A.市民の好み
イタリアはローマ教会の本拠バチカンがある場所だけれど、中世以来多くの小国に別れていたのはドイツと同様で、統一国家の形になるのは19世紀のガリバルディによる統一運動が成功する1860年までかかった。フィレンツェは中部のトスカナ地方の中心都市で、ここで触れられている初期ルネサンスの時代は、メディチ家が本拠を置く共和国だった。いちおう王様が君臨する王国ではないということで、メディチ家の力は近隣と戦争を繰り返すだけの勢力をもっていたが、王様貴族がやりたい放題という体制ではなく、町の運営には選ばれた市民の意向を尊重しなければならなかったという。この市民の好みは、彫刻や絵画や建築など町の主要な教会や施設の建設に強く反映された。教会や邸宅は職人工房の手で念入りに作られ、そこには多くの彫刻や絵画、工芸品が飾られた。それは今も残っている、ということが偉大なるルネサンスの遺産としてイタリアが誇るのも当然だろう。しかし、それがつくられた時の事情は、いろいろあったようだ。
「ブルネレスキ、ドナテルロ、マサッチオによって創始されたフィレンツェ芸術の新しい様式は、十五世紀の中頃には、すでにそれぞれの領域で、次の世代に受け継がれていった。しかしその継承のしかたは、必ずしもこれら創始期の巨匠たちの当初の意図をそのまま発展させたものではなかった。それどころか、ドナテルロに対する一種の反発の例に見られるように、時には新様式に対するはっきりした抵抗すら見られたし、そうでない場合にしても、彼らのように強く独創的な芸術家たちの生み出した様式は、たとえ最も忠実な後継者によって受け継がれた場合でも、何らかの変貌を受けないわけにはいかなかった。しかも、新しい芸術の出発点となったこれら三人の巨匠たちの場合は、同時代のギベルティやルカ・デルラ・ロッピアのように、殷賑をきわめた広大なアトリエを配下に持っているというわけではなく、三人とも多かれ少なかれ孤立した存在であったために、いっそう一般の人びとからかけ離れてしまうという状況にあった。
しかしそれと同時に、これほどまで強い表現力と衝撃的な新しさをもった芸術様式が、そのまま忘れられてしまうこともむろんありえなかった。それは、フィレンツェにおいてのみならず、やがてはイタリア全体に大きな影響を与え、十六世紀の古典主義の成立をもたらすはずのものであった。十五世紀後半のイタリアの諸都市の芸術活動の基本的課題をひとくちに定義するなら、それはフィレンツェによって与えられた新様式の衝撃をどのように受けとめるかということにあったと言ってよいであろう。いわば、1420年代のフィレンツェによって投じられた新様式は、大きな波紋を描いてイタリアの他の地方に広がってゆき、それぞれの場所で既成の様式と干渉しあいながら、やがて多くの天才たちの活動によって増幅されて盛期ルネサンスの古典主義にまで結晶してゆくのである。
ところが、大変興味深いことには、その古典主義芸術が成立するのは、新様式の出発点であったフィレンツェにおいてではなくて、競争相手のローマにおいてなのである。逆にいえばフィレンツェは、他の諸都市に先がけて新しい芸術の芽を育てながら、ついにその成果を実らせることはできなかった。そこに十五世紀フィレンツェの人びとの受け取り方にあった。
たとえば、彫刻におけるギベルティの人気と、それにともなう優美な様式の流行は、多くの極めて美しい作品を生み出しはしたものの、結局ヴェロッキオやポライウオーロの持っていた厳しい面を、フィレンツェでは発揮させることなく終わったし、ミケランジェロについてすらほぼ同様のことが言えるのである。彼らのなかにあった力強い造形表現の理念を実現させたのは、フィレンツェではなくて、ヴェネツィアやローマだったのである。
