池さんで働くおばさんの日記

デイサービス「池さん」の大ちゃんママのブログです。

その人の話

2023-03-10 21:03:56 | デイサービス池さん

まごの手で出会った「その人」の話。

 

60代の男性。

それまでどんな生活を送っていたのか、どんな人生を生きてきたのか、私は全く知らない。

でも、その人を知った時、その人の今の暮らしぶりを知った時、私は大きな衝撃を受けた。

おそらく、現実に、そして、同じ町内のこんなに身近に、こういう暮らしをしている人がいたということに大きな衝撃を受けた。

家から出ることなく、食べ物も満足になく、誰にも会わず、一人でひっそり暮らしている、そんな暮らしを続けている人がいることに、ただただ衝撃を受けた。

 

その人は、孤独に生きる人。

母親と奥さんを失ってから、その人はただ、生きていた。

心を病み、人を避け、ただただ一人で生きていた。

誰とも会わず、外へも出ず、唯一旧友である2人の知り合いだけが、交代でわずかな食事を運び、その人はただ、生きていた。

夏のある日、その人は極度の脱水と栄養失調で倒れ、病院へと運ばれた。

そして再び家に帰ることになった時、なんとかその人を助けたいと思う旧友からの依頼で、まごの手がお弁当を届けることになった。

その人が望んだわけではない。

その人を想う旧友たちの強い希望によって、私たちはお弁当を届けることになったのだ。

旧友以外の人との接触を極度に拒んでいたその人が、お弁当を受け取ってくれるのかどうか分からなかったけれど、玄関を開けてくれるのかどうかさえ分からなかったけれど、私たちはお弁当を届けることを引き受けた。

 

入浴もせず、着替えもせず、ただ静かに一人で生きていたその人は、玄関を開けることを受け入れてくれた。

私たちは毎日2回、お弁当を届けた。

玄関をノックし、声をかけると、しばらくして、その人は玄関のカギを開けてくれる。

「お弁当を持ってきたよ~」と言いながら、お弁当とお茶を手渡す。

その人は無言でお弁当を受け取る。

家で静かに一人で生きていた人は、言葉さえ忘れたかのように思えた。

いつも黙ってお弁当を受け取ると、すぐにカギをカチャッと閉める。

 

玄関を開ける時には、不思議な緊張感がいつも漂っていた。

人と会うことへの緊張感。

社会と交わることへの緊張感。

玄関は、その人にとって、自分が拒んでいる社会とのつながる場所。

だから玄関のカギを開ける時、緊張感が生まれてしまう。

それまでの人生の中で、何があったのかと思う。

どれほどのことがあったのだろう。

何がそこまで、その人を追い詰めたのだろう。

そんなことを考えるほどに、その人は「人」を拒み続けていた。

 

時間が、少しづつ過ぎてゆく。

時間は、ほんの少しづつ、その人の緊張をほぐしてくれた。

最初無表情だった人が、ちょっとゆるんだ表情を見せてくれるようになった時、本当にうれしかった。

初めて「ありがと」と言ってくれた時、涙が出そうだった。

帰る時、ちょっとだけ手を振る仕草をしてくれた時は、思わずガッツポーズで喜んだ。

まごの手の車が発車するまで見送ってくれた時は、車の中から大げさに思えるほどに手を振っていた。

「明日は休み?」と聞いてくれた時は、できることなら休まずにお弁当を届けてあげたいと思った。

でも、どれも、こちら側の気持ち。

その人がどう思っていたのかなど、所詮わかるはずもない。

 

少しずつ、その人との距離は近づいた気がするけれど、と言って、親しんだというほどの距離でもなく、その人は相変わらずその人らしい距離を保ちながら、私たちが届けるお弁当を受け取ってくれていた。

お米の一粒も残すことなく、本当に綺麗にお弁当を食べてくれ、お弁当を受け渡しするほんの短い時間だけ、小さな社会と繋がることを承認してくれ、なんとも言葉で表現しがたい不思議な空気の漂う短い時間を私たちに与えてくれていた。

 

