池さんで働くおばさんの日記

デイサービス「池さん」の大ちゃんママのブログです。

最後の利用日

2015-06-30 23:19:52 | デイサービス池さん

在宅生活をあきらめ、施設へと移動することを決めた家族と老人がいた。

どの人にもボケがあった。

施設へと移動しなければならないことを、老人に伝えてはいない。

ボケのある老人には、住みかが変わることを納得することもできないだろうし、なぜ変わらなければならないかを理解することはできないだろう。

それでも不思議なことに、頭では理解できなくても、老人たちは身体で感じることができる。

 

デイ利用最後の日。

ある老人は、何も知らないのにこう言った。

「私はもう死んでしまいました。」

またある老人は、

デイの人たちに、丁寧に優しく穏やかにお別れの挨拶をした。

そして、もう一人の老人は、

入所までの何日かを、体調を壊してデイを休み結果、家で過ごすことになった。

まるで、入所までの時間を「私は家で過ごしたいのです」と主張するように。

 

どの人も、入所することを理解してはいない。

それでも、老人たちにはわかっているのだ。

いろんな事情や家族の想いを。

心で感じて、身体で表現しようとしている。

 

こういう体験を繰り返しても、結局私たちには何もできない。

ただ、迷いながらも大きな決断をした家族の心に寄り添い、

新しい環境で生きてゆかなければならない老人に、想いを馳せるだけ。

どうか元気で過ごすことができるようにと。

 

デイサービスには限界が存在する。

老人は常に多くの事情を抱える。

家族にとってたとえどういう選択であろうと、それはそれで正しいのだと思う。

 

最後の利用日。

ボケた老人たちは知る由のない別れを感じ、

身体中で表現する。

どの人も。

不思議なことに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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タブレット

2015-06-26 21:21:19 | デイサービス池さん

ズッキーが満面の笑みで池さんの玄関にやってきた。

手にはタブレット。

生まれたばかりの赤ちゃんの写真がタブレットに写っている。

 

ズッキーはまるで本当の赤ちゃんを抱くように、タブレットを両手で抱えて、「うまれたよ~」と言いながら部屋に入る。

ばあさんたち、タブレット写真なのか、赤ちゃんなのか、おそらくわかっていない。

でも、そこにいた全員が拍手とおめでとうの言葉で、ズッキーを迎えた。

 

生まれた命。

その場の皆が共有した幸せな気持ち。

元気で大きくなりますように。

 

それにしても、タブレットは本当に便利。

写真より大きいから、目の見えにくいばあさんたちにもわかりやすい。

 

ちなみに・・・

父親のズッキーは、しばらくの間、産休に入りました。

よろしくね

 

 

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本日、夏至

2015-06-22 22:33:55 | デイサービス池さん

夏至の一日。

昼間が一番長い日だけど、梅雨のさなかのどんよりとした重たい朝。

睡眠不足のワタクシは、頭も身体もどんよりと重たく感じる。

エネルギーが最も溢れる日のはずだけど、なぜだかエネルギー不足の感じは否めない。

 

ばあさんたちも、夏至の力に振り回されるかのように動き回り、しゃべり続ける。

無意識の領域に影響を及ぼすと思われる大いなる自然のエネルギー。

ヘトヘトになりながらも、スタッフもばあさんたちと同じように見えない力に振り回されていく。

 

自然の力。

その力を謙虚に受け止めようとする時、きっとその自然の力は、自分の力になってくれるはず。

 

太陽。

陽の光の力を信じて、

いにしえの時から言い継がれてきた節気の意味を身体中で感じて、

いよいよ夏へと向かう日々を、

力強く生きてゆきたいと思う今宵。

 

本日、夏至。

長い昼が終わり、

三日月が見える大頭の夜。

今年も蛍が舞いはじめました。

 

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2015-06-19 22:09:06 | デイサービス池さん

終わろうとする命と、生まれくる命。

 

不思議な命のいとなみに、

いつも心を揺さぶられる。

運命の大きさを、

計り知れない大いなるものの存在を、

その時、私は思い知らされる。

 

