池さんで働くおばさんの日記

デイサービス「池さん」の大ちゃんママのブログです。

更なるつぶやき

2017-07-29 23:59:06 | デイサービス池さん

「ちょっと日に焼けたんじゃない?」とスタッフがばあさんに聞いた。

「ほ~よ!毎日草を引きよるけん!」

「毎日?」

「毎朝やりよる!うちの嫁は手が遅いけん、私が引いた方がよっぽど早い!」

と朝一番で言う98歳のばあさん。

いえいえ、引いてませんから。

あなた一人で歩けませんから。

98のお年で毎朝草が引けたら、そもそもデイになんか来んでかまんからね~~~!

 

昼食の時、奮発してメロン(もちろん頂き物)を冷やして出したら、いつもフルーツなど食べないじいさんが、ぺろりと食べた。

「じいちゃん、美味しかった?」

「このスイカは美味しかった!」

「ちょっと青かった?」

「青いけど、美味しかったよ!」

いえいえ、それはメロンですから。

青いのはスイカじゃなくてメロンだから!

奮発したメロンが、青いスイカになったなんて~~~!

 

スタッフは、この状況を4次元を生きる人たちと表現した。

まさに、その通り。

そしてその状況を笑い飛ばせるスタッフを、いいスタッフたちだなと幸せな気持ちに満たされる。

ボケてもいい、4次元を生きてもいいのだと、じいさんやばあさんが毎日教えてくれている。

腹が立つ時もある。

もう嫌いだと思う時も。

でもほんの少し面白いことがあったり、いつもお礼など言ったことがない人がありがとうと言ってくれたり、ちょっとだけ素敵な笑顔を見せてくれたり、年をとってどうにもならんと泣く様子を目の当たりにした時、

そんな時、

心が動かされるような気がして、自然に優しくしている自分に気がついた時、

それでいいのだという気がして、

やっぱりこっちも人間だもんな~と言い訳しながら、

また向かい合っていきたいと元気が出たり、

でもまたおんなじこと言うばあさんに腹を立てたり・・・の繰り返し。

好きだったり嫌いになったり、腹が立ったり愛おしかったり、複雑な心を持ちながら、でも最後は絶対に見捨てたりせんよと思いながら、

私たちは今日も、おバカに生きております。

 

 

 

 

 

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つぶやき

2017-07-27 23:54:39 | デイサービス池さん

10分おきにトイレに通うばあさんのつぶやき

「あ~もう、朝からトイレに行っとらんのに・・・」(いえいえあなた、今トイレから帰ったところですから・・・)

 

夏でも腹巻を欠かさないじいさんのつぶやき

「今日は寒いの~。寒いけん、首に巻くもんとってくれ!」(いえいえあなた、30度超えてますから・・・)

 

手伝おうかと言いながら寝たふりするばあさんのつぶやき

「ちょっと・・・手が痛くなってきた・・・」(いえいえあなた、いつもその作戦なのわかってますから・・・)

 

風呂嫌いのばあさんのつぶやき

「昨日入ったところじゃから、今日は入らん!」(いえいえあなた、家で風呂は入れませんから・・・)

 

スイカの好きなばあさんのつぶやき

「これは初物じゃ」(いえいえあなた、毎日そういって食べてますよ。あなた・・・)

 

とまあ数えきれないほどの楽しい会話と、毎日出会うことができる私は幸せなのだと思ったり。

年寄り相手に、怒ったり笑ったり呆れたり・・・毎日充実しております。

ボケたばあさんたちの思いもかけない本気のジョークに、ついついこちらも本気になってしまう場面に遭遇すると、まああまり変わったもんじゃないなと、そのうち私もこうしてあれこれ言い出すのだろうと、ちょっと楽しみな気分になっている今日この頃です。

さてさて、7月もあっという間でした。

もうすぐ福岡から孫がやってきます。

楽しみな時間ももうすぐです。

 

 

 

 

