池さんで働くおばさんの日記

デイサービス「池さん」の大ちゃんママのブログです。

新しい1年に

2020-08-25 18:14:53 | デイサービス池さん

パソコンの前に座らずに、あっという間に2週間。

皆様、お変わりございませんか。

夏休み間ずっとお手伝いをしてくれたももちゃん、くうちゃんの小学校組は今日から2学期。

福岡の学校は先週から、一足先に2学期が始まって、暑いのに頑張っている様子です。

いつもなら子どもたちの楽しみな夏休みも、いつもと違う夏休み。

いつもよりも暑い夏も、行楽地へ行く気分にならない夏休みも、それはそれで仕方のない夏休みだと思うしかない貴重な夏休み。

覚悟を決めて家で過ごすと諦めれば、それはそれで楽しいことも考えられるかもしれないということに気がついたら、なんだか気持ちも晴れるような、そんな気がする今年の夏休み。

昨日、63回目の誕生日を迎え、63年目の今年1年をどう生きればよいのだろうと考えたりする1日です。

昨年の夏、母を愛媛に連れて帰り、同居生活が始まりました。

幸い、母のことを大切にしてくれる夫や、母の大好きな大ちゃんや、ひ孫たちのいる生活は、おそらく一人暮らしを長く続けてきた病後の母にとって心強い環境だったようで、日増しに元気を取り戻していく姿を、日々感じる1年だったように思います。

自宅の庭、池さんの庭、そして大頭の広い敷地を花や木を植えて蘇らせてくれました。

そんな母を加えての1年。

ちょっとだけゆっくりと年相応にゆるやかに生きたいと62歳の誕生日に思ったけれど、なんだか今までと同じような気がしないでもなくて、でも確かにのんびりできる時間も与えられてはいるはずだけど、のんびりできないのが性分なのかどうなのか。

新しい1年が与えられて、今年こそは年相応に生きたいと意気込む矢先の誕生日の日の煩雑さ。

必要とされていることに感謝の気持ちを感じつつ、

皆が私を想ってくれる気持ちを有難く思いつつ、

63歳の一年を、めげずに、やっぱりちゃんと生きようと思ったりする誕生日。

しっかりと、丁寧に、日々生きてゆきたいと強く思う今宵です。

 

 

 

 

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ある人の話

2020-08-10 20:28:30 | デイサービス池さん

最初に出会ったのは、いつだっただろう。

その人は近所に住んでいた。

当時いろんな団体の代表を務めていた私は、近所に住む人から、その人が所属している団体に関係する新聞を購読してほしいと頼まれた。

その人の温厚そうな印象とお世話になった隣人からの勧めもあり、新聞の内容に興味があったわけではないが私は購読を始めた。

それ以来、毎月新聞の集金に来るその人は、子どもさんもなく当時奥さんと二人暮らし。

いつも集金に来るたびに、購入のお礼にと沢山の自家栽培の野菜をもってきてくれた。

15年前に池さんを始めてからは、それまで以上に大量のお野菜をいつも届けてくれ、池さんの胃袋を支え続けてくれた。

池さんものがたりでも紹介したように、平成26年5月「もうひとつの看取り」は、その人の奥さんを見送った時のエピソード。

大切な方を見送ってからも、その人は今までと変わりなくお野菜を持って月に一回集金に来てくれていた。穏やかなその人は、春にはお芋や玉ねぎを、夏にはゴーヤやキュウリを、冬には大きな柔らかい大根を、笑顔と共に届けてくれた。

そうして気がつくと、かれこれ20年近い時間が過ぎていた。

体調が安定しなくなり、車の運転もおぼつかなくなった頃、入浴が億劫になり身の回りのことが行き届かなくなった頃、介護予防という言葉が世間に知られ始めた頃。

その人の生活を心配した周囲の人たちは介護予防のデイサービスなどを勧めたけれど、大正生まれのその人は頑として受け入れず、「でも池内さんの所だったら」と納得してくれて、その人は池さんの利用者になった。

社会的にみると近所の人としてではなく、「池さんの利用者」としてこの場所へ来ることになったのだけれど、その人は今までと同じように、野菜を持ってきてくれる時と同じ顔で池さんに来てくれた。

その人は池さんの利用者にはなったけれど、私とその人との関係は何一つ変わらなかった。

私はそれまでと同じように、その人に接した。

それまでと全く同じように挨拶をし、会話をした。

経営者と利用者、介護者と被介護者ということではなく、隣人として接し続けた。

 

