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日本の伝統を見直す 橋本治を読む 10 オリパラ再考

2020-05-30 13:56:47 | 日記
A.悪趣味な明治
 江戸の徳川幕府が崩壊し明治新政府ができて、この国が「御一新」の改革をすすめた時代を、今のぼくたちの多くは、古い武士の時代が終わって「近代国家」になった「輝かしい歴史」として肯定的にみている。学校でそのように先生から教えられたし、昭和の戦争は手ひどい敗北に終わったけれど、明治の最後の日清、日露戦争は日本の勝利で世界に躍進して、強国になったのは悪くない、となんとなく思っている。『坂の上の雲』的な明治の歴史を成功物語として読む人が、企業経営者や政治家など、とくに男性の歴史観を作ってきたのは、敗戦後の挫折感を癒し、高度経済成長の達成で自分たちに自信や誇りを取り戻すために必要な「気分」だったのだと思う。おそらく安倍晋三という人の歴史観も、これまでの言葉から「明治の成功物語の栄光を再び」という単純なイメージに彩られていることは間違いない。歴史をどうみるかは、正確な史実ではなく自分たちの見たい願望に沿って、わかりやすい物語を作るほうが気分がいい。でも、それはもう歴史とはいえない。
 明治を「悪趣味な時代」だと橋本治は言う。それはどういう歴史観から来ているのだろう。おそらくそれは「江戸時代」をどうみるか、で決まる。明治を栄光の歴史と置けば、その前の江戸時代は「遅れた旧体制」になり、否定の対象になる。だが橋本治が明治を「悪趣味」だとみるのは、江戸時代のほうがずっと落ち着いた厚みのある「好趣味」な世界だったと思っているからだろう。少なくとも江戸の文化に関しては、浮世絵だとか俳句だとか、歌舞伎や落語など、明治以後も生き延びて海外でも評価の高いものは多い。それを「粋」とか「洒落」とかで語る人もいたが、橋本治はもっと体感的に「江戸っ子」の視点で明治以後の日本を眺めていたんだと思う。それは、ある意味で負け組になった徳川幕臣的なスタンスでもあるし、もっと町人的な場所からは、明治時代はまだ江戸から連続した世界があって、薩長藩閥政府のやる「近代化」は「田舎者の野暮」の極みにみえていた。三島由紀夫の恋愛小説が作り出そうとしたものも、この「悪趣味な時代」をむりやり美化しようとしている「へんな」動機によって歪んでいる、とみる。
 
 「『春の雪』は恋愛小説であり、しかもそれは、「明治」という悪趣味な時代を舞台にしているのだという。私にしてみれば、明治というのは、「恋愛」などが成立しえないような悪趣味な時代なのである。ここには、権力欲だけがあって、明確な美意識がない――私は明治という時代をそのように思う。しかし三島由紀夫は、その困難な時代を背景にして、ちゃんとした恋愛小説を書いたのだという。三島由紀夫の死後、遺作である『豊饒の海』への言及は多く、そこで『春の雪』は「成功した恋愛小説」という評価を与えられていた。その存在を知らぬままにいた私が『春の雪』を「読みたい」と思った理由もそこにあって、私は「明治を舞台にして成功した恋愛小説」であればこそ、『春の雪』を読みたいと思ったのである。
 『春の雪』は、三カ月前の七月に明治が終わった、大正元年十月から始まる。明治は終わっているけれども、舞台背景は「大正」ではない。そこにあるのは、「明治に終わられてしまった大正」であり、その舞台となる時は、「終わってしまった明治」なのである。『春の雪』の中で、終わってしまった明治はまだ続いていて、そこに「美しい恋愛」があるのだという。明治という時代の中に「美しい恋愛」があるのなら、そこには同時に、明治という時代の悪趣味も排除しうるだけの「貧しさ」がなければならない。明治を美しくしうるのは「貧しさ」と「寂しさ」だけで、近代文学の扱う恋愛が「貧しさ」を必須としているのも、それと似た理由だろうと、私は思う。がしかし、『春の雪』の主人公二人は、ゴージャスな上流階級の人間なのだという。ゴテゴテとした着物を着たチンチクリンな女が、美意識を棄て権勢だけで周囲を飾り立ててしまった男たちの統率する世界の中で、果たして美しくなりうるのか。そこにいる男は、「美しい恋」などというものを実践しうるのか。明治という悪趣味な時代が、そのまま「恋」というものを実現させる美に転化しているのなら、それはとんでもない力業である。時代が意識しなかった悪趣味(キッチュ)がそのまま美になり変わる――ということは、それをした作家が時代を転覆させたということになる。その頃の私は、自分の嫌いな“野暮”が明治になってから一般化したと信じていたから、そういう転覆をぜひ見たいと思ったし、それを実現させた作家のテクニックと“成果”を、『春の雪』に読みたいと思ったのである。
 「一体、あのゴテゴテとした野暮な悪趣味の中に、美しい透明感が流れうるのか?」と思い、『鹿鳴館』という戯曲を書いた三島由紀夫なら、そういう軽業もやってのけてしまうのだろうと独り決めして、私は『春の雪』に向かったのである。
 『春の雪』で最初に私が出会った違和感は、これである――。
《彼はすでに自分を、一族の岩乘な指に刺つた、毒のある小さな棘のやうなものだと感じてゐた。それといふのも、彼は優雅を學んでしまつたからだ。》(『春の雪』二)
 この描写を読んで、「なんなんだこの主人公は?」と思ってしまったのは、私が「三島由紀夫」に慣れていなかったからである。松枝清顯は、至って三島由紀夫的な登場人物であるはずなのだが、自分の知らない三島由紀夫に初めて出会った二十二歳の私は、いきなり「へんな人……」と思ってしまった。
 そしてその実感は、「四」になって再び登場する。
《――清顕のわがままな心は、同時に、自分を蝕む不安を自分で増殖させるといふふしぎな傾向を持つてゐた。 これがもし戀心であつて、これほどの粘り持續があつたら、どんなに若者らしかつたらう。》
 以前に読んだ三島由紀夫の戯曲やエッセイや、昔読みかけて投げ出してしまった小説を思い出して、「三島由紀夫はこういうことを書く人だったな」とは思ったのだが、それでも「なんかへんだ……」と思っていたのは、私が『春の雪』を恋愛小説だと思いこんでいたからである。
 この主人公は、《自分を蝕む不安》を増殖させても、《戀心》を増殖させないと言う。「だとしたら、こういう人は恋愛小説の主人公になんかなれないんじゃないのか?」と、二十二歳の単純なる私は思ったが、しかし、どうやらそうではないことが、すぐ後に続く文章で分かった。
《これがもし戀心であつて、これほどの粘りと持續があつたら、どんなに若者らしかつたらう。彼の場合はさうではなかつた。美しい花よりも、むしろ棘だらけの暗い花の種子のはうへ、彼が好んでとびつくのを知つてゐて、聰子はその種子を蒔いたのかもしれない。清顯はもはや、その種子に水をやり、芽生えさせ、つひには自分の内部いつぱいにそれが繁茂するのを待つほかに、すべての關心を失つてしまつた。わき目もふらずに、不安を育てた。》
 これは明らかに「恋愛のスタート」である。「なるほど、三島由紀夫は単純な“恋愛”じゃなくて、“不安”という形からしかスタートしない恋愛を書くつもりなんだな」という風に、私は思った。そしてそれが、世間一般の「三島理解」に近いようなものだと思われたのだが、それもやがては崩れてしまう。「八」になると、こんな一節が登場してしまうからである――。
《かうまで人の感情を自分のもののやうに模寫できるのを、彼は今の安堵したひろびろとした心の自由のせゐだと疑はなかつた。自然な感情は陰鬱で、それから遠く離れれば離れるほど、かうも自由になれるのだ。なぜなら自分は、聰子を少しも愛してゐないから。》
 作者はわざわざ傍点を振ってまで、恋愛に進もうとはしない主人公の胸の内を肯定している。これは「皮肉」なのか?適度の皮肉ならいいが、恋愛と相い容れないものは、皮肉という名の理性である。こんなものを抱えて恋愛の中に入って行ったら、恋愛が恋愛として成り立たない。理性込みの恋愛とは、自己防衛に足を取られた、中途半端な醜い恋愛である。まさか三島由紀夫がそんなものを書こうとしているとも思わない私は、「一体この松枝清顯というのはどういうやつなんだ?」と思うばかりである。
 『春の雪』を読む二十二歳の私は、ほとんど女である。私の態度は、「恋愛小説だと思って読んでるのに、どうして恋愛にならないのよ。さっさと恋愛すればいいのに、ほんとに焦れったいわね!」と怒っている女のそれと同じである。そして私は、この態度を間違っているとは思わない。恋愛小説の読者は女ばかりで、恋愛小説を読む時、人は女になるしかないのである。女の主人公が男に惚れる――だとしたら読者は、その女の立場に立たなければならない。女を主人公とする恋愛小説の読者は圧倒的に女であり、恋愛小説のほとんどが女を主人公にするものであることは、言うまでもない。
 逆に、男の主人公が女に惚れるような恋愛小説では、主人公の男を通じて、読者が恋愛の対象である女に接近して行く。恋愛というものは、「相手と一つになりたい」と思う衝動だから、女に接する男は、女になりたいのである。そのため、恋愛小説の主人公となる男は、多くの場合、その男性性を希薄にする。典型は、『源氏物語』の光源氏であろう。彼には「設定」だけあって、「人格」がほとんどない。それでもいいと言うのは、『源氏物語』が、女の読者を対象にして書かれた恋愛小説だからである。そこに「男」が立ち塞がっていたら、読者は「女」に近づけない。恋愛小説の主人公の多くが「男性以前」であるような少年か青年であるのはそのためで、主人公の男が「なんだかはっきりしない男」であることこそが、恋愛小説にとっての肝要事なのである。
 恋愛小説の読者は女で、恋愛小説とは、読者に対して「女になれ」と命令するようなものである。ところがしかし、『春の雪』の主人公・松枝清顕はそうではない。男である自分を、絶対に崩そうとはしない。絶対に女になろうとはしないし、自分の外側にいる女の影響下に入ることさえも肯んじない。だからこそここで、「女になる」という恋愛小説の原則は成り立たない。だから私は、少しばかり考えを変えた。「もしかしたらこれは、男のための恋愛小説ではないのか?」と思ったのである。「男のための恋愛小説」――つまり、「男のままで読める恋愛小説」であり、「男であり続けたいと思う男のための恋愛小説」である。「だからへんてこりんな理屈が多いんだろう」と、二十二歳の私は思った。その時の私は、「男が男であり続ける女相手の恋愛」が、「恋愛の不能」の別名だとは思っていなかったのである。
 三島由紀夫は、「恋愛小説を読む」ということと「女になる」ということが一つであることを知っている人だと思った。だからこそ、彼の最後の恋愛小説となった『春の雪』は、その常識を引っ繰り返した、「男のための恋愛小説」になるのかと思ったのである。
 しかし、そう思った私の期待は、またしても裏切られる。『春の雪』のタイトルの由来ともなる、「十二」のラブシーンである。
《膝掛の下で握ってゐた聰子の指に、こころもち、かすかな力が加はつた。それを合圖と感じたら、又清顯は傷つけられたにちがひないが、その輕い力に誘はれて、清顯は自然に唇を、聰子の唇の上へ載せることができた。
 俥の動揺が、次の瞬間に、合はさった唇を引き離さうとした。そこで自然に、彼の唇は、その接した唇のところを要にして、すべての動揺に抗らはうといふ身構へになつた。接した唇の要のまはりに、非常に大きな、匂ひやかな、見えない扇が徐々にひらかれるのを清顯は感じた。》
 なんてへんな文章だろうと、これを読んだ私は思った。「これが、雪の人力車の中で初めて唇を交わす二人の描写なのか?」と、二十二歳の私は思った。外は降りしきる春の雪=明治の雪である。年若い男女は人力車の中――そんな「情緒纏綿」としか言いようのない設定で語られるものが、どうして解剖学のテキストのような、「接吻という事実を詳細に解説する文章」なのか?《非常に大きな、匂ひやかな、見えない扇》はいいが、そんな表現を持ち出すのなら、「その前をもうちょっとうっとりさせるような文章にしてくれ」と言いたい。そもそも、《清顯は自然に唇を、聰子の唇の上へ載せることができた。》というのがへんである。こんなところで、《載せる》などという表現を使うだろうか?ここは「合はせる」とか「触れる」が普通なんじゃないだろうか?だからこそ私は、「一体この文章はなんなんだ?」と思う。
 その後に続く文章――《そのとき清顯はたしかに忘我を知つたが、さりとて自分の美しさを忘れてゐたわけではない。》を、私は不思議だとは思わない。そういう自意識の強い男だっている。「恋愛なんかなんだ」と思っている若い男はそうなる。そうなってしかし、自分が直面してしまった恋愛に溺れて行く。溺れながらも、自意識だけはしっかと持っている――そういう恋愛だってあるだろうと私は思うから、この一行だけはへんだと思わない。しかしだからと言って、その後に続く文章を自然だとも思わない。
《自分の美しさと聰子の美しさが、公平に等しなみに眺められる地點からは、きつとこのとき、お互ひの美が水銀のやうに融け合うのが見られたにちがひない。》
 そんなものが《見られた》から、なんだと言うのだろう?なんだってある種の男が、接吻の最中に《自分の美しさ》をしっかりと自覚したりするのかと言えば、それは、恋愛という没我の中に入って行こうとするためだ。たとえて言えば、それは、素潜りの前の深呼吸である。それをしなければ、恋愛の中で自分を見失い、溺れてしまう。《自分の美しさ》を自覚する男は、そうして接吻以降の行為へ没入して行くことになる――そのためにこそ、「自分の美しさを自覚する」などという自意識はある。ところがしかし、この松枝清顯は違う。彼が没入しようとするのは「恋愛」ではなく、接吻している自分とその相手の女を「眺める」という行為なのだ。そんなものを眺めてどうするのか?――その問いに、作者はすぐに答える。
《拒むやうな、いらいらした、とげとげしたものは、あれは美とは關係のない性質であり、孤絶した個體といふ妄信は、肉體にではなくて、精神にだけ宿りがちな病氣だとさとるのであつた。》
 この主人公は、《お互ひの美が水銀のやうに融け合ふ》ことを実感して、やっと恋愛の陶酔の中に入って行ける人らしいし、三島由紀夫という作家もまた、そうまで書かなければ恋愛小説は成り立たないと考えている作家らしいのである。描写は、ここら辺からようやく「接吻の陶酔」へと変わって行くのだが、しかし、それを語るのもまた、とんでもなくへんな文章である。
《清顯の中の不安がのこりなく拭はれてはつきりと幸福の所在が確かめられると、接吻はますますきつい決斷の調子に變わつて行った。》
 十九歳になったばかりのプライドの高い男が、初めてのキスに緊張している。しかしその相手は、自分を受け入れてくれる女なのだから、その緊張はすぐに溶ける。溶けると共に、恋の至福が訪れる。それは分かるが、しかしそうなってどうして、そこに《決斷の調子》が登場するのか?それが「突進」なら分かるが、なぜ《決斷》なのか?こんな言葉を使われたら、この恋の主人公は、したくてキスをしているのではなく、「したくもないキスを敢えてしている」になってしまう。「初めての三島文学」に戸惑う私は、「世間の人は、こういうわけの分からないことをこそ“文学”と言うのだろうか?」と、首を傾げる。私にとって、「初めての三島文学」は「初めての近代文学」と同義のようなもので、それ以前の私は、日本の近代文学なんかまともに読んだことがなかったのである。」橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』新潮文庫、2002.pp.84-93. 

