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明治の宗教革命 廃仏毀釈 5 『新論』 『自殺論』

2020-09-30 21:58:17 | 日記
A.後期水戸学の排仏論
 明治の廃仏毀釈には前史がある。江戸期以来の宗教政策をめぐって包括的な考察をしている書物として、安丸良夫の『神々の明治維新』(岩波新書 1979年)がある。廃仏毀釈の意図と意味について考えるために、今度はこの本を少し読んでみる。まず冒頭の「はじめに」から。

 「王政復古の大号令に神武創業云々の一句をいれたのは、国学者玉松操の意見によったもので、玉松は、建武の中興よりも神武天皇による国家の創業に明治維新の理念を求めるべきだと主張した。神武天皇の国家建設が祭政一致の原則にもとづくものとされたのは、即位前の天皇が丹生川の川上に天神地祇を祀ったことや、即位の翌年に鳥見山に霊畤をたてて皇霊を祀ったことなどに由来するとともに、その国土平定過程が神々の霊威に助けられた神政政治的な様相を持っていたからであろう。こうした記紀の記載を古代の律令制のもとでの神祇官の制度に結びつけて独特の国体神学が構成されたのだが、それが現実政治の場で具体的な役割を果たそうとする時代がやってきたことを、右の布告(慶応四年の神祇官再興の布告:引用者注)はあらわしていた。
 いうまでもなく、こうした国体神学の抬頭には、水戸学や後期国学につちかわれた歴史があった。しかし、一般的な国体観念や尊王思想はともかくとして、神仏分離や神道国教化政策をささえたような理念が、尊王攘夷運動や倒幕運動のなかに具体的内実をともなうものとして共有されていたのではなかった。そうした国体神学の信奉者たちもたしかに存在はしていたが、彼らは幕末の政治過程では傍流を占めていたにすぎなかった。ところが、新政府が成立すると、彼らは、新政府の中枢をにぎった薩長討幕派によってそのイデオローグとしえ登用され、歴史の表舞台に立つことになったのであった。薩長討幕派は、幼い天子を擁して政権を壟断するものと非難されており、この非難に対抗して新政権の権威を確立するためには、天皇の神権的絶対性がなによりも強調されねばならなかったが、国体神学にわりあてられたのは、その理論的な根拠づけであった。
 こうした政治状況に加えるに、対外関係の緊迫のなかでのキリスト教の影響力についてのつよい不安と恐怖とがあった。キリスト教についての不安と恐怖が誇大妄想的なものになりやすかったのは、それが人心の一般的な動向についての不安と恐怖の反映だったからである。新政府の開国和親政策のもとでは、キリスト教の浸透は不可避だと考えられ、これに対抗するためには、民族的規模で意識統合をはからねばならず、そのためには神道国教主義的な体制が必要だと考えられた。こうした状況把握と課題意識には、今日の私たちには容易に追体験しえない緊迫と焦燥の思いがつきまとっていたが、しかしそれは、近世後期以降の国体思想の主要なモチーフといってよいものでもあった。」安丸良夫『神々の明治維新 —神仏分離と廃仏毀釈― 』岩波新書103、1979.pp.3-5. 

 幕末において、尊王思想と国体論という立場から、西洋列強への強い危機意識をいだいた当時の人々に、大きな影響を与えた水戸学の思想家、会沢正志斎の『新論』について、安丸はその文章を引用してかなり詳しく論じている。

 「『新論』は、対外関係の切迫のもとで国体論による人心統合の必要を強調し、そのための具体的方策を国家的規模での祭祀に求め、祭・政・教の一体化を主張した。「億兆心を一にして」というような用語法や忠孝一致の主張にもあらわれているように、のちの教育勅語や執心教育の淵源となる性格の強い書物である。ところで、『新論』がこうした人心統合に対立させているのは「邪説の害」であるが、それはより具体的には、さまざまの淫祀、巫覡、キリスト教なども含めた、ひろいい意味での宗教のことにほかならない。一向宗にふれた箇所を引用してみよう。
  一向専念の説作(おこ)るに至りては、すなはち名祠・大社の祀典に在るものといへども、これを瞻(せん)礼(れい)するを許さず、以て本に報い始めに反るの心を遏絶(あつぜつ)して、専ら胡神(外国の宗教)を奉ぜり。民ここを以て西戎あるを知りて、中原あるを知らず、僧尼あるを知りて、君父あるを知らず。その叛乱するに及んでは、すなはち義に仗(よ)りて賊を討つ者を指して、以て法敵となし、すなはち一時、忠烈の士をして、弓を挽(ひ)き戈(ほこ)を揮(ふる)ひて反って君父に仇せしむるに至る。忠孝の廃し、民志の散ぜるは、極れりと謂うべし。
 日本の国内だけで考えれば、宗教のこの反秩序性は、信長や家康によるきびしい禁圧と統制とによって、現実に秩序をおびやかすほどの意味をいまはもっていないともいえよう。しかし、そとからあたらしい力が加わるなら、宗教というものがもっている身分制秩序との原理的な敵対性は、現実に秩序をおびやかすものとしてふたたび活性化してくるだろう。このように考える『新論』にとっては、幕藩体制のもとで、諸宗教がきびしく統制されているという事実だけでは、すこしも安心できない。そうした眼前の現実よりも島原の乱のような歴史的経験――ひとたび妖言を信じた人々の死を恐れない闘争力――の方が、はるかに鋭いリアリティとして迫ってくるのであった。
 『新論』は、ヨーロッパ列強の圧力を貿易の利益と宗教の魔力によって民心を誘うものとしてとらえたが、とりわけ宗教こそ、夷狄が好んで「伎倆を逞しくするところ」であるとされた。
  故に人の国家を傾けんと欲せば、すなはち必ずまづ通市(貿易)に因りてその虚実を窺ひ、乗ずべきを見ればすなはち兵を挙げてこれを襲ひ、不可なればすなはち夷教を唱へて、以て民心を煽惑す。民心一たび移れば、箪(たん)壺(こ)相迎へ、これを得て禁ずるなし。而して民は胡神のために死を致し、相欣羨(きんせん)して以て栄となし、その勇は以て闘ふに足る。資産を傾けて、以て胡神に奉じ、その財は以て兵を行(や)るに足る……。
 こうした捉え方の特徴は、キリスト教という夷狄の宗教に民心を奪う魔術的な威力を認め、民心がひとたび移れば衆寡逆転し、とうてい列強の侵略に敵対しえない、と恐怖していることである。宗教は、それ自体魔術的なものであるがゆえに容易に制御しがたいのであり、民心をたやすく蠱惑してしまう、忠孝などの身分制倫理を内面化していない民衆は、その誘惑に抵抗しえないだろう、というわけである。キリスト教の魔術的な威力と民心の動向という二つの容易に統御しえないものが結びつけられて、想念のなかで危機意識がいっきょに膨張するような仕組みになっている、といえよう。
 これは、ヨーロッパ列強の東洋進出のあり方についても、民心の動向についても、現実をリアルに認識することによってうちたてられた思想ではない。ここで顕著なのは、キリスト教の魔力と民心の動向という二つの測りがたく制御しがたい力をもちだして結びつけ、惰性に支配されている同時代の人々のなかに、圧倒的に強い危機についての実感を醸成させようとするイデオロギー性である。会沢からすれば、幕藩制社会は、制度的にも意識的にも惰性に支配された巨大なカラクリであって、内外の危機にすばやく対処しうる鋭敏さと可塑性に欠け、旧慣墨守と偸安(とうあん)の精神とが支配している。しかし、そのなかで人々は、漠然とではあれ、内と外から危機が迫っていることを予感しはじめており、不安の感覚にとらえられかけている。そこで『新論』は、人々のこの不安の感覚に点火してそれを危機意識にまで高め、そこから状況を突破する巨大なエネルギーをひきだそうとするのである。そのさい、とらえどころのない魔術的な威力としての宗教がクローズアップされてくるのは、会沢たちのまだ漠然とした、しかし圧倒的につよい危機意識にふさわしいことだった。
 これが『新論』の設定した煽動的戦略の大枠であり、その後の状況の推移を規定するほどに大きな影響力をもった問題設定であった。一見、きわめて強大で安定しているように見える幕藩制国家は、じつはその内部にかかえこんでしまった脆弱性と無智の影として、みずからの力では制御することのできない魔術的な威力にたいする恐怖を昂進させてきているのだが、『新論』は、この恐怖を逆手にとることによって、構造的な転換を模索しているのだ、といえよう。
 こうして『新論』は、海防や経済についてのより具体的な提言をこえて、人心を統合して体制的な危機に対処しようという、より基軸的な問題設定に成功した書物だった。そして、そのための具体策は、「典礼教化」、すなわち、村々の産土社を底辺におき、「天社(あまつやしろ)・国社(くにつやしろ)」を頂点においた国家的祭祀の体系であった。キリスト卿や仏教などの異端の教えは、来世と魂の行方についての妄誕を教えることで人心をとらえているのだから、それに対抗するためには、死者の魂の行方をあきらかにして「幽明」を治める「祀礼」が、国家的規模で確立されなければならないというのである。これは、平田篤胤以降の後期国学の主張にほぼ重なる思想であり、明治初年の宗教政策を根拠づける考え方であった。『講道館記述義』なども『新論』とおなじ立場にあり、会沢は、年間の祭祀を具体的に論じた『草偃(そうえん)和言』という著作も著している。明治初年に急進的な廃仏毀釈を推進したのは、水戸学や後期国学の影響を受けた人々であった。
以上の事例のほか、経済的な理由で寺院の整理と僧侶の還俗を主張する経世思想や、国体思想・神国思想の立場からの仏教批判や、国学者や神道家による神葬祭運動などがあった。寺院の繁栄や僧侶の腐敗を攻撃する常套的な主張は、いっそう多かった。広い意味での仏教批判は、十八世紀からさかんになり、これに対抗して、仏教側からは護教的な論著も出されるようになった。そして、仏教批判と国体論・神国論の盛行というこの動向は、一般的には明治初年の宗教政策の背景となった事実ではあるが、しかし仏教批判などの個々の言説は、内と外から迫ってくる巨大な危機についての自覚と結びつくことで、はじめて大きな歴史的意味をもったのであり、その点では水戸学や後期国学の構成し得た論理の方に、一つの時代を領導するだけの力能があったのである。
さらに、明治初年の新政府の宗教政策の直接的前史をなすものとしては、水戸藩、長州藩、薩摩藩、津和野藩などにおける寺院整理と廃仏毀釈があった。このうち、水戸藩と長州藩のそれは、天保改革の一環としてなされ、薩摩藩と津和野藩のばあいは、明治維新直前になされた。水戸、長州、薩摩が勤皇派を代表する雄藩だったことはいうまでもないが、より具体的な人的系譜からいっても、神祇官などで明治初年の宗教政策を担当したのは、薩摩、長州、津和野三藩の出身者が多かった。ここでは、明治初年の宗教政策との関連に留意しながら、水戸藩と長州藩の出身者が多かった。ここでは、目時初年の宗教政策との関連に留意しながら、水戸藩と長州藩の寺院整理について一言しておこう。
水戸藩の天保改革は、徳川斉昭と、斉昭を藩主に擁立した彰考館関係の人々との強い同志的結合を背景にして推進された。改革が始まるのは天保元(1830)年のことだが、寺院整理が本格的になされたのは、天保十四年から弘化元(1844・5)年にかけてのことだった。これは、水戸藩天保改革の最終段階にあたっており、仏教側の反撃→幕閣への工作→幕府による斉昭の処分(天保改革の挫折)という結末を招いた。
この寺院整理は、常磐山東照宮を唯一神道にあらため、別当を廃し神官に管轄させたことにはじまり、「行々ハ無仏国」にするという壮図にもとづいてなされた。一村一社の制をとり、氏子帳を作成して宗門改め制にかえること、藩内の神社は唯一神道にあらため、僧侶・修験は還俗して神官が神社を管理すること、家臣の仏葬・年忌法要を廃し、神儒折衷の葬祭式によること、無住寺院などの廃寺、念仏堂・薬師堂など村々の小祠堂や路傍の石仏・庚申塚・廿三夜塔などの廃毀、撞鐘の徴集などが、その内容だった。処分された寺院は190カ寺で、寛文六(1666)年の寺院整理で1098か寺が処分されたのに比べればはるかに少ないが(圭室文雄『神仏分離』)、村々の小祠堂・石仏なども破却し、一村一鎮守制に統合し、それに民心統合の中心機関としての役割を期待していることころに、その狙いがよくあらわされている。年中行事も、従来の民族的行事が再編成され、そのなかに東照宮、徳川光圀、楠木正成、天智天皇を祀る行事などが組み入れられた。民衆の信仰生活の全体を、水戸学の立場から構成された神儒合一的な祭祀の体系に改変せしめようとするものであった、といえよう(『水戸藩史料』別記下)。
長州藩では、天保十三年から翌年にかけて、村田清風を指導者とする天保改革の一環として、淫祠の破却が強行された。清風は、『某氏意見書』において、主として財政的見地から仏教批判を試みているが、そこではまた、寺院と村々の小堂宇・小社祠などのすべてを淫祠とみて破却し、一村に一社をおき、天子諸侯がみずから社稷・山川を祭祀するようにすべきだと主張されていた。これは、『礼記』などを念頭においた古代的な祭政一致の主張であるが、仏教を含めた淫祠が民心をとらえたために莫大な浪費が生まれた、と考えるところに、藩政改革の課題を見つめる清風の立場があった。この淫祠整理が、民衆の抵抗をともないながらも、天保十四年にはいっきょに推進されたことを、三宅紹宣氏があきらかにしている。それによると、藩の『御根帳』に記載されていわば公認された社寺堂庵は3376、『御根帳』気債を予定されているもの450、破却されたのは寺社堂庵9666、石仏金仏一万2510にのぼった(「幕末長州藩の宗教政策」)。民間信仰的性格の強い小祠・小堂庵・石仏・金仏などはことごとく破却され、一村一社制にきわめて近いものとなり、そこから明治以降の村社が成立していった。たとえば、庄屋同盟や奇兵隊とのかかわりで知られた小郡宰判上中郷は、天保年間子数352戸の村であるが、神社・寺院・堂宇・石仏などをあわせて109の宗教施設のうち、寺院五、観音堂など三、神社五、あわせて十三と、存続嘆願中の三を除いて、ことごとく破却された、という。
ところで、こうした淫祠整理は、そこで否定の対象とされている民俗信仰的な側面こそ、民衆の宗教生活のもっともいきいきとした側面なのだから、民衆の不安と恐怖をよびおこすことになった。この問題は、改革を推進した村田清風においても、山村に祀られている大山祇命、大浦の大歳神、畑のなかの稲荷、新開地の竜神、牛馬の守り神としての赤崎大明神や素戔嗚尊など、民生に「功徳」ある鬼神は、正祀として祀るべきではないだろうかという疑問として意識されていた(沖本常吉編『幕末淫祠論叢』)。
 清風の諮問をうけた国学者近藤芳樹は、延喜式神名帳に載せられているものが正祀で、そうでないものは淫祠だと、単純明快に答えた。岩政信比古『淫祠論評』は、この近藤の意見に痛烈な批判を加えたものである。すなわち、近藤のように考えると、周防・長門には式内社はごく少ないし、延喜式成立以後に成立した霊神なども正祠から外れてしまう。しかし、もっと重要なのは、そうした原理で淫祠整理をおこなえば、現実に民衆の生活や活動をささえている神々もまた除去され、そこに除去された神々の祟りや民衆の不安が生まれてくるだろうということである。下民は愚かなものだからこうした神々の除去に恐怖をいだくのだというが、「下民ノ恐怖ヲ懐クハ尤ノ事ナリ。賢キ国政ヲモ執ル人ノ恐怖ヲイダカヌコソ愚ナレ」、近ごろ領内にいろいろ「あやしき事」を唱えるものがあるというが、しかし、それにはそれなりの根拠があるのであって、迷信や俗信として軽々に却けるべきではない」安丸良夫『神々の明治維新 —神仏分離と廃仏毀釈― 』岩波新書103、1979.pp.33-41. 

