まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

侠客が郷に入ること 09,11再

2023-09-30 01:45:43 | Weblog


以前、安岡正篤氏と恩師の席のことだった。大勢の参会者があったが懇話しているときに凝視せざるを得ない容像の人物が近寄ってきて慇懃に頭を垂れた。
大柄ではないが強固な体躯で白髪、目じりが細く荒ぶれた様子はないが、畏怖を感じるような重厚さがあった。

いつものことながら安岡氏は丁寧な礼を返していた。どうも安岡氏の傍にいると政治家、財界人、官僚、浪人、侠客など人別をこだわらない、しかもその道の人物が近寄ってくる。
かといって誰でも近寄るわけではない。民主党の黄門と自称している渡部氏も当時は竹下氏に連れられて来ていたが言葉すら発することが無かった。

当時は田中角栄氏が裏面の権勢を振るっていたが、ある席で、゛別席に安岡先生がいらっしゃっていますが・・゛と女将が促すと、身を縮めてセンスを振っていたという。
安岡氏が「一夜、沛然として心耳を澄まし・・」と田中総理辞任の声明を撰したのは藤森官房副長官と二階堂氏の懇嘱ではあったが、その意は届かなかったようだ。
「一夜・・」とは、土砂降りの雨のなか、国民の声に心を澄まして聴く、という意味を一国の総理の言葉として撰したものだ。

その田中氏も選挙になると長靴を履き替えて田んぼに入ったり、大雪の中での街頭演説などのエピソードがあるが、東京の政治環境とのギャップは、真に心の耳を澄ますことにはならなかったようだ。




               

           安岡氏の撰号




安岡氏は人物を身形、地位、学校歴、財力では量らなかった。つまり人物の器量をそのようなモノでは観なかった。小生にも都度、「無名でいなさい」と説いた。
器量に沿わない役割をもつといらぬ苦労をする。維持する為に肩を張り、ときには心にも無い虚言を弄す。
「これでは道を極めることは出来ない。自分の特徴を知ったら伸ばすことだ。またその目的が人と変わっていても恐れることは無い。そのための勉強だ」

冒頭に挙げた人物もそうだった。ただ「神戸の柳川です」と言っただけだったが、それだけでも充分だった。何を稼業としているのか、国別、出身は。学歴や地位は、あるいはその所属しているとしたら大きいか、小さいか、はたまた有名か、応答には何も無かった。
両者には棲む世界は違っても相手の矜持を超えない簡潔で実直な応答があった。

ことさら驚くことではないが感慨を覚えた人の所作に遭ったことがある。
ラジオの相談者でタオカ・ユキさんという女性がいる。出身をいえばあの方の娘さんとわかる。
その応答は相談に適切、女性といえど人としての分別を説き、運や縁がはこんでくる煩いに丁寧に応答している。父譲りの胆力は言葉を重ねなくても説得力がある。そして「私と共に・・」と続く。

余談だが、小生の縁者がタオカ氏の子息が上京すると会うが、その教育は巷の子煩悩とは異なりがあるという。
「○○さん、大学の同級生はみな外車だが、僕なんか小さな国産車だょ」
車を持っているだけでも充分だが、その世界の学生との異なりは大切な方向性だ。
その世界では名分もあり、好奇な目でみられるだろうが、敢えて自制を求める母の姿は、人の生き様と、どんな道でも拘らない人情の広さと普遍性がある。それは父が慕われたものは拘らない、囚われない奔放さと、自らの特徴を自覚して律することと理解しているからだろう。






頭山満 犬養毅  孫文葬儀(南京)




世間には色々な稼業や職分がある。縁があって何処に棲もうが変わらぬ座標であり、良質の習慣性がある。

その一つに或る侠客の姿がある。
短気で、粗暴だが人情に厚い人物が縁あって侠客という名がついた。揉め事の仲裁もあるが稼業同士のいさかいもある。ある抗争とよぶいさかいがあった時、大勢の町の人たちはその侠客の家に集まりその親分を守ろうとした。゛町の人゛といっても荒ぶれた人を想像するが、みな普通の人だ。なかには「素人のほうが刑が軽いので私が行く」と興奮する者もいた。親分はやんごとなき問題への意地だが、町の人は日頃世話になっている親分へせめてものお返しだった。これは、本当にあった話である。

次郎長もそうだ。
山岡鉄舟に頼まれた天田五郎という青年を育て、教育し、後の広沢虎造の浪曲で有名になったネタ本である「東海遊侠伝」を書いている。一応は次郎長の配下の侠客だが、この天田五郎に愛着を持った人たちがそうそうたる人たちである。原敬、陸羯南、三遊亭園長、勝海舟など滑稽なほど彼の人物に惚れて賛助を惜しまなかった。



              

            恩師の家族  満州新京



ヤクザにしておくのはもったいない、とは聞くが、町の人に慕われ応援され、特殊な世界で特徴ある才を発見して伸ばすのもその世界の特殊性でもある。

あまり信じないことだがIQという能力判定法がある。ある死刑囚が判決後誰に促されるわけでもなく漢字の勉強をした。暫くすると当用漢字を全部覚えて、新聞社に和歌を投稿するようになったという。金だ、女だ、といった世俗と違い勉強には最適な環境があるようだ。つまり緊張と集中を維持できなくなった浮俗の世界にはない自分にあった欲を見つけられるはずだ。

子供が落ち着きが無くなり、人が方向を見失ったとき群れになったら収拾が付かなくなる。
それは法律や権力では到底解決できない患いである。
例えば法には触れないが行儀の悪いこどもが大勢集まったら大人はどうするだろうか。すぐ警察官を呼ぶだろう。子供は警察官をはじめとする大人の世界も知っている。その特有の汚れていない正義感でみている。

昔は前章にあった親分や肩書きも見ず人を読み取った次郎長がその任に当たった。郷は駐在さん、医者、校長先生が頼りになる賢人だったが、いまはその類が少なくなっている。
長(おさ)がいなくなった世界は、昨今の支持率低下をバロメーターとする政治と同様、思考は堕落し陣取り合戦のようになり、庶民もそれを倣うようになった。

そして金の世界になった。
ただ、そうでない侠客も津々浦々の郷には存在する。
くれぐれも暴力団と括るなかれ。

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1 コメント

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引用させて頂きました (儒侠の瓠洲)
2009-11-12 20:07:11
 いつも拝見させていただいております。

 今回の記事をもっと多くの方に読んで頂きたく、私のブログへ一部引用させて頂き、リンクを張らせて頂きました。

 安岡先生の人柄や、侠客の姿を現在にしらせたいと思った為です。

 宜しくお願い致します。

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