 江戸の町人のみならず、昭和の庶民だって、この『春の雪』のキスシーンの描写がなんでこんなに面倒臭くえんえん「へんな」言葉で塗り上げられちゃうのか、もっとバシっと決めろよ!と思う。でも、「明治の悪趣味」を美化しようとするエリート男は、どこまでも人工的にこの作業をやめない。今なら高校生でもそれを滑稽だと言えるが、ステータスある男たちによって「これが最高の文学だ」と言われていた時代には、怖くて言えなかったのが「戦後」だったんだな。


B.オリンピックやる価値あるのか?
 コロナウイルス蔓延により1年延期となったオリンピック・パラリンピックだが、仮に来年初めには世界で終息したとしても、今年計画されたままの東京開催を実施するべきだろうか?近年のオリンピックが、金まみれ、利権まみれで肥大してきたことへの批判はありながら、招致決定以来の盛り上げキャンペーン万歳!の大合唱に押されて、やめた方がいい、という声はかき消された。でも、コロナでこうなってしまえば、もう一度問題を再考してみる価値はある。

 「再考2020 商業主義 弊害しか見えない  コラムニスト 小田嶋隆さん 
東京大会に一言:「意義があるとしたら、今の五輪の枠組みに引導を渡すことか。商業主義から離れ、規模を小さくして正常化するための最初の大会にできるかもしれない」
 延期決定までのドタバタから、政府、東京都、組織委員会に国際オリンピック委員会(IOC)と電通も加えて、東京大会に関わる組織のガバナンスはどうなっているのか、という問題が見えた。全員悪役の映画を見ているような気持ちだ。追加経費を巡るやりとりについても、検証されないまま放置されている。
 どこにリーダーシップがあって、誰が責任を持って決断し、どんな風に話が進んでいるのかがわかりにくい構造になっている。
 そもそも東京大会については招致段階から反対だ。
 全部うやむやにして、書類まで焼いてしまった長野五輪のいやな記憶がある。石原慎太郎知事(当時)が招致を言い出した時の「この国には夢の力が必要だ」みたいなかけ声は、国家主義丸出しのどうしようもないものだった。安倍政権の五輪への乗っかり方もすごく気持ち悪い。五輪を言い訳や口実にして、いろんなことを一挙にやろうとする下心が露骨に見える。
 朝日新聞を含めた全国紙4社も「東京2020オリンピックオフィシャルパートナー」として乗っかっている。メディアとの不健康な関係も反対する理由だ。
 五輪がアマチュアスポーツの祭典ではなくなって久しいし、近年の大会は弊害しか見えない。どんなに絵がきれいでも、額縁が嫌いだと見たくなくなる。世界のトップ選手が会する五輪は絵として素晴らしいのに、腐った額縁で提供していいのかということだ。
 商業主義に走る前までは五輪には意味があった。1964年の東京五輪で印象に残るのは、世界にはいろんな競技があってすごい選手がいるという驚きだ。それがスポーツの素朴なおもしろさだった。
 いまは各競技のワールドカップや世界選手権の方がスポーツを楽しむための枠組みが機能している。五輪となると、国だとか、メダル数だとか、もうかるもうからないという金の話になってしまう。スポーツをスポイルしている最たるものが五輪だ。
 新型コロナはグローバリズムを見直すきっかけになった。垣根を取っ払えばすべていいわけではないと、ウイルスは人類を叱っているわけだ。五輪はグローバリズムのグロテスクな側面の象徴のようなもの。米国の4大スポーツやサッカー、ゴルフ、テニスなどお金の取れる競技は入れず、マイナー競技が集まれば、いい大会になる。(聞き手・構成 編集委員・潮智史)」朝日新聞2020年5月29日朝刊14面、スポーツ欄。

 1964年東京五輪の記憶は、ぼくも大きな感動のシーンとして残っている。スポーツ競技というものがぼくたちの生活に、かなり大きな意味をもつことはあのオリンピックによって植えつけられた面はある。ナショナリズム高揚やメダルを取れ!と選手を追い詰める世論やメディアの期待には、反発したけれども、オリンピックそのものはやってよかったと思った。しかし、あの時代と違って、今のオリンピックは巨大な浪費の坩堝で、これで経済的利益を狙う下心が見え隠れする。やめてもいいかな、と思う。
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日本の伝統を見直す 橋本治を読む 9  麻雀交遊オヤジ文化

2020-05-27 20:14:15 | 日記
A.言葉の洪水
 この『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』は、文庫版で473頁もある。「あとがき」によれば、元の原稿は2000年秋に『新潮十一月臨時増刊/三島由紀夫没後三十年』に掲載されたものだったが、原稿枚数は百枚で、最終本の六分の一以下だった。当時の橋本治は、『双調平家物語』を執筆しながら『二十世紀』という本をまとめる最終段階だったという。頼まれて百枚の「三島由紀夫とはなにものだったのか」を書いてから、続きを書く気はなく、三島への関心ももともとたいしてなかった。その前の1991年に『日本幻想文学集成』という作家別のアンソロジー叢書の編集を頼まれたとき、彼は芥川龍之介か川端康成なら担当したいと思った。しかし、編集側は「三島由紀夫か久生十蘭」の巻の編集を頼まれたとき、久生十蘭は「影響を受けすぎた作家」なのでもう離れたいし、三島は自分の領域にはない作家なので「他にもっと適任者がいるだろう」と思ったが、結局編集を担当したけれど、三島は「やってやれないこともないけれど、積極的にやりたいわけではない」人だった。やがて『新潮』に百枚書いた後、再度三島論を二百枚依頼され、まあ二百枚はちょうどいい枚数だと引き受け2001年に発表される。そしてその三百枚の原稿を新潮社は本にしたいというので、「単行本のために少しだけ書き足される必要はある」と思ったが、結局本論から切り離されて「補遺」としてまとめた。
 つまり、はじめ百枚で終ったはずの原稿が、三百枚になって本になるはずが、結局さらに三百五十枚も加筆してしまい、今の形になったという。
 やはりあとがきで「本書『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』は、私にとって、自分の書いた本の中では一番不思議なあり方をする本である。私は一貫して、「もうこれで終わりでいいや」と思っている。「本来的なあり方」よりも、「自分の分担領域」という考え方をしている。」といいながら「終わったけど終わらない」――この本を書く私は、一貫してそのことを意識している。書き足すたびに、なにかに踏み込んでいる。「こわいから踏み込めずにいたところに、勇気を奮って踏み込む」というのとは違う。「そこは自分の踏み込む領域じゃないから踏み込まない」と思って遠慮している――あるいは自己規制をしているのである。因果なことに、私には「論の隙間」というのが見える。その「隙間」を突つき出すと膨大な量を扱うことになるから、めんどくさいから知らん顔をしているというのもある。今度の仕事もそれには近いのだけれども、やはり「遠慮」の部分が大きかった。それは、この本に対する私の加筆作業が、第二章の三――「『仮面』の詮索」から始まったことで明らかである。」と書いている。
 あまり関心もなかった三島由紀夫について、「まあやれっていうんならちょっとやるか」で始まった論が、結局どんどん言うこと書くことが溢れてきて、橋本治は止まらなくなる。この本は、そういう言葉の洪水からできてしまった作品だろう。こんなにしつこく繰り返し書かなくてもいいだろうと思いつつ、やっぱり至るところに「論の隙間」が出て来てそれを埋めるためにまた、多くの言葉が費やされる。