そのことは、多かれ少なかれ絵画や建築についてもあてはまる。ミケロッツォは建築の上でブルネレスキの原理を受け継ぎながら、それを一般市民の趣味に適したように通俗化させたし、マサッチオの力強い厳格な人間表現は、次第に甘美な色彩と描線の魅力にとって代わられるようになった。このような変貌をともないながら、十五世紀後半のフィレンツ美術は、なお数多くの傑作を生み出し続けてゆくのである。
宮殿と別荘
東方世界におけるメディチ家の代理人であったベネデット・デイという人物が1472年に書き記した『年代記』(未公刊)によれば、当時のフィレンツェには、「金や銀やビロードやダマスク織物の飾りに満ちた」百八の素晴らしい教会のほかに、行政府のための23の宮殿(パラッツォ)と、コジモとロレンツォの二人のメディチ家の当主をはじめとして、みな建築に対して強い情熱を抱いていた。造形芸術に対してはかなり冷淡であったロレンツォ豪華王ですら、花の聖母マリア大聖堂の西側正面部の造営を企て、フィレンツェ郊外のカレッジの別荘の改修や、ポッジオ・ア・カヤーノの別荘の建設には進んで熱意を示した。
この時代のフィレンツェ建築の大きな特色は、中世以来、建築の主要なテーマであった宗教建築と並んで、新しいタイプの世俗建築をいちじるしく発達させたことである。活発な商業活動によって築き上げられた富の基礎の上に、市民たちは、決して派手とは言えないにしても、堂々たるたたずまいを見せる壮大な住居をうち建てたのである。特に富裕な大商人たちのあいだでは、パラッツォ(宮殿)とよばれる大規模な邸宅と、ベネデット・デイのいわゆる「町の城壁の外の宮殿」すなわち休息のための別荘とを造営する趣味が広く一般的であった。当時のフィレンツェの年代記作者の記録によれば、1450年から1478年までのあいだに、この花の都で、30をくだらない数の宮殿が建てられたという。
このような世俗建築の様式を確立したのは、フィレンツェ生まれの建築家ミケロッツォ・ディ・バルトロメオ(1396―1472)である。ギベルティの弟子であり、ドナテルロの協力者であったミケロッツォは、ブルネレスキと同じように、最初は彫刻家として出発し、中年を過ぎてから建築に転じた。しかし、ブルネレスキより一世代近く遅れてやってきた彼は、「新様式」の創造者であるよりも、ブルネレスキの生み出した「新様式」をやや通俗化させながら、当時のフィレンツェ市民の趣味に適合させるという、いわば啓蒙的継承者の役割を果たした。彼は、ブルネレスキの創意を受け継ぎながら、この時代のフィレンツェ特有の宮殿建築の様式を生み出したのである。
ブルネレスキは、大聖堂の大円蓋建設作業を指揮しながら、1440年にピッティ宮殿のための計画案を作り上げた。それは、表面の磨いていない粗石を積み上げ、思い切って水平性を強調した三階建ての建物で、不規則な凸面部を見せる粗石積みの構造という点で十四世紀の遺産を受け継ぎながら、質実な力強さと、主要な開口部である窓の意匠によって「新様式」の誕生を告げていた。類似のプランは、当時自家のための宮殿建築を企てていたコジモ・デ・メディチのもとにも提出されたが、さすがのコジモも、その大胆な表現に驚いて、その計画案を採用する決心がつかなかった。そしてその四年後、お気に入りのミケロッツォのプランを採用して、十五年がかりで、現在も残っているラルガ街のメディチ家宮殿を建てさせたのである。(その後、この宮殿は十七世紀に増築されて、リッカルディ宮殿となった。
コジモの気に入ったミケロッツォの計画案は、粗石組みの三層の建物という点ではブルネレスキの原理を受け継いでいたが、全体のプランは中央に中庭のある正方形で、外壁の粗石の表面は上層に行くほど平らとなり、最上階ではほとんど完全になめらかな平面となって、その上に古代風の軒蛇腹が庇のように大きく突き出しているという、しゃれたおとなしいものであった。ミケランジェロの優れた創意が発揮されたのはむしろ中庭のあつかいで、そこは入口を除く三方がアーチの連続を円柱で支える柱廊形式になっており、その上に古代風のメダイヨン装飾を配した幅の広いフリーズ状の装飾帯があり、二階部分は外側正面部と同じ半円形アーチでまとめられた双子窓を繰り返すという方式が採用されていた。その結果、全体としてブルネレスキの大胆な力強さよりも、むしろ器用なまとまりを示す表現となったが、おそらくその点こそが、メディチ家の当主に好ましく思われたのである。
