池さんで働くおばさんの日記

デイサービス「池さん」の大ちゃんママのブログです。

思うこと・・・6

2012-01-31 22:17:50 | デイサービス池さん

その6。「問題行動」

明らかな病変によって、その人格が崩壊している場合も確かに存在する。

しかし「認知症」という状態が、すべて病気のせいで手に負えないどうしようもない状態なのかと言うと、実はそうではない場合もある。つまり、老人が「ボケ」という手段によって、老いてゆく自分自身と葛藤を繰り返していたり、あるいは「ボケること」によって、移り変わってゆくわが身と周囲との折り合いをつけているように感じる場面に何度も遭遇した経験があるからだ。

ボケによって問題行動を起こすと考えられているが、そもそも問題行動とは何か、何が問題なのか、誰にとって問題なのか・・・を考えてゆくと、何一つ問題はないという場合もあるのだ。私たちは自分たちに都合のいい解釈で、老人を「問題」だと思ってはいないだろうか?

オープンしてすぐに、たあさんという人と私たちは出会った。

みごとに「問題老人」のレッテルを貼られたおじいさんだった。

入院していた病院では、看護師に向かって便を投げつけたり、暴言を吐いたりする行為が続き、退院を迫られていたが、家にすぐに連れて帰ることも困難で、なんとかしばらく預かってもらえないかという相談だった。

そしてたあさんはやってきた。色白でちゃんと挨拶もしてくれて、ちょっと見たところ「問題老人」ではない「普通の」老人に見えた。

そして・・・一日中、たあさんは言い続けたのだ。「トイレに連れて行ってください」と。特に夜はひどかった。病院のベットを思い出すから、コタツで寝たいというたあさんのためにコタツを用意し、私たちは一緒に寝ることになる。そして言うのだ。「トイレに連れて行ってください」と。

車椅子を用意し、トイレに連れていく。そしてやっとまたコタツに寝かせたと思うと、また言うのだ。「トイレに連れて行ってください」と。朝昼夜と関係なく、延々続く同じ要求とトイレ介助。何日も続く要求。

私たちはどう考えればいいのかわからなかったが、とにかく全ての要求にとことん答えてみようと思った。そして、何も言わずにもくもくとトイレ介助を行った。

しばらくして、たあさんは言った。

「病院では、言いたいことがあっても誰も聞いてくれない。だからわざと便を投げつけてやったのです」と。

ポーランド人の娘の友人がやってきた時も、「アイム チーフエンジニア」と自己紹介して私たちを驚かせたこともあった。

どこまでボケていて、どこまでが意図的な行為なのか、もちろん今でもわからない。ただ、私たちはたあさんによって試されていたのだと感じる。どこまで本気で自分と関わってくれるのか?どこまで見捨てずに向き合ってくれるのか?・・・確かにたあさんは試していた。私たちが信用できる人間かどうか。心を許せる人(場所)かどうかを。

いろいろな経過があって、自宅で介護できる状態になっても、お泊まりを利用して時々たあさんはやってきた。「小松のお母さん(私)の所へ行くのは楽しみです。かぼちゃの煮物が美味しいです」と言ってくれ、ここへ来るのを本当に楽しみにしてくれていたのだ。

「問題」は確かにあった。社会との関係という点において、ひどく不器用な人だった。周囲との関係の構築がうまくできないために、力ずくで(たとえば便を投げたり壁になすりつけたり)自分を保とうとしていたのだが、それは認知症によるものというよりも、たあさん個人の性格によるものだったと、あとでご家族のお話を聞いて感じたのだ。つまり、元気な時から気性の激しい人で自己中心的で、ご家族もずっと家族間で葛藤を抱えながら生きてきたという話だった。「問題」ではあるが、「問題老人」なのではなかった。

たあさんの「問題行動」は、その性格から考えてただの「自発的コミュニケーション」であったと今思う。

一般的には問題行動は、脳の病気にともなう「中核症状」から派生する「周辺症状」であり、治療や介護、特別な人間関係技術によって解消するべきものといわれている。

けれど、たあさんの場合を考えても、それは決して解消すべき課題なのではなく、ただありのままに「受け止めること」が結果、たあさんの葛藤や想いを落ち着かせることに繋がってゆく。

