A.日本画の江戸と明治の接続点
狩野芳崖(1828~1888)は、1828(文政11)年長府印内(現・下関市長府印内町)で、長府藩狩野派の御用絵師だった狩野晴皐の家に生まれる。芳崖の狩野家は、桃山時代に狩野松栄から狩野姓を許された松伯に起源を発し、3代洞晴(どうせい)のとき長府藩御用絵師となり、5代察信の時代に長府に移り住んだ。芳崖はその8代目に当たる。芳崖も幼い頃から、父の後を継ぐべく画道に励んだ。1846(弘化3)年19歳で、父も学んだ木挽町狩野家(江戸狩野)に入門、狩野雅信(勝川院)に学ぶ。1850(嘉永3)年には弟子頭となり、同年同日入門し生涯の友になる橋本雅邦と共に「竜虎」「勝川院の二神足」と称された。画塾修了の証として、勝川院雅信から「勝海雅道」の号と名を与えられる。この頃、父の修行仲間で当時画塾で顧問役を務めていた三村晴山の紹介により、近くで塾を開いていた佐久間象山と出会い、その薫陶を受ける。芳崖は象山を慕うあまり、その書風も真似したといわれる。その後、藩から父とは別に30石の禄を給され、御用絵師として江戸と長府を往復する生活を送る。1857(安政4)年、近郷の医師の娘よしと結婚。この頃、禅の「禅の極致は法に入れて法の外に出ることだ」という教えから、法外と音通の「芳崖」の号を使い始めた。
明治維新後、いわゆる「武士の商法」で養蚕業などを行うが失敗、生活の糧を得るため不本意ながら南画風の作品や、近所の豪農や庄屋の屋敷に出向き、襖や杉戸絵を描いた。明治10年(1877年)惨憺たる窮状に見かねた友人たちの勧めで上京したが困窮は変わらず、日給30銭で陶磁器の下絵を描くなどして糊口をしのいだ。明治12年(1879年)芳崖の窮状を見かねた雅邦や同門の木村立嶽の紹介で、島津家雇となり、月給20円を支給されて3年かけて「犬追物図」(尚古集成館蔵)を制作する。
1882(明治15)年、54歳の芳崖はフェノロサに出会い、日本美術史上の最初の転機を迎える。フェノロサは芳崖の仁王捉鬼図を当時の総理、伊藤博文に見せて日本画の可能性を示し、東京美術学校(後の東京藝術大学)設立の契機とした。芳崖はその東京美術学校の教官に任命されたが、「悲母観音」を描きあげた4日後の1888年11月5日、同校の開学を待たずに死去した。享年61。(以上はWikipediaの記述を参考にした。フェノロサと芳崖の出会いから始まる日本画の変革について、高階秀爾先生の以下の論述を読んでみる。
「明治期の日本画の発展において、フェノロサと岡倉天心の果たした役割りは決定的であった。彼らの果たした歴史的役割の重要性は、誰しもこれを否定することはできない。このふたりの存在がなかったなら、明治の日本画は明らかに異なった歴史の歩みを見せたであろう。だが、彼らのその日本画復興の運動にしても、江戸三百年のあいだ絶えることなく生き続けてきた狩野派アカデミズムの地盤がなければ、おそらく不可能であったに相違ない。そしてその狩野派アカデミズムは、明治の初頭に、ふたりの優れた才能を生み出していた。江戸木挽町にあった狩野絵所の勝川院法眼雅信門下で「神足」と謳われていた橋本雅邦と狩野勝海(後の芳崖)がそである。事実、森大狂の『近古芸苑叢談』(巧芸社 大正十五年刊)や、狩野友信談「芳崖逸話」(『日本美術』第81号収載)の伝えるところが事実であるとするなら――そしてそれはおそらくきわめて事実に近いと思われるが――、フェノロサは当時の日本画の状況にほとんど絶望しており、明治十七年の第二回内国絵画共進会で芳崖の作品を見いださなかったら、あるいは日本画復興を断念してしまったかもしれなかったのである。そして、フェノロサにとって、芳崖との出合いが同時に狩野派の伝統との出合いであり、さらには東洋の伝統の生きた実例との出合いでもあったことは、あらためて言うまでもない(後にフェノロサは、「明治の偉大な中心的存在であった狩野芳崖は、呉道子が最初に響かせた偉大な楽器の最後の音をはっきりと打ち鳴らした人と見做し得るであろう」と述べている)。したがって、フェノロサや天心の歴史的役割を検討するに先立って、彼らのその役割を可能ならしめた狩野派の意義、就中その最後の代表者であった芳崖の役割りを振り返ってみる必要があるであろう。
芳崖と雅邦は勝川門下の同門の画家でありながら、性格的にはまったく対照的であった。雅邦が謹厳寡黙、きわめて理知的でしかも現実的感覚も充分に備えた温厚な人柄の人物であったのに対し、芳崖は直情径行、感情的、空想的で、気が向けば何時間でも一人で喋舌りまくるくせに、気に入らない相手に対しては口もきかないという激しい気性の持ち主であった。個人的タイプとしては、このふたりの芸術家は、次代こそ違え、洋画の黒田清輝と青木繁に対比できるかもしれない。一方は優等生タイプの現実派であり、他方は天才肌の破滅型である。雅邦の生活には黒田の場合と同様、人眼を惹くような派手な言動や奇矯な逸話はほとんどないが、芳崖の伝記には、青木の場合と同じように、虚実とりまぜてさまざまな伝説やエピソードがちりばめられている。
