A.後期水戸学の排仏論
明治の廃仏毀釈には前史がある。江戸期以来の宗教政策をめぐって包括的な考察をしている書物として、安丸良夫の『神々の明治維新』(岩波新書 1979年)がある。廃仏毀釈の意図と意味について考えるために、今度はこの本を少し読んでみる。まず冒頭の「はじめに」から。
「王政復古の大号令に神武創業云々の一句をいれたのは、国学者玉松操の意見によったもので、玉松は、建武の中興よりも神武天皇による国家の創業に明治維新の理念を求めるべきだと主張した。神武天皇の国家建設が祭政一致の原則にもとづくものとされたのは、即位前の天皇が丹生川の川上に天神地祇を祀ったことや、即位の翌年に鳥見山に霊畤をたてて皇霊を祀ったことなどに由来するとともに、その国土平定過程が神々の霊威に助けられた神政政治的な様相を持っていたからであろう。こうした記紀の記載を古代の律令制のもとでの神祇官の制度に結びつけて独特の国体神学が構成されたのだが、それが現実政治の場で具体的な役割を果たそうとする時代がやってきたことを、右の布告(慶応四年の神祇官再興の布告:引用者注)はあらわしていた。
いうまでもなく、こうした国体神学の抬頭には、水戸学や後期国学につちかわれた歴史があった。しかし、一般的な国体観念や尊王思想はともかくとして、神仏分離や神道国教化政策をささえたような理念が、尊王攘夷運動や倒幕運動のなかに具体的内実をともなうものとして共有されていたのではなかった。そうした国体神学の信奉者たちもたしかに存在はしていたが、彼らは幕末の政治過程では傍流を占めていたにすぎなかった。ところが、新政府が成立すると、彼らは、新政府の中枢をにぎった薩長討幕派によってそのイデオローグとしえ登用され、歴史の表舞台に立つことになったのであった。薩長討幕派は、幼い天子を擁して政権を壟断するものと非難されており、この非難に対抗して新政権の権威を確立するためには、天皇の神権的絶対性がなによりも強調されねばならなかったが、国体神学にわりあてられたのは、その理論的な根拠づけであった。
こうした政治状況に加えるに、対外関係の緊迫のなかでのキリスト教の影響力についてのつよい不安と恐怖とがあった。キリスト教についての不安と恐怖が誇大妄想的なものになりやすかったのは、それが人心の一般的な動向についての不安と恐怖の反映だったからである。新政府の開国和親政策のもとでは、キリスト教の浸透は不可避だと考えられ、これに対抗するためには、民族的規模で意識統合をはからねばならず、そのためには神道国教主義的な体制が必要だと考えられた。こうした状況把握と課題意識には、今日の私たちには容易に追体験しえない緊迫と焦燥の思いがつきまとっていたが、しかしそれは、近世後期以降の国体思想の主要なモチーフといってよいものでもあった。」安丸良夫『神々の明治維新 —神仏分離と廃仏毀釈― 』岩波新書103、1979.pp.3-5.
幕末において、尊王思想と国体論という立場から、西洋列強への強い危機意識をいだいた当時の人々に、大きな影響を与えた水戸学の思想家、会沢正志斎の『新論』について、安丸はその文章を引用してかなり詳しく論じている。
「『新論』は、対外関係の切迫のもとで国体論による人心統合の必要を強調し、そのための具体的方策を国家的規模での祭祀に求め、祭・政・教の一体化を主張した。「億兆心を一にして」というような用語法や忠孝一致の主張にもあらわれているように、のちの教育勅語や執心教育の淵源となる性格の強い書物である。ところで、『新論』がこうした人心統合に対立させているのは「邪説の害」であるが、それはより具体的には、さまざまの淫祀、巫覡、キリスト教なども含めた、ひろいい意味での宗教のことにほかならない。一向宗にふれた箇所を引用してみよう。