 「昭和四十年の六月、『春の雪』を書き始めた彼は、一体何を書いていたのか?『春の雪』の冒頭にはなにが書いてあるのか?《セピアいろのインキで印刷されたその寫眞は、ほかの雑多な戦争寫眞とはまるでちがつてゐる。》と書かれる、「日露戦争の写真」である。一体この写真は、なにを意味するのか?冒頭に登場して、《數千の兵士がそこに群がり、白木の墓標と白布をひるがへした祭壇を遠巻きにしてうなだれてゐる。》という写真であるはずなのだが、この写真の示すところのものがなんであるのかは、よく分からない。
 三島由紀夫は、『春の雪』の冒頭でこの写真を出来るだけ精密に描写しようとしているのだが、その精密さに付き合っていると、どういう写真なのかがよく分からなくなる。原稿用紙二枚以上の長さに亘って延々と続き、《古びた、セピアいろの寫眞であるだけに、これのかもし出す悲哀は、限りがないやうに思はれた。》で終わるこの写真の描写から浮かび上がるものは、「燐光を放つ死者の群れ」である。《前景の兵士たちも、後景の兵士たちも、ふしぎな沈んだ微光に犯され、脚絆や長靴の輪郭をしらじらと光らせうつむいた項や肩の線を光らせてゐる。》という描写が、そのイメージを強烈にさせる。輪廻転生を扱う大長編小説の冒頭に、「微光に犯された死者の茫漠たるイメージ」があるのはいかにもふさわしいことのように思われるが、しかしこの写真は、『春の雪』の「十二」で《數千の兵士が》云々と繰り返される以外、ほとんどなんの意味も持たないのだ。あまりにも象徴的で、あまりにも精密に描かれるこの写真のイメージは、実のところ、なんの意味も持たないまま消えてしまうのだが、三島由紀夫は、なぜこんなものを『豊饒の海』の冒頭に掲げたのか?
 誰もそんなことを「謎」とは思わないらしいが、私はこれを「謎」だと思って、この意味を考えた。考えて出てくる答は、「鎮魂」である。私には、そうだとしか思われない。
 なぜ「鎮魂」が必要なのか?三島由紀夫の「友」であるような男達が、戦争で死んでいるからである。私には、この「日露戦争の写真」が、「第二次世界大戦の死者の写真」とイコールのものであるように思えてならない。それではなぜそんなイメージを、遺作となる『豊饒の海』の冒頭に掲げるのか?私の思う答は、「自分の死をぼんやりと思って、三島由紀夫は、遠い以前に死んでいった友を思った」である。「友への挨拶」があって、そして遺作となるべき作品は書かれる。三島由紀夫は、そのような形で「友」を求めた人なのである――私はそのように思う。
 『仮面の告白』に書かれる「私」の学生時代は、なんだかいやなものである。「友」がいるはずのそこにあるものは、虚弱な「私」の虚勢だけだ。そして、その虚弱な「私」は虚弱なまま、戦争の時代へと進んでいく。
《戦争の最後の年が來て私は廿一歳になった。新年怱々われわれの大學はM市近傍のN飛行機工場へ動員された。八割の學生は工員になり、あとの二割、虚弱な學生は事務に携はつた。私は後者であつた。それでゐて去年の検査で第二乙種合格を申し渡されてゐた私には今日明日にも令状の來る心配があつた。》(『仮面の告白』第三章)
 この《廿一歳》は数え年である。徴兵の召集令状が来るはずの「私」は、三月にそれを受け取るが、あいにく風邪を罹いていて「肺浸潤」と誤診される。「私」は徴兵を免れ、そのまま動員学徒としてあり続ける。園子との緊迫した関係が演じられるのはその時期だが、しかし、その時期はまた、別の作品で、別のように描かれてもいる。昭和二十九年に発表され上演された、『若人よ甦れ』という戯曲である。多くの人が、この作品の存在を忘れている。
 『若人よ甦れ』は、三島由紀夫にとって例外的な作品かもしれない。終戦直前の昭和二十年八月の三日間――広島に原爆が投下された翌日の七日と、終戦当日の十五日と、その後の二十六日――厚木飛行場近くの海軍航空工廠にあった動員学生寮の様子を描いたものである。そこに、数えで二十一歳、満で二十歳の三島由紀夫はいた。これが彼にしては例外的な作品であるというのは、ここに描かれるものが、「友情」だからである。
 もしかしたら、「友情」という言葉は不適当かもしれないが、しかしそう言ってもさしつかえないものだろう。ここには、三島由紀夫特有の「嫌悪」がないのである。兵役を免れた三島由紀夫といる学生寮には、当然のことながら、彼と同じか彼以下の「虚弱な学生」しかいない。そして、そこに作者の「嫌悪」がない。「虚弱な男」を容認して、彼等は初めて、三島由紀夫の「友」となる。ここには、皮肉もなければ冷笑もない。同性愛もない。あるのは、ただ「あの時はそうだった」という事実ばかりである。「終戦前後の学生たちを肯定的に描く」――三島由紀夫にとっての例外的とは、このことである。
 八月二十六日の場には、こんな台詞がある――。
《さうですよ。たとへば「人類」といふ言葉、「人類のために」といふ言葉一つだつて、もう決して滑稽にはひびかないから、ふしぎぢやありませんか。「平和」「自由」「人類」すべてきのふまではお伽噺の言葉だつた。誰でもそんな言葉を口に出すやつは、氣違ひ扱ひにされた。事實、噴飯物の言葉だつた。ごく良心的な人たちは、まるで猥褻な言葉を使ふさいに、さういふ言葉をこつそり囁き合はなきやならなかつた。今はどうです。「平和のために」「人類のために」……すこしも滑稽ぢやない。……歴史は繰り返すものぢやない。古き帝国主義、古き民族主義、古き天皇制、古き獨裁主義、古き全體主義、かういうものは二度と復活しやしないでせう。さういうふものは死んで二度と生き返りはしないでせう。》
 あるいはまた、こんなやりとり――。
《戸田 さつき特攻隊の少尉が自決しました。死ぬ前に僕らにかう訊いたんです。「これからの日本を引受けたと言つてくれ」
小宮 それで諸君は何と答へました。
戸田 「引受けた」つて言つたですよ。
小宮 いいですね。いい返事だ。》
 あるいはまた――。
《うまく行つてる。何もかも。うまく行つてる。(中略)新しい時代が來るんだ。誰も疑いやうのない新しい時代が。はじめて日が照りかがやくんだ。小鳥が鳴き出すんだ。長い闇のなかから、永いトンネルを抜けて、明るい海へ出たんだ。》
 これらは全部、肯定的なものである。ここに、皮肉や冷笑は一切ない。三島由紀夫は、《私はこの戯曲で、できるかぎり客観的に、又リアリスティックに、當時の生活を再現しようと試みた。》(公演プログラム『若人よ甦れ』について)と言っている。この芝居には十人の学生とその他の人物が登場する。もちろん、『仮面の告白』の園子を思わせるような女性も。そして三島由紀夫はこうも言う――《穿さく好きな人は登場人物のどれが私であるかに興味をもつかもしれないが、私にしてみれば、私はそのどれでもないのと同時に、すべての登場人物が私であるとも言へるのである。》
 つまり、私が引用した「戦後」に対する肯定的な言葉は、すべて三島由紀夫自身の「本音」でもあるということである。「反・戦後の思想家三島由紀夫」は、この戯曲の舞台となった昭和二十年八月の時点と、これが書かれた昭和二十九年の時点で、どこにも存在しない。昭和二十九年――それは、『禁色』第二部が完結した翌年で、《こんな試みのあとでは、何から何まで自分の反對物を作らうといふ氣を起し、全く私の責任に歸せられない思想と人物とを、ただ言語だけで組み立てようといふ考への擒になつた。》(『十八歳と三十四歳の肖像画』)と書かれる『潮騒』執筆の年。つまり、三島由紀夫が「他人を書くこと」に初めて「失敗した」と言わずにすむようになった年である。だからこそ、そこには「自分」がいて、また「他人」もいる。三島由紀夫は、自分の「虚弱」を許し、同じ「虚弱」の学生を「友」としても認める。三島由紀夫は、そういう人でもあった。我々は、それを忘れるべきではないだろう。
 三島由紀夫が「なにもの」であってもかまわない。三島由紀夫は、多方面に亘って、しかも「あらゆること」と言いたいくらいのことを書いた――書いて訴えた。ここで三島由紀夫の内面を分析して、「三島由紀夫はこう訴えた」と言って、「三島由紀夫」の「なにものか」を語る。しかし、そこでたった一つ抜け落ちるものがある。「三島由紀夫は訴えた――しかし、訴えられた側は、三島由紀夫にどう答えたか」である。三島由紀夫が「なにもの」であったのかということの答は、この抜け落ちたものの「答」がなければ完結しない。三島由紀夫が生きて訴えた時代、そこにいた人達は、三島由紀夫にどう答えたのか?果たして、その訴えに答ええたのか。三島由紀夫は、「友」を求めて「男」となったのである。
 三島由紀夫は、果たして、「女」に拒絶されて死んだのか?一人の女によって拒絶されることで終わる小説を書き始めた三島由紀夫は、その拒絶を予期していたのか、いなかったのか?果たして、一人の女の拒絶で、巨大なる世界は虚無に返りうるものなのか?
 三島由紀夫はなぜ死んだのか?三島由紀夫は、なぜ輪廻転生を成り立たせる「阿頼耶識」を「他人への影響力」と考えることが出来なかったのか?なぜ、その遺作となるべき作品の冒頭に、「燐光を放つ死者の群れ」というイメージを置いたのか?あるいはまた、「男への道」を歩き始めた後、なぜ三島由紀夫に寂寥と荒廃と悲惨が宿るのか?
 「友」を求めて「友」はない。「友」とは、呼びかけに応えるものである。戦後は、三島由紀夫に応えてくれたのか?応えることが出来たのなら、その死後三十年たって、「三島由紀夫とはなにものか?」などという問いが生まれる必要はない。昭和二十九年、「戦後」を肯定的に捉えた三島由紀夫にとって、「戦後」は明確に「友」だったのである。その「友」は死んだ。気がついたら、もう遠い昔に死んでいた――『豊饒の海』の冒頭に置かれる「私者」の写真は、それを物語るのだと思われる。
 「友はもう死んでいる」と思われた時、三島由紀夫もまた死んでいたのである。」橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』新潮文庫、2002.pp.400-407. 

 三島に『若人よ甦れ』というような戯曲があることは、世間から忘れられていて、これって大発見!と橋本は思ったはずだ。そして、三島の戦争体験というものも、ちゃんと論じられたことがあったんだろうか、とぼくも思った。昭和と同じ歳の三島は、同世代の男たちがみな徴兵され戦争で死んで行ったなか、「虚弱」だったために海軍の工場のそれも事務をしている学生だった。そのことは彼の作品にはまるで反映されていないかに見える。橋本治が『仮面の告白』と『春の雪』の徹底した読み込みからこの本を始めているのは、よい戦略だった。

  
B.そういう人たち、そういう文化
 総理大臣に可愛がられ、慣例を破って定年延長を認められ、それが追求されると法律まで変えてつじつま合わせをするコロナ自粛中の国会で、渦中の高検検事長は気晴らしがしたかったのだろう。新聞記者との賭けマージャンが漏れて、辞職、法案は宙に浮いた。なんともお粗末な話だが、ぼくらの世代は麻雀が友人づきあいの必須科目だったので、どういう人間関係のなかからこうした行動が出てくるのか、分からないでもない。黒川氏は60代前半でぼくよりは若いが、基本的に特殊なオヤジ文化の世界に住んでいたのだと思う。高級官僚、検事、大手新聞記者、政治家といった人たちは、日本社会の中でトップクラスの地位と権力をもった人と世間で見られている。そういう人たちが実際どのような人間関係と文化の中で生きているか、多くの人はメディアの報道以外に知る機会がない。みながみな人格高潔で知能学識を備えているわけではないかもしれないが、責任ある立場にある以上、人として常識以上の倫理観をわきまえていると思いたい。
 でも、ぼくが多少とも出会った経験から思うのは、少なくとも賭け麻雀や酒とたばこでつるむ環境を日常とする「おやじ文化」の人は、ちょっと口をきけばすぐわかる。「おれはお前らよりエラいんだぞ、おれと付き合えば面倒見てやってもいいが、言うことをきけよ」という臭いが漂っている。これが下町庶民おやじなら可愛いが、総理をはじめ社会のエスタブリッシュメントだなんて、この国は終わってしまう。