 先に読んだ鵜飼秀徳『仏教抹殺』(文春新書2018)でも、廃仏毀釈の影響が大きかった水戸藩と薩摩藩については詳しく触れられていたが、長州藩は薩摩に比べてあまり寺院への打撃・廃寺は徹底したものではなかった、と軽く触れられていただけだった。でも、長州では天保の村田清風の改革のなかで仏教への攻撃というよりも、淫祠の破却が強行されていたという。これはこれで興味深いことだが、廃仏毀釈に直結したものではなかったのかな。


B.若い女性の自殺?
芸能人や有名人がときどき自殺すると、報道が過熱し世間の耳目が集まるのは今に始まったことではないが、コロナ禍の今、自殺を誘発するようななにかがあるのかどうか?個々の自殺の事情や背景は、それぞれ違うはずだし、それを安易に説明してしまうことはできない。とはいえ、芸能界の華やかな世界で活躍中の人が、なぜあえて死を選ぶのか、不思議だと誰もが思う。とりあえず統計的な数字をとってみた、という記事。

 「40歳未満の自殺増 女性や学生突出 「もやもや」だけでも相談を コロナで環境変化?著名人の死も影響か
 今年の夏にかけ、若い世代の自殺が例年より大幅に増加していることが早稲田大の上田路子准教授らの分析で分かった。うつなど心的症状を示す人の割合も高くなっている。コロナ禍による社会環境の激変が影響した可能性があるが、原因はまだ分からない。自殺予防に取り組む専門家は「もやもやする」だけでも話してみて」と相談を呼びかけている。   (佐藤直子)
 著名人の急逝が続く。五月に任期リアリティ―番組に出演していた女子プロレスの木村花さんが会員制交流サイト(SNS)で誹謗中傷を受けた後に死去。七月に俳優の三浦春馬さん、九月に俳優の芦名星さん、俳優の竹内結子さんが自宅で亡くなった。いずれも自殺とみられ、大きな衝撃を社会に与えている。
 こうして報道される著名人の死の一方で、ひそかに若い世代の自殺が増えていることが、早稲田大の上田路子准教授(自殺予防学)らの分析から見えてきた。
 上田氏は警察庁の自殺統計データを基に、過去三年間(2017~19年)の月別に自殺数の平均値を出し、今年の同月比と比較。①四十歳未満②四十~五十九歳③六十歳以上の年代別でみると、緊急事態宣言解除後の七月ごろから四十歳未満が他の年代に比べて増加傾向が目立つという。
 特に女性は七月の平均値が142人なのに対し、今年は193人と40%増。学生も六月以降は男女とも例年より増加し、八月は男女全体が平均値62人に対し、今年は114人で47%増、女子は18人から49人で162%増だった。
 上田氏は「母数が少ないと少し増えても増加率が大きくなるので注意してみる必要があるが、それでも四十歳未満の女性や学生たちの増加は突出している」と分析。「原因はまだ分からないが、何かがあったとみるべきだ」と話す。
 自殺の多さを安易に結びつけるべきではないが、コロナ禍が社会環境を激変させたのは事実で、影響を疑わざるを得ない。上田氏は四月からコロナ禍の人々の精神状態を知るため、毎月一般市民を対象にネットアンケートを行っている。四十歳未満は他の年代に比べ、男女とも30%以上の高い割合でうつなどの症状を見せているという。「さらに調査では、収入減などの変化があったかと質問しているが、『変化があった』と答えたのは男性が18%に対し、女性は30%。女性に強く経済的ダメージがあったことを示す」と上田氏は話す。
 実際にコロナ禍でつらさを抱えている人の相談は増えている。年中無休二十四時間でチャットによる相談を行うNPO「あなたのいばしょ」の大空幸星代表によると、三月の開設から一万件以上の相談が寄せられた。相談者の多くは若い世代で配偶者や親によるDVや虐待、友人関係、仕事や子育てなどの悩みのほか、著名人の死に影響を受けたとみられる相談が相次ぐ。
 竹内さんの死が報じられた後は、「なぜ自分は死ねないのか」「突発的に死を選んでしまいそう」「同じ主婦として母として悲しい」などと語る相談が五十件以上あったという。
 大空さんは「みんなギリギリまでつらさに耐えているので、ささいな出来事でも心の均衡は崩れてしまう。それでもだれかにつながりたいと、いちるの望みをかけて相談してくるのだと思う。生きることがつらいのは間違いない。どんなことでもいい、『もやもやしている』というだけでもまずは話してほしい」と語った。」東京新聞2020年9月29日朝刊22面特報欄。

 自殺論の古典、E.デュルケーム『自殺論』は、まさに統計的データから自殺の類型を使って分析するのだが、現代の日本でこれと同じ方法でやるのは難しい。ただ、デュルケームが考えた「アノミー的自殺」は、今の日本でも使えそうな気はするな。人びとを社会に結びつけていた社会的規範(フランスでいえば教会や信仰といった装置が人々の心に定着しさせていた規範)が緩み壊れてしまうと、ごくささいなきっかけで自殺に至る、という「アノミー状況」が、21世紀の日本でもないとはいえない。
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明治の宗教革命 廃仏毀釈 4  「へ」か「え」か

2020-09-27 01:45:02 | 日記
A.水戸の反仏
 だいぶ前だが、勤務していた大学であちこちの中高校で二週間の教育実習をしている学生の実習校に、担当教員として訪問見学をするという仕事を割り当てられて、「茨城県を回ってくれ」と言われて、茨城県内の中学や高校を6校、2日くらいで回ることになった。レンタカーで回らないと鉄道では1日に2校くらいしか回れない。それも、ほんらいは研究授業という学生が実習の成果を披露する場に立ち会うべきなのだが、それをちゃんとやるととても全部は回れない。仕方ないので、研究授業でなくても学校に着いたらまず校長に挨拶し手土産を渡し、当の実習生に会って「頑張ってやってるかい」と励ましてさっと引き上げれば30分くらいで、次の学校に行くというハードなスケジュールをこなす。
 だが、ある高校に立ち寄ったとき、校長先生が暇だったのか話を続けて、「ところで茨城県の高校だけが戦後全部男女共学になったのはなぜだか解りますか?」と訊かれ、思わず「水戸学ですか?」と答えてしまったら、延々GHQが水戸学を軍国主義の源だと目の敵にしたのだ、という持論を40分くらい聞かされる羽目になった。おかげでそこに手間取って予定が狂った。会津に行くといまだに戊辰戦争の話をされるのと同様、茨城では黄門様と水戸学が一種の郷土愛のように今も息づいているのだと実感した。
 いわゆる水戸学は、黄門様の徳川光圀が『大日本史』編纂の事業を完遂する中で、尊王と国史をひとつの思想に練り上げたことに始まる。ただ、光圀の時代は江戸初期で、それが幕末の尊王攘夷に結びつくのは、もっと後の天保の徳川斉昭の時である。後期水戸学が、幕末動乱に大きな影響を与えたのは確かな事実だ。光圀の行った仏教寺院への改革は、仏教への全面的な否定ではなく、あくまで当時の寺院僧侶の堕落を糺そうとしただけで、廃仏毀釈ではない。だが、斉昭は積極的に寺院と僧侶を攻撃し、水戸藩内の寺院をより分け廃寺に踏み切った。

