A.焼け跡闇市世代のアイドル?
今回初めて知ったのだが、「ひばり本」というのは10冊くらいあって、本人の書いたものも複数あるが、男性の書いたものはどれも「ひばり」を熱烈に崇拝しているのだけれど.、その「ひばり」とはデビューした少女時代から20歳くらいまで、つまり1949~1957年、昭和でいえば24年から32年あたりまでの「ひばり」の唄に関心が集中している気がした。そこを超えているのは、やはりひばり母娘と私的に心を通わせた芸能ライターでアナーキストの竹中労の「完本 美空ひばり」ちくま文庫、2005だと思う。ただこれは相当くせのある著者なので、余計なことがいっぱい書いてあってすっきりは読めない。でも、とりあえず焼け跡闇市世代、つまり戦争には子どもだったので軍隊には行かなかったが、疎開児童でひもじく飢えて空襲爆撃で親や兄弟を喪ってひどいめにあった人たち。その人たち、とくに男たちにとって、美空ひばりという存在が、進駐軍による旧体制の駆逐とアメリカの威力に揺さぶられながら、自分たちの時代を哀愁と貧困に彩られた場所から飛躍するアイドル(当時アイドルという言葉はなかったが)にしていた、ということを改めて想像する。
竹中労、野坂昭如、五木寛之、小沢昭一、ぼくはこの戦後闇市疎開世代とは一回り遅い戦後生まれなので、想像はしてみるが、いっこうに共感できるものがない。ということは、天才少女歌手美空ひばりをリアルタイムでは知らない。ぼくが知っているのは、芸能界に女王として君臨した中年女性の美空ひばりであって、「ひばり本」を書いた人たちもいまやあの世に行ってしまったわけで、だから、今美空ひばりを考えてみることは、歴史的な意味はあるんではないか、と思ってみたりする。
「1937(昭和12)年。中国との戦争がはじまった年の五月二九日、美空ひばりは、横浜市磯子区滝頭町で生まれた。
本名、加藤和枝。父、増吉。母、喜美枝。
家業は魚屋で、屋号を「魚増」 といった。
‥‥滝頭は横浜の場末。商店街と住宅街の入り組んだ、ごみごみした下町だった。ひばりの生家は、「屋根なし市場」と呼ばれるマーケットの中にあった。ハモニカのように並んだ店の間口も奥行きも狭いので、軒先から道まで品物をひろげて売っている。だから「屋根なし」である。
そのころ磯子一帯は、埋め立ての新開地だった。毎日新聞横浜支局の『横浜今昔』(昭和32年発行)によると、「磯子の今日を造りあげたのはなんといっても埋め立てにある。埋め立ては明治40年ごろに始められ、大正2年に完成した。滝頭にあった刑務所の囚人を人夫がわりに使って工事は進められた。今のように機械化されていない時代のことで大事業といってもすべて人間の手で行われた。山に深さ五間、一〇間というトンネルを、五つも六つも掘って、山のシンを痛めつけ、山が崩れ落ちる寸前にトンネルから走り出て逃げる。そして崩れた岩屋土をトロッコに積んで海に捨てる。職人の技術といえば技術だが、勘にたよる工事だけに、山がくずれるとき逃げ遅れて、生き埋めになった人も、数多かった‥‥」
「屋根なし市場」の裏は刑務所あとの草ぼうぼうの原っぱで、その先のアスファルト道を市電がのろのろと走っていた。
停留所を二つゆくと市営の魚市場(八幡橋)、そこからすぐに海がひろがっていた。滝頭の子供たちは水着一枚で、歩いて泳ぎにいった。海岸のベットリした砂地を掘ると、赤い虫がとれる。それを餌にして、ボラの子やハゼが釣れた。
秋になると、原っぱの空にヤンマの群れがとぶ。子供たちは、たこ糸の両端に鉛のおもりをつけたのを空にほおって、トンボを捕った。
そういう場末の町で、ひばりは言った。そこには文明にまだ汚されない自然があり、素朴な人の心があった。「屋根なし市場」の人びとは、あけっぴろげな近隣の気安さで連帯していた。貧しくてもほがらかな、そこは庶民の世界であった。
ひばりは生まれたとき2500グラム、難産で頭部の前後が人並みよりも長かった。つまりサイヅチだった(いまでも彼女には出来あいのカツラが合わない)。子ほめにきた隣家の荒物屋の主人が、家に帰ってから「金ヅチが見当たらぬときは魚増の赤ん坊を借りてきて代用品に使えばよい」と笑った。壁ごしにそれを聞いたひばりの父親が、カンカンになって怒鳴りこむ。万事、そんな具合だった。