そして私たちがありのままのたあさんを受け止めようとしたことが、たあさんの心を開き落ち着かせることになった。

たあさんは言った。「トイレのことを何度言っても、いやな顔をせずにつれて行ってくれた」と。

一見暴言と思う言葉も、問題行動だと思う行為も、考えてみると社会に拒否され抑圧された気持ちを、ただ素直に表現したにすぎないのかもしれないのだ。

だとしたら、私たちは老人のその行為が「一体どんな意味を持ち、何を訴えようとしているのか」を知る努力をしなければならないと思う。

目に見える現象や行為だけをみるのではなく、その心の奥に潜む「言葉にならない言葉」に耳を傾け真摯に聞こうとする姿勢が、介護の現場にいるものには求められているのではないかと思っている。

かぼちゃの煮物を美味しそうに食べて笑うたあさんの笑顔は、フェイスシートのように「問題老人」ではなく、わがままで自分勝手に頑固に生きたただの年寄りの笑顔でしかないように思えた。

 

 

 

 

 

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思うこと・・・5

2012-01-28 22:55:05 | デイサービス池さん

その5。「スタッフに求めること」

ここに集まる年寄りは、元気そうに見えても結構介護度の高い人が多い。

つまり大きな施設のデイを利用していたけれど、集団で行う活動のペースからはみ出てしまった人が回り回ってやってくるケース、あるいは深いボケによって他のデイから断られたケース、反対に身体は不自由だけれど至ってクリアな精神状態にあり、自ら選択してここを訪れている人・・・いろいろな人がいる。

様々な理由でここを利用する人と、この狭い空間で毎日向き合っていかなければならない。

(余談になるが、「個別ケア」という言葉を聞くことがある。もともと誰もが個別にその人生を生き、別々の人間なのだから、「個別にケアをする」ことは当たり前のことであって、それが施設の売り文句になること自体がおかしなことだと思っている。)

全く異なる人生を生きてきた人を前にした時に、スタッフはどうあるべきなのか・・・常にそのことを考える。

(とはいえスタッフも人だから、人それぞれ。常に同じであるわけではなく、迷いや苦しみもする。しかし気持ちが揺れることはあったとしても、「スタッフとしてどうあればいいのか」と言う点に関しては、池さんの基本になるところなので決して揺れないでほしいと思っている。)

池さんでは採用条件として、「資格や経験」はあまり重視していない。かわりに謙虚に目の前の人に向き合うことができる人を採用したいと思っている。

介護する立場と介護される立場は、意識するしないに関わらず上下関係に陥りやすい危険性を抱えている。圧倒的に優位な立場にある介護者として、ともすれば「してあげる」的な思い上がりや「こうだろう」という思い込みが、ボケを抱える人との間に深い溝を生み出してしまうことがある。

ならばスタッフに必要なものは一体何なのか。

目の前に長く生きてきた人がいる。その人は明らかに自分よりは深い人生の経験があり、私たちの知らない時を生きてきた人だ。人生の道のりもそれぞれ違い、ボケの深さもそれぞれが違う。何より性格が全く違う人たちなのだ。

それぞれ個性に満ちた人たちと、私たちは出会う。

そして、共に時間を過ごすことになる。

共に過ごす時間も、決して毎日が同じと言うわけではない。全てがいつも異なっている。天気がどうか、夜眠れたかどうか、朝ご飯を食べたかどうか、便秘していないかどうか、その日のメンバーの顔触れがどうなのか、その日のスタッフに気に入りの人がいるかどうか・・・多くの様々な要因が関係して、「その日のその人」を作り上げてゆく。

「その日のその人」に謙虚に向かい合うことを、スタッフには求めたいと思う。

毎日が移り変わってゆく人を前に、距離を測りながら、気持ちを想像しながら、表情を読み取りながら、「移り変わっていくことに向かい合っていける」スタッフであって欲しいと思っている。

(日々積み重ねたデータを頭で思いめぐらせながらも)その日その時の目の前の人に謙虚に向き合う時に初めて、苛立ちの原因を思うことができ、怒りの原因を想像することができ、心を穏やかにする方法を見つけることができ、一緒に笑うことができると思うのだ。

その時私たちは・・・「人として対等」になれる気がする。

介護理論と技術を持った介護者として存在するのではなく、(介護される側と介護する側という圧倒的で一方的な関係を通り越して)、ただ「そこにいる人」として同じ景色を見ることができるような気がしている。

向き合うことの意味を考えながら、手を握り、同じ空気を感じ、そして同じ景色を見ることができること・・・求めていきたいと思う。 

 

 

 

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雪です!