 「偕楽園の片隅に常盤神社がある。常盤神社は光圀と斉昭を祀り、1868(明治元)年に創建された。そこに太極砲と呼ばれる一門の大砲がデンと置かれていた。藩内の寺院から集めた什物類でつくられた75門のうちの一門である。口径36センチ、方針は127センチもあり、弾丸二発が添えてあった。1853(嘉永六)年、ペリーの乗った黒船が浦賀沖にやってきた後、74門は幕府に献上され、この一門だけが藩内に残されたという。黒々と光る砲身を見ていると、いかほどの仏具が溶かされたのかとの思いが込み上げてきた。
 藩では率先して金属供出に協力した寺院には報奨金を与える措置も取られた。早々に鐘などを差し出し、報奨金を得る寺院に対し、お目こぼしの嘆願運動を起こす寺院も少なくなかったという。藩内で集められた什物類の種類と数は梵鐘が323、半鐘が265、鰐口が301、濡仏が7などであった。
 さらに、斉昭は僧侶にたいする綱紀粛正を徹底させた。1843(天保14)年、藩はこのようなお触れを出す。
 「破戒不如法で愚民を欺き、金銭を貪り、肉食妻帯・博奕・女犯などの類が多いのは、御政教の大害で本山宗門に対しても申し訳ないことだから、このたびそれぞれ処罰する」(『水戸市史』より大意)
 処罰対象になった僧侶が住職を務める寺院は取り潰しになった。荒廃寺院や無住寺院も積極的に廃寺になった。
 斉昭の時代には藩内寺院系190カ寺が処分されている。宗派別では真言宗が86カ寺と全体の45%に及んでいる。その内訳が興味深い。
 女犯21 放蕩4 親不孝1 出奔35 無住96 大破(荒廃)24 修理不行届23 破戒11 博奕9 不律2 不如法13 住持不心得1 願により11 村方困窮1
 処分寺院数と、内訳数が合致しないのは、複数の罪状によって取り潰しになるケースがあったからである。
 光圀の寺社改革と斉昭による天保の宗教改革との大きな違いは、光圀が由緒ある名刹古刹を保護したいっぽうで、斉昭はむしろ大寺院に狙いを定めて破却を実施している点にある。破却の実数こそ光圀時代のほうが多いが、情け容赦ない廃仏毀釈はむしろ斉昭時代に実施されたとみていいだろう。
 茨城県歴史館の永井博は言う。
「斉昭は宗教そのものを否定したわけではありません。むしろ宗教を使った体制強化策であったといえます。斉昭は宗教の政治的機能をとても強く意識していました。むしろ日本のあるべき宗教を打ち立てたいという思いが強すぎた結果なのでしょう。斉昭の思想の背景には、欧米のキリスト教を中心とした宗教による政治支配があったと思います。そうした宗教支配の根づいた列強が結局は世界を制していく。その文脈でいえば、これからの日本に必要なのは、むしろ強い宗教の枠組みであるということになります。
 新しい日本を牽引する宗教は、外来宗教の仏教ではない。日本古来の神道こそが日本の宗教だということなんです。ところが、アニミズムの要素の強い神道には教学というものがない。そこに儒教の教学をもってきて、日本風にアレンジし、『忠孝一致』などの新しい道徳観を、神道とむすびつけるかたちで生み出したのです。しかし、それはあくまでも理論先行型の思想本位なものでした。そのため、水戸では民衆運動としての廃仏毀釈には発展しませんでした」
 では、斉昭の宗教改革が、為政者たちに受け入れられたかといえばそうではない。むしろ、時期尚早と言えた。「待った」をかけたのが、幕府であった。
 当時、幕府は戸籍管理、キリシタン排斥のために、寺檀制度を敷いていた。つまり、ムラ人はすべてムラの寺の檀家になり、家族構成から奉公人の有無などの個人情報を、宗旨人別改帳によって管理されていたのだ。江戸時代、幕府と仏教界は共存共栄関係にあった。
 寺が潰れてしまえば、戸籍管理ができなくなってしまう。斉昭の寺院整理は、幕府の側からみれば、支配構造の否定ともとれる暴挙に映ったに違いない。
 1844(天保15)年、幕府は斉昭に対して謹慎処分を命じる。斉昭の仏教に対する一連の迫害行為があまりにも急進的であったため、幕府が警戒感を強めたと推測できる。
 この斉昭の失脚は、水戸藩の執政(家老)で、保守派で知られる結城寅寿らが幕府に働きかけをしたためという説が有力だ。斉昭の廃仏毀釈は幕府とも縁故の深い江戸の寛永寺や増上寺にも伝わっており、さらに大奥を通じて斉昭排斥のロビイ活動が展開されていった結果であったと言われている。
 斉昭の謹慎中、結城が藩の実権を握ると、一転、寺院の再興に着手していく。ところが、斉昭の謹慎が解けるや、今後は斉昭が、結城ら保守派の粛正に乗り出したのだ。明治維新時には、水戸藩は急進派と保守派とが泥沼の争いに明け暮れており、廃仏毀釈どころの状況ではなかったという。
 斉昭が実施した寺院整理による金属供出の考え方は、明治に入って、他藩の富国強兵政策に移植されていく。とくに激烈な廃仏毀釈を展開した薩摩藩では、水戸藩の事例にならい仏像や仏具が武器鋳造や鋳銭のために悉く、溶かされてしまった。」鵜飼秀徳『仏教抹殺 なぜ明治維新派寺院を破壊したのか』文春新書、2018、pp.40-45. 

 明治の廃仏毀釈が、過激な運動になって燃え上がったのは、確かに水戸学の影響があったことは疑いないし、それは水戸だけではなく、薩摩や松本などでかなり強力に推し進められた。

 「まず、全国の寺院分布をおさえておきたい。
『宗教年間 平成二七年版』によれば、鹿児島県内の寺院数は487カ寺となっている(42位)。寺院数が全国一多い愛知県は4589カ寺だから、鹿児島県はおよそ10分の一の少なさである。鹿児島とほぼ同等の面積の山形県では1486カ寺、また広島県では1724カ寺だ。
 ちなみに全国一、寺院数が少ないのは沖縄県で87カ寺である。沖縄の事情は本土とは異なる。15世紀から1879(明治11)年まで琉球王国という別の国家であったからだ。琉球は1609(慶長14)年、薩摩藩が琉球に攻め入ると、その後は薩摩藩の支配下となった。
 琉球では個々の僧侶による仏教の不況が許されず、檀家制度が導入されなかった。寺は王国から俸禄を受給され、官寺としてのみ存在した。沖縄における葬送の担い手は伝統的に、地域における司祭者であるノロや、土着シャーマンであるユタであった。寺院の数が極端に少ないのは、そうした歴史的、慣習的背景がある。
 また、鹿児島の隣、宮崎県の寺院数は鹿児島よりも少ない344となっている。現在の宮崎県の一部は、かつて薩摩藩が治めており、廃仏毀釈の影響を多分に受けていた。宮崎の廃仏毀釈については、次章で述べることとする。
 筆者はまず、薩摩の廃仏毀釈を調査する数少ない研究者のひとり、鹿児島国際大学名誉教授(日本史)の中村明蔵に会ってきた。中村は憤っていた。
 「各県に『県史』というものがあるでしょう。どの都道府県も綿密に歴史を網羅し、何十冊にもなる代物です。隣の宮崎県では16年の歳月をかけ、全三一巻を平成の時代に刊行しています。ところが鹿児島は昭和初期に編纂された四巻と、昭和の時代をまとめた二巻のみ。資料そのものが少ない上、廃仏毀釈に対する関心、認識も低い。行政も県民も歴史を大切にしていません。
 世間は『明治維新一五〇年』とか、『西郷どん』ブームに沸いていますが、薩摩の負の側面はほとんど、明らかになっていないのです。特に廃仏毀釈によって、鹿児島県民が著しい不利益を被ったというのに……」
 鹿児島では廃仏毀釈はなかったことのように扱われているという。もちろん、先に述べたように廃仏毀釈で資料が失われた影響もあるだろう。しかし、隣の宮崎県は鹿児島と同じように激しい廃仏毀釈の嵐が吹き荒れていたにもかかわらず、その後の歴史の検証は鹿児島よりはるかに進んでいるのだ。
 薩摩藩における廃仏毀釈の素地をつくったのは、第11代藩主島津斉彬だ。斉彬は身分の低かった西郷隆盛や大久保利通の才能を見出し、重用するなど幕末きっての名君として知られている。明治維新への動きにおいても極めて重要な役割を果たした。
 斉彬は曽祖父である第八代藩主島津重豪の影響を受け、蘭学や国学に傾倒し、他藩に先駆けて産業・軍事の西洋化に務めた。反射炉や造船、大砲などを製造する集成館事業などを興し、近代国家の礎を築いたことで高く評価されている。
 だが、西洋化を急ぐ時流と、国学・神道的なイデオロギーがあいまって、斉彬は次第に廃仏思想へと舵を切っていく。
 斉彬は水戸藩による廃仏毀釈の先例に注目した。水戸藩は歴史書『大日本史』の編纂を通じて、儒学を中心に国学や史学、神道などを融合させた水戸学を生み出していた。水戸学の思想は仏教とは相容れず、寛文年間(1661~1673年)には仏教寺院の破壊に著手している。特に没収した撞鐘などの金属を使って大砲や小銃などの鋳造に当てるといった実績があったことは、先の章で述べた通りだ。
 斉彬はかなりの合理主義者であったようで、こうした水戸藩の手法を取り入れようと考えた。南さつま市坊津町にあった光前寺の撞鐘を取り上げて大砲にしたのが、鹿児島における廃仏の狼煙となった。
 ところが、1858(安政五)年七月、斉彬は鶴丸城での閲兵式の最中に倒れて急死する。この頃、既に世間では、斉彬の廃仏思想は有名であったようで、以下のような巷説が流された。
 「殿様ハ寺ノ鐘マデモ御取上ゲナサレタカラ、其祟リデ御病気ニナツテ、無クナラレタト云ヒ囃シマシタ」(『鹿児島県史料 忠義公史料』)。」鵜飼秀徳『仏教抹殺 なぜ明治維新派寺院を破壊したのか』文春新書、2018、pp.49-53. 

 仏教といっても、とくに真言密教系の流れにある山岳修験道や加持祈祷によって民衆を惑わすとみられたのは、神仏習合がいかがわしい形で民間に普及していたことが攻撃の対象になったと思われる。


B.日の丸弁当と戦争
 朝日新聞に長く連載された漫画「サザエさん」の掘り起こしを記事にした「サザエさんを探して」も、土曜Beで長く続いている。今回は「日の丸弁当」という話で、1958年2月15日に掲載されたものをとりあげている。このとき、紀元節復活が問題となっていた。

 「サザエさんをさがして 日の丸弁当:「銃後の覚悟」で脚光浴びる
 「日の丸」をめぐり言い争う夫婦にサザエが「紀元節も済んだことだし」と割って入る。掲載日は初代・神武天皇が即位したとされる明治憲法下の紀元節2月11日の4日後。紀元節は1948年に連合国総司令部の意向で廃止されたが、掲載の前年、自民党が11日を「建国記念日」とする法案を初提案(審議未了で廃案)、この年も提案し、紀元節復活が論議になっていた。曲折を経て11日が「建国記念の日」になるのは67年だ。
 だが、夫婦の論争の種は「日の丸弁当」だった。白いご飯の中心に梅干し一つ。副食はない。日の丸を模した弁当は、日露戦争の旅順攻略戦の司令官乃木希典大将が好んで広まったともされる。そして昭和の長い戦争の時代に一躍脚光を浴びた。
 37年7月に日中戦争が始まると、国民が自発的に軍に献金する動きが活発化する。その「原資」の一つが日の丸弁当だった。
 7月17日の朝日新聞によると、東京の小学校で校長が提唱して前年12月から毎月1回、昼食は日の丸弁当と決めて弁当代を節約。88円になったので陸軍省に献金した。9月8日の朝日新聞の読者投稿欄「鉄箒」に、機械メーカーの従業員6千人全員が週1回、昼食代を日の丸弁当で5銭節約し、「現地将兵への感謝の一端を示す」と三百余円の献金を毎週続けているとの投書が載った。「時宜を得た快挙」とほめ、全国的に統一して実施すべきだと訴えている。
 この動きは広く受け入れられたらしく、11月17日付鉄箒は「精神鍛錬、節約強調の一手段として」流行している日の丸弁当は、逆に軍に供出する梅干しの不足を招くと説く。その後も児童らが日の丸弁当で節約し、軍に貢献する報道は続く。こうして、日の丸弁当は誰もが容易に「銃後の覚悟」を示せるアイコンになった。
 国民精神総動員運動で39年9月から毎月1日が「興亜奉公日」と定められると、この日の食事は一汁一菜、弁当は日の丸弁当が推奨された。
 詩人の石川逸子さん(87)は、国民学校高学年の頃、毎月1回の日の丸弁当の日を「緊張して迎えた」という。昼食の時間になると机の上にふたを開けた弁当箱を出し、先生が見回る。おかずが入っていたり混ぜご飯だったりすると厳しく注意された。「母が忘れずに日の丸弁当にしてくれたかなと、案ずる思いでふたを開けた」
 ただ、この弁当は白米が豊富にあるのが前提。戦局悪化、食糧不足とともに日の丸弁当は贅沢品となり、石川さんの昼食は翌年から「まずしいふかしパン二つだけ」の給食に変わった。
 炭水化物が多く、栄養バランスが悪い日の丸弁当。だが大妻女子大の川口美喜子教授はいう。「梅干しの酸味と塩味が米の甘さを引き立て赤と白の視覚効果もある。米本来の味を感じるには一番だ」
 伊勢丹新宿店の「米屋」は今年2月の開店時から日の丸弁当を税込み648円で販売。政岡穂高社長は「米と梅干しの味だけで勝負する、小細工が利かない最も難しい弁当。通用するか、売り出すのが怖かった」と話す。産地を限定したあきたこまちに8%のもち米を入れ、セ氏2度の水につけて一晩寝かせて炊く。梅干しは塩分18%、サイズ3Lの小田原の十郎梅。日に10~20折売れる。「リピーターも多く、予想以上の売れ行きだ」という。 (畑川剛毅)」朝日新聞2020年9月26日朝刊、B1 on Saturday 3面。

