まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

中国人は中国人に戻り、日本はアジアに戻れば・・

2024-03-20 08:47:01 | Weblog

       佐藤慎一郎先生

 

孫文は側近の山田に、「真の日本人がいなくなった」と呟いた。

その山田の甥、佐藤慎一郎は敗戦まで二十年以上も中国社会で生き、その体験を通じて、戦後は中国問題の泰斗として要路に提言や気骨ある諫言をした人物である。

 

その佐藤氏と筆者の応談は音声記録「荻窪酔譚」として残されている。

いつもは荻窪団地の三階の居間で御夫婦とご一緒の酔譚だが、悩み,大笑、ときに不覚にも二人して落涙することもあった。

「これもある」と、長押に設えた棚から降ろしたり、背後の書棚から引き出したり、それでも「ほかの方がご覧になるから」と遠慮すると、数日して依頼文を添えて送付していただく。

 

すべて音声応談に関することだが、講話依頼の課題に逡巡すると、その音声を聞くたびに、無学な恥知らずを回想している。

昨日のこと、アジアの「そもそもの姿」を考えたく、繰り返し酔譚を聞いた。

そのなかに「中国人は中国人に戻る。日本はアジアに戻る」それは、孫文と山田のことを聴いていた時だった。

 

筆者はすぐ応じた。「孫文は山田さんに、真の日本人がいなくなったといっていましたね。それは台湾に革命資金の援助を当時の民生長官後藤さんに頼みに行った時のことでしたね」

 

「後藤(新平)さんは菊池九郎から大きな影響をうけた。叔父もその関係で一緒に行ったが、後藤さんの対応に孫文もまいってしまったと、叔父が言っていた」

  • 菊池九郎・・・代議士、初代弘前市長、東奥日報、東奥義塾創立 

 

「・・真の日本人。異民族に畏敬されるような日本人、日本人の命題ですね」

 

中国人は中国人に戻る。日本はアジアに戻る

言いたいこと、書きたいこと、様々だが、そもそも「言うべきこと」は、なかなか聴くことはない。この「・・・戻る」ことも稀な論だが、市井に生きて中国なるものを体感した佐藤氏ならではの至言でもある。

 

    

          山田侍純三郎 佐藤慎一郎 故郷弘前

 

以下、荻窪酔譚 抜粋

 S…無佐藤慎一郎先生 T・・・筆者

 

T : 満州にソ連が侵った後ですね。 悲惨な状況下で、其の様な生活も在った訳ですか。

S : 政府の連中は高い米を売っていたのだ。 其れに僕は憤慨したから、次男坊に 「其奴(政府の手先) の店前で安い米を売ってやれ」、と云ってやった。

T : 北進論と謂う大政策の中で開拓団が満州へ征った訳ですが、〃王道楽土〃と謂う国策の下で其う云う輩が在たのでは、崩壊するべくして崩壊したと云う事ですか。 国策以前の【人間】の問題ですね。 学者は 〈 もしも ~ならば、 〉を遣って 「嗚呼だ、此うだ」、と曰くけれども。

S : 土壇場では国策も糞も無い、人間の問題だよ。 糞喰らえだよ、東大を卒た奴は皆駄目だ! (笑)。

T : 満州の高級官僚、高級軍人が須く体たらくでしょう。

S : 勅任官が留置場で僕に 「ターバンの時計をやるから救けろ」、と。全く情け無いよ。

T : この間、『教育勅語』の起草に関与した侍従元田 永孚の『聖諭記』を読んでいたら、

    「東大は、知識・技術の学問は有るけれども、身を修める学問が無いでは無いか。 江戸時代以来の藩校や塾を卒た重臣が在るから今は未だ良いけれども、果たして、東大卒の彼らが国家指導の任に堪え得るで或ろうか……

と書いて有りましたが、 其の危惧が満州崩壊時に露呈してしまった訳ですね。

S : 〝記誦の学は学に非ず〟 だ。(暗記)