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送迎の時に

2017-07-24 23:26:18 | デイサービス池さん

毎日の送迎の時、いろんな風景に出会う。

季節の移ろいや空気の変化や、風の匂いや田畑の変化や・・・。

嬉しい気持ちになることもあり、悲しく寂しい気分に陥ることもある。

毎日通る道に、暮らしていた人の気配がなくなった廃墟となった家がある。

周囲には新しい家も建ち、若い家族がにぎやかに暮らしているというのに、崩れ落ちそうな古くて小さな家がある。

かつて、その家に住んでいた人を私は知っている。

その人は元気な頃、染物屋を営んでいた。

私はある団体の古びた「旗」を新調するために、彼女の家を訪れた。

夫婦でこじんまりと営んでいたその染物屋で、彼女はちゃきちゃきと立ち働いていた。静かに穏やかに注文を受け、てきぱきと注文をさばいていた。

夫が亡くなり、彼女は独りぼっちになってしまう。

環境の変化が彼女の心を痛めつけていく。

彼女は心を閉ざし、認知症を発症することでかろうじて自己のプライドを保っていたように今思う。

息子さんとの折り合いも悪く、虐待を発見されて町内の施設に保護された。

訪れる人もなく、次第に言葉も失い、衣食住は確保されたものの彼女は次第に本能の人になっていった。

デイを利用しながら彼女は安定した日常生活をしばらく施設で送っていたものの、状態が変化することに対応できなかった周囲への抵抗を、彼女はよりシンプルに表現するようになった。

てんかん治療のため病院へと移送された彼女。

その後彼女がどうなったのか、私は知らない。


彼女がかつて住んでいた家の壁は崩れ落ち、瓦も剥がれ、草がその周囲を覆っている。

その家で息子さんを育て、家業を営んでいただろうかつての晴れやかな日々に心を寄せる時、私は時間の流れの速さと厳しさを思い知る。

住む人のいない廃墟に近い家がこの地域には多くあるが、どの家にもいろいろな物語が存在し、いろんな家族が暮らしていただのだろうと思うと、心がざわめいてしまう。

彼女のように自分の気持ちを伝えるすべもなく、誰にも気に留められることもなく、ひっそりと生きていかなければならない人がいると思うと、運命の残酷さに心が揺らいでしまう。

全ての人が穏やかに幸せに人生を生きることができるとは思ってはいないけれど、

家族に囲まれ幸せに人生を終えることができる人とそうでない人と、その分岐点はどこにあるのだろう。

私にはわからない。

誰もが願う幸せはほんの小さな願いであるはずなのに、決して贅沢な願いではないはずなのに。

有り余る欲の中で贅沢に生きる人もいて、ただ穏やかに人間らしく生きることさえできない人もいる不条理さ。


いつも通る道にある彼女の家を見るたびに、壊れかけた家を見るたびに、

私の心は重くなってしまうのだ。

自分を想ってくれる人が誰一人いない世界で生きることの苦しみと寂しさを思うと、

どうしようもなく、悲しくなってしまう。


そんなことを考えていると、

だからこそ、ここで過ごす時間に、

たったひと時でも後悔のないように、

考えてゆかなければならないのだと思ったりする。

 

 

 

 

 

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メッセージを受け取ること

2017-07-19 23:40:29 | デイサービス池さん

さてさておかげさまで、本日このブログを持ちまして「デイサービス池さん」のカテゴリーの投稿数が1,000回となりました。

ちなみに、ブログ開設から今日で4431日めとなります。

皆様、いつも池さんのおばさんのブログを訪問して下さって、どうもありがとうございます。

つたない文章やささやかな池さんの出来事を楽しみにしてくださっていること、心から嬉しく思います。

日々の記録として始めたブログでしたが、悩んだ日々の中から池さんを作り、育て、こうして12年も物語を綴ってこれたことを幸せに思っています。

ここに集う人たちの心や想いや願いを書き記す作業と、私自身の心のありかをもう一度確かめるために書き記す作業。

大半はお泊りの時間を使って書き込んでいて、ちょっとだけ自分自身に負荷をかけてこの作業を行っている私です。

その時にはいろんなことを考えたり思ったりしていても、時間が経つと、記憶の中でゆがんだり無意識に歪曲したりするものなので、その時その時の正直な気持ちをこうして書き留めておくことは、きっといいことなのでしょうね。

というわけで、これからもできるだけ続けていきたいと思っています。これからもよろしくお願いしますね。

 