だが、そのような性格上の類似にもかかわらず、青木と芳崖とは、日本の近代美術史における歴史的意義という一点において、大きく異なっていた。青木繁が同時代の精神的風土を鋭敏に感じ取るだけの鋭い感受性を備えていながら、日本の洋画史において遂に黒田のような歴史の「主流派」になることができず、あくまでも「異端者」として止まったのに対し芳崖は雅邦と共にその後の日本画の展開に決定的役割を果たしているからである。黒田と青木は、その性格のみならず歴史上の位置においても対照的であるが、芳崖と雅邦は歴史的には同じ地点に立っている。私はそこに、芳崖と雅邦二人に共通していた狩野派の伝統の背景というものの働きを見ないわけにはいかない。もちろん、実際に芳崖の歴史的役割を演出したのは、フェノロサという一人のアメリカ人であった。しかし、そのフェノロサにしても、芳崖のなかに、「呉道子が最初に響かせた偉大な楽器の最後の音を打ち鳴らした人」を見出したからこそ、みずらか演出家の役を買って出たのである。フェノロサが、芳崖の背後に、ひとつの強力な伝統の存在を認めていたことはあきらかであろう。
芳崖の奇矯な性格を物語るエピソードは多くの人々によってしばしば語られているが、そのなかでもとくに興味深い貴重な資料として、「芳崖翁と私」と題された坪内逍遥の短い一文がある。これは、古川北華氏が逍遥に芳崖の印象を尋ねた時の返事として書かれたもので、その全文は、同氏の著書『狩野芳崖』(民族教養新書 元々社昭和30年刊)に収録されているが、そのなかに、例えば次のような一節がある。逍遥が春の朧月を阿弥陀如来に喩えた文章を新聞紙上に書いたのを見て、逍遥と何の面識もなかった芳崖がいきなり若い逍遥の許に訪ねて来る話である。
「……其二三日後か、或いはもつとずつと後であつたか記憶しないが、ある日、突然真砂町の宅へ訪ねてきた老人があつた。極粗末な羽織袴姿で、齢は五十七八で、腰には弁当箱をぶら下げ、たしか下婢に口上で姓名を言つて会ひたいと言ふ。どういふ人だか分からなかつたが、無論こちらは書生々活、だれにでも会ふのが例であつたから、客の間といつても、すぐ玄関の次の間へ通した。通るや否や『や、先日の如来さまは敬服です。全く如来さまに相違ない。あの通り通り!』といふのを序開きに主人には更に文句を言はせず約三十分程、突拍子もない、断片的の、支離滅裂の美術論やら芸術談やらのノベツ幕なし。いつの間にか、それが演劇の話に移ると、俳優では、何といつても、団十郎ですよ。さすがに偉い、うまいもんだ。併しあれほど心得てゐるやうでも、まだどうも歩き方がいけない。小松重盛が、それあの、西八条第へ、急を聞いて、馳せ附けたところの、あの花道の出だ。あの歩き方がいけない。(といふや否や老人は席を立つた)団十郎は斯ういふ風に歩く。(と弁当箱をぶらぶらさせて、八畳の小座敷をあちこち歩きながら)これがいかん。腰の据わりがない。あそこは是非斯うなくちやいかんので。……(とまた歩く)。
これが翁の第一次の訪問の時であつた。下女の取次で狩野某と聴いたので、多分画家だらうぐらゐには思つてゐたが、どういふ身分の人だかも、実は其際に分かりかねてゐたから、少々呆気に取られた気味であつた。翁は喋舌るだけ喋舌つて、万事独吞込で愉快さうにして帰つて往つた。
翌日になつて、私は有名な芳崖翁であることを知つた。又、芳崖翁の為人に関しては、其後、あちこちから聞いて、成程、常人ではないなと思つた……」
逍遥の筆になるこの描写には、物事に熱中し易く、自分でこうと思いこんだら他人の思惑などさらに構わない芳崖の直情径行な一面が生き生きと描かれている。このような彼の性格は、時にひとつのことばかり一図に思い続けてとんでもない失敗をやらかすという結果をもたらした。彼が肺を病んだ時、にんにくを食べたら大変効果があったので、それからはすっかりにんにくの信者になり、自分の家の前には寸余の土地も余さずにんにくを植え、つねづね袂にいっぱいにんにくを入れて人前でもどこでもそれを食べていたとか、弟子のひとりが歯が痛くて苦しんでいた時ににんにくをつけたら良いと大真面目ですすめて、弟子の方は却って痛みがひどくなり、大いに芳崖を恨んだとかいったようなエピソードは、彼の伝記を読むと枚挙にいとまないほど出て来る。(のみならず芳崖は、会う人誰にでもにんにくの効果を説いて無理にでも食べさせようとした。逍遥もその犠牲者のひとりであったことが、前記の文章に述べられている)
上に引いた逍遥の文章にも彼が弁当箱を腰にぶらさげていたことが書かれているが、些事に拘泥しない芸術家肌の彼は、外へ出るといつも何かと忘れ物をして来るので、弁当箱でも、扇子でも、何でも腰や羽織の紐に結びつけていたという。また、ある時など、島津家に茶の湯に招かれ、草履のまま平気で座敷に上りこんで、後で帰る時、玄関に自分の履物がないといって訝ったというエピソードも伝えられている。