 「日の丸弁当」というものを知っている世代は、たぶん今は高齢者になっている。ぼくもかすかに記憶にあるのは、アルマイトの弁当箱が梅干しによって痛んでしまうという話を聞いたことがあった。ということは戦後もある時期まで「日の丸弁当」が、珍しくなかったということか。もう一つ、同じ紙面に面白い記事があった。

 「街のB級言葉図鑑:どこえでも 「え」が許容された時期も  飯間浩明 
 ある門前町の花屋さんの看板。お花を〈どこえでも贈れます〉とあります。「ど」の濁点が取れているのは置いといて、「どこえでも」の古風な書き方にご注意ください。
 「へ」を「え」と書くのがどうして古風なのか、と思われるかもしれません。むしろ「え」を「へ」と書くほうが伝統的ではないか、と。
 実は、助詞の「は」「へ」は、今も昔も「は」「へ」が標準です。ところが、古い看板などに、時々「わ」「え」の表記があるのです。
 戦後、仮名遣いが変わり、「言はば」は「言わば」、「思へば」は「思えば」と、発音どおりに書くようになりました。戦前の教育を受けた人も、これに従いました。
 しかも、当初は、助詞も「何々わ」「何々え」と書くことが許容されていました。「じゃあ、私は全部『わ』『え』で書こう」と考えた人も多かったはずです。あまり知られていないことですが。
 1986年になって、助詞は「わ」「え」の表記が許容されなくなりました。そのため、若い人は「は」「へ」と書くのに対し、年配者の中には「わ」「え」を使う人がいるという違いがあるのです。 (国語辞典編纂者)」朝日新聞2020年9月26日朝刊、B1 on Saturday 3面。

 これは知らなかったが、日本語の助詞「仮名遣い」の表記が、発音どおりに書くようになったのは戦後のことで、確かに戦前の表記は「言はば」」は「言へば」、「思えば」は「思へば」だったんだな。考えてみれば、あるものは発音に従い、あるものはそうでない、というのは統一を欠き、とくに外国人が日本語の表記を学ぶ際に混乱してしまう。最近、わかりやすい日本語改革という話が出ているのも、外国人にこうした例外を教えることの困難があるのだろう。スペイン語やフランス語が世界言語になっていく過程で、こうした合理化がすすんだのは当然ともいえるが、それにしては最大の世界言語の英語は、例外が多すぎないか? 
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明治の宗教革命 廃仏毀釈 3  作られた武蔵

2020-09-24 02:20:28 | 日記
A.江戸の破戒僧
 江戸には多数の寺院があった。多くは江戸市民のためというよりは、徳川将軍家はじめ大名旗本たちがそれぞれ江戸屋敷を構えて、菩提寺として先祖や墓を守るために寺院を建立したことが大きいと思われる。仏教寺院は、ほんらいは信仰を求める人々に教えを説き、僧侶を修行育成するのが仕事だったが、幕府は、キリシタン禁制に合わせて全国の寺院に戸籍管理機能を果たす宗門改帳の登録を行わせ、人民の誕生から死までを把握記録させた。そのために大名は土地や扶持を寄進し、寺を建てて知識のある僧を招いた。しかし、安定した江戸時代には、檀家の葬式をやっていれば僧侶は寺を維持できて、安易に僧になり、まじめに務めを行わない者も増えたという。僧は妻帯は禁じられ、寺の世襲はできなかったから、刹那的享楽に溺れる僧や、私的に金銭営利を追求する僧も出てくる。
 そういった状況は、とくに儒教道徳を重んじる上級武士や、古来の神道に心を寄せる上層町人・農民の間に、堕落した僧侶にだけでなく、仏教そのものへの疑問や反感を抱かせた。それが、明治初めの「神仏分離令」によって、一気に仏教排斥・廃仏毀釈が燃え上がる背景だったともいえる。

 「神道には、仏教におけるブッダ、キリスト教におけるイエスのように特定の創始者は存在しない。同時に、経や聖書、イスラムのコーランのような経典や、そこから生まれる包括的な教義もない。したがって、神道が宗教ではないとする見方も存在する。
 自然発生的に生まれてきた神道の枠組みは、538(宣化天皇三)年の仏教伝来をきっかけにして大きく変わっていく。
 わが国における仏教は、百済の聖明王によって仏像と仏典がもたらされたことでその種が蒔かれた。欽明天皇は海を渡ってきた仏像の神々しさに感銘を受け、当時の有力豪族であった蘇我稲目と物部尾輿らに仏教受容の可否を問うたという。
 これをきっかけにして、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏との論争に発展。最終的には蘇我馬子・聖徳太子の軍勢が物部氏を滅ぼし、廃仏派は排除された。蘇我氏の後ろ盾で即位した推古天皇も仏法に帰依する。594(推古天皇二)年には仏法興隆の詔が出され、いよいよ日本に仏教が根を下ろすこととなった。
 以来、神道と仏教とは江戸時代までの1200年余りの間、共存共栄の道を辿っていく。平安時代に入ると、神仏習合の理論が構築されていく。仏菩薩が衆生を救済するために、神の姿を借りてこの世に現れるという本地垂迹説の誕生である。
 神には「権現」と呼ばれる神号が与えられ、偶像(仏像)が各地の神社に神体として祀られるようになる。「権現」とは「仮に現れる」という意味である。
 神社には宮寺(神宮寺)がつくられ、あるいは寺院に神社が吸収されるような事例も出てくる。今でも大寺院の境内を歩けば、鳥居や神社の祠が祀られているのを目にすることがある。
 また、筆者の地元京都では、お盆の時期に「五山の送り火」という仏教行事があるが、うち一山は「鳥居型」である。神仏習合の居残りは、全国のあちこちにある。
 江戸時代に入り、キリスト教禁止令が出されると、幕府は寺院ネットワークを使った戸籍管理を徹底していく。すべての日本人はムラの寺の檀家になることが義務付けられ、宗旨人別改帳へ登録されることになった。
 寺院はムラ人の「揺り籠から墓場まで」を一手に担うことになり、経済的に安定した。すると、寺院権力は増大し、僧侶は著しく堕落する。衆生済度(生きとし生けるものを悟りの世界に導く)を説くこともなくなり、借金のカタとしてムラ人から小作料を取って苦しめるケースも出てきた。寺院と神社との関係性も常に、寺院が上位であり、僧侶が神職を支配する構図ができあがった。
 こうした経緯は、圭室(たまむろ)文雄『神仏分離』(教育社)に詳しい。江戸時代の僧侶は、葬式仏教化によって教学や修行面がおろそかになり、ごく短期間で修行して本山に多額の金を寄付すれば、簡単に僧侶の資格が手に入れられたという。圭室は、同書の中で「結果としてきわめて多くの無学・無修行に近い僧侶を輩出することになった」と述べている。
 そうした仏教堕落の兆候が見られるなか、学者らによる仏教批判が巻き起こる。
 圭室の『神仏分離』では、四つのグループに分かれて仏教批判が持ち上がり、神仏分離思想が醸成されていったと指摘されている。
 第一は儒学者のグループである。近世の儒学を牽引した藤原惺窩とその門弟、林羅山、岡山藩の藩政改革にも尽力した熊沢蕃山らは当時の仏教寺院や僧侶を痛烈に批判。その思想は水戸・岡山・会津の各藩に影響を与えることとなった。
 第二のグループは吉田神道の勢力だ。吉田神道とは京都の吉田神社の神官、吉田兼倶が室町時代におこした。吉田神道では本地垂迹説を否定し、反本地垂迹説を唱えている。吉田神社系統の神社では率先して、権現などの仏教的なものを取り外すなど神仏習合色の払拭につとめていた。
 第三は国学者のグループだ。国学は江戸時代中期におきた『古事記』『日本書紀』「万葉集」などの古典研究を重視する学問である。『万葉集』の注釈書『万葉代匠記』を手がけた契沖を祖とし、京都の伏見稲荷神社の神官であった荷田春満、同じく浜松の賀茂神社の神官の子であった賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤らが発展させていった。なかでも、本居宣長は35年の歳月をかけて『古事記伝』を完成させたことでも知られる。
 国学者たちは仏教や儒教が日本に渡来する前の、日本古来の精神文化を取り戻そうと考えた。つまりは、仏教や儒教こそが諸悪の根源であり、排除することが必要だという考え方である。
 平田篤胤らによって大成された復古神道は、天照大神を皇祖と仰ぎ、その子孫である天皇を中心にして繁栄していくことこそ、日本の歩むべき道であると強調している。復古神道の考え方は幕末の尊王攘夷運動の精神的支柱となっていく一方で、維新時の神仏分離政策、廃仏毀釈運動にも多大な影響を与えていく。
 第四は藤田東湖、会沢正志斎らの後期水戸学のグループだ。前期水戸学は、藩主徳川光圀による『大日本史』編纂事業を通じて成立した学風である。前期水戸学では学問的な要素が強かったが、後期水戸学になって過激な尊王思想が芽生えていく。外国との緊迫した情勢が背景にあったからだ。会沢正志斎は著書『新論』のなかで、仏教は邪教であり、日本は神道中心の祭政一致体制に戻す必要を説いている。
 以上のように、江戸時代後期までに複数の学派が日本固有の神道への回帰と、仏教排斥(一部は儒教も含めた排斥も)を主張しだす。幕末を待たずして、水戸藩や岡山藩などでは廃仏毀釈が展開された例があった。
 とくに水戸藩の廃仏毀釈は、日本で最も早い時期に実施された。江戸時代前期にはすでに、藩内寺院の破却や僧侶への還俗命令などに着手していたのである。ただし水戸藩の前期廃仏毀釈の特徴は、民衆運動としての破壊行為ではなく、無秩序に増え過ぎた堕落寺院の統廃合にあった。いわば、寺院と僧侶の「リストラ」である。
 水戸藩では第二代藩主徳川光圀の時代、大規模な寺院整理が実施された。その時期は17世紀半ばであるから、明治維新時の廃仏毀釈とは200年以上もタイミングがズレているが、明治になっても一部地域では水戸藩の廃物のやり方をならって、破壊活動を繰り広げるなど思想的影響は少なくなかった。
 この時期の水戸藩の廃仏毀釈は、寺社改革とも呼ばれるものであった。
 当時藩内寺院は由々しき問題を抱えていた。1630年ごろ(寛永年間)まで、無秩序に寺院が建立され、僧侶の数も膨れ上がり、正しい信仰が失われていたという。由緒不明の怪しげな寺院が目立ち、治安上の問題も発生した。
 とくに加持祈祷などの呪術めいた儀式をやる密教宗派の処遇は、光圀にとって悩みのタネであった。庶民がこうした寺院に集い、迷信や妄言などに惑わされ始めたからである。
 こうした諸問題の元凶は中世以来、仏教を自由放任にしてきたためであるとして、当時、儒学者の間で仏教批判、神仏習合の否定、神道の復興などが議論されていく。光圀自身、若くして儒学に傾倒していた。当時の儒学界には強い仏教否定の思想が見られる。
 光圀の寺院整理はとくに若い頃、徹底的に実施された。光圀が36歳の時(1663年)、藩内寺社の実態を調査した開基帳の作成を命じる。寺院の由緒や檀家数、境内地や伽藍に関する情報、石高などを詳細に調査していった。
 すると、ハンナには2377もの寺院がひしめいており、中でも真言宗系寺院が1351カ寺と半数以上を占めていることがわかった。天台宗、修験道などを含めた密教系全体では1978カ寺にも及んだ。多くが戦国時代から江戸時代にかけて開基した、歴史の浅い寺院であった。
 その実態に光圀は不快感を露にしたという。そこで、寺社奉行を設置して、寺院整理に踏み切ったのが1666(寛文六)年のことであった。そして、「諸宗非法式様子之覚七カ条」が制定された。これは破却すべき寺院の条件を列挙したものである。
 ① 息災(祈禱)・滅罪(葬祭)を共に行わない寺
 ② 禅宗・浄土宗・日蓮宗のうち祈禱を行っている寺
 ③ 祈禱ばかり行い葬祭を本意としない寺
 ④ 葬祭を行わず宗門帳に請判している寺
 ⑤ 檀那(檀家)が全くいない寺
 ⑥ 年貢地・屋敷地に存立する寺
 ⑦ 掛け持ちの寺(兼務寺院)

