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「日本近代美術史論」を読む 8 狩野 芳崖 能力で人を分けない日

2024-04-25 12:08:27 | 日記
A.日本画の江戸と明治の接続点
 狩野芳崖(1828~1888)は、1828(文政11)年長府印内(現・下関市長府印内町)で、長府藩狩野派の御用絵師だった狩野晴皐の家に生まれる。芳崖の狩野家は、桃山時代に狩野松栄から狩野姓を許された松伯に起源を発し、3代洞晴(どうせい)のとき長府藩御用絵師となり、5代察信の時代に長府に移り住んだ。芳崖はその8代目に当たる。芳崖も幼い頃から、父の後を継ぐべく画道に励んだ。1846(弘化3)年19歳で、父も学んだ木挽町狩野家(江戸狩野)に入門、狩野雅信(勝川院)に学ぶ。1850(嘉永3)年には弟子頭となり、同年同日入門し生涯の友になる橋本雅邦と共に「竜虎」「勝川院の二神足」と称された。画塾修了の証として、勝川院雅信から「勝海雅道」の号と名を与えられる。この頃、父の修行仲間で当時画塾で顧問役を務めていた三村晴山の紹介により、近くで塾を開いていた佐久間象山と出会い、その薫陶を受ける。芳崖は象山を慕うあまり、その書風も真似したといわれる。その後、藩から父とは別に30石の禄を給され、御用絵師として江戸と長府を往復する生活を送る。1857(安政4)年、近郷の医師の娘よしと結婚。この頃、禅の「禅の極致は法に入れて法の外に出ることだ」という教えから、法外と音通の「芳崖」の号を使い始めた。
 明治維新後、いわゆる「武士の商法」で養蚕業などを行うが失敗、生活の糧を得るため不本意ながら南画風の作品や、近所の豪農や庄屋の屋敷に出向き、襖や杉戸絵を描いた。明治10年(1877年)惨憺たる窮状に見かねた友人たちの勧めで上京したが困窮は変わらず、日給30銭で陶磁器の下絵を描くなどして糊口をしのいだ。明治12年(1879年)芳崖の窮状を見かねた雅邦や同門の木村立嶽の紹介で、島津家雇となり、月給20円を支給されて3年かけて「犬追物図」(尚古集成館蔵)を制作する。
 1882(明治15)年、54歳の芳崖はフェノロサに出会い、日本美術史上の最初の転機を迎える。フェノロサは芳崖の仁王捉鬼図を当時の総理、伊藤博文に見せて日本画の可能性を示し、東京美術学校(後の東京藝術大学)設立の契機とした。芳崖はその東京美術学校の教官に任命されたが、「悲母観音」を描きあげた4日後の1888年11月5日、同校の開学を待たずに死去した。享年61。(以上はWikipediaの記述を参考にした。フェノロサと芳崖の出会いから始まる日本画の変革について、高階秀爾先生の以下の論述を読んでみる。

「明治期の日本画の発展において、フェノロサと岡倉天心の果たした役割りは決定的であった。彼らの果たした歴史的役割の重要性は、誰しもこれを否定することはできない。このふたりの存在がなかったなら、明治の日本画は明らかに異なった歴史の歩みを見せたであろう。だが、彼らのその日本画復興の運動にしても、江戸三百年のあいだ絶えることなく生き続けてきた狩野派アカデミズムの地盤がなければ、おそらく不可能であったに相違ない。そしてその狩野派アカデミズムは、明治の初頭に、ふたりの優れた才能を生み出していた。江戸木挽町にあった狩野絵所の勝川院法眼雅信門下で「神足」と謳われていた橋本雅邦と狩野勝海(後の芳崖)がそである。事実、森大狂の『近古芸苑叢談』(巧芸社 大正十五年刊)や、狩野友信談「芳崖逸話」(『日本美術』第81号収載)の伝えるところが事実であるとするなら――そしてそれはおそらくきわめて事実に近いと思われるが――、フェノロサは当時の日本画の状況にほとんど絶望しており、明治十七年の第二回内国絵画共進会で芳崖の作品を見いださなかったら、あるいは日本画復興を断念してしまったかもしれなかったのである。そして、フェノロサにとって、芳崖との出合いが同時に狩野派の伝統との出合いであり、さらには東洋の伝統の生きた実例との出合いでもあったことは、あらためて言うまでもない(後にフェノロサは、「明治の偉大な中心的存在であった狩野芳崖は、呉道子が最初に響かせた偉大な楽器の最後の音をはっきりと打ち鳴らした人と見做し得るであろう」と述べている)。したがって、フェノロサや天心の歴史的役割を検討するに先立って、彼らのその役割を可能ならしめた狩野派の意義、就中その最後の代表者であった芳崖の役割りを振り返ってみる必要があるであろう。
 芳崖と雅邦は勝川門下の同門の画家でありながら、性格的にはまったく対照的であった。雅邦が謹厳寡黙、きわめて理知的でしかも現実的感覚も充分に備えた温厚な人柄の人物であったのに対し、芳崖は直情径行、感情的、空想的で、気が向けば何時間でも一人で喋舌りまくるくせに、気に入らない相手に対しては口もきかないという激しい気性の持ち主であった。個人的タイプとしては、このふたりの芸術家は、次代こそ違え、洋画の黒田清輝と青木繁に対比できるかもしれない。一方は優等生タイプの現実派であり、他方は天才肌の破滅型である。雅邦の生活には黒田の場合と同様、人眼を惹くような派手な言動や奇矯な逸話はほとんどないが、芳崖の伝記には、青木の場合と同じように、虚実とりまぜてさまざまな伝説やエピソードがちりばめられている。
 だが、そのような性格上の類似にもかかわらず、青木と芳崖とは、日本の近代美術史における歴史的意義という一点において、大きく異なっていた。青木繁が同時代の精神的風土を鋭敏に感じ取るだけの鋭い感受性を備えていながら、日本の洋画史において遂に黒田のような歴史の「主流派」になることができず、あくまでも「異端者」として止まったのに対し芳崖は雅邦と共にその後の日本画の展開に決定的役割を果たしているからである。黒田と青木は、その性格のみならず歴史上の位置においても対照的であるが、芳崖と雅邦は歴史的には同じ地点に立っている。私はそこに、芳崖と雅邦二人に共通していた狩野派の伝統の背景というものの働きを見ないわけにはいかない。もちろん、実際に芳崖の歴史的役割を演出したのは、フェノロサという一人のアメリカ人であった。しかし、そのフェノロサにしても、芳崖のなかに、「呉道子が最初に響かせた偉大な楽器の最後の音を打ち鳴らした人」を見出したからこそ、みずらか演出家の役を買って出たのである。フェノロサが、芳崖の背後に、ひとつの強力な伝統の存在を認めていたことはあきらかであろう。 
 芳崖の奇矯な性格を物語るエピソードは多くの人々によってしばしば語られているが、そのなかでもとくに興味深い貴重な資料として、「芳崖翁と私」と題された坪内逍遥の短い一文がある。これは、古川北華氏が逍遥に芳崖の印象を尋ねた時の返事として書かれたもので、その全文は、同氏の著書『狩野芳崖』(民族教養新書 元々社昭和30年刊)に収録されているが、そのなかに、例えば次のような一節がある。逍遥が春の朧月を阿弥陀如来に喩えた文章を新聞紙上に書いたのを見て、逍遥と何の面識もなかった芳崖がいきなり若い逍遥の許に訪ねて来る話である。

「……其二三日後か、或いはもつとずつと後であつたか記憶しないが、ある日、突然真砂町の宅へ訪ねてきた老人があつた。極粗末な羽織袴姿で、齢は五十七八で、腰には弁当箱をぶら下げ、たしか下婢に口上で姓名を言つて会ひたいと言ふ。どういふ人だか分からなかつたが、無論こちらは書生々活、だれにでも会ふのが例であつたから、客の間といつても、すぐ玄関の次の間へ通した。通るや否や『や、先日の如来さまは敬服です。全く如来さまに相違ない。あの通り通り!』といふのを序開きに主人には更に文句を言はせず約三十分程、突拍子もない、断片的の、支離滅裂の美術論やら芸術談やらのノベツ幕なし。いつの間にか、それが演劇の話に移ると、俳優では、何といつても、団十郎ですよ。さすがに偉い、うまいもんだ。併しあれほど心得てゐるやうでも、まだどうも歩き方がいけない。小松重盛が、それあの、西八条第へ、急を聞いて、馳せ附けたところの、あの花道の出だ。あの歩き方がいけない。(といふや否や老人は席を立つた)団十郎は斯ういふ風に歩く。(と弁当箱をぶらぶらさせて、八畳の小座敷をあちこち歩きながら)これがいかん。腰の据わりがない。あそこは是非斯うなくちやいかんので。……(とまた歩く)。
 これが翁の第一次の訪問の時であつた。下女の取次で狩野某と聴いたので、多分画家だらうぐらゐには思つてゐたが、どういふ身分の人だかも、実は其際に分かりかねてゐたから、少々呆気に取られた気味であつた。翁は喋舌るだけ喋舌つて、万事独吞込で愉快さうにして帰つて往つた。
 翌日になつて、私は有名な芳崖翁であることを知つた。又、芳崖翁の為人に関しては、其後、あちこちから聞いて、成程、常人ではないなと思つた……」

 逍遥の筆になるこの描写には、物事に熱中し易く、自分でこうと思いこんだら他人の思惑などさらに構わない芳崖の直情径行な一面が生き生きと描かれている。このような彼の性格は、時にひとつのことばかり一図に思い続けてとんでもない失敗をやらかすという結果をもたらした。彼が肺を病んだ時、にんにくを食べたら大変効果があったので、それからはすっかりにんにくの信者になり、自分の家の前には寸余の土地も余さずにんにくを植え、つねづね袂にいっぱいにんにくを入れて人前でもどこでもそれを食べていたとか、弟子のひとりが歯が痛くて苦しんでいた時ににんにくをつけたら良いと大真面目ですすめて、弟子の方は却って痛みがひどくなり、大いに芳崖を恨んだとかいったようなエピソードは、彼の伝記を読むと枚挙にいとまないほど出て来る。(のみならず芳崖は、会う人誰にでもにんにくの効果を説いて無理にでも食べさせようとした。逍遥もその犠牲者のひとりであったことが、前記の文章に述べられている)
 上に引いた逍遥の文章にも彼が弁当箱を腰にぶらさげていたことが書かれているが、些事に拘泥しない芸術家肌の彼は、外へ出るといつも何かと忘れ物をして来るので、弁当箱でも、扇子でも、何でも腰や羽織の紐に結びつけていたという。また、ある時など、島津家に茶の湯に招かれ、草履のまま平気で座敷に上りこんで、後で帰る時、玄関に自分の履物がないといって訝ったというエピソードも伝えられている。
 さらに、逍遥の文章からもうかがわれるように、芳崖は文学や演劇にも深い関心を寄せ、自ら松本金太郎について能舞を学んだりする多才ぶりを示した。このような点も文学青年であった青木繁とよく似ており、もっぱら絵画一筋に精進した優等生型の雅邦や黒田清輝とは対照的である。能舞に熱中していた頃は、常住坐臥つねにそのことばかり考え、ある日、牛込柳町あたりを歩いていた時、急に扇子を出して声高々と謡い出し、路上で一曲舞い納めたといった話が伝えられている。その時、通りがかりの人々は一体何事が起こったかと吃驚したが、芳崖自身はまったく平気で、舞い終わると、「実に気持ちがよかった、今迄いくらやってもあの扇子を開いてすつと出す呼吸がうまく行かなかつた」と語って、けろっとしていたという。
 この種の逸話は、実は挙げ出せばきりがない。だがここでは、そのような逸話を紹介することが目的ではない。これらのエピソードを通してうかがわれるような芳崖の性格が、彼の作品にどのように反映され、彼の仕事をどのように規定して行ったかを探ることが本稿の主要な目的だからである。
 上に見たようないくつものエピソードがわれわれに予想させるものは、豊かな想像力に恵まれた奔放自在な画家の姿である。彼の多彩な才能と激しい性格とは、狩野派の厳しい技術的訓練の枠のなかでも、いや、そのような制約があればなおのこと、その作品に独自の力と気迫とを与えずにはおかなかったであろう。まして芳崖は、勝川院の許に学んでいた時、勝川院が依頼を受けた下谷摩利支天堂の襖絵を描く手伝いを命じられ、狩野派の古式からはずれた配色をして破門されかかったほど自己自身の表現に忠実であった芸術家である。この時は、同門の雅邦たちのとりなしでやっと破門だけは免れたが、勝川院から激しい叱責を受けた。叱責が終わって室外に退出すると結城正明が心配してどうして叱られたのかと尋ねた。芳崖は平然として、「師匠は絵を知り玉はず」と答えたという。
 事実、彼の作品の優れたものには、このような自身、覇気、奔放な性格が遺憾なくあらわれている。例えば東京の島津家所蔵の有名な「鍾馗図」や、伊藤博文に贈った「鷲の図」、あるいは、きわめて単純な白猫で一気呵成に描き上げたような「獅子舞図」などに、それははっきりとうかがうことができる。明治十九年の鑑画会第二回大会で一等賞を得た「仁王捉鬼」のように時間をかけて丹念の描き上げた作品―-これは、場所によっては十一回も塗り直したといわれる――ですら、発想の新鮮さとは破格の色調構成によって、芳崖の激しい性格にふさわしい力強さを備えたものとなっている。だがそれでは、彼の全作品のなかで最も広く世に知られており、誰しもがその代表作として疑わないあの畢生の大作「悲母観音」(東京芸術大学所蔵)の場合はどうであろうか。
 私も、芳崖の絶筆となったこの作品が、彼の代表作であることを否定するものではない。のみならず、それは明治以降の近代日本画の主要な方向を規定したという重要な歴史的意味を担っている。芳崖の作品のうち、ただひとつ、この「悲母観音」だけが重要文化財の指定を受けているということも、その意味からすれば当然と言ってよいであろう。
 だがしかし、それにもかかわらず、私の中には、「悲母観音」を無条件に「傑作」と認めることをためらわせる何かがある。私はこの作品に接するたびに、その見事な線描表現や、豊かな色彩や、複雑な構成の妙に感嘆の念を覚えながらも、最終的にどこか納得しきれない何かが、おりのように心の中に残るのを感じないわけにはいかない。その「何か」が、私とこの作品との完全な触れ合いを妨げるのである。
 といってそれは、例えば高橋由一の「花魁」図に感じたあの違和感とは、はっきりと別のものである。「花魁」図の与える違和感は、あきらかに油絵としては破格なその色彩表現に由来するものであった。しかもその色彩表現は、破格でありながら私自身の心の中に共鳴板を見出だすようなものであった。だが「悲母観音」の場合は、それほどはっきりした理由は、少なくともその均整のとれた画面にはどこにもなかった。色彩表現にしても、それは狩野派古来の法則から言えば「破格」であったかもしれないが今日のわれわれの眼から見ればきわめて正統的であり、むしろ常識的ですらある。デッサンはよく統制された筆使いで細部にまで神経が行き届いているし、構図も後に見るように呉道子(?)の作品を直接受け継いでいるだけに、大胆なように見えて少しも破綻がない。強いて言えば、「悲母観音」はあらゆる点において、破綻がなさ過ぎる。それは、あまりに完成され過ぎているのである。
 もちろん私は、この作品のどこかに乱れがあったらもっと良かったろうなどと言っているのではない。破綻がないということは、芸術作品においては、たしかにひとつのメリットであって、少なくとも非難さるべきことではないであろう。だがそれは、決して唯一のメリットではないし、おそらく最高のメリットもない。「悲母観音」は、その完成度の高さにおいてきわめて優れた作品でありながら、あらゆる点で完璧であることに作品の最高のメリットがあるというまさにその点において、私に何かもの足りない思いを抱かせるのである。」高階秀爾『日本近代美術史論』1980年、講談社文庫。pp.146-154.

