池さんで働くおばさんの日記

デイサービス「池さん」の大ちゃんママのブログです。

彼岸花とヒイちゃん

2018-09-22 21:34:27 | デイサービス池さん

都会に住む方々、彼岸花の咲いた道を見たことがありますか?

ここらあたりでは、曼殊沙華(彼岸花)は、田んぼのあぜ道に咲いているのがほとんどです。

実りの時期を前にした田んぼのあぜ道に、まるで真っ赤な道ができたように彼岸花が続いていて、遠目には赤い線で囲まれた黄色の田んぼ、そんな風景がここらあたりのお彼岸頃の景色です。

今朝も大頭からの移動の車の中で、じいちゃんが笑っていました。

「ようけ、咲いとるの~、綺麗なねぇ!」

 

先日の愛媛新聞の地軸に彼岸花のことが書いてありました。(本文一部そのまま)

「・・・花を大切に野に置くのは、球根がかつて飢饉に備える食料だったからだとも言われる。毒を取り去るために煮つぶし、何日も水にさらしてでんぷんを採り、餅や団子にした。コメのとれない四国山地の集落では、昭和に入っても常食。戦時中にはひもじさを埋める非常食に。元をたどれば縄文時代、中国大陸から伝わった。中国の曼殊沙華には種で繁殖する種類もあるが、種をつけず、球根にたっぷり栄養をためられる種類だけが、日本に持ち込まれたとか。種が飛ばないため、広めるには植えた球根を手から手へ、村から村へ分けて植えるしかない。当たり前のように見つめてきた秋の景色も、遠い祖先がそうやって手間をかけ、丁寧に育てたものかもしれないと思うと、いっそう愛おしい。花は悠久の時を経て、人々の暮らしを見守ってきた。仏教で、めでたい兆しとして天から降ると伝えられる曼殊沙華。いま、季節の彩を楽しめる幸せをかみしめている。」

 

この記事を見て、ヒイちゃんのことを思い出しました。ヒイちゃんを池さんで看てほしいと息子さんから言われた時、息子さんが言った言葉を思い出しました。

「手術後に安定させるために使う薬や、その後のことを考えると、私たちは池さんでの暮らしを優先したい。この人は彼岸花の根を食べて生きてきたような強い人です。年に不足はありません。いつどうなろうと覚悟はできています。」

その言葉を聞いた時、私たちはヒイちゃんを最後まで看る覚悟を決めたわけだけど、でもあとで考えて、毒を持つ花の球根をどうやって食べていたのだろうと思った記憶があって、この記事を見て「なるほど」と納得。

そして・・・四国山地の集落で昭和の時代に常食していたというのは、まさにヒイちゃんのことじゃあ~りませんか。

なんだかドキドキと、心が湧きたつような気がしながら記事を読みました。

 

ヒイちゃんが近くにいるような気がします。

チクノウの鼻をフガフガさせて、お茶目な顔で、笑っているような気がします。

すぐそこで。

なんだかあったかい気がしてきます。

 

 

 

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ストレスマネジメント

2018-09-19 23:23:55 | デイサービス池さん

ストレスを感じている方へ、ストレスに関する心理学的なちょっとしたお話です。

生理学や医学の領域においては、ストレスは「反応」としてとらえられることが多いのですが、心理学的に言うと「汎適応症候群」と名付けられ、生体を有害刺激にさらすと、副腎皮質の肥大、胸腺、リンパ腺の萎縮、胃・十二指腸潰瘍などという生理的変化が生じることが20世紀中頃にセリエ(Selye,H)によって定義され、そのような状態をさすものとして「ストレス」という言葉が使われ始めました。

それ以降、ストレスに関する生理学的研究が進展し、内分泌系や自律神経系、免疫系などに及ぼす影響について様々なことが明らかにされてきましたが、心理学的には初期の研究ではストレスを「刺激」ととらえて健康との関連について検討を続けてきた歴史があります。

ストレスを単に「刺激」や「反応」ではなく、両者の相互作用ととらえるという形を提唱したのがラザルスという人で、「環境と人間の双方向的な影響過程」が重視されています。

環境と人間とが互いに原因や結果になるという双方向的影響プロセスをトランスアクションと言い、このプロセスが活性化している状態がストレスと考えられていて、慢性的に持続するようになると不適応的でなおかつ安定的な反応が形成され、精神疾患や心身疾患への罹患可能性が高められるというのです。ちなみにこの考え方は人間の内的過程を説明する心理学的モデルとして広く認知されています。