ミケロッツォの手になるこのメディチ宮殿の様式は、その後のフィレンツェの宮殿建築のいわば原型となり、共和国政府の本拠でもあった政庁舎パラッツオ・ヴェッキオの中庭を、同じようなやり方で改修する工事がミケロッツォにゆだねられている事実は、彼の生み出したこの形式が当時のフィレンツェ市民たちにいかに好まれたかをよく物語っている。(ただしこの中庭は、十六世紀の中葉にさらに改修され、特に円柱の部分に豊麗な浮彫装飾が加えられた。)
この種の宮殿建築の中でも、もっとも洗練された見事な表現を見せているのは、ジュリアーノ・ダ・マヤーノ(1432-90)とクロナカ(本名シモーネ・デル・ポライウオーロ)(1457-1508)の協力によって建てられたストロッツィ宮殿である。1489年から1507年まで、十八年間にわたって造営されたこの建物は、十五世紀フィレンツェのバラック建築のひとつの到達点といってもよい。
一方ピッティ家は、ブルネレスキの当初の計画案を採用して造営工事を開始したが、ブルネレスキの存命中には完成せず、その五十六世紀にアンナマーティによって、やや修正を受けながら完成された。このピッティ宮殿が現在ではフィレンツェの誇る美術館になっていることは広くられているとおりである。
宮殿が町の中心に位置する邸宅であり、公的な生活の舞台であるとすれば、別荘は町の喧騒を離れた憩いの家であり、高尚な趣味と清遊の場であった。ロレンツォ豪華王は、その晩年、相次ぐ政治的、経済的危機に対処する多忙な生活の合間をぬって郊外の別荘に遊ぶのを楽しみとしており、1492年の手紙の中では、もはや完全に公的生活から引退して、フィエーゾレの丘にある別荘に引きこもりたいという希望すら洩らしている。
このフィエーゾレの別荘は、ラルガ街の宮殿と同じくミケロッツォの設計になるもので、詩人のポリツィアーノや、哲学者のピコ・デルラ・ミランドーラのようなロレンツォの保護を受けたユマニストたちが好んで訪れたところであるが、現在ではすっかり変わってしまって昔日の面影をまったく残していない。
フィレンツェの北東に位置するこのフィエーゾレの丘は、かつてボッカチオがペストを逃れて『デカメロン』を執筆するために引きこもったと伝えられる別荘のあったところで、別荘地としてきわめて適したところであった。マルシリオ・フィチーノは、1488年の秋、友人のピコ・デルら・ミランドーラとこの丘に散策した時の模様をヴェローリに宛てて書き送っているが、その手紙の中で、このような地こそ理想の別荘にふさわしいとして、次のように述べている。
「‥‥‥われわれは、この丘の斜面に、北からの冷たい霧は完全にこれを遮断し、といって暖かい日の微風はこれを充分に受けとめることができるために、すっかり盆地の底にうずまってはしまわないような具合に、一軒の家があればよいと考えました。われわれの考えたところでは、その家は野原からも森からも同じぐらいの距離にあり、泉にとりかこまれていて、アリストテレスがその家庭論の中で建築について総助言しているように、南東の方向に面しているのが望ましいと思われました‥‥‥」