さらに、逍遥の文章からもうかがわれるように、芳崖は文学や演劇にも深い関心を寄せ、自ら松本金太郎について能舞を学んだりする多才ぶりを示した。このような点も文学青年であった青木繁とよく似ており、もっぱら絵画一筋に精進した優等生型の雅邦や黒田清輝とは対照的である。能舞に熱中していた頃は、常住坐臥つねにそのことばかり考え、ある日、牛込柳町あたりを歩いていた時、急に扇子を出して声高々と謡い出し、路上で一曲舞い納めたといった話が伝えられている。その時、通りがかりの人々は一体何事が起こったかと吃驚したが、芳崖自身はまったく平気で、舞い終わると、「実に気持ちがよかった、今迄いくらやってもあの扇子を開いてすつと出す呼吸がうまく行かなかつた」と語って、けろっとしていたという。
この種の逸話は、実は挙げ出せばきりがない。だがここでは、そのような逸話を紹介することが目的ではない。これらのエピソードを通してうかがわれるような芳崖の性格が、彼の作品にどのように反映され、彼の仕事をどのように規定して行ったかを探ることが本稿の主要な目的だからである。
上に見たようないくつものエピソードがわれわれに予想させるものは、豊かな想像力に恵まれた奔放自在な画家の姿である。彼の多彩な才能と激しい性格とは、狩野派の厳しい技術的訓練の枠のなかでも、いや、そのような制約があればなおのこと、その作品に独自の力と気迫とを与えずにはおかなかったであろう。まして芳崖は、勝川院の許に学んでいた時、勝川院が依頼を受けた下谷摩利支天堂の襖絵を描く手伝いを命じられ、狩野派の古式からはずれた配色をして破門されかかったほど自己自身の表現に忠実であった芸術家である。この時は、同門の雅邦たちのとりなしでやっと破門だけは免れたが、勝川院から激しい叱責を受けた。叱責が終わって室外に退出すると結城正明が心配してどうして叱られたのかと尋ねた。芳崖は平然として、「師匠は絵を知り玉はず」と答えたという。
事実、彼の作品の優れたものには、このような自身、覇気、奔放な性格が遺憾なくあらわれている。例えば東京の島津家所蔵の有名な「鍾馗図」や、伊藤博文に贈った「鷲の図」、あるいは、きわめて単純な白猫で一気呵成に描き上げたような「獅子舞図」などに、それははっきりとうかがうことができる。明治十九年の鑑画会第二回大会で一等賞を得た「仁王捉鬼」のように時間をかけて丹念の描き上げた作品―-これは、場所によっては十一回も塗り直したといわれる――ですら、発想の新鮮さとは破格の色調構成によって、芳崖の激しい性格にふさわしい力強さを備えたものとなっている。だがそれでは、彼の全作品のなかで最も広く世に知られており、誰しもがその代表作として疑わないあの畢生の大作「悲母観音」(東京芸術大学所蔵)の場合はどうであろうか。
私も、芳崖の絶筆となったこの作品が、彼の代表作であることを否定するものではない。のみならず、それは明治以降の近代日本画の主要な方向を規定したという重要な歴史的意味を担っている。芳崖の作品のうち、ただひとつ、この「悲母観音」だけが重要文化財の指定を受けているということも、その意味からすれば当然と言ってよいであろう。
だがしかし、それにもかかわらず、私の中には、「悲母観音」を無条件に「傑作」と認めることをためらわせる何かがある。私はこの作品に接するたびに、その見事な線描表現や、豊かな色彩や、複雑な構成の妙に感嘆の念を覚えながらも、最終的にどこか納得しきれない何かが、おりのように心の中に残るのを感じないわけにはいかない。その「何か」が、私とこの作品との完全な触れ合いを妨げるのである。
といってそれは、例えば高橋由一の「花魁」図に感じたあの違和感とは、はっきりと別のものである。「花魁」図の与える違和感は、あきらかに油絵としては破格なその色彩表現に由来するものであった。しかもその色彩表現は、破格でありながら私自身の心の中に共鳴板を見出だすようなものであった。だが「悲母観音」の場合は、それほどはっきりした理由は、少なくともその均整のとれた画面にはどこにもなかった。色彩表現にしても、それは狩野派古来の法則から言えば「破格」であったかもしれないが今日のわれわれの眼から見ればきわめて正統的であり、むしろ常識的ですらある。デッサンはよく統制された筆使いで細部にまで神経が行き届いているし、構図も後に見るように呉道子(?)の作品を直接受け継いでいるだけに、大胆なように見えて少しも破綻がない。強いて言えば、「悲母観音」はあらゆる点において、破綻がなさ過ぎる。それは、あまりに完成され過ぎているのである。
もちろん私は、この作品のどこかに乱れがあったらもっと良かったろうなどと言っているのではない。破綻がないということは、芸術作品においては、たしかにひとつのメリットであって、少なくとも非難さるべきことではないであろう。だがそれは、決して唯一のメリットではないし、おそらく最高のメリットもない。「悲母観音」は、その完成度の高さにおいてきわめて優れた作品でありながら、あらゆる点で完璧であることに作品の最高のメリットがあるというまさにその点において、私に何かもの足りない思いを抱かせるのである。」高階秀爾『日本近代美術史論』1980年、講談社文庫。pp.146-154.