一向専念の説作(おこ)るに至りては、すなはち名祠・大社の祀典に在るものといへども、これを瞻(せん)礼(れい)するを許さず、以て本に報い始めに反るの心を遏絶(あつぜつ)して、専ら胡神(外国の宗教)を奉ぜり。民ここを以て西戎あるを知りて、中原あるを知らず、僧尼あるを知りて、君父あるを知らず。その叛乱するに及んでは、すなはち義に仗(よ)りて賊を討つ者を指して、以て法敵となし、すなはち一時、忠烈の士をして、弓を挽(ひ)き戈(ほこ)を揮(ふる)ひて反って君父に仇せしむるに至る。忠孝の廃し、民志の散ぜるは、極れりと謂うべし。
日本の国内だけで考えれば、宗教のこの反秩序性は、信長や家康によるきびしい禁圧と統制とによって、現実に秩序をおびやかすほどの意味をいまはもっていないともいえよう。しかし、そとからあたらしい力が加わるなら、宗教というものがもっている身分制秩序との原理的な敵対性は、現実に秩序をおびやかすものとしてふたたび活性化してくるだろう。このように考える『新論』にとっては、幕藩体制のもとで、諸宗教がきびしく統制されているという事実だけでは、すこしも安心できない。そうした眼前の現実よりも島原の乱のような歴史的経験――ひとたび妖言を信じた人々の死を恐れない闘争力――の方が、はるかに鋭いリアリティとして迫ってくるのであった。
『新論』は、ヨーロッパ列強の圧力を貿易の利益と宗教の魔力によって民心を誘うものとしてとらえたが、とりわけ宗教こそ、夷狄が好んで「伎倆を逞しくするところ」であるとされた。
故に人の国家を傾けんと欲せば、すなはち必ずまづ通市(貿易)に因りてその虚実を窺ひ、乗ずべきを見ればすなはち兵を挙げてこれを襲ひ、不可なればすなはち夷教を唱へて、以て民心を煽惑す。民心一たび移れば、箪(たん)壺(こ)相迎へ、これを得て禁ずるなし。而して民は胡神のために死を致し、相欣羨(きんせん)して以て栄となし、その勇は以て闘ふに足る。資産を傾けて、以て胡神に奉じ、その財は以て兵を行(や)るに足る……。
こうした捉え方の特徴は、キリスト教という夷狄の宗教に民心を奪う魔術的な威力を認め、民心がひとたび移れば衆寡逆転し、とうてい列強の侵略に敵対しえない、と恐怖していることである。宗教は、それ自体魔術的なものであるがゆえに容易に制御しがたいのであり、民心をたやすく蠱惑してしまう、忠孝などの身分制倫理を内面化していない民衆は、その誘惑に抵抗しえないだろう、というわけである。キリスト教の魔術的な威力と民心の動向という二つの容易に統御しえないものが結びつけられて、想念のなかで危機意識がいっきょに膨張するような仕組みになっている、といえよう。
これは、ヨーロッパ列強の東洋進出のあり方についても、民心の動向についても、現実をリアルに認識することによってうちたてられた思想ではない。ここで顕著なのは、キリスト教の魔力と民心の動向という二つの測りがたく制御しがたい力をもちだして結びつけ、惰性に支配されている同時代の人々のなかに、圧倒的に強い危機についての実感を醸成させようとするイデオロギー性である。会沢からすれば、幕藩制社会は、制度的にも意識的にも惰性に支配された巨大なカラクリであって、内外の危機にすばやく対処しうる鋭敏さと可塑性に欠け、旧慣墨守と偸安(とうあん)の精神とが支配している。しかし、そのなかで人々は、漠然とではあれ、内と外から危機が迫っていることを予感しはじめており、不安の感覚にとらえられかけている。そこで『新論』は、人々のこの不安の感覚に点火してそれを危機意識にまで高め、そこから状況を突破する巨大なエネルギーをひきだそうとするのである。そのさい、とらえどころのない魔術的な威力としての宗教がクローズアップされてくるのは、会沢たちのまだ漠然とした、しかし圧倒的につよい危機意識にふさわしいことだった。
これが『新論』の設定した煽動的戦略の大枠であり、その後の状況の推移を規定するほどに大きな影響力をもった問題設定であった。一見、きわめて強大で安定しているように見える幕藩制国家は、じつはその内部にかかえこんでしまった脆弱性と無智の影として、みずからの力では制御することのできない魔術的な威力にたいする恐怖を昂進させてきているのだが、『新論』は、この恐怖を逆手にとることによって、構造的な転換を模索しているのだ、といえよう。