この一節からも明らかなように、当時のユマニストたちにとっては、別荘の位置や周囲の地形が建物そのものに劣らず重要であった。ジェノヴァで生まれ、ヴェネツィアとパドヴァで学び、ローマとフィレンツェで活躍した「万能の天才」のひとり、レオン・バティスタ・アルベルティ(1404-72)も、その浩瀚な『建築論』(1485年頃より公刊)において、建物の位置やとくに庭園との関係が建築そのものの諸法則よりも一層重要であると説いている。ローマ時代の建築家ヴィトルヴィウスの『建築の書』は、同じく彼の手になる『絵画論』(1435年刊)とともに、世紀の後半に大きな影響力を持ったものであるが、住居と環境との関係、およびとくに庭園の重要性の強調は、当時のフィレンツェ人たちの趣味とも一致していた。フィエーゾレの別荘と同じく、ユマニストたちの集まる場所は、多かれ少なかれ豊麗な緑と結びついていたのである。
その最も良い例は、やはりフィレンツェ郊外のカレッジにあったメディチ家の別荘である。もともとこの別荘は、ゴシック時代の農園であって、コジモ・デ・メディチが追放からもどって後買い求め、ミケロッツォに命じて改修させたものである。したがって建物自体は新しい造営ではないが、しかしゴシック時代の余計な装飾を取り除いて単純な比例関係の組合せによる調和の美を実現したミケロッツォの巧みな改修は、1459年にこの別荘を訪れた教皇ピウス二世をして、全イタリアの中でも最も美しい住居のひとつと感嘆させたほどであった。
ピウス二世をとくに魅了したのは、小さいながら豊富な草花や樹木をもったその庭園であった。祖父コジモの後を受けて、ロレンツォ豪華王もこのカレッジの庭園を愛し、できるかぎり手をつくして珍しい植物を集め、一種の植物園といってよいものを作り上げた。メディチ家と親しかったユマニストのひとりは、1480年頃の手紙のなかで、「戦の女神ミネルヴァに捧げられた橄欖樹、ヴィーナスに捧げられたミルテの樹、ジュピターに捧げられた樫の樹」をはじめ、ポプラ、プラタナス、松等の樹木からバラ、ジャスミン等、はっきりした目的にもとづいて栽培されているものにいたるまで、この庭の植物の種類を数え上げて、これこそ古代世界の七不思議にも比較しうるものと語っている。ボッティッチェルリの《春》の画面を飾る様々の美しい草花は、この庭園で写したものであると言われている。」高階秀爾「フィレンツェ 初期ルネサンス美術の運命」中公新書、1966.pp.128-137.
フィレンツェ郊外のこのフィエーゾレの別荘は、いまも高級別荘地帯として有名で、金持ち日本人にも別荘や結婚式場として人気なのだという。そんなことまだやってんのかな。
B.チャットGPT体験
AIの書く文章がそれなりに、ちゃんと読める文章になってきたのは最近のことはいえ、さすがに古今の名文からトリセツマニュアルまで、膨大なデータを仕込んでいれば恰好はつくのだろう。でも、それで書いた文章がどれほどの価値を生むか、そもそも価値ある文章とはいかなるものか、ゲーテまで遡って考えている。この記事、ゲーテはいいとしても、家康まで連想するのはちょっと違うと思うけど…。
「パクリの効用 主筆 小出 宣昭
呼べば答える「おしゃべりコンピューター」のチャットGPTなるものを初めて使ってみた。ネット上にあふれる数千億の文章を学習し、それを的確に組み合わせて答えるだけに、その優れぶりは驚くほかない。
社会問題、新聞の将来などなんでもござれだが「ガールフレンドはいますか」と聞いたら「いません。私はAIの存在ですから、異性への感情などは持っていないのです」。「人生の青春とか老後について」にも「そういう感性にかかわることは分かりません」。ほっとした。
やはり、人間とは決定的に違う存在なのだ。ただ、彼らが使う材料は過去に誰かが書いた文章ばかりである。当然、独創性はなく、著作権に関わったり、情報の真偽が問われたりする問題は出てくるだろう。全身、これパクリの頭脳というべきか。
文学作品の中に他人の文章を盗用する、いわゆるパクリの問題は昔からあるが、19世紀のドイツで議論が白熱した。最近の作品には独創性がなく、シェークスピアの描写をそっくりパクったり、旧約聖書や古代ギリシャのホメロスにまで盗用が広がっているetc.