幕藩体制の保護を受けて禄を受ける武士だった狩野派絵師たちは、明治維新で生活の基盤と身分を奪われ、困窮に陥ったのは、能楽師や廃仏毀釈に遭った僧侶なども似たような境遇にあった。アーティストとして生き残るためには、何らかの新時代に対応する「近代化」が必要だった。それは日本画の場合、狩野派アカデミズムのなかから芳崖という天才とその価値を認めたフェノロサを必要としていた。
B.「あなた」あっての「私」
最首悟さんという名前は、ぼくにはあの70年前後の東大闘争のなかで、東大の生物学の助手として全共闘運動に関わった(助手共闘)人として記憶されている。山本義隆氏とともにいわば「知的で誠実な兄」のような印象を受けた人だが、東大教養学部ではその優秀な研究者でありながら助手のまま据え置かれ、やがて和光大の教員をしながら、障害者の娘さんの世話を続ける生活について、人間の生き方を問う発言をしてきた人である。新著が刊行されたというインタビュー。
「新著「能力で人を分けなくなる日」刊行 最首 悟 さん (生物学者・思想家)
生きることは何か、そこに価値はあるのか。生物学者、思想家で和光大名誉教授の最首悟さん(87)が、10代と語り合った新著「能力で人を分けなくなる日-命と価値のあいだ」(創元社)が今月初めに刊行された。水俣でのフィールドワーク、重度障害者の娘との暮らしの中ではぐくんだ思想を、若者に易しく説いて聞かせている。「世代を感じることなく語り合えたと思います」と孫ほど年の違う相手との対話を楽しんだ様子だ。
最首さんと車座になって向い合ったのは中高生3人。学校生活や社会問題について、さらに生と死について語り合った。「自分探し」に話が及ぶと〈まだ見つからない〉〈自分がどうしてもわあ駆らない、っていう状態に気付いて、探し始めてしまう〉との率直な告白も。3人の意見を受け止めた最首さんは〈私たちのいちばんの根本は「人に頼る」ということ〉と諭したりする。
「頼り頼られるのはひとつのことです。一報が自立したり、一方に依存していたり、ということはありません」。最首さんの声は確信に満ちている。人の単位は1人ではなく、最低2人。「私」という存在がまずあるのではなく、「あなた」との関係がまずあって、「私」ができていく。最首さんが提唱する「二者性」の概念だ。
「『人間』は『人のあいだ』です。つまり関係を指している。人がいて関係しあい、繋がり合っていることを含めて『人間』というのではないか」
こうしたことは三女の星子さん(47)との暮らしの中で気付いたことなのだという。星子さんはダウン症で生まれ、言葉はなく、目も見えない。食事や身の回りのことは、最首さんと妻五十鈴さんの介助に頼っている。〈どんな人でも、どんな動物でも、私にないものを持っている。(中略)そういう存在に頼る。それをきずなとして生きる〉(同書)。「星子は何もできないですけれど、
いるだけで影響力をもっている存在。私たちが星子に頼ってるんですね」
* * *
1936(昭和11)年、福島県で生まれ、3歳の時家族で東京へ。子供のころはひどい小児ぜんそくで、戦時中だった小学生のころが一番きつく、卒業するのに9年かかった。生きることに「もういいよ」とあきらめたくなる一方で、生きたいとも思った。「私の勝手にならない私の命。自分の理解を超えたものを受け止めるという経験が、それから後の人生の下地になっている」
東京大に進み生物学を専攻。同大助手時代の77年から、水俣病の被害者や地域住民から話を聞く研究社集団「不知火海総合学術調査団」に参加した。小説家・詩人の石牟礼道子から懇願されたのだ。森羅万象がともに生きる豊かな世界を描いた石牟礼の影響を受け、水俣のアニミズムに分け入った最首さん。「東洋的な『縁』の複雑なネットワークの中に、私が入っていくイメージ。のちに『人間』への関心につながっていきます」
* * *
2018年4月、「津久井やまゆり園事件」の植松聖被告・現死刑囚から手紙が届いた。知的障害者施設の入所者ら45人が殺傷された事件を受け、メディアで積極的に発信する最首さんを知ったのだろう。手紙には「国債(借金)を使い続け、生産能力のない者を支援することはできません」という植松死刑囚の歪んだ優生思想の根っこに、社会にはびこる能力主義の断片を見る。「重視されるのは、自立した個人の能力。その人をめぐる関係性は捨て去られてしまっている」。最首さんは今も植松死刑囚に手紙を送り続けていっる。
星子さんに言葉はないが、よく声を発するという。寝ている時に「ウフフ」と声に出して笑う。「とても心地よさそうにして。妻と『何を見てるんだろうね』と顔を見合わせます。私たちにはわからないけれど、多分、幸せに近いものを見ているのでしょう」
最首さんは星子さんの入浴担当だったが、最近は体力が厳しくなり、入浴サービスを頼んでいる。取材を終え、星子さんの部屋におじゃますると、ちょうど入浴の後で、ぐっすりと寝ているところだった。 (栗原淳)」東京新聞2024年4月20日夕刊5面土曜訪問欄。
