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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

「3人娘」伝説6  加藤和枝がひばりになった  長いコロナ禍の反省

2022-01-31 02:42:13 | 日記
A.焼け跡闇市世代のアイドル?
 今回初めて知ったのだが、「ひばり本」というのは10冊くらいあって、本人の書いたものも複数あるが、男性の書いたものはどれも「ひばり」を熱烈に崇拝しているのだけれど.、その「ひばり」とはデビューした少女時代から20歳くらいまで、つまり1949~1957年、昭和でいえば24年から32年あたりまでの「ひばり」の唄に関心が集中している気がした。そこを超えているのは、やはりひばり母娘と私的に心を通わせた芸能ライターでアナーキストの竹中労の「完本 美空ひばり」ちくま文庫、2005だと思う。ただこれは相当くせのある著者なので、余計なことがいっぱい書いてあってすっきりは読めない。でも、とりあえず焼け跡闇市世代、つまり戦争には子どもだったので軍隊には行かなかったが、疎開児童でひもじく飢えて空襲爆撃で親や兄弟を喪ってひどいめにあった人たち。その人たち、とくに男たちにとって、美空ひばりという存在が、進駐軍による旧体制の駆逐とアメリカの威力に揺さぶられながら、自分たちの時代を哀愁と貧困に彩られた場所から飛躍するアイドル(当時アイドルという言葉はなかったが)にしていた、ということを改めて想像する。
 竹中労、野坂昭如、五木寛之、小沢昭一、ぼくはこの戦後闇市疎開世代とは一回り遅い戦後生まれなので、想像はしてみるが、いっこうに共感できるものがない。ということは、天才少女歌手美空ひばりをリアルタイムでは知らない。ぼくが知っているのは、芸能界に女王として君臨した中年女性の美空ひばりであって、「ひばり本」を書いた人たちもいまやあの世に行ってしまったわけで、だから、今美空ひばりを考えてみることは、歴史的な意味はあるんではないか、と思ってみたりする。

 「1937(昭和12)年。中国との戦争がはじまった年の五月二九日、美空ひばりは、横浜市磯子区滝頭町で生まれた。
 本名、加藤和枝。父、増吉。母、喜美枝。
 家業は魚屋で、屋号を「魚増」 といった。
‥‥滝頭は横浜の場末。商店街と住宅街の入り組んだ、ごみごみした下町だった。ひばりの生家は、「屋根なし市場」と呼ばれるマーケットの中にあった。ハモニカのように並んだ店の間口も奥行きも狭いので、軒先から道まで品物をひろげて売っている。だから「屋根なし」である。
 そのころ磯子一帯は、埋め立ての新開地だった。毎日新聞横浜支局の『横浜今昔』(昭和32年発行)によると、「磯子の今日を造りあげたのはなんといっても埋め立てにある。埋め立ては明治40年ごろに始められ、大正2年に完成した。滝頭にあった刑務所の囚人を人夫がわりに使って工事は進められた。今のように機械化されていない時代のことで大事業といってもすべて人間の手で行われた。山に深さ五間、一〇間というトンネルを、五つも六つも掘って、山のシンを痛めつけ、山が崩れ落ちる寸前にトンネルから走り出て逃げる。そして崩れた岩屋土をトロッコに積んで海に捨てる。職人の技術といえば技術だが、勘にたよる工事だけに、山がくずれるとき逃げ遅れて、生き埋めになった人も、数多かった‥‥」
「屋根なし市場」の裏は刑務所あとの草ぼうぼうの原っぱで、その先のアスファルト道を市電がのろのろと走っていた。
 停留所を二つゆくと市営の魚市場(八幡橋)、そこからすぐに海がひろがっていた。滝頭の子供たちは水着一枚で、歩いて泳ぎにいった。海岸のベットリした砂地を掘ると、赤い虫がとれる。それを餌にして、ボラの子やハゼが釣れた。
 秋になると、原っぱの空にヤンマの群れがとぶ。子供たちは、たこ糸の両端に鉛のおもりをつけたのを空にほおって、トンボを捕った。
 そういう場末の町で、ひばりは言った。そこには文明にまだ汚されない自然があり、素朴な人の心があった。「屋根なし市場」の人びとは、あけっぴろげな近隣の気安さで連帯していた。貧しくてもほがらかな、そこは庶民の世界であった。
 ひばりは生まれたとき2500グラム、難産で頭部の前後が人並みよりも長かった。つまりサイヅチだった(いまでも彼女には出来あいのカツラが合わない)。子ほめにきた隣家の荒物屋の主人が、家に帰ってから「金ヅチが見当たらぬときは魚増の赤ん坊を借りてきて代用品に使えばよい」と笑った。壁ごしにそれを聞いたひばりの父親が、カンカンになって怒鳴りこむ。万事、そんな具合だった。
 隣近所の話が筒ぬけになるような、へだてのない、そして、いささか落語的な「屋根なし市場」の風景をぬきにして、美空ひばりを語ることはできない。ひばりは正真正銘の街の子であり、大衆の子だった。彼女の「原体験」は、戦火に破壊される前の日本の庶民社会で形成された。
 そのころ街には、古賀政男のいわゆる「古賀メロディ」が、ギターの絃に哀傷の旋律をのせて流れていた。『影を慕いて』(1929年発売)、『酒は涙かため息か』(1930年)でデビューした古賀は、『丘を越えて』『うちの女房にゃヒゲがある』『人生の並木道』『人生劇場』などを作曲して、名実ともに、歌謡界の第一人者の地歩を築いた。それらの記念碑的な歌曲は、やがて1965年、美空ひばりによってリバイバルする。
 ( 中 略 )
 ひばりの父親――加藤増吉氏は、多芸であり多趣味であった。ギターが得意で、都々逸や端唄は玄人はだしの節まわしだった。そして、熱狂的な浪曲のファンでもあった。
 1937年、その前年六月に内務省が発禁にした『忘れちゃいやよ』(最上洋作詞 渡辺はま子唄)がようやく下火になって、広沢虎造『石松代参』の名調子が全国を風靡していた。〽バカは死ななきゃなおらねえ‥‥というあれである。
 増吉氏はみずから清水次郎長を気どって、店の若い衆二人に、小政、石松と異名をつけるほどの気の入れようだった。ひばり五歳のとき、その石松が、友人と「市電にぶつかって死ぬか死なぬか」というバカな賭けをした。そして、ほんとうに電車に体当たりを敢行して、冥土へ旅立ってしまった。そんなすっとんきょうな、“身命を鴻毛の軽きに置く”日本男児が健在だった時代である。男一匹、「たとえどんなにチッポケでも、てめえの城ってものを持たなきゃいけねえ」というのが増吉氏の口ぐせだった。
 増吉氏は、栃木県の農村(河内郡豊岡村)の四男坊である。一六歳のときに横浜に出てきて、魚屋に奉公し、二二歳で独立して自分の店を持った。東京山谷の石炭卸商の長女であった希実枝さん(旧姓・諏訪)と見合い結婚したのは、二四歳の秋。戦前の社会で、田舎からポッと出の若ものが、たとえ九尺二間にもせよ「自分の店」を構えるのは、なみたいていのことではなかったのである。
 いわば立志伝中の人である増吉氏は、なかなかエリート意識がつよく、「屋根なし市場」の文化人をもってみずから任じていた。
 東海林太郎そっくりの男前だったし、宵ごしの金は持たないという気っぷであったから、増吉氏は、花柳のチマタで大いにもてた。都々逸、端唄などの「教養」は、そこで身についた。
 ひばりは回想する。
「‥‥‥私のお父さんって人はよくいえば粋な人、はっきりいっちゃえば道楽ものだった。仕事もするかわりに遊びも派手で、母をずいぶん泣かせたものです。そのくせ、私が芸能界に入るときには大反対でした。歌うたいなんか、河原コジキのすることだって、死ぬまで頑固なことをいってました。でも、私に“芸”の手びきをしてくれたのは、その父だったんです。こうして目をつぶると、店の上がりかまちのとこに腰かけて、ポロロンポロロンてギターを爪弾いている父の姿がうかぶんです。“お父さんって芸人だなあ”って、思ったものでした…」
 美空ひばりの最初の「歌の記憶」は、百人一首の朗詠であった。
 1940(昭和15)年――皇紀二千六百年の前夜に復古調の波にのって、小倉百人一首が全国津々浦々に流行した。増吉氏は、さっそく町内の若い男女を集めて、盛大にカルタ会を開いた。「魚増」の店先からは夜も昼も、みやびやかな(?)うた声が流れた。小政がサバの切身をつくりながら「あひみてののちの心にくらぶれば」と上の句をかけると、石松がマグロのあらを皿に盛る手を休めて「昔はものをおもはざりけり」と下の句をうける。
 そんな掛け合いの途中で、「めぐりあひて見しやそれともわかぬまに」という紫式部の恋歌の下の句につまっているのを聞いて、そばにいたひばりが、「雲がくれにし夜半の月かげ」すらすらと後をつけた。満三歳の冬である。
 おそろいた増吉氏が、ためしに上の句をたてつづけに読みあげると、ひばりは百句のうち七十五句まで、よどみなく暗誦することができた。むろん、意味などわかりはしない。呂律で、耳におぼえていたのである。
 このエピソードは重要である。たんに天才的な「暗譜(誦)」の非凡な才能があったというだけでなく、やがて大衆芸術家・美空ひばりを形成する原体験を、ここに見ることができる。ギター、都々逸、そして、百人一首、‥‥‥父親の「道楽」は、幼いひばりの魂に日本の音律を刻んだ。
 百人一首の朗詠が持つ、素朴な七五調の抒情は古来、私たち民族の情動を支配してきた。それは祭文、筑前びわ、浄瑠璃など、さまざまに分化した「語り」の音曲の原型である。日本人の哀傷、詠嘆、かいぎゃく、その他もろもろの詩的感情を表白するのに、もっとも適切な音律がそこにある。」竹中労『完本 美空ひばり』ちくま文庫、2005年.pp.16-22. 

