池さんで働くおばさんの日記

デイサービス「池さん」の大ちゃんママのブログです。

久しぶりに

2020-12-27 00:43:40 | デイサービス池さん

今年最後の土曜日、無事に終了。

山は雪。

風がないので冷えるけど、気持ちはいい。

日差しは強く、夕方はフロントガラスがまぶしすぎる程。

 

久しぶりに金曜日の夜の番組。

子どもが小さい頃からさんざん見たジブリのナウシカ。

原作も何度も読んだけど、

今の世の中の状況を想う時、

自然災害に揺れ、コロナ禍に揺れる社会を省みる時、

心に響く「ことば」がある。

 

「腐海の木々は人間が汚してきたこの世界を綺麗にするために生まれてきたの。大地の毒を身体に取り込んで、綺麗な結晶にしてから、死んで砂になってゆくんだわ。この地下の空洞はそうしてできたの。虫たちはその森を守っている。」

「腐海の毒に侵されながら、それでも腐海と共に生きると言うのか?」

 

たまたま、今日はテレビで1960年代のことをテーマに話していた。

社会中のいろんなことが大きく変化した時代。

良い方向に変わったこともあるし、取り返すことができない方向へ進んでしまったこともあるだろう。

人は、社会は、これから、どう変わっていくのだろう。

人と人の関係は、距離は、会話は、文化は、スポーツは、娯楽は、どうなっていくのだろう。

今の世の中が直面している苦しみは、

なるべくして、起こるべくして起きた結果でしかないようにも思いつつ、

傲慢に生きた社会のひずみを、

だれが、背負ってくれるのだろう。

腐海の木々か・・・

一体なに?

胸が苦しくなるような現実が、

当たり前のように目の前に出現するたびに、

見ようとしなければ見えない現実が、

見ようとしなくても見える世界が、

目の前に広がる。

ウイルスはどういう存在?

 

風の谷の人々のように、腐海と共に生きることができるのか?

久しぶりのナウシカに、涙が流れても、

答えは見つからない。

いつか、答えが見つかる時が来るのだろうか?

未来のどこかで、「あんな時代があった」と振り返る時が来るのだろうか。

 

でも、でも・・・とりあえず、

ナウシカの優しさと破格の強さに、この年になってもあこがれる。

メーヴェに乗ってみたいし。

テトも肩にのっけてみたい。

今日も頭の中で、「らららら~ん、ら、らららら~、ららら~・・・」とメロディーがなり続けてて、さっぱり仕事に集中できてないし。

 

今年もあとちょっと。

いろんなことを考えながら、

いつもと同じ日常を過ごせることに感謝しながら、時間を過ごしたいと思います。

 

 

 

 

 

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冬至と写真

2020-12-21 23:52:48 | デイサービス池さん

残すところ今年もあとわずか。

もう何度この言葉を言ったかわからないくらい、「時間の経つのが早すぎる!」

あ~早くも冬至。

ついこの前、夏至だったような、いえいえ、お正月だったような・・・そんな気がする年の暮れ。

 

今年、最後の週。(来週は月曜だけだもんでね。)

冬至の柚子湯。

テレビではカピパラが頭の上に柚子乗せて、気持ちよさそうに温泉に入っていて「なんとまあ、可愛らしい。それにしても、贅沢なことよ。」とか何とか思っていたら、今日デイで撮った写真を見せてくれたのだけれど・・・。

まさに柚子湯。

贅沢にばあさんたち、皆たっぷりの柚子が入った風呂に首までつかって気持ちよさそうなことこの上なし。

見ているだけで、気持ちよくなりそうな写真がいっぱい撮ってある。

ちなみに、池さんでは毎日、皆の写真を撮ってノートに貼ってるんだけど、その写真は、いろんな事情を考慮して、いろんな場面をいろんな角度でいっぱい撮って、そのうちいろんな事情を考えて、いっぱいの写真の中から、一番適当なものを選んで皆のノートに貼るわけね。

