A.戦争は予期されていたのか?
昭和十年代、日本の軍部とくに陸軍が考えていた主要な仮想敵はソ連だった。満洲と樺太で国境を接するソ連は、スターリン体制の確立で力をつけ、隙あらば関東軍の守る満州に攻め込んでくると想定して、軍備を増強していた。しかし、広いロシアで極東は遠く、東から迫るナチス・ドイツと戦って社会主義国家を維持するには、とりあえず日本と本格的な戦争をする余裕はない。そのことを深刻な危機として顕在化させたのが1939年のノモンハンの戦闘だった。モンゴル軍とソ連軍は日本の進攻を食い止めた。スターリンはこの対日戦略を深刻なものと受け止めたが、日本軍(関東軍)と日本国民は何が起きているかを直視せず、国境紛争のちょっとした小競り合いのように粉飾した。しかし、軍事のプロからみれば、日本軍がソ連軍と本格的な地上戦争をしたらまず負けるという教訓を確認するべきだった。その後、第2次大戦が始まり、独ソ戦が激しくなると極東まで手が回らないと日ソ不可侵条約を結ぶ。いまは日本とは戦争しない、となれば日本軍は日中戦争に力を注げる。だがそれが結果として対米英を相手に大戦争を始める「南進論」を導いたことになる。スターリンは最終的に戦争に勝つためならあらゆる手を使い、極東の侵略も忘れたわけではなく、つねにソ連の影響力と領土への野心を持ち続けていた。
「第二次世界戦争は1939年に始まる。その開始はソ連の動向と微妙に関連している。
この年五月、満州国とモンゴル人民共和国の国境ノモンハンの近くで日本軍とモンゴル軍が衝突した。日本軍がハルハ川が国境線だとして侵入すると、ソ連軍が出動して、日ソ戦争の様相を呈した。大本営は日中戦争中であり、不拡大の方針をとったが、現地関東軍はこれに従わず、七月下旬には新鋭の第二十三師団と在満機械化部隊の総力を投入して、攻勢に出た。ソ連側は新任の司令官ジューコフの指揮下にこの攻勢を食い止めた。そして8月20日空軍部隊と精鋭戦車部隊を集め、日本軍に総攻撃を加え、壊滅に追い込んだ。これはソ連が内戦終了以降外国との戦争で集めた最初の勝利であった。この勝利はソ連人に自信を与えたものである。
しかし、スターリンは事態を深刻にとらえていた。リトヴィノフ外相が進める英仏との反独連合の話し合いは望ましいテンポで進展しなかった。他方でドイツ側からの提携の働きかけは急だった。そこでついに日本軍との戦闘が続く中で、スターリンは8月23日リッペントロップ外相をモスクワに迎えて、独ソ不可侵条約を結んだ。日独挟撃をさけたいという意図は十分に理解できる。条約調印の報に日本の平沼内閣は「欧州情勢複雑怪奇」との言葉を残して、総辞職してしまう。日本とドイツの間にスターリンはくさびを打ち込むことに成功したのである。
だが、この条約には秘密議定書があり、ヒトラーとスターリンは東欧の勢力圏分割を行ったのであった。ポーランドの東半分、フィンランド、エストニア、ラトヴィア、ベッサラビアがソ連の勢力圏と認められた。ヒトラーがこの秘密議定書に基づいて、調印八日後、ポーランドに西から侵攻すると、ただちに英仏はポーランドを擁護してドイツに宣戦布告した。第二次世界戦争はかくして始まった。
9月17日、ソ連は東からポーランドに侵攻し、西ウクライナとして併合した。安全保障と失地回復の名における帝国主義的侵略行為である。さらに9月28日、ソ連はエストニアに圧力を加えて、ソ連軍2万5000の駐留を認めさせる相互援助条約を調印させた。この日、ソ連とドイツは友好境界条約と修正秘密議定書に調印した。この修正議定書によってソ連の勢力圏に含めることが合意されたリトアニアに対して、ソ連は圧力を加え、10月10日ソ連軍3万5000の駐留を認める相互援助条約に調印させた。ラトヴィアとは五日前に相互援助条約を結んでいた。ソ連はさらにフィンランドにも国境地帯割譲と基地貸与を内容とする相互援助条約の調印を求めたが、拒絶された。そこでソ連はコミンテルンの活動家で、フィンランド人のクーシネンに「革命」政府の用意をさせながら、11月29日フィンランド側の攻撃を理由に宣戦布告した。フィンランド人は屈せず、長期の戦争となったが、結局、フィンランド側がカレリア地方の割譲を認め、平和条約が結ばれた。