 焼け跡闇市的に屈折していた竹中労にとって、美空ひばりが体現していたものは、権力におもねる気取った文化人インテリや大手マスメディアが決して正当に評価しようとしない大衆芸能の象徴なのだ。吉本隆明的にいえば「大衆の原像」そのもので、それゆえにひばりはどこかいかがわしいアウトロー的匂いをもって描かれる。でも、その後の高度経済成長の飽食のなかでは、ひばりの唄はただ資本主義の爛熟のなかで朽ちてゆく紅白歌合戦的歌謡曲芸能界の女王として、葬り去られる運命にあったのかもしれない。 
 なので、次回はもっと単純にわれらがヒロイン、ひばり讃美で書かれた文章をあげてみる。


B.どこまで続く…ぬかるみぞ
 去年の今頃も、落ち着くはずのコロナ感染者が激増して、またまた緊急事態宣言、医療崩壊かと騒いでいたことも、遠い記憶だ。なんだか、危機状況も何度も繰り返されるとなんだかわけがわからなくなって、もう誰もまともに何かをする気も失せてしまう。天気予報のように、毎日今日の感染者数は東京で1万五千人とかいわれても、ふ~んずいぶん増えたな、と思うだけで驚きはない。一日1万人なんて去年の今頃だったら衝撃的な数字だったはずだが・・・。

 「月刊安心新聞:どうみるオミクロン株 制御の実感 リスク認識左右:神里達博 
 世界は今、「オミクロン株」拡大の最中にある。この状況を私たちはどう理解すべきなのだろうか。
 これまでのところ、以前の株に比べ、感染しやすく、潜伏期間が短く、重症例の割合が小さいことが分かっている。しかし感染者数が著しく増えれば、割合が小さくても重症者の数は増加する。そのため医療資源の逼迫も懸念されているが、これは感染者数と重症化率の「かけ算」の問題である。それぞれの値の、今後の推移の見通しが得られなければ、正確な予測は難しい。
 二つの数字のうち「重症化率」については、デルタ株などと比べて低いことは確実視されている。従来型との顕著な違いとしては、この株が肺では増えにくいという点がある。
 その原因についても、最近、新たな仮説が提示された。新型コロナウイルスは、増殖する際に人体に元々存在するある酵素を利用する場合がある。これは肺に多く、鼻やのどなどの「上気道」には比較的少ない。
 ところが、オミクロン株は変異しすぎたためか、この酵素と結合しづらくなったらしい。そのため炎症が上気道中心となり、肺炎になりにくいことから、重症化しにくく死亡率も低いようだ。
 だが、もう一つの数字「感染者数」については、不確実性が大きい。そもそもオミクロン株では軽症者が多いため、感染したことに気づかない場合もあると考えられる。また感染爆発により検査自体が間に合っていないケースもあるだろう。
 そうなるとやはり、信頼すべきデータは死者数ということになる。そこで、先週1週間について、COVID-19による国別の人口当たりの死者数を計算し、比べてみた。すると上位に来る国は、ほとんどが欧州と南北アメリカであった。昨年11月の本コラムで少し触れた通り、アジア・アフリカなどでは比較的少なく、欧米に多いという傾向は、現在も基本的に変わっていない。
 たとえば米国では先週、平均で1日約2千人が亡くなった。これは2年前の4月、ニューヨークが危機的状況に陥った頃の死者数と同水準である。人口当たりで日本と比較すると、米国では約85倍の人命が先週、新型コロナで失われたことになる。
  •       *       * 
 リスクコミュニケーションにおいては一般に、原因や性質が異なるリスクを安易に比較すべきではないとされている。そのことを踏まえた上で、改めて考えてみたいのだが、2001年の「同時多発テロ」の直接の犠牲者は、約3千人であった。不謹慎な言い方に聞こえるかもしれないが、現在の米国での新型コロナの被害規模は、犠牲者の数としては、3日に2回のペースであのテロが起きていることに相当する。
 率直に言って、米国社会は大丈夫なのだろうかと不安にもなる。しかし、米国ではむしろ、「コロナも終わりに近づいてきた」という前向きな認識が、同時に広がりつつあるようにも見えるのだ。
 日本でもオミクロン株の登場以降は、同様の話を聞くことが増えたとも感じる。だが今のところ日本と米国では、先ほど触れた通り、被害のレベルがまさに「桁違い」である。なぜ私たちから見て米国はこうも楽観的に見えるのだろうか。あるいは日本が心配し過ぎなのだろうか。
 リスクについての研究分野は多岐にわたるが、リスクの認知に関する心理学的研究は、一つの主要な領域となっている。そこでは、人々がどんなリスクならば引き受けるのか、どんなリスクを大きく、あるいは小さく見積もるのか、といったことが実証的に検討されてきた。
 その中で明らかにされた再現性の高い知見として、「能動的なリスクは、受動的なリスクに比べ、はるかに高いレベルでも受容される」、というものがある。
 例えば登山は、統計的に見るとかなり危険なスポーツに分類されるのだが、自発的に行うものなので、広く受け入れられている。自動車の運転でも、助手席に乗る人よりもドライバーのほうが、リスクを低く認識する傾向があるようだ。つまり対象を自分がコントロールしているという実感こそが、重要なのである。
 この理論を踏まえると、米国では日本と比べ、コロナの問題を自分たちが制御できていると認識している人が多い、とも考えられるだろう。
  •       *       *  
 自分の生活や共同体を、自らの手で作りあげているという実感があれば、つまり自分自身が「人生のドライバーだ」と思える人が多ければ、より多くのリスクを引き受けられる、ということなのかもしれない。
 これは、近代的で民主的な社会の理想に適う面もあるだろう。自由や主体性はとても大切な価値である。しかし私は同時に思うのだ。もし可能であるならば、人の死は、やはり全力で避けるべきではないか、と。
 理由が不明確な部分はあるものの、少なくとも欧米との比較では、日本がコロナの制御に基本的に成功してきたのは確かだ。一方で、この2年間の政府のコロナ対応には、批判すべき点も多々あったし、また市井の人々の考え方もさまざまだろう。
 だから話は単純ではないのだが、それでも、私たちの社会が総体として、諸外国と比べて慎重なコロナ対応を選んできたならば、それを恥じる必要は全くないと思うのだ。
 オミクロン株の出現で、コロナ対策も局面が変化しつつある。いずれにせよ、リスクへの対応は、私たちがどんな社会を目指すのかという、根本的なところから考え始めなければならないのは、間違いない。」朝日新聞2022年1月28日朝刊13面オピニオン欄。

 なるほど、世界的に比較すれば、日本はこのコロナ禍にかなり少ないダメージで乗り切ったということになるのかもしれない。それは、国民が政府の施策に従順で、むやみな自己主張をしなかった結果なのか、それとも欧米に比べもともと人間の密な身体的接触をしない文化だからなのか、いまはまだ結論は出ない。でも、この2年以上にわたるコロナ禍の経験は、これからの日本社会にどんな心理的影響を残すのか?そこは社会科学の問題だとおもう。
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「3人娘」伝説5  江利チエミの死  離島が戦争に…

2022-01-28 21:52:50 | 日記
A.スターの不幸
 ひばり・チエミ・いづみの「3人娘」は、同じ年に生まれ、同じ天才少女歌手としてデビュー、そして互いに厳しい戦後の芸能界で活躍し、競い合いながら似たような境遇ゆえに、親友として励まし合って成功した。歌だけでなく映画やテレビでいろんな役を演じて演技者としても知られた。ある意味、社会がどんどん豊かになっていくなかで、彼女たちは戦後社会の明るい側面を反映していた。しかし、結婚し離婚するあたりから、人生の影の部分がしだいに露わになってくる。じつは彼女たちは、貧しい家庭と親や兄弟の生活のために、小学生の頃から歌を唄って仕事をし、少女の身で必死で一家を支えてきたために、幸福な学園生活も普通の穏やかな友人関係も縁がなかった。そして、一番早く結婚して夫のために芸能界は引退すると言っていた江利チエミは、結局最後までミュージカルや映画やテレビなどで歌手として働き続け、ある日突然、この世を去ってしまう。その日のことは、かなり詳細に語られている。

 「電話に出たのは、法道の弟子だった。チエミは自分がつけた子犬の名前がよほど気に入っているのか
「法道ちゃん、ル~イって優しく呼ぶのよ。絶対に、可愛がってネ」
 昨日の今日である。法道は急いで応対に出ると、電話の相手はチエミではなく由利に代わっていた。
「チーちゃん、風邪は治ったの?」
「私は由利です。チエミさんはいま、風邪薬を飲んでいます」
 おかしな事に、互い違いの電話のかけっこのような応答であった。そんな会話を聞きながらチエミはもう一度言った。
「ル~イを可愛がってね」
 電話が切れた。
 チエミは、赤と黒のブルゾンに赤のブラウス、朱色のパンタロンのまま、仮眠をするようなしぐさを見せた。しばらくまどろんでから入浴し、着替えをすることが多い。
由利は、チエミがベッドに横になるのを見届けると、いつものパターンで、明日は午後二時に迎えにくると念を押して高輪ヒルズを後にした。