隣近所の話が筒ぬけになるような、へだてのない、そして、いささか落語的な「屋根なし市場」の風景をぬきにして、美空ひばりを語ることはできない。ひばりは正真正銘の街の子であり、大衆の子だった。彼女の「原体験」は、戦火に破壊される前の日本の庶民社会で形成された。
そのころ街には、古賀政男のいわゆる「古賀メロディ」が、ギターの絃に哀傷の旋律をのせて流れていた。『影を慕いて』(1929年発売)、『酒は涙かため息か』(1930年)でデビューした古賀は、『丘を越えて』『うちの女房にゃヒゲがある』『人生の並木道』『人生劇場』などを作曲して、名実ともに、歌謡界の第一人者の地歩を築いた。それらの記念碑的な歌曲は、やがて1965年、美空ひばりによってリバイバルする。
( 中 略 )
ひばりの父親――加藤増吉氏は、多芸であり多趣味であった。ギターが得意で、都々逸や端唄は玄人はだしの節まわしだった。そして、熱狂的な浪曲のファンでもあった。
1937年、その前年六月に内務省が発禁にした『忘れちゃいやよ』(最上洋作詞 渡辺はま子唄)がようやく下火になって、広沢虎造『石松代参』の名調子が全国を風靡していた。〽バカは死ななきゃなおらねえ‥‥というあれである。
増吉氏はみずから清水次郎長を気どって、店の若い衆二人に、小政、石松と異名をつけるほどの気の入れようだった。ひばり五歳のとき、その石松が、友人と「市電にぶつかって死ぬか死なぬか」というバカな賭けをした。そして、ほんとうに電車に体当たりを敢行して、冥土へ旅立ってしまった。そんなすっとんきょうな、“身命を鴻毛の軽きに置く”日本男児が健在だった時代である。男一匹、「たとえどんなにチッポケでも、てめえの城ってものを持たなきゃいけねえ」というのが増吉氏の口ぐせだった。
増吉氏は、栃木県の農村(河内郡豊岡村)の四男坊である。一六歳のときに横浜に出てきて、魚屋に奉公し、二二歳で独立して自分の店を持った。東京山谷の石炭卸商の長女であった希実枝さん(旧姓・諏訪)と見合い結婚したのは、二四歳の秋。戦前の社会で、田舎からポッと出の若ものが、たとえ九尺二間にもせよ「自分の店」を構えるのは、なみたいていのことではなかったのである。
いわば立志伝中の人である増吉氏は、なかなかエリート意識がつよく、「屋根なし市場」の文化人をもってみずから任じていた。
東海林太郎そっくりの男前だったし、宵ごしの金は持たないという気っぷであったから、増吉氏は、花柳のチマタで大いにもてた。都々逸、端唄などの「教養」は、そこで身についた。
ひばりは回想する。
「‥‥‥私のお父さんって人はよくいえば粋な人、はっきりいっちゃえば道楽ものだった。仕事もするかわりに遊びも派手で、母をずいぶん泣かせたものです。そのくせ、私が芸能界に入るときには大反対でした。歌うたいなんか、河原コジキのすることだって、死ぬまで頑固なことをいってました。でも、私に“芸”の手びきをしてくれたのは、その父だったんです。こうして目をつぶると、店の上がりかまちのとこに腰かけて、ポロロンポロロンてギターを爪弾いている父の姿がうかぶんです。“お父さんって芸人だなあ”って、思ったものでした…」
美空ひばりの最初の「歌の記憶」は、百人一首の朗詠であった。
1940(昭和15)年――皇紀二千六百年の前夜に復古調の波にのって、小倉百人一首が全国津々浦々に流行した。増吉氏は、さっそく町内の若い男女を集めて、盛大にカルタ会を開いた。「魚増」の店先からは夜も昼も、みやびやかな(?)うた声が流れた。小政がサバの切身をつくりながら「あひみてののちの心にくらぶれば」と上の句をかけると、石松がマグロのあらを皿に盛る手を休めて「昔はものをおもはざりけり」と下の句をうける。
そんな掛け合いの途中で、「めぐりあひて見しやそれともわかぬまに」という紫式部の恋歌の下の句につまっているのを聞いて、そばにいたひばりが、「雲がくれにし夜半の月かげ」すらすらと後をつけた。満三歳の冬である。