狩野芳崖(1828~1888)は、1828(文政11)年長府印内(現・下関市長府印内町)で、長府藩狩野派の御用絵師だった狩野晴皐の家に生まれる。芳崖の狩野家は、桃山時代に狩野松栄から狩野姓を許された松伯に起源を発し、3代洞晴(どうせい)のとき長府藩御用絵師となり、5代察信の時代に長府に移り住んだ。芳崖はその8代目に当たる。芳崖も幼い頃から、父の後を継ぐべく画道に励んだ。1846(弘化3)年19歳で、父も学んだ木挽町狩野家(江戸狩野)に入門、狩野雅信(勝川院)に学ぶ。1850(嘉永3)年には弟子頭となり、同年同日入門し生涯の友になる橋本雅邦と共に「竜虎」「勝川院の二神足」と称された。画塾修了の証として、勝川院雅信から「勝海雅道」の号と名を与えられる。この頃、父の修行仲間で当時画塾で顧問役を務めていた三村晴山の紹介により、近くで塾を開いていた佐久間象山と出会い、その薫陶を受ける。芳崖は象山を慕うあまり、その書風も真似したといわれる。その後、藩から父とは別に30石の禄を給され、御用絵師として江戸と長府を往復する生活を送る。1857(安政4)年、近郷の医師の娘よしと結婚。この頃、禅の「禅の極致は法に入れて法の外に出ることだ」という教えから、法外と音通の「芳崖」の号を使い始めた。
明治維新後、いわゆる「武士の商法」で養蚕業などを行うが失敗、生活の糧を得るため不本意ながら南画風の作品や、近所の豪農や庄屋の屋敷に出向き、襖や杉戸絵を描いた。明治10年(1877年)惨憺たる窮状に見かねた友人たちの勧めで上京したが困窮は変わらず、日給30銭で陶磁器の下絵を描くなどして糊口をしのいだ。明治12年(1879年)芳崖の窮状を見かねた雅邦や同門の木村立嶽の紹介で、島津家雇となり、月給20円を支給されて3年かけて「犬追物図」(尚古集成館蔵)を制作する。
1882(明治15)年、54歳の芳崖はフェノロサに出会い、日本美術史上の最初の転機を迎える。フェノロサは芳崖の仁王捉鬼図を当時の総理、伊藤博文に見せて日本画の可能性を示し、東京美術学校(後の東京藝術大学)設立の契機とした。芳崖はその東京美術学校の教官に任命されたが、「悲母観音」を描きあげた4日後の1888年11月5日、同校の開学を待たずに死去した。享年61。(以上はWikipediaの記述を参考にした。フェノロサと芳崖の出会いから始まる日本画の変革について、高階秀爾先生の以下の論述を読んでみる。
「明治期の日本画の発展において、フェノロサと岡倉天心の果たした役割りは決定的であった。彼らの果たした歴史的役割の重要性は、誰しもこれを否定することはできない。このふたりの存在がなかったなら、明治の日本画は明らかに異なった歴史の歩みを見せたであろう。だが、彼らのその日本画復興の運動にしても、江戸三百年のあいだ絶えることなく生き続けてきた狩野派アカデミズムの地盤がなければ、おそらく不可能であったに相違ない。そしてその狩野派アカデミズムは、明治の初頭に、ふたりの優れた才能を生み出していた。江戸木挽町にあった狩野絵所の勝川院法眼雅信門下で「神足」と謳われていた橋本雅邦と狩野勝海(後の芳崖)がそである。事実、森大狂の『近古芸苑叢談』(巧芸社 大正十五年刊)や、狩野友信談「芳崖逸話」(『日本美術』第81号収載)の伝えるところが事実であるとするなら――そしてそれはおそらくきわめて事実に近いと思われるが――、フェノロサは当時の日本画の状況にほとんど絶望しており、明治十七年の第二回内国絵画共進会で芳崖の作品を見いださなかったら、あるいは日本画復興を断念してしまったかもしれなかったのである。そして、フェノロサにとって、芳崖との出合いが同時に狩野派の伝統との出合いであり、さらには東洋の伝統の生きた実例との出合いでもあったことは、あらためて言うまでもない(後にフェノロサは、「明治の偉大な中心的存在であった狩野芳崖は、呉道子が最初に響かせた偉大な楽器の最後の音をはっきりと打ち鳴らした人と見做し得るであろう」と述べている)。したがって、フェノロサや天心の歴史的役割を検討するに先立って、彼らのその役割を可能ならしめた狩野派の意義、就中その最後の代表者であった芳崖の役割りを振り返ってみる必要があるであろう。
芳崖と雅邦は勝川門下の同門の画家でありながら、性格的にはまったく対照的であった。雅邦が謹厳寡黙、きわめて理知的でしかも現実的感覚も充分に備えた温厚な人柄の人物であったのに対し、芳崖は直情径行、感情的、空想的で、気が向けば何時間でも一人で喋舌りまくるくせに、気に入らない相手に対しては口もきかないという激しい気性の持ち主であった。個人的タイプとしては、このふたりの芸術家は、次代こそ違え、洋画の黒田清輝と青木繁に対比できるかもしれない。一方は優等生タイプの現実派であり、他方は天才肌の破滅型である。雅邦の生活には黒田の場合と同様、人眼を惹くような派手な言動や奇矯な逸話はほとんどないが、芳崖の伝記には、青木の場合と同じように、虚実とりまぜてさまざまな伝説やエピソードがちりばめられている。