1940年6月、フランスがドイツに降伏したと同じ月、ソ連は相互援助条約をてことして、さらに大量の軍隊をバルト三国に侵入させた。そのうえで全権代表を送り込んで、親ソ政府を樹立させた。エストニアにはジダーノフ、ラトヴィアにはヴィシンスキーといった人物が全権代表として赴き、生まれた新政府に議会の選挙をやらせ、共産党中心の議会ができると、議会にソビエト政権樹立を宣言させ、ソ連邦への加盟の願いを決議させたのである。
同時にソ連軍はルーマニアにも侵攻し、旧領ベッサラビア地方を占領した。1940年8月上旬、ソ連最高会議はモルダヴィア・ソビエト共和国の建国とソ連邦加入、リトアニア、ラトヴィア、エストニア・ソビエト共和国のソ連邦加入を承認した。それは自発的合邦という形式のもとでの暴力的併合であり、旧ロシア帝国領土の回復であった。ソ連邦を完成した四共和国の「加入」は、ソ連邦がまぎれもなくロシア帝国を継承する帝国であることを示したものであった。
ソ連は今や世界戦争の客体ではなく主体であった。
ヒトラー・ドイツに対するソ連の勝利
ヒトラー・ドイツと国家社会主義・ソ連との同盟は長くは続かなかった。1941年6月22日、ヒトラーはソ連に対して電撃的に奇襲攻撃を加えた。スターリンはこの攻撃にかんして多くの警告、情報を受け取りながら、それらは独ソをこの時点で戦わせようとする英米の陰謀に発するものと考え、警戒措置を講じなかった。このため
ドイツ空軍が空襲を開始したとき、応戦してよいものかどうかで、前線のソ連軍に混乱さえ起ったのである。当然ながら緒戦はソ連軍の壊滅、全面的な敗走となった。開戦二ヶ月で、ヨーロッパ・ロシアの過半が占領され、首都の郊外にまでドイツ軍が迫るにいたった。
スターリンは開戦によって衝撃を受けた。気を取り直した彼が国民に向かって、異例にも「兄弟、姉妹よ」と呼びかけ、徹底抗戦を訴えたのは7月3日のことであった。緒戦の大敗北の中で、10日間の指導の空白の中で、国民一人一人が戦争と向かい合った。人工的、抑圧的な恐怖は去り、人々は自分の判断で敵を認定して、主体的に立ち上がるにいたった。人々はスターリン抜きで戦争に入っていったのである。それは「自然発生的な非スターリン化」(ゲフテル)と言ってよい状況であった。恐怖の第二次構造物は解体されたのである。自律的な精神がソ連国民の英雄的な苦難の闘争の基礎にある。
そのような人々の本質的に自律的な抵抗の典型例は、包囲されたレニングラード市民の戦いに見いだすことができる。放送局で語り続けた若い女流詩人オリガ・ベルゴリツは、夫を「人民の敵」として殺され、自分もラーゲリから出てきた人であった。ラーゲリに奪われた息子のためにレクイエムを書いたもう一人の女流詩人アンナ・アフマートヴァは放送に出て、この町の苦しみ多き女の一人として語った。「このような女たちを生み育てた都市は不敗です」。人々の間に30年代にはみられなかった和解と一致が生まれた。そして人々は自分たちの戦争を戦った。1941年から42年の冬、この町で餓死した人の数は80万人と推定されている。