おそろいた増吉氏が、ためしに上の句をたてつづけに読みあげると、ひばりは百句のうち七十五句まで、よどみなく暗誦することができた。むろん、意味などわかりはしない。呂律で、耳におぼえていたのである。
このエピソードは重要である。たんに天才的な「暗譜(誦)」の非凡な才能があったというだけでなく、やがて大衆芸術家・美空ひばりを形成する原体験を、ここに見ることができる。ギター、都々逸、そして、百人一首、‥‥‥父親の「道楽」は、幼いひばりの魂に日本の音律を刻んだ。
百人一首の朗詠が持つ、素朴な七五調の抒情は古来、私たち民族の情動を支配してきた。それは祭文、筑前びわ、浄瑠璃など、さまざまに分化した「語り」の音曲の原型である。日本人の哀傷、詠嘆、かいぎゃく、その他もろもろの詩的感情を表白するのに、もっとも適切な音律がそこにある。」竹中労『完本 美空ひばり』ちくま文庫、2005年.pp.16-22.
焼け跡闇市的に屈折していた竹中労にとって、美空ひばりが体現していたものは、権力におもねる気取った文化人インテリや大手マスメディアが決して正当に評価しようとしない大衆芸能の象徴なのだ。吉本隆明的にいえば「大衆の原像」そのもので、それゆえにひばりはどこかいかがわしいアウトロー的匂いをもって描かれる。でも、その後の高度経済成長の飽食のなかでは、ひばりの唄はただ資本主義の爛熟のなかで朽ちてゆく紅白歌合戦的歌謡曲芸能界の女王として、葬り去られる運命にあったのかもしれない。
なので、次回はもっと単純にわれらがヒロイン、ひばり讃美で書かれた文章をあげてみる。
B.どこまで続く…ぬかるみぞ
去年の今頃も、落ち着くはずのコロナ感染者が激増して、またまた緊急事態宣言、医療崩壊かと騒いでいたことも、遠い記憶だ。なんだか、危機状況も何度も繰り返されるとなんだかわけがわからなくなって、もう誰もまともに何かをする気も失せてしまう。天気予報のように、毎日今日の感染者数は東京で1万五千人とかいわれても、ふ~んずいぶん増えたな、と思うだけで驚きはない。一日1万人なんて去年の今頃だったら衝撃的な数字だったはずだが・・・。
「月刊安心新聞:どうみるオミクロン株 制御の実感 リスク認識左右:神里達博
世界は今、「オミクロン株」拡大の最中にある。この状況を私たちはどう理解すべきなのだろうか。
これまでのところ、以前の株に比べ、感染しやすく、潜伏期間が短く、重症例の割合が小さいことが分かっている。しかし感染者数が著しく増えれば、割合が小さくても重症者の数は増加する。そのため医療資源の逼迫も懸念されているが、これは感染者数と重症化率の「かけ算」の問題である。それぞれの値の、今後の推移の見通しが得られなければ、正確な予測は難しい。
二つの数字のうち「重症化率」については、デルタ株などと比べて低いことは確実視されている。従来型との顕著な違いとしては、この株が肺では増えにくいという点がある。
その原因についても、最近、新たな仮説が提示された。新型コロナウイルスは、増殖する際に人体に元々存在するある酵素を利用する場合がある。これは肺に多く、鼻やのどなどの「上気道」には比較的少ない。
ところが、オミクロン株は変異しすぎたためか、この酵素と結合しづらくなったらしい。そのため炎症が上気道中心となり、肺炎になりにくいことから、重症化しにくく死亡率も低いようだ。
だが、もう一つの数字「感染者数」については、不確実性が大きい。そもそもオミクロン株では軽症者が多いため、感染したことに気づかない場合もあると考えられる。また感染爆発により検査自体が間に合っていないケースもあるだろう。
そうなるとやはり、信頼すべきデータは死者数ということになる。そこで、先週1週間について、COVID-19による国別の人口当たりの死者数を計算し、比べてみた。すると上位に来る国は、ほとんどが欧州と南北アメリカであった。昨年11月の本コラムで少し触れた通り、アジア・アフリカなどでは比較的少なく、欧米に多いという傾向は、現在も基本的に変わっていない。
