池さんで働くおばさんの日記

デイサービス「池さん」の大ちゃんママのブログです。

子どもと大人

2021-09-26 22:34:31 | デイサービス池さん

テレビ番組の中で誰かがこんなことを言っていた。

子どもと大人の違いについて。

「自分がしたいことをするのが子ども」

「その自分を少し離れた所から見ることができるようになったら大人」

なるほどと思った。

つまり自分を客観視できるようになったら大人というわけ。

他者の視線や他者という意識がなくて、ただ自分がやりたいことをしているだけなら、そこにあるのは「自分」だけ。

大人になるということは、他者から見た「自分を知る」ということなのかもしれないとその人は言った。

自分自身を、「客観的に判断できる自分」という存在。

それができるようになったら、大人になったということではないかという。

客観的に自分を見るということは、ある意味難しいことかもしれなくて、そこには、自分以外の他者の存在を認めることが必要になる。

他者から見て、自分の行動や思考がどうなのか、という視点。

独りよがりの自分自身ではなかったか、という自分に帰すことができる視点。

話を聞きながら、いろんなことを考えた。

必要以上に他者の視線を気にするという意味ではなくて、つまり、自分を振り返ること、時に客観視することが必要だという意味において大いに納得できる。

自分を客観視できるということは、自分の行為や思考においても、他者との関係を考えることができるということだと思う。

言い換えると、他者を想うことができるということ。

他者の気持ちや立場を想像し、想うことができるということ。

年齢としての大人という意味でなく、「大人」という言葉のもつイメージが、相手を思いやる優しい感情や相手の気持ちを想像することができるという包容力のあるイメージに繋がってゆく理由は、そういう意味合いなのかもしれないと思う。

 

人の「成熟度」という観点から考えてみる。

子どもは成長して、大人になる。

大人は年をとり、老人になる。

年をとるにつれて、ほとんどの人が頑固になって、意固地になって、自分のことだけを訴えるようになり、社会的(協調的)な思考が失われてゆくという過程を見ていると、つまり大人から子どもに還ってゆくイメージの風景を毎日見ていると、なるほどな~と納得。

大人という時代を通り越したあとは、誰もがただ自由な人(老人)に変わってゆくに違いない。

 

 

9月21日が十五夜。以降十六夜、十七夜、十八夜、十九夜。

十六夜がいざよいの月。

以降、月が出る時間がだんだん遅くなり、立待月・居待月・臥待月・更待月と呼ばれる。

昨夜の月は11時半頃見ることできた。

臥して待つ時間。

今年の月は、毎日綺麗によく見える。

秋の夜を、欠けてゆく月を待ちながら過ごす。

いにしえの時代に生きた先人たちは、自然と共に生き、自然を愛おしみながら、自然に老いを受け止め、生きていたに違いない。

命も、老いも、病も、ボケも、自然に受け止めて生きていたのだと思う。

かつて月の満ち欠けに合わせて季節を知り、農耕を営み生きた人たちのように、優しく静かに大人らしく受け止めることができたら。

大人としての視点で世界を見ることができたら。

この世界も、もうしばらくの間、そのままでいられるかもしれない。

 

 

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待宵月

2021-09-20 20:25:04 | デイサービス池さん

彼岸の入り、満月前夜。

十五夜の前夜の月を待宵月と呼ぶ。

99.6%の満月度。

明日が100%、中秋の名月。

満月前夜だけど今夜の待宵月は、澄み切った空気の中で見事に大きく美しく輝いている。

秋の風が心地良い。

 

敬老の日で来てくれた孫たちが帰った後、

庭に出て月光浴。

深く深く深呼吸。

苛立ちも迷いも消えてゆくほどに、深く深く深呼吸。

少し冷たい風が肌に触れる。

 

あれほど暑かった夏が終わり、季節は変わり、彼岸花が田畑を彩る。

だれが教えたわけでもないけれど、彼岸が来る頃には必ず咲く彼岸花。

真っ赤に咲く彼岸花が秋を知らせてくれる。

庭の桜や梅の葉が色づいて散り始め、枯れ葉があちこち落ち始める季節。

私は1年で一番、この季節が好きだ。

春のワクワク感とは違うけれど、やがて冬を迎える前の静かなイメージの秋が好きだ。

 

静かな季節の移ろいの中のゆったりした時間の一日。

懐かしい人が次々と訪れてくれる。

懐かしい人との時間の中で思い出す映像は、今も色あせることなくいろんな思い出を鮮やかによみがえらせてくれる。

池さんを続けてもうすぐ16年。

ずいぶんいろんなことがあったものだと振り返りながら、

秋の一日を過ごす。

 