そこへ、文豪ゲーテがこう一石を投じた。「独創性とはいったい何だろうか。私たちは生まれてからさまざまな人々の影響を受けて育ち、君たちが話しているドイツ語だって君たちのオリジナルかい。家族や友人、さまざまな書物、先輩や後輩などからの発想の仕方、表現の方法などを学んで育ってくるのだ。他人から学んだものをすべてはがし、心のオリジナリティ―を求めるなら、それは君の情熱と意欲しかないだろう」(ゲーテとの対話)
唐突だが、独創性を排し、過去や他人の知恵をとことん重んじたのは、徳川家康である。独創性の塊みたいな信長、ひらめきで生きる秀吉とは違い、家康はぱくりと模倣に生きた。
まず、新しいものには手をださない。珍しきものとして11月に桃が届いたが、時節はずれは食せずとして家康は一つも食べず、すべて家来にやってしまった。安土桃山を彩った茶の湯や南蛮文化も興味なく、ひたすら武田信玄の軍法をパクりまくった。面白みがない英雄だが、一番安定し、長持ちした保守の権現さまである。」東京新聞2023年10月31日朝刊、6面総合欄、風来語。
イタリアはローマ教会の本拠バチカンがある場所だけれど、中世以来多くの小国に別れていたのはドイツと同様で、統一国家の形になるのは19世紀のガリバルディによる統一運動が成功する1860年までかかった。フィレンツェは中部のトスカナ地方の中心都市で、ここで触れられている初期ルネサンスの時代は、メディチ家が本拠を置く共和国だった。いちおう王様が君臨する王国ではないということで、メディチ家の力は近隣と戦争を繰り返すだけの勢力をもっていたが、王様貴族がやりたい放題という体制ではなく、町の運営には選ばれた市民の意向を尊重しなければならなかったという。この市民の好みは、彫刻や絵画や建築など町の主要な教会や施設の建設に強く反映された。教会や邸宅は職人工房の手で念入りに作られ、そこには多くの彫刻や絵画、工芸品が飾られた。それは今も残っている、ということが偉大なるルネサンスの遺産としてイタリアが誇るのも当然だろう。しかし、それがつくられた時の事情は、いろいろあったようだ。
「ブルネレスキ、ドナテルロ、マサッチオによって創始されたフィレンツェ芸術の新しい様式は、十五世紀の中頃には、すでにそれぞれの領域で、次の世代に受け継がれていった。しかしその継承のしかたは、必ずしもこれら創始期の巨匠たちの当初の意図をそのまま発展させたものではなかった。それどころか、ドナテルロに対する一種の反発の例に見られるように、時には新様式に対するはっきりした抵抗すら見られたし、そうでない場合にしても、彼らのように強く独創的な芸術家たちの生み出した様式は、たとえ最も忠実な後継者によって受け継がれた場合でも、何らかの変貌を受けないわけにはいかなかった。しかも、新しい芸術の出発点となったこれら三人の巨匠たちの場合は、同時代のギベルティやルカ・デルラ・ロッピアのように、殷賑をきわめた広大なアトリエを配下に持っているというわけではなく、三人とも多かれ少なかれ孤立した存在であったために、いっそう一般の人びとからかけ離れてしまうという状況にあった。
しかしそれと同時に、これほどまで強い表現力と衝撃的な新しさをもった芸術様式が、そのまま忘れられてしまうこともむろんありえなかった。それは、フィレンツェにおいてのみならず、やがてはイタリア全体に大きな影響を与え、十六世紀の古典主義の成立をもたらすはずのものであった。十五世紀後半のイタリアの諸都市の芸術活動の基本的課題をひとくちに定義するなら、それはフィレンツェによって与えられた新様式の衝撃をどのように受けとめるかということにあったと言ってよいであろう。いわば、1420年代のフィレンツェによって投じられた新様式は、大きな波紋を描いてイタリアの他の地方に広がってゆき、それぞれの場所で既成の様式と干渉しあいながら、やがて多くの天才たちの活動によって増幅されて盛期ルネサンスの古典主義にまで結晶してゆくのである。
ところが、大変興味深いことには、その古典主義芸術が成立するのは、新様式の出発点であったフィレンツェにおいてではなくて、競争相手のローマにおいてなのである。逆にいえばフィレンツェは、他の諸都市に先がけて新しい芸術の芽を育てながら、ついにその成果を実らせることはできなかった。そこに十五世紀フィレンツェの人びとの受け取り方にあった。