二月十三日――由利は、渋谷区幡ヶ谷の自宅を出て、地下鉄・泉岳寺駅を降りチエミのマンションへ向かった。
高輪ヒルズの玄関ロビーから、406号室を呼び出した。しかし、返事がない。寝込んでいるのかもしれない。そこで由利は、インターフォンでなく電話をかけた。何回も何回も繰り返すがやはり応答はなかった。
由利は、監理人に訊いた。
「チエミさん、ここを通りました?」
「いいえ、お見かけしませんでしたよ」
「おかしいなあ」
 この日、由利はチエミと共に東京を三日間留守にするので事務所の社長である夫の隆にチエミの部屋の鍵を預けてきた。愛犬のモンの世話をしてもらうためだ。
 部屋は、昨夜由利が鍵をかけて帰ったままの状態で人の気配はなかった。
 不吉な予感が走った。
 急いで連絡を取った事務所員から鍵が届いたのは、午後三時近く、隆は、チエミに何が起こったのか、全く分からぬまま午後四時の飛行機の搭乗は間に合わないので帯広の仕事先へ緊急連絡し、マンションに直行した。
 406号室に入ると、由利が放心状態で立ちつくしていた。
「どうしたの?」
 隆は、チエミの寝室である、十二畳の洋間に駆け込んだ。瞬間、血の気が引いた。
 チエミは、バルコニーに面したダブルベッドで身体を極端に窓側に寄せ、左手を右手の上に乗せて横向きに寝ていた。
「チエミさん!起きて!起きてください!」
 身体を揺すっても、チエミは答えてはくれなかった。チエミの動かない手を両手で握りながら、同じ言葉を叫びつづけた。 
「チエミさん‥‥‥」
 由利は、虚脱したように呟くとマリンブルーの絨毯のうえに倒れ込んだ。
「そんなわけがない。夢でしょう?何かの間違いだわ。これからやることがいっぱいあるのに‥‥まさか…まさか」
 ただひたすら夢であることを心の中で祈った。どうすればチエミが目覚めてくれるのか。チエミは笑っているように横になっている。昨日と今日とまったく変わっていない。変わっているのはチエミがちっとも動かないことである。隆の思いも同じだった。
 頭の中で言葉がきしみ、何をどうすればよいのか朦朧としていた。一刻もはやく時を昨日の状態に戻さなければならない。隆は、藁をもつかむ思いで119番した。
 医師と救急隊員が駆けつけ、閉ざされた空間がざわめきに変わったのは間もなくであった。チエミの身体はベッドから床に降ろされ、蘇生の作業が行われた。酸素吸入のための処置によってチエミのむくんだ皮膚のその箇所が剝がれるほどの緊急作業であった。
 チエミは夢から覚めることはなかった。舞台ではない現実の時の流れがそこにあった。死亡後、かなりの時間が経過しているようであった。愛犬のモンが鳴いていた。

 この日の朝、千駄ヶ谷宅で多紀子はチエミのヘア・デザイナーからの電話を受けた。
「チーちゃんが知り合いの結婚式に出る時の打ち合わせをしたいの、チーちゃんを連れて来てくれない?」
「はぁい。でも、今日は帯広に行くので、帰ってきたら連絡します」
 多紀子は、そう返事をした。チエミは友人の結婚式に出る時の髪型をヘア・デザイナーに頼んでいた。
「チーちゃんたら、自分がお見合いする時に合うような髪型にしたいって言うの」
「ほんとう。楽しみだわ」
 多紀子は、笑いを浮かべて言った。
 千駄ヶ谷宅には、山口県から多紀子の親類の伊藤光が訪れており、伊藤はかつてチエミが暮らしていた部屋を綺麗に掃除してくれていた。伊藤の娘が東京に就職することが決まり、チエミが住んでいたその部屋に寄宿するためだ。
「まあ、きれになって、新しいお部屋のようだわ」
 多紀子が言う。庭から寒椿を一輪折ってきた伊藤が花瓶にそれを飾りながら言った。
「不思議だなぁ。庭の土手のところに陽炎みたいな、靄みたいな白いものが風に揺れているんだよ。何だろう?」
「何でしょうね」
「春の陽炎かなぁ」
「寒椿がもうこんなにきれいに咲いていたんですね。そういえばチーちゃん、よく庭から取ってきてお部屋に飾っていた」
 二人はそんな会話を交わした。
 しばらくして、多紀子は山口へ帰る伊藤を東京駅まで送った。その東京駅の構内で、多紀子の名がアナウンスされたがその声は彼女の耳には届かなかった。多紀子が帰宅すると、玄関は脱ぎ捨てられた靴の山だった。
「何があったの?」
 多紀子は、益己に尋ねた。
「ママ、驚かないでよ。今、車で高輪ヒルズにパパを送ってきたんだ」
 益己は、言う。
「何で?」
「ちょっとママ、座って聞いて!」
「いいわよ」
「ママ‥‥お姉ちゃんが死んじゃったんだよ」
「もう一度言って?」
「チー姉ちゃんが‥…」
「ふざけないでよ。パパもチーちゃんも冗談ばかり言うんだら‥‥益己までそんな事を」
「警察から連絡があって‥‥‥本当なんだ」
「まさかあの陽炎が…」
 多紀子はそう呟くと、益己の車に乗って高輪ヒルズへ走った。
 マンション前は、数え切れないほどの報道関係者でごった返していた。多紀子が部屋に入ると、高輪警察署の担当官が木村隆、由利に事情聴取をしており、益雄は寝室の隣の居間で大きな肩を震わせていた。
「お父さん、お話を聞かせてください」
「‥‥‥」
 益雄は、警察官から何を聞かれても虚空をにらんだままで、何かに憑かれたようにブランデーグラスを口に運んだ。居間にはピアノが置かれ、ステレオ装置の脇には、チエミが最期に主演した二本の映画の台本があった。
「教育は死なず」と「命の輝き」のシナリオである。
 どちらも独立プロダクションによって制作され、チエミが主演した教育映画である。「教育は死なず」では、非行の生徒を信じ、体当たりでぶつかってゆく女教師を演じている。もう一本の「いのちの輝き」は差別問題をテーマにした作品で、部落出身の母親役を演じている。共に人間の生きる力の尊さを訴えた作品である。しかし、チエミの系譜からはみ出した観があり、メジャーでなかったので知る人は限られる。
 ボランティア活動で知られる俳優・杉良太郎が真っ先に駆けつけた。杉と共演した時代劇「新伍捕物帳」がチエミのテレビ出演の最後の作品となった。
 清川虹子は、新宿コマで島倉千代子の舞台に出ていた。午後の部の幕があがろうとした時、重苦しい気持に襲われた。清川は島倉千代子が演じる娘の母親役だった。しかし「千代子」と呼び掛けたはずなのに「チイコ」になった。島倉の顔にチエミの面影がかさなって見えた。何かが変わっていた。いつもなら冗談を言って笑わせる由利徹までが押し黙っている。」藤原佑好『江利チエミ 波乱の生涯 テネシー・ワルツが聴こえる』五月書房、2000年、pp.234-239. 

 1982年2月13日、今から40年前、45歳の急逝は早過ぎた。この彼女の最後の主演映画「教育は死なず」と「命の輝き」をぼくは見たことがない。40年の歳月は、あれほどのスターでももう忘れられてしまうほど、長い時間と世の中の変化が進行したのだ。


B.戦争にむけたお膳立てか
 戦争が勃発するきっかけは、些細な事件だったりするが、国際関係の緊迫は突発的に起こるわけではなくて、かなりの時間が費やされて国同士の一触即発の条件がなければ、いくらタカ派の政治指導者でも簡単に戦争のボタンは押せないと思う。いま進行している事態は、ウクライナでのロシアの動きや、北朝鮮や台湾をめぐる米中の緊張が高まるという形で、10年前よりずっと戦争へ傾斜する恐れが感じられる。問題は、日本政府はそれに対して、アメリカに追随して自衛隊を「有事」に使うつもりなのか、という点だ。つまり米軍と一緒に自衛隊が動けば、それは直ちに戦争に参加することを意味し、日本のどこかが武力攻撃を受ける可能性を開く。戦後75年、武力で国際紛争に関与してこなかった日本という過去を捨ててしまうということだ。その覚悟は、岸田政権にあるのだろうか?

 「離島の「戦場化」許されぬ 日米2+2共同発表:白鳥龍也
 外務・防衛担当閣僚による日米安全保障協議委員会(2プラス2)は、共同発表で「緊急事態に関する共同計画作業の確固とした進展を歓迎」と表明した。米軍と自衛隊は台湾有事を想定して南西諸島に展開する作戦の原案を策定しており、これを推し進める狙いがあるとみられる。島々が戦場化すれば、住民が巻き添えになるのは必至だ。犠牲を是認するような作戦立案は断じて許されない。
 作戦原案は、米海兵隊が2019年に打ち出した「遠征前方基地作戦(EABO)」に基づいて練られ、米軍と自衛隊は昨年十二月、北海道と東北で共同訓練を行った。
 台湾海峡の緊迫の度合いに応じて、海兵隊は小規模部隊を複数の離島に分散して展開し、臨時のミサイル、航空基地などを構築する。中国の海洋進出を阻止するのが主眼だ。日本政府が、日本の平和と安全に対する「重要影響字体」と認定した段階で、自衛隊はまず兵員や物資輸送、弾薬提供、燃料補給などの後方支援を行うことになろう。
 海兵隊展開の候補地は、二百近くある南西諸島のうち約四十カ所に上るようだ。大半が有人島で、中でも陸上自衛隊がミサイル部隊を配備している鹿児島県の奄美大島や沖縄県の宮古島、配備予定の石垣島は有力となる。
 米軍の展開先は当然、中国から狙われる。海兵隊は攻撃から逃れるため島から島へ移動するとされるが、それだけ標的となる範囲は広がる。
 自衛隊が後方支援とはいえ米軍と一体化して作戦を行えば、自衛隊基地も狙われる。2プラス2では、南西諸島の自衛隊基地を中心に日米の共同使用施設を増やすことでも一致しており、離島の戦場化がより現実味を帯びてくる。
 米軍の拠点を新設するには土地使用や国民保護の法整備も必要になるが、狭い島で住民の安全な避難場所をどう確保するかまで考えて作戦が立案されるとは到底思えない。
 法整備や国会での議論に先んじて、日米の軍事当局のみで住民を巻き込む可能性が高い作戦計画を立てるとすれば、文民統制(シビリアンコントロール)の危機でもある。
 日米両政府が台湾有事を念頭に安全保障面で連携を強める背景には、中国の海洋進出や台湾に対する軍事的圧力があるにせよ、日米共同の作戦計画立案や共同訓練は、中国側には挑発的な行為と映るのではないか。
 安倍晋三元首相は昨年十二月、台湾関係の会合にオンライン参加し「台湾有事は日本有事」と述べた。麻生太郎元首相も、台湾有事は「存立危機事態」に当たり、集団的自衛権の行使もあり得るとの認識を示したことがある。
 ともに、台湾を巡り米中が衝突すれば、日本も戦争に参加することになる、との趣旨だが、危機を煽るのではなく、台湾海峡の平和と安全に向けた外交努力を促すのが、首相経験者としての役割ではないだろうか。(論説委員)」東京新聞2022年1月26日朝刊、6面視点欄。
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「3人娘」伝説4  再度 江利チエミ  国語と小説