T : 矢っ張り志と云うか、何か一つの絶対的価値を持つと云う事でしょうね。 時節で価値が換わるのは善く無いですね。 全体の中の部分、【自分】を識る事ですか。 教師が注入すると云っても、其れを次世代に教えるには手段・方法では無く、〝感動・感激〟 が大切ですね。

S : 不言の教えだ。 言葉も大事だが、体で教える。 困難を乗り越えて人間が出来て創めて、歓びが有る。 先生が其れを実行しているから、昔は先生を尊敬していたのだ。 或る時、中学校で 「孔子は女房を放ったらかしにしてオカマばかりほって」、と悪口を云ったら、漢文の菊池 ペロー先生が

お前何ンぞ死んでしまえ、去ってしまえ」、 と叱られた。 是う謂われたら本当に退学なのです 。 退学したく無いから

 「卒業したら、孔子様のお墓の前でお詫びをしますから、赦して下さい」、と云ったら赦してくれた。 今考えると、能くも巧い事云ったものだと思うのだけれども (苦笑)。

  其れで北京留学の頃、本当にお詫びに行った。 孔子廟も何も判ら無いので、本当に難儀をしたよ (笑)。

T : 其処にいくまでの機会・試行錯誤・体験、其れが大事なのでしょうね。 僕も中国や台湾へ初めて行った時、言葉も何も解ら無いので不安でしたが、乗ってしまえばこっち占めたもので、感動・感激の体験でした。 此れが大切ですね。

S : 僕は人生の目標が無かった。 只、中国人が何を考えているのかだけを勉強した。

T : 人に接するのが好きだったのでは無いのですか?

S : 小学校五年生五十三人に何を教えても、直ぐ「はい、解りました」と答えるから一生懸命教えたのだけれども、試験前に何を訊いても誰も解ら無い訳、如何にも為らん (苦笑)。

分かりましたと云えば先生が悦ぶと・・・

T : 矢っ張り先生に注目されようと思うのじゃあ無いのでしょうか。

S : 其れで、中国の事は中国人に訊か無ければ解ら無いと思う様に成った。 学問の方向では無く、現実に引っ張られてコソコソと勉強した。 目標も体系も無い。 もう少し早く、人生の目標を持てば良かった。

T : でも目標に窮してくると、閉塞状態に陥ると云う事も有るでしょう。 僕が思うに、多寡が人間のやる事だ、と。

S : 終戦後、中国人は皆、親切にしてくれた。 然も留置場だからね、極限の世界でしょう。 是の時初めて、中国人が解った。

 

      

             弘前城公園

 

T : 先生の様に、中国人社会に順っていても解ら無かったでのすか。

S : 迷惑が掛かるから本名は云え無いのだけれども、戦犯を管理する外事課長さんが僕を庇ってくれた。 僕は生徒と遊ぶのが好きで、子供が直ぐに僕に懐く。 其れを観ていた同じ小学校の先生が、其の外事課長さんです。

T : 俗世的で無い人の評価って有りますよね。 日本人は肩書き等、俗世的なもので人を観て、其れ以外は何も察得ない (察無い)。 中国人は観え無いものを察る能力が有りますね。 個人で人の価値観を察ると、〝好きか・嫌いか、善か・悪か〟  どち等で判断しますかね?

S : どち等かなあ……。 難しいが、命を救けてくれた中国人、この日本では (同じ種類の人間は) 考えられ無いよ。

中国人の本性は其うなのだ。 皆向こうが救けてくれた。 逮捕されて却って良かった。 僕のリュックだけ差し入れで一杯。 看守は初め、威張っていたが、後に優しく為った。

T : 自然の三欲 〝食・艶(異性)・財〟 で表現されることが、自然の流れで正しいのでしょうね。 人間も自然で在るべきだ。 斯と云って、禽獣とは違うのだけれども。

S : だから中国では、天下・国家は所謂 〝お噺し〟 に為る。

T : 現在の改革開放路線で〃拝金主義〃に成り、其う謂う善い部分が消えて悪い部分だけが残ると云う恐れが。

S : 政治が良く無いからだ。 中国人は公の席で政治は語ら無い。 政治は不文律で、公の席は公文書だからだ。

 

        

            津軽の学び舎 悠心居

 

T : 十二月十九日の或の件を訊きましたか、王荊山さんの?