さて昨日、私が大きな影響を受けた大好きな日野原氏が亡くなりました。

医療は命を救うためのものであるという概念に縛られず、いきいきと生きる医療を目指して緩和医療や終末期医療にも力を注いで来られた方。

この池さんものがたりでもご紹介したけれど、日野原氏が98歳の時に書いた著書の中にあった言葉、「一瞬一瞬を生き切る覚悟」が今も私の心に残っています。

人は母の胎内から生れ出た瞬間に肺の中の水を吐き出し、最後の息を吸って、それを吐くことなく死んでいきます。吐いて始まり、吸って終わるとは、まるで生と死が一つの輪でつながっていることをあらわしているかのようです。死は決して単なる終わりではないとはっきり思えてくるのです。
存分に生きた人は、生まれたことへの感謝で人生を締めくくることもできます。残される者たちは、その時大きな贈り物を手にします。その贈り物とは人との出会いの喜びと、今こうして生きているということの喜びを、以前にもまして深く感じ取れるようになったことへの気づきです。
「生まれてきてよかった」と心を込めて言えるように、私は生きている限り、この一瞬一瞬を存分に味わうことに力を出し惜しみしない覚悟でいます。

もちろんお会いしたことはないけれど、105歳という高齢を信念の通りに最後までエネルギッシュに生き続け、医療現場に立ち続け、そして多くの人を穏やかな時間に導き続けた日野原氏の生きざまは、まさにその言葉の通り素晴らしいものだったと想像します。

最期に近づいた時、延命のための治療を自らはっきりと拒否したその信念の大きさと潔さに感銘を受けます。

日野原氏がその生きざまをもって、私たちに指示してくれる「光」は、紛れもなく私たちを導いてくれる光に違いないと確信します。

私たちも、ここで逝った人たちから「沢山のこと」を学んできました。

学んだ「沢山のこと」は、確かに私たちに多くの気づきをもたらしてくれました。

そして「その気づき」は、それから先の私たちの人生に、大きな恵みを与えてくれました。

悩んだ時の心の拠り所であったり、迷った時の指針であったり、決断する時の基準となったりしてきました。

後に残された者にとって、死は決して終わりではないということを経験し続けてきました。

死にゆく人からのメッセージを心の中にきちんと留めて、深く感じ取り、自分自身の生きる糧にすることこそが大切なことではないかと改めて思います。

日野原氏の生き方を真似することなどできないけれど、日野原氏が伝えてくれたことや、私たちの知っているみよちゃんやじいちゃんやヨッシーやヒイちゃんが教えてくれたことを、「贈り物」として心に刻む生き方をしていきたいと、今強く思うのです。

「池さん」が生き方そのものだとしたら、「池さんで生きる人たち」もまた、そんな「生き方を想うことができる人たち」でありたいものだと。

一瞬一瞬を大切に想い、人を慈しみ、感謝の気持ちを持つ生き方を探すことができる私たちでありたいものだと。

死へと向かう人たちからのメッセージを、謙虚に受けとることができる人でありたいと。

最期の時に「生まれてきてよかった」と心から言えるように、そう思って逝けるように、これからの人生を存分に味わっていけるよう力を尽くしていきたいと、

1000回目のブログに書き記しておきたいと思います。

・・・でないと、いいこと考えても思いついても、すぐに忘れてしまうのでね。

さてさて、今夜もスリルいっぱいです。

レム睡眠で「明日でええ~~~!」と延々叫び続けているおばあさんにシビレを切らして、「何が明日?」と聞くと「お金!!!」と言われて、「明日くれるん?」と聞くと、「お前が払うんじゃ!」と逆切れされた上に、「警察呼ぶぞ!」と脅されても、私はめげたりせずに「呼べるもんなら呼んでみろ」と喧嘩しながら楽しい時間を過ごしたいと・・・リンちゃんた・す・け・て~~~♡

 

 

 

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思い込みと決めつけ

2017-07-17 23:55:53 | デイサービス池さん

愛媛新聞に作家の重松清さんのコーナーがあって毎週楽しみにしているのだけど、今週は「セミの一生」というエッセーでした。「セミの一生」の副題は、「暑い地上は幸せなのか」というもので、これが結構ワタクシ的にはまってしまいぜひご紹介したいと思います。