2012-01-25 20:59:05 | デイサービス池さん

まじめなブログは、ちょっと休憩です。

今日はこの地も雪です。

昼ごろからちらほらと降り始め、今も少し雪が舞っています。

静かな夜です。

私は、汗が身体にまとわりつくような暑い夏が苦手です。

息が苦しくなってしまうのです。

でも、寒い冬は比較的元気に過ごせます。

寒さで空気がピーンと張り詰めた様な朝を迎えると、なんだか気持ちまでピンとするようで、エネルギーが湧いてきます。夏生まれとか関係ないようですね。(私は8月生まれですから)

石鎚山は霊峰と言われます。山岳信仰の対象になるのが納得できるほどに、立派で雄々しく圧倒的な存在感を示しています。

雪が降る季節には、石鎚の山々は荘厳なまでに、本当に手を合わせたくなるように美しく輝きます。

送迎の時に、午後のお出かけの時に、雪に包まれた山を目にする時、私はこの地に生きることを本当に嬉しく思うのです。

今日午後「雪が降ったから、寒いけど雪でも見に行ってみる?」というと、何人かのじいちゃんばあちゃんがよろよろと立ち上がり玄関に向かいました。

こう言う時、出かける気になっている時には、なぜか誰も「寒い」とは言いません。

「行こう!行こう!」と、我先にと車に乗り込みます。

しばらくの間、暖かい車の中から「雪が沢山ふっとるぞ」「寒いぞ~~~!」「外は寒いぞ~~~!」と笑って降る雪を見ています。「あれ見てみ。寒いのに自転車にのっとるバカがおるぞ~!」などと言いながら・・・

そして、しばらく走るうちに、「こんなに雪が降るのに、どこへ連れて行くんかの~?」と言い始めます。

「しらんがな!!!」という私に、

「雪が降るのに、どこへ連れていくんじゃ!はよ帰れ!」と怒り始める始末。

「あんたが一緒に来たんでしょうが!」というと、

「はよ帰れ!こんなとこに置いて帰られたら、死んでしまう!」「雪に日にこんな所へ来たら、バカと間違われる」「すべって転んだら、どうにもならんが~!」と後部座席から、ぶつぶつ言う声が聞こえます。

「雪とバカは関係ない!」「置いて帰ったりせん!!!」「外を歩かしたりせんがな!!!」

「いや、そりゃあわからん!」「ほんまに!」・・・

そして、近くのお寺の前で車をUターンさせようと停まると「ここは○○寺かい?」ちょっと違うけど「そうよ」というと、「ほんならお参りしとこ~」となぜか一同鳥居に向かって合掌!

なんじゃそりゃ

「もうお参りもしたから、はよ帰ろ!」「そうしよう。そうしよう。」と意見がまとまるのが早いこと。

そして私は皆のために約束していた鯛焼きを買わされて、帰ったわけで・・・

池さんにつくなり一言。

「あ~寒かったの~!」

そして・・・当たり前のように鯛焼きにがっつく年寄りたち。

も~しらんがな!!!!!!!!!

今日も平和でわがままな池さんの午後。

雪の日の午後でした。

 

 

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思うこと・・・4

2012-01-23 21:23:34 | デイサービス池さん

その4。「リハビリに思うこと」

急性期のリハビリを否定するつもりは全くない。たとえ老いたとはいえ、リハビリが必要な場合もある、ということは理解した上での話。

ただ急性期を超えてその状態が安定した時、あるいは年齢を重ねたせいで腰が痛いとか足が悪いという状態になってなお、リハビリすれば状態が改善できるという幻想は、そろそろ捨てても良いのではないかと思っている。