 「記者と官僚  斎藤美奈子  本音のコラム
 緊急事態宣言下の賭けマージャンが発覚し、黒川弘務・前東京高検検事長が辞任した。この件でもうひとつウンザリさせられたのが、政治家や官僚と記者との馴れ合いのような関係である。
 「週刊文春」によると参加したのは産経新聞の記者二人と朝日新聞の元記者。記事には「黒川氏がすごくやりたがっているから、仕方ないんだ」という産経記者のボヤキも紹介されている。
 それで思い出したのが二年前の四月、テレビ朝日の女性記者へのセクハラ発言を「週刊新潮」で報じられて辞任した、財務省の福田淳一・前事務次官である。「胸触っていい」などのセクハラ発言を福田氏がした場所も夜の飲食店だった。
 「記者が取材対象に食い込むために、会食をしたり、ゴルフをしたりするのは昔も今もよくある話だ」と「文春」も書いている。記者にとって私的な交流は必須の営業努力なのだろう。でもさ、それって男社会の悪しき習慣よね。情報が欲しければ食い込め、と記者に強要する文化は馴れ合いも生めばセクハラの温床にもなる。メディアはしかし、みな同じ文化を共有しているため、あまり鋭く切り込めない。
 くだんの記事は「このあいだ韓国に行って女を買ったんだけどさ」という黒川氏の雑談も拾っている。そういう人、そしてそういう文化なのである。容認する気にはなれない。(文芸評論家)」東京新聞2020年5月27日朝刊21面、特報欄。

 同じ紙面にもうひとつ、きつい仕事を黙々とこなしている人の言葉が載っていた。ぼくたちが日々を平穏なものと信じて生きていられるのは、このような人たちが働いてくれているお蔭なので、上で部下に命令している傲慢な人たちではない。このたびの「コロナ禍」でも、一番厳しい医療現場最前線の人のことを想像できる人間でありたいと思う。

 「ふくしま作業員日誌 49歳男性 作業服洗濯 家族とは別
 緊急事態宣言が解除されたけど、イチエフ(福島第一原発)では新型コロナウイルス対策が続く。あまり飲みに出歩くなというのも続いているし、熱も毎朝測っている。県外にも出ないようにしている。現場によっては、万が一感染者が出たときのために、何班かに別れて時間をずらして出勤したり、待機班をつくったりしている。感染者が全滅して、作業に穴があかないように。
 防護服は相変わらず欠品している。敷地で最も放射線量が低い「グリーンゾーン」は使い捨てマスクと作業服だけで作業をしていいことになっている。でも、事故後、汚染検査の基準は上がったままの数値だから、検査に引っ掛からなくてもやはり汚染が気になる。家に帰って作業服を母ちゃん(妻)に洗ってもらう時に、子どもたちの服とは別にしてもらっている。毎日毎日、苦労をかけている。
 放射線量が低くても、汚染はある。汚染を防ぐために、上に百円均一で売っているような雨がっぱを着て、前をテーピングしてふさいだり工夫する。蒸すから、この時期でもパンツまで汗でびしょびしょになる。暑いし、面倒くさいからかっぱを着ないゼネコンの人たちが、汚染検査に引っ掛かっているようだ。夏の暑い中での全面マスクや防護服のフル装備にこれまで慣れてきたから、今はなんてことないけど、来月は暑くて死んでるだろうな。
 それにしてもこのコロナ。息子の中学の卒業式は親も出席できたけど、高校の入学式は出席できなかった。仕事も休んで楽しみにしていたのに。悲しくて、悲しくて。でも気持ちを切り替えないと。原発事故当時、小学生だった息子も大きくなった。学ランがよく似合う。生意気だけどやっぱりかわいい。避難していた家族と一緒に住んでようやく二年。子どもたちと一緒に住めるのもあと何年か。今を大事にしたい。 (聞き手・片山夏子)」東京新聞2020年5月27日朝刊21面、特報欄。
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日本の伝統を見直す 橋本治を読む 8  日本はコロナに勝利したのか?

2020-05-24 02:52:57 | 日記
A.DVオヤジの芸術文学なのか
 戦後文学のスター作家「三島由紀夫」とは、そもなにものだったのか?その謎を三島のテキストにそくして執拗に追求した「橋本治」に、かなり疲労を感じつつ導かれて読んできたのだが、第3章の「女」という方法、に来て、ぼくには橋本治の読みの筋が一つにつながってきた。そして、カッコつきの「三島由紀夫」の秘密が『仮面の告白』に巧妙に隠蔽された彼の、少年時代の屈折して歪んだ資質が作品化したものを、どのようなものとして読み解くか、推理小説みたいな興味深さを感じた。もしかするとそれは、妻や子供を暴力で痛めつけ殺してしまうDVオヤジのサディズムの芸術化なのではないか。

 「三島由紀夫の中にサディズムの嗜好が歴然と存在することは、『仮面の告白』において明らかである。サディズムに言及した彼の評論もある。しかもその最期は、「切腹」という自死である。「三島由紀夫におけるサディズムの存在」を言う人はいくらでもいるだろう。しかし、「三島由紀夫におけるサディズムとの訣別」を言う人は少ない――寡聞にして、私はその存在を知らない。しかし私は、『サド侯爵夫人』は三島由紀夫におけるサディズムとの訣別を告げる作品だと思う。
 もう一つ、三島由紀夫の中には『仮面の告白』で《扮装慾》とされる、「女装への嗜好」もある。《かうして私は二種類の前提を語り終へた。それは復習を要する。第一の前提は、糞尿汲取人とオルレアンの少女と兵士の汗の匂ひとである。第二の前提は、松旭齋天勝とクレオパトラだ。》である。
 幼い「私」を魅了し、そこに《扮装慾》を開花させたのは、女奇術師・松旭齋天勝だが、彼女の印象はこのように書かれる――《彼女は豐かな肢體を、黙示録の大淫婦めいた衣裳に包んで、舞臺の上をのびやかに散歩した。》三島由紀夫はもっとはっきり「そうだ」と書かないが、この時に「私」が見た松旭齋天勝は、あるいはサロメに扮していたのではないかとも思われる。松旭齋天勝は、オスカー・ワイルドの『サロメ』を「奇術劇」のようにして上演したこともあるからだ。私=橋本は、子供の時に『松旭齋天勝』という新派の芝居を見て、松旭齋天勝に扮した水谷八重子(初代)が、劇中劇でサロメを演じるのを見たことがある。そんな記憶があるから、『仮面の告白』の「私」が見た松旭齋天勝がどんなものか、私=橋本にはなんとなく分かるのである。
 『仮面の告白』の「私」が見た松旭齋天勝がサロメに扮していたのなら、サロメは「王女」である。だから、「私」の言う《私は王女たちを愛さなかつた。》は、間違いではないかということにもなる。扮装とは、「なりたい」という欲望の形なのだ。その初め、『仮面の告白』の主人公は、《汚穢屋になりたい》が「男への偏愛」を示すものならば、《天勝になりたい》は「女への愛情」を示すものだろう。だから、《私は王女たちを愛さなかつた》は間違いにもなりかねない。しかし、『仮面の告白』の幼い「私」は、この二つの欲望の間に明確な線引きをしている――《「天勝になりたい」といふねがひが、「花電車の運轉手になりたい」といふねがひと本質を異にするものであることが、おぼろげながら私にはわかつてゐた。そのもつとも顯著な相違は、前者には、あの「悲劇的なもの」への渇望が全くと云つてよいほど缺けてゐたことだ。天勝になりたいといふ希みに對しては、私はあの憧れと疚ましさとの苛立たしい混淆を味はずにすんだ。》
 《天勝になりたい》と《花電車の運轉手になりたい》との差は、そこに《悲劇的なもの》を感じるか否かである。花電車の運転手や汚穢屋に「なりたい」と思うことと、その「悲劇性」についてはすでに語った。「私」はその下層の青年たちに「なりたい」と思い、彼等の上に「悲劇的なもの」を見る。彼等の生活に「悲劇的なもの」を感じ、そして《私がそこから永遠に拒まれてゐるという悲哀》を感じて、その悲哀をもう一度彼等の上に転化する――《そこから私が永遠に拒まれているといふ悲哀が、いつも彼ら及び彼らの生活の上に轉化され夢みられて、辛うじて私は私自身の悲哀を通して、そこに與ろうとしてゐるものらしかつた。》
 三島由紀夫の欲望はいつでもややこしいが、つまりは、「なりたいけどなりたくない」である。「なりたくないのは自分のせいだが、それはまた彼等のせいでもある」というややこしい考え方をするから、「もう一度彼等の上に転化する」などという段取りが入る。しかし結局は、「なりたいけどなりなくない」なのである。
 「なりたい」のは、彼等が「肉体を持つ男」で、「わたし」のせいかつする階層とは異質な階層に属するからである。「なりたくない」と思うのは、その階層の人間になれば、すでに「私」が得ている生活上の特権を捨てることになるからである。もちろん、ここにはもう一つの要因も隠されている。「私」が「なりたい」と思って「なりたくない」と結論付けるのは、「それになる能力がないから」である。これを認めたくないから、「彼等のせい」という転化も生まれる。つまるところ彼は「なれない」のである。
 「なることを禁じられている」と思えばこそ、「私」はそれに「なれない」と思う。「なれない」と思う“それ”とは「男」で、祖母の管轄下にある「私」の周りには、男の姿がない。たまさかの来客を除けば、祖母の世界に「男」が現れることはない。母が姿を現しても、父や祖父は現れない。「男」というものの影響力から遮断されてある「私」は、「男になりたいと思ってはいけない」と思い込むのは、ある意味で自然の成り行きでもある。なにしろ彼は、《大人の心を傷つけることが怖くてならなかつた》子供なのだ。
 「男になりたい」は、女だけの世界の調和をぶち壊す破壊的な行為で、「女である」は、その世界に順応する調和的なあり方なのだ。《天勝になりたい》と思って、「私」にはそこに《悲劇的なもの》を感じる必要がない。天勝の演じたサロメ、あるいは活動写真のクレオパトラは、男たちの上に君臨する恩女なのである。「下層への憧れ」は憚られても、祖母と同種の「君臨する女」への志向が禁じられるわけがない。だから、「汚穢屋になりたい」と思ってそれを口にすることが出来なかった「私」は、「天勝になりたい」を口にする以前、さっさと天勝になっているのである――。
 《「天勝よ。僕、天勝よ」
 と云ひながらそこら中を駆けまはつた。
 そこには病床の祖母と、誰か来客と、病室付きの女中とがゐた。私の目には誰も見えなかつた。私の熱狂は、自分が扮した天勝が多くの目にさらされてゐるといふ意識に集中され、いはばただ私自身をしか見てゐなかつた。しかしふとした加減で、私は母の顔を見た。母はこころもち青ざめて、放心したやうに坐つてゐた。そして私と目が合ふと、その目がすつと伏せられた。
 私は了解した。涙が滲んで來た。》
 天勝という女奇術師の扮装をした「私」の姿を見て、彼の母親は嘆いたらしい――《母はこころもち青ざめて、放心したやうに坐つてゐた。そして私と目が合ふと、その目がすつと伏せられた》。「私」はなにかを《了解》そて、《涙が滲んで來た》になるのだが、この時「私」がなにを了解したのかというと、分からない。
《何をこのとき私は理解し、あるひは理解を迫られたのか?「罪に先立つ悔恨」といふ後年の主題が、ここでその端緒を暗示してみせたのか? それとも愛の目のなかに置かれたときにいかほど孤獨がぶざまに見えるかといふ教訓を、私はそこから受けとり、同時にまた、私自身の愛の拒み方を、その裏側から學び取ったのか?》
 問うだけで答えはない。そして、この問いもまた些か不思議なものではある。「私」はここで、「女装という禁じられた欲望」を顕在化させたことを、恥じてはいないのである。それを「禁じられた欲望」とも言ってはいないのである。後の「私」が推測する、この時の「私」の涙の意味は、《罪に先立つ悔恨》――「何かをしでかす前に挫けてしまう」という自分の性分ゆえであり、「“天勝に扮したのは自分が孤独だったからだ”ということを母に見抜かれたような気がしていたたまれなくなった」ということであり、「その母を青ざめさせてもなお天勝であろうとする自分が、他人の愛を拒もうとする自分に等しい」ということを学んだのかもしれない、ということである。ここで「女装」は禁じられていない。この後に、《――女中が私を取押へた。私は別の部屋へつれて行かれ、羽毛をむしられる鶏のやうに、またたくまにこの不埒な假装を剥がされた。》という部分が続けられるから、なんとなく読者は、「“私”にとって、女装は禁じられた願望だったのだな」と思うだけである。これは、観客の注意を別のところに惹きつけた奇術師が、その隙になにか別のトリックをしでかしてしまうのと似ている。
 一体、ここではどのような「憚られること」が起こったのか?
 《天勝よ。僕、天勝よ》と登場する「私」に対して、肝腎の祖母がどのような反応を示したのかは書かれない。《女中が私を取押へた》にはある理由があったのだろうが、それがなにによるものかも書かれない。《こころもち青ざめて、放心したやうに坐つてゐた》母親の《目がすつと伏せられた》のが、「女装した息子への嘆きゆえ」だったのかどうかは分からない。「私」の言に従えば、この時の母親の嘆きは、「息子が禁じられた女装の欲望を実現させていることへの苦痛」ではないのだ。母親は、「人前で奇異な恰好をしてしまう息子の孤独を痛ましく思った」のである。そのように書いて、「私」は「女装=禁断」と言わないのである。
 それならば、そこにいかなるタブーがあったのか? そこで「私」のしでかした不始末は、「来客中の女主人=祖母のそばで、場違いな恰好をして騒いだ」ということだけである。つまりは「お行儀が悪い」で、この家で「私」が咎められる理由は、それしかないはずである。だからこそその「技術」は、こっそりと磨かれる――《私は、今度は祖母や父母の目をぬすんで、(既に十分な罪の歓びを以て、)妹や弟を相手に、クレオパトラの扮装に憂身をやつした。》
 この「罪の意識」は所詮、幼い息子ただ一人の判断による軽いもので、それが「罪」であるのだとしたら、それはおそらく、「ちゃんとした家の子が浅ましい芸人の真似をする」だろう。「私=三島由紀夫」の中で、「女になる」はタブーになっていない。だからこそ、『仮面の告白』の「私」は、中学二年の冬になっても家で女言葉を使っている。「私」の育った生育環境の中で、この欲望は「罪」として機能しないのである。だからこそそれは、《「花電車の運轉手になりたい」といふねがひと本質を異にする》のである。これを「罪」とするのは、「私」の所属する世界の基準ではない。それは、別の世界の基準――『仮面の告白』を読む読者が存在する「男の世界」の基準なのである。そこに順応した「私」は、「男らしい男は、決して女の恰好をしたいとは思わない」ということを学習したのだろう。しかし、所詮はそれだけである。《家ではあひかはらず女言葉を使ってゐる》「私」に、そんなタブーが身にしみるはずはない。であればこそ、三島由紀夫は「女であることに巧みな作家」になれたのである――“だとしたら”で、ここに一つの疑問が生まれる。「三島由紀夫は、なぜそんなに身にしみない“罪”を強調しなければならなかったのか?」である。「私」が《大人の心を傷つけることが怖くてならなかつた》子供であったにしろ、それをすることは、彼の周りの女たちを傷つけないのである。
 「私」が列挙する「欲望」のほとんどは、彼の所属する世界の女達を傷つける――少なくとも、拒絶反応を起こさせる質のものであるはずである。しかし、この「女装への嗜好」は、女達を傷つけない。その時においても、その後においても。たとえば、三島由紀夫が、女を主人公とする小説や戯曲を書いて、その母は悲しむだろうか?そんなことはない。自分が感情移入できるような「女」を主人公にする作品を、自分の息子が書く――その時母親は、安心して「よき読者」や「観客」になれる。そうなることを、《文學、藝術、芝居などに憧れをもつやうになつたらしい》(『紫陽花の母』)と評される母が、哀しむはずはない。《新しい作品を讀むのに、母は絶對的な自信をもってゐて》(同前)と書かれる母は、息子の提出する「女」を喜ぶはずである。
 その息子は、なぜ「女」が書けるのか?息子は、作品の中で「女」に扮しているのである。それが巧みなのである。「女に扮する」は、三島由紀夫や彼を包む環境の中で、弾圧される種類の欲望ではなかった。だからこそそれは、後の時間の中で磨きをかけられて、「すぐれた技術」になる。作家になった息子は、その技術によって「女」を書き、息子からその作品を提出された母は、賛嘆の声を上げたり、同じ「女」の立場から、余裕をもって批評をしたりもする。であるなら、なぜその息子である「私」は、「女になること」に「罪」の色彩をかぶせたのか?答えは一つしかないだろう。「世間ではそれを禁忌と思うから」である。
 それを「罪」として持ち出すとき、「私」は、もう女の宰領する世界の住人ではないのだ。ということは、どういうことか?そこに「罪」という概念を持ち出した『仮面の告白』の著者は、そのことによって、「女の世界から抜け出したい」という欲望を、こっそりと表明していたのである。」橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』新潮文庫、2002.pp.300-308. 

