池さんで働くおばさんの日記

デイサービス「池さん」の大ちゃんママのブログです。

お祭り過ぎて

2019-10-23 19:07:50 | デイサービス池さん

あれやこれやで、あっという間に10月も終盤。

おかげさまで、愛媛は今日も穏やかでした。

年に一度の待ちに待ったお祭りも、無事に通過。

大頭ではおじいちゃんが、例年と同じく恭しくお供えをして、調子のよかったヤヨエさんも一緒にお神輿を拝むことができました。

南川は100年ぶりにだんじりを購入しましたので、お神輿・子供神輿・だんじりが来てくれて賑やかなお祭りとなりました。

100歳のばあちゃんも、おじいちゃんも、大頭のメンバーも全員が集まって、お神酒を頂き祝詞を聞きました。

お天気に恵まれ、こうして無事に今年も秋祭りを行うことができる平和と幸せを、心に刻みました。

また来年、このみんなで集まりたいと思いつつ・・・。

 そして、即位の礼。

日本の国の由来や伝統や歴史に心を寄せる日となりました。

災害に配慮して、パレードは延期。

 

台風や水害で、本当にたくさんの方たちが生活を奪われておられることに心が痛みます。

いつも誰かが、どこかで被害を受けている気がします。

「なぜ、誰が、世界をこんなふうにしてしまったのでしょう」by ナウシカ

想像をはるかに超える自然の猛威が、常に身近にあるようです。

同じ地方を、「これでもか」といじめ、痛めつけているような気がします。

いつから自然はこんなに荒々しくなったのでしょう。

我々人間への警告なのか、はたまた仕返しなのか、それとも、地球の断末魔なのか・・・

「われわれ人間はこのまま腐海に飲み込まれるよう定められた種族なのか」byユパ様

地球に生きる生物に幾度となく襲いかかる試練は、傲慢な人間の身勝手や安易さに怒りをぶつけるかのようです。

 

千葉に住む弟の家も、台風(突風)による被害を受けた後、再び豪雨で大変のようです。

いつだれが、どこにいても危険な昨今。

どうか、これ以上の被害がなく過ごせますよう、牙をむく自然にむかって祈るほかない我々です。

今からでも地球の手当てができるものなら、できる限りの力を注ぎたいと思いつつ。

被災地の雨が止みますよう、せめてお日様に恵まれますよう、お祈りしています。

 

 

 

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記憶の断片より 

2019-10-10 18:15:33 | デイサービス池さん

母と暮らし始めて2ヶ月。

今まで聞くことのなかったいろんな話が、母の口からあふれ出す。

母の幼い頃や娘時代の記憶。

池さんでじいちゃんやばあちゃんの話をたくさん聞いてきたけれど、もっと身近な物語として、母の記憶を一緒に辿っていく。

母の記憶の断片は、私自身の存在や育ちにも繋がりを持つが故に、大切な物語としてこれからもおそらく心に刻まれるだろう。

それら記憶の数々を、この際書き留めておきたいと思う。

 