だが、そのような性格上の類似にもかかわらず、青木と芳崖とは、日本の近代美術史における歴史的意義という一点において、大きく異なっていた。青木繁が同時代の精神的風土を鋭敏に感じ取るだけの鋭い感受性を備えていながら、日本の洋画史において遂に黒田のような歴史の「主流派」になることができず、あくまでも「異端者」として止まったのに対し芳崖は雅邦と共にその後の日本画の展開に決定的役割を果たしているからである。黒田と青木は、その性格のみならず歴史上の位置においても対照的であるが、芳崖と雅邦は歴史的には同じ地点に立っている。私はそこに、芳崖と雅邦二人に共通していた狩野派の伝統の背景というものの働きを見ないわけにはいかない。もちろん、実際に芳崖の歴史的役割を演出したのは、フェノロサという一人のアメリカ人であった。しかし、そのフェノロサにしても、芳崖のなかに、「呉道子が最初に響かせた偉大な楽器の最後の音を打ち鳴らした人」を見出したからこそ、みずらか演出家の役を買って出たのである。フェノロサが、芳崖の背後に、ひとつの強力な伝統の存在を認めていたことはあきらかであろう。
芳崖の奇矯な性格を物語るエピソードは多くの人々によってしばしば語られているが、そのなかでもとくに興味深い貴重な資料として、「芳崖翁と私」と題された坪内逍遥の短い一文がある。これは、古川北華氏が逍遥に芳崖の印象を尋ねた時の返事として書かれたもので、その全文は、同氏の著書『狩野芳崖』(民族教養新書 元々社昭和30年刊)に収録されているが、そのなかに、例えば次のような一節がある。逍遥が春の朧月を阿弥陀如来に喩えた文章を新聞紙上に書いたのを見て、逍遥と何の面識もなかった芳崖がいきなり若い逍遥の許に訪ねて来る話である。
「……其二三日後か、或いはもつとずつと後であつたか記憶しないが、ある日、突然真砂町の宅へ訪ねてきた老人があつた。極粗末な羽織袴姿で、齢は五十七八で、腰には弁当箱をぶら下げ、たしか下婢に口上で姓名を言つて会ひたいと言ふ。どういふ人だか分からなかつたが、無論こちらは書生々活、だれにでも会ふのが例であつたから、客の間といつても、すぐ玄関の次の間へ通した。通るや否や『や、先日の如来さまは敬服です。全く如来さまに相違ない。あの通り通り!』といふのを序開きに主人には更に文句を言はせず約三十分程、突拍子もない、断片的の、支離滅裂の美術論やら芸術談やらのノベツ幕なし。いつの間にか、それが演劇の話に移ると、俳優では、何といつても、団十郎ですよ。さすがに偉い、うまいもんだ。併しあれほど心得てゐるやうでも、まだどうも歩き方がいけない。小松重盛が、それあの、西八条第へ、急を聞いて、馳せ附けたところの、あの花道の出だ。あの歩き方がいけない。(といふや否や老人は席を立つた)団十郎は斯ういふ風に歩く。(と弁当箱をぶらぶらさせて、八畳の小座敷をあちこち歩きながら)これがいかん。腰の据わりがない。あそこは是非斯うなくちやいかんので。……(とまた歩く)。
これが翁の第一次の訪問の時であつた。下女の取次で狩野某と聴いたので、多分画家だらうぐらゐには思つてゐたが、どういふ身分の人だかも、実は其際に分かりかねてゐたから、少々呆気に取られた気味であつた。翁は喋舌るだけ喋舌つて、万事独吞込で愉快さうにして帰つて往つた。
翌日になつて、私は有名な芳崖翁であることを知つた。又、芳崖翁の為人に関しては、其後、あちこちから聞いて、成程、常人ではないなと思つた……」
逍遥の筆になるこの描写には、物事に熱中し易く、自分でこうと思いこんだら他人の思惑などさらに構わない芳崖の直情径行な一面が生き生きと描かれている。このような彼の性格は、時にひとつのことばかり一図に思い続けてとんでもない失敗をやらかすという結果をもたらした。彼が肺を病んだ時、にんにくを食べたら大変効果があったので、それからはすっかりにんにくの信者になり、自分の家の前には寸余の土地も余さずにんにくを植え、つねづね袂にいっぱいにんにくを入れて人前でもどこでもそれを食べていたとか、弟子のひとりが歯が痛くて苦しんでいた時ににんにくをつけたら良いと大真面目ですすめて、弟子の方は却って痛みがひどくなり、大いに芳崖を恨んだとかいったようなエピソードは、彼の伝記を読むと枚挙にいとまないほど出て来る。(のみならず芳崖は、会う人誰にでもにんにくの効果を説いて無理にでも食べさせようとした。逍遥もその犠牲者のひとりであったことが、前記の文章に述べられている)
上に引いた逍遥の文章にも彼が弁当箱を腰にぶらさげていたことが書かれているが、些事に拘泥しない芸術家肌の彼は、外へ出るといつも何かと忘れ物をして来るので、弁当箱でも、扇子でも、何でも腰や羽織の紐に結びつけていたという。また、ある時など、島津家に茶の湯に招かれ、草履のまま平気で座敷に上りこんで、後で帰る時、玄関に自分の履物がないといって訝ったというエピソードも伝えられている。