 DV致死事件が報道されるたびに、ぼくたちの、ふつうの性愛と家族の通俗的理解からすれば、どうして自分の一番身近な妻や子に激しい暴力をふるって死なせるような行為ができるのか?暴力そのものにとりつかれた狂気かと思う。しかし、「三島由紀夫」が表現したいと欲望したことは、人を愛したいと思うがゆえに、残酷な暴力でその人を死に至らしめることなのだ。それは歪んだ欲望で、もちろん「三島由紀夫」は現実で妻子に暴力をふるったりする人ではない。だが、橋本治の解説では、彼は祖母と母が宰領して「男」の影が希薄な環境で、女言葉を使って育った虚弱児童だった。彼は自分が祖母が支配する「塔に閉じ込められた子供」だと思っていて、彼を救いに来るマッチョな王子に恋していて、塔を出て自由になることを考えるが、いざ王子が現れると怖くなって王子を殺せと命じる。そう考えるだけで射精してしまうほど昂奮するという根深い嗜好がある。これは通常の異性愛でも同性愛でもない。かなりやっかいな精神構造なのだと。なるほど、そうなのかと納得してしまう。もう少し考えてみよう。


B.専門家と政治家の連携はうまくいったのか?
 新型コロナウイルスの感染危機はまだ終わったわけではないが、ひとまず緊急事態宣言は近いうち解除され、段階的にぼくたちの行動の自粛が緩和されるだろうという気分が広がっている。2月までの日常生活にすぐ回復するのは第2次感染リスクもあるし、これだけのパンデミック状況を経験した以上、単純に元通りになるとは思えない。しかし、海外のニュースを見るかぎり、日本が感染者や死者の数が桁違いに少ない、というのはどうやら事実といってよいのだろう。その理由がよくわからない。政府や自治体の対応が諸外国以上に適切だったともいえないし、3月オリンピック延期決定までの初期対応の遅れは指摘される通りだと思う。でも、これでもし秋以降、第2波も大したことなく乗り越えるならば、日本はこのコロナ危機をもっとも無事に潜り抜けた国と評価されるかもしれない。そうなるならば歴史的にも悪いことではないが、安倍政権にそんな識見や覚悟があったとは到底思えないから、これは日本という国の市民の良識と専門家の判断がそれなりに間違っていなかった、といえるかどうか。それはもう少し時間が経ってみないとなんとも言えない。

 「専門家によるデータ公開 「科学を装った政治」を防ぐ  神里達博
 先週、「フォーリン・ポリシー」というアメリカの外交雑誌のウェブ版に、「中途半端な日本のコロナ対策が、とにかく機能している」という題名の論評が載った。
 曰く、検査件数が非常に少ないだけでなく、「自主的なロックダウン(都市封鎖)」も多くの国と比べて厳格ではない。その一方で日本は世界で最も高齢化が進んでいて、さらに中国との距離も近く大勢の観光客が来ていた。にもかかわらず、アメリカやスペインはもちろん、制圧に成功しているとされるドイツと比べても、死者数は奇跡的なまでに少ない――。同誌はこう指摘する。
 人口あたりの犠牲者数で比べれば、米国の約50分の1に抑えられている。この現状はやはり驚くべきことだと、率直に思う。ただしその理由について、同誌は「運が良かったのか、政策が良かったのかは、分かりにくい」と判断を避けている。
 確かに、この国における新型コロナウイルス感染症の状況には、よく分からない点が多い。
 思い返してみれば4月上旬、安倍晋三首相は、このペースで進めば東京だけで「1か月後には感染者が8万人を超える」と強い危機感を表明していた。さらに、「対策がなければ(全国で)最悪42万人が死亡する」という厚生労働省クラスター対策班の警告に、人々は震撼した。
 しかし現状は、累計の死者数が約800人、感染者約1万6千人となっている。検査件数が少ないがゆえに、取りこぼされている感染者や、一般的な肺炎など別の死因にカウントされてしまったケースがあるのではないか、という指摘もある。平年の同時期と比べ、統計的に死者数が超過しているといえるかを確認すべきだ、という意見もよく目にする。
 しかし、仮にそのような数字の間違いがあったとしても、少なくとも死者数については、「桁が違う」ことはありそうにない。
 日本での感染拡大の制御自体は、対策の不備が多々指摘され、政府の対応への国民の信頼も決して高くないにもかかわらず、目下のところは、世界的に見ても「成功している」というべきだろう。
 周知のとおり、全国に出されていた緊急事態宣言も、先週まず39県で、さらに近畿の3府県でも21日、解除された。普通に考えれば、このことをもっと誇ってもおかしくはない。だが政権自体もこの状況をどう評価すべきか、迷っているようにも見える。
 たとえば、コロナ対策の担当大臣である西村康稔経済再生相が、14日に緊急事態宣言が解除された後、「あちこちで気の緩みが見られる」と発言し、批判を浴びた。宣言の解除に対して責任を持ちたくないのでは、といった声も聞かれた。だが、そもそも、感染者が減った理由が必ずしもよく分からないため、今後の予測も難しく、ブレーキとアクセルを同時に踏むようなことになっているのではないだろうか。
 もっとも、専門家も結局のところ、正確には先が見通せていないし、一枚岩でもない。政治はていねいにさまざまな価値を比較し、決断するしかないのである。
 しかし、現状はどうやら、政治家が専門家に重要な判断の責任を押し付けたり、あるいは専門家の側も自分の専門領域以上のところに踏み込んで、社会に対して説明を試みたりしているようにも見える。そうだとすれば、政策に対する科学的助言のあり方としては、危うい面があると言わねばなるまい。
 一般に、リスクマネジメントにおいて、政治の領域と科学の領域を峻別するのは、容易なことではない。そこでは科学と政治が、互いに連携し合うことで問題を把握し、解決していく関係でもあるからだ。よくないのは、政治の側が価値判断をひそかに忍び込ませているのに、あたかも科学的に、自動的に導かれた結論であrかのように、自らの政策を国民に説明することである。
 実際、一つのパラメーター(変数)が少し変わるだけで、まさに政治的に大きな決断をするのと同じ効果を持つ場合がある。それが専門性の壁によって、一般の人々には認識できないことも多い。科学的な判断に基づくように装うことで、政治の側は、するりと責任を回避することもできてしまうのだ。
 この種の問題を避ける一つの方法は、判断の前提となるデータや理論を専門家が公開してしまうことだ。そうすれば他の研究者が、どういう意味の数字なのか、追試することもでき、政治的判断と科学的判断をそれぞれ評価することが可能になる。これは政府の中で助言をする専門家が、自身の立場を守るためにも、大切なことだと思う。
 最後に、個人的に今、心配していることを一つ付記しておきたい。それは自然災害、特に地震である。
 たとえば、もしも巨大台風と大地震が重なれば、甚大な被害が生じるだろう。しかし、どちらも被害の継続時間が比較的短いため、現実に同時に起きる確率は、非常に低い。
 だが、コロナの流行は広範囲で長く続く。災害と重なる可能性は、はるかに高い。すでに指摘されていることだが、今、災害が起こると、避難所での感染拡大を防ぐのはとても難しい。経済へのダメージも、相乗的に増えていくだろう。
 そのような複合災害に対して、どのようなプランで対処するのか。関係機関には、ぜひとも今のうちに具体的な対策の立案を求めたい。
 「弱り目にたたり目」にも用心だ。」朝日新聞2020年5月22日朝刊13面オピニオン欄、月刊安心新聞+。
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日本の伝統を見直す 橋本治を読む 7 災いにも救いがある

