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ロシア革命とは何だったのか 6  対独対日戦争に勝利したソ連 コロナ五輪の悪用?

2021-07-30 15:24:49 | 日記
A.戦争は予期されていたのか?
 昭和十年代、日本の軍部とくに陸軍が考えていた主要な仮想敵はソ連だった。満洲と樺太で国境を接するソ連は、スターリン体制の確立で力をつけ、隙あらば関東軍の守る満州に攻め込んでくると想定して、軍備を増強していた。しかし、広いロシアで極東は遠く、東から迫るナチス・ドイツと戦って社会主義国家を維持するには、とりあえず日本と本格的な戦争をする余裕はない。そのことを深刻な危機として顕在化させたのが1939年のノモンハンの戦闘だった。モンゴル軍とソ連軍は日本の進攻を食い止めた。スターリンはこの対日戦略を深刻なものと受け止めたが、日本軍(関東軍)と日本国民は何が起きているかを直視せず、国境紛争のちょっとした小競り合いのように粉飾した。しかし、軍事のプロからみれば、日本軍がソ連軍と本格的な地上戦争をしたらまず負けるという教訓を確認するべきだった。その後、第2次大戦が始まり、独ソ戦が激しくなると極東まで手が回らないと日ソ不可侵条約を結ぶ。いまは日本とは戦争しない、となれば日本軍は日中戦争に力を注げる。だがそれが結果として対米英を相手に大戦争を始める「南進論」を導いたことになる。スターリンは最終的に戦争に勝つためならあらゆる手を使い、極東の侵略も忘れたわけではなく、つねにソ連の影響力と領土への野心を持ち続けていた。

 「第二次世界戦争は1939年に始まる。その開始はソ連の動向と微妙に関連している。
 この年五月、満州国とモンゴル人民共和国の国境ノモンハンの近くで日本軍とモンゴル軍が衝突した。日本軍がハルハ川が国境線だとして侵入すると、ソ連軍が出動して、日ソ戦争の様相を呈した。大本営は日中戦争中であり、不拡大の方針をとったが、現地関東軍はこれに従わず、七月下旬には新鋭の第二十三師団と在満機械化部隊の総力を投入して、攻勢に出た。ソ連側は新任の司令官ジューコフの指揮下にこの攻勢を食い止めた。そして8月20日空軍部隊と精鋭戦車部隊を集め、日本軍に総攻撃を加え、壊滅に追い込んだ。これはソ連が内戦終了以降外国との戦争で集めた最初の勝利であった。この勝利はソ連人に自信を与えたものである。
 しかし、スターリンは事態を深刻にとらえていた。リトヴィノフ外相が進める英仏との反独連合の話し合いは望ましいテンポで進展しなかった。他方でドイツ側からの提携の働きかけは急だった。そこでついに日本軍との戦闘が続く中で、スターリンは8月23日リッペントロップ外相をモスクワに迎えて、独ソ不可侵条約を結んだ。日独挟撃をさけたいという意図は十分に理解できる。条約調印の報に日本の平沼内閣は「欧州情勢複雑怪奇」との言葉を残して、総辞職してしまう。日本とドイツの間にスターリンはくさびを打ち込むことに成功したのである。
 だが、この条約には秘密議定書があり、ヒトラーとスターリンは東欧の勢力圏分割を行ったのであった。ポーランドの東半分、フィンランド、エストニア、ラトヴィア、ベッサラビアがソ連の勢力圏と認められた。ヒトラーがこの秘密議定書に基づいて、調印八日後、ポーランドに西から侵攻すると、ただちに英仏はポーランドを擁護してドイツに宣戦布告した。第二次世界戦争はかくして始まった。
 9月17日、ソ連は東からポーランドに侵攻し、西ウクライナとして併合した。安全保障と失地回復の名における帝国主義的侵略行為である。さらに9月28日、ソ連はエストニアに圧力を加えて、ソ連軍2万5000の駐留を認めさせる相互援助条約を調印させた。この日、ソ連とドイツは友好境界条約と修正秘密議定書に調印した。この修正議定書によってソ連の勢力圏に含めることが合意されたリトアニアに対して、ソ連は圧力を加え、10月10日ソ連軍3万5000の駐留を認める相互援助条約に調印させた。ラトヴィアとは五日前に相互援助条約を結んでいた。ソ連はさらにフィンランドにも国境地帯割譲と基地貸与を内容とする相互援助条約の調印を求めたが、拒絶された。そこでソ連はコミンテルンの活動家で、フィンランド人のクーシネンに「革命」政府の用意をさせながら、11月29日フィンランド側の攻撃を理由に宣戦布告した。フィンランド人は屈せず、長期の戦争となったが、結局、フィンランド側がカレリア地方の割譲を認め、平和条約が結ばれた。
 1940年6月、フランスがドイツに降伏したと同じ月、ソ連は相互援助条約をてことして、さらに大量の軍隊をバルト三国に侵入させた。そのうえで全権代表を送り込んで、親ソ政府を樹立させた。エストニアにはジダーノフ、ラトヴィアにはヴィシンスキーといった人物が全権代表として赴き、生まれた新政府に議会の選挙をやらせ、共産党中心の議会ができると、議会にソビエト政権樹立を宣言させ、ソ連邦への加盟の願いを決議させたのである。
 同時にソ連軍はルーマニアにも侵攻し、旧領ベッサラビア地方を占領した。1940年8月上旬、ソ連最高会議はモルダヴィア・ソビエト共和国の建国とソ連邦加入、リトアニア、ラトヴィア、エストニア・ソビエト共和国のソ連邦加入を承認した。それは自発的合邦という形式のもとでの暴力的併合であり、旧ロシア帝国領土の回復であった。ソ連邦を完成した四共和国の「加入」は、ソ連邦がまぎれもなくロシア帝国を継承する帝国であることを示したものであった。
 ソ連は今や世界戦争の客体ではなく主体であった。
  ヒトラー・ドイツに対するソ連の勝利
 ヒトラー・ドイツと国家社会主義・ソ連との同盟は長くは続かなかった。1941年6月22日、ヒトラーはソ連に対して電撃的に奇襲攻撃を加えた。スターリンはこの攻撃にかんして多くの警告、情報を受け取りながら、それらは独ソをこの時点で戦わせようとする英米の陰謀に発するものと考え、警戒措置を講じなかった。このため
ドイツ空軍が空襲を開始したとき、応戦してよいものかどうかで、前線のソ連軍に混乱さえ起ったのである。当然ながら緒戦はソ連軍の壊滅、全面的な敗走となった。開戦二ヶ月で、ヨーロッパ・ロシアの過半が占領され、首都の郊外にまでドイツ軍が迫るにいたった。
 スターリンは開戦によって衝撃を受けた。気を取り直した彼が国民に向かって、異例にも「兄弟、姉妹よ」と呼びかけ、徹底抗戦を訴えたのは7月3日のことであった。緒戦の大敗北の中で、10日間の指導の空白の中で、国民一人一人が戦争と向かい合った。人工的、抑圧的な恐怖は去り、人々は自分の判断で敵を認定して、主体的に立ち上がるにいたった。人々はスターリン抜きで戦争に入っていったのである。それは「自然発生的な非スターリン化」(ゲフテル)と言ってよい状況であった。恐怖の第二次構造物は解体されたのである。自律的な精神がソ連国民の英雄的な苦難の闘争の基礎にある。
 そのような人々の本質的に自律的な抵抗の典型例は、包囲されたレニングラード市民の戦いに見いだすことができる。放送局で語り続けた若い女流詩人オリガ・ベルゴリツは、夫を「人民の敵」として殺され、自分もラーゲリから出てきた人であった。ラーゲリに奪われた息子のためにレクイエムを書いたもう一人の女流詩人アンナ・アフマートヴァは放送に出て、この町の苦しみ多き女の一人として語った。「このような女たちを生み育てた都市は不敗です」。人々の間に30年代にはみられなかった和解と一致が生まれた。そして人々は自分たちの戦争を戦った。1941年から42年の冬、この町で餓死した人の数は80万人と推定されている。
 しかし、この人々の自立的抵抗とともに力を発揮したのは国家社会主義体制であった。スターリンは最高総司令官に就任し、自分が議長となって、モロトフ、ベリヤ、マレンコフ、ヴォロシーロフよりなる国家防衛委員会(GKO)を設置し、戦争遂行の全権を掌握した。この委員会の命令がそのまま法律として最終的な効力をもった。人々はいまや強制、恐怖によってではなく、自発的にスターリンと国家防衛委員会の命令を実行したのだが、委員会は命令の貫徹のためにあらゆるメカニズムを使った。この委員会は党政治局、書記局、閣僚会議、最高会議幹部会の上に立ち、これらの機構を自らの下部機構として動かした。全権代表が派遣され、国家防衛委員会の命令の執行と戦争目的のための総動員に向けて活動した。国民の力を総動員するために次々と峻厳な命令が出された。41年12月、42年9月の命令で、軍需産業、輸送業などの労働者は職場を離れることが禁止された。42年2月には男子16歳から55歳まで、女子16歳から4歳までの全員が労働につくことが義務とされた。男子が前線に出たため、工業でも戦前41パーセントだった女子労働の比率は42年に52パーセントに上がったが、農村部では女たちが厳しい生産の課題を超人的な努力で履行した。軍需産業のウラル以東への疎開とそこでの生産の拡大、そして鉄道による物資、人員の輸送がとくにめざましく組織された。強行的工業化の成果がここに生かされたのは明らかである。
 国家社会主義は第一次大戦中のドイツの「戦争社会主義」をモデルとして構想されたものである。同じドイツに生まれた「国民社会主義」という恐るべき敵を相手にする戦争において、国家社会主義は新しい強力な総力戦体制として立ち現れ、国民の自立的な抗戦意識と結合することによって勝利することができたのである。
 41年の冬にモスクワを守ることに成功したソ連軍は、全ウクライナから北カフカースまで占領したドイツ軍と42年8月からスターリングラードで戦うことになった。激しい攻防戦の末、11月ソ連軍は反攻に転じ、ドイツ軍30万を包囲、降伏させた。しかし、この勝利ののちも困難な戦闘が続いたが、43年夏のクルスクの戦いで戦車と空軍による激突に勝利してから、ソ連側は退却するドイツ軍に対する追撃戦に移ったのである。44年1月ソ連軍はレニングラードを完全開放し、5月にはクリミヤのセヴァストーポリを解放して、ソ連領からドイツ軍をほぼ追い出すことに成功した。ようやくこの時点で連合国のノルマンディ―上陸作戦が実施されるのであり、ヒトラー・ドイツを敗北させた主力は、ドイツ軍を自国の中に引きこんで壊滅させたソ連にあったことは明らかである。
 ソ連軍は45年4月半ばからベルリン攻撃を開始した。4月30日ヒトラーは自殺し、5月8日カイテル提督がジューコフ元帥の前で降伏文書に署名した。5月9日、赤の広場で対独戦勝利の祝賀式典が行われた。
 だが犠牲はあまりに大きかった。戦場で戦死した兵士のほかに、捕虜になって死んだ兵士の数も多い。捕虜になった500万人中戦後に帰還したのは100万人にすぎなかった。民間人も多く殺されたが、とくに例外なしにドイツ軍が処刑したのは共産党員であった。ユダヤ人はゲットーに追い込まれ、キーエフのバービー・ヤールの谷で殺されたり、ポーランドの収容所に送られて、ガス室で殺された。さらにドイツは数百万人を強制連行して、ドイツで働かせた。その中でも多くの人が死んだ。もちろん戦火の中を難民としてソ連を脱出した人もいた。包囲された都市で食糧がなくて餓死した市民もいる。これら死者と難民の総数として、2000万人の人口減が記録されている。戦争が始まったときのソ連の人口が1億9000万人であったことを思うと、この犠牲は巨大である。第二次大戦でこれほどの犠牲を出した国民はない。」和田春樹『歴史としての社会主義』岩波新書、1992.pp.118-125.