さらに、逍遥の文章からもうかがわれるように、芳崖は文学や演劇にも深い関心を寄せ、自ら松本金太郎について能舞を学んだりする多才ぶりを示した。このような点も文学青年であった青木繁とよく似ており、もっぱら絵画一筋に精進した優等生型の雅邦や黒田清輝とは対照的である。能舞に熱中していた頃は、常住坐臥つねにそのことばかり考え、ある日、牛込柳町あたりを歩いていた時、急に扇子を出して声高々と謡い出し、路上で一曲舞い納めたといった話が伝えられている。その時、通りがかりの人々は一体何事が起こったかと吃驚したが、芳崖自身はまったく平気で、舞い終わると、「実に気持ちがよかった、今迄いくらやってもあの扇子を開いてすつと出す呼吸がうまく行かなかつた」と語って、けろっとしていたという。
この種の逸話は、実は挙げ出せばきりがない。だがここでは、そのような逸話を紹介することが目的ではない。これらのエピソードを通してうかがわれるような芳崖の性格が、彼の作品にどのように反映され、彼の仕事をどのように規定して行ったかを探ることが本稿の主要な目的だからである。
上に見たようないくつものエピソードがわれわれに予想させるものは、豊かな想像力に恵まれた奔放自在な画家の姿である。彼の多彩な才能と激しい性格とは、狩野派の厳しい技術的訓練の枠のなかでも、いや、そのような制約があればなおのこと、その作品に独自の力と気迫とを与えずにはおかなかったであろう。まして芳崖は、勝川院の許に学んでいた時、勝川院が依頼を受けた下谷摩利支天堂の襖絵を描く手伝いを命じられ、狩野派の古式からはずれた配色をして破門されかかったほど自己自身の表現に忠実であった芸術家である。この時は、同門の雅邦たちのとりなしでやっと破門だけは免れたが、勝川院から激しい叱責を受けた。叱責が終わって室外に退出すると結城正明が心配してどうして叱られたのかと尋ねた。芳崖は平然として、「師匠は絵を知り玉はず」と答えたという。
事実、彼の作品の優れたものには、このような自身、覇気、奔放な性格が遺憾なくあらわれている。例えば東京の島津家所蔵の有名な「鍾馗図」や、伊藤博文に贈った「鷲の図」、あるいは、きわめて単純な白猫で一気呵成に描き上げたような「獅子舞図」などに、それははっきりとうかがうことができる。明治十九年の鑑画会第二回大会で一等賞を得た「仁王捉鬼」のように時間をかけて丹念の描き上げた作品―-これは、場所によっては十一回も塗り直したといわれる――ですら、発想の新鮮さとは破格の色調構成によって、芳崖の激しい性格にふさわしい力強さを備えたものとなっている。だがそれでは、彼の全作品のなかで最も広く世に知られており、誰しもがその代表作として疑わないあの畢生の大作「悲母観音」(東京芸術大学所蔵)の場合はどうであろうか。
私も、芳崖の絶筆となったこの作品が、彼の代表作であることを否定するものではない。のみならず、それは明治以降の近代日本画の主要な方向を規定したという重要な歴史的意味を担っている。芳崖の作品のうち、ただひとつ、この「悲母観音」だけが重要文化財の指定を受けているということも、その意味からすれば当然と言ってよいであろう。
だがしかし、それにもかかわらず、私の中には、「悲母観音」を無条件に「傑作」と認めることをためらわせる何かがある。私はこの作品に接するたびに、その見事な線描表現や、豊かな色彩や、複雑な構成の妙に感嘆の念を覚えながらも、最終的にどこか納得しきれない何かが、おりのように心の中に残るのを感じないわけにはいかない。その「何か」が、私とこの作品との完全な触れ合いを妨げるのである。
といってそれは、例えば高橋由一の「花魁」図に感じたあの違和感とは、はっきりと別のものである。「花魁」図の与える違和感は、あきらかに油絵としては破格なその色彩表現に由来するものであった。しかもその色彩表現は、破格でありながら私自身の心の中に共鳴板を見出だすようなものであった。だが「悲母観音」の場合は、それほどはっきりした理由は、少なくともその均整のとれた画面にはどこにもなかった。色彩表現にしても、それは狩野派古来の法則から言えば「破格」であったかもしれないが今日のわれわれの眼から見ればきわめて正統的であり、むしろ常識的ですらある。デッサンはよく統制された筆使いで細部にまで神経が行き届いているし、構図も後に見るように呉道子(?)の作品を直接受け継いでいるだけに、大胆なように見えて少しも破綻がない。強いて言えば、「悲母観音」はあらゆる点において、破綻がなさ過ぎる。それは、あまりに完成され過ぎているのである。
もちろん私は、この作品のどこかに乱れがあったらもっと良かったろうなどと言っているのではない。破綻がないということは、芸術作品においては、たしかにひとつのメリットであって、少なくとも非難さるべきことではないであろう。だがそれは、決して唯一のメリットではないし、おそらく最高のメリットもない。「悲母観音」は、その完成度の高さにおいてきわめて優れた作品でありながら、あらゆる点で完璧であることに作品の最高のメリットがあるというまさにその点において、私に何かもの足りない思いを抱かせるのである。」高階秀爾『日本近代美術史論』1980年、講談社文庫。pp.146-154.
