池さんで働くおばさんの日記

デイサービス「池さん」の大ちゃんママのブログです。

出会い

2022-04-27 22:36:12 | デイサービス池さん

かつて井上夫婦と出会った。

この夫婦との出会いによって、池さんは育ち、私たちも沢山のことを学ばせてもらった。

人が人を支えること、人が人を想うこと、

人が人として生きること、人が人として死ぬこと。

家族の姿や生き方、ありかた。

なにより、一緒に生きていくということがどういうことなのか、

理想や綺麗ごとでなく、現実に誰かと生きるということの意味を、

池さんを続けていくうえで必要な沢山のことを、

私たちは、この夫婦から教えてもらった。

あっという間に時間が経って、2人を大頭で見送って、もう12年になる。

いつも会うわけではないけれど、いまだに娘さんたちが応援し隊員でいてくれることに感謝しているし、

私たちにとって、心強い存在なのは12年経った今も、あの頃と変わらない。

 

近くのお寺に藤の花の綺麗なお寺がある。

藤の花を見るのを楽しみにしていたけど、なかなか行く機会がなかったおじいさんをどうしても連れて行ってあげたいと、若手スタッフが張り切って出かけた日、

藤の花のお寺で、

池さんのステッカーを張ってある車を見て、声をかけてくれた人がいた。

「池さん、小松の池さんか?」

「そうです」と答えたスタッフにその人はこう言ったそうだ。

「私は、井上さんの一番弟子じゃった!」と。

なんと、夫婦をよく知っている人で、会社勤めをしている頃に、一緒に働いていた人が声をかけてくれた。

「池さんのことは聞いたことがある。井上さんがお世話になっとったんじゃろ。」と。

偶然にしても、すごい。

井上夫婦を知っている人が、なんと12年も経った今、池さんの車を見て声をかけてくれたのだ。

偶然会ったとしても、すごい。

12年という時間が立った今、かつての夫婦をよく知っている人と出会った話は、いろんな思い出を再びよみがえらせてくれる。

これほど時間が経っていても、わざわざ声をかけてくれたことに感動する。

若いスタッフは、直接井上夫婦のことを知っているわけではない。

でも、私たちはここで出会った人たちや、池さんであった大切なことを皆に知ってほしくて、いつも話しているから、きっと知っている限りのことをその人と話したのだろうと思う。

帰ってから皆で、夫婦のことや元気だった頃のことなど、いろんな話をして懐かしんだ。

知らないばあちゃんたちも、一生懸命聞いてくれた。

この二人がいたから今の池さんがあるという話に、「よかったね~。こうやってここへ来れるのは本当にありがたい。そうやって続けてくれたからここへ来ることができる。」と喜んでくれた。

井上のじいちゃんの一番弟子だった方、

声をかけてくれて、ありがとう。

池さんを覚えてくれていて、ありがとう。

出会いをきっかけに、またあの頃の気持ちや想いを思い出すことができました。

スタッフにもいろんな話を聞かせてあげることができます。

ここでの時間は、今という時間だけでなく、16年前からの連続した時間の一部であるということをもう一度考えることができます。

かけがえのない連続した貴重な時間を過ごしているのだということを、想うことができます。

あ~私も会いたかったな~。

懐かしい話をしたかったです。

もう12年経ったけど、今でもみよちゃんを優しく叱るじいちゃんの声が聞こえてきそうです。

「やんちゃ言うなよ。」

 

2人に見守られて、

今も、

池さんはあります。

 

 

 

 

 

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未来への祈り

2022-04-23 23:18:23 | デイサービス池さん

久しぶりにジブリのDVDを見る。

ハウルに続いて、ナウシカ。

画面の中のユパが言う。

「南でまた2つの国が腐海に飲まれてしまった。腐海は着実に広がっている。なのに、どこへ行っても戦に飢え。不吉な影ばかりだ。なぜ、この谷のように暮らせぬのか。」

コロナというパンデミックが世界を襲う。

もう2年が過ぎた。

だれがこれほど長くこのパンデミックに世界が怯えることを想像しただろう。

制約生活と、経済の停滞。

闇に覆いかぶされてしまった世界は、その力のはけ口を求めた暴力的で排他的で狂気に満ちた独占的な思想と権力を行使する隙間を生じさせてしまう。

暴力、圧力、殺戮

破壊された都市。

時間が止まったかのような世界。

逃げ続ける人々。

子どもたちの涙。

留まるしかない高齢者や病者。

銃を手にする若者たち。

なぜ21世紀のこの時代に、世界中のいろんな場所で人々は暴力と狂気に怯える時間を生きなくてはならないのだろう。

地球規模で災害が起きている時代にあって、なぜ人は心を一つにできないのだろう。

殺戮、破壊、暴力。

世界の注目を集める地域だけでなく、知らないうちにいろんな場所で、無秩序な争いや暴力が行使されている事実に、ユパ様の「なぜ」という問いかけが今まさに現実となって世界を覆っている。