・・・小学校3年生の時に聞いたセミの一生について。担任の先生が話してくれた「セミは何年も暗い土の中で暮らして、やっと地上に出てきたのに、ほんの短い1週間ほどで死んでしまいます。だからセミは、短い幸せな時間に一生懸命鳴いている」という説明に、少年はどうしても納得がいかず、隣の席の友人に小声で話しかけた。

「土の中よりも地上の方が幸せって、なんでわかるんだ?セミにとっては暑い真夏に外へ出されるほうが嫌かもしれないだろ」

もしかしたら、セミにとって地上で過ごす数日間は、一生のうちで最後に待ち受ける艱難辛苦なのかもしれない。おなじみの「ミーン、ミーン」もじつは翻訳すると「あー、暑い、嫌だ嫌だ、涼しい土の中の方がよかったなあ」なのかも・・・なんてことをしゃべっていると、先生に「屁理屈言わないの!」と叱られてしまった。
地上のほうが土の中よりも幸せだと決めつけることに「ホントにそうなのか?」と首をかしげた幼い反発心は、おとなの自分を支える根っこになっているはずだから。・・・


実はちょっと前から、ワタクシもセミの鳴くのを聞いて同じことを考えていたわけでありまして。

10年近くも生きた土の中という安全な場所から、子どもに網で捕られたりや他の生き物に食べられるかもしれない危険な地上に出てくる理由はただ一つ。

子孫を残すため。

だとしたら命がけで短い時間を生きているのだと、セミは子孫を残すためにその命を生き必死に鳴いていると思うと愛しいような気になってしまいます。

地上に出てくることは、確かに一生の最後に待ち受ける艱難辛苦に違いないと。

子孫を残すために命を懸けて地上に出てくるセミにとっては、固い土に守られた10年間の方が幸せかもしれないと思っていたワタクシは、このエッセーにそうそうと頷いてしまった次第。

土の中と地上の世界と、どちらが幸せかなど、所詮セミにしかわからないことで、それはセミに聞いたところで答えてくれたりしないのだから、きっとこうだという思い込みも決めつけも自分勝手なことでしかないわけだし、重松少年の反発心はきっと本当は大切な視点を示しているのだと・・・そんな屁理屈たっぷりの話。

重松さん、同じように考えていた人がいてうれしゅうございます・・・が、重松さんは3年生の時の話でワタクシ還暦前の話で・・・お恥ずかしゅうございます。

もうちょっと続きを考えてみると、暑すぎる夏の到来に、きっとセミたちも「こんなはずではなかった」と後悔しているのではないだろうか、地上に出ることに少しだけでも希望をもっていたのなら、今のこの地上の状態をつくった人間は、セミに謝らなければならないかもしれないなどと、あ~やらこ~やら考えて、今宵も夜が更けていきます。

でかい声で叫び続けるばあさまと、ウンチが出ずに寝られないじいさまと過ごす夜。

今宵もスリル溢れる時間を過ごせそうで、楽しみな気がするワタクシです。

 

 

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共鳴

2017-07-14 23:53:34 | デイサービス池さん

心が揺れる。

何かに揺り動かされる。

59歳の若年性アルツハイマーに罹患した女性に。

失語、失行あり、失認が明らかな彼女。

視覚失認・聴覚失認など、典型的な症状がみられる。

見えているけど認知できない。

聞こえているけど意味がわからない。

日常生活のあらゆるシーンで、全てに介助が必要な状態の彼女。

でも見た目はどこにでもいる体格のいい元気そうな女性。

笑顔がよく似合うと思ったら、かつて保育園で働いていたことがあるらしい。

 

私は彼女の隣に座る。

2人でお茶を飲みながら、テーブルに並んで座っている。

私が膝に1歳になったばかりの平太を抱いていても、平太がじっとしていたら見えていない。

右隣に座った彼女に、スタッフがキーボードを持ってきて目の前に置いた。

平太がキーを叩くように指で押すけど、彼女は興味を示さない。

自動演奏のスイッチで、彼女が弾ける「トトロ」をスタートさせる。

トトロの曲だと認識できているわけではない。

なのでその時点では無関心。

ただちょっとしてから「?」という顔で、彼女がキーを指でなぞり始める。

私は自動演奏のスイッチを切る。

どこが始まりのキーかを、彼女はちょっと確かめてから、当たり前のようにトトロの曲をいきなり演奏し始めた。

当然だというように。

ごくごく自然に。

堂々と。

 