こうしたストレスによる心身への悪影響を緩和し、疾病を予防するための活動を「ストレスマネジメント」と言いますが、その目標は、全てのストレスを取り除くことではなく、ストレスが個人の生活の質を脅かさないように、その強さや期間を適度なレベルにコントロールするための方法を身に着けることで、その方法にはいろいろなものがありますが、現在では自律訓練法や呼吸法など、リラックスするためにいろんな技法が考案されています。

ストレス全てが絶対的に悪いというわけではなく、受け止める側の力に見合った適度なストレスは自己を変化向上させるものにもなりうるわけですが、過度なストレスは心身のバランスを崩してしまうことになりかねないので緩めることが必要だというわけです。

という小難しいことはさておきまして、要するに、ストレスには強いはずだと自分を過信していた私が、大いに反省をしたという話の結末であります。

ストレスマネジメントは行えているはず、私の場合はポジティブ心理学だって知ってるし、ビール飲んでストレス解消しているしと高を括っていたものですから、ストレスにやられてしまった自分をちょっと情けなく思ったりして、そしてまたまたビールが増えるという悲しいスパイラルに陥ってしまった私。所詮人間は弱いものだと思い知らされた今日この頃。

そんなこんな話の落ちで申し訳ございません。

 

あの夏の暑さや豪雨などの例年にない気象状態の中にあっても、彼岸が近づいたら彼岸花が咲きます。お祭りが近づけば、金木犀が咲くでしょう。自然はいつも気負うことなくありのままで、時に荒々しく私たちに襲い掛かってきます。

自然の力を前に、所詮人間の力など小さなものなのだから、自分たちの悩みなど取るに足りないものなのかもしれないと思いつつ、それでも人が人である以上、人は悩みと無縁では生きてゆけないものなのかもしれないと思いつつ。

まったくストレスを感じることなく生きて行ける人などいないだろうとわかっていても、自分の周囲を取り巻く多くの出来事に打ちのめされているうちに、ネガティブな負の感情に支配されてしまう人は多いはず。子どものこと家のこと、両親のこと、体調のこと、お金のこと・・・悩む材料は山のように私たちを取り巻いているのが今の社会ですから。

でも悩んでいる自分自身をちょっと離れた所から客観視できるようになったら、大丈夫なのかもしれません。

大きなストレスに飲み込まれてしまい、とにかく辛いだけだと周囲が見えなくなっている時は、何が本当の問題なのかさえも分からずにただイライラしてしまい、「何もかもイヤ」「もうダメ」みたいな状態に陥ってしまいます。でもそんな自分に気がつくことができたら、大丈夫。自分が何で悩んでいるのかということがはっきり意識できたら大丈夫。原因が見えたら、解決方法もきっと見つかります。

ということがわかっていても、渦の中心にいる時は辛いですよね。出口のないトンネルはないのだから、必ずきっと出口は見つけられると思って、リラックスできる方法をいろいろ試してみるのもいいかもしれません。

などと、悲しいことに、今更自分に言い聞かせてみる今宵。虫の声が響き、秋風が吹く心地よい夜のはずなのに、夏の終わりに飛ぶ蚊を捕まえられず、モクモクとマイ線香を焚いて、せっかくの夜風を自ら遮る情けない自分に気づく大頭の夜。

 

 

 

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会話

2018-09-15 23:59:46 | デイサービス池さん

私とそれほど年の変わらない人に「おばさん」と呼ばれて愕然としたけれど、車のミラーに映る自分の頭の白髪にげっそりしたりする今日この頃。

お天気も定まらず、ここの所いろいろと気がかりなことも多くて疲れが溜まったのか、私は久しぶりに風邪をこじらせてしまいヘロヘロの毎日を過ごしています。

皆さまお変わりございませんか?