 幕藩体制の保護を受けて禄を受ける武士だった狩野派絵師たちは、明治維新で生活の基盤と身分を奪われ、困窮に陥ったのは、能楽師や廃仏毀釈に遭った僧侶なども似たような境遇にあった。アーティストとして生き残るためには、何らかの新時代に対応する「近代化」が必要だった。それは日本画の場合、狩野派アカデミズムのなかから芳崖という天才とその価値を認めたフェノロサを必要としていた。


B.「あなた」あっての「私」
 最首悟さんという名前は、ぼくにはあの70年前後の東大闘争のなかで、東大の生物学の助手として全共闘運動に関わった(助手共闘)人として記憶されている。山本義隆氏とともにいわば「知的で誠実な兄」のような印象を受けた人だが、東大教養学部ではその優秀な研究者でありながら助手のまま据え置かれ、やがて和光大の教員をしながら、障害者の娘さんの世話を続ける生活について、人間の生き方を問う発言をしてきた人である。新著が刊行されたというインタビュー。

「新著「能力で人を分けなくなる日」刊行 最首 悟 さん (生物学者・思想家)
生きることは何か、そこに価値はあるのか。生物学者、思想家で和光大名誉教授の最首悟さん(87)が、10代と語り合った新著「能力で人を分けなくなる日-命と価値のあいだ」(創元社)が今月初めに刊行された。水俣でのフィールドワーク、重度障害者の娘との暮らしの中ではぐくんだ思想を、若者に易しく説いて聞かせている。「世代を感じることなく語り合えたと思います」と孫ほど年の違う相手との対話を楽しんだ様子だ。
 最首さんと車座になって向い合ったのは中高生3人。学校生活や社会問題について、さらに生と死について語り合った。「自分探し」に話が及ぶと〈まだ見つからない〉〈自分がどうしてもわあ駆らない、っていう状態に気付いて、探し始めてしまう〉との率直な告白も。3人の意見を受け止めた最首さんは〈私たちのいちばんの根本は「人に頼る」ということ〉と諭したりする。
 「頼り頼られるのはひとつのことです。一報が自立したり、一方に依存していたり、ということはありません」。最首さんの声は確信に満ちている。人の単位は1人ではなく、最低2人。「私」という存在がまずあるのではなく、「あなた」との関係がまずあって、「私」ができていく。最首さんが提唱する「二者性」の概念だ。
 「『人間』は『人のあいだ』です。つまり関係を指している。人がいて関係しあい、繋がり合っていることを含めて『人間』というのではないか」
 こうしたことは三女の星子さん(47)との暮らしの中で気付いたことなのだという。星子さんはダウン症で生まれ、言葉はなく、目も見えない。食事や身の回りのことは、最首さんと妻五十鈴さんの介助に頼っている。〈どんな人でも、どんな動物でも、私にないものを持っている。(中略)そういう存在に頼る。それをきずなとして生きる〉(同書)。「星子は何もできないですけれど、
いるだけで影響力をもっている存在。私たちが星子に頼ってるんですね」
*   *   *  
 1936(昭和11)年、福島県で生まれ、3歳の時家族で東京へ。子供のころはひどい小児ぜんそくで、戦時中だった小学生のころが一番きつく、卒業するのに9年かかった。生きることに「もういいよ」とあきらめたくなる一方で、生きたいとも思った。「私の勝手にならない私の命。自分の理解を超えたものを受け止めるという経験が、それから後の人生の下地になっている」
 東京大に進み生物学を専攻。同大助手時代の77年から、水俣病の被害者や地域住民から話を聞く研究社集団「不知火海総合学術調査団」に参加した。小説家・詩人の石牟礼道子から懇願されたのだ。森羅万象がともに生きる豊かな世界を描いた石牟礼の影響を受け、水俣のアニミズムに分け入った最首さん。「東洋的な『縁』の複雑なネットワークの中に、私が入っていくイメージ。のちに『人間』への関心につながっていきます」
*   *   *  
 2018年4月、「津久井やまゆり園事件」の植松聖被告・現死刑囚から手紙が届いた。知的障害者施設の入所者ら45人が殺傷された事件を受け、メディアで積極的に発信する最首さんを知ったのだろう。手紙には「国債(借金)を使い続け、生産能力のない者を支援することはできません」という植松死刑囚の歪んだ優生思想の根っこに、社会にはびこる能力主義の断片を見る。「重視されるのは、自立した個人の能力。その人をめぐる関係性は捨て去られてしまっている」。最首さんは今も植松死刑囚に手紙を送り続けていっる。
 星子さんに言葉はないが、よく声を発するという。寝ている時に「ウフフ」と声に出して笑う。「とても心地よさそうにして。妻と『何を見てるんだろうね』と顔を見合わせます。私たちにはわからないけれど、多分、幸せに近いものを見ているのでしょう」
 最首さんは星子さんの入浴担当だったが、最近は体力が厳しくなり、入浴サービスを頼んでいる。取材を終え、星子さんの部屋におじゃますると、ちょうど入浴の後で、ぐっすりと寝ているところだった。 (栗原淳)」東京新聞2024年4月20日夕刊5面土曜訪問欄。
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「日本近代美術史論」を読む 7 青木 繫  人口減少の未来?

2024-04-22 11:46:20 | 日記
A.夭折の天才アオキ
 記憶は怪しいのだが、青木繁の「わだつみのいろこの宮」と「海の幸」という絵をはじめて見たのは、中学の美術の教科書、いや副読本だったかな。若々しいロマンチックな絵だと思った。明治の洋画家というごく少数の恵まれた人たちが、西洋の油絵を学んで作品を描いた、ということに憧れた。黒田清輝は確かに恵まれた環境に生まれた人で、親は幕末維新で成功した薩摩藩士で、その父の期待によって若くしてフランスに渡り、法律の勉強をするはずがいつしか絵描きになろうと決意してほんとになっちゃったわけだ。明治のエリート街道を歩んだ人。
 でも、青木繁はそれとは正反対の境遇と精神を抱いていたという。つまり、彼の父は筑州久留米藩士で士族だけれど、久留米の有馬は維新で没落した側にいて、長男だった繁は、絵を描きながら貧しい一家を支えなければならない立場にあった。彼のロマン派的精神は、そのままでは生き延びることの困難を抱えざるを得なかった。

「生まれながらにして豊かな幻想力に恵まれた天性の「ドリーマー」でありながら、おそらくそのためになおのこと「絵を作る原則とでも云ふ可きものを片端から理論で考へてやつて見」なくては気のすまなかったというところに、青木繁の創造のもうひとつの秘密が隠されている。おそらく彼は、自分に憑きまとって離れない幻想世界があまりにも強烈なものであるために、それが無制限に自己主張することを恐れて、ほとんど本能的に理論的なものを求めたのであるに違いない。彼はちょうど、上に引いた二十歳の時に梅野宛の書簡で、向島の女水死人の不気味な様子をことこまかに描写した後、一転して眼の前の自然を淡々と描写する写生文に戻ることによってあまりに幻想のなかにのめりこもうとする自己の精神のバランスを辛うじて恢復したように、絵画制作においても、自由奔放な表現力に理論的裏づけを与えることによって画面のバランスを保とうとしたのだと言ってもよい。
 もともと青木繁の芸術は、非常に大きな振幅で揺れ動くその精神の微妙なバランスの上にやっと成立しているものであって、一たびそのバランスが崩れれば、たちまち危機に直面するはずのものであった。晩年の佐賀における「断片」は、すでに明らかにそのような「危機」の兆候を示している。前にも触れた『白百合』収載の「画壇」において彼が画家は単に小手先が器用で表現が巧みなだけでは充分でなく、「健全なものをこしらへ様とするには健全な能力を持って居なくてはならない。理性も明らかな発達をして常識を高め、意志も出来る丈け堅固で、感情も強く高くなくてはいけなからうと思ふ」というきわめてまっとうな意見を述べているのは、おそらくさもなければ彼自身の芸術世界が成り立たなくなってしまうことをはっきり知っていたればこそのいわば自戒の言葉と見るべきであろう。
 しかし、そのような絵画制作上のこととは別に、青木が生来知的なものを好む傾向を持っていたことは事実である。梅野満雄の思い出によると、青木は困窮の生活のなかでも勉強することを止めず、上野の図書館に通って日本の古典や仏典などを読んでいたという。その頃彼は、「僕が駒込を離れる事が出来ないのは上野の図書館があるためだ」と語っていたというが、事実彼は、若い頃から、驚くべき読書家であり、該博な知識の持主であった。彼がおそらくその生涯の最大の傑作である「わだつみのいろこの宮」をはじめ、「黄泉比良坂(よもつひらさか)」「大穴牟知(おおなむち)」「闍威弥尼(ジャイミニ)」その他、わが国の記紀の神話やインドの外道諸教派に題材を求めた作品を多く残していることはよく知られているが、その背後には、このような深い教養があったのである。
 青木繁が文学に深い関心を持っていて、自分でも詩や和歌を作り、また、神原有明をはじめ多くの文学者の友人を持っていたことも、彼の持ち前の知的好奇心と無縁ではない。漱石も、「それから」のなかで、青木の「わだつみのいろこの宮」に触れて、

 「いつかの展覧会に青木と云ふ人が海の底に立つてゐる背の高い女を画いた。代助は多くの出品のうちで、あれ丈が好い気持ちに出来てゐると思つた。つまり、自分もあゝ云ふ沈んだ落ち付いた情調に居りたかつたからである‥‥‥」