彼女がトトロを何度か演奏してから、私は彼女の反対側へ平太と一緒に移動した。

しばらくしてから彼女はもう一度、キーを確かめてからキーボードを弾き始めた。

トトロを。

続けて、ちょうちょを。

更に、リズムの違うちょうちょを。

当たり前のように、自然に堂々と。

そしてキーボードを弾きながら、彼女は私の膝の上にいた平太を見て、笑った。

微笑みかけながら、彼女はキーボードを弾く。

かつて保育園の園児たちに微笑みながらピアノを弾いていただろう彼女の姿が瞼に浮かんで、彼女の弾く音楽に私の心は共鳴する。

いつもは目にしたものが見えない彼女。

おとなしくしている平太を認識することがない彼女。

その彼女が、鍵盤を見ることなく音楽を奏で、隣に座る平太を見て微笑む。

視線を時々平太に向けて、微笑みながら曲を弾く彼女。

かつて習慣化していた行為を思い出そうとしたわけではなく、ただ習慣化されていた行為を無意識下で発現させたに過ぎない。

言葉がなくても、音とリズムが心の中に響く。

そう思うと、私の心は余計に共鳴してしまう。

彼女に残された記憶は堂々としていて、紛れもなく保育士としての尊厳を持ち合わせ、驚きと感動を私に教えてくれた。

 

昼食時には、おそらく彼女自身が聞き違えた言葉をうまく表現できず、「ドド~ン?」と聞きなおし、彼女は「その音」の面白さに、はじけるような笑顔を見せてくれた。

その高揚した気持ちを、即座に受け止める。

「ドド~ン!」「ドドド~ン!」「ドド?」「ド!」「ドドド!」「ドドン」・・・

スタッフがドド語を使ってしゃべり、彼女もドド語でしゃべる。

ジェスチャーまで入れて「ドド?」と笑いながらしゃべる彼女に、皆の気持ちも高揚してゆく。

聞こえている言葉を意味のある言葉として認識できない彼女だが、ドド語という意味のない言葉をしゃべることで、彼女の楽しさは十分伝わり、彼女の気持ちが心を揺さぶる。

 

言葉ではない、知識でもない、記憶でもない。

ましてや認知症対応技術でも、介護手法などでもない。

彼女とつながる方法はただ一つ。

「感情」に共感するということなのだと、

心の中の波動に共鳴することなのだと、

そういうことなのだと、

思った一日。

なにより彼女の喜びが、尊厳が、心に刻まれた日。

 

 

 

 

 

 

 

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セミ

2017-07-10 23:18:31 | デイサービス池さん

ツバメの親子は、相変わらず池さんの周囲を飛び回っています。

時折育った巣に近づき何かを確かめるようにしばらく休んだ後、また空へ飛び立っています。

虫を追いかける様子も板につきました。

すごいスピードで風を切るように一点に向かう姿は、惚れ惚れするほど素敵です。

我が家で巣立った子どもだから他のどのツバメより恰好いいと思うのは、紛れもなく親バカに違いないと思ったりする今日この頃です。

飛ぶのが下手ですぐに判別できていた6番目の子も、兄弟たちに紛れてもうどの子かわかりません。

これなら大陸への長旅もきっと大丈夫でしょう。

もうしばらく、ツバメの家族との時間を楽しみたいと思います。

さてツバメに代わって、池さんの庭ではセミが鳴き始めましたよ。

もうすぐ夏がやってきます。

 

7月10日、月曜日です。

休日を挟む月曜日は、どの人にとってもちょっとだけ変化があります。

水分摂ってないなと思う人、寝てばかりいただろうなという人、1人でしゃべることもなく過ごしただろうと思う人、昼と夜がわからんようになっている人、ご飯を食べてないなと思う人・・・

ただ年寄りだけが原因というわけではなく、何が原因というわけでなく・・・

年寄りの姿の向こう側には家族がいて、家族には生活があって、生活には様々な事情があるわけで。

豊かな人もいれば、ぎりぎりの人もいるし、自分のことで精いっぱいで年寄りどころではない人もいるし、年をとっても誰も頼る家族もなく一人で生きていかなければならない人もいるわけで。