しかし、この人々の自立的抵抗とともに力を発揮したのは国家社会主義体制であった。スターリンは最高総司令官に就任し、自分が議長となって、モロトフ、ベリヤ、マレンコフ、ヴォロシーロフよりなる国家防衛委員会(GKO)を設置し、戦争遂行の全権を掌握した。この委員会の命令がそのまま法律として最終的な効力をもった。人々はいまや強制、恐怖によってではなく、自発的にスターリンと国家防衛委員会の命令を実行したのだが、委員会は命令の貫徹のためにあらゆるメカニズムを使った。この委員会は党政治局、書記局、閣僚会議、最高会議幹部会の上に立ち、これらの機構を自らの下部機構として動かした。全権代表が派遣され、国家防衛委員会の命令の執行と戦争目的のための総動員に向けて活動した。国民の力を総動員するために次々と峻厳な命令が出された。41年12月、42年9月の命令で、軍需産業、輸送業などの労働者は職場を離れることが禁止された。42年2月には男子16歳から55歳まで、女子16歳から4歳までの全員が労働につくことが義務とされた。男子が前線に出たため、工業でも戦前41パーセントだった女子労働の比率は42年に52パーセントに上がったが、農村部では女たちが厳しい生産の課題を超人的な努力で履行した。軍需産業のウラル以東への疎開とそこでの生産の拡大、そして鉄道による物資、人員の輸送がとくにめざましく組織された。強行的工業化の成果がここに生かされたのは明らかである。
国家社会主義は第一次大戦中のドイツの「戦争社会主義」をモデルとして構想されたものである。同じドイツに生まれた「国民社会主義」という恐るべき敵を相手にする戦争において、国家社会主義は新しい強力な総力戦体制として立ち現れ、国民の自立的な抗戦意識と結合することによって勝利することができたのである。
41年の冬にモスクワを守ることに成功したソ連軍は、全ウクライナから北カフカースまで占領したドイツ軍と42年8月からスターリングラードで戦うことになった。激しい攻防戦の末、11月ソ連軍は反攻に転じ、ドイツ軍30万を包囲、降伏させた。しかし、この勝利ののちも困難な戦闘が続いたが、43年夏のクルスクの戦いで戦車と空軍による激突に勝利してから、ソ連側は退却するドイツ軍に対する追撃戦に移ったのである。44年1月ソ連軍はレニングラードを完全開放し、5月にはクリミヤのセヴァストーポリを解放して、ソ連領からドイツ軍をほぼ追い出すことに成功した。ようやくこの時点で連合国のノルマンディ―上陸作戦が実施されるのであり、ヒトラー・ドイツを敗北させた主力は、ドイツ軍を自国の中に引きこんで壊滅させたソ連にあったことは明らかである。
ソ連軍は45年4月半ばからベルリン攻撃を開始した。4月30日ヒトラーは自殺し、5月8日カイテル提督がジューコフ元帥の前で降伏文書に署名した。5月9日、赤の広場で対独戦勝利の祝賀式典が行われた。
だが犠牲はあまりに大きかった。戦場で戦死した兵士のほかに、捕虜になって死んだ兵士の数も多い。捕虜になった500万人中戦後に帰還したのは100万人にすぎなかった。民間人も多く殺されたが、とくに例外なしにドイツ軍が処刑したのは共産党員であった。ユダヤ人はゲットーに追い込まれ、キーエフのバービー・ヤールの谷で殺されたり、ポーランドの収容所に送られて、ガス室で殺された。さらにドイツは数百万人を強制連行して、ドイツで働かせた。その中でも多くの人が死んだ。もちろん戦火の中を難民としてソ連を脱出した人もいた。包囲された都市で食糧がなくて餓死した市民もいる。これら死者と難民の総数として、2000万人の人口減が記録されている。戦争が始まったときのソ連の人口が1億9000万人であったことを思うと、この犠牲は巨大である。第二次大戦でこれほどの犠牲を出した国民はない。」和田春樹『歴史としての社会主義』岩波新書、1992.pp.118-125.