たとえば、彫刻におけるギベルティの人気と、それにともなう優美な様式の流行は、多くの極めて美しい作品を生み出しはしたものの、結局ヴェロッキオやポライウオーロの持っていた厳しい面を、フィレンツェでは発揮させることなく終わったし、ミケランジェロについてすらほぼ同様のことが言えるのである。彼らのなかにあった力強い造形表現の理念を実現させたのは、フィレンツェではなくて、ヴェネツィアやローマだったのである。
そのことは、多かれ少なかれ絵画や建築についてもあてはまる。ミケロッツォは建築の上でブルネレスキの原理を受け継ぎながら、それを一般市民の趣味に適したように通俗化させたし、マサッチオの力強い厳格な人間表現は、次第に甘美な色彩と描線の魅力にとって代わられるようになった。このような変貌をともないながら、十五世紀後半のフィレンツ美術は、なお数多くの傑作を生み出し続けてゆくのである。
宮殿と別荘
東方世界におけるメディチ家の代理人であったベネデット・デイという人物が1472年に書き記した『年代記』(未公刊)によれば、当時のフィレンツェには、「金や銀やビロードやダマスク織物の飾りに満ちた」百八の素晴らしい教会のほかに、行政府のための23の宮殿(パラッツォ)と、コジモとロレンツォの二人のメディチ家の当主をはじめとして、みな建築に対して強い情熱を抱いていた。造形芸術に対してはかなり冷淡であったロレンツォ豪華王ですら、花の聖母マリア大聖堂の西側正面部の造営を企て、フィレンツェ郊外のカレッジの別荘の改修や、ポッジオ・ア・カヤーノの別荘の建設には進んで熱意を示した。
この時代のフィレンツェ建築の大きな特色は、中世以来、建築の主要なテーマであった宗教建築と並んで、新しいタイプの世俗建築をいちじるしく発達させたことである。活発な商業活動によって築き上げられた富の基礎の上に、市民たちは、決して派手とは言えないにしても、堂々たるたたずまいを見せる壮大な住居をうち建てたのである。特に富裕な大商人たちのあいだでは、パラッツォ(宮殿)とよばれる大規模な邸宅と、ベネデット・デイのいわゆる「町の城壁の外の宮殿」すなわち休息のための別荘とを造営する趣味が広く一般的であった。当時のフィレンツェの年代記作者の記録によれば、1450年から1478年までのあいだに、この花の都で、30をくだらない数の宮殿が建てられたという。
このような世俗建築の様式を確立したのは、フィレンツェ生まれの建築家ミケロッツォ・ディ・バルトロメオ(1396―1472)である。ギベルティの弟子であり、ドナテルロの協力者であったミケロッツォは、ブルネレスキと同じように、最初は彫刻家として出発し、中年を過ぎてから建築に転じた。しかし、ブルネレスキより一世代近く遅れてやってきた彼は、「新様式」の創造者であるよりも、ブルネレスキの生み出した「新様式」をやや通俗化させながら、当時のフィレンツェ市民の趣味に適合させるという、いわば啓蒙的継承者の役割を果たした。彼は、ブルネレスキの創意を受け継ぎながら、この時代のフィレンツェ特有の宮殿建築の様式を生み出したのである。
ブルネレスキは、大聖堂の大円蓋建設作業を指揮しながら、1440年にピッティ宮殿のための計画案を作り上げた。それは、表面の磨いていない粗石を積み上げ、思い切って水平性を強調した三階建ての建物で、不規則な凸面部を見せる粗石積みの構造という点で十四世紀の遺産を受け継ぎながら、質実な力強さと、主要な開口部である窓の意匠によって「新様式」の誕生を告げていた。類似のプランは、当時自家のための宮殿建築を企てていたコジモ・デ・メディチのもとにも提出されたが、さすがのコジモも、その大胆な表現に驚いて、その計画案を採用する決心がつかなかった。そしてその四年後、お気に入りのミケロッツォのプランを採用して、十五年がかりで、現在も残っているラルガ街のメディチ家宮殿を建てさせたのである。(その後、この宮殿は十七世紀に増築されて、リッカルディ宮殿となった。
コジモの気に入ったミケロッツォの計画案は、粗石組みの三層の建物という点ではブルネレスキの原理を受け継いでいたが、全体のプランは中央に中庭のある正方形で、外壁の粗石の表面は上層に行くほど平らとなり、最上階ではほとんど完全になめらかな平面となって、その上に古代風の軒蛇腹が庇のように大きく突き出しているという、しゃれたおとなしいものであった。ミケランジェロの優れた創意が発揮されたのはむしろ中庭のあつかいで、そこは入口を除く三方がアーチの連続を円柱で支える柱廊形式になっており、その上に古代風のメダイヨン装飾を配した幅の広いフリーズ状の装飾帯があり、二階部分は外側正面部と同じ半円形アーチでまとめられた双子窓を繰り返すという方式が採用されていた。その結果、全体としてブルネレスキの大胆な力強さよりも、むしろ器用なまとまりを示す表現となったが、おそらくその点こそが、メディチ家の当主に好ましく思われたのである。