 ソ連国民が、スターリン独裁の上からの革命で、恐怖と抑圧に怯えていた時代が、ドイツの進攻でウクライナ、レニングラード、そして首都モスクワにまで攻め込まれて、ある意味「主体的に」祖国防衛戦争を必死で戦ったわけだ。そして、この戦争は最終的に勝利した。「勝った戦争」はどの国民にとっても誇らしく、その犠牲者も英雄と称えられる。しかし、2000万人という数字は、想像を超えた悲惨、哀しみ、深い嘆きを戦争の犠牲者に強いたはずだ。そのことを簡単に忘れることはできないだろう。


B.なんかなあ…
 オリンピックは家でテレビで応援せよ、という声のもと、NHKはニュースもそこそこに連日、五輪競技の報道、「やった!やりました!金メダル」という絶叫が続いている。頑張って競技している選手たちを悪く言うものはいない。だが、「なんだかんだいわれても、やっちゃえば日の丸選手の活躍にみんな喜ぶはずだ」という主催者と政府与党の幹部が思っていることは間違いない。さて、これで最後まで無事終わるんだろうか?コロナ感染は日々記録を更新しているというのに。

 「五輪が盗むスポーツの価値  作家 星野智幸さん 2020+1 思う
 24日に行われたオリンピック(五輪)の女子サッカー、日本―イギリス戦のキックオフ直前、私はかたずをのんで画面を見守っていた。イギリスの選手たちが片ひざをつくのと同時に、日本の選手たちも片膝をついた。ちょっと涙ぐみそうになった。
 日本のスポーツで、選手が自分の意思で人種差別に抗議を表した瞬間だった。日本の選手たちはそれをとても自然な行動として示した。とうとう、日本の女子サッカーもここまで来たんだな、という感慨があった。その後の、両チームの魂のこもった試合展開まで含めて、特別なものを見たという気持ちの高ぶりがあった。 
 なぜ、この行為が重要かというと、人種差別をスルーしたら、サッカーの現場が差別の応酬になって、サッカーが成り立たなくなるからだ。自分たちが人生を賭けているサッカーを守るためには、人種差別への反対を人任せにするのではなく、選手が個人として意思表示することが鍵となる。そのことで、差別の対象になる選手もそうでない選手も、互いが味方なのだと思えるから。選手たち個人の信頼を失わないためにも大切なのだ。サッカーに政治をもちこんでいるのではなく、サッカーを暴力から守る行為なのである。
 常に、男子スポーツの標準から排除されてきた女子スポーツには、競技者個々人が信頼しあって自分たちを守っていく、という性格がある。特に女子サッカーはアメリカが中心となって、自分たちで決める、という意思をかなり自覚的に実践して、女子スポーツの文化をリードしてきた。
 だから私は、女子サッカーこそが、今噴き出しているスポーツの負の側面を変えて、新しい力を体現してくれると信じており、長年なでしこリーグの応援を続けている。
 それなのに、片ひざをつく場面を目にして感慨を覚えながら、一方で、その感慨が虚無に吸いこまれていくのも感じる。感銘は、たちまちのうちに後ろめたさと絶望に取って代わられる。
 差別に対して意思表示をするその行為は、開催地日本の住民の意思を一顧だにせずに強行開催された五輪という舞台の上でなされているからだ。
 新型コロナウイルスのデルタ株に怯えるワクチン未接種者が大半を占め、医療も逼迫の恐れがあり、医療従事者は1年半以上の緊張の持続の上にさらなる過労とストレスを強いられ、コロナ禍で貧困に陥って炊き出しにくる人たちは増え続けている中で、今は開催しないでほしいと思う大半の住民の気持ちを踏みにじって、五輪は開催された。
 そんな暴力的なやり方で築かれた舞台の上で示される表現を、素直に受け取ることは難しい。多様性のあり方や不公正への批判や、自分を信じる力や仲間を信じる力。選手の示すそれらの表現がどれも真摯で全身全霊のものであることを、スポーツファンの私は疑わない。しかし、そのようなスポーツの示す価値が、表されるそばから、「ほらね、五輪は素晴らしいだろ」とばかりに五輪の価値にすり替えられてしまうことに、スポーツを信じている私はひどく傷つき、怒り、苛立ち、消耗する。
 五輪は、私たちのスポーツを信じる心を収奪し、自分たちの利益に変えてしまう。コロナ禍で強行開催された東京五輪は、化けの皮を剥ぎ取られて、そんな五輪の本質を露わにした。スポーツの持つ価値を奪って自分たちのものにし、たくさんの人を犠牲にする側面を隠すようにかぶせ、あたかも五輪だからこそ価値のあることが実現できたかのように見せる。五輪は常に、そのような横取りと粉飾を繰り返して成り立ってきたのだ。
 日本や世界の観客たち、医療従事者たちが、五輪を素直に受け入れられないでいることは、誰よりも選手が敏感に感じているだろう。人々に見てもらうことが最大の存在理由であり、応援を力とする選手なのだから、その矛盾に心の中は引き裂かれていると思う。
 だからこそ、よけい必死になって、スポーツの持つ価値、自分たちが競技することで与えられる力を示そうと努める。特に地元開催の日本の選手たちは、痛々しいまでに懸命だ。それは、差別への抗議行動と同様、自分たちの信じるスポーツを守ろうとする姿勢だ。
 開幕前に「スポーツの価値が問われる」と語っていた、女子サッカーの岩渕真奈選手のカナダ戦やチリ戦でのプレーは、これまでとは別次元でチームのために無私となっていて、私はとても胸を打たれた。でもその姿は、強制的独裁的に五輪を開催してよかったのだという正当化に利用されてしまうのだ。そして、観客とファンと選手が分断される。
 あくまでも競技の中で意思表示するしかない選手たちに、五輪という舞台作りを根本から批判することは難しいだろう。結局は排除されるだけだから。
 でも、私が願うのは、現役中に難しいのであれば、せめて引退してから、スポーツファンにこんな苦しい思いをさせる五輪のあり方を変えるよう、努めてほしいということ。多大な犠牲と不公正の上で成り立っている五輪に参加した選手たちには、それを変える責任があると思う。この欺瞞に満ちた五輪を支えてきた運営の責任者たちは、かつて栄光を誇った実績ある五輪アスリートたちばかりなのだ。ファンだった私はどれほど裏切られ、失望したことか。そんな惨めなありさまは、二度と見たくない。
 苦渋に満ちた東京五輪を経験した選手たちなら、スポーツを掛け値なく信じられるものにするよう、ファンや観客とともにあってくれると期待している。そして私たちスポーツの力を知っているファンも、一緒に最大限の努力をする準備はできている。 (寄稿)」朝日新聞2021年7月30日朝刊、15面スポーツ欄。

 星野氏はスポーツを愛しているようだが、スポーツというのは選手がやっているのを見るのと、自分がからだを動かして楽しむ行為があり、オリンピックは優秀な能力を発揮するアスリートを、ぼくらが眺めるだけだ。1964年東京オリンピックで、ぼくらが知ったのは、すごい選手の飛び抜けた動きを見るのは楽しい、という経験だった。だが、今ぼくらはテレビですごい選手の技ばかり見ているが、自分ではますます身体を動かさない。自分で身体を動かして汗をかくことも忘れたくないと、このコロナ禍の日々、高齢者ながら毎日散歩してちょっと走ったりしている。オリンピックはほとんど見ない。
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ロシア革命とは何だったのか 5  計画経済の合理性?

2021-07-27 22:39:55 | 日記
A.上からの革命
 資本主義経済は本質的に周期的な不況期と好況期が繰り返されるシステムだということは、19世紀から言われていたが、それが社会全般に大きな危機をもたらすと人々が実感したのが、1929年ニューヨーク・ウォール街から始まった株価の大暴落の世界的波及、つまり大恐慌だった。銀行や金融機関が危機に瀕し、失業者が巷にあふれた。第1次世界大戦で膨らんだ投資と消費の「狂騒の20年代」は一気に、全般的経済の収縮を余儀なくされた。これと対照的に社会主義ソ連の計画経済が、一国だけの実験的試みとして注目されたのは当然ともいえる。一党独裁の国家が経済システムを計画し実行することによって、資本主義の抱えるリスクを回避し、新たな経済発展が可能になると宣伝された。そしてそれは、ある程度成功するかに外からは見えたのだ。大恐慌からの再生を図ったルーズヴェルトの「ニュー・ディール政策」は、このソ連の計画経済という発想をかなり参考にしたと言われる。また、同時期に登場したドイツのナチズム、そして日本の軍国主義的統制経済も、じつはソ連の「五か年計画」を反面教師としたものであったとも考えられる、とロシア史研究者の和田春樹『歴史としての社会主義』岩波新書は述べている。

