を要し、しかも描き直しがきかないという不便がある。したがって、描くべき構図や形態はあらかじめきちんと決められていなければならない。十三世紀から十五世紀にかけて、特にフィレンツェを中心都するトスカナ地方では、最終的な上塗りの壁を塗る前の中壁に、セピア色の顔料でまず下絵を描いておいて、その上に最上層の壁を塗りながらフレスコ壁を描くというやり方が広く用いられた。この下絵のことを一般に「シノピア」と呼ぶ。
 シノピアは、近代画家の場合のいわば下絵デッサンにあたるものであるが、しかしその上に壁を塗ってフレスコ画を描くのだから、フレスコが完成した時には、当然その下に隠されて見えなくなってしまう。したがって、普通のデッサンのように、それだけを鑑賞したり、完成図と比較してみたりすることはできないものである。いやそれどころか、シノピアというものが現実に存在するかどうかということすら――チェンニーノ・チェンニーニの『美術論』にそのやり方が詳しく説明されているが――実際に確かめるわけにはいかなかった。
 ところが、今回の大戦で戦災を受けたフレスコ画を修復する際に、多くの壁画の下にたしかにシノピアの存在することが確かめられた。イタリアにおける壁画修復の技術は、さすが本家本元であるだけにきわめて進んでおり、現在では、フレスコ画を上層の壁もろともそっくり剝がしてしまうことすら可能になった。その剥がし方にはいろいろな方法があるが、原理的には、強力な接着剤を塗ったカンヴァスを壁画の上に一面に貼りつけて、カンヴァスといっしょに壁の上層部を剥がし取り、後で熱または薬品によって接着剤を溶かすのだという。いずれにしても、数多くの壁画のシノピアが、修復作業によって発見された。ピサのカンポ・サントにあるトライーニの《死の勝利》の壁画など、上層部をすっかり剥がしてそれだけを特別に陳列し、壁の方にはシノピアがそのまま見られるようになっているという。
 だが、このシノピアによる技法は、十五世紀の中葉頃から次第に少なくなってきた。代わって登場したのが、「カルトーネ」と呼ばれる方式である。これは、紙の上にあらかじめ原寸大の下絵をデッサンしておいて、壁の上塗りをした部分にこの紙をあて、針のようなもので図側の輪郭線に沿って穴をあけてゆく。そしてその穴の上から木炭の粉をあてれば、生乾きの壁の上に下絵どおりの図柄が点線で描き出されるわけである。
 一方、テンペラと呼ばれるものは、中世以来の板絵祭壇画の最も普通な技法で、多くの場合、卵黄、卵白、アラビアゴムなど膠質の媒剤に顔料を溶かして描くものである。しかし、一口にテンペラといっても、場合によりいろいろなやり方があって、特殊な顔料を水で溶かすことも行われた。この画法は、鮮明な色彩効果をあげることはできるが、微妙な明暗や陰影を表現するのには向かない。
 それに対し、リンシ―ド・オイル(亜麻仁油)に顔料を溶かした油絵の技法は、いくらでも色の塗り重ねがきくし、微妙な色のニュアンスをよく出すことができる。写実的なものの表現を求めた十五世紀の画家たちにとっては、この技法は新しい啓示であった。
 普通一般には、油彩画の技法を発明したのは、フランドルの画家ファン・アイク兄弟だということになっているが、しかし実はファン・アイクの登場する以前から、油絵の原理はフランドルの画家たちの間に知られていた。ファン・アイク兄弟は、それまでにあった油彩画の技法をいっそう完全なものとしただけなのである。