暴力の先に何があるのだろう。

殺戮と破壊の先に何があるのだろう。

荒廃した都市と、命を絶たれた人たちの無念があるだけ。

「もう殺さないで」とナウシカが叫ぶ。

「ただ、自分の国に帰ってほしいだけ。」とナウシカは言う。

争いの20世紀は終わったはず。

人はその時代から、学んだはず。

腐海の底に世界が沈む前に。

穏やかな時間を取り戻したい。

世界のあちこちで行われている争いに、どうか終焉を。

小さな自分にできることを模索しながら、

地球という場所で生きる同じ人として、同胞として、

どうか、心休まる時を再びすべての人が生きることができるよう、

今夜も祈りたい。

小さな町の小さな人間の1人ではあるけれど、

毎日、笑顔があふれる仕事をすることができることに感謝しつつ、

豊かな自然と穏やかな場所で生きることができるわが身に感謝しつつ。

 

人は生まれる国を選ぶことはできない。

たとえどこの国に生まれたとしても、平和に安全に暮らす権利はあるはず。

幸せに生きていた人々の生活を奪う権利は誰にもないはず。

金色の草原を歩くナウシカを求めたい気持ちになる。

どうか、世界と人の心が再生しますように。

地球が怒りを増幅させませんように。

「神様、風の神様、皆を守って。」

ナウシカのように、今夜も祈りたい。

 

 

 

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今も池さんものがたりの中に

2022-04-12 23:15:10 | デイサービス池さん

桜が終わり、近くの芝桜が満開になった先週の木曜日。

「西条の地下水は美味しいという話題から、山の水の方がやっぱり美味しいということになり、一番おいしいのは湯浪の湧き水だとつながって、そうだ、来週皆で水を汲みに行って、その水でご飯を炊こう」という話に広がった。

まだ湯浪に行ったことのないという人もいて、行こう行こうと皆大乗り気。

でも、14日の木曜日はいろんな事情で正直ドライブ便は難しかったため、

代わりに本日12日の火曜日。木曜日のメンバーと同じ人も多かったので「湯浪水汲み隊」希望者を募り、池さん号にじいさまばあさま乗り込んで、いざ出発と相成った。

 

春の山は美しい。

山の空気は清々しい。

 

湯浪の山から豊かに流れ出す山の水を汲み、森林浴をして、お昼前、皆笑顔で帰ってきた。

あいにくもうご飯は炊けていたので、「この水でご飯を炊くのは木曜日(14日)にしよう」と約束して、今日は美味しい水でコーヒーを入れて、昼食後のひと時を楽しんだ。

コーヒーを飲みながら、いつものように、みんなでいろんな話をしているうちに、池さんと湯浪のつながりの話になって、懐かしい昔話に花が咲いた。

しかも、同じ時間に、湯浪のじいちゃんの親戚の人が湯浪で採ったタラの芽をたくさん届けてくれたのだ。

湯浪。

じいちゃん。

ふと。

その時。

話をしていて、思い出したのだ。

湯浪のじいちゃんの命日を。

4月14日。

皆が久しぶりに行く気になった湯浪。

水を汲みに行こうとした日。

その日はじいちゃんの命日だった。

ざわざわと心が震え、涙で目が曇る。

ちょうど、10年。

じいちゃんが山へ帰った日。

 

平成24年の夏、湯浪のシキビ畑で倒れて8か月、じいちゃんは病院のベットの上で、寝たままで生きた。

「人間、生きるしかないんぞ」と教えてくれたじいちゃんは、まさに生きるしかない時間を確かに生きた。

何度も肺炎になってもなお生きようとした命は、春になって桜が咲いた日に、危篤になってたった2分で潔くその命を終えた。

4月14日。

桜が満開になった日に。

桜が咲いた湯浪の山に帰るかのように。

 

じいちゃんが倒れてからの湯浪は私の中で、今までの湯浪と違ってしまっていて、私は夏から一度も山へは行かなかったけれど、不思議なほど急に行きたくなって、ヒイちゃんを誘って山へ出かけた。

4月15日。

桜が満開だった。

山の水は豊かだった。

空気は澄んでいた。

そして、その前日じいちゃんは亡くなっていた。

 

その日、私はじいちゃんに呼ばれたように思えた。

春を待って山に帰ったであろうじいちゃんに、「お~帰ったぞ。遊びに来いよ。」とでも言うように、私は確かにじいちゃんに呼ばれた気がしたのだ。

そして10年たった今日。

偶然に池さんの皆が湯浪に出かけたのも、おそらくじいちゃんに呼ばれたのだろう。

本当なら、木曜日の命日の日に出かける予定だったドライブ。

皆を湯浪に誘ってくれたじいちゃん。

 