2022-01-25 22:31:19 | 日記
A.ビッグスター・江利チエミ
 これも今は忘れられつつある事だが、江利チエミが結婚した相手は、東映の俳優高倉健だった。3人娘のなかでは一番早く結婚したのだが、当時は高倉健は東映がチャンバラ時代劇から任侠路線へ切り替えたころで、やがてヤクザ映画のヒーローとして人気が出てくる健さんだが、結婚した頃はまだスター俳優ともいえない存在で、明らかにチエミのほうが歌でも映画でもビッグスターだった。二人が知り合ったのは映画でたった一度共演したことからだが、彼はそれを承知で誠実に結婚生活を営み、自分は俳優としての演技に打ち込む道を進んでいった。そして、二人にとって幸福な時は長く続かず離婚に至る。そのへんの事情は、この藤原佑好『江利チエミ 波乱の生涯 テネシー・ワルツが聴こえる』でもちゃんと書かれているように、性格の不一致とか愛情の行き違いとかといった、芸能人の離婚にありがちな話ではなく、二人の愛情と信頼には問題はなかったようだ。まったく別の問題、つまりチエミの異母姉が起こした大きな借財が原因だったという。チエミは自分ひとりで借金を返すため、離婚し家を売り、必死で働くことになる。

 「昭和三十八年。東京宝塚劇場の九月公演に江利チエミ主演のブロードウェイ・ミュージカル「マイ・フェア・レディ」(菊田一夫演出。高島忠夫、八波むと志共演)のアンコール公演が決まったのは、本格的な日本ミュージカルの幕開けといってよい。
 田舎訛りのはげしい花売り娘イライザが、ヒギンズ教授の指導で正しい言葉づかい、身のこなしをわきまえ社交界にデビューし、素晴らしいレディになってゆくストーリーだ。イライザ役にチエミが選ばれた。
 チエミは以前、渡米したニューヨークで「マイ・フェア・レディ」や「キャメロット」や「カーニバル」などのミュージカルを見ていたが、日本公演が近づいた六月、兄トオルを伴ってニューヨークに飛んだ。ふたたび本場の雰囲気に浸って自分のステージに役立てようと思ったからだ。
 チエミは、極度の緊張と不安にさいなまれつつ、レッスンを積むことでそれをはねのけようと努めた。そして、初日の幕が下りた時、いつまでも鳴り止まない観客の拍手を聞いたのである。
 チエミは舞台の袖にいた父の益雄の大きな胸に飛び込んで声を上げて泣いた。そんなイライザを共演者、スタッフが囲んで拍手を送ってくれている。
「みなさん、ありがとう!」
 チエミは観客から贈られた花束を一人ひとりに配りながら素敵な美女となったイライザの上品なお辞儀のしぐさで、キスをまじえながら感謝の気持ちを現した。
 こうして上演された東京宝塚劇場の舞台は、米誌『スターズ・アンド・ストライプス』が劇評で絶賛するできばえであった。「マイ・フェア・レディ」はその年のテアトロン賞を受賞する。
 この年、チエミにはもうひとつの大役が残されていた。大晦日の慣例行事となっているNHK「紅白歌合戦」への出場である。 
 1951年(昭和二十六年)、紅白各七組で始まったこの番組の第四回目(昭和二十九年)に、チエミは初出場し「ガイ・イズ・ア・ガイ」を歌った。ちなみに美空ひばりが「ひばりのマドロスさん」で初出場したのはその翌年である。第七回目(昭和三十二年)では、雪村いづみが急病のため出場できずチエミが二回歌ったという記録がある。
 そして第十四回目(昭和三十九年)、男女を通して最多出場歌手ナンバーワンであったチエミは、歌手として出場するとともに(曲は「マイ・フェア・レディ」の中の一曲、「踊り明かそう」)、初めて司会を務めたのだ。紅組・江利チエミ、白組・宮田輝アナウンサー。紅組のトリは美空ひばりの「哀愁出船」であった。優勝は紅組チームの頭上に輝いた。
 一月一日の早朝だった。高倉とチエミは、まだ明けやらぬ武蔵野の高台にある自宅を出て行灯坂を三百メートルほど下ったところにある法徳寺の門をくぐった。久保家の菩提寺で、チエミの母・歳子と三歳にして亡くなったサトシが眠っている。
 高倉とチエミは正月だからといって格別に着飾った装いではない。ごく普通の服装で、寄せ合った手と手の間に日本酒とジュースの瓶が握られていた。
 二人は、墓石を掃き清め、供物をそなえると白い息をふっと吐いて手を合わせた。
 この初詣は、高倉が提案したものだった。NHK「紅白歌合戦」で歌と司会を無事に務めた妻の成功を墓前に報告しよう。新しい年もよい年であってほしいと願ってのことだ。重責を無事に果たし司会と歌唱とで活躍したチエミは、母・歳子に優勝をプレゼントできたことを喜び、こうして夫と共に正月を迎えることに感謝の祈りを捧げた。二人にとって節々の記念日を祝うことは大切な習慣でもあった。
 ある年は新年を北海道へ向かう飛行機の座席で祝ったこともある。高倉夫妻が清川虹子を誘って三人で雪原での狩りとスキーを楽しんだ時である。機内で屠蘇を飲み、一年の無事を祈った。
 芸能人夫婦は、それぞれの仕事がハードになればなるほど、スレ違いが生ずるのは、避けられないことである。高倉もチエミも、そうした溝が深まらないように最善の努力を重ねていた。」藤原佑好『江利チエミ 波乱の生涯 テネシー・ワルツが聴こえる』五月書房、2000年、pp.151-153. 

 戦後の混乱期に、天才少女歌手として脚光を浴び、芸能界で大成功していった「3人娘」は、やがてそれぞれ幸福なはずの結婚をするが、結局いろいろな事情で不幸に見舞われ離婚することになる。でも、チエミと高倉健の関係は決して不幸なものではなかったようだ。

 「「サザエさん」は、戦後日本の生活史といわれる。終戦の翌年、夕刊フクニチに登場し、昭和二十四年から朝日新聞の連載マンガとして人気を集めて以来、今もなお生き続けている。
 登場人物の名前は作者が海の見える景色のいい福岡の疎開先で思い付いたところから、磯野一家の主人公がサザエさん、父親が波平、母親はお舟、弟はカツオ、妹はワカメ、夫はマスオ、子供はタラちゃん、波平の甥ノリスケの夫人がタイコでその子がイクラちゃんになっている。
 チエミの父は福岡の生まれであり、名前もマスオ(益雄)である。ちょっとした偶然だが、チエミは久保家の分身のようにサザエさんとその一家を受け止めていたのではなかろうか。
 チエミと「サザエさん」との付き合いは、すでに十年前から始まっていた。「テネシー・ワルツ」でデビューして四年目に東宝映画からサザエさん役を指名され、「サザエさん」「続サザエさん」「サザエさんの青春」などの映画に出演した。杉原貞雄プロデューサー、笠原良三脚本、青柳信雄監督のコンビであった。さらに、テレビドラマ・シリーズにもなっていた。
 朝日新聞の論説委員であった扇谷正造は、“町子さんとチエミさん”との共通のサザエさん的素地について論評している。文中の一節を紹介させて頂く。
「シンは強いが、このお二人は、案外ハニカミ屋じゃあるまいか。町子さんの出不精はいうまでもないが、チエミ君は、初日の前の晩はドキドキし、いよいよ当日になると、客席に吸い込まれて行くような気がする、といっていた。芸熱心というか、客を大切にする精神というか、これは大事なことだ。彼女の舞台は、いつも日毎に何か増えている、といわれるのはこの“初心”のなせる結果である。いつか高倉健君が言っていた。
『二人で銀座を歩いた。いいセーターがあった。欲しかったが高いんだな。二万三、四千円もするんだ。あきらめた。そしたら一ヵ月もすると、彼女の部屋に、そっくり同じものがぶらさがっていた。襟のところにJAGARとトレードマークまでいれてある。買ってくれたんだな、と思ったら、これはチエミの手編みなんです。熱いものがグッーとこみあげてきて‥‥‥』
 この話はいい話である。そういえば、だいぶ前のことだ。サザエさん漫画をたのみに、はじめて世田谷の町子さんの家を訪問した時、普通のしもた屋風のこの家の軒に、つるし柿が、いっぱい乾してあった。私は、それを見て町子さんの、いやサザエさんの家風というのを瞬間的に感じたことを思い出す」
 そして扇谷は「めでたさも中位なりおらが春」という句を添えて二人の共通点をあげている。
サザエさん演ずるチエミは、団子をのせた髪型をして、チンドン屋のようなかっこうでロケーションに出る。それを見て皆は大笑いをする。しかし、恥かしくはなかった。それでいて普段着の生活になるとハニカミ屋で、かいがいしいのである。
 この二つの舞台のほかに、日本劇場での「チエミ大いに歌う」も好評を博した。中村八大と共に招待されたブラジルでの世界音楽祭で中村が最優秀編曲賞を、チエミは最優秀歌唱賞と最優秀歌手賞を受けたことがきっかけとなってブラジル世界音楽祭受賞記念として催された。中村八大トシックステット、ミュージカルアカデミー、中野ブラザースらによるドラマチック・ジャズ・ショーであった。
 この頃、チエミの人気はテレビ部門のタレント・アンケートで数年来トップを独走しており、二位に淡島千景、三位は森光子、以下は山本富士子、池内淳子、朝丘雪路、小林千登勢、南田洋子、林美智子、中村メイ子、そして新人の吉永小百合の名前が続いている。」藤原佑好『江利チエミ 波乱の生涯 テネシー・ワルツが聴こえる』五月書房、2000年、pp.159-161.