 と書いているが、青木の作品は、不思議に文学者を魅了するような力を持っている(その点でも、彼はやはり世紀末の画家であると言えよう)。といって、彼の作品が必ずしも文学的であると言うのではない。むろん、ラファエロ前派の強い影響を受けた青木は、時にロセッティやバーン=ジョーンズ式の象徴主義を好み、自分の作品にいろいろ象徴的意味づけをして喜んでいることはあった。明治三十九年に、久留米の友人高島宇朗の長女のために羽子板絵を描いて贈った時など、その絵について、
「推薦は純潔の象、朱の放射線はエネルギー、虹は、うまれ出の祝福、虹の輪の中にあるは女性の徴号、孩児を包むは胞衣、母性の白肌膚に路線を配せるは、性の情熱を反襯せし‥‥‥」などと自ら説明している。しかし、このような特殊な例を別にすると神話や伝説に想を得たものであっても、解説がなければわからないというものではない。「それから」の代助にしても、「わだつみのいろこの宮」の主題に興味を覚えたのではなく、その「沈んだ落ち付いた情調」に惹かれたのである。
 むしろ、ある意味からすれば、神話や伝説の物語りは、彼の異常なまでに奔放な幻想に養分を与えるものであったと同時に、造形表現においては、色彩の無限の展開のなかに溺れてしまう危険を持つコンポジションを救ういわばブレーキの役目を果したと言ってよい。つまり、あの「女水死人」の幻影を作った手紙において、自己の幻想があまりにも遠くへ行ってしまったことに対するバランス恢復の手段として、眼の前の雨の情景をそのまま写し出す自然描写に戻って行ったように、天性鋭敏な感受性に恵まれていた青木は、どこかで自分の表現を抑制するものを持たなければ、『知られざる傑作』のフレーエンホーフェルのように、あまりにも遠くへ行ってしまう危険があった。すでに、明治三十六年に描かれた「黄泉比良坂」や「輪転」のような作品は、その危険を示している。写生への復帰や、主題への復帰は、青木にとっては、必要なこのブレーキの役割を果たすものだったのである。
 おそらく、青木は、漠然とにもせよ自分からそのことを意識していたようである。「わだつみのいろこの宮」についてのさまざまな批評記事に対する反論のかたちで書かれた「『わだつみの魚鱗宮』に就て」(『日本及日本人』458号収載)と題する論文のなかで、彼は次のように述べているからである。

「抑も造形美術絵画の健全な主観的成立には我輩の考を以てすれば(一)想(二)知(三)技、此三要素が在つて各矛盾したる鼎の脚の如きもので何れの一つを欠く事が出来ないのである
如何に拙であつても此の三要素を備へて居れば意義ある芸術品たるを失はず又如何に巧であつても此三要素の一を欠げば夫れは到底不健全たるを免れぬ、我輩の是迄の作物中他は責ふたぎであつたが「海の幸」は第一要素の「想」を主にして試みた積りで落想の印象に注意したが幾分顕はれたと思つたから其目的は多少達したものとしておき、第二の「知」は今回の「魚鱗宮」で苦心したが又最困難であつた。第三の「技」を主にするものは対象を現実の自然に採り所謂写実なる者が如何なる点迄及ぶ可きかを試る筈であるが未だ出来ないから無論分からぬ。此三つの作物を了へると同時に我輩は始て聊か芸術的良心と生存的意義とを有するアーチストに成れて徐ろに静かな製作が出来るだらうと思ふが(或は泰山鳴動して谿鼠出づるかも知れぬが)当今の処では寧ろスツーデアンである‥‥‥」

 事実、この「わだつみのいろこの宮」は、「海の幸」に比べれば、はるかに理知的な構成と内容を持っている。そのため、一般にはやや冷たい表現として受け取られ、「海の幸」よりは一段と劣るものと見なされているようであるが、その構図の緊密度においてまた色彩表現の華麗さにおいて、そして何よりもその表現の完成度において、むしろ「海の幸」を凌ぐ名作と言ってよい。しかも、画面全体をすっかり塗りつぶしてしまったようなその装飾的表現と、異常に縦長の画面という風変わりな構成と、当時呉服商を営んでいた福田家(愛人福田たねの実家)から借りてきた多彩なちりめんをモデルにしたという幻想的色彩において、それははっきりとギュスターヴ・モローなどの世紀末当時の世界につながるものなのである。(もっとも「海の幸」を現在見られる状態で判断するのはいささか当を失しているかもしれない。それは児島喜久雄の解説を借りれば、「金地の空と低い群青の海とを背景に、獲物を担いで凱旋して行く老若の裸体の漁夫の行列を描いた一流の装飾画」であったが、現在ではその背景の金地はほとんどはげ落ち、海の群青も大分色が褪せているからである。しかしそれにしても、「いつどこで止めても絵になる」と言われた青木の奔放な画風は「海の幸」の方にいっそうよくうかがわれるとしても、作品としては、「わだつみのいろこの宮」の計算しつくされたような密度の高さを私は買いたい。ただし、その「わだつみのいろこの宮」にしても、現在の状態では当初の濃い青緑色の調子はかなり失われてしまっているようである)
 しかしそれにしても、この「わだつみのいろこの宮」や「海の幸」はもちろんのこと、晩年に九州の鐘ヶ江の酒造家清力本店の新築に際して依頼されて描き上げた装飾画「漁夫晩婦」にいたるまで、青木繁の構想力の優れていることは抜群である。黒田が描写力においては優れていても、構想力において欠けるところがあるあったことを思えば、ここでもふたりはまったく対照的な性質を示している。
 「それから」の代助が、日本の世紀末的耽美主義者の典型であるとすれば、青木繁は、西欧の世紀末芸術を身をもって受けとめ、自己の生命を賭けてその苦悩を生き抜いた悲劇の画家であった。しかも、彼のその優れた造形表現力は、世に出てからわずか十年もたたないうちに永遠に失われてしまった。いかに早熟の天才とは言え、満二十八歳で世を去った画家に多くを望むわけにはいかない。むろん、彼特有の放浪生活のあいだに幾多の貴重な作品が行方知れずになってしまったという事情はあるにしても、われわれに残された青木の作品はあまりにも少い。それというのも、青木は、西欧のいわゆる世紀末的苦悩を生き抜きながら、その上さらに、日本の近代の持っていた宿命をも背負わなければならなかったからである。
 私はこれまでに、青木繁の持つ世紀末的特性をもっぱら指摘して来た。しかしながら青木は、ムンクやモローのような世紀末芸術家と比べてみればもちろんのこと、「それから」の代助と比べてさえ最初から大きなハンディキャップを負わされていた。それは、彼が明治十五年の日本において、それも北九州の久留米において、旧有馬藩の士族であった家の長男に生まれたということである。
 世紀末の芸術家にしても、あるいは耽美主義的ディレッタントにしても、当時の市民社会に対して背を向けること、すなわち反社会的な生活態度をとることを大きな特色としていた。一般の俗人にはうかがい知ることのできない美の王国の使徒となるためには、それは当然の条件であり、それなればこそ、彼らの反俗的な態度は、時に反道徳的なデカダンスにまで達したのである。しかしそのことは、逆に言えば、彼らが、自から求めたにせよ、あるいは結果としてそうなったにせよ、いずれにしても社会的責任から免れていたということである。世間から白眼視され、それだけ世間に対しても反抗的な眼で見ていたデカダンスの芸術家たちは、まさにその事実の故に、社会的責任に対する免罪符を手に入れることができた。だが明治十五年に生まれた日本のエリートにとっては、社会的責任を免れるということはほとんどできない相談であった。デカダンスは、ヴィクトリア朝末期や第三共和政の盛期のように、文化の爛熟しきった時代においてこそ可能であっても、あらゆる能力が「お国のために」吸収されるという体制ができ上がっていた明治時代の日本においては、芸術家といえども社会に対する責任を免れるわけにいかない。ましてその上、士族の家の長男に生まれ、大勢の弟妹たちがいるということは、それだけで、家族というものに対する責任も負わされることであった。そして、わが青木繁の場合は、まさにその典型的な事例だったのである。
 漱石は「それから」の主人公を「近代人」の代表である耽美主義的ディレッタントとして描き出すため、家族に対して責任のない独立した次男坊で、しかも父や兄に寄食して生活には困らない人間というシチュエーションを設定した。明治末年の日本において、曲がりなりにもデゼッサントの分身を創造しようとすれば、おそらくこのような状況設定を考える以外に方法がなかったであろう。しかもなお、代助のような人間は、日本においては、「高等遊民」すなわち、本来なら社会に出て仕事をしなければいけないのに、ただ何となくぶらぶらしている穀つぶし的人間としか見られないのである。
 だが青木繁の場合は、代助のような恵まれた境遇にいるわけではなかった。彼は長男として、父の死後全家族の面倒を見なければならない立場であり、しかも家庭も、自分自身も、貧困に悩まされ続けるという悪条件のもとにあった。彼は、一面においては、「ダ・ヴィンチのような作品が一枚でもできれば死んでもよい」と考えるような芸術至上主義者であった反面、勃興期の明治人にふさわしく社会的な抱負を持ってもいたし、家族に対する責任も強く感じていた。先に触れた「『わだつみの魚鱗宮』に就て」という論文は、作品そのものの解説に先立って、芸術一般の社会的役割ともいうべきものを説き「物質制度上の維新に四十年後れて今や精神修養上の維新が来りつつあるのだ」と断定して、西洋諸国に劣らぬ達成を成就するためには、「彼地は種々の時代を経過して一歩々々を進み来つて今日に及んだもの日本は未だ前途に隆興期なる一つの高峻な峠を控えて居る事を忘れずに大なる抱負と努力とを以て大国民たるに恥ぢぬ品性と威厳とを有つ様に心懸けねばならぬ」というはなはだデカダン派らしからぬ教説まで述べているのである。
 おそらくそこに、われわれは、青木繁という一個の天才の限界を見ることができるであろう。彼は、あらゆる意味で世紀末的特質を備えた芸術家でありながら、およそ世紀末的でない近代日本に生まれてきてしまったのである。しかも、明治のエリートのひとりとして、「精神修養上の維新」に参加するためには、有馬藩という小藩の士族の家に生まれた青木は、きわめて悪い条件のもとにあった。「お国のために」あらゆる国民のなかの優れた能力を登用する体制が出来ているとは言っても、それは一応表向きだけの話で、藩閥政府に何のつながりも持っていなかった旧有馬藩の士族たちは、新時代の到来とともに没落していく運命を持っていた。河北倫明氏は、かつて『秀作美術』(1962年12月号)に発表された「“じゅうげもん”の世界」と題する優れた評論においてこの間の事情を分析して、維新体制への切り換えの時期に、「島津の鹿児島はもとより、細川の熊本も、黒田の福岡も、鍋島の佐賀も、あるいは時代のバスを運転し、あるいはいち早くこのバスに乗り込んだのに、旧幕体制につきすぎた有馬藩は脱落した形だった…、久留米に残された藩士の大部分は、そのまま、維新の混乱の中に素手でおいてきぼりを食った。‥‥‥典型的な士族没落の過程が久留米の閉鎖された町中で着々と進行した。外への出口を失った藩体制は、空意地とヤセガマンの中で鬱結し、屈折し、そして滅びていくほかはなかった」と述べている。坂本繁二郎が、当時の久留米の町には、特に青年層に発狂者が多かったと語っていることも、このような事情を裏書きしている。おそらく青木繁は、このような雰囲気のなかにあって、必然的に反抗的にならざるを得なかったのである。天才青木の生涯は、やはり日本の近代化だけが生み出した特異な悲劇にほかならなかったのである。」高階秀爾『日本近代美術史論』講談社文庫、1980年。pp.125-136.