2020-05-21 15:46:56 | 日記
A.「三島由紀夫」のわかるようでわからない文章
 三島由紀夫が文壇デビューを飾った『仮面の告白』こそ、「三島由紀夫」という虚構の謎を解くカギなのだと橋本治は狙いを定める。この小説は、一般に主人公のもつ同性愛homo sexialの告白であり、作者自身の幼少期からの嗜好が語られているかに見える。しかし、題名が示すように、これは二重三重に仕組まれた作為の産物だ。三島は同性愛者だったのか?たとえ「三島由紀夫」がホモだったとしても、作家でもあった現実に生きていた平岡公威という人は、女性と結婚し子ども2人の父だった。世間を偽る仮の姿だったのは、「三島由紀夫」なのか、平岡公威氏だったのか?その謎に橋本治は、『仮面の告白』というテキストを読み解くことで、答えを出そうとしている。

 「彼はなぜ恋を殺すのか 『仮面の告白』で「私」の欲望を語るキイ・ワードは、「男」「下層民」「私」「王子」、あるいは「男」「下層民」「王子」「死」の順に登場する。「死」と「王子」の順が曖昧なのは、男装のジャンヌ・ダルクの中にこの二つが同時に登場してしまうからだが、この順序の本来は、やはり「男」「下層民」「死」「王子」だろう。「汗の匂い」を語られる兵士も、この順序で説明される――《兵士らの運命・彼らの職業の悲劇性・彼らの死・彼らの見るべき遠い國々》。《兵士らの運命》は、《彼らの職業の悲劇性》とイコールであり、《悲劇性》は《死》を連想させ、そして兵士というものは、「殺される王子」や「聖(サン)セバスチャン」のいる《遠い國々》を「見るべきもの」として位置付けられる。もしもジャンヌ・ダルクが「女」ではなく男だったら、この順序は「男」「下層民」「王子」「死」となったかもしれないが、とりあえず欲望の順序は「男」「下層民」「死」「王子」である。しかしもちろん、「死」と「王子」の順はどうでもいい。重要なのは、まず「男」で、それが「下層民」であるということである。これは、「最初の出会い」となる汚穢屋(おわいや)の青年において、既に明らかになっている。一体この有名な「汚穢屋の青年との出会い」は、何を意味するものなのだろう?
 《坂を下りて来たのは一人の若者だった。肥桶を前後に荷ひ、汚れた手拭(てぬぐひ)で鉢巻をし、血色のよい美しい頬と輝く目をもち、足で重みを踏みわけながら坂を下りて来た。それは汚穢屋—-糞尿汲(ふんにょうくみ)取人(とりにん)—-であった。(中略)それが汚穢屋の姿に最初に顕現したことは寓(アレ)喩的(ゴリカル)である。何故なら糞尿は大地の象徴であるから。私に呼びかけたものは根の母の悪意ある愛であったに相違ないから。
 私はこの世にひりつくような或る種の欲望があるのを豫感した。汚れた若者の姿を見上げながら、『私が彼になりたい』といふ欲求、『私が彼でありたい』といふ欲求が私をしめつけた。その欲求には二つの重點があったことが、あきらかに思ひ出される。一つの重點は彼の紺の股引であり、一つの重點は彼の職業であった。紺の股引は彼の下半身を明瞭に輪郭づけてゐた。それはしなやかに動き、私に向かって歩いてくるやうに思はれた。いはん方ない傾倒が、その股引に對して私に起つた。何故だか私にはわからなかつた。
 彼の職業――。このとき、物心つくと同時に他の子供たちが陸軍大將になりたいと思ふのと同じ機構で、「汚穢屋になりたい」といふ憧れが私に泛んだのであつた。憧れの原因は紺の股引にあつたとも謂はれようが、そればかりでは決してなかつた。この主題は、それ自身私の中で強められ発展し特異な展開を見せた。》
 《特異な展開》とは、やがてそれが「花電車の運転手」や「地下鉄の切符切り」「兵士たち」へまで及んで行く、「職業にまつわる悲劇性」である――《きはめて感覚的な意味での「悲劇的なもの」を、私は彼の職業から感じた。》
 五歳の「私」は、汚穢屋の青年に恋をした。その恋を成り立たせた中心には、その青年の穿く《紺の股引》があり、そこには二つの側面があった。汚穢屋の穿く《紺の股引》――《彼の下半身を明瞭に輪郭づけてゐた》とするものは、現代で言うならば、「股間の膨らみ共々下半身の形を明瞭にするピチピチのジーパン」である。ここには、その下半身を持つ男に対する性的な恋着がある。ところが、「私」が五歳だった昭和初年頃の当時、《紺の股引》にはまた別の意味があった。「車夫馬丁」が侮蔑語の意味を持っていたその頃、《紺の股引》を穿く男は、中流以上の人間達から「下層民」と解されるような肉体労働者だったからである。
 この当時、男の《下半身を明瞭に輪郭づけ》るものは、《紺の股引》以外にない。そして《紺の股引》は、「車夫馬丁」という侮蔑の意味を持たされた言葉に代表される、「下層の肉体労働者の制服」だった。《下半身を明瞭に輪郭づけ》ている《紺の股引》に性的な魅惑を発見した五歳の「私」は、それと同時に、「貧しい労働者への恋」にも溺れ込んでいる。「私」が《特異な展開》と言う「悲劇的なもの」は、この「紺の股引=下層の肉体労働者」という前提からしか生まれない。
 なぜそれは「悲劇的」なのか?五歳の当時を振り返り、書き手である「私」は「分からない」と言う――《汚穢屋という職業を私は誤解してゐたのかもしれぬ。何か別の職業を人から聞いてゐて、彼の服装でそれと誤認し、彼の職業にむりやりにはめ込んでゐたのかもしれぬ。何か別の職業を人から聞いてゐて、彼の服装でそれと誤認し彼の職業にむりやりにはめ込んでゐたのかもしれぬ。さうでなければ説明がつかない》「私」は、汚穢屋から「悲劇的なもの」を感じた理由を「説明出来ない」と言うが、これはそう難しいことはない。なぜならば、そう思う「私」は汚穢屋に《なりたい》と思うからである。
 五歳の「私」が「汚穢屋になりたい」と思うのは簡単である。しかし、外出に際して母や看護婦や女中や叔母に手を引かれるような環境に育った「私」が汚穢屋になったら、そこには「悲劇」が生まれる。「汚穢屋の生活」に適応出来ないからである。五歳だから出来ないのではない。《紺の股引》の階層を「下層」と思う所に生まれ育った人間だから、その「貧しい生活」に適応できないのである。彼が自身の階層に止まってそれを眺めやる限り、労働者の階層である「汚穢屋」や「花電車の運転手」や「地下鉄の切符切り」の生活は、「悲劇的なもの」にならざるをえない。「悲劇性」は、彼がそこから拒まれていることによるのではなく、彼の馴染んだ生活がその階層を拒んでいることから生まれる。だからこそ、「汚穢屋の青年への恋」は《寓(アレ)喩的(ゴリカル)》と言わなければならない。
 彼の「最初の記憶」で最も重要なことは《寓(アレ)喩的(ゴリカル)》で、であればこそそこには、なんらかのトリックが隠されているのだ。
 この「汚穢屋」には、肛門的あるいは糞尿譚(スカトロジー)的な性質がない。三島由紀夫はその《寓(アレ)喩的(ゴリカル)》を、《糞尿は大地の象徴であるから。》と言っているが、ここには、「同性愛→肛門性交→糞尿」という連想がない。三島由紀夫がそれを知って排除したのか、知らずに排除したのかは知らないが、彼が最初の恋の対象として「汚穢屋」を選択したのは、肛門性愛的な連想からではなく、それが人に最も好まれない職業の一つだったからである。その証拠に、《糞尿は大地の象徴であるから。》と言った後、三島由紀夫はこう続ける――《私に呼びかけたものは根の母の惡意ある愛であつたに相違ないから。》と。《寓(アレ)喩的(ゴリカル)》は《惡意》に掛かる。重要なのは《惡意》なのだ。
 五歳の「私」は、暴君的な祖母に溺愛されている。その彼が、彼の欲求に従って「汚穢屋になりたい」と言ったら、祖母はどう思うだろう?《紺の股引》を穿く階層の男は、《古い家柄の出》の祖母を嫌厭させるだろう。家庭の大小便を汲み取って歩く汚穢屋という職業が必須とする異臭は、必ずや祖母に拒絶の表情を与えるだろう。それが《惡意》であるのは当然だ。「汚穢屋になりたい」は、「祖母を嫌悪させたい、祖母を拒絶したい、祖母に拒絶されて自由になりたい」という願望のあらわれなのである。大地なる根の母がそれを贈ったかどうかは別として、五歳の私は《惡意》を必要としていた。汚穢屋の青年に連れ去られることによって、五歳の「私」は、祖母と、彼女が宰領する社会から自由になれる――自由になりたいと思ったのである。
 なぜそこに《惡意》がなければならなかったのか?それは「私」が、《大人の心を傷つけることが怖くてならなかつた》子供だからである。
 『仮面の告白』は、《永いあひだ、私は自分が生まれた時の光景を見たことがあると言ひ張つてゐた。》で始まる。これが事実かどうかは知らない。しかし、これとてもまた《寓(アレ)喩的(ゴリカル)》である。祖母を頂点とする「女達の世界」に住まう「私」は、「女という肉体を持つ者の股の間から生まれ出た」という記憶から人生を始めるからである。男と女の間に性行為があって、その後、胎児は女の腹に宿。そして、女の「性器」とされるものの中から生まれ出る。「私」は、肉体を持つ人間の中心にある性の営みから生まれ出たことを、その初めから「知っている」――そう言い張って、大人たちの嫌悪を買う。「私」の住まう祖母の宰領する世界は、「肉体」の隠蔽を当然として、それを口にすることは禁忌なのである。
 しかし、幼い「私」は、その禁忌を理解しない。それを何度も口にして、さりげなくそして遠回しに、禁忌の存在を教えられる。それがさりげなく遠回してあるのは、そこでは、「肉体であること」をほのめかすことさえもが禁忌となっているからだ。幼い「私」は、しかしこのルールを知らない。《自分が生まれた時の光景を見たことがある》と言い出して、大人から「なんといやな子供だろう」という視線を浴びることになる。《子供だと思ってゐると油斷ができない、こいつ俺を罠にかけて「あのこと」をきき出そうとしてゐるにちがひない、それなら何だつてもっと子供らしく無邪氣に訊けないものだらう、「僕どこから生まれたの?僕どうして生まれたの?」と。—-彼らは、あらためて、黙ったまま、何のせゐかしたずひどく心を傷つけられたしるしの薄ら笑ひをじつとりとうかべたまま、私を見やるのが落ちだつた。》
 禁忌は、禁忌であることを隠されて、幼い「私」はそれを理解しない。禁忌であることを理解するより先、幼い「私」は、自分と向かい合った大人たちの表情から、自分が「悪意を隠し持ついやな子供」と思われていることを知る。しかし「私」には、その悪意がない。だからこう言う――。
《しかし、それは思ひすごしといふものである。私は「あのこと」などについて何を訊きたいわけでもなかつた。それでなくても大人の心を傷つけることが怖くてならなかつた私に、罠をかけたりする策略のうかんでくる筈がなかつた。》
「私」はただ、人間が肉体を持ち、肉体を持つ人間から生まれて来るものであることを、知っているだけなのである。それを知ることは、禁忌でもなんでもない――しかし、それを口にすることは、禁忌なのだ。それが、幼い「私」の住まう世界のルールである。そのルールを知っていたら、《大人の心を傷つけることが怖くてならなかつた私》は、それを口にしなかっただろう。しかし「私」は、そのルールを知らされずにいた。だからそれを公然と口にして、大人達から「悪意を隠し持ついやな子供」と思われる。「私」は、自分が「いやな子供」になってしまっているという事実だけを知らされて、しかし、その理由を理解出来ない。なぜかと言えば、この「私」が、まだ《惡意》というものを知らないからだ。かくして、幼い「私」の許に《惡意》が贈られねばならない理由は生まれる。《惡意》は、矛盾に満ちたその世界で自分を守るために必要な防具なのである。だからこそ、《ひどく心を傷つけられたしるしの薄ら笑ひ》とは違う質のボジティヴな《惡意》は、その矛盾の中心から生まれ出なければならない。来いと共に出現する《惡意》が、「肉体」であることをあらわにする《紺の股引》に凝縮されるのは、そのためである。」橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』新潮文庫、2002.pp.156-163. 