私はいつも、疲れた時、悩んだ時、悲しい時、湯浪にじいちゃんに会いに出かけた。

じいちゃんはいつも、池さんのことを心配してくれた。

沢山を語らなかったけれど、雄弁ではなかったけれど、じいちゃんはいつも「がんばれよ」と励ましてくれ、私はいつもその飾らない言葉に、心を癒された。

10年目の春の日。

じいちゃんが呼んでくれた人たち。

大切に想う人たち。

じいちゃんのことを話しながら、山の水で入れたコーヒーを大切な人たちと一緒に飲む。

帰ってきた人たちの、満たされた笑顔に穏やかな時間を感じながら、大ちゃんと池さんの昔を振り返り、新しい職員にいろんな話を伝えてゆく。

大切にしてきたいろいろなものを伝えてゆく。

穏やかで幸せな時間。

食後のひと時の暖かな時間。

「池さんものがたり」の本を開き、

再び、ページの中に、じいちゃんの姿を見つけて、

じいちゃんのことを話しながら、

池さんの歩いてきた日々と大切にしてきたものを、

伝えるべき人がいることを改めて幸せに想う。

 

じいちゃん。

もう10年たちました。

あいかわらずまだまだ悩むことばかりで、ちっとも器は大きくなってないけれど、

皆で笑って生きてますよ。

じいちゃんの話を聞いてくれる人がいるのは幸せです。

じいちゃんは、今も池さんものがたりの中で、ちゃんと生きてますから。

 

皆様も、ぜひもう一度、本を開いてみてください。

湯浪のじいちゃんに会えますから。

おすすめのページは、P84 P156 P157 P258 P299

 

14日の木曜日。

私たちは湯浪の水でご飯を炊いて、皆で一緒に食べたいと思う。

じいちゃんと出会えたことを懐かしみ、

じいちゃんから繋がった人たちを想いながら、

じいちゃんが教えてくれたことを思い出しながら、

美味しいご飯を食べたいと思う。

 

 

 

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よむ

2022-04-06 23:16:18 | デイサービス池さん

気がつけば、いつの間にか4月。

皆様、ご無沙汰しております。

池さん、桜のお花見に超多忙な毎日を過ごしております。

大頭の桜並木も満開です。

近所のお寺の桜の古木も満開で、大頭の池さんの桜とお寺の桜のコラボの景色は、感動ものです。

学校前の池さんの庭の桜も満開です。

ハラハラと散り始めた桜の木の下で、今年も静かにおでんを頂きました。

いつもと同じ昼ご飯も、桜の木の下で食べると、特別感満載です。

大根をたらふく食べ、おにぎりをパクつき、お饅頭まで平らげて、今年も小さいけど良いお花見ができたと皆で笑い合いました。

平凡でのどかな時間を過ごせる幸せをかみしめながら、

今年も春の日を皆と一緒に生きることができたことに感謝です。

心から、この地方で生きてゆけることを感謝です。

平和な時間に感謝です。

 

本日4月6日。

開いた新聞の最初のぺージにあった「今日は新聞をヨム日」(4月6日)

確かに。

4月6日だから、

ヨム。

新聞を。

で、考えた。

「よむ」のは見るという意味で使う新聞や本だけじゃなくて、いろんな使い方をしてるなと考えた。

例えば「世相をよむ」とか、「政治をよむ」とかみたいに考える的に使う場合もあると気づいたわけ。

「空気をよむ」とか。

池さんでいつも使うのは、「人の気持ちをよむ」とか、「心をよむ」という言葉で、この場合想像するとか

想い測るとかいう意味合いを持っているように思う。

介護で必要なことは、きっとこの「よむ」だろうなと。

人の気持ちを読めないと、その人が何を必要としているのか、今何を想っているのだろうと考えないと、自己中心的で、ありきたりで画一的な、マニュアル通りの向き合い方しかできないだろうなとかいろいろと考えてしまう。

誰かの気持ちを想像してみる的な意味をイメージしていたのだけど、気になり始めて確かめるためによく見えない老眼の目を見開いて漢和辞典を開いてみたら、声を立てて文をよむ、文の語句をたどりながら意味をくみ取る、数を数える、納得する、合点する、物事がわかると書いてあった。(こういう時はスマホじゃなくて辞書が一番)

ちょっと感覚的に違う気がする。

「合点するのでも、納得するのでもなく、物事がわかるの」でもなくて、

所詮わかるはずはないかもしれないけれど、

自分じゃないし、他人だし。

でも「ちょっとでもその人の気持ちをわかろうと、その人の気持ちを想像してみること」

そのことが大切なような気がするのだけど。

それが人のこころをよむことじゃないだろうか。

やっぱり、想像して考えるとかじゃないかな。

どうなのかな。

わからんな。

と、新聞の4月6日のヨムから広がったグルグル回る思考回路。

グルグル回り続けて、今日も遅い時間になりました。

久々に自分のブログのぺージを開こうと思ったら、前回から時間が経ちすぎたのか、またまたパスワードを入力してくださいのメッセージ。

そんなの覚えとるわけないだろう!

私の気持ちを読んでよ!

とブツブツぼやきながらの久々の更新です。

今日もなんだかまとまらないままだけれど、

それでも、この穏やかな地域で生きて行けることを大切にして、

また明日も穏やかな一日が過ごせるように。

 

同じ時間の中にあって、苦しみの中にある人々に、どうか安らかな時間が訪れるようにと、今宵も願うことしかできません。

春の宵は、静かです。

桜の花びらが散る音が聞こえるほどに、

ただただ静かです。

 

 

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