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「日本の愛国心」をめぐって 12 近代の超克の哲学  昭和は遠く…

2023-10-07 17:25:35 | 日記
A.京都学派
 京都帝国大学は、1897(明治30)年6月18日、勅令第209号により東京帝国大学に次ぐ第二の帝国大学として創立された。高等教育機関進学者の増加、日清戦争後の産業の発展などが創立の背景にあった。最初は理工科大学(理学部と工学部の前身)が置かれ、次いで法科大学(法学部の前身)、医科大学(医学部の前身)、そして文科大学(文学部の前身)が置かれた。創立当初の学生数は47名、教官数は9名だったという。
後に文学部となる文科大学は、1906(明治39)年に設置された。創立期の文科大学は、人材登用のユニークさに特色があり、新聞界から内藤虎次郎(湖南)、文壇より幸田成行(露伴)を招き、帝国大学選科(特定の科目のみ受講)修了の学歴しかない西田幾多郎も呼び寄せた。教授と学生との間の自由な討議も活発で、「厳めしい帝大」ではなく「近代的な寺子屋」で学んでいる感じを受けたと当時の学生は語っている。9月始まりだった学暦が4月始まりとなったのは1921年。1919(大正8)年には経済学部が設置され、当初の講座数は8、最初の入学者数は106であったという。【以上は京都大学HP「京都大学の歩み」から】
京大は東大と並んで、日本で世界に名だたる一流の国立大学と見られてきた。湯川秀樹をはじめノーベル賞受賞者を何人も出し、アカデミックな学者の世界のみならず、上方文化の拠点的な地位を保ってきた。それが戦前昭和の時代は、京都学派と呼ばれる哲学者たちが独特の立場を唱え、今では観光名所になった「哲学の道」などという場所もある。「哲学の道」は、銀閣寺と南禅寺(正確には、若王子神社)の間を結ぶ、約2kmに渡る散歩道で、京大教授 西田幾太郎が、毎朝この道を歩いて思索に耽っていたことにちなんで名付けられた。脇を流れる運河は、日本最大の湖である琵琶湖から引かれた疎水である。
でも、戦争に向かう時代に「京都学派」がなぜ注目されたのか。