B.一人より二人の方が経済的?
 独り暮らしは何かと物入りで、金がかかるが、夫婦二人暮らしならチェックがきいて無駄なことはせずしっかりした生活ができる、という智慧。それはそうかもしれない。でも、それには所帯を持つ相手がいないとね。

「落語の「搗屋幸兵衛」に幸兵衛さんが若い時の苦労を振り返る場面がある。荒物屋を始めたばかりのころ、近所の源兵衛さんからおかみさんをそろそろ持てばと勧められる。幸兵衛さん、独りでも食べていくのが精いっぱいだと断るが、源兵衛さんが説得する。「大丈夫だ、昔から『一人口は食えないが、二人口なら食える』っていうじゃないか」▼独り暮らしは何かと無駄が多く不経済だが、しっかりした相手がいれば家計を見張るので生活はかえって楽になる。そんな意味だろう▼あくまでも大昔のたとえだが、26年後の「一人口」が心配になる。国立社会保障・人口問題研究所の推計によると2050年の全世帯に占める単独世帯の割合は約44%。そのうちのおよそ半分が高齢者だそうだ▼1世帯当たりの人数は9年後の33年に2人を割り込み、1.99人となる。「家族」は少子化という荒波に長年削られ続け、ついに家庭でにらめっこさえままならぬ時代となるのか▼「一人口は」のたとえは家計の話だろうが、生きる張り合いや家族の支えのことも言っているのかもしれぬ。会話、笑い、だんらんをなくした高齢の「一人口」の心を誰がほぐし、支えとなるのか▼遠くない未来を想像して尾崎放哉の〈咳をしても一人〉が浮かんだ。〈鴉啼いてわたしも一人〉は種田山頭火。孤独な放浪俳人2人に似た句のあることが寂しい。」東京新聞2024年4月17日夕刊1面「筆洗」。

 21世紀の日本の抱える最大の社会的課題は人口減少にある、とはずっと言われてきたことだ。でも、人口が減っていくことのリスクは深化して、予測しだいでは、21世紀が終わるころにはなんと日本の人口は江戸時代後期の3千万人まで落ちるという。これはたいへんだ。

「インタビュー 2120年 日本は人口3千万?  京都大学経済研究所教授 森 知也 さん
江戸期程度に減少 多くの都市が消滅 東京都福岡に集中 
2120年の日本は、人口が江戸時代レベルまで減り、都市は激減し、栄えるのは東京と福岡だけになる――。経済学者の森知也・京都大教授らのシミュレーションが注目されている。統計予測モデルから導かれる100年後の日本社会の姿はどんなものか。今未来に向けて何をなすべきなのか。
 ――100年後の日本では、人口10万人以上の都市の数が半減する。多くの地方都市が消え、大都市で人口シェアを増加させるのは東京と福岡だけ、というのは衝撃的な予測ですね。
「都市が消滅する理由は単純で、日本全体の人口が減るからです。人口減少はすごい勢いで進むが、日本ではどこかひとごとのようなところがある。一つの理由は、規模感がわからないということがあると思います」
 ――総人口は、5千万人から3千万人ぐらいにまで減るという想定ですね。
「人口戦略会議では8千万人で食い止めようと様々な提案をしていますが、今のペースでは難しそうです。江戸時代と同じ3千万人台に減るというのが現実的な想定なのですが、行政も国民も危機感が足りません」
「人口減少については、2050年くらいまでの予測が多いです。地球温暖化では100年、200年先のことを問題にするのに、100年先に日本の人口がどうなり、社会がどうなるかは語られない。だから都市を手がかりに、100年後の日本の姿を予測しました」
――なぜ「都市」なのでしょうか。
「経済学で長期の予測は難しいのですが、例外的に都市の盛衰は理論的にかなり正確に予測できます。過去50年のデータに基づいて統計モデルをつくり、人口減少、都市化傾向、輸送・通信費用の変化を織り込んで予測しました。都市というレンズを通して見ることで、日本の将来像を具体的にイメージできると考えました」
 ――人口シェアが増え続けるのが東京と福岡というのは、やや意外です。
「福岡の利点は、東京との間に距離障壁があることに加え、その経済圏となる後背地が広いことです。九州全域への乗り換え地点、ハブであることも利点です。仙台も比較的活力を維持できますが、やはり東北全体のハブだからです」
 ――なぜ大阪は取り残されるのでしょうか。
「100年後も大阪は全国で2番目の都市であり続けますが、緩やかに衰退していきます。人口規模の割に、福岡に比べて東京に近すぎることが要因です。長期的にみると、1992年に新幹線『のぞみ』が運航開始して東京・大阪間の移動時間が一気に短縮されたときから、大阪の衰退は始まっています。リニア中央新幹線が開通すれば、衰退はさらに進むでしょう」
「大阪は東京のクローンのような都市になってしまっています。日本の人口が減少し、交通や通信技術の進歩によって東京との距離障壁がなくなっていけば、同じような大都市が二つは必要ないということになりかねない。ただ大阪は世界的に見ても非常に大きな都市圏で、1500万人程度の人口規模です。そのサイズの都市の衰退は類例がありません。既存のインフラなどの優位性があるので、簡単にはなくなりませんが、ゆっくりと衰退していくと思います」
 ――名古屋はどうでしょう。
「名古屋はさまざまな歴史的経緯により、周辺の製造業がきわめて強い点で特殊です。今の段階でも東京との距離障壁は大阪より低いのに、大阪のようには衰退していません。100㍍道路など都市計画も先進的なので、自動運転なども、未来の技術に適応しやすい都市として、持続できる可能性はあります」
 ――人口分布の重心は西日本に移るとも予測していますね。東北と北海道の衰退は高齢化の影響が大きいです。西日本は中山間地にそれなりに人が住んでいますが、東北地方の中山間地は気候が厳しく住んでいる人が少ない。もともと人口が維持しにくいのです」
 ――都市内部では、特定の地域に人口が集中するのではなく、広域に分散して住む「平坦化」が進むという予測ですね。
「輸送や通信費用の減少により、都市の内部ではこれまでほど密集して住む必要がなくなります。東京や福岡が人口シェアを伸ばしても、人の数は減っていきます。中心部のタワーマンションなどは必要がなくなる。現実に過去50年、東京の人口分布は平坦化しています。次の100年ではさらに平坦化が進み、都市圏全体に低層の住宅地が広がるようになるでしょう」
 「ただ、そうした平坦化が起こるのは、まだ都市としての活力が残っているところに限られます。衰退していく都市では、スポンジ化が起きます」
 ――スポンジ化とは。
「単純に人が抜け落ちていくことです。近隣大都市への移動が起こりやすい幹線沿いの中小都市で顕著になるでしょう」
「私の出身地である岐阜県大垣市が一例で、東海道沿いにあり、名古屋という大都市の近くで都市化しました。人工減が進めば、名古屋にどんどん人が移ってしまい、スポンジのように『すかすか』になっていく可能性が高いのです」
 ――都市が衰退していくことは、日本社会の姿をどう変えるのでしょうか。
「都市が減っていくといっても、100年後も、日本が都市中心の社会であることには変わりません。とはいえ、人口減少社会で注目すべきなのは、むしろ都市以外の地域です」
「そうした地域では人は少なくなりますが、自然資源に恵まれているので、テクノロジーを使って、少人数でも農業、林業、漁業などの第1次産業で稼げる構造をつくることができる。観光業などの3次産業もビジネスになるでしょう。山陰地方や高知県など、鉄道や高速道路の路線から外れたところのほうがむしろ伸びしろがある」
「ただそのためには、それぞれの地方で、流通などで1次産業をサポートする拠点となる都市が必要です。既存の都市をすべて維持することはできないので、どこの都市を拠点とするか、どこにインフラ投資をするかという『選択と集中』も必要になるでしょう。
――それでも、都市以外の人口減少はもっと深刻なのでは。
「いまの地方創世の議論は、基本的には大都市から地方に人口を移動させよう、特に若者の移住を促進しようという提案が中心ですが、それは無理筋だと思います。コスト面を考えても実現可能性がない。人口が減っていくことを前提として、どうすればいいのかを考えるべきでしょう」
「地方で人が減っても、自然資源を活かして、十分にお金が稼げれば問題はないわけです。それをスマート化などのテクノロジーによって実現していく。北海道などでは、実際にその取り組みが行われています」
 ――大地震などの災害リスクをどう考えますか。
「もちろん、首都直下地震や南海トラフ地震が起きれば、この予測通りにはいかないでしょう。一方で、都市を災害に強くしていくことは可能です。人口が減るので土地は余り、都市の中でも地盤が弱いところや津波や水害のリスクが高いところには住まなくてもよくなります。都市を縮小させる過程で、できるだけ安全な地域に住むという強靭化を進めていけば、災害のリスクは軽減できるでしょう」
 ――移民によって、人口がある程度増えれば状況が変わってくるのでは。
「移民が問題解決になるとは思いません。それで人口減をすべて帳消しにするのは無理でしょう。この予測は、人口に影響しうる要因をすべて網羅したものではありませんが、ここから見えてくる将来の日本社会のイメージがある。人工減という現実を見据えた上で、社会のあり方を考えるべきだと思います」
 ――自身のサイトで「高校生で新聞を読む習慣がある中学生以上」を対象に、コラム「都市というレンズを通して見る日本の未来」を連載していますね。なぜ若い世代に発信を?
「日本の将来について、自分で考えてほしいからです。私のコラムを読んで、『これは違うんじゃないか』と思えば、そう伝えてほしい。専門家が言っていることをそのまま受け取るのではなく、人口が減ることは悪いことなのか、都市が衰退しても、都市以外の地域で豊かに暮らすことはできるのではないかといったことを、これからの100年を生きる世代に考えてもらう。その材料を提供しているつもりです」 (聞き手 シニアエディター・尾沢智史)」朝日新聞2024年4月16日朝刊13面オピニオン欄。
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「日本近代美術史論」を読む  6 黒田清輝(続々)  軍学共同の無責任

2024-04-19 18:05:10 | 日記
A.裸体画の衝撃
 黒田清輝がフランスで描いた「朝妝」(Toilette du matin、英: Morning Toilette)は、1892(明治25)年から1893(明治2)年にかけて制作した油絵。日本の画家による裸体画のうち、一般公開された最初の作品とされる。タイトルの「朝妝」は「朝の化粧」を意味する。178.5㎝横98.0㎝。
黒田は『朝妝』をほぼ完成させ、師であるラファエル・コランに見せて批評を求めたところ、コランは出来が優れていると称賛し、当時ピュヴィス・ド・シャヴァンヌが会長を務めていた国民美術家協会のサロンに出展することを勧めた。黒田はコランが書いた紹介状を携えてシャヴァンヌを訪問し、本画を差し出して批評を求めたところ、シャヴァンヌも称賛し、特に人物の脚の部分など修正する必要がある箇所を指摘した上で、3月25日であった出展期限を同月27日に延長することを許可し、黒田は修正を行ったという。
 1893年3月に開催された国民美術家協会のサロンに『朝妝』のほか1作品を出展し、『朝妝』が入選する。同年6月14日、黒田は日本に帰るためパリを出発し、アメリカを経由して、7月30日に横浜に着いた。翌年10月東京で開催された第6回明治美術会展に黒田は『朝妝』のほかに『清水五重塔圖』『海濱の圖』『海上の渡舟』『田舎娘』『清水豁の晩秋』などを出展。この展覧会では『朝妝』は高い評価を得た。(以上はWikipediaによる)
 しかし、1895(明治28)年4月からの京都・岡崎公演での内国勧業博覧会に出展され妙技第二等賞の褒賞を受け、住友家に買い上げられたが、裸体画展示の是非をめぐって「朝妝」事件と呼ばれる論争が巻き起こった。「朝妝」は、第二次世界大戦の神戸大空襲によって焼失した。
 
「一方黒田の場合もほとんど同じようなことが起った。「朝妝」は、それ以前に描かれた「読書図」や「厨房図」に比べて、「無感動に写生された美しい職業モデルの姿」を示すものにすぎず、「有閑階級のサロンを飾るにのみふさわしい冷たい裸体画」である点で、「舞姫」の結末の日人間性に通ずるものがあるというのである。「言ってみれば、さきの『読書図』『厨房図』が小説『舞姫』の前半部に相当するとすれば、この『朝妝』はそのヒューマニズムの後退ないし欠如のゆえに、正しく『舞姫』の後半部に相当するものであった……」
 そして林氏は、このような「朝妝」が日本の画壇の圧倒的支持を受け、そのため高橋由一の「花魁」や「鮭」に見られる近代的リアリズムの芽がおしつぶされてしまったと考えるのである。
 高橋由一の「花魁」や「鮭」に後継者がなかったのは、必ずしも黒田の成功のためではない。前章で見たように、高橋由一の場合は、高橋由一自身の晩年の時期にすでに、あの緊張感に満ちた迫真的な美しさは失われてしまっていた。しかし、由一の場合はさておいて、鷗外の「舞姫」と黒田の「朝妝」のあいだに、ある種の対応関係があることだけはたしかである。ふたりともほぼ同世代に属しており、いずれも「定見なくして」西欧に渡り、西欧の雰囲気のなかにたっぷりと浸って青春時代を過ごした。そして、西欧の持っていた本格的な芸術形式を何とかして日本に移植しようと努力した点でも、あい通ずるものがある。
 私は「舞姫」が「ヒューマニズム蹂躙の物語」であるとも思わないし、まして「朝妝」が林氏の言うような意味でヒューマニズム的であるとも思わない。しかし問題は実はそこにあるのではない。鷗外と黒田といういずれも豊かな天分に恵まれた芸術家がその力のかぎりを注いで試みた西欧の伝統的芸術理念の移植が、いずれの場合も結局は流産してしまったという、その点にこそある。しかもそれは、林氏の言葉を借りるならば、「舞姫」は「文壇の歓呼のうちに登場し」「朝妝」は「画壇の圧倒的な支持をうけた」にもかかわらずなのである。
 そのことは、一面では鷗外や黒田の才能の質とかかわり合いがあるのかもしれない。黒田と同じように、鷗外も鋭い理解力と的確な表現力を持っていながら、構想力においてはやや欠けるところがあった(彼が、翻訳や史伝においてあれほどまで優れた成果を挙げることができたのはそのためである)。しかし、「舞姫」や「うたかたの記」において、西欧の近代小説の移植を試みた鷗外が「洋学の盛衰を論ず」を発表した頃から、次第に身辺雑記的な私小説に近いものか、あるいは心境小説に向って行ったというのは、決して単に鷗外個人の才能のみとは思われない。黒田清輝の場合も、ほぼ同様な変貌が明瞭に指摘できるからである。「舞姫」と「朝妝」の対応関係よりも、「舞姫」と「朝妝」以後の鷗外と黒田の変貌の類似性の方が、私にとってははるかに興味深い。
 すでに見たように、東京美術学校の西洋画科の主任教授となり、白馬会を創設した頃の黒田は、「思想的骨格を備えた」絵画の確立を念願していた。明治三十年の第二回白馬会展に出品された大作「智感情」は、そのような黒田の意図をよく示す力作である。しかしこの同じ白馬会の展覧会に、「智感情」と並んで、今日では「湖畔」の題名で知られる「避暑」が出品されていたことは注意すべきである。「湖畔」は「智感情」が明確な理念にもとづく構想画であるのに対し、まったく自然のままに描かれたものである。この名作のモデルとなったのは照子夫人であったが、彼女は後に当時を回想して、その制作の状況を次のように語っている。
 