 「すでに強行的工業化はその成長のスピードの故に世界の注目を集めていたが、「上からの革命」の結果、ソ連に計画経済が生まれたことが宣言されると、資本主義社会は大きな衝撃を受けることになった。計画経済は「五か年計画」という言葉とともに、大恐慌からの脱出を求める資本主義世界に計画の要素の導入を促し、その再生に貢献した。
 その影響は、まず大恐慌の震源地である米国に認められる。1932年に、代表的な歴史家チャールズ・ビアードの編で『アメリカは未来に顔を向ける』という論集が出ている。これは前年に雑誌『フォーラム』に掲載された論文を集めたものである。その冒頭にニコラス・バトラーのパリ演説「計画なき世界」が載せられている。「ロシアにおける実験の特徴はそれが共産主義的であるということではなく、それが計画なき反対陣営の面前で計画をもって実行されているというところにあるという事実に皆さんの注意を喚起したい」。フランスの作家アンドレ・モロワの文章は「資本主義は救済可能か」と題されている。彼は共産主義の力を独裁と神秘的な信念に見ている。しかし、「共産主義の真の困難は成功の出現とともに始まるだろう」。生活水準が上がれば、商品の選択が問題となる。「二〇世紀末になれば、ロシア人は私有財産の理論を発見するだろう。それは革命的な大新機軸のように見えるにちがいない」。彼は資本主義、共産主義の絶対化に反対した。「資本主義は革命を避けられると、私は希望する。しかし、自らを変えることによってのみ自らを救済しうるのだ」。
 第二部の最初は編者ビアード自身が書いた論文「アメリカのための五か年計画」である。ビアードは「計画化がわれわれの唯一の解決である」と考えるが、ロシアのシステムは地方自治、人格的自由の国アメリカには移植できないとして、これらの原則と企業のダイナミックス、効率性などを維持しつつ、計画化に進むべきだと主張する。具体的には議会によって国民経済会議を創設し、これに戦略・計画委員会を併設することと企業を部門別にシンジケートに結合することが提案されている。この論集には大統領になる前のフランクリン・ローズヴェルト知事(ニューヨーク州)の「農業計画化の現実性」という講演も収められている。
 そのローズヴェルトが大統領になるのは1933年3月のことである。就任三か月後に彼はニュー・ディール立法に着手する。11月ソ連との国交が樹立される。ソ連の計画経済がニュー・ディール政策を刺激したことは疑いない。
 イギリスのフェビアン社会主義者ウェッブ夫妻は1932年ソ連を訪問した。そして、34年の補足的なシドニー・ウェッブの訪問を経て、35年に『ソビエト共産主義―新しい文明?』を刊行した。副題にふされた疑問符は1937年刊の第二版より除かれている。この本のエピローグで、ウェッブ夫妻はソビエト文明の八つの新しさを挙げている。(1)利潤追求の廃止、(2)社会消費のための生産の計画化、(3)社会的平等と普遍主義、(4)新しい代議制度、(5)指導者集団、(6)科学崇拝、(7)反神論、(8)よき生活のための新しい良心である。すでに「上からの革命」期からソビエト国家は外の世界からは内側がのぞきえない隠された世界、外国人が表面的に観察しても社会の実相は判らないタイプの国家になっていたのである。それが一層ユートピア性を高めることになった。
 しかし、もとより別の考えの人もいた。1932年にイギリスの作家オルダス・ハクスリーがアンチ・ユートピア小説『素晴らしい世界』(Brave New World)を世に送った。家族も廃止され、人間の性生活までが完全に権力的にコントロールされたおそるべき世界の描写であった。その序文にハクスリーはロシア人亡命哲学者ベルジャーエフの1929年の著書『新しい中世』からユートピア実現の恐怖にかんする一節を引用していたのである。その箇所をハクスリーよりも長く引用してみれば、作家が何に不安を感じていたかがわかる。
 「人類の黄金の夢と見えた社会主義的ユートピアは自由を約束したことはなかった。それはむしろつねに自由を完全に否定する専制的な社会秩序の像を描いてきた。……‥人はこれらのユートピアについてよく知らず、忘れてしまっており、その実現の不可能性ばかりを惜しんでいた。しかし、これらのユートピアを実現することは、以前に考えられたより、ずっと容易であることがわかったのである。そしていまや人は、いかにしたらユートピアの完全な実現を回避しうるかという別の難問を前にしているのである。
 ボリシェビキはわが国では現実の生の過程 に異質であるユートピアンだと見なされていた。‥‥‥体験はべつのことをわれわれに教えた。‥‥‥ボリシェビキは真のリアリストであったのだ。彼らはもっとも手近な可能性を実現し、最小抵抗線で動いた。彼らは最小限主義者であって、最大限主義者ではない。彼らは大衆の利害、大衆の本能、ロシアの権力的伝統にもっとも適応していた。
 ユートピアは実現可能である。‥‥‥生活はユートピアに向かって進んでおり、知識人と文化的層にとって、いかにしてユートピアを避けるか、いかにしてユートピア的でない、より不完全だが、より自由な国家にもどることができるかについて、熟慮し、夢想する新たな世紀が始まるであろう。いまや人はもはや完全な体制ではなく、不完全な、したがって自由な体制を夢みるのだろう」
 いまやユートピアが実現され、国家社会主義が完成されていくソ連の動きの中で、ハクスリーはベルジャーエフの警告の現実性を感じていたのであろう。ソ連の体制に感じた不安が彼の『すばらしい世界』の基礎にあったのである。
 ナチズム・日本軍国主義との対抗
 1931年日本は満州侵略を開始した。1933年ドイツにはヒトラー政権が誕生した。日本は第一次大戦の戦勝国、ドイツは敗戦国であったが、1929年恐慌の打撃を受けて、ともに社会的な危機に直面し、活路を自由主義の否定、軍国主義と排外主義、攻撃的な帝国主義に見いだしたところは共通であった。日本は天皇を現人神とする超民族主義を国家イデオロギーとし、天皇中心に全政党解散の翼賛体制に向かったが、ドイツは人種主義的な国民社会主義(Nationalsozialismus)を国家イデオロギーとし、ヒトラーと国民社会主義ドイツ労働者党が権力を合法的に掌握し、一党独裁の体制に進んだ。ナチズムにおける「社会主義」とは、個人の利益ではなく、「全体の利益」「民族全般の利益」「国民の必要事」を優先する理念であり、結局は「国民主義」と同義であった(中村幹雄『ナチ党の思想と運動』名古屋大学出版会)。日本とドイツの新体制にとって、共産主義運動と国家社会主義体制は危険かつ強力な敵であったが、同時に国家社会主義体制は反面モデル、反面教師と考えられていたと見ることができる。
 日本は満鉄調査部と参謀本部でソ連の国力、抗戦力の分析を進め、北進の可能性をさぐっていたがあ、のちには満州重工業五か年計画を実施し、国内では企画院を設置して、計画経済の手法を導入することに熱心になった。ドイツは明らかにソ連から一党制国家の経営、集団主義的文化、パレードと肖像画といった面で取り入れるところが大きかった。日本の高度国防国家体制とドイツのナチズム体制は世界戦争の時代のもう一つの特徴的な現象であり、かつ国家社会主義のあとから生まれ、それと対抗しながら影響を受けたという意味で、世界戦争の時代という同じ親から生まれた、性格を異にする弟であると見ることができる。これらの体制は資本主義経済を基礎としているため、国家社会主義ほどの一元制は備ええなかった。
 ソ連はナチス・ドイツと日本に挟撃される恐怖にうなされた。1934年共産党17回大会でスターリンは「事態は明らかに新しい戦争に向かって進んでいる」と述べ、「ドイツ型のファシズム」の危険性について指摘した。しかし、この大会で「ファシスト・ドイツと天皇制日本」の危険性にもっとも強く警鐘をならしたのは復権したブハーリンであった。「われわれは人類の運命をかけて闘いに出ていくのだ。この戦闘のためにこそ、団結が、団結が、いま一度団結が必要である。一切の組織攪乱者を粉砕せよ。われらが党万歳」。達成された水準を基礎に国内和解と団結の政策がとられた。
 『イズヴェスチヤ』
編集長にカムバックしたブハーリンは、三月に「資本主義文化の危機とソ連における文化の諸問題」という大論文を発表した。その中でブハーリンは、ファシズムとは「軍事的=政治経済的兵営の“秩序”」であり、「内的矛盾を圧服した独裁」、「種々の“モノ”システム――“モノ国民”、“モノ党”、“モノ国家”、「“統一化された”イデオロギー」、「全戦線での単一の軍事的規律の導入」を特徴とすると述べたが、共産主義者もこのうちの多くを実行しているではないかという声があることを認めている。彼の返答は、階級的内容が問題なのであり、ソビエト国家の官僚主義、ヒエラルヒーなどの欠陥は発展の中で克服されるというものであった。
 この年八月のソビエト作家大会はファシズムとの闘争、国内和解団結の一大デモンストレーションとなったが、年末のキーロフ暗殺は致命的な事件となった。それでも35年夏のコミンテルン七回大会で反ファシズムの闘争宣言がなされ、人民戦線の結成がよびかけられた。ソ連は反ファシズムの砦として、全世界の反ファシズム勢力の希望の星となった。
 このファシズムとの闘争、独日挟撃の恐怖、新たな戦争への準備という動機が、キーロフ暗殺以来の国内旧反対派に対する不信に結びついて起ってくるのが大量抑圧である。
 1934年12月1日レニングラードで新任の党書記キーロフが暗殺され、その犯人が旧ジノヴィエフ派に属していたことが判ると、スターリンは事件を旧ジノヴィエフ派の陰謀として捜査させ、ジノヴィエフ、カーメネフらを裁判にかけさせた。当初は彼らがソビエト権力を打倒するため、「帝国主義者のソ連侵攻」をのぞみ、「資本主義的包囲の代表者たちと結びついて」いるとして、「ファシスト」という呼び方が用いられた。ブハーリンも、日独のファシストに包囲され、防衛線を準備する「参謀本部」に狙撃が加えられた、キーロフの殺害者、その指導者は「公然たるファシストの徒党であり、ソ連の敵であり、……ファシズム陣営への内通者である」と『イズヴェスチヤ』に書いた。しかし、捜査で裏付けが取れなかったのであろう。一月の裁判の段階の中央委員会秘密書簡では、ジノヴィエフ派の背信性に攻撃を集中して、外国勢力との結びつきは強調しなかった。被告たちは比較的軽い刑を受けたにとどまった。
 一度敵となった者、旧反対派が同じ陣営に入ってくることはないという結論を再確認したスターリンは、35年1-2月には旧ジノヴィエフ派843人を逮捕させ、流刑に処した。彼は内務人民委員ヤーゴダに不満をもち、中央統制委員会委員長エジョフに介入させた。エジョフはキーロフ暗殺をトロツキー派に結びつける方向に進めていった。36年1月元ドイツ共産党員で、地方大学の外国人講師をしていたオルベルクが逮捕され、すぐにスターリン暗殺のためトロツキーに送り込まれたと自供させられた。ただちに旧トロツキー派の逮捕が始まり、4月までに508人が逮捕された。すでに3月の段階で、テロリスト活動に参加したトロツキー派を最高裁判所軍事部で裁き、最高刑は銃殺とするとの方針がスターリン、ヴィシンスキー、ヤーゴダの間で合意されていた。6月19日ヤーゴダ、ヴィシンスキーは起訴すべきトロツキー派82名のリストをスターリンに提出した。これに対して、スターリンはトロツキー派とジノヴィエフ派をともに裁く裁判を指示し、最終的な事件の構成が決まった。裁判の被告となる人々の多くから事件の筋書きと合致した自供がとられるのは7月に入ってからである。
 1936年7月18日、スペイン人民戦線に対するフランコ将軍の反乱が始まった。緊張が高まる中で29日党中央委員会秘密書簡が全党に発せられる。「トロツキー派=ジノヴィエフ派反革命ブロックのテロリスト的活動」が摘発された。国外のトロツキーがブロックの総指揮者であり、テロル・グループはドイツ秘密警察、ゲシュタポと直接結びついている。一般には、8月15日に発表がなされ、ジノヴィエフ、カーメネフら16人を被告とする公開裁判が19日より始まった。被告は全員起訴状を完全に認める陳述を行い、24日に全員銃殺の判決が出た。「ファシストに身を売った卑劣なる殺人者」、「ファシストの手先」(ディミトロフ)、「ゲシュタポの手先」(ヴィシンスキー)に対しては処刑あるのみという論調が国中に広められた。
 この月、トロツキーのソビエト社会主義批判の書、『裏切られた革命』が刊行された。トロツキーがその書物の中で来るべき大戦」において、「戦争がたんに戦争にとどまるなら、ソビエト連邦の敗北は必至であろう」と書いたことは、スターリンの警戒心を一層高め、かつスターリンに格好の利用材料を与える結果となった。
 36年8月の見せ物裁判は一連のモスクワ裁判の端緒をなすものであり、その背後に広がっていく大量テロルの引金になるのだが、旧反対派をその自白に基づいて「ファシストの手先」として抹殺したところに眼目があったのである。
 この裁判ののちヤーゴダに代わってエジョフが内務人民委員に任命された。36年9月に西シベリアのケメロヴォ炭坑で爆発事故が起こると、ドイツ人技師と旧反対派の仕業として立件された。日本とドイツが防共協定を結んだ日、裁判で六人に死刑が宣告される。この裁判は元トロツキー派で、重工業人民委員代理ピャタコフを中心的被告とする第二のモスクワ裁判を導いた。1937年1月に行われた第二裁判では、被告たちはドイツと日本の諜報機関との結びつきを陳述し、14人が死刑判決を受けた。
 二月中央委員会総会が開かれ、ブハーリン、ルイコフらを解任除名し、内務人民委員部に引き渡すとの決定が下された。これで旧反対派すべてを抹殺する方向へ最後の橋を越えたスターリンは、三月の中央委員会総会で、当面の敵を「日本=ドイツの秘密警察のトロツキー派の手先」であるとしながらも、「資本主義の包囲」が続くかぎり、外国の送り込む「妨害者、スパイ、謀略者、殺人者」はあとをたたず、社会主義建設が前進すればするほど、「打ち破られた搾取者階級の残党」の闘争はますます激しく、「ブルジョア諸国家」と結託するとの理論を展開した。」和田春樹『歴史としての社会主義』岩波新書、1992.pp.103-113. 

