https://ja.wikipedia.org/wiki/難波宮
延暦3年(784年)[4]、桓武天皇により長岡京に遷都[7]された際、大極殿などの建物が長岡京に移築された。
桓武天皇が難波宮をどうするつもりだったのでしょうか。
意図をつかめませんが、ともかく、やってみました。
△難波宮跡ー長岡宮跡ー皇大神宮(伊勢神宮・内宮)
長岡宮跡→皇大神宮(伊勢神宮・内宮)
① . . . 本文を読む
「高野・宝」でこんがらがって進みませんので、目先を変えます。
少しはつながりがあると思えますが、まだはっきりとはいえません。
ただの勘違いかもしれません。
△斉明天皇陵(大田皇后陵)ー桓武天皇御母陵ー和田神社が正三角形で、その中心とみられる難波宮跡・大阪城・城見を基点にして、三点に達する円を描きましたが、その円周上に《菟道稚郎子墓》も乗っていそうでした。
ということで、△難波(難波宮跡、大阪城、 . . . 本文を読む
古人大兄皇子の娘は倭姫王で、天智天皇の皇后です。
蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘、姪娘の二人も天智天皇の嬪となっていました。
天智七年《二月丙辰朔戊寅、立古人大兄皇子女倭姫王、爲皇后。遂納四嬪。有蘇我山田石川麻呂大臣女曰遠智娘或本云美濃津子娘、遠智娘(美濃津子娘)
そして、古人大兄皇子、蘇我倉山田石川麻呂の両人とも謀叛人です、もしくは謀叛人とされています。
七年春正月丙戌朔戊子、皇太子卽天皇位。 . . . 本文を読む
卑弥呼・臺与(とよ)は九州の宇佐から出航し、和田岬で子を産んだ、と考えています。 《鸕鷀草葺不合尊 (ウガヤフキアエズノミコト)にあたるはず》
斉明天皇陵の被葬者は大田皇女(大田皇后)で、卑弥呼・臺与(とよ)に擬せられています。(墓に入った後で生まれています)
桓武天皇以降の想定ならば、桓武天皇御母・高野新笠も卑弥呼に擬せられなければなりません。
この三カ所を結ぶと、ほぼ正三角形です。
そして、 . . . 本文を読む