 テレビで「サザエさん」や「咲子さん、ちょっと」というホームドラマを演じていた江利チエミの姿は、ぼくも何となく記憶の片隅にある。陽気で元気で、庶民的な女優だった。


B.教養主義?
 小説を読むことが文化であり教養であるという考え方は、いつごろ成立して、いつごろから常識になり、またいつごろから非常識と見られるようになったのだろう?おそらく、日本近代文学とは小説である、という観念ができたのは明治後期の自然主義や私小説が主流になった大正昭和の時代だといえそうだ。それが、学校教育に流れ込んで、「国語」の教材に小説の一部が使われ、戦後の「国語」で小説の「鑑賞」や「読解」が、受験でも重視されるようになったと思われる。そしていまや、「国語」の学習は文学小説などではなく、もっと実用的なコミュニケーションや表現力の開発に注ぐべきだという意見が、強まってきた。
 小説を読むことが子どもの教養や人格を高めるかどうかは、どんな小説を読むかによって全く違うと思うけれど、文学はとりあえず役に立たない無用の長物で、英会話やビジネス文がちゃんとかければよい、という考え方は、言語というものをまともに考えたことのない愚見だと思うので、以下の書評のいうことはひとまず賛成できる。

 「ひもとく:なぜ国語に文学 安藤宏(東京大学教授:日本近代文学)
 今、「国語」という教科で「文学」をどう扱うか、熱い議論を呼んでいる。
 幸田国広著『国語教育は文学をどう扱ってきたのか』は、戦後の国語教育が文学の「鑑賞」から「読解」へ、つまり「おいしいかどうか」から「食べ方」の教育へと変化してきた経緯を丹念にたどっている。結果的に『羅生門』や『走れメロス』など一部の教えやすい教材が定番化し、読解指導の硬直化を招くことになったのであるという。
一時代前の人格主義、教養主義が教室の「文学」観を狭めてしまった経緯、また、人物の心情理解にこだわる「読解」が教材の幅を狭めてしまった弊害など、なるほど傾聴に値する指摘である。だが一方で、後半の論旨には素直にうなずけないものがあった。感動中心の文学教育では社会に役立つ論理を身につけることはできず、今後は文学と言語運用能力の養成とを区別し、情報化社会に見合った思考力を目指さなければならぬ、というのである。
前半を読むと言語教育と文学教育との高度な融合を理想としているように読めるのだけれども、どうも後半の論旨はそのようには進んでいないようだ。「文学」と「論理」を分離すれば事態が解決するほど単純なものでないことは、昨今の教科書検定をめぐる一連の報道などからも明らかであろう。
これに関連して紅野謙介著『国語教育 混迷する改革』は、こうした一連の動向に警鐘を鳴らしている。教材読解の比重を減らし、言語運用能力、コミュニケーション能力の育成に傾いていく動きへの批判である。もちろん「話すこと」「聞くこと」の育成が重要だという主張に反対する人間はいないだろう。だが一方で、人生で最も多感なこの時期、悩みや劣等感を多く抱えた高校生たちに教室で一体何を語らせようというのか、と紅野は問う。
コミュニケーションのためにはまずカバンの中身が必要だ。先人の優れた文章の読解を通して異質な他者への理解を深め、世界の成り立ちについて考えていくということ。一時代前の文学主義に代わる、こうしたあらたな「人文知」の啓発にこそ、問題を解くカギが隠されているのではないだろうか。優れた文章の「読解」を通して見につけていく力と、自身の考えを周囲に伝達し、対話していく能力とは本来分かちがたく結びついている。
 真に恐ろしいのは両者を切り分け、何しろ情報化社会なのだから後者が大切だ、という論法に流れていく風潮だ。社会のあり方の本質に目を向けず、ただ「説明だけがうまい子」ばかりが大量生産されていく事態など考えがたいことである。情報化社会であるからこそ、異質な他者の心情に思いを巡らしていく、奥深い知性が求められているのだと思う。
 その意味でも、渡部泰明ほか著『国語をめぐる冒険』は実践的な提案として楽しく読めた。「文学」と「情報」の切り分けに悩んでいる現場の教員にぜひ読んで欲しい一冊である。たとえば古典和歌を通して言葉の不思議に目をこらしてみよう、という呼びかけであるとか、「定番教材」である『山月記』にあらたな読みの可能性が秘められているという指摘など、「読むこと」の大切さにあらためて気づかせてくれる。
 文学教材が重要なのは、それが現代社会を生き抜く知恵と不可分なものであるからだ。言葉をコミュニケーションのツールとしてのみ扱ったとき、「国語」は死んでしまうことだろう。その意味でも幸田がその著の冒頭に紹介している、言語教育と文学とは本来一体のものである、という理念にあらためて立ち返りたいものである。」朝日新聞2022年1月22日朝刊19面、読書欄。
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「3人娘」伝説3 雪村いづみ 「DK新聞?」

2022-01-22 19:23:18 | 日記
A.トリオの強み
 「三羽ガラス」とか「御三家」とか「三大テノール」とか、ビッグスター級の芸能人を三人並べて売り出す、という戦略は昔からあった。ただ、三人を初めから一組にしてデビューさせる形は、ひばり・チエミ・いづみの元祖三人娘の頃はまだなかった。それぞれヒットを出すスターになった三人がたまたま同じ年生まれで、1952年のデビューも相次いでいたことから、所属レコード会社がそれぞれ違う3人が同じステージに立つのは難しかった。それが「3人娘」で売り出すことになったのは、3年後の1955年、東宝で「ジャンケン娘」という映画で共演したからだった。これが大当たりして、続いて3人娘の主演映画が次々作られた。
 ただ、彼女たちの歌は、ひばりがいわゆる歌謡曲、チエミは英語混じりのジャズ、いづみも基本はジャズである。ひばりも対抗上ジャズも歌うことになるが、進駐軍巡りで鍛えたジャズはチエミ、いづみに一日の長があった。ぼくは映画館で「3人娘」映画を見た記憶があるが、雪村いづみが一番垢ぬけたスタイルで艶があって突き抜けた声で、ファンになった。

 「西条八十作詞・服部良一作曲の「丘は花ざかり」が、藤山一郎のはずむような声にのって流れはじめたとき、暦は昭和二十八年を示していた。
 日本調の流行歌はジャズにおされてますます影を薄くし、ラジオのダイヤルをひねると、強烈なリズムやパンチのきいたドラムの音が響いていた。
 東京の盛り場では連日ジャズ・コンサートがひらかれていたが、いずれの会場も超満員で、ジョージ川口・中村八大・松本英彦・小野満・フランキー堺・松本文雄といった連中が、ジャズファンのアイドル的存在だった。
 歌手では江利チエミが黒人的なフィーリングをこなして断然他を圧し、ナンシー梅木、ペギー葉山が、バラード風のポピュラーソングを歌って人気を高めていた。
 彼女らの念願は、いちどアメリカの土をふんで、本場のジャズをその耳でじかに聴くことだった。前年の一月、「テネシーワルツ」でデビューした江利チエミは、早くもこの年の二月、アメリカ詣でに出かけていった。二か月後に意気揚々と帰国してみると、東京の街には若い女性の伸びのある歌声の「思い出のワルツ」が大流行していた。
 星影青き 思い出の夜
 君と踊りし なつかしの夜‥‥‥
 歌手の名は、江利には初耳の雪村いづみで、聞けば同年配の十六歳とのことだった。チエミはこの未知の歌手に激しい競争心をかきたてた。両親を芸人に持ったこの少女の胸には、年齢にそぐわない芸への執念が燃え盛っていたのだ。
「思い出のワルツ」は、発売たった一ヵ月で四万五千枚を売り、雪村は戦後派歌手ではもっとも早く、スターダムへのしあがっていった。人は彼女を、“現代のシンデレラ姫”と呼んだ。その新人を“現代のシンデレラ姫”に仕上げたのは、美空ひばり・江利チエミという未来の大器を、テストまで受けさせながら、釣り落としてしまった老舗ビクターの執念だった。
 同社の磯部ディレクターは、雪村の噂を耳にすると、作曲家の吉田正とひそかに彼女の出演している米軍の将校クラブに聴きにいき、「これはいける」と判断して、早々、契約を結んでいたのである。そして外部には秘密で吉田正に頼んで数カ月間、日本語の歌をみっちり仕込み、「思い出のワルツ」でデビューさせたのだった。
 この例が物語るように、戦後派歌手の売り出すスピードは、戦前とは比較にならぬほど速くなった。これは歌手自身の力でなく、レコード会社が強力に売り出すようになったからで、反面、商品価値のなくなった歌手は、弊履のように捨てられていった。
 レコード会社では、この年から二、三年つづくジャズブームに便乗して、売れそうなジャズ歌手、ジャズレコードの生産におおわらわで、一部の経営者のなかには「日本調流行歌は全廃して、ジャズ一本鎗でいったほうがよい」と極言するものもあらわれる始末だった。
 ちなみに、ブームのさなか、人気のあった曲をあげると、「アンナ」「アゲイン」「ジャンバラヤ」「青い(ブルー)カナリヤ」「バイヤ・コンディオス」「センチメンタル・ジャーニー」「ドミノ」「ウェディング・ベルが盗まれた」「帰らざる河」「ジャニー・ギター」「火の接吻」「君慕うワルツ」「遥かなる山の呼び声」「愛の泉」「小さな靴屋さん」「ウシュクダラ」「スコキアン」など‥‥‥。アメリカのポピュラーソングから、南アフリカのズル族の古い酒宴の歌。はてはトルコの変てこりんな歌に至るまで、さながら世界の流行歌の博覧会場の観があった。」塩澤実信『昭和の流行歌 物語 佐藤千夜子から笠置シズ子、美空ひばりへ』展望社、pp183-185. 
 1950年代はジャズの全盛期で、LPレコードの普及過程でもあり、日本のレコード会社もジャズに力を入れた。ただ、ジャズといっても当時ニューヨークなどで最先端のビ=バップ(いわゆるモダン・ジャズ)はまだ一部のマニアにしか知られておらず、進駐軍のキャンプやダンスホールで演奏されたジャズとは「スウィング・ジャズ」、歌手が歌ったのは甘いスタンダード・ナンバーであった。チエミやいづみの歌ったのはジャズだけでなく、世界のあらゆる軽快な音楽だった。それが歌えてしまったことは天才少女歌手の証明だとはいえる。

「天才少女・美空ひばりに続いて、江利チエミが世に出た後を追うもう一人のチビッコが歌声をあげた。日本人ばなれした声量と歌唱力をもっていた少女は昭和十二年三月二十日、東京都大田区生まれ、本名を朝比奈知子。愛称をトンコと呼ばれる雪村いづみである。
 山の手のお嬢さん育ちだったが、商社マンで戦後は進駐軍の通信社に勤めたことのあった父は九歳の彼女を残して亡くなり、母も倒れる闘病生活で、借家住まいの苦労を味わった。高校進学をあきらめ、仕事を探しに母の知り合いを訪ねたダンスホールでたまたま「ビコーズ・オブ・ユー」(グロリア・ヘブン歌)を歌ったことが見いだされるチャンスとなった。その曲は蓄音機をもっていた友人の家で何回も聴いてたった一つ憶えていた英語の曲だった。やがて進駐軍のグラブで歌うようになり、チエミ二世と呼ばれるようになる。
 美空ひばり、江利チエミ、そして雪村いづみ。奇しくも、昭和十二年という同年代生まれの少女たちの誕生である。三人のチビッコ歌手たちは歌を歌うことが大好きで気持ちよく囀る場所を求めて飛びまわる小鳥のようだった。」藤原佑好『江利チエミ 波乱の生涯 テネシー・ワルツが聴こえる』五月書房、2000年、pp.95-96. 

