またまたあっという間に、4月も終盤に差し掛かっていて、年度末のもろもろのことさえ終わっていないのに、新年度がどんどん過ぎてゆくことに、本日遅ればせながら気がついた次第。
机の上さえ片付かない現状に、「どうする池内」な~んて言ってる暇もなく、こんな時はとりあえず見ないふりするしかないと思ったり。
新年度も始まって、池さん家族の子どもたちも、それぞれに進級・進学を果たし、無事に新しい環境に慣れつつあるようで、ここはちょっと安心。
社会人になったグループも、元気に大人の社会に馴染みつつあるようで、風の便りに元気な様子を耳にするたびに、「頑張って~」と心の中で応援している今日この頃。
子どもたちの成長は早い。
保育園にも、学校にも、社会にも慣れて、きっと充実した毎日を過ごすことだろう。
頑張れ、みんな!
こうして成長と共に変化する環境を受け入れ、今までと違う生活に順応してゆくことは、決して容易なことではないだろうと思う。
変化し順応するという移行が上手くいかず、辛い思いをしたり、足踏みをしたりすることもあるだろう。
でもどうか、あせらず、いきらず、ふてくされず、ほどほどに、生きてほしい。
人生は長い。
まだまだ始まったばかり。
今は苦しくても、今は報いられなくても、いま理解ができなくても、
ただ、こつこつと頑張っていれば、きっと後ろに道ができているはず。
ふり返った時、あ~あの時はしんどかったな~と思える日が必ずやってくる。
どうか、
少しずつ歩いて行ってほしい。
心からそう願う。
変化の激しい今の時代。
周囲の評価や今の時代の価値観など、時代と共に、あっという間に変わってゆくだろう。
平和を求めて生きる人たちと、地球環境について声高に叫びつつ生きる人たちと、砲弾を投げ続け破壊し続ける人たちと、殺戮に命を燃やす人たちと、そんなこと関係ないと無関心の人たちと、自分さえよければの人たちと、あらゆる人が混在する社会。
愚かだと、誤った選択だったと学んだはずの戦争という20世紀までの負の時間を、再び繰り返そうとしている世界の空気に絶望感が溢れだす。
自国主義の果てに存在するものなど、何ひとつない。
価値観の多様化を叫びつつ、あまりにも多様化する価値観のせいで、何が正しいのか、何が正義なのか、頭を抱えたくなる今の世の中。
介護の世界もほぼ同じ。
介護保険など、これからどうなるかさえわかりはしない。
確かな方針や、確かな見通しなど、どこにも存在しないのだ。
ゆらゆらと迷走を繰り返し、在宅から施設へ、予防へ、科学化へ、加算システム化へ、機械化へ、変わり続け、一体なんの為の介護保険なのかさえ今ではまったくわからない。
18年前の社会が求めていた介護と、今の時代、これからの時代が求める介護の姿は大きく違う。
私たちがやってきた介護と、国が推進する介護のあり方との間には、距離がどんどん広がっているような気がする。
同時に社会が求める介護観も変わりつつある。
ただ、だからこそ、やっぱり池さんは、池さんのままでやっていきたいと思う。
介護という形を、ただのサービスとしてではなく、生き方として実現することに心を砕いてゆきたい。
人の生き方や暮らし方としてとらえることを変えずにやっていきたいと思うのだ。
時代に翻弄されることなく、歩いて行く方向を見間違えることなく、コツコツやっていくしかないのだと、自分の心に言い聞かす。
国策に振り回されることなく、科学的根拠に頼ることなく、データに支配されることなく、ここに集う人たちの笑顔を根拠に、「人が暮らし、生きてゆくため」の介護を、きちんと実践してゆきたいと思う。
何のために、誰のために、この制度を作ったのかを、深く考えながら、生活に寄り添うために、暮らしの先にある景色を想いながら、老いという時間を生きるために、この制度をちゃんと使ってゆきたいという信念だけは曲げずにいたいと思うのだ。
今願うことは、
若者たちが未来に絶望することのないように、子どもたちが生きる社会が荒れた社会でないように、知性と思慮に満ちた政治が行われるように、世界がずっと美しく穏やかなものであるように、
未来の世界がより良いものであるように。
自分の人生の柱を育てつつある子どもたちに、
心からエールを送りたい。
胸を張ってエールを送れる自分であり続けたい。