脳こうそくの後遺症で、左麻痺のあさこさんという人がいた。頭はいたってクリアーだったが耳が遠く、身体が不自由になったせいか、心を閉ざしてしまったようなそんな印象の人だった。ただ麻痺があるという以外は、老人特有のうつ状態であっただけだと思う。

失っていた食欲も、意欲も表情も、池さんでの日々を重ねていくうちに回復していき、笑うようになり食べるようになり、そして何より毎日を生き生きと楽しむようにさえなっていた。

車椅子生活だったが遊びに出掛けることも、畑に行くことも、炊事を手伝うことも、当たり前にできるようになった。

良く話し、私たちにお礼の手紙を書いてくれたり、ゲームや将棋倒しを楽しむようになった。

どんどん元気になったあさこさんは、「もう少し努力すれば、もっと身体が動くかもしれない」と思うようになったのだ。つまり生きていくということに希望を見出したわけだ。

発症してから月日がたっていた。年齢的にも体力的にもあらゆる状態を考えても、リハビリすることで今の方麻痺が改善するとは考えられなかった。しかしあさこさんの訴えを聞いたケアマネが、「それならリハビリのできるデイを利用しますか?」と、提供票を変更することになる。そして、その結果、終わりのない(結果の見えない)リハビリという幻想に、限られた大切な日々を費やすことになっていく。

今の社会は、常に右肩上がりの思想を要求し続けてきた。そこには「老いて次第に衰えていくということ」を認めない社会が存在する。ボケない様にトレーニングを続け、身体機能を低下させないように筋力トレーニングに精を出すことがあたかも良いことであるように思い込まされていく社会がある。努力さえすれば、永遠に健康でいられるだろうという幻想を植えつけられている。仮に病気になったとしても、リハビリを怠らずに努力すれば必ず以前の身体になるという幻想。

年をとり身体は弱り、病を得て次第に身体は自由にならなくなる。それは「人間」という生物が、それだけ長い年月を生きることができるようになったということなのかもしれないのだが、社会はいまだにそれを認めようとはしていない。

右肩下がりの、段々低下していく身体のままでも、それでも人として生きればそれでいいのだということを、認めようとはしていない。リハビリをいくら重ねようと、決して年齢をさかのぼることなどないのだから。

だとしたら、「どんな身体であろうともそのままでいいのだと」あるいは「しだいに衰えてゆくことは当たり前のことであり仕方のないことなのだと」認めることはできないことなのだろうか。

今の状態は否定するべきものではなく、また決して「克服しなければならない課題」などではないのだということを知る必要がある。ただ受け入れさえすれば、それでいいのだと。年をとるということは、そういうことなのではないだろうか。

老いてゆく人にできることは、次第に失ってゆく機能と「闘う」ことではなく、老いてゆくという現実を受け入れ、失ってゆく機能を補ってくれる人に自らを「ゆだねる」ことではないかと思う。

ただ淡々と老いてゆく自分自身を受け入れること、そしてその時周囲にできることは、老いに向き合い苦しみ悩む人を支えることしかないのだと、あさこさんとの出会いを振り返って思うのだ。

限りある命の日々を、輝くような生の日々に変えてゆくことに力を貸せる私たちでありたいと・・・

 

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思うこと・・・3

2012-01-22 21:21:41 | デイサービス池さん

その3。「家族」

いろんな家族と出会ってきた。

最初に、私たちが「家族」について考えることになったのはキヌエさんと言う人との出会いだった。

ご家族は少し離れた町に住んでいた。キヌエさんと息子さんは、決して家族仲が悪かったというわけでもなく、ただ普通の当たり前の老いた母と息子にすぎなかった。

キヌエさんは年をとり、足腰も悪くなり、年相応に物忘れなどをするようになっていた。転倒を予防するために好きだった畑作業もやめさせられて、キヌエさんは元気をなくしていた。少しでも安心して元気に暮らせるようにと、池さんの利用が始まったが、要介護状態というわけではなく、自主事業を利用しての利用だった。

回数を重ねるうちに、足の弱りも物忘れも「キヌエさんがただ老いた」にすぎないということに私たちは気づく。

好きな畑に行けば元気になるかもしれない・今まで行っていた家事をこなすことでかつての手順を思い出してくれるだろう。

私たちは池さんで借りた畑にキヌエさんを連れ出した。イモを掘っては笑い、散歩をしては笑い、ご飯を一緒につくったり、子守りを楽しんだり・・・という日を重ねた。そして帰りには夕食をお弁当箱に詰めて帰ることで、火の始末を心配する家族が安心すると考えていた。