 「3人娘」が初登場した映画「ジャンケン娘」のとき、彼女たちは18歳である。いまなら女子高校生だが、3人とも家が貧しかったのと、この頃は仕事が忙しく高校には通えなかった。

 「1955年(昭和三十年)。“三人娘”が初めて共演した東宝映画「ジャンケン娘」は、大当たりとなった。
 戦後歌謡史を彩った美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの“三人娘”。彼女たちの初めての共演は早くから待ち望まれていたことであった。しかし、トップの座を競う宿命のライバルであったこと、さらに恐ろしいほどの過密スケジュールであったためから現実的には不可能な夢の企画で終っていた。
 同じ昭和十二年の生まれ月からすれば、チエミが一月十一日生まれのいわば長女で、いづみが二月二十日生まれの次女、ひばりは五月二十九日生まれの三女というわけである。三人娘は“チビッコ歌手”というレッテルを背負い、人気が出れば出るほどそれを裏返すかたちで世間の冷たい風にさらされた。その矢面に立ったのがひばりである。
 幼い少女が恋心や人生を歌うことについて「大人の猿真似」とか「お客をなめた年増歌手」といった辛辣な声となった。ひばりが昭和二十五年に初めてハワイ公演を行った時、作曲家の服部良一は美空ひばりに対してブギを歌うことを禁止するように伝えたほどである。だが、そんなひばりをハワイの日系人たちは温かい拍手で迎え、会場は超満員となったエピソードがある。
 チエミも同じような経験をしたことがあったが、二人は何かにつけて比較され、人気を競い合うライバル意識を拭うことはできなかった。
 そうした二人を象徴する出来事が起きたのは昭和二十七年の大阪での公演が同じ六月にぶつかった時だった。ひばりは「大劇」でチエミは「常盤座」で、文字通り隣り合わせの劇場で公演を行ったのである。この大阪公演を称して“大阪夏の陣”と呼んだものである。
 ある雑誌社が二人の対談を企画した。チエミが花束を持って編集者と共にひばりの楽屋を訪ねる約束だった。しかし、ひばりは突然に中止を申し入れた。芸能界の先輩であるひばりがチエミに対して格の違いを見せつけたという説がもっぱらであった。
 その伏線となっていたのがそれぞれの公演での客の入り具合であった。ひばりの「大劇」の観客動員も凄かったが、チエミの「常盤座」はそれを上回るほどの大入り満員であることを芸能紙面が取り上げたのである。チエミへのジャズファンの熱狂ぶりは大変なものだった。ひばりは、チエミに負けたのである。しかし、ひばりは臆するところなく母・喜美枝と共にそっとチエミの公演を見にいき、驚いたことには早速、自分の舞台でジャズを歌ったのである。それを知ったチエミはひばりの芸熱心さに脱帽したという。ひばりとチエミは心腹の友のように慕い合った。競い合うことは個々の実力を磨き上げることにつながる。二人のライバル意識はそうしたかたちで火花を散らしていたのである。
 ひばりとチエミのライバル争いとは違ったかたちでジャズを歌い広いファン層を獲得していったのがいづみであった。いづみは誰に対しても物怖じせず、それでいて相手を気遣う性格で、ひばりにもチエミにも可愛がられ三人娘のちょうどいいバランス役になっていた。
 東宝映画「ジャンケン娘」(杉江敏男監督)は、初めから三人娘の競演を目指して月刊『平凡』に連載された中野実原作の小説である。一年間連載され、三人娘の競演がついに実現した時、彼女たちは十八歳になっていた。
 物語は、女子高校生の美空ひばりと江利チエミの仲良しコンビが、京都の修学旅行で舞妓の雪村いづみと知り合ったことから、後日初恋の大学生山田真二をたずねて上京したいづみを助けて、その大学生を探すのに大騒ぎする。日本趣味の女子高校生にひばり、ボーイッシュなお茶目女学生にチエミ、可憐な舞妓にいづみというそれぞれの持ち味をうまく配したキャスティングであった。
 東宝の杉浦貞雄プロデューサーが三人娘をバランスよく配するための苦心は並々ならないものがあったようで、自分の控室にこもりがちなひばりとチエミの気持ちをやわらげるために打合せなどはいづみの控室を利用して行い、意思の疎通を計った。いづみのおだやかな性格がなごやかな雰囲気を作ったのである。それにしてもグーはパーに負け、パーはチョキに負けて三人寄れば、勝ち負けなしのジャンケンになぞったのはさすがであった。「ジャンケン娘」のポスターにはチエミがグー、ひばりがチョキ、いづみがパーを出して仲良くジャンケンをしている姿が描かれている。
 ひばり、チエミ、いづみの“三人娘”はこの「ジャンケン娘」を皮切りに「ロマンス娘」「大当たり三色娘」(杉江敏男監督)と、もはや戦後ではない、と称される娯楽映画を次々に生む。
 その間、チエミはラスベガスへ二回目の渡米をし、四週間にわたるジャズショーを終え、よりチャーミングな女性となって帰国する。
 全国縦断のステージに立ったチエミは、本場の英語をはじめ「アンナ」ではスペイン語、「ウスクダラ」ではトルコ語、「セ・シ・ボン」ではフランス語、「スコキアン」の歌詞ではアフリカ語と、五か国語で熱唱する。中でも「ウスクダラ」を歌うために、トルコ公使館へ二カ月通い、毎日二時間トルコ語を特訓、正確な表現法をマスターしたのである。
 チエミは、渦を巻く時代の風を真向かいに受けて回る風車のようであった。」藤原佑好『江利チエミ 波乱の生涯 テネシー・ワルツが聴こえる』五月書房、2000年、pp.112-114. 

 「3人娘」は、実力・人気・年齢において並び立つ3人がいなければ成立せず、その後、1960年代中頃の中尾ミエ・伊東ゆかり・園まりの「スパーク三人娘」、1970年代はじめの小柳ルミ子・天地真理・南沙織の3人くらいしか記憶に残っていない。キャンディーズ以後はグループでデビューするトリオ歌手になる。そしていまや、この「まとめ売り」戦略は拡大してAKB48になると、誰が誰だか識別することもたいへんだ。


B.「アサヒシンブン」を知らない!
 朝日新聞の編集委員、高橋純子さんの書く文章は、堅苦しい新聞記事でも思わずくだけて笑ってしまう芸がある。正月早々、これには笑ったが「朝日新聞」を知らない若いお巡りさん、という時代になっているんだな。愕然とするお話である。
「Don’t know 岸田政権って I know 本文は、まず見極め:多事奏論 編集委員 高橋純子
 昨年末、ある神社を訪れたついでにおみくじを引いたら「大吉」だった。女性誌の星占いにも2022年は幸運ですよと書いてある。よしっ。期待を膨らませて年を越したが元日そうそう当たってはずれた。
 商業施設のパーキングで、運転していた車のバンパーを駐車中の車のバンパーに当ててしまった。どちらにも特段の傷は見当たらなかったけれど、事故処理しましょうということで警察に来てもらった。
 おそらく二十歳そこそこのお巡りさん。名前、職業、そして勤務先を聞かれる。
 「朝日新聞です」
――あさひは平仮名、カタカナですか?
 「いえ、漢字です」
――漢字‥‥‥
 「あの、普通のあ・さ・ひです」
――旭日のあさひじゃなくてですか?
 「違います。えーっと、あさひがのぼるのあさひです」
 そこまで言ってやっと、ペンが走った。一昔前は朝日新聞とつげると、良くも悪くも警戒されたものだけど、ね。聴取が終わり、「寒いので車内でお待ちください」と優しく促される。たしかに、寒い。私は心のギアをニュートラルにして、しばししみじみ、若きお巡りさんのI don’t know(知りません)をかみ締めた。    *     * 
 さて岸田文雄首相は、自身に向けられたI don’t know をどう咀嚼しているのだろう――えっ。話変えるの?かみ締めて、それでアンタどうするのさ?と思われた方もいるかもしれません。ですよな。私も最初はそこを書こうと思っていたのだけど、やめた。ジリ貧を脱しようともがくうちに本道を見失ってドカ貧に陥る。かの大戦における本邦の悪癖をなぞるのは避けたい。
 というわけで岸田内閣であるが、本紙世論調査における(I) don’t know、略して「DK(わからない、答えられない)」の割合が高い。世論調査部の君島浩記者が7日付の夕刊で解説していたが、これは「際だった特徴」と言える。発足直後の内閣支持率を比べると、岸田内閣は45%で小泉内閣以来最低だったが、DKは35%で野田内閣(29%)を超え最高に。しかも4回連続で不支持率よりDKが高いのである。ただ私は、これは首相にとって悪いことではないと考える。熱い支持や積極的不支持を引き出すほどの存在感がないからこそ、敵と味方を分け、敵をたたくことで味方の喝采を誘うような政治手法に倦んでいる層へアプローチしやすいはずだ。
 聞かれたことに答える。「公務に専念するため」公邸に住む。「アベノマスク」は捨てる。当たり前のことを当り前にやるだけであら不思議、ささくれだった社会がほんのりしっとりしてくる。決めたことをすぐに変える「朝令暮改」とて、この9年間「反対しても無駄だ」と刷り込まれてきた人々の目には新鮮に映ることだろう。      *        *  
 とはいえ以上はあくまでも、前々、および前政権と引き比べてみれば、という話。現下の岸田経験自体は例えて言うならやなり鵺――「平家物語」などに描かれている伝説上の怪獣だろう。「頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎に、声はトラツグミに似ていたという」「転じて、正体不明の人物やあいまいな態度にいう」(「広辞苑」)。
 ブレーキの利きが極めて悪い大型ダンプカーのごとく、超えてはならぬ矩をお構いなしに超えてくる安倍政権に対しては、クラクションを鳴らし続けなければならなかったと改めて思う。では、鵺とはどう向き合うのか。まずはじっとり観察し、本質は狸なのか虎なのか、見極めなければ始まらない。そして。そのうえで、DK新聞だろうがDK記者だろうが、その本分は権力監視だ。I know わかってる。大丈夫。心のギアはとっくにトップ。本道を行くぜ。駐車場ではきっちり止まるさ。
 今年もよろしくお願いします。」朝日新聞2022年1月19日朝刊15面、オピニオン欄。

