テレビ番組の中で誰かがこんなことを言っていた。
子どもと大人の違いについて。
「自分がしたいことをするのが子ども」
「その自分を少し離れた所から見ることができるようになったら大人」
なるほどと思った。
つまり自分を客観視できるようになったら大人というわけ。
他者の視線や他者という意識がなくて、ただ自分がやりたいことをしているだけなら、そこにあるのは「自分」だけ。
大人になるということは、他者から見た「自分を知る」ということなのかもしれないとその人は言った。
自分自身を、「客観的に判断できる自分」という存在。
それができるようになったら、大人になったということではないかという。
客観的に自分を見るということは、ある意味難しいことかもしれなくて、そこには、自分以外の他者の存在を認めることが必要になる。
他者から見て、自分の行動や思考がどうなのか、という視点。
独りよがりの自分自身ではなかったか、という自分に帰すことができる視点。
話を聞きながら、いろんなことを考えた。
必要以上に他者の視線を気にするという意味ではなくて、つまり、自分を振り返ること、時に客観視することが必要だという意味において大いに納得できる。
自分を客観視できるということは、自分の行為や思考においても、他者との関係を考えることができるということだと思う。
言い換えると、他者を想うことができるということ。
他者の気持ちや立場を想像し、想うことができるということ。
年齢としての大人という意味でなく、「大人」という言葉のもつイメージが、相手を思いやる優しい感情や相手の気持ちを想像することができるという包容力のあるイメージに繋がってゆく理由は、そういう意味合いなのかもしれないと思う。
人の「成熟度」という観点から考えてみる。
子どもは成長して、大人になる。
大人は年をとり、老人になる。
年をとるにつれて、ほとんどの人が頑固になって、意固地になって、自分のことだけを訴えるようになり、社会的(協調的)な思考が失われてゆくという過程を見ていると、つまり大人から子どもに還ってゆくイメージの風景を毎日見ていると、なるほどな~と納得。
大人という時代を通り越したあとは、誰もがただ自由な人(老人)に変わってゆくに違いない。
9月21日が十五夜。以降十六夜、十七夜、十八夜、十九夜。
十六夜がいざよいの月。
以降、月が出る時間がだんだん遅くなり、立待月・居待月・臥待月・更待月と呼ばれる。
昨夜の月は11時半頃見ることできた。
臥して待つ時間。
今年の月は、毎日綺麗によく見える。
秋の夜を、欠けてゆく月を待ちながら過ごす。
いにしえの時代に生きた先人たちは、自然と共に生き、自然を愛おしみながら、自然に老いを受け止め、生きていたに違いない。
命も、老いも、病も、ボケも、自然に受け止めて生きていたのだと思う。
かつて月の満ち欠けに合わせて季節を知り、農耕を営み生きた人たちのように、優しく静かに大人らしく受け止めることができたら。
大人としての視点で世界を見ることができたら。
この世界も、もうしばらくの間、そのままでいられるかもしれない。