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日本は戦争をするのか? 4 軍拡の愚  修復的正義!

2022-11-30 11:33:51 | 日記
A.単純素朴な恐怖の神経症 
 ロシアのウクライナ侵攻はまだ先が見通せないが、日本が北朝鮮や中国から軍事侵攻を受ける可能性はあるだろうか?自衛隊の増強、軍拡を願望する自民党や維新の感情的な議員が、頭の中で考えていることを想像すれば、単純な戦争ゲームの恐怖心からくる神経症的反応だとぼくは思う。
「東アジアの安全保障環境の急速な変化」と安倍晋三氏は繰り返し唱えて、自衛隊の増強を図ってきたが、その基本にあるのは、北朝鮮や中国が核開発や弾道ミサイル配備をすすめ、その気になればいつでも日本のどこへでもミサイルを撃ち込み、尖閣など離島に軍を送って占領することが可能になったということだろうう。これを前提に置くと、日本の安全確保には、これまで「専守防衛」を堅守して、他国に軍事攻撃をする能力も意思も持たないという自衛隊のスタンスを変えなければならない、という結論に至る。しかし、これは軍事的に考えて、あるいは国際政治的に考えて、現実的な想定だろうか?そして、日本に向けてミサイルが発射された場合、それらをすべて日本領土への着弾前に撃ち落とす技術などあるのだろうか?
 それをめざすには、ものすごい莫大な防空体制と予算が必要で、秋田と山口にイージス・アショアを設置するという案が挫折したように、じつは日本ではなくアメリカのハワイやグアムの基地を守るためにやっている疑いが強い。それでも岸田政権は、安倍晋三元首相の遺言だとそれを継承するかのように、軍拡・「敵基地攻撃能力」へと突き進もうとしている。これは、日本にとってきわめて危険な亡国の道というしかない。
 日本がウクライナのように他国の軍事侵攻を受けたら、国民を挙げて防衛戦争をするのだといきり立っている右翼の諸君は、現実の戦争のことなど無知で、歴史的背景も知らない。ウクライナはもとはソ連の構成国で、国内にロシア系住民が多数住んで共生していたから、これを保護するという名目でロシアは侵攻した。でも、日本国内に在日朝鮮・韓国の人たちはいるけれど、この人たちが日本で分離独立運動などしていないし、日本を攻撃占領しようなどと北朝鮮や中国の指導者が考えているとは思えない。そんなことをすれば、アメリカ相手の大戦争を誘発してしまうからだ。ミサイルが日本を襲うことを前提に議論をはじめるのではなく、そんな愚かな恐怖心から敵基地、つまり他国のどこかにミサイルを撃ち込めば、日本が率先して戦争を始めたことになり、国際法違反になるから、そんな事態に極力ならないための努力こそまず考えるべきだろう。
 自衛隊の制服幹部は、もう少し具体的に軍事作戦として有事の際の可能な方策を考えているようで、観念的な政治家よりはずいぶん信用できそうだ。ただ、これは「もし北朝鮮が攻めてきたらどうするか」という机上のシミュレーションにすぎない。そしてその結論は、なかなか意味深い。

 「日本政府が「第二次朝鮮戦争」への備えを検討したのは、1993年から翌94年にかけてのことだった。93年3月、北朝鮮が核拡散防止条約(NPT)からの脱退を表明、米国と北朝鮮との関係が一気に緊迫した。当時寧辺近郊で未申告の核関連施設が発見され、査察を拒否した北朝鮮に米国が経済制裁をちらつかせながら交渉した。核開発を凍結する見返りに、軽水炉建設を支援するなど米朝枠組みが翌94年10月に合意され、一応の危機は去ったのである。
 この間、米国は事態の軟着陸を目指す一方で、北朝鮮を攻撃する計画を立てた。その事実はペリー国防長官(当時)が2007年1月18日の下院外交委員会で証言し、明らかになっている。F117ステルス戦闘機や巡航ミサイルを使って、寧辺の核関連施設を爆撃する計画だった。ペリー氏は当時の状況について、CNNのインタビューに「数日以内に、韓国に展開した兵力を大幅に増強するところまで行っていた」と語っている。
 朝鮮半島で戦争が起きれば、日本にも波及する。1994年春、石原信雄官房副長官はひそかに内閣安全保障室、外務省、防衛庁、警察庁に検討を指示した。防衛庁では陸上、海上、航空の三自衛隊を束ねる制服組のトップ、統合幕僚会議(現統合幕僚監部=統幕)がひそかに一冊の計画書をまとめ上げた。「指定前秘密」の印が押され、いわゆる極秘文書として防衛庁の金庫に保管された。
 文書の名称は「K半島事態対処計画」。横長A4判の文書には流出を防止するため赤インクによる通し番号がすべてのページに押されている。実は、この文書は軍事情勢や法改正にともなって更新され、現在も統合幕僚監部に保管されている。
 統幕の佐官は「北朝鮮はロシアや中国から突き放され、本格的な軍事援助を受けられないでいる。戦力は当時と変わりなく、計画は今でも有効だ」と断言する。米国が再び、北朝鮮を攻撃する機会をうかがう情勢になれば、文書は金庫から取り出され、日の目を見ることになるというのだ。
 ずしりと重い「K半島事態対処計画」は、軍事的な専門用語を駆使して、箇条書きや表を多用して書かれている。自衛隊独特の文体で、軍事知識がない人が読んだら退屈どころか、おそらく理解不能だろう。
 特殊表記の一例をあげると、文書のタイトルになっているK半島というのは朝鮮半島を指す。頻繁に登場する「ABC」とは自国を含む同盟諸国で、「A」は日本、「B」は米国、「C」は韓国のことだ。そして「XYZ」とは敵対国あるいは危険な相手とみなしている国々であり、「X」とは中国、「Y」は北朝鮮、「Z」はロシアを指している。
 これは「自衛隊の創設以来、内部で呼び続けている暗号でもある。防衛計画に暗号を使っていれば、万一、外部に漏れても、特定国を想定した戦争マニュアルではないと申し開きできる。「仮想敵国は存在しない」と言い続けてきた長年の知恵なのだろう。
「K半島事態対処計画」について、前出の幹部はこういう。
「北朝鮮との間でどんな戦い方ができるのか検討した能力見積もりの側面がある。軍事的合理性にもとづく自衛隊の活動を追求していくと、憲法による規制があったり、適用すべき法律そのものがないことが判明した」
 その検討内容は、後の政策に反映されていった。北朝鮮危機から今日までの間、自衛隊の行動を円滑にする方策が次々に打ち出されたことを思い返してほしい。1997年には日米の軍事協力を強化する「日米防衛協力のための指針(新ガイドライン)」が合意され、1999年には朝鮮半島有事を想定した周辺事態法が成立して有事の軍事支援が可能になった。安倍政権下で進む集団的自衛権の行使容認の策動は、周辺事態法で禁じられた米軍の武力行使との一体化を可能にする。その意味では「K半島事態対処計画」の完全なる実施を保証することになる。
 自衛隊幹部は「自衛隊の行動にはさまざまな制約が残っている。いざという時は国会で何とかしてもらわないと……計画実行は不可避なのだから」と強調する。
 もう一度いおう。文書は現役の自衛官たちによって作成された「第二次朝鮮戦争のシュミレーション」なのだ。そして自衛隊は、戦争が波及してくれば、この研究に従って行動する以外に日本が生き延びる道はないと考えている。
 私たちの運命を握る極秘文書をのぞいてみる。分厚い文書の目次には、「研究の目的」「研究の前提」に続いて十二項目の研究内容が並ぶ。
 ①K(朝鮮)半島に関する情報活動の強化、②沿岸、重要防護対象の警備、③K半島情勢にともなう警戒体制の強化、④「黄海から日本海海域における経済制裁、⑤在C(韓国)邦人のエバキュエ―ション(救出)、⑥難民対策、⑦西日本地域におけるTBM(戦域弾道ミサイル)対処、⑧多国籍軍兵士の救難、⑨共同訓練、⓾在A(日本)のB(米国)軍に対する後方等の支援、⑪軍事亡命対策、⑫SLOC(シーレーン=海上交通路)の防護。
 いずれの項目も起こりうる事態を想定し、数量化して具体的に見積もり、これに対処する自衛隊の能力を突き合わせて、結論を出している。全編を貫く縦軸として、北朝鮮のNPT脱退から自衛隊の防衛出動に至るまでの時間の流れを五つの警戒態勢に分類し、時系列つに沿った検討がなされている。
 自衛隊は、北朝鮮による日本侵攻のシナリオをどう見積もっているのだろうか。対日攻撃シナリオは「Y(北朝鮮)の作戦能力」の項目に詳述され、それは意外な言葉から始まっている。
 「潜水艦、小型艦艇、漁船等によるゲリラ・コマンドウ(正規軍の特殊部隊)攻撃能力は有するが、C(韓国)と対峙する状況から対A(日本)作戦に陸上兵力を抽出することは困難。航空機・艦艇の援護能力や経空・経海能力対A着上陸作戦能力はないものとみられる」
 解説すると、北朝鮮による日本攻撃は、韓国との戦争または朝鮮半島の情勢が緊迫した時点で起きるとの前提に立ち、北朝鮮は韓国との戦闘に相当な陸上兵力を割かれるとしている。そうした状況は別にした場合でも航空、海上戦力が脆弱なので北朝鮮に日本を本格侵攻する軍事力は存在しないというのである。
 金正恩第一書記は、故金正日総書記の掲げた、軍隊を重視して強化することを優先する「先軍政治」を継承している。事実、総兵力百十万人という世界有数の軍事国家である。そんな北朝鮮の軍事力が本当に弱いのか、あらためて検証しなければならないだろう。
 朝鮮半島の兵力を比較してみると、韓国には韓国軍の総兵力は68万人、これに在韓米軍の3万6千人が加わり、韓国側の総兵力は合計71万6千人ということになる。数の上では北朝鮮が圧倒しているが、その質はどうなのか。
北朝鮮情勢に詳しい防衛省幹部はこういう。「航空機や戦車の大半は旧式で、今や陳腐化しています。燃料や部品の不足から動かない武器も数多くある」
そればかりではない。95万人いる陸上兵力の三分の二は韓国との国境にある軍事境界線にまるで張りつくように配備されている。韓国との緊張が高まれば高まるほど、軍事境界線から動けないというジレンマを抱えている。
 海軍には約690隻もの艦艇があるが、ロメオ級潜水艦22隻を除けば旧式の艦艇ばかりで見るべきものはない。先制攻撃の切り札となる空軍は、作戦機590機を保有するものの、これも大半は第一世代といわれる旧ソ連製の旧型機である。ミグ29、スホイ25といった第四世代機も保有しているが、いずれも少数だ。
 装備の新旧に関わらず、深刻なのは燃料が不足し、訓練がままならない点にある。1996年5月、北朝鮮空軍の李哲数大尉がミグ19戦闘機を操縦して韓国に亡命した。李大尉は操縦士歴十年のベテランだったが、総飛行時間は350時間でしかなかった。一年に換算すれば、わずか35時間という飛行時間は、航空自衛隊の第一線に立つ戦闘機操縦士が技量を維持するのに必要としている年間150時間の四分の一以下に過ぎない。
 航空自衛隊のベテラン操縦士は「空中戦の訓練ができる飛行時間ではない。離陸したり、着陸したりするだけで精一杯だろう」という。すると戦闘機は張り子のトラということになる。
 使えない、動かない、というないない尽くしの中で、注目すべきは、十万人という世界に例をみない大規模な特殊部隊の存在である。非合法の情報収集や破壊工作に携わる専門部隊で、潜入に使う小型潜水艇やエアクッション揚陸艇、レーダーに映らない木製のアントノフ2輸送機を百機以上、保有している。
 別の航空自衛隊の操縦士は「アントノフが特殊部隊を乗せて一斉に日本を目指したら、頼りになるのは自分の目だけ。何機かは撃ち漏らし、特殊部隊の潜入を許すことになるかも知れない」と“ローテク兵器”の脅威を話す。
 ノドンやテポドンといった弾道ミサイルも見逃せない。九州北部と中国地方を射程に収めるスカッドCは配備済み。ノドンは射程1300キロで日本全域を射程に収める。98年に日本列島を飛び越え、大騒ぎになったテポドン一号は射程2000キロとさらに長い。
 こんな北朝鮮が日本攻撃に踏み切るとしたら、どのような戦闘様相となるのか。
「Yの作戦能力」は、陸上戦力として「一個軽歩兵旅団を指向できる」と書いている。軽歩兵旅団は、約一万人からなる歩兵部隊で、小銃のほか、機関銃や迫撃砲などで武装しているとみられる。輸送機から落下傘で降下するのか、海から上陸するのか潜入の手口までは特定していないが、想定される行動として文書は「主要港湾施設や水中固定機器の破壊活動」を挙げている。
 水中固定機器とは海上自衛隊が日本列島の沿岸や対馬、津軽など主要海峡の海底に設置している音響監視システム(SOSUS)のことである。海上自衛隊は、警備所と呼ばれる海に近い施設でSOSUSが拾った船舶ごとに異なる“音紋”と呼ばれるスクリュー音を分析し、どの船舶やどの潜水艦が、いつどこを通過したのか航行状況をひそかに記録している。
 海からの不法侵入を見張る防犯装置ともいえる機器が破壊されたらどうなるのか。工作船に乗った特殊部隊の上陸が格段に容易になるし、潜水艦の行方もつかめなくなる。特殊部隊が港湾施設を次々に破壊して船舶の入港を妨害したり、潜水艦が魚雷で輸送船を次々に撃沈したりする事態になれば、食料品や原油の輸入がストップし、国内がパニック状態に陥るのは必至だろう。
 十五万人の陸上自衛隊に対し、一万人という少ない兵員でも効果的に戦う方法を北朝鮮軍は承知している、というのが自衛隊の分析といえる。
 海上兵力について、「Yの作戦能力」は「艦艇は主として防御的性格を有し、その行動は、K半島周辺に限定されているとみられ、外洋作戦能力はまだ低い」としながらも、「潜水艦約十隻のほか、少数の小型艦艇を指向できる」としている。
 予想される作戦行動としては「港湾外域における機雷敷設、潜水艦などによる船舶攻撃」を挙げる。
 さらに航空兵力をみると「爆撃機及び戦闘機の一部が西A(日本)の一部目標に対し、限定された攻撃能力を有する」と分析、具体的には「軽爆撃機約65機、戦闘機訳125機を指向できる」とし、そうした航空機の任務は、やはり「重要船舶・施設などに対する攻撃・航空機による機雷敷設」としている。
 これらを総合すると、北朝鮮の陸、海、空軍は一致協力して、徹底的に民間船舶の航行を妨害し、日本を兵糧攻めにして孤立させる戦術をとることになる。防衛省関係者は「そんな事態になれば、国内は混乱し、北朝鮮で戦う米軍の支援どころではなくなる。厭戦気分が高まって『米軍がいるから日本が攻撃される』と日米安保条約の破棄を主張する声さえ出かねない」と懸念を示す。
 朝鮮半島で戦端が開かれ、日本攻撃に多くの兵力を回せない北朝鮮軍はテロやゲリラといった非対称戦を挑むのである。具体的には、どの地域のどのような施設が狙われるのだろうか。
 「K半島事態対処計画」はゲリラ攻撃の発生が予想される施設として、日本海に面した九州・中国地方の施設を列挙している。注目されるのは、自衛隊や米軍施設が目立つことだ。北朝鮮からみれば、「敵の出撃拠点」だから当然といえば当然だが、自衛隊はほぼすべての軍事施設が「狙われる」とみている。
 例えば、陸上自衛隊は日本海の最前線でもある対馬の警備隊をはじめ、福岡、大村、山口、出雲など駐屯地十五カ所、海上自衛隊は佐世保、呉、岩国などの基地十四カ所、航空自衛隊はレーダーサイト九カ所、航空基地や対空ミサイルのナイキ(現パトリオット)基地など九カ所を防護対象として挙げ、米軍については沖縄の基地全部と本土の佐世保基地、岩国基地、秋月弾薬庫(広島県)を守る必要があるとしている。
 もちろん民間施設も攻撃目標になる。文書が列記しているのは、九州、中国地方の政治中枢であるすべての県庁と県警本部。ほかに交通施設として関門トンネルや新幹線のトンネル、九州・中国自動車道路、福岡空港などすべての民間空港や北九州港など港湾施設も防護が必要とし、生活関連施設として電気、ガス、石油、電話に関連した発電所、ガス補給所、石油備蓄基地などを挙げている。
 政治中枢が破壊され、交通網が分断されて電気もガスも止まる。徹底的に生活が脅かされる中で、弾道ミサイルが落下してくるのだ。湾岸戦争でイラクが発射したスカッドミサイルの被害から逃れるため、イスラエル国民は防毒マスクを被り、避難した。恐怖に震える国民を守るため、自衛隊は弾道ミサイルへの対抗措置も考えているに違いない。
 ところが、「K半島事態対処計画」に出てくる「西日本地域におけるTBM(戦域弾道ミサイル)対処」の項目では、冒頭で「自衛隊独自で対処することは困難である」とあっさり白旗を上げている。
 射程600キロのスカッドCは北朝鮮南部から発射すれば、七分後には福岡を直撃する。「西日本地域に……」に記述された「探知・撃破能力」によると、ミサイルの噴射熱を探知する米国の早期警戒衛星や、海上自衛隊のイージス護衛艦は八社を探知することはできるものの、肝心の撃破はできないというのだ。
 当時、活用できるのは航空機迎撃に使うパトリオットミサイル(PAC2)のみで、弾道ミサイルの迎撃を想定した武器ではなかった。九州、中国地方の防御に活用できる高射隊を十八個と算定。一個高射隊は五基二十発の発射装置で編成され、弾道ミサイル一発につき、二発のパトリオットを発射する運用になっているから合計百八十発の弾道ミサイルにしか対処できないことになる。
 2003年12月、政府はミサイル防衛システムを米国から導入することを閣議決定した。弾道ミサイルを迎撃する対空ミサイル「PAC3」を導入したが、発射機は全国で32基あるに過ぎない。一方、この間、北朝鮮は日本全国を射程に収めるノドンを本格配備した。どこを目標にするのか、選択権は北朝鮮にある。まずイージス護衛艦から発射する艦対空ミサイル「SM3」で迎撃するとはいえ、撃ち漏らしたらPAC3で迎撃するほかない。
 航空自衛隊幹部は「全国を守るにはPAC3が一千基以上必要になる。それには防衛費がいくらあっても追いつかない」と正直に告白する。日本の防衛システムは実は100%迎撃など望むべくもない「破れ傘」でしかないのである。
 わずかな救いはスカッドCやノドンの弾頭に搭載できる爆薬が五百~七百キロと比較的、小さいこと。落下した場合の被害について、自衛隊幹部は「住宅地に落下したら、破壊されるのはテニスコート一面分程度。ビルなら半壊でしょうか?通常弾頭なら被害はそれほど大きくない」という。しかし、日本には使用済み核燃料棒を補完する原発や関連施設が五十五か所もある。通常弾頭でも命中すれば未曽有の量の放射線に汚染され、日本列島は廃墟と化すだろう。」半田滋『日本は戦争をするのか ―集団的自衛権と自衛隊』岩波新書、2014年。pp.136-148. 