ソ連国民が、スターリン独裁の上からの革命で、恐怖と抑圧に怯えていた時代が、ドイツの進攻でウクライナ、レニングラード、そして首都モスクワにまで攻め込まれて、ある意味「主体的に」祖国防衛戦争を必死で戦ったわけだ。そして、この戦争は最終的に勝利した。「勝った戦争」はどの国民にとっても誇らしく、その犠牲者も英雄と称えられる。しかし、2000万人という数字は、想像を超えた悲惨、哀しみ、深い嘆きを戦争の犠牲者に強いたはずだ。そのことを簡単に忘れることはできないだろう。
B.なんかなあ…
オリンピックは家でテレビで応援せよ、という声のもと、NHKはニュースもそこそこに連日、五輪競技の報道、「やった!やりました!金メダル」という絶叫が続いている。頑張って競技している選手たちを悪く言うものはいない。だが、「なんだかんだいわれても、やっちゃえば日の丸選手の活躍にみんな喜ぶはずだ」という主催者と政府与党の幹部が思っていることは間違いない。さて、これで最後まで無事終わるんだろうか?コロナ感染は日々記録を更新しているというのに。
「五輪が盗むスポーツの価値 作家 星野智幸さん 2020+1 思う
24日に行われたオリンピック(五輪)の女子サッカー、日本―イギリス戦のキックオフ直前、私はかたずをのんで画面を見守っていた。イギリスの選手たちが片ひざをつくのと同時に、日本の選手たちも片膝をついた。ちょっと涙ぐみそうになった。
日本のスポーツで、選手が自分の意思で人種差別に抗議を表した瞬間だった。日本の選手たちはそれをとても自然な行動として示した。とうとう、日本の女子サッカーもここまで来たんだな、という感慨があった。その後の、両チームの魂のこもった試合展開まで含めて、特別なものを見たという気持ちの高ぶりがあった。
なぜ、この行為が重要かというと、人種差別をスルーしたら、サッカーの現場が差別の応酬になって、サッカーが成り立たなくなるからだ。自分たちが人生を賭けているサッカーを守るためには、人種差別への反対を人任せにするのではなく、選手が個人として意思表示することが鍵となる。そのことで、差別の対象になる選手もそうでない選手も、互いが味方なのだと思えるから。選手たち個人の信頼を失わないためにも大切なのだ。サッカーに政治をもちこんでいるのではなく、サッカーを暴力から守る行為なのである。
常に、男子スポーツの標準から排除されてきた女子スポーツには、競技者個々人が信頼しあって自分たちを守っていく、という性格がある。特に女子サッカーはアメリカが中心となって、自分たちで決める、という意思をかなり自覚的に実践して、女子スポーツの文化をリードしてきた。
だから私は、女子サッカーこそが、今噴き出しているスポーツの負の側面を変えて、新しい力を体現してくれると信じており、長年なでしこリーグの応援を続けている。
それなのに、片ひざをつく場面を目にして感慨を覚えながら、一方で、その感慨が虚無に吸いこまれていくのも感じる。感銘は、たちまちのうちに後ろめたさと絶望に取って代わられる。
差別に対して意思表示をするその行為は、開催地日本の住民の意思を一顧だにせずに強行開催された五輪という舞台の上でなされているからだ。
新型コロナウイルスのデルタ株に怯えるワクチン未接種者が大半を占め、医療も逼迫の恐れがあり、医療従事者は1年半以上の緊張の持続の上にさらなる過労とストレスを強いられ、コロナ禍で貧困に陥って炊き出しにくる人たちは増え続けている中で、今は開催しないでほしいと思う大半の住民の気持ちを踏みにじって、五輪は開催された。