 スターリンの強権的支配がどのような形ですすんでいったか、かつて仲間の革命家だった人たちを次々と逮捕し、「敵の手先」「スパイ」「革命の破壊者」と名指して処刑していく。その数はみるみる増大し、恐怖はすみずみまで広がった。スターリンという人物の性格も影響しているだろうが、このような政治プロセスは必ずしもソ連特有とも言えない。独裁的指導者が強権を揮うのは、まさに独裁的であるがゆえに常に反対派の反抗と暗殺などの危険を生み出すから、権力派の疑心暗鬼と不安は高まり、心は休まることがない。嫌な時代になってしまう。


B.男女別定員は見直されるのか?
 ぼくは東京都立高校の出身だが、昔から旧制中学から戦後1949年の新制切り替えでできた都立高校には男子が女子の倍ほどいる元男子校の系列と、同じく女子が男子の倍ほどの定員の旧高等女学校の系列があった。GHQが公立校の共学化を指導したことが始まりだろうが、男女別定員制は戦前からの男女別学意識が当時の教員の間にいろいろな軋轢を最小化しようとしたのかもしれない。でも、ぼくが通った都立高は、男女同数で入学させた例外的な学校だった。したがって、小学校から高校大学まで学校には常に男女が同じくらいいたことを、とくに不思議とは思わなかった。でも、共学校でも男子が多かったり、女子が多かったりすると部活をはじめ何かと違いが出て来るのかもしれない。とくに男だけ、女だけの世界というものを経験しているのは、どんな感じなのかぼくにはわからない。 

 「フォーラム 男女別定員は必要か:公立高では都立入試だけ 中学と高校 校長の認識に差
 東京都立高校は、募集定員が男女別に設定されています。70年以上にわたって続く制度で、性別によって入試の合格ラインが異なるため、問題視する声があがっています。2018年には大学の医学部入試で、女性や浪人生が差別を受ける不正も明らかになりました。中学の学校現場の声や法律の専門家の話から、入試にまつわるジェンダーの問題について考えました。
 本社アンケート:都立高校の男女別定員は、全国でみると異例の制度だ。朝日新聞が今年6月、47都道府県にアンケートしたところ、都道府県立高校で定員を男女別にしているのは東京都だけだった。過去に男女別にしていた7府県は「男女の比率にあらかじめ一定の範囲を定めることは合格ラインが異なることになり、男女平等の理念にそぐわない」(兵庫県)などとして、いずれも廃止。一部の学校で残っていた群馬県でも昨年春の入試を最後に廃止した。
アンケートでは、男女の生徒数が同程度であるメリットも聞き、「混声合唱や部活動での団体活動が実施しやすい」といった回答があった。一方、「入学時に男女の数字に差が生じることがあるが、課題は生じていない」と答えた自治体もあった。
  都立高校の男女別定員制度は1950年度に導入された。現在は普通科110校で定員が男女別になっている。一方、定員の9割までを男女別の成績順で決め、残り1割を男女合同の成績順で決める「緩和措置」も98年度から導入。今春の入試では42校がこの措置をとった。
  男女別定員制度については、これまでも撤廃を求める声が上がっていた。男女別定員を話し合う東京都の検討委員会は90年に撤廃を提言。「小中学校での「男女平等」が高校で一転し、全日制普通科のみ男女を区別して選抜するのは疑問」とした。また、外部の有識者や学校の関係者でつくる都の入試検討委員会も見直すよう指摘している。
    制度が続いているのはなぜか。都教育委員会は「急激に変えると中学の進路指導などが混乱する。影響が大きいので慎重に検討する必要がある。緩和措置を導入するなど、議論は進めている」としている。
  私立高校との関係も影響している。都教委と私立高校は、全体の定員が都立約6割、私立約4割になるよう調整。朝日新聞のアンケートでは、東京都以外の17県も私立校との定員調整をしていると回答した。
  東京都以外の道府県では、性別に基づく定員の調整はいずれも「ない」と答えた。一方、男子生徒の比率が高い東日本の公立難関校で昨年まで副校長だった教員は「数学と理科が難しいと(結果として)女子の合格者が減る」と打ち明ける。理系の難関大学への進学実績は保護者の関心事でもあったといい、「理数系に苦手意識を抱きがちな女子より、男子が増えるほうが、喜ばしい。女子のほうが元気なので、女子がちょっと少ないほうが学校としてはバランスがいいと感じていた」という。(阿部朋美、山下知子)
   男女別定員制について、都の「都立高校学校入学者選抜検討委員会」が中学校と高校の校長にアンケートをしたところ、認識の違いが浮き彫りになった。
検討委の昨夏の報告書によると、「男女別定員制は必要か」との問いに、「必要」または「どちらかと言えば必要」と答えたのは、都立高の校長では82.7%だったのに対し、公立中の校長では58.0%だった。
    高校長からは「男女合同定員制にすると女子の合格者が多くなる傾向があり、男子が入学できる余地を残しておくためにも、男女別定員制は意味がある」「年度によって男女比が異なること、施設、設備の過不足などが生じることへの理解が必要」などの意見があり、中学校長からは「心と体の性が同一でない生徒もいる。単純に二つの性別で分けることは不適切」などの声が上がったという。
   検討委は、男女別定員制の緩和措置を引き続き実施すると共に、それだけでは男女の合格最低点の差を完全に是正できないとして、「男女合同定員制について本格的に議論を進める必要がある」としている。」朝日新聞2021年7月25日朝刊9面オピニオン欄。

 なんだかこの教員の回答をみると、生徒はともかく公立難関校で男子が多い方がよいと考えている教員の意識は、時代遅れではなかろうかと感じる。
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ロシア革命とは何だったのか 4 「スターリニズム」の評価  南スーダンの選手

2021-07-24 16:20:09 | 日記
A.上からの革命
 革命が成功して国家権力を握った指導者は、ただちに直面する国内外の難題、とくに反対勢力の制圧と外国の干渉から国家を防衛し、国民の支持と忠誠心を確保するためあらゆる手段をとるのは、まあ、当然だ。ロシア革命の場合、レーニンが脳梗塞で倒れる1923年までの5年ほどは、議会制民主主義では多数派になれなかったボリシェビキ党が暴力的な形で権力奪取したことを批判されつつも、ロシアにおける社会主義の実験が戦争で疲弊した国民(とくに農民と兵士)の期待や願望に応え、帝国下の抑圧された諸民族解放、植民地解放を唱え、白衛軍との戦いにも負けはしなかった。さらに革命の輸出、つまりドイツをはじめヨーロッパ各国での共産党による革命の波及を視野に入れたコミンテルンも作られる。しかし、飢餓対策の経済再建を考えたネップ(新経済政策)は、レーニンが死んで党中央にのしあがったスターリンの独裁体制ができると、強力な「上からの革命」が始まる。

 「1929年スターリンは「上からの革命」を発動した。これはネップ政策の否定である。
 実は1927年初め、ソ連国内には戦争の恐怖による社会的パニックが始まっていた。塩と灯油が買いだめによって店から消えたのである。三月にスターリンが春や秋に戦争するつもりはないと言って、一時落ち着いたかにみえたが、四月には蒋介石の反共クーデターが起こり、中国との結びつきが切られ、五月にはロンドンで英ソ合弁会社の事務所に手入れがあり、イギリスは対ソ断行の挙に出た。戦争の恐怖は現実のものとなり、初夏から再びパニックが発生した。市民は小麦粉から乾パンまで買いあさった。秋には農民が穀物を政府に売り渋るようになる。こんどはスターリンが不安にかられて、内戦期の非常措置を農民に発動して、強制によって穀物を徴発するようになった。
 28年初めスターリンはシベリアに旅行して、クラーク(富農)に対する非常措置を指示した。ウラルでは非常措置をためらう地元幹部が一千人以上更迭された。この年ウラル=シベリア方式という名のもと、非常措置は全国に広められた。この年はまたシャフトゥイ事件が注目を集めた。ドンバスの炭鉱地帯でドイツ人技師とロシア人技師が国外との連絡のうえ系統的にサボタージュ、産業破壊活動をしてきたとして、53人が裁判にかけられたのである。ブルジョア専門家に対する尊敬と融和の政策が糾弾され、階級的な観点からする闘争がよびかけられた。スターリンは四月に演説している。同志諸君、このことを一瞬たりとも忘れてはならない。……シャフトゥイ事件は、ソビエト権力に対する国際資本と国内の手先の新たなる重大な出撃である」(『スターリン全集』第11巻)。
 内外の敵との対決が高まっており、戦争の脅威が現われている。そのような雰囲気の中で「上からの革命」が始まるのだが、その前触れとして始まったのは、階級闘争としての「文化革命」であった。28年5月、党の扇動宣伝部長クリニツキーが文化の領域でのブルジョアジーの打倒とプロレタリアのヘゲモニーの確立をよびかけた。「文化革命」を平和的文化発展と見る見解は「日常生活、学校、芸術、科学の分野における階級敵とのプロレタリアートの苛烈な闘争をみない」「反革命的な見解」だと彼は宣言した。新しい文化革命概念が打ち出された。
 29年9月にはプロレタリア文学団体「ラップ」がプロレタリア文学の「ボリシェヴィキ化」を宣言し、同伴者作家に対する攻撃を開始した。哲学、歴史学、法律学、経済学の分野では、既成の学会権威が若いボリシェヴィキたちに攻撃された。コムソモール(青年共産同盟)中央委員会は文盲撲滅キャンペーンを「文科進軍」(Kul’tpokhod)と表現して、呼びかけた。『プラウダ』は教育関係の部局は「文化革命の戦闘的参謀部」に変身すべきだと迫った。文化革命は古い知識人に代わって若い労働者出身の高等教育、技術教育修了者を押し出した。
 「上からの革命」の中心は29年後半から始まった農業の全面的集団化、クラーク(富農)の絶滅である。11月、スターリンは論文「偉大なる転換の年」で、コルホーズと巨大ソフホーズへの根本的な転換が起こったことを宣言した。そして12月のマルクス主義農学者会議で、スターリンは「クラークの搾取者的傾向の制限政策から階級としてのクラークの絶滅政策へ」転換がなされたことを明らかにした。農村には都市から青年たちが送り込まれて、熱狂と強制によって農民はコルホーズに加入していった。経営熱心な篤農たちはクラークとして村から追放された。30年1月30日に、モロトフ委員会が準備した中央委決定「全面的集団化地域におけるクラーク経営絶滅の措置について」が出た。クラークは、(1)全生産手段を没収され、地区執行委員会の全権委員によって逮捕され、家族は北部に追放される反革命アクチヴ、(2)家族とともに北部へ追放される大クラーク、元地主、(3)コルホーズ用地以外のところへ分散移住する普通のクラークの三つのカテゴリーに分けられた。そのそれぞれに目標数字が設定された。
 第一カテゴリーは六万戸、第二カテゴリーは一五万戸といった具合である。
 クラークとされた農民が抵抗しないはずがない。反乱、テロの件数は30年1-3月には2200件、80万人にのぼり、前年の年間発生件数のはやくも1.7倍に達した。農民はさらに家畜ので対抗した。
 かくして危機を招いたため、スターリンは3月2日、論文「成功による幻惑」を発表して、全責任を地元活動家の行き過ぎにかぶせながら、ブレーキをかけた。農民は一斉にコルホーズから脱退して、30年夏コルホーズには23.6パーセントの農家しか残らなかった。しかし、秋からはふたたびしめつけによって新しい波がつくり出され、31年夏までに集団化率は52.7パーセントにもりかえした。もとより抵抗も続いたが、こうしてジグザグの道をとって全面的集団化は実現されていった。
 「上からの革命」の第三の柱は強行的工業化である。1929年に最初に採択された第一次五か年計画は野心的な工業化案ではあったが、一定の合理性があった。28年から32年までに大工業粗生産を2.8倍、生産財部門はとくに3.3倍に発展させるとされた。銑鉄は330万㌧から1000万トンに上げることとされた。ところが、労働者の熱狂をも組織して、全国で建設が進められる中で、五か年計画が不断に上向修正された。29年12月の突撃班大会では「五か年計画を四ヵ年で」というよびかけがなされ、30年1月には銑鉄の目標はついに1700万㌧に引き上げられた。
 この強行的工業化は穀物を輸出して、機械設備、工場プラントを輸入することではじめて可能になったものである。1929/28年の穀物調達危機で穀物輸出は34万㌧に激減し、この状態は翌年も続いた。しかし、1930年には8350万トンの豊作に恵まれ、2210万㌧が調達された中から500万㌧が輸出された。だが520万㌧も輸出された。だが翌31年には6950万㌧に落ちた収穫の中から、2280万㌧も調達し、520万㌧も輸出された。32年には6990万トンの収穫で、調達は1850万㌧、輸出は180万㌧に落ちた。この穀物輸出は完全な飢餓輸出であった。そこで33年には深刻な飢饉が発生し、数百万人が死ぬ事態が出現したのである。
 にもかからわず無謀な工業化の目標はそのまま達成されなかった。銑鉄について言えば、目標1700万㌧に対して32年の達成は620万㌧にすぎなかった。もちろんそれでも倍増はしたのである。電力も13億4000万㌔㍗で、22億㌔㍗の上乗せ目標には及ばなかった。しかし5億㌔㍗という出発点からみれば、倍増以上であった。工業総生産は計画通り433億ルーブリを達成した。生産財生産部門の生産も計画も181億ルーブリと大きく上回っている。総雇用も1580万人という目標を2280万人と大きく上回った。だから一部の無謀な目標を別にすれば、達成は顕著なものであった。
 農業の全面的集団化、強行的な工業化、階級闘争としての文化革命を通じて、計画経済化と経済の一元化、党・国家・社会団体の一体化、国家社会の一元化が実現された。ここにおいて人類がこれまでに知ることのない完全に新しい社会システム、国家社会主義体制が完成された。
 計画経済は命令的=行政的管理システムであった。連邦政府のゴスプラン(国家計画委員会)が計画を立て、これを産業別の中央省庁におろし、省庁は傘下の企業に指令を発する。これに併せて、企業に資金も提供され、原材料も提供される。そしてできた製品は国家機関へ納入される。企業は生産現場にすぎず、すべては中央で決定される。
 集団化で生まれたコルホーズは協同組合とされるが、国家の規制を受ける準国家団体であった。コルホーズは何よりも国家の要求を農村にになわせるための機関であった。
 こうして生産手段が基本的にすべて国有であるのに加えて、市場を除去した産業体制がつくられたのである。
 党と国家はこれまでも一体であった。しかし、いまや党と国家のイデオロギーであるスターリンの「マルクス・レーニン主義」が公的イデオロギーとなり、万人がこれに服従することを迫られた。さらに「上からの革命」ののち社会団体は国家からの自立性を完全に喪失した。たとえば労働組合は国家の機能を代位するにいたり、労働人民委員部は廃止された。使用者と労働者の協約が労働組合によって結ばれ、争議も許可されるという状況はなくなった。その他の国家から自立した社会団体、協同組合もなくなった。文学団体は単一化され、ソビエト作家同盟となった。元政治囚協会は解散させられた。国家と党が完全にコントロールする団体のみが存続できた。そのような団体の人事は規約では会員内部の選挙で決められることになっていても、すべて党機関によって選考審査統制されるようになったのである。
 「上からの革命」は周囲の敵との戦争、来るべき世界戦争に備えるという性格をおびていた。スターリンは31年2月に述べている。
 「テンポをおさえることは、立ちおくれることを意味する。そして立ちおくれた者は打ち負かされる。だが、われわれは打ち負かされることを欲しない。旧ロシアの歴史の一面は、ロシアが立ちおくれのために、たえず打ち負かされていたことにある。モンゴルのハンに打ち負かされた。トルコの侯(ベク)に打ち負かされた。スウェーデンの封建領主に打ち負かされた。ポーランド=リトワニアの地主に打ち負かされた。英仏の資本家に打ち負かされた。日本の男爵(バロン)に打ち負かされた」「これが搾取者の法則なのである。資本主義の狼の法則は、こうである。—―お前はおくれて弱い――つまり、おまえは正しくなく、したがって、おまえを打ち負かして、奴隷にしてさしつかえないのだ。お前は強い――つまり、おまえは正しく、したがって、おまえには用心しなければならない、と。だからこそ、われわれはこれ以上おくれていてはならないのである」「われわれは先進国から五〇年から100年立ちおくれている。われわれは、この距離を10年で走りすぎなければならない。われわれがこれをなしとげるか、それとも、われわれはおしつぶされるか、である」(『スターリン全集』第13巻)。
 でき上がった国家社会主義の体制は、一九世紀の社会主義ユートピアを実現した体制であるとともに、世界戦争に備える新しい総力戦体制の完成形態であった。それが「兵営社会主義」の特徴を帯びたのである。党と国家と社会団体が一体となった公的主体が政治と経済の全体を一元的に管理する体制である。この体制は、いわゆる全体主義と呼ばれる体制より以上に、全的に一元化されたシステム(Totally Unified System)であった。」和田春樹『歴史としての社会主義』岩波新書、1992.pp.94-102.