さて、ワタクシの体調不良にかかわらず、ばあさま・じいさまたちは相も変わらずわがまま放題、勝手気ままに暮らしております池さんです。

あ~だこ~だとウダウダ言うて、なんだかんだと文句を並べ、結局どこか行きたいという割に、出かけた先で帰りたいと言い始め、パンを買いたいと言いながら魚屋さんで買い物をし、お腹がいっぱいでもう食べれんと言った先から、何も食べてない、ひもじいと辛そうな顔をして、おしっこだらけだろうとニコニコ笑顔で毎日元気にやってくる年寄りたち。

決して一般的に言う「元気」な状態ではないかもしれないけど、確かにある意味「元気」な人たち。徹底的に自由に生きる人たちにエネルギーを吸い取られるような気分に陥ってしまいまして・・・したがって悲しいことに、ワタクシの風邪はいつまでたっても治らない気がしてくるのです。

 

なのでちょっと気分を変えて、「言葉が意味を持つ」ことについて考えてみます。

私たちは言葉によって他者とコミュニケーションを図る生き物です。感情や意思や、身の回りの様々なことを言葉によって他者に伝え、また、自らの考えを言葉によって表現することを当たり前だと思っています。我が家の孫の2歳になる平太も、遅ればせながらやっと少しずつおしゃべりをするようになりましたが、まだ自分の気持ちを言葉では伝えきれないので、時折苛立つように泣き叫ぶことがあります。幼い子どもでさえ、成長するにつれてこうして自然に言葉を獲得し、次第に当たり前に他者とコミュニケーションを図っていくようになるのです。

私たちは「言葉を使った会話によってお互いを理解する」ことを当たり前だと思っています。笑いあったり、言い争ったり、口喧嘩したり、話し合うことで理解しあったりします。それゆえ、私たちは「言葉は意味を持つものであり、当然お互いが理解できるもの」と思いがちです。

でも、こんな感じで過ごす人もいるのです。いつもの会話です。

「ぴちゅぴちゅね~」
「ぴちゅぴちゅよね~」
「でもわさわさしとるね~」「やっぱりわさわさじゃ!」
「ずりずりじゃ!」「ずりずりしたらやっぱり困るね~」
「そうよね~」
「ピカピカがええね」

「スーパーは?」
「あるよ、スーパー」
「あ~よかった、スーパーあったねえ」

「これがこれで、こうね」
「ほんとじゃね」
「こうなっとる」

「あれはクルック~」
「ほんとじゃね」
「クルック~クルック~」

そして食事は、
「これ、こうして」
「これでええ?」
「そうそう、これで」
「がちゃがちゃね」
「こうよね」
「スーパーじゃろ」
「そうそう」
「で、これで」
「これね」
「変なね、ずりずり」
「ほんとじゃね」
「スーパーは」
「あるよ、スーパー」

私たちはこうして、いつも会話をしています。
その人の言葉の意味を想像しながら、その人が知りたいことや聞きたいことに同じ言葉で答えます。
「その人の言葉」で会話をします。
言葉での会話は成立しませんが、「その人の言葉」は存在します。

そして、いつも必ずこう言ってくれるのです。
不思議なことに、この言葉だけは確かに言葉なのです。
「きっちりしてくれてありがとう」と「おとうさん、ありがとう」

その人の中に残っている僅かな言葉の中に、「ありがとう」と「おとうさん」という2つの言葉があることに感動します。

「わからん」と不安を口にすることもあるし、急に怒り出したり黙り込むこともあるけれど、いつもこの2つの言葉を必ず言ってくれる人。だから私たちは、せめてちょっとでも笑顔でいてほしくて、笑顔になってほしくて、私たちは「その人の言葉」で話を続けるのです。

ぴちゅぴちゅ・・・ピカピカ・・・ズリズリ・・・と。

 

 

 

 

 

 

 

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人の器

2018-09-05 22:43:00 | デイサービス池さん

「器の大きさ」を想う時、心によみがえるのはやはりヨッシーのこと。(「いけさんものがたり」参照してください)

笑い声もガハハと豪快だったし、人を想う気持ちも半端ないデカさだった。

職員ではなく利用者の名前を覚えようと自分でノートを作ってきて、「綺麗な洋服を着ている人」とか「いつも笑っている人」とか自分なりの印象を書いてきて一人一人の名前を聞いては書き込み一生懸命覚えようとしていた。そして、時折ノートを開いては名前を確認し、「だれそれさん」と丁寧に名前を呼んだ。

耳が聞こえないことを気にもせず、誰に対しても同じ態度ででっかい声で自分から話しかけた。

足が不自由になった時も自然に車いすへ座り、排泄の介助が必要になった時でさえ自然に自らを受け止め、介助を拒むこともなく、むしろわが身の変化を素直に口にして老いゆく自分を堂々とさらけ出した。

