1ヵ月に及ぶ愛媛での滞在を終えて、孫のひよりちゃんが今日福岡へ帰りました。
海・川・プール・プラネタリュウム・バーベキュー・花火・夏祭り・虫取り・泥遊び・そして何より池さんという場の複雑さ・・・ここで初めて経験したいろんなことを宝物にして、心の豊かな子に育ってほしいと願っています。
お世話になった皆様、本当にありがとうございました。
さて、今日はカマキリのお話です。
「カマキリのカマ子」
夏の初めに庭で見つけたカマキリを、私たちはカマ子と名付けて飼っていました。
その頃、クサガメの亀吉を拾ったばかりで、池さんでは小動物を飼うのがちょっとしたブームになっていました。
亀吉・カマ子・でん子にカブトムシやメダカ・オタマジャクシ、いろんな生き物を飼っていました。
カマ子は大きなカマキリでした。
小さなカマキリを同じケースに入れたら、あっという間にカマ子に食べられてしまうほど、元気で強いカマキリでした。
食べ物はクモやハエなど。いつも私たちは虫取り網を持って、カマ子のえさ取りをし、生きた餌しか食べないカマ子は、大きなクモもあっというまに平らげてしまいました。
しばらくしてカマ子は脱皮してもっと大きなカマキリに変身し、身体の色はケースの土の色に合わせて茶色になりました。
その後カマ子は2回目の脱皮をし元気に暮らしていましたが、水曜日の朝、3回目の脱皮に失敗して手と足に皮を巻き付けて横たわったカマ子を私たちは見つけたのです。
手も足も曲がったままです。羽と首も変形して動かなくなってしまいました。皮を脱ぎ切れずに、このまま命を落とすかのようでした。
でもカマ子は生きていました。
その日、一日かかってカマ子は暴れながら一生懸命手や足に絡みついている皮を食べ続けて、夕方脱いだ皮を全部食べてしまった時には、カマ子の命は尽きる寸前でした。
水を与えてみました。
ティッシュを水で湿らしてカマ子の口に運ぶと、カマ子が水を飲んだのです。急いでクモを採ってきて与えると、一生懸命食べ始めました。
カマ子は手も足も羽も首も頭の触覚も全てが変形してしまっていましたが、辛うじて口の両側にある小さな触覚のような器官だけが動きましたので、口の前に餌を持って行くと食べることができたのです。
おそらく目も見えていないのでしょう。身体を起こすこともできず、まったく自分では餌を口に運ぶ動作ができませんでしたので、私たちは餌をとってはカマ子の口に運ぶことを繰り返しました。
それから5日。
カマ子は、奇跡的に生きています。
生きた餌しか食べなかったカマ子が、お箸で挟んだクモを食べています。
チョウチョやトンボも捕りました。今日はバッタも与えました。そして、赤い口を出して水をぺろぺろ舐めるのです。
自然の状態では決して生きることはできないでしょうが、人の手が入ることで生きながらえることができています。
いつまで生きれるわからないけど、私たちは餌を捕り続けています。
私は、なんとも言えない想いにとらわれています。
この想いが何なのかはっきりとわかりませんが、でも心を大きく揺さぶられるような想いです。心の奥底を揺さぶるような、心の深い所に響くような、そんな想いに囚われています。
ただの虫です。しかもカマキリ。おそらく心を通わすことなどできないでしょうが、でもカマ子は手から水を飲むのです。生きるために。
私はクモは嫌いですし、チョウチョもトンボも殺したくはありません。でもカマ子が食べるから捕るわけです。
飼っているカマキリだから大事とか、気持ち悪いクモだから食べられていいとか、綺麗なチョウチョだから殺すのはかわいそうと思う、そんな考えの全てが自分勝手な一方的な考えでしかないのだと感じています。
どんな生き物も、生きてゆくためには、常に命を食さなければならないのだと、今更ながら感じています。
穀物も野菜も魚も牛や豚や鳥も、そのすべてに命があります。
肉はいやとか魚はかわいそうとか、野菜ならいいとか大豆ならいいとかそういうことではなく、生きているもの全てが、なにがしら他の命を採りこまなければ生きてゆけない存在なのだということです。
稲も野菜も本来は、誰かに食べられるために種の子孫を残すわけではないのですから。
ただ、自分自身もそういう存在であるということを意識することが大切なことなのでしょう。
カマ子を目の前にして、ものすごく大きな命題を突きつけられた感じです。
カマキリが好きなわけではなく、クモやバッタを憎いわけでもなく、チョウチョを殺すのが好きなわけでもないけれど、こうして生きてゆくしかない命が目の前にあったとしたら、やっぱり一生懸命クモを捕まえるしかないのかもしれないと。
親鸞の言った「罪業深重の凡夫」。罪深い存在としての自分の心の闇を正面から見据えること。自分の心の闇から逃げずに自分を見つめること。
生きているもの全てが抱える大きな命題のような気がします。
心の闇から解放されるために、はっきりと見つめることが必要な命題。
カマ子は、ただの虫だけど、なんだか宇宙の存在を感じる存在です。なんだか哲学的な気がします。
カマ子は決して「生きたい」と考えて、頑張って食べているわけではなく、「ただ生きている」のです。
カマ子を見て、一人のばあちゃんが言いました。「生きんがために食べよる」と。カマ子は決して「もっと生きたいと考えて頑張って」食べているわけではなく、「ただ生きる」ために食べているのでしょう。
「生きる」ということが、どういうことなのか。
「ただ生きること」を手助けするということが、どういうことなのか・・・。
池さんのカマキリ「カマ子のお話」でした。