 三島由紀夫の文章は、隅々まで凝りに凝った華麗なものだと言われるし、さらに三島戯曲の台詞にいたっては、舞台で俳優の口から朗々と語られる時、内容以前に言葉そのものが舞い踊る感じがすると、ぼくも思う。しかし、どうしてこんなに言葉をこねくり回して、何を言っているのか誰もわからないほど修飾するのか。それをまた読者は、なんかすごいよな、などと讃美しちゃうのか。その素朴な疑問に、橋本治は「いや~、この人はなにかを言おうとすると、素直にはなれずに意地悪でけむに巻くしかできない、かわいそうな人なんだよね」と解説してくれる。そうか、なるほど~。


B.すでに終わっていたんだな…
 安倍政権が推し進めていた政策は、はじめ「美しい日本」を「取り戻す」ためのアベノミクスだったのだが、実際にやっていたのは、国民生活の充実のための基盤整備ではなく、アメリカに奉仕するための防衛予算の大盤振る舞いと、危機管理といいながら肝心な医療や福祉への予算を削りまくったことだった。今回のコロナ危機は、大きな災いであるのだけれど、世界各国の政府がどれだけ国民を守るために必要な努力をしたか、パンデミックに備えて日頃から危機対応を考えていたかを、白黒はっきりあぶり出すこととなった、という意味で、効果的だったと思う。
 危機に際しドイツや台湾の女性リーダーは、その識見と手腕で国民の圧倒的な支持を獲得した。それに引きかえ、アメリカや日本の男性リーダーのちぐはぐな行動は、悪い冗談のように失笑を買っている。やるべきことを怠り、自分たち仲間だけの狭い利益を隠すために、「小さな政府」こそ必要だと公益に回すべき予算をどんどん減らした。すでにこの国は終っていたんだな。

「機能不全あらわ 危機に弱かった「1強」政権 :多事奏論 編集委員 原 真人 
 なぜ1年も前に――。「桜を見る会」疑惑で安倍晋三首相を追求して名をはせた共産党の田村智子氏。その氏が「桜」追求より前の昨年4月、参院委員会で国立感染症研究所について「いま体制が弱体化すれば国民の生命や健康への重大な脅威となる」と政府に厳しく質問している映像が最近、SNS上で話題になった。本人に聞いた。
 —-まるで、新型コロナウイルス危機を予言していたかのような質問でしたね。
 「ここ20年、世界では重症急性呼吸器症候群(SARS)など大きな感染症が立て続けに流行しており、日本でも危機がいつ起きてもおかしくありませんでした」
 「感染研は米国で言えば疾病対策センター(CDC)、国立保健研究所(NIH)、食品医薬品局(FDA)の3機関の役割を一手に担う日本の感染症対策の中核。ところが予算や人員は削減されっぱなしで現場は疲弊し、悲鳴があがっていました」
 感染症対策の最前線は実はコロナ禍の前から崩壊寸前だった。いまPCR検査を増やしたくとも増やせないのは当然なのだ。
 田村氏は7年前から国会でこの問題をとりあげ、改善を求めていた。だが現政権は計8回の政府予算編成で対策を軽んじてきた。そのツケがいま回ってきている。
 「あのころ手をつけていれば、いまの状況はもう少しマシだったかもしれません」
  •          *           * 
 外出自粛が広がり始めてから約3か月。収入が途絶えた事業者や失業者たちからは「出口」を求める切実な声が高まる。
 一部の経済学者たちは感染防止か経済かの二者択一ではなく両方を追求する第3の道、つまり韓国で成功した「徹底した検査と隔離」戦略を提案する。全国民へのPCR検査で陽性者を特定し隔離する。それ以外の人々は早期に経済活動に戻す案だ。
 考え方には賛同する。ただ実現は容易でない。必要となる検査能力は1日数百万件だが、現状は首相公約の「2万件」どころか1万件にも満たない。一気に増やすには財源とマンパワー不足が課題となる。
 しかし、と田村氏は言う。「専門性の高い研究員たちを増やすのは一朝一夕にいかない。公務員を減らし過ぎました」
 気がつけば日本は主要国で最も「小さな政府」だ。人口千人当たりの公的部門の職員数(除く国防)は35人。米国や欧州主要国より4~6割も少ない。
 コロナ対策を巡って日本の打つ手が欧米諸国に比べて遅いとの批判がある。ここにも公務員不足が影を落としているのだろう。平時は職員の兼務や残業など現場の努力でしのげても危機ではごまかせない。
  •           *            * 
 政府の機能不全は検査だけではない。医療現場に行き届かぬ防護具、手続きが遅い休業補償給付、迷走し続ける布マスク。
 閣僚たちは国会で野党の追及にまともに答えられない、答える気もない。コロナ国会の審議を聞いていると、閣僚の答弁より野党の質問の方がはるかに内容がある。
 「1強」政権の力の衰えなのか。いや、もともと強力な政権ではなかったのだろう。たまたま巡りあわせた戦後最長景気。それがもたらす安定雇用、株高。ライバル野党の弱体化。長らく危機らしい危機にも遭遇せず、ツキに恵まれた政権だった。
 だがいざ危機に直面するとお得意の「やってる感」だけでは通用しなくなった。
 危機に役立たぬ政権の製造責任は、我々メディアにも国民自身にもある。意のままに動く官僚ばかり重用し、法解釈をねじ曲げ、スキャンダルを握りつぶす。その横暴を目の当たりにしながら政権維持を許してきた。まともな政権を育てるなら一つ一つにもっと真剣に向きあうべきだった。
 この危機のさなか首相は反対意見の多い検察庁法改正案を強引に成立させようとした。目の当たりにした多くの国民が真剣に向き合い、そして声をあげた。安倍政権の横暴を許さなかった初の事例となった。」朝日新聞2020年5月20日朝刊、13面オピニオン欄。
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日本の伝統を見直す 6 三島由紀夫論 古典は要らない?

2020-05-18 15:32:51 | 日記
A.三島由紀夫って?
 数多くの著作を残した橋本治氏の仕事のうち、『桃尻娘』をはじめとする小説、『窯変源氏物語』や『桃尻語訳枕草子』などの古典翻訳もの、『宗教なんかこわくない』などの一般大衆向け評論はそれぞれ笑いながら読める含蓄ある教養本であった。しかし、ぼくにとっての極め付きは、前にこのブログでとりあげた、作者が市川右太衛門の旗本退屈男の顔を編み物にした表紙の『チャンバラ時代劇講座』と、今読んでいる『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(新潮文庫)である。このコロナウイルス禍のステイ・ホームでもなければ、書棚の隅に10年積んだまま手をつけなかったこの文庫本を、たぶん読むようなヒマはなかっただろうから、思わぬコロナの副産物である。
 三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部、極東軍事裁判が開かれ、戦前は陸軍士官学校、陸軍省があった場所で、割腹死したのは1970年11月。あのとき、ぼくは山から転落して骨折した身体を都立病院のベッドに横たえて、ラジオを聴いていた。あれから50年、半世紀が経過した。当時、橋本治くんは東大国文科の学生で、三島由紀夫は高名な小説家で映画やテレビにも出ているスターだった。今となっては、生きている三島由紀夫を知っている人間は高齢者だけだろう。もはや「過去の人」でもなく、歴史の片隅に名前を刻まれる人に過ぎないかもしれない。でも、その小説は今も本屋に並んでいるし、なんとなくそこいらへんに亡霊のように漂っているのかもしれない。
 たとえば、ある世代の人には川端康成の『伊豆の踊子』が、山口百恵―三浦友和の映画の記憶になっているように、同じコンビの青春映画『潮騒』とダブっていて、それが海女の少女が裸で焚火を飛び越えるシーンが、宮藤官九郎の記憶の中からNHK朝ドラ「あまちゃん」で蘇るようなことは、いくらでもあるだろう。でも原作の小説『潮騒』を書いたのが、三島由紀夫だったことは、もうすっかり忘れられている。そして、三島自身が生前ばらまいていた、その類の話題はどうでもいいことで、彼の小説作品だけをちゃんと読んで、「三島由紀夫」とはなにものだったのか、を語ったのは橋本治くらいしかいなかったんだな、と50年たった今、気がついたわけだ。