 つまりは、宗旨人別改帳を管理せず、総裁を実施しないような寺院を、軒並み破却対象としたのだ。逆に、きちんとした縁起を持ち、一定規模の寺院で寺檀制度に組み込まれた寺院は、破却対象にはならなかった。無条件な廃仏毀釈ではなく、あくまでも自堕落な寺院の整理を目的としたのが特徴である。この時の寺院整理によって、1098カ寺(破却率46%)が処分されている。
 破却寺院の後始末についても、藩は次のような方針を示している。
 還俗を命じた僧侶にたいしては、
「すぐにその土地を持ち、百姓にまかりなりたく存ずる者これあるべく候間、左様の分はその通りに申しつくべく候」
 とし、廃寺跡地を利用して、百姓としてやっていけと提案している。
 また、破却処分になった寺の檀家は、存続寺院への寺替えを命じた。所有していた什物(寺で使う道具)や家財道具は売り払うなどして、還俗後の生活資金にするなり、存続寺院に与えるなどするなりせよと指示した。伽藍や境内地は売却されるか侍の屋敷にされるか、郡奉行が管理して年貢地として組み込まれるなどしたという。
 一見、ドラステイックな寺院改革だったようにも見える水戸藩の廃仏毀釈だが、光圀は何が何でも「反仏教」というわけでもなかった。茨木県立歴史館資料学芸部長の永井博は、こう解説する。
「水戸藩の寺院整理は、あくまでも是々非々で行われました。怠惰で怪しい寺院は廃寺処分になりましたが、由緒のある古い寺院は残ったし、新たにつくられた寺院もあります。事実、光圀自身が晩年、仏門に関心を寄せ、出家までしていますから、仏教を完全否定したというわけではありません。あくまでも、仏教が宗教としての役割を失っている現状を憂い、正しい宗教のあり方を追求した、光圀らしい政策といえるでしょう」
 1677(延宝五)年、光圀は生母谷久子の十七回忌の節目に、日蓮宗久昌寺(常陸太田市)を創建。母の名を寺号にあてている。久昌寺は仏殿・法堂・方丈・金堂・浴場など七堂伽藍を備える壮大な寺院であったという。年忌法要に参列した際に光圀は、自ら法華経を写経している。また、多くの什物が、光圀によって寄進された。
 このように光圀は毀すべき寺院は毀し、残すべき寺院は残したのである。水戸藩における廃仏毀釈は光圀の没後は沈静化し、また、本来の仏教もあるべきすがたが取り戻されたかのように見えた。」鵜飼秀徳『仏教抹殺 なぜ明治維新派寺院を破壊したのか』文春新書、2018、pp.29-38. 

 明治新政府が「神仏分離令」を出し、仏教に批判的になったのは、ひとつは旧体制の徳川幕府が仏教寺院と強く結びつき、先の旦那寺や戸籍管理、菩提寺などの制度的基盤に支えられていたことを破壊したかったことがあるのかもしれない。ただ、仏教宗派にも幕府に保護され密着した教団もあれば、比較的距離をとった宗派もある。江戸期から問題になったのは、修験道など呪術祈禱の怪しげな集団で、大寺院とは別の、純粋な仏教というより民間宗教や古神道とも通じるような、人心を惑わす反社会性があると考えられた。これは、真言密教と親近性があると考えられ、加持祈祷を行う真言宗系寺院との結びつきが考えられる。


B.「宮本武蔵」は戦後版だったか
 個人的に吉川英治『宮本武蔵』という小説は、ぼくが少年時代に読んで最も影響を受けてしまった作品だと思う。父が家を自分で建てるため、祖父の家に一家で同居していたときに、祖父の書棚に『宮本武蔵』全巻があったのだ。ぼくはまだ小学6年生だったと思うが、それを夢中で全部読んだ。それと前後して中学卒業までに、内田吐夢監督、中村錦之助主演の『宮本武蔵』五部作が映画館で上映され、それも観たと思う。少年のぼくには、求道の剣の修行にひたむきに邁進する若き剣豪に自己同一するとともに、武蔵をどこまでも慕い追いかけてくる美女、お通のイメージはぼくの女性というものの原型になってしまった。男は自分を陶冶し高める孤独な挑戦にこそ生きなければならず、そうすれば必ず美女は慕い寄ってくるものだ、という根拠のない妄想を人生の真実だと誤解する。それが、まったく大きな間違いだったということに30歳を過ぎるまで気づかなかった。
 そして、その内田吐夢版宮本武蔵は、さらに敗戦という挫折の後で吉川英治が書き直した武蔵像の変形であった。太平洋の島々で空しく死んでいった日本兵も、自分を「宮本武蔵」と同一化させて、崇高なビルドゥングス・ロマンを生きつつ、故郷の美しいお通を想っていた、という事実は悲惨を通り越して残酷すぎる。小説家吉川英治は、それを痛みとして沈黙の時を過ごした。戦後の武蔵は、国家も天皇も語らず、主君への忠義も無視して、ただひたすら強力な敵に一人で立ち向かい、これを剣で倒すという孤独な英雄になった。では、お通はどうなる?こんな男を慕って、報われることのない愛に生きる女など、いるわけがないのだが、そこは最大のフィクションで、少年のぼくはそれを信じてしまったのだ。愚かというしかない。

 「庶民の生きる指針となった剣豪 1939年刊 吉川英治「宮本武蔵」
 戦争の時局に共振 復興の力にも
 「東亜聖戦の旗下、今も猶、武蔵以上の武蔵が皇軍将士の中に幾多となく実在する」。1937年12月、半年以上休載していた朝日新聞の連載小説『宮本武蔵』の再開が紙面で告知されるにあたり、吉川英治が寄せた「作者の言葉」の一節だ。
 同年7月には日中戦争が始まり、吉川は東京日日新聞の特派員として中国北部に赴いた。冒頭に挙げた言葉は、その時の経験に基づくものだ。
 吉川は当時45歳。家の没落で高等小学校を中退。行員や行商など職を転々とし、31歳で専業作家になった。市井の人々に寄り添う作品を書く作家としてベストセラーを連発。中でも剣豪の生涯を描いた『武蔵』は、新聞連載小説として空前の人気となり、軍人の間でもよく読まれた。
 戦時期の文学を研究する神奈川大の松本和也教授は、「ヒロインのお通を残して強敵との戦いに臨む武蔵の姿は、恋人や妻から離れて従軍する兵士にとって、感情移入しやすいし、勝ち続ける『かっこうよさ』もある。自分と武蔵を重ね、ままならない軍隊生活を美化していたのでは」と推測する。
 戦争が拡大し、吉川の描く武蔵を「人生の指針」とする、戦場や銃後の若者が増えるにつれ、武蔵は「剣の求道者」の性格を強めた。吉川自身、祖国の勝利を願い、作中にも「国の為、武士道の為、捨てるために、生命(いのち)は惜しむのだ」など、戦意を高揚させるような言葉がちりばめられた。松本さんは「『武蔵』は結果的に時局と強く共振し、イデオロギー装置の役割を果たした」とみる。
 吉川は45年の東京大空襲で幼女を失い、敗戦のショックで2年近く執筆から離れた。49年、改訂版の『宮本武蔵』を世に問い、再びベストセラーとなる。天皇や国体に関する記述が修正され、闘争・戦争から、無刀・平和へのイメージの転換が図られた。
 しかし、『宮本武蔵の読まれ方』などの著書がある櫻井良樹・麗澤大教授によれば、「精神的な自己修養を通じて人間完成を目指す」という根幹は不変だった。「評論家の桑原武夫も指摘したように、作品を流れる家族主義、共同体主義、克己的努力という価値観は、戦前も戦後も庶民の間で共有された」とみる。
 「明日を信じ、仲間と自分自身のために努力する」という素朴な道徳心は『武蔵』という物語を通じて、戦争遂行のエネルギーとなり、戦後復興の原動力にもなった。吉川自身も敗戦経験を咀嚼し、敗者の立場から歴史の無常を描いた『新・平家物語』(50~57年)で完全復活を遂げた。
 吉川が創造した『武蔵』は、実在の武蔵を上回る影響力を持ち、井上雄彦の漫画『バガボンド』(98年~)や、NHKの大河ドラマ『武蔵MUSASHI』(2003年)でも、物語の骨格は踏襲されている。では、武蔵の実像はどうだったのか。
 『人物叢書 宮本武蔵』を著した元熊本県立美術館副館長の大倉隆二さん(72)によれば、吉岡一門との対決や巌流島の決闘など「武蔵伝説」の起源となった福岡県北九州市の「小倉碑文」の内容は、武蔵の弟子による誇張・創作の可能性が高く、武者修行時代の武蔵については、ほとんど何も分かっていない。
 武蔵の名を高める一因となった数々の水墨画も、同一人物の画とは考えられないほど技術や作風に隔たりがある。「正面達磨図」など、武蔵自身のものである可能性が高い作品に共通するのは、「ゆっくりとした運筆による頼りなげな描線と、未熟さを残す水墨法の醸し出す微妙な味わい」(大倉さん)という。
 晩年の武蔵は熊本藩主細川忠利に客分として迎えられ、手厚い処遇を受けた。忠利が賓客をもてなす際にもお相伴として招かれている。大倉さんは「上流階級の人と交われるほどの教養があり、藩主から気に入られていたのは確か。武者修行中やその後に、各地で朱子学などを学んだのでは」とみている。 (太田啓之)」朝日新聞2020年9月23日夕刊3面。

 続いて冷静なコメントが掲載されている。ぼくはそれを全面的に支持するが、現在の日本でありもしない「サムライ」「武士道」が、マンガ・アニメ、ドラマ・映画で、相も変わらず無批判に反復され消費されていることは、むかっ腹が立つ。もうやめようぜ!