 「あれは、私の二十三歳の時で、主人が湖畔で製作しているのを見に行きますと、其処の石に腰かけて見てくれと申しますので、そう致しますと『よし、明日からそれを勉強するぞ』と申しました。そこで、翌日の午後四時ごろからはじめました。下絵も何もなくぶっつけにカンバスに描きはじめました。雨や霧の日があって、結局一か月ぐらいかかりました」

 つまり、この「湖畔」においては、黒田はそれまで繰り返し主張してきたようにはっきりした理念や構想にもとづいて画面を作り上げるという遣り方ではなく、まったくスケッチと同じ方法で作品を完成させている。それまでは大構図のための下絵か、あるいは技術的訓練でしかなかったスケッチが、そのまま完成作品として黒田の活動のなかで大きな位置を占めるようになって来たのである。従来の彼の方法論からすれば、大きな変化と言わねばならない。
 もちろん、この時以前にも、スケッチ風の作品は数多く作られている。しかし、大構図の構想画は、「智感情」の後、白馬会第三回展に出品された「昔語り」を別にすれば、ほとんど姿を消してしまう。その意味で「智感情」と「湖畔」とは同時に出品された白馬会第二回展は、黒田の画歴において大きな転換点を示すものであった。この時点においては、「智感情」に代表される構想画と、「湖畔」に代表される自然な描写と、二筋の道が残されていた。しかしこの時以降、彼は、もっぱら自然の断片的表現に向って行くのである。
 そのことは、とりもなおさず、彼の意図した西欧絵画理念移植の試みが挫折したことを物語るものである。今日の眼から見れば「智感情」のどこか堅苦しい表現に比べて、「湖畔」のもつさわやかな情感は、はるかに好ましいもののように思われえる。しかし同時に私は、「智感情」も、その表情のぎこちなさにもかかわらず、日本近代洋画史における数少ない寓意的構想画の代表作として、その努力は高く評価さるべきであると思う。この「智感情」は、他の作品と一緒に1900年のパリ万国博覧会に出品されて銀メダルを得た。この万国博覧会には、「湖畔」も出品されたが、フランスの審査員たちの選んだものがほかならず「智感情」であったということは、黒田にとっては心強いことであったに違いない。しかし、彼の努力がフランスにおいて認められた時には、すでに日本では、彼は「思想的骨格」を備えた構想画を捨てて、「身辺雑記」的自然描写に移っていた。いわゆる折衷的な外光派アカデミズムというものは、このようにして生まれて来たのである。
 鴎外の場合と同じように、黒田が、彼自身絵画の本道であると信じたものを移植しようと試みながら、途中でこの企てを放棄せざるを得なくなったというところに、私は近代日本の特殊な精神的風土を強く感じる。黒田の才能と力をもってしても、西欧の伝統的絵画理念を移植することが遂にできなかったというのは、所詮わが国にそれを受け入れるだけの土壌が――鷗外流に言えば「雰囲気」が――なかったからであろう。その意味では、黒田が日本に折衷的な外光派アカデミズムをもたらしたというのは正しくない。日本が――近代日本の風土が――黒田を折衷的な外光派アカデミズムの画家に仕立てあげたのである。
 明治四十三年(1910年)に、彼は坂井犀水に向かって、次のように語っている。

 「私が一番面白く思ふのは人物にしても風景にしても、自分の書かうと思ふものに、相当に惚れ込んで、打ち込んだものが面白い……(中略)……自分の頭の中に蓄へた立派なものを、自然を藉りて表はすと云ふ様なことは出来ず、試みても面白く感じない。自然を土台として少しばかりひねくる其間に自分は愉快を感ずる。画を観る場合に、画を観て其画に依つてこちらで種々考へると云ふ画よりも、画に対した時、色の調子や組立や画き方にアッサリと愉快を感ずることの出来る画の方が面白い。つまり私は画をかく様なものの画かきとして甚だ無能なもので、唯画をかくのが面白い丈だから、雑誌の口絵だとか、人に見せて面白く思はせる様なことは生涯出来ないと思ふ……」(『美術新報』明治43年1月1日号)
 ここにはもはや絵画に明確な構想と精神を要求したかつての黒田の姿はない。かつては「画を観て其画に依つて種々考へる」ような画こそが黒田にとって日本において実現すべきものであった。いや、こう語った時でも、黒田自身はやはりそのような思想的骨格を持ったものこそが本来の絵画だと考えていたに相違ない。それなればこそ、単に「色の調子や組立や画き方にアッサリ愉快を感ずる」だけの自分は、結局「画かきとして甚だ無能なもの」という自嘲的感想が出て来るのである。事実この感想は、単なる謙遜ではなく、ある程度まで正直な実感であったろう。別のところでは彼は、自分の絵はすべて「一種のスケッチだと云へば云へないこともない」(『美術新報』明治42年11月1日号)と言い切っている。西欧の近代小説の理念が、日本にもたらされた時いつしか変質して作者の周囲を断片的に映し出しただけのスケッチを生み出すこととなったのである。
 このような変質に誰よりもはっきりと気づき、そしてそれを残念に思ったのは、ほかならぬ黒田清輝自身であったろう。彼は大正五年十一月の『美術』創刊号に寄せた一文で、端的にそのような気持ちを語っている。

 「……私の欲を言へば、一体にも少しスケッチの域を脱して、画と云ふものになる様に進みたいと思ふ。まだ殆どタブロウと云ふものを作る腕がない……(中略)……西洋で製作された画は、クラシックなものでも唯無闇にいぢくつたものではない、無闇にいぢくるのは弊だが、作品相当に、熱心に根よく仕上げることは何れの派の画家にも共通に見える。それが日本のもので見ると如何にも粗雑だ……(中略)之は敢て他を責めるのではない、自らを警ましめるのである。自分たちの画は粗雑である、それを深く恥づる……、どうしても此のスケッチ時代を脱しなければならん、今の処ではスケッチだから、心持が現はれて居るが、スケッチでない画にも、心持を充分に現し得る程度に進みたい。私自身も、今迄殆んどスケッチだけしか拵へて居ない。之から画を拵へたいと思ふ」

 この一節は、フランスでほとんど十年間を学んで、帰国後日本洋画界の第一人者として華やかな活動を続けた五十歳の巨匠の言葉としてはあまりにも淋しい。だがここに、何とかして西欧の伝統的芸術理念を日本に移植しようと努めながら、いつのまにか、蜘蛛の巣に捉えられた蝶のように、日本的風土にがんじがらめにされて挫折してしまったひとりの優れた先駆者の自己自身に対する憤りのようなものを感じるのは、私だけであろうか。そしてそれは、「妄想」の鷗外の感じたものと、それほど遠いもではあるまい。消え行く星の最後の光芒にも似た名作「梅林」は、自身の運命に対するこの芸術家の文字通りの最後の闘争であった。そして、黒田清輝の辿った道程は、現在のわれわれにとっても無縁のものではないはずである。」高階秀爾『日本近代美術史論』講談社文庫、pp.96-104.


B.軍事研究へ誘導される大学人
 学問研究にはお金がかかる。とくに、理工学系の実験などを必要とする分野には、かなり高額の費用がかかるだろう。そのために資金提供を大学外に求めることも必要になる。しかし、軍事研究には手を染めないという倫理的判断が、戦後の大学には共通了解としてあったと思う。しかし、今の日本政府は『安全保障のための技術開発研究』を、積極に大学に誘導するような政策を進めている。これは、日本学術会議が提示してきた軍学共同をしないという原則に触れるのではないか。だから学術会議への冷たい視線が自民党などにあるのだろう。

「進む軍事研究への傾斜 大学人の無責任 痛感   池内 了
 安倍内閣の下、2015年から防衛装備庁によって「安全保障技術研究推進制度」(以下「安保技術制度」と略す)と称する委託研究が開始された。戦後長く行われてこなかった軍事研究が公的資金によって解禁されたのだ。公募要領には「将来の装備品に適用できる可能性のある基礎技術を想定しています」と書かれていたのに、大学からの申請が58件もあった。「軍」からの資金提供で「学」が研究を行うことは、科学が軍事に蝕まれていくことを意味する。大学人の警戒心の欠如に驚いた私たちは、「軍学共同反対連絡会」(以下「連絡会」)を組織して反対運動に取り組むことにした。科学は人類の幸福と平和のためのもので、戦争の道具にされてはならないからだ。
 これに対し、17年に日本学術会議が「軍事的安全保障研究に関する声明」を出し、「安保技術制度」は「政府による研究への介入が著しく」、学問の自由が侵される危険があって問題が多いとし、科学者の自主性・自律性、研究成果の公開性尊重の観点から慎重に対応すべきだと釘を刺した。さらに「軍事的安全保障研究と見なされる可能性のある研究について、その適切性を目的、方法、応用の妥当性の観点から技術的・倫理的に審査する制度を設けるべきだ」として、大学人の良識に期待したのである。
 この声明に呼応して、ここ数年「安保技術制度」に応募する大学は10件程度に減っていた。ところが23年度には23件に倍増した。大学予算の逼迫のためだろうか。採択されたのは北海道大・熊本大(2件)・北見工業大・大阪公立大の4大学であった。そこで「連絡会」として、これらの大学に「軍事研究と決別し『安保技術制度』の採択を辞退すべきだ」との要請と、「この制度に応募した理由」について質問状を学長宛てに提出した。以下、回答の概要のみを述べる(詳しくは「連絡会」ホームページのニュースレター85号、86号を参照されたい)。
 熊本大と北海道大からは、日本学術会議の声明にあった審査制度を定め、そこで承認されて応募したとあった。そして、いずれにも「本学の研究は、平和と安全のために行うものとし、軍事利用に限定した研究は行わない」と書かれていた。両大学は「安保技術制度」が軍事研究であると認めざるを得ず、ただ「軍事利用に限定しない研究」だから構わないと言い訳しているのだ。現在の公募要領でも「防衛分野での将来における研究開発に資する」と謳っており、軍事利用することを当然としている。このことを指摘して再質問したが同じ回答しか得られなかった。
 装備庁は装備品の基礎研究をこの制度で行い、それを実装する「橋渡し研究」につなげるプログラムを組んでいる。基礎から応用まで一連の流れとして軍事研究を捉えねばならない。両大学はこのことについて知らぬ顔を決め込んでいるのである。
 北見工業大は学長あての質問状なのだが研究協力課長からの回答しかなく、「本学では『攻撃的な目的のためにも使用されうる技術研究』については申請を不可としているが、今回申請した研究は軍学共同や軍事研究に当たらないと判断している」とあった。軍事研究は攻撃的な目的だけに限らないことをご存じないらしい。なお大阪公立大は、何ら理由を書かず、ただ「リスク管理を行っている」旨の回答のみであった。大学の名に値しないん何とも恥ずかしい対応と言わざるを得ない。
 何だか大学の無責任ぶりを痛感した想いである。 (いけうち・さとる=総合研究大学院大名誉教授)」東京新聞2024年4月19日夕刊3面。
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『日本近代美術史論』 4  黒田清輝  サプリのうそ?