 「K半島事態対処計画」の中身を知ると、ぼくたちが今やるべきなのは、北朝鮮のミサイルを完全に撃ち落とす体制に莫大な予算を投じることなどではなく、「敵基地先制攻撃」などという禁じ手を用意することでもなく、「専守防衛」の原則に徹して、もしいくつかのミサイルが日本のどこかを破壊しても、「テニスコート一面程度」あるいは「ビル半壊程度」だと覚悟して、その次は自衛隊の本来の使命である本土防衛に努め、各地の原発を廃棄することだろう。同時に外交的政治的に国際世論で敵のそれ以上の攻撃を停止させることだろう。
 それには、そもそも北朝鮮がなんでそんな冒険的なことをやるのかを考え、要するに金王朝の政権維持、朝鮮戦争の一方の当事者である自分たちの存続を世界に認めてほしいという以外にないだろう。それには朝鮮戦争を講和で終わらせ、北と南がそれぞれ独立国として国際的に承認される、という妥協が必要だ。隣国日本は、かつての植民地支配の責任からも、この朝鮮半島の平和を実現し、戦争の危機を取り除くことに全力を傾けるべきで、軍拡などもってのほかだと思う。


B.加害者への和解と赦し
 誰かの悪意や過失によって、とりかえしのつかない被害を受けた人がいる。当然、加害者への怒りと恨みが沸き、それは簡単には解消できない。死刑を廃止しようという議論では、つねに被害者のやりきれない感情が持ち出される。でも、加害者への報復・処罰だけでは、結局最終的に次へのステップが踏み出せない。「修復的正義」という言葉は知らなかったが、憎しみと復讐という先には救いがないことは確かで、そこをどう超えるか、が課題になる。

 「生と死をめぐる和解と赦し 上:加害側の「痛みと責任」促す 水俣と福島で  石原 明子(熊本大准教授)
私や私の大切な人を傷つけたあの人と、和解するってどういうことなのだろう。この世に「赦し」という境地があるならば、それはどのようなものか。
 私の専門は、紛争解決学という学問で、特に加害者と被害者の対話など、傷つけたり傷つけられたりした関係における紛争解決である修復的正義を専門としている。
 私の人生にはゆるせないことがあった。私の大切な人が病院の医療で傷つけられ、後戻りできない傷を負ったのだ。そしてその後も反省する態度のない病院とのやり取りで、私は絶望を負い、私の心も壊れかけた。
 そんな私が修復的正義という考え方に出会ったのは、自らが性犯罪の被害者だという後輩の研究者からであった。彼女は自らの傷と向き合いながら、許しえない加害者との対話や赦しについて思索を重ねていた。自分に必要なのはこれかもしれないと、私はその実践拠点である米国の大学に留学した。
 そこでは、世界中から肌の色や信じる宗教の違う学生が学んでいた。内戦等で家族が殺されたという仲間もいた。身近な人同士が敵味方に追い込まれて殺し合う内戦では、戦争が終わったからといって、安寧の日々がすぐに戻るわけではない。私を殺そうとしたあるいは私の家族を傷つけたあの人と、戦争が終わった今日から再び隣人として暮らせるのか、和解や赦しは可能なのかといった課題を日々背負うことになる。
 修復的正義では、仲直りのために「過去のことは忘れなさい」「水に流しなさい」とはいわない。頭で忘れようとしても、私に刻まれた傷が私の心から体から消えることはないからだ。むしろ、痛みを痛みとして分かち合い、向き合ったうえで、そのような痛みを二度と引き起こすことのない未来を、傷つけた者と傷つけられた者が共に作っていくことを模索するという。それが私の身近でも可能だろうかと思っていた矢先、東日本大震災が起こった。
 原発事故で被災した方々に出会った。原発に近い被災地では、皆が被災者だが、同時に加害企業である東京電力や関連企業で働いている人も多くいた。津波や環境汚染の物理的被害だけでも苦しいのに、地域で人々が対立し傷つき合うことが起きていた。補償の線引きや、複雑に絡む被害加害の関係。内戦地とも共通する構造があった。私は、被災地での対立の苦しみを何とかしたいと、留学する前に住んでいた水俣(熊本県)と福島の交流のプログラムを開始した。
 水俣病公害を経験した水俣は、地域経済を支える企業の工場排水中の有機水銀で、多くの命が奪われて病や障害を負う被害が起こった。加害者も被害者も地域の人。複雑な関係の中で地域の人々は分断した。「私の父ちゃんを返してくれ」。そう叫んでも、血の通った答えが返ってこない行政や企業との闘いの果てに、「赦す」という言葉が被害者から生まれた地域でもある。
 福島との交流の中で、ある水俣の語り部の方は、水俣病の認定をめぐる十年の行政との闘いを語り、「今私は、過ちに向き合ってくれた行政を赦す」と締めくくった。それを聞いた福島からの参加者が、絞り出すようにいった。「赦す方向に私も向かいたいけれど、私は怒りと恨みでいっぱいで、とても赦せるとは思えないのです」。語り部の方が答えた。「怒り、恨んでいいと思います。赦すというのは、怒りと悲しみを真に知る者にのみ与えられる特権だからです」
 別の語り部がいった。「母は、行政もチッソも許すといった。しかしそれは、水に流す、忘れるということではない。私を傷つけたあなたを人間として受け入れるから、あなたも同じ人間として私の痛みを知って二度と痛みを経験する人が出ない未来を一緒に作ってくれ、という相手への突き付けにも似た、最後の覚悟の祈りなのです」と。
 「ゆるす」という言葉は、漢字では「許」と「赦」の二つがあてられる。前者は許可する意で、後者は本来許可できない悪いことをした相手をせめないことだ。水俣では「赦す」というその女性患者と出会い人生が変えられていった加害者側の人が少なからずいた。人は自分が酷いことをしたとき、赦されてはじめて、じぶんのつみといたみとせき任に向き合えることもあるのだろう。」東京新聞2022年11月29日朝刊19面こころ欄。
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いま戦争へ向っているのか 3 懇談会で政策を決める? アメリカの分断

2022-11-27 20:48:39 | 日記
A.安保法制懇という装置
 政府が政策を組み立て国会に提案するために、特定の問題について法令に基づいて専門家が検討し審議するのが「審議会」なのだが、これとは別に首相が私的諮問機関をつくって、学者や専門家が議論し意見をまとめて首相に報告するのが「有識者懇談会」である。第一次安倍内閣が2007年に組織した「安保法制懇」は、この私的諮問機関であり、集団的自衛権行使を容認する意見をもつメンバーで構成されていた。首相が実現したい政策を具体的に検討し権威づけすることが懇談会の役目だが、このときの座長は柳井俊二元外務事務次官、副座長は北岡伸一国際大学学長だった。しかし報告書ができたとき、安倍首相はすでに病気を理由に辞任していたので、これを受け取った福田康夫首相は、解釈改憲には批判的だったので報告書は棚上げされた。安倍氏の野望は、第二次政権で具体化する。具体的にどのようなことが検討されたのか?