「アジアの植民地化という帝国主義時代の列強支配の中で日本の独立を保つこと。そのためには、西欧近代国家を模した形で日本という「主体」を立ち上げなければならない。これはまぎれもなく近代日本という主権国家に与えられた課題であった。しかし、そのことは、下手をすれば「日本」のアイデンティティを自ら放棄し、真の意味での「主体」を放棄するという逆説的な「主体化」となりかねない。
 ここに、一方では、西欧的な意味での文明化を目指す上で不可欠な「主体化」を放棄することこそが日本的精神であり、東洋的理想である、という志向がでてくる。しかし他方では、日本の独自性を西欧的な表現において世界に打ち出すことによって改めて日本を「主体化」すべきとするもう一つの志向もでてくる。この矛盾する二つの方向はともに、近代日本が必然的に生み出したものであった。
 この両者を思想的な次元で結合し、一種の哲学にまで作りあげようとする試みがいわゆる京都学派の哲学と歴史観である。
 ここで京都学派の哲学等について詳細に論じることはできない。ただ、西田幾多郎の哲学や、それを背景にした田辺元、高山岩男、高坂正顕、西谷啓治、鈴木成高らの哲学や歴史哲学が、あるひとつの共通の問題意識をもっていたことは間違いなく、それが当時の時代的な要求に答えるものであったことも疑いえない。時代的要請とは、「日本精神」の独自性に基づいて、世界史における日本の独特の使命を説くというものであり、京都の哲学者たちはその役割を引き受けることになる。
 むろん京都学派とひとくくりにされるものの、京都帝大の学者の間でのかなりの思想の相違はあるし、また、彼らの哲学と時局的な要請の関係についてもまだ不明なことは多い。京都学派というまとまったひとつの運動があったとするのも無理があろう。しかし、彼らが多かれ少なかれ、西欧の世界的拡張のさなかで近代化を図る日本という歴史事実の中で、「脱主体化」と「主体化」という二つの相対立する課題に直面しているという認識を共有したことは間違いない。彼らがこの両者を結びつけようとしたことは注意しておかねばならない。この矛盾とは、繰り返すが、「主体化」することが西欧化、すなわち「脱日本化」することになり、逆に「脱主体化」することが「日本化」を意味するという矛盾であった。
 ここで彼らに共通する歴史観は、まず何より、ニ十世紀にはいって真の意味で「世界史」なるものが生成したという基本認識である。それ以前にあったものはただヨーロッパ史に過ぎない。十九世紀の帝国主義と植民地主義の時代でさえ、その歴史は、ヨーロッパ的なものの世界への拡張と支配に過ぎなかった。しかるに、二十世紀にはいって、東洋が明確に歴史の舞台に独自の役者として参入してきた。むろん東洋はひとつではない。しかし、多様性をもってひとつの独自性をもつ「東洋文化」というものが世界史に登場したと彼らはいう。
 高山岩男は、日米の開戦を挟んだ1940年から42年にかけて、世界史の哲学と日本の立場に関する論文を次々と発表し、こう述べる。これまでの世界史はあくまでヨーロッパの歴史という「特殊的世界史」であった。もちろん、ヨーロッパ史といえども、決して単線的でも画一的なものでもない。ランケによると、ヨーロッパとは、古代ギリシャ、ユダヤ・キリスト教、ローマ帝国、中世の重なり合いにほかならない。さらにそれはイスラムやオリエント世界から強い影響を受けている。その意味では、ヨーロッパ史は、決して単線的ではなく、多様なものを含んでいた、
 とはいえ、この多様なものをひとつにまとめて、一個の「歴史的世界」を作り出し、ダイナミックに発展したのがヨーロッパという地域であった。連続的な流れの中に、「歴史の発展」という意識を生み出したのはヨーロッパなのである。アジアには、こうした「歴史意識は」は生じなかったし、アジアはただヨーロッパ世界の外にあるか、もしくは、ヨーロッパ世界の外部的拡張として「歴史」の中へ組み込まれただけであった。
 ところが、日本の登場によって事情は大きく変わりつつある。日本がアジアの盟主としてアジアの各民族の自覚と自立を促すことによって、非ヨーロッパ世界が歴史の舞台へ躍り出ようとしている。ここに真の意味での世界の歴史、すなわち「普遍的世界史」が始まった。だから、「普遍的世界史」の主役は、何よりもまず日本なのである。
 確かに、日本の登場という事態の「世界史的意義」をいささか過剰に強調するという時代的限界はあろう。また「アジア」といいながら、彼らはほとんど現実の「アジア」を知らなかった。結果として「アジア」は、ただ西欧と対比させられ、それと対決するための抽象的で便利なシンボルになってゆく。しかしそれでも、高山の発想は特に奇異なものでもなければ、国粋主義的というようなものでもない。ヨーロッパ中心的な発展史観的な歴史に対して、高山は、歴史とは、本来、多様性をもった地域という複数の「歴史的世界」の、これも複数の「系譜」から成り立っている、というしごく当然のことを述べているにすぎない。

  歴史的成果においては、政治、経済、文化、宗教などの諸勢力が独自な統一を構成し、世界と国家と民族との間には相反的な結合、あるいは緊張的統一が維持されているものであった。(「世界史の系譜と現代世界史」)