ミケロッツォの手になるこのメディチ宮殿の様式は、その後のフィレンツェの宮殿建築のいわば原型となり、共和国政府の本拠でもあった政庁舎パラッツオ・ヴェッキオの中庭を、同じようなやり方で改修する工事がミケロッツォにゆだねられている事実は、彼の生み出したこの形式が当時のフィレンツェ市民たちにいかに好まれたかをよく物語っている。(ただしこの中庭は、十六世紀の中葉にさらに改修され、特に円柱の部分に豊麗な浮彫装飾が加えられた。)
この種の宮殿建築の中でも、もっとも洗練された見事な表現を見せているのは、ジュリアーノ・ダ・マヤーノ(1432-90)とクロナカ(本名シモーネ・デル・ポライウオーロ)(1457-1508)の協力によって建てられたストロッツィ宮殿である。1489年から1507年まで、十八年間にわたって造営されたこの建物は、十五世紀フィレンツェのバラック建築のひとつの到達点といってもよい。
一方ピッティ家は、ブルネレスキの当初の計画案を採用して造営工事を開始したが、ブルネレスキの存命中には完成せず、その五十六世紀にアンナマーティによって、やや修正を受けながら完成された。このピッティ宮殿が現在ではフィレンツェの誇る美術館になっていることは広くられているとおりである。
宮殿が町の中心に位置する邸宅であり、公的な生活の舞台であるとすれば、別荘は町の喧騒を離れた憩いの家であり、高尚な趣味と清遊の場であった。ロレンツォ豪華王は、その晩年、相次ぐ政治的、経済的危機に対処する多忙な生活の合間をぬって郊外の別荘に遊ぶのを楽しみとしており、1492年の手紙の中では、もはや完全に公的生活から引退して、フィエーゾレの丘にある別荘に引きこもりたいという希望すら洩らしている。
このフィエーゾレの別荘は、ラルガ街の宮殿と同じくミケロッツォの設計になるもので、詩人のポリツィアーノや、哲学者のピコ・デルラ・ミランドーラのようなロレンツォの保護を受けたユマニストたちが好んで訪れたところであるが、現在ではすっかり変わってしまって昔日の面影をまったく残していない。
フィレンツェの北東に位置するこのフィエーゾレの丘は、かつてボッカチオがペストを逃れて『デカメロン』を執筆するために引きこもったと伝えられる別荘のあったところで、別荘地としてきわめて適したところであった。マルシリオ・フィチーノは、1488年の秋、友人のピコ・デルら・ミランドーラとこの丘に散策した時の模様をヴェローリに宛てて書き送っているが、その手紙の中で、このような地こそ理想の別荘にふさわしいとして、次のように述べている。
「‥‥‥われわれは、この丘の斜面に、北からの冷たい霧は完全にこれを遮断し、といって暖かい日の微風はこれを充分に受けとめることができるために、すっかり盆地の底にうずまってはしまわないような具合に、一軒の家があればよいと考えました。われわれの考えたところでは、その家は野原からも森からも同じぐらいの距離にあり、泉にとりかこまれていて、アリストテレスがその家庭論の中で建築について総助言しているように、南東の方向に面しているのが望ましいと思われました‥‥‥」
この一節からも明らかなように、当時のユマニストたちにとっては、別荘の位置や周囲の地形が建物そのものに劣らず重要であった。ジェノヴァで生まれ、ヴェネツィアとパドヴァで学び、ローマとフィレンツェで活躍した「万能の天才」のひとり、レオン・バティスタ・アルベルティ(1404-72)も、その浩瀚な『建築論』(1485年頃より公刊)において、建物の位置やとくに庭園との関係が建築そのものの諸法則よりも一層重要であると説いている。ローマ時代の建築家ヴィトルヴィウスの『建築の書』は、同じく彼の手になる『絵画論』(1435年刊)とともに、世紀の後半に大きな影響力を持ったものであるが、住居と環境との関係、およびとくに庭園の重要性の強調は、当時のフィレンツェ人たちの趣味とも一致していた。フィエーゾレの別荘と同じく、ユマニストたちの集まる場所は、多かれ少なかれ豊麗な緑と結びついていたのである。