こうして『新論』は、海防や経済についてのより具体的な提言をこえて、人心を統合して体制的な危機に対処しようという、より基軸的な問題設定に成功した書物だった。そして、そのための具体策は、「典礼教化」、すなわち、村々の産土社を底辺におき、「天社(あまつやしろ)・国社(くにつやしろ)」を頂点においた国家的祭祀の体系であった。キリスト卿や仏教などの異端の教えは、来世と魂の行方についての妄誕を教えることで人心をとらえているのだから、それに対抗するためには、死者の魂の行方をあきらかにして「幽明」を治める「祀礼」が、国家的規模で確立されなければならないというのである。これは、平田篤胤以降の後期国学の主張にほぼ重なる思想であり、明治初年の宗教政策を根拠づける考え方であった。『講道館記述義』なども『新論』とおなじ立場にあり、会沢は、年間の祭祀を具体的に論じた『草偃(そうえん)和言』という著作も著している。明治初年に急進的な廃仏毀釈を推進したのは、水戸学や後期国学の影響を受けた人々であった。
以上の事例のほか、経済的な理由で寺院の整理と僧侶の還俗を主張する経世思想や、国体思想・神国思想の立場からの仏教批判や、国学者や神道家による神葬祭運動などがあった。寺院の繁栄や僧侶の腐敗を攻撃する常套的な主張は、いっそう多かった。広い意味での仏教批判は、十八世紀からさかんになり、これに対抗して、仏教側からは護教的な論著も出されるようになった。そして、仏教批判と国体論・神国論の盛行というこの動向は、一般的には明治初年の宗教政策の背景となった事実ではあるが、しかし仏教批判などの個々の言説は、内と外から迫ってくる巨大な危機についての自覚と結びつくことで、はじめて大きな歴史的意味をもったのであり、その点では水戸学や後期国学の構成し得た論理の方に、一つの時代を領導するだけの力能があったのである。
さらに、明治初年の新政府の宗教政策の直接的前史をなすものとしては、水戸藩、長州藩、薩摩藩、津和野藩などにおける寺院整理と廃仏毀釈があった。このうち、水戸藩と長州藩のそれは、天保改革の一環としてなされ、薩摩藩と津和野藩のばあいは、明治維新直前になされた。水戸、長州、薩摩が勤皇派を代表する雄藩だったことはいうまでもないが、より具体的な人的系譜からいっても、神祇官などで明治初年の宗教政策を担当したのは、薩摩、長州、津和野三藩の出身者が多かった。ここでは、明治初年の宗教政策との関連に留意しながら、水戸藩と長州藩の出身者が多かった。ここでは、目時初年の宗教政策との関連に留意しながら、水戸藩と長州藩の寺院整理について一言しておこう。
水戸藩の天保改革は、徳川斉昭と、斉昭を藩主に擁立した彰考館関係の人々との強い同志的結合を背景にして推進された。改革が始まるのは天保元(1830)年のことだが、寺院整理が本格的になされたのは、天保十四年から弘化元(1844・5)年にかけてのことだった。これは、水戸藩天保改革の最終段階にあたっており、仏教側の反撃→幕閣への工作→幕府による斉昭の処分(天保改革の挫折)という結末を招いた。
この寺院整理は、常磐山東照宮を唯一神道にあらため、別当を廃し神官に管轄させたことにはじまり、「行々ハ無仏国」にするという壮図にもとづいてなされた。一村一社の制をとり、氏子帳を作成して宗門改め制にかえること、藩内の神社は唯一神道にあらため、僧侶・修験は還俗して神官が神社を管理すること、家臣の仏葬・年忌法要を廃し、神儒折衷の葬祭式によること、無住寺院などの廃寺、念仏堂・薬師堂など村々の小祠堂や路傍の石仏・庚申塚・廿三夜塔などの廃毀、撞鐘の徴集などが、その内容だった。処分された寺院は190カ寺で、寛文六(1666)年の寺院整理で1098か寺が処分されたのに比べればはるかに少ないが(圭室文雄『神仏分離』)、村々の小祠堂・石仏なども破却し、一村一鎮守制に統合し、それに民心統合の中心機関としての役割を期待していることころに、その狙いがよくあらわされている。年中行事も、従来の民族的行事が再編成され、そのなかに東照宮、徳川光圀、楠木正成、天智天皇を祀る行事などが組み入れられた。民衆の信仰生活の全体を、水戸学の立場から構成された神儒合一的な祭祀の体系に改変せしめようとするものであった、といえよう(『水戸藩史料』別記下)。