2024-04-16 21:28:08 | 日記
A.恵まれた留学生
 黑田 淸輝(くろだせいき・1866年8月9日(慶応2年6月29日)~ 1924年(大正13年)7月15日)は、日本の洋画家、従三位勲二等、子爵。薩摩藩士黒田清兼の子として鹿児島に生まれ、その後伯父の子爵黒田清綱の養子となる。黒田清綱は幕末から明治にかけ、戊辰戦争を戦い明治政府で栄達し枢密顧問官になるなど、薩摩士族の成功者だった。清輝は1872(明治5)年に上京。その後、平河学校(現 麹町小学校)に入学。東京外国語学校を経て、1884(明治17)年2月2日に横浜を出発しフランスに留学。
 1893(明治26)年7月30日に帰国するまで、フランスで当初は法律を学ぶことを目的としていたが、パリで画家の山本芳翠や藤雅三、美術商の林忠正らに出会い、1886年に画家に転向することを決意し、ラファエル・コランに師事する。サロンに入選するまでに腕を上げ帰国すると、東京美術学校の洋画科担当教授になって日本の洋画界で大きな足跡を残すことになったことは知られている。明治期に欧州留学をした若者は当時の先進文明を学んで帰国し、“新帰朝者”としてそれぞれの分野で働いたわけだが、黒田がフランスの法律を学ぶ道を放棄して、フランス人と同等の競争を勝ち抜くような才能を発揮できたのはなぜだったか。もちろん並外れた絵の才能があったといえるが、彼の恵まれた境遇がそれを可能にしたともいえるだろう。彼がフランス・パリに旅立った1884年は、森鴎外が衛生学を学ぶためにドイツ・ベルリンに旅立った年でもあった。

「森鷗外は、明治三十五年三月、小倉から東京に転勤するにあたって、いわば置土産として小倉偕行社での送別会の席上行った「洋楽の盛衰を論ず」と題する講演において、坪内逍遥の「定見を持しての洋行」という考えを批判して次のように述べている。

 「……坪内氏は今後の洋行者は定見を持して往くと曰へり。此定見をして有用ならしめんと欲せば、これをして少くも欧州学者の見地と同等ならしめ、若くはこれに超越せしめざる可からず、予の単に自家の実験を語ることを許されん乎。予の留学生仲間は、洋行中始より自家の見を立てて動かざりし者は、帰郷後の学問上の成績小に、洋行中先づ己を虚しくして教を聞き、久しきを経て纔に定見を得し者は、帰郷後の成績大なりき、予の如きは固より言ふに足らずと雖、始て欧洲に入りし時は、宛も所謂椋鳥の都に入りし如くなりき。而して今に至るまでも毫もこれを悔ゆることなし。是故に予は毎に謂へらく。若し洋行の効果の充分ならんことを欲せば、洋行前の心理上能覚受性(APPERCEPTION)を抛ち、彼地に至りて新に此性を養成せざる可からず。箪笥を負いて往き、学問を其抽箱に蔵せんと欲するは不可なり。彼地に至りて箪笥を造らざる可からずと……」

 彼自身の体験に裏付けられた鷗外のこの信念は、文字通り「洋学」、すなわち学問の領域に関することである。だが、同じようなことはおそらく芸術家の「洋行」についても言い得るであろう。いや、出来上った成果を部分的に切り離して持ち帰っても或る程度まではものの用に立つ学問の場合と比べて、長い歴史を背後に持った感受性の体系と密接に結びついている芸術創造の場合は、もしほんとうに西欧に生まれた成果をものにしようと思えば、「洋行前の心理上の能覚受性を抛ち、彼地に至りて新に此性を養成」することは、いっそう必要であるに違いない。
「定見なくして洋行」することを説く鷗外の主張の背後には、実は学問ですら――少くとも「洋学」関するかぎり――、その生まれ育った風土から容易に切り離すことができないという信念がある。それは、二十三歳から二十七歳まで、青年時代の最も豊穣な時期をドイツにおいて実際に医学の研究に従事することで過ごした彼自身の実感であったろう。いやもう少し正確に言えば、四年間のその留学生活を終えて帰国してから、日本において同じような研究を続けることがいかに困難であるかを身をもって体験した上での実感であったろう。それは何も、研究室の設備が充分整っていないとか、必要な文献が手許にないとかいう実際上の不便だけに由来するものではなく、もっと根本的に、西欧と日本との精神的風土の相違に根ざすものであった。鷗外は、この信念を、同じ「洋学の盛衰を論ず」の講演のなかで、医師ベルツの言葉を借りながらこう語っている。

「……昨年東京帝国大学のBAELZ氏の雇を解くや師は演説して曰く。学問は器械道具の如く一地より他に運送す可き者に非ずして、有機体なり、生物なり。此生物の種子をして萌芽し成長せしむるには、一種特異の雰囲気なかる可からず。日本は従来洋学の果実を輸入したり。其の器械道具の如く輸入せらるゝことを得て又実用に堪へたるは、果実なるを以てなり、此輸入は教師をして、講堂に於て講説せしめて足る。然れども学問当体に至りては、西洋人の西洋の雰囲気中に於いて養ひ得たる所にして、西洋の此雰囲気あるは一朝一夕の事に非ず‥…」

(もちろん、鷗外がここで引用しているのは、ベルツの明治三十四年十一月二十二日に帝国大学在勤二十五年祝賀の席上で行った演説のなかから、自分に関心の深い部分を取り出し、自分の言葉にして語っているのである。この時のベルツの演説のドイツ語文は、平川祐弘氏によって、東京大学教養学部紀要『比較文学研究』第六輯に全文覆刻されている。なお、同氏の「西洋文明との出会いの心理(3)」(『自由』昭和四十二年一月号所載を参照)
「洋学の盛衰を論ず」は、鷗外自身の弁明によれば、急に話をせよと言われて、「倉卒の間、些の準備にだに遑あらず」という状況で話されたものであるが、しかしここに述べられた感想が単に通りいっぺんのものではなく、彼自身つねに日頃身にしみて感じていた実感であったことは、この演説から九年ほど後に発表された「妄想」のなかで、同じような気持ちを、ほとんど言葉遣いまで変えずに繰り返していることからも明らかである。
 すなわち「妄想」の主人公は、三年間のドイツ留学を終えて故国へ向う船のなかで、次のように考える。
 「自然科学の分科の上では、自分は結論丈を持って帰るのではない。将来発展すべき萌芽をも持ってゐる積りである。併し帰って行く故郷には、その萌芽を育てる雰囲気が無い。少くとも『まだ』無い。その萌芽も徒に枯れてしまひはすまいかと気遣はれる。そして自分はfatalistischな、鈍い、陰気な感じに襲はれた……」

 鷗外のこの述懐には、自分の持ち帰った「萌芽」がついに育たなかったということに対する口惜しさばかりでなく、かえってそのために他人の妬みを買って人世につまずかせられたという苦々しさも感じられるが、しかしそのような個人的感懐は別として、明治時代に洋行して、故国に帰るにあたってこのような不吉な予感を抱いたのは、ひとり鷗外だけではなかったはずである。もちろん、帰るなり「希望に輝く顔をして、行李の中から道具を出して、何か新しい手品を取り立てて御覧に入れ」た洋行帰りの方が数からいえばずっと多かったであろうが、多少とも西欧の生活のなかに浸って、その「雰囲気」の与える不思議なエネルギーに触れることのできた者は、帰国によってその「雰囲気」を失うことを本能的に恐れたに相違ないからである。
 たとえば明治二十六年、九年間にわたる長い留学生活に終わりを告げていよいよ日本に引き上げなければならなくなった時、黒田清輝が養母貞子に宛てて次のように書き送ったのは、おそらく、ほとんど無意識のうちに、同様な不安を感じていたからではなかったろうか。

 「…こないだからひらけてをるちさなきようしんくわいに六まいほどゑをだしてをきましたらある三ッ四ッばかりのしんぶんににつぽんじんのくろだといふやつがせいようゑをかくだのなんのかのとかいてありましたよ もう四五ねんもこつちにをつたならすこしハせけんにしられるようになるかもしれませんがざんねんです いまこれからといふときになつたところでかえつていくのですからかなしいもんです だがしかたハございません につぽんへかへつてからてがさがらなけれバよいがとおもつております せいようじんにまけんようにやろうといふのハむづかしいもんです せいようじんハ一せうべんきようをしてをるのににつぽんじんハながくて十ねんばかりきり それからにつぽんへかへつてゆくとせけんのやつがなんにもできないもんですからすぐにひとりてんぐになつてしまいなんニもできないようになつてしまいます わたしもそういふようになつてしまうのかとおもふとみがずうつといたします……」(三月二十六日付書簡)

 当時二十八歳の黒田が書いたこの文章を、単に長いこと親しんだ土地を去るにあたっての感傷とのみ解してはなるまい。医学のように普遍性を目指す科学ですら「学問当体」はその生まれ育った風土から容易に切り離しえないものであるとしたら、感受性に依存する度合いがはるかに大きい芸術の場合は、問題はいっそう深刻なものとなるのは当然のことだからである。そして、明治以降の洋画輸入の歴史において、単純に技術的成果か、さもなければせいぜいのところ表面的な様式の意匠を土産として持ち帰って来る「洋行帰り」の多かったこの分野で、少くとも黒田清輝は西欧の生活のなかにはいりこんで、その「雰囲気」のなかで小さいながら自己の才能の芽を育て上げていたからである。
 事実、鷗外の言葉を借りるなら「定見なくして」洋行し、「彼地に至りて新たに」自己の感受性を育て上げた日本の近代画家がもしいるとすれば、黒田清輝こそその筆頭に挙げられるべき存在であろう。というのは、彼がはじめてヨーロッパに向って旅立ったのが、まだ満で数えれば十八歳にもなっていない時のことでり、したがって何にせよ「定見」を持つほど出来上がった年齢ではなかったのみならず、最初は画家になろうなどということはおよそ考えてもいなかったからである。彼が、当初の目的である法律の勉強を断念して絵画に専念するようになるのは、渡仏後二年もたってからの話である。鷗外流に言えば、箪笥を背負って往くどころか、箪笥を造ろうとすら考えてもいなかったのである。
 それだけに、彼の絵画修業は徹底していた。絵画に転向して五年後には、パリのサロンに作品を出して入選するまでに至っている。フランスにおいて、フランス人と同じ条件のもとで十分太刀打ちできるほどの腕を持っていながら、彼は日本に帰って「てがさがらなけれバよいが」と心配し、「なんニもできないようになつてしま」うことを憂えている。しかも重要なことは、彼のこのような危惧は単なる杞憂ではなかったということである。少し意地の悪い言い方をすれば、帰国直前の彼のこの手紙は、その後の自己の運命を予言したものともいえる。もちろん、日本に帰るにあたって、彼は彼なりに抱負も自負もあったに違いない。そして、鷗外の場合と違って、帰国後の黒田清輝は、世間的には成功と栄誉の連続であった。土方定一氏は、黒田について、「幸福な環境、幸福な才能、幸福な時代」という言葉を引いている(『近代日本の美術』岩波新書)が、たしかに、その家柄においても、地位においても、天分においても、黒田ほど恵まれた人は例が少い。それほどまであらゆる条件に恵まれていながらなお、彼の企てた洋画輸入の試みがついに挫折してしまったところに、私は近代日本美術のひとつの宿命を見る。それは、鷗外の言うように、fatalistischという言葉ででも呼ぶよりほかにはないものであった。他のあらゆる条件がきわめて恵まれていただけに、黒田清輝の場合は、いわば理想的状況における実験のようなものであった。そして、その実験の結果は、日本の近代というものの性格をはっきりと浮き彫りにして見せてくれたのである。
 もちろん、天真道場以来黒田の日本における活動は、その後の日本の洋画発展の歴史の上では決定的な役割を演じた。黒田という存在がなかったなら、日本の近代美術は少なくとも何割か見劣りのするものとなったであろう。その意味では黒田の試みは無駄ではなかった。まして、彼の世間的な栄光を考えれば、彼の生涯には失敗と挫折とかいう言葉はほとんど無縁のものであるように見える。しかし、世間的な栄光はとも角、芸術創造の面においては、黒田自身の成し就げたことも、あるいは黒田に始まるいわゆる「新派」の勝利も、決して黒田の意図したものではなかった。余人は知らず、少くとも黒田自身は、その華やかな栄光の陰で、ある種の空しさを噛みしめていたはずである。おそらくそれは、挫折感としか呼びようのないものであった。晩年の黒田は、決して「幸福な環境と幸福な才能」を楽しく享受していたわけではなかったのである。
 私そのように思わせるものは、後に見るように晩年の黒田がしばしば自分の仕事について苛立たし気な口調で語っているということばかりではない。晩年の黒田の作品に、時に不気味なほど暗い絶望の影が稲妻のように浮かぶことがあるからである。例えば1924年、彼の死の年に描かれた最後の名作「梅林」(国立文化財研究所所蔵)がその例である。この作品は、決して功成り名遂げた芸術家の悠々自適の心境を反映しているものではない。激しく捩れる梅の樹枝や、画面に絵筆を叩きつけたようなダイナミックな筆触、そして何よりも、印象派の感覚的表現とも、フォーヴの色彩礼讃とも違うその表情スタかな色彩表現は、この絵の作者の心の中で何ものかが激しく荒れ狂っていたことを雄弁に物語っている。それは、何らかの意味で外部の世界を写し出したものではなく、むしろ作者の内部の怨念のようなものを吐露した妖しい迫力を持つ名作である。外から見れば申し分ない幸福に包まれたような六十年の生涯の終りに、彼にこのような悲劇的作品を描かせたものは、いったい何だったのだろうか。私にはそれが、日本近代の持っているfatalstischなものに対する彼のせいいっぱいの抵抗であったように思われてならない。」高階秀爾『日本近代美術史論』講談社文庫、1980年、pp.70-77.