運命は、

人の想いを遥かに越えて、

悲しいほどに、

美しい。

命の営みは、

いつも、

輝いていて、

美しい。

 

 

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セルフケア

2015-06-15 22:19:26 | デイサービス池さん

「自分自身で心身の健康の維持と管理を行うこと」と訳されています。

看護師の機能として、「病人であれ健康人であれ、各人が健康あるいは健康の回復(あるいは平和な死)に資するような行動をするのを援助すること」と、新聞記事で読みました。

看護とは、人間が本来、自分の健康のために自らなすべきことができるようになるために手助けをすること、なのだそうです。

 

いろんな場面に遭遇します。

もうダメだと思うことがあります。それほど遠くない時間で、息が止まるだろうと思うことがあります。

でも再び安定する場面もあるのです。まるで蘇ったように。

下がっていた血圧や体温を上げ、でなくなっていたオシッコを出し、食べなくなっていたご飯を少しづつ食べ始め、身体の中に酸素を取り込もうと頑張る人。

その人が頑張るのなら、私たちにできることはただその人の力を助けること。

何がそうさせるのか、何をするためにもう一度生きるのか・・・

もちろんいくら考えても、わかることではないのだけれど、

でも人の命の在り方は、限りなく不可思議で誰にもわかるものではないということは、わかっているわけで・・・

 

だとしたら、どんな状態になったとしても、その人の「生きる力」「生きようとする力」をいつも信じていたいと思うのです。

人がもともと持っている「自らが自らの健康を回復しようとする力」「治癒しようとする自然の力」を邪魔することをせず、自らが回復できるように手助けをしていたいと。

溢れるほどの薬や医療によって、セルフケアと無縁の命を生き続けることを余儀なくされている人を見るにつけ、この気持ちはより強くなっていくわけで。

 

人が老い、命を終えることは、忌み嫌わなければならない事実などではないはず。

自分の力を最大限に使いきり、しっかり命の時間を生きたのなら、老いてなお健康を回復するはずという幻想を捨てて、平和な死に向かうための濃い時間を豊かに過ごすという選択があってもよいのはないかと思うのです。

 

病院のベットでチューブに繋がれて、訪れる人も途絶えてなお、ただただ生かされる人と、

ポン酢ソーメンが食べたいとか水羊羹だけ食べて、死にそうになってもなお笑顔で生きる人の、

最後の時に向かう時間の違いに、

看護の機能とセルフケアという視点が重なってくるような気がする夜です。

 

近代医学とその向かう方向が、いつの間にか老いた人の命の終わり方を、

自然のあるべき姿から変えてしまっているように思ってやるせなくなる今宵です。

 

 

 

 

 

 

 

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想いを受け止めること

2015-06-11 21:35:27 | デイサービス池さん

介護を続ける家族。

さまざまな想いを持ち、葛藤を繰り返しながら、介護の必要になった人と生きている。

私たちは、契約に基づいて要介護者のケアを行っていく。

 

時が過ぎ、家族には決断をしなければならない瞬間が訪れる。

病気なら病院に行くのかどうか、老いならこれからの時間をどう過ごしていくのか。

施設への入所を決めなければならないとしたら、いつ決めるのか。

病院へ入院を勧められたとしたら、治療の効果がどれくらいあるのか。

施設へも病院へも行かず在宅で生きることを決めるのなら、緊急の時にどうするのか。

 

私たちは契約による介護を行っている事業所ではあるが、

決して提供票という書類に基づくケアだけを行っている施設ではない。

家族が困った時、迷った時、どうしてよいかわからない時、

私たちが考えられる限りの方法と、できる限りの手段を駆使して、

必ず家族の想いの側に寄り添っていたいと思っている。

最後まで在宅で過ごすことを選択したのなら、どうすればそれが続けられるのかを共に考えていきたいと思っている。

提供票がなくても、介護保険という契約がなくても、

私たちは共に考えることができると思っている。

 

10年間の月日が、

私たちに最後まで在宅での暮らしを続けていく方法を学ばせてくれた。

 

