元吉林興亜塾 五十嵐八郎氏
二十世紀 日本及び日本人は、どう融解したのか
王道楽土を求め、異民族の地で知った土壇場における日本人の姿に、明治以降日本及び日本人が追い求めた現実をみる。それはアジア諸外国に受け入れられる人格の普遍性を問うことでもあったと同時に、アジアの意思に応えうる任があるかの試金石でもあった。
【以下本文】
(4)民族を越えるもの
昭和20年8月9日、日ソ不可侵条約を一方的に破って、突然進撃して来たソ連軍に、全満洲は、文字通り周章狼狽。
昨日まで、全満洲に傲然と君臨していた関東軍は、全満の日本人を、おきざりにして、自分らの家族だけを引き連れて、その夜のうちに、さっさと撤退してしまったのです。満洲国は崩壊すべくして、自ら崩壊していたのでした。
蒋介石が、あくまでも避けようとした、日中両民族の全面衝突も、思いあがった日本の一方的な進撃によって無視され、それが日本敗戦のその日まで続けられていたのでした。
「驕りて亡びざるもの、未だこれにあらざるなり」(左伝)
おごるものは、必ず滅ぶのです、しかも本当の
「亡国は亡に至って、始めて亡をしる」
私は、満洲国崩壊のその日まで、それを知らなかったのです。それこそ本当亡国でした。
人為の空しさを痛むかのように、連日のように、どしゃ降りの愁雨が続く中を、虚脱したかのように長蛇の列を作った、日本人引揚者の疎開がはじまったのです。
これは終戦直後、蒋介石総帥が示した、対日戦後処理の原則
「怨みに報いるに、徳を以てす」(老子の言葉)
の主旨に基いて、日本人の早期引揚げという形で、実現したものでした。
昨日も今日も、どしゃ降りの中を、背負い切れないほどの荷物を背負い、持ち切れないほどの荷物を抱いた異様な姿をした疎開者の列が、長春停車場まで続いていました。子供を連れ、幼児を背負い、荷物をもて余してでもいるかのような、ずぶぬれになった婦人たちが、目立って多かったようです。そうだ、彼女たちの夫たちは、最後の応召で、行先さえも、しれないままなのです。
それでも、日本へ、日本へ、祖国日本へと、どれだけが、たった一つの救いでもあるかのように、停車場を目ざして黙々と歩みを移していました。
あまりにも、みじめな日本人たち姿に
「敗戦の痛ましさを体験したことのない、日本民族は、よけいに不幸なのですね、可愛相に」
と、満洲人は祈るように、つぶやいていました。
そうした長蛇の隊列に、連れ添うかのように、一人の中国服を着た、初老の男の人が、とくに婦人たちの荷物を運んだり、子供を抱きかゝえたりしながら、何くれとなく、面倒を見てくれていました。この老中国人の姿は、毎日のように日本人引揚者の行列のそばに現われていました。彼は、曾ての満洲国の高官、勤労奉公局長官、曹肇元氏でした。満洲人注視の中で、彼は最後の最後まで、自らの行動を止めませんでした。
いよいよ終戦の翌年の11月、長春最後の引揚列車が出る日が近づいていました。最後まで居残って、引揚げ業務、その他に奔走していた原さんや、吉井武繁さんたちが、一夜その曹さんを招いて、ささやかながら、お礼とお別れの宴を設けました。私はその直前、国民政府に逮捕されたため、その宴席には、参加できませんでしたが、後で、吉井さんから、その日の様子をお聞きしました。
曹肇元さんは、少年時代、旅順の日本人中学校に、入学を許されました。当時、満洲人で、日本人中学校に入学することは、極めて稀な時代でした。
ある日の放課後、曹さんは、校庭のポプラの樹に登り、小刀で何気ない、いたずらをして遊んでいました。折も折、頭のつるつる禿げ上がった体育の先生が、そのポプラの樹の真下を通りかかったのです。テカテカの禿につられたかのように、はっと気がついた時には、曹さんの持っていた小刀は、曹さんの手を放たれてしまっていたのでした。その小刀は、先生の頭に刺さったのです。