悩む人の声に耳を傾けながら、

苦しい人の心に寄り添いながら、

一日過ごし、

懐かしさに満たされながら、

中秋の月を見上げている。

 

穏やかな世界になってほしい。

優しい社会になってほしい。

分断された人と人の関係が、希薄になってしまった人と人の関係が、

どうか再び強く結びつくことができるよう祈りたいと思うのだけれど。

 

社会の変化の大きさと行く末の不透明さに、

心のざわつきが止まらない気がする彼岸の夜。

月の美しさに、一縷の希望を見出したい気がする夜。

明日が十五夜。

 

明日はまた、皆に会える。

 

 

 

 

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ものがたり

2021-09-16 23:12:37 | デイサービス池さん

いろんな人の人生を知るたびに、いろんな家族を知るたびに、いつも考える。

どんな人生を生きてきたのだろう。

どんな家族と過ごしてきたのだろう。

暮らしの断片が見え隠れする瞬間、思い出す本がある。

私の大好きな臨床心理学者の故河合隼雄氏と大好きな本「博士の愛した数式」の作者の小川洋子氏の対談「生きるとは、自分の物語をつくること」という本。

この本の中に、河合氏が大切さを説いている「ナラティブ・ベイスト・メディシン」(ものがたりを基盤とする医療)という考え方について小川氏が書いている文がある。

 

河合先生の著書を読み、物語というものの解釈に出会ったのはちょうどその頃でした。

いくら自然科学が発達して、人間の死について論理的な説明ができるようになったとしても、私の死、私の親しい人の死、については何の解決にもならない。

「なぜ死んだのか」と問われ、「出血多量です」と答えても無意味なのである。その恐怖や悲しみを受け入れるために、物語が必要になってくる。

死に続く生、無の中の有を思い描くこと、つまり物語ることによってようやく、死の存在と折り合いをつけることができる。物語を持つことによって初めて人間は、身体と精神、外界と内界、意識と無意識を結び付け、自分を一つに統合できる。

人間は表層の悩みによって、深層世界に落ち込んでいる悩みを感じないようにして生きている。表面的な部分は理性によって強化できるが、内面の深い所にある混沌は論理的な言語では表現できない。

それを表出させ、表層の意識と繋げて心を一つの全体とし、更に他人ともつながってゆく。そのために必要なのが物語である。

生きるとは、自分にふさわしい物語を作り上げてゆくことに他ならない。

 

河合氏は、死に至る時までの真の「医療」を考えるなら、診断のみでなく「物語」を考慮に入れるべきだと言う。

医療が人を救うためのものであるとしたら、例えば手術不可能な癌ですと診断を下すことは確かに正しい診断ではあるけれど、患者や家族がその診断によって救われるのかどうかという視点で考えてみると、どうだろう。

「ものがたり」は事実を否定するものではなく、「いのち」や「たましい」を手触りあるものとして刻み付けるためのものだと。

余命を宣告された患者と家族は、それまでの人生の記憶を辿り、振り返り、あの時あの頃、どんなことがあったのか思い出しながら、悲しみや喜びを思い出しながら、生きていることを実感したり、生きている時間を愛おしんだりしつつ、残された時間を最後の時まで生きてゆくのだから。

 

いろんな人がいる。

介護の現場で日々すごしていると、余命を宣告されたわけでなくても、いろんな人や家族に出会うたび、どの人にもいろんな人生の時間が確かにあったのだろうと思うことが多い。

どう考えるか、どう関わるか、どう介護するか、という基本的な方法論はもちろん存在するのだけれど、介護する側もされる側も人だからいろんな感情の渦の中にあって、単一のマニュアル通りの方法論や介護論など通用するはずはないと思っている。

どの人に対しても、その人が生きてきたものがたりの続きが刻まれるように、考えてゆきたいと思ってきた。

「その人らしく」という通り一片の薄っぺらな言葉の奥底に存在する「その人が生きてきた人生の物語の続きを、できる限りそのまま続けてゆけるように」という想い。

その人がその人の物語を生きることができるよう、どうすれば家にいられるか、どうしたらいつもの生活を続けられるか、どうすればいつもの布団で眠れるか、どうすれば今まで好きだったものが食べられるか、それを考えてきた。

主体はその人。

その人にしかない人生を生きるその人。

その人の物語。

その人とその人を取り巻く家族の物語。

 