時間が、過ぎた。

旧友は、久しぶりに見たその人が、ひどく痩せていることを気にして、相談に来た。

普通の痩せ方ではない、病院へ連れて行った方がいいか、検査をしたほうがいいのでは、と旧友は心から心配していた。

確かに数日調子も悪そうだったし、その人自身が体調の不良を訴えてはいた。

病院受診ということを考えなかったわけではないけれど、おそらくその人は、受診や治療、そしてそのための入院を受け入れないだろう。

長い間家に閉じこもり、人と接触せずに生きてきたのだから、その人が望むのは、おそらくそれまでと同じ生活をすること、治療のための入院などは望まないだろうと漫然と感じていた。

旧友から、「病院・治療・入院という道筋」を、「どう思う?」と聞かれたとき、私は、

「もし、その人が、治療してもう一度元気に暮らしたいと思っているなら、その道は与えられるべきだと思う。病院に行って検査をして病原を特定したとしても、その人はおそらく治療に時間と生活のすべてを費やすことを望まないのではないだろうか、その人はその人らしくこのままで生きてゆくことを選ぶのではないかと思う。」と答えた。

しばらく考えた後、「何とか病院へ行くよう説得してみる。」と旧友は告げた。

2月始め、その人は旧友たちの力を借りて、病院へ行くことになった。

その人が病院へ行くこと自体を受け入れたことも不思議なことに思えたが、大きな総合病院の受診であったら(入院治療が必要だと言われたら困るので)おそらく強い拒否を表現していたであろうけれど、入院施設のない医院であったので安心して受診につながったようだった。(ちなみに池さんの主治医を受診)

その医院で可能なすべての検査を行った結果、不思議にもどこにも異常は見当たらない。

とりあえず点滴を、ということになり、結局2週にわたり、点滴を3回行った。

旧友の希望で、お弁当も大盛り弁当に変更し、体力をつけることを目標に、その人が少しでも栄養が摂れるように、特別配達でお弁当を届け始めた。

3回目の点滴の日には、驚いたことに、点滴帰りに旧友と一緒に何年かぶりにスーパーにも行き、お菓子などを買い込んでいる。

 

2月20日、月曜日。

体調はよさそうに見えた。声もよく出ていて、点滴のおかげかなと思った。

 

2月21日、火曜日。

昼の配達の時、23日は祝日で本来なら休みの日だから、「23日はどうなるん。お弁当は来る?誰が持ってくる?」と心配そうに聞いたそうだ。

夕方の配達で、お弁当はあること、ママさんが持ってくることを伝える。安心した様子だったらしい。

 

2月22日、水曜日。

顔色も、体調もよさそうだった。夕食のお弁当と翌日の朝ご飯におにぎりとおかずの入ったお弁当を届ける。

 

2月23日、木曜日、祝日。

本来なら、祝日のお弁当の配達は行っていないが、特別に配達を行うことにした最初の日。

栄養状態が悪いから少しでも食事を頼むという旧友たちの希望に沿い、私はお弁当を届けた。

特に変わったところもなく、いつも通り、お弁当を受け取ってくれ、車が出るまで見送ってくれた。

私は車の中から、見送ってくれるその人に、手を振った。

なぜか「さようなら」とつぶやきながら。

 

2月24日、金曜日。

昼、配達に行った時、その人はお弁当を受け取るために、玄関のカギを開けてから、倒れた。

お弁当の配達途中だったスタッフからの連絡で、駆け付ける。

玄関に仰向けに倒れていたが、意識はあった。大きな出血等もなく、身体の異常も見当たらない。問いかけにはこたえられる。

旧友に連絡し事情を説明すると、旧友もすぐに到着。状況を見て、救急搬送を本人も了承、救急車が到着したので私はその場から帰宅した。

午後連絡した時、まだ検査中とのことで、原因も不明とのことだった。

そして、午後5時。

「息を引き取りました」と連絡が入る。

一瞬耳を疑った。

えっ?