先生は、さっと樹の上を見上げることは見上げたのでしたが、ふき出る血潮をおさえるようにして、校舎の方に、あたふたと駆けこんでしまいました。曹さんは、夢中になって、学校近くの裏山に逃れました。日も暮れたので、こわごわながらも帰宅してみたが、家族にはまだ知れている様子はなかった。曹さんは、一夜目をつぶることが、できませんでした。
憔悴の夜は明けた。恐る恐る校門をくぐった時には、すでに全校の生徒たちは、校庭に集合を命ぜられており、異様な、ざわめきの中から曹さんは、昨日自分のやった事件のためであることは、すぐ分かったという。
一学級ごとの厳しい詰問が開始された。いよいよ曹さんの学級の順番がやって来た。担任の先生は
「もし、この学級の中に、昨日の酷い事をした学生が居るなら、正直に申し出なさい」
と、厳しい調子で申し渡しました。
その瞬間でした。今の今まで、どのように言い逃れようかと腐心していた曹さんは、どうした事なのか、自分にも分からない、気がついた時には、自分で一歩前に出て
「私が、やりました」
と思わず言ってしまっていたというのです。
曹さんは、校長室に連行されました。激昂した校長の身体をのり出しての叱責する言葉には、曹さんは胸に針をつき刺されたように、痛烈にこたえたそうです。
ところが、その負傷した体育の先生は、心静かに
「このような危険な、いたずらは二度とやってはいけない。しかし、この学校の校則の一つは“正直”という二文字です。この学生は、はっきりと、私がやりましたと正直に答えています。これは余程の勇気がなければ、できないことです。今回限り、この学生を許してやって下さい……」
と、曹さんを必死に庇ってくれたというのです。
曹さんは、この体育の先生の思いもかけない言葉に、はっきりと仏心を感じたというのです。
曹さんは、はじめて声を上げて泣きに泣いた。おわびすることも忘れて、慟哭した。
「泣きじゃくる私の背を優しく撫でさすってくれた体育の先生の、その掌の暖さは、今もって忘れられないのです。満洲国は不幸にして終わりを告げました。皆さん方が帰国してしまえば、何時また日本の方々とお会いできるか、分かりません。この機会をはずしては、日本人に対して、お礼を申し上げる機会はまたと無いようです。せめて、荷物一つでも担がして頂ければ有り難いと、ただそれだけのことなのです……」と曹さんは、淡々と語っていたということです。
その体育の先生は、すばらしい先生であったに、ちがいない。
「怒りを蔵(たくわ)えず、怨みを宿(とど)めず、ただこれを親愛するのみ」
そういったアジアの心をもった、心豊かな先生だったのでしょう。
それにしても、日本が破れたのは、曹さんのような巾広い中国人の心の深さに破れたのでしょう。日本は幾久しい間、曹さんのようなアジアの心を忘れていたのでしょう。
アジアの諸民族にさきがけて、アジアの独立と防衛と建設に起ち上った日本は、アジアの諸民族に大いなる希望を与えたばかりでなしに、全世界の抑圧されていた諸民族にとっても、大いなる光明であったはず。
そうした日本が、その自らの発展の途上において、アジアを忘れ、西欧と一緒になって、アジアを犯すという取りかえしのつかない、大きな過ちを犯していまっていたのでした。
日本民族のエゴイズムは、空疎な権力の背景に、あのおおらかな日本自身を喪失しかけていた時に、この曹肇元という一人の中国人が、人間存在の根源を、人間相互の信頼と誠意と感謝とにおき、しかも民族の厚い壁を乗り越えて生きる道を暖かく示してくれたのです。
日本は敗れるべくして破れた。満洲国は亡ぶべくして亡んだ。しかし満洲国は崩壊しても、日本は破れても、人間と人間の暖い関係は、民族の壁、運命の逆境すらものり越えて、ますます健全であることを、曹肇元さんは、淡々として実証してくれたのです。
以下 次号
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連載終了後、取りまとめて掲載し活学の用にしたいとおもいます