最初は要支援での利用で、時間が経つと共に、大正生まれのその人は年齢相応に老いていった。

その頃には、野菜を作る体力はなくなっていたけれど、その人は車を運転してスーパーへ行き、購入した野菜を持って、今までと同じようにやってきてくれた。

一度その人に伝えたことがある。

「どうぞ、気兼ねなく手ぶらでお越しくださいね。」と。

けれど次の利用日も、その人はやっぱり袋にいっぱいの野菜を持ってやってきた。

洋服や下着の汚れが目につき始めた頃、ヘルパーの利用を開始してはというケアマネの助言も受け入れずどうにもならない頑固さで独居を続けた人だけれど、ただ池さんで過ごす時には誰よりも穏やかで優しく静かな人だった。

大量の野菜は、いつからかお菓子や果物に変わった。

池さんのデザートには、いつもその人が持ってきてくれたバナナが登場した。

要介護になっても、介護タクシーを利用するようになっても、その人と私の関係は、かつてと同じ隣人としての対等な関係。

 

心臓や腎臓に大きな疾患を抱えていたので、いつどうなるかわからないほどの状況になっていたが、その人は相変わらずデイの日にはお菓子や果物を持ってやってきた。

大量のお菓子の入ったレジ袋は重たくて、その人は荷物を持つことができなくなっていたが、それでも「玄関の荷物を」と言って送迎の職員に運んでもらうようになってもなお、いつも買い物袋と共にデイにやってきた。

浮腫がひどくなり歩行が困難になった時、それでも、おそらく何日も前に買っていた大根だろうと思われる1本の大根と玉ねぎを持ってきてくれた時、この状態になってもなお隣人として存在し続けるこの老人に私は心を揺さぶられた。

6月半ば心臓の状態も悪く、その日歩くことさえ辛そうで、もし転倒したらこれが最後になるかもしれないと職員に伝えて、どうか無事に次回のデイに来れますようにと皆で見送ったけれど、翌日早朝玄関先で転倒している所を新聞配達の人が見つけ救急搬送されたと連絡が入った。

全身状態が悪かったので入院は長引くに違いないし、独居生活を考えるとおそらく家には帰ることができないだろうと思った。

時期も悪く面会や訪問がまだ禁止されている折、私たちは想いを巡らせてもどうすることもできない現状。

7月16日木曜日午後。

入院してから1ヶ月ほどが経った頃、遠縁にあたる人から今後のことを相談したいと連絡があった。

「全身状態が悪く、点滴による治療に限界があること。点滴を中止すれば看取りの状態に入ると医師に言われたこと。家に帰りたいと本人が希望していること。家は独居でこの状態での在宅生活は難しいだろうということ。本人の希望で池さんなら行くというので、看取り前提での介護をお願いできないだろうか」という内容の話だった。

迷った。

その人にとっての「池さん」とは、常に対等な関係を維持していた場所。

ここでの看取りを本当にその人が受け入れるのだろうか?

その人にとって、どの場所が最もその人らしい場所なのだろう?

池さんで介護されることに、命を預けることを本当に望んでいるのだろうか?

宅老所での看取りを本当に望むのだろうか?

悩んだ。

迷った。

迷ったけれど、私と大ちゃんは(今までここで看取ると決心した人たちと同じように)決心するしかなかった。

その日の夕方、私たちは返事を伝えた。

「もし、病院が治療を中止すると決定したら(積極的な治療はできないと判断したら)宅老所で最期まで看取ります。」

親戚の人たちは安心したようだった。

 

7月17日、金曜日朝。

病院から電話。

「明日で治療を中止しますので、そちらの受け入れはいかがですか?」と。

前日の午後、初めて事情を聴いたばかりでの翌日の連絡。

ケアマネも私たちも驚きを隠せなかったけれど、とにかく18日土曜日で治療は中止ということは決定したらしい。

それにしても早すぎる。

20日の月曜日にケアマネと家族で、今後のことを具体的にもう一度話し合うよう設定されていたので、とりあえず実際の移動などについては、その話の結果待ちということで私たちは了解しあった。

そして20日の早朝。

その人は亡くなった。

話し合いが行われる日。

治療中止したわずか2日後。

亡くなったことを聞いた時、不思議と悲しくなかった。

悲しみよりも、尊敬の気持ちが湧き上がってきた。

 

なぜなら、私も大ちゃんも、確信できたからだ。

「病院では患者だった。病気を治療するために患者として生きることは納得しただろう。けれど池さんにくれば、その人は「介護される人」として生きなければならない。介護される人として、看取られる人として、その人は生きたくはなかったのだろうと。その人にとっての池さんという場所と池さんにいる人たちは、対等な隣人として存在し続ける場所と人たちであるべきだったのだと。」