と聞き直した。

それほど、あっけない出来事だった。

病院へ搬送されて、わずか6時間。

あっという間の終わり方。

言葉にできないほどの何とも形容しがたい死が、そこにあった。

さらりと逝ったような、ふわっと逝ったような、重さや執着を全く感じない、

今まで経験した死とは全く空気感の違う気がしたその人の死。

 

人に会うこと拒んでいたその人が、ただ唯一最後につながった小さな社会が、お弁当を配達するまごの手のスタッフたち。

その週、月曜日から、スタッフの全員と会った。いつもは交代制ではないので全員が配達することはないのだけれど、たまたま、この週はいろんな事情で4人が交代で配達をおこなっていた。

救急搬送された病院への付き添いは、以前からずっと関わってきた旧友2人がおこなった。この2人だけが唯一長年その人を支えてきた人たち。

亡くなるその日までの4日間で、その人の小さな社会に存在した全員と会い、命を終えたその人。

 

もしお弁当の配達時間でなかったら、もし家のカギを開けれる状態でなかったとしたら、もし夜中に何かあったとしたら・・・死後に発見され不審死として警察が介入することになっていたに違いない。

最期まで見放さずにいてくれた旧友が一緒にいてくれた病院で、治療を行うこともなく、わずかな検査だけして、死を迎えたその人。

なぜだろう。

その人の死を考えてみる。

その人にとって病院は、治癒回復するための場所だったのではなく、自身の死を証明してもらうための場所だったのではないだろうかと、思う。

病院でなかったら、もし、死後に発見された状態であったら、おそらく、沢山の見知らぬ人に、その人の生活の色々を明らかにされていたであろう。

長い間、人と接触せずに生きていたことも、それが日常だったということも、明らかにしなければならない事態になっていたであろうと思う。

だからこそ、その人は、このタイミングで、病院へ行き、死を証明してもらうことが、必要だったのだろうと思うのだ。

 

その人が人生の最後を生きた小さな社会。

その人の生きた社会は確かに極々小さなものだったかもしれないけれど、その人が確かに生きた社会に違いない。

一般的な社会のありふれた生き方とは全く違っていたかもしれないが、その人はその人らしく、小さな社会で確かに生きていたのだろうと思う。

食事も入浴もままならない日々を生きていたけれど、それもその人が選んだ人生だと妙に納得できたりする。

世間的に見たら理解できない生き方かもしれないが、その人は主張を持って生き、主張を持って死んだ、そんな気がしている。

だから、

さらりとした死、という感覚が心に焼き付いてくる。

涙さえ出ないような、そんなさらりとした死。

寂しさとか、悲しみとかよりも、「あ~そっか」というちょっと軽い感じの死の印象が心に浮かんでくるのだ。

ある意味、お見事としかいいようのない不思議な死の体験。

ふわりふわりと、漂うような、その人の命のコアさえどこにあるのか、わからないような、不思議な感覚の死に出会った気がした。

 

2週間が経った。

旧友にしばらくぶりに会った。

「お疲れさまでした」という私に、旧友は答えた。

「なんか~、さみしいね~。結局、支えられていたのはこちらかもしれん。」

旧友はずっと長い間、その人を支え続けていた。

まごの手が介入するまで、ずっとその人に食事を運び続けていた。

支えられていた自分。

その人を支えることで、支えられていた自分。

そんな自分に気づいたという、その言葉を聞いた瞬間、私は涙があふれてきた。

人も社会も拒絶し、ただ一人でひっそり生きていたその人が、誰かを、旧友を支えていたと、旧友にそんな風に思ってもらえる人であったと感じた時、涙が止まらなくなった。

だれもが、自分以外の誰かのために生きることができるのだとしたら、その人は、確かに生きる意味を持っていた、そんな気がしてくる。

 

その人にとって、生き続けることも、死ぬことも、たいして大きなことではなかったのではないだろう。

ただ自然で平坦な時間の流れの中で営まれた、淡々とした生でしかなかったような気がしたそんな人。

ただいろんな想いを残していってくれた人。

そんな人の話。

まごの手で出会った人の話。

 

 

多くの時間を割いて、その人のために力を尽くした旧友たちに対する尊敬の気持ちを込めて。

その人との出会いを与えてくれたことに感謝。

そして、多くの学びを与えてくれたその人に感謝。

合掌

 

 

 

 

 

 

コメント
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