キヌエさんは、元気になった。

足腰も丈夫になり、立ち上がり時のふらつきもなくなった。頭もしっかりしてきた。以前のように畑仕事もできるだろうという所まで、確かに回復したように見えた。

そして・・・突然の利用中止の連絡。

「キヌエさんは、元気になってはいけなかったのだ」ということを後で私たちは知った。家族の複雑で揺れる気持ちが見えてきた。「母が元気になってくれること」を願いながらも、「元気になってしまったら、また大きな負担が増える」ことを恐れる家族がいた。だとしても、その時私たちにとって他にどんな方法があったのだろうか。

ただ淡々と、私たちなりのやり方で日々を重ねることしかなかったように思う。

家族は年寄りが元気になれば当然喜んでくれるだろうという大きな思い込みが、私たちにはあった。年寄りを前にして、いろいろな家族の複雑な思いが交錯するのが、介護の現場だと知った。たとえその選択がどんな選択であろうとも、それはただ家族の歴史と姿を映すものなのでしかないのだと。

私たちはまだ家族との付き合い方を、はっきりとは分かっていなかった。家族の不安や葛藤を共有できるほど、私たちは成長してはいなかった。

私たちには経験がまだ少なかったのだ。

家族の歴史や関係という過去、現在の家族の想い、将来がどうなっていくのかという不安、それらの事柄も含めて、それらすべての葛藤を、「家族と共に」私たちは正面から向き合っていかなければならないのだということを、初めて知ったキヌエさんとの出会いだった。

キヌエさんが近くの施設に入所していると風のうわさで知ったのは、何ヶ月もたった後だった。

 

 

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思うこと・・・2

2012-01-19 21:34:50 | デイサービス池さん

井上夫婦と過ごした月日は6年。まさに池さんの歴史そのものだった。

その2。「出会い」

みよちゃんと出会ったのは、オープン後間もない時だった。パーキンソン症という診断だったが、自転車による転倒が原因で骨折した後、右半身が若干不自由だという以外にはほとんどその疾病を感じさせるようなところもなく、至ってクリアな精神状態で池さんを利用し始めた。もともと仲がよかった夫婦を、離れ離れにしたくないというご家族の強い希望もあり、最初からみよちゃんは介護保険を利用して、じいちゃん(透さん)はパーソナル事業で週2回池さんに通うようになる。

(そのうち老いてゆくと、私たちは透さんのことをじいちゃんと呼ぶようになったが、初めの頃はまさに「透さん」としか呼べないほど、威厳に満ちた力強い人だった。)

二人との出会いを考えると、「夫婦が夫婦として一緒に過ごす時間を何よりも優先したい」という点で、家族には他のデイサービスを利用するという選択は全くなかった。そのくらい二人は仲好しで、いつもわがままを言うみよちゃんの横で、「やんちゃ言うなよ!」と優しく諭すじいちゃんがいた。

二人が生きた歴史そのままに、二人は仲好く老いていった。

介護保険を利用するみよちゃんと、自主事業を利用するじいちゃんの間には何の隔たりもない。利用する人にとって、介護保険だろうとそうでなかろうと、一日を過ごすことになんら変わりはないからだ。じいちゃんにとって、池さんに来ることが「介護される立場になった」という意識は全くなかったと思う。「いつも一緒にいる」ただそれだけだ。「みよちゃんを見守るために一緒に池さんに行く」それでいいのではないかと思う。

家族は「いつも二人が一緒にいる」ことを望んだ。それは「二人の望み」でもあった。二人がいつも一緒に過ごすという生活のパターンを、年をとりデイを利用するからといって変化させる必要はどこにも見当たらない。今までずっと一緒に過ごしてきたのだから。

介護保険制度ができて、家族の代わりに日中老人を「預かる」デイサービスがあちこちにできた。このデイサービスでは、「レクレーションや季節の行事を催し」老人に非日常の時間を提供する。また、後遺症などによる身体の不自由さを解消するために、「様々なリハビリテーション」を行う。