 このスターリンの「ロシアの立ち遅れ」という言葉は怨念に満ちている。スターリンはグルジア(今はジョージアと呼ぶカフカス山脈を越えた辺境の地域)出身の人である。レーニンもモスクワから数百キロ東のヴォルガ河沿いのカザン出身で、ペテルブルグやモスクワのような都会育ちのインテリではない。ボリシェビキがマルクス主義と同時にそれ以前のロシアにあった「ナロードニキ主義」、つまり後進的であることをむしろ逆手にとって農村共同体を基礎に西欧の資本主義を飛び越えて社会主義に向うという思想を、無意識的にか意識的にかなぞっていくような思考があったのだろう。


B.難民選手団の価値
 昨夜ついにオリンピック開会式が国立競技場で無観客で挙行された。天皇をはじめ各国来賓を交え、なにがなんでも盛大にオリンピックをやることだけが自己目的になった首相も、いつもながらの仏頂面で並んでいた。深夜に及ぶ開会式がこんな時間に行われたのは、夏の暑さのためではなく、欧米マスメディア報道の都合に合わせたのだろう。IOC会長バッハ氏は得意げに、開催の意義と関係者への賛辞を述べ、そのなかで「難民選手団」が参加したことを自らの手柄のように語っていた。このオリンピックの問題点は多々あると思うが、ただ開会式に入場してくる選手たちの姿と紹介を見ていて、世界にはいろんな国、いろんな人々がいるのだなということを改めて考える機会にはなった。とくに新しくできた国や小さな国は、限られた競技で選手も数人という規模だが、参加することに意義があるわけで、メダルをとったかどうかなんて些末なことだと思う。

 「Question 東京五輪に難民選手団が参加する意義は :同じ人間であること 知ってほしい
 元難民オリンピアン グォル・マリアルさん
 —―東京五輪・パラリンピックでは、2016年のリオデジャネイロ大会に続き、史上2度目の難民選手団が結成されます。12年のロンドン五輪に「独立参加選手団(IOA)」として参加したマリアルさんは、難民オリンピアンの「さきがけ」的な存在です。
「難民選手団という形ではなかったが、私自身、代表する国がない中で五輪に出る機会を得た最初の難民だったと思っている」
「11年10月、初のマラソンでロンドン五輪の参加標準記録を突破した。しかし3カ月前に独立したばかりの南スーダンには国内の五輪委員会がなく、また当時の私には米国の永住権はあったが、国籍がなかった。スーダン代表としてなら出られると言われたが、長年、分離独立をめぐって争った国だ。私には選べない道だった」
――半生を追ったドキュメンタリー映画「戦火のランナー」が公開中です。南スーダン初の代表として出場したリオ五輪の開会式で、旗手を務める姿も印象的でした。
「紛争を乗り越えた64の部族すべて、国民一人一人を代表して国旗を掲げた。私にとっては大統領よりも大きな責任を負っているような、歴史的な瞬間の一部だった。五輪とは、各国の人々を一つに、そして異なる国の人々を一つにし、世界をつなぐものだ」 
――南スーダンでは、内戦で国民の3分の1が難民や国内避難民になりました。国を代表して東京大会を目指す陸上選手4人が19年秋から前橋市で長期合宿をした一方で、難民選手団29人には、今も国外で難民状態にある同国出身の4人が含まれています。
「前橋と日本の皆さんに感謝する。素晴らしいことだし、選手たちを誇りに思う」
「しかし同時に、南スーダン出身の選手が今も難民選手団に含まれていることは、とても不運なことでもある。彼らは本来ならば、南スーダンの代表選手になるべきだが、現実はいまだに難民だ。とても心が痛む。解決すべき課題の多さを示している」
――日本は難民の受け入れ数が極めて少ないですが、人々に知ってほしいことは。
 「難民とは悪い人たちではないということだ。自らの選択で国を離れたのではなく、紛争などによって離れざるを得なかった。きちんと受け入れ、教育の機会を与えれば、立派な社会の一員になれる。あなたや私と変わらない人間であることを知ってほしい」 (聞き手・荒ちひろ)」朝日新聞2021年7月24日朝刊7面。

南スーダンがどういう国で、なぜ難民が出るのかぼくたちはよく知らない。この国は、Wikipediaによれば「2011年7月8日までは、スーダン領でありながら南部スーダン自治政府の統治下にあった。これは、2005年1月9日にケニアのナイバシャで結ばれた第二次スーダン内戦の包括的な暫定和平合意により、スーダン政府から自治を認められたためである。2011年、分離独立の是非を問う住民投票が実施され、分離独立票が98.83%の圧倒的多数を占めた。新国名は「南スーダン共和国(英: The Republic of South Sudan)」になった。過去には、「アザニア」「ナイル共和国」「クシュ」などの候補が挙がっていたが、「南スーダン」となる可能性が高かったとされた。 2011年7月13日には国連安保理決議1999により国際連合総会に対し国際連合への加盟が勧告され、翌日の総会にて加盟が承認され193番目の加盟国となった。さらに、AU(アフリカ連合)の54番目の加盟国となった。またイギリス連邦に加盟を申請中である。東アフリカ共同体にもケニアとルワンダの協力で2016年に加盟している。 2014年、非政府組織の平和基金会が発表した「世界でもっとも脆弱な国家ランキング」で、南スーダンは首位となった[9]。2019年のランキングでも3位になっている」とある。
分離独立をめぐってスーダンと争ったこともあるが、大量の難民や避難民が生じた原因は、おもに国内の政治勢力が対立内戦となったためのようだ。
「2013年12月14日、同年7月に解任されたマチャル副大統領派によるクーデター未遂事件が発生するも失敗に終わったとされるが、その後もマチャル派・大統領派間の戦闘は継続し、翌年1月に両派間で停戦合意が結ばれたものの戦闘はおさまらず、その影響で避難民が100万人以上にのぼる事態となっている。 
 戦闘発生から1年経った2014年12月の時点でも戦闘は収まっておらず、国連によるとその影響による避難民は190万以上にのぼっている。米国のシンクタンクのひとつである平和基金会が発表している失敗国家ランキングでは、2014年、2015年の2年連続で1位となった。2008年から2013年まではソマリアが6年連続で1位であったがこの2年間は2位となっており、南スーダンが取って代わる形となった。
 2015年8月の調停までに5万人が死亡、避難民は230万人以上と推定されている」というわけで、現在は国際機関が調停に入って少し落ち着いたようだが、政府がひとつになって機能していない破綻国家だとすれば、そのような状況にある人たちから、「難民選手団」という形でもオリンピックに参加する選手が出ることは、意義のあることだと思える。
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ロシア革命とは何だったのか 3 オリンピック強行

2021-07-21 14:32:34 | 日記
A.レーニンが死にスターリンへ
 近代西欧の革命というのは、歴史上の必然であるかのように言われたりもするが、それぞれ子細に当時の状況をみると、必然というより多くは偶然的事件の連続で、成功した革命と失敗した革命で何が違ったかと言っても、大きな違いは見当たらないように思える。だから、一方で指導者の性格のせいにしたり、またつかみどころのない「民衆の怒り」に火がついたみたいな言い方しかできなくなる。たとえば、フランス大革命はイギリスとの戦争で財政がひっ迫したブルボン王朝が、過重な増税と思慮に欠けた王宮の浪費で国民の怒りがバスチーユ襲撃を招いたのだ、というような説明がある。それはいろいろな要因のひとつにすぎない。問題は革命がなぜ起きたのかより、次々生起する革命の流動的な展開の中で、指導者のとった行動と思想だろう。フランス革命でもロシア革命でも、権力奪取直後から革命指導部の中で路線対立が顕在化し、短期間で反対派の粛清や排除が起きた。その結果、内部抗争で革命政府自体が瓦解して失敗した例も少なくないし、反革命の外国の干渉も強まり、そこでは理念や政策より武力がものをいう局面がくる。フランス革命ではこれがナポレオンの登場になり、その後も1948年「革命の春」までの失敗した革命は、軍人の力で弾圧する反革命王党派が勝利したわけだが、ロシア革命では赤軍は動くけれど軍人が政治権力の中心に出るわけではなかった。
 レーニンは彼個人の指導力とそれを支えるボリシェビキ党と農工兵ソビエトをつかんでいたから、十月革命で強引な権力奪取をやっても民衆に支持された。しかし、まもなく彼は病に倒れ、後継者は結局スターリンに決まる。仮にトロツキーなりブハーリンなりが後継者になっていたら、おそらくソ連と共産党の歴史は違ったものになっただろうが、結果的に20世紀の前半の世界史に大きな影響をもったのは、スターリンという実務的で猜疑心と強権で人々を支配する独裁者だった。