 「時代の栞 「作られた伝統」武士道は今も  アレキサンダー・ベネットさん(50):剣道歴30年超、侍の思想を研究する関西大教授
 吉川英治の『宮本武蔵』が人気となり、さまざまな識者が「武士道の復活」を唱えた1930年代、日本にはすでに武士は存在していませんでした。江戸時代でも人口の6.5%しかいなかった武士のための「道」がなぜ、国民全体の行動規範となったのか。それは明治期以降の武士道が、日本人を一つにまとめるために「作られた伝統」だったからです。
 日本に限らず、世界中の国々が近代的な国民国家を目指す際に、その国の歴史にある力強い、素晴らしいものを掘り起こし、人々が共有できる「ナショナル・アイデンティティ」として再生する必要がありました。近代国家化は「国民皆兵」の軍事国家を目指すことでもあったから、「武士」は当時の日本人の象徴としてぴったりだった。現代でも、スポーツの男子日本代表チームを「サムライ」と呼ぶのは、その影響が続いている表れです。武士道は時代に応じて変わりますが、戦前・戦中に強調されたのは「忠義」でした。侍の主君への忠誠心が天皇への献身に置き換えられた。後醍醐天皇に尽くした楠木正成が称えられたのはそのためです。だけど、実在の武蔵は特定の主君に仕えず、江戸時代初期までの武士が重視した自立性が強い。吉川の描く武蔵もそうです。だからこそ、正成は戦後に忘れられたが、武蔵は今も愛されているのではないでしょうか。」
 歴史上の武蔵ではなく、創作された戦後の武蔵は、共同体の期待を担う英雄ではなく、インディビデュアルなアスリートのように一瞬の勝負に命を懸ける孤独な個人として、可憐な美女お通に慕われることによって再生した。でもそれは、自己中心的な男の妄想だった。
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明治の宗教革命 廃仏毀釈 2 神仏の分離と判然 

2020-09-21 01:40:11 | 日記
A.祭政一致と御一新の齟齬
 徳川幕府を倒して新政府を樹立した薩長藩閥政権が、この国をどういう形にしようと考えたかは、「王政復古」つまり古代の天皇が政治の実権と宗教的祭祀を司る権威を兼ね備えていた(と理想化した)状態に戻すという復古主義が、国学・水戸学の延長で提起された。それを祭政一致の理念とすれば、源平時代以来の武家政権が続いた時代は、天皇は政治と軍事の権を奪われていたという認識になり、それを回復するのだと祭政一致政策になる。しかし、現実的に幼い明治天皇が、宮中祭祀以外の政治や軍事を差配する能力などないわけで、ミカドを補佐して実権を振るうのは公家や武家出身の新政府指導者である。しかも実際は、明治政府が推進していくことになる西欧モデルの近代国家形成路線は、「文明開化」「富国強兵」であって、古代に帰っている場合ではないのだ。
つまり、時間を古代に巻き戻そうという復古主義は観念的イデオロギーにすぎず、明治が始まった数年間は、神祇官による神仏分離政策が強行され、それが仏像や寺院を破壊するような廃仏毀釈が吹き荒れたところもあったが、長くは続かなかった。ただ、幕末に九万はあったといわれる仏教寺院は、廃仏毀釈で約半分の四万五千ほどになり、仏像仏画など残っていれば国宝級の文化財が多数失われた。また神仏の混淆を否定した分離令は、それまで全国で普及していた修験道や各種の呪術などの民間信仰活動は弾圧され衰退したという。今は復活している仏教に由来する祭礼や習俗もこの時期は禁止された。その始まりは、慶応四年の布告である。
ただ、廃仏毀釈は全国一律に行なわれたわけではなく、政府の法令は神と仏を分離せよ、つまり寺院と神社を別々にせよというだけで、仏教や寺院を禁止し弾圧する意図ではなかった。しかし、本地垂迹説が浸透していた時代が長く、寺院と神社は並立していたり、寺院の中に神社が包括され管理は一体化してしばしば僧侶が宮司の上に立つような状態があったので、この神仏分離令は神官を勢いづかせ、寺院や仏像の破壊や僧侶の還俗を促進したという。それが激しかった地域は、鹿児島や宮崎、あるいは松本や苗木のような旧藩主が仏教排撃を進めたところで寺院をなくし葬儀は神式に徹底した。しかし、全国的に見れば、多くの地域ではさほど徹底した廃仏は進まず、とくに旧幕府直轄領や戊辰戦争の負け組になったところでは、厳しい廃仏毀釈はみられなかったのかもしれない。
 
 「仏と神の切り分けは、1868(慶応四)年3以降、新政府による法令の布告という形で、矢継ぎ早に実施されていった。1868(明治元)年10月まで断続的に続けられた一連の12の布告の総称を、神仏分離令と呼んでいる。
 神仏分離令は3月13日、以下のような太政官布告によって火蓋が切って落とされた。
 「此度(このたび) 王政復古神武創業ノ始ニ被(もと)為基(づかされ)、諸事御一新、祭政一致之御制度ニ御回復被遊候(あそばされそうろう)ニ付テハ、先(まず)第一、神祇官(じんぎかん)御再興御造立ノ上、追々(おいおい)諸祭奠(さいてん)モ可被(おこさせ)為(らる)興(べき)儀、被仰出(おおせいだされ)候、依(より)テ此旨 五畿七道諸国ニ布告シ、往古ニ立帰リ、諸家執奏配下之儀ハ被止(とどめられ)、普(あまね)ク天下之諸神社、神主、禰宜(ねぎ)、祝(はふり)、神部(かんべ)ニ至迄(いたるまで)、向後(こうご)右神祇官附属ニ被仰渡(おおせわたられ)候間、官位ヲ初(はじめ)、諸事万端、同官ヘ願立候様可相心得(あいこころうべく)候事」
この太政官布告の内容は要するに、これからの日本は、古代(法令では、神武天皇がこの世に現われたときと定義している)に、政治上の君主と宗教上の司祭者とが同一であったような祭政一致体制を目指すという内容である。そして、神祇官を復活させ、各神社や神職らは神祇官のもとに置く、という。
神祇官とは古代の律令制のもとでの、祭祀を司る官庁のこと。つまりは、神社は宗教の枠組みから外され、国家機関として機能させていく方針が定められたのだ。「神は国家なり」である。神祇官は1869(明治二)年7月に置かれた。
1868年31月17日には、神祇事務局から各神社にたいし、通達が出される。
「今般王政復古、旧弊御一洗被(あら)為在(せられ)候ニ付、諸国大小ノ神社ニ於(おい)テ、僧形ニテ別当或(あるい)ハ車僧抔(など)ト相唱ヘ候輩(やから)ハ復飾被仰出(ふくしょくおおせいだされ)候、若(も)シ復飾ノ儀無余儀(よぎなく)差支有之分(さしつかえこれあるぶん)ハ、可申出(もうしいずべく)候、仍(より)テ此段可相心得候事 
但(ただし) 別当社僧ノ輩復飾ノ上ハ、是迄ノ僧位僧官返上勿論(もちろん)ニ候、官位ノ儀ハ追テ御沙汰可被(あらせ)為在候間(らるべくそうろうあいだ)、当今ノ処、衣服ハ浄(じょう)衣(い)ニテ勤仕可致(いたすべく)候事
右ノ通(とおり)相心得、致復飾候面々ハ、当局ヘ届出可(もうす)申(べき)者也」
ここで注目すべきキーワードは「復飾」である。
復飾とは、僧侶の還俗(僧侶をやめて俗人に戻ること)をさす。江戸時代まで大規模な神社には、「社僧」と呼ばれる僧侶が従事した。そして、神前で読経などの儀式をした。さらに「別当」とは宮司(神宮寺)における責任者のことである。本通達では、社僧や別当にたいして還俗を促した上で、神社に勤仕するよう命じたのだ。
昨日今日まで仏教者であった人間が、明日からいきなり宗教を変えて神職になれ、というのはあまりにも乱暴な話である。僧侶たちは、激しい抵抗を見せたのだろうか。
意外なことに、多くの僧侶はさほどの抵抗もなく、職替えをした。新政府に逆らっても立場を危うくするだけだし、なによりも神も仏も一緒だったのだから、神に仕えても問題なし、ということだったのかもしれない。
続いて、同月28日の太政官布告では、より具体的な神仏分離の内容が出される。この28日の太政官布告は俗に、神仏判然令と呼ばれている。「判然」とは「はっきりと区別する」という意味である。
「一、中古以来、某権現(ごんげん)或ハ牛頭(ごず)天王ノ類(たぐい)、其外(そのほか)仏語ヲ以神号ニ相称(となえ)候神社不少(すくなからず)候、何(いず)レモ其神社之由緒委細(いさい)ニ書付、早々可申出(もうしいずべく)候事、但勅祭之神社御宸翰(ごしんかん)勅(ちょく)額(がく)等有之候(これありそうろう)向(むき)ハ、是又可伺(うかがい)出(いずべく)、其上ニテ、御沙汰可有之候、其余之社ハ、裁判、鎮台、領主、支配頭等ヘ可申出候事
一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申(あいあらためもうすべく)候事、附、本地抔(など)ト唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐(わに)口(ぐち)、梵鐘、仏具等之類差置(さしおく)候分ハ、早々取除キ可申事、右之通被仰出(おおせいだされ)候事」
神仏判然令では、神社における仏教的要素の排斥を命じている。たとえば「権現」「牛頭天王」など仏教由来の神号を禁止した。権現とは仏が神の姿となってこの世に現われたものであり、牛頭天応はインド仏教の聖地、祇園疑問精舎の守護神とされている。
神社に付属して置かれた寺院である神宮寺、あるいは宮寺では、仏像を神体にして祀ったケースが多かった。しかしそれも神鏡などの神体に取り換えるよう命じられた。仏具である鰐口(賽銭箱の上に吊り下げられている打ち鳴らす鐘)や、梵鐘などもすべて取り除け、としている。このように江戸時代までは、神社の中に仏教由来のものが祀られていたり、寺院の中にも神社が祀られていたりと、神仏がごちゃまぜになっていたのだ。
このことは、新政府サイドからすれば、徳川幕府時代の旧態依然とした宗教形態であり、許しがたい習俗であった。新国家樹立にあたっては、天皇を中心とする祭政一致体制が求められる。そのためには、神と混じり合っていた仏教は「異物」に他ならず、それを明確に切り分ける(判然とする)必要があったのだ。
だが、新政府が目指したものはあくまでも、神仏の切り分けである。この時点では、廃仏毀釈として民衆運動化していくことは、新政府側は予想もしていなかったと思われる。
廃仏毀釈の最初の大きなアクションは、仏教の一大拠点であった比叡山の麓の日吉大社(滋賀県大津市坂本)で起きた。日吉大社は全国に3800社以上の「日吉」「日枝」「山王」と名のつく神社の総本宮である。たとえば、首相官邸や国会からも近い赤坂・日枝神社なども、日吉大社の分霊社にあたる。
日吉大社は平安京の表鬼門(北東)に位置することから、災難除けの神様として古くから崇拝されてきた。だが、伝教大師最澄によって比叡山延暦寺が開かれてからは、その勢力下に置かれることになる。日吉大社は延暦寺の守護神として位置付けられた。
いわば、仏を神が守るという上下関係ができあがり、日吉大社は延暦寺に支配されていく。そして、僧侶によって神官らは虐げられていたのだ。
折しもそこに神仏分離令が出される。そこで、積年の恨みとばかりに神官たちは徒党を組んで社から僧侶を追い出し、仏像仏具を毀し始めた。これが後に全国に波及していく廃仏毀釈の最初であった。
それは3月28日の太政官布告から、わずか四日後の4月1日のことであった。四十数人規模の武装した神官たちが、「神威隊」を名乗って、日吉大社に乱入した。
神威隊を率いたのは、日吉大社社司で新政府の神祇事務局事務掛の任についていた樹下茂国と、同じく社司の生源寺希徳であった。
樹下らは延暦寺の三執行代(延暦寺を構成する東塔・西塔・横川の三エリアの代表者)にたいして、日吉大社神殿の鍵の引き渡しを要求した。
執行代は、「神仏分離の布告はまだ、天台座主より下達されていない。鍵の引き渡しは座主の許可がいる」として、樹下の要求を頑として拒否。僧侶と神官の間でしばしの間、押し問答が続いたという。
らちがあかないとみた神威隊は、本殿になだれ込み、祀られていた仏像や経典、仏具などに火を放った。その数、124点に及んだ。鰐口や具足、華籠などの金属類48点が持ち去られた。焼き払われた仏像は本地仏のほかに阿弥陀如来、不動明王、弁財天、誕生仏など。経典の中には600巻になる大般若経や法華経、阿弥陀経などが含まれていた。
暴徒の中には、社司から雇われた地元坂本の農民100人が含まれていたとされている。当時、坂本の地は延暦寺が支配しており、小作人たちは重い年貢を背負わされていた。江戸幕府の庇護の下、長年にわたって既得権益を握ってきた延暦寺に対する地元民の反感は、神官同様に燻り続けていたと察することができよう。
現在、日吉大社周辺を訪れれば、当時の爪痕をいくつか確認することができる。
JR湖西線の比叡山坂本駅から15分ほど歩き、石の鳥居をくぐると、広い参道が境内へとまっすぐに伸びている。その参道の脇には巨大な常夜灯が44基並んでいる。石には「○○権現」との文字が刻まれている。これらはかつて、延暦寺によって境内に立てられたものだが、廃仏毀釈の際に倒され、境内の外に放り出されたのだという。
また、日吉大社周辺には江戸期のものと思われる地蔵を多数見つけることができたか、破壊されたものや、地面に埋まったものも少なくなかった。
坂本で始まった廃仏毀釈の動きは、かの地だけで終息することはなかった。日吉大社の暴動は宗教クーデターの様相を呈し、瞬く間に全国に知れ渡ることになる。そして、波状的に各地に広がり、全国で廃仏毀釈運動が展開されていくのである。
この日吉大社の暴動に強い衝撃を受けたのは他でもない、神仏分離政策を推し進めた当事者、明治新政府であった。
長年、僧侶から虐げられてきた神官の逆襲に燃える気持ちは尋常ではなかった。それが大衆をも巻き込み、熱狂的な破壊活動にまで発展したことは、新政府にとっては想定外であった。
新政府は日吉大社の暴動からわずか九日後の4月10日、以下のような太政官布告を出し、神職らによる仏教施設の破壊を戒めている。
「諸国大小神社中、仏像ヲ以テ神体ト致シ、又ハ本地抔と唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛(かけ)、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等差置候分ハ、早々取除相改可(あいあらため)申(もうす)旨(べく)、過日被仰出候、然(しか)ル処、旧来、社人僧侶不相(あい)善(よからず)、氷炭之如ク候ニ付、今日ニ至リ、社人共俄(にわか)ニ威権ヲ得、陽ニ御趣意ト称シ、実ハ私憤ヲ霽(はら)シ候様之所業出来候テハ、御政道ノ妨(さまたげ)ヲ生(な)シ候而巳(のみ)ナラズ、紛擾(ふんじょう)ヲ引起可申ハ必然ニ候、左様相成候テハ、実ニ不相済(あいすまず)儀ニ付、厚ク令顧慮、緩急宜(よろしき)ヲ考ヘ、穏(おだやか)ニ可取扱ハ勿論、僧侶共ニ至リ候テモ、生業ノ道ヲ不失(うしなわず)、益国家之御用相立候様、精々可心掛候、且神社中ニ有之候仏像仏具等取除候分タリモ、一々取計向伺(うかがい)出(で)、御指図可受(うくべく)候、若(もし)以来心得違(こころえちがい)致シ、粗暴ノ振舞等於有之ハ、屹度(きっと)曲事可被仰付(くせごとおおせつけらるべく)候事」
要約するとこうだ。
昔から神官と僧侶は仲が悪く、氷と炭のような関係なのは理解できる。しかし、神仏分離令が出されるや、神官が急に権威を得たような振る舞いをして、私憤を晴らすような動きがある。これは、新しい国造りの大きな妨げになる。今後、仏像や仏具を取り除く際には、その都度、お上にお伺いを立てよ。決して相貌な振る舞いは許されない、などとしている。
この太政官布告からも、神仏分離政策が神官や市民の間で拡大解釈され、コントロール不能な状態になりつつあることが読み取れる。
新政府としては、王政復古、祭政一致を保つためには神と仏の分離は推し進めなければならない。しかし、分離政策はあくまでも粛々と行いたかったのである。」鵜飼秀徳『仏教抹殺 なぜ明治維新派寺院を破壊したのか』文春新書、2018.pp.14-23. 