長州藩では、天保十三年から翌年にかけて、村田清風を指導者とする天保改革の一環として、淫祠の破却が強行された。清風は、『某氏意見書』において、主として財政的見地から仏教批判を試みているが、そこではまた、寺院と村々の小堂宇・小社祠などのすべてを淫祠とみて破却し、一村に一社をおき、天子諸侯がみずから社稷・山川を祭祀するようにすべきだと主張されていた。これは、『礼記』などを念頭においた古代的な祭政一致の主張であるが、仏教を含めた淫祠が民心をとらえたために莫大な浪費が生まれた、と考えるところに、藩政改革の課題を見つめる清風の立場があった。この淫祠整理が、民衆の抵抗をともないながらも、天保十四年にはいっきょに推進されたことを、三宅紹宣氏があきらかにしている。それによると、藩の『御根帳』に記載されていわば公認された社寺堂庵は3376、『御根帳』気債を予定されているもの450、破却されたのは寺社堂庵9666、石仏金仏一万2510にのぼった(「幕末長州藩の宗教政策」)。民間信仰的性格の強い小祠・小堂庵・石仏・金仏などはことごとく破却され、一村一社制にきわめて近いものとなり、そこから明治以降の村社が成立していった。たとえば、庄屋同盟や奇兵隊とのかかわりで知られた小郡宰判上中郷は、天保年間子数352戸の村であるが、神社・寺院・堂宇・石仏などをあわせて109の宗教施設のうち、寺院五、観音堂など三、神社五、あわせて十三と、存続嘆願中の三を除いて、ことごとく破却された、という。
ところで、こうした淫祠整理は、そこで否定の対象とされている民俗信仰的な側面こそ、民衆の宗教生活のもっともいきいきとした側面なのだから、民衆の不安と恐怖をよびおこすことになった。この問題は、改革を推進した村田清風においても、山村に祀られている大山祇命、大浦の大歳神、畑のなかの稲荷、新開地の竜神、牛馬の守り神としての赤崎大明神や素戔嗚尊など、民生に「功徳」ある鬼神は、正祀として祀るべきではないだろうかという疑問として意識されていた(沖本常吉編『幕末淫祠論叢』)。
清風の諮問をうけた国学者近藤芳樹は、延喜式神名帳に載せられているものが正祀で、そうでないものは淫祠だと、単純明快に答えた。岩政信比古『淫祠論評』は、この近藤の意見に痛烈な批判を加えたものである。すなわち、近藤のように考えると、周防・長門には式内社はごく少ないし、延喜式成立以後に成立した霊神なども正祠から外れてしまう。しかし、もっと重要なのは、そうした原理で淫祠整理をおこなえば、現実に民衆の生活や活動をささえている神々もまた除去され、そこに除去された神々の祟りや民衆の不安が生まれてくるだろうということである。下民は愚かなものだからこうした神々の除去に恐怖をいだくのだというが、「下民ノ恐怖ヲ懐クハ尤ノ事ナリ。賢キ国政ヲモ執ル人ノ恐怖ヲイダカヌコソ愚ナレ」、近ごろ領内にいろいろ「あやしき事」を唱えるものがあるというが、しかし、それにはそれなりの根拠があるのであって、迷信や俗信として軽々に却けるべきではない」安丸良夫『神々の明治維新 —神仏分離と廃仏毀釈― 』岩波新書103、1979.pp.33-41.
先に読んだ鵜飼秀徳『仏教抹殺』(文春新書2018)でも、廃仏毀釈の影響が大きかった水戸藩と薩摩藩については詳しく触れられていたが、長州藩は薩摩に比べてあまり寺院への打撃・廃寺は徹底したものではなかった、と軽く触れられていただけだった。でも、長州では天保の村田清風の改革のなかで仏教への攻撃というよりも、淫祠の破却が強行されていたという。これはこれで興味深いことだが、廃仏毀釈に直結したものではなかったのかな。
B.若い女性の自殺?