要介護状態の老人を抱える家族は、安心して仕事に出かけるために、または少しでも身体の自由がきくようにと、施設を選び利用を始めていく。そこには「サービス」という市場原理が存在する。利用する家族と事業者の間には、「契約」が存在し、当たり前のことだがサービスを提供し経営する立場とそれを利用する家族の立場に分かれる。「契約」には、今までどう過ごしてきたかとか、日々の暮らしがどうであったかということは、もちろん含まれてはいない。ただ、提供する側が示すサービスを、家族は契約によって受け入れていくしかないのだ。

じいちゃんは、みよちゃんと共に週2回やってきた。

みよちゃんは買い物好きで、よく「じいちゃん!」と言って手を出した。じいちゃんは黙ってポケットの財布から、1万円札を出して「ほい!」とみよちゃんに渡す。みよちゃんは大金をゲットすると「買い物に連れて行って~!」と私たちにねだった。そして私たちはみよちゃんを買い物に連れ出す。欲しい物を買うと、おつりはみよちゃんの財布にしまわれた。そして次の日も「じいちゃん!」と手をだすみよちゃんがいて、当たり前のようにお金を渡すじいちゃんがいた。二人はいつも嬉しそうだった。いつも一緒にソファーに座っていた。仲良く一緒に過ごしていた。

それが夫婦の生活。二人の暮らしをそのままに、私たちは二人と関わってきた。決して要介護状態のみよちゃんにレクレーションを行うのではなく、リハビリテーションを行うのでもなく、ただ二人が生きてきたように二人を支えていきたいと思っていた。

二人との出会いは、「契約」となどという一方的で固定的な枠を遥かに超えてただ、二人を「人」として「生活者として」考えていくことを、しなやかにその時その時にふさわしい関わり方を、私たちに示してくれたのだ。

 

 

 

 

 

 

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思うこと・・・1

2012-01-18 21:29:50 | デイサービス池さん

思うことを、これから少しずつ書きとめていきたいと思う。

その1。「立ち上げ」

私たちは平成17年、小さな事業所を立ち上げた。

大ちゃんはそれまで勤めていた老健での疑問を抱え、私は議員時代に考えた疑問点を抱え、富山のこのゆびとまれの惣万さんが実践しているような小さな規模で、老人や障がい者や子どもたちいろんな人が当たり前に暮らせるデイを作りたいと思った。

その頃はまだ、そんな理想がなかなか受け入れられずに、「いったい何をしよるん?」という世間からの厳しい目を背中に感じながら、それでも何とか実績を重ねることだけを考えてきた。利用者もなかなか増えず、経営も苦しくて借り入れだけが増える中で、ただひたすら耐えて耐えて・・・。

「一人の人」を支えようと思うと、介護保険だけでは無理が生じる。「人は生活する」ためには、あらかじめ決まった予定はあくまで予定でしかないからだ。急に介護者が病気になる場合もあるし、仕事が遅くまでかかることもある。「人の暮らしを支えよう」と思うと、どうしても自由にその時その時に対応できる支援が必要になるのだ。急な延長や提供票には載らない支援が必要になる。私たちはそういう支援をパーソナル事業として行ってきた。もちろん採算ベースになどのるはずもない。けれども確かに、介護保険の隙間を埋めることがこれからの時代には必要なのだと感じていた。

柔軟なそういう支援がないと「人」は支えられない。制度にのみ頼っていては、老後を支えることなど不可能なのだ。

迷わず、私たちはそれを行ってきた。

一人一人と向き合い、ゆっくりと時間を過ごし、生活することを大切に、私たちは時を積み重ねてきた。「何かをする」ことを日常にするのではなく、ただひたすら食・排泄・そして笑って生きることを目指してきた。

1年後。最初の監査の時。県の職員が涙を流して書類を読んでくれたことを覚えている。「こういう介護が理想です。一人一人をちゃんと見ている。苦しいでしょうがどうか頑張ってください。」と。介護保険のあり方を考える立場にいる人ですら、いろいろな事業所の問題点を、(介護の現場の問題点を)認識していたのだと思う。