 「作家としての三島由紀夫は、自分であることに対してしか貪婪ではない、いたって吝嗇な作家だ。彼は、大衆の方にちっとも顔なんかを向けていないのである。そして、であるにもかかわらず、三島由紀夫はスターだった。
 なにが三島由紀夫をスターにしたのか。その最大の理由は、三島由紀夫が生きていた時代の人間が、みんな文字を読んでいたということである。みんなが文字を読んで、「すごい文章が書けるということはすごいことだ」という常識が、世の中には前提としてあったのである。その前提は、「すごく才能のある作家=スター」を可能にする。三島由紀夫は、日本人が文字を読んで、そこから「品格」とか「知性」を学習していた時代に、手の届かない高嶺にある人だった。日本人が文字を読むことを自然にしていた時代、作家の知名度を大きく高めたのは、新聞の連載小説だった。高名な作家の文章が、毎日自宅まで届けられる――その親密さの中で、作家は「さん」付けで呼ばれるような存在にもなる。しかし三島由紀夫は、その新聞小説とは無縁な作家でもあった。連載小説を書かなかったわけでもないが、三島由紀夫は「新聞小説の作家」ではない。三島由紀夫は、わざわざそっちから出向いてくれるような親切心を持ち合わせない作家だった。だからこそ、三島由紀夫は、手の届かない高級ブランドの作家で、高嶺に輝ける存在だったのである。
 しかも三島由紀夫は、学習院から東大の法学部へ行き、大蔵省にまで行った。そして作家になった。三島由紀夫が作家だった時代は、日本人の上昇志向が、まだ健康な野蛮人のようにエネルギッシュで、時代に活力を与えていた時代である。「東大から大蔵省」というのは、そういう時代の、人のテキストとなりうるような生き方である。その人が多少難しいものを書いたとしても、大衆は拒絶なんかしない。「難しいものを書くえらい人」がいて、時代はそれを「当然」とした。「上」があればこそ、上昇志向というエネルギーは生まれる。親しみのない難解な作品を書いたにしろ、三島由紀夫が拒まれる理由はない。それは「読まなければならない作品」なのである。誰が「読まなければならない」と言うのかといえば、社会が言うのである。そのようにして、三島由紀夫の社会的地位は保証され、しかもなおかつ三島由紀夫は、そのようにして、その「えらい」という地位を平気で放擲してしまえるような力を見せる、「スター」だった。
   三島由紀夫が生きている間、三島由紀夫の作品を読んで「つまらない」と言える人間はいなかっただろう。それは、「つまらない」ではなく、「分からない」の言い間違えでしかなかったはずだ。そして、三島由紀夫の作品を読んで、「分からない」と言うことも出来ない。それは、「私は俗物である」という白旗を掲げることでしかなかったはずだからである。「難しい」と言ったら、「君にはまだ無理だから読まなきゃいい」という言葉が、作者からではなく、友人から返って来る。「分からない」と言って、友人達の間でひそかに囁かれるのは、「あいつはやっぱりバカなんだ」である。だからこそ、三島由紀夫の作品を読んで「つまらない」と言いたがった人間は、多かったろうと思う。「三島由紀夫」を読んで「つまらない」と言えたら、それは「俺は三島より頭がいい」を宣言したことになるからである。「我こそは宮本武蔵たらん」と思う多くの日本青年にとって、三島由紀夫は「京都の吉岡道場」であったはずである。そしてしかし、「三島由紀夫」を読んだ後で、うっかり「つまらない」などと言ったら大変なことになる。それを聞いた周りの人間から、「お前は頭が悪いのではないか?」という視線を浴びせられるからである。
 三島由紀夫は、やたらの人間から「つまらない」などと言われるようなボロを、決して出さない人だった。それを「つまらない」と言うのだとしたら、その人間は、「頭が悪くて高度な知性を理解することができない人間」にしかならないからである。それが当時の常識である。その社会常識を知らず、「三島由紀夫はつまらない」と言ってしまえる人間は、知的社会の一員になる資格を欠いた、ただのイナカモノなのである。三島由紀夫の生きていた時代、世の中はそのように出来上っていた。そこで、「三島由紀夫」を「つまらない」とか「分からない」とか「難しい」と言える権利を持つのは、女だけだった。三島由紀夫の生きていた時代、文学は「男の読むもの」だった。だからこそ、女子大や女学校があるように、「女流文学」というものも存在していた。男と女の間には厳然たる一線があって、その一線が、「三島由紀夫への批評」を女たちに許していた――「私、あの人嫌いよ」とか。
 しかしもちろん、三島由紀夫は本当に頭がよかった。つまりは完璧なのである。三島由紀夫のスター性にヒビが入るような問題が生まれるのだとしたら、「その頭のよさにはなんか意味があるの?」という疑問が登場しえた時だけである。三島由紀夫の生きていた時代と社会は、その疑問を登場させなかった。そして、三島由紀夫は死んだ。今となっては、その疑問がたやすく登場しえる。今の人間なら、三島由紀夫の知性に対して、「その頭のよさにはなんか意味があるんですか?」という疑問をたやすく発せられるだろう。その疑問が公然と登場しえてどうなったか?日本人は、ただバカになっただけである。
 「三島由紀夫」はそうなる前の時代に生きていた。「日本で一番頭のいい作家」だった。これを倒すのは、容易なことではない。その頭のよさを否定することは、社会から知性を追放することにつながる――と三島由紀夫は、そのような形で、日本人と日本社会のあり方に連動していた作家なのである。
 三島由紀夫は、日本の知性のあり方に対して、要石のような存在のしかたをする。だからこそ、1970年11月における「三島由紀夫の死」は、今でも“思想上の謎”となりうるのである。
 ところでしかし、私には、三島由紀夫が生きていた時代の人達がなぜ「三島由紀夫」を読んでいたのか、その理由が分からない。私が「三島由紀夫」を読んでいた理由の第一は、私が三島由紀夫の意地悪に惚れていたからである。「なんて役に立つ意地悪だろう」と思って、私は三島由紀夫を読んでいた。私は意地悪な人間で、嫌いな人間に対してはもちろん意地悪だが、好きな人間に対する愛情表現もまた意地悪である。そんな人間だから、私が生きていく上で、意地悪のストックは欠かせない。三島由紀夫の作品は、その意地悪の宝庫でもあった。
 意地悪が、「面白いお話」になっている。三島由紀夫の小説は、書かれた意地悪の余白を美しさで埋めるような小説である。そんな贅沢な娯楽はそうそうない。私は、「三島由紀夫」の意地悪を第一の理由として、第二としては「三島由紀夫」の美しさを理由として、三島由紀夫の作品を読んでいたのである。そういう読み方をしていた人は一杯いただろうとは思うのだが、まさかそれだけの理由で、普通一般の日本人が「三島由紀夫」を読むとも思えない。自分の生きている社会に対してそんなに意地悪な視線を向ける人間ばかりだったら、日本の社会には革命だって起きていただろうと思うからである。
 三島由紀夫は、「革命」とは無縁の作家だったはずである。だから、彼の口から「革命」の言葉が出た時、人は三島由紀夫に対して、ようやく嫌厭の情を示すようになる。「革命」の語を口にして、三島由紀夫はようやく「なんだか分からない作家」となりえたのである。だからこそ、「革命」を前提として存在する「三島由紀夫の死」は、思想上の“謎”でもある。
 “謎”なのか“混乱”なのか。意地悪で革命が起こるのだったら、その革命は、よほど革命としては「へんな革命」であるはずである。しかし、三島由紀夫が実践しようとした「革命」は、そういう種類のものではない。ということになったら、「三島由紀夫の死」にあるものは“謎”ではなく“混乱”である――私には、そのようにしか思えない。
 そしてもちろん、三島由紀夫には混乱があった。当然だろう。三島由紀夫ほど「作家」であることをバカにした人もいない。だからこそ、奇矯ともいえる形でスターを演じた。スターを演じえて、スターであることを誇ってもいた。三島由紀夫にとって、彼がスターであることは「作家=えらい」を覆す冒険でもあった。だかしかし、それをする三島由紀夫は、正真正銘の「えらい作家」でもあった。しかも三島由紀夫は、終生「えらい作家」であることから下りようとはしなかった。正真の「えらい作家」でありながら、「作家」そのものを拒絶しようとする。そんなことが可能になる心理は、「俺一人がえらい作家で、他の作家はみんなバカだ」でしかないはずである。三島由紀夫の中には、もしかしたら、そんな種類の拒絶もあっただろう。しかし、三島由紀夫が「作家」を拒絶していたのは、そんな理由ではない。なぜかと言えば、三島由紀夫が最も拒絶した作家は他ならぬ三島由紀夫自身だったからである。
 彼の認識者への嫌悪は、作家である三島由紀夫自身への嫌悪でもある。三島由紀夫は、三島由紀夫という作家を拒絶した作家なのである。それならば、「作家」であることをやめればよかったのにとも思う。しかし彼にはまた、そういう気持ちもなかった。
 作家である自身を嫌悪しながら作家であることを続ける――しかもその彼には、作家である必然があった。だからこそ、死んだ三島由紀夫は、「すぐれた作品を残すだけの作家」になりえた。それは矛盾であり、混乱である。だから、三島由紀夫という作家は、作家であることをやめる代わりに、人間であることをやめてしまったのだろう。わたしはそのように思うのである。」橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』新潮文庫、2002.pp.20-26. 

 この新型コロナの緊急事態宣言が出る直前、上映中の映画『三島由紀夫vs東大全共闘』を見に行くつもりだった。でも、映画館は閉鎖になってまだ見ていない。1970年夏、東大安田講堂で行われた三島と全共闘の討論会のことは当然ぼくも知っていた。右翼天皇主義者の三島が新左翼の全共闘と話が噛み合うはずもなく、なんかバカなことやってるな、と病院のベッドにいたぼくは思った。その二か月ほど後に三島は腹を切って死んだ。自衛隊員に向けたその最後のメッセージは、汚された国家を立ち直らせるために武士たる兵士に決起を促す、という奇妙な時代錯誤の言葉で、呼びかけられた自衛隊員にも理解不可能な「へんな人」の「夢の中の妄想」でしかなく、ただ切腹という行為の異常さだけが記憶に残った。50年経って、括弧つきの「三島由紀夫」と現実に存在した平岡公威という人が、ほんとうはなにものだったのか、少しわかった気がする。


B.古典は無用の教養ではなく、この世に人の生きる糧かも
 保守を自任する政治家たちの多くは、教育問題を語るさいに愛国心や伝統的価値を子どもに教えなければと言い、教育勅語にも大切なことが書いてあるなどとのたもう。でも、彼らが日本の古典文学や漢詩文をちゃんと読んでいるとはとても思えない。昔の政治家の達筆に比べ、書く文字が拙い筆跡であるのは毛筆の習慣が途絶えているので仕方ないが、お札にまでなった明治の樋口一葉のかなもじ小説や鷗外漱石の漢文脈の文章作品も、外国語以上に声に出して読めない人が、日本の伝統や歴史を知っているかに語るのは「噴飯もの」(これも古語か?)である。
 そして彼らが学校教育の国語に「改革」として持ち込もうとするのは、伝統とも保守とも無縁なネオリベ流の単純で軽薄な実用主義、功利主義と、「文学」の無用論、古典への軽蔑である。そんなに実用が大事なら、国語なんかやめて日本人は全部英語だけを使って暮せばいい。そもそも「国語」なんて言わずに諸外国と同じに「日本語」という科目名称にすべきだと思う。古文も漢文も英語と同じようにきちんと学ぶべき言語なのだから、役に立たないどころではないのだあ。

 「古典不要論に一石の新人たち:大波小波
 2022年度から高校の実用文を学ぶ論理国語と文学作品を学ぶ文学国語に別れることから、小説を読む機会が失われるとの危惧が出ている。この問題は本欄でも何度か取り上げられたが、高校の国語をめぐっては、古文と漢文の不要論も出てきている。
 昨年、高校の必修に古典は必要かを議論する討論会があり、『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。』(文学通信)にまとめられた。経済効率優先の理系の研究者と数値化できない文化や教養を重視する古典研究者の議論が、かみ合っていないのは残念だった。
 それよりも古典の援軍になりそうなのが、『源氏物語』の誕生秘話を描き日経小説大賞を受賞した夏山かほる『新・紫式部日記』(日本経済新聞出版社)、源実朝を文を重んじる将軍と捉え小説すばる新人賞を受賞した佐藤雫『言の葉は、残りて』(集英社)。相次いで刊行された新人のデビュー作である。この二作を読むと、古典は単なる教養ではなく、日本の歴史と文化から現代人が学ぶべきことを教えてくれる生きた学問であることがよく分かる。
 古文や漢文に疑問を持っている現役高校生もいるだろうが、この二冊を読むと古典の面白さと大切さが実感できるはずだ。 (花鳥)」東京新聞2020年5月14日夕刊3面文化欄。

 もうひとつ、気になる記事が新聞にあったので、引用させていただく。

 「社説余滴 誰もができる気候危機対策  :村山 知博 (科学社説担当)
 「コロナ危機からの経済再建では気候危機対策を忘れずに」という社説を書いた。感染症対策の影響で温室効果ガス排出が世界的に減る見通しだが、景気回復にともなって排出量が再び増えかねないからだ。
 化石燃料の使用を減らしたり、再生可能エネルギ-を広げたり。経済の再建を急ぐにしても、同時に社会の脱炭素化を進めることを心がけないといけない。
 といっても、自分に何ができるのか?そう戸惑う人も少なくないだろう。
 省エネに努める。徒歩や自転車を活用する。家の屋根に太陽光パネルを設置する……。頭に浮かぶアイデアは、そう多くない。
 実はもう一つ、誰にでもできることがある。
 「食生活の見直しが地球の健康につながる」。国際環境NGOグリ-ンピース・ジャパンの報告書が、そう提唱している。肉や乳製品の生産と消費を減らすことが、地球温暖化を抑えるのに役立つという。
 報告書によると、世界で食肉処理される家畜の1人当たりの数は、過去50年間で3倍以上になった。その分、各種の肉や牛乳、チーズなどが食卓に載るまでに排出される温室効果ガスも増えたことになる。
 牧場や農場のための森林を切りひらけば、二酸化炭素の吸収量が減る。肥料や飼料、食肉の生産・加工・運搬には、農業機械や工場、トラックなどから二酸化炭素が排出される。
 昨年、国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)がまとめた特別報告書は、人間の活動で出る温室効果ガスのうち2割以上が農業や林業にともなうものだと指摘した。
 食料分野で出る温室効果ガスの6割以上が、動物性食品に由来するとの分析もある。肉や乳製品に偏らぬよう、一人ひとりが食生活を見直す意義は大きい。
 もちろん、コロナ禍で酪農家や畜産農家が苦しんでいるいま、菜食をめざそうというわけではない。
 「2050年までに動物性食品の生産と消費を半減しよう」と、グリーンピースは提唱している。少しづつでも努力すれば、生物多様性を保全し、過剰な土地利用を抑えられる。
 長い目で食生活のバランスを心がけ、我が身と地球を健康にしたい。」朝日新聞2020年5月17日朝刊8面オピニオン欄。

 ぼくはもともと肉食は好まない。日本人は、かつては肴は食べたが牛や豚の肉は食べる習慣に乏しかった。明治以後、西洋の食習慣が入ってきて肉を食べるようになったが、それでも肉は高級品だった。しかし、戦後の日本は肉食が普及し、人々の生活が贅沢になり魚より肉中心の食生活になった。今の若者は肉を欲しがり魚や野菜は要らないとまで言う人も多い。それは高級和牛だけでなく、地球上の食肉生産のための環境激変によって可能になったことだと、はじめて気がついた。肉を食べるなとはいわないが、せめて肉や乳製品の需要を半分にすることは我々の健康のためにも、実によいことだと思う。
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