桜も咲きかけて、いろんなことがあって忙しいなと思っていた時、
創立からの写真を見る機会があって、
保存してある15年間の写真を画面上でめくっていたら、
平成17年11月9日、池さんの庭に桜の木を植えた記念の写真を見つけた。
細い細い桜の苗木。
記念のボードには、当時の職員とケンケンの名前が書いてあって、
感慨深い。
15年の間にこんなに大きくなったんだと思うと、
花が今にも咲きそうになっている桜の木が、なおさらに愛おしい。
そういえばこんなことがあったな~と懐かしい顔がいっぱいあって、
でも名前も思い出せなくなった人の顔もあって、
時間の長さを思い知る。
最初に出会った名人とのお出かけ風景や、創立当時、介護保険の年寄りよりも人数の多かった子どもたちの預かり。
フミちゃんという人の在宅生活へのこだわりが育ててくれたパーソナル事業。
いろんな人たちとの出会いの中で、池さんという場が育ってきたのだと沢山の写真が教えてくれる。
「こうなったらいいな」という理想はもちろんあったけれど、
いろんな人との出会いがあったから、
沢山の出来事の中で生きたからこそ、
今のこの形があるのだと思う。
介護保険制度の改正が行われる。
いまだ曖昧な部分を抱えつつ、
「自立」と「回復」を目指す介護保険の行く末に、今回も大きな疑問を抱く。
「加算」と「サービス」は、リハビリという大義名分によって、老い逝く人たちを切り捨ててゆく。
人は老いる。
人は死ぬ。
永遠に続く回復など、終わりなき自立など、存在するはずはない。
本当に介護が必要となった時、
それでも最後まで人として、生き切るためにこそ、介護保険という制度が存在すると思っていた。
制度はまるで違う方向に進んでゆく。
一体どこへ進むのだろう。
介護保険。
池さんの写真の中にいるどの人も、
決して自立を目指したいわけはないけれど、
ただ、その人のままで、ずっと笑って生きている。
みんな、生き生きとしたいい顔で、笑ったり泣いたり喧嘩したり、怒ったり・・・生きている。
不自由になった手や足を、誰かに補ってもらいながら、
ずっと暮らした家で、生きている。
自分の布団で逝くことができる。
家族に手を握ってもらいながら、
「ありがとう」を伝え合うことができる。
できなくなったことを支える人、足りなくなった部分を補える人、だれかがいれば、家族でなくても、だれかがいれば、そのままで生きて・老いて・死んでゆけるのだ。
その人が暮らした社会の中で。
その人のままで。
そのために使える介護保険でありたいと、
私たちは小さな事業所だけれど、
胸を張って、貫いてゆきたいと思う。
画面上の写真のみんなの笑顔は、
「それでいいよ」と言ってくれているようで、
なんだか少し自信が湧いてくる。
ここで生き、逝った人たちの、
確かな命のありかが私たちに問いかけるものは、
時代の流れとは違うものかもしれないけれど、
きっと、いつか、
伝わる時がやってくるはず。
生きるとは。
死ぬとは。
人とは。
命とは。
介護とは・・・