今でこそ小さな規模の施設があちこちできてきているが、その当時は「大きな立派な施設こそが、良い介護を行える」という世間の誤解があり、小さくて医療法人や社会福祉法人ではない個人の有限会社など、全く相手にされない頃だった。

ただ、普通に。当たり前に。ここに集う人はあたり前の人たちなのだと。身体が不自由だろうと、老いていようと、ボケていようと、決して特別な人なのではなく、ただ「人」なのだと、それを支える場所でいいのだと、池さんと言うデイがこのままで進んで良いのだと、初めて思えた監査だった。

私たちは理想を追いかけ信念をぶらすことなく頑張り続けたけれども、世間はそう甘くはなく、なかなか利用者も増えずに苦しい1年目を過ごしていた。

そんな時出会ったのが「井上夫婦」だった。

 

 

 

 

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今年のテーマ

2012-01-16 20:15:20 | デイサービス池さん

新年を迎えてから、16日め。

今年、私たちは池さんでの6年間の積み重ねた日々について、外へ向けて発信していこうと大ちゃんと話し合っていた。

今まで、いろんなことを考えてきた。悩みながら現場で生きてきた。

6年前の私たちとは全く違う意識を持って、6年前の池さんとはおそらく違う形で、深く考えながら毎日を過ごしてきた。

でも「池さんは楽しいところ」という印象だけが6年前のままで一人歩きしているというジレンマに去年1年間悩んできたのだ。(確かにどこよりもおバカではあるのだけど

もうそろそろ、今まで漠然とだけど考えてきたことを発信しても良いかなという想いになっていた。

そうして新年を迎えたとたん・・・決心した私たちの前にいろんな出会いがあった。

そしてどの出会いも、「発信すること」に繋がる出会い。

これからの時代の「老い」・現代の「死」・専門職としての「支援のあり方」・そして死を通して考える「生の意味」・「生をつなぐための介護職とは」・看取りの意味・家族や地域のあり方・・・

いろんなテーマを、池さんなりに少しづつ考えていきたいと思っている。

そんなこんなちょっとまじめな、冷たい雨の夜。

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成人式

2012-01-08 22:00:18 | デイサービス池さん

中学生の時の授業で、池さんを訪れてからのお付き合い「あやのちゃん」

本日成人式。

午後、大頭にやってきたあやのちゃん。

「こんにちは」の声に玄関に出ると、振袖姿のあやのちゃん。

「あっ!成人式だったんや」と思わず目を見張るような晴れやかなあやのちゃん。

「今日は日曜だからデイもお休みだし、大ちゃんもいなくてごめんね~」と言うと、「ヒイちゃんに見てもらおうと思って」とわざわざ大頭へ来てくれた。

コタツで昼寝中のヒイちゃんを起こす。

ヒイちゃん「ありゃ~~~!これはこれはありがとうよ!」と目をキラキラさせて飛び起きた。

いつもなら目が見えないふりで、都合の悪いことはごまかすのに、今日は素直に起きて嬉しそうにあやのちゃんの手を握ってなでなでしてる。

写真を撮ったり話をしている間も、ヒイちゃんは「綺麗なの~!」と言いながら、桜の模様の振袖をなでまわして、帰り際も振袖を掴んで「イヤイヤ」と駄々をこねるようにして離そうとしなかったくらい。よっぽど嬉しかったんよね。ヒイちゃん。

いろんなことを経験して、どんどん大人に近づいてゆくあやのちゃん。

「私は池さんで大きくなったんだな~と思いました」

経験を重ねてゆくと、社会の矛盾や現実の厳しさにも、向き合わなくてはならない時があると思うけど、どうか全ての経験を宝物にして、豊かな心を紡いでいってほしいと思います。

池さんを思い出してくれて、ヒイちゃんを思い出してくれて、本当に嬉しかったです。

ありがとう。

成人の日をお祝いして、ポール・J・マイヤーの詩をプレゼントしますね。

「鮮やかに創造し  熱烈に望み  心から信じ  魂を込めた熱意を持って行動すれば  何事もついには実現する」

あやのちゃんなら、豊かな心の素敵な大人に必ずなれると思ってます。

また遊びに来てくださいね。

池さん皆でいつでも待ってます。

 

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トホホの初夢

2012-01-04 20:18:57 | デイサービス池さん

本日仕事始め。

いきなり3人がお休み。お正月行事もあるし、北風ぴゅーぴゅーの日だったし・・・まあ仕方ないか。

とにかく、冬は誰もが出かけることがおっくうになるわけで・・・

で、初夢は2日の朝に見た夢のことを言うんだったっけ?