芸能人や有名人がときどき自殺すると、報道が過熱し世間の耳目が集まるのは今に始まったことではないが、コロナ禍の今、自殺を誘発するようななにかがあるのかどうか?個々の自殺の事情や背景は、それぞれ違うはずだし、それを安易に説明してしまうことはできない。とはいえ、芸能界の華やかな世界で活躍中の人が、なぜあえて死を選ぶのか、不思議だと誰もが思う。とりあえず統計的な数字をとってみた、という記事。
「40歳未満の自殺増 女性や学生突出 「もやもや」だけでも相談を コロナで環境変化?著名人の死も影響か
今年の夏にかけ、若い世代の自殺が例年より大幅に増加していることが早稲田大の上田路子准教授らの分析で分かった。うつなど心的症状を示す人の割合も高くなっている。コロナ禍による社会環境の激変が影響した可能性があるが、原因はまだ分からない。自殺予防に取り組む専門家は「もやもやする」だけでも話してみて」と相談を呼びかけている。 (佐藤直子)
著名人の急逝が続く。五月に任期リアリティ―番組に出演していた女子プロレスの木村花さんが会員制交流サイト(SNS)で誹謗中傷を受けた後に死去。七月に俳優の三浦春馬さん、九月に俳優の芦名星さん、俳優の竹内結子さんが自宅で亡くなった。いずれも自殺とみられ、大きな衝撃を社会に与えている。
こうして報道される著名人の死の一方で、ひそかに若い世代の自殺が増えていることが、早稲田大の上田路子准教授(自殺予防学)らの分析から見えてきた。
上田氏は警察庁の自殺統計データを基に、過去三年間(2017~19年)の月別に自殺数の平均値を出し、今年の同月比と比較。①四十歳未満②四十~五十九歳③六十歳以上の年代別でみると、緊急事態宣言解除後の七月ごろから四十歳未満が他の年代に比べて増加傾向が目立つという。
特に女性は七月の平均値が142人なのに対し、今年は193人と40%増。学生も六月以降は男女とも例年より増加し、八月は男女全体が平均値62人に対し、今年は114人で47%増、女子は18人から49人で162%増だった。
上田氏は「母数が少ないと少し増えても増加率が大きくなるので注意してみる必要があるが、それでも四十歳未満の女性や学生たちの増加は突出している」と分析。「原因はまだ分からないが、何かがあったとみるべきだ」と話す。
自殺の多さを安易に結びつけるべきではないが、コロナ禍が社会環境を激変させたのは事実で、影響を疑わざるを得ない。上田氏は四月からコロナ禍の人々の精神状態を知るため、毎月一般市民を対象にネットアンケートを行っている。四十歳未満は他の年代に比べ、男女とも30%以上の高い割合でうつなどの症状を見せているという。「さらに調査では、収入減などの変化があったかと質問しているが、『変化があった』と答えたのは男性が18%に対し、女性は30%。女性に強く経済的ダメージがあったことを示す」と上田氏は話す。
実際にコロナ禍でつらさを抱えている人の相談は増えている。年中無休二十四時間でチャットによる相談を行うNPO「あなたのいばしょ」の大空幸星代表によると、三月の開設から一万件以上の相談が寄せられた。相談者の多くは若い世代で配偶者や親によるDVや虐待、友人関係、仕事や子育てなどの悩みのほか、著名人の死に影響を受けたとみられる相談が相次ぐ。
竹内さんの死が報じられた後は、「なぜ自分は死ねないのか」「突発的に死を選んでしまいそう」「同じ主婦として母として悲しい」などと語る相談が五十件以上あったという。
大空さんは「みんなギリギリまでつらさに耐えているので、ささいな出来事でも心の均衡は崩れてしまう。それでもだれかにつながりたいと、いちるの望みをかけて相談してくるのだと思う。生きることがつらいのは間違いない。どんなことでもいい、『もやもやしている』というだけでもまずは話してほしい」と語った。」東京新聞2020年9月29日朝刊22面特報欄。
自殺論の古典、E.デュルケーム『自殺論』は、まさに統計的データから自殺の類型を使って分析するのだが、現代の日本でこれと同じ方法でやるのは難しい。ただ、デュルケームが考えた「アノミー的自殺」は、今の日本でも使えそうな気はするな。人びとを社会に結びつけていた社会的規範(フランスでいえば教会や信仰といった装置が人々の心に定着しさせていた規範)が緩み壊れてしまうと、ごくささいなきっかけで自殺に至る、という「アノミー状況」が、21世紀の日本でもないとはいえない。