川辺のおじいさんの話

母の親戚で近所に住んでいたおじいさん。

おじいさんは川べりに住んでいたので、皆はおじいさんのことを「川辺のおじいさん」と呼んでいた。

川辺のおじいさんには子どもたち家族がいたのだけれど、みんなアメリカへ移住していておじいさんは独りぼっち。

おじいさんはいつも着物を着ていたけれど、その着物は襟もとがひどく汚れていて、帯はいつもだらだらと解けかかり、なんともだらしない。

おじいさんは、いつもひとりぼっちで、さみしい・さみしいと言っていた。

そして、さみしさに耐えられなくなると、「さみしいけん、もう死にたい。焼き場へ連れて行ってくれ。」と言い出すのだ。

*昔は亡くなった人を焼くための焼き場が地域にあって、お葬式が終わると近くにある焼き場で皆の見ている所で普通に遺体を焼いていた。

おじいさんが「死にたい」と言い始めると、子どもだった母や、近所に住む子どもたちの出番となる。

そして子どもたちは、川辺のおじいさんにこう言うのだ。

「おじいさん、焼き場へ連れて行ってあげるから、これに乗って。」と子どもたちは大八車(だいはちくるま、木製の荷物運搬用の荷車)を持ってくる。

おじいさんが大八車にずりずりと乗ると、「焼き場へ行くなら、おじいさんを焼くのに薪(まき)がいる。」と子どもたちはおじいさんの乗った車に薪を積み込むのだ。

それからおじいさんが車から落ちないよう、長い木を大八車に渡すとおじいさんはその木につかまって座る。

おじいさんは焼き場へ行けるものと思って、大人しく大八車の荷台に座っている。

おじいさんの乗った大八車を子どもたちは引いて、焼き場へ行くわけではなく、そこらじゅうを皆でぐるぐると歩き回る。

子どもたちはその遊びが楽しくて、きゃ~きゃ~と叫びながら、おじいさんと薪の乗った大八車をあちこち引っ張りまわすのだ。

そうこうしているうちに、荷台で揺られていたおじいさんは疲れて、眠ってしまう。

おじいさんが眠り始めると、子どもたちはしばらくおじいさんを乗せてゆらゆらと遊び、おじいさんを川辺の家に送ってゆく。

もちろんその頃には、おじいさんは死にたかったことも、焼き場へ行くはずだったことも忘れて、静かになっている。

そうすると、おじいさんは不思議としばらくの間は「死にたい」とか「焼き場へ行く」と言わなくなるらしい。

でもそれからまた、何日かするとおじいさんは寂しくなって、「死にたい、焼き場へ行く」と言い始める。

そうしたら、また子どもたちの出番になる。

子どもたちはおじいさんと薪を大八車に乗せて、あちこち遊びまわる。

そんなことをして子どもの頃に遊んどったんじゃ。

 

 

この話を聞いた時、介護の現場を思い浮かべ、鳥肌が立つ思いがした。

おじいさんの寂しさと、子どもたちの遊び。

子どもたちの言葉と、おじいさんの納得。

なんと寛容でたおやかな時代だったのだろうと思う。

これがボケ老人を抱えるかつての地域であったとしたら、現在の社会には地域のかけらさえ存在してはいないのだと愕然とする。

時代の変化は、著しい。

ある面では文化的で清潔で、豊かな社会を実現してはいるが、確かにある面においては置き去りになったものもあるのではないかと振り返ってみる。

そうして忘れ去られているものの中にこそ、大きくて大切なものが隠されている気がしてならない。

「一番大切なことは、目に見えないからね」by星の王子様

川辺のおじいさんは確かにボケ老人ではあるけれど、ボケた老人として捨て去られることなく、子どもたちの遊びというかかわりの中で生きた時間は、おそらくおじいさんにとって暖かい時間だったのではないだろうか。

だからおじいさんは、大八車が揺れると眠れたのではないだろうか。

おそらく子どもたちと共に過ごす安心感から。

賑やかな声の聞こえる安心感。

母の記憶に残る川辺のおじいさんの記憶は、決して悲惨なボケ老人の物語ではない。

ちょっとクスッと笑えるような幼い頃の楽しい思い出として、母の「物語」のページに残っているに違いない。

 

 

 

 

 

 

 

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信頼を得るということ

2019-10-01 21:07:59 | デイサービス池さん

人の存在は、点。

点と点が、いつの間にかいろんな方向に、繋がり合い、結びあって、時間をかけて次第に広がってゆく。

 

池さんを作ってから、いろんな人と出会ってきた。

いつも会うわけではないけれど、今も深く結びついていて、何かのたびに助けてくれる人たち。

時間を過ごせば過ごすほどに、深く結びついてゆく人と人。点と点。

「池さん」という場所を通して、いろんな場面でいろんな人と繋がりながら生きてこれたことは、私の誇り。

この場所を通じて、繋がるべき人たちと出会えたことは、池さんの誇り。

だからこそ、今がある。

信頼されて池さんの今がある。

 

いろんな人の人生に寄り添うことは決してたやすいことではないが、サービスという枠をはるかに超えて、私たちは一心に想ってきた。

外部からの評価など気にせず、年寄りや家族からの「信頼」という評価だけを頼りに今までやってきた。

人に信頼してもらうということは、たやすいものではないし、日々真摯に重ねてゆかなければ決して生まれるものではない。

その上残念なことに、信頼などという目に見えない、あやふやな感覚は、意外ともろくて、油断したらアッという間に壊れてしまうものなのだ。

人と人のつながりなんて、そんなもの。

 

だからこそ、毎日が大切に思えてくる。

決してブレることなく、日々を重ねてゆかなければならない。

信頼に値するのかどうか、信頼してもらえているのかどうか、自らに問いかけてゆかねばならないのだ。

自らの言葉を持ち、自らの技量の向上を図り、自らが未来をしっかり見極めて、真摯に向かい合ってゆかなければ、信頼してもらえるはずなどないのだから。

残された時間をどう生きてほしいのか、明確なイメージを持ってこそ、私たちは自らの言葉でその時間の大切さを伝えることができる。

時間の大切さを知ることなく、信頼に値する言葉を口にすることはできない。

優しさや想いだけではどうにもならない。

そこには、覚悟が必要となる。

池さんとしての覚悟が必要となる。

 

もし、そこまでやって、それでも点と点が繋がらないとしたら、それはそれでも仕方がない。

点と点は、いつも繋がるわけではないということもわかっている。

ただ、何もせず、安易な状況で判断したり、軽々しく諦めたり納得することだけはしないでほしい。

信頼に値する自分を作り、信頼を得る努力を惜しまないでほしい。

老いを生きる人や、不安な気持ちでいる家族の前にいるのは、まぎれもなく自分だと、他の誰でもない、池さんのTシャツを着た自分自身だともう一度心に刻み付けて、新しい月を頑張って行こう。

 

10月。

地方祭が始まり、心躍る季節。

香る季節を前に、老いを生きる人や家族が、信仰に根差した穏やかで満たされた時間を生きることができるように祈りたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

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