 「ソ連邦の成立と最後のレーニン
 だがさしあたりはロシア革命は一国で孤立していた。ソビエト革命はハンガリーにも起こったが、短命に終わり、ドイツ革命もワイマール共和国の成立を帰結した。イランのギーラーン地方で生まれたソビエト革命もつぶされた。しかも旧ロシア帝国の領域からフィンランド、ポーランド、バルト三国が独立し、ルーマニアがベッサラビアを取り戻していった。
 1922年ロシア、ベロルシア、ウクライナ、サカフカース連邦という四つのソビエト社会主義共和国の連合国家として、略称ソ連邦、「ソビエト社会主義共和国連合」が成立した。このソ連邦の成立にあたってレーニン、スターリンの間に対立があったことがよく知られている。スターリンはロシア共和国の中に他の三つの共和国を自治共和国として吸収する案を推進したのに、レーニンはこれに強く反対し、脱退自由な対等の国家連合を主張した。レーニンの見解がとおって、スターリンは譲歩したのだが、実際に出現したソ連邦は極度に中央集権的な単一国家となり、スターリン案が実現したにひとしかった。
 そうなったのは四つの国家を一つの党、ロシア共産党が始動していたためである。「諸民族の牢獄」といわれたロシア帝国内において、ロシア社会民主党(ボリシェビキ)も、その後身ロシア共産党(ボリシェビキ)も、帝国内のすべての地域と民族の共産主義者をまとめた単一組織であった。内戦の過程で、各地に独自共産党が生まれたが、その代表的な存在であるウクライナ共産党も1918年にモスクワで結党するさい、ロシア共産党の支部としての地位しか認められなかった。ロシア共産党は、1919年の第八回大会で正式に単一の中央委員会をもつ単一組織で、各地の組織はすべて支部として扱われるとの原則を定めている。モスクワの中央によって一元的に指導される地方支部が共和国政府を指導するなら、共和国政府はモスクワの統制のままになる地方機関にすぎず、連合から脱退する日のこようはずもないのである。ソ連邦はロシア帝国からフィンランド、ポーランド、バルト三国を除いたものとなった。帝国的秩序は維持されたと言っていい。
 レーニンは共産党の一元組織の生みの親であった。彼はのちにスターリンと衝突したとき、そんなことでは脱退自由のソ連邦など「一片の反故」に過ぎなくなると書くことになるのだが、まさに自分のつくった党の組織の故に連邦が「一片の反故」となるほかないことに思いいたったことはなかったのだろうか。かりにそのように感じたとしても、彼には根本から問題を考え直すことはできなかった。それは彼の肉体的条件のゆえではない。彼が進めてきたことのすべてが修正を不可能にしていたのである。
 このことは彼の最後の闘争と言われるものの全体に共通して言える。レーニンの遺言的な文章の一つに「協同組合について」がある。1923年1月初めに口述されたものである。レーニンはネップにうつるにあたって誤りを犯した。それは「協同組合のことを考えるのを忘れたこと、いまも協同組合を過小評価していること」だと指摘している。レーニンは農民が、全住民が「分別ある、読み書きのできる商人となる能力」、「ヨーロッパ的に商売する」能力を身につけるために、協同組合の業務に積極的に参加することが必要だと述べている。そして「生産手段の社会的所有のもとでの、ブルジョワジーに対するプロレタリアートの階級的勝利のもとでの文明化された共同組合員の体制――これこそ社会主義の体制である」と言っている。これは、たしかにドイツの戦時統制経済をモデルとした従来の国家社会主義観を修正するものとみえる。事実レーニンは続けて、「社会主義についてのわれわれの見地全体の根本的な変化」ということを強調している。
 しかし、レーニンの新見解は端緒であって、考え抜かれたものではない。この文章の中で、「協同組合は、わが国の事情のもとでは、完全に社会主義に一致する」とか、「完全に協同組合化すれば、われわれは、すでに両の足で社会主義の基盤に立つことになる」とか、「完全な社会主義国となるためには、われわれにとってはいまはこの文化革命で十分である」と書いている。ここには明らかに論理の飛躍がある。ここでレーニンが問題にしているのは、ブルジョア文化を学ぶこと、「文明の基本的な前提」を獲得することだからである。そして共産党の一党独裁と生産手段の全面的国有化という前提は不動のものだったのである。
 レーニンのこの文章は、「大会への手紙」などと違い、23年5月には『プラウダ』に発表されている。しかし、内戦期のテロル対策に慣れた彼の同僚たちには、この新思考の端緒は突飛であり、なじめなかった。大多数の党員は社会主義を国家主導の社会と見る「古い見解」に固まっていた。世界戦争の時代にはレーニンの新見解は非現実的とみえたのである。彼らの中では、ブハーリン一人がこの考えをストレートに吸収したにすぎない。
  レーニンからスターリンへ
 スターリンはレーニンのボリシェビキ党の活動家で、レーニンに忠実だった。レーニンはスターリンに助言を与えて、民族問題について論文を書かせた。スターリンはジノヴィエフ、カーメネフのように十月革命の前夜に権力掌握は無謀だとレーニンに反対することがなかった。またブハーリンのように経済学、哲学を論じて、レーニンに異を唱えることもなかった。彼の行動の原理は頑固で、視野は狭く、思考方式は単純で、一元主義的であった。しかし、党の書記長に任命されると、彼は行政的=組織的能力を発揮して、党内に書記局支配の体制をつくりあげた。レーニンが病床で不安に駆られたときはすでに手遅れであった。
 皮肉なことに、レーニンの後継者としてスターリンの地位を不動のものにしたのはレーニンの遺書、「大会への手紙」であった。レーニンはスターリンをトロツキーと並べて党の二大指導者と位置づけ、その和合を望みながら、ジノヴィエフ、カーメネフについては権力奪取に反対した「十月のエピソード」にわざわざ言及し、ブハーリンについては弁証法を理解していない、その哲学的見解はマルクス主義ですらないと酷評したのである。この遺書はただちに秘書からスターリンに通報され、トロツキー以外の政治局員には知らされたから、不愉快になった三人がレーニンに反発し、もとはメンシェヴィキで党では新参のトロツキーでなく、はえぬきのボリシェヴィキ、スターリンとの結束を強めたのは当然である。そのうえでレーニンは10日後スターリンを書記長職から解任せよと遺書の続きに書いたのだが、この内容も秘書からスターリンに通報され、スターリンは、完全に対応策を立てることができたのである。スターリンを解任して、誰に書記長を交代させよというのか、レーニンに候補があったとは思えない。スターリンはレーニンが育てたもっとも信頼したボリシェヴィキであったのである。
 レーニンがこの世に残した最後の文章が絶交するか、謝罪するかの選択をスターリンに迫るてがみであったことはよく知られている。スターリンはもちろん謝罪すると返事をしたが、それが届く前にレーニンは完全な廃人となる最後の発作を起こしていた。スターリンを書記長から解任せよと書いた遺書は死後に政治局に渡せということになっていたのだから、廃人になってからなお一年も生きながらえたことはレーニンにとっては致命的な政治的誤謬であった。スターリンの1年間の準備、その間のトロツキー派の分派化のあとでは、レーニンの遺書の効果は決定的に減殺されたのである。
 ゲフテルが言うように、まさにスターリンが勝利する以前にレーニンは敗北していたのである。レーニンとスターリンの関係は、断絶の中に連続もあるというより、連続の中の断絶、同じボリシェヴィキの中の分かれであったとみることができる。
 レーニンが1924年1月21日に死んだとき、スターリンは自分がもっともレーニンに忠実な弟子であることを印象づける儀式を演出した。レーニンの遺体の永久保存の決定もスターリンの主導のもとでなされた。そしてスターリンは四か月後には早くも『レーニン主義の基礎』という本を出し、レーニン思想の解釈権を掌握した。レーニン主義とはレーニン思想のスターリン的解釈であってみれば、スターリン主義である、あるいはレーニン=スターリン主義であるということになる。
 スターリンの独自の理論は一国社会主義論だと言われる。この主張は『レーニン主義の基礎』の初版には出てこない。そこではスターリンも一国だけで社会主義生産の組織はできないと述べていた。しかし、1924年12月の論文「十月革命とロシア共産主義者の戦術」の中で、初めて一国社会主義論が端緒的に主張された。その完成された形は1926年1月の『レーニン主義の諸問題』において与えられた(『スターリン全集』第八巻、大月書店)。
 一国社会主義論は二つのテーゼからなっている。第一テーゼは、ロシア一国だけでも社会主義生産の組織はできる、社会主義建設は完了できるということである。これには、世界革命が実現して、先進西欧での社会主義建設が進むことによって、それと結合して初めてロシアの社会主義建設も完成されるという議論が対立する。カーメネフは、25年の第14回党大会で、ロシアのような農民国は無理であり、アメリカのような先進資本主義国でこそ社会主義社会の組織が歪みなく進むのだと主張したが、トロツキーは世界経済の観点から一国内での社会主義の成立を原理的に否定した。トロツキーによれば、「世界的分業、ソ連工業の外国技術への従属、世®-ろっぱ先進国の生産力のアジアへの原料への依存などによって世界のどの一国でも自律的社会主義を建設しとげることは不可能となる」のである(『永続革命』、1930年)。しかし、スターリンは主張した。
 「社会主義を建設しとげうるということを確信せずには、また、わが国の技術的立ちおくれは完全な社会主義社会を建設しとげることにとって、克服できない障害ではないということを確信せずには、社会主義を建設してゆくことはできない。このような可能性を否定することは、社会主義の建設という事業を信じないことであり、レーニン主義からそれることである」
 スターリンの議論は戦争社会主義をモデルにしたレーニンの国家社会主義論に忠実であり、かつソ連国民の気分に合致していたことは明らかである。社会主義は国民経済の範囲内では実現できないというトロツキーの考えはユートピア思想の伝統に反するものでもあった。ユートピアはつねに隔離された、閉鎖社会を想定してきたからである。
 さてスターリンの一国社会主義論には第二テーゼがある。スターリンは次のように述べている。「社会主義の最終勝利とは、外国の干渉の企て、したがってまた資本主義の復活の企てを阻止する完全な保障のことである。なぜなら、資本主義の復活の多少とも重大な企ては、外部からの重大な援助があってはじめて、国際資本の援助があってはじめて、おこりうるものだからである」。周囲が敵に包囲されている以上、体制転覆、復古の危険性が不断に存続するということである。この包囲意識から、起こりうる敵の攻撃、戦争に対して不断に警戒し、備える総力戦体制が平時にも維持されねばならないということになるのである。スターリンにとっては、そのような強力な新総力戦体制を構築することと社会主義建設の完了とは同義のものと理解されていると考えることができる。」和田春樹『歴史としての社会主義』岩波新書、1992.pp.84-94. 