 社会調査では、調査票の質問に対し選択肢から一つだけ選んでもらうものをSA(single answer)質問、複数あるいはいくつでもあてはまるものを選んでもらうものをMA(multi answer)質問と呼び、答えがない無回答をDK(Don’t No)とNA(no answer)に区別する。DKは聞かれたことについて、知識・情報をもっていないので判断できない、つまり答えたくても知らないから答えられない、という場合であり、NAのほうは知っているが答えない、答えたくないという拒否の表明になる。おなじ無回答でも、DKとNAでは内容的にまったく違う。岸田首相について何も知らないからDK(わからない)とするのは理解できるが、もしNAだったら、朝日新聞への不信感からあえて質問には答えてやらないという拒否かも。 
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「3人娘」伝説2 続 江利チエミ  ソ連崩壊30年

2022-01-20 22:11:01 | 日記
A.子どもは童謡!という先入観
 日本の学校教育に「音楽」という教科が採用され、子どもたちに音楽を教えようと考えたのは1872(明治5)年に制定された「学制」に始まる。小学校で唱歌、中学校では「奏楽」という名前だったが、実は西洋音楽を基本に「音楽」を教えることのできる体制も教師もなかったから、実施は見送られた。やがて高遠藩士の子でアメリカ留学から帰った井沢修二(のちに東京音楽学校初代校長)と幕臣出身でやはりアメリカ留学組の目賀田種太郎(のち専修大学創立者)は、西洋音楽を基本とする音楽教育を推進すべきとの意見書を文部省に出して、1879(明治12年)に「音楽取調掛」が設置された。井沢らは、当時の日本にあった音楽は、旧態の身分制度を引きずっていて、新しい国楽には西洋音楽に学ぶべきだと主張した。ここからドレミファの音階、五線譜と音符で記述する教材や教師の養成が始った。それでも教科としての「唱歌」が必修になったのは、だいぶ遅れて1907(明治40)年、小学校が6年の義務教育になったときからだった。
 戦前の学校での音楽教育は、せいぜい「小学唱歌」つまりみんなで歌を唄うのが中心で、楽器などはせいぜいオルガンを先生が弾くくらいだった。そして、子どもが歌うのは「童謡」、大人は西洋歌曲である「声楽」は高級すぎて縁がなく、大衆は歌謡曲あるいは流行歌と呼ぶ各種の演歌、芸者が歌う伝統的な三味線音楽といった世俗の道楽を歌っていた。戦後も、そうした流行歌はレコード会社によって発売されていたが、子ともは童謡を歌うもの、という固定観念は根強かった。つまり大人の歌は、男女の恋などが歌われるので、子どもが歌うものではないと思われていた。それを、九歳の少女が歌ったのだから、良識ある大人は眉をしかめたのである。

 「NHKのど自慢」が始まったのは、1946(昭和二十一)年の一月十九日である。その第一回目の横浜大会が伊勢佐木町の急ごしらえのステージで行われた時に一人の天才歌手が舞台を踏んだ。九歳のその少女は、「長崎物語」ともう一曲「愛染かつら」を歌った。満場の拍手喝采を受けたのだが、合格の鐘は鳴らないで終った。理由は「子供らしくない」「あまりにも大人じみている」という審査員の批評であった。不合格だった少女は加藤和枝。のちの美空ひばりである。昭和十二年五月二十九日、横浜市磯子区の魚屋の娘として生を受け、歌姫として戦後の日本歌謡界の女王となった。ひばり神話は誰もが知るところである。
 チエミは「のど自慢」の大会には出なかった。しかし、人前で歌うことが大好きで夏祭りの井の頭公園にしつらえた舞台へ飛び入りで出て「小雨の丘」(昭和十五年、小夜福子唄)など子供らしくない歌を歌い、こちらも大人の目からの反感を買っていた。
 こうしたことと対照的なのは、学校の音楽の時間で歌う童謡であった。肝心のその時間でのチエミはいつもみんなよりオクターブ低い声で「み~かんのは~なが さいて~いるゥ」とマイペースの声でうたうのでどうしても一人、浮いてしまっていた。

 チエミは学校から帰ると、六畳と三畳の部屋をしきる襖の鴨居に紐をぶら下げ、その先へタワシをつけて歌った。当時のマイクロホンは上から吊り下がっていた。それを真似て作ったタワシ・マイクの前に立って音丸の「船頭可愛や」や久保幸江の「ヤットン節」、黒田節やサノサ節、虎造の浪花節もがなった。これが第一部。次は、母・歳子が柳家金語楼と浅草でやっていた芝居の再現も演じてみせた。
 たとえばこんな調子である。
 まず、兄のトオルを相手にいろいろな役割をきめ、かつて母が舞台でやっていた“吉本ショー”の幕を開ける。幕といっても部屋と部屋の間をござで仕切ったものである。チエミは、幼い頃に見たそうした芝居のセリフを身体で覚えており、時折、床のなかの歳子がおもしろがって参加したりすると、
「おかあさん、違うわよ」
 とダメを出し兄を金語楼にみたて、自分は母が演じた下町の女房役となってコメディ―を再現するのだ。
 チエミが中心となった久保家の吉本ショーは、この家を訪れる芸人仲間たちをも喜ばせた。歳子はチエミのしていることが、もはや座興では済まされない日がくるのではないかと感じていた。歳子の予感はまもなく的中する。
「おかあさん、わたし、歌手になる!」
「まあ、チーちゃんたら‥‥」
 戸惑う母に、チエミは微笑みながらきっぱりと言った。
「歌が大好きなんだもん。タイピストになりたいって思ったこともあったけど、蛙の子は蛙っていうでしょ」
「まあ、驚いた」
「外国の歌を歌いたいの」
「どんな歌を‥‥‥?」
「アメリカのジャズ…フランスのシャンソンも素敵だわ」
 チエミからその言葉を聴いた時、歳子はかつて夫の益雄と共に同じ舞台を踏んでいた時の自分に思いを巡らした。
 その頃、歳子は万盛座の舞台で「リオ・リタ・オー・マイ・ベイビー」を歌う、アメリカが大好きな女優だった―――。
 チエミは、そんな歳子と父の背中を見て育った天真爛漫な愛娘だが、まだまだ子供である。
 ところが、チエミは母親が思う以上に歌手になる夢に向かって前に進んでいたのだ。歳子がそれを知ったのは、家に突然、蓄音機が運ばれてきた時であった。
「なんで蓄音器が家に‥‥‥?」
 と首をかしげる母にチエミは言った。
「おつるおばあさんが買ってくれたの」
 おつるさんはこれまでずっと、歳子と益雄が旅興行にまわって家を留守にしている時、幼い子供たちの世話をしてくれた。チエミが出産した時にあつるさんが側にいてくれなければ母子の命はどうなっていただろう。
 年老いたおつるさんは、なけなしの金をはたいてチエミの希望をかなえてあげたのだった。兄のトオルと一緒にレコード店から発売されたばかりのSP盤もすでに買っていたのである。
「チーちゃんは外国の歌が好きなんよ。あんただってそうだった。外国かぶれと言われとったところがあったろうが…‥チーちゃんは、スター谷崎歳子の子や。どんなに苦しくとも困った顔ひとつせんで、明るい、あったかぁい太陽のような子供です。出過ぎたことかどうか、じゅうじゅう承知のうえで蓄音器を買ってあげました。わたしの最後のわがままと思って勘弁してください。怒らんと、許してえな」
 そう話すおつるさんの言葉を床の中の歳子は、掛け布団のなかに顔をうずめて聞いた。貧しさゆえに、病ゆえに、子供たちに苦労をかけている日々の暮らしである。歳子は言った。
「ありがとう。本当にありがとう」
 歳子は、おつるおばあさんの心のやさしさ、思いの深さに涙を流した。
 その後、おつるさんは八十五歳の人生を全うして静かに息を引きとっていった。あの蓄音機をさながら形見のように残しての旅立ちであった。