 絵画芸術という領域で、当時最先端のパリで一から油絵を学んでプロのレベルに達した人は、日本人にも何人かいたが、日本に戻って黒田ほどの名声と成功を得た人は他にはいない。しかし、かれは当時の前衛絵画だった印象派よりも一流とは言えないコランに師事することで伝統的な西欧絵画の基礎と精神を学んだ。帰国して彼が洋画教育において実践した方法は、たんなる技法修練を超える西欧近代の精神の表現ということにあった。しかし、それが困難な課題であることを彼はパリですでに予感していた。


B.ウソに近い広告?
 昼間家にいてなんとなく有線テレビを見ていると、ひっきりなしに健康・美容・投資への勧誘・宣伝・広告が流されていることがわかる。ぼくは、この手の商品を欲しいと思ったことがないが、これだけしょっちゅう流れているということは、きっと購入を申し込む人もかなりいるんだろうな、と思う。なかには人気商品なので今すぐ何分以内に申し込めば割引すると煽るものもある。その声の調子や、むやみに明るく挑発的なのも気に障る。小林製薬の紅麹サプリ死亡事件で、この問題が表に出た。いわゆるサプリメントは、医薬品ではないのに、医者の出す薬よりも効果があると思って切り替える人もあるという。このてのインチキめいた宣伝広告が広がったのは、やはりアベノミクスの結果だという。そうだったのか。

「時代を読む: テレビ局の広告と報道  法政大学名誉教授・前総長 田中 優子
母の在宅介護をしていた時、気になることがあった。テレビのコマーシャルから流れてくる商品を、電話をかけて注文することが多くなったのだ。「出てくる人がみんな、効果があった、と言っているのよ」と言う。電話をかけさせるために使っている手は「30分以内に電話すれば安くなる」という値下げだ。時には半額以上の値段が示される。それでも利益が出るのなら、そもそも元の値段が信用できないではないか。
  ◇   ◆   ◇ 
 機能性表示食品制度は「世界で一番企業が活躍しやすい国」にするという安倍晋三政権のアベノミクスの一環として2015年に発足し、急拡大した。
 小林製薬の問題でわかったのは、資料一式を提出すれば認可不要という「安全性の規制緩和」だったということだ。それをさらに拡大するための広告方法は母が信用してしまったように、一般庶民(と見える人)たちが出てきて自分の家(と見える場所)でそのサプリを飲んで見せ、家の周囲(と見える道)を元気よく歩くシーンを放送することである。「個人の感想です」という極小文字を入れることで、違法性を免れる。効果が一般的に認められている(から私も効果があるはず)とか、学者や医師が証言しているから科学的根拠があると思い込むのは、視聴者の責任というわけだ。ちなみに学者や医者の言葉を聞いていると、そのサプリではなく、含まれている一成分についてのみ「効果があると思われる」と言っているにすぎない。たった一本の論文が根拠になっていることもある。
 アベノミクスとは、新たな世界を目指す価値観ではなく、戦後の高度経済成長の反復にすぎなかった。企業→カネ→票→自民党という流れである。その流れの中に広告→国民がさし挟まれる。広告はしばしば「報道」であるかのように人々に伝えられる。その結果、健康を買えると思った人たちが企業に金を払い、それが再び票につながる。アベノミクス関係者たちは、その結果何が起こるか「知ったことではない」と思っていただろう。米国や日本の企業が潤えばそれでいいのである。
   ◇   ◆   ◇ 
 4月8日、前川喜平氏と私が共同代表をつとめる「テレビ輝け!市民ネットワーク」の記者会見を開いた。テレビ局を持つ企業の株を市民たちが購入し、必要な提案をする活動である。目的は、今なお大きな影響力を持つテレビを応援することだ。この中で「政治的な権力をもつ者からの圧力、介入により報道機関の公正報道を保ち難い」場合や、番組審議会が機能不全となっている恐れがある場合に、第三者委員会を作って調査公表する、という趣旨の定款追加を提案した。
 基地の拡大、武器の輸出入を含む軍拡、そして規制緩和によって生命や健康が危機にさらされる事態が起こっている。市民が自らを守るためには、報道が頼りなのだ。民間放送は企業に支えられてはいるが、企業や広告代理店には、報道と広告を明確に区別するよう求めてほしい。日本各地に何が起きているか、特に南西諸島を含む沖縄県の状況を、丁寧に伝えてほしい。なぜなら、沖縄の現状は、明日の日本全体を予見させる重要な情報だからだ。今もテレビは、真実を粘り強く繰り返し伝えることで、人びとを守ることができる重要な媒体なのである。」東京新聞2024年4月14日朝刊5面、社説・意見欄。
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「日本近代美術史論」を読む 3 高橋由一「花魁」は凄い  タンザニアの作家

2024-04-13 21:19:54 | 日記
A.由一「花魁」をみた!
 いま、上野の東京芸術大学大学美術館で「大吉原展」が開催中(5/19まで)で、ぼくも先日そこへ行って展示中の高橋由一の「花魁」1972(明治5)年の現物を見てきた。吉原を描いた浮世絵などの展示が中心なので、その中にほぼ唯一の油絵で描かれた「花魁」はたしかに別格の異彩を放っていた。鼈甲の簪と笄を頭にたくさんさして斜め横向きの顔を見せ、豪華な衣装を着た花魁の迫力は凄い。これは浮世絵や伝統日本画とは明らかに違う絵だが、いわゆる西洋の油絵の絵具で描かれているものの、「洋画」といえるだろうか?
 高階秀爾『日本近代美術史論』の冒頭、欧州での留学を終えて日本に戻った高階氏が、鎌倉の近代美術館でこの絵に出合った時の衝撃と違和感について語った文章を読んだところだったので、なるほど、これは日本人が描いた「洋画」のはじまりという見方もできるが、洋画の技法で描いた「日本画」ともいえるのかもしれないと思った。写実の迫真力でもあるが、陰影や奥行きはほぼない。由一は、いわゆる西洋のルネサンス以後の名作といわれる絵画の現物を見ていないし、海外とくに欧州に一度も行っていない。そのことがどういう意味を持っているか、由一が西洋画を学びたいと思ったきっかけが、「洋製石版画」を見たことになって、それがいつのことだったか(嘉永年間か文久年間か)について、えんえん討究した後で、この「花魁」と「鮭」連作が特別な意味を持っていることを、高階氏は論証した。その結果、今回の展示でも「花魁」は明治五年の作品だと書かれていた。

「由一は明治十年以前においてもかなりの数の風景画を残しているが、「鮭」「豆腐」図等において写実主義の極致に達した後、晩年十数年間の作品は、ほとんどすべて風景画ばかりである。そしてこれら晩年の風景画は、有名な「不忍池」にしても「浅草遠望」にしても、さらには土方定一氏が「ルソーを思わせる」と称讃する「宮城県庁門前之図」でさえ、巧みな画面構成で破綻なく画面を纏め上げてはいるものの、「花魁」や「鮭」連作に見られるあの厳しい造形力はもはやそこには見られない。五十の坂を超えてから、由一は急速に文字通りの「アカデミズム画家」に変質して行ったように見える。目の前のものに対するかつてのあの恐ろしいまでの執念や、その表現における激しい気魄は、いったいどこに行ってしまったのだろうか。
 端的にいって、私は、由一のこの変化こそ、「西洋画」との接触が彼にもたらした唯一の明白な結果であると思う。
 もちろん、私は、好んで奇異の論を説こうとするのではない。また、画学局に入る前に由一が体験したあの「洋製石版画」との出会いを忘れたわけでもない。たしかに「花魁」や「鮭」の作者の修行時代には、オランダ渡りの石版画との出会いがあり、それが彼の生涯に決定的な重みを持ったように見える。しかし、その石版画は、土方氏も指摘する通り、オランダ渡りとはいってもレンブラントの版画のようなものではなく、いずれ通俗的な三流作品であったに違いない。そのような安物の版画が、なぜ由一にとってあれほどまで重要な意味を持ったのだろうか。もちろん由一がその石版画に接する以前から、あるいは自ら意識はしなかったにせよ、そのような現実描写の世界を求めていたからである。芳賀徹氏が先に触れた論文の中で喝破しているように、「由一は日ごろこの迫真の美」を「わが画境のうちに実現したいと願っていた」からこそ、通俗的なオランダ渡りの石版画にも雀躍したのである。
 この間の事情は、ちょうど同じ頃、日本の「通俗的」浮世絵版画がフランスの印象派に影響を与えたのと似ている。由一が安物の「洋製石版画」に驚喜したというエピソードは、ヴァン・ゴッホが安物の浮世絵版画に感激したというあのエピソードを思い出させる。ゴッホも由一と同じように、通俗的な日本版画について熱狂的に語り、おそらくは「忽チ習学ノ念ヲ起シ」て実際に浮世絵の模写を試みたりしている。しかし、それにもかかわらっず――というよりも当然のことながら――ゴッホの生み出したものは浮世絵の世界ではなく、西洋絵画の歴史のなかにこそその場所を持つべきゴッホ自身の世界であった。動揺に由一も、「洋製石版画」の世界を追い求めながら、実は自分自身の世界を作り上げていたのである。少なくとも「花魁」や「鮭」まではそうであった。「花魁」の画面を支えているおよそ非西欧的な感受性の存在が、はっきりとそのことを物語っている。
 印象派のグループの中心人物であったカミーユ・ピサロは、息子リュシアンに宛てた手紙のなかで、日本の浮世絵版画は、印象主義時代に自分たちが求めていたものを「確認」させてくれたと述べている。つまり浮世絵の影響は、すでに彼らが自分たちだけで求めていたものの裏付けを与えてくれたというのである。事実そうでもなければ、浮世絵版画があれほど短い期間に、あれほど大きな影響を与えることはできなかったであろう。
 由一と「洋製石版画」との関係も、ほぼ似たようなものと言ってよい。オランダ渡りの石版画は、そうでなくても由一の内部において次第に明確なかたちを取りつつあったものを、いっきょに結晶させる刺戟となった。あるいは、すでにほとんどいっぱいになっていた容器を溢れさせる最後の一滴のやくわりをはたしたとも言える。というのは、目の前の現実を正確に観察し、そして観察したものを精密に表現するということは、すでに十八世紀以来、わが国の絵画が、少なくとも一部の先覚者たちにおいて、一貫して求め続けて来たものだったからである。
 明治二十六年、すなわち由一の死の一年前、彼は天絵学舎の旧門人一同とともに、東京築地において「油絵沿革展覧会」を催したが、その際彼は、自分の若い時からの作品とともに、油絵表現における先覚者として、司馬江漢、亜欧堂田善、北斎、文晁、杏所、川上冬崖、ワーグマン、フォンタネージ、国沢新九郎、横山松三郎等の作品をもあわせて陳列されたという。当時の新聞の伝えるところによると、なかでも「場の正面に肖像を掲げ清酒を供えて祀れる者三、司馬江漢、川上冬崖、及びホンタ子ヂー」であったという。(芳賀徹氏前掲論文参照)
 由一晩年のこのエピソードは、江戸末期から明治にかけての洋風画の発展の歴史のなかで、由一自身自分の役割をどのように考えていたかをはっきりと示していて興味深い。特に、同時代人であった冬崖、フォンタネージは別として、由一自身が生まれるより十年も前に世を去っている司馬江漢に対し、「正面に肖像を掲げ清酒を供えて祀」ったということは、彼が自分自身を、十八世紀後半以来何人かの先覚者たちのうちに目覚めはじめていた近代的実証主義の精神の後継者と認めていたことを物語っている。かつて江漢においてそうであったように、由一においても、洋画の修業は、現実世界のいわば「解体新書」にほかならなかったのである。
 良く知られているように、由一は自分のこのよううな精神的祖先ともいうべき司馬江漢の肖像を残している。といっても、もちろん江漢と面識のあるはずはないので、岐阜の司馬家に伝えられていた江漢自身の自画像に依拠してこれを描いたのであるが、それほどまでしてこの先人にオマージュを捧げようとする由一の熱意は、彼の江漢に対する尊敬の念と江漢への負債に対する自覚とを明瞭に示している。事実、由一が画学局に入学後まもなく(慶応元年冬)「画局ノ隆盛ヲ計ラント欲シ」て画学局の壁に掲げた有名な次の「的言」のなかには、江漢の思想の明白な反映が見てとれる。