残された時間を楽しみ、老いへの時間を謳歌し、死への道のりをゆるゆると歩き、最後の時が近づくと家族の言葉を借りて医療の介入を拒み、死を前にした時でさえお見舞いの人たちに笑顔でお礼を述べ、自宅の自分のベットで可愛がっていたネコに寄り添われて命を全うした。

こんな風に老い、終わりたいといつも思う。ヨッシーのように生き・死ねたら、おそらくたぶん、自分の人生は良い人生だったと思えるのではないかと。

がしかし「人の器」は望むようにはならないのだろうと、つくづく思ったりする毎日。煩悩だらけの人たちを前に、わがまま放題の人たちを前に、つい腹を立てたりするちっぽけな自分を思い知らされ愕然としてしまう毎日。

もう少し器を大きくせんとな~と自分に言い聞かせてみても、いろんな出来事があるたびに「くそ~」と思う小さな自分を見せつけられわが身の器を思い知る。

煩悩を断ち切ることができない自分自身を「凡夫」と親鸞が呼んだように、人は誰もが傲慢で自己中心的で欲にまみれた存在、小さな器の持ち主なのかもしれないと思ったりする。

社会で誰もが一目置く仕事に携わっていたとしても、年を重ねた自分を認めることができず、気に入らなければ口汚い言葉で怒鳴り散らす人もいる。トイレに行けばわざとおしっこをまき散らし、しかも頻尿なのでその度スタッフは掃除を強いられるが、本人気にもしていない。ズボンが濡れても着替えを拒み、臭う人もいる。3人掛けのソファーに寝転がり、人の気持ちはお構いなし、誰の話も聞こうとせず自分の事しか言わない人もいる。何か言えばやかましいと怒る人もいる。

(補足:池さんって、皆が楽しくてソフトで友好的だとイメージしている人も多いかもしれないけど、結構こういうハードタイプの人もいて、しかも狭い場所だからケアの量は大きいと思う。スタッフが前もって予測して先手を打たないと折り合いがつかなくなることが多い。緊張感は混乱傾向の人には禁物、なのでいつも「緊張感を見せないように緊張している」スタッフたち)

いくら器を大きくしようと思っても、こうした出来事に出会うたび、イライラしたり、どうにもできない自分や対応しきれない自分が腹立たしくなり、自己嫌悪感だけが肥大するという負のスパイラルに陥るのが、スタッフたちが必ず経験する道。

私自身も同じ。腹も立つし胃も痛む。始めは笑っていても、だんだん夕方が近づくにつれ、顔が引きつり手が痒くなる。「自分、器、ちっちゃいな~!」と情けなくなる。

ヨッシーのように「ガハハ」と豪快に笑って、「仕方ありません!まあ、そんなもんでしょ!」と言いたいけれど、それがなかなか難しい時がある。

自分の器は、自分で作るものだと知ってはいるけれど、自分の器を大きくする方法をヨッシーに聞くのを忘れた!

「ヨッシーばあさ~ん!どうすれば、そんなふうにでっかい器の人間になれるんかいな? 教えておくれぇぇぇ~~~~~

 と、あっちの世界にいるヨッシーにすがる自分は、やっぱりちっちゃい人間だな~と反省する夜。

やっぱりヨッシー、自分で考えるわ、と言いたいけれど言えない・・・夜。

 

 

 

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9月になって

2018-09-01 23:27:08 | デイサービス池さん

怒涛の8月が終わりました。

遊びまわる子どもたち、泣きわめく赤ちゃん、階段がよだれだらけになるたまちゃんの笑顔・・・今年もいろんなことがありました。

年寄りたちに振り回され、子どもたちに追い立てられ、仕事に追いまくられ・・・

「あ~しんど」と思いながらも、それでも「夏休みの終わり」にはやっぱり今年も一抹の寂しさを感じます。

夏が終わります。

いろんな人たちの夏が終わります。

水分さえ満足に補給できない環境で過ごす人もいるけれど、それでもなんとか無事に夏が終わりそうでほっとしています。

怪我の絶えない身体でも、毎日笑ってきてくれるじいさまに救われています。

何もわからなくてもただ笑ってきてくれることはとても嬉しいことです。

今年の夏も、エピソードがいっぱいできました。

エピソードはいつも池さんの宝物になります。

宝物のおかげで、私たちはまた、強く大きくなることができるのです。

台風の影響か、少し涼しい風が吹いています。

また、新しい日々がやってきます。

 

 

 

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