 いずれにしても、フランドル地方に発達したこの油絵の技法は、ただちにイタリアにも伝えられた。最初にその技法に習熟したと伝えられるのは、シチリア生まれのアントネルロ・ダ・メッシーナである。彼は、ヴァザーリによればヤン・ファン・アイクのもとで学んだことになっているが、そのことは必ずしも信じがたい。しかしいずれにしても、彼が、フランドルから将来された多くの作品を所蔵していたナポリ王の宮廷に出入りしていたことはたしかで、おそらくそこで油彩画の研究をする機会を得たものであろう。
 その後、このアントネルロがヴェネツィアに渡ったところから、ヴェネツィアにおいて油彩画はもっとも豊かな発達を示した。
 しかし、アントネルロがやってくる以前から、フランドルと交易のあったこの水の都では、すでにある種の油彩画法が行われていたようである。フィレンツェに油絵の技法を伝えたといわれるドメニコ・ヴェネツィアーノは、その名の示すとおりヴェネツィア生まれの画家であり、サンタ・マリア・ヌォ―ヴァの病院内部のサン・テジディオ礼拝堂の壁画装飾には、油絵を使ったといわれている。もっとも、この壁画は現在は失われてしまっているので、事実であるかどうか確かめようはないが、病院の会計簿には、亜麻仁油の支給が記録されているという。
 この時、ヴェネツィアーノの用いた油絵の技法があまりに見事だったので、同じところで仕事をしていた写実派のアンドレア・デル・カスターニョは、その技法をヴェネツィアーノから学んだ後、嫉妬に駆られてある晩、ひそかにヴェネツィアーノを殺害してしまったという話を、ヴァザーリは伝えている。(ただし現在では、殺されたはずのヴェネツィアーノの方が、「犯人」のカスターニョより四年も長生きしていることがわかっているので、この話は信用できない。)
 いずれにしても、十五世紀の後半にはこの新しい技法は、フィレンツェの画家たちのあいだでもいろいろと研究され、使用されるようになった。新しい知識に対して熱心なレオナルド・ダ・ヴィンチは、ミラノのサンタ・マリア・デルレ・グラツィエ教会のあの有名な《最後の晩餐》の壁画を、慣例のフレスコの技法によらず、油絵で描いているし、1505年には、結局失敗に終わったが、フィレンツェ政庁舎の大広間の壁に、《アンギアリの戦い》の情景をやはり油絵で描こうとしている。
 このような新しい技法の導入は、単に技術だけの問題ではなく、その技術によって生み出された表現様式をもいっしょにもたらした。フランドル絵画の写実主義は、フィレンツェ人たちにとっても、大きな驚きであり、その影響はさまざまなかたちであらわれた。
 最も典型的であったのは、1482年、フランドルにおけるメディチ家の代理人であったトマソ・ポルティナリがフィレンツェに送ったフーゴー・ファン・デル・グースの《牧者の礼拝》の祭壇画(ウフィツィ美術館)の場合である。ドメニコ・ギルランダイオは、このファン・デル・グースの作品に強い影響を受け、サンタ・トリニタ教会のサセッティ礼拝堂に描いた《牧者の礼拝》では、その影響の跡を歴然と示している。
 さらに、写実的医表現に優れていたフランドル絵画の得意の領域であった肖像画と風景画も、それぞれフィレンツェ絵画に新しいものの見方を教えた。たとえば肖像画においていわゆる「四分の三」と称する斜め前から見た描き方などは、はっきりとフランドルから学んだものである。事実、十五世紀後半までのフィレンツェ派の肖像画は、真横から見た姿が基本的であったが、十五世紀も末になると、たとえばギルランダイオのサンタ・マリア・ノヴェルラ教会の壁画に見られるように、人間の顔を斜め前からとらえ、奥行、厚み、凸凹等を再現しようとするやり方が用いられるようになるのである。」高階秀爾「フィレンツェ 初期ルネサンス美術の運命」中公新書、1966.pp.76-85.