S : 少し訊いた。 高梁を百トン運び、塩・油を無償でくれたらしい。 総指揮者は劉 ショウケイ(?)が執って、其の物資を平山 (副知事) が受け取って横流しをした。

T : 平山が横流しを

S : 平山は留置場に唯の一回も、差し入れをした事が無い。 関東軍のやった事を僕は知っているから逮捕されても不平不満は無いが、奴等は見舞いも何も無い。 其れで栄養失調で皆死んでしまった。 終戦後、露軍が侵って来て避難民が新京に集まって来た。 処が関東軍の奴等は 「露スケが来た!」、と聴いただけで、弾の一つも長春 (新京) に落ちて来ない内に、皆逃げてしまった。 僕らが長春に着くと、関東軍の宿舎には、誰独りも居無かった

T : 高級将校がですか?

S : 兎に角、独りも居無いのだ。 其れで 「如何したのだ?」と訊いたら

 「ソ連が来ると謂うので、関東軍は皆逃げてしまった」と訊いてやっと解った。

僕が憤慨して総務長官の処へ行って初めて「関東軍の命令で電話線も三ヶ所切断した」と謂う事も判った。

兎に角、酷い事をやったのだ、関東軍は。 ソ連が侵って来て、略奪と強姦で日本人は右往左往した。 憤慨して、総参謀長の処へ相談しに行ったら   「日本の女も悪いよ、ケバケバしいから捕まるのだ」、と。

 もうお話になど、到底為らない (苦笑)。 公使は

私は昨日迄は公使でしたが、今は唯の避難民です」、と ほざいた。 僕の傍らに、カジ園さんが連れて来た横山さんが在て 「この野郎、殴り殺してやる」物凄い剣幕だった。

 

      

     王荊山の娘と孫(戴麗華) 佐藤先生

 

T : 処で、或の平山 (其の時は日本人会会長) ですが、日本の女性を売ったのですか、差し出したのですか?  金で。

S : 金を貰ったのか如何なのかは判ら無い。 終戦翌年の五月十九日、新京のホウラク劇場で平山主催の日ソ友好大会があり二十日に五百人の女性を出したらしい。 カジ園さんの噺に拠れば五百六十二人だ。 何にしても、出したのは確かだ。

T : 其の後、(彼女達の) 消息は何も無いのですか、現在向こうから残留日本人婦人 (孤児) が来ていますよね?

S : 善い意味で、残っては在無い。

T : 要するに、日本人に罪が在る訳ですね。 満州関係の援護の人で、誰独りも手を差し伸べては在無いですね。

 

       

           側近山田と孫文            革命の同志蒋介石と山田

 

章を変えて

S : 本当に悲惨だった……。 結局、計画を長引かせる程、賄賂が多く得れる。 誰から貰ったのかは判ら無いが、田村は其の金で妾を拵えたよ (苦笑)。

T : 三井からでしょう。

S : 誰から金を貰ったかは判ら無い、三井かどうか ――― 。 山田 純三郎も僕も貰った事に為っているかもしれ無い。 桂公使 (戦犯容疑者) が山田 純三郎の処へ行って玄関で土下座して「救けて下さい、私が誤魔化しました

(蒋介石は満州国の日本国内の土地、資財の処理を革命の先輩山田に懇請していた)

と、伯父にはっきりと謂った。 カンオン会が香港から留学生九十七名連れて来て、相模女子大学に入れる積りで松平 キトや山口 重二が奔走したけれども、金の見通しが着かず結局、武蔵境の日本経済短期大学 (現・亜細亜大学) に入れる事に為って、其の経費は善隣協会が三千万円出すと云う約束で其処に入った。

 

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