いろんな事情を抱えつつそれでもその人なりに生きている姿に、私はいつも心を動かされます。

それは介護の必要な年寄りを抱える家族の姿が決して一律なものではなく、人の数だけ家族の形があるということを改めて感じるからです。

どの家族にも長い歴史があるし、どの家族にもいろんな時があるに違いないと想いながら・・・

何がいいとか何が悪いとかではなく、ただ家族には歴史があるということに想いを馳せながら・・・

 

いろんな年寄りを前にして、いろんな家族がそれぞれいて・・・家族と年寄りと、池さんと。

みんな生きているな~。

いろ~んな人が、みんな頑張って生きているな~と思って感動。

スタッフも、みんなよく頑張ってるな~と思って感動。

 

そして石鎚のお山開きの最終日。

信者たちが上ることで汚れた山を洗い流すといわれる大糞流しはまだなので、梅雨明けはまだ少し先。

その頃には、きっとセミもにぎやかに鳴いていることでしょう。

池さんの庭の木には、昨年もセミの抜け殻がてんこもり。

抜け殻の上に抜け殻が・・・という状態。

きっと今年もセミたちの合唱が聞こえてくるでしょう。

初蝉や
夏に向かえと鳴く声に
励まされつつ明日を生きる

明日も頑張っていきまっしょ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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年寄りの寝言うわごと

2017-07-05 23:10:58 | デイサービス池さん

台風一過。

あちこちで大きな被害。

九州では洪水のニュース、ありえないほどの水量の映像に今夜も心が痛みます。

いつからこんなに自然災害が増えてきたのでしょう。

梅雨も台風も、真夏の暑さも、度を越しています。

想像もできないくらいの予測などできないレベルの災害が、当たり前のように目に飛び込んできます。

どんなに大きな台風が来たとしても豪雨であったとしても、仕事を休めない家族にとってはデイサービスはありがたいしろもの。

連れ出してもらえれば、家族は仕事に向かうことができるのです。

台風の季節には、どの時点でどう判断するのかが結構大変な感じ。

みんなでニュースやお天気の情報を確認しながら、それでもみんなが笑って一日を過ごしています。

更に台風の通過する頃は気圧や気温の変化も大きくて、外界からの影響を受けやすい年寄りにとっても不安定な時。

っていうか、年寄りを介護している家族の方が結構大変なのに、当の年寄りたちは勝手気ままに「せん妄状態」

わからん話に家族はこんがらがってしまって、ばあちゃんはボケてしまったとあたふたとしたり、病院へ連れて行こうとしたり。

誰それが亡くなったから連絡しろだとか、正月だからみんなにお年玉をやらんといかんだの、田植えがまだだから行かんとか。

もちろん、池さんの中もせん妄状態満載。

1人が変になるとどういうわけか結構伝染してしまい、あっちでもこっちでも面白話がてんこ盛り。

ちょっと面白かったり、ちょっとめんどくさかったり、だんだんそのうちうるさくなったりしながら、お天気の変化が大きなこの季節を、せん妄ばあちゃんたちとともに過ごしたいものだと思っていますが。

意識障害というよりは寝ぼけの部類に近いばあちゃんたちの話は、真面目にとらえずに、へ~と思いながら聞くと結構楽しめたりするのです。

ばあちゃんとまともに正面からぶつかろうとする家族と、言い聞かせようとすればするほど頑固になる年寄り。

ちょっとゆとりをもって離れて見てみるといいのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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7月1日

2017-07-01 23:09:06 | デイサービス池さん

本日7月1日は、石鎚山のお山開きの日。

ご神体を背負った信者たちが、お山へと登っていきます。

山という自然の尊い働きと恵みによって私たちの衣・食・住が支えられている、山は空気を作り、生きる命を支える水を作る、いにしえの時から脈々と続いてきた山の働きに感謝の祈りをささげるという大切な日です。