 「歴史的世界」は、他の「歴史的世界」や民族との葛藤を含み、また、そのうちに多様なものを含みつつ、他とは異なった統一性をもっている。歴史とは、本質的に、複数の「歴史的世界」の系譜にほかならない。近代ヨーロッパも一つの歴史的世界である。地中海世界もひとつの歴史的世界である。イスラムも独自の歴史的世界を形成し、ロシアもそうである。そして日本もひとつの歴史的世界なのであり、アジアもまた、ひとつの歴史的世界を形成しようとしている。今日のハンチントンのいう「諸文明」である。「世界史」とは、これらの歴史的世界が連結したり、重なり合ったり、錯綜したりしてまた新たな歴史的世界を生み出すという構造をもった「多なるものの一」にほかならない。つまり「歴史的世界」とは「多元的文明世界」なのであった。
 この「歴史的世界」の連結は、偶然に起こることもあれば、そこに民族の強い主体的な意思が働くこともある。ただいえることは、それは、ヨーロッパの進歩的歴史観が想定するように、普遍的な法則や神の手に導かれた連続的発展といったものでは決してない。これが高山の歴史観であった。
 前述のように、ここには、ヨーロッパ中心主義に対するアジアからの反逆という論理が表明されているにもかかわらず、それでは「アジア」とは何かとなると、ほとんど考察らしいものは見られない。その結果として、日本こそがアジアを体現する国家であるという岡倉天心ばりの東洋観へと集約するほかない。この日本の位置づけは、どうしても、ヨーロッパ中心に対抗する日本の特権性を浮き立たせるとともに、他のアジア諸国に対する日本の特権性をも示唆することになろう。
 だが、たまたまアジアの中で日本だけがヨーロッパ並みの近代的強国となったというだけでは、アジアの盟主としてヨーロッパに対抗する資格を得るわけではない。高山のいうように、アジア、もしくは日本という「歴史的世界」が、ヨーロッパというものひとつの「歴史的世界」とは異なったものとして世界史へ登場するには、ヨーロッパ世界とは異なった「何か」がなければならない。それは何か。それは、ヨーロッパ、とりわけアングロ・サクソン的な論理とは異なった「新たな道義的原理と世界観」なのである。
 この「新たな道義的原理」の実質についても高山は特に述べていない。ただ、それが必要とされる消極的な理由はある。これまでの世界(旧世界)の秩序を動かしてきたヨーロッパの理念はもはやもたない、というのがその理由である。十九世紀のヨーロッパ近代は、結局、アングロ・サクソン的な覇権的秩序原理において、植民地主義の覇権共同と、自由主義的経済のもたらす大きな混乱へと帰着した。その具体的な表れが第一次世界大戦となったのである。「第一次大戦はヨーロッパ列強の帝国主義的争覇の結果であった」。しかるに、第二次大戦はまったく異なった性格をもっている。その性格を彼は次のように述べている。「第二次大戦はイギリスおよびアメリカの維持せんとするこの帝国主義に対する闘争である。従って、そこには新たな世界観とあらたな道義的理想が貫いている」というわけだ。そして彼はいう。「この道義的原理は近代ヨーロッパの自由主義や固体主義の形式論理とは異議を異にし、従ってまた世界観を異にするものである」(同上)。
 だが、日本の「道義的原理」が、ヨーロッパの世界観とは異なったものであることはよくわかるのだが、どこまでいっても、「新たな道義的原理」の実質は明らかにはされない。それはあくまで、ヨーロッパ近代への批判としてしか出てこないのである。
 確かに、「新たな道義的原理」なるものが、たとえ反ヨーロッパ主義としてであれ、もう少し明確に理念化されておれば、「日本の世界史的使命」が多少はインパクトをもちえたのかもしれない。たとえば、反植民地主義の裏返しとしてのアジア諸国民の民族的自決をもっと正面に掲げれば、日本のアジアへの無謀な軍事的侵攻は、少なくとも、理念の上では誤りとして断罪できたはずである。しかし「道義」とは何かが具体的状況に即して述べられない以上、アジアの解放はせいぜい政治的スローガンにしかならなかった。