 「第一次安倍政権で安倍首相は安保法制懇に「四類型」と呼ばれる設問を示した。四類型は以下のとおりである。
 ① 共同訓練などで公海上において、わが国自衛隊の艦船が米軍の艦船と近くで行動している場合に、米軍の艦船が攻撃されてもわが国自衛隊の艦船は何もできないという状況が生じてよいのか。
 ② 同盟国である米国が弾道ミサイルによって甚大な被害を被るようなことがあれば、わが国自身の防衛に深刻な影響を及ぼすことも間違いない。それにもかかわらず、技術的な能力の問題は別として、仮に米国に向かうかも知れない弾道ミサイルをレーダーで捕捉した場合でも、わが国は迎撃できないという状況が生じてよいのか。
 ③ 国際的な平和活動における武器使用の問題である。例えば、同じ国連平和維持活動(PKO)等の活動に従事している他国の部隊又は隊員が攻撃を受けている場合に、その部隊又は隊員を救援するため、その場所まで駆けつけて要すれば武器を使用して仲間を助けることは当然可能とされている。
 ④ 同じPKO等に参加している他国の活動を支援するためのいわゆる「後方支援」の問題がある。補給、輸送、医療等、それ自体は武力の行使に当たらない活動については、「武力の行使と一体化」しないという条件が課されてきた。このような「後方支援」のあり方についてもこれまでどおりでよいのか。

 要約すると以下のようになる。
 ① 公海での米艦艇の防護 
 ② 米国に向かう弾道ミサイルの迎撃
 ③ PKOなどで他国部隊を守るための「駆けつけ警護」
 ④ PKOや戦闘地域での他国部隊への輸送、補給などの後方支援
 安保法制懇が報告書で示した結論は①、②が集団的自衛権の行使にあたり、③は海外における武力行使、④が武力行使との一体化に区分される。③、④について、北岡氏は国連による集団安全保障の問題と説明しており、安保法制懇は「集団的自衛権」「集団安全保障」という二つの問題を検討していることになる。いずれも現行の憲法解釈では禁じられているものの、解釈変更によって容認すべきだという結論だった。
 安倍首相が進めようとしているのが集団的自衛権行使の容認なので、①、②について検証する。①の公海で米艦船が攻撃される事態を考えてみよう。米艦船を狙うために艦艇や航空機が差し向けられる事態はもはや戦争であろう。戦場となった洋上で米艦艇とともに海上自衛隊の艦艇が行動しているとすれば、日本有事以外にあり得ない。
 日本有事の際の米艦艇防護について、黒海では「日本防衛のために行動している米艦艇が相手国から攻撃を受けたときに、自衛隊がその攻撃を排除することはわが国の自衛の範囲内に入る」(1983年3月8日衆院予算委員会、谷川一穂防衛庁長官)、すなわち個別的自衛権に入り、合憲との政府見解が示されている。
 海外ではどうか。2001年米国がアフガニスタン攻撃を開始したのに伴い、日本は海上自衛隊の補給艦をインド洋に送り込んで米艦艇などに洋上補給した。ここで攻撃を受けた場合、「自衛艦が自らを守ることで結果的に米艦艇を防護できる」(2006年10月18日衆院テロ・イラク特別委員会理事懇提出)ため、これも合憲となり、集団的自衛権行使を検討する必要性は生まれない。次に日米共同訓練や周辺事態で日米の艦艇が共同行動する場合を検討すると、そもそも日米が密集した艦隊陣形をとることはあり得ない。艦艇は潜水艦への警戒から、10~15キロもの距離をとり、点々と散らばって行動するからである。
 現代戦で艦艇への攻撃に使われるのは魚雷と対艦ミサイルの二種類にほぼ限定される。潜水艦から発射された魚雷は、有線誘導によって正確に制御される。ひそかに狙われた艦艇は自らを守るのさえ難しく、ましてや遥かに離れた洋上にいる他の艦艇が防護することはできない。対艦ミサイルは東京―名古屋間にも匹敵する300キロもの彼方から発射される。狙われた艦艇は、レーダー照射を受けるので逆探知して自ら防御できるが、別の艦艇が迎撃することは現在の技術では不可能である。防空能力に優れたイージス艦のみ対抗可能とされるものの、日本には六隻しかない。米国は九十隻保有し、横須賀基地に九隻配備している。艦隊防空は米海軍の基本中の基本だからだ。
 結論はいずれのケースでも法制面、技術面で「集団的自衛権行使の必要性は生じない」となる。
 「北朝鮮が米国を攻撃」とあおる首相
 次に②の米国を狙ったミサイルを迎撃する手段そのものが存在しない。米国が開発したミサイル防衛システムのうち、日本はイージス護衛艦に対空ミサイル「SM3」を搭載しているが、米国まで届く弾道ミサイルを迎撃する能力はなく、日米で共同開発している改良型でも撃ち落とせない。
 また弾道ミサイルを迎撃するには、イージス艦は北海道の西沖に配置する必要があるが、日本本土が狙われるなら、イージス艦の配置は本州西側の日本海になる。
 北朝鮮が米本土に弾道ミサイルを発射するような事態では、二十九都道県に米軍基地を抱える日本は戦争に巻き込まれていると考えなければならない。仮に将来、迎撃できる高性能ミサイルが開発されたとして、米国を狙った弾道ミサイルを迎撃しようとイージス艦を北海道西沖に展開すれば、本州以南の防衛ができず、自衛隊による米本土防衛は「日本政府が日本を見捨てる」ことを意味する。
 米本土より近いハワイ、グアムを狙った場合はどうか。北朝鮮からハワイまで七千キロ以上あるため、SM3改良型でも迎撃できないが、三千五百キロ程度のグアムであれば迎撃可能とされる。しかし、迎撃するには日本のイージス護衛艦は太平洋に配備する必要がある。ミサイル防衛に活用できるイージス艦は、自衛隊に四隻あるに過ぎないが、米国には三十隻もある。米国は自らが脅威に晒されるとき、米軍を活用せず、自衛隊に頼るのだろうか。技術面、安全保障面でこんな設問自体がありえないのである。
 なによりおかしいのは、世界中の軍隊が束になってもかなわない米軍にいったいどの国が正規戦を挑むのかという点にある。例えば、米海軍が保有する原子力空母は、一隻あたり、戦闘攻撃機、早期警戒機、電子戦機など約八十機を搭載する。その打撃力は、一カ国の空軍力をしのぐほどである。そんな空母が米海軍には十隻もある。
 また現代戦では「海の王者」である原子力潜水艦は、核兵器を持つ弾道ミサイルを搭載する原潜十四隻を含め、七十隻保有する。ひとたび米国に戦争を挑めば、湾岸戦争やイラク戦争の初戦で見られた通り、海や空からのミサイルと精密誘導爆弾による攻撃から始まり、世界最強の陸軍と海兵隊が領土を占領し、交戦国の主権を停止することになる。米国に正規戦を挑むなど正気の沙汰ではない。起こり難い類型を示して、国民の不安をあおる行為は「天が落ちてくる」といって杞憂を広めるのに等しい。
 さらに疑問がある。概要の艦艇が攻撃を受けたとして米国はただちに個別的自衛権を発動するだろうか。回避行動や応戦は正当防衛を根拠にするだろう。米国が戦争に踏み切らないのに、日本が参戦する事態はあり得ない。戦争開始には、米国では大統領、日本では最低でも首相による政治判断(事前、事後に国会承認)が欠かせず、数分で届く魚雷やミサイルより政治判断が早いはずがない。設問の筋があまりにも悪い。
 分かりやすいのは「攻撃を受けた米国が個別的自衛権を行使して応戦している。日本は自衛隊を送り込み、米軍とともに戦わなくてもよいのか」との設問だが、「米国が攻撃される」では、あまりに非現実的なので避けたのだろう。
 だが、①、②の問いかけは本質的にこの設問と変わりない。ただ「米艦艇の防護」と単純化すれば、米国が日本を救援する事態と混同して、それなら米軍を支援するのもやむを得ないと考える人が出る可能性はある。また「米本土を狙った弾道ミサイル迎撃」も弾道ミサイル発射試験を繰り返す北朝鮮対処を念頭に置きやすい。いずれにしても悪質なミスリードというほかはない。
安倍晋三首相は3月22日、防衛大学校の卒業式訓示で①、②を組み合わせて「日本近海の公海上でミサイル防衛のため警戒にあたる米国のイージス艦が攻撃を受けるかもしれない。その時、日本は何もできないで本当によいのか」と述べ、「これは机上の空論ではない」と強調した。
 首相はイージス艦の特性について、レーダーを切り換えて弾道ミサイル迎撃モードにした際には周辺防空ができなくなる、として海上自衛隊の護衛艦による防護の必要性を訴える。だが、この認識は古い。確かに海上自衛隊のイージス艦なら、遠くを見るモード(弾道ミサイル迎撃)は同時に使えない。米海軍は両モードを同時に実行できるよう改修し、少なくとも九隻のイージス艦は遠方も周辺も監視することができる。
 類型を論破されるたび、新たな類型を持ち出す安倍首相。もはや泥縄である。
 ①、②に加えて2014年1月からの通常国会で安倍首相は「米国を攻撃している北朝鮮へ武器弾薬を輸送する船舶の検査」も集団的自衛権行使が必要な理由に含めている。
 北朝鮮による米国攻撃よりも、米国による北朝鮮攻撃の可能性の方がはるかに高いが、いずれにしても米国と北朝鮮の戦争であれば、全国に米軍基地を抱える日本は戦争に巻き込まれているだろう。日本有事となれば、戦時国際法の海戦法規に従い、北朝鮮に武器弾薬を運ぶ船の強制的な検査(臨検)は個別的自衛権の行使によって可能になる。
 日本有事に至らない場合でも、海上警備行動の発動により、「海上において必要な措置」をとることができる。1999年能登半島沖に北朝鮮の工作船が現れ、自衛隊初の海上警備行動が発動された時の対抗の反省から、海上保安庁法とともに自衛隊法が改正され、停船命令に従わない船舶への射撃が認められるようになった。
 日本政府が「そのまま放置すればわが国に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態」、すなわち戦果が飛び火する周辺事態を認定すれば、船舶検査活動法に基づき、任意ながらも北朝鮮へ向かう船の検査ができる。
 戦争になって米国が最初に行うのが敵国の政治・経済中枢の破壊である。港湾には機雷を敷設し、水上艦艇や潜水艦、補給のための船舶の出入港は困難になる。太平洋戦争で米軍がまいた機雷が今でも日本近海から発見されている。武器弾薬を搭載した船舶は、触雷の危険を無視して北朝鮮への入港を目指すとはとても思えない。
 あえて集団的自衛権を持ち出さなくてもできること、起こらないことをわざわざ追加したのは「北朝鮮」の名前を出せば、国民から支持されると考えたのだろう。日本は首相が国民の不安をあおる稀有な国になろうとしている。
安全保障を理解すれば、詐術にひっかかる心配はないが、一般には「日本が米国を守れるなら守ってやるべきだ」と考え、同意する人がいるのではないだろうか。
 石破茂自民党幹事長は講演でよくこんな話をするという。友人が強盗に襲われたケースに重ね合わせ、「家の掟で助けに行けないけど、僕がやられたら助けにきて」と身勝手な要求をするのが現在の日米関係であり、お互いに助け合うべきだと主張する。
 肝心なことを指摘しておきたい。日米安全保障条約第五条は「日本国の領域が攻撃された場合」のみを前提にしているのが日米安保条約なのだ。この条約を無視して「海外に展開する米軍」や「米国の施政の下にある領域(例えば米本土)」への武力攻撃対処に日本が踏み出すべきだというのは、筋が通らない。
 自衛隊が米軍や米本土を守るというなら、いずれ条約改定を米国に提起しなければならない。そして米国が第五条で日本防衛の義務を行なう見返りとして、米国への基地提供義務を定めた第六条の見直しを主張しなければ、日本の負担だけが一方的に増すことになる。
 日本は米国に基地を提供しているだけでなく、米軍の駐留経費も負担している。防衛省が負担する在日米軍関係経費は4千4百億円(2013年度)にのほる。これに他省庁が負担する基地交付金、提供普通財産借上資産を加えると、じつに6千4百億円ものカネを米軍のために使っている。基地負担は沖縄など基地周辺住民に限らない。財政にも及んでいるのである。
 しかし、「日米同盟の強化」を訴える安倍首相は米軍基地の撤去や縮小に言及したくないのか、条約改定に触れようとしない。その代わり、日本有事の際の自衛隊と米軍の役割分担を定めた日米ガイドラインの改定でお茶を濁そうとしている。ガイドラインは日米安保条約を前提にしているため、やはり条約改定が欠かせないはずだが、安倍政権は完全に無視である。いいとこ取りは、勝手な憲法解釈だけではない。条約も都合よく読み替えようとしている。」半田滋『日本は戦争をするのか ―集団的自衛官と自衛隊』岩波新書、2014年、pp.63-73. 