今までも実際は、要介護者と介護事業者として契約に基づいた関係ではあったけれど、その人の心の中には、おそらく介護保険の契約などという関係ではなく、20年前と同じように「池内さんの所」という大切な社会としての感覚を失いたくはなかったのだと、一方的な存在にはなりたくなかったのだろうと。

自らが選びとり、自らが決定した死だと、確信した。

これほど潔い死があるだろうか。

その人らしく、

頑固に、生きて、

その人らしく、

自らの死を選んだ。

 

大正15年生まれ。

自らの生き方をはっきりと指し示し、自らの生き方を確かに全うした人生に敬服。

大切な一人の人の人生の道のり。

ほかの誰かと同じではなく、それは、紛れもなく、その人の人生に他ならないのだと、尊敬の念を持って改めて思い返す。

そして、最後の時まで、その人の心の中にある池さんのままで存在できたことを、その人にとっての社会と居場所であり続けられたことを、誇りに思いたい。

優しい穏やかな顔と共に、池さんという場所に溢れる気持ちを持ち続けて頂いたことに、頑固だった人柄と共に、そして大切な時に池さんを頼ってくれたその心のありかに、見事な人生の幕引きに、長かったお付き合いの時間と共に、心の引き出しにしまいたいと思う。

池さんのものがたりは、たくさんの人たちによって、今も紡がれ続けている。

 

もうすぐお盆。

今まで見送った人たちにもう一度会いたいと思う暑い1日。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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通所

2020-08-04 19:03:23 | デイサービス池さん

梅雨明けと共に、太陽の光に怯えるような毎日を送ってます。

皆様お元気でしょうか?

ひたすら、暑いです!

暑さとウイルス、熊本では洪水後1ヶ月、今だ復旧も滞っていて平穏な毎日を強く願う今日この頃です。

 

子どもだった頃のように、夏が来た~という躍動感にあふれることもなく、自粛続きで海だ~プールだ~という感じでもなく、やっと始まった学校は再び短い夏休みに入り、遠方からの帰省組は今年は会えず・・・。

思わず愚痴を言いたくなる気持ちを年寄りたちに支えられながら、なんとかかんとか、やっと生きている気がします。

それに引き換え、年寄りたちの元気なこと!

直射日光の温度、40度だろうとなんだろうと平気。

照り付ける太陽の光にも負けず、日焼けなど気にもせず、毎日「どっか連れて行ってん!」と言い、丈夫な口とタフな胃袋を持ち、とにかくじっとしていない、歩けないのに出かけたがる、そんなあなたに私もなりたい、と思ったり、思わなかったり。

 

この厳しい暑さの中でも、ここではいつもと同じ日常が今までと変わらず続いています。

毎日通ってくる年寄りたちは、いつもと同じ家での暮らしが続いています。

家族の考えや想い、その人との関係や、その人を取り巻いている人との関係や、その人の生活歴によって、望むと望まざるに関係なく、「その人の暮らし」が続いています。

 

その人がどう生きるのが、その人にとって幸せなのか、

その人がどう生きたいと、望んでいるのか、

そんなことを一生懸命に考えながら、一緒に生きている家族もいるし、

その人がどう生きたか、とは関係なく、

今の家族のありようは、おそらくこうなるしかないのだろう、

その人がどう生きたいか、とは関係なく、

ただ毎日生きるしかない家族もいるし、

家族の姿もさまざまです。

 

蒸れるような暑さと共に、心の中にいろんな想いが溢れます。

 

どう生きるべきか、ということではなく、

どう生きなければならないか、ということでもなく、

ただ、毎日のその姿は、その人の家族の姿そのものだと、

いつも思うのです。

 

ここは通いの場所です。

ケアや介護全てを家族から切り離し、代わりに担うべき場所ではありません。

その人も、あの人も、家に帰るのです。

家族が過ごすように、その人も家で過ごす、

家族が望むように、その人も生きるしかありません。

 

だからこそ、ここにいる時間は、

全ての時間を大切にしたいと、

思うのかもしれません。

少しでも笑顔があふれるように。

記憶の片隅に、はっきりと、刻み付けられるように。

暖かく、穏やかに、心の底から、大切に、

向き合い続けたいと思うのかもしれません。

時には喧嘩しながら、時には手を取り合いながら、

人と人として、

最後まで、同じ人として、

共に過ごせる最後の時まで。

同じ時間を生きたいと思うのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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