そんな暴力的なやり方で築かれた舞台の上で示される表現を、素直に受け取ることは難しい。多様性のあり方や不公正への批判や、自分を信じる力や仲間を信じる力。選手の示すそれらの表現がどれも真摯で全身全霊のものであることを、スポーツファンの私は疑わない。しかし、そのようなスポーツの示す価値が、表されるそばから、「ほらね、五輪は素晴らしいだろ」とばかりに五輪の価値にすり替えられてしまうことに、スポーツを信じている私はひどく傷つき、怒り、苛立ち、消耗する。
五輪は、私たちのスポーツを信じる心を収奪し、自分たちの利益に変えてしまう。コロナ禍で強行開催された東京五輪は、化けの皮を剥ぎ取られて、そんな五輪の本質を露わにした。スポーツの持つ価値を奪って自分たちのものにし、たくさんの人を犠牲にする側面を隠すようにかぶせ、あたかも五輪だからこそ価値のあることが実現できたかのように見せる。五輪は常に、そのような横取りと粉飾を繰り返して成り立ってきたのだ。
日本や世界の観客たち、医療従事者たちが、五輪を素直に受け入れられないでいることは、誰よりも選手が敏感に感じているだろう。人々に見てもらうことが最大の存在理由であり、応援を力とする選手なのだから、その矛盾に心の中は引き裂かれていると思う。
だからこそ、よけい必死になって、スポーツの持つ価値、自分たちが競技することで与えられる力を示そうと努める。特に地元開催の日本の選手たちは、痛々しいまでに懸命だ。それは、差別への抗議行動と同様、自分たちの信じるスポーツを守ろうとする姿勢だ。
開幕前に「スポーツの価値が問われる」と語っていた、女子サッカーの岩渕真奈選手のカナダ戦やチリ戦でのプレーは、これまでとは別次元でチームのために無私となっていて、私はとても胸を打たれた。でもその姿は、強制的独裁的に五輪を開催してよかったのだという正当化に利用されてしまうのだ。そして、観客とファンと選手が分断される。
あくまでも競技の中で意思表示するしかない選手たちに、五輪という舞台作りを根本から批判することは難しいだろう。結局は排除されるだけだから。
でも、私が願うのは、現役中に難しいのであれば、せめて引退してから、スポーツファンにこんな苦しい思いをさせる五輪のあり方を変えるよう、努めてほしいということ。多大な犠牲と不公正の上で成り立っている五輪に参加した選手たちには、それを変える責任があると思う。この欺瞞に満ちた五輪を支えてきた運営の責任者たちは、かつて栄光を誇った実績ある五輪アスリートたちばかりなのだ。ファンだった私はどれほど裏切られ、失望したことか。そんな惨めなありさまは、二度と見たくない。
苦渋に満ちた東京五輪を経験した選手たちなら、スポーツを掛け値なく信じられるものにするよう、ファンや観客とともにあってくれると期待している。そして私たちスポーツの力を知っているファンも、一緒に最大限の努力をする準備はできている。 (寄稿)」朝日新聞2021年7月30日朝刊、15面スポーツ欄。
星野氏はスポーツを愛しているようだが、スポーツというのは選手がやっているのを見るのと、自分がからだを動かして楽しむ行為があり、オリンピックは優秀な能力を発揮するアスリートを、ぼくらが眺めるだけだ。1964年東京オリンピックで、ぼくらが知ったのは、すごい選手の飛び抜けた動きを見るのは楽しい、という経験だった。だが、今ぼくらはテレビですごい選手の技ばかり見ているが、自分ではますます身体を動かさない。自分で身体を動かして汗をかくことも忘れたくないと、このコロナ禍の日々、高齢者ながら毎日散歩してちょっと走ったりしている。オリンピックはほとんど見ない。