たとえば米国では先週、平均で1日約2千人が亡くなった。これは2年前の4月、ニューヨークが危機的状況に陥った頃の死者数と同水準である。人口当たりで日本と比較すると、米国では約85倍の人命が先週、新型コロナで失われたことになる。
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リスクコミュニケーションにおいては一般に、原因や性質が異なるリスクを安易に比較すべきではないとされている。そのことを踏まえた上で、改めて考えてみたいのだが、2001年の「同時多発テロ」の直接の犠牲者は、約3千人であった。不謹慎な言い方に聞こえるかもしれないが、現在の米国での新型コロナの被害規模は、犠牲者の数としては、3日に2回のペースであのテロが起きていることに相当する。
率直に言って、米国社会は大丈夫なのだろうかと不安にもなる。しかし、米国ではむしろ、「コロナも終わりに近づいてきた」という前向きな認識が、同時に広がりつつあるようにも見えるのだ。
日本でもオミクロン株の登場以降は、同様の話を聞くことが増えたとも感じる。だが今のところ日本と米国では、先ほど触れた通り、被害のレベルがまさに「桁違い」である。なぜ私たちから見て米国はこうも楽観的に見えるのだろうか。あるいは日本が心配し過ぎなのだろうか。
リスクについての研究分野は多岐にわたるが、リスクの認知に関する心理学的研究は、一つの主要な領域となっている。そこでは、人々がどんなリスクならば引き受けるのか、どんなリスクを大きく、あるいは小さく見積もるのか、といったことが実証的に検討されてきた。
その中で明らかにされた再現性の高い知見として、「能動的なリスクは、受動的なリスクに比べ、はるかに高いレベルでも受容される」、というものがある。
例えば登山は、統計的に見るとかなり危険なスポーツに分類されるのだが、自発的に行うものなので、広く受け入れられている。自動車の運転でも、助手席に乗る人よりもドライバーのほうが、リスクを低く認識する傾向があるようだ。つまり対象を自分がコントロールしているという実感こそが、重要なのである。
この理論を踏まえると、米国では日本と比べ、コロナの問題を自分たちが制御できていると認識している人が多い、とも考えられるだろう。
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自分の生活や共同体を、自らの手で作りあげているという実感があれば、つまり自分自身が「人生のドライバーだ」と思える人が多ければ、より多くのリスクを引き受けられる、ということなのかもしれない。
これは、近代的で民主的な社会の理想に適う面もあるだろう。自由や主体性はとても大切な価値である。しかし私は同時に思うのだ。もし可能であるならば、人の死は、やはり全力で避けるべきではないか、と。
理由が不明確な部分はあるものの、少なくとも欧米との比較では、日本がコロナの制御に基本的に成功してきたのは確かだ。一方で、この2年間の政府のコロナ対応には、批判すべき点も多々あったし、また市井の人々の考え方もさまざまだろう。
だから話は単純ではないのだが、それでも、私たちの社会が総体として、諸外国と比べて慎重なコロナ対応を選んできたならば、それを恥じる必要は全くないと思うのだ。
オミクロン株の出現で、コロナ対策も局面が変化しつつある。いずれにせよ、リスクへの対応は、私たちがどんな社会を目指すのかという、根本的なところから考え始めなければならないのは、間違いない。」朝日新聞2022年1月28日朝刊13面オピニオン欄。
なるほど、世界的に比較すれば、日本はこのコロナ禍にかなり少ないダメージで乗り切ったということになるのかもしれない。それは、国民が政府の施策に従順で、むやみな自己主張をしなかった結果なのか、それとも欧米に比べもともと人間の密な身体的接触をしない文化だからなのか、いまはまだ結論は出ない。でも、この2年以上にわたるコロナ禍の経験は、これからの日本社会にどんな心理的影響を残すのか?そこは社会科学の問題だとおもう。