 テンペラやフレスコ画の技法についてはぼくも知っていたが、シノピアやカルトーネという技法のことは初めて知った。たしかに下絵を壁にどうやって残すか、考えてみれば苦心の工夫だったわけだ。だが、油絵の定着は、そうした手間のかかる絵画技法を時代遅れにし、油絵の画面は著しくカラフルかつリアルいなっていったわけだな。


B.性的表現の公開規制について
 Wikipediaの記述で、ポルノグラフィとは、ウェブスターの『国際辞典』の定義によれば、「性的興奮を起こさせることを目的としたエロチックな行為を表現したもの」とある。略称として、ポルノとも言われる。かつてD.H.ロレンスの小説をめぐる「チャタレイ裁判」や、永井荷風の「四畳半襖の下張り事件」や、大島渚の「愛のコリーダ裁判」などで大きな議論を呼んだのは、小説や映画で性的表現とくに性交の描写を、公開してよいかという点にあった。それぞれ当時の社会が許容する「公序良俗」に、それらの作品が反しているかどうかが問題となった。ある文学的あるいは芸術的主題を表現するのに、ポルノグラフィに等しい表現は必要か、という論点になっていたと思う。問題は、それが書物として公刊されて誰もが読めるようになったり、映画として公開されるのが望ましいか、という点で、私的な空間で秘かに愉しむという範囲を超えるものと危惧された。
 しかし、今問題となっている性的表現の問題は、どうもそういった旧来のポルノ論ではなく、公的な広告や一般の人の目に触れる空間で、性的表現に類するものを、あまり意識もせずに垂れ流しているのではないか、それが女性の身体セクシャリティを過剰に強調していることに無自覚な製作者側の意識が問われることだ。そのことは、ぼくも気になる表現を目にして問題だと思う。ただ、ネット画像が氾濫する現在、ではどういう形で規制するのか、という厄介な問題がある。

「耕論: 性的表現の自由と規制 性的なコンテンツにも、表現の自由はある。ただ、公共の場や多くの人が目にする広告でも、一概にその自由が認められるのだろうか。性的表現の自由と規制の在り方を考える。
法の制約は 必要最小限に 志田陽子さん 憲法学者
 「性的な表現の自由」と「規制」のそれぞれを求める人たちの論争は古くからありました。そして、かつて「表現の自由」を訴えるのは表現者だった。ところがSNSによって直接利害関係のない人たちの声が目立つようになりました。
 日本にはわいせつな文書などの頒布を禁じる刑法175条が存在します。この条文をめぐって「憲法違反」という議論があります。規制に対して、法律家や、人権や自由を重視する立場の市民が問題視する動きもありました。しかし今は、人権への理解がある人が、逆に表現を規制する側になってきている。悪質ないじめや暴力、差別を受けてきた人にとっては、表現の自由を盾にした「いじめの自由」とも映ります。実際、そうしたいじめは起きてきました。
 こうした懸念から生まれる規制の中には、正当なものもあります。例えば、ヘイトスピーチへの法規制は「表現の自由」ときわどい緊張関係に立つため、当初は法学者の間でも否定的な議論が優勢でしたが、今は、「表現の自由の侵害とまではいえない」という共通認識に立ち、不用意な制約にならないように要件や運営をしっかり絞ろうという議論に向っています。
 しかしそもそも、性的表現に対する規制は刑法175条によるべきなのでしょうか。法律で一律に「わいせつ」を規制するのではなく、原則は自由とし、悪質なものや実害を生むものは裁判や市民の声によって淘汰していくのが理想的な形です。
 それでは克服できないので法律の規制が必要だという場合には、実害を生む表現に絞って規制対象とすべきです。そこがあいまいなまま、発信力のある人や研究者などが「削除するまで許さない」と権力性を帯びた抗議をするのは、言論の自由が許容する範囲を超えており、危険です。
 表現既成のあるべき姿は「良心的な歯医者さん」です。虫歯があったら「歯があるから虫歯になる」とごっそり抜くのでなく、抜いたり削ったりするのは必要最小限にとどめる。ある表現によって実害を受ける人があれば救済し、どうしても必要な時な最小限の規制をする。今は「問題になったら謝って削除」で終わりになりがちですが、それは萎縮を生む方向になってしまいます。その先の議論をするために、表現者の側も「なぜこの表現なのか」を説明できるような心づもりが必要でしょう。 (聞き手・田中聡子)」朝日新聞2023年10月17日朝刊15面、オピニオン欄。

 いわゆる「萌え」「おたく好み」の2次元画像は、ネットをはじめそこらじゅうに溢れている。それらはどれも目のおおきな少女が、セクシャルな身体を不自然なまでに強調されて描かれており、描いているひとたちと、それを好む(たぶん多くは男)ファンにとっては、現実の女性を超えた「かわいい女の子」の偶像と見ているのだろう。しかし、多くの女性たちにとっては、やや気味の悪い画像でもあり、このような画像は
見たくないと思う人も少なからずいるはずだ。問題は、これを悪しきものと思う感性もあるということに、男たちの多くが気がついていないことにあると思う。
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