法律に基づく介護保険だけでは決して補うことができないという明らかな事実。

深くて重い家族の歴史に基づく現実。

そして何より、

その人自身が、最後の時をどう生きたいのかという大きな願いの全てを、

同じ時を生きる人として、

一緒に考えてゆきたいと。

 

いろんな家族の想いが揺れた1週間。

無念さや悔しさや葛藤と共に、

大きな決断をした家族と心が通じた気がする一日。

大雨の中、

心が震えるような瞬間に出会えた木曜日。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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梅雨の晴れ間

2015-06-06 21:48:23 | デイサービス池さん

梅雨入りしたけど、今日は晴れ。

寒くて震えた昨日の天気とは打って変わり、綺麗に晴れ上がった空には真っ白い雲がかかり、石鎚の山がはっきり見えた。

山の緑が美しい。

新緑に輝いて、手が届きそうに霊峰が見える。

こんな日は送迎も楽しみな仕事。

季節の移り変わりを感じながら、今日もこの地で暮らす。

今年ももう6月。

あっという間に月日がたつ。

今夜も命の呼吸に耳を凝らしながら、

青白い顔が電気の明かりに浮かぶのを見ながら、

明日も天気でありますようにと。

大頭の夜は、涼しい夜。

気持ちのいい風が入ってきてカーテンが揺れる。

明日が皆にとってよい日でありますように。

新しい1週間が良き日々となりますように。

新緑のエネルギーに満ちた豊かな日々になりますように。

 

 

 

 

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さわらとアコウとトロミ

2015-06-02 22:33:10 | デイサービス池さん

大頭のご馳走。

ますみさんの誕生日。

お嫁さんのれいこさんが、立派な「さわら」を持って来てくれた。

もちろん大ちゃんが腕をふるって、さわらのお刺身で握り寿司をつくり、お寿司食べ放題!

食べやすいようにたたいたり、あぶったりと一手間かけたおご馳走。

主役のますみさんが食べる。

ヒイちゃんが食べる。

あ~とかキャ~とか言いながら、まあちゃんも食べる。

食いしん坊のリンちゃんも、もちろん食べる。

立派な真子は煮付けに。

肝も煮付けに。

アラでだしをとったお吸い物は、やっぱり美味しい。

ヒイちゃんのお寿司は、大ちゃんが細かく叩き一口大に握ってある。お吸い物にはトロミをつけて。

トロトロとしたさわらのお吸い物に、真子の煮付けにもトロミをつけて。

ただのトロミ食なんかじゃない。

ただ食べやすくしているだけじゃない。

頂いた食材を、皆で一緒に食べるためのトロミ。

さわらのトロミ風味。さわらの真子のトロミ味。

ぺろりと平らげたヒイちゃん。

夕方、池さんから帰ってきたばあちゃんも、さわらのご馳走のお相伴。

刺身をのっけたさわら丼。

ばあちゃんもうまいうまいと平らげた。

 

この日、池さんも偶然、豪華なアコウご飯だった。

知り合いが釣って届けてくれた来島海峡のでっかいアコウ。

これがまた50センチ近くある超大物。

新鮮なアコウは土曜日に皆でお刺身にして食べたので、この日はアラで炊いたご飯とお吸い物。

でっかい頭を一度焼くと、香ばしくて美味しいだしがでる。

たっぷりと身の入ったアコウご飯に、コラーゲンたっぷりの美味しいお汁。

としこさんももちろん一緒に食べる。

トロミをつけた美味しいアコウのお汁。

 

大頭のトロミさわらに、池さんのトロミアコウ。

 

恵まれ過ぎのワタクシ達。

みんなの気持ちを大切に、美味しく食べるためのトロミ味。

食べる楽しみを、ずっとずっと持ち続けていくという幸せ感。

そして、それを陰で支えてくださる皆の想い。

ありがたや~の毎日に、今日も感謝。

ワタクシ達、

ずっとずっと貧しいくせに、なぜか今日もリッチに暮らしてま~す

 

 

 

 

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