 いわゆるスターリニズムは、プロレタリア(つまり共産党中央)独裁、一国社会主義、それに世界の社会主義革命運動をソ連共産党が指導するという独善的無謬主義である。これによって、ソ連国内でも世界各国でも多くの人間がむごい仕打ちを受け弾圧され命を絶った。その反動はいまだに消えていない。


B.オリンピックは強行される
 いまの自民党(および公明党)政権が、昨年来このコロナ禍に対してとってきた対策と見通しは、ことごとく裏目に出たことは認めざるを得ないだろう。数か月我慢していればコロナ感染は収まり、次に備えて消費経済活性化の施策を用意し、1年延ばしたオリンピックはコロナ克服の証しとして世界にアピールする、という楽観的な予測に沿って政府が考えた目論見は、いかに幻想的・非現実的なものであったかはもはや明らかだ。それでも、オリンピック開催は決定済みの至上命令だと、ついに開会式が目前だ。後世の歴史をもちだして、おれは反対したということを覚えていてくれ、という内田樹氏の言い分。

「日本の公人無謬説:間違いと分かっても多数派に   内田 樹
統治者目線 潜む国民性  五輪の中止を求めてずっと発言してきている。所詮「蟷螂之斧」ではあると思うが、感染収束の見通しが立たない中で、世界から人を集めて巨大なスポーツイベントを開催するべく奔走している人々に対して「あなたたちは、どう考えても正気ではない」と訴えた市民がいたことの証拠を後世のためにも残しておきたい。しかし、「私は反対だった」だけでは足りない。後世の史家が「いったいどうしてこんなことを当時の日本人は座視したのか?」と疑問に思った時に、その手がかりになるような証言でなければ学術的な生産性がない。
 なぜ私たちはこの「愚挙」を止めることができなかったのか?これに対しては「空気のせい」というのが私の答えである。おそらく五輪後にインタビューしたら、多くの五輪関係者は「個人的には2021年夏の五輪開催は無理だと思っていたが、とても反対できる空気ではなかった」と証言してくれるだろう。
 「個人的には反対だったが、とても反対にできる空気ではなかった」というのは、東京裁判の戦犯たちが採用した弁疏である。小磯国昭元首相は、自分は個人的には三国同盟にも日米開戦にも反対だったと言って検察官を驚かせた。それならなぜあなたはあなたが反対する政策を強行する戦争指導部において累進を遂げたのかと検察官に問われた小磯は「自分の意見は意見として、一旦決まったことは、これに従って粛々と実施していくのがわが国の美風である」と答えた。
 同じ言い訳をこのあと五輪関係者も繰り返すはずである。「あの時私が「中止」を主張したら、ポストを去ることになっただろう。だが、途中で任務を放棄するのはあまりに無責任である。それよりは与えられた責務を全うして、わずかなチャンスしかない五輪成功のために全力を尽くすべきだと考えたのだ」と。必ずそう言う。
 わが国では「いったん決まったこと」はそれから後にそれが間違いであることがわかっても「粛々として実施する」のが美風である。それは「公人無謬説」が統治上有効であると政治家も官僚も信じているからである。
 「われわれがうっかり間違いを認めたら、国民はパニックになる。パニックによる被害の方が間違った政策を実施することがもたらす被害よりも大きい」というのが無謬説の論拠である。感染リスクを開示したらパニックになる、ワクチン不足を明らかにしたらパニックになる、政府の無策が知られるとパニックになる…だから、「すぐに逆上して前後不覚になる無思慮な国民にはできるだけ真実を開示しない方がいい」と「無謬説」を掲げる人たちは考えている。「国民は耐えがたい現実を前にすると混乱して、高い確率で間違った判断をする」というのがその前提である。そして、困ったことにこれは部分的には真理なのである。
 政府が「安心・安全」を呪文のように唱え続けているのは、その二つが実は同じことだと思っているからである。どれほどのリスクのある計画でも、「まったく問題ありません」と保証してやれば、国民は信じて平穏に暮らす。その方が問題点を開示して要らぬ不安を醸成するよりも結果的には「よいこと」だと多くの人は考えている。
 日本人が個人として少数意見を述べることを忌避し、間違いとわかっていても、多数につくのは「民は由らしむべし、知らしむべからず」という統治者目線の技術知を国民自身が深く内面化しているからである。
   (うちだ・たつる=思想家、神戸女学院大名誉教授)」東京新聞2021年7月20日夕刊5面。

 果たしてオリパラはどういう形で終わるのか?無責任な観客としてなら、ずいぶん興味深いことである。たとえ感染者が激増しても、競技は滞りなく行われ、日本選手が活躍してメダルラッシュになれば、メディアは祝祭気分を演出し、やっぱりオリパラやってよかったじゃん、となれば落ち目の政権支持率も回復に向かう、というのがもっとも楽観的な期待だろう。しかし、これまでの日本が辿った現実をみれば、別のシナリオもじゅうぶんありうる。そしていずれにしろ、一時的なお祭りにすぎないオリンピックに、ここまでこだわってやったあげく、この国の抱える問題はさらに悪化するだけで何も解決されていない。
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ロシア革命とは何だったのか 2 「れ」

2021-07-18 17:05:07 | 日記
A.民主主義、社会主義、そして共産主義の最初
 世界史の基礎知識的なことを確認すると、1914年ボスニアの首都サラィエボを訪問中のアーストリア=ハンガリー帝国の皇太子が、セルビア人の青年によって殺され、あっという間に第1次世界大戦が勃発した。ドイツ、オーストリア=ハンガリー、そしてオスマン帝国が同盟国側、イギリス、フランス、イタリア、それに当時のロシアが協商国側に分かれて4年以上も続くことになった。ロシアの参戦は、バルカン半島の諸民族がオスマン帝国の支配からの独立を目指す「反スラヴ主義」に立つものだった。だが、戦争が長期化しロシアでは国民生活が逼迫し、農民たちから多くの兵隊が徴兵され、都市部では食糧危機が深刻化した。1917年3月にペトログラードで食糧配給の改善を求めるストライキ(デモ行進)が起き、皇帝ニコライ2世は警察と軍隊を出して鎮圧を図る。警察の発砲でデモ隊に死傷者が出て、そこから軍兵士の一部が反乱を起こし労働者側につく。この動きが各地に広がり、「パンよこせ」から「戦争反対」「専制打倒」への声が湧きあがり、労働者や兵士を中心に革命を指導する「ソヴィエト」と呼ぶ評議会が各地にできあがる。一方ペトログラードの国会では、立憲君主制の臨時政府が樹立され、ソヴィエトとの二重権力状態が出現する。臨時政府はニコライ2世に退位を求め、後継者に弟を指名するも、弟は拒否してロシア帝政は崩壊する。これが「三月革命(ロシア暦では二月革命)」と呼ばれ、さらに戦争継続を決めた臨時政府に対し、亡命先から戻ったボリシェビキ派の指導者レーニンは「戦争の即時停止」「各国との講和(とくにドイツとの停戦)」を主張して、兵士や労働者ソヴィエトの支持を獲得し、1917年11月7日ペトログラードを武力で制圧、臨時政府を倒して権力を握った。これが「11月革命(ロシア暦で十月革命)」。