つまり、1人のノートに5枚の写真を使ったとして、実際はその何倍もの写真をとってるわけ。

それらの写真は、ブログに使ったり、新聞に使ったり、まあ、いろんな使い道がある。

撮ったけど、使わない写真もいっぱいある。

使うわけじゃないけど、「あっ、今のこの顔残しておきたいな。」とかの「記憶」に残すための写真が、結構多かったりする。

池さんの写真てそんな感じ。

普段あまり笑わん人が、ニコッといい笑顔見せてくれた時とか、いつも面白いこと言わん人が面白かったりする瞬間とか・・・。

季節や、空気や、景色や、温度や・・・声や匂いも感じられるようなすごい写真が撮れたりすると、もう本当に嬉しくて、スタッフは皆に見せて歩いたりする。

そして、そんな感覚を、皆で一緒に楽しんだりする。

 

写真が語る生活。

冬の景色。

冬至の柚子がいっぱい入った湯気の立つお風呂。

眼鏡もガラスも曇って、どこにいるのかわからないほどにゆらゆらと湯気の立つ湯船の中で、ゆらゆらと浮いているばあさんの写真。

これはどこ?

極楽か?

いえ、池さんか?

この世か?

あの世か?

生きとんか?

もう逝ったんか?

何にもわからん。

本日、そんなすごい写真を発見。

まさに、記憶に残したい写真の一枚。

ノートに貼ることも、公開することも、絶対できん写真だけど、確かにまるであの世にいるように、気持ちよさそうに湯船につかるおばあさんが、心の底から羨ましいと思えた日。

冷え込む日が続く今日この頃、

こんな風に入浴を楽しんでいるおばあさんのいるデイサービス。

皆様もぜひ一度、うちのお風呂に入りにおこしやす!

湿度、温度、完璧な状態で、お待ちしておりやす!

おまけに、介助してくれる心優しいスタッフも多数取り揃えております。

 

そんなこと考えているうちに、もう一日過ぎてしまった。

こうしてグダグダしているから、時間が経つのが早いのね!

残り、10日。

冬至の昼は、やっぱり短かった気がする今日の日。

 

 

 

 

 

 

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「絆」について

2020-12-11 23:11:16 | デイサービス池さん

「絆」

思い返すとあの震災以後、私たちは「絆」という言葉を何気なく使ってきた。

「人と人とを結ぶ大切な何か」というイメージのこの言葉。

力強くてなんだか心強いこの言葉。

「絆が大切」とか、「絆を結ぶ」とか・・・なんか安心できる気がする言葉。

 

でも、「絆」の意味を辞典で調べると、ちょっと驚く。

「絆」
①きずな・ほだし。牛や馬などをつなぐなわのこと。
②つなぐ。足をつなぐ。となぎとめる。ほだす。

この「ほだし」とは、単に馬を繋ぐための道具というよりも、馬が自由に歩けないように絡ませておとなしくするように利用していた綱のことを意味しているそうだ。

さらに、出家して仏門に帰依したい時に、親子の情などの「ほだし」が出家の邪魔になるという使われ方もしたりする。

 

なので、ちょっと身近の問題として考えてみると、親子関係とかの場合。

例えば少年期、今までおかあさ~んとか言って甘えんぼで家族や家にべったりだった子どもが、青年に近くなるにつれて親から離れてみたい気持ちが芽生えてきて自立に向かおうとする時期に、なぜか親に縛られているような気がしたり、家族から離れたい(自立したい)気持ちと離れられない相反する両面の気持ちに悩み、葛藤を抱えたりする、そんな時に使うと「ほだし」の意味に近いんじゃないかなと思う。

「きずな」は一方で自分と人とを結びつける大切な存在であることを前提としつつ、また一方では「ほだし」として自分を縛り、簡単には切ることができない、離れることができない、重く、邪魔な結びつきとして存在する。

夫婦も同様。

思いやりに支えられた頼りになるパートナーとして存在すると同時に、自分を縛る存在にもなりうる。

かつての村社会のように、強い助け合う結びつきと同時に、簡単には離れられない鎖のような存在。

 

 

きずなとほだし

人の生きる社会

1人では生きられない、社会の中に存在する自分

相反するように見えるこの二つの意味を、どうバランスをとって生きてゆくかということこそが、一人前の人間になることのような気がする。

 