 安倍首相らが安全保障に関する「空虚な議論」として初めから排除していたのは、憲法9条を基本にこれまで日本政府が自衛隊の運用に課していた「専守防衛」「シビリアンコントロール」
「武器輸出禁止規定」などの立場だった。安倍政権はこれらをひとつひとつ有名無実化し、解釈改憲で海外派兵から軍事開発への産官学の協働や、米軍との共同訓練などを実現し、いまや改憲一歩手前まで来ている。安倍氏亡き後、このやみくもで空想的な軍拡路線を、岸田首相は冷静に転換するのではなく、安倍氏の遺言を忠実に引き継いで、北朝鮮と中国の軍事侵攻という危機感をあおり、膨大な予算を軍備拡張に注ごうとしている。この責任は岸田文雄氏の担う錯誤だ。


B.多様性と分断
 アメリカ中間選挙は、圧勝を狙ったトランプ共和党が思ったほど伸びず、上院はかろうじて民主党が多数を維持したことで、ひとまず政局は安定するかと思うとどうもそうではないらしい。アメリカはもともと世界各地から来た移民からなる多様性の国。だからこそアメリカ合衆国の旗star&stripsと法の下の自由と平等という理念だけが、国家を成り立たせている。しかし、もともと異質な人々が人工的に国家をつくっているのだから、国民としての一致団結など叫んでも無意味だという意見が強まり、トランプ現象はその分断を顕在化させたといえるのかもしれない。

「多事奏論:「南北戦争」今も 収束への道「結束」は伝統でない アメリカ総局長 望月洋嗣
 米国で11月8日にあった中間選挙は、連邦議会上院で民主党が勝ち、下院は共和党が僅差で制した。トランプ前大統領の支持者が連邦議会議事堂を襲った昨年1月のような事態は起きず、民主党が予想に反する善戦をしたことに、バイデン大統領は喜び、米国社会を結束させると改めて誓った。国内にも安堵が広がった。
 しかし、2024年の大統領選に向けた戦いは早くも始まっている。
 11月19日、共和党の次の大統領候補と目されるデサンティス・フロリダ州知事らが、ラスベガスで開かれた集会に集まった。立候補を表明したばかりのトランプ氏もオンラインで参加。下院の次期議長とみられるマッカーシー下院議員が「戦いの火ぶたは切られた」と呼びかけると、1千人余りの会場は歓声で沸き立った。共和党が奪還した下院では、議会襲撃事件の調査が打ち切られ、代わりにバイデン氏や政権に関わる疑惑の追及を始める見通しだ。
 攻撃的な発言を聞きながら、政治対立が19世紀の内戦「南北戦争」にたとえられるのも、もっともだと感じた。
  •     *     * 
 米国の政治対立は先鋭化し、再び暴力に発展していくしかないのだろうか。専門家の見方を調べていたら、少し変わった見解にぶつかった。
 政治対立が続くのは、そもそも南北戦争が終わっていないからだ。米国史上、全国民が結束したことなど、一度もない――。
 唱えたのは、テキサス大で歴史学を教えるジェレミー・スーリ教授。著書「別の手段による南北戦争」を10月に出版した。
 スーリ氏は、米国の民主主義制度はヒビの入らない強固な土台の上に成り立っていると考えていたが、トランプ氏が大統領選で勝った6年ほど前からは、実は違うのではないかと感じ始めた、という。
 南北戦争は、奴隷制度の廃止を進めたリンカーン大統領の連邦政府(北軍)と、維持を求める南部連合(南軍)との激しい戦いで、60万人を超す戦死者を出した。敗北した南部では、連邦政府が奴隷解放などの社会制度改革を進めたが、黒人に経済活動や政治参加の権利を拡大する改革への反発や不満は強かった。
 不満は「腫瘍」のように社会に植え付けられ分断が拡大する今の米社会で広がった。スーリ氏はそう解釈する。自説への確信は、議会襲撃事件で、ある白人男性が南軍の連合旗を手に議事堂に侵入する映像を見て強まった。
 この男性はバイデン氏の地元デラウェア州在住で、事件に至る約20年、失業状態だった。オバマ元大統領が初の黒人大統領となった08年ごろから南部連合を称賛する団体に傾倒し、自宅に連合旗を掲げた。男性の選挙区では、20年の大統領選でトランプ氏に投票した人が60%に上った。
  •       *        * 
 南北戦争はこの先、どうなっていくのか。スーリ氏の答えは明解だ。トランプ氏を生んだ政治運動はこれからも続く。トランプ氏は、南北戦争以降は目立たずに存在してきた不満を持つ人々を、SNSなどを駆使してまとめた。たとえ引退しても、別の政治家が同じ役目を果たすだろう。
 では、バイデン氏の「北軍」は何ができるのか。答えは「結束を呼びかけないこと」だった。「米国は日本などに比べ、はるかに多様な社会で、結束は実は私たちの伝統ではない。大切なのはより多くの人が一致できる政策課題を探すことだ」。リンカーンもレーガンも、偉大と言われる過去の大統領は、超党派の結束は優先せず、合意できる政策を重視したという。スーリ氏はニューヨーク・タイムズに寄稿し、結束の呼びかけは「時間の無駄だ」とバイデン氏に現実的な政権運営を求めた。
 80歳になったバイデン氏にその言葉は響いたのか。「戦争」を収束に向かわせる政治が始まると期待したい。」朝日新聞2022年11月26日朝刊13面、オピニオン欄。
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 日本は戦争をするのか 2 軍備増強の合理性? 増税か

2022-11-24 15:38:18 | 日記
A.戦争の可能性について
 国家レベルの「安全保障」という言葉は、要するに戦争が起きないように、国として最大限の備えをするということだとすると、いくつか基本的な前提があると思う。まず、自分から他国に武力攻撃をして領土や権益を獲得しようという侵略行為は、国際法上認められない。現にロシアはウクライナに武力侵攻をしているわけだが、いくらロシアがウクライナのロシア系住民を保護するためと言っても、他国の主権を犯して領土や国境の現状を変更しようという訳だから侵略戦争であることはたしかだ。このような侵略に対抗して防衛戦争をすることは、個別的自衛権として当然の権利になる。つまり攻められたら防衛戦争をするのは正義となる。そして、侵略戦争を始める国がある限り、国は正規軍と軍備を備えていざというとき防衛戦争ができるようにしておくことは必要だという論理になる。しかし、戦争というのはいきなり突発的に起こるのではなく、反政府武装勢力の内戦などの場合と違って、国と国との戦争の場合は、その前に国際関係のきしみや紛糾があって、それを外交的に完結するのに失敗したとき、武力を使う戦争になるのがふつうだ。戦争が差し迫った状況に向かっているとき、現在保有する「防衛力(つまり軍備)」が敵を跳ね返すだけの力があるかどうかは、ある程度わかっているとすると、それが敵に対して劣っていると侵略されてしまうから、どうするか?同盟国や友好国に助けてもらうという手がある。
 日本の今の自民党防衛族が考えていることは、中国や北朝鮮という仮想敵国が軍備を増強していて、もし侵略戦争を受けて立つ状況になれば、今の自衛隊だけでは支えきれない、かもしれないので、アメリカという強力な同盟国に参戦してもらわなければならないが、その約束を確かなものにするには、アメリカがやる戦争に自衛隊が参加する必要があるということになる。しかし、アメリカ軍がどこまで東アジアの戦争を助けてくれるかは、少々不安がある。そこで、この際、自衛隊をもっと大幅に増強しなければならない、ということで軍備拡張に巨額の予算をつけようと岸田内閣は準備を進めている。
 しかし、このような状況認識は正しいのだろうか?日本の憲法9条は、そもそも日本が正規軍と他国を攻撃する軍備をもつことを禁じている。個別的自衛権はあるとしても、自衛隊は専守防衛の存在で、外国で戦争をするとか、国境を超えて武力攻撃をするとか、他国軍と一体化して戦うということは想定していなかった。安倍政権はこれを不満として、実質的に憲法9条を無視して自衛隊が行動できるように、勝手に閣議決定で次々法律を変えてきた。そもそも、上記のような「東アジアの安全保障環境の悪化」という認識は、現実をちゃんと見て行っているのだろうか?疑問は山ほどある。