その最も良い例は、やはりフィレンツェ郊外のカレッジにあったメディチ家の別荘である。もともとこの別荘は、ゴシック時代の農園であって、コジモ・デ・メディチが追放からもどって後買い求め、ミケロッツォに命じて改修させたものである。したがって建物自体は新しい造営ではないが、しかしゴシック時代の余計な装飾を取り除いて単純な比例関係の組合せによる調和の美を実現したミケロッツォの巧みな改修は、1459年にこの別荘を訪れた教皇ピウス二世をして、全イタリアの中でも最も美しい住居のひとつと感嘆させたほどであった。
ピウス二世をとくに魅了したのは、小さいながら豊富な草花や樹木をもったその庭園であった。祖父コジモの後を受けて、ロレンツォ豪華王もこのカレッジの庭園を愛し、できるかぎり手をつくして珍しい植物を集め、一種の植物園といってよいものを作り上げた。メディチ家と親しかったユマニストのひとりは、1480年頃の手紙のなかで、「戦の女神ミネルヴァに捧げられた橄欖樹、ヴィーナスに捧げられたミルテの樹、ジュピターに捧げられた樫の樹」をはじめ、ポプラ、プラタナス、松等の樹木からバラ、ジャスミン等、はっきりした目的にもとづいて栽培されているものにいたるまで、この庭の植物の種類を数え上げて、これこそ古代世界の七不思議にも比較しうるものと語っている。ボッティッチェルリの《春》の画面を飾る様々の美しい草花は、この庭園で写したものであると言われている。」高階秀爾「フィレンツェ 初期ルネサンス美術の運命」中公新書、1966.pp.128-137.
フィレンツェ郊外のこのフィエーゾレの別荘は、いまも高級別荘地帯として有名で、金持ち日本人にも別荘や結婚式場として人気なのだという。そんなことまだやってんのかな。
B.チャットGPT体験
AIの書く文章がそれなりに、ちゃんと読める文章になってきたのは最近のことはいえ、さすがに古今の名文からトリセツマニュアルまで、膨大なデータを仕込んでいれば恰好はつくのだろう。でも、それで書いた文章がどれほどの価値を生むか、そもそも価値ある文章とはいかなるものか、ゲーテまで遡って考えている。この記事、ゲーテはいいとしても、家康まで連想するのはちょっと違うと思うけど…。
「パクリの効用 主筆 小出 宣昭
呼べば答える「おしゃべりコンピューター」のチャットGPTなるものを初めて使ってみた。ネット上にあふれる数千億の文章を学習し、それを的確に組み合わせて答えるだけに、その優れぶりは驚くほかない。
社会問題、新聞の将来などなんでもござれだが「ガールフレンドはいますか」と聞いたら「いません。私はAIの存在ですから、異性への感情などは持っていないのです」。「人生の青春とか老後について」にも「そういう感性にかかわることは分かりません」。ほっとした。
やはり、人間とは決定的に違う存在なのだ。ただ、彼らが使う材料は過去に誰かが書いた文章ばかりである。当然、独創性はなく、著作権に関わったり、情報の真偽が問われたりする問題は出てくるだろう。全身、これパクリの頭脳というべきか。
文学作品の中に他人の文章を盗用する、いわゆるパクリの問題は昔からあるが、19世紀のドイツで議論が白熱した。最近の作品には独創性がなく、シェークスピアの描写をそっくりパクったり、旧約聖書や古代ギリシャのホメロスにまで盗用が広がっているetc.
そこへ、文豪ゲーテがこう一石を投じた。「独創性とはいったい何だろうか。私たちは生まれてからさまざまな人々の影響を受けて育ち、君たちが話しているドイツ語だって君たちのオリジナルかい。家族や友人、さまざまな書物、先輩や後輩などからの発想の仕方、表現の方法などを学んで育ってくるのだ。他人から学んだものをすべてはがし、心のオリジナリティ―を求めるなら、それは君の情熱と意欲しかないだろう」(ゲーテとの対話)
唐突だが、独創性を排し、過去や他人の知恵をとことん重んじたのは、徳川家康である。独創性の塊みたいな信長、ひらめきで生きる秀吉とは違い、家康はぱくりと模倣に生きた。
まず、新しいものには手をださない。珍しきものとして11月に桃が届いたが、時節はずれは食せずとして家康は一つも食べず、すべて家来にやってしまった。安土桃山を彩った茶の湯や南蛮文化も興味なく、ひたすら武田信玄の軍法をパクりまくった。面白みがない英雄だが、一番安定し、長持ちした保守の権現さまである。」東京新聞2023年10月31日朝刊、6面総合欄、風来語。