緑溢れる霊気に命がよみがえる日、美しく身を清めて生まれ変わる「命の更新の時」と悟る日。

古くからこの国の人は万物に神が宿ると信じ、あらゆるものに感謝して祈り続けてきました。

自然の中で生かされている命に感謝し、手を合わせて祈り続けてきたのです。

池さんのばあちゃんたちも、山へと向かうご神体を前に祈ります。

感謝の祈りをささげるのです。

かつてヒイちゃんも祈りました。

ヒイちゃんの子守歌で育った民江さんが、今年はヒイちゃんの代わりに大頭で祈ります。

石鎚の山に守られているこの土地の人々にとって、7月1日という一日は特別な意味を持つ日なのです。

 

そして池さんにとって7月1日は、やはり大きな日。

大頭の宅老所が開所した日です。

井上夫婦が暮らすためにつくった大頭の家も、もう8年めです。

今ではその宅老所は「大頭の池さん」として、ゆっくりした時間の流れる通所施設に使っていますが、やはり私たちにとってこの場所は大きな転機を与えてくれた大切な場所なのです。

介護保険に縛られない自由な空間、井上夫婦が家と同じように過ごせる場所として考え抜いて育ててきた場所。

今でも様々なシーンが、はっきりと脳裏に焼き付いています。

2人が話した言葉が、耳に焼き付いています。

見送った時の心の震えが、よみがえってきます。

じいちゃんらしく、みよちゃんらしく、大切な命を2人があるがままに生き切った大切な家。

その家ができた日。

だから7月1日は、ずっとこれからも大切にしてゆきたい大切な日なのです。

 

そして今年の7月1日はもう一つ。

池さん再生・再出発の一日となりました。

11年間、ずっと腐心し続けてきた出来事から離れ新しい旅立ちを迎えた日。

土曜日だったので部屋を整え、夏に向けての準備をしました。

新品のタオルを洗い、扇風機やエアコンをつけ、ゴミも片付け、(お休みだったスタッフが来てくれて)花を植えました。

きっと新しい風が、心地よい風が吹きこんでくることでしょう。

本店も本日は窓を開け放し、梅雨の晴れ間というには蒸し暑いほどの風を通しました。

まだまだ雨続きの後のじめじめした空気ではあるけれど、それでも窓は来る人のために、いつも開けておきたいと思っています。(もう少ししたら、窓は開けずにエアコン効かして冷やしておきますけどね。)

池さんに良い風が吹きますようにという祈りを込めた、これまた大切な一日。

 

大頭の夜。

オレンジ色に輝く雲に囲まれた上弦の月が奇麗です。

7月1日のいろいろな意味を優しく包み込んで、輝く星たちと共に美しく夜空を飾っています。

夜になってやっと気温が下がり始め、今は気持ちの良い風が大頭にも吹いています。

池さんに吹く風がこれからも滞ることのないよう、しっかり歩んでゆきたいと思っています。

ありがたいことに、私の中で記念すべき7月1日にお泊り当番です。

「頑張って」とみよちゃんたちが背中を押してくれているような、あるいは「今日はゆっくり大頭で考えなさい」と言うことなのかも・・・だからきっとお泊りなのだと勝手に思っています。

幸いなことに、持ってきた山のような書類はネット環境が悪いせいで、さっぱりはかどりません。

ブログにはアクセスできるのに、仕事の方はページの表示ができない・・・ということは、仕事をやめて考えろというサインかも・・・と勝手に言い訳しているメンタル弱い還暦目前のワタクシです。

 

どうでもいいおまけの話

先日松山へ行くことがあって、いつも怠けているお化粧などをしようと思い、久しぶりにマスカラでもと考えてビューラーで「まつげ」を挟もうとしたら、まつげではなく年齢と共にたるんできた「上瞼」を思いっきりビューラーで挟んでしまい、まあ痛かったこと!

目から火が出るとはこのことかと思うほどの痛みに、お化粧もそこそこに田舎者丸出しで華やかな会に出る羽目に。

そして悟ったことは、年を取ったらビューラーはやめたほうがいい、ということ。

上瞼のリフトアップやしわ取りをしてからでないと、危険が大きいという結論に達した次第。

まあ、そんなに今更取り繕っても仕方がないと、心底思ったわけで。

なのでそれ以来、お化粧もほとんどしなくなりました。

してもしなくても、たいして変わらんと。

そんなこんなどうでもいい話。

 

気温の変化に、どうか皆様くれぐれもお気をつけてお過ごしくださいませね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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