でも、でも、ずっと仕事に追われていたせいか何なのかわからないけれど、このお正月の間、私の見た夢は前代未聞の最悪な夢ばかりなわけで・・・(私は普段あまり夢を見ないのです。って言うより覚えていないことが多いわけで)

31日。夜勤。年末の用事を全て済ませて眠りについた私が見た夢は・・・「とにかくずっと誰かに追いかけられている夢」何がなんだか、池さんの中をとにかく逃げ回る。隠れ回る。疲れ果てて目が覚めた!

1日。夜勤を終えて家に帰り、娘たちとお正月をしてから夜眠りについたら・・・「いつまでたっても仕事が終わらない夢」身体中が痛くなるほど疲れ果てて目が覚めた!

2日。夜勤。池さんにいるほとんどの人が登場。訳わからないけど、皆が押し寄せてきて、潰れそうになって、クタクタになって目が覚めた!

3日。お正月休み最後の夜。なんと、恐ろしく怖い夢。エクソシスト(かつて流行ったオカルト映画)ばりに恐怖とサスペンスに溢れたぞっとするほど怖い夢・・・もちろん池さんのよく見る顔ばかり。ハッと目が覚めたら夜中1時半。汗びっしょりで目が覚めた!

そんなこんなお正月の夜の出来事。・・・どれが初夢かわからないほど、いやいやどれが初夢でも大して違わないほど、どうしようもなく恐怖に満ちた夜を過ごして、とうとう仕事初めの今日。

なんか寝たような寝ていないような・・・夢に疲れ果てて、今日もヘトヘトの年明けの一日。

1年間を威勢よく始めたかったのに、夢にエネルギーを使い果たしてしまった2012年の年明け。

最初がこれなら、これから先は良くなる一方・・・と思いたいポジティブ思考のワタクシ。

相変わらずのこんなワタクシですが、皆様1年間どうぞよろしくお願いしますね

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新しい年に

2012-01-01 17:31:26 | デイサービス池さん

皆様 明けましておめでとうございます。

大頭は平和な朝が明けました。

ヒイちゃんと二人の静かな朝です。

東の空へ向かって手を合わせ、お屠蘇を頂き、おせち料理とお雑煮を頂いて、ヒイちゃんはコタツでもう夢の中です。

昨年はいろんなことがありました。

想像だにしなかった多くの災害に見舞われ、今なお多くの方が故郷への想いを抱きながら、辛く苦しい現実と向き合っておられます。復興への道のりは、まだまだ遥かに遠く、でも少しずつ確実に前に進み始めている方たちのことを知るたびに、今自分にできることは何なのかを思い返しています。

小さな私たちの事業所も、命と向き合いながら移り変わりを経験しました。大事な人を看とり、老いてゆく人と向き合いながら、大切なことを見過ごさないように一日を精一杯生きることを学びました。

かつて幼かった頃、私が初めて社会というものを認識するきっかけとなった住井すゑさんの「橋のない川」の本の中に今でもはっきりと脳裏に刻まれているこんな文章があります。

「彼(か)の先輩より便りあり。〝新年おめでとう〟とは言いつれど、この日も或る人は貧に泣き、或る人は差別に喘ぐ。ゆめ、めでたき幻想(鬼)のとりことはなる勿れ(なかれ)と。今よりは心して生きん。」

・・・・・

常に厳しい現実から目をそらすことなく、自分の足元を見つめながら、少しづつ前へ進んで行きたいと思うのです。ゆるやかに・たおやかに、しなやかに・・・

肩の力を抜いて、年相応に丸く生きてゆきたいと思います。

少し先を見ながら、仲間たちと一緒に新しい年を生きて行けたらいいなと思います。

どうか、皆様にとっても豊かな年となりますように。

新しい年に、深い大きな想いを込めて・・・

 

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