 「安倍首相の考えを、過去の言葉から紡ぎだし、整理してみよう。
……日本を取り巻く安全保障環境は一層悪化している。平和は一国の努力で達成できるものではない。国連憲章第五十一条は個別的自衛権とともに、集団的自衛権の行使を容認している。この際、「わが国が独立国家である以上、集団的自衛権は保有しているが、憲法解釈上、行使は許されない」としてきた憲法解釈を見直し、国際標準に合わせるのが当然ではないか……。
 あらためておさらいすると、集団的自衛権とは「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」(1981年5月5月29日、稲葉誠一衆院議員への答弁書)である。
 「集団的自衛権:という言葉の誕生はそれほど古くない。経緯を振り返ろう。
 第一次世界大戦後の1928年、日本を含む十五カ国によってパリ不戦条約が締結され、国際紛争を解決する手段としての戦争が違法化された。のちに加盟国は六十三カ国にまで増えたが、日本は途中で満州事変を起こし国際連盟を脱退、太平洋戦争に突入していく。1944年には米英中ソの四カ国が参加したダンバートン・オークス会議で一切の武力行使の禁止が約束され、第二次世界大戦の最中に不戦の誓いが確立されることになった。
 1945年2~3月、中南米諸国が参加したチャプルテペック会議で米州いずれかの一カ国への攻撃をすべての加盟国に対する侵略行為とみなして軍事力行使を含む対抗措置をとることで合意した。「集団的自衛権」という言葉の誕生である。会議は圧倒的な軍事力を持つ米国が主導した。ダンバートン・オークス会議の武力行使の禁止から大幅に後退した。
 一ヶ月後、国連憲章作成のために開催されたサンフランシスコ会議で議論の末、個別的自衛権は独立国が持つ固有の権利(自然権)として認められ、集団的自衛権は目立った議論もないまま採択されたのである。
 当時、東西冷戦が始まりつつあった。集団的自衛権は、同盟国・友好国を陣営に取り込む必要性があると考えた米国が生みの親となった政治的産物である。「ただ、国連憲章第五十一条は「安全保障理事会が(略)必要な措置をとるまでの間あ」との条件を付けて個別的自衛権、集団的自衛権の行使を認めているに過ぎず、自衛権行使そのものが例外的措置であることを明記している。
 集団的自衛権は東西冷戦のゆりかごの中で成長した。驚くべきことに第二次世界大戦後に起きた戦争の多くは、集団的自衛権行使を大義名分にしている。
 ベトナム戦争がその典型例である。米国は「南ベトナム政府からの要請」があったとして集団的自衛権行使を理由に1965年に参戦、北ベトナム爆撃から本格的に介入した。米国との間で米韓相互防衛条約を締結している韓国は、米国への集団的自衛権行使を理由に参戦した。米軍は五万六千人、韓国軍は五千人が戦死した。南北ベトナム軍と南ベトナム民族解放戦線の戦死者は九十万人にのぼった。
 日本は東京の在日米軍横田基地が輸送機などの中継基地として使われ、後方支援機能を果たした。沖縄は本土復帰前で、嘉手納基地からB52爆撃機が出撃する作戦拠点として活用された。
 ベトナム戦争を参考にすると、集団的自衛権行使を理由に参戦するのは、米国のように「攻撃を受けた外国を支援する例」、韓国のように「参戦した同盟国・友好国を支援する例」の二つのケースがあることが分かる。前者の典型例はソ連によるアフガニスタン侵攻であり、後者は自衛権を行使して攻撃を開始した米国のアフガニスタン攻撃を支援した英国の例がある。
 興味深いのは、集団的自衛権を行使して戦争に介入した国々が「勝利」していない点にある。米国はベトナムから撤収し、オバマ大統領はアフガニスタンからの撤収を明らかにしている。主力になった米国が勝っていないのだから、ベトナム戦争に参加した韓国、アフガニスタン攻撃に参加した英国も勝利していない。
 自国が攻撃を受けているわけでもないのに自ら戦争に飛び込む集団的自衛権の行使は、極めて高度な政治判断である。一方、大国から攻撃を受ける相手国にとっての敗北は政治体制の転換を意味するから文字通り、命懸けで応戦する。大義なき戦いに駆り出された兵士と大国の侵略から自国を守る兵士との士気の違いは明らかだろう。
 ベトナム戦争によって巨額の戦費を投じた米国のドルが海外へ流出し、金の準備高をはるかに超えるドルの発行を余儀なくされ、金とドルの交換を保証したブレトンウッズ体制は崩壊、世界は変動相場制に移行した。国内では厭戦気分が広がり、米国は徴兵制を廃止した。韓国は米国の戦争支援を見合わせるようになり、イラク戦争で久しぶりに空輸活動に参加した。イラク戦争をめぐって英国ではブレア政権が崩壊、いまなお戦争参加の是非を問う調査が続いている。
 各国が集団的自衛権を行使して参戦したこれらの戦争は「正しかった」のだろうか。国連は、侵略戦争は明快に否定しているが、個別的自衛権だけでなく、集団的自衛権行使を否定していない。集団的自衛権を容認していることが戦争を起こしやすくしていると考えられる。
 戦争の後遺症にも目を向けなければならない。ベトナム戦争で米軍が使った枯葉剤などの化学兵器、米軍がイラク戦争で使った劣化ウラン弾などの核兵器まがいの弾薬が兵士や住民を苦しめる。生きて帰国できた兵士も身体の一部を失ったり、心的外傷ストレス障害(PTSD)にかかったりする人も少なくない。安倍政権がやろうとしている集団的自衛権行使の容認とは、戦争への道を開く悪魔のささやきである。
 「国家安全保障基本法」で空文化される憲法
 憲法解釈の変更を閣議決定するだけでは実効性を伴わない。自衛隊法、周辺事態法、国連平和維持活動(PKO)協力法、船舶検査活動法など既存の法律の改正が欠かせない。自民党は野党だった2012年7月、それらを下位法と位置づけ、上位法である「国家安全保障基本法」(概要)」を制定することを総務会で了承した。
 概要をみると、安全保障政策を進めるためのロードマップ(工程表)を兼ねていることが分かる。第三条「国及び地方公共団体の責務」は、秘密保護のための法律制定を規定し、第六条「安全保障基本計画」は安全保障に関する長期的な計画の制定を義務づけている。これらは2013年暮れの特定秘密保護法の制定と国家安全保障戦略の策定につながった。そして国家安全保障戦略は、概要の第十二条「武器の輸出入等」を反映して、武器輸出三原則の見直しを打ち出した。あべせいけんはぱずるをひとつひとつ埋めるように概要の項目を先取りしている。
 条文で仰天するのは、第四条「国民の責務」の項目である。国民に安全保障施策に協力し、寄与することを求めており、「国防の義務」を課している。これは2012年4月、自民党が発表した憲法改正草案の前文にある「国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守る責務を共有する」と同じ趣旨であり、国家安全保障戦略に書き込まれた「わが国と郷土を愛する心」に通じる。愛国心や国防の義務を国民に求めること自体、国家主義への傾斜を示している。安倍首相が第一次政権時に教育基本法を改正し、「わが国と郷土を愛する」という文言を入れていたことも合わせて考えたい。
 そう考えれば、自民党の憲法改正草案が「公益および公の秩序」によって、基本的人権や「知る権利」を制限しようとした理由が分かる。国家のため、国民の自由や権利を縛ろうというのである。国民の自由や権利を守るため、国家権力を縛る日本国憲法のj考え方を逆転させている。
 概要の第八条「自衛隊」には、「必要に応じ公共の秩序の維持に当たる」とある。自衛隊法には治安出動規定があるものの、発動されたことはない。過去に一度だけ、1960年の安保闘争で発動が検討された。その時の首相が安倍首相の母方の祖父、岸信介氏である。半世紀を経て、石破茂自民党幹事長が国会周辺の「デモ」を「テロ」と呼ぶようになったとはいえ、自衛隊に「公共の秩序の維持」を担わせようとする戦前の憲兵隊を彷彿とさせる発想には、あぜんとするほかない。
 第十条は集団的自衛権の行使を定め、別途、集団自衛事態法を規定するとあり、第十一条は「国際連合憲章上定められた安全保障措置等への参加」を明記している。国連の安全保障措置には多国籍軍への参加が含まれる。安全保障措置「等」とあり、必ずしも国連決議を必要としていない点にも注意しなければならない。
 例えば、実施されなかったが、米国は2013年、化学兵器を使用したシリアへの空爆を検討した。国連愛ポリに制裁決議を求めたとしても、アサド政権を支持するロシアが拒否権を使うのは確実だった。そこで米国は英国、フランスとともに空爆に踏み切ろうとしたのである。この空爆を「必要な安全保障措置」とみなせば、航空自衛隊を参加させることも可能になるのである。
 国家安全保障基本法が成立すれば、憲法九条は完全に空文化する。法案なので三分の二の国会議員の賛成や国民投票が必要な改憲規定と比べ、なんとお手軽なことか。
 日本には、法律が憲法違反か否かを審査するドイツやフランスのような憲法裁判所がないため、法律によって憲法解釈が変更され、「国の形」を変えるのである。自民党、日本維新の会、みんなの党といった改憲勢力が賛成すれば衆参の過半数を上回り、法案は成立、憲法は有名無実化する。
 憲法改正の手順は不要ということになる。それこそ麻生太郎副総理がナチスを引き合いに出して語った、「こっそり改憲する手口」である。
  アジアを引き込む軍拡競争
 「北朝鮮から攻撃されたらどうする」「忠告に尖閣諸島を奪われるかも知れない」。そう考えて集団的自衛権行使を容認すべきだと考える人がいるかも知れない。しかし、いずれも個別的自衛権で対応できる問題である。
 北朝鮮からの攻撃があれば、自衛隊が対処すればよいだけである。侵略に備えて、毎年五兆円近い防衛費をかけて護衛艦、戦闘機、戦車などの武器を買い揃え、自衛官23万人を養っている。小規模侵攻なら独力で対処し、米軍の打撃力が必要なら日米安保条約にもとづき、支援を要請することになっている。
 だが、北朝鮮は攻めてくるだろうか。日本と北朝鮮との間には韓国があり、在韓米軍が駐留している。大規模な第二次朝鮮戦争となると考えるのが軍事常識といえる。米軍がイラク、アフガニスタンで「勝てなかった」のは、武装勢力が自爆テロや仕掛け爆弾といった不意打ち戦術を多用したことによる。米軍のような巨大な軍隊はテロやゲリラといった非対称戦には弱いことが証明された。朝鮮半島の戦いは違う。正規軍同士の戦いとなれば、予算、人員、装備に優れた米軍が鮮やかに勝利するのは火を見るより明らかだ。自滅につながる戦争に突入するほど、かの国の指導者は命知らずとは思えないのである。
 確かに核開発、弾道ミサイルの開発を進めているが、いずれもイラクやアフガニスタンのように米国から攻撃されないための自衛手段であり、米国に対話を迫る政治的道具である。パキスタンやイランに輸出したミサイル技術は貴重な外貨獲得の手段でもある。
中国との間にある尖閣諸島の問題は、事態がエスカレートすれば、日中間の紛争に広がるおそれはある。だが、中国がソ連、インド、ベトナムとの間で繰り返してきた国境紛争をみる限り、領有権争いが本格的な戦争に発展した例はない。これまで書いた通り、米国が中国との争いごとに巻き込まれる事態を歓迎するはずがなく、米国の参入による紛争の拡大を心配する必要はないだろう。むしろ、問題なのは外交による解決の道筋がまったく見えないことにある。外務省のホームページにある中国からの要人往来・会談をみると、年間30~40回あった日中交流が、第二次安倍政権でゼロになっていることに驚かされる。日中両首脳が会談したのは、日中韓サミットで野田佳彦首相と胡錦濤中国国家主席が会った2012年5月14日が最後。話合いのチャンネルが閉ざされていること自体が不測の事態の呼び水になりかねない。
 安倍首相は自衛隊の装備・人員・予算を二年連続して増やした。首相は中国の軍事費が日本とはけた違いに増えていることを持って防衛費の増額を正当化する。南シナ海で中国と領有権争いを続けるベトナム、フィリピンなど各国は中国の軍事力強化を歓迎していない。かといって、日本が中国と競い合って軍事費を増やし、自衛隊の出動規定を緩めれば、アジア全体の軍拡競争につながり、地域情勢は不安定化するだろう。」半田滋『日本は戦争をするのか――集団的自衛権と自衛隊』岩波新書、2014.pp.45-55. 

 半田氏のこのような考えは、自民党には一笑一蹴されるのかもしれない。でも、どちらが現実を踏まえたリアル・ポリテックスかといえば、自民党の認識はほぼ空想の産物、妄想の肥大だとぼくは思う。ここで軍備の大幅増強などやれば、そのこと自体が戦争への挑発行為で危険極まりない上に、国家予算が破綻するかという時に軍備にむりやり金をつぎ込むのは自滅への道ではないか。


B.火遊びに金を出せと言っている
 大幅な軍備拡張のために、拡大防衛費を乏しい財政からひねり出すのは無理だから、また国債の借金でやるのももう限界だということは政府だって知っている。そこで有識者会議なるものは、増税を提案したという。消費税には手を出さず(というよりそんなことをやれば、さすがに自民党は大非難を浴びる)、法人税や所得税で防衛費のための増税という切り札を使えという。日本は戦前のような軍事国家になってしまう。

 「防衛費増へ増税提起 有識者会議「反撃能力不可欠」

 有識者会議報告書 ポイント

 ・防衛費財源は国民全体で負担。増税を提起

 ・5年以内に防衛力を抜本的に強化。反撃能力(敵基地攻撃能力」の保有と、継戦能力の強化が不可欠

 ・先端科学技術や公共インフラの安全保障分野での利用へ官民一体の体制を構築

 ・防衛装備品の移転拡大へ運用指針緩和

 ・研究開発や公共インフラなど防衛力強化に資する4経費を合算した新たな予算の枠組みを創設。予算要求で特別枠

 防衛力強化に関する政府の有識者会議(座長・佐々江賢一郎元駐米大使)は22日、防衛費の安定財源確保に向けて「国民全体の負担」が必要だとして増税を提起する報告書を岸田文雄首相に提出した。5年以内の防衛力強化が欠かせないと強調し、反撃能力(敵基地攻撃能力)保有と、戦闘継続能力(継戦能力)向上を提言。先端科学技術の成果や公共インフラの機能を安全保障分野に利用できる官民一体の体制を構築するよう求めた。
 防衛力強化をめぐる自民、公明両党の協議などをにらみ、増税への環境整備を進めるのが狙いだが、国民の理解を得られるかは見通せない。首相は参院本会議で「防衛力の内容に応じて財源確保策を考える」と表明。年末までに予算規模を含め結論を出す考えも示した。政府・与党は、国家安全保障戦略など3文書の年内改定へ議論を急ぐ。
 報告書は、防衛力強化には安定財源の確保が基本だとの姿勢を示し、負担増へ国民の理解を得る努力をするよう求めた。「幅広い税目による負担が必要」としながらも、具体的税目の明示は回避。国債の発行を前提としないようくぎを刺した。
 報告書の原案では、法人税引き揚げに触れていたが、経済界の意見も含めて慎重に検討しなければならないとして、最終的に記載は見送られた。
 反撃能力に関しては、5年を念頭に十分な数の長射程ミサイルを装備するよう求めた。発動に際して「政治レベルの関与のあり方について議論が必要だ」とも記した。
 継戦能力を高めるため、これまで十分ではなかった弾薬備蓄の拡充を提唱。武器を含む装備品の輸出ルールを定めた「防衛装備移転三原則」の運用指針を緩和して装備移転の拡大を促した。
 科学技術の安保利用を巡っては、政府と大学、民間が一体となり宇宙や人工知能(AI)などの研究開発を進める枠組みの創設を提案。自衛隊などによる公共インフラ利用は南西諸島での港湾や空港が念頭にある。」毎日新聞2022年11月23日朝刊1面。


