はや立冬です。
いやはや早すぎでしょと思わずぼやきたくなる今日この頃。
1年を24に分けた24節気の19番目が立冬で、冬の始まりを感じる日で季節の区切りの日。
そう思って考えてみると立春から始まり立夏、立秋、立冬と今年も季節は移り変わり、移り行く季節の中で、確かに皆生きてきたんだなと感慨深く思うわけです。
家の事情でまたまたお泊りに来てる山のばあちゃんは101歳の年を生き、98歳を生きるばあさんから59歳の時を生きる人まで、池さんという場で繋がる人たちは、それぞれが様々な時を生きているんだと思ったら「時間」に対して愛おしい想いを抱いてしまったりするワタクシがおります。
その人を取り巻く環境は、同じようで人それぞれ。
それぞれがそれぞれの家族に囲まれて、あるいは一人で、それぞれそれなりに生きているんだなと思うと、同じ時間でも同じではなく、反対に違う時間を生きているようで、実は同じ時間だったりするわけで。
「時間」という言葉の響きに、なんだかわからないけど魅力を感じてしまうワタクシであります。
立冬の日の夜を、センチメンタルに過ごそうかなどと思っていると、さてさて・・・リンちゃんの寝言が聞こえてきます。ちょっと実況中継。(リンちゃんは現在大きな疾患を抱えておりまして、身体レベルの低下と共に、全身的にいろんな面での変化が大きくて危機的な時もありまして、なのでこのブログへの登場も久々です。)
なんじゃか・ふんじゃか・なんじゃか・ふんじゃか・・・
私:低く籠った声で一定のリズムを刻んでいます。
なんじゃ~ふんじゃ~なんじゃ~ふんじゃ~・・・
私:・・・まるでお経のように静かで変化のない音です。
なんじゃか・ふんじゃか・りんちゃんかわいいなんじゃかふんじゃか・・・
私:あっ、自分のことですかぁ~?
なんで~こんなに~なんじゃか・はんじゃか・ふんじゃか・ほんじゃか・・・
私:え~と、複雑ですね~変則になったのですね。
はんじゃか~~~ほんじゃか~~~ふんじゃか・・・
私:語尾が伸びた!
りんちゃんはどこですか・りんちゃ~ん・りんちゃ~ん・りんちゃ~ん・ふんにゃ~はんにゃ~・・・
私:あなたっ、リンちゃんじゃなかったんですか?
ふんじゃ~はんじゃ~さむいんじゃ~・・・
私:寒かったんですかっ?
なんじゃ~ほんじゃ~おなかがすいて寝られません・なんじゃ~かんじゃ~・りんちゃんおなかがすきました・・・
私:おなかもすきましたか?
ほんにゃ~~ほんにゃ~かんにゃ~ほんにゃ~かんにゃ~
とリンちゃんと私の(心の声)会話はしばらく続いておりましたが、だんだん静かになってゆきまして、りんちゃんとうとう夢の中。
静かに夜は更けてまいりました。
リンちゃんの生きる「時間」も、リンちゃんにしかない時間。
元気だった頃しっかり強い「時間」を生きたリンちゃんも、身体に訪れる大きな変化を受け入れてそれなりに変化を続けて生きているのですから、リンちゃんにとってただ一つの「時間」です。
そう思うとやっぱり愛おしくなります。
例え夜通し続こうと、お経のように耳につこうと、まあそれはそれでいいのだと思います。(あんまり単調な繰り返しが続きすぎて、イライラすることも時々しょっちゅうありますのでね。)
「時間」という区切りの存在する社会の中で、生きてゆかなければならないのが人間だとしたら、
自分にとっての自分にしかない「時間」を、大切に生きていかんとなと改めて思いながら、立冬の日は1年という時間の区切りの中で残りの日の少ないことを思い起こさせてくれました。
立冬の日の夜更け、寝言の止んだリンちゃんとばあちゃんの寝息、時々聞こえる雄たけびのような激しい声。
どれ一つたりとも同じものはなく、同じ時間はなく、もう一度やり直せる時間はなく、前に進む時間しか私たちには与えられていないのだと心に刻みたくなる立冬の夜です。
「時は命なり」です。時の流れは命の流れです。 高田好胤
私たちの存在は現在世のものだけではありません。無窮の時間の流れの中に私たちはたった一つの命を頂いて立っているのです。私どもの目の前のこの時は、瞬間もとどまることなく流れに流れているのです。かけがえのない「いま現在」という時間を無駄にすることは時間を殺すことであります。時間を殺すのも殺生です。
今年最後の時間まで、ゆっくりと一生懸命、前を向いて生きてゆきましょう。
他者に対してではなく、自分の心に問いかけながら、自分自身と向き合いながら。
ここで出会った人たちと、一緒に。