 どうしてなのか。アジアの解放を唱えた知識人たちが、軍部と世論の強硬な海外膨張の流れに抗うことなく漂流していったからであろうか。あるいは、アジアの解放などもとより政治的スローガン以上の何ものでもなかったからであろうか。確かにそうではあろう。しかしそのもっとも基本的な理由は、そもそも「アジア」なるものが、「西洋」を裏側から照らし出す一種の陰画でしかなかったからである。アジアは、非・西洋として定義される以外になかったからである。
 これは、「停滞のアジア」が世界史の中に存在しなかったということではない。そうではなく、明治以降の日本の近代化があくまで欧化にほかならなかった、ということの単純な帰結である。福澤が西洋にならって、文明を「野蛮」「半開」「文明」と区別したことの帰結である。そこにあるのは近代日本の歴史意識の問題であり、自己認識の問題なのである。「脱亜」というけれども、脱すべき「アジア」などどこにもなかったともいえる。もしも「アジア」が「非・西洋」としてしか定義しえないとすれば、「脱亜」とは、日本が「非・西洋」となることを排する、というだけの意味である。ただ、日本は西洋の影ではありえない、といったにすぎない。
 したがって、「脱亜」を裏返した「大東亜共栄圏」にしても「東亜共同体」にしても、もともと「新たな道義的原理」などになりえるものではなかった。「大東亜共栄圏」などというものは最初からありえなかった。真の問題は、どこまでいっても「日本」なのである。アジアや「東亜」などではない。「日本」の近代が、西欧的論理によって推し進められた帰結としての英米との対立なのである。アジアの他国は西欧の刃によって植民地化はされたが、決して日本のように、欧化の方向で近代化したわけではなかった。植民地から独立するという課題と、日本のように、一度西欧的に近代化したその中で、自己アイデンティティの不安のあげくに日本定な自意識を再興することとは全く違ったことである。それを、共通の敵は西欧である、として共通の「アジア」という概念でくくることはできないのである。
 もっと英場、対立は、日本人の内部にあった。いや、対立というより分裂といったほうがよい。日本というもののセルフ・アイデンティティの分裂こそが真の問題だったのである。アジアの諸民族が、必然的に非西洋的である、とみなすのはあまりに楽天的であり、もっといえばアジアを知らない。植民地からの自立を促す民族自決主義もまた、西欧の自由と平等の理念から生み出された観念であり、貧困にあえぐアジアが、あたかも「武士の瘦せ我慢」のような精神をもって西洋の物質文明に対峙する、などと考えるのもまた手前勝手な幻想であろう。
 したがって、「大東亜共栄圏」やアジアの解放などという外皮を剝ぎ取れば、そこに真の課題、すなわち「日本」が出てくるのは当然なのである。京都学派にしても、本当に関心をもったのは、あくまで、西欧の論理と対抗できる「日本の精神」であった。「新たな道義的原理」はアジアをひとつにまとめるようなものではありえず、あくまで日本の文化の問題であった。だがそうであれば、もはや「大東亜共栄圏」もアジアの盟主もほとんど意味をもちえないはずであった。」佐伯啓思『日本の愛国心 序説的考察』中公文庫、2015年。pp.324-333.

 この『日本の愛国心』の著者・佐伯啓思氏も、奈良県出身の京都大学教授を長く務めた人だが、出身大学は東大である。東大と京大を対比したり、関東と関西の文化的風土の違いを強調する人たちも、たくさんいるが、本質的にはどうでもいいことだとぼくなどは思う。ただ京都学派が何を主張したかは興味があるし、とくに「近代の超克」座談会については、ぼくもちょっと論じたことがあるので、ここの論議は興味深い。


B.昭和の野蛮と優雅
 明治が終わったのが1912(明治45=大正元)年で、19年後の1931(昭和6)年は大正も終わっていた。昭和が終わったのが1989(昭和64)年で、それから平成の31年が経過して、今年2023(令和4)年は、昭和の終焉から34年経っているわけです。時のたつのは振り返ればあっという間のようにも思えるけれど、中村草田男は昭和の初めに、ああ明治はずいぶん昔になっているな、と感慨にふけったわけだな。

「言葉季評 昭和は遠くなりにけり あの「反則」最後に見たのは  穂村弘
 降る雪や明治は遠くなりにけり  中村草田男
 草田男の代表句である。昭和6年の策と聞いて、なるほどと思った。これは令和や平成の句ではもちろんあり得ない。そこから明治という時代が遠いのは自明だからだ。では、大正ではどうか。こちらは近すぎる。「明治は遠くなりにけり」という感慨には、やはり大正を経て元号が再び変わった後の、昭和初期あたりがふさわしいようだ。
*     *  
 そう考えてみると、令和5年の現在からは昭和という時代がちょうど同じような距離感になる。「昭和は遠くなりにけり」という気分が生まれても不思議ではないだろう。新聞や雑誌に投稿される短歌にも、あの時代を振り返るものが増えている。
 五カウントまで反則が許されるプロレスみたいだったな昭和  たろりずむ
 最後に突然現れる昭和に驚きながら頷いた。確かに、あの頃は未成年の飲酒や喫煙、芸能人の反社会的勢力との交際、各種のハラスメントといったさまざまな「反則」への意識が微妙に緩かった。私が大学に入った頃も、新歓コンパではビールの乾杯が普通だった。その場に教授がいても、もう大学生だから大人だよね、という暗黙の了解があったのだ。
 「五カウント」側の奇妙なルールはそれ自体がいわばメタレベルの「反則」で、理屈上はなんでもありになってしまう。だが、いくら「プロレス」でも「五カウント」の間に相手を銃で撃ち殺していいわけではない。そこが暗黙の了解たる所以で、まさに「昭和」的だった。グレーゾーンの広さには功罪両面があったのだろうが、時代の流れとともに罪の面がクローズアップされて「反則」の取り締まりは厳しくなっていった。
 