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戦争をする国にしたい人 1 国を逃げ出す民

2022-11-21 11:09:18 | 日記
A.日本も戦争をしたいのか?
 コロナ禍が終息しない中で行われた北京冬季オリンピックが終了した2022年2月、じりじり待っていたようにロシアがウクライナに攻め込んで戦争が始まった。テロや反政府勢力との内戦はあちこちにあるものの、独立国家の正規軍同士の戦争、それも領土や国境の現状を変えることを目的にする戦争が、21世紀に起こるとは、多くの人がまさか、そこまで…と思っただろう。ありえないと思い込んでいた戦争が実際に起こってみると、世界の見え方が変わる。日本も、ミサイルが飛んでくるなどと思っていなかった人々が、急に戦争という不安のなかで、何かしなければ大変なことになるのではないか、と思った時、この国の政府は、先頃銃弾に倒れた元首相が言っていたことが嘘ではなかった、「日本を取り巻く安全保障環境は急速に悪化しているから、軍備増強が必要だ」という言説を信じたくなる人があちこちから出てくる。そうだ、自衛隊はもっと大きくして危機に備えなければならない、と自民党はじめ保守政治家は口々に唱えている。でも、それは本当に取るべき道なのか?今ここで、安倍晋三が長期政権で推し進めたことが、戦争を防ぐ正しい選択だったのか?冷静に考えないと、取り返しのつかない未来を呼び込むのではないか。8年前、安倍政権が野党や国民の意見を無視してやっていた安全保障政策(国防政策というべきだが)を、批判して書かれたこんな本(半田滋著『日本は戦争をするのか』岩波新書)が出ていたことを、迂闊にもぼくは最近まで知らなかった。

 「日本は戦争をするだろうか。安倍晋三政権が長く続けば続くほど、その可能性は高まると言わざるを得ない。憲法九条を空文化することにより、自衛隊が国内外で武力行使する道筋がつけられるからである、
 わが国周辺に差し迫った脅威は存在せず、わが国が他国を侵略することもない。世界を見渡せば、武力による小競り合いが絶えないのに対し、東アジアは軍事力強化を急ぐ中国、核開発を進める北朝鮮を抱えながらも安定を維持している。
 「尖閣諸島をめぐり、中国と紛争になるのではないか」「北朝鮮が弾道ミサイルを撃ち込むのではないか」と心配する人はいるだろう。
 「尖閣諸島をめぐる日中の意地の張り合いが続く限り、常に不測の事態に発展するおそれはある。中国がソ連、インド、ベトナムとの間で繰り返してきた国境紛争をみると、領有権争いが本格的な戦争に発展した例はない。中国が打ち出した「新たな大国関係」を認める米国が日中の領土問題に巻き込まれる事態を歓迎するはずがなく、米国の参入による紛争の拡大を心配する必要はないだろう。しかし、何より重要なのは、尖閣問題を一時棚上げして、日中双方が話し合いのテーブルに着く環境づくりを急ぐことである。
 北朝鮮は攻めてくるだろうか。日本と北朝鮮との間には韓国があり、在韓米軍が駐留している。第二次朝鮮戦争になる中で、日本への攻撃が起こりうると考えるのが軍事常識といえる。だが、自滅につながる戦争に突入するほど、かの国の指導者は命知らずとは思えないのである。核開発、弾道ミサイルの開発を進めているのは、米国から攻撃されないための自衛手段であり、米国に対話を迫る政治的道具である。
国民の疑問に答え、不安を解消していくのが政治家の務めのはずだが、安倍首相は違う。国内においては「我が国を取り巻く安全保障環境が一層悪化している」と繰り返して国民の不安をあおり、だから憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認しなければならないと声を張り上げる。
 その一方で、過去の侵略戦争を否定するかのように「侵略の定義は定まっていない」と公言し、米国の「行くべきでない」とのメッセージを無視して靖国神社に参拝した。外交においては中国、韓国ばかりか米国までも刺激し続け、安全保障環境を自ら悪化させている。
 憲法解釈を変更したいという思いは第一次政権当時から現われていた。2007年5月、集団的自衛権行使の容認派ばかりを集めた有識者懇談会を立ち上げたからである。
 一回目の会合で安倍首相は「わが国を取り巻く安全保障環境はむしろ格段に厳しさを増している」とあいさつした。この状況認識は奇妙というほかない。当時と現在で同じ言い回しをしているが、同じ状況であるはずがない。
 第一次安倍政権時代に北朝鮮が核実験を行ったのは2006年10月の一回だけだった。二回目と三回目の核実験、そして長距離弾道ミサイルの発射に成功したのも、また尖閣問題が浮上したのも第一次政権が終った後である。第一次と第二次の現在では明らかに安全保障環境が異なるのに、同じ表現を使うのは、集団的自衛権の行使容認に踏み切ること自体に目的があり、踏み切る理由はどうでもよいからなのだろう。
 行使容認へと舵を切る理由があいまいなだけではない。安倍首相は①攻撃を受けた米艦艇の防護、②米国を狙った弾道ミサイルの迎撃、③米国を攻撃している北朝鮮へ武器弾薬を輸送する船舶の検査、などの類型を示して行使容認の必要性を訴える。ひとつの場面ばかり切り取って示すのは不自然にすぎる。
 なぜ、素直に「米国が攻撃を受けた場合、日本は米国を守らなくてよいのか」としないのか。「世界最強の軍隊を持つ米国への攻撃などないのでは?」と国民に疑われることがないように「そうかも知れない」と思わせるトリックを使っているのではないのか。
 安倍首相が示した類型は、米国が北朝鮮と戦争をすれば、在日米軍基地を抱える日本が巻き込まれる可能性が高いにもかかわらず、これを無視している。日本が武力攻撃を受け、自衛隊に防衛出動が下命され、そこで来援した米艦艇の防護は個別的自衛権の行使で可能になるというのが過去の政府見解である。米国を狙った弾道ミサイルの迎撃は、技術的に不可能であり、対処のしようがない。武器弾薬を運ぶ輸送船は米国が港湾を機雷封鎖すれば、北朝鮮には入れないので検討の余地さえない。
 これらの類型に限って集団的自衛権行使を認めるとしても、行使する必要がないのだから、容認に踏み切ること自体に意味がない。なにより米国が他国から攻撃される日が来ないとしたら、自衛隊の活動に何の変化も呼び込まないことになる。
 そのおかしさに気付いたのだろう。有識者懇談会の北岡伸一座長代理は「集団的自衛権を部分的に容認するのは法律の論理としてあり得ない」(2013年8月14日『東京新聞』朝刊)と述べている。集団的自衛権は全面解禁されるべきだというのである。
 こうなると話は違ってくる。米国が引き起こす、世界各地の戦争で自衛隊が米軍と一緒になって戦うことになる。北岡氏は「仮に米国が日本に集団的自衛権の行使を要請したとしても、時の政権が国民の納得を得られないと判断すれば、やらないだろう」(3月16日『朝日新聞』朝刊)というが、この説明に納得する人がいるだろうか。
 1991年の湾岸戦争で米国から求められ、ペルシャ湾に掃海艇を派遣したのを皮切りに、アフガニスタン戦争では「ショー・ザ・フラッグ(旗幟を鮮明にせよ)」と迫られ、イラク戦争では「ブーツ・オン・ザ・グラウンド(陸上自衛隊を派遣せよ)」と求められ、その都度、自衛隊を派遣してきたではないか。
 イラク戦争をふり返ってみよう。小泉純一郎政権は自衛隊を現地へ送り込む際、北朝鮮が日本を攻撃した時、日本を守るのは米国だ、だから米国を支援するのだという論法を使った。派遣された自衛隊は武力行使せず、人道支援に徹したが、憲法解釈が変わっていれば、米軍の戦闘に参加していたとしても不思議ではない。現に安倍首相は自民党幹事長時当時、雑誌のインタビューで、イラク戦争の英国のように日本も戦闘に参加すべきか、と問われ、「将来的には、それも課題だ」と答えている(2004年8月5日発行、AERA臨時増刊『自衛隊どうなるどうする』)。
 米国の知日派と呼ばれるグループは「アーミテージ・レポート」を三度にわたり発表し、毎回、「日本が集団的自衛権行使を禁止していることが、米英関係のような正常な同盟関係の障害になっている」と見直しを迫る。米国の戦争で米国の若者に代わり、日本の若者が死んでくれるようになれば、米国の負担は減るのだから当たり前の要求かも知れない。この米国の要求を突っぱねてきたのが憲法九条である。安倍首相は頑強な防波堤を自らの意思で破壊しようとしている。
 集団的安全保障への参加、すなわち国連の多国籍軍への参加も憲法解釈を変更する理由のひとつに挙げられている。集団的自衛権の行使には反対でも国連の集団安全保障措置への参加であればやむを得ないと考える人はいるのではないだろうか。
 1991年の湾岸戦争のあと、自民党は多国籍軍への参加について検討し、「実力行使を目的としない医療・輸送・環境保全などの人的協力にとどめるべきであり、それを越えた人的協力は刺し控えるべきだ」との見解をまとめた。武力行使と一体化しない範囲であれば、多国籍軍への参加も可能という考えさせられる見解といえる。
 だが、安倍首相は「積極的平和主義」を打ち出し、控えめな形での多国籍軍への参加には目もくれない。武力行使そのものにあたる「駆けつけ警護」に踏み切ったり、武力行使と一体化する支援活動に参加させたりしたいと主張して譲らない。
 憲法と政策の整合性に苦悩してきた自民党政権は、安倍首相の手にかかるとまるで過去の遺物である。首相は政策を憲法の上位概念にすり替え、思うがままの日本につくり替えようとしている。肝心の政策は。差し迫った自衛隊の活動が予定されていないので、類型のように「もし……たら」「仮に……れば」ばかりで、まるで空想の世界だ。
 この夢想家の勇ましさは、国内における自衛隊活動に波及している。見直しが検討されているのは、①離島に上陸した外国人を自衛隊が武器を使って排除する。②領海を潜って航行する潜水艦を武器を使って追い出す、③海外で日本人を救出するのに派遣した自衛隊の武器使用基準を緩和させる、などである。
 どれほど武器を使わせたいのだろうか。海外への武器提供を禁じた「武器輸出三原則」も全面解禁し、「防衛装備移転三原則」と名前をごまかして戦争への加担を隠蔽した。安全保障環境の悪化に、ここでも一役買おうというのである。
 安倍首相は第一次政権で「戦後レジームからの脱却」を掲げた。再登板後は2013年5月の参院予算委員会で一度、言及したにとどまっていたが、3月14日の参院予算委員会で「私は戦後レジームから脱却をして、(戦後)七十年が経つ中で、今の世界情勢に合わせて新しい、みずみずしい日本をつくっていきたい」と述べるまでになった。
 日本の戦後体制はサンフランシスコ講和条約から始まった。東京裁判(極東国際軍事裁判)を受諾し、国際社会へ復帰したのである。条約が規定する戦後の国際秩序からの脱却を試みるとするなら、戦後の方向性を示してきた米国が心穏やかでいられるはずがない。
 日本の軍事的な役割の拡大は、日米安全保障条約に規定した、「米国による日本防衛義務」と[日本による基地提供義務]という双務性を崩すことになる。「日米双方による相互防衛義務」が実現すれば、「基地提供義務」を見直すきっかけとなり、首相のいう「日米同盟の強化」とは裏腹に米国から距離を置くことになる。そのことを首相は認識しているだろうか。それこそが究極の狙いで、母方の祖父、岸信介首相のように自主防衛を目指すのだろうか。
 2013年12月26日の靖国神社への参拝は、日本の首相として米国から「失望した」と非難された。首相と側近が放つ歴史認識に関する強烈な言葉やその行動は米国、韓国、日本の参加国の連携を困難にし、韓国を中国に向かわせて米国の国益を損なわせている。米国は安倍首相の存在こそが東アジアの不安定要因と考え始めているのではないだろうか。
「戦後レジームからの脱却」によって現われるのは「新しい、みずみずしい日本」などではない。「古くて、二度と戻りたくない戦前の日本」なのである。
 本書は、安倍政権が憲法九条を空文化して「戦争が出来る国づくり」を進める様子を具体的に分析している。法律の素人を集めて懇談会を立ち上げ、提出される報告書をもとに内閣が憲法解釈を変えるという「立憲主義の破壊」も分かりやすく解説した。
憲法解釈が変更され、集団的自衛権が行使容認となれば、将来、起こるかも知れない「第二次朝鮮戦争」で何が起こるのかを自衛隊の極秘文書を基に詳細に記した。米国から「強固な国粋主義者」と呼ばれる首相の驕り、勘違いの数々と、憲法の枠内で頑張る自衛隊の活動との落差も知ってほしい。自衛隊の中に潜む、首相と共通する心情が目覚めかねない危険も書き込んでいる。」半田滋『日本は戦争をするのか  ――集団的自衛権と自衛隊』岩波新書、2014、pp.i-ix. 