 この当時の久保家の生活はにっちもさっちもいかない状態に貧していた。当時の模様について、父親の久保益雄はこんなふうに語っていた。
「終戦後、家内はぷっつりと舞台をやめて家庭に入り、私の働きだけが一家にとって唯一の収入となりました。その私が昭和二十二年にいろいろな事情で仕事をやめたため、親子六人の家族はそれからずいぶん苦労をしました。貧乏の味はチエミもよく知っていて、今でも質屋の暖簾を見ると『懐かしいわねえ』と話しかけることがあります。配給物もとれず、学校の教科書も買ってやれず、弁当も持たせてやれないので昼休みに家にお粥を食べに来させたり、子供たちに悲しい思いをさせました」
 益雄は、師匠である三亀松と意見の衝突を起こして仕事を失ってしまい、生活は困窮を極めていた。衝突のいきさつは真面目一辺倒の益雄と、自由奔放な三亀松師匠とのいきちがいだったようである。相三味線という影の芸とはいってもけっして妥協をしなかった益雄は、持っていた三味線の棹をすべて折ってしまったという話がある。
 “職”を失った益雄は、港区芝新橋三丁目十六番地にあるアーチストクラブの茂木了次の世話で進駐軍のクラブのピアノ伴奏をやって細々と暮らしていた。そんなある日、進駐軍回りをしている芸人仲間の女ダンサーからうれしい話が舞い込んだ。
「久保ちゃん、渋谷の料亭で仕事があるんですけど、やってみません?」
「三味線の弾き語りかい?」
「それが‥‥アメリカのGIさんの多い酒席でね。女将が言うには酒の席でアメリカさんが歌うジャズの伴走者はいないかって」
「ジャズだって?」
「そうなの。お座敷でジャズとはさすがはアメリカさんらしいわよね」
「ところで、伴奏はピアノ?クラリネット? それとも…‥?」
「料亭だから、ピアノなんかないけどさ。どうかしらね。いっしょにチーちゃんを連れていってみたら」
「チエミを?」
「いま大流行している笠置シズ子の『東京ブギウギ』を歌ったらおもしろいと思うの。アメさんをびっくりさせましょうよ。それに、チーちゃんは人前で歌いたくてうずうずしてるんだしさ」
「無理ですよ。だってチエミはまだ小学生ですから」
「何を言ってるのよ。歌に年齢なし、国境なし。日本人のいいところをみせてあげましょうよ。戦争は負けても、心は負けてはいない。苦しい時こそ笑いましょうっていうのは久保ちゃんのせりふじゃないの」
 踊るしぐさをまじえてそう話すダンサーは、久保家での“吉本ショー”を見たことがあり、その茶目っ気と度胸のよい芸人ぶりに驚嘆し、歌手になりたいというチエミの夢も知っていた。
「やりましょう」
 益雄にとって何よりも必要だったのは飢えをいやすためのわずかな日銭であった。
 益雄からこの話を聞いた歳子は、表情にはあらわさなかったが、ひそかにチエミの普段着を手繕いし、スカートを淡いピンクに染め、丈を括った。そんな歳子の様子をみた益雄はチエミに外出用の靴がないので、運動靴にエナメルを縫ってとり繕った。また長男のトオルは母がこしらえたドレスに丁寧にアイロンをかけた。
 そうした家族ぐるみの手づくりの準備が進むなか、チエミは遠足の日を心待ちにするようなワクワクした気持ちで当日をむかえた。そして、その渋谷の料亭で喝采を浴びたのは、まさに遠足気分で父と連れだったチエミのほうであった。
 やがて料亭での仕事にチエミは父とともに姿をみせるようになった。チエミが来ると座が盛り上がる。しばらくすると、アメリカ人の客のなかにはそれぞれが駐屯するキャンプで「歌って欲しい」とチエミを誘うようになった。アメリカから運んできた新曲レコードをチエミにプレゼントする者もいた。そうしたなかに飛行機エンジニアのケネス・ボイドがいた。彼はチエミを妹のように可愛がってくれ、アメリカで発売された「ばかりのレコードをチエミにプレゼントしてもくれた。そうした中に「テネシー・ワルツ」「カモンナ・マイ・ハウス」があったということからジャズ歌手・チエミの生みの親といえる青年だった。チエミは、そのレコードの溝がすり切れるほど自慢の蓄音機で何度も何度も聴き、身体で覚えていく。」藤原佑好『江利チエミ 波乱の生涯 テネシー・ワルツが聴こえる』五月書房、2000年、pp.61-67. 

 美空ひばりが華々しく登場したのに続いて、英語と日本語で「テネシー・ワルツ」というジャズを歌う天才少女江利チエミが登場したのは、1952年1月だった。GHQの日本占領が終り、日本が独立を回復する直前である。チエミが生のジャズを身につけたのは、まさにその米軍キャンプだった。


B.ソ連とは何だったのか?
 ソ連が崩壊したのが1991年12月、ぼくはその前年秋までドイツ(当時は西ドイツ)の工業都市にいて、東側の社会主義政権が次々と崩壊の淵に陥り、その象徴のようなベルリンの壁が壊れるのを見ていた。世界の半分を硬直した政治体制で縛っていた巨大なソ連という国家は、実にあっけなく崩壊して消えてしまった。そのことの意味は、まだ完全に解明されたとはいえない。ただ、今のぼくたちはソ連をもう過去の歴史に繰り入れて、ただ愚かな失敗、社会主義も共産主義も人間を解放すると言いながら、多くの犠牲を払ってみじめに失敗したのだ、と思い込んでそっちの可能性を消去している。でも、そうなんだろうか?

 「オピニオン&フォーラム ソ連があった、あのとき :史上初の社会主義国家・ソビエト連邦が1991年12月末に崩壊してから30年がたった。貧困、そして格差。資本主義の問題が顕在化する今、ソ連が生まれ、消えたことの意味を再考したい。
「進撃の巨人」の壁を出て:ジェーニャさん(1981年生まれ。2005年来日。)
 私が住んでいたソ連は、漫画「進撃の巨人」のような世界でした。壁で囲まれた中で生まれた主人公たちが外の世界を全く知らないまま暮らしている。まさに、それです。
 国が情報を統制し、国外の様子を教えない。知らなければ自国以外の世界は存在しないのと同じで、モノや情報がなくても当たり前だったし、ある意味、幸せでした。
 シベリアのノボシビルスクで育ちました。記憶にあるのは、お店の空っぽの陳列棚です。衣類があれば、サイズが合わなくても買う。バナナもめったにお目にかかれず、緑色のバナナを見かけたらすぐに買って食べました。待てば今に黄色く、甘くなる、なんて誰も知りませんでした。
 テレビのチャンネルは二つくらいで「チェブラーシカ」などのソ連アニメを繰り返し見ていました。夜になると、壁に映す家庭用映写機で紙芝居をしたものです。
 そんな生活でも、楽しかったです。でも、8歳の時、軍人だった父の転勤で旧チェコスロバキアに1年暮らし、「外の世界」を知りました。なぜこんなに違うのかと疑問が芽生え、「いつかソ連を出て行ってやる」と決意しました。
 ですが、最もつらく、貧しかったのは、私が10歳の時にソ連が「終わった」後でした。食べ物はなく、父の給料も支払われない。周りも同じに貧しく、物々交換をして食いつないだ。国が崩れると人のつながりも、生活もいったん全部崩れると知りました。
 私の人生を変えたのは、海外から一気に入ってきた映画や漫画でした。「美少女戦士セーラームーン」に夢中になり、棒読みのロシア語の吹き替えの合間に聞こえる言葉の響きにひかれて独学で日本語を学び、インターネットでの日本のファンとのつながりが、来日の道を開きました。
 日本に来て、ソ連のよさに気づきました。病院も学校も無料で、文化やスポーツなど教育の質が高かったこと。正義とか、フェアであることを、とても大事にしていたこと。理念は悪くなかったけど形にするのは人間だから、実行不可能だったんでしょう。
 日本には「ソ連好き」の人がいます。軍服や国家を「かっこいい」といいますが、プロパガンダに力を入れていただけ。こっちは現実を生きてきたわけです。暗くて怖い「おそロシア」と言う人もいますが、大変ななかで、みんな一生懸命生きようとしていました。それはソ連も、ロシアも、日本も一緒です。
 ソ連に感謝していることが一つあります。来日して10年は生活が苦しく、銀行口座に千円しかないこともありました。それでも諦めず今ここにいるのは、あの崩壊の日々の経験があったから。ソ連からロシアへの激動を生きた世代には、そんな強さがあるかもしれません。(聞き手・関根和弘)

 消滅が呼んだ新自由主義 佐藤優さん(作家・元外務省主任分析官 1960年生まれ)
 ソ連が崩壊する直前の1991年8月20日。私は、モスクワにあるマルクス像の前に立っていました。社会主義国にとって、最も神聖であるはずの経済学者の像が、わいせつな落書きで汚されていました。「ソ連は終わったのだ」と実感した瞬間でした。
 ソビエト連邦が誕生し、消滅した。その意味を考えることは重要です。資本主義を変容させた事件だからです。
 ソ連という国家が存在したことの世界史的意味は、資本主義に軌道修正をもたらしたことにあります。階級的な抑圧のない社会が実現されたという美しい「ソ連イメージ」が流布されたことで、先進資本主義諸国には「革命の勃発を防がなければならない」という警戒感が高まりました。
 利潤の追求一辺倒では貧困が広がり民衆の不満が高まってしまう。だから国家による再分配機能を高めよう。そんな平等主義的な軌道修正として確立されたのが福祉国家でした。もしソ連がなければ、資本主義の体制は、より早く不安定化していたでしょう。
 ソ連が消滅したことも、資本主義を再度変質させました。もう革命を恐れなくても大丈夫だと感じた資本主義諸国が、福祉国家的な配慮をする必要を感じなくなり、資本主義を純化させる方向に進んだのです。新自由主義と呼ばれる流れがそれです。
 一握りの人々が莫大な富を握り、貧困が広がる。マルクス主義が力を失った現代の世界では、その悲劇を「格差社会」といったあいまいな言葉でしか捉えられません。実際に進んだのは、人間の労働力の徹底的な商品化です。
 そもそもソ連はなぜ生まれたのでしょう。1917年のロシア革命が持つ世界史的な意義は、民衆の力で世界戦争を終わらせることができたことだったと私は思います。
 革命前夜、ロシア民衆は命の危険に直面させられていました。苛烈な第1次世界大戦が勃発し、「国のために死ね」と求められていたのです。この戦争は資本家たちの戦争であるとするレーニンらの批判と民衆の平和への希求が結びついたことで、大戦終結への道が開かれました。民衆が求めたのは何よりも、一人一人の人間が大切にされる社会の実現だったのです。
 ソニー製のラジカセにカシオの腕時計‥‥‥。私が実際にソ連で見た共産党幹部は、ほかの国民が持っていないモノを欲しがる人たちでした。平等を目指す「共産主義的な人間」を作り出すことにソ連は失敗したのでしょう。
 平等や自由、共産主義や資本主義‥‥‥。失敗とは、そんな抽象的な言葉に気をとられて一人一人の具体的な人間の姿に無関心になったことです。それはソ連の失敗であると同時に、今の我々の姿でもあるのではないでしょうか。(聞き手 編集委員・塩倉裕)」朝日新聞2022年1月18日朝刊13面、オピニオン欄耕論。
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