飛騨さるぼぼ湧水

飛騨の山奥から発信しています。少々目が悪い山猿かな?

シーシュポスの神話 賽の河原 草むしり

2015-05-03 00:26:23 | 自然農法の部屋

地球の 大地にひとり 草むしり  湧水

若葉風吹く五月に入った。
飛騨も見渡すかぎり新緑の季節となった。
コイノボリが青空に舞い、連休を過ごすために日本中を車や新幹線や飛行機が移動している。
私は?と言えば、今年も伸び放題の畑でひとり草むしりをしていた。
目が悪いので、草刈機や草取り具など使わず、文字通り手で雑草をむしっていた。
いや、草を引き抜いているから、草引きと言った方が性格かも知れない。
ひとりで黙々と引き抜いていたところ、フとギリシャ神話を想い出した。
「シーシュポスの神話」である。
神々の罰を受けたシーシュポスは大きな岩を山頂まで坂道を押し上げなければならない。
ところが、山頂に届くと、その瞬間に何故か大岩が転げ落ちてしまい、また初めから坂道を押しあげる事になる。
この繰り返しが永遠に続くと言う罰なのだ。
畑の脇の勢い良く伸びた雑草を引き抜きながら、この話を想い出したのは、毎年何度も雑草引きを繰り返さなければならないからではない。
「おかしいな?確か畑の脇は雑草が生えないようにと、防草シートを敷いたはずだぞ」
急に私は、思い出して手を止めた。
「こんなに雑草が勢い良く伸びているのは、シートが破れているか、それとも、誰かがシートを取り除いてしまったに違いない」
それを確かめるために指で土を掘ろうと思ったが、堅くて駄目だった。
手には、薄い丈夫な作業手袋をしていた。
しかし前日に除草した場所は、連日の日照りで、土が乾いてボロボロと柔らかくなっていた。
早速、そこのシートが無くなっているかどうかと、土を取り除いて見ると、まちがいなく防草シートがあった。
シートは、四、五センチほどの土で隠されていた。
「何だ、シートは有るじゃないか。雑草の勢いがいいのは、この分厚い土のせいだ。ああ、犯人は、またシルバーの爺さんだ」
と思うと腹が立って来た。
と言うのは、実は、四年ほど前、今回と全く同じ事があったのだ。
私が、除草していて、シートの上に数センチの土が乗っているのに気付いた。
その頃、ちょうどプランタの土が大量に必要だったので、その土を十数個のプランタに入れていたら、隣りの人が面白がりながら教えてくれた。
「ハハハ、その土は、あのシルバーの爺さんが畑の雑草を取った時、ポーンポーンと土の付いたままシートの上に投げるからだよ。ほほーっ、毎年やっているから、ずいぶん溜まったんだね」
「なーんだ、そうだったんだ!いや、どうしてシートの上に土が有るのか不思議だったんだ」
「おや、土を取って、色シートが出てきたら、ずいぶん見栄えが良くなった。あのシルバーの爺さんも驚くよ」
隣の人も、爺さんのやり方はまずいと思っていたのだ。
翌日、シルバー爺さんが来て、
「おーっ、畑の脇がずいぶんきれいになった」
と、少し気まり悪そうに褒めた。
「あのー、雑草は抜けば枯れるから、畑の中に置いた方がいいと思うけど・・」
と私がクレームを出すと、
「いやーっ、また生き返って来るからな」
とシートの上に雑草を投げた理由を言い訳のように言った。
確かに、除草した雑草は、面倒でも根の土をきれいに落とさないと、また生えて来る。しかし、シートの上に投げれば土が付いたままでも乾燥して枯れてしまうのだ。
本来ならば、後でその雑草をすべて一か所に集めるべきだろう。
シルバーの爺さんは、隣人の前で大恥をかいてしまったから、この日以来、シートの上に雑草を投げる事はなくなった。
同時に私も、解決済のこの事を、記憶から消した。

と私は思っていた。
が、そうではなかったのだ。
四年ほど経った今年の春、また乾いた土を除いて見ると、その下にシートが有ったのだ。
シートの上には、四年ほど前と全く同様に、四、五センチの土が乗っていた。
「エーッ、こんな事って!・・これって、何かに似ているな。あっ、そうだ、あの、シーシュボスの神話だ」
と言う訳でその話を想い出したのである。
そして、シーシュボスがまた大岩を初めから坂道を押し上げるように、私もシート上の土をすべて取り除き始めた。
「そう言えば、同じような話が日本にもあったな!」
と幼い頃聞いた賽の河原の話を想い出した。
両親より先に亡くなった子供達は、賽の河原で親達が来るのを待っている。
暇をもてあそんだ子供達が、一所懸命河原の石を積んで高い石の塔を作ると、鬼達がやって来て、せっかく仕上げたその塔を足で踏みつぶしてしまう。
子供達は、泣きながら、仕方なくまた初めから、石を積み始める。
と、言う話だ。
しかし、・・・
と私は、最近になってこれ等の話の見方が変わって来た。
子供達は、石を積み始めると夢中になってしまう。
私も幼い頃、河原の砂場で小さなダムを作って湧水をせき止めるのに夢中になった事を思い出した。
石を積み上げるのに夢中になっている子供達は、時間の過ぎる事も両親の事も忘れてしまっている。
それが完成してしまうと、両親の事を想い出して、淋しくて悲しくなってしまう。
だから、鬼達が、完成マ近かになると、やって来て足で踏みつぶすのだ。
本当は鬼達は顔や態度は怖いが、心は優しいのかも知れない。
シーシュボスも、毎日大岩を坂道に押し上げる度に、充実感と快眠を得られる事だろう。
頂上近くまで来れば、今度こそは!と言う希望とここまで押し上げた!と言う喜びも沸く。
つまり、瞬間的な目標よりも毎日のプロセスの方に喜びや生きがいが見つかるのである。
私も、除草や土除きをしていると、きれいになった分だけ満足感と柔術刊が沸く。
全体ができれば、もっときれいになるだろうと、やる気が出て来る。
また、既に一週間も畑仕事に取り組んでいて、冬のメタボ体にも筋肉が付いてきて、腰回りも若い時のようにスッキリして来た。
汗をかいた後の夕方の風呂と、その後の冷えたビールの夕食が楽しみである。
毎日、取り組んだだけ仕事がはかどり、その充実感で快眠できる。
シーシュボスの神話も賽の河原の石積も、草むしりも爺さんの雑草投げも、取り組んでしまえば楽しい事なのだ。
取り組まずに、逃げよう等と考えるから絶望的になるのではないかな?
ナーンテ、悟ったような事を!

何はともかく、腰回りをスッキリさせたい人、または腰にくびれの欲しい人。
どうぞ我が畑まで!
無料で草むしりができますよ。

(以上ねむいー!)