 これは冒頭の序文だが、この時点で危惧されていた事態は、安倍政権が終り、元首相が世を去っても、基本的には変わっていないどころか、戦争の予感はますます強まっている。改めて、これを読んで考えたい。


B.国を逃げ出すということ
 1989年、ぼくはドイツ(当時は西ドイツ・BRDドイツ連邦共和国)のある町にいて、当時閉ざされていた国境が少し開いた東ドイツ(ドイツ民主共和国DDR)から逃げ出した人々を、フルフトリンゲ(逃亡民)と呼んで歓迎していたと思ったら、まもなくベルリンの壁が壊れ、東側の政権が崩壊してドイツ統一へと進んだ。自分の祖国を逃げ出すというのは簡単な選択ではない。でも、自分の国に希望を持てなくなった時、とりあえずもっと生きやすい場所へ逃げる、という選択ができる人は幸せなのかもしれない。今の中国は、あの頃の東ドイツのようなどんづまりの国家ではないが、弾圧された反体制派や貧困に苦しむ難民ではなく、資産や能力のある富裕層が逃げ出しているとしたら、やはり望ましい未来が期待できない国なのかもしれない。

「多事争論  中国脱出の波:狭まる自由 ゼロコロナで加速  編集委員 吉岡 桂子 
 中国で「新民潮(ブーム)」が起きている。
 南京出身の何培蓉(ホーペイロン)さんに東京で会った。1972年生まれ。英語教師を経て、四川省など西部の貧困家庭の教育を支援するNPOを組織していた。
 出国は10月。タイにしばらく滞在した後、11月初めに来日した。数年前の日本訪問時に、何度でも出入りできる査証(ビザ)を取得していたことが役立った。
 「とにかく自由な空気を吸いたい。最終的にどの国で住むかは決めていませんが、中国に戻るつもりはありません」
 彼女は10年前、盲目の人権活動家、陳光誠さんを支援していた一人だ。陳さんは「一人っ子」政策のもとで強制的な中絶や不妊手術が横行していることを告発し、捕らえられた。長く軟禁されていた山東省の自宅から逃げ出した彼を、何さんは北京まで車で届けた。陳さんは米国大使館に保護され、今は米国で暮らす。
 彼女も当局に拘束されることもあった。
 だが、「人々が変化を求める限り、中国の民主化は一歩一歩進む」と希望を捨てなかった。国内にとどまり、その一歩の後押しをしてきたつもりだ。
 「楽観的すぎましたね」
  •      *      *  
 自由は想像を超えて急速に狭まった。例えば、理由は明らかにされないまま高速鉄道のブラックリストに入れられてしまい、身分証の番号が必要となる切符は買えなくなった。サラニ「ゼロコロナ」で動きがとれず、NGOの活動まで難しくなった。
 政治的に重要なイベント、3月の全国人民代表大会の会期中は、公安に「観光」を名目に強制的に省外に連れ出された。当局者数人と車に乗り、奇妙なドライブが続いた。SNSなどで意見を発信できなくするためである。
 中国政府は出国制限を強化している。往来を抑えるコロナ対策を理由にするが、人材や資金の流出への警戒と受け止められている。「出るなら早い方がよい」。中国共産党大会の直前に中国を離れた。
 箱根、京都――。本物の「観光」を味わいながら、日本で暮らす知人を訪ねて将来に向けて意見交換している。
  •      *      * 
 もうひとり、上海から知り合いの女性が近く、大阪にやって来る。30代半ばの会社経営者。お金持ちだ。ロックダウンで「心が折れた。人間らしい生活がしたい」。
 夫と別れて一人で育ててきた2人の子供は、英国の寄宿付き学校へ送る。自らは「何度も旅行して文化が大好きになった」日本で、知人の会社に身を寄せる予定だ。
 マンションで感染者が出ればいっせいに封鎖される。受診を拒まれたお年寄りや妊婦が亡くなる。モノがあふれる上海で飢える人も出た。自殺者のうわさも絶えない。気持ちはどんどん沈んでいった。
 習近平体勢で言論弾圧が強まった5年ほど前から、人権活動家、作家や記者などが追われるように母国を離れる動きが加速した。そして、コロナ禍の今。脱出の波は、都市部にすむ富裕層を中心とした「ノンポリ」にまで広がる。「勝ち組」が国を離れたがっている。デジタル技術を駆使した徹底的な管理で自由が奪われる日常は、民主派だけのものではなくなったからだ。
 「解放されたい」。そう願う人たち向けに、移住先の比較や資金の移し方を指南するオンラインの番組がたくさんある。日本は「欧米よりも会社を立ち上げやすくビザが得やすい」「漢字文化圏で、食べ物など生活もなじみやすい」などという理由から、人気の目的地の一つにあがる。
 「潤」という言葉が中国ではやっている。この字の中国語のローマ字表記は「RUN」。「逃げる」という意味である。
 国家に自分の人生の手綱を握られたくない人たちが、自らの「足」で習氏への不信任の票を投じ始めている。」朝日新聞2022年11月19日朝刊13面オピニオン欄。
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かつて左(ヒダリ)の思想があった…後編  情ではなく志!

2022-11-18 12:24:58 | 日記
A.「戦後思想家」たち 
 戦前の弾圧時代を経て現在も合法政党として存在する日本共産党は、同じ名前の政党として最も長く続いていることで、その一貫性と正統性を主張しているけれど、その歩みは治安維持法による弾圧、内部の分裂や路線対立、コミンテルンとの関係をめぐり紆余曲折があった。昭和のはじめ、1928(昭和3)年の「三・一五事件」で共産党中央が大打撃を受けるまで、当時の若いインテリたちにとって、共産党の存在は大きな魅力を放っていたと思われる。このあたりをちょっと調べてみると…

「満州事変」の始まった1931年から1932年10月の一斉検挙(熱海事件)までが、戦前において共産党がもっとも発展した時期であり、最大時党員数約500名、『赤旗』7000部を記録した。しかし、1933年以降の党幹部の相次ぐ転向、当局の取締りの強化やスパイ・挑発政策、方針上の不十分さもあって党内に分派を生じ、党勢力は急速に弱体化していく。1935年3月、最後の中央委員の検挙によって、党中央委員会は最終的に壊滅した。第二次世界大戦前の共産党は、綱領草案、「二七年テーゼ」、「三二年テーゼ」、「日本の共産主義者へのてがみ」などの綱領的指針に基づいて活動を進めた。これらのなかで、天皇制の廃止、18歳以上男女普通選挙権、土地解放、朝鮮・台湾・中国からの軍隊の撤退、侵略戦争反対などの平和と民主主義の要求が掲げられた。党の基本戦略は、ブルジョア民主主義革命から社会主義革命に発展転化する二段階革命路線であった。(Wikipediaの記述)

 ロシア革命以後のマルクス主義による革命運動は、世界に広がり、これが20世紀の未来を拓くと考えた学生や知識人が、新しい思想と政治運動として共産党に憧れの視線をもって身を投じた。この時代の雰囲気は、例えば広津和郎「風雨強かるべし」などに描かれている。しかし、政府当局や支配層は強い危機感をもって徹底的な弾圧を行い、共産党幹部は革命路線の展望を失って転向し、マルクスの本を持っているだけで逮捕されるような状況が来る。そのような記憶すら抹消されて、遅れてきた昭和一桁世代は、マルクス主義がどういうものか、知ることもできなかった。