 新政府はむしろこの廃仏毀釈の激化を憂慮していた、というのも興味深い。


B.政府がなすべきことが試されている
 今回のコロナ禍が半年以上経過し、世界各国の政府の対応がいろいろな数値として現われている。台湾やニュージーランドのように極めて感染者が少ない国と、政府が国民の人権自由を強く制限してそれなりに効果を上げた国と、感染防止より経済重視で大量の感染者を出し続けている国と、人口が多く医療や衛生状態がもともと不備な国では今後も多くの死者が出てしまうと予想される。日本は、強硬な予防策をとることなく感染と死者を低く抑えたといちおう見られている。しかし、感染は今も拡大しているにもかかわらず、人の移動も経済活動も拡大する方向に動いている。

 「コロナ禍と戦争 人類の英知 試される
 今回のコロナ禍を、国家が自国の意志を貫徹し利益獲得を完遂するために、他国と武力を用いて争う戦争に譬えた政治家が何人もいた。「新型コロナウイルスが人類に攻撃を仕掛けてきた、一丸となって立ち向かわねばならない」というわけで、常に外敵からの恐怖を煽って軍事拡張に奔走している政治家の思惑が透けて見える。戦争は人間が起こし、その災禍は人間の愚かさに起因する。だからこそ、逆に人間の英知によって戦争の勃発を抑止することができ、戦争に訴えずに紛争や対立を解決することは可能である。このように戦争は本来的に克服できる人間の所業であるが故に、いかなる難事であろうと、安易に戦争に譬えるべきではないのだ。
 コロナ禍は、未知のウイルスが人類への挑戦とばかりに来襲したわけではない。人類の拡大し過ぎた活動によって、既に実存していたウイルスを人間世界に引き出したがために、大々的に感染症を引き起こすことになったといわれている。このように人間が引き起こした災害ゆえに、現在のような事態は、現在のような事態は人類の生きざまについて謙虚に反省することを迫っている、と捉えるべきだろう。
 人類は戦争に勝利するために莫大な量の最新鋭の武器を装備してきた。実際、核ミサイル・高速爆撃機・潜水艦などの攻撃兵器を常備し、宇宙空間を飛び交う人工衛星による常時監視体制を強化し、さらにサイバーやAI(人工知能)や電磁波などの新領域に武器開発を拡大しようとしているのだが、それらは基本的には人間と社会施設を物理的に破壊することを目的としている。「戦争とは破壊」なのである。しかし、それらの最新鋭の武器であっても新型ウイルスに対しては何ら有効ではないことは明らかだろう。新型ウイルスを物理的に破壊することは不可能なのだから。
 現在必要なことは、世界が共同してウイルス感染の拡大を抑えつつ、早急に治療薬やワクチンを開発して世界中の誰もが支障なく使えるような体制を整えることである。不十分なままで妥協すれば、いつどこから再発するかわからないからだ。世界が対立する戦争とは真逆の、世界の協調行動が要求されているのだ。
 他方で、コロナ禍も貧困層に対しより深刻に被害が集中するという意味では戦争と似ているが、その矛盾を戦争では無視して見捨てるが、コロナ禍では社会構造の変革の契機とすることができる。そのための原資は膨大な軍事費から調達すればよいからだ。戦争という呪縛から逃れさえすれば、社会の矛盾を反転させることが可能なのである。世界中の人々が協力し合ってウイルスとすみ分ける知恵を見いだす、そのために戦争を克服すること。まさに現在の地球に生きる人類全体の持続可能性が試されていると言えるだろう。
 戦争は軍事力の一層の拡大を要求し、コロナ禍は軍事を全廃してその費用を世界の不平等を是正するために使うことを要請している。それにも拘らず、破壊力を高めようと軍拡路線を突っ走って軍事に予算を注ぎ込んでいるのが現状なのだが、少し滑稽だと思っている。どんなに強靭で高性能の兵器で武装しても、ウイルスという目に見えない、ちっぽけな半生物体の繁殖戦略を制御し終息させることができないからだ。
 もしも客観的に地球を眺めている宇宙人がいたら、その眼には、無駄な軍事装備のためにいかに資源やエネルギーの無駄遣いをしているかと映り、地球人はなんと遅れた知性しかないと思うのではないだろうか。 (いけうち・さとる=総合研究大学院大名誉教授)」東京新聞2020年9月18日夕刊、3面。

 単純に軍事費を削ってコロナ対策に回せ、という話ではないが、いったい軍事費にどれくらいをかけるのが妥当か、というのは科学的合理的に正解が出るものではないと思う。逆に言えば、池内氏のように軍事費をなくしても国家は存続できる、あるいはその方が安全である、という議論も空論ではない。ただ、おそらく政府や政治家の主流は、軍事費はもう少し必要で、最新装備を揃えておかないと危ないのだ、と思ってしまうだろう。その結果、国家が滅びたという歴史がこの国に実際にあった百年ほど前を振り返る必要もあるだろう。
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 明治の宗教革命・廃仏毀釈 1  アベノミクスの評価

2020-09-18 17:11:44 | 日記
A.革命と宗教
 西欧近代をもたらした政治上の変革は、いわゆる市民革命と呼ばれたフランス大革命をはじめ、人々の生活と意識を急激に変えた。そのとき、すでにキリスト教とくにローマ・カトリック教会の権威は衰えていたといっても、政治権力とは別のものとして革命政府に逆らわない限りで、教会と人々の信仰は維持された。20世紀のロシア革命も思想としてロシア正教には否定的だったが、教会を破壊したり聖職者に棄教を迫ったりまではしなかったと思う。それはあくまで旧体制の皇帝権力と一体化するときは徹底して弾圧するが、政治とは関わらない民衆の宗教的行為だけに留まれば、黙認された。革命の情熱が燃え盛っている時期には、すべてを政治的思想的なイデオロギーで切り分け争っていくけれども、それはそう長くは続かない。ただ、ときどき特定の宗教・宗派を反革命集団とみなして殲滅を行う政権がないわけではない。中世までは、宗教上の対立がそのまま正統と異端の闘争になり、戦争にまでなることは珍しくなかったが、「近代」の浸透は宗教戦争の悲惨と愚かさを学んで、政教分離という知恵を立てて、世俗権力と宗教的権威を双方の利害を損なわないようなシステムを考えた。21世紀の現代でも、イスラーム原理主義のような排他的・過激な宗教を核とする勢力もいるけれども、世界を一つの宗教で覆うことができるなどと考えるのは、狂気でしかない。
 日本の明治維新を「革命」と呼ぶのは、日本では避けられている。それは、もともとの語源としての「革命」が中国の王朝交代を指すとして、日本では一度も王朝は交代していない、明治維新も天皇はそのまま存続したから、「維新」であって「革命」ではないというわけだ。だが、徳川幕府が倒れて薩長中心にできた明治新政府が行った変革は、やはりあらゆる意味で統一国家としての大変革、御一新、リボルーションだったことは間違いないだろう。それは単に政府の交代だけでなく、日本という国家形成の急速な変革であって、ちょん髷を切り、鉄道を走らせ、暦を変えるという眼にみえる変化をもたらしただけでなく、人々の意識、信仰の領域にも変化をもたらした。ただ、それらが全部成功したわけではない。極端な革命イデオロギーをもちこんで強引な意識変革をやろうとすると、人々の抵抗や反発も招くからだ。
 「廃仏毀釈」と呼ばれる明治の初めに行われた宗教政策は、明治維新の革命思想から発していたと考えられるが、それは一体どういうもので、何を意図していたのか?まずは、廃仏毀釈の実態を歩いて調べた『仏教抹殺』(文春新書)という本があったので、そこから読んでみる。