「ロシア革命は必然的に起こった。世界戦争の重圧のもとで古い、弱いツァーリズム国家、立憲専制国家が解体し、民衆が戦時下の窮乏と悲惨に抗議して立ち上がった。国民の信を失った皇帝政府は1917年3月首都の労働者、兵士の結合した革命によって打倒され、国会を中心とするブルジョア=市民の革命が労働者兵士ソビエトの支持を得て、臨時政府を生み出した。これが二月革命である。臨時政府は政治的自由、身分差別の撤廃を宣言した。
開かれた自由の空間の中で、村と郷を基礎とする農民革命が始まり、民族革命がウクライナを先頭にロシア帝国領内の各地に族生した。ソビエトに結集した労働者兵士は戦争に反対して、急速に臨時政府と対立するにいたった。一方、臨時政府は、土地要求をめぐって農民革命と対立し、ウクライナ問題で民族革命とも対立する。この状況に助けられ、ボリシェビキに導かれる首都周辺の労働者兵士ソビエトは臨時政府を打倒した。これが十月革命である。かくしてレーニンはロシア国家の指導者となった。
ソビエトを基礎に生まれたレーニン政権は、土地の国有化を宣言したが、現実的には農民革命の嗜好を尊重するとの路線を打ち出した。農民は地主の土地を没収し、共同体原理で分配していく。さらにレーニン政権はすべての交戦国に無併合、無賠償、民族自決に立つ即時講和を提案したが、連合国には拒絶され、ドイツのみと休戦協定を結ぶこととなった。レーニン政権は三月革命以来の民主主義の目標であった憲法制定会議の選挙も実行した。当然とはいえ、エスエル党が得票率40.4パーセントで第一党となり、ボリシェビキは24パーセントで第二党に終わった。するとレーニン政権は憲法制定会議を実力で解散させてしまい、議会制民主主義への道を否定して、内乱の正統性をエスエル党にあたえた。
この間ウクライナの民族革命はウクライナ人民共和国の成立を宣言していたが、ウクライナのロシア人労働者はソビエト権力を宣言し、これと対立する。民族革命とソビエト革命の対立をレーニン政権はモスクワからソビエト革命軍を派遣して、軍事的に清算した。ウクライナ人からみれば、大ロシアの侵略である。ウクライナ人はドイツ軍に庇護を求めることになる。他方、ボリシェビキ政権は依拠する基盤の半分を失う。つまり革命的兵士集団が革命の勝利で軍隊民主化と復員をかち取ることによって、急速に分解し、消えていったのである。労働者だけが権力の基盤として残った。この状況でドイツが有利な講和条件を目指して攻撃をしかけてくると、レーニン政権は抗戦は不可能だとして、即時講和に突進する。その結果、パルチザン戦による抵抗を主張した友党、左派エスエル党は閣員を引き上げ、下野してしまった。統一戦線の終りである。
都市に孤立したレーニン政権は解放された農民が都市への穀物供給をストップさせると、完全に追い詰められた。1918年春には首都では、馬も見えなくなり、犬や猫モ姿を消した。飢餓が襲ったのである。そこで「革命祖国は危機に瀕す」とのスローガンのもと、ボリシェビキ政権は銃をもった労働者を農村に派遣し、農民から暴力的に余剰穀物を没収する道に立った。労働者革命と農民革命の衝突である。農民は激しく抵抗した。七月親農民派の左派エスエルは反乱を起こし、以後反乱の火の手は国の東西南北に拡大して、内戦が始まった。北からはイギリス、極東では日本とアメリカが干渉戦を開始する。
これに対して、すでに17年末に創設されていたジェルジンスキー議長の非常委員会(チェカー)を中心に赤色テロルが発動される。一党独裁の体制がかためられ、徴兵制で赤軍が作り出された。革命独裁は内戦を戦う中で、世界戦争を展望する新総力戦国家を構築していった。経済的にはすべての工場が国有化され、貨幣なき現物経済が営まれた。農村からは穀物が割当徴発制で代価なしに没収された。これが「戦争共産主義」(voennyi kommunizm, Kriegskommunismus)と呼ばれた体制である。国家社会主義の土台がこうしてつくられたのである。
白衛軍の将軍との内戦は1920年には終わった。しかし、そこで起こってくるのはより内部の戦いであり、アントーノフ反乱、すなわちタムボフ農民戦争やマフノの農民軍との戦いである。農民戦争との残酷な対決を勝利に導く過程で、レーニンは食糧の割当徴発制から現物税制への移行を決定する。それを決める第10回大会は21年3月クロンシュタット水兵の反乱との対決の中で行われたのである。
 内戦の勝利は惨勝というべきものであった。深刻な飢饉の発生したヴォルガ川のほとりでは人の肉も食べる悲劇が生じていた。経済の再建のために市場経済の許容が必要であった。戦争共産主義は新経済政策(ネップ)に道を譲った。しかし、政治的には一元主義は強められ、潜在的に政治的な反対派たりうる勢力は厳しく弾圧された。教会も同様である。経済的に譲歩することは、政治的にテルミドールを招くのではないか、とレーニンは考え、とくに厳しい抑圧索を推進することになった。
  共産主義と社会民主主義 
 戦争に対する態度で分裂した国際社会主義運動は、最終的に社会民主主義と共産主義に分裂した。社会主義のユートピアをかかげながら資本主義社会の改革を進めるという路線を進んできた各国の社会主義者、社会民主主義者の多くは世界戦争の中で祖国防衛の立場に立った。これに対して、世界戦争と対決して資本主義社会を破壊し、そのあとに社会主義のユートピアを実現するという路線をもって登場したレーニンたちは共産主義者を名乗るようになった。両者は民主主義をめぐって激しく論争した。社会民主主義者はボリシェヴィキ革命の非民主制を批判し、共産主義者はロシアの道を普遍的な道と考えた。この分裂を最も鋭く示したのはカウツキーとレーニン、トロツキーの論争であった。
 カール・カウツキーは戦争に賛成したドイツ社会民主党主流に反対して、独立社会民主党に加わっていたが、1918年の『民主主義か独裁か』、『プロレタリアート独裁』、1919年の『テロリズムと共産主義』を書いて、ボリシェヴィキ革命を厳しく批判した。これに対し、レーニンは1918年に『プロレタリア革命と背教者カウツキー』を書き、トロツキーは1920年に『テロリズムと共産主義』を書いて、反論した。カウツキーは、引き続き正統派として、プロレタリア独裁を社会主義へ向かう権力状態として認めていたが、それは議会制民主主義を通じて、労働者多数の意思により、合法的に、平和的に形成されなければならないものだと考えていた。彼にとって、社会主義は議会制民主主義および人権と不可分であり、したがって、憲法制定議会を解散し、ボリシェヴィキ一党の独裁を実現したレーニン政権は社会主義から逸脱した権力だとしたのである。
 これに対して、レーニンは、独裁とは「直接に暴力に立脚し、どんな法律にも拘束されない権力」のことであるとし、プロレタリアート独裁の独裁性を肯定した。そして、「純粋民主主義」など存在せず、「歴史上知られているのは、封建制度にとってかわるブルジョア民主主義とブルジョア民主主義にとってかわるプロレタリア民主主義」の二つであると主張した。議会制民主主義とはブルジョア民主主義にほかならず、ソビエト権力はプロレタリア民主主義であり、「もっとも民主主義的なブルジョア共和国の百万倍も民主主義的である」。
 トロツキーもソビエト独裁は党の独裁によって初めて可能になったと主張した。トロツキーは、カウツキーが戦争を経過した大衆のメンタリティ―を理解していないと批判した。「戦争という社会的リアリズムの恐るべき学校」から「新しい型の人類がつくり出されつつある」。プロレタリアート大衆は「帝国主義戦争」から「古い規範はもはや無意味だ」という教訓をえたのだ。カウツキーの議会制民主主義は革命的階級のメンタリティ―に立ち遅れている。トロツキーは「計画経済は義務労働なしには不可能だ」として、「労働の軍隊化」を擁護した。まさにプロレタリア独裁国家は国民に軍隊の献身、規律を要求する権利をもつというのである。カウツキーはこれに対してトロツキーが戦争末期の敗戦国の状況から戦争の影響を狭く見ていると反批判した。カウツキーにとって、社会主義とは労働者の意識の問題であって、戦争がつくり出した条件とは無縁のものであったのである。
 この論争において、対立点が完全に明白になっているとは言いがたい。カウツキーは実質的には、プロレタリア独裁論の放棄に進んでおり、議会制民主主義の中での改革の路線を推進していたのである。他方レーニンとトロツキーは世界戦争と対決するというメンタリティー、世界戦争のメンタリティーの中で独裁的、暴力的に社会主義の実現へ進もうとしていたのである。ソビエト権力が議会制民主主義より百万倍も民主主義的であるというのはレーニンの自己欺瞞でなければ、プロパガンダであったのである。
 だが、その時代にカウツキーの言葉よりレーニンの言葉の方に引きつけられる人がいた。それはなぜであろうか。それは共産主義者の世界戦争・帝国主義批判の故であった。アメリカ人ジョン・リードはハーヴァード大学を出た革新的なジャーナリストであったが、メキシコカクメイノピリヤ農民軍に従軍してすぐれたルポルタージュを残した。彼は大戦中には東ヨーロッパで戦線を取材して、死んだ兵士たちの死骸の上を踏んで行くような経験を通じてこの戦争を憎むようになった。ついで訪れたロシアの革命的雰囲気を彼は人間的なものと感じた。帰国してからは米国の参戦に反対する論陣を張った。米国が民主主義の旗のもとに参戦することは彼には滑稽であった。「戦場に赴く人々の同意」をとらないで戦争を始める民主主義とはいかなる種類の民主主義なのか。そして彼はプロレタリアートが立ち上がり、自らの権利を獲得するのを心から願うようになった。「他の道があるかどうか知りません」。二月革命は彼に希望を与えた。勤労者が権力を取り、戦争を終わらせる可能性があると考えたのである。
 1917年秋リードはルイザ・ブライアントとともに革命のロシアに入り、十月革命を首都で観察した。その成果が名高いルポルタージュ『世界を揺るがせた10日間』である。1918年に出版されたこの作品は、ロシア革命の祝祭としてのイメージを全世界に伝えた。十月革命に強く引きつけられた彼はついにアメリカ共産党の創立者の一人となり、コミンテルンの執行委員としてモスクワで客死することになったのである。彼の遺骨は赤の広場のクレムリンの壁に葬られている。オレゴン州ポートランド出身の夢見る青年がその33年の短い生涯で辿った軌跡は世界史の象徴であったと言えよう。
 共産主義インターナショナル、コミンテルンはレーニンの強い提案で1919年3月に創立され、翌20年7月の第二回大会で本格的にスタートした。この第二回大会には41ヵ国、67組織の代表218人が参加した。大会は規約とレーニン起草の加入条件を定めた。戦争を支持した社会主義者だけでなく、中間的な「社会平和主義者」とも、改良主義者および「中央派」とも「完全に、絶対的に絶縁する」共産主義者の党、植民地支配に反対し、植民地におけるあらゆる解放運動を支持する共産主義者の党、中央集権的に組織され、「ほとんど軍事的規律に近い鉄の規律」をもつ共産主義者の党、ロシア革命とソビエト共和国を支援する党だけが加盟できるとされた。コミンテルンが世界党であり、各国党はその支部ということになった。
 こうしてヨーロッパのほとんどすべての国に共産党が生まれた。これらの党はプロレタリア独裁、ソビエト革命を目指して活動を開始した。しかし、コミンテルンの影響はヨーロッパにとどまらず、全世界に広がった。それは、コミンテルンが帝国主義と植民地支配に対する厳しい対決の姿勢をとったことと結びついている。第二回大会ではレーニンが起草した「民族問題と植民地問題についてのテーゼ」が採択された。このテーゼは、ブルジョアジーを打倒する社会主義革命闘争にあらゆる民族のプロレタリアートを結集させるということが第一に重要なことであるとの主張から出発したが、後れた国では、あらゆるブルジョア民主主義的民族運動を、とくに農民運動を支持することを表明している。共産党は中国、インド、朝鮮、ベトナム、日本にも生まれたが、コミンテルンの影響は中国にもっとも強く現れることになる。」和田春樹『歴史としての社会主義』岩波新書、1992.pp.75-84. 

 今日のぼくたちの感覚では、カウツキーの主張はデモクラティックでまともな革命戦略に思えるが、当時のロシアの農民・兵士・労働者が直面していた現実からすれば、レーニンの主張は心に響くものだったのだろう。ただ、権力奪取を少数派の暴力で達成し独裁体制を敷いたことが、その後の共産党一党支配のさまざまな問題を生み出す始まりになったことは、明らかな歴史の事実だ。


B.詩の極限
 北村薫という作家をぼくはよく知らなかった。主に推理小説を書く人で、春日部高校の国語教師をやりながらミステリー小説を書いてきたという。デビューしたときは覆面作家だったらしいが、ぼくは一冊も読んだことがない。たまたま、日本の現代詩のことを調べに近所の区立図書館に行ったら、『詩歌の待ち伏せ』という3巻本があるのを見つけ、その上巻を借りてきた。そこにこういう文章と詩の紹介があった。「れ」という3行だけの詩。3歳の子どもが書いた、いや、書いたのはたぶん母親で、この子がこう言ったのだ。ん~ん、凄い詩の極限。

 「今日の午前中、隣町の図書館まで、自転車で行って来ました。調べ物があったわけではないのです。ただ、子供が借りた『お菓子の作り方』の本を返しがてら、覗いて来たのです。冷房の効いた中をぶらぶらと歩き、あちらこちらの書棚を眺めました。その時、紅色の背表紙が目に飛び込んで来ました。白抜きになった文字は――『ママに会いたくて生まれてきた』川崎洋。読売新聞社の本です。
《いずれ、『れ』のことを書こうかな》と思っていたところでした。思いがけない待ち伏せに、びっくりしました。《どうして気づかなかったのだろう。題から考えて、多分、あのアンソロジイに違いないな》と、直感しました。
 開いてみると、やはり、川崎氏が読売新聞紙上で選をしている《こどもの詩》の本です。今までこの棚の前は、何度も通っています。いつも借りられていた――ということもないでしょう。見ていて見えなかったのです。
『れ』というのは、そこに載った三歳の子の《作品》です。川崎氏が、《投稿は、まだ字を知らない幼児が口にしたことを親が書きとめたものも詩として受けつけてい》るからです。
 では、わたしは読売新聞でそれを読んだのか。—―違うのです。何年も前のことになります。本屋さんの平台に積んであった『VOW』という本を手に取りました。カラーグラビアのページを、ぱらぱらとめくって見ると、ごく普通の幼稚園の前に《なその幼稚園》と大書した看板がかかっています。要するに《はなぞの幼稚園》の最初の《は》が落ちてしまったのですね。偶然が、超現実的な風景を生んだわけです。—―無造作が作った不思議の国。これを写真に撮って発表するのは立派な創作です。凄いと思いました。早速買いました。
 話はここで終わらなかったのです。
 この本は、シリーズ化されていました。写真に限らず、投稿者が身の回りで見た《ヘンなもの》を送る、という趣向です。ついでにもう一冊買ったのですが、そちらを読んで行くうちに、考え込んでしまいました。この本は、印象が強いので、いまだに取ってあります。『VOW4』。中に《詩人の血》というコーナーがあり、こういう詩が紹介されていました。


  れ


ママ

ここに

カンガルーがいるよ


 投稿者の言葉は《オーストラリアにでも住んでいらっしゃるのでしょうか?》。続いて、編集者のコメントが、《タ、タイトルが「れ」。凄いな。れ。しかもただの子供のたわごとだしなあ。れ。》
 何を言っているのだろうと思いました。
《オーストラリア》などという言葉がどうして出て来るのか、《タイトルが「れ」》であることに、なぜ驚くのか、分かりませんでした。考えてから、《ああ、カンガルーをみた子が、びっくりして「れっ?」といったと思っているのか?》と、気が付きました。
 いうまでもありません。この《カンガルー》は本物ではない。ここに並ぶ言葉を見て、素直に思い浮かぶのか、どういう情景でしょう。
《れ》に関してなら、わたしは、ひらがなを書いた四角い幼児用の札を思い浮かべました。それを使って、お母さんと文字遊びをしている場面です。勿論、絵本を見ているのでもいい。ひらがなの《れ》の字を見た坊やが、小さな指でそれを指し、いったに違いない。
「ママ、ここにカンガルーがいるよ」
 —―前にちょこんと突き出された手、膨らんだお腹の袋、右に長く伸びた尻尾。まさに「れ」という形は《カンガルー》そのものです。
 この言葉を読めば、幼な子の口の動きが見え、自分の発見を大好きなお母さんに伝える喜びが伝わって来ます。我が子を見つめる母の日と見も浮かんで来ます。《三歳》という年齢が書かれていました。書き留めたのは当然《ママ》ということになります。となれば、そうせずにはいられなかった心の動きまで、手に取るように分かります。理屈は必要ない。見た瞬間にこう思えてしまう。詩句をどう受け取るかは自由です。しかし、この場合に限りなら、別の解釈は無理でしょう。」北村薫『詩歌の待ち伏せ』上巻、文藝春秋、2002年、pp.64-67. 

 これを立派な詩にしたのは誰か?三歳の子とその母と、それを読んで「れ」?ああそうか、と気づくぼくたち。
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