「泰西諸州ノ画法ハ元来写真ヲ貴ヘリ眼前の森羅万象既ニ皆造化主ノ図画ナレハ写照スル所ノ像ハ則人功中筆端ノ小造物ナリ夫図画ハ文字ト用ヲ同フスト雖モ文字ハ只事ヲ誌スノミ其形状ノ細微ニ至テハ画ニ非サレバ之ヲ弁シ難シ‥‥‥(中略)‥‥‥和漢ノ画法ハ筆意ニ起リテ物意ニ終リ西洋画法ハ物意ニ起リテ筆意ニ終ル筆意ハ物ヲ害シ物意ハ筆意ヲ扶ク筆意ハ輪郭ノ経ニ起リ物意ハ濃淡ノ陰ニ発ス是ニヨリテ洋画ノ奇巧ヲ述ルトキハ宇宙の瞑々暗々タルモ日月ノ光輝ヲ受ルニ当レハ直ニ凸凹遠近深浅ノ形状瞭然タリ是ニ着目シテ人為ノ画法ヲ悟明セリ故ニ画ニ三面ノ法アリ又之ヲ望観スルニ大図小図ニ依リテ遠近距離ノ別アリ然ル所以ノ者ハ固ヨリ理ヲ究メ致スコトナレハ真ニ逼リ妙ニ至リ活潑生動セント欲スルハ是レ写真ノ貴キ所タリ‥‥‥(後略)」

 すでにしばしば指摘された通り、この由一の「的言」のなかには、江漢の『西洋画談』の思想が――時にはその文章までが――ほとんどそのまま生き続けている。ここで由一の言いたかったことはひとつには絵画とは決して単なる遊びではなくて「治術ノ一助」となる実用的なものだということであり、もうひとつは、そのためには明暗や遠近を的確に表現することのできる「洋画の奇巧」を学ばねばならぬということである。このような実用主義的、功利主義的絵画観は、江戸末期から明治初年にかけての画家たちに共通のもので、そのことはそのまま、当時の西欧文明輸入の一般的傾向の反映でもあった。そして江漢以来受け継がれてきたこの思想は、明治初期の日本洋画に少なくともひとつの際立った特色を与えた。それは「洋画」の導入が、必ずしも従来の伝統的画法を維持することを妨げなかったということである。おそらくそこに、由一の「花魁」や「鮭」の緊密な画面の生まれてくる基礎があり、同時にまた、晩年の彼の変質謎を解き明かしてくれるひとつの鍵があるのである。
 明治初期の洋画の輸入について語る時、われわれはまず由一の先輩の川上冬崖から始めるのが普通である。事実冬崖は、安政四年、蕃書調所のなかに絵図調方が置かれた時その絵図調所出役となり、次いで文久元年、画学局が設置された時、画学局出役となっている。由一が文久二年に画学局に入学した時、彼の指導にあたったのがこの川上冬崖である。
 しかしながら、冬崖は厳密な意味では「洋画家」ではなかった。むろん、蕃書調所にはいったということは、正式に西洋絵画の研究と指導の役割を与えられたことであり、事実冬崖は、油絵具の材料もないような時代に、西欧の絵画入門書を頼りに苦心惨憺しながら少しずつその技術を開拓して行くのであるが、しかし、彼の弟子であった松岡寿が後年、「一体川上先生は文人画では有名な人であったが、洋画は蘭書を見て教えるので実地の技法はあまり達者ではなかった」と回想しているように、もともとは洋画家というよりは南画家であった。彼は大西椿年、小田蒲川等について南画を学び、蕃書調所にはいってからも、ずっと南画を描き続けた。多くの苦労を重ねた洋画の研究は、彼の南画にはほとんど何の影響も及ぼしていないように見える。冬崖においては、純粋に実用的な技術としての洋画と、自己の趣味としての南画とが見事に截然と区別されていたのである。
 事実、冬崖は、徳川慶喜大政奉還後、暫くのあいだ沼津兵学校に招かれ、また明治五年には陸軍省兵学寮、明治九年には陸軍省参謀局、同十一年には参謀本部地図課という具合に、陸軍関係の仕事を転々としているが、彼のこの経歴は「洋画研究」なるものが当時どのような目的に支えられていたかを端的に物語っている。
 由一の歴史的意義は、河北倫明氏が「近代洋画の展望」(『近代の洋画人』中央公論美術出版 昭和34年刊に所収)のなかで正当に指摘しているように、冬崖においては「まだよくこなれあわぬ二すじ道の出来事であった」美術と技術とをひとつのものとして受けとめたところにあった。しかしその由一にしても、美術と技術とがひとつになっている西欧のオーソドックスな油彩画を正面から受けとめたわけではなく、通俗的な三流石版画やあるいは西欧の絵画入門書を通じて学んだ洋画の表現技法を、伝統的な感受性によって受けとめたのである。その伝統的な感受性というのは、ひとつには狩野派に代表されるような綿密な現実観察であり、ひとつには浮世絵版画に見られるような「平坦な色面」であり、そしてさらに、平賀源内や司馬江漢から受け継いだ実証的精神、いわば実学の伝統であった。洋画の技法を技法として受け入れる前に、これだけの基礎があったからこそ、由一の洋画は「花魁」や「鮭」において、西欧本来の油絵表現からややはずれたところで――まさにその「破格」の表現の故に――驚くべき高さにまで達することができたのである。
 したがって私は、「花魁」はもちろんのこと「鮭」や「豆腐」においてさえ、その「迫真的」な写実表現を支えたものは、西欧絵画の持っている写実主義の伝統ではなく、幕末から維新にかけての多くの知識人のなかにその同類を見出すことのできる実学の精神――合理的で実証的な思考法、先入主に捉われない即物的な認識態度――であったと考える。その意味でこれらの傑作は、まさに同時代の福沢諭吉の『文明論の概略』(明治八年)や、田口卯吉の『日本開化小史』(明治十年)や、久米邦武の『米欧回覧実記』(明治十一年)のなかにこそその精神的共鳴を見出すという芳賀氏の指摘は、きわめて適切なものであると私には思われる。
 江戸時代以来受け継がれてきた実学の伝統の上に西洋画の技法にもとづく写実表現を打ち建てるということは、その技法がまさに純粋の技法として――すなわち感受性の伝統から切り離されたものとして――受け入れられた時にはじめて可能となる。とすれば、由一が文久年間に始めて接したという西洋画が、三流の通俗的版画であってレンブラントではなかったということは、むしろ由一にとって幸運であったかもしれない。
 由一のように鋭い感受性に恵まれた作家にとって、レンブラントを見てそれを純粋に技法の世界だけのものとして受けとめることは困難であったに相違ないからである。もしそうであったとすれば、黒田清輝のように西欧の感受性そのものを移植しようと試みるか、あるいは劉生のように、西洋の感受性と日本の感受性との相克に悩むか、いずれかの道しかなかったであろう。その点由一が、(慶応三年の短期間の上海外旅行は別として)一度も海外に渡ったことがなく、実際に西欧の油絵の作例に接することがほとんどなかったということは注目すべきことのように思われる。あれほどまで洋画の技法を完全に自己のものにしたように見える由一が実際に見ることのできた西洋画と言えば、オランダの通俗的な石版画か、せいぜいのところワーグマンのような素人画家の作品に過ぎなかったのである。そしておそらくは、その事実こそが「花魁」や「鮭」の迫真的な表現を可能ならしめたのである。
 この間の事情を解明してくれるひとつの興味深いエピソードがある。木村毅氏の「ラグーザ玉伝」のなかに語られているお玉さんの言葉によると、由一があの「鮭」図を洋画の常識から言うと型破りの縦に細長い変形の画面に描いたのは、「油絵が横では、床の間に掛けるわけにも参りません、そこで柱に掛けるように、あの頃は、よく細長い板に描いたものです」という理由からだという(佐々木静一「高橋由一の鮭図について」早稲田大学美術史学会『美術史研究』第三号所収による)。おそらく黒田清輝なら、このような考え方はしなかったであろう。清輝にとっては、柱にかけるために細長い油絵を描くということは、油絵というものに対する冒瀆のように思われたに相違ない。それだけ由一は西欧の伝統に対して自由であり、清輝は西欧の伝統にとらわれていたということになる。」高階秀爾『日本近代美術史論』講談社文庫、1980.pp.27-35.

 由一が幕末にオランダの三流石版画を見て、自分の絵画観の方向性に大きなヒントを得たように、ゴッホや印象派の画家たちが日本の浮世絵版画を見て、その絵画観に影響を受けたことがちょうど鏡の裏返しのようにみることができる、という高階流の考察もなかなか鋭い。


B.タンザニアってどこ?
 アフリカ大陸には、いろいろな国があるが、タンザニアってどこにあるのかぼくらはよく知らない。真ん中のあたりにサハラ砂漠があって、地図を見るとその下を赤道が通っていて、東側のインド洋岸にケニアのナイロビという首都がだいたい赤道直下。タンザニアはそのケニアの南にキリマンジャロ山(5895m)とヴィクトリア湖で国境を接する大きな国(日本の面積の約2.5倍)だ。旧英国植民地でイギリス連邦加盟国なので、スワヒリ語と英語が公用語。首都は、1996年に議会が新首都ドドマに移されたが、実質的な首都はまだもとのダルエスサラームで、ザンジバルという港もある。しかし、これだけではどんな国なのか想像も湧かない。そこからノーベル賞作家グルナさんが出たということも、ぼくは知らなかった。作品は英語で書かれていて、日本では初めてその翻訳が出るという。
 スワヒリ世界、という言い方は、アフリカ東岸部で国を越えて広く使われている言語のスワヒリ語を使う地帯を意味する。ケニア、タンザニア、ウガンダ、ルワンダでは公用語となっている。スワヒリ語は東アフリカ沿岸地域の多くの民族の母語となっているバントゥー諸語の一つで、数世紀にわたるアラブ系商人とバントゥー系諸民族の交易の中で、現地のバントゥー諸語にアラビア語の影響が加わって形成された言語であり、語彙の約50%はアラビア語に由来する。

「少年の受難と成長 スワヒリ世界を映す :ノーベル賞作家グルナさん「楽園」初邦訳
 2021年にノーベル賞を受賞したタンザニア出身の作家、アブドゥルラザク・グルナさんの代表作「楽園」(白水社)が邦訳された。グルナさんの作品が日本語に訳されるのは本作が初めて。訳者で法政大教授(アフリカ文学)の粟飯原文子さんに、作家と作品の魅力を聞いた。
  訳者にきく 
 グルナさんは1948年に英保護領だった東アフリカのザンジバル(現タンザニア)で生まれ、革命の混乱を受けて、67年にイギリスへ渡った。大学で文学を教えながら英語で執筆を続け、植民地化がもたらした影響と、自国を離れて生きることをテーマに多くの小説を手が空けてきた。
 「楽園」は、94年に発表された長編小説。20世紀初頭の東アフリカ沿岸地域を舞台に、父親の借金の形として大商人に引き渡される主人公、少年ユスフの受難と成長を描く。日本で紹介する1作目に本作を選んだ理由について、粟飯原さんは「彼の作品には、いわゆるスワヒリ世界の文化や社会、歴史が濃厚に映し出されている。『楽園』は、それが凝縮されたかたちで表された作品だ」と話す。
 また、欧米やロシアの文学を中心に親しんできた日本の読者にとっては「遠い世界」という印象を持たれるアフリカ文学にあって、「シンプルな文体で、なじみやすく、しかも、背景を知らなくても少年の成長物語や冒険物語としても読める」と太鼓判。 「分化や社会はまったく見知らぬものであっても、人物の心情や経験を身近に感じ取れる。そういう読書のすばらしさを本当によく伝えてくれる作品だと思います」
 一方で、深く読もうとすればするほど「テクストの向こう側に広がる豊饒な世界が垣間見られる」作品でもある。「スワヒリ世界はインド洋を介して、アラブやペルシャ、マレーシア、中国までつながる非常に長い歴史と人々の往来によって形成されてきた」。その上で、「いまタンザニアと呼ばれている地域がいかに複雑で、多言語で、いろんな文化が混ざり合っているかが非常によくわかる作品ではないか」と語った。
 『楽園』は「グルナ・コレクション」の一冊として刊行され、今後も続刊が予定されているという。 (山崎聡)」朝日新聞2024年4月10日夕刊2面。
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