この世の中でたった一つしか存在しない、その人にしかない「ものがたり」を、大切に想える自分でいたいものだと思う。

人として、最後まで対等でありたいと思う。

介護するものとして、その人がものがたりの続きを生きれるように、力を尽くしたいと思う。

いろんな人の人生を垣間見るたび、見えてくる沢山のものがたり。

その人たちが出会って作り出す、池さんのものがたり。

まだまだ続いてゆく池さんものがたり。

9月半ば、季節は足早に変わり始めています。

 

 

 

 

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調和

2021-09-07 23:23:49 | デイサービス池さん

本日午後、久しぶりの秋空。

移り変わる季節の中で、気がつけば秋。

朝晩めっきり涼しくなってきてクーラーがいらないとか思うかもしれないけれど、池さんではクーラーも麦茶もまだまだ必需品なり。

汗かくほどにしゃべるもんだから冷たいお茶がまだまだ必要で、汗かくほどに食べるもんでガンガン冷やさんと暑い現場。

まあ、なんだかんだと言いながら、まだ残暑と言った方があたっているような気もする今日この頃。

でも、空は秋、秋の空気。

感染者の数は減少傾向とは言え、全国的にまだ予断は許さないし、オリンピック・パラリンピックは終わったからテレビもなんだかつまらない。

それにしても、いろんな意見がありながらも、オリンピックも感動したし、なにより今回のパラリンピックのすばらしさには心底感動した。

今までもパラの放送はあったけど、今回ほど多くの放送局がいろんな競技を放映したことはなかったように思う。

どんな人生を歩いてきた人なのだろう、競技をもっと詳しく見たいと思っていたけれど、今回は放送も多かったし、いろんな選手たちのことを伝えてくれて、多くのことを知る機会が得られたことを感謝したいと思っている。

 

閉会式のテーマは「Harmomious Cacophony」

直訳したら「調和のとれた不協和音」いいかえると「違いが輝く世界」というのが今回のパラのテーマらしいが、私は直訳の方がしっくりする気がする。

そもそも、人は誰にも個性があって、同じ人などいないわけだから、人と人は、人と人として、調和することは難しいのだという所から始まればいいのではないかと思ったりする。

バラバラに生きてきた人が、バラバラな考えや暮らしや個性の中で生きてきて、それでもお互いに何とか折り合ってゆこうと考えた先にこそ、「調和」が存在する。

それは「調和」を目指す道の先に存在するのではなくて、自分自身やひとつひとつの人生や生き方を考えた先にこそ、互いを尊重した先にこそ、存在するものだと思ったりする。

(なんといえばいいのだろう。言葉を伝えることは本当に難しいけど)

 

災害とパンデミックと社会や世界のひずみ。

だれもがいつも、生き方を探しているわけではないけれど、自らの生き方や暮らし方や、その命の意味や脅威、いろんなことを突き詰めて考えてゆくことができたと思う。

開催して良いのか、世界から人が集まってよいのか、笑顔でよいのか、苦しんでいる人がいてもいいのか、いろんなことを考えながら、いろんな人が力を尽くして同じ時間を生きた。

目標を持ち、その目標のために生きてきた人たちは、堂々と力強い言葉とパフォーマンスで私たちを魅了した。

その意味で、今回のパラが与えてくれた意味はかなり大きいと思う。

「いろんな命」を生きてきて、自らの生きる意味や存在を自分に問いかけながら、葛藤し苦しみながら、それでも前を向いて生きてゆくことを選んだ人たちの生きざまに感動しつつ、

命の意味について想いを馳せる。

そんな時間を過ごすことができた。

 

始めに戻って、「調和のとれた不協和音」の補足。

毎日池さんに来るいろんな人たち。

じいさんもばあさんも、皆自分勝手に自分の話をし続けて、2人以上のおしゃべりは放置していれば決して和音にはなりえず、常に不協和音状態。

バラバラでうるさくてどうしようもなくなるけれど、

でも、タイミングよくバランスをとれば、皆は一つにまとまって和音が生まれてゆく。

ワイのワイのと言ってるうちに、何とか形になってゆき、そのうち一つにまとまってゆく。

バランスさえ取れれば、不調和音が響いてうるさいと思っていた現場は、いつの間にか軽くて楽しい空間になってゆく。

いろんな個性の人たちが作り出す音色は、曜日によって異なり、人によって異なり、独特の和音を作り出してゆくのだ。

毎日の池さんが目指す調和は、いろんな人がいて、いろんな疾患の人がいて、いろんな人生を生きた人がいるからこそ、作り出せる調和なのかもしれないと気づく宵。

虫が賑やかに和音を響かせる初秋の夜。

 

 

 

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