 「すでに述べたように、「戦後思想」第一世代は20歳前後でアジア侵略戦争に反対して左翼運動に参加し、そのほとんどすべてが治安維持法違反にて逮捕・留置経験がある。この過程でこの「世代」の人々は、植民地独立を求める朝鮮人、そして侵略戦争に反対する中国人と、「運動」という空間において、接触・交流を持つ機会を有した。
 当時の共産主義運動には多数の朝鮮人が参加していた。日本帝国主義からの独立を掲げる有力な政治団体が他に存在し得なかった以上、このことは決して不思議なことではない。党組織のみならず、共産党指導下の労働組合「全協」などのリーダー、サブ・リーダーに関しても朝鮮人はかなりの割合で参加していた、と推定される。
 例えば、「帝国」日本の植民地、台湾に生まれ育った埴谷雄高は「支配者」、「抑圧者」の側に自らが所属することを「裂け目」として発見した幼年期の経験を思想的原点として繰り返し振り返っている。埴谷はプロレタリア研究所に所属しながら、小作争議を中心とした農民闘争に派遣され、1931年に逮捕されるが、この過程で少なくない朝鮮人と出会ったと思われる。
 世上では形而上学的な小説として著名な『死霊』においては、数少ない登場人物のなかに、地下印刷工場の責任者として李奉洋という朝鮮人が登場する。これは一定期間運動に参加した埴谷にとってごく「自然」な設定であった、と考えられる。
 埴谷と同じく『近代文学』創設同人であった荒正人は、満州事変勃発時、旧制山口高校在学中にやはり反戦運動に関わって逮捕されているが、――当時山口は炭鉱労働者として朝鮮人が多く在住していた地域――高校でのReading Societyのリーダーは「任沢宰」という名の朝鮮人であり、荒はこの人物から強い影響を受けたと戦後繰り返し語っている。
 また荒は日中戦争勃発後の1939年の12月に、――いわば言説による「最後の抵抗」として――創刊された『現代文学』において朝鮮人作家金史良(1914生)の『光のなかに』について論じている。
 金史良についての荒の関心は戦後も持続し、1968年の「改装・昭和文学四十年」では、「アイルランド人がロンドンに出てきたならば、こういう体験をするかもしれぬと思わせる点」が『光の中に』の特徴である、と述べている。続けて荒は金史良を「パリに住み、はじめはイギリス語で、後にフランス語で発表し、自作のあるものは母国語に翻訳」し、「パリではアイルランドから来た作家であり、ダブリンではパリに行った文学者である」S・ベケットと比較している。
 さらに荒は1977年の「八・一五をめぐって」においては、旧制高校時代の記憶として、「満州」から来た学生たちを「アルジェリアからパリにやってきたフランス人学生(例えばL・アルチュセール(1918生)、J・デリダ(1930生)、ただし正確には「ユダヤ系フランス人」)と比較した記述がなされている。
 このような「帝国」内の移動についての研ぎ澄まされた感性は、やはり運動内部での朝鮮人たちとの若き日の出会い抜きには考えられない。
 1933年から34年にかけて朝鮮独立運動家の秘書を務めたとされる花田清輝は、1938年に「民族問題の理想と現実」を発表している。ここで花田は「東亜共同体」という「掛け声」を朝鮮半島の「現実」に対比させ、「ひとたび半島の現実に触れるならば」、満州国の「五族協和」、あるいは「同様同文」、「共存共栄」などの美辞麗句は「空しい響きを放ち始める」と相当程度踏み込んだ批判をしている。
 また花田は1952年の「外国文学の紹介の現状」において、A・カミュの『異邦人』について、「誰一人、作中の人物の一人である、犬の如く射殺されてしまったアラビア人の立場から、植民地における裁判の描写の文学的虚偽を指摘」していない日本の文学研究・批評のあり方を批判している。この花田の視点は、E・サイードの『異邦人』批評と明白に共振するものであり、当時の日本の批評としては群を抜いたものとして評価できるだろう。
 竹内好(1910生)と武田泰淳は「中国文学研究会」の活動を通じて、魯迅の実弟である周作人や亡命中の郭沫若――いわば当時すでに大知識人――と交流を持っていた。当然両者とも日本の中国侵略に対して明確に批判的であった。
 武田泰淳は1943年に『司馬遷』を、竹内好は1944年に『魯迅』を出版している。この二つの書物は日米開戦後のアジア・太平洋戦争を知的に正当化する役割を果たした京都学派中央派・右派の「世界氏の哲学」と「大東亜共栄圏」の言説を批判するテクストである。
 ただし、竹内は、泰淳と比較した場合、1910年以来「帝国」の植民地とされていた朝鮮半島に対する関心がほぼ欠如していることが特徴である。これは竹内が泰淳と異なり日本帝国主義からの「植民地解放」を唱えるマルクス主義の洗礼をまったく受けていないこととも関連するだろう。この両者の差異は、1950年代初頭の「国民文学論」において、大きく前景化することとなる。
戦後思想「第二世代」は、さきに述べたように左翼運動に関与する可能性がなくなっているため、国内に生まれた人々、とりわけ「マチネ」の同人たちは、朝鮮人及び中国人と「運動」という空間において交流する機会が予め奪われていた、と言ってよい。
 ただし、日高六郎と堀田善衛はそれぞれの個人史的背景から、日本「帝国」の侵略の犠牲になった中国・中国人との接点が発生していた。
 日高六郎はWWⅠの際に、ドイツから奪取して以来植民地としていた中国山東省青島に生まれ育ち、堀田善衛は、1945年3月の東京大空襲の後、あえて上海にわたり、その地で武田泰淳とともに敗戦を迎えた。つまり堀田と泰淳はその日を境に、「占領者」の側から「敗戦国民」、しかも無条件降伏であるために、生命・身体の安全を含め、およそ何の保証もない側へ、と移行することとなった。
 日高は敗戦直前の1945年7月に海軍技術研究所に「国策転換に関する所見」を提出し、台湾・香港の中国への返還と朝鮮の独立を主張した。その際、日高は、当時陸海軍上層部に絶大な影響力をもっていた「皇道史観」の主唱者、平泉澄から「君の意見は国体を危うくするものである」と激しく叱責された。その間、日高六郎は冷たい「恐怖」の感覚に晒されていた。海軍技研側の対応は「解職」であった。
 「植民者(colon)」として生まれ育った日高六郎は、「中国侵略戦争」への批判のみならず、朝鮮・台湾を含めた「帝国」の解体までの展望をすでに獲得していた、と言えるだろう。
 堀田善衛は、1947年に帰国するまで、日本人・中国人の他に亡命ロシア人、ユダヤ人、朝鮮人、インド人、そして南米からの渡航者で溢れた、「国際都市」=「雑種都市」上海にて暮らすことになる。この間、堀田はこの「国際性」=「雑種性」に戸惑いながらも、同時に「占領者」日本と「非占領者」中国との苛烈かつ複雑な対立・抗争を生身に刻み込まれるように経験した。
その経験の「闇」は戦後発表された『時間』『歴史』あるいは死後出版された『堀田善衛上海日記――滬上天下一九四五』などを通じて垣間見ることができる。
 渡辺一夫と同じように完全に周囲から孤立していた「マチネ」のグループは、1943年に「敵性音楽の廃止」の布告が出た際、黒枠のはがきを出した加藤周一の「招集」に応じて、「ジャズ・レコード」の死を悼むささやかな音楽界を催した。また戦時下でも公共の場所で洋書を読むことをやめなかった彼らは、しばしばバスから引きずり降ろされて殴られていた。 
 ( 中 略 )
 1945年8月15日に日本がポツダム宣言を受諾。敗戦が決定してから、「戦後思想家」たちの動きは素早かった。
 最初の烽火は、敗戦決定から一月あまりのうちに準備され、1946年1月に創刊された『近代文学』によって挙げられた。そこでは埴谷雄高が『死霊』を発表し、佐々木基一(1914生)や福永武彦が小説を連載しはじめていた。そして二月号、四月号、六月号には荒正人が「第二の青春」「民衆とはたれか」「終末の日」を発表して、30年代の共産主義の思想と運動を脱構築した「政治」の可能性を描き出した。またこの論文をめぐって発生した中野重治との論争においては平野謙がいわゆる「ハウスキーパー」制度を取り上げて、左翼運動内部の深刻なジェンダー問題を提起して一歩も譲らなかった。
 また丸山眞男、川島武宜(1909生)、中村哲(1912生)、内田義彦(1913生)等の社会科学者たちは1946年2月に「青年文化会議」を創立し、議長川島武宜が「軍国主義に屈服するに至った旧い自由主義者たちと決別」という文言を含む「宣言」を起草した。また同年、都留重人、丸山眞男、鶴見和子、鶴見俊輔等を同人とする『思想の科学』が創刊される。
 さらに同年には雑誌『世界』に加藤周一、中村真一郎、福永武彦の文章が連載されはじめる。すでに1946年3月には「天皇制を論ず――問題は天皇制であって天皇ではない」において「天皇制」の可及的速やかな廃止を主張していた加藤周一は、連載初回に「新しき星菫派に就いて」を発表し、非政治的な「美学主義」を批判した。
 ここで加藤が批判しているのは、「かなりの本を読み、総統洗練された感覚と論理を持ちながら、凡そ重大な歴史的社会的現象に対し新聞記事を繰り返す以外一片の批判もなしえない」美学主義である。仮にそうした「美学主義的」態度が「狂信家の騒動から面を背けた」としても、それは「意識的な孤独の追求ではなく、動物的な逃避反射である」と加藤は言う。
 このような態度の人々は「寸毫の良心の呵責を感じることなしに、最も狂信的な好戦主義から平和主義」へと豹変する、と加藤は断じる。
 アドルノの「アウシュビッツの後で詩を語るのは野蛮だ」という言葉にも通じる加藤のこの「美学主義」批判の射程は、ハイデガーとゴットフリート・ベンを論じた1957年の「ゴットフリート・ベンと現代ドイツの『精神』」、そしてP・ラクー=ラバルトの論文を参照しながらハイデガーの「ナチスの積極的支持」に言及する。1988年の「宣長・ワルトハイム・ハイデガー」へと連なっている。
 しかしそれだけではない。1995年の「フレーゲの日記」においてはL・ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』の序において、敬意をもって言及している論理学者G・フレーゲの厳密な論理学主義と「狂信的な軍国主義と激しい反ユダヤ主義」の結合に注意が払われている。
 加藤は1960年以降十五年以上のブリテッシュ・コロンビア、ベルリン自由大学、イェールなどの欧米の大学で教鞭をとった経験から。非政治的な「論理学主義」ないしは「科学主義」がベトナム戦争、あるいは一般には「第三世界」への米国の非道な介入、内戦の扇動、政権の転覆、そして侵略戦争をまったく批判できないことに気づいていたのである。
 「現代ヨーロッパにおける反動の論理」への1979年の「追記」では「自由市場」の無条件「超国家主義の論理と心理の絶対化と「疑似科学主義」を「英米型の反動思想」としている。
 21世紀の今日、唯一の超大国となったアメリカとイギリスの同盟によって、この加藤の言う、「英米型の反動」が米国の覇権の下での新自由主義グローバリズムとして世界を席巻している、といっても過言ではないだろう。
 さて、1946年には吉野源三郎を初代編集長として創刊された『世界』に丸山眞男が「超国家主義の論理と心理」を発表する。丸山はこの論文を書く過程で従来の「立憲君主制」としての「天皇制」の支持者から「共和主義」者へと移行した。
 また同年、野間宏「暗い絵」、梅崎春生(1919生)「桜島」、1949年椎名麟三「深夜の酒宴」、中村真一郎「死の影の下に」、そして1948年には福永武彦の「塔」、島尾敏雄(1917生)「単独旅行者」、安倍公房(1924生)「終わりし道の標べに」などが相次いで発表されることによって、いわゆる「戦後文学」の空間が一挙に前景化することとなる。
 しかし、WWⅡ末期にはすでにはじまっていた米ソの対立は、1946年にはW・チャーチルの「鉄のカーテン」演説、47年には「トルーマン・ドクトリン」の発表として顕在化し、48年ベルリン封鎖、49年にはNATOの成立によってユーラシアの西では一気に「第三次世界大戦」への緊張と恐怖が高まることとなる。
 対して、ユーラシアの東では1949年に始まった国共内戦はスターリンも含めた大方の予想に反して、毛沢東率いる中国共産党の勝利に終わり、1949年10月には北京を首都とする中華人民共和国の成立が宣言された。
 このような国際冷戦レジームの構築と同時に連合国=米国の日本占領の目的も、「非軍事化」と「民主化」から、いわゆる「逆コース」へと急速に転換される。そして農地改革・労働改革、そして日本国憲法の影の父とも言えるH・ノーマン(1909生)と民政局次長C・L・ケーディス(1906生)はいずれも更迭され、日本を去った。
 ユーラシアの東西の「戦後思想」は、ここに「独立左派」として「国際冷戦レジーム」への抵抗、そして「脱植民地化」への応答、という新たな課題に直面することになる。
 しかし、このことについては、いずれ稿を改めて論じることとしたい。」三宅芳夫「戦後思想の胎動と誕生 一九三〇‐一九四八 世界史の中の反ファシズム」(『世界』2022年11月号、岩波書店、pp.103-109.

「戦後思想家」を加藤周一、丸山眞男、鶴見俊輔などに代表させるのが妥当かどうか、ここにあげられる他にも重要な人はいると思う(たとえば吉本隆明)。しかし、加藤も丸山も鶴見も、共産党やマルクス主義とは距離を置いたリベラルであった。いわゆる左翼の言論人の主流は、共産党や共産党から袂を分かった新左翼の方にあったと思う。そして戦後のこのマルクス主義革命路線は、1970年前後を境に急速に退潮し、そこに共感を感じていた若い学生たちも、連合赤軍事件でこりゃあもうダメやな、と思って運動を去っていった。ある意味で戦前の革命運動を再度繰り返したようにも見える。いまの若い世代は、そのようなことがあったこと自体知らないし、ある意味免疫がない。新たな「戦後思想」いや「戦前思想」が出てくるのか?


B.幕末の負け組のゆくえ
 会津藩は徳川家光の異母弟、保科正之を藩祖とする表高23万石の親藩である。幕末には実質40万石の内高にあり、御三家水戸藩より豊かだったといわれる。それが幕末に、京都守護職という重責を担い、新撰組などを配下において政局の中心にいたために、薩長の憎しみを買い、戊辰戦争で会津は籠城の末敗北した。その会津藩士、秋月悌次郎は明治以後、どのような人生を送ったか。江戸時代の「学問」といえば漢学、つまり儒学であり朱子学をはじめとする漢籍の教養である。秋月という人は、漢学者だったという。

「多事争論  敗者が知る真実:私情よりも志 歴史の戒め オピニオン編集部記者 駒野 剛
 古来、勝者と敗者がいて、歴史に刻まれるのは勝者の言葉といわれる。
 勝者が国家なり組織を掌握する一方、敗れた側は命を失ったり、遠くに逃亡したりして、歴史を残す作業からは排除される。
ただ、まれに歴史の法廷に残り、自分に続く者たちへいかに生きるべきかを説いた人がいる。江戸時代後期から明治にかけて生きた秋月悌次郎という漢学者がいたそうだ。
漢学者は一面で、今風に言えば外交家であり、開拓者でああり、教育者でもあった。学識も人柄も優れた人だったからだろう。
1824(文政7)年、東北の会津藩士の家に生まれた。外国船が日本周辺に現れ鎖国制が揺らぐ一方、海外では産業革命が本格化し、英国マンチェスターーリバプール間で鉄道が開通するという頃。地球全体が結ばれる時代が始まろうとしていた。
優秀な秋月は反抗日清間で学んだ後、23歳から幕府の学問所昌平黌で学び続けた。
激動が本格化していた。昌平黌に来て7年後にペリーの黒船が来航、翌年日米和親条約が結ばれ鎖国は終わる。開国に不満を持つ攘夷派は、大老井伊直弼を桜田門外で襲い、幕府の権威は地に落ちていった。
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 天皇を擁し国内流動化の中心となった京都で、治安維持を任されたのが会津藩だった。藩主松平容保は京都守護職に任じられ、秋月もその下で公用方の一員になる。
 公用方の任務は藩主を補佐して政策を立案、政策を実現する対外交渉や情報収集で、秋月はうってつけの人材だった。
 昌平黌時代は薩摩藩士らと交流を重ね、その後も長岡藩の河井継之助や水戸藩の武田耕雲斎らと本音で語り合ってきた。
 秋月が存在感を示したのが、1863(文久3)年、攘夷派の中心長州藩とそれに近い公家らを京都から追い落とした8月18日の政変だ。薩摩藩の高崎佐太郎らと協力して朝廷を動かして成就させたのだ。
 しかし2年後暗転する。突如、蝦夷地(北海道)斜里の代官転任を命じられたのだ。活躍をねたむ人々が藩内にいたのだろうか。あたかも、坂本龍馬を介して薩摩と長州が同盟を結ぼうとする前夜だった。
 翌年、帰還命令が届くが、時代の変転に抗すべき手はない。大政奉還、鳥羽伏見、会津戦争と負け続け、最後、降参の手続きを差配したのも秋月だった。
 冷静だった。国敗れて何もかも失った時、残されたのは人づくりだ。かつて萩で会った官軍の奥平健輔に会津の有望な少年の教育を委ねた。その1人が物理学者で東京帝大総長になる山川健次郎である。敗軍責任者の罪に問われ御社になるのが1872(明治5)年。晩年は教育に生きる。
 熊本市の熊本大学構内。教壇に立った旧姓第五高等学校が立つ。儒教の祖、孔子の論語にある「剛毅木訥」の校風を残した。
 5年務めた去り際、秋月はあいさつした。自らの経験を振り返りつつ、九州や西国は多くの人材を生んだことを指摘しながら、薩摩の西郷隆盛、桐野利秋、長州の前原一誠、奥平謙輔、肥前の江藤新平、皆一流の人物だったが、乱を起こし失敗に終わった。なぜか。「これ志に従わずして情に従いたる」ためと喝破し、学生らを戒めた。敗者ゆえに知る歴史の真実を見る。
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志とは何か。やはり儒教の言葉「修身斉家治国平天下」が彼の脳裏にあったろう。
天下を平らかにしようとする者は、まずその国を治める必要があり、そのためにその家を整える必要があり、そのためにその身を修める必要がある。きわめて単純明快な原理で、平らかな天下こそ理想だ。
だとすれば、今の政治は志からかけ離れていないか。首相秘書官、国葬、山際大四郎氏らの要職登用……。身内を重用し、国事に私情を差し挟み、己を律し得ない人の責任を問わない。
 私情が志に勝った先に天下があったのでは、それが平らかな姿になるわけがない。」朝日新聞2022年11月13日朝刊13面、オピニオン欄。
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