 「明治維新という物語は、どのページをめくっても、美談ばかりが語られる。しかし、華やかな歴史の陰に、目も覆わんばかりの痛ましい事実が隠されていたのである、
 本書では1869(慶応四)年に出された一連の神仏分離令にともなう、仏教への迫害・破壊行為「廃仏毀釈」を取り上げる。廃仏毀釈は1870(明治三)年ごろピークを迎え、断続的に1876(明治九)年頃まで続いた。
 「明治維新150年」は同時に、「廃仏毀釈150年」でもあるのだ。廃仏毀釈とは何か、簡単に説明しよう。
 日本の宗教は、世界の宗教史の中でも特殊な形態を辿ってきた。中世以降江戸時代まで、神道と仏教がごちゃまぜ(混淆宗教)になっていたのである。祈禱もするし、念仏も唱えるし、祓も、雨乞いもする。寺と神社が同じ境内地に共存するのも当たり前。神に祈るべき天皇が出家し、寺の住職を務めた時代も長かった。
 このように、日本では実におおらかな宗教風土が醸成されてきたのだ。
 しかし、明治維新を迎えたとき、日本の宗教は大きな節目を迎える。
 新政府は万民を統制するために、強力な精神的支柱が必要と考えた。そこで、王政復古、祭政一致の国づくり、を掲げ、純然たる神道国家(天皇中心国家)を目指した。この時、邪魔な存在だったのが神道と混じり合っていた仏教であった。
 新政府は神と仏を切り分けよ、という法令(神仏分離令)を出し、神社に祀られていた仏像・仏具などを排斥。神社に従事していた僧侶に還俗を迫り、葬式の神葬祭への切り替えなどを命じた。
この時点では、新政府が打ち出したのはあくまでも神と仏の分離であり、寺院の破壊を命じたわけではなかった。だが、時の為政者や市民の中から、神仏分離の方針を拡大解釈するものが現れた。そして彼らは、仏教に関連する施設や慣習などを悉く毀していった。これが廃仏毀釈の概要である。
 なかでも廃仏毀釈が激しかった地域は、水戸・佐渡・松本・苗木(岐阜)・伊勢・土佐・隠岐・宮崎・鹿児島などである。徹底的に寺院が破壊された。この地域の廃仏毀釈の背景、目的、やり方などはそれぞれ異なる(本編で詳述)。苗木・鹿児島では寺院と僧侶が、地域から完全に消えた。
 かれこれ150年が経過した現在でも廃仏毀釈の痕跡はあちこちに残る。廃物運動が激しかった地域を見渡せば、寺院の数が異様に少なかったり、頸が刎ねられた地蔵が路傍に転がっていたりする。たとえば宮崎や苗木の葬式は今でも仏式ではなく神葬祭で執り行うことがごく当たり前になっている。
それは、文化財と歴史の破壊でもあった。
2017(平成29)年秋、東京国立博物館で「特別展 運慶」が開催され、期間中の入場者数は60万人を数える大ヒット展示会となった。この特別展は奈良、興福寺の中金堂再建記念として開催されたもので、同寺から多数の仏像の出品があった。
入場まで二時間以上も待ち、国宝「無着・世親菩薩立像」の前に立った時、まるで命が宿っているようなリアリズムをもって迫るその姿に、私は感動を禁じ得なかった。しかし、多くの人は知らないのだァ。
明治初期、無著・世親像は、あの美しき阿修羅像たちとともに、ゴミ同然の扱いで中金堂の隅に乱暴に捨て置かれていたことを。このとき阿修羅像は腕二本が欠け落ちてしまった(廃仏毀釈との因果関係はよくわかっていないが)。詳しくは後に述べるが、興福寺など奈良の古刹で、天平時代の古仏も含む多くの仏像が焚火の薪にされてしまった。無著・世親像や阿修羅像すら、燃やされる可能性があったのである。
また、運慶店の展示品の中に、保有者が伝統仏教の寺院ではなく新宗教団体であるものもあった。廃仏毀釈時、多くの寺宝が売却され、国内外に散逸してしまったからだ。2014(平成26)年、ニューヨークで開かれたクリスティーズのオークションで、ある仏像が出品されたことが話題になった。それは、興福寺に安置されていた「乾漆十大弟子立像」を構成する一体であった。現在、同寺に残る十大弟子立像は六体のみ。いずれも国宝に指定されているが、残る四体は廃仏毀釈時に散逸した。それが近年、海外で発見され、オークションにかけられたのだ。
廃仏毀釈によって日本の寺院は少なくとも半減し、多くの仏像が消えた。哲学者の梅原猛氏は、廃仏毀釈がなければ国宝の数はゆうに三倍はあっただろう、と指摘している。
国の財産が失われただけではない。廃仏毀釈は日本人の心も毀した。
何百年間にもわたって仏餉(ぶつしょう)(仏前に備える米飯)を供え続け、手を合わせ続けた仏にたいし、ある時、日本人は鉄槌を下したのである。僧侶自らが率先して、神職への転職を申し出て、本尊を斧でたたき割った事例も見られた。
2001(平成13)年、タリバンがバーミヤンの摩崖仏を爆破した映像は記憶に新しい。なんという畏れ知らずの野蛮な行為なのか、と世界中の人々が憤慨した。だが、同様の行為を明治の日本人も行なっていたのである。
 なぜ、信仰が憎悪に転じたのか。それはいつの時代も、熱狂に飲まれやすい、日本人の独特の国民性にあるかもしれない。廃仏毀釈は、日本人のアイデンティティを観察できる教材でもある。
 明治維新を専門とする歴史家や研究者は多い。しかし、当時行われた仏教迫害というタブーの痕跡を、全国的に現場を歩いて調査した事例はこれまでほとんどない。
 華々しい明治維新の裏に、「黒歴史」が確かに存在したということを、胸に留めおき、教訓にしていかねばならない。私は各地に廃仏毀釈の痕跡を訪ね、取材を始めた。」鵜飼秀徳『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』文春新書、2018、pp.8-12. 

 この著者は京都の寺院出身の僧侶ということで、当然仏教者の側から廃仏毀釈の実態を確かめようと、廃仏毀釈が激しかった各地を歩いて、当時の歴史を掘り起こそうとしている。日本史のなかで、明治維新後の小さなエピソードのように扱われている「廃仏毀釈」について、言葉は教わって知っているが、実はぼくたちはあまり記憶にない、というよりその意味を考えたことがほとんどなかった。だって、お寺も神社もあっちこっちに今もあって、みんな初詣にお参りしている。お寺はお坊さんが仏様を拝み、神社は神主さんが神様を拝むぐらいは知っていても、あんまり区別していない。きわめていい加減ともいえるが、そもそもそれが重要な問題だと思ったことがない。だから逆に、どうしてお寺と仏教を破壊するほど憎んだのかも理解できない。ということで、少しちゃんと考えてみよう。


B.何も変わっていませんよ・内閣
 総理大臣が変って、菅新内閣の支持率は60%(朝日新聞調査)だそうである。病気で辞めた前首相への同情も加味して支持が集まっているのかもしれない。でも、要するにこの内閣は、何も変わっていませんよ、いままでと同じにやっていきますよ、その方が安心でしょ…とだけ今のところ言っていれば国民の世論は安定する、とみているのだろう。やれやれ…。でも、前首相が裏で院政をするほどの体力がなければ、やがて新総理はなにか違ったことをやり始めるのかもしれない。しかし、当分はコロナ禍終息と経済補強を第一に、1年以内にはある衆院選を乗り切ってからだろう。それまではへまはできない。オリンピックをやれるかどうかも、年明けぐらいには判断しなければならないし…でも、そんなことしか考えていない総理大臣で大丈夫か。アメリカ大統領がバイデンになったら、不得意な外交も安部外交の継続とだけ言っていて済むわけにはいかない。

「多事奏論: 禁断のアベノミクス 負の遺産残した「雨乞い」 編集委員 原 真人 
 安倍政権がきょう幕を閉じる。一貫してアベノミクスを批判してきた者として、これほど長きにわたってこの政策がもてはやされてきたことは驚きであり、大変残念な気持ちだ。多くの人はすぐに危うさに気づき、市場はノーを突きつけるにちがいないと考えていた。現実はそうではなかった。
 安倍晋三総裁率いる自民党が3年ぶりの政権返り咲きを決めた2012年12月の総選挙の直後、私は本紙朝刊1面で「アベノミクス 高成長の幻を追うな」(東京本社版)と題した論考を書いて批判した。
 安倍総裁は総選挙に向けた全国遊説で、とんでもない構想を説いて回っていた。
 「輪転機をぐるぐる回して日本銀行に無制限にお札を刷ってもらう」
 「建設国債を大量に発行し、日銀に全部買ってもらう」
 政権発足後にほぼ言葉通りのことを実行したが、首相自身がこれほど正直に政策の本質を明かしたことは、その後ない。
 この記事で「アベノミクス」と呼んだのは日銀に国債を買い支えさせる財政ファイナンスや、大量のお金を予にばらまくヘリコプターマネー政策のいかがわしさを表現したかったからだ。1980年代、米大統領のちぐはぐな経済政策を、皮肉をこめてレーガノミクスと呼んだように。
 だから、まさか首相がその後、みずから好んで「アベノミクス」を使うようになるとは予想もしていなかった。2013年9月の訪米では講演で「Buy my Abenomics(アベノミクスは買い)」と宣伝文句にまでしてしまっている。
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 それにしても従来禁断とされていたこの政策を国民はなぜ受け入れ、経済界はなぜ成功と持ち上げたのか。ひとえに円安、株高の進展と堅調な雇用のせいだろう。
 そこには因果関係についての思い込みや誤解がある。たしかに1㌦=80円台の円高水準は、日銀が超緩和に乗り出した13年以降、一時120円を超えるまで円安が進んだ。とはいえ、実はその原動力は危機から立ち直ったばかりの米欧経済の好調さだった。円安は、ドル高とユーロ高が急速に進んだ結果の裏返しにすぎなかったのだ。
 雇用の改善はどうか。こちらは人口の構造変化が大きな要因だ。ここ10年で生産年齢人口は640万人減った。どんな政権のもとでも労働力不足は起きていただろう。
 唯一、アベノミクス効果と認められるのは株高である。日銀のマイナス金利政策と上場投資信託の巨額買い入れで株式投資はがぜん有利になり、相場は支えられた。問題はそれが正しいやり方かということだ。
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 結局、アベノミクスとは雨乞いのようなものではなかったか。首相はアベノミクスというおまじないで「雨よ降れ」と天に向かって祈り続けた。幸い雨は降った。みな驚いて「効果があった」と喜んでいるが、そこに論理的な根拠はない。
 おそらくアベノミクスが好況をつくったのではない。世界経済と日本経済が好況期を迎え、人口構造が雇用を好転させ始めたまさにそのタイミングで、たまたまアベノミクスが始まった。要はツイていたのだ。
 問題はこの禁断の政策が残した負の遺産である。政府の借金はもはや一朝一夕には解消できないほど膨らみあがっている。その半分近くは、日銀が輪転機をぐるぐる回してお札を刷ってしのいでいる。
 アベノミクスがもたらしたのは規律なき財政と金融政策、それに機能不全の市場メカニズムだ。政治家や官僚、経営者、投資家、多くの国民もそこで維持されているぬるま湯状態に甘えている。問題先送りが永遠に続けられると思い込もうとしている。
 きょう次の首相に就任するのが確実な菅義偉官房長官はその危うさに言及することなく、安倍路線を「継承する」という
 1億2500万人の国民をどこに連れていこうというのだろうか、」朝日新聞2020年9月16日朝刊、13面オピニオン欄。

 朝日が最初に「アベノミクス」という語を書いたのは、新政権へのエールだったのではなく、「レーガノミクス」「サッチャリズム」の皮肉を込めて、こんなヤバい経済政策やって大丈夫か?という批判だったんだな。でも、それをいつのまにか自分の好感キャッチフレーズにして、なにか波に乗るぞ!と思わせた前首相は、それなりにうまくいってしまった。でもそれは、政策が良かったからではなく、たまたま運が良かったにすぎない。
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