幕藩体制の保護を受けて禄を受ける武士だった狩野派絵師たちは、明治維新で生活の基盤と身分を奪われ、困窮に陥ったのは、能楽師や廃仏毀釈に遭った僧侶なども似たような境遇にあった。アーティストとして生き残るためには、何らかの新時代に対応する「近代化」が必要だった。それは日本画の場合、狩野派アカデミズムのなかから芳崖という天才とその価値を認めたフェノロサを必要としていた。
B.「あなた」あっての「私」
最首悟さんという名前は、ぼくにはあの70年前後の東大闘争のなかで、東大の生物学の助手として全共闘運動に関わった(助手共闘)人として記憶されている。山本義隆氏とともにいわば「知的で誠実な兄」のような印象を受けた人だが、東大教養学部ではその優秀な研究者でありながら助手のまま据え置かれ、やがて和光大の教員をしながら、障害者の娘さんの世話を続ける生活について、人間の生き方を問う発言をしてきた人である。新著が刊行されたというインタビュー。
「新著「能力で人を分けなくなる日」刊行 最首 悟 さん (生物学者・思想家)
生きることは何か、そこに価値はあるのか。生物学者、思想家で和光大名誉教授の最首悟さん(87)が、10代と語り合った新著「能力で人を分けなくなる日-命と価値のあいだ」(創元社)が今月初めに刊行された。水俣でのフィールドワーク、重度障害者の娘との暮らしの中ではぐくんだ思想を、若者に易しく説いて聞かせている。「世代を感じることなく語り合えたと思います」と孫ほど年の違う相手との対話を楽しんだ様子だ。
最首さんと車座になって向い合ったのは中高生3人。学校生活や社会問題について、さらに生と死について語り合った。「自分探し」に話が及ぶと〈まだ見つからない〉〈自分がどうしてもわあ駆らない、っていう状態に気付いて、探し始めてしまう〉との率直な告白も。3人の意見を受け止めた最首さんは〈私たちのいちばんの根本は「人に頼る」ということ〉と諭したりする。
「頼り頼られるのはひとつのことです。一報が自立したり、一方に依存していたり、ということはありません」。最首さんの声は確信に満ちている。人の単位は1人ではなく、最低2人。「私」という存在がまずあるのではなく、「あなた」との関係がまずあって、「私」ができていく。最首さんが提唱する「二者性」の概念だ。
「『人間』は『人のあいだ』です。つまり関係を指している。人がいて関係しあい、繋がり合っていることを含めて『人間』というのではないか」
こうしたことは三女の星子さん(47)との暮らしの中で気付いたことなのだという。星子さんはダウン症で生まれ、言葉はなく、目も見えない。食事や身の回りのことは、最首さんと妻五十鈴さんの介助に頼っている。〈どんな人でも、どんな動物でも、私にないものを持っている。(中略)そういう存在に頼る。それをきずなとして生きる〉(同書)。「星子は何もできないですけれど、
いるだけで影響力をもっている存在。私たちが星子に頼ってるんですね」
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1936(昭和11)年、福島県で生まれ、3歳の時家族で東京へ。子供のころはひどい小児ぜんそくで、戦時中だった小学生のころが一番きつく、卒業するのに9年かかった。生きることに「もういいよ」とあきらめたくなる一方で、生きたいとも思った。「私の勝手にならない私の命。自分の理解を超えたものを受け止めるという経験が、それから後の人生の下地になっている」
東京大に進み生物学を専攻。同大助手時代の77年から、水俣病の被害者や地域住民から話を聞く研究社集団「不知火海総合学術調査団」に参加した。小説家・詩人の石牟礼道子から懇願されたのだ。森羅万象がともに生きる豊かな世界を描いた石牟礼の影響を受け、水俣のアニミズムに分け入った最首さん。「東洋的な『縁』の複雑なネットワークの中に、私が入っていくイメージ。のちに『人間』への関心につながっていきます」
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2018年4月、「津久井やまゆり園事件」の植松聖被告・現死刑囚から手紙が届いた。知的障害者施設の入所者ら45人が殺傷された事件を受け、メディアで積極的に発信する最首さんを知ったのだろう。手紙には「国債(借金)を使い続け、生産能力のない者を支援することはできません」という植松死刑囚の歪んだ優生思想の根っこに、社会にはびこる能力主義の断片を見る。「重視されるのは、自立した個人の能力。その人をめぐる関係性は捨て去られてしまっている」。最首さんは今も植松死刑囚に手紙を送り続けていっる。
星子さんに言葉はないが、よく声を発するという。寝ている時に「ウフフ」と声に出して笑う。「とても心地よさそうにして。妻と『何を見てるんだろうね』と顔を見合わせます。私たちにはわからないけれど、多分、幸せに近いものを見ているのでしょう」
最首さんは星子さんの入浴担当だったが、最近は体力が厳しくなり、入浴サービスを頼んでいる。取材を終え、星子さんの部屋におじゃますると、ちょうど入浴の後で、ぐっすりと寝ているところだった。 (栗原淳)」東京新聞2024年4月20日夕刊5面土曜訪問欄。