取り戻せ和式便所で朝刊を呼んでいた時代の活力を  たろりずむ 
 今、トイレのドアを開けて、「和式便所」に出会うと、一瞬、ひるむ。そっと閉めて、そのまま撤退することも多い。それしかなかった頃は平気だったのに、それどころか、「朝刊」まで読む猛者がいたらしい。これは高度経済成長期の企業戦士的なイメージだろうか。ぐらぐらと不安定な姿勢で小さな活字を追うパワーは、どこから来ていたのか。引用歌では、それを個人を超えた「時代の活力」と呼んでいる。

 箱の中ひしめくひよこ釣り上げることが遊びの世界から来た  原田 
 襟巻きのミンクの硝子玉の目がとろりと冷えてゆく冬の夜  原彩子
「ひよこ釣り上げることが「遊びの世界」の名前は昭和だろう。お祭りの夜店ではカラフルに着色された「ひよこ」が売られていた。また、私の母やその友人たちの「襟巻き」には動物の顔がついていたのを憶えている。あの頃は人間以外の生き物の扱いも乱暴だったが、「反則」取り締まりの厳密化によって、現在ではいずれも姿を消している。それだけが理由ではないかもしれないが、金魚すくいもスーパーボールすくいなどに置き換わりつつあるようだ。

立ちションをしている人も見たら戻れぬ元の世界に  木村一雄 
 「立ちション」もまた昭和的な「反則」だ。最後に見たのはいつだろう。ずいぶん前だし、もちろん一人の振る舞いだった。ばらばらに「三人」も見かけるようなことがあったら、もう異常事態である。タイムスリップして昭和に来てしまった可能性がある、というわけだ。

うっとりと煙草吸いたるいにしえの女優の口紅の色が知りたい  岡村 還
 モノクロームの画面には、紫煙とともに遥かな時の香りが漂っている。「いにしえの女優」も今はもう年老いて、あるいは亡くなっているのかもしれない。永遠に手が届かないという感覚が憧れを募らせる。その「口紅の色」を知るためには、やはり過去へと旅立つしかない。
*     * 
 昔の映画やドラマを見ていると、登場人物が煙草を吸いまくっていて、ぎょっとする。会社でも路上でも飛行機の中でさえも。その光景を自分はリアルタイムで見ていたはずなのに、昭和を遠く離れた現在の目で見直すと驚いてしまうのだ。
 そういえば、子どもの頃、「太陽にほえろ!」という刑事ドラマを見ていた。多くの同級生たちと同様に、もっとも憧れたのが萩原健一演じるマカロニ刑事と松田優作演じるジーパン刑事で、彼らの殉職シーンには衝撃を受けた。
 マカロニは立ちションの直後に刺される。ジーパンは撃たれて倒れた後、血まみれの手で煙草を咥える。社会を守る刑事たちの伝説的な殉職シーンが立ちションと咥え煙草とは、今思えばいかにも昭和的だ。あれは時代が生んだヒーローたちによる、死の直前の「反則」の輝きだったのか。」朝日新聞2023年10月5日朝刊、15面オピニオン欄。

 平成生まれの人ももう30台になるいま、「太陽にほえろ!」(日テレ系列で1972(昭和47)年7月から1986(昭和61)年11月まで放映)を見ていた記憶がある人は、そろそろ高齢者にさしかかっている。思えば、タバコを吸いながら固定電話で怒鳴っているドラマが当たり前で、ぼくも若い頃は立ちションをした。べつにそれを懐かしいとも思わないが、時代はずいぶん変わったな、と思う。
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1 コメント

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神はサイコロ遊びをする (ああいえばこういう熱力学)
2024-03-24 19:34:59
最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタインの理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズム人間の思考を模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな科学哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。なつかしい日本らしさというか多様性を秘めた多神教的魂の世界の力によって。

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