更に老人の問題に置き換えて考えてゆくと、

老人の命を支えているという点で考えてみると、「きずな」で結ばれた老人の生きてゆく環境の中において、あるいはそのきずなこそが「ほだし」として家族や肉親をつなぎとめている切れることのない太く重い縄であるのかもしれないと思いつく。

老人を支えてゆくことを、老人と共に生きてゆくことを、ただ「きずな」として肯定するだけでなく、「ほだし」として考えてみる態度を持ってこそ、その微妙なバランスの中で生きる家族やそこに住む人々の気持ちに想いを馳せることができるのかもしれない。

老人の老いや死は、単純なものではなく、これらきずなやほだしという複雑な感情から導かれた複雑な納得や結論を有するものであると意識するときはじめて、私たちは老人や老人の家族の気持ちを想うことができるのだろうと感じるのだ。

 

だれもが複雑な感情の中に生きている。

親や子ども、親類や、友達や、恩人、先輩、いろんな人たちの中で生きている。

そのだれもが、決して常に良好で暖かい想いに満ちているわけではない。

どうにもならないしがらみに苦しみ、絡みつく荒縄のように切っても切れない関係に苦しむこともあるだろう。

でもだからこそ、人は人として、家族や人生や老いや死を、意味あるものとして考えてゆけるのかもしれない。

はからずも自分を縛り付けているかのように思えるほだしを、ただの重い足かせとして存在させるのではなく、全てを含めて自分であると意識するとき、また新しい道も開けていくような、より奥深い人間に成長できるようなそんな気がするのだけれど。

きずなとほだし

一方向からだけでなく多方向からの視点を持ってみると、違う考え方もできるかもしれないという話。

 

暖かいのか寒いのか。

何を着て良いのか、全くよくわからない今日この頃。

来週は冷え込むそうだけど、車の中は汗ばむほどのいい天気の一日。

紅葉を見に行こうよう~の合言葉も、もうすぐ終了。

綺麗なイチョウもほとんど葉を落としてしまった。

代わりに、梅や桜の木々が小さな固い蕾をつけている。

相変わらずコロナは続き、相変わらず鳥の殺処分は続き、相変わらずの世の中。

うつむいた政治家に、日本はどうなると大声で聞きたい気がするけれど、

こういう時こそ、多方向からの思考回路でエンジン全開、ちょっと違う視点で生きてゆきたい。

コロナ疲れなどと言ったりせずに、自粛は続くよどこまでも。

煮詰まらずに生きてゆきたい。

という池さんだけど、最近、毎日煮詰まったメニューですみません。

頂き物には感謝して、胸を張って明日も大根を炊きたいと思います。

風邪対策と湿度キープ、プラス手抜き。

どうぞ、また大根かという一方向からでなく、限りなく多方向からのご理解をお願いしますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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そういう人

2020-12-03 18:30:17 | デイサービス池さん

話しかけても、表情変わらず、

いつも眉間にシワを寄せて、

「おはよう」と言えば、一応「おはよう」」と返事はするけど、ニコニコなんかしてくれない。

「調子はどう?」と聞いたけど、「ふん」と笑いもせずに答えてくれる。

時折「あ~しんど」「眠たい」というけれど、決して本当に眠たいわけではなく、

いつも笑えるタイミングで「お腹空いた」と言い始める。

汁物系が大好きで、お汁はいつもお変わりするくせに、

「からい!」とか「うすい!」とか言って皆をいつも笑わせる。

好き嫌いはだんだん曖昧になってきたけど、

それでも嫌いなものは絶対に口にしない。

好きなものだけ散々食べて、

お腹いっぱいになったら、

おわんを持ったまま寝始める。

「子どもか!」と皆に突っ込まれても知らん顔。

愛想笑いなんかしてくれない。

「笑ってよ!」と言うと、忘れた頃にニコッとしてくれるけど、

ほとんど誰も気がつかない。

手も足も不自由になったけど、

好きなものだけ、いっぱい食べて、

いつも不愛想な人。

誰に気を遣うでもなく、

誰に媚びるわけでもなく、

人にどう思われようと、どこ吹く風。

いつも、いつもと、同じ顔で、

毎日、普通に、車いすに座っている。

 

 

